ミルクと酸化

 顔をあげれば、白い光がカーテンに滲んでいるのが見えた。春らしい、柔らかな光だ。きっと今日はいい天気になるのだろうと新聞もテレビもなしにそう確信した。目を細め再び視線を手元に落としながら、私は小さく歌を口ずさむ。歌の名前は確か、ハローグッバイだったか。懐かしい歌、なんてぼんやり思いながら左手に珈琲ポット、右手にマグカップを手に取る。少し冷たいマグカップの底には少し多めのミルクと、それから角砂糖がふたつ。甘そうだと思うけれど、それが彼の好みだ。そっと珈琲を注いでスプーンでかき混ぜ、マグカップを彼の席の前に置く。その横にはすでに簡単な朝食が用意されていた。食パンに目玉焼き、ベーコン。そんなものが珈琲の香りに包まれて、朝の光を浴びるその様はささやかな幸せを思わせる。いいものだと思わず微笑んで、それから私のマグカップにも珈琲を注ぐ。私はブラックを好むのでかき混ぜる必要はない。そのまま朝食の横に置いて、席に座った。
 そのまま流れるように時計に目をやれば、短針は限りなく7に近い。それに気づいて私は眉を顰めた。彼の帰りが、いやに遅い。昨晩彼は始発が動くまで余所に泊まるとメールをよこしたけれど、そこにはいつものように朝食はこちらでとると書いてあった。それなのに、と思ったとき丁度、電子音が静かな部屋に響いた。携帯、と思わず呟き慌てて手に取る。彼からのメールだ。遅くなるのだろうかとメールを開けば、彼の謝罪が小さな画面に映った。急な休日出勤が決まったので、そのまま会社に行くのだという。
 緩やかに重い沈黙が、部屋を占めた。喉元まで言葉の濁流がせりつめたけれど、私は小さな苛立ちも大きな不安も諸共にそれらを呑みこんだ。すべてすべてが胸をなぞり腹まで落ちてゆく。今朝、彼は誰とどんな朝食をとるのだろう。脳裏に一瞬想像が浮かび、私はそれを即座に塗り潰した。しかし鮮やかな想像の名残は消しきれず、思考のあちらこちらに付着する。それは決して心地よい感覚ではない。苦しい、と思った。しかし疑わしい事実が辺りに散らばっているだけで、確定しているわけではない。確定はまだ、していないと私は無理やりに思考を上向きにする。とりあえず朝食をどうにかしなくては。食パンに目玉焼きにベーコン、このメニューなら温めなおせば昼食でまた食べられるだろう。ラップをかければ、大丈夫だ。大丈夫、と思わず私は呟いた。

(冷めた珈琲がぼやくだけ、)

ミルクと酸化

ミルクと酸化

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-09

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