凍れる空虚(うろ)と燃ゆる蒼穹(そら)

桧野 陽治(ヒノ ヨシハル)

  1. 肌の熱
  2. 蒼い空
  3. 昼の幻
  4. 紅い月
  5. 宵の夢
  6. 碧い池
  7. 愛の情
  8. 寒い夜
  9. 命の熱
  10. 軽い光
  11. 束の間
  12. 昏い朝
  13. 夢の叢
  14. 眩い白
  15. 棚の本

気の向くままに書き進めるため、各章の文字数、時系列は安定しません。ご了承ください。
アオさんを見つめる「わたし」の名前はこの物語では明らかになりません。

肌の熱

 まだ肌寒い2月の夜更け。
 外は満月。就寝準備にと明かりを最低限にした室内は暗い。
 弱く暖房のきいた室内は、心地よい冷たさでわたしを包んでいる。
 最低限の肌を隠すだけの部屋着姿でソファに横になって微睡んでいると、陰が顔に掛かった。
 心地よい暗さに身を委ねようとしたら、何かがむき出しの肩に触れる。

「ひゃっ」

 つい口から洩れた、言葉にならない音。
 重い瞼を持ち上げて首を動かすと、そこには見慣れた手があった。
 閉じたカーテンの隙間から差し込む月光に、それは横から照らされている。

「驚かせてしまった?」

 短すぎるほどに整えられた爪に縁どられる尖った指先、節の目立つ関節。骨の浮いた手の甲に、容易に手折ってしまえそうな手首、形の良い肘、肉の少ない二の腕、引き締まった肩、手をのばせば縊ってしまえそうな首筋――それを辿っていくと、整った顔がある。
 左右対称な曲線を描く顎の上では薄い唇が横に伸びていて、不安そうに八の字を描く整った眉の下でわたしの顔に焦点を合わせた瞳が蒼く輝いている。

「ちょっと……びっくりした」

 わたしの肩に触れたのは、その大きな手。
 わたしがアオさんと呼ぶそのひともまた身にまとう布は多くなく、腕は肩から外気にさらされている。だから薄い皮膚に包まれて細い血管が青く無数に浮いている、白くて広い、その手のひらがよく見える。

「眠るのなら、寝床まで運ぼうかと思ったのだけど……」

 行き場を見失って宙を漂っていた長い腕がゆっくりと引かれてゆく軌跡を、ぼんやりと見つめる。

「自分で動ける?」

 わたしが腕を持ち上げると、温かい手を脇に差し入れて、体を起こすのを手伝ってくれた。
 アオさんの顔がわたしのそれに高さを合わせると、少しだけ体が近付く。
 前に倒れかかると、見た目に反して柔らかな体がよろけもせずしっかりと支えてくれる。

「……ねむい」

 暖かなアオさんの首筋に鼻を埋めて、怪しい呂律でそれだけ絞り出す。
 仕方ないなと言うようにわたしの背に腕を回して立ち上がると、同年代でも小さなわたしの足は宙ぶらりんになる。器用に片方の腕の位置を変えて上半身の前に抱えられると、アオさんの体と触れる面積が増えて、とても暖かい。その温もりをもっと感じたくて、腕を首に回す。

「少し、苦しいよ」

 苦笑しながら歩き出した、その揺れがとても心地良い。

 柔らかなベッドにのせられて、布団の冷たさにまた言葉になりきらない音を出す。
 アオさんの腕がシーツと私の背に挟まれて、その段差さえもどこか心地良い。腕が引き抜かれても、わたしは首に回した腕をほどくことができない。

「もう寝床についたよ」

 そう言って私の腕を解こうとして触れる指先さえ温もりが通っている。
 睡魔に体のコントロールを奪われて、抵抗できるほど腕に力が入らない。そうでなくとも、柔らかな動きに反して、アオさんの力は強いのだけれど。

 また後でねと、寝室を出ていくアオさんの平らかな背中を薄目で見送る。
 寝室よりも明るい廊下、その先へと――光に向かっていく輪郭は、徐々におぼろげに、影を残して見えなくなった。



 アオさんとは、いつの間にか一緒に暮らしている。
 わたしは家事がからっきしで、食事はご飯だけ炊いて出来合いのおかずで済ませることが多くて、それさえ面倒で全く食べない日もあったのだけれど、それを知ったアオさんがなぜかおかずをくれるようになって、いつのまにか作りに来てくれるようになって、そうして他の家事までしてくれるようになって、いつの間にか住み着いていた。
 出会ったのが学校だったから、おそらく同じ学校のひとだろうということくらいしか、アオさんについて知っていることはない。
 名前も、本当は何というのか知らない。

 でも、その熱は他の何よりも心地良くて、わたしをここに繋ぎ留めてくれる。

蒼い空

 なぜか無性に入ってみたかった屋上。小学校も、中学校も、高校も、わたしの通った学校では、どこも解放されていなくて、立ち入り禁止で。卒業までに一度は入らせてやると言っていたのは、高校の、3年生の時の担任だったっけ。その時の約束は果たされないまま、わたしたちは卒業してしまった。
 大学に入って、なんとなくは続いていた屋上に入りたいという欲望。
 でも実際に入ると、ただのコンクリート。何かを期待していたわけでもないけれど、それでもなんだか拍子抜けだった。
 ところどころひび割れて草が生えていたり縁が少し高くなっているだけで、落下防止用のフェンスさえもない。人が立ち入ることを、端から想定していない場所。なぜか隅にはタバコの吸い殻やビニール袋が、落ち葉に混ざっている。そういえば、数年前までは解放されていたのだったっけ。この建物の屋上は。周辺住民が入り込んで、騒動があってからは閉鎖されたのだったかもしれない。
 どうしてこんな場所にいるかって、時間を持て余してなんとなく階段を上がってきて、突き当りにあるドアを開けたら、そこが屋上だったんだ。
 鍵はかかっていたけれど、最新のカードキーとかそういうのではなくて、昔ながらのシリンダー錠。ついでのように閂どめ。古びてたから、ちょっとずらして捻ってみたら、あっさりと開いてしまった。
 扉は閉めて、とりあえず縁まで歩いて、下を覗いてみる。
 たしかこの建物は7階建て。足がすくむということはないけれど、身を乗り出すのは危ないだろうか。建物のすぐ脇は人通りは決して多くないけれど、この建物の立地的に利用者は絶えない道だ。下を歩いている人が見上げることもなく、少しだけ高い丘の上の、住宅街の端にあるから近くに同じ目線の建物もない。
 住宅街からは大学所有地の緑を隔てていて、この方向だとほかの校舎も見えないから、森の海に浮かんだ孤島のような気さえしてくる。

 初日はそれで、大人しくその場を後にした。
 もともと講義の空き時間を消化するためだったのだし。

 それを、忘れたころ。

 わたしは何かを悩んでいた。
 わたしが、何かを。何者かを。
 不定期で、でも気付けば浮かんでくる疑問。
 
 何をしているんだろう。何をしたいんだろう。何をするべきなんだろう。
 この認識は、どこから来るんだろう。
 そうしていつも、堂々巡りで。

 浮かんだ時と同じように、気付けば消えている思考。

 行きつくのは、生きる理由は何か。
 何かがツラいわけじゃない。
 何かが楽しいわけでもない。
 目標もない。

 理由は、ない。

 生きる理由は、ない。

 でも。

 生きるのをやめる理由も、死ぬ理由も、ない。

 死なない理由も、ない。

 理由は、無いといけないものでもないけれど。
 あるに越したことは無いと思うから。

 そうしてライフワークのように悩んでいたら、気付けば足が、屋上へ向いていた。
 いつか来た時のように、階段を上る。途中で誰とすれ違うこともない。
 突き当りのドアノブを斜めに捻ると、すぐに扉が開ける。

 何かこの悩みを解決するヒントはないかと、何かを掴むきっかけはないかと、あてもなく足を動かすと、縁に躓いた。平衡を崩して尻もちをついたけれど、その前に、少しの間、下が見えた。誰かが偶然、こっちを見ていた気がする。
 気のせいかもしれないし、見上げていたとしても垣間見えたのは短い間だったから、気付いていないかもしれない。
 どちらにしても、それで何かが変わるわけでもない。
 あてもなく、屋上の縁をそこから一周歩いてみる。
 ちょうど一周終えて、今度は逆回りをと思ったところで、扉のズレる音がした。
 わたしの立っていたところから、扉は丸見え。逆を言えば、扉の所から出てきた人からも、わたしは丸見え。
 少しだけ、目を合わせていた気がする。ゆっくりと開いた扉の向こうから現れたその瞳と。
 軽く頭を下げると、相手も応じてくれた。
 そろりと扉に隠れていた細い体を出してそこに立ったのが、アオさんだった。
 わたしは職員らしくないその身形を見て一安心して、逆回りを始めた。
 4分の1ほど回ると、そこは扉のすぐ脇の細い場所を通らなければならない。つまり、扉の所に立ったままわたしの方を見ていたアオさんのすぐ脇でもある。そこに差し掛かった時、初めてその声を聴いた。

「月が……綺麗ですね」

 どこかで聞いたことのあるようなフレーズに、冷え切った水のような声。
 秋ごろのひやりとした風を、空気にさらしている首に感じた。
 アオさんから私を見て、その向こう。空には、昼間の月が薄く浮いていた。

「こんなあかるいのに、見えるんですね、月」

 明るいうちに空を見上げることなんて、今まで数えるだけあったかもわからない。

「今日のお月様は、夜が更けると、そのうちに見えなくなりますよ」

 アオさんの長い髪は風に掬われて、蜘蛛の糸のように煌めいていた。

 それ以上何も言わないので、わたしからも何も言うことはなくて、歩みを再開して、半周したら、アオさんはまだ同じところに立っていた。一周終えて、さて次は何をしようと思ったら、アオさんの視線はわたしを捉えていた。少し距離があって、立ち入り禁止の屋上で大きな声をだすのは憚られたから、わたしも扉の前に立った。

「何をしていたんですか、ここで」

 同じ方向へ視線を向けても、薄い雲がゆったりと動いているだけ。

「風を。」
「風を?」
「することがないので、風を感じています」

 よくわからなかったけれど、目を閉じてみたら、風は動いていた。ゆっくりと、からりと頬を擦ってゆく。

「あなたは、何を?」

 わたしは。質問を返されても、なにも答えを持っていない。

「……捜しものを」
「ここで何か、なくしましたか?」
「……わからない」

 何もわからないから、ここに来たんだ。

「ここにありそうですか?」
「……かもしれない」

 あるのかもしれないし、ないのかもしれない。

「よく来るのですか?」
「そうでも……ないです。」

 風は強くないのに、そこにしっかりとあった。
 雲は音もなく、動いていた。

「……僕は、ソラを見上げることが好きです。」

 唐突に、アオさんは言った。

「今は意識しないと視界に入らないような生活を送っているから、特に。
 意識すると、時々、好いことがあるんです」

 ほら。と、わたしの方へ向いたアオさんの瞳は、空の色を反射しているのか、透き通った氷の向こうに青い水面が見えるような、そんな色合いだった。

「今日はいい天気なので、見上げたら、あなたが見えました」
「それは、いいことなんですか?」

 アオさんは、若干首を傾げたようだった。

「あなたが世を儚んでいるのかと思って慌てたのだけど、そうでなかったようで安心しました」
「世を儚むって、どういう意味ですか?」
「直接的に表現するのなら、自殺しようとしているのかと」

 自殺。自らその生命を絶つこと。人生に幕を下ろす。それをするだけの理由を、わたしは持っていない。その行為にまだ、意味を見出せない。

「そんなことをする意味が、このセカイにあるんですか?」
「する人にとっては、きっとあります」

「しないヒトにとっては?」
「どうでしょう」

 人それぞれですかね、とアオさんは続けた。

「あなたにとっては?」
「僕にとって、それをしない意味はありません。それでも生きているのは、する意味がないからです。」

「生きていて、楽しいですか?」

 つい、口を突いて出てしまう。初対面の相手に。
 これでは、わたしがペシミストみたいに思われてしまわないだろうか?

「生きる、ということ全般に関しては何とも言えないけれど、空が綺麗だと感じることができて、ご飯が美味しいと感じることもできて、それを幸せだとは思います」
「幸せがあれば、それが生きる意味ですか?」
「もしかしたら明日、またあなたに会うことができるかもしれない。その希望さえあれば、明日まで生きている意味にしていいと僕は思います。」
「明日まで、ですか」
「明日がずっと積み重なれば、どこまでも行けますよ」

「お月様も、満ちて欠けて、繰り返すでしょう?
 それは決して一日で成ることではないんです」


「そうですね。」



 ではまた明日。二人そろって屋上を後にして、階段を下りて。そう言ってからアオさんは姿を消した。
 翌日に僕は大学に用がなかったのだけれど、アオさんの名前を聞いていなかったのも、それを思い出すのも、家に帰ってからだった。

昼の幻

「お昼は、もう食べた?」

 学食の側にあるベンチに座って鞄の中を漁っていたら、後ろから透き通った声が聴こえた。それが自分に向けられたものであると、少しして、それに応じる言葉がないことに気が付くまではわからなかった。
 横に視線をずらすと細長い手足の陰がある。振り向くと、アオさんがそこに立っている。体のラインにぴったりと沿った、少なくとも暖かそうではない格好をしていることが多いのに気付いたのは、少し前のこと。今日もその例に洩れなくて、雪が降るかもしれないという天気予報の1月末、マフラーも帽子も手袋もない。陰だけ見ると何も身に着けていないのと区別がつかない。
 陽光を吸い込んだような輝く髪は寒さのせいかほんのり赤くなった耳にかけられて、そこから幾本かこぼれたものが血の気ない白い頬に細い影を落としていた。
 アオさんは学食から出てきた風ではなかったけれど、手には財布も、お弁当も持っていない。 

「まだ……」

 お昼休みが終わろうとしているこの時間。次の時間に講義が入っていなければ、時間をずらして学食を利用する人たちがそろそろ集まってくる。わたしはというと、飴か何か甘いものがないかと鞄を物色していた。次の時間に講義は入っていないけれど、そのあとの時間には入っている。一時帰宅するには心もとない時間だし、かといってご飯を食べる気にもならなかったから。時々飴やグミを鞄に入れることがあって、それがまだ入っているといいなという期待の下でだったのだけれど、今のところその気配は捉えられていない。
 ちなみに財布を持ってきていないからコンビニとかで買ってくるというのは論外。

「よかったら、一緒にどう?」

 ここで気分じゃないと断ることはできなくて。

「お金、持っていないんです」

 正直に言うしかなかった。
 アオさんは微笑んで、「僕も持ってない」と、信じられないことを口にする。
 自分の耳を疑おうとも、アオさんの声は確かに続ける。「お金を持ち歩く習慣がなくて」と。

「お弁当ですか?」

 細長い不健康そうな両手は、何に守られることもなく冷気に触れている。
 いいえとアオさんは首を左右にゆっくり振った。それに合わせて作り物のようにサラサラとした髪が揺れて、肩から胸元へと落ちてくる。

「今から食べに行くの」

 すぐそこだから、と人差し指に示された方向には、校門がある。
 暖かなものがわたしの腕を引いて、抵抗できずに立ち上がると、膝の上にのせていた鞄が落ちそうになって、アオさんがそれを軽い動作で薄い肩にかけてしまう。

「行きましょうか」

 わたしの腕を掴んでいたのは、アオさんの骨ばった長い指。を備えた左手。この骨と皮のどこにこんな熱を蓄えられるのかと不思議なくらいに、その手は暖かかった。そしてアオさんの手は柔らかかった。どこにも肉はついていなそうなのに。指を動かすための筋肉と神経と、それに酸素の入った血液を送るための血管くらいは最低限備えているはずなのだけれど、それがどこにあるのかわからない。

 そんなことに見とれている場合ではなくて。

「鞄、わたし、持てますからっ」

 とりあえず、自分のものが手から離れていると不安で仕方がない。
 掴まれていない方の手をのばすのだけれど、せっせと前を行くアオさんの舞う髪にしか触れることができない。アオさんのほうは聞こえていないのか、わたしが転ばないぎりぎりの速さで黙々と歩いていた。といっても、校門を出て、大学の塀沿いに1分くらいだけれど。

「ほら、近いでしょう?」

 校門を出る前から同じ方向を指していた指先が行き着いたのは、掃除はされているけれど染みついた年月を感じさせる建物だった。入口のスライド式のドアの上には、くたくたの赤い布に「食堂」の文字が白く抜かれた上にペンで何度も書き足された跡のある暖簾が掛けられている。アオさんは慣れた手つきでそれをくぐった。ちなみにわたしは身長がないから、普通にくぐっても暖簾に掠らない。少し虚しい。

「ご飯ふたつ」

 アオさんはカウンターの奥で洗い物をしている男性に向かってそれだけ言った。

「ピーマンは抜かねーぞ」

 男性はそう言いつつ手を拭いて、食材を取り出し始める。

 二人掛けのテーブル席がいくつかと、奥には座敷。カウンターは高い位置にあって、椅子はない。
 アオさんはわたしをテーブル席に座らせると向かいの席に鞄を置いて、座敷のテーブルを拭いている女性とも軽く言葉を交わしてから落としても割れなそうな素材のグラスに氷が二つずつ入った水をもってきた。

「ピーマン、嫌いですか?」

 お冷を一口。グラスを両手で包んでいると、ただでさえ冷え性で動きの鈍い指先の感覚が麻痺してきた。
 アパートの水道の水とは味が違うなと思いながら、じゅわっと中華鍋の音に心を温められながら訊ねると。

「好きではないけれど」

 と、不思議そうに返ってくる。

「それは、嫌いとは違うんですか?」

 わたしもすすんで食べようと思えるほどには好きじゃないけれど。

「食べられないわけでも、食べたくないわけでもない」
「すすんで食べようとは」
「思わない」
「それを嫌いとは」
「言わない」

 表現が違うだけじゃないのかと思わなくもないけれど。嫌いとは言いたくないらしい。

「では嫌いな食べ物はありませんか?」
「食べられないものは……、骨とか?」
「ソレ食べ物にカウントするんですか」
「あ、お魚の骨とかなら、塩を振って焼くとサリサリしておいしいけど」
「サリサリ?」
「音が、カリカリでもなくて、パリパリでもなくて、こう……崩れていく感じじゃない?」
「カリカリとかパリパリの範疇に入れることはできませんか」
「できません」

 横からス――と出される白いお皿。

「骨せんべい、食べる?」

 こんもりとのっているのは、きつね色の、魚の骨。綺麗に魚型のものから、どこの部位かよくわからない細いものまで、こんもりと。
 差し出してきたのは、先ほどテーブルを拭いていた女性。

「私のお八つだけど」

 いただきまーすと、アオさんは綺麗に形を残していた魚のしっぽをつまむ。
 そこから伸びている脊椎と、それをつまむ指の形が、とても良く似ていた。

「おカミさんのはオーブントースターで焼くのだけど、焦げ具合と塩気が絶妙なの」

 アオさん曰くサリサリ、とした音を立てて、咀嚼しておいしそうに嚥下する。

「塩は旦那がね」

 おカミさんも手ごろなものをつかんで口へ運ぶ。彼女が魚の骨を焼いたこれを好むから、そのために旦那さんは骨取りを神経質なほどにするのだとか。

 小さな頭のついた骨をわたしもいただく。案の定、うまく咀嚼できずに口の中に刺さりまくる。痛い。
 おカミさんは嘉美という名前だからおカミさんと呼ばれていることや、アオさんがアオさんと呼ばれている話を聴いていたら、アオさんが突然すっと立った。おカミさんもコレはここまでねと言って半ば以上骨の残っているお皿を引き上げていく。

 トン、とカウンターにお皿が置かれる。
 美味しそうな芳香と湯気が食欲をそそる。
 それをアオさんがテーブルまで運んでくる。細切りにされたピーマンがたくさん入っていた。お茶碗に山と盛られたご飯をおカミさんが、ふよふよとたまごの浮かんだスープをまたアオさんが運んできて、両手を合わせていただきますをする。

 温かな白いご飯。いつぶりだろう。
 最近は炊飯をさぼって冷凍ご飯かパンで食事を済ませていたから、よけいにおいしく感じるのかもしれない。白くて弾力のある、それでいてほろほろとこぼれる、噛めば噛むほどに甘いお米。鼻腔から入ってくるおかずの匂い。帰ったら久しぶりにお米を研ごうかと思いつつ、ご飯を堪能していたらおかずにほとんど手がついていなかった。

「あの……ご飯のおかわり、いただいても、いいですか……?」
「たんとお食べよ」

 そう言って、おカミさんはまた山盛りに盛ってくれる。

「ご飯だけでも美味しそうに食べるねー」

 しっかりと咀嚼しつつ大口で平らげていくアオさんが、いったん口の中のものを飲み込んで、嬉しそうに呟いた。
 今度はおかずも一緒にと、お肉とピーマンを一緒に掴んで口に含むと、何とも言えず。口の中に物が入っていれば何も言えないのだけれど、そうではなくて。どうしてこんなに綺麗な味なんだろう。素材の味がすると言って調味料の名前を並べ立てると味がまとまっていない?と不安がられることもあるけれど、ちゃんとそれぞれが引き立てあっているという、わたしにとって最上の誉め言葉なんだ。フルーツの香りはウスターソース。わたしの知っているメーカーのものと微妙にバランスが違う。片栗粉の粒子が豚肉を包み込んでいて、香ばしい胡麻油と醸すやわらかい舌触り。塩で全体にまろやかさがでていて、味つけはわたしの好みより濃い目。青くて弾力のあるピーマンも主張が控えめで、筍の肉厚さとのメリハリが心地好い。
 どうしてこんなにも、おいしいと感じるんだろう。
 気付けばすべて平らげていた。
 お皿に残った香りだけでも、まだご飯が進みそう。

「ごちそうさまでした」

 両手を合わせてから、お冷で口の中を清めると、意識が現実に戻ってくる。
 手首に重さを感じる。腕時計を巻いているから。見ると、時間はあまりたっていなかった。午後一番の講義が半ばほど終わっただろうか。

「美味しかった……です」

 アオさんも食べ終えて、ごちそうさまをしたところだった。
 そこで、ふと足元を探る。後ろを振り向く。膝の上を見る。
 思い出して、アオさんの方へ顔を向ける。
 首を傾げるアオさん。
 筋がくっきりと浮かぶ細い首に目を吸い寄せられている場合ではなくて。

「鞄……わたしの……」

 あぁ。と、アオさんが鞄を手渡してくれる。

「お会計……」
「心配しないでも大丈夫」

 そう言ってアオさんは席を立つ。
 わたしの食べた分まで食器を重ねて、カウンターの中へ入っていく。

「ごちそうさまでしたー」

 おカミさんたちの姿はない。
 アオさんが声をかけた先には狭い急な階段があったから、その先に居住スペースがあるのかもしれない。
 水道の蛇口をひねる、ゴムの擦れるような音。水の落ちてくる音。カチャカチャと、食器を洗う音がする。背伸びをしてカウンターの中を覗くと、アオさんが食器を洗っていた。

「気にしなくていいからね」

 洗い終えて、手ぬぐいで手を拭いて、まくっていた袖を戻しながらカウンターを回って出てくる。

「ちゃんと合意の上だから」
「合意……ですか?」

「まぁ、色々あったの。
 時々食べに来るけど、お金を持っていなくても代わりに体で払えばオッケーという。」
「カラダで……」
「お店の手伝いね?」
「食器洗いとか、ですね……?」
「そう。」

 アオさんは頷く。

「ついでに、たまには泊めてもらったりもしてる。」

「わたしは……」
「ついでだからいいの。僕が連れてきたんだし、こういうのは初めてでもないから。」

 さ、学校へ帰ろう。と、アオさんに背中を押されて、お店を出る。

「お店は……」
「大丈夫。ただの遅めの昼休み。飲食店では普通だと思うよ」

 かちゃりと外から鍵をかける。

「鍵、持ってるんですね。」
「あぁ、うん。……まぁ。こういうこともたまにあるから」
「こういう?」
「店番頼まれたり、僕が長居したり」

 それだけではないような気が、なぜだかしたのだ。でも、具体的に何がとは、思いつかない。

「また気が向いたときにでも、食べに行ってあげて」

 そう言ったアオさんの顔は、わたしの前を歩いているから、見ることができなかった。

「はい。」

 きっと。そう返すだけで、精いっぱいだった。
 引っ張られてきた道をその通りに戻って、学食の前で別れる。

「アオさん」

 この日知った呼び方で、呼んでみる。
 アオさんは振り向いた。

「君までそう呼ぶの?」

 青白いから、アオさん。
 そのままだった。

「嫌なら名前を教えてください」
「それは拒否」
「ではアオさんのままで」
「仕方ない」

「また今度」
「明日にでも」

 手を振ってくれるその姿は、いつ消えても不思議じゃないほどに、か細く、白く、透き通っていた。

紅い月

 ふと何かが視界の端をよぎって、わたしはタイピングの手を止める。顔をそちらへ向けても、何も目立つものはない。
 大学から帰宅して、アパートで明日提出する課題を手直ししていた。まだ明るいころに帰ってきたはずなのに、窓の向こうに太陽の恩恵は見えなくなっている。
 ひとまず保存して、休憩にしようと立ち上がる。するとまた、何か光るものが視界の端を掠めた。
 カーテンの隙間からこちらに向けて放たれている光。手をのばして窓を開けると、太陽と似た色をしたそれの正体は、月だった。今宵の月は照明無しでもノートの文字が読めるほどに明るい。満月の時はいつもこうだったか、意識していないからわからないけれど。
 小腹がすいていなくもない。とりあえず体を温めようと電気ケトルに水を汲んで、スイッチを入れる。コンセントの側にある部屋の照明のスイッチを入れる。何かすぐに食べられるものはあっただろうかと冷蔵庫の中を確認しても、調味料が並んでいるだけだった。
 気分で使い分ける色違いのマグカップの中から寒色のものを選んで、残り僅かなインスタントコーヒーの粉末と砂糖を目分量で入れる。少ししてお湯が沸いたら注いでティースプーンでかき混ぜながら、そういえば牛乳も切らしていたことを思い出す。コーヒー用の粉末ミルクは気に入るものが近隣のお店で見当たらないから、低脂肪乳を混ぜると似た味になることに一人暮らしを始めてから気が付いた。シリアルを食べるときなどにはそれとは別に種類別牛乳を使うからだいたい常備しているのだけれど、数日前に使い切った時にシリアルもなくなったからそっちも忘れていた。せっかく温かいのに放置しておくことはできなくて、一口含むと、慣れた苦みが口に、褪せたような香りが頭の奥に広がる。飲み込むと、丁度いい熱が体の中の空洞に落ちていく。マグカップを包んでいる両手は熱で焼けそうだけれど、すぐに飲み干してしまうと残された温もりは心地よかった。

「買いに行かなきゃ」

 ひとり呟く。
 そうしないと忘れ続けてしまうのがわたしというものだから。メモをしてもそのメモ用紙を無くしてしまうことや存在を忘れてしまうことが多い。
 丁度いい時間だから今からスーパーへ行くことにして、夕飯の準備に白米を研いで炊飯器にセット、炊飯器のスイッチを入れ忘れていることが悲しくも珍しくないから、確かに炊飯中の表示がでていることを確認して、財布の入った鞄を肩から掛ける。財布の中身を確認して、牛乳とインスタントコーヒー、それに何かおかず……と買うものリストを頭に浮かべて、部屋の照明を落とす。玄関わきにかけてある家の鍵をつかんでいざ外へ、と思ったら寒い。コートを羽織って出直した。

 そういえば先週は雪が降っていた。道の脇には氷に近いそれがまだ残っているから滑らないように足元を見ながら歩く。雪の少ないこのあたりだけれど、また近々降るかもしれない。
 アパートから歩いて10分くらいのスーパーは閉店時間が遅いから後回しにして、線路の高架沿いにもう少し離れるとある午後8時に閉店するほうへ先に入る。そこはわたしの買う低脂肪乳を置いていないから、牛乳とインスタントコーヒーと、安くなっていたお惣菜を買って、お店を出る。線路の高架沿いに歩いて戻ると、どこかで見覚えのある顔がチェーンの居酒屋の看板を照らす光に浮かんでいた。

「先輩……」

 ぽつりと洩れる呟き。
 きっと誰も聞き取ってはいまい。周囲を歩く人影はまばらで、相手も私に気付いていないだろうから。
 それは同じ大学の同じ学部に通っているというくらいしか共通点の見出せないひとだった。相手がわたしを知っているかも怪しいくらいの間柄。大学から少しだけ離れた、わたしにとっては便利なこの辺りに実家のある人は知らないし、一人暮らしの人たちはもっと大学の近くに部屋を借りていることが多い。でも先輩は、この辺りに住んでいるのだろうか。
 そ知らぬふりで通り過ぎるべきか道を変えるか立ち止まって少し悩んで、通り過ぎようと足を踏み出したら先輩は反対方向――私の進もうとしている方向へ歩いて行った。たった今まで通話をしていたのか、ズボンのポケットにしまわれる端末の青い光を放つ画面が見えた。
 何事もなかったからまぁいいかとわたしも同じ方向へ歩く。スーパーへ向けて。

「あれ」

 ちょうど先輩の立っていた居酒屋の前に差し掛かると、足元に色の濃い部分があった。雨の日に差してきた傘を振るとできる水の跡のような、それの小さいの。今日は雨も雪も降っていないのにそれは何だろうと考えつつ足が緩むと、細長い陰がかかった。そしてわたしの名前が透き通った音で呼ばれる。
 顔を上げると、店から出てきた風ではないアオさんがいた。寒々しい首筋も、横から居酒屋の暖色の光に照らされている。元の青白さが際立つような、相殺されているような。珍しくゆったりとした、夜に紛れる暗色の出で立ち。耳の下で束ねられた長い髪は月のような色に染まっていた。
 お酒を飲むアオさんは想像できないけれど、同年代以上なら法律的には飲酒可能だから、今から呑むのだろうかと思いつつ「こんばんは」と挨拶だけ返す。

「お(うち)、この辺りなの?」

 わたしの隣に並んだアオさんの顔をよく見ると、その頬に赤みが差しているのは照明のせいだけではないらしい。

「はい。」

 頷くと、「それ、夕飯これから?」とわたしが手に持つスーパーの袋を指して聞いてくる。
 また頷くと、「ご一緒構いませんか」となぜか改まった口調で返ってくる。

「予定がキャンセルになって、この後暇で」

 人と会うつもりだったから、一人になるのはなんだか寂しくて。と。

「……どこかで食べますか?」
「自炊ではないの?」

 アパートの部屋の惨状を思い浮かべて提案すると、不思議そうに返される。

「おかずくらいは作るから、お家にお邪魔してもいい?」

「……食材、無いので……」
「そこのスーパーで調達すれば解決できます!」

 うまい言い訳も思いつかずに結局押し切られ、スーパーで野菜を買うのいつぶりだろうとか思いつつレジを通り、低脂肪乳を買い忘れて引き返したりもしたけれど。
 アパートに着くなりアオさんは「キッチン借りるね」と調理を始め。まもなくご飯は炊きあがり。わたしは冷蔵庫に牛乳たちを避難させてインスタントコーヒーの詰め替えをした後テーブルで待機。おいしそうな匂いが漂ってきてもう我慢が限界。
 上機嫌で鼻歌もなんだか変なリズムで、「このお醤油あんまスーパーで見ないねー」とか、「この煮干し美味しいんだよねー」とか言いながら手際よく三品のおかずを作りあげたアオさんがそれをテーブルに持ってきてくれるので、わたしはご飯をお茶碗に盛り付けてそれを椅子についたアオさんの前と自分の座るところにおいて。

「「いただきます」」

 と、食べ始めるころにはもう色々とどうでもよくなっていて。
 二人であっという間に平らげてしまうのだった。

 アオさんの作る量は多くて、それはたぶん食べる量も多いからだろうなと思ったのだけれど。同時に、どうしてそんなに食べているのに無駄な肉がついていないどころか必要そうなところまでもとても細いのだろうかという疑問も湧く。体質か、何か病気なのか。もしかしたらこれだけ食べても、見ていないところでほとんど出してしまうのかもしれない。

「「ごちそうさまでした」」

 両手を合わせて一息。
 お皿は綺麗になっていた。二人分の食器をまとめて流しに運び、ヤカンに水を汲んで火にかける。お皿を洗い終わったころに沸くといいなと。

「お湯沸かしてるー?」

 たくさん食べておなかをさすっているアオさんが、間延びした声を出す。

「食後のお茶用です」
「コーヒー飲みたいなー」

 見ると、横断歩道を渡る保育園児のように手をまっすぐあげているアオさん。丸い肘関節がよくわかる。

「お豆どこー?」
「粉ではダメですか?」
「ミルどこー」

 首を回して部屋を見ている。頤の下が凹んで濃い陰になっている。

「ある前提ですか」
「コーヒーのにおいがするからー」
「インスタントのでしょう?」

 洗った食器は水きりに放置で自然乾燥が、わたし流。面倒だからというのもあるけれど、親もそういう人だったから、習慣で。手を拭いてヤカンの状態を確認して、コーヒー豆がどこかにあったかと探そうとしたら。

「フィルター見えてる」 

 あ。と思ってもあるものはある。流しの上に取り付けてある棚から、コーヒー用ペーパーフィルタの四角い箱が顔を覗かせている。ちなみにその横には布のフィルタもあり、一段上の締まっている扉の向こうには抽出器具が揃えてある。普段は面倒でインスタント派だけれど、気が向いたときには自分で抽出するのも気分がいいからこうやって使いやすい位置に置いてあるんだ。決して、今アオさんに指摘されるまで忘れていたほどに使っていないわけではなかったはずだ。

「コーヒー淹れるの、好きですか?」

「大好き♡」

 満面の笑み。
 口角が吊り上がって、頬骨が強調される。

「お酒飲みました?」
「少し~」

 アオさんは否定しなかった。

「酔ってますね。」
「それよりもコーヒー~」

「自分で淹れますか」
「僕やりたい」
「ペーパードリップでいいですか?」
「お任せするー」

 やったー、と両手を上げて、子供みたいだ。アオさんは酔うと退行する、と覚えておこう。
 踏み台を出して棚から台形の黄色いドリッパーとサーバーに、注ぎ口の細くなっているホーローのヤカンを出してフィルタとコーヒーカップにスプーンを添えてアオさんの脇にまとめて置く。抽出し終えたドリッパーを置くための小皿も出して、清潔な布巾もいくつか探し出す。途中でお豆が見つかった。

「古い豆が出てきましたが」
「この際我慢するー」

 いつ買ったものか。少なくとも月が替わったばかりの今月ではないだろうけれど。
 アオさんは体を起こして、計量スプーンが見当たらなかったので代わりに出したはかりとにらめっこをしながら豆の分量を量っている。

「だいぶ古いねー」

 ハンドミルにお豆をいれながら、香りが悪いと正当な文句を言う。

「半年くらい前のー?」

 さて、いつ買ったのだろう。貰いものかもしれない。袋を見る限りだと、ちゃんとコーヒーショップで購入したらしいけれど。
 アオさんは少し挽いて一旦細かさを確認してから、ゆっくりとリズミカルに挽き終える。

「あ、お湯沸きました」

 テーブルの上に鍋敷きとして使っているヒノキの円板を置いて、その上にお湯の沸いたコポコポ鳴っているヤカンを置く。
 アオさんは何も言わずにいつの間にかサーバーにのせたドリッパーにセットしてあるフィルターにお湯を回しかけ、コーヒーカップにも少量注いでから細口のホーローのヤカンにお湯を移す。サーバーに溜まったお湯を捨ててから、ミルに溜まっている粉末をフィルタに入れて、指先でトントンと小突いて均してからホーローのヤカンからちょろりとお湯を注ぎ、一旦ヤカンを布巾の上に置く。
 そろりそろりとお湯を注ぎ、ぽろりと雫がサーバーに落ちてくる。それをテーブルをはさんで向かいに座って眺めていると、真剣な顔をしたアオさんの眼窩が黒くはっきりとわかる。たるむことなくぎりぎりの組織でその先の重さを支えている二の腕も、ヤカンの角度を固定してほとんど動かない骨のような手も、きちんと筋肉がついていることを、微妙な動きで教えてくれる。
 アオさんは生きているのだと、感じる。
 コロンと音がして、それはホーローのヤカンがテーブルに置かれた音で、それまでヤカンをつかんでいた細い指がドリッパーの持ち手に添えられている。音もなくそれを小皿の上にのせると、ひといき。
 サーバーにふたをして、コーヒーカップの中のお湯を捨ててきて、わたしの方を見る。

「ミルクと砂糖は?」
「あとでたっぷり入れます」
「僕も砂糖欲しいな」

 サーバーからカップへと注がれる液体は、わたしの目には赤く映る。赤寄りの茶色と言うか、黒と言うか。
 ふと窓の方へ眼を向けると、カーテンが開いていた。いつからだろう。

「どうぞ」

 サーバーには、まだ幾分か内容物がある。

「いただきます」

 一口含むと、古い豆の酸味。

 どこからかは言わない方がよさそうな場所から出てきた白い陶磁器のシュガーポットには白い立方体、木製のほうには茶色い結晶の砂糖が入っている。わたしは袋に入った原料糖をそのままざざーと流し込んでしまって、アオさんに入れすぎと言われる。

「酸っぱい」

 これはアオさんの感想。
 両方とも中身を確認してから、アオさんは木製容器の中身をひとさじ入れてもう一口。

「……今度来るときには豆持参するわ」
「今度があるんですか?」

 買ってきたばかりの低脂肪乳をそろりとたっぷり注いで、「それだとコーヒーの味がわからないでしょう」と言われつつ、インスタントとは全く別物のコーヒーを、ちゃんと舌と鼻で感じる。

「おいしいです」
「次はもっと美味しいから」

 わたしは2杯目もいただき、アオさんが飲み終えてから片づけを終えてテーブルを見やると、そこにアオさんの姿はなかった。

 室内で風を感じて、顔を上げると、カーテンが靡いている。
 近寄ると、アオさんはベランダに出ていた。
 夜の住宅街の光に照らされて浮かぶ輪郭は、まるで骨格標本のよう。心もとなくて、手を伸ばすと、アオさんが振り向いた。

「月が綺麗ですよ」

 届く前に掴まれて、ベランダに引き出される。
 見上げた先には、紅い円が浮かんでいた。本当は球に近いのだろうけれど。
 わたしの手首を優しく包む手はとても暖かくて、生きているのだと感じるけれど。その輪郭はやはり、教科書にも載っている、骨そのものだった。
 しばらく見上げていて、わたしがクシャミをすると、アオさんは申し訳なさそうな顔をして部屋に入った。
 それでもアオさんの熱は冷めていないのが、手から伝わってくる。
 それだけ細いと筋肉も少なくて、発熱量も多くないはずなのに。

「暖かいですね」

 それを、部屋が、と受け取ったらしい。

「外は寒いの、忘れてた」

 赤い頬は、今は酔いではなく、寒さのせいではないのだろうか。

「アオさんは、寒くないんですか?」
「どうでしょう?」

 そう言って笑うけれど、吐息は白かった。
 わたしも部屋に入って、窓を閉める。

「寒そうですね。」
「そう見えますか?」

 僕、鈍いんだ。という顔は逆光で、どこか寂しそうだった。

宵の夢

 アオさんはわたしのアパートに泊まっていった。
 そのまま帰らせるのがなんだか不安になる前に、わたしのベッドに倒れ込んで寝入ってしまったから放っておいたら結果的にそうなったのだけれど。

 一緒に寝るのには幅が狭かったから、わたしは来客用の毛布を出して二人掛けのソファに横になった。
 久しぶりに、はっきりとした夢を見た。
 本当は憶えていないだけで夢は眠るたびに見ているのだと、前にどこかで聞いたような気もするけれど。

 アオさんがいた。
 それはアオさんだとわかるのだけれど、骨のような細さがない。
 薄い布を纏っているのは、夏のアオさんだ。肌が透けるのではないかという薄さの布なのに、目が細かくて、強い日差しに照らされようともシルエットが浮かぶことのない不思議な服を、現実のアオさんも夏には纏っている。
 わたしはなぜか責め立てられていた。今までに読んだことのある物語の登場人物や、当時の背格好をした小学生の頃の同級生たち複数人に。内容は身に覚えがない。アオさんは、彼らの後ろでただこちらを見ていた。笑っているような、睨んでいるような、細い目と横に伸びた口元。
 ついに耐えかねたのか、拳が握られた。同級生だった彼のそれが振り上げられる向こうで、アオさんの指先が動いた。それを認識して、わたしは覚醒する。

 眼を見開くと、見慣れない天井。
 ベッドで寝ていたわけではないから、ここが自分の借りているアパートだと認識できるまでに時間がかかった。
 息が荒かった。
 最初、誰かが過呼吸でも起こしているのかとも思った。
 でも自分ののどの痛みと胸の動きを自覚して、それがわたしの呼吸音であると理解できた。
 四角い照明。
 汚れはまだ目立たない壁紙。

 視界に入った五指は自分が伸ばした左腕だった。ソファの背に指をかけて、体を引っ張り上げる。

 心臓が止まるかと思った。

 夜が明けそうな予感の白んだ窓の外。カーテンの隙間からもれる光に照らされて、ソファの背もたれ越しに、アオさんがこちらを覗いていたから。
 暗いからか、余計に陰影がついて見える。アオさんの顔は、骨そのもののように見えた。整えられていない長い髪は、落ち武者のように乱れている。

 少し落ち着いて、アオさんの方へ顔を向ける。
 寝室とここは襖で仕切られていて、ソファの背のすぐ向こうには開け放たれた襖がある。そのむこうには和室におかれたベッドがある。

「……大丈夫?」

 まだ未明のせいか潜めた、擦れたような声がアオさんのものだと認識するのは早かった。

「怖がらせてしまった?」

 わたしは首を振る。

「起こしてしまいましたか?」

 アオさんは首を振る。

「丁度、起きる時間だったの」

 この時期はまだ暗いけれど、夏だともう日の出を過ぎているような時間帯ではあった。

「目が覚めたら、苦しそうな声がしていたから」
「うるさかったですね」

 すみません、と言うと、わたしの目尻からこぼれた滴を、アオさんの骨と見紛う指が捉えた。

「怖い夢でも、見ましたか?」

 頷く。

「アオさんが、助けてくれました。」

 あのままもう少し、覚醒するのが遅ければ。
 襲い来る拳はわたしに届く前に、アオさんに止められていたような、そんな気がした。

「現実では、そうはならないでしょうけれど」

 え、と言われた言葉を、寝ぼけた頭で認識しようとした。

「僕は、君を助けるほど情も力もないし、善人でもないということです」

 見上げたアオさんの瞳は顔を出したばかりの朝日に照らされて、深い虚のような黒を呈していた。

「アオさんのこと、わたしはよく知りません」

 アオさんの口角が、ひきつるように持ち上がる。それは微笑だとわたしは思った。

「でも、そう言いつつ助けてくれそうな気が、なぜだかするんです」

 わたしの涙をのせたままの指が、頭に伸びた。それが乱れた髪に通されると、不思議といつものような、整った流れが現れる。

「君は……、どうしようもない人なのね」

 その暖かい指は、わたしの頭の上に、とん、とん、とやさしく置かれた。
 のどの痛みももう気にならないし、呼吸も整っている。
 そうして今日がまた、始まった。



 それからというもの。

 アオさんは、度々わたしのアパートを訪れるようになった。
 コーヒーや手作りらしいお菓子やおかずを伴って。

碧い池

 長い光が、視界の隅で跳ねた。顔をめぐらすと辺り一面の緑の中に、ひときわ輝く蒼があった。
 陽光を心地よく遮って視界を緑に染める欅並木の下で、あまり届いていないはずの光を集めているかのようなそれは、もちろんあのひとだった。長い細い髪はいつ見ても癖がなく、動きに合わせて液体のように滑らかな線を描く。
 アオさんの周りに人はいない。平日の午前中という時間的なものか、その雰囲気によるものか、はたまた偶然なのかはわからないけれど。湿気と熱気に包まれている世界の中で、そこだけが凍っているような静けさだ。
 わたしはただ、通りかかっただけ。駅から学校までの通学路の途中に、その公園はあったから。炎天下を歩くのは好きじゃないから、少しでも涼しいうちにクーラーの効いた建物に入ってしまおうと思って。そこにアオさんがいるなんて。
 今にも倒れそうな青い顔と細い手足が軽やかな布から覗いていて、かといって肌の露出は最低限。首も肘も膝も、手首も足首も、ふんわりとしたものに覆われている。それがまた熱中症にでもなるんじゃないかって心配を抱かせる。ふらふらとした足取りはいつもどおりなのか、体調が悪いのか、私には判別できない。でも声をかけるような用事もないし、そもそもあのひとは何でここにいるんだろう。何か用事があるのだろうか。
 わたしの方には幸いといっていいのか、自由にできる時間がある。だからなんとなく、後を追ってしまう。
 アオさんは、公園の奥へと歩いて行った。奥、というのは、天然の植物がほとんど手を入れずに残されているところ。昔、手作業で掘られた人工の池もある。

愛の情

 今日は2月14日。
 バレンタイン。
 今年は平日。

 数年前までは、平日だとこの時期は通常授業だった。今は大学生で、もう春休み。
 わざわざ出かける用事もないし、当日になって自分用にチョコを買う人でもわたしはない。アオさんはどうだろうかと考えても、よく知らない。

 天気は快晴。
 暖かい。
 窓を開けると、外からは雀の声が聞こえる。

 アオさんは昨日帰ってこなかったので、今もこの部屋にいない。さて何をしようかと空を見上げると、程よく雲が出ている。時間は昼前。もうほとんどのお店が開いているはず。買い物にでも出かけるか。中身を確認した財布と折りたたまれたエコバッグをポケットに突っ込んで、家を出る。

 遠出がしたくなって、列車の駅へと足を向ける。
 タイミングよくホームに滑り込んできた急行列車に乗り込んで、気の向いた駅で降りた。

 改札を抜けて気の向く方向へ進む。
 この駅で降りたことはあっただろうか。

 広いようなそうでもないような、地下と地上を階段が繋ぐ迷路。どこにつながるかは知らないけれど行き当たった出口を出ると、外には見覚えのある製菓材料店の看板があった。その案内に従って道を行くと、他にも見知った店の店舗がある。
 製菓材料店では、やっぱりチョコレートが目につきやすい場所に置いてあった。そういえばと、切れかけていた砂糖の存在を思い出す。砂糖をカゴに入れてレジに直行しようとしたら見切り品コーナーを見つけてしまう。つい足が止まるこれを貧乏性というのだろうか。そこに丁度良く消費期限の間近に迫った生クリームがあるのは何の偶然か必然か。何を作る予定もないけれどそれもカゴに入れて、会計を済ませた。
 外に出ると雲行きが怪しい。
 天気予報を見る習慣のない人種だから予報は知らないし、傘も持っていない。
 記憶を頼りに来た道をただ戻ろうとして、スーパーマーケットを見つけるとつい足が向く。
 見るだけと自分に言い聞かせながら、つい食材を買ってしまったり。安くなっていた牛乳とバターも購入して、駅にようやくたどり着くころには空は青かった。雨の匂いはするけれど、水滴はまだ落ちてこない。

 帰る方向の列車に乗って、つい買ってしまった内容を確認する。

 菓子作りに必要な材料がそろってしまっている。期限の短いものもある。今日という日はそういう日かもしれない。

 家の最寄り駅についても、まだ雨は降っていない。だからと油断せずに足早にアパートに帰り着いて、食材を冷蔵庫等の定位置に仕舞い終えたころ、ぽ、ぽ、と水滴が屋根を打つ音が聞こえてきた。気が付けば部屋は暗い。照明のスイッチを入れると、そこにアオさんがいた。

 どうして今まで気が付かなかったって、ソファに横たわっていて、ブランケットに隠れていたからかな。出かけるときにはいなかったはず。
 近寄ると、眠っていたわけではないらしくて体を起こした。

「おかえりなさい」
「……ただいま」

 いつ帰ったのかと尋ねると、ついさっきと返ってくる。

「今日は何の日でしょうか?」
「バレンティヌスさんの命日?」

 アオさんに問題を出されて、解答はふざけてみた。

「たぶんそうね。でもそれを求めていたわけではないよ」

 アオさんが頬を膨らませると、いつも浮き出ている頬骨が目立たなくなる。

「何か買ってきたの?」
「いろいろ……」

 バターとか、と告げると、「ケーキ型はある?」と尋ねられる。場所を伝えると、アオさんはソファから立ち上がった。

「何か作るの?」
「せっかくオーブンがあるのだし、今日は商売戦略に負けてチョコレートを食べる日でもあるから」

 冷蔵庫の中と食材置き場を確認しながらアオさんは言った。

「恋する乙女が意中の君に贈り物をする日ですよ?」
「チョコレート関係のスイーツを食べてお正月並みに自己管理の緩む日でもあるのじゃない?」
「……お正月ほどではないと思う」

「そっか」

 手を洗って、必要な器具と材料をそろえてお鍋でお湯を沸かし始める。

「なにをつくろうとしてるんですか?」
「チョコレート関係のスイーツ。」

 あるものは勝手に使っていいと既に確認してあるから、アオさんは躊躇なしに買ってきたばかりの材料も封を切る。

「ブラウニー?」
「食べたいの?」
「頭に、浮かんだだけです」
「そ。」

 見ていても何にもならないし、わたしは簡単なものしか作れないうえに手際が恐ろしく悪いから手伝いもできなくて、さっきまでアオさんのいたソファに座る。そこにはまだ熱が残っていた。外が暖かいとはいえ、冷え性のわたしの指先は、フローリングと降り始めた雨に冷やされ始めている。心地よい温もりに触れ、つい、意識を手放す。



「お目覚め?」
「……おはようございます。」

 目が覚めたのは、もう日没後だった。人工的な明かりに照らされておでこがなんだかジンジンする。
 キッチンの調理器具は洗い終わっているし、食材も視界に入らないから定位置に戻ったんだろう。

 何を作っていたのか、薄力粉とバター、砂糖と生クリーム、ついでにビターチョコレートの匂いがした。

「作り終わりました?」

 アオさんはオーブンに手を入れていた。

「ブラウニーも作っておいたから、明日のお八つにしましょうね」

 引き抜いた手には布巾があったから、掃除をしてくれていたのか。

「他には?」
「トリュフとクッキー?」

 後頭部でひとまとめにされている髪は珍しい。

「どれだけ作ったんですか」
「知り合いに配ってこようかな」
「バレンタインは今日ですけど」

 うなじに手をのばしたくなるわたしは変態だろうか。

「バレンタインでなくても、お菓子を配っていいでしょう?」
「よくするんですか?」
「作りすぎたらね」

 わたし以外にアオさんの手作りが振舞われるのは、なんだかいい気がしない。
 別に恋人でもなければそれに準ずるような親しさでもないし、顔見知りに毛が生えた程度の知り合いだけれども。

 オーブンの扉を閉めて、布巾を洗って干したら手を洗って手ぬぐいで拭いて、そのまま流れるように後頭部で髪を結わえている紐の結び目に指が動く。
 つい、その動きを追ってわたしの手が伸びる。

「どうかしたの?」

 それを視界に捉えてか、アオさんの指は紐を解く寸前のところで止まった。

「髪、紐で、綺麗に結っているなぁと……」

 うなじをもっとじっくり観察したいなどと本音を晒せるほどにはまだ親しくないと思っている。

「慣れればこのほうが簡単なの」

 ゴムを持ち歩く習慣がないから。といいながら、紐は解かれる。一本一本は細いのに総量のある毛束が広がる。肩にかかったひと房をばさりと背におろし、束ねていた紐は、筋の浮く手首に巻かれた。
 そういえばと記憶を掘り返すと、アオさんはいつも紐を身に着けていた。ベルト代わりに腰に巻いていたり、首や手足の首を装飾していたり。ただのファッションアイテムだとばかり認識していたけれど、それにしては何の飾りもない組紐や、麻紐であることもあった。そのあたり、あまり頓着しない性格なのだろう。

「夕飯にしない?」

 そういえば昼食を忘れていたおなかが鳴った。

 数種類のキノコと手作りのホワイトソースがよく馴染んだパスタが、見た目に綺麗に盛り付けられて食卓におかれる。
 薄力粉とバターの匂いの正体はこれだったらしい。

「さっき作ったんですか?」
「生クリームが少し、残ったものだから」

 眠りから覚めたばかりの暖かい体に、温かな食事。暖房は入っていないけれど、部屋も心なしか暖かい。そういえばと意識しても、雨の音は聞こえない。

 食事を終えて、毎度のごとく食後のコーヒータイム。
 アオさんが淹れたコーヒーは、わたしの好みにもよく合っている。


「ハッピーバレンタイン?」

 冷蔵庫の奥から取り出した冷えた箱を、抽出し終えたドリッパーを流しの脇へ運んできたアオさんに、横から差し出す。

「いつの間に、用意したの?」
「昨日、アオさんが帰ってこない間に」

 ペーパーフィルタを中身ごと燃えるゴミへ放った後、水道の冷水で手を洗って、手ぬぐいで拭いてから、それでもなお暖かい手で受け取ってくれた。

「僕は、君の意中の君なのかな?」
「そうかもしれないですね」

 開けてもいいかと目が訊いていたので、頷くと、細かな血管が存在を主張している細い指が形ばかりのリボンを解いて、箱のふたを持ち上げた。
 中身は初心者に優しい、溶かして型に入れるだけのスティック状のチョコレート。

「……まさかの手作り」
「まさかって何ですか」
「それで板チョコの包みがゴミ箱にあったの……」

 バレていた。自分の始末の甘さを反省しつつ、アオさんの鋭さにも感心する。

「コーヒーのお供に、どうですか?」
「ではお返しに」

 アオさんはコーヒーの抽出器具をしまってある棚から、それを出した。

「コーヒーに溶かすやつ?」
「牛乳に溶かしてもいいけれど」

 チョコに木製のスプーンが刺さっているものが、丁寧にラッピングされていた。お店にもありそうだけれど、同じ包装を見たことはない。

「ひょっとして、さっき作ってました?」

 アオさんは首を左右に振る。

「昨日、知り合いにキッチンを借りて」

 それで昨夜(ゆうべ)は帰らなかったのだと教えてくれる。

「……ありがとうございます」

 素直に感謝が口からこぼれた。


 互いにチョコレートを贈り合ってコーヒーの香りに包まれて、ホワイトデーには互いに返し合うことを合意した。

寒い夜

 すぐそこにアオさんがいる。
 アオさんがベッドに座って固まっていたから、生きているのか確認しなきゃならないような気がして横に座ったんだ。アオさんはわたしが横に座っても少し耳を動かしただけだった。いつからそこにいて、何を思っていたのだろう。横を見ると絹のような髪が重力に引かれてまっすぐに流れ落ちている。肩からその体をはさんで前後に分かれるそれは流れの速い滝を思わせた。
 互いに何も言わない。
 ベッドに置かれている手にそっと触れてみると確かな温もりがそこにはあった。見た目からは想像の及ばないほどの熱を孕んでいた。首を傾けると確かな質感がそこにはあった。そのまま頭をアオさんの肩にのせてしまう。そうしていないと、その存在が確信できなかった。

「どうか、したの?」

 不意に静かに空気が揺れた。

「愛しいって――、解りますか?」

 なぜそんな言葉が出たのかは判らないけれど、視界の端で光の流れが乱れたことでアオさんが首を傾げたのが判った。

「……側にあってほしいと、思うこと?」

 わたしには正面の壁しか見えていないから、アオさんの瞳はどこへ向けられているのか判別できない。

「どうして、そう思うんですか?」
「どうしてかな」

 触れていた熱がどこかへ消えたと思えば、手が上から包まれる。

「淋しいのかもしれないね」
「淋しい、ですか?」
「僕はいま、あまり淋しくはないよ」

 君がここにいるから、とアオさんは続けた。

「……満たされていますか?」
「満たしきれてはいない。この体の中には確かな空虚があって、満たしきるには何を入れてもたぶん、不充分」
「淋しい、ですか?」

 同じ言葉を繰り返す。

「少し」

 頭をアオさんの肩から離すと窺うことができた顔は、長い髪の影に隠れるようにしてこちらを向いていた。ふいに視界が揺れて、ベッドに倒れこむ。片手は熱に包まれたまま、視界が綺麗な髪で覆われた。その天蓋の中にはアオさんしか見えない。このセカイには、わたしとアオさんしか存在していないみたいだ。

「アオさん」

 見下ろす瞳を見つめてそう呼ぶと、困ったように眉が動いた。

「泣いていますか?」

 泣いているように感じたのだけれど、涙は窺えない。

「泣かないよ。泣く理由は、いまの僕に無いもの」

 熱が肌に食い込んだ。空気に晒されているほうの手をのばすと、アオさんが肩を竦める。髪の天蓋を分け入って、形の好い頬に手を添わせてみた。

「一緒に、眠りませんか」

 アオさんは何も言わない。ただそっと、長いまつげが動いた。

「きょうは肌寒いですから、アオさんは温かいので、隣にいてもらえないかな、と」

 アオさんは笑った、のかもしれない。
 毛先に顔を撫でられて、視界が天井に占められた。

「しかたないね」

 ベッドが軋んだ。アオさんが隣に仰向けになったんだ。

「明日の朝も冷えるだろうから、君が凍えないように隣にいてあげるよ」

 わざとらしく大きな声で、アオさんが言った。つい笑ってしまうと、手から熱が離れていった。代わりに腕全体に、温かいものが寄り添った。

「おやすみなさい、よい夢を」

命の熱

 目の前の空白を何で埋めるか。一向に何もでてこなかった。
 利き手に鉛筆を持って、構想用にとクロッキー帳を広げて。
 部屋の掃除をしていたらでてきた、未使用のソレをふと使いたくなって、テーブルの上に開いてみたのだけれど。

「手を、貸してください」

 不意に口をついてでたのは、そんな言葉だった。
 自分でも意味が分からない。
 顔を上げれば、案の定。
 細くくっきりとした眉をハの字にしたアオさんの顔がわたしの方を向いていた。

「何か困ったことでもあった?」

 目が合うとたおやかに首を傾げてそう尋ねてくる。細い髪の流れが光を伴って動いた。
 広くないベランダでいつの間にかおいていた植物の手入れをしているところだったらしく、膨らんだカーテンに半ば隠されている開いた窓の向こうにその姿はある。

「手を、観察したいんです」

 鉛筆を持っていた自分の手を掲げてみた。筋張ってはいない、血管も浮いていない、何か足りない、おもしろみのない手を。

「手?」

 頷くと、アオさんは骨と申し訳ばかりにそれを覆う膜だけで構成されているような、凹凸のある自身の手に目を落とした。短くそろえられた爪と丸い間接とが曲線で縁取られ繋がっている、かといって不思議と不健康な印象を与えない、細く長い指と広い手のひらで構成された、今はじょうろを持っているその手を。

「僕の手を観察したいの?」

 大きな双眸がわたしを不思議そうに見つめる。

「そういえば、よく見ているよね」

 何かにつけて目で追ってしまうのは、細く長く大きなその手の暖かさを知ってしまったからかもしれない。

「構わないけれど、少し待ってもらってもいい?」

 土が着いているから洗ってから。と、じょうろをベランダの隅に置いて、アオさんが部屋の中に風を伴って入ってくる。
 太陽の光は世界を照らしているけれど、その姿を窺うことのできない5月の昼間。

「少し、肌寒くはないですか?」

 一番近いキッチンの水道で手をこすりあわせて洗っているアオさんは、後ろからでも肩の見えそうなほど襟の大きく開いた、体の線にぴったりと沿うシャツを着ている。わたしは首もとまでボタンを留めた長袖シャツで肌を隠している。これが体感温度の差なのだろうか。

「僕にとってはちょうどいい気候」

 掛けてある手拭いで手の水気をとると、わたしの向かいにアオさんは座る。

「寒いなら、窓は閉めたほうがいいかな?」
「大丈夫です」

 湿り気の少ない風は心地いい。

「これでいい?」

 手のひらをぺたりとテーブルの天板につけると、付け根から指先へかけて徐々に薄くなる輪郭がよくわかった。手首で一旦細くなってから広がり、指先へかけて収束するその曲線に、見惚れてしまったのかもしれない。

「さすがにこんな日だと、温かいのね」

 アオさんの手の表面を、わたしの指先はなぞっていた。
 冷え性で冬の間は特に指先が冷たかったからだろうか、アオさんのその言い様は。
 アオさんの言葉と自分の行動に驚いて手の動きを止めたら、湿り気のある手のひらがわたしの手の上に覆い被さった。

「君の手はキレイよね」

 別段特徴のない、細くも太くもないわたしの手を、白くて尖った指先が撫でる。よく見ればいつの間にか小さな切り傷があった。無精して日焼け止めを使わないから、長袖に守られない手の甲の半ばより先が、日焼けで色を濃くしている。

「とても健康的」

 アオさんの筋張った手は不健康そうではないけれど。なぜか全体的に白いそれは健康的とも表現しづらいかもしれない。

「僕の手は骨みたい。」

 みたい、というか、そのもの。筋肉や腱の入り込む余地はどこにあるのだろうというほどに、その形は骨そのもので、過ぎし日に学校で見た骨格標本と同じ形をしているのに、確かな熱を内包して生きている。

「アオさんは……生きているんです」

 そう実感させてくれる熱は果たして、この骨様(ほねよう)の形のどこで生産されているのだろうか。

「生きているんです」

 目の前にいるこの人は、いくら儚げでも、確かに命があった。

「生きていますよ」

 はたして眦からつたい落ちるコレの意味は何だろう。
 視界を歪めるこの感情は、どこから湧いて出たのだろうか。

「君も僕も、今この時をちゃんと、生きていますよ」

 何も描き込まれていない空白に滴が落ちて、平面を歪めた。
 手の甲から離れた熱が、頬に触れる。確かに丸い指先が、皮膚に包まれた骨が、わたしの目元を撫でた。
 鉛筆を置いて、頬に置かれた熱にわたしの手を重ねる。確かな凹凸が、脈打っていた。

「生きて、ください」

 詰まりながら絞り出したその言葉の意味は、わたしにも解らない。ただ、そう、口をついて出た。

「大丈夫」

 アオさんは口角をもちあげて、儚く微笑んだ。
 ちょうど窓から差し込む光に照らされて透き通った肌を、流れ込んだ風に揺らされた絹のような髪の輝きが彩る。

「大丈夫だから」

 今にも透けて消えてしまいそうな姿をした、確かな熱を持ったアオさんは、そう何度も繰り返した。

軽い光

 それほど強くも弱くもない大粒の雨が降り続いていて、窓の外で塀やベランダに打ち付けて跳ねる音が嫌に耳につく。そんな朝に、わたしはけだるい体をむりやりに動かして、憂鬱に抗おうとしていた。何をするにも疲れるような気がして、何をしても無駄なような気がして、それでも何かをしなければいけないような気がして。"何か"の正体は見えないままに停滞した負の感情を薙ぎ払おうと腕を振ったら、物に当たる。当然ぶつかった手も痛いし、赤くなる。ともすれば紅い命の雫でさえ零れ落ちることもあった。こんなことは珍しくないから、衝撃で壊れるようなものは部屋に置いていないつもりだったんだけど。
 甲高い小さな音と共に光が散った。暗い室内を満たす人工の明かりを、何かの欠片が乱反射した。
 見やれば大小の鋭利な欠片がそこには在った。細かな粉のような白もあった。
 透き通ったそれは一見表面が滑らかなガラスのようで、しかし手に持ってみれば重みをほとんど感じない。
 滴った紅が足元に染みをつくる。すぐに対処しないとシミが残ってしまう。そうは理解していても動く気にはならなかった。

 訊き慣れた軽やかな足音は雨音に混ざらず耳に届く。近付いてきて、止まった。
 束にせずひとつだけの鍵につけたキーホルダーの鈴が揺れて小さな存在を主張する。
 シリンダー錠が回され、ドアノブが下げられ、玄関の開く音。
 いつの間にかどこかへ出かけていたアオさんが、帰ってきた音。

「ただいま」

 アオさんのその声は、どこまでも空に昇っていきそうな、確かな感触があった。
 常なら復唱するみたいに返すけれど、いまはそれすらも億劫だった。
 足音は玄関から滞ることなくリビングへ、ついで隣接したわたしのいる部屋まで来て止まった。
 手に持つ何かの欠片は透き通って向こうの世界を歪ませていた。もしかするとこの向こうの景色こそが本当の世界であり、こちら側の、わたしが普通だと信じていた世界こそが何か幻想の中なのかもしれない。アオさんを透かして見ると、もしかしたらその現実が見えてしまうかもしれない。そこに、現実にはそんな姿は無いのかもしれない。そんな不安がよぎって顔を上げると、細い光が丸い粒を纏っていた。常から重力に引かれてまっすぐに伸びている髪が、重たげに水滴を纏っていて、毛先は濡れてかたまってしまっている。

「……濡れちゃってますね」

 タオルは玄関に置いてあったはずだけれど、使っていないみたい。
 持ってこようと足に力を入れかけて、横から伸びてきた長い腕に肩を押さえて止められた。

「こんなものを、どこで拾ってきたの?」

 欠片を手放すことを忘れていた腕がアオさんに捉えられる。細い指たちは腕に食い込んではいないけれど、わたしは動けなかった。アオさんは床に目を落として、そこに散らばる欠片に目を細めたような気がした。

「……何が、あったの?」

 鋭利な欠片は骨のような細い指に攫われて、わたしの手からようやっと離れていった。
 床には似たような欠片とその隙間を埋める細片が散らばっている。

「片付けないと、ですね」

 踏んだら危ない。わたしも、アオさんも。足と頭は特に。前に切った知り合いが、煩わしそうにしていた記憶があった。

「それは僕がやるから」

 動かないで待っていてと言って、アオさんは勝手知ったるわたしの家で、必要な道具を取りにいった。
 大人しく待っていないと、と思いつつ、手の届く先にある鋭利な欠片をひとつ、またひとつと近寄せて、似たような断面を向かい合わせて並べて、元の形を知ろうとした。

「手を切ると危ないでしょう」

 戻ってきたアオさんは床に膝をついて、タッパーに大きな欠片を入れていく。

「どう……するんですか?」
「この大きい欠片は、あとで使うの。君も惹かれてるみたいだし」

 粗方の欠片を集め終わったらタッパーを棚の上において、細かい光たちを箒で集めて掃除機で吸ってしまった。
 これでよし、と、アオさんは道具を元の場所に、大きな欠片の入ったタッパーをどこかにおいてから戻ってきて、わたしの隣に座る。
 頭にのせられたのはタオルケット。数日前に洗濯して、畳んで棚に置いてあったもの。アオさんと似たにおいがした。

「それで、何があったの?」

 視界をふさいだタオルケットの端をつかんで持ち上げて、アオさんの方へ顔を向ける。
 また、わたしの手はアオさんにつかまってしまった。せっかく持ち上げたタオルケットがまた落ちてきて視界をふさぐ。
 腕を掴んだまますぐそこにある救急箱をとってきて、アオさんはわたしの腕の処置をした。そのくらいは音と感覚で把握できる。

「もう、血は出ていないですよね……」

 解放された手はアオさんの熱が移って心なしか温かい。

「このけがは把握していたのね?」

 なんだか咎められている気がした。
 素直に頷くと、足下の血痕にも気付いたらしい。

「これは、新しいものだよね?」
「この怪我の、です」

 放っておいても、このラグの汚れはわたしが気にしなければ問題ない。

「後で落としておくよ」
「放っておいて、大丈夫ですよ……?」
「僕が気になるから」
「……わたしが、自分でやります」
「けがに(さわ)るといけない」

 強気のアオさんが折れないことを、わたしは学んでいる。

「……よろしく、お願いします」

 それでよろしい、と言うように、わたしの言葉に頷いた。

「そのけがと、あの欠片は、関係ある?」
「……腕を、ぶつけてしまって」
「それで、落ちて割れてしまったんだね。
 他にけがはない?」

 痛みは無いし、あれから動いてもいない。

「アオさんが帰ってくる、少し前の、ことですから……」

 そこでアオさんは何か思い出したような顔をした。

「きょう、家を出る時間は大丈夫?」

 そんなことで、ここまで気にしたような顔をするのだろうか。

「午後から、です」
「本当に?」
「講義は、午後から、です……」
「何か用事があったから、出ようとしていたのでない?」
「何もないから、何かしようとして、出ようとしていたんです」

 アオさんはしばらく何か考えて、それからポン、とわざとらしい動作をして、「朝ご飯は、もう食べた?」と口にした。

「まだ、です」
「一緒に作る?」

 わたしは嬉しかったのだけれど、果たしてそんな表情ができただろうか。

「着替えられる?
 そのままでも大丈夫だけれど」
「着替えます。
――アオさんと料理ができるなんて、この上なく貴重な時間を、こんな格好で消費したくはないですから!」
「いつでもできると思うけど。
……何の根拠もなく未来(あす)を信じていられるこの時間は、確かにとても貴重かもしれないね」

 先に準備をしておくよ、と言って、アオさんは部屋から出ていった。
 着替えようと頭からおろしたタオルケットは濡れていた。アオさんは何も言わなかったけれど、いつの間にかわたしの顔は、汗と涙で濡れていた。

束の間

 なんだか肌寒くて温かい飲み物が欲しくなって水を半ばまで入れたヤカンをコンロに置いたら、インターホンの音が聞こえた。とくに荷物を頼んだ覚えも無いし、人が訪ねてくる用事も心当たりはなくて、とりあえずは目先のコンロの火をつける。
 「こんにちわー」と扉越しでもわかる澄んだ声が聞こえて、玄関が開く音がした。開錠した音はしなかったから、不用心にも鍵をかけていなかったらしい。合鍵を持つのは今まで一度も訪ねてきたことのない母と最近入り浸っているアオさんだけだ。玄関の扉を閉めて、施錠する音がした。強盗とかだったら嫌だなと、呑気に思いつつ火を眺める。一旦足音がとまって、たぶん靴を脱ぐ間をあけてから顔を見せた声の主は、案の定アオさんだった。

「不用心だよ」

 アオさんは、体の線がハッキリとわかる服で肌を隠していた。

「鍵はしっかり、確認したほうがいい」
「……そうですね」
「真剣に、聞いてくれている?」

 わたしは曖昧に頷くことしかしない。
 アオさんは持ってきた箱をテーブルに置いてわたしの隣に並んだ。箱はケーキ屋さんのものみたい。

「人に貰ったのだけれど、僕だけでは余らせてしまいそうだから、一緒にどうかと思って」

 アオさんは手をのばして、コンロの上にある棚からコーヒー豆の入った缶を取り出した。わたしには台を使わないと届かない高さにあるその棚はだからほとんど使っていなかったのだけれど、いつの間にかアオさんが使うようになっていて、たまに中身が変わっている。抽出器具も取り出してきて、並べて置いた。

「お湯を沸かしているの?」

 また曖昧に頷いてみる。
 お豆をコーヒーミルにザリザリと入れて定位置に缶をしまってから、アオさんはレバーを一定のリズムで回してガリガリと挽き始める。その音と、急に降り出した雨の音は似ていた。

「雨、降ってきましたね」
「夜にはやむらしいから、それまで雨宿りさせてもらおうと思って寄らせてもらったのだけれど、大丈夫だった?」
「傘、ありますよ?」
「――追い出したかったら素直にそう言って頂戴。
 僕も一応、傘は持っているから」
「きょうは何も予定が無いので、どれだけ居てもらっても大丈夫です」

 すっかり“いつもの”になってしまった器を棚から取り出して、抽出器具の隣に置く。

「コーヒーで良かった?」
「ちょうどよかったです」
「紅茶の気分だったりしない?」

 横を窺うと、言いながらアオさんは笑っていた。少し意地悪に、からかおうとしたのかもしれない。

「温かいものが飲みたかったんですが、何にするのかは、決めていなかったので」

 沸いてきたお湯をカップに注いで、わたしの分のカップにだけ、お湯を捨ててから牛乳と砂糖をたっぷりと入れておく。

「そんなに入れて、甘すぎないの?」
「糖分過多ですね、おそらくは」

 コンロの火を止めても、薬缶の中で泡を立てている音が聞こえた。コンクリートに跳ねた雨の音と似ている気がする。

「気を付けてね」
「心がけます」

 アオさんはお豆を挽き終わると、珍しく布のフィルタをドリッパーにセットして湿らせた。気分がいいのかもしれない。

「たまにはゆっくり淹れるのも、いいものだから」

 沸騰したお湯をポットに注いで少し冷ましてから、挽きたての粉の上にお湯を落とし始める。
 それを横で見ているのも気分がいいけれど、お皿とフォークをテーブルに置いて、わたしはそのまま腰を下ろした。

「疲れてしまった?」

 アオさんの視界からはたぶん消えてしまったのではないだろうか。椅子にではなく、床に、腰を下ろしたから。
 何とはなしに、そうしたかった。
 一人暮らしの家だから、普段はそんな奇行に気を留める相手もいなくて、わたしは自由にしている。

「いえ……」
「ムリはしないでね」

 落とし終わったコーヒーをカップに注いで、わたしの分を軽くかき混ぜる音がした。
 アオさんがキッチンから出てきて、テーブルに、いつもわたしとアオさんが座る位置にそれぞれのカップを置く。
 キッチンに戻ってフィルタを軽く洗って干してきてから、アオさんはケーキの箱を開けた。

「チョコレートは平気だったよね?」
「……好きですよ」
「どちらもチョコレートケーキなのだけれど、チョコレートの風味が強いのと甘酸っぱいのと、どちらが食べたい?」

 わたしはやっと立ち上がる。箱の中を覗いてみると、表面のコーティングが光る二つのケーキが並んでいた。
 チラと向けられた気がするアオさんの視線は気にしないことにする。

「似ていますね」
「スポンジも異なるのだけれど、大きな違いはこちらにはあんずのジャムが挟まっていて、こちらはチョコムースが挟まっていることかな」
「ムースのほうを戴いてもいいですか?」
「どうぞ」

 そう言ってわたしのお皿にのせられたものは黒に近いチョコレートコーティングに表面が覆われていて、その下にきめの細かいスポンジに挟まれた明るい色のムースが光っていた。アオさんのお皿にのせたものは少し明るい色のスポンジに鮮やかなジャムの色が映えている。

「今度は椅子に座ってね」
「はい」

 ご飯を食べる時と同じように手を合わせていただきます、と声に出してから、まだ湯気の立つカップを手に取った。

「火傷には注意して」
「そこまで不注意では、ありません……」

 実のところ熱いカップや内容物でやけどをすることは珍しくなかったから、強くは言えないのだけれど。
 慎重に口に含むと、程よい苦みと砂糖の甘ったるさが舌についた。やっぱり砂糖を入れすぎたかもしれない。

「苦かった?」

 アオさんはわたしの表情が変わるのをしっかりと見ていたみたい。自分も口に含んで、そうでもないかな、と確認していた。

「甘すぎました……」

 なんだか居た堪れなくてわたしは目をそらしてしまったけれど、よかった、とアオさんはほほ笑んだ。

「次は、砂糖を控えめにしましょうね」

 ケーキにフォークを入れると小さな音とともに表面に亀裂が入り、スポンジが潰れて、切断される。口に含むとチョコレートの苦みと香りが鼻から抜けた。

「おいしい?」

 反射的に、はっきりと頷いた。
 コーヒーの苦みともよく馴染むほのかな甘さで、クセになりそう。

「それは何より」

 アオさんもおいしそうに頬を緩めていて、ケーキに目を落とすと、何か引っかかるものがあった。中身が保冷材だけになった箱は白無地で、店名や注意書きのシールなども見受けられず、ペーパーナプキンやフォークもない。必要がなければつけないでもらえるはずだけれど、ふと気になってしまった。
 人に貰った、とは言っていたけれど。

「……ほんとうは、アオさんの手作りではないですか?」
「どうして、そう思ったの?」
「否定は、しないんですね」

 少し困ったように、アオさんの眉が動いた。

「……材料を、貰ってね。せっかくだから、つくったの。
 僕だけで食べきってもよかったのだけれど、なんだか寂しくて。あなたにも食べてもらいたくなって」

 なんだか恥ずかしいな、とアオさんも視線をそらした。

「……このケーキ、本当に、とても、おいしいです。
 きっと材料も、よかったのですね」
「材料をくれた人に、あとでお礼を言っておくよ」


 食べ終わると、アオさんが食器を洗ってくれた。
 「あなたは今にも倒れそうで」と言われた言葉はどこまでが本気なのだろう。
 濡れないように肩口でまとめられた細い髪束は、一本一本の細さを物語っているようだった。

「一緒に、暮らしてみますか?」

 その言葉に深い意味はなくて、ほとんど無意識だったのだけれど。アオさんが手を留めてわたしのほうをはっきりとその澄んだ瞳で射てきたから、自分の口から洩れ出た言葉を遅れて認識する。
 このころにはすでに頻繁に数日間泊まっていくことがあったし、アオさんの持ってきてくれるお惣菜がわたしの食事の殆どでもあった。

「いまもほとんど、そんな感じだけれどね」

 強い雨はたまにしか降らないし、本当にいまは梅雨なのだろうかと厚い雲を見上げて思ったりはするのだけれど、夏至を過ぎて、まだ梅雨は明けていない頃だった。
 わたしはアオさんと、二人暮らしを始めた。

昏い朝

 憂鬱な日々に浮かぶのは過去の記憶ばかり。部分的には寝ている間に見た夢だとか、家電量販店の前を通った時に放送されていたテレビ番組の音もあることに気付いた。自分の体験とそうでないものとの区別が徐々に曖昧になってくる。表情に乏しい自分が笑った顔は妄想なのか、いつか鏡か写真で目にした記憶なのか。節目の集合写真以外はほとんど残っていないはずなのに。
 目を閉じて布団をかぶった闇の中は蒸れるような暑さがある。息苦しくて顔を外気にさらすと寒いような季節にいつの間にかなった。
 目を開ければ見慣れた天井がある。わたしはベッドの上でまどろんでいた。ここが自室でいまが夜明けと日没の間だということを認識してきたころ、最新の記憶ではソファの角に埋もれていた気がすることも思い出す。かつて耳に届いた声が思い出された。きっとあの人が、ベッドまで私を運んでくれたんだろう。

「アオさん」

 同居人の愛称を口にすると、視界の端で長い髪が重たげに揺れた。
 ついで顔に掛かった陰はアオさんのもの。

「お目覚め?」

 起き上がる気にはなれなかった。

「起きなくても、大丈夫」

 額にあたたかなものが触れる。アオさんの手だったと、熱が離れていくときにそれが視界に入って判った。
 熱はなさそうだね、とアオさんがつぶやく。

「きょうは休日だから、学校はないでしょう?」

 布団から出した手は湿っていた。傍らに置かれたアオさんの細い手首を掴むと、脈動が感じられる。
 羽毛布団に包まれていたわたしの手でも判るくらいに、アオさんの手首は熱を持っていた。

「熱い?」

 指を一本ずつほどかれて、わたしの手は布団の下に押し込められる。アオさんの手は離れてはいかなかった。安心させるようにわたしの手を包んでいる。

「……アオさんは――好きですか?」

 口を突いて出た問いに大した意味はないということを、一緒に暮らしているアオさんなら感じていると思う。
 夢の延長でまだ寝ぼけているのかもしれない。

「僕が、なにを?」

 誤った解釈で返事をして誤解を生んだことが、過去にあったのかもしれない。
 慎重に意味合いを確かめてくるから、わたしもなるべく素直な表現で伝える。

「わたしのことを……アオさんは、好きですか?」

 眉間に寄った皺は困り顔だと知っている。軽く首を傾げると細い髪が光を散らした。

「"好き"って、よく、解らないの」

 アオさんは視線を少し上に向けた。

「少なくとも――嫌いでは……ないかな」

 最適な言葉を語彙の中から探すために内なる辞書を見つめているような、そんな姿勢。

「一緒にいたいとは、思っているよ」

 曖昧な表現は、意味を図りかねているのだと判る。そのあたりの感性が、わたしとよく似ているから。

「君が暗い顔をしていると哀しいし、楽しそうだと嬉しい」

 一度瞼を下ろしてから、わたしの目を見つめてくる。

「これを、"好き"だと表現してもいいの?」

 哀しい影を帯びた顔は逆光で、向こうに細い月が笑っている。

「"好き"って、軽い言葉だと思うんです」

 わたし自身も、好きという感情の定義がよく解らない。
 時に簡単に憎しみへと裏返るらしいその想いはどこから生まれてくるのか。

「わたしは……アオさんのことが、好きです。多分」

 この掴みどころのない想いを表現する言葉は、他に見当たらない。
 少なくとも嫌いではない。それって、好きってことでいいんじゃないだろうか。

「会いたくなるんです……」

 アオさんがいないと、不安になる。いつからこうなってしまったんだろう。出会う前は、アオさんのいない生活が、普通だったのに。

「声が聞きたいと、思ってしまうんです」

 同じ時間を、長く、共有したい。アオさんの意思で、わたしの傍にいてほしい。

「ただ存在を思うだけで、安心するんです」

 他の人のことを楽しそうに話す姿は、もやもやする。けれどその時間があってこそアオさんは輝いているんだから、わたしとだけ居てほしいって訳でもない。

「わたしだけが知っていたらいいのにって、傲慢なことを、思ってしまうんです……」
「僕だけのものにしたいな」

 そのくらいには好感を持っているとアオさんは言う。背筋に冷たいものを感じるような、はっきりとした小さな声だった。

「正直に打ち明けると、僕なしでは生きられないくらいになってくれると安心なの」

 勝手に離れていかないということでしょう? と、泣きそうな顔で呟いた。

「親しい人は、いつの間にかいなくなってしまう……」

 湿った布団の中で、アオさんの手がわたしの手を握る力が強くなった。
 いつの間にか、と繰り返す。

「いつでも会えると思っていたのに……まだ、合えるような気もする」

 もう会えないという事実だけは知っているけれど、と呟いた。

「少しだけ、過去の話をしてもいい?」

 体を起こそうとすると、アオさんが手伝ってくれた。
 ベッドの端に腰かけて、布団を肩にかける。

「僕は長く同じ場所にいないから、すぐに知らせが届くことも珍しいんだ。
 親しい人も限られているし、連絡先を知っている相手が少ない。
 少ないけれど、居たんだ」

 過去形で言われたということは、いまは既に。
 いなくなってしまったと、いうことか。

「最近だと、中学生のころから親しかった、歳の近い相手がいたんだ」

 大切な人だったのだと優しいまなざしから伝わる。

「ずっと文通をしていたんだけど、返信が普段より長く無かったから、最後の手紙に書いてあった差出人の住所を訪ねた。
 数年前に川で見つかったらしいと長く住んでる隣人さんが教えてくれた。橋から落ちたらしいとあとで地域の新聞を探したら小さく載っていた。
 管理人さんが知り合いだったから、掃除された部屋を見せてもらったら、僕へ充てた書きかけの手紙があった。僕にはそれが遺書に見えてしまった。」

 手紙の内容には全く触れない。そこに書かれた何事かが、故意に橋から身を投げたのだと確信させるに至ったのだろうか。

「もともと、どこか影があった。
 あまり人の目を見ないし、偏食家で食も細かった。
 僕以外の知り合いは居たのかどうかもわからない。
 高校を出るあたりで両親を亡くして、勉強はできたから特待生で大学へ通って、卒業した。その時に一度顔を合わせたのが最後だった。就職して、仕事がうまくいかないことは手紙によく書いてあった。もし僕が声を拾えていたらいまも顔を見られたかもしれないと、思ってしまう。」

 だから大切な人の傍にいたいのだとアオさんは言って、続ける。

「よく通る道にパトカーと救急車が止まっていて、迂回して帰ったことがある。」

 少し前に、帰りが遅くなった日があったことを思い出す。

「そのあたりでは一番高い5階建てのアパートから誰かが落ちたのだと数日後に噂で聞いた。
 公園でよく談笑するおばあちゃんがいたのだけど、(くだん)の日の朝にも談笑して、また明日にでもと言って別れた。でもそれっきり、姿を見ていない。」

 その噂は、わたしも聞いた。
 認知症を患っていて不慮の事故だったのではないかと夕方のニュースで見た気がする。
 アオさんの、知り合いだったんだ。

「母はある時、仕事から帰ってこなくなった。いまもどこかで元気にしているのだと信じたい。何の便りもないけれど」

 アオさんから始めてきいた、家族の話。

「あるとき知り合いから、久しぶりの電話を受けた。他愛もない話をして、一方的に電話は切れた。彼女らしくないことだったから気に掛かって何度もかけなおしたけれど、一度も応答はなかった。
 お互い地方にいた時だから、数日かけてその人の家にたどり着いた。ぬるい真っ赤なお風呂に、服を着たまま浸かってた」

 救急車で病院へ運ばれるまでもなく、一目見て手遅れだと解ってしまった。それを告げる語尾は震えていたけれど、涙は見えない。

「親しかった従弟(いとこ)が立ち入り禁止の屋上から身を投げたこともある。幸いに軽症だったけれど。
 その時は職場がたまたま現場だった」

 アオさんから仕事の話を聞いたのも、初めてだった。
 やっぱり仕事を、少なくともしていた時期はあるんだ。

「後にも先にも、僕がその場に駆けつけられたのはこれだけ」

 アオさんが目元を大きな手で隠して天井を仰ぐ。窓の向こうに月は見えなくなっていた。

「初めて経験したのは、僕より年上の、相手が高校生だったとき。公園で知り合って、親しくしてもらっていた時期があった。
 気が向いたら遊んでもらうような関係だった。
 姿を見なくなって数年後、その人と同じ高校に入って、過去に事故で亡くなった在校生がいたと噂を耳にした。調べればすぐに同じ人だと知れた。」

「君にするような必要の、ない話だったかもしれない」

「昨日まで、つい数時間前まで普段通りにふるまっていた彼らが突然、もう会えないと知って……ぎりぎり糸を渡るようなところはあった。感じていた。
 あの時に振れてしまった理由があったのか――
 いまとなっては判らないけれど、君にも似たものを感じてしまうの」

 向けられた瞳はうるんでいた。

「会うことのできる相手はもう、数えるほどしかいなくて」

 親しい相手を作るとまた失ってしまうことが怖いのだと言い切った時、一筋の滴が頬を流れ、顎へ至る前に拭い去られた。

「むしろ僕のほうが、君の枷になってはいない?」

 重いと言われたことが何度かあって自覚するところだとアオさんはぎこちなく笑った。

 アオさんは、わたしの行動を何も妨げない。代わりとばかりにいつの間にか姿を消していたりすることはあるけれど、

「僕は、君を負担には思っていないよ。
 むしろ君のほうが、僕を重荷に感じていない?
 失うことを恐れるばかりで、君の妨げになってはいない?」

 隣に体を傾けると、アオさんの薄い体が受け止めてくれる。

「わたしは、アオさんが好きです。
 アオさんを、失いたくない。
 どんな形であれ」

 わたし自身の終わりをもってアオさんと離れることも、いまは嫌だ。

「わたしはしばらく、ここにいるつもりです。
 だからアオさんは、ここに帰ってきてください。
 帰りたいときに、帰ってきてください」

 アオさんの意思で。

「それだと、君の逃げる場所がないよ」

 冗談なのか、本気なのか。

「アオさんから逃げたいと思うことなんて、わたしにはありませんよ」

 きっと、これから先も。

夢の叢

 これは夢だと気付いた時、そこは星空の輝く草原だった。不思議と明るい、見渡す限り木の一本も生えていないそこで、幼いわたしは泣いていた。アオさんがいない。駆けまわっていたのか汚れた脚は傷だらけだったけれど、痛みは感じない。泣き疲れて眠ってしまって、目を開けたのは寝室のベッドの上だった。まだここは夢。寝室に隣接するリビングの窓のところにアオさんがいる。向こうを向いたアオさんの肩に手を伸ばすと背後から伸びてきた腕に抱き寄せられた。それはアオさんの熱を持っていた。目の前に座っていたはずのアオさんが、背後にいる。夢の中なのだから、何が起こっても不思議ではないはずだけれど。顔を仰ごうとしても長い髪に陰をかけられてその表情は全く見えない。照明をつけていない、窓から差し込む自然光だけに照らされた室内は薄暗かった。

 目を開けると壁が見えた。体が横を向いている。背に感じる熱の形は間違いなくアオさんのもの。首に回された細い腕が、それを確信に至らせる。掛け布団の上にアオさんが横になっていた。ベッドに入った時にはまだアオさんは帰宅していなかったから、もしかしたら遅くに帰って疲れていたのかもしれない。
 体の向きを変えると、アオさんと至近距離で目があった。

「起こしてしまった?」

 目元を拭われる。どうやらまだ乾いていない涙の痕があったみたい。
 細い鎖骨に額を当てれば、心臓の音が聞こえる気がする。

「寒いかな?」

 骨のような指がわたしの髪を掬う。

「おかえりなさい」

 吐息が胸に掛かってくすぐったそうに笑う音がする。

「ただいま。
 さっき帰ってきたところなのだけど、うたたねしちゃったね」

 ぽんぽんと後頭部に柔らかい衝撃を感じて、アオさんの影は離れていった。

「夜食を食べてくるよ」

 キッチンの照明がつけられ、油の跳ねる音がしてくる。
 おなかがすいているわけでは無い。時計へ目をやると、もう少しで夜が明ける。
 アオさんが調理している横で、テーブルに突っ伏した。いまは少しでも傍にいたかった。

「ミルクでも飲む?」

 肩にブランケットがかけられた。

「……練乳入りを」
「うんと甘いのを用意するね」

 楽しそうな声が離れていく。皿を出す音がして、ミルクパンをコンロに置いた音もする。

 テーブルにおいしそうなにおいがやってきた。冷凍野菜を閉じ込んだオムレツと、バターを塗った食パンかな。
 椅子を引いて、アオさんが対面に座る音がする。
 顔を上げると、目の前に黄身が勝った白いカップがあった。

 横から朝日が刺してくる。

「夜明け――」

 目を細めると太陽の熱を感じた。

「明けちゃったね。この後は寝直す?」

 朝ご飯もすぐに用意できるけど、とアオさんは言うけれど、いまは食欲がなかった。

「散歩に、出かけたい……」

 記憶のどこかに引っかかっている草原の姿を探しに行きたいと、思い立つ。

「ついて行っても大丈夫?」

 口をつけたホットミルクは、めまいがするほど甘くて、やけどするほど熱かった。
 頷いてから、冷たい牛乳をもってきて薄める。

「昼まで帰らないなら、サンドウィッチも用意できるけど」
「日が暮れてから、帰ってきます」

 きょうはずっと外にいたい。
 着替えるために、寝室に戻る。

「出かけるときに声をかけてね」

眩い白

 夜明けは鳥の声とともにやってくる。さっき日が暮れたと思ったらいつの間にか朝になっているような短い一日がやってきた。この時期は昼は温かいくせに日が暮れるとすぐに寒くなる。昼間に合わせて薄着で家を出たばっかりに、あたりが街灯に照らされる時間に帰路につくことになったいまはとても寒く感じる。冷え性だから指先は冷たくて顔に触れるのも厭わしい。帰ったら温かいお茶を飲もうと思いながら見上げた空には光があった。高い建物に視界を遮られて光の正体を見失う。見間違いかと建物の間を抜け空を見上げれば、ほとんど真上に正円の白があった。雲一つない空に星の輝きは少ない。近すぎる真円に隠されているんだ。
 見上げて歩くわたしへ目を向ける人がいるけれど、人通りは少ないからぶつかろうとしなければ接触することもない。時々フェンスに足や手をこすりながら、枝の向こうに浮かぶ月を見上げて思い出すのはアオさんの言葉。

「月が、きれいですね……」

 アオさんと出会ったあの日はまだ明るいうちから月が浮かんでいた。きょうも私が見ていなかっただけでもしかしたら、日暮れ前から低い位置に顔を出していたのかもしれない。

「前を向きなよ」

 通りかかった声は誰のものだろう。
 目線を下げれば数人がバラバラに帰路についている。
 あのうちの誰かが言ったのか、気のせいだったのかもしれない。
 まだ帰らない様子の人たちもいる。

「上を向いていたら、うまく歩けないでしょう」

 振り向けば街灯に後ろから照らされる人がいた。顔はよく見えない。肩にかかる髪は不思議な色に輝いていた。
 正体を尋ねようとして口を開きかけはしたけれど。近付いてくるから言葉にできなかった。

「暗いから、足元に気をつけてね」

 わたしの横を通り過ぎて、声の主は最寄り駅の方向へ姿を消す。すれ違いざまに光った瞳は暗かった。
 その後ろ姿はアオさんより小さくて、どこか似た影を残していく。
 誰だったのだろう。
 どうしてわたしに、声をかけていったのだろう。

棚の本

 アオさんが本を読んでいた。書店の紙カバーがかかった文庫本。半ばほど本の詰まった書棚に寄りかかって床に座って、膝の上に置いた本のページをめくっていた。わたしが留守をしている間にどこからか調達してきた本を読み終わると部屋の隅に置いてゆくから、それを収めるために組み立てた書棚だった。一緒にいる時間が増えて、アオさんが静かに文字を追う姿も見慣れてきた。話しかけても普段通りに返してくれるのだけれど、邪魔をしてはいけない気がして、それでも隣に座ることは許してほしい。温かさが恋しかった。

「何を、読んでいますか?」

 アオさんは顔を上げて、本の扉を見せてくれる。
 どうやら海外の著作のようだった。

「……面白いですか?」
「面白いよ。
 全く意味が解らない」
「それなのに、面白い、ですか?」
「僕には理解できない価値観の視点で論じているから、とても興味深い。
 理解はできないけれど、そんな視点もアリなのかと僕の視界を圧し広げてくれるの」

 パタンと音を立てて本を閉じてしまう。まだ数十ページくらいめくられていないような気がした。

「読み終わりましたか?」
「もう、3度目だからね。
 今回の分は、最後まで読んではいないけれど」

 よく見たら棚に並べられた文庫本の間に1冊分の隙間のあるところがあった。アオさんはそこへ今しがた閉じた本を差し込む。

「お茶にしましょう」

 頭に乗せられた手が温かい。左右に動いてわたしの髪を乱す。アオさんは意味のないこの行動をたまにする。曰く気分転換らしい。

「紅茶と……マドレーヌでいい?」

 手が離れると名残惜しいのはどうしてだろう。
 アオさんはキッチンに立ってやかんを火にかける。

「ケーキがいいです」

 マドレーヌはアオさんが今朝作っていたもの。数日前にもパウンドケーキを作っていた気がするけれど、ここ最近お菓子作りが頻繁な気がするのは単なる趣味か、なにか気分転換でもしたいことがあったのだろうか。

「生クリームは、ほしい?」

 棚から紙袋に入ったケーキを出して、切り分ける。

「紅茶に入れたいです」

 卓についてアオさんの背を見つめると、髪の流れが少し乱れているのに気が付いた。珍しい。
 背後に立って手を伸ばすと、触れる前にアオさんが横へ飛んだ。遅れて重力を思い出すしなやかな髪が急な動きに驚いて引いたわたしの手を叩いた。
 茶葉を量ろうとしていたアオさんの手にはスプーンがある。

「……どうか、した?」

 傾げられた首に追従して細い髪が少し宙を遊ぶ。

「驚かせてしまいましたか?」
「ごめんなさい。僕のほうこそ、急に動いてしまって」

 日を置いてバターが馴染んだパウンドケーキに添えられたドライフルーツは、中に混ぜ込まれているのとおなじもの。レーズンとカシューナッツにオレンジピールくらいしかわたしには判らないけれど。アオさんには何かこだわりがあるみたいで、少なくなるとどこかで同じものを調達してくる。

「……おいしそうですね」
「おいしくなかったこと、ある?」
「もちろん、記憶にありません」



 温かい紅茶は体を温めてくれる。ミルク無しでも甘くて心地いい。ほのかな渋みがドライフルーツの香りを引きたててくれる。
 それでもわたしはやっぱり牛乳を入れて、舌触りを滑らかにしたミルクティのほうが好きだった。

凍れる空虚(うろ)と燃ゆる蒼穹(そら)

お読みくださりありがとうございます。

凍れる空虚(うろ)と燃ゆる蒼穹(そら)

アオさんは、とても細く、白く、それでいて暖かく、柔らかいひと。 ふわふわとして朧げなわたしを、この世界と、繋ぎとめているもの。 アオさんとわたし、二人を繋ぐものは恋ではない。友情なのかも判らない。 血のつながりはもちろんないし、お互いの素性だってまだ詳しく知らない。 これから知っていくために共に暮らしたいと思った、現時点では他人同士。 夢か現か、そんなことはどうだっていい。 そこにアオさんがいて、それをわたしが認識しているんだから。 アオさん。蒼穹(セカイ)に映える、うつくしいヒト。

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2018-02-02

CC BY-NC-SA
原著作者の表示・非営利・CCライセンス継承の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-SA