きみの鹿
ㅤ鹿がいた。
ㅤ塾の帰り道、大きな公園のなかの小さな森に、鹿がいた。立派な角の、おとなの鹿が。
「こんばんは」
ㅤ鹿が、少し首を傾けながら言った。暗闇の中で、オレンジ色の瞳が輝く。
「こんばんは」
ㅤしのぶは小さくお辞儀した。鹿をこれほど近くで見たのは初めてだった。いつも動物園の中で見ていた。逃げ出さずにいるしのぶを、鹿は不思議に思った。
「怖くありませんか」
「少しだけ」
ㅤしのぶは塾用の鞄を土の上に置き、ゆっくりと鹿の方へ近づいた。そして腕を回して鹿の大きな背中に頬を寄せるしのぶを、鹿はじっと受け止めた。しばらくそうしていた後に、くしゅん、というしのぶのくしゃみをきっかけに、鹿がそっと離れた。
「すいません、ずっと憧れていたのでつい……」
ㅤそう言ってしのぶは鞄を拾い上げた。
「なかなか美しいでしょう」
ㅤ鹿は腰を下ろしながらしのぶに微笑みかけた。そのまつげの長いことといったら、しのぶが今まで見てきたあらゆる鹿のうちで一番だった。確かにこの鹿の言う通り、体つきにおいても毛並みにおいても並外れて『美しい』鹿であった。
「はい、とても」
ㅤしのぶは膝をついて、鹿の瞳を覗き込んだ。遠くの灯かりか、それとも月の光か、真っ黒の鹿の瞳にオレンジ色の光が宿っていた。
「どうしてこんなところに?」
ㅤ鹿は瞼をパチリと動かして
「失くし物です」
と答えた。しのぶは、一緒に探しましょうかと言ったが、鹿は
「きみに頼むのはどうも忍びないのです。早くお帰りなさい」
と首を振るばかりで、ついにしのぶは門限のために森を出なければならなくなった。
「またいつか」
ㅤそう言って大きな鹿は、しのぶがきちんと公園を出ていくよう促した。しのぶの方は、どうしようもない気持ちで胸がいっぱいになっていた。
ㅤその次の週は、家を出る前から雨降りで、塾の帰りは母が車で迎えに来てくれることになっていた。しのぶは母を待ちながら、自分が塾のビルの前で雨宿りをしている様子を想像していた。雨粒の斜線の中でビルが光る様子は、思い浮かべるだけでも心が踊るのだ。目を瞑って雨音に耳を澄ませていると、しのぶは近づいてくる車がわかった。銅色の車の光が、雨の中から見え始める。
「ひどい天気ね」
ㅤしのぶの母は運転席の窓を開け、しのぶに早く車に入るように促した。
「テストの方は大丈夫?」
ㅤしのぶは母が言わんとしていることがわかった。しのぶの父はいわゆる教育パパで、特にモチベーションを保つために校内での順位も意識しなさいと、ことある毎にしのぶに話していた。
「どうにかなりそう」
ㅤしのぶは、膝の上に置いた雨の日専用のかばんにつけているジャラジャラのお守りを数えた。受験の神様に、安全の神様。その他、健康の神様、天気の神様など。しのぶはすぐに、通り過ぎていくオレンジ色の街灯に目を戻した。
「ミカゲちゃんも頑張ってるらしいからね」
ㅤ母は下谷ミカゲの志望校が同じだと知っていた。下谷ミカゲは、しのぶのクラスメイトだ。
「うん」
ㅤこの海沿いの道の赤信号は短い。この時間となると、特別短くなる。
「鹿がいる」
ㅤしのぶはそう呟いて車を飛び出した。母はそれを追いかけようとしたが、信号は青い光に変わり、後ろからトラックが来た。一瞬だけ窺えたオレンジ色の瞳とあのしなやかな影を探そうと、しのぶが階段を駆け下りると、大きな鹿が砂浜を歩いていくのが見えた。
「こんばんは」
ㅤしのぶは久しぶりに大きな声を出した。鹿は歩くのを止め、しのぶの方を向いた。
「夜も遅いです」
ㅤおとなの鹿はしのぶの顔を一瞥し、また背を向けて歩いていこうとした。
「まだ何も言ってません」
ㅤしのぶは負けじと声を張り上げ、鹿の元へ走り寄ろうとしたが、この雨のせいで足場は悪く、砂浜に倒れ込んだ。
「待ってください」
ㅤもう一度、大きな声で呼び止めようとした。鹿はゆっくりと振り向き、また歩きだそうとしたが、しのぶのあり様を見兼ねて歩き寄った。
「私はきみの欲しがるものを与えられません」
ㅤ鹿はしのぶの瞳を覗き込みながら言った。
「きみの願いを叶えてやれない」
ㅤしのぶは砂を払って立ち上がり、鹿の頬のあたりにその右手を寄せた。
「いいえ」
ㅤ美しい、それだけでこの上なく素晴らしいと思った。そしてしのぶは鹿の首に手を回し、抱き寄せた。頬をすり寄せると、鹿の毛も雨に濡れていることがわかった。しのぶは自分の額に張り付く前髪も気にせずに尋ねた。
「なにを失くしたのですか」
ㅤしのぶは顔を離して、鹿の瞳を見据えた。雲間から少しの光がもれている。
「角です。ごく小さな角の欠片です」
ㅤ鹿の頭には、きちんと立派な角が生えている。鹿は細い声で続けた。
「私はきみを頼ってしまうことが怖い。私は動物です」
「大丈夫です。みんな同じです。星の爆発で生まれたんだから」
ㅤしのぶはこれまでになくハッキリと言い切った。正確には星の爆発でないことくらい、しのぶにもわかっていた。ただ、鹿が逃げてしまうことが嫌だった。鹿はその真っ黒の瞳に、しっかりとしのぶの冷たそうな肌を映していた。
「しのぶ!」
ㅤ防波堤の方から声がした。雨の中でも我が子を探そうとする、母の声。
「ずっとあなたに会いたかった」
ㅤしのぶはどうして自分がこれほど必死になっているのか分からなかった。しかし、今を逃してはならないとだけは直感していたのだ。鹿は声を震わせて言った。
「私はいずれ醜い姿に変わるでしょうし、永遠にきみの神様ではいれません」
ㅤほんの数秒だけ、時が止まったかのように波がやんだ。
「気が狂ってきみを食べてしまうかもしれない。それでも一緒にと言ってくれるなら、私はきみを連れ去ることが出来る。三秒だけ待ちます。私はきみの鹿になります」
ㅤ鹿は一息に伝えて、しのぶの返事を待った。しのぶは、母の声のした方を振り返った。そして、鹿の瞳の光を見つめて
「それでも良い」
と、言った。ピュッと風が強く吹いて漸く、しのぶは自分が鞄を抱えたまま飛び出して来たことに気がつき、鞄を砂浜に置いた。その様子を見ていた鹿は、あれ、と言った。よく見ると沢山のお守りの中に、鹿の角の結ばれたものがあった。しのぶはそれを鞄から外して鹿の角に結び直した。そして鹿の背によじ登り、鹿に尋ねた。
「これからどこへ行くのですか」
ㅤさっと雲が引き、月の光が浜辺に注がれた。
「地獄です」
ㅤ鹿は小さな声で、しかしハッキリとそう言い切り、駆け出した。 しのぶはしっかりと鹿に抱きついていた。雨が一層強く降り始めた。遠のく光の粒の中で、母に名前を呼ばれた気がした。
きみの鹿