凍れる空虚(うろ)と燃ゆる蒼穹(そら)
気の向くままに書き進めるため、各章の文字数、時系列は安定しません。ご了承ください。
アオさんを見つめる「わたし」の名前はこの物語では明らかになりません。
肌の熱
まだ肌寒い2月の夜更け。
外は満月。就寝準備にと明かりを最低限にした室内は暗い。
弱く暖房のきいた室内の空気は、心地よい冷たさでわたしを包んでいる。
最低限の肌を隠すだけの部屋着姿でソファに横になって微睡んでいると、陰が顔に掛かった。
心地よい暗さに身を委ねようとしたら、むき出しの肩に熱が触れる。
「ひゃっ」
つい口から洩れた、言葉にならない音。
重い瞼を持ち上げて首を動かすと、そこには見慣れた手があった。
閉じたカーテンの隙間から差し込む月光に、それは横から照らされている。
「驚かせてしまった?」
短すぎるほどに整えられた爪に縁どられる尖った指先、節の目立つ関節。筋の浮いた手の甲に、ひ弱なわたしでも容易に手折ってしまえそうな手首、形の良い肘、引き締まった二の腕、薄い肩、手をのばせば縊ってしまえそうな首筋――順に辿っていくと、整った顔がある。
左右対称な曲線を描く顎の上では薄い唇が横に伸びていて、不安そうに八の字を描く細い眉の下でわたしの顔に焦点を合わせた瞳が蒼く輝いていた。
「ちょっと……びっくり」
わたしの肩に触れたのは、その大きな手。
わたしがアオさんと呼ぶそのひともまた身にまとう布は多くなく、腕は肩から外気にさらされている。だから薄い皮膚に包まれて細い血管が青く無数に絡まっている、白くて広いその手のひらもよく見える。
「眠るのなら、寝床まで運ぼうかと思ったのだけど……」
行き場を見失って宙を漂っていた長い腕がゆっくりと引かれてゆく軌跡を、ぼんやりと見つめる。
「自分で、動けるかな?」
わたしが腕を持ち上げると、温かい手を脇に差し入れて、体を起こすのを手伝ってくれた。
アオさんの顔がわたしのそれに高さを合わせると、少しだけ体が近付く。
前に倒れかかると、見た目に反して柔らかな体がよろけもせずしっかりと支えてくれた。
「……ねむい」
暖かなアオさんの首筋に鼻を埋めて、怪しい呂律でそれだけ絞り出す。
仕方ないなと言うようにわたしの背に腕を回して立ち上がると、同年代でも小さなわたしの足は宙ぶらりんになる。器用に片方の腕の位置を変えて上半身の前に抱えられると、アオさんの体と触れる面積が増えて、とても暖かい。その温もりをもっと感じたくて、腕を首に回す。
「少し、苦しいよ」
苦笑しながら歩き出した、その揺れがとても心地良い。
柔らかなベッドにのせられて、布団の冷たさにまた言葉になりきらない音を出す。
アオさんの腕がシーツとわたしの背に挟まれて、その段差さえもどこか心地良い。腕が引き抜かれても、わたしは首に回した腕をほどくことができない。
「もう、ついたよ」
そう言ってわたしの腕を解こうとして触れる指先さえ温かい血液が通っている。
睡魔に体のコントロールを奪われて、抵抗できるほど腕に力が入らない。そうでなくとも、柔らかな動きに反して、アオさんの力は強いのだけれど。
また後でねと、寝室を出ていくアオさんの平らかな背中を薄目で見送る。
寝室よりも明るいリビングへと――光に向かっていく輪郭は、徐々におぼろげに、影を残して見えなくなった。
アオさんとは、いつの間にか一緒に暮らしている。
わたしは家事がからっきしで、食事はご飯だけ炊いて出来合いのおかずで済ませることが多くて、それさえ面倒で全く食べない日もあったのだけれど、それを知ったアオさんがなぜかおかずをくれるようになって、いつのまにか作りに来てくれるようになって、そうして他の家事までしてくれるようになって、いつの間にか住み着いていた。
出会ったのが学校だったから、おそらく同じ学校のひとだろうということくらいしか、アオさんについて知っていることはない。
名前も、本当は何というのか知らない。
でも、その熱は他の何よりも心地良くて、わたしをここに繋ぎ留めてくれる。
蒼い空
なぜか無性に入ってみたかった屋上。小学校も、中学校も、高校も、わたしの通った学校では、どこも解放されていなくて、立ち入り禁止で。卒業までに一度は入らせてやると言っていたのは、高校の、3年生の時の担任だったっけ。その時の約束は果たされないまま、わたしたちは卒業してしまった。
大学に入って、なんとなくは続いていた屋上に入りたいという欲望。
でも実際に入ると、ただのコンクリート。何かを期待していたわけでもないけれど、それでもなんだか拍子抜けだった。
ところどころひび割れて草が生えていたり縁が少し高くなっているだけで、落下防止用のフェンスさえもない。人が立ち入ることを、端から想定していない場所。なぜか隅にはタバコの吸い殻やビニール袋が、落ち葉に混ざっている。風で飛ばされてくるのだろうか。
そういえば、数年前までは解放されていたのだったっけ。この建物の屋上は。
周辺住民が入り込んで、騒動があってからは閉鎖されたのだったかもしれない。
どうしてこんな場所にいるかって、時間を持て余してなんとなく階段を上がってきて、突き当りにあるドアを開けたら、そこが屋上だったんだ。
鍵はかかっていたけれど、最新のカードキーとかそういうのではなくて、昔ながらのシリンダー錠。ついでのように閂どめ。古びてたから、ちょっとずらして捻ってみたら、あっさりと開いてしまった。
扉は閉めて、とりあえず縁まで歩いて、下を覗いてみる。
たしかこの建物は7階建て。足がすくむということはないけれど、身を乗り出すのは危ないだろうか。建物のすぐ脇は人通りは決して多くないけれど、この建物の立地的に利用者は絶えない道だ。下を歩いている人が見上げることもなく、少しだけ高い丘の上の、住宅街の端にあるから近くに同じ目線の建物もない。
住宅街からは大学所有地の緑を隔てていて、この方向だとほかの校舎も見えないから、森の海に浮かんだ孤島のような気さえしてくる。
初日はそれだけで、大人しくその場を後にした。
もともと講義の空き時間を消化するためだったのだし。
それを、忘れたころ。
わたしは何かを悩んでいた。
わたしが、何かを。何者かを。
不定期で、でも気付けば浮かんでくる疑問。
何をしているんだろう。何をしたいんだろう。何をするべきなんだろう。
この認識は、どこから来るんだろう。
そうしていつも、堂々巡りで。
浮かんだ時と同じように、気付けば消えている思考。
行きつくのは、生きる理由は何か。
何かがツラいわけじゃない。
何かが楽しいわけでもない。
目標もない。
理由は、ない。
生きる理由は、ない。
でも。
生きるのをやめる理由もない。
そうしない理由も、ない。
理由は、無いといけないものでもないけれど。
あるに越したことは無いと思うから。
そうしてライフワークのように悩んでいたら、気付けば足が、屋上へ向いていた。
いつか来た時のように、ただ階段を上る。途中で誰とすれ違うこともない。
突き当りのドアノブを斜めに捻ると、すぐに扉は開く。
何かこの悩みを解決するヒントはないかと、何かを掴むきっかけはないかと、あてもなく足を動かすと、縁に躓いた。平衡を崩して尻もちをついたけれど、その間に、少しだけ、下が見えた。誰かが偶然、こっちを見上げていた気がする。
気のせいかもしれないし、見上げていたとしても垣間見えたのは短い間だったから、気付いていないかもしれない。
どちらにしても、それで何かが変わるわけでもない。
あてもなく、屋上の縁をそこから一周歩いてみる。
ちょうど一周終えて、今度は逆回りをと思ったところで、扉のズレる音がした。
わたしの立っていたところから、扉は丸見え。逆を言えば、扉の所から出てきた人からも、わたしは丸見え。
少しだけ、目を合わせていた気がする。ゆっくりと開いた扉の向こうから現れたその瞳と。
軽く頭を下げると、相手も応じてくれた。
そろりと扉に隠れていた細い体を出してそこに立ったのが、アオさんだった。
わたしは職員らしくないその身形を見て一安心して、逆回りを始めた。
4分の1ほど回ると、そこは扉のすぐ脇の細い場所を通らなければならない。つまり、扉の所に立ったままわたしの方を見ていたアオさんのすぐ脇でもある。そこに差し掛かった時、初めてその声を聴いた。
「月が……綺麗ですね」
どこかで聞いたことのあるようなフレーズに、冷え切った水のような声。
秋ごろのひやりとした風を、空気にさらしている首に感じた。
アオさんから私を見て、その向こう。空には、昼間の月が薄く浮いていた。
「こんなに明るいのに、見えるんですね、月」
明るいうちに空を見上げることなんて、今まで数えるだけあったかもわからない。
「今日のお月様は、夜が更けると、そのうちに見えなくなりますよ」
アオさんの長い髪は風に掬われて、蜘蛛の糸のように煌めいていた。
それ以上何も言わないのでわたしからも何も掛ける言葉はなくて、歩みを再開して半周しても、アオさんはまだ同じところに立っていた。そのまま一周終えて、さて次は何をしようかと思ったら、アオさんの視線はわたしを捉えていた。少し距離があって、立ち入り禁止の屋上で大きな声をだすのは憚られたから、わたしも扉の前に立った。
「何をしていたんですか、ここで」
アオさんと同じ方向へ視線を向けても、薄い雲がゆったりと動いているだけ。
「風を。」
「風を?」
「することがないので、風を感じています」
よくわからなかったけれど、目を閉じてみたら、風は動いていた。ゆっくりと、からりと頬を擦ってゆく。
「あなたは、何を?」
わたしは。質問を返されても、なにも答えを持っていない。
「……捜しものを」
「ここで何か、なくしましたか?」
「……わからない」
何もわからないから、ここに来たんだ。
「ここに、ありそうですか?」
「……かもしれない」
あるのかもしれないし、ないのかもしれない。
「よく来るのですか?」
「そうでも……ないです。」
風は強くないのに、そこにしっかりとあった。
雲は音もなく、動いていた。
「……僕は、ソラを見上げることが好きです。」
唐突に、アオさんは言った。
「今は意識しないと視界に入らないような生活を送っているから、特に。
意識すると、時々、好いことがあるんです」
ほら。と、わたしの方へ向いたアオさんの瞳は、空の色を反射しているのか、透き通った氷の向こうに青い水面が見えるような、そんな不思議な色だった。
「今日はいい天気なので、見上げたら、あなたが見えました」
「それは……いいこと、ですか?」
アオさんは、若干首を傾げたようだった。
「あなたが世を儚んでいるのかと思って慌てたのだけど、そうでなかったようで安心しました」
それを確認できたことは好いことだった、とアオさんは呟く。
「世を儚むって、どういう意味ですか?」
「直接的に表現するのなら、自殺しようとしているのかと」
自殺。自らその生命を絶つこと。人生に幕を下ろす。それをするだけの理由を、わたしは持っていない。その行為にまだ、意味を見出せない。
「そんなことをする意味が、このセカイにあるんですか?」
「する人にとっては、きっとあります」
曖昧な表現だった。
「しないヒトにとっては?」
まだしていないあなたにとっては、どうなんですか?
「どうでしょう」
人それぞれですかね、とアオさんは続けた。
「あなたにとっては?」
一般論ではなくて、この蒼穹に似た人のことが知りたいと思った。
「僕にとって、それをしないことに意味はありません。それでも生きているのは、する意味もないからです。」
どちらにも意味がないのなら。
「……生きていて、楽しいですか?」
つい、口を突いて出てしまう。初対面の相手に。
これでは、わたしがペシミストみたいに思われてしまわないだろうか?
「生きる、ということ全般に関しては何とも言えないけれど、空が綺麗だと感じることができて、ご飯が美味しいと感じることもできて、それを幸せだとは思います」
「幸せがあれば、それが生きる意味ですか?」
わたしにはそうなり得ないと言っているような気がしてきた。
少なくとも意識するところにそんな含意は無いのだけれど。
「もしかしたら明日、またあなたに会うことができるかもしれない。その希望さえあれば、明日まで生きている意味にしていいと、そう僕は思います」
「明日まで、ですか」
「明日がずっと積み重なれば、どこまでだって行けますよ」
明日へ、ずっと希望を持ち続けることが、この綺麗な人にはできるのだろうか。
「お月様も、満ちて欠けて、繰り返すでしょう?
それは決して一日で成ることではないんです」
「そうですね……」
ではまた明日。
二人そろって屋上を後にして、階段を下りきって。そう言ってからアオさんは扉のむこうへ姿を消した。
翌日にわたしは大学に用がなかったのだけれど、アオさんの名前を聞いていなかったのも、それを思い出すのも、家に帰ってからだった。
昼の幻
「お昼は、もう食べた?」
学食の側にあるベンチに座って鞄の中を漁っていたら、後ろから透き通った声が聴こえた。誰に向けたものであろうと、自分には関係は無いと思った。けれど少ししても応じる声は無くて、そういえばどこかで耳にした記憶のあるものだったと気付いてから、それが自分に向けられたものであると判った。
下へ向けていた視線を横にずらすと細長い手足の陰があった。振り向くと、アオさんがそこに立っている。体のラインにぴったりと沿った、少なくとも暖かそうではない格好をよくしていることに気付いたのは、少し前のこと。今日もその例に洩れなくて、雪が降るかもしれないという天気予報の1月末だというのに、マフラーも帽子も手袋もない。陰だけ見ると何も身に着けていないのと区別がつかないような恰好だった。
陽光を吸い込んだような輝く髪は寒さのせいかほんのり赤くなった耳にかけられて、そこから幾本かこぼれたものが血の気ない白い頬に細い影を落としていた。
アオさんは学食から出てきた風ではなかったけれど、手には財布も、お弁当も持っていない。ほかの手荷物も無いけれど、何をしにここにいるのだろう。
「まだ……」
お昼休みが終わろうとしているこの時間。次の時間に講義が入っていなければ、時間をずらして学食を利用する人たちがそろそろ集まってくる。わたしはというと、飴か何か甘いものがないかと自分の鞄を物色していた。次の時間に講義は入っていないけれど、そのあとの時間には入っている。一時帰宅するには心もとない時間だし、かといってご飯を食べる気にもならなかったから。時々飴やグミを鞄に入れることがあって、それがまだ入っているといいなという期待の下でだったのだけれど、今のところその気配は捉えられていない。
ちなみに財布を持ってきていないからコンビニとかで買ってくるというのは論外。
「よかったら、一緒にどう?」
ここで気分じゃないと下手に断ることはできなくて。
「お金、持っていないんです」
正直に言うしかなかった。
アオさんは微笑んで、「僕も持ってないんだ」と、信じられないことを口にする。
自分の耳を疑おうとも、アオさんの声は確かに続ける。「お金を持ち歩く習慣がなくて」と。
「お弁当ですか?」
細い線の両手は、何に守られることもなく冷気に触れている。
いいえとアオさんは首を左右にゆっくり振った。それに合わせて作り物のようにサラサラとした髪が揺れて、肩から胸元へと落ちてくる。
「今から食べに行くの」
すぐそこだから、と長い人差し指に示された方向には、校門がある。
お金もないのに食べに行く、とは。クレジットカードだろうか。
温かいものがわたしの腕を引いて、抵抗できずに立ち上がる。その拍子に膝から落ちそうになった鞄を、アオさんが軽い動作で薄い肩にかけてしまう。咄嗟に奪うのもなんだかおかしい気がして行動に出なかったのは、過ちだっただろうか。
「行こうか」
わたしの腕を掴んでいたのは、アオさんの骨ばった長い指。を備えた左手。この骨と皮のどこにこんな熱を蓄えられるのかと不思議なくらいに、その手は温かかった。そしてアオさんの手は柔らかかった。どこにも肉はついていなそうなのに。指を動かすための筋肉と神経と、それに酸素の入った血液を送るための血管くらいは最低限備えているはずなのだけれど、それがどこにあるのかわからない。
そんなことに見とれている場合ではなくて。
「鞄、わたし、持てますからっ」
とりあえず、自分のものが手から離れていると不安で仕方がない。
掴まれていない方の手をのばすのだけれど、せっせと前を行くアオさんの軽やかに舞う髪にしか触れることができない。アオさんのほうは聞こえていないのか、わたしが転ばないぎりぎりの速さで黙々と歩いていた。といっても、校門を出て、大学の塀沿いに1分くらいだけれど。
「ほら、近いでしょう?」
校門を出る前から同じ方向を指していた指先が行き着いたのは、掃除は行き届いているものの染みついた年月を感じさせる建物だった。入口のスライド式のドアの上には、くたくたの赤い布に「食堂」の文字が白く抜かれた上にペンで何度も書き足された跡のある暖簾が掛けられている。アオさんは慣れた手つきでそれをくぐった。ちなみにわたしは身長がないから、普通にくぐっても暖簾に掠らない。少し虚しい。
「ご飯ふたつ」
アオさんはカウンターの奥で洗い物をしている男性に向かってそれだけ言った。
「ピーマンは抜かねーぞ」
男性はそう言いつつ手を拭いて、食材を取り出し始める。
二人掛けのテーブル席がいくつかと、奥には座敷。カウンターは高い位置にあって、椅子はない。
アオさんはわたしをテーブル席に座らせると向かいの席に鞄を置いて、座敷のテーブルを拭いている女性とも軽く言葉を交わしてから落としても割れなそうな素材のグラスに氷が二つずつ入った水をもってきた。
「ピーマン、嫌いですか?」
お冷を一口。グラスを両手で包んでいると、ただでさえ冷え性で動きの鈍い指先の感覚が麻痺してきた。
アパートの水道の水とは味が違うなと思いながら、じゅわっと中華鍋の音に心を温められながら訊ねると。
「好きではないけれど」
と、不思議そうに返ってくる。
「それは、嫌いとは違うんですか?」
わたしもすすんで食べようと思えるほどには好きではないけれど。
「食べられないわけでも、食べたくないわけでもない」
「すすんで食べようとは」
「思わない」
「それを嫌いとは」
「言わない」
表現が違うだけじゃないのかと思わなくもないけれど。嫌いとは言いたくないらしい。
「では、嫌いな食べ物はありませんか?」
「食べられないものは……、骨とか?」
「ソレ食べ物にカウントするんですか」
「あ、お魚の骨とかなら、塩を振って焼くとサリサリしておいしいけど」
「サリサリ?」
「音が、カリカリでもなくて、パリパリでもなくて、こう……崩れていく感じじゃない?」
「カリカリとかパリパリの範疇に入れることはできませんか」
「できません」
横からス――と出される白いお皿。
「骨せんべい、食べる?」
こんもりとのっているのは、きつね色の、魚の骨。綺麗に魚型のものから、どこの部位かよくわからない細いものまで、こんもりと。
差し出してきたのは、先ほどテーブルを拭いていた女性。
「私のお八つだけど」
いただきまーすと、アオさんは綺麗に形を残していた魚のしっぽをつまむ。
そこから伸びている脊椎と、それをつまむ指の形が、とても良く似ていた。
「おカミさんのはオーブントースターで焼くのだけど、焦げ具合と塩気が絶妙なの」
アオさん曰くサリサリ、とした音を立てて、咀嚼しておいしそうに嚥下する。
「塩は旦那がね」
おカミさんも手ごろなものをつかんで口へ運ぶ。彼女が魚の骨を焼いたこれを好むから、そのために旦那さんは骨取りを神経質なほどにするのだとか。
小さな頭のついた骨をわたしもいただく。案の定、うまく咀嚼できずに口の中に刺さりまくる。痛い。
おカミさんは嘉美という名前だからおカミさんと呼ばれていることや、アオさんがアオさんと呼ばれている話を聴いていたら、アオさんが突然すっと立った。おカミさんもコレはここまでねと言って半ば以上骨せんべいの残っているお皿を引き上げていく。
トン、とカウンターに料理の盛られたお皿が置かれる。
美味しそうな芳香と湯気が食欲をそそった。
それをアオさんがテーブルまで運んでくる。細切りにされたピーマンがたくさん入っていた。お茶碗に山と盛られたご飯をおカミさんが、ふよふよとたまごの浮かんだスープをまたアオさんが運んできて、二人そろって両手を合わせていただきますをする。
温かな白いご飯。いつぶりだろう。
最近は炊飯をさぼって冷凍ご飯かパンで食事を済ませていたから、よけいにおいしく感じるのかもしれない。白くて弾力のある、それでいてほろほろとこぼれる、噛めば噛むほどに甘いお米。鼻腔から入ってくるおかずの匂い。帰ったら久しぶりにお米を研ごうかと思いつつ、ご飯を堪能していたらおかずにほとんど手がついていなかった。
「あの……ご飯のおかわり、いただいても、いいですか……?」
「たんとお食べよ」
そう言って、おカミさんはまた山盛りに盛ってくれる。
「ご飯だけでも美味しそうに食べるねー」
しっかりと咀嚼しつつ大口で平らげていくアオさんが、いったん口の中のものを飲み込んで、嬉しそうに呟いた。
今度はおかずも一緒にと、お肉とピーマンを一緒に掴んで口に含むと、何とも言えず。口の中に物が入っていれば何も言えないのだけれど、そうではなくて。どうしてこんなに綺麗な味なんだろう。素材の味がすると言って調味料の名前を並べ立てると味がまとまっていない?と不安がられることもあるけれど、ちゃんとそれぞれが引き立てあっているという、わたしにとって最上の誉め言葉なんだ。フルーツの香りはウスターソース。わたしの知っているメーカーのものと微妙にバランスが違う。片栗粉の粒子が豚肉を包み込んでいて、香ばしい胡麻油と醸すやわらかい舌触り。塩で全体にまろやかさがでていて、味つけはわたしの好みより濃い目。青くて弾力のあるピーマンも主張が控えめで、筍の肉厚さとのメリハリが心地好い。
どうしてこんなにも、おいしいと感じるんだろう。
気付けばすべて平らげていた。
お皿に残った香りだけでも、まだご飯が進みそう。
「もっと食べる?」
アオさんが尋ねてくる。
「まだ、食べたそうなを顔してる」
「いえ、ここまでで。
ごちそうさまでした」
両手を合わせてからお冷で口の中を清めると、意識が現実に戻ってきた。
手首に重さを感じる。腕時計を巻いているからだ。見やると、時間はあまりたっていなかった。午後一番の講義が半ばほど終わっただろうか。
「美味しかった……です」
ちょうどアオさんも食べ終えて、ごちそうさまをしたところだった。
そこで、ふと足元を探る。後ろを振り向く。膝の上を見る。思い出して、アオさんの方へ顔を向ける。
首を傾げるアオさん。
筋がくっきりと浮かぶ細い首に目を吸い寄せられている場合ではなくて。
「鞄……わたしの……」
あぁ。と、アオさんが鞄を手渡してくれる。
「お会計……」
「心配しないでも大丈夫」
そう言ってアオさんは席を立つ。
わたしの食べた分まで食器を重ねて、カウンターの中へ入っていった。
「ごちそうさまでしたー」
おカミさんたちの姿はない。
アオさんが声をかけた先には狭い急な階段があったから、その先に居住スペースがあるのかもしれない。
水道の蛇口をひねる、ゴムの擦れるような音。水の落ちてくる音。カチャカチャと、食器を洗う音がする。背伸びをしてカウンターの中を覗くと、アオさんが食器を洗っていた。
「気にしないでいいからね」
洗い終えて、吊り下げてある手ぬぐいで手を拭いて、まくっていた袖を戻しながらカウンターを回って出てくる。
「ちゃんと合意の上だから」
まくった跡もついていない袖は腕のラインを浮き上がらせている。
「合意……ですか?」
「まぁ、色々あったの。
時々食べに来るけど、お金を持っていなくても代わりに体で払えばオッケーと」
「カラダで……」
「お店の手伝いね?」
「食器洗いとか、ですか……?」
「そう」
アオさんは頷く。
「ついでに、たまには泊めてもらったりもしてる」
家に帰れない時が、あるのだろうか。
「わたしは……」
「ついでだからいいの。僕が連れてきたんだし、こういうのは初めてでもないから」
さ、学校へ帰ろう。と、アオさんに背中を押されて、お店を出る。
「お店は……」
「大丈夫。ただの遅めの昼休み。飲食店では普通だと思うよ」
何を隠すわけでもないだろうに早口で言って、かちゃりと外から鍵をかける。
「鍵、持ってるんですね」
「あぁ、うん。……まぁ。こういうこともたまにはあるから」
「こういう?」
「店番頼まれたり、僕が長居したり」
それだけではないような気が、なぜだかしたのだ。でも、具体的に何がとは、思いつかない。
「また気が向いたときにでも、食べに行ってあげて」
そう言ったアオさんの表情は、わたしの前を歩いているから、窺うことができなかった。
「はい」
きっと。そう返すだけで、精いっぱいだった。
引っ張られてきた道をその通りに戻って、学食の前で別れる。
「アオさん」
この日知った呼び方で、呼んでみる。
アオさんは振り向いた。
「君までそう呼ぶの?」
青白いから、アオさん。
そのままだった。
「嫌なら名前を教えてください」
「それは拒否」
「ではアオさんのままで」
「仕方ない」
「また今度」
「明日にでも」
手を振ってくれるその姿は、いつ消えても不思議じゃないほどに、か細く、白く、透き通っていた。
紅い月
ふと何かが視界の端をよぎって、わたしはタイピングの手を止める。顔をそちらへ向けても、何も目立つものはない。
大学から帰宅して、明日提出する課題を一人暮らしのアパートで手直ししていた。まだ明るいころに帰ってきたはずなのに、窓の向こうに太陽の恩恵は見えなくなっている。
ひとまず保存して、休憩にしようと立ち上がる。するとまた、何か光るものが視界の端を掠めた。
カーテンの隙間からこちらに向けて放たれている光。手をのばして窓を開けると、太陽と似た色をしたそれの正体は、月だった。今宵の月は照明無しでもノートの文字が読めるほどに明るい。満月の時はいつもこうだったか、意識していないからわからないけれど。
小腹がすいていなくもない。とりあえず体を温めようと電気ケトルに水を汲んで、スイッチを入れる。コンセントの側にスイッチがある部屋の照明も点けた。
何かすぐに食べられるものはあっただろうかと冷蔵庫の中を確認しても、調味料が並んでいるだけだった。
気分で使い分ける色違いのマグカップの中から寒色のものを選んで、残り僅かなインスタントコーヒーの粉末と砂糖を目分量で入れる。少し待ってお湯が沸いたら注いでティースプーンでかき混ぜながら、そういえば牛乳も切らしていたことを思い出す。コーヒー用の粉末ミルクは気に入るものが近隣のお店で見当たらないから、低脂肪乳を混ぜると似た味になることに一人暮らしを始めてから気が付いた。シリアルを食べるときなどにはそれとは別に種類別牛乳を使うからたいてい常備しているのだけれど、数日前に使い切った時にシリアルもなくなったからそちらも忘れていた。せっかく温かいのに放置しておくことはできなくて作り立てのカフェオレを一口含むと、慣れた苦みが口に、褪せたような香りが頭の奥に広がる。飲み込むと、丁度いい熱が体の中の空洞に落ちていく。マグカップを包んでいる両手は熱で焼けそうだけれど、すぐに飲み干してしまえば残された温もりは心地よかった。
「買いに行かなきゃ」
ひとり呟く。
そうしないと忘れ続けてしまうのがわたしというものだから。メモをしてもそのメモ用紙を無くしてしまうことや存在を忘れてしまうことが多い。
丁度いい時間だから今からスーパーへ行くことにして、夕飯の準備に白米を研いで炊飯器にセット、炊飯器のスイッチを入れ忘れていることが悲しくも珍しくないから、確かに炊飯中のランプがついていることを確認して、財布の入った鞄を肩から掛ける。財布の中身を確認して、牛乳とインスタントコーヒー、それに何かおかず……と買うものリストを頭に浮かべて、部屋の照明を落とす。玄関わきにかけてある家の鍵をつかんでいざ外へ、と思ったら寒い。コートを羽織って出直した。
そういえば先週は雪が降っていた。道の脇には氷に近いそれがまだ残っているから滑らないように足元を見ながら歩く。雪の少ないこのあたりだけれど、また近々降るかもしれない。
アパートから歩いて10分くらいのスーパーは閉店時間が遅いから後回しにして、線路の高架沿いに少し歩くとある午後8時に閉店するほうへ先に入る。そこはわたしの買う低脂肪乳を置いていないから、牛乳とインスタントコーヒーと、安くなっていたお惣菜を買って、お店を出る。線路の高架沿いに戻ると、どこかで見覚えのある顔がチェーンの居酒屋の看板を照らす光に浮かんでいた。
「先輩……」
ぽつりと洩れる呟き。
きっと誰も聞き取ってはいまい。周囲を歩く人影はまばらで、相手も私に気付いていないだろうから。
それは同じ大学の同じ学部に通っているというくらいしか共通点の見出せないひとだった。相手がわたしを知っているかも怪しいくらいの間柄。大学から少しだけ離れた、わたしにとっては便利なこの辺りに実家のある人は知らないし、一人暮らしの人たちはもっと大学の近くに部屋を借りていることが多い。でも先輩は、この辺りに住んでいるのだろうか。
そ知らぬふりで通り過ぎるべきか道を変えるか立ち止まって少し悩んで、通り過ぎようと足を踏み出したら先輩は反対方向――私の進もうとしている方向へ歩いて行った。たった今まで通話をしていたのか、ズボンのポケットにしまわれる端末の青い光を放つ画面が見えた。
何事もなかったからまぁいいかとわたしも同じ方向へ歩く。スーパーへ向けて。
「あれ」
ちょうど先輩の立っていた居酒屋の前に差し掛かると、足元に色の濃い部分があった。雨の日に差してきた傘を振るとできる水の跡のような、それの小さいの。今日は雨も雪も降っていないのにそれは何だろうと考えつつ歩を緩めると、細長い陰がかかった。そしてわたしの名前が透き通った音で呼ばれる。
顔を上げると、店から出てきた風ではないアオさんがいた。いつものように寒々しい首筋も、横から居酒屋の暖色の光に照らされて幾分か血色がよく見える。
お酒を飲むアオさんは想像できないけれど、同年代以上なら法律的には飲酒可能だから、今から呑むのだろうかと思いつつ「こんばんは」と挨拶だけ返す。
「お家、この辺りなの?」
元の青白さが際立つような相殺されているような月明かりの下で、珍しくゆったりとした出で立ちだった。耳の下で束ねられた長い髪は月のような色に染まっている。夜に紛れる暗色の装いは初めて見た。
当たり前のようにわたしの隣へ並んだアオさんの顔をよく見ると、その頬に赤みが差しているのは照明のせいだけではないらしい。
「はい」
頷くと、「それ、夕飯これから?」とわたしが手に持つスーパーの袋を指して聞いてくる。
また頷くと、「ご一緒構いませんか」となぜか改まった口調で返ってきた。
「予定がキャンセルになって、この後暇で」
人と会うつもりだったから、一人になるのはなんだか寂しくて。と。
「……どこかで食べますか?」
「自炊ではないの?」
アパートの部屋の惨状を思い浮かべて提案すると、不思議そうに返される。
「おかずくらいは作るから、お家にお邪魔してもいい?」
「……食材、無いので……」
精一杯の言い訳はすぐに論破される。
「そこのスーパーで調達すれば解決できます!」
うまい言い訳も思いつかずに結局押し切られ、スーパーで野菜を買うのいつぶりだろうとか思いつつレジを通り、低脂肪乳を買い忘れて引き返したりもしたけれど。
アパートに着くなりアオさんは「キッチン借りるね」と調理を始め。まもなくご飯は炊きあがり。わたしは冷蔵庫に牛乳たちを避難させてインスタントコーヒーの詰め替えをした後は手持ち無沙汰になってしまってテーブルで待機。おいしそうな匂いが漂ってきてもう我慢が限界。
上機嫌で鼻歌もなんだか変なリズムで、「このお醤油あんまスーパーで見ないねー」とか、「この煮干し美味しいんだよねー」とか言いながら手際よく三品のおかずを作りあげたアオさんがそれをテーブルに持ってきてくれるので、わたしはご飯をお茶碗に盛り付けてそれを椅子についたアオさんの前と自分の座るところにおいて。
「「いただきます」」
と、食べ始めるころにはもう色々とどうでもよくなっていて。
二人であっという間に平らげてしまうのだった。
アオさんの作る量は多くて、それはたぶん食べる量も多いからだろうなと思ったのだけれど。同時に、どうしてそんなに食べているのに無駄な肉がついていないどころか必要そうなところまでもとても細いのだろうかという疑問も湧く。体質か、何か病気なのか。もしかしたらこれだけ食べても、見ていないところでほとんど出してしまうのかもしれない。
「「ごちそうさまでした」」
両手を合わせて一息。
お皿は綺麗になっていた。二人分の食器をまとめて流しに運び、ヤカンに水を汲んで火にかける。お皿を洗い終わったころに沸くといいなと。
「お湯沸かしてるー?」
たくさん食べておなかをさすっているアオさんが、間延びした声を出す。
「食後のお茶用です」
「コーヒー飲みたいなー」
見ると、横断歩道を渡る保育園児のように手をまっすぐあげているアオさん。丸い肘関節がよくわかる。
「お豆どこー?」
「粉ではダメですか?」
「ミルどこー」
首を回してキッチン周辺を窺っているアオさんの頤の下に、濃い陰が見えた。
「ある前提ですか」
「コーヒーのにおいがするからー」
「インスタントのでしょう?」
洗った食器は水きりに放置で自然乾燥が、わたし流。面倒だからというのもあるけれど、母もそういう人だったから、習慣で。手を拭いてヤカンの状態を確認して、コーヒー豆がどこかにあったかと探そうとしたら。
「フィルター見えてる」
あ。と思ってもあるものはある。アオさんの細い指が示す先、流しの上に取り付けてある棚から、コーヒー用ペーパーフィルタの四角い箱が顔を覗かせている。ちなみにその横には布のフィルタもあり、一段上の締まっている扉の向こうには抽出器具が揃えてあることを思い出す。普段は面倒でインスタント派だけれど、気が向いたときには自分で抽出するのも気分がいいからこうやって使いやすい位置に置いてあるんだった。決して、今アオさんに指摘されるまで忘れていたほどに使っていないわけではなかったはずだ。
「コーヒー淹れるの、好きですか?」
「大好き♡」
満面の笑み。
口角が吊り上がって、頬骨が強調される。
「お酒飲みました?」
「少し~」
アオさんは否定しなかった。
「酔ってますね。」
「それよりもコーヒ~」
「自分で淹れますか」
「僕やりたい」
「ペーパードリップでいいですか?」
「お任せするー」
やったー、と両手を上げて、子供みたいだ。アオさんは酔うと退行する、と覚えておこう。
踏み台を出して棚から台形の黄色いドリッパーとサーバーに、注ぎ口の細くなっているホーローのヤカンを出してフィルタとコーヒーカップにスプーンを添えてアオさんの脇にまとめて置く。抽出し終えたドリッパーを置くための小皿も出して、清潔な布巾もいくつか探し出す。途中でお豆が見つかった。
「古い豆が出てきましたが」
「この際我慢するー」
いつ買ったものか。少なくとも月が替わったばかりの今月ではないだろうけれど。
アオさんは体を起こして、計量スプーンが見当たらなかったので代わりに出したはかりとにらめっこをしながら豆の分量を量っている。
「だいぶ古いねー」
ハンドミルにお豆をいれながら、香りが悪いと正当な文句を言う。
「半年くらい前のー?」
さて、いつ買ったのだろう。貰いものかもしれない。袋を見る限りだと、ちゃんとコーヒーショップで購入したらしいけれど。
アオさんは少し挽いて一旦細かさを確認してから、ゆっくりとリズミカルに挽き終える。
「あ、お湯沸きました」
テーブルの上に鍋敷きとして使っているヒノキの円板を置いて、その上にお湯の沸いたコポコポ鳴っているヤカンを置く。
アオさんは何も言わずにいつの間にか準備万端だったフィルターの上からホーローのヤカンでちょろりとお湯を注ぎ、一旦ヤカンを布巾の上に戻す。
そろりそろりとお湯を注ぎ、ぽろりと雫がサーバーに落ちてくる。その繰り返し。
一連の動作をテーブルをはさんで向かいに座って眺めていると、真剣な顔をしたアオさんの眼窩が黒くはっきりとわかる。たるむことなくぎりぎりの組織でその先の重さを支えている二の腕も、ヤカンの角度を固定してほとんど動かない固定器具のような手も、きちんと筋肉がついていることを、微妙な動きで教えてくれる。
アオさんは生きているのだと、感じる。
コロンと音がして、それはホーローのヤカンがテーブルに置かれた音で、それまでヤカンをつかんでいた細い指がドリッパーの持ち手に添えられていることに気付く。音もなくそれを小皿の上にのせると、ひといき。
サーバーにふたをして、コーヒーカップの中のお湯を捨ててきて、わたしの方へ目を向ける。
「ミルクと砂糖は?」
「あとでたっぷり入れます」
「僕も砂糖欲しいな」
サーバーからカップへと注がれる液体は、わたしの目には赤く映る。赤寄りの茶色と言うか、黒と言うか。
ふと窓の方へ眼を向けると、カーテンが開いていた。いつからだろう。
「どうぞ」
サーバーには、まだ幾分か内容物がある。
「いただきます」
一口含むと、古い豆の酸味。
どこからかは言わない方がよさそうな場所から出てきた白い陶磁器のシュガーポットには白い立方体、木製のほうには茶色い結晶の砂糖が入っている。わたしは袋に入った原料糖をそのままざざーと流し込んでしまって、アオさんに入れすぎと言われてしまう。
「酸っぱい」
これはアオさんの感想。
両方とも中身を確認してから、アオさんは木製容器の中身をひとさじ入れてもう一口。
「……今度来るときには豆持参するわ」
「今度があるんですか?」
買ってきたばかりの低脂肪乳をそろりとたっぷり注いで、「それだとコーヒーの味がわからないでしょう」と言われつつ、インスタントとは全く別物のコーヒーを、ちゃんと舌と鼻で感じる。
「おいしいです」
「次はもっと美味しいから」
わたしは2杯目もいただき、アオさんが飲み終えてから片づけを終えてテーブルを見やると、そこにアオさんの姿はなかった。
室内で風を感じて、顔を上げると、カーテンが靡いている。
近寄ると、アオさんはベランダに出ていた。
夜の住宅街の光に照らされて浮かぶ輪郭は、まるで骨格標本のよう。なんだか心もとなくて手を伸ばすと、アオさんが振り向いた。
「月が綺麗ですよ」
届く前に掴まれて、ベランダに引き出される。
見上げた先には、紅い円が浮かんでいた。本当は球に近いのだろうけれど。
わたしの手首を優しく包む手はとても暖かくて、生命の動きを感じるけれど。その輪郭はやはり教科書にも載っている、骨そのものだった。
しばらく見上げていて、わたしがクシャミをすると、アオさんは申し訳なさそうな顔をして部屋に入った。
それでもアオさんの熱は冷めていないのが、手から伝わってくる。
それだけ細いと筋肉も少なくて、発熱量も多くないはずなのに。
「暖かいですね」
それを、部屋が、と受け取ったらしい。
「外は寒いの、忘れてた」
赤い頬は、今は酔いではなく、寒さのせいではないのだろうか。
「アオさんは、寒くないんですか?」
「どうでしょう?」
そう言って笑うけれど、吐息は白かった。
わたしも部屋に入って、窓を閉める。
「寒そうですね。」
「そう見えますか?」
僕、鈍いんだ。という顔は逆光で、どこか寂しそうだった。
宵の夢
酔っぱらって押しかけて夕食を共にした夜、アオさんはわたしのアパートに泊まっていった。
そのまま帰らせるのがなんだか不安になる前にわたしのベッドに倒れ込んで寝入ってしまったから放っておいたら、結果的にそうなってしまっただけなのだけれど。
ベッドは一人で横になることができればよかったから、場所を取らないようにと幅の狭いものを選んでいた。だから当然のこと、並んで眠るのには無理があったからわたしは来客用の毛布を出して二人掛けのソファに丸まった。
久しぶりに、はっきりとした夢を見た。本当は憶えていないだけで夢は眠るたびに見ているのだと、前にどこかで聞いたような気もするけれど。
そこにはアオさんがいた。絹のような細く強い髪の影は間違えようもない。顔は陰になってよく見えなかった。
それはアオさんだとふしぎな確信があったのだけれど、骨のような細さはない。それでも他の誰だとも思うことができなかった。
薄い布を纏っているのは、夏のアオさんだ。肌が透けるのではないかという薄さの布なのに、目が細かくて、強い日差しに照らされようとも身体のシルエットが浮かぶことのない不思議な服を、現実のアオさんも夏には纏っている。
わたしはなぜか責め立てられていた。今までに読んだことのある物語の登場人物や、当時の背格好をした小学生の頃の同級生たち複数人に。内容は身に覚えがない。アオさんは、彼らの輪のむこうでただこちらを見ていた。笑っているような、睨んでいるような、細い目と横に伸びた口元。アオさんのぼんやりしている時の顔。
わたしの反応についに耐えかねたのか、ひとりの拳が握られた。同級生だった彼のそれが振り上げられる向こうで、アオさんの指先が僅かに動くのを視界の端で捉えた。それを認識して、わたしは覚醒する。
眼を見開くと、見慣れない天井。
ベッドで寝ていたわけではないから、ここが自分の借りているアパートだと認識できるまでに時間がかかった。
息が荒かった。
最初、誰かが過呼吸でも起こしているのかと思った。けれどこの家にはわたしが独りで暮らしていたはず。そう思い直した後に自分ののどの痛みと胸の動きを自覚して、それがわたしの呼吸音であると理解できた。
四角い照明。
汚れはまだ目立たない細かな凹凸のある壁紙。
視界に入った五指は自分が伸ばした左腕だった。何かを掴もうと、あるいは受け止めようとするようにいっぱいにのばされていた。何も掴むことはなく一度引き戻して、正常に動くことを確かめてからソファの背に指をかけて、存外に重い体を引っ張り上げる。
心臓が止まるかと思った。
夜が明けそうな予感のする白んだ窓の外。カーテンの隙間からもれる光に照らされて、ソファの背もたれ越しに、白い水面に浮かんだガラス玉のような瞳がこちらを覗いていたから。
暗いからか、余計に陰影が強調されて見える。アオさんの顔は、骨そのもののように見えた。落ちくぼんだ眼窩と出っ張った頬骨にかぶる整えられていない長い髪は、落ち武者のように乱れている。
少し落ち着いて、アオさんの方へ顔を向ける。
寝室とここは襖で仕切られていて、ソファの背のすぐ向こうには開け放たれた襖がある。そのむこうには和室におかれたベッドがある。
「……大丈夫?」
まだ未明のせいか潜めた、擦れたような声がアオさんのものだと認識するまで時間はかからなかった。
「怖がらせてしまった?」
わたしは首を振る。
「起こして……しまいましたか?」
アオさんは首を振る。
「丁度、起きる時間だったの」
この時期はまだ暗いけれど、夏だともう日の出を過ぎているような時間帯ではあった。
「目が覚めたら、苦しそうな声がしていたから」
「うるさかったですね」
すみません、と謝ると、意図せずわたしの目尻からこぼれた滴を、アオさんの骨と見紛う指が捉えた。
「怖い……夢でも見ましたか?」
頷く。
「助けてくれました」
あのままもう少し、覚醒するのが遅ければ。
襲い来る拳はわたしに届く前に、アオさんに止められていたような、そんな気がした。
「現実では、そうはならないだろうけれど」
囁かれた言葉を、寝ぼけた頭で認識しようとした。
「私は、君を助けるほど情も力もないし、善人でもない、ということです」
見上げたアオさんの瞳は顔を出したばかりの朝日に照らされて、深い虚のような黒を呈していた。
「アオさんのこと、わたしはよく知りません」
アオさんの口角が、ひきつるように持ち上がる。それは微笑だとわたしは思った。
「でも……けれども、そう言いつつ助けてくれそうな気が、なぜだかするんです」
わたしの涙をのせたままの指が、形のいい頭に伸びた。それが乱れた髪に通されると、不思議といつものような、整った流れが現れる。
「君は……、どうしようもない人なのね」
その暖かい指は、わたしの頭の上に、とん、とん、とやさしく置かれた。
のどの痛みももう気にならないし、呼吸も整っている。
そうして今日がまた、始まった。
それからというもの。
アオさんは、度々わたしのアパートを訪れるようになった。
コーヒー豆や手作りらしいお菓子やおかずを伴って。
碧い池
長い光が、視界の隅で跳ねた。顔をめぐらすと辺り一面の緑の中に、ひときわ目立つものがあった。
陽光を心地よく遮って視界を緑に染める欅並木の下で、あまり届いていないはずの光を集めているかのようなそれは、もちろんあのひとだった。長く細い髪はいつ見ても癖がなく、動きに合わせて液体のように滑らかな軌跡を虚空に描く。
そのひとの周囲に人はいない。平日の午前中という時間的なものか、その雰囲気によるものか、はたまた偶然なのかはわからないけれど。湿気と熱気に包まれている世界の中で、そこだけが凍っているような静けさだ。
わたしはただ、通りかかっただけ。駅から学校までの通学路の途中に、その広い公園はあったから。炎天下を歩くのは好きじゃないから、少しでも涼しいうちにクーラーの効いた建物に入ってしまおうと思ってショートカットをするために通ったそこにアオさんがいるなんて、想像さえしなかった。
今にも倒れそうな青白い顔と細い手足が軽やかな布から覗いていて、かといって肌の露出は最低限。骨の形をした首も肘も膝も、手首も足首も、ふんわりとした色に覆われている。それがまた熱中症にでもなるんじゃないかって心配を抱かせる。ふらふらとした足取りはいつもどおりなのか、体調が悪いのか、わたしには判別できない。その程度に付き合いの浅い時のことだった。
声をかけるような用事もないし、そもそもあのひとは何でここにいるんだろう。何か用事があるのだろうか。
いつも余裕をもって登校する癖がついているから、わたしの方には幸いといっていいのか、自由にできる時間がある。だからなんとなく、後を追ってしまう。
アオさんは、公園の奥へと歩いて行った。奥、というのは、天然の植物がほとんど手を入れずに残されているところ。昔、手作業で掘られた人工の池もある。
通りがかりに視界に入った池は、碧く濁っていた。草は生えていないけれど、長く放置されているような気がした。
時折揺れる水面の下には魚がいるのだろうか。
愛の情
今日は2月14日。
バレンタイン。
今年は平日。
数年前までは、平日だとこの時期は通常授業だった。今は大学生で、もう春休み。
わざわざ出かける用事もないし、当日になって自分用にチョコを買う人でもわたしはない。アオさんはどうだろうかと考えても、よく知らない。
天気は快晴。
暖かい。
窓を開けると、外からは雀の声が聞こえる。
アオさんは昨日帰ってこなかったので、今もこの部屋にいない。さて何をしようかと空を見上げると、程よく雲が出ている。時間は昼前。もうほとんどのお店が開いているはず。買い物にでも出かけるか。中身を確認した財布と折りたたまれたエコバッグをポケットに突っ込んで、家を出る。
遠出がしたくなって、列車の駅へと足を向ける。
タイミングよくホームに滑り込んできた急行列車に乗り込んで、気の向いた駅で降りた。
改札を抜けて気の向く方向へ進む。
この駅で降りたことはあっただろうか。
広いようなそうでもないような、地下と地上を階段が繋ぐ迷路。どこにつながるかは知らないけれど行き当たった出口を出ると、外には見覚えのある製菓材料店の看板があった。その案内に従って道を行くと、他にも見知った店の店舗がある。
製菓材料店では、やっぱりチョコレートが目につきやすい場所に置いてあった。そういえばと、切れかけていた砂糖の存在を思い出す。砂糖をカゴに入れてレジに直行しようとしたら見切り品コーナーを見つけてしまう。つい足が止まるこれを貧乏性というのだろうか。そこに丁度良く消費期限の間近に迫った生クリームがあるのは何の偶然か必然か。何を作る予定もないけれどそれもカゴに入れて、会計を済ませた。
外に出ると雲行きが怪しい。
天気予報を見る習慣のない人種だから予報は知らないし、傘も持っていない。
記憶を頼りに来た道をただ戻ろうとして、スーパーマーケットを見つけるとつい足が向く。
見るだけと自分に言い聞かせながら、つい食材を買ってしまったり。安くなっていた牛乳とバターも購入して、駅にようやくたどり着くころには空は青かった。雨の匂いはするけれど、水滴はまだ落ちてこない。
帰る方向の列車に乗って、つい買ってしまった内容を確認する。
菓子作りに必要な材料がそろってしまっている。期限の短いものもある。今日という日はそういう日かもしれない。
家の最寄り駅についても、まだ雨は降っていない。だからと油断せずに足早にアパートに帰り着いて、食材を冷蔵庫等の定位置に仕舞い終えたころ、ぽ、ぽ、と水滴が屋根を打つ音が聞こえてきた。気が付けば部屋は暗い。照明のスイッチを入れると、そこにアオさんがいた。
どうして今まで気が付かなかったって、ソファに横たわっていて、ブランケットに隠れていたからかな。出かけるときにはいなかったはず。
近寄ると、眠っていたわけではないらしくて体を起こした。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
いつ帰ったのかと尋ねると、ついさっきと返ってくる。
「今日は何の日でしょうか?」
「バレンティヌスさんの命日?」
アオさんに問題を出されて、解答はふざけてみた。
「たぶんそうね。でもそれを求めていたわけではないよ」
アオさんが頬を膨らませると、いつも浮き出ている頬骨が目立たなくなる。
「何か買ってきたの?」
「いろいろ……」
バターとか、と告げると、「ケーキ型はある?」と尋ねられる。場所を伝えると、アオさんはソファから立ち上がった。
「何か作るの?」
「せっかくオーブンがあるのだし、今日は商売戦略に負けてチョコレートを食べる日でもあるから」
冷蔵庫の中と食材置き場を確認しながらアオさんは言った。
「恋する乙女が意中の君に贈り物をする日ですよ?」
「チョコレート関係のスイーツを食べてお正月並みに自己管理の緩む日でもあるのじゃない?」
「……お正月ほどではないと思う」
「そっか」
手を洗って、必要な器具と材料をそろえてお鍋でお湯を沸かし始める。
「なにをつくろうとしてるんですか?」
「チョコレート関係のスイーツ。」
あるものは勝手に使っていいと既に確認してあるから、アオさんは躊躇なしに買ってきたばかりの材料も封を切る。
「ブラウニー?」
「食べたいの?」
「頭に、浮かんだだけです」
「そ。」
見ていても何にもならないし、わたしは簡単なものしか作れないうえに手際が恐ろしく悪いから手伝いもできなくて、さっきまでアオさんのいたソファに座る。そこにはまだ熱が残っていた。外が暖かいとはいえ、冷え性のわたしの指先は、フローリングと降り始めた雨に冷やされ始めている。心地よい温もりに触れ、つい、意識を手放す。
「お目覚め?」
「……おはようございます。」
目が覚めたのは、もう日没後だった。人工的な明かりに照らされておでこがなんだかジンジンする。
キッチンの調理器具は洗い終わっているし、食材も視界に入らないから定位置に戻ったんだろう。
何を作っていたのか、薄力粉とバター、砂糖と生クリーム、ついでにビターチョコレートの匂いがした。
「作り終わりました?」
アオさんはオーブンに手を入れていた。
「ブラウニーも作っておいたから、明日のお八つにしましょうね」
引き抜いた手には布巾があったから、掃除をしてくれていたのか。
「他には?」
「トリュフとクッキー?」
後頭部でひとまとめにされている髪は珍しい。
「どれだけ作ったんですか」
「知り合いに配ってこようかな」
「バレンタインは今日ですけど」
うなじに手をのばしたくなるわたしは変態だろうか。
「バレンタインでなくても、お菓子を配っていいでしょう?」
「よくするんですか?」
「作りすぎたらね」
わたし以外にアオさんの手作りが振舞われるのは、なんだかいい気がしない。
別に恋人でもなければそれに準ずるような親しさでもないし、顔見知りに毛が生えた程度の知り合いだけれども。
オーブンの扉を閉めて、布巾を洗って干したら手を洗って手ぬぐいで拭いて、そのまま流れるように後頭部で髪を結わえている紐の結び目に指が動く。
つい、その動きを追ってわたしの手が伸びる。
「どうかしたの?」
それを視界に捉えてか、アオさんの指は紐を解く寸前のところで止まった。
「髪、紐で、綺麗に結っているなぁと……」
うなじをもっとじっくり観察したいなどと本音を晒せるほどにはまだ親しくないと思っている。
「慣れればこのほうが簡単なの」
ゴムを持ち歩く習慣がないから。といいながら、紐は解かれる。一本一本は細いのに総量のある毛束が広がる。肩にかかったひと房をばさりと背におろし、束ねていた紐は、筋の浮く手首に巻かれた。
そういえばと記憶を掘り返すと、アオさんはいつも紐を身に着けていた。ベルト代わりに腰に巻いていたり、首や手足の首を装飾していたり。ただのファッションアイテムだとばかり認識していたけれど、それにしては何の飾りもない組紐や、麻紐であることもあった。そのあたり、あまり頓着しない性格なのだろう。
「夕飯にしない?」
そういえば昼食を忘れていたおなかが鳴った。
数種類のキノコと手作りのホワイトソースがよく馴染んだパスタが、見た目に綺麗に盛り付けられて食卓におかれる。
薄力粉とバターの匂いの正体はこれだったらしい。
「さっき作ったんですか?」
「生クリームが少し、残ったものだから」
眠りから覚めたばかりの暖かい体に、温かな食事。暖房は入っていないけれど、部屋も心なしか暖かい。そういえばと意識しても、雨の音は聞こえない。
食事を終えて、毎度のごとく食後のコーヒータイム。
アオさんが淹れたコーヒーは、わたしの好みにもよく合っている。
「ハッピーバレンタイン?」
冷蔵庫の奥から取り出した冷えた箱を、抽出し終えたドリッパーを流しの脇へ運んできたアオさんに、横から差し出す。
「いつの間に、用意したの?」
「昨日、アオさんが帰ってこない間に」
ペーパーフィルタを中身ごと燃えるゴミへ放った後、水道の冷水で手を洗って、手ぬぐいで拭いてから、それでもなお暖かい手で受け取ってくれた。
「僕は、君の意中の君なのかな?」
「そうかもしれないですね」
開けてもいいかと目が訊いていたので、頷くと、細かな血管が存在を主張している細い指が形ばかりのリボンを解いて、箱のふたを持ち上げた。
中身は初心者に優しい、溶かして型に入れるだけのスティック状のチョコレート。
「……まさかの手作り」
「まさかって何ですか」
「それで板チョコの包みがゴミ箱にあったの……」
バレていた。自分の始末の甘さを反省しつつ、アオさんの鋭さにも感心する。
「コーヒーのお供に、どうですか?」
「ではお返しに」
アオさんはコーヒーの抽出器具をしまってある棚から、それを出した。
「コーヒーに溶かすやつ?」
「牛乳に溶かしてもいいけれど」
チョコに木製のスプーンが刺さっているものが、丁寧にラッピングされていた。お店にもありそうだけれど、同じ包装を見たことはない。
「ひょっとして、さっき作ってました?」
アオさんは首を左右に振る。
「昨日、知り合いにキッチンを借りて」
それで昨夜は帰らなかったのだと教えてくれる。
「……ありがとうございます」
素直に感謝が口からこぼれた。
互いにチョコレートを贈り合ってコーヒーの香りに包まれて、ホワイトデーには互いに返し合うことを合意した。
寒い夜
すぐそこにアオさんがいる。
窓に背を向けているから顔は陰になって見えない。
凍った滝のような流れを背に垂らしたままベッドの端で固まっていたから、生きているのか確認しなきゃならないような気がして横に座ったんだ。アオさんはわたしが横に座っても少し耳を動かしただけだった。いつからそこにいて、何を思っていたのだろう。側へ目をやると絹のような髪が重力方向を示すようにまっすぐに流れ落ちている。肩からその体をはさんで前後に分かれるそれは流れの速い滝を思わせた。
互いに何も言わない。わたしからかけるべき言葉が見つけられなかったのもあるけれど、触っていなくても感じる熱に意識を奪われたせいもある。
ベッドに置かれている爬虫類のような手へ袖越しにそっと触れてみると、温もりの発生源は確かにそこだった。見た目からは想像の及ばないほどの熱を孕んでいるけれど、相変わらずシーツよりも青白い。首を少し傾けると確かな質感がそこにはあった。そのまま頭をアオさんの薄い肩にのせてしまう。そうしていないと、その存在がまだ確信できなかったから。
「どうか、したの?」
不意に静かに空気が揺れた。
驚きに目を見開くと、傍らの流れが少し乱れた。
もしかすると、碧い双眸がこちらへ向けられているのかもしれない。
それに相対することができたなら。わたしは、何を考えるのだろう。
「愛しいって――、解りますか?」
なぜそんな言葉が出たのかは判らないけれど、視界の端で光の流れが乱れたことでアオさんが首を動かしたのが判った。
「……側に在ればと、願うこと?」
わたしには正面の壁しか見えていないから、アオさんの瞳はどこへ向けられているのか判別できない。
「どうして、そう思うんですか?」
「どうしてかな」
掌の触れていた熱がどこかへ消えたと思えば、甲に湿り気を含んだ温もりが乗る。
「淋しいのかも、しれないね」
「淋しい、ですか?」
「僕はいま、あまり淋しくはないよ」
君がここにいるから、とアオさんは続けた。
「……満たされていますか?」
「満たしきれてはいない。この内には確かな空虚があって、満たしきるには何を入れてもたぶん、不充分」
「淋しい、ですか?」
同じ言葉を、繰り返す。
応えに納得がいかなかったわけじゃない。
ただ……、ただ、足りなかった。まだ、欲しかった。
「少し」
アオさんの肩から頭を離すとようやく窺うことができた顔は、長い髪の影に隠れるようにしてこちらを向いていた。ふいに視界が揺れて、ベッドに倒れこむ。片手は熱に包まれたまま、視界が綺麗な天蓋で覆われた。その薄膜の中にはアオさんしか見えない。このセカイには、わたしとアオさんしか存在していないみたい。
「アオさん」
見下ろす瞳をまっすぐに見つめてそう呼ぶと、困ったように眉が動いた。
「……泣いていますか?」
泣いているように感じたのだけれど、涙は窺えない。
「泣かないよ。泣く理由は、いまの僕に無いもの」
熱が布越しの肌に食い込んだ。自由にされているほうの手をのばすと、アオさんが肩を竦める。髪の天蓋を分け入って、形の好い頬に手を添わせてみた。
「一緒に、眠りませんか」
アオさんは何も言わない。ただそっと、長いまつげが動いた。
「きょうは肌寒いですから、アオさんは温かいので、隣にいてもらえないかな、と」
アオさんは笑った、のかもしれない。
毛先に顔を撫でられて、視界が見慣れた天井に占められた。
「しかたないね」
狭いベッドが軋んだ。細いけれど質量のあるアオさんの体が隣に投げ出されたんだ。
「明日の朝も冷えるだろうから、君が凍えないように隣にいてあげるよ」
わざとらしく大きな声で、アオさんは言った。つい笑ってしまうと、手から熱が離れていった。代わりに、腕全体に温かいものが寄り添う。
狭いベッドだから、落ちないようにするには必要な距離。
「おやすみなさい、よい夢を」
命の熱
目の前の空白を何で埋めるか。一向に何も浮かんでこなかった。
利き手に鉛筆を持って、構想用にとクロッキー帳を広げて。傍らには鉛筆削りを兼ねたカッターナイフ、足下にはくずかご。
部屋の掃除をしていたら見つかった未使用の画材をふと使いたくなって、テーブルの上に開いてみたのだけれど。
そもそも描きたい題材が何もなかった。
近頃こころ動かされたものは。最近の出来事を思い出しながら視線をめぐらせると、薄いレースのカーテンのむこうに細長い人影がある。窓の外のベランダに、同居人のその人はいた。
「――手を、貸してください」
不意に口をついてでたのは、そんな言葉だった。自分でも意味が分からない。
顔を上げれば、案の定。細くくっきりとした眉をハの字にしたアオさんの顔が、風に遊ばれたカーテンの間からわたしの方へ向いた。
「何か、困っているの?」
目が合うとたおやかに首を傾げてそう尋ねてくる。細い髪の流れが光を伴って動いた。
広くないベランダでいつの間にかおいていた植物の手入れをしているところだったらしく、半ばほどをカーテンに隠されている窓の向こうにその姿はある。
「手を、観察させてくれませんか」
鉛筆を持っていた自分の手を掲げてみた。筋は浮いていない、血管も浮いていない、何か足りない、おもしろみのない手を。
「手?」
頷くと、アオさんは骨と申し訳ばかりにそれを覆う膜だけで構成されているような、凹凸に富んだ自身の手へ目を落とした。短くそろえられた爪と丸い間接とが曲線で縁取られ繋がっている、かといって不思議と不健康な印象を与えない、細く長い指と広い手のひらで構成された、いまは小さなじょうろを持っているその手を。
「僕の手を、観察したいの?」
大きな双眸がわたしを不思議そうに見つめる。
「そういえば、よく見ているよね」
何かにつけて目で追ってしまうのは、細く長く大きなその手の暖かさを知ってしまったからかもしれない。
「構わないけれど、少し待ってもらえる?」
土が付いているから洗ってから。と、じょうろをベランダの隅の定位置へ置いて、アオさんが部屋の中に風を伴って入ってくる。
太陽の光は世界を照らしているけれど、その姿を窺うことのできない5月の昼間。
「少し、肌寒くはないですか?」
一番近いキッチンの水道で手をこすりあわせて洗っているアオさんは、後ろからでも肩の見えそうなほど襟の大きく開いた、体の線にぴったりと沿うシャツを身に着けている。対するわたしは首もとまでボタンを留めた長袖シャツで肌を隠している。これが体感温度の差なのだろうか。
「僕にとってはちょうどいい気候」
掛けてある手拭いで手の水気をとると、わたしの向かいにアオさんは座る。
「寒いなら、窓は閉めたほうがいいかな?」
「大丈夫です」
湿り気の少ない風は心地がよかった。
「これでいい?」
手のひらをぺたりとテーブルの天板につけると、付け根から指先へかけて徐々に薄くなる輪郭がよくわかった。手首で一旦細くなってから広がり、指先へかけて収束するその曲線に、見惚れてしまったのかもしれない。
「さすがにこんな日だと、温かいのね」
アオさんの手の表面に触れないぎりぎりを、わたしの指先はなぞっていた。
わたしは冷え性だから冬の間は特に指先が冷たかったからだろうか、アオさんのその言い様は。
アオさんの言葉と自分の行動に驚いて手の動きを止めたら、湿り気のある手のひらがわたしの手の上に覆い被さる。
「君の手はキレイよね」
特筆すべき特徴のない、細くも太くもないわたしの手を、白くて尖った指先が撫でる。よく見ればいつの間にか小さな切り傷があった。過日に枝に引っ掛けた記憶がよみがえる。無精して日焼け止めを使わないから、長袖に守られない手の甲の半ばより先は日焼けで色を濃くしている。
「とても健康的」
アオさんの筋張った手は不健康そうではないけれど。なぜか全体的に白いそれは健康的とも表現しづらいかもしれない。
「僕の手は骨みたい。」
みたい、というか、そのもの。筋肉や腱の入り込む余地はどこにあるのだろうというほどに、その形は骨そのもので、過ぎし日に学校で見た骨格標本と同じ形をしているのに、確かな熱を内包して生きている。
「アオさんは……生きているんです」
そう実感させてくれる熱は果たして、この骨様の形のどこで生産されているのだろうか。
「生きているんです」
目の前にいるこの人は、いくら儚げでも、確かに命があった。
「生きているよ」
はたして眦からつたい落ちるコレの意味は何だろう。
視界を歪めるこの感情は、どこから湧いて出たのだろうか。
「君も僕も、今この時をしっかりと、生きているよ」
何も描き込まれていない空白に滴が落ちて、平面を歪めた。
手の甲から離れた熱が、頬に触れる。確かに丸い指先が、皮膚に包まれた骨が、わたしの目元を撫でた。
鉛筆を置いて、頬に置かれた熱にわたしの手を重ねる。確かな凹凸が、脈打っていた。
「生きて、ください」
詰まりながら絞り出したその言葉の意味は、わたしにも解らない。ただ、そう、口をついて出た。
「大丈夫」
アオさんは口角をもちあげて、儚く微笑んだ。
ちょうど窓から差し込む光に照らされて透き通った肌を、流れ込んだ風に揺らされた絹のような髪の輝きが彩る。
「大丈夫だから」
今にも透けて消えてしまいそうな姿をした、確かな熱を持ったアオさんは、俯けば肩に触れそうなわたしの髪を指で梳きながら、そう何度も繰り返した。
軽い光
それほど強くも弱くもない大粒の雨が降り続いていて、窓の外で塀やベランダに打ち付けて跳ねる音が嫌に耳につく。そんな朝の未明に、わたしはけだるい体をむりやりに動かして、憂鬱に抗おうとしていた。何をするにも疲れるような気がして、何をしても無駄なような気がして、それでも何かをしなければいけないような気がして。"何か"の正体は見えないままに停滞した負の感情を薙ぎ払おうと腕を振ったら、物に当たる。当然ぶつかった手も痛いし、赤くなる。ともすれば紅い命の雫でさえ零れ落ちることもあった。こんなことは珍しくないから、衝撃で壊れるようなものは部屋に置いていないつもりだったんだけど。
甲高い小さな音と共に光が散った。暗い室内を満たす人工の明かりを、何かの欠片が乱反射した。
見やれば大小の鋭利な欠片がそこには在った。細かな粉のような白もあった。
透き通ったそれは一見表面が滑らかなガラスのようで、しかし手に持ってみれば重みをほとんど感じない。
滴った紅が足元に染みをつくる。すぐに対処しないとシミが残ってしまう。そうは理解していても動く気にはならなかった。
訊き慣れた軽やかな足音は雨音に混ざらず耳に届く。近付いてきて、止まった。
束にせずひとつだけの鍵につけたキーホルダーの鈴が揺れて小さな存在を主張する。
シリンダー錠が回され、ドアノブが下げられ、玄関の開く音。
いつの間にかどこかへ出かけていたあの人が、帰ってきた音。
「ただいま」
その声は、どこまでも空に昇っていきそうな、確かな感触があった。
常なら復唱するみたいに返すけれど、いまはそれすらも億劫だった。
足音は玄関から滞ることなくリビングへ、ついで隣接したわたしのいる部屋まで来て止まった。
手に持つ何かの欠片は透き通って向こうの世界を歪ませていた。もしかするとこの向こうの景色こそが本当の世界であり、こちら側の、わたしが普通だと信じていた世界こそが何か幻想の中なのかもしれない。浮世離れしたほどの淡い色をしたその人を透かして見ると、もしかしたらその現実が見えてしまうかもしれない。そこに、現実にはそんな姿は無いのかもしれない。そんな不安がよぎって顔を上げると、細い光が丸い粒を纏っていた。常から重力に引かれてまっすぐに伸びている髪が、重たげに水滴を纏っていて、毛先は濡れてかたまってしまっている。
「……濡れちゃってますね」
タオルは玄関に置いてあったはずだけれど、使っていないみたい。
持ってこようと足に力を入れかけて、横から伸びてきた長い腕に肩を押さえて止められた。
「こんなものを、どこで拾ってきたの?」
欠片を手放すことを忘れていた腕が心地よい熱に捕まえられた。細い指たちは腕に食い込んではこないけれど、わたしは動けなかった。雨よりも冷たい瞳は床に落とされて、そこに散らばる欠片の光を反射した気がした。
「……何が、あったの?」
鋭利な欠片は骨のような細い指に攫われて、わたしの手からようやっと離れていった。
床には似たような欠片とその隙間を埋める細片が散らばっている。
「片付けないと、ですね」
踏んだら危ない。わたしでも、この静かな人でも。足と頭は特に。前に不注意で切った知り合いが、煩わしそうにしていた記憶があった。
「それは、僕がやる」
動かないで待っていてと言って、アオさんは勝手知ったるわたしの家で、必要な道具を取りにいった。
大人しく待っていないと、と思いつつ、手の届く先にある鋭利な欠片をひとつ、またひとつと近寄せて、パズルのように似たような断面を向かい合わせて並べて元の形を知ろうとした。
「手を、切ると危ないでしょう」
アオさんは戻ってくると床に膝をついて、タッパーに大きな欠片を入れていく。
「どう……するんですか?」
「この大きい欠片は、あとで使うの。君も惹かれてるみたいだし」
粗方の欠片を集めたらタッパーを棚の上において、細かい光たちを箒で集めて掃除機で吸ってしまった。
これでよし、と、道具を元の場所に、大きな欠片の入ったタッパーをどこかにおいてきてから戻って、ずっと座りっぱなしだったわたしの隣に並んだ。
頭にのせられた重みはタオルケット。数日前に洗濯して、畳んで棚に置いてあったもの。アオさんと似たにおいがした。思えば出会ってからしばらく経つ。この部屋にはいつのまにか、わたし以外のにおいも染みついていた。
「それで、何があったの?」
視界をふさいだタオルケットの端をつかんで持ち上げて、傍らを見上げる。
また、わたしの手はアオさんにつかまってしまった。せっかく持ち上げたタオルケットがまた落ちてきて、伸びてきた髪と連れだって視界をふさぐ。
腕を掴んだまますぐそこにある救急箱をとりだして、アオさんはわたしの腕の処置をした。そのくらいは音と触覚で把握できる。
「もう、血は出ていないですよね……」
解放された手はアオさんの熱が移って心なしか温かい。
「この怪我、把握していたのね?」
いつもより少しはっきりとした声で、なんだか咎められている気がした。
素直に頷くと、足下の血痕にも気付いたらしい。
「これは、新しいね?」
「……この怪我の、です」
放っておいても、このラグの汚れはわたしが気にしなければ問題ない。
「後で落としておくよ」
「放っておいて、大丈夫ですよ……?」
「僕が気になるから」
「……わたしが、自分でやります」
「けがに障るといけない」
強気のこの人が折れないことを、わたしは学んでいる。
「……よろしく、お願いします」
それでよろしい、と言うようにわたしの言葉へ頷くと、タオルケット越しの熱が頭をなでてくれる。
「その怪我と、あの欠片は、関係ある?」
「……腕を、ぶつけてしまって」
「それで、落ちて割れてしまったんだね。
他には、怪我はない?」
言われて思い返してみるけれど、痛みは無いし、あれから動いてもいない。
「少し、前ですから……」
そこでアオさんは、何か思い出したような顔をする。
「きょう、家を出る時間は大丈夫?」
そんなことで、ここまで気にしたような顔をするのだろうか。
「午後から、です」
「本当に?」
「講義は、午後から、です……」
「何か用事があったから、出ようとしていたのでない?」
「何もないから、何かしようとして、出ようとしていたんです」
アオさんはしばらく何か考えて、それからポン、とわざとらしい動作をして、「朝ご飯は、もう食べた?」と口にした。
「まだ、です」
「一緒に作る?」
わたしは嬉しかったのだけれど、果たしてそんな表情ができただろうか。
咄嗟にあげた視線の先にはいささか驚いた表情がある。
「着替えられる?
そのままでも大丈夫だけれど」
「着替えます。
――アオさんと料理ができるなんて、この上なく貴重な時間を、こんな格好で消費したくはないですから!」
「いつでもできると思うけど。
……何の根拠もなく未来を信じていられるこの時間は、確かにとても貴重かもしれないね」
先に準備をしているよ、と言って、細い姿は部屋から出ていった。
着替えようと頭からおろしたタオルケットは濡れていた。アオさんは何も言わなかったけれど、いつの間にかわたしの顔は、汗と涙で濡れていた。
束の間
なんだか肌寒くて温かい飲み物が欲しくなって水を半ばまで入れたヤカンをコンロに置いたら、インターホンの音が聞こえた。とくに荷物を頼んだ覚えも無いし、人が訪ねてくる用事も心当たりはなくて、とりあえずは目先のコンロの火をつける。
「こんにちわー」と扉越しでもわかる澄んだ声が聞こえて、玄関が開く音がした。開錠した音はしなかったから、不用心にも鍵をかけていなかったらしい。合鍵を持つのは今まで一度も訪ねてきたことのない母と最近入り浸っているアオさんだけだ。玄関の扉を閉めて、施錠する音がした。強盗とかだったら嫌だなと、呑気に思いつつガスコンロの火を眺める。一旦足音がとまって、たぶん靴を脱ぐ間をあけてから顔を見せた声の主は、案の定アオさんだった。
「不用心だよ」
アオさんは、体の線がハッキリとわかる服で肌を隠していた。
「鍵はしっかり、確認したほうがいい」
「……そうですね」
「真剣に、聞いてくれている?」
わたしは曖昧に頷くことしかしない。
アオさんは持ってきた箱をテーブルに置いてわたしの隣に並んだ。箱はケーキ屋さんのものみたい。
「人に貰ったのだけれど、僕だけでは余らせてしまいそうだから、一緒にどうかと思って」
細い腕をのばして、コンロの上にある棚からコーヒー豆の入った缶を取り出した。わたしには台を使わないと届かない高さにあるその棚はだからほとんど使っていなかったのだけれど、いつの間にかアオさんが使うようになっていて、たまに中身が変わっている。抽出器具も取り出してきて、並べて置いた。
「お湯を沸かしているの?」
また曖昧に頷いてみる。心ここにあらず。こんな天気の日はなんだか目の前に集中ができないんだ。
お豆をコーヒーミルにザリザリと入れて定位置に缶をしまってから、アオさんはレバーを一定のリズムで回してガリガリと挽き始める。その音と、急に降り出した雨の音は似ていた。
「雨、降ってきましたね」
「夜にはやむらしいから、それまで雨宿りさせてもらおうと思って寄らせてもらったのだけれど、大丈夫だった?」
「傘、ありますよ?」
「――追い出したかったら素直にそう言って頂戴。
僕も一応、傘は持っているから」
「きょうは何も予定が無いので、どれだけ居てもらっても大丈夫です」
すっかり“いつもの”になってしまった器を棚から取り出して、抽出器具の隣に置く。
「コーヒーで良かった?」
「ちょうどよかったです」
「紅茶の気分だったりしない?」
横を窺うと、言いながらアオさんは笑っていた。少し意地悪に、からかおうとしたのかもしれない。
「温かいものが飲みたかったんですが、何にするのかは、決めていなかったので」
沸いてきたお湯をカップに注いで、わたしの分のカップにだけ、お湯を捨ててから牛乳と砂糖をたっぷりと入れておく。
「そんなに入れて、甘すぎないの?」
「糖分過多ですね、おそらく」
コンロの火を止めても、ヤカンの中で泡を立てている音が聞こえた。コンクリートに跳ねた雨の音と似ている気がする。
「気を付けてね」
「心がけます」
アオさんはお豆を挽き終わると、珍しく布のフィルタをドリッパーにセットして湿らせた。気分がいいのかもしれない。
「たまにはゆっくり淹れるのも、いいものだから」
沸騰したお湯をポットに注いで少し冷ましてから、挽きたての粉の上にお湯を落とし始める。
それを横で見ているのも気分がいいけれど、お皿とフォークをテーブルに置いて、わたしはそのまま腰を下ろした。
「疲れてしまった?」
アオさんの高い位置にある視点からはたぶん消えてしまったのではないだろうか。椅子にではなく、床に、腰を下ろしたから。
何とはなしに、そうしたかった。
一人暮らしの家だから、普段はそんな奇行に気を留める相手もいなくて、わたしは自由にしている。
「いえ……」
「ムリはしないでね」
落とし終わったコーヒーをカップに注いで、わたしの分を軽くかき混ぜる音がした。
アオさんがキッチンから出てきて、テーブルに、いつもわたしとアオさんが座る位置にそれぞれのカップを置く。
キッチンに戻ってフィルタを軽く洗って干してきてから、アオさんはケーキの箱を開けた。
「チョコレートは平気だったよね?」
「……好きですよ」
「どちらもチョコレートケーキなのだけれど、チョコレートの風味が強いのと甘酸っぱいのと、どちらが食べたい?」
わたしはやっと立ち上がる。箱の中を覗いてみると、表面のコーティングが光る二つのケーキが並んでいた。
チラと向けられた気がする雨色の視線は気にしないことにする。
「似ていますね」
「スポンジも異なるのだけれど、大きな違いはこちらにはあんずのジャムが挟まっていて、こちらはチョコムースが挟まっていることかな」
「ムースのほうを戴いてもいいですか?」
「どうぞ」
そう言ってわたしのお皿にのせられたものは黒に近いチョコレートコーティングに表面が覆われていて、その下にきめの細かいスポンジに挟まれた明るい色のムースが光っていた。アオさんのお皿にのせたものは少し明るい色のスポンジに鮮やかなジャムの色が映えている。
「今度は、椅子に座ってね」
「はい」
ご飯を食べる時と同じように手を合わせていただきます、と声に出してから、まだ湯気の立つカップを手に取った。
「火傷には、よく注意して」
「そこまで不注意ではありません……」
実のところ熱いカップや内容物でやけどをすることは珍しくなかったから、強くは言えないのだけれど。
慎重に口に含むと、程よい苦みと砂糖の甘ったるさが舌についた。やっぱり砂糖を入れすぎたかもしれない。
「苦かった?」
アオさんはわたしの表情が変わるのを細い瞳でしっかりと見ていたみたい。自分も口に含んで、そうでもないかな、と確認していた。
「甘すぎました……」
なんだか居た堪れなくてわたしは目をそらしてしまったけれど、よかった、とアオさんはほほ笑む。
「次は砂糖、控えめにしましょうね」
ケーキにフォークを入れると小さな音とともに表面に亀裂が入り、スポンジが潰れて、切断される。口に含むとチョコレートの苦みと香りが鼻から抜けた。
「おいしい?」
反射的に、はっきりと頷いた。
コーヒーの苦みともよく馴染むほのかな甘さで、クセになりそう。
「それは何より」
アオさんもおいしそうに頬を緩めていて、薄い皮膚が盛り上がっている。以外に頬袋が大きいみたい。ケーキへ目を落とすと、何か引っかかるものがあった。中身が保冷材だけになった箱は白無地で、店名や注意書きのシールなども見受けられず、ペーパーナプキンやフォークもない。必要がなければつけないでもらえるはずだけれど、ふと気になってしまった。
人に貰った、とは言っていたけれど。
「……ほんとうは、手作りだったりしますか?」
「どうして、そう思ったの?」
「否定は、しないんですね」
少し困ったように、細い眉の影が動いた。
「……材料を、貰ってね。せっかくだから、つくったの。
僕だけで食べきってもよかったのだけれど、なんだか寂しくて。君にも食べてもらいたくなって」
なんだか恥ずかしいな、と視線がケーキへそらされた。
「……このケーキ、本当に、とても、おいしいです。
きっと材料も、よかったのですね」
「材料をくれた人に、あとでお礼を言っておくよ」
食べ終わると、アオさんが食器を洗ってくれた。
「あなたは今にも倒れそうで」と言われた言葉はどこまでが本気なのだろう。
濡れないように肩口でまとめられた細い髪束は、一本一本の細さを物語っているようだった。
強い雨はたまにしか降らないし、本当にいまは梅雨なのだろうかと厚い雲を見上げて思ったりはするのだけれど、夏至を過ぎて、まだ梅雨は明けていない頃だった。
昏い朝
憂鬱な日々に浮かぶのは過去の記憶ばかり。部分的には寝ている間に見た夢だとか、家電量販店の前を通った時に放送されていたテレビ番組の音もあることに気付いた。自分の体験とそうでないものとの区別が徐々に曖昧になってくる。表情に乏しい自分が笑った顔は妄想なのか、いつか鏡か写真で目にした記憶なのか。節目の集合写真以外はほとんど残っていないはずなのに。
目を閉じて布団をかぶった闇の中は蒸れるような暑さがある。息苦しくて顔を外気にさらすと寒いような季節にいつの間にかなっていた。
目を開ければ見慣れた天井がある。わたしはベッドの上でまどろんでいた。ここが自室でいまが夜明けと日没の間だということを認識してきたころ、最新の記憶ではソファの角に埋もれていた気がすることも思い出す。かつて耳に届いた声が思い出された。きっとあの人が、ベッドまで私を運んでくれたんだろう。
同居人の愛称を無意識に口にすると、視界の端で光る流れが重たげに揺れた。
ついで顔に掛かった陰は思い浮かべていたものと相違ない。
「お目覚め?」
起き上がる気にはなれなかった。
「起きなくても、大丈夫」
額にあたたかなものが触れる。アオさんの手だったと、熱が離れていくときにそれが視界に入って判った。
熱はなさそうだね、とアオさんがつぶやく。
「きょうは休日だから、学校はないでしょう?」
布団から出した手は湿っていた。傍らに置かれたアオさんの細い手首を掴むと、脈動が感じられる。
羽毛布団に包まれていたわたしの手でも判るくらいに、アオさんの手首は熱を持っていた。
傍らに腰を下ろしているアオさんは、この日も肌を覆う布が少ない。
「熱い?」
指を一本ずつ優しくほどかれて、わたしの手は布団の下に押し込められる。アオさんの手はその場を離れてはいかなかった。安心させるようにわたしの手を包んでくれている。
「……好き――、ですか?」
口を突いて出た言葉に大した意味はないということを、一緒に暮らしているアオさんなら感じていると思う。
夢の延長でまだ寝ぼけてしまっているのかもしれない。
「誰が、なにを?」
誤った解釈で返事をして誤解を生んだことが、過去にあったのかもしれない。
それが拒絶やごまかしではないのだと、一緒に暮らし始めてから教えられた。
慎重に意味合いを確かめてくるから、わたしもなるべく素直な表現で伝える。
「わたしのことを……アオさんは、好きですか?」
眉間に寄った皺は困っているのだと判る。軽く首を傾げると細い光が辺りに散った。
「……"好き"って、よく、解らない」
アオさんは視線を少し上に向けた。
「少なくとも――嫌い、では……ない――かな」
最適な言葉を語彙の中から探すために内なる辞書を見つめているような、そんな姿勢。
「一緒にいたい、とは、思っているよ」
曖昧な表現は、意味を図りかねているのだと判る。そのあたりの感性が、わたしとよく似ているから。
「君が暗い顔をしていると哀しいし、楽しそうだと嬉しい」
一度ゆっくり瞼を下ろしてから、凪いだ瞳がわたしを見つめてくる。
「これを、"好き"だと表現してもいいの?」
哀しい影を帯びた顔は逆光で、向こうに細い月が笑っている。
「……"好き"って、軽い言葉だと思うんです」
わたし自身も、好きという感情の定義がよく解らない。
時に簡単に憎しみへと裏返るらしいその想いはどこから生まれてくるのか。
「わたしは……アオさんのことが、好きです。多分」
この掴みどころのない想いを表現する言葉は、他に見当たらない。
少なくとも嫌いではない。それって、好きってことでいいんじゃないだろうか。
「会いたくなるんです……」
アオさんがいないと、不安になる。いつからこうなってしまったんだろう。出会う前は、アオさんのいない生活が、普通だったのに。
「声が聞きたいと、思ってしまうんです」
同じ時間を、長く、共有したい。アオさんの意思で、わたしの傍にいてほしい。
「ただ存在を思うだけで、安心するんです」
他の人のことを楽しそうに話す姿は、もやもやする。けれどその時間があってこそアオさんは輝いているんだから、わたしとだけ居てほしいって訳でもない。
「わたしだけが知っていたらいいのにって、傲慢なことを、思ってしまうんです……」
「僕だけのものにしたいな」
そのくらいには好感を持っているとアオさんは告げる。氷の冷たさのようにはっきりとした小さな声だった。
「正直に打ち明けると、僕なしでは生きられないくらいになってくれると、安心なんだよ」
いつの間にか離れていかない、ということでしょう? と、泣きそうな顔で吐露した。
「親しい人は、いつの間にかいなくなってしまう……」
湿った布団の中で、アオさんの手がわたしの手を握る力が強くなった。
いつの間にか、と繰り返す。
「いつでも会えると思っていたのに……まだ、会えるような気もする」
もう会えないという事実だけは知っているけれど、と呟いた。実感がないんだ、と。
「少しだけ、過去の話をしてもいい?」
体を起こそうとすると、アオさんが手伝ってくれた。
ベッドの端に腰かけて、布団を肩にかける。
「僕は長く同じ場所にいないから、すぐに知らせが届くことも珍しいんだ。
親しい人もとても限られているし、連絡先を知っている相手が少ない。
少ないけれど、居たんだ」
いた。過去形。いまは、もう……。
いなくなってしまったと、いうことか。
大切な人だったのだと、まなざしから伝わる。
とつとつと、アオさんは語った。テレビでニュースを読み上げるようキャスターのように、どこか作られたような声音と抑揚の乏しい顔をして。
一度言葉を区切ると目元を大きな手で隠して天井を仰ぐ。もう窓の向こうに月は見えなくなっていた。
淡々と、擦れない声が告げるのは過去の事実。
「君にするような必要の、ない話だったかもしれない」
語り終えると、アオさんにいつもの表情が戻った。
今に焦点を結んだ瞳からは過去も未来も窺うことができない。
「昨日まで、つい数時間前まで普段通りにふるまっていた彼らが突然、もう会えないと知って……ぎりぎり糸を渡るようなところはあった。感じていたはずだった。あの時に振れてしまった理由が、あったのか――
いまとなっては判らないけれど、君にも似たものを感じてしまうんだ」
向けられた瞳は部屋の空気のなかで光を放っていた。
「触れられる相手はもう、数えるほどしかいない……」
親しい相手を作るとまた失ってしまうことが怖いのだと言い切った時、一筋の滴が平らな頬を流れ、顎を離れる前に拭い去られる。
「むしろ僕のほうが、君の枷になってはいない?」
重いと言われたことが何度かあって自覚するところだと、ぎこちなく笑った。
アオさんは、わたしの行動を何も妨げない。代わりとばかりにいつの間にか姿を消していたりすることはあるけれど。
「僕は、君を負担には思っていないよ。
むしろ君のほうが、僕を重荷に感じてはいない?
失うことを恐れるばかりで、君の妨げになってはいない?」
体を傾けると、アオさんの薄い体が受け止めてくれる。
「わたしは、アオさんの傍に在りたい。
アオさんを、失いたくない。
どんな形であれ」
わたし自身の終わりをもってアオさんと離れることも、いまは嫌だ。
「わたしはしばらく、ここにいるつもりです。
だからアオさんは、ここに帰ってきてください。
帰りたいときに、帰ってきてください」
アオさんの意思で。
「それだと、君の逃げる場所がないよ」
冗談なのか、本気なのか。
「アオさんから逃げたいと思うことなんて、わたしにはありません」
きっと、これから先も。
夢の叢
これは夢だと気付いた時、そこは星空の輝く草原だった。不思議と明るい、見渡す限り木の一本も生えていないそこで、幼いわたしは泣いていた。アオさんがいない。駆けまわったのか土を纏った脚は傷だらけだったけれど、痛みは感じない。泣き疲れて眠ってしまって、目を開けたのは寝室のベッドの上だった。まだここは夢。寝室に隣接するリビングの窓のところにアオさんがいる。向こうを向いたアオさんの肩に手を伸ばすと背後から伸びてきた腕に引き寄せられた。それはアオさんの熱を内包していた。目の前に座っていたはずのアオさんが、背後にいる。夢の中なのだから、何が起こっても不思議ではないはずだけれど。上にあるはずの顔を仰ごうとしても長い髪に陰をかけられてその表情は全く見えない。照明をつけていない、窓から差し込む自然光だけに照らされた室内は薄暗かった。
薄く目を開けると壁が見えた。体が横を向いている。背に感じる熱の形は間違いなくアオさんのもの。首に回された骨のような細い腕がそれを確信に至らせる。アオさんは掛け布団の上に横になっていた。わたしがベッドに入った時にはまだ帰宅していなかったから、もしかしたら遅くに帰って疲れていたのかもしれない。
起こさないようにと神経を払って体の向きを変えると、アオさんと至近距離で目があってしまう。
「起こしてしまった?」
目元を拭われる。どうやらまだ乾いていない涙の痕があったみたい。
細い鎖骨に額を当てれば、心臓の音が聞こえる気がする。
それを身を寄せたと解釈したのか。
「寒いかな?」
骨のような指がわたしの髪を掬う。
「……おかえりなさい」
吐息が胸に掛かったのか、くすぐったそうに笑う音がした。
「ただいま。
さっき帰ってきたところなのだけど、うたたねしちゃったね」
ぽんぽんと後頭部に柔らかい衝撃を感じたと思えば、アオさんの影は離れていった。
この時間だと朝帰り、というのだろうか。
「夜食を食べてくる」
キッチンの照明がつけられると、間もなく油の跳ねる音が聞こえ始める。
おなかがすいているわけでは無い。時計へ目をやると、もう少しで夜が明ける。
アオさんが調理している横で、テーブルに突っ伏した。いまは少しでも傍にいたかった。
「ミルクでも飲む?」
肩にブランケットがかけられた。
寝ぼけ眼でぼんやりしていたからびっくりして、肩を跳ねさせてしまう。
「……練乳入りを」
「うんと甘いのを用意するね」
楽しそうな声が離れていく。皿を出す音がして、ミルクパンをコンロに置いた音もする。
音から鮮明にその動作が想像できるくらいには、アオさんのことをよく見ていた。
テーブルにおいしそうなにおいがやってきた。冷凍野菜を閉じ込んだオムレツと、バターを塗った食パンかな。
椅子を引いて、アオさんが対面に座る音がする。
顔を上げると、目の前に黄みが勝った白いカップがあった。
横から朝日が刺してくる。
「夜明け――」
目を細めると太陽の熱を額に感じる。
「明けちゃった。この後は寝直す?」
朝ご飯もすぐに用意できるけど、とアオさんは言うけれど、いまは食欲がなかった。
「散歩に、出かけたい……」
記憶のどこかに引っかかっている草原の姿を探しに行きたいと、思い立つ。
「ついて行っても大丈夫?」
口をつけたホットミルクは、めまいがするほど甘くて、やけどするほど熱かった。
頷いてから、冷たい牛乳をもってきて薄める。
「昼まで帰らないなら、サンドウィッチも用意できるけど」
「日が暮れてから、帰ってきます」
きょうはずっと外にいたい。
着替えるために、寝室に戻る。
「出かけるときに声をかけてね」
玄関にかけてある鞄、その中身の他に必要なものは……。
押し入れの奥にしまってあったデジタルカメラを何とはなしにだしてきて、バッテリーを充電しておく。
「写真、撮るの?」
「……必要な時には」
眩い白
夜明けは鳥の声とともにやってくる。さっき日が暮れたと思ったらいつの間にか朝になっているような短い一日がやってきた。この時期は昼は温かいくせに日が暮れるとすぐに寒くなる。昼間に合わせて薄着で家を出たばっかりに、あたりが街灯に照らされる時間に帰路につくことになってしまったいまはとても寒い。冷え性だから指先は冷たくて自分の顔に触れるのも厭わしい。帰ったら温かいお茶を飲もうと決心しながら見上げた空には光があった。
高い建物に視界を遮られて光の正体を見失う。見間違いかと急ぎ足で建物の間を抜けてから空を見上げれば、ほとんど真上に正円の白があった。雲一つない空に星の輝きは少ない。近すぎる真円に隠されているんだと中学生の頃に授業で習った星の知識を思い出す。
見上げて歩くわたしへ目を向ける人がいるけれど、人通りは少ないからぶつかろうとしなければ接触することもない。足元をまともに確認せずにふらふらと時々フェンスに足や手をこすりながら歩いて、枝の向こうに浮かぶ月を見上げて思い出すのはアオさんの言葉。
「月が、きれいですね……」
アオさんと出会ったあの日はまだ明るいうちから月が浮かんでいた。きょうも私が見ていなかっただけでもしかしたら、日暮れ前から低い位置に顔を出していたのかもしれない。
「“前を向きなよ”」
通りかかった声は誰のものだろう。
音の方向を意識すると、わたしへ向けられていた気がする。
目線を下げれば数人がバラバラに帰路についている姿が見える。
あのうちの誰かが言ったのか、気のせいだったのか。
まだ帰らない様子で公園の花壇へ腰掛けた人たちもいる。
「“上向いてちゃ、うまく歩けない”」
声の方を振り向けば、街灯に後ろから照らされる人がいた。顔はよく見えない。肩にかかる髪は不思議な色に輝いていた。どこかで聞いた声と、記憶にない背格好。
正体を尋ねようとして口を開きかけはしたけれど。近付いてくるから言葉にできなかった。
「暗いから、“足元に気をつけて”」
わたしの横を通り過ぎて、声の主は駅の方向へ姿を消す。すれ違いざまに光った瞳は暗かった。
その後ろ姿はアオさんより小さくて、どこか似た影を残していく。
ふと記憶の奥に居たクラスメイトのことを思い出す。彼はいま、どうしているのだろう。
あれが彼だったとか、はたしてそんな偶然があるものだろうか。
一体いまのあれは誰だったのだろう。
どうしてわたしに、声をかけていったのだろう。
棚の本
アオさんが本を読んでいた。書店の紙カバーがかかった文庫本。半ば以上に文庫本の詰まった書棚に寄りかかって床に座り、膝の上に置いた本のページをめくっていた。始め、わたしが留守をしている間にどこからか調達してきた本を読み終わると部屋の隅に重ねてゆくから、それを収めるために組み立てた書棚だった。一緒にいる時間が増えて、アオさんが静かに文字を追う姿も見慣れてきた。話しかけても普段通りに返してくれるのだけれど、邪魔をしてはいけない気がして、それでも隣に座ることは許してほしい。温かさが恋しかった。
「何を、読んでいますか?」
アオさんは顔を上げて、本の扉を見せてくれる。
どうやら海外の著作のようだった。
タイトルの下に英語ではないアルファベットの表記がある。おそらく原題と、著者。
「……面白いですか?」
「面白いよ。
全く意味が解らない」
「それなのに、面白い、ですか?」
「僕には理解できない価値観の視点で論じているから、とても興味深い。
理解は露ほどもできないけれど、そんな視点もアリなのかと僕の視界を圧し広げてくれるの」
パタンと音を立てて本を閉じてしまう。まだ残り数十ページはめくられていないような気がした。
読書の邪魔をしてしまっただろうか。
「読み終わりましたか?」
「もう、3度目だからね。
今回の分は、最後まで読んではいないけれど」
よく見たら棚に並べられた文庫本の間に1冊分の隙間のあるところがあった。アオさんはそこへ今しがた閉じた本を差し込む。
「お茶にしよう」
頭にかるく乗せられた手が温かい。左右に動いてわたしの髪を乱す。アオさんは意味のないこの行為をたまにする。曰く気分転換らしい。
「紅茶と……マドレーヌでいい?」
大きな手が離れると名残惜しいのはどうしてだろう。
アオさんはキッチンに立ってやかんをコンロの火にかける。
「ケーキがいいです」
マドレーヌはアオさんが今朝作っていたもの。数日前にもパウンドケーキを作っていた気がするけれど、ここ最近お菓子作りが頻繁な気がするのは単なる趣味か、なにか気分転換でもしたいことがあったのだろうか。
「生クリーム、いる?」
わたしの要望に従って棚から紙袋に入ったケーキを出して、切り分ける。
「紅茶に入れたいです」
卓についてアオさんの背を見つめると、髪の流れが少し乱れているのに気が付いた。珍しい。
背後に立って手を伸ばすと、触れる前にアオさんが横へ飛んだ。遅れて重力を思い出すしなやかな髪が急な動きに驚いて引いたわたしの手を叩いた。
茶葉を量ろうとしていたアオさんの手にはスプーンがある。
「……どうか、した?」
傾げられた首に追従して細い髪が少し宙を遊ぶ。
「驚かせてしまいましたか?」
「ごめんなさい。僕のほうこそ、急に動いてしまって」
日を置いてバターが馴染んだパウンドケーキに添えられたドライフルーツは、中に混ぜ込まれているのとおなじもの。レーズンとカシューナッツにオレンジピールくらいしかわたしには判らないけれど。アオさんには何かこだわりがあるみたいで、少なくなるとどこかで同じものを調達してくる。
「……おいしそうですね」
「おいしくなかったこと、ある?」
「もちろん、記憶にありません」
温かい紅茶は体を温めてくれる。ミルク無しでも甘くて心地いい。ほのかな渋みがドライフルーツの香りを引きたててくれる。
それでもわたしはやっぱり牛乳を入れて、舌触りを滑らかにしたミルクティのほうが好きだった。
「あますぎない?」
砂糖を流しいれるとアオさんが胸を抑える。胸焼けしそう、と聞こえるようだった。
「このくらいが、丁度いいんです」
迷い人
アオさん、どこですか
目が覚めるとアオさんの温もりは無かった。布団には自分の熱しかない。
どこへ行くとも昨日は聞いていない。
リビングのテーブルの上にも、玄関のコルクボードにも、寝室のカレンダーにも、書置きはない。
鍵のかけられた窓越しにベランダの植物を見やると、朝の水やりは終えていた。
玄関に、わたしのものよりも大きな足に馴染んだ、見慣れた靴はない。
朝食は終えたらしく、洗われた食器が水きりカゴに裏返されている。そこにアオさん愛用のコーヒーカップはあるけれど、挽きたてのコーヒー豆の香りはしない。少なくとも今朝はコーヒーを飲んで、それから時間が経っているということ。
玄関から外に出ると見慣れた外廊下。手すりのむこうには4階分の高さがある。見える範囲に求める姿はない。
踏み外さないように慎重に、けれど急いで階段を下りて、辺りを見回しても当然のこと、手掛かりはなかった。
春の朝
手を伸ばすと指先が触れる背中は平らで、目を閉じていれば壁だろうと思った。顔をあげると玻璃の瞳を見つけてしまって、咄嗟に腕を引く。引ききる前に手首が温かい手のひらで包まれて、それ以上離れることを許されなかった。
「おはよう」
かすれた声は寝起きだからなのか、今は冬だから季節柄部屋が乾燥しているせいか。
頷きで応答すると、吊り上がった口角を確認する前にあたたかな胸に引き寄せられてしまう。
「寒いんですか?」
視界はふさがれているから手探りで羽毛布団を引き寄せて、アオさんの薄い肩を下に隠す。
「あったかいね」
それが布団のことなのか、気温のことなのか、よくわからない。
「さすがに布団の中では冷たくない」
どうやらわたしのことらしい。
冷え性だから空気が冷たいと指先も冷えてしまう。
「もう少し、寝ていてもいいかな」
いまは平日の朝、もう陽の出ている時間。
「今日、予定はないですか?」
「あなたより遅いから平気」
そう言うなり規則正しい呼吸音が頭上から聞こえてきた。
昨晩も遅かったし、予定が迫っているわけでもないのなら、まだこうしていても大丈夫。
わたしは一足先に朝食の用意をしようかとも考えたけれど、アオさんの腕から逃げられなくて、諦めた。
暗い朝
正式に同居を始めてから、わたしが帰宅したときにアオさんの気配がないのは珍しいことだった。普段から家に籠っているというわけではないけれど、どこかへ出かけてもわたしよりも早く帰宅していることが多かった。遅くなるとも聞いていないし、靴はきれいに揃えて玄関にあるから外出中というわけでもないらしい。
リビングにも姿は無かった。コーヒーの匂いも薄いから、今日はおやつの時間に淹れていないんだろう。静かに和室を覗くと、背を丸めた姿がベッドと壁の間の影にあった。広がる髪は雨上がりの蒼穹を映して輝く水たまりに似て、窓から差し込む光を溜めている。それを歪めないようにそっと近づいて顔の近くに耳を向ければ、規則的な呼吸の音が聞こえた。顔を隠す細い腕に軽く触れれば熱も感じる。とりあえず生存を確認して、部屋は肌寒かったから薄い毛布を掛けておく。
二人分の夕食を用意して、わたしがお風呂から上がってもアオさんが起きる気配はなかった。
実はお腹はあまり空いていない。一人で食べる気にもなれなくて、食べずに寝てしまうことにする。
冷蔵庫へしまっておいて、あしたの朝食にでもすればいい。
畳に横になっているアオさんの平らかな背中が無防備にさらされている。毛布は暑かったのか、脇によけられていた。
アオさんを下に残してベッドに一人眠る気にもなれなくて、スペースを作ってから背中側に横になってみた。ベッドは簡易的なものだから少し押せばわたしの力でも動かすことができる。
少し寒いのでベッドの上から布団を引っ張り下ろす。アオさんの広い肩が目の前にある。間近で見ればただ細いだけではなく、引き締まっている体がよく分かった。細い首から床へ流れる腰のある髪は僅かな凹凸に反応して滝のようにうねっている。間近で見やれば呼吸の度に微かに動く背中だけが命を主張していて、手足はピクリともしない。長時間同じ姿勢をしていると血流が妨げられて何か良くなかったような気がするけれど、痛くはないのだろうか。触れてしまうと眠りを妨げてしまいそうで、手をのばすことはできない。普段は入眠が遅くて充分な休息になっていない気がするから、休めるときに休んでおいてほしい。
顔を近づけるとアオさんの匂いがした。静謐な森を流れる清水のように、どこか安心感を覚える。
眺めいるうちに、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
うっすら目を開けると、アオさんの体がこちらへ向いていた。
いつもなら窓から差し込む光に照らされて部屋は明るいのに……と思ったら、部屋は明るいんだ。わたしとアオさんがベッドの影にいるから光が届かないんだと気付いた。
アオさんの寝顔は苦しそうだった。声をかけても大丈夫だろうか。
肌寒くて無意識に布団を引き上げたら、反射的にアオさんのまぶたが持ち上げられた。
「……だいじょうぶ、ですか?」
何度か強く瞬いてから、そっと手が伸びてきて、わたしの頬に触れる。
「アオさん?」
顔が近付いてきて、かと思ったら首元に顔を埋められた。
暖かいなと感じてから、濡れていくシャツに気付いた。
輪郭を確かめるように頬から首をなぞって肩に下りた大きな手は小刻みに震えている。
「寒い……ですか?」
理由は他にあるだろうけれど、咄嗟に出るのはそんな言葉だけだった。
布団を持ち上げてアオさんとわたしをひとつにくるむ。そのまま手を背に回してみる。抵抗はされなかったからそのまま広い背を均すように撫でてみれば、アオさんの熱が手に移ってくる。
「温かい……ですね」
何かが耳に届いた。
鎖骨に触れた額が左右に揺られる。
「くすぐったい……」
頭が離れていくと表情が窺える。
アオさんの目元が赤らんでいるのは、泣いていたのか、寝起きだからか。
「……ごめんね」
「何が、ですか?」
口が横に伸びるのは、アオさんの自然な笑顔だ。
「ありがとう」
アオさんは言い残して布団から抜け出す。
「あ、朝ご飯……」
立ち上がって手でひと掻きすれば、寝起きだというのに癖ひとつついていない髪が一つに収斂されていく。多くの滴が川となり大河に集まるよう、束になって肩から腰へと流れ落ちた。
「用意するよ」
「昨日、つくった分が」
「冷蔵庫の中? 温めるね」
まだ寝ていてと言われても昨日は夜早かったし、もう眠くはなかった。
「ちょっと、早いですけど」
布団をベッドの上に広げて、わたしもリビングに出た。
「そうだ……、おはよう」
おかずを温めながらコーヒーの用意をしているいい香りがキッチンから漂う。
「おはよう、ございます。好い朝ですね」
とても気分がいいのは、外が晴れているからかもしれない。
彩の館
商店街の中にある地域で親しまれている花屋の存在に気付いたのは、気まぐれに普段は歩かない道を探索していた時だった。店の前は売り物の生花であふれているものの、せり出したひさしや窓の周囲にぶら下がるスワッグは作成見本と装飾を兼ねた非売品らしいとあとになってきく。
外の光を建物の中へ取り込む大きな窓が通りに面しており、覗うことのできる範囲だけでも乾いた花に囲まれて切花や鉢物が並んでいる。作業台とレジを兼ねているらしい広いカウンターに、今は人の姿がなかった。店名の書かれたガラスの嵌ったドアには「OPEN」のプレートが掛けられている。気まぐれに扉を引くと、外からは窺い知れなかった窓の脇に、花に紛れる人影があった。
「めずらしいお客さんだ」
その人影は見間違いではなく、肌や纏うものへ花の色を写して静かに佇んでいた。
陽光を避けるように窓枠と化した乾いた花や枝の陰に入って店の外へ視線を向けていたその人は、アオさんだった。
よく見れば華奢な線の椅子へ腰をかけていたらしい。
側に寄ると不思議な香りがした
「ここで、働いていたんですか?」
「知り合いに、留守を頼まれただけ」
立ち上がってカウンターの中へ入ると、「いらっしゃい」と店主のフリをする。
「何か、探しにきたの?」
ただ引かれるように入ってきてしまったけれど、何も目当てのものはなかった。
まさかこの場所で見かけるとは思っていなかったから、少し驚いてしまって、何も応えることができない。
「ここは……」
「マルさんのお店。
きっとすぐに帰ってくるけれど、今は配達に行っているよ」
近い月
アパートの前を歩く人は例年よりまばらだけれど、日中の公園には比較的若い世代の姿が見られるような不思議な年の4月の始め。今日はもしかしたら小学校の入学式とかがあったのかもしれない。昼前にベランダから見下ろした道には真新しいランドセル姿の少年少女の姿があった。
部屋の中が寒くて、陽の当たる窓に背をあてて暖を取っていた。仕事はしばらく自宅待機していなさいとのことで、連絡がないか端末を傍らに置いて、かといって何もやりたいことがなくてぼんやりとしていたら、気付けば夕方になっていた。左の空が熟れかけのミカンのような半端な橙色になっている。そういえばと、右側に視線を移すと満月が光っていた。さきほどまで顔を見せていた太陽と似たような暖色で、周囲の星を隠している。
手をのばしたらつかめるかもしれない。そんな気がして腕を持ち上げたけれど、ベランダの壁に指先を擦るだけだった。
……届くはずがないか。
「月が、キレイですね」
だれもきいていないはずだった。
ここにいるわたし以外に、同じ月を眺めてキレイだと感じる人はどれほどいるのだろうか。
「今日の月は、年に一度の特別なものらしいよ」
声に驚いて振り向くと、アオさんがいた。
いつの間に外から帰ってきたのだろう。外の光に慣れた目に室内は見通すことができないけれど、アオさんのシルエットなら間違えようもない。
「……おかえりなさい」
「ただいま」
わたしの左隣に腰を下ろして同じ空を見上げる瞳は、月の光を反射していた。
「今年の中で一番、地球に近いのだって」
空が藍に染まろうとするの妨げて月が周辺を白くしている。
そこだけは侵してはならない禁域のようだ。
内の心
このところ寒かったのに、急に暖かくなった春のある日。教授の都合で、最終コマの講義が少しだけ早く切り上げられた。急用らしくて、事前連絡はなかったから朝アパートを出る時もいつもどおりと言ってきた。同居人のアオさんも今朝はわたしと同じ時間に出かけて、わたしが帰るころにはいるはずと言っていたけれど、おそらくまだ帰宅していないと思う。
わたしは部活動とかに所属していないから、常ならまっすぐアパートへ帰るところ。この日もそうすればよかったのに、何の気なしに脇道に逸れてしまって、今まで知らなかった街並みを眺めることになった。方向感覚の悪さは自負するところだから、このまま家に帰れなかったらどうしようと不安が湧いてくる。用事はないから今日中に帰り着けば問題はないのだから、いざとなれば来た道を引き返していつもの道を改めて帰ることにしよう。
そんなことを考えながら差し掛かった住宅街。申し訳ばかりの土地に公園と名付けたような、人の手に植えられた木が囲う空間があった。
不健康に整えられた生け垣のむこうにブランコとか、わずかばかりの遊具がある。
ブランコの横、木の陰になっているベンチの傍で、細い人が笑っていた。
、話し声が耳に届いた。聞き覚えのある声だと思った。
風にとけるようなその人は、間違えようもない。
ふいに視界に入った影は、わたし自身の手だった。無意識にのばしかけて、何を掴もうとしたのか。指先を見つめても、何も判ることはなかった。
声が途切れる。
改めて白い姿のあったベンチを捉えると、そこには誰もいない。
見間違え、だっただろうか。
晴れた日差しを厭うように陰に身を寄せたベンチにも、踏み固められた地面にも、誰の居た痕跡もない。
この場所に留まる理由はないから、進んでいた方向へ顔を向ける。視線の方向へ足を動かせば、体は前に進んでいく。
無事にアパートへたどり着いた。
「おかえりなさい」
玄関を開けると、白い人が出迎えてくれる。首から腰までを包むシャツの白さが、空気に晒されている腕の青さを際立てているような気がした。
「何か、あった?」
細い膝を畳んでしゃがみ込むと、ただいまも言わずに俯いていたわたしの顔を下から覗き込んで目線を合わせてくる。アオさんは大きいから、しゃがんだ時の目線が一段下に立っている小さなわたしと近い。
水色の瞳から目をそらして部屋にかかっている時計へ目を向ければ、いつもの時間よりも一時間ばかり遅くなっていた。
「すこし、遅かったね」
靴を脱いで、いつもならリビングでアオさんの淹れてくれたお茶を飲むところなのだけれど。なんだかそんな気にはなれなくて、逃げるように寝室のベッドへ直行してしまった。
「疲れてる?」
部屋の入り口に置いた鞄の向きを直しながら、アオさんが声をかけてくれる。風のような心地よいソレは、間違いなく公園で耳にしたアレだった。
一言も発さないで横になったことに罪悪感がある。けれど、どうしようもなかった。
すぐそこにアオさんが膝をついた音がした。節のある手がうつ伏せのわたしの後頭部から背に流れる。それを数度繰り返して、離れていった熱が名残惜しくても今は引き留めないように体に力を籠める。
不意に耳元でささやかれた名前には、さすがに反応せざるを得なかった。
顔を向けると、薄く笑っていた。
窓から差した陽の透ける髪は光のベールのように顔にかかっている。
「……ごめんなさい」
何を謝っているのかは、自分でも判らなかった。
アオさんは困ったように八の字に眉を動かして、それから了承したというように頷き、わたしの髪に指を通して離れていった。
「ごめんなさい……」
どうしてだろう。そうとしか声にはならなかった。
外出着のままシーツを濡らす理由は判らなかったけれど、アオさんはその日、日付が変わるまで寝室へ姿を見せることはなかった。
長い髪
休みの日だから寝かせて欲しいと前日の夜に伝えてあった。瞼のむこうに窓から差し込むやわらかい光を感じる。きっともう昼だ。眼を開けて隣を見ると布団がキレイに整えられていた。もちろんそこには何の姿もない。たまに遊び心でぬいぐるみが寝ていることもあるけれど、この日はそんなことはなかった。
引き戸が開いていて、ベッドに横になったままでもリビングの様子が伺える。たまにこうなっているのは、もしかして向こうからこちらの様子を窺うためかもしれないと思う。聞いてみようか。
ソファのひじ掛けから幾筋かの光が流れていた。きっとアオさんがひじ掛けに頭をのせているんだ。アオさんはいつも、長く癖のない髪を背に流している。動きに合わせて軽やかに舞うそれに手をのばしたくなったのは一度ではない。
そっと布団から抜け出してソファを背後から覗き込むと、活字を追っていた瞳に影がかかってしまって、瞼がおりた。本を閉じるとテーブルの端において、水たまりのようにソファに広がる髪へ枝のような手が置かれたと思えば、ついでこちらへ伸びてくる。触れるかと思って驚いてのけぞると、細い指は背もたれに着地して薄い上半身を起こす支えにした。
「お目覚め?」
昼の光が白い壁に反射して部屋を明るくしている。明るい日陰に輝く木漏れ日のような輝きは空の色を映す瞳だった。
「おはよう、ございます……」
目を細めて笑むとお茶の準備をするねと立って、白い軌跡を残してキッチンへ入った。
朝でも昼寝でも、とりあえず起きたらお茶の時間というのがわたしとアオさんの習慣になっていた。
欠伸をしながら一旦寝室に戻って、コーヒー豆を挽く音が聞こえないなと思いながら寝巻から着替えていると紅茶の香りが漂ってきた。戻ればテーブルに紅茶が用意されている。
「ダージリンですね」
うちにある紅茶の種類くらいは記憶している。その中でカップの中身の香りと色に近いものの名を告げてみた。わたしのカップの前に座ると、アオさんの楽しそうな顔が向かいから見つめてくる。
「飲んでみて」
遠慮なく砂糖と牛乳を入れてぬるくなったものを一口。
「……違う」
いつもの牛乳と砂糖と、飲みなれたものとは違う紅茶の味。もう一口含めば、やっぱり似た種類の、違うものだと思う。これはこれでおいしいけれど、違和感がある。
「茶葉、変えたんですか?」
じゃーんと効果音を口にしながらテーブルの下から出された箱は見慣れないもの。使い切ると同じ商品を買う習慣が二人ともにあったから、知らない商品がこの家にあるのは珍しいことだった。
「貰いものなの」
首を傾げると空の色を吸った髪が緩い曲線を描く。
「お隣さんから、貰いもののお裾分けって、さっき」
尖った人差し指が指す方向の部屋の隣人は。
「シズさん?」
頷けば細い流れが肩から滝のようにこぼれ落ちた。
「慧さんが帰省した時、ご実家から貰ってきたらしい」
それをシズさんが、と。
お隣の慧さんは外で会えば挨拶くらいはするけれど、シズさんが元気な時はあまり訪ねてこない。逆説的に、慧さんが訪ねてきたときはシズさんに何かある時だと判るくらいに。
「おいしい?」
頷く。けれどわたしはいつもの方が好みに合ってる。いつもの牛乳とこれは合わない。
「会ったら伝えておくね」
寝ぼけていた胃が温まる。
さて今日は何をしようか。
飲み終わればカップを片付けてくれる。いつも甘えてばかりだ。
骨の形が重い陶器と柔らかい布を動かし水を纏う様子が脳裏に浮かぶ。それを夢中に見つめた時もあった。
目の前に揺れる繊細な髪の流れは水の跳ねる音と奇妙に調和している。
「そういえば――」
水道の音が止まった。
布巾を固く絞ると、定位置に掛ける。
微かな足音が動き出す。
窺えばすぐそこからアオさんの指が近付いてきていた。
咄嗟に引いてしまう癖はまだ抜けない。
「また、伸びてきたね」
そろそろ切ろうか、とアオさんは言った。
手は引き戻されずに頭に乗る。
首を傾げると肩に乗る髪は時々邪魔に思うけれど、それをどうにかするために何かしようとは思わなかった。
「それとも今回は、伸ばしてみる?」
目の前の人の肩から胸へと流れる細い髪は美しい。わたしのそれも伸びるとこうなるかといえば、そんなはずはないだろうと思える。
否定の意味で首を振った。
「いまからにする?」
思い立ったら吉日、というかいつでも大して予定はないので、この日もやはり予定はなかった。
急に髪がなくなるのはものさみしいけれど、あって良いこともあまりない。後にのばす理由もない。
「お願い、します……」
部屋の真ん中にレジャーシートを敷いて、そこに座る。頭を出すための穴をあけた袋をかぶれば準備完了。
後ろに置いた低いイスには肘から先の肌を露出させたアオさんが座る。
「いつもの感じで、いいんだよね?」
頷くとすぐに櫛を入れられて、さく、さく、と大まかに切られた塊が膝の周囲に落ちてきた。
いつも見ているうつくしいひとの繊細なものとは違い、わたしの一部だったそれは重そうだ。
とと、と細かく鋏が動く。身と一体となった装飾の施された鋏は、細い手指と馴染んでいた。
手の一部のように動く鋏は繊細に移動して、わたしの一部を切断してゆく。
櫛で流れを整えて、熱い手でひと撫でされると終了の合図。
「完成」
正面にある鏡へ目をやると、背後の淡い視線がわたしの後頭部にあった。
「満足度は?」
少し不満げだったから、訊ねてみた。
わたしにはこれといったこだわりがないから、長さはこのこだわりがありそうな人のセンスに任せていた。
「8割」
「低めですね」
「切りすぎたかも」
見える? と手鏡で後頭部を映してくれるけれど、わたしに気になるところはなかった。
「肌は見えてないですよね」
「気に、ならない?」
「気にするのはきっと、アオさんだけです」
理想像を知っているのはこの人だけなのだから、差など他の誰にも解らない。全体のバランスとしては悪くないと思うし。
「そっか」
わたしの一部だった塊たちはくずかごへ放り込まれる。
かぶっていた袋をゆっくりと外して、レジャーシートについた細かなものは粘着シートでとって、あたりに掃除機をかければ後片付けも終了。
頭部に触れてみると首が寒い。
「頭洗ってきなよ」
鋏を布で拭きながら言われて、大人しく浴室に向かったのだけれど。ふと引き返してアオさんの様子を窺う。
「なにか、あった?」
長い髪は広い背に流されて、常より厚みを増して広がっている。
意を決して触らせてほしいと告げてみたら、拍子抜けするほどすんなりと快諾されてしまった。
「お風呂からあがったら、ね」
手を振られて、頷きを返して今度こそ浴室に入った。
頭を洗うとき、髪が無いってこんなに楽なものだったのかと久しぶりに思い出した。
「どうしたの?」
抵抗があるなら無理をしないで、と低い視線が見上げてくる。
いま目の前には、押し入れの中から引っ張り出してきた木製スツールへ腰を下ろしたアオさんがいる。
いつものように重力に引かれるに任せた髪は細く軽そうで、触れると周囲の光を纏って輝く。指を通してみると、まったくひっかかりがない。わたしのものより強く細く、指の流れを誘導されているような気さえする。
「くすぐったい」
そういえば、いつも背に流されている無彩色に近いソレは、稀に束ねられる以外の装いを見た記憶がない。飾るために手入れしているのではないのだろうか。
「どうして、伸ばしているんですか?」
この青い人が存外に抜けていることは知っている。もしかすると、これといった意味は無いのかもしれない。
「切る、きっかけが無くってね」
「邪魔にならないんですか?」
「気にはならないかな」
これだけの量があれば背に重みもあるだろう。
「そのうち切りますか?」
「きっかけがあれば」
「切るときには教えてくださいね」
さて、この綺麗な髪をどうしようか。
流れを取り分けてみて、纏めてみて。あーでもないこーでもないと一人悩んでいると温かい点が手に触れる。
「編むの?」
「うまく、できなくて……」
長い指に手をつままれて、誘導されるように動かすと流れがキレイに分けられた。
「力を抜いて、基本は順番を間違えないように、繰り返すだけ」
見本のように編まれた長いフィッシュボーン。
「――みつあみ、じゃない……」
「基本形、同じよ?」
見よう見まねで手を動かすと出来上がったのは、乱れた流れ。台風の時の川の合流地点の濁流を思わせる不規則なうねり。
「個性的」
「貶してますか」
「貶しているのでなくて、そのままの意味」
アオさんは肩の前に流れを持ってきて、細い指で目の前に掲げて光に透かした。よく見れば皺のある骨のような指と不格好なフィッシュボーンの髪は同じ色をしているから境界があいまいで、一つのまとまりのようにも感じてしまう。
「反対も、同じようにしてもらえる?」
アオさん自身の編んだ整ったほうの編み目を解いて軽く指を通すと、その流れは重力に従って整列する。
「できるか……」
「できなかったら、やり直せばいい」
「……」
また同じように指を動かすけれど、やっぱりアオさんのようには上手くいかない。
「難しい?」
左右それぞれに不規則な流れの毛先をまとめて掌で遊んでいる。
見上げてきた瞳は楽しそうだった。
「そんなに不機嫌にならないで」
そうだ、と言いながら二本に別たれた流れを両側からくるくるとまとめ上げて後頭部で押さえると、部屋を出て行ってしまう。
隣の部屋で引き出しの音がするから何か探しているのか。と思えばパチ、と小さな音がした。
すぐに戻ってきたときには細い首と肩を隠すものが何もなくて、普段以上に顔が小さく見えた。
「どう?」
後頭部を見せるように横へ顔を向けると首の筋が目立つ。
おくれ毛もほとんど無く、長い髪は高い位置に髪留めで固定されていた。
着物にも似合いそうなまとめ髪。
「似合ってるんだ?」
横目でこちらを見てアオさんは笑った。
わたしの頬はたぶん緩んでる。纏うものが部屋着でも、とても素敵な姿だった。
信の証
暖かな陽光が昼を満たし冷ややかな空気が夜にはびこるような、立冬を過ぎた寒い日だった。腕に触れた自身の指先が冷たくて厭わしくて、温かかった飲み物の入っていた空のカップを両手で包む。中身はとっくに胃に落ちて臓腑を温めていた。熱の名残を孕んだ陶器のカップを覗き込めば底に映る歪んだ顔の周りを濁った褐色の液体が丸く縁どっている。
「お替わり、いらない?」
向かいに座る温かい人の提案に、首を振って返答する。
少し開いた窓から冷気が訪ねてくる。冷え性のわたしが風を求めるから、暑がりなアオさんは止めなかった。
軽やかに舞う細い髪だけが風の誘いに応えるけれど、白く細い腕は風が届いても気にしない。
アオさんは自分のカップにだけ湯気の立つ褐色の液体を注ぎ足して、ローテーブルの真ん中に置いた小皿の上に小さなクッキーも追加した。
昨日焼いていったシンプルなクッキーからはバターの香りが漂う。もしかするとオーブンからもまだ残り香が届いているのかもしれなかった。
「何があったのか、聞いてもいい?」
「……言えません」
昼間、わたしは取り乱していた。きょう何があったわけではない。ただ、少し嫌なことを思い出しただけ。
いつもどおり前触れもなく、午後になって訪ねてきたアオさんはそんなわたしを目にしても細い眉を顰めただけで何も言わなかった。ソファの陰にいたわたしへ台所を借りるねと声をかけ当たり前のように食事を用意して、一緒に食べよう、と一言口にした。
温かい食事はこの日はじめて胃に入れたもの。味はよく判らなかったけれど、おいしかったに違いない。
夕食後のお茶の時間。静かな部屋で、温かい飲み物に眠気を呼び起こさせられる。けれどなぜだかこの日の夜は長いのかもしれないと予感した。
睡魔は瞼を引き下ろそうとする。けれどまだ、寝たい気分じゃない。
「言えるときが、来る?」
「……くるといい、です」
言葉にできないものは、いつか何かの手段で表現できる時が来るだろうか。それを目の前にしても正しくそれだと示すことさえ、今のわたしにはできそうもない。
大したことではないけれど、わたしは口にしたくなかった。知られたくないのではなくて、口にするのが嫌だった。自分の声で耳にするのが、嫌だった。
「悩みでも、ある?」
「……これは悩み、なのでしょうか」
「悩みではない、のなら……何に、囚われているんだろう?」
囚われている。何に。
見上げれば少しだけ高い位置に光る双眸があった。暖色の室内灯の色をそのままに反射して蝋燭の灯のように輝く瞳は、眼窩の闇のいちばん深いところからこちらを見定めているようだ。
「過去……?」
記憶は不意に蘇る。まとわりついて身動きが取れなくなる。時を追うごとに改悪されて事実からかけ離れてきた妄想がこの身に絡みつく。それは違うのに。もうわたしの過去は面影でしか残っていない悪夢だ。
「嫌なこと、あった?」
「……嫌?」
「嫌、ではないかもしれない。何か……強い印象が、離れないもの」
あったのかもしれない。過去の蓄積のどこかに、きっかけは必ず在ったはず。けれどそのうちのどれが、本当にわたしの記憶だろう。装飾されていない、あったままのものが残っているだろう。
わたしはわたし自身を信じることができない。この感覚は、果たしてわたしの本当だろうか。
「何か……あったんだね?」
「秘密は誰にも、言ってはいけないんです」
わたしの呟きは誰に言うでもない。自分を諭すように、今までこれを繰り返してきた。
「……だから、秘密と言うのだよね」
遠慮がちに温かい声が返った。
「秘密は、自分で守らなくてはならないんです」
少しでもこぼした瞬間から、自分以外からそれが洩らされる恐怖を余計に抱えなければならない。秘密を共有するなんて、それを秘密ではなくすだけだ。
「抱えすぎて辛くはならない?」
本当は、大した秘密ではないんだ。何でもないことどもでも非難されると後ろめたく感じてしまう自分が嫌だった。否定できない自分がいるから、それはよくないことなのだと思い込んできた。
だからなにも手放せなくなった。他人に心を許して共有しようとすれば、またなにか指摘されるかもしれない。心を許さなければ、この身の内にすべてを隠してしまえば、何も糾弾されることはないだろうと、思い込もうとしてきた。
「僕に分けてもらうことは、できないんだ?」
「この重荷を、抱えたいんですか?」
「それはきっと、たいした重荷にはならない」
わたしの抱えるものは軽いと言われているように聞こえた。
「僕を縛る最たるものは、この体だから」
すでにある重荷に比べたら、些細なものだと言っていた。
それほどまでに、その美しく温かく白い体は厭わしいのか。
「悩みとか、ないんですか?」
その体をさえ縛るものが、この人にはないのだろうか。
「柵は、あるよ」
それ以上に、その不自由な体が厭わしいと言う。
「苦悩は、この体があるから生まれるものだから」
「嫌いですか、その姿」
「いいや。どんな姿であっても関係ない。
この姿が特に厭なわけではないんだ」
「アオさんは、きれいだと、思います」
「……ありがとう」
骨を思い起こさせる手がのびてきて、わたしの頭蓋をなぞる。手に馴染む形だと以前言われた気がする。
室温まで冷えたカップが手の熱を奪っていた。
「あったかい……」
アオさんの手は、やっぱり温かい。
冷たい室内でも、どうしてこんなにも熱を持てるのだろう。
手が離れていった。
熱の軌跡を目で追うと、視線がぶつかってしまう。
穏やかな瞳がこちらを見つめていた。
「来る?」
体の位置をテーブルからずらし、腹の正面を空けて示してくる。
首を傾げると肩からこぼれ落ちた長い髪が床のラグに広がった。
「おいで」
招かれるままに細い脚の間に横向きに嵌りこんで、温かい体に身を寄せてしまう。この位置はなんだか居心地がいい。
触れていいかと訊ねられて頷くと、暖かな腕がわたしの肩を包んだ。
左の肩には僅かな重みを感じる。
「大丈夫」
何が、とは言わない。
背に届くぎりぎりで動く熱がわたしの背を温めてくれる。
「きっと、大丈夫」
この温もりに包まれている間は本当に、大丈夫な気がした。
「無責任かもしれないけれど、きっと大丈夫であれ、と僕は願うよ」
耳元でささやく声は、わたし以外にも向けられている気がした。
もしかしたら、この人自身に。
「願うだけなら、誰にでもできるかもしれない。
君の過去は変えられない。忘れることも、たぶん難しいのだろう。
過去とどう付き合うかは君次第で、僕にはどうにもできない。けれど――」
視界が歪む。どうして。視点が定められない。
息が詰まる。うまく空気が吸いこめない……。
「もし必要なら、傍に在ることだけはできるから」
なぜいま、涙が込み上げてくるのだろう。
大きくて軽い手が肩を優しくさする。
「落ち着いて」
滴が頬を伝って顎から落ちる。アオさんの肩を濡らしてしまう前に拭いたいのに、手は動いてくれない。温かい体に腕の動きを妨げられている。
「押し殺さなくていい」
アオさんは、泣くなと言わなかった。
「なすがままに身を委ねても、いまはそう悪いことにならないから」
背に感じる熱は止まっている。
目の前の肩に額を置くと、湿っていた。
よしよし、と小さな声が聞こえる。小さい子の扱いのような気がするけれど、悪い気はしなかった。
深く息を吸えば仄かなアオさんのにおいがする。コーヒーとバターのにおいは部屋のにおいと同じかもしれない。
わたしの呼吸が落ち着くまで、アオさんはそっと包んでいてくれた。
そっと顔を持ち上げると、至近に薄青い顔がある。覗き込んだ瞳は赤く沈んで見えた。
「落ち着いた?」
頷くと、腕を緩めてくれる。寄りかかるのをやめて、自分で座る。
「秘密は、自分の中に置いておかないといけないんです」
「――君は……僕を、信用できないんだ」
「信用したい、とは思います」
それを自分で口にして気付くのだ。わたしはこの人を信用しきれていないのだと。
目が細められると透き通った虹彩が陰に隠れる。それは、哀しさを反映しているように感じた。こんな表情をさせたくはないのに。
「それを信じるとして。
いまはまだ、信じ切れていないんだね」
「絶対に、洩らさないと保証できますか」
ここで断言するのは簡単だ。けれどそれをわたしは信用できない。とっさに返した言葉にどれほどの重みがあるのだろう。それは本心かもしれないけれど、決意のいらない表面だけのことなのかもしれない。
「寝言でも、酔ったときでも、何かの例えとしてでも。
決して洩らすことはないと、あなたは断言できますか」
「断言したとして、君は信じはしないだろう?」
アオさんは、よく判ってる。
「洩らさないように心掛けるよ。けれど、万が一洩らしてしまった時に、何か償えることもおそらく無い」
「……正直ですね」
「ここは、偽るところでもないでしょう?」
「正直の頭に神宿る、です」
「急に、どうしたの?」
「素敵なあなたに良いことがありますように、です」
「意味なら、知ってるけれど……」
「大した秘密ではないんです」
「教えて、くれるの?」
「……誰にも言わないでください」
「心掛けるけど」
本当に、大したことではないんだ。ただ、少し嫌な記憶がついて回るだけの。
「言いたくないなら、言わなくていい」
ああ、また声が出ない。
「思い出さないでいい」
大きな手が頭に置かれた。照明が遮られて視界が暗くなる。
「無理に、掘り起こさないでいい」
頭を引き寄せられる。見た目に反して柔らかい肩に顔を埋めると、少しだけ落ち着いた。
「本当に、大したことではないのなら」
空気はかすかに揺れて言葉の形を成す。
「こんなに、取り乱さないんじゃない?」
きょうはなんだか不安定みたい。いつもなら、ここまで言葉は詰まらないはずなのに。秘密をたった一つ減らそうとしてるだけなのに、いまはどうしてこんなにもうまくいかないんだろう。
深く息を吸って、背の後ろに立てられた膝に軽くもたれるようにして顔をあげる。わたしの重さを受けても長い腕で体を支えているアオさんの足は倒れなかった。
「わたし、弟がいるんです」
いまは共に暮らしていないし、わたしが高校生だった長くない間だけを同じ屋根の下で過ごした間柄だった。けれどわたしは彼を弟だと思うし、彼もわたしのことを姉と言う。
「お母さんが、よろしくって言ってたのに」
まともに顔を見ることもできずに、今まできてしまった。決して嫌いなわけではないけれど、得意でもなかった。他の人と比べて特に不得手だったわけでもないけれど。
「うまく関わることができなかった、と思うの?」
頷く。
「苦手、だった?」
「嫌いでは、なかったんです」
「たぶん、弟さんも、君のことが嫌いではないだろうね」
思いがけない反応だった。
肩に大きな手が置かれる。
「君がどう接したのかは知らないけれど、嫌悪感というのは伝わるし、好感というのもある程度は、伝わるものだよ」
そうなのだろうか。
そうなのだとして。
わたしはこの人から自分への感情がよく分からなかった。嫌われているのならわざわざ家を訪ねてくるようなこともないだろうけれど、かといって好かれるような何かがあったおぼえもない。
「アオさん」
「ん?」
「わたしのこと、どう思ってますか?」
「好きだよ」
間をおかずに返ってきた反応はとてもはっきりとしていた。けれどその意味はかなり広く解釈ができる。
肩にあった手の凹凸に富んだ指の背で顎の下を押されて、俯いていた顔をあげた。至近で見下ろしてくる瞳は髪の天蓋に透けて雲間の月を連想した。
「家族なら、こんな感じだろうかなって」
「わたしが?」
「そう、君が」
わたしが、この人の家族。
首を横に倒すと、浮き出た鎖骨に当たった。その上に繋がる細い首は柔らかい。
「距離が、違うんだ。他人には許せない距離を、家族には許せる」
この首に手をかけて力を入れたなら、この人はどんな顔をするだろう。
いまわたしの首に触れているこの大きな手に力が込められたなら、苦しくなるだろうか。節の目立つ親指が喉に食い込んだなら、吐き気に似た不快感が込み上げるのだろう。
「他人よりもよほど深く知られていて、ときには自分の一部であるかのように、自然と受け入れられる」
半ば無意識で自分の首に沿わせようとしたわたしの左手に温かい指が絡んでくる。包み込むとそのままわたしの膝へ導かれて、途端に首に寒気を感じた。
「そこにいるのが当然なんだ」
体を支えていた方の腕を伸ばしてソファの端に畳んであったブランケットを引き寄せると、肩にかけてくれる。左手は囚われたままだから右手でブランケットをたぐり寄せて、首を縮めた。
「当然、ですか?」
「近付いても無暗に警戒しなくていいし、離れていても、同じ場所へ帰るからと安心できる」
警戒しないでいい相手だけが家族とは限らないのではないだろうか。
例えば家庭内暴力とか、頻繁にニュースで目にするあの痛ましいとされる事件たちは、“家族”の中で起こっているのではないのだろうか。
「そんな家族の中でも親のように無条件で包むものではなくて、子のように庇うべきものでもない。
だからきょうだい、かな」
兄弟。わたしが、この人の。いやありえない。
この人はわたしの兄でも姉でもないし、弟や妹でもない。わたしの弟はあの一人だけ。
そうでなかったら。もし仮に家族だったとしたら。この人はわたしの……。
「こいびとであれば、と思う時もあるけれど――」
「……いま?」
何か聞き漏らしたような気がする。
口元を見つめて何と言っていたのか記憶から再現しようとしていると、顔が近づいてきて、肩に触れそうな位置で止められた。何かごまかそうとしている気がする。
頬にあたる髪が優しい色をしていて、空に浮かぶ雲を撚ったらこうなるのではないかという気がした。
鼻だろうか、雲色の髪のカーテンの向こうで肩に軽く触れてから離れていった。また見上げる位置に顔が来る。いつも部屋の色を映して青白いのに、いまはほんのり血色がいい気がした。
「いま、何と言いましたか?」
「君はきょうだいみたいな存在だ、と?」
このひとはいま理想の家族像を語っていたのだろうか。それとも、この人自身の?
「兄弟って、どんな感じだと思いますか」
「互いを諫められるんじゃないか、と思うよ。一番利害から離れたところで。僕にはいないから、実感ではないけれど」
実際には知らない、と言っているけれど。わたしがこの人の兄弟だと言うのなら。
「兄弟って、いいものですか?」
それが善いことなのか、煩わしいものなのか。知っておきたい。
「君と弟さん、うまくいっていなかったとしても、互いのことをよく知っているでしょう?
それが善いか悪いかは時と場合に依るよね。
損になることもあるかもしれないけれど、有益なこともきっとあるはずさ」
「煩わしくはない、ですか?」
「少なくとも、煩わしいだけ、ではないよ」
ふ、と視線が逸れた。見かけ上、それはテーブルの上のクッキーに向いている。
「……少しだけ、僕のことを話そうかな」
この人のことは驚くほどに知らない。見惚れる容姿と見かけにそぐわない温度と料理の腕前くらいしか、わたしの知っていることはない。本当の名前すらも、まだ教えられていなかった。
「僕の母は、独り身だった。
未婚のまま僕を産んだらしい。父のことは何も知らない。
あれは何の時だったかな……学校の宿題で、両親のことを聞いてきましょうとか言われた時には困ったけど、意を決して母へ訊ねれば、自慢げに母と僕のことを語ってくれた。その点、僕にとってあの母でよかったのかもしれない。
一時期、母とも別居していたんだ。その間、独身だった叔父の家に厄介になっていた。そこには僕の他に、もう一人子どもが身を寄せていた。その子は今も、僕の姉みたいな存在なのだけど、叔父の子どもではないとかって、ややこしくって。ひとつ屋根の下に、血縁上も書類上も親子や兄弟ではない3人で暮らしていた。そのときは別に家族だとは思わなかったけれど、家族で何かしたような経験に近いのは、あの時のことだった気がする。
今も母とは別居してるけど、この歳だしね……」
「アオさん」
温かい体から頭を離してぼやけた視界で見上げると、遠くを見ていた淡い瞳が降りてくる。
「ん?」
「何歳ですか?」
「いくつに見える?」
「わたしより上、ですよね」
「そうだね。君は……もう成人してる?」
ときどき中学生とか、下手したら小学生と言われたり酒類の購入はレジで止められたりする外見だけれど。
「成人式は出ました」
「そう。
なら、倍までは、いかないってことにしようか」
「……ことにする」
「そこまで重要じゃ、ないから」
「……そうですか」
「知りたい?」
「気になります」
「ならこれは、秘密にしておこう」
「必要になったら、教えてくれますか?」
「必要が出たらね。もちろん」
「アオさんのお母さん、いまどうしてるんですか」
「どこかできっと、生きていると思うよ。
君のほうは?」
「もういません」
わたしの母は一昨年、病気で他界した。
「……聞いてはいけなかったかな」
「問題ない、です。
お母さん、長くないってずっと言っていて、本当にそうだっただけですから」
「……生活は、苦しくない?」
「見てのとおりです」
「それなりに充実していそう、だと、思ってもいいのかな」
「充実していますよ」
贅沢を望まなければ、卒業まではこのアパートで暮らしていられる。その後は、その時までに考える。
「……余計な心配は、しないでくださいね」
「余計?」
「援助は必要ないです」
「そう。なら、僕はこれからも、ご飯を一緒に食べるためにここへ来るよ。
ひとりでは食事も寂しいから」
この人なりの配慮かもしれない。それを拒否することは、わたしにはできなかった。もうこの人無しでは生きられない気がする。
「一人暮らししているんですか?」
「いまは、そうだね。母が帰ってくれば、二人暮らしになるけれど」
「ご飯、おいしいですか?」
「……寂しくなったら叔父の家とか、ここにきているよ」
「寂しい?」
「僕にだって、寂しさを覚えるとき、くらいあるんだよ?」
「家族って、何でしょう」
「一緒にいるべき人、かな」
「アオさんの、一緒にいるべき人、は?」
「ん……母と叔父も、実は血の繋がりがないとかって聞いた時には僕も、家族って何だろうなーって思ったりもした。少なくとも血縁ではない、と。
……今は母と叔父と、姉みたいな人と、あと叔父の子供たちが僕の家族だと思ってる。
いつも一緒にいるわけではないし、一つ屋根の下へ帰るわけでもない。それでもただ無意味に傍にいてもいいかなと、母たちに対しては思えるんだ。
君ともそのうち、なりたいね」
家族。一緒にいるべきと、思う人。
その中でも兄弟のようだと言ってくれた。煩わしいだけの存在ではない、と。
「……深く考えたほうがいいでしょうか」
「軽く考えてほしいかな」
寄せられた眉は、照れているようだった。
「わたしはアオさんとは、一緒にいたい、です」
「無意味にここへ訪ねてきてもいい?」
「いいですよ」
「君は、僕の方へ無意味に訪ねて来られる?」
「……会いたくなったら、訪ねてゆけるかも知れません」
「なら、もう少しでほんとうの家族になれそうだ」
アオさんは細い目を糸のようにして微笑んだ。
「さて」
左手をようやく放してすっかり冷えたカップの中身を飲み切ると、わたしに動くよう促してアオさんは立ち上がった。
「そろそろ寝ようか」
今日は泊まっていくことに決めたらしい。
「その前に、お風呂かな。
一緒に入る?」
咄嗟に全力で拒否するのは仕方がないことだと思ってほしい。
「嫌なんだね。
お湯溜めておくから、先にどうぞ」
クッキーを仕舞いふたつのカップを洗ってから、蒸しタオルを持ってきた。
「よく泣いていたから、目元、腫れないように」
温かいタオルで目元を覆ってソファに横になる。そのまま眠ってしまいそうだ。
本当は、アオさんも一緒に入浴するのに抵抗があることはなんとなくわかってる。その理由までは知らないけれど。
「アオさん」
すぐそこに熱の気配があった。
「そろそろ、窓は閉めるね」
鍵を閉めないのは不用心だとよくわたしへ言うけれど、アオさんも窓の鍵を閉めなかった。
「一緒に寝てほしい、です」
「ちゃんと、朝までは隣にいるよ」
「明日、早いですか?」
「んー……君と一緒に出ようかな」
「わたし、あしたはどこにも行かないつもりなんです」
「そうなんだ?
……なら、昼までいてもいいかな」
「夜はこないですか?」
「来てほしい?」
「……こなくていいです。アオさんの家に帰ってください」
「そろそろ、ここに住んでしまおうかな」
「ダメです」
「そう。……あすは、昼にはお暇するよ。夕方に予定があるから、夜も来ない」
期待していないと言えば嘘になる。けれどこの人にもこの人なりの生活があるはずなのだ。わたしが縛り付けてはいけない。
「寂しそうだね」
「寂しくないです」
「また、近いうちにくるから。きちんとご飯は食べていてね」
遠い雲
暑さが和らいで、寒さが通り魔的に顔を見せる気候になってきた。
見上げる空に浮かぶ雲の端はビルの地平の向こうへ消えていく。
空よりも冷たい色をした肌に触れると、空気と同じくらいの熱を感じた。
「どうかしたの?」
「熱くないですね」
「うん、もう暑い日は、あまりないね」
頭にのせられた手のひらは丸く硬い凹凸がよく分かる。
「寒くないですか?」
室内では肌寒さを感じる時期になっても、この白い人は襟元が大きく開いた服をまとっている。
「暑いくらい」
体温が高いためか、寒さに強いらしかった。
「見ていて寒くなるようなら何か、羽織るけれど……」
「いいです。
熱くなるでしょう?」
「あまり変わらないよ。
変化には、鈍いんだ」
豆の音
暗闇は望んでも訪れない。
こちらから向かおうにも逃げてゆく。
立ち上がらなきゃ
痺れる指を伸ばして腕に力を込めて、体を支えないと。
震える脚を地面に付き立てて進まないと。
「立たなくていい」
まずは起き上がらなきゃ
痛む腕には何の障害ものっていないはずだ。
空気が重い気がするのは体に無駄な力が入っているからだ。
「そのまま横に、なっていて」
カーテンが引かれた。
窓の外へ、風も無いのに舞い上がった。
開いた窓の向こうには、深く澄んだ夜があった。
輪郭を輝かせた月から目をそらしたくて瞼を動かす。
「水は、飲める?」
反応するのも億劫で、指先が痺れた。
膝が曲がろうとする。
瞼の向こうでは冷たい空気のなかを光が舞っている。
額にまだらな熱が触れた。
固い凹凸の目立つそれは覚えのある手のひらだった。
「……平熱かな」
おもむろに熱を帯びてゆく広い掌は少し湿っていた。
冷たい水に触れて熱がとれたようだった。
「ゆっくり、息を吸って」
手が少し動いて、視界を暗くした。
「落ち着いて。
口から息を吐ける?」
食いしばった顎が痛かった。
うまく口を開けない。
「……とりあえず、歯を食いしばるの、やめようか」
首の後ろに手が添えられた。呼吸が少し楽になった。
「すこし、布団をずらすね」
布団の中に籠っていた湿気が逃げた。
胸の上の重みが減った。
「腕、触るよ」
右の二の腕に、布越しの熱が触れた。
「手は動かせる?」
動かせるはずなのに、強張っている。
「横向きになれるかな……」
「動かすね」
告げてから、体の向きを変えられる。
背に触れるものがあった。
クマのぬいぐるみのような気がした。わたしに潰されて痛くはないだろうか。
布団を戻されて、首まですぽりと影に覆われる。
「平気になったら、起きてもいい。
いまは寝ていなよ」
肩が心地よい熱で覆われた。
「無理をしないで。
いまは何も考えてはいけない」
「……――」
掠れた空気が鼻から抜ける。
緩んだ噛み合わせが打ち合った。
「そこにいなさい」
「何かおいしいものを用意するから」
「匂いとか音、大丈夫?」
月に見られている。
「窓閉めようか……。
いや……、風、あったほうがいいかな」
わたしは閉じた空気が苦手だ。
狭く近い場所の中だけで反響する音に潰されそうになる。
よほどの雨風でなければ、窓はいつも開いていた。
「雨が降りそうだから、雨戸は閉めておくけれど、窓を開けておくね」
少しの足音と金属同士の擦れる音がした。
「雷雲が、もうそこまできてる」
低い雷鳴が建物を揺らした。
「……ごめんなさい」
涙がこぼれた。
「温かいものを食べよう」
雨の音が熱を奪ってゆく。
「内側から温まれば、血が巡って頭も回る」
固い親指が眼窩のふちをなぞった。涙の痕を辿ったみたいだ。
髪を梳く指が熱を分けてくれる。
「いまは休んで」
姿の見えない列車の音が誰かの足を止めている。
とりとめのない思考は常より飛躍している気がする。
「――あり、がとう」
コーヒー豆の匂いが鼻に届いた。
「コーヒー……」
「いまはダメだよ。
チョコレートなら用意する」
「のまない、けど……」
「ん?」
「音が……」
「ミルの音かな?」
頭にもやがかかったような不思議な気分。
これはそう、眠気だ。
喉が湿ってろれつが回らない。
「いまは我慢。明日の朝にでも聞けるだろうよ」
カラスが夜を連れていく。
その日、用意してくれた食事に手をつけることはできなかった。
よく眠っていたから起こさなかったらしい。
翌朝、コーヒー豆を挽く音が耳に届いたのを自覚すると、目が覚めた。
庭木から小鳥が枝を移る音がした。
隣に寝ていたクマのぬいぐるみは冷たい。
布団を抜け出して、思い通りに動く足で床を踏みしめてキッチンを覗く。
昨晩の月より白い瞳がこちらへ向いた。
「おはよう」
「おはようございます。
いい音ですね」
「きょうの一杯はきっとおいしいよ」
「いつもおいしいですよ」
「それは……ありがとう」
喪い想う
「あなたが死んでも、わたしはそれを悲しめないかもしれない」
「唐突に寂しいことを言わないで」
洩れた呟きへ被り気味で返った反応は強い語調だった。
淹れたてのコーヒーの泡がパチパチと弾ける音が耳に届くくらいの静寂が生まれた。
少しだけ開いた窓から風が無言で入ってきてわたしたちを遠巻きに眺めると換気扇から出ていった。
深く静かな闇の夢を見た。黒い衣装の人の群が滞留した広間には白い布の掛かった木箱の中に白い衣装を纏わされた人が在った。
流れて止まない空のようだと常は感じていたその人が、凍った湖のようにしいんと凪いでいた。
わたしはそこへ近付こうとしなかった。離れようともしなかった。停滞しているように見えてその実複雑に動き続けているその流れに呑まれないようにとその場に根を張っていることが精いっぱいだった。
あの滞留にはすすり泣く人がいた。ただ仕事をこなす人もいた。常に笑顔を絶やさない人がその場では口角を持ち上げていなかった。面識のない人も見知った人も一様に黒い衣装で身を包み、白い人の話をしていた。
わたしはどうしてここにいるのだろうと考えようとして、それが夢のなかであると気付いた。そうしてすぐに耳は現実の音を拾って、軽快な粉砕音の発生源が現実だと確信するためにまぶたを持ち上げた。汗で湿った布団が重く体を押さえつけていた。隣にはぬいぐるみのクマが寝間着に身を包んで横たわっていた。クマは自分で動かない。けれどこれをしたのはわたしではない。それはあの人が身代わりに置いていったものだろうと思った。では本体はいずこかと、体勢を変えて居間の方を覗えば手動ミルのレバーを一定の速さで回し続ける節くれだった手指が壁の端から覗いていたから、これは確かに現実の音だと思った。
みぞおちのあたりがこわばって痛い。涙が目尻に張り付いて落ちまいと耐えていた。
目尻をこすって瞼をおろしても夢の続きは始まらない。
わたしはあの場所で、ちっとも悲しんでいなかった。想い出話も悼む言葉も何一つ浮かばなかった。ただそこに居たくなくて、けれど去ることもできずただそこに佇んでぼんやりと黒い流れを眺めていた。現実にその場に居たとしても変わらないだろう。そもそもあれだけの人波に呑まれることを怖れあのような催しには赴かないだろうとも思う。
夢の続きへの未練に後ろ髪を引かれつつ漂ってきた甘い珈琲臭の元を訪ねると屋内でも空を思わせるその人がなれた手つきでコーヒーを抽出していた。
おはようを告げるために開いた口からは悲しみの告解が洩れた。
わたしの表面に出る言葉の断片が唐突なのは今に始まったことではないけれど、気持ちの良い晴れ間が広がりそうな日の朝一番としてこれほど不穏なものは不適だっただろう。不謹慎だったと謝ろうとしても伏せられたまつげの向こうに隠れた氷河の底の氷のように澄んだ瞳はわたしを見てはくれなかった。
「君に悲しんでもらえないことが寂しいわけではない。そこは思い違いをしないでほしい」
言い訳のような補足でわたしとその人との間に築かれていない共通認識を組み立てようとしている。
このひとはわたしの寝起きの戯言を真剣に受け止めてくれた。それはなんだかうれしかった。
「それよりも、君が僕の死を悲しみたい、と言ってくれたことを嬉しく思う」
コーヒーの湯気が部屋中に匂いを届けに散っていく。
甘い香りのきょうのコーヒーはわたしが好む銘柄だ。そのままだと渋くて酸っぱくてわたしの好みには合わないけれど、砂糖をまぜると不思議と飲みやすくなる。アオさんはあまり砂糖を使わないけれど、わたしへ供するときにはたっぷりの砂糖と牛乳も添えてくれる。
「今朝のコーヒー、飲むかな? うまく淹れられたんだ」
わたしが頷くのを確認すると、わたしとアオさんのカップに注ぎ分けてテーブルまで運んだ。砂糖はテーブルの上にすでに置いてあった。
アオさんは器具を洗ってしまうためにシンクの前に立って、長い髪を手首に巻いていた組紐で後頭部に括った。
水道の蛇口をひねる前にシンクの縁に手をついて、わたしのカップへ目線を向けた。
「君が僕の死に遭うということは、僕が君を看取れないということ」
わたしはこの人よりも自分のほうが早く最期を迎えるとは考えられなかった。きっとこの人がいなくなった世界でも変わらず日々を過ごすのだろうとぼんやり思い込んでいた。だからそこに疑問を持たなかった。けれどこの人は逆なのか。
「僕は君を看取りたい
君に未練を残して先に死にたくはない」
「未練を持つの、誰ですか?」
「この場合は僕だね。君にも残るのかどうかは僕の知るところではないから」
一瞬だけわたしの方へ向けられた眼差しはすぐにそれていった。痩けた頬にカーテンの隙間から差し込んだ朝の陽が血色を装っている。
「寂しいというのはだから、僕は君より後に死にたいということだ。
喪失を抱えるのは寂しい。これは僕の利己的な考えではあるけれど、君にもあまり抱えてほしくはない」
わたしが喪失を抱えて身動きが取れなくなるような人だとこの人は思っているのだろうか。
「君が僕の死を悲しめないとしても、そのことについて落胆したり批難したりといったことを僕はしない。
……僕は、親しいはずの人を亡くしたとき悲しむことができなかった。その友人とは誰よりも近しかったという自負があった。
その人の最期を見届けることはできなかったから、おわりの実感が持てなかったのかもしれない。今もどこかで生きているんじゃないかと考えがよぎることもある。それはけれど生きていてほしいと願うわけではない。
焼いた骨にはこの手で触れた。間違いなくあの人だった。それでも。その想いを悲しいと形容するのは何だか違うと思えた。悲しさが振り切っているとかではなくて、それは違う方向の感情だと思われた。
やっと見つけられたんだ、と。この人は納まるべき場所に出会えたんだ、と……むしろ喜んだかもしれない。探しものを無事に見つけた結果が、その人には終わりを伴った。たまたまそうだった。
だから残ったものへ悲しむことを強要するのは筋が違うと思う。」
蛇口から水滴が落ちた。思い出したように長い指が蛇口の栓を開いた。
「それこそ自身の死後のことなのだから実際に観測することはできないのだし、気にしても意味はないだろう。
何を思ってもいいし、何も思わなくてもいい」
ガラスと陶器に付いた赤黒い液体と茶褐色の粒子が薄まり流れて排水口へ落ちていく。
「確かに、再び生身で会うことは叶わなくなったかもしれない。けれどその人と在った僕の記憶は消えないし、それは悪いものではなかった。」
長い髪に隠されていない口角が持ち上げられたのがはっきりと判った。
大きな手に持った布巾で拭われるガラス器具がリンリンと小さな抵抗音を発した。
洗い終わった器具はシンク脇の定位置へ寝かされた。
カップに注がれた赤茶色のコーヒーはまだ湯気を立ち上らせている。部屋の境で突っ立っていたわたしは長い腕で椅子へ誘導された。アオさんは斜向かいへ掛けた。
「僕もおそらく、君に最期のときが来ても悲しみを抱くことはできないと思う。
君のいない寂しさは感じるだろうけれど、失くしたというより離れたような感覚かな。
……薄情だろうか」
アオさんはぬるくなっていそうなカップを両手で包んだ。
「悲しまないでください」
死を悲しむというのは、わたしもなんだか違う気がした。
「生き物の死は必ず有るものです。死が無ければそれは生きていない。
どうやって死ぬかは選ぶことができても、死なないことは選べません。産まれることを選べなかったように。」
「君は選べるなら、生まれたくなかったのかい?」
普段は髪に隠されて存在すら伺わせない光る眉が大きく持ち上げられて引き絞った弓のような弧を描いた。
「……どうして?」
唐突な問だと感じた。
「そう、聞こえたから」
たしかにそう取ることもできた発言だったかもしれない。
「仮定の話は意味がない」
「意味のないことを、してはいけない?」
「いいえ」
「なら、君の答えが聞きたい」
「……生まれなければ、こうして考えることもなかった」
「考えたく、なかった?」
「いいえ」
「生まれたかった?」
「わかりません。
けれどこうして考える機会がなければ、選択肢さえも生まれない。わたしは生まれたくないという選択肢を知らなかったし、母はわたしを産むことを選択した。その一致があって、わたしは生まれて、ここに在る。
それは少なくとも間違いではなかったんだと思います。最適解だったのかはわからないけれど」
「僕も君に出会えたから、それが間違いでないと嬉しいよ」
薄くなった湯気を見下ろすと寝起きの顔がカップに浮かんでいた。
「……顔を洗ってきます」
「いってらっしゃい」
背にかけられた声はいつかわたしの耳に届かなくなるのだろうけれど、いまはまだそこに在る。
できるだけ長く傍に在ってほしいとわたしはなにかへ祈った。
ある明け方の独白
瞼の裏には心臓の動きが刻まれている。
眼球を動かしても薄い皮膚に定位置へと押し戻されてしまう。
意識ははっきりとしても、まだ動きだしたくないような気がした。
両手は腹の上で呼吸に合わせて上下している。
背中はベッドに押し付けられて余計な熱を持っている。
膝が重い布団に潰されて軋むのに位置を変えることさえ億劫だ。足の指先も丸まって、足首が伸びているのを感じた。
重い肉の塊がそこに在る。熱を生み出して腐敗に抗する生命の器が。
その器に収まる自分には果たしてどのような価値があるのだろうか。
瞼を持ち上げればすぐそこに天井があるはずだった。
しかしソコには何もない。夜は世界の把握を困難にする。
カーテンの隙間から差し込んだ僅かな光が照明の位置だけを明らかにした。
手を動かせば払いのけられるはずの布団がいまはとても重く感じる。
それはわたしをこの場所へ留めるための錘だった。
時間帯に気を払った隣人の足音がかすかに体を揺らす。
階下から聞こえる太いいびきの主には自覚があるだろうか。
わたしが動かないでいる時間にも、確かに生活を営む者たちがいるのだ。
まだ鳥の声も聞こえないうちに、車両の音が近づいてきて遠ざかる。
風が枝葉の間を通って窓の隙間を抜けてきた。
ろれつの回りきらない声がその場にいない相手と会話している。通話しながら歩いているようだ。帰路だろうか、どこか別の目的地への往路だろうか。
自分以外誰もいない室内に規則的に響く時計の秒針の音。
目覚まし時計が鳴ろうと一呼吸入れたところで音をオフにする。
メトロノームのように規則的な緩いリズムを反芻していると、不意に歌いだした隣人たちの控えめな声が唱和した。
そろそろ朝か。
原付バイクのエンジン音が止まると並んだポストへ順に投函する音がした。
二羽のカラスが会話しながら窓の外を通り過ぎてゆく。
あの人の居ない朝は静かすぎて、耳へ届く雑音が聴こえすぎてしまう。
窓の向こうが明るくなった。隣家が照明をつけたのだろう。
水道の蛇口をひねる音がした。
テレビがついた。朝のニュース番組が聞こえ始めた。
きょうの天気は昼まで雨らしい。
瞼を下ろすと乾燥した眼球を涙が覆った。余計な水分が耳へ流れ落ちた。
お腹が鳴った。しかし空腹ではなさそうだった。
意を決して布団を跳ね上げる。汗をたっぷり吸った重たい布団は元に戻ってきてわたしを再び押さえつけた。
「おはよう」
誰も聞かない言葉を部屋に投げた。
お湯の沸くような音がする。
トーストの焼けるようなにおいがした。
スズメの声が夜明けを告げる。
風がカーテンをずらして朝日をわたしへ届けた。
冷たい日差しが額を焼こうとする。
金属の階段を下りる足音が二人分。手にはきっと大きいゴミ袋。
きょうは何の収集日だったろうか。
一足早くきょうの仕事を始めた人たちのかけ声がする。
隣室の住人達が朝の挨拶を交わした。
鼻に届くコーヒー豆の匂い。わたしが淹れても求める味にはならないけれど、豆の匂いは変わらない。
今朝は何も用意しなくていいだろうか。早く消費すべき食材は無かっただろうか。
そういえばあまり食材ストックに気を配っていなかった。このところあの人が食事を用意していたから、わたしは把握しなくてもよかった。
記憶にありっこないのだから、この目で確認しなければ。
強張った足に意識を向けて、ゆっくりと指を伸ばして膝を曲げる。
体の向きを変えて、腕を伸ばして布団から這い出る。
とりあえずベッドの端へ膝から下を落として、上半身を立ち上がらせたら目覚めの第一歩。
きょうも目覚めてしまったのだから、眠るまでは惰性で生きよう。
足の裏を床につけると体重を支える用意をする。
勢いをつけて腰をあげれば勢いにのせてキッチンまで歩く。
顔を洗うのは面倒に感じたから、きょうはいいや。
出したままのコップに水道水を満たして飲み下すと、胃が熱くなった。
冷蔵庫の中を確認すると、いくつか惣菜が作り置いてあった。すぐに食べなくてもよさそうなメモ書きも添えてある。未調理の食材は無かった。
冷凍庫の中にも下処理済み野菜や惣菜が詰まっている。わたしの調理したものも少し残っていた。よく見れば手作りのアイスクリームが隅にあった。
棚にはパウンドケーキやクッキーに、数日前に焼き上げたハードブレッドもあった。好きに食べていいと言われているけれど、あの人が出してくるとき以外に手を出せないでいる。あのひとのいない静かな空間で一人食べてもあまりおいしさを感じられないから。
少し寒い。
お湯を沸かして、缶に記載された手順を守って紅茶を淹れる。
自分で淹れたものとあの人の味とが違う理由はまだわからない。
カーテンと窓を開け放って風を呼びながら、温かい紅茶を胃に落としていく。
ベランダには出ないよう言われているからそれを守って、窓の内側に座る。
見上げた空は灰色に光っていた。
なにも価値などないかもしれない。
意味を求めることは無意味なのかもしれない。
目を閉じれば記憶の表面を揺蕩うものらが脳裏をよぎる。
ソコに在る瞼の裏に意識を向ければ、心臓が動きを刻んでいた。
眼球を上下左右へ動かしても、薄い皮膚に正面を向くよう矯正されてしまう。
前を向けということだろうか。
必要がなければ、脇目をふるなと。
あのひとに背を支えられて外へ出たあの日からわたしは後ろを気にしなくてもよくなった。
凍れる空虚(うろ)と燃ゆる蒼穹(そら)
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