狐福

狐福

「狐福」
     1
 心の中は眼下の街を映すように蠢いていた。
新聞紙の端から炎が這い文字を浮き上がらせながら丸まり、灰となって大阪の街に降り積もっていく。その奥の瀬戸内海で瓢箪のようにくびれた柿色のお日様が申し訳なさそうに海へと溶けていく。
ベニヤ板の塀で囲まれたこんもりとした岩の上で徹は掌の生命線を断ち切るように爪を立て握り拳を作っていた。柿色に染まる岩も開発という口実で灰色の土に埋められ地層の黒子となって眠ることになるのだろう。ここに来た目的も叶えられず、何も変えることができなかった。徹は岩を踵で蹴り、目を閉じても瞼を透けて忍び入る光景に向かって(渡るときが来た)と吠えた。

「女王様を探し出し、姫との結婚を認めてもらえ」あの海の向こうで亡くなった父の厳命はそれだけだった。手がかりは父が持っていた赤と青の直線が引かれた西日本の地図と母の言葉だけだった。
「女王様は大昔の王様が進軍した赤い線に沿って旅をされたのだろう。ただ、女王様ももう高齢になられた。女王様が暮らしておられるとしたら赤い線のどこか」と母は大きな瞳で徹を押さえつけるように見詰めて話した。
「でも王様の奥様は青い線をお進みになられたのでしょう」
「そう、それは国を守るために」
「ならば、青い線を探したほうが」徹の声に母親は首を横に振った。
「そちらはお父様が探しつくしたわ。それに女王様も若くはないの。そんなに険しい道を歩くなど考えられない。きっと思い出の残る地に留まっておられることでしょう」
「赤い線のどこを探せば良いのですか。その線は対馬から御蓋山まで繋がっているのですよね」徹は地図を広げて母に突き出した。
「そうね。王様がたどり着いたと言われている東の端から探し始めなさい。女王様の便りが途絶えたのも御蓋山なのです」母は赤い線の端が擦れて消える御蓋山を指差し、地図を開いたまま徹に返した。
「どうして僕が女王様を探さないとならないのですか」
「それはお父様の命。いいえ。子孫を残せるのは女王様の娘。姫しかいないのです」
「僕たちは絶滅危惧種なのですね」
「そういうことです」
「猶予は来年の今頃。遅くなれば姫も子供を残すことができなくなるのです。わかるわね」
「でも、僕はまだ子供なのです。お母さんは一年もの間、子供を一人旅に出して心配にならないのですか」
「あなたはもう小学五年生、もう立派な大人なのですよ。――お供の者を二人付けます。なにかと手助けをしてくれると思います。ですが決断するのは全て徹。あなたなのです。わかりましたね」と母は父の形身である首飾りを徹の首に掛けた。

 徹は首飾りを服の上から握り母の温もりを思い出していた。
御蓋山の麓にある神社で得た情報に従って、奈良盆地を横断し生駒山を越え、王様の墓が有ったと言い伝えが残る石切までやって来たが、結局女王様とも姫とも会えなかった。女王様がどこかの寺や神社にいてくれれば見つけることもできるのだろうが、身の安全のため一般人となり姿を隠しているという。その上、徹は女王様と会ったことが無い。徹は地図帳に挿んであった美人画の絵葉書を取り出した。これが女王様の写真ならば人に尋ねることもできるのだが、美人画を見せてまともに取り合ってくれる大人は一人もいない。探すことが不可能であることを一年かけ実証してきたみたいなものだ。明日は母と約束した家に戻る日だった。今晩、大阪から船に乗り別府に帰るしかない。時間切れ、絶滅を宣告される日。
「女王様はどこにおられるのですか」徹は右足を膝の高さまで持ち上げてから勢いよく岩に振り落とし、その下で眠っておられるかもしれない古代の王様に向かって叫んだ。岩は東西に一直線の赤い光を放ち、クリスタルの破片のような鋭い光を街や山にばら撒いた。
「王様。ごめんなさい」徹は岩を飛び下りて塀の隙間をくぐった。生駒山の山頂に向かって伸びる上り坂。民家に囲まれた坂の上に赤い鳥居。その鳥居の手前から荷物を抱えた家族連れが出て来た。両親と姉と弟の四人家族のようだった。小学生の低学年ぐらいの男の子が両親と繋いだ手をぶらんこにして燥いでいる。その背を羨ましそうに見詰めながら背負っている荷物を担ぎ直す女の子。徹はその顔をどこかで見たことのあるような不思議な気持ちになっていた。

     2
 生まれて初めて乗る船は幾重にも白いペンキが塗られた客船。
 夕陽は随分前に黒い海に沈んだのに、コンクリートの埠頭は風呂にでも浮かんでいるかのように暑かった。歩いているだけでのぼせてしまう。船が横波で埠頭に掛けられたタイヤに押し付けられると潮の香りと生温い風が船腹と埠頭の隙間から吹き上がり、茜のワンピースを紙風船のように膨らませた。船に掛けられたタラップの上で茜はボストンバックをお尻に回してワンピースの裾が捲り上がらないように押さえた。タラップを上り振り返ると白いシャツやブラウスを着た乗客が列を作り埠頭を埋めていた。それを全て食べ尽くしてしまうこの老船は重さに耐えられず湯の中に沈んでしまうのではないだろうか。茜は風呂に浮かんでいたアヒルの人形を弟の勇が無理やり湯の中に沈めニタリと笑った顔を思い出した。
金色の線が四本入った肩章をつけた半袖の白いシャツを着て白い髭を蓄えた恰幅の良い中年男がデッキの上で背筋を伸ばし立っていた。漫画で描かれる船長そのもの。乗客の出迎えに船長が船橋から降りてきたのだろう。白い口髭が毛虫のように動いた。船長は茜に何かを話しかけたようだが、乗客がタラップを蹴る音と話し声で掻き消されてしまった。ロビーに入ると乗客は船底に撒かれた金貨を奪い合うような勢いで幅広の階段を駆け下りた。船底には深緑色で硬いカーペットが引かれた大広間。大人の背丈ほどの棚で区切られた二等客室がある。まだ夜の九時だと言うのに奥の部屋では大人たちがスポンジをビニールで覆っただけの粗悪な枕を頭の下に敷き、カーペットのように硬い毛布を精一杯広げ寝ている。先に階段を駆け下りた勇が毛布を四枚、カーペットの上に広げスポンジ枕を腹の上に置き大の字で寝ていた。
「勇。何をしているの」
「場所取りや。姉ちゃんも大の字になってや」
 道端で遊んでいる子供の玩具を平気で奪い取る大阪のおっちゃんがいるくらいだから、子供一人で家族四人が寝る場所を確保するのは難しい。茜は勇の横で股を広げ両手で毛布の端を握った。
「こら、茜。女の子が大股広げて」階段を降りてきた母の峰子が廊下に唾を撒き散らしながら怒鳴った。
女の子だからというだけで怒られることに合点が行かない。茜は胸の前で腕を組み、頬を膨らませ脚の付け根が悲鳴を上げるくらいまで広げた。
「あんた。なんとか言ってやってくださいな」峰子は振り返り、ボストンバックを両肩から斜めに掛け両手に紙袋を持った倉田康介に向かって言った。
 康介はまだ若いのに禿げていた。その頭の上をボストンバックの肩紐を滑らし、ボストンバックを毛布の隅に降ろした「ご苦労。ようやった」康介は満面に笑みを湛え、子供たちの頭を撫でた。
「あんた。褒めてどうするの」峰子の眉は更に吊り上った。
 康介は茜の股間に毛むくじゃらの手を突っ込んできて「毛虫が射すぞ」と言いながら太腿の内側を平手で叩く。
「痛いよ」茜は股を閉じワンピースの裾を膝下まで伸ばした。
「さあ寝ろ」
固い床、煌煌と輝く蛍光灯、周囲には知らない人が寝床を作ったり弁当を食べたりしている。出航の合図を示す銅鑼の音が船内に響き渡った。大型犬の唸り声に似た機械音と、銭湯の脱衣所にあるマッサージ器のような振動が床や壁から伝わってくる。この大きな船の心臓がバクバクと動き出し血液が流れ始めた。寝ろと言われて直ぐに寝られる子供は居ない。脚を伸ばし壁にもたれ腹の上で枕を抱いている男の子に峰子は優しい声で語り掛けた。周囲に家族は見当たらない。この男の子が席取り合戦で迷子になったのだと峰子は推測していた。
「僕のお母さんは何方にいるん」
「俺、一人です」カーペットの端を弱弱しく見ていた男の子の大きな瞳が瞬いた途端に強い光を放つようになり、峰子の瞳を捉えた。
どこかで見たことがある風采。鼻筋がとおり眉毛が太い。母と男の子のやり取りを横で見ていた茜はその横顔が誰に似ているのか思い出せないでいた。
「親と逸れたのではないの」
「一人旅です」男の子は正座に座り直して背筋を伸ばした。
「何年生なの」
「小学五年生です」
 周囲で二人の会話を聞いて居た大人たちから感嘆の声が漏れた。
「茜と同じ年で一人旅をさせて親は心配じゃないのかねえ。デッキから海に落ちるかもしれんし、誘拐されるかもしれへんのに――」と峰子は茜と見比べながらぶつぶつと心配事を並べた。
「俺は男ですから大丈夫です。それに別府の港には母が迎えに来てくれていますから」
 別府までは大阪から十三時間ほどかかる。その間子供が一人でこの大きな船で過ごすなんて茜には信じられなかった。
「名前は何ていうの」
「井原徹です」
「徹君か。小母さんは倉田峰子」峰子は家族を順番に紹介した。
「困ったことが有ったら遠慮せんと言えよ」一歩下がって眺めていた康介は、映画の寅さんのように片肩を前に突き出して言った。
「徹君。独りで寂しくはないの」隣り合わせになった小母さんが上半身を丸めたまま招き猫のように右手を上げて聞いた。
「慣れていますしお姉さんたちがおられるので寂しくありません」
「まあ、お姉さんだなんて、もうおばさんよ、あは」子供の愛想がおばさんは嬉しかったようで左手で弛んだ唇を隠し、手招きする右手を激しく動かした。小母さんと言う生き物はなんと単純で、見知らぬ小母さんにまで愛想を言う男子とはなんと哀れな生き物なのだろう。茜が視線を落としていると隣で勇が高い声をあげた。
「兄ちゃん。一万円札のおっちゃんに似ているんとちゃうか」
茜は声を出すことを忘れ口だけを大きく開けた。徹に髭を付ければ一万円札に描かれた聖徳太子に似ている。周りの大人たちも顎先を上下に振っていた。
「兄ちゃんは別府に行くんやろ。別府の地獄は恐くないんか」
「勇。別府に地獄なんて無いわよ」
「絶対有る。坊さんが地獄から生まれてくるのをテレビで見たんや」
訳の分からないことを言う勇を茜は睨み付けた。人見知りの性格だった勇は小学校に上がって急にお喋りになった。学校で悪い友達ができたのではと茜は心配していた。
「有るよ」徹は聖徳太子のような切れ長の目をピクリとも動かさないで呟くように言う。
「子供に適当なことを言わないでくれる」
「姉ちゃんやって子供やないか」
確かに子供だけど勇より大人よと茜は言い返したかったが、兄妹喧嘩が泥沼化するだけなので矛先を井原君に向けた。
「本当に有るのなら、何処に有るのか説明してよ」
「別府は温泉地なのだけれど、坊さんの頭のような泥を噴き上げる坊主地獄と呼ばれているところが有る」徹は素早く立ち上がり、反対側の棚にもたれてガイドブックを読んでいる長髪のお兄さんに「お兄さん、その本を貸していただけないでしょうか」と頭を下げ、丁寧にお礼を述べてから、その本を捲りながら戻ってきた。
「ほら」カーペットの上に広げられた本には、湯煙の間から生まれた坊さんの頭のような形の泥の写真が載っていた。
「これや。ほら僕が言った通りやろ」勇は鼻の下を人差指で擦った。
「地獄めぐりをしていると硫黄の臭いが凄くて息ができなくて死にそうになる」徹は尖った鼻を指でつまみ苦しそうな顔をしてみせた。勇も自分の団子鼻をつまんで毛布の上に倒れ込み、両手両足を仰向けになった黄金虫のようにばたばたと動かし声を出して笑った。茜には何が可笑しいのかさっぱり分からない。
「早く寝ろ。騒いでいると周りの人に迷惑になる」康介は子供たちに毛布を投げ、顎で峰子に子供たちを寝させる指示を出した。
 毛布を畳む音とそれから吐き出される獣のような臭いで茜は目を覚ました。部屋の照明は消され廊下の補助灯だけが点いている。エンジンが唸る音と、じわりと傾く床を全身で感じ、茜は船底で寝ていることを思い出した。白い靴下を履いた子供の足が頭上を越え、カーペットの上を庭園の飛び石を渡るように丁寧に。そしてその足は静かに廊下に飛び降りた。スニーカーを履くときの廊下を蹴る音が微かにしたが足音は聞こえない。茜の横には長方形に乱れなく畳まれた毛布が置かれていた。部屋を出て行ったのは徹で間違いない。トイレなら直ぐに戻って来るだろうと、橙色の光を廊下に落としている補助灯を眺めていた。茜は直ぐに自分の推理が間違っていることに気が付いた。トイレに行くだけなら毛布を丁寧に畳む男子はいない。徹は暫く部屋には戻って来ないつもりなのだ。壁に立て掛けてあったナップザックもそこには無かった。もしかしたら永遠に戻って来ないかもしれない。茜は衝動的に立ち上がった。体の形を模ったままの毛布を残し、毛布の隙間を飛び跳ねるようにして廊下に降りた。廊下の冷たさが靴下を滲みて伝わってくる。
「茜。どこに行くの」母の擦れた声が背後から聞こえた。私はトイレだと言って、靴の踵を踏み潰したまま階段を駆け上った。親に嘘までついてどうして徹を追うのか茜にも分からない。火照った心が胸の中から前に押しているように感じた。
 ロビーは人で溢れていた。銅鑼が鳴り響き甲板にいた人たちを混雑するロビーに押し込んだ。船は港を出航しようとしている。茜が人の波を掻き分け甲板に出ようとすると扉の横で白い口髭の船長が壁に埋め込まれた電話の受話器に向かって大きな声で怒鳴っていた。甲板でトラブルが起きたのかもしれない。茜は船長の脇の下をすり抜け甲板に出たが数名の船員が作業をしているだけで騒動も徹の姿も無かった。徹はこの港で下船してしまったのだろうか。いや終点の別府まで行くと言っていたのを茜は思い出した。白いペンキで塗られている筈の甲板の手摺が朱の網目状に輝いていた。茜は徹を探すことを中断し、手摺に両肘を付き甲板を蹴って上半身を外に乗り出した。黒い海に浮かぶ真っ赤な鼓。何もかもを吸い取る真っ黒な海はその強烈な赤い光には負け、それだけをゆらゆらと映していた。
「お嬢ちゃん、危ないぞ」甲板で作業をしていた船員が声を掛けてきたが、茜は「ねえ、あの大きな鼓は――」と尋ねた。
「ポートタワーやな」船員は帽子の鍔をずらして見上げた。
「お兄さんはあそこに昇ったこと有るのですか」
「いや、あらへん。見上げるだけや。さあ、危ないから降りてや」
茜は両肘の力を弱め、浮いていた両足を甲板に戻した。
「もっと見たいんやったら、あそこの外階段を登って上甲板に行けばええんやけど。ちゃんとお母さんに行き先を言わんとあかんで」
その船員の声は金属が擦れ合う音で掻き消され茜の耳には届かなった。甲板の朱に染まった鉄壁に開いている長穴から黄色い光と爆音が飛び出し、見えない壁を作り通行を拒んでいた。茜はその壁の手前で両耳を掌で押し潰し、唇を窄め、目を限界まで細めた。もう一本手が有れば鼻の孔さえ塞ぎたかった。その開口に張られた鉄製のチェーンに『機関室のため立入禁止』の札が揺れていた。
一歩足を前に踏み出すと、それを拒絶するかのようにエンジン音はラッパの形に変わり真っ赤な鼓を連打する。船は後ろに進み始めた。茜は自分の背中を盾にして手摺ぎりぎりをすり抜けその先にある外階段を駆け上がった。パイプと丸棒で作られた白い柵が上甲板を取り巻き、ベンチが外灯で薄らと浮き上がっていた。上甲板より更に一段高くなった特等室とは人種を区別するように柵で区切られている。その上にある艦橋が左右の海に突き出ていて、茜の侵入を監視していた。船が完全に離岸し前に進みだすと、潮とヘドロが混合した重苦しい臭いが上甲板を這う。掌で口と鼻を押さえ息を止めポートタワーを見上げた。茜の肩を背後から叩いたのは徹だった「よう」徹はズボンのポケットに何かを突っ込み笑顔を見せた。ガムを噛んでいるのだろうか口だけが運動を続けている。
「井原君、どこに行っていたのよ」
「どこって、ここだけど」徹はベンチの背もたれに手をついて、尖った鼻をポートタワーに向けた「神戸は百万ドルの夜景だと言われているそうだけど知っているか」
「――神戸」茜の脳は船が神戸港にいることをやっと認識した。茜はカモメとなり船の上をポートタワーより高く飛び、神戸の街を俯瞰していた。海と山に挟まれた光の大河がそこに横たわっている。
「ここの夜景は好きじゃない」
「え、すごく綺麗じゃない」
「ポートタワーと街ばかり浮き上がり、その周辺は暗闇に包まれている。何か不吉で不公平だと思わないか」
 聖徳太子が何を言いたいのか茜にはさっぱり分からなかった。
「片寄った強い光は影を生む」
なんて難しいことを言う小学生なのだろう。聖徳太子とあだ名を付けたことは強ち間違いではなかったと茜は思った。茜は最後尾のベンチに座り潮風に泳ぐ髪の毛を両手で梳いてから、徹に隣に座るように勧めたのだが、何を話せば良いのか思いつかない。徹は片足を軸にくるりと体を回転させベンチに腰を下ろした。
「船に乗るのは初めてなのか」
 茜は口の横に手を当て大きな声で「そうよ」と叫んだ。どうして船に乗るのが始めてだと彼に分かったのだろうか。徹は唇を固く閉めしばらく前方を見ていたが、急に左手を海に向かって伸ばした。満月から落ちてきた光が黒い海に乱反射しながら、海に浮かぶ黒くて大きな塊まで一直線の光の道を造っていた。
「あれが俺の親戚が住んでいた淡路島。あれを越えてしばらくすると島が海からにょきにょきと生えてくる」
「竹の子みたいね」
「沢山、島が生えたら四国と本州が陸続きになって船に乗らなくても良くなるかもな」
 明石海峡を抜けると船は陸から離れ街の光は細い横線となったが、徹の瞳は中から輝いていた。徹は聖徳太子の生まれ変わりなのではないだろうか。茜の理解を越える徹の言動を見ているとそう思えた。
「倉田さんは、どこで船を降りるの」
「四国の松山まで。私が先に船を降りるのね」
「そうか」と徹はこれから島が生えてくる方向を見ていた。
「僕も九州が片付けば四国に行かなくてはならない」
「井原君も松山に来るの」聖徳太子の返事を遮るように階段を突く音が途切れ途切れに聞こえてきた。昇って来たのは長い髪を耳の上で押さえた若い女の人だった。ラッパのように裾が広がったGパンを履き胸にアルファベットが重なって踊る赤いTシャツを着ている。ベンチに近づいてくる女の顔は化粧で白いお面を被っているようだ。「あら、徹君。こんなところでデート。隅に置けないわね」朱色に唇が艶めかしく動く。女は明らかに徹をからかっている。真面に受け止めた徹はベンチから飛び上がり、まるで浮気がばれたお父さんのように掌を激しく左右に振った。
「もう大人なのだから良いじゃない」と徹の小さな肩を女はなだめるように優しく揉んで微笑む。徹は俯き肩を窄め膠着している。茜の目には情けない男に映った。
「小母さん、徹君はまだ子供なのですよ。困らせないでください」茜は立ち上がり声が風に掻き消されないように、腹から声を出した。
 女の唇が中央から剥がれるように開き「心配しないで。彼を奪ったりしないから」と言って唇からルージュが付いた八重歯を出した。
徹が小母さんとどうなろうが関係ないと茜は考えようとしたが、徹の困惑している横顔を見せられるとおいそれと生贄に差し出す訳にもいかなかった。
「徹君、誰よ。その小母さん」と茜は使い慣れない汚い口調で徹を追い詰めた。結局困らせているのは自分なのではと思ったが発した言葉は戻って来ない。恥ずかしい気持ちが茜の奥深いところから湧きだした。いっそのこと徹が叱ってくれれば楽になるのに。と自分の気持ちを黒い布で覆ったが、聖徳太子は眉間に皺を寄せるだけで何も答えてくれなかった。喧嘩をする相手が同級生ならば手の打ちようも有るのだが相手は一回りも年上の大人の女性。どうしたら宙に浮いた徹の心を取り戻すことができるのか茜にはその糸口さえ掴めなかった。睨み合いが続いた。先に折れたのは小母さんだった。両手を頭の上に小さく上げ「降参」と言って茜を馬鹿にする。頭上から下ろした手を握り拳に変え徹の脇腹を軽く突いてから、揃えられた長い指を頭の上で振りながら吸い込まれるように階段を降りて行った。徹は頭を掻きながらベンチに腰を下ろし細くて長い息を吐く。茜は徹の横に座り「大丈夫」と声を掛けると徹は小さく頷いた。
「知り合いなの」
「――知り合いと言えば知り合い」
茜の頬を瀬戸内海の風が冷やしてくれているのに胸の中は火照ったままだった。どうにかして会話の分岐点を探さなくてはならない。
「あの人とは去年……この船で……知り合ったんだ」徹の声は弱弱しく風に飛ばされ、途切れ途切れとなって茜の耳に届いた。
「去年船で知り合った人と今夜また会ったってことなの」
徹は首を捩じるように頷いた。そんな偶然が有るわけが無い。男子の返事はいつも曖昧で言い訳が下手だと茜は思った。
「――倉田さんって家族の人と似ていないな」会話の分岐点は突然訪れた。男子は都合が悪くなるとこうやって話題を切り替えることを茜は今の父親を見ていて知っている。
「ほら、家族の人はみんな丸顔なのに、倉田さんだけ卵形だろう。それに、家族は関西弁を話しているのに倉田さんだけは標準語だし」
 男子を追い詰めても甲斐が無い、茜は話を合わせることにした。
「私は貰い娘なの」
「え。ごめん」徹の顔が曇った。
「良いのよ。男子からそれで苛められているから慣れているわ」
「僕は苛めたりしない」徹の顔は聖徳太子に戻っていた。
「ありがとう」これでこの話題を終わらせることもできるのだが、何故だか茜は話を続けたかった。
「大阪の石切って知っている」
「石切さんのあるところだよね」
 関西ではそこそこ名が知れた生駒山の麓にある石切劔箭神社を、「つるぎや」が読めない子供たちは「石切さん」と呼んでいた。
「石切さんに行った事あるの」
「ちょっと用事が有って」徹の瞳が曇った。
 石切さんに初詣で行ったのなら普通の返事。子供がどんな用事で石切さんに行くのか。茜はそんな疑問を抱きながら話を進めた。
「――私が赤ちゃんのときお父さんは病気で死んでしまってね。それからずっと、お母さんは近くのヘルスセンターで掃除婦として働いたの。小学校に上がった私はランドセルを背負ったままそのヘルスセンターに寄ってお母さんの手伝いをするのが日課になっていたわ。家に一人でいるのが寂しかったのよ」茜が顔を上げると、徹の寂しそうな横顔。茜は通い詰めたヘルスセンターのロビーで母を待っている幼い自分の寂しげな顔をその横顔に重ねた。
「ヘルスセンターの駐車場から自動扉を通ると左手に下駄箱が並んでいて、その横に券売機があるの。私は券を買わなくてもカウンターの小母さんに挨拶をすれば顔パスで入場できるのよ」記憶は薄れつつあったが話をすると懐かしい風景と辛い思い出が蘇ってきた。
「更衣室の籠を片付けたり、濡れた床を拭いたり。お客さんにもちゃんとお辞儀をしたわ。ヘルスセンターの管理人は子供が母と一緒にいるのを嫌がったの。でも私は直ぐに常連客のアイドルになったものだから、子供に手当を払わないことと危ないことをさせないことを条件に私の手伝いを許してくれたのよ。私はお客さんとお喋りをすることが楽しかったの」
 徹の話し通りならば、にょきにょきと島が生えてくる筈なのに、海の上には船が放つ光しかなかった。
「夏休みが終わって初めての祭日。小さな男の子の手を引いた小母さんが湯船から更衣室に上がって来たのね。小母さんは床にハンドタオルを敷いて子供をその上に立たせたの。自分の体を拭いたバスタオルで小母さんは男の子の体を拭いてパンツとシャツを着せたのよ。小母さんは急いで服を着てから床にモップを掛けていた私に「小母さんトイレに行きたいから、この子を看ていてくれる。直ぐに戻って来るから」と言って更衣室から出て行っちゃったのよ」
 徹は瞬きをしてから、身を茜に近づけて話を聞く体勢を整えた。
「男の子は叫びながらバスタオルをマントにして走り出したの。籠を乗せる棚を中心にしてクルクル回るのよ。私が男の子を掴まえた途端に館内のベルが大きな音を立てて鳴りだしたの。しばらくすると廊下から赤い暖簾の隙間から白い煙が入ってきたわ。「火事よ。お客さんを外に出して」と叫びながらお母さんが廊下から飛び込んできたの。お母さんは露天風呂に出るガラス扉を開けて浴室にいるお客さんに「外に逃げて」と叫んだわ。悲鳴があちこちから聞こえてきて、浴室から飛び出してきたお客さんたちはバスタオルを体に巻いて服が入っている籠を腕に抱えて露天風呂に飛び出して行くの。この子のお母さんがトイレに行ったと話すと「その子のお母さんは私が探してくるから、茜はその子を外に連れ出して」と言って廊下に戻って行ったの。泣き出してしまった男の子を無理やり抱いて外に飛び出したわ」茜は高鳴る自分の胸を握り拳で押さえた。このシーンを思い出すと必ず心臓が破裂しそうになる「男女の露天風呂の間には昔からある大きな岩が有って、それを塀の一部としてボイラー室まで塀が続いているのね。突然爆発音がしてね、ボイラー室の硝子が割れてオレンジの炎と黒い煙が噴き出したのよ。私は腰が抜けて子供を抱いたまま砂利の上に尻餅をついてしまったの」
「怪我は無かったの」
「私には怪我は無かったけど。泣き止まない男の子をどうしたら良いのか判らないし、お母さんは出てこないし、涙が溢れるばかりで」
 徹はベンチの座板の端を強く握り口を一文字に閉めたまま茜の次の言葉を待っていた。徹の顔が滲んだ。茜は人差指を目尻に添えると初めて瞳が涙をどっぷりと蓄えていることに気が付いた。
「辛かったら無理をしないで」徹は茜に優しくそう言った。
「目の周りを煤で黒くした女の人が更衣室から遅れて出て来て男の子の名前を叫んだわ。腰を抜かしている私を見つけると、その小母さんはバスタオルの裾が乱れているのも気にせずに男の子を奪い取って胸に強く抱いたの。小母さんの頬には黒い涙が流れていたわ」
「もしかして、男の子って弟さんのことではないのか」茜は頷いた。
「――と言うことは、その小母さんって今のお母さんってこと」徹は大きな目を更に見開いていた。茜はまた頷いた。
「小母さんは私に何回も頭を下げてお礼を言ってくれたわ。そうしたら胸に抱かれていた勇がママと叫んでから大声で泣きだしたの。それを見て私はお母さんがまだ出て来ていないことを思い出したの」
「もしかして」
「結局、お母さんはロビーで見つかったらしい」
「らしいって……」
「駐車場に停められた消防署の車の後部座席で私が震えていると警官がやって来てお母さんは見つかったけど会えないと言われたの。後で知ったのだけど子供に会すことができないほどお母さんは焼けてしまったらしいの」
徹は太腿の上で握り拳を作り、唇を噛み「そうなのか。辛かっただろうな」徹は大人の男性のような渋い顔をした。
「私は一人ぼっちになってしまったわ。これからどうしたら生きて行けるのか。ご飯はどうするのか。お金はどうするのか。ただ働きしていたヘルスセンターも焼けてしまったから働き先も無くなった。働くと言っても私は小学校二年生だったのだけれど」
「それは五年生でも同じことだよ」徹は上甲板を踵で蹴った。
「運転席の扉が急に開いて、消防官が私を指差し「この子ですか」と言ったの。消防官と入れ替わりあの小母さんが頭を車に差し込んで私を見たのよ「あなた、この子よ。勇を助けてくれたのはこの子よ」小母さんは振り向き叫んだわ。今度はネクタイを弛めた小父さんが禿げた頭を差し込んできて私をじろじろ見てから「お嬢ちゃんが勇を助けてくれたんか」と訊くの。私は小さく頷いたわ。扉が一度閉められ、しばらく車の外で大人たちは何か話をしていたわ。また扉が開けられ「お嬢ちゃんの名前は」と小母さんが訊くの。茜と答えたわ「茜ちゃんにはお父さんとかお婆ちゃんとか親戚の人はいないの」とお巡りさんに聞かれたことと同じことをまた聞かれたわ。私が頷くと小母さんは一呼吸置いてから「小母さんと一緒に暮らさない」と言ってくれたのよ」
「それで小父さんと小母さんに育てられているのか」
「そう。一人ぼっちになった子供たちが暮らす施設に入って一週間ぐらいしてから、小父さんと小母さんがスーツ姿の女性に連れられて会いに来たの。ここで暮らすのと小父さんと小母さんと暮らすのとどちらが良いか聞かれたわ。私は小母さんにどこに住んでいるのと聞いたらしい。あまり覚えていないけど。小母さんが石切よと言ったので私はお願いしますと答えたわ。石切に居れば、お母さんに会えると思ったのかもね」
「勇君はそのことを知っているのか」
「うん。勇が小学校に上がったときに私が話したの。勇は、お姉ちゃんはお姉ちゃんだからと言うだけ。意味を判ってくれているのか。まあ五年生ぐらいになれば判ってくれると思うわ」
「勇君は賢そうだから大丈夫だよ」
「そうね。勇は図鑑が好きで毎晩読んでいるわ。小学生向けの図鑑なのだけれど、図鑑に書かれている漢字はだいたい読めるのよ」
「凄い」
「分からない漢字を私に何回も聞いてくるので面倒になって辞書を渡したらどんどん調べて覚えたのよ。私が宿題をしていると勇が横から書き順が間違っていると言うのよ。頭にくるでしょう」
徹は茜を指差しながら笑い、笑いが治まると「ごめん」と謝った。
船は静かに眠る瀬戸内海を容赦なく切り裂きながら進んでいた。船尾から淡路島に向かって伸びる白い傷をその海はゆっくりと埋めていく。茜は心の中で傷を付けてしまったことを海に謝った。
「徹君の話しも聞きたいな」茜がそう言うと徹は顔をしかめた。
「私は誰にも言ったことが無い秘密を話したのよ」
「それはそっちが勝手に――」徹は頬を膨らませている茜の顔を見て「分かった」と短く答え、海の空を覆う雲を見上げた。
「二千年ぐらい前の祖先は九州の北、対馬に住んでいたそうだ」
「二千年前って恐竜がウロウロしていたときよね」
「桁が違うよ。恐竜がいたのは一億とか二億年前じゃなかったかな」
「そうなの。でもどうしてそんな昔のことが判るのよ」
「木簡って知っているか」
「平城宮跡で発見された文字が書かれた木の板よね」
「そう、そのこと。日本には木簡しかないと言われているが我家には昔から伝わる竹簡が有ったみたいで、そこに書かれていたらしい」
 茜は勇が見ていた図鑑に中国の竹簡が載っていたのを思い出した。
「その竹簡を見たことがあるの」
「見たことはないよ。飛鳥時代に起きた地震で竹簡は焼けてしまったそうだ。そこに書かれていたことは――」
烏が羽を広げたような形の黒い雲が船を覆い、生温かった風が急に冷たく感じた。徹はもう一度空を見上げた「太陽を捕らえに行く王様を守れと命令されたそうだ」
「太陽を捕らえるってどういうこと」狐につままれたような話だと茜は思った。綿菓子のような物が巻き付き斑に見える徹の横顔。焦点を合わせようと目を細めるが上手く行かない。茜は両眼を手の甲で擦った。
「太陽が昇るところを生け捕りにしようとしたそうだ」
「生け捕りなんて無理よ。嘘に決まっている」
「俺らは太陽が熱くて大きいし、宇宙にあるから手が届かないことも知っている。でもそれを知らない昔の人は遠い山の裏に太陽が隠れていると考えたのだと思う」
「王様は太陽を捕まえてどうするつもりだったのよ」
「よく判らないけど、太陽が空に有れば夜が明るくなって便利だとか作物が沢山採れるとか考えたのかもしれない」
「大阪の街みたいね。夜、石切から街を見下ろすと秀吉が大阪城の下に太陽を押し込んだのかと思うぐらい明るいのよ。光だけじゃないわ瀬戸内海からの風が街の汚い空気を押し上げ石切を襲うのよ。奈良は生駒山が防波堤になってくれるから良いけど」
「生駒山が防波堤になってくれているのか」徹は黒い波が生駒山に当たり飛沫を上げ砕け散る姿を思い浮かべた。
「王様は島から日の出の向きに向かって本州に渡ったけれど戻って来なかった。王様を探しに島を出た奥様は嵐に遭って九州に流され四国を経由して東に向かったそうだ」
「どちらも東に向かったのだから大阪か奈良辺りで再会したのではないの。太陽は今もあるのだから王様は太陽を捕まえることができなかったのは明らかでしょう」
「そうだな。でも、もしかしたら、昔は太陽が二つ有ったかもな」徹は口角を緩めた。
 茜は掌を顔の前で振り下ろし「阿保らしい」と徹の妄想を断ち切った「でも、言い伝えはその後どうなっているのよ」
「王様は鳥居のような物を太陽が昇る方向に建てたと言われている」
「どうして鳥居を建てたのよ」
「そうだな。僕の想像なのだけれど、田植えや祭りなどの時期を太陽が昇る位置で決めていたのではないかな」
「王様は太陽の別の使い方を考えたのかもね」
「そうかもしれないな。話はこれからが本題だ。鳥居の柱を地に打ち込んだ瞬間に地面が割れ、山が崩れ津波が起きたと伝わっている」
「それって地震だよね」
「そうだと思うけど――。この前小学校の図書館で調べたら、その割れは活断層と呼ばれていて、その活断層は奈良と和歌山を横切り、四国を抜け九州の熊本まで。反対側は愛知の渥美半島から長野の諏訪湖を抜け、茨城まで割れていると書いてあった」
「嘘よ、そんなの」徹は作り話を並べていて、最後に「嘘に決まっているだろう」と言ってからかうのだと茜は思った。
「航空写真を見ると確かに緑の土地を切り裂くように白い帯が走っている。ほらあんな感じに」徹は船尾に続く白い帯を指差した。
 茜は首を傾げ両手を左右に振って徹の話しを全身で否定した。
「それは中央構造線と言って沢山の活断層が帯になっている」
「鳥居の柱を打ち込んだ岩が割れたと言うなら分かるけど、日本が割れたなんて信じられないわ」
「俺も信じてはいないが鳥居を建てたところは、その後伊勢神宮になったそうだ」
「偶然でしょう」
「そうかもしれない。ただ井原家の男子は六歳になると地面が割れないように小さな鳥居をその断層を跨ぐように打ち込む風習がある」
「日本が割れないように地面に大きなホッチキスの針を打ち込むようなこと」茜はホッチキスの上下を開き、甲板にそれを押し付け打ち込む仕草をして見せた。
「そう。鳥居みたいな形をした杭をね」徹は首に提げていた首飾りをシャツの下から引っ張り出した。深緑の管玉と胎児のような形をした琥珀の勾玉が交互に入れられている。その中央には赤碧玉を削って作られた朱色の鳥居。
「これを打ち込むの」
「いや、これは飾り物だ」
「神社にあるくらいの大きさなの」
「いや、もっと小さい。子供が担げるくらいの大きさだ」
「その首飾り見せてくれる」
徹は小さく頷き茜の背後から首飾りを掛けてくれた。それはズシリと重く表面はつるりとしていて徹の体温が勾玉から伝わってきた。
 茜は目を閉じて、徹が割れた地面に朱色の杭を突き差し木槌を杭に振り下ろしている姿を想像した。茜は頭を左右に激しく振った。そんな木の杭で地面が割れるのを止めることなどできるわけがない。「私は信じられないわ」
「まあ良いさ。俺は大分で最後の杭を打ち終えたら、海を渡って杭を四国の端から端まで打ち込むだけだ」
 祖先がしでかした過ちを徹は自分の十字架として背負っているのだろうか。徹がそれを続けているということは、井原家は二千年もの間、杭を地に打ち続けていることになる。
 巨大なほら貝が頭上で吹き鳴らされ、手摺やベンチが小刻みに震えた。徹と茜はベンチから立ち上がり、その音の出どころを追いかけると最後に辿り着いたのは赤地に三重の青いラインが引かれた煙突だった。汽笛が煙突の横で連続して鳴らされている。小学生の二人でも船に危険が迫っていることを容易に想像することができた。
「屈め。ベンチに掴まれ」徹は茜に大声を上げた。
茜はベンチの上で背もたれに向かって正座し、背もたれの上端を強く握り背中を丸めた。徹は茜の背から覆いかぶさり「しっかり掴まれ」と徹は茜の頭の上から叫んだ「見て」茜は徹の脇の下から獲物を狙う矢尻のように手を艦橋に向けた。
 艦橋の左右にある扉が音を立てて開き、飛び出してきた船員が階段を駆け下り特等室に並んでいる白い繭形をした救命いかだを海に落とそうとしている。
「いったい何が有ったの」茜はそう叫んでみたが誰も答えてくれない。船全体が唸り船尾から伸びていた白い帯が掻き乱されている。
「沈むのか」という徹の小さな声が茜の耳に届いた。
「駄目だ。外れないぞ」右舷で作業している船員が左舷に向かって叫んだ。船員はその箱を足で懸命に蹴り続けている。
「こっちも駄目だ」左舷の船員は両手を広げた。
私たちにはどうすることもできない。逃げるべきか留まるべきか。と茜は考えていたが、徹は違っていた。
「救命胴衣だ」階段の横にある白いペンキで塗られた四角い箱には赤い字で救命胴衣と書かれてある。茜はベンチから一歩も動けなくなっていたが徹は既にその箱に向かって走っていた。徹は箱の蓋を持ち上げ中から黄色い救命胴衣を二つ取り出しベンチに戻ってきた「これを着ろ」徹は救命胴衣を茜の頭から差し込んでから、もう一方の救命胴衣に自分の頭を差し込んだ。
「大丈夫だ。これで大丈夫だ」徹は自分に言い聞かせるように言ってベンチごと茜を抱くように覆いかぶさった。徹の口から流れて落ちてきたガムの甘い香りが茜の顔を包む。茜の頬は何故が火照り、心臓は内側から激しく茜の胸を叩いた。
「ねえ、徹見て。船長が――」茜はまた艦橋を指差した。艦橋の中央にある扉から神戸で受話器に向かって怒鳴っていた船長が出てきたのだ。船長は体を捻り茜たちに背を向けた。船長は大きな太刀を背負っていた。船長は艦橋に一礼をしてからそれを抜き頭の上で構えた。太刀は艦橋で灯された投光器の光をきらりと反射してから艦橋に減り込んだ。乾いた金属音も火花も無い。太刀はケーキを切るようにスルスルと艦橋の壁や船長が立っているデッキまでも左右に切り分けていく。船長は体を回し。太刀を尻の後ろで持ち直しデッキの手摺に足を掛けた。船長の視線の先にはプールも海も無い、特等室の天井とその先には茜たちが居る上甲板の床が待ち構えている。それは家の二階からアスファルトの道に飛び下りるようなもの。骨折。打ち所が悪ければ死ぬかもしれない。プールに飛び込む前の子供のように船長は頬を膨らませ、手摺の上に立った。
「船長。危ない」茜は覆いかぶさっている徹の脇から頭を横に出して叫んだが船長にはその声は届かなかった。船長は胸と腹の余った肉を揺らして手摺を蹴りデッキの床に突き刺さった太刀を引き摺りながら空中に体を投げ出した。茜は悲鳴を上げ徹の胸に顔を埋めた。船長はゴム風船が落ちるようにゆっくりと特等室の屋根に片膝を立て着地し、その天井に太刀が食い込んでいるのを確かめてから走り出した。どしどしと響く音が近づいてくる。茜は片手を徹の首に回し強く引きよせ徹が吹き飛ばされてしまわないように錘となった。
「船長」それでも徹は声を上げ上半身を起こした。茜も徹に引き上げられ二人はベンチの上で船長が上甲板に落ちてくる姿を見た。 船長は背後に太刀を引き摺ったまま茜たちの横を通り過ぎ、船尾の手摺の前で立ち止まった。船長はベンチの上で抱き合う二人を見てニタリと微笑んでから手摺に手と足を掛け飛び下りる体勢を整えた。その下には甲板は無くスクリューが勢いよく回っている海が待ち構えている。飛び降りれば今度こそ船長の命は無い。徹は首に絡みつく茜の手を振りほどき、船長に駆け寄りながら手を伸ばしたが掌は空気を掻くことしかできなかった。船長は既に手摺を蹴り海の上で膨らんだ体を一時止めてから太刀と一緒に落ちていく。徹は船長が蹴った手摺を両手で掴み海面を見下ろしたが船長が立てた水飛沫さえ見つけることができなかった。「船長」徹は海に向かって叫んだ。
その返事の代わりに背後の艦橋から悲鳴のような船全体が軋む金属音。上甲板にできた一直線の深い傷から光の帯が吹き出し徹の股座を照らした。手摺を握っている徹の両手が左右に離れていく「船が割れている。掴まれ」と徹は叫んだが茜の悲鳴が掻き消した。
上甲板の床は中央で完全に割れ、天に向かって観音扉のように開きだした。徹は茜が取り残された甲板に飛び移り、割れた甲板の縁に跨った「茜、ベンチの脚に乗れ」徹は傾くベンチにしがみ付いている茜に向かって声を張り上げた。上甲板は立って歩けない程傾き、茜はベンチの細い脚とひじ掛に足を掛け両手を頭上に伸ばして徹が座っている割れた甲板の縁に手を掛けた。徹は茜の手を掴み、茜は徹の手首を掴み返した途端、茜はお尻に違和感を覚えた。パンツの中で何かがムズムズと動きふんわりと膨らんだ。
「昇って来い」徹は茜の手を両手で掴み直し、獣のような唸り声を出して茜を引き上げた。茜は傾いた甲板を足の指で掴むように蹴り、割れた甲板の縁にお腹を預けた。茜は片足を持ち上げ風で膨らんだワンピースの裾を片手で押さえながら甲板の縁に徹と向かい合って跨った。甲板の切断面は磨かれたようにすべすべしていて生温かい。
船尾の裂け目から音を立てて黒い海が渦を作りながら流れ込んでくる。船内の照明は落ち非常灯だけが申し訳なさそうに点灯している。乗客の悲鳴が船底から湧きあがってきて茜は掌で耳を塞いだ。段段畑のように並ぶ廊下。その天井に隠されていた配管が割れて水が吹き出し、切れたケーブルが放つ火花が水を赤く染めた。救命胴衣を配っていた船員が廊下から海に滑り落ち、ベッドにしがみ付いていた乗客はベッドごと海に吸い込まれてしまった。茜と徹には誰一人助けることはできない。機関室に流れ込んだ海水が大量の蒸気を生み上甲板の裂け目から白い湯気が入道雲のように湧きあがる。非常灯は持ちこたえることができず点滅しながら息絶え船は暗闇に沈んだ。爆発音とオレンジ色の火柱が海面と暗闇を突き破り立ち上がる。船が瀬戸内海に沈む運命であることは明白だった。
「あれは」茜は船首を指差した。左右に割れた船の中央を円錐の大きな塊が減り込んでくる。何かが折れ引き裂かれる音がする。
「木。いや島だ」円錐を模っていたのは森に守られた島で、船が島の木を圧し折っている。
「船は割れて島を避けようとしているのよ。鳥居よ」島の天辺で鳥居はときどき朱色に変わりながら目の前を通り過ぎていく。
「島の頂上の神社。女鹿島だ」徹は茜に叫んだ。
島が船の間を通り抜けると噴き上げた火柱は消え焦げた臭いと爆発音は風に流され徹と茜は再び暗闇に包まれた。もう海に飲み込まれようとしている。徹は茜の手を握り反対の手で茜を引き寄せた。
甲板の非常灯が端から順番に点灯し、船首が軋み始めた。
「大変よ。船が閉まるわ」徹は上半身を捻り茜が指差す船首を見た。引き裂かれた左舷が徹と茜が跨っている右舷に近づいてくる。
「挟まれる」徹は茜の太腿を平手で叩き「脚を上げろ」と怒鳴った。徹と茜はバレリーナのように片足を空高く持ち上げた。跨っていた上甲板の床も手摺の切断部も線香花火のような微かな光を放ちながらファスナーを閉めるように繋がった。茜は切れていた上甲板を掌で摩った。鉄板が溶接され繋がったのではない。溶接の焼け跡も塗装の剥がれも無い「ねえ助かったのね」しばらく沈黙が続いた。
「私の家族が――」茜の頭に溜まっていた幸せな気持ちが足先から抜け落ちていく。茜は立ち上がり甲板に座り込んでいる徹の手を引いた。茜は外階段を二段飛ばして駆け下り騒音を吐き出している機関室の前を駆け抜けロビーに入った。深夜なのでロビーには人影は無いが照明は煌煌と付いている。浸水した形跡はどこにも見当たらない。ロビーから中央階段を駆け降り家族がいる二等客室に向かった。船底は通路の照明が灯っているだけで乗客が眠る部屋は暗く静まりかえっていた。毛布の山が割れ、目を細めた峰子の顔がその間から現れた。その目が徹と茜を捕らえると毛布の山は崩れ落ち仁王立ちの峰子が現れた。廊下にのしのしと出てきた峰子は「茜。何処に行っていたの」と擦れた声を出し二人を睨む。茜が返事に困っていると峰子は茜の首根っこを掴み階段の踊り場まで引き摺り出した。徹もその後を付いて行くしかなかった。
「海に落ちたらどうするつもり」峰子は茜の頬を平手で叩く。
「小母さん。僕が悪いのです」徹が峰子と茜の間に割り込んできた。
「徹君。茜が海に落ちて死んでしまったらどうやって責任を取るつもりなの」その声は震えていた。峰子の頬にアイシャドーが溶けた黒い線が流れる。茜は怒られているのになぜか嬉しい気持ちが胸の奥で蠢き「お母さん。助かって良かった」と言って峰子の胸に飛び込んだ。お母さんの胸には獣のような毛布の臭いが滲みついていた。
 茜は毛布を深く被り峰子と徹の間で寝ようとしたが島を避けるように船が割れたのだ、そう簡単に眠れるわけもない。隣で徹も毛布を被って茜と反対側を向いて横になってはいるが幾度も寝返りを繰り返している。船が割れ海に落ちた人はどうなってしまったのだろうか。もしかしたらベンチで眠ってしまい悪夢の中を彷徨っていただけなのだろうか。茜は毛布を顔に押し当てて眠った。

 瞼を透ける青白い蛍光灯の光が茜の瞼を叩いた。
「茜。朝食を食べるわよ」峰子が茜の肩を揺らしている。茜は朝食を食べるよりも一分でも長く眠っていたかった。
「徹君も食べなさい」峰子はボストンバックから出したタッパーを徹に差し出した。茜は薄らと目を開け顔の上にあるタッパーの底を見ていた。昨夜の出来事は夢なのか現実なのか。茜は弁当箱を押し除けるように飛び起きた。峰子が何かを話しかけているが茜には聞こえていなかった「船が半分に割れたのよね」茜は正座をし膝の上でタッパーを抱えている徹の両肩を掴んで前後に揺らした。
「茜。何を訳の分からないことを言っているの。変な夢でも見たのね。徹君、気にしないでどうぞ食べて」
 徹は峰子に歯切れの良い挨拶をしてからタッパーの蓋を開けおにぎりを口に押し込んだ。茜は普通の子供に戻ってしまった徹に冷たい視線を送るだけで蓋の上に分けられたおにぎりに手を付けなかった。上甲板で茜を助けてくれた徹はどこに消えてしまったのだろうか。あの出来事はやはり夢の中のことだったのだろうか。峰子に食べるように催促をされたが体は凍り付いたように動かなかった。
 松山に間もなく到着することを告げる船内放送が流れた。乗客の半数以上が荷造りに取り掛かった。徹が寝ていたところには墓石のように折りたたまれた毛布が転がっている。一時間ほど前に席を立った徹はとうとう戻って来なかった。徹は大分まで船に乗っているのだからまだ荷造りをする必要はないのだが、その荷物さえ残されていない。茜はお別れの挨拶ぐらいすれば良かったと悔やんだ。
 ロビーは下船する乗客で満杯になっていた。茜の家族はいち早く支度をしたおかげでロビーから出て甲板に立つことができたのだが、その甲板もタラップが接続される降り口まで行列ができていた。船は速度を落としながら興居島の横を通り港に近づいている。茜は辺りを見回した。徹の住所も聞いていない。このままだと永遠の別れになってしまう。汽笛が二度鳴り甲板が震えた。徹は降り口とは反対にある機関室の前で騒音に身を隠していた。手摺を両手で掴みこれから接岸する赤い桟橋を睨んでいる。機関室から飛び出してきた騒音が茜の高鳴った胸を掴み引っ張った。茜は後先を考えもせず列を外れ徹が立つ機関室に駆けた。峰子が何か叫んだが茜は聞き取れなかった。機関室の騒音は別れを惜しむように悲しく聞こえてくる。
「どこに行っていたの。まあ良いわ。早く住所を教えてよ」茜は徹に迫った。徹は背負っているバッグから銀行の名前が金色で刻まれたプラスチック製のボールペンを取り出したが顔を歪めている。
「紙が無い――」
茜も鞄を行列の中に置いて来たので手ぶらだった。甲板の手摺の外には濃緑の山、上下に微かに揺れている赤い桟橋、船はその桟橋に接岸されタラップが掛けられようとしている。列に戻って鞄を取って来る時間は無いし、もし戻ったら峰子に首根っこを掴まれてしまうだろう。茜は白い左腕の内側を徹の前に突きだした。
「ここに書いて」
「え、腕に書くのか」
「掌じゃ直ぐに消えてしまう。早く」茜は徹を急かした。
 徹は白い腕に蛸が躍っているような字で住所を書き込んだ。奈良県奈良市御蓋山一の一。黒い文字の周囲は赤くなり文字だけが白い肌から浮き上がっている。茜は刺青のようだと思った。
「手紙出しても良い」茜は一歩前に出て徹に顔を近づいた。徹は素早く頭を前後に振るだけだった。
「茜、行くわよ」峰子の怒鳴り声が聞こえた。峰子の怒鳴り声は最後通告を意味する。茜は一歩足を引いてから最後に徹に尋ねた。
「船が半分に切れたのは夢じゃないよね」徹ははっきりと頷いた。
「やっぱり。有難う」茜は動き出した列に向かって走った。
 茜はタラップを小股で降り桟橋の上から徹の姿を探した。徹は機関室前の手摺から上半身を乗り出し手を振ってから掌でメガホンを作り茜に向かって何か叫んだ。徹は片手を頭上に持ち上げてから大きく振り被った。徹の手からひゅるひゅると赤い尾を引きながら飛び出したものが茜の足元に落ちた。赤色の紙テープだった。
九州に渡る船は佐田岬の付け根にある八幡浜からも出ているのでここから九州に向かう乗客はそう多くはない。桟橋の上で乗船を待つ人は疎らで直ぐにタラップが外された。
 甲板で紙テープの端を掴んだ手を振っている徹。茜は足元に転がっている紙テープを拾い胸の前で握った。糸のように見える弓なりとなった赤い紙テープが徹と繋がっている。潮風がそれを揺らしキラキラと輝かせるだけで他に触れる者は誰も居ない。茜は自分の頬が熱くなっていることに気が付いた。きっと林檎のように赤くなっているのだろう。茜は徹を直視することができず甲板を歩いている客の列を目で追っていた。徹はこの紙テープを何処で仕入れたのだろうか。船内の売店に五色セットになった紙テープがぶら下げられていたのでそれをわざわざ買ってくれたのだろうか。もしそうだとしたらどうして赤色一本だけなのだろうか。視線を降ろすと港に掛けられていたロープが外され銅鑼の音がリズムを早めて鳴り響く。、汽笛が二度鳴り黒い煙が煙突から傾きながら上がった。
 茜は顔を上げ、デッキで手を振る徹を見て手を振り返したが言葉は出なかった。徹は何かを叫んでいるようだが機関室から飛び出た騒音に掻き消されてしまった。船が桟橋から離れると手元の赤いテープはどんどん小さくなりピンと張られ赤い糸は風の鋏によって切られ指先に小さな衝撃が残った。海面に落ちたテープは読めない文字を描きスクリューが舞い上げた渦に巻き込まれてしまった。
「さようなら――」茜は船に向かって叫ぼうとしたが、上甲板で並ぶ船長と若い女の姿が邪魔をした。
 祖母の沢田洋子が桟橋まで迎えに来てくれていた。洋子はブラウスとスカート姿で淡いピンク色のリボンが付いたツバの広い帽子を被り縁の大きいサングラスを掛けていた。女優さんのような祖母の出で立ちが茜は好きだった。勇はナップザックを左右に揺さぶりながら祖母の腰に抱き付いた。
「勇ちゃん大きくなったわね。幾つになった」
「七歳、小学校二年生」祖母は飼い犬を摩るように勇の頭を撫でた。
「茜、女性らしくなったわね。ワンピースお似合いよ」茜は勇より大人に扱われたことを嬉しく思った。
「その首飾りも素敵ね」という祖母の何気ない言葉に茜は驚いた。徹に借りた首飾り。船が割れる騒動で返すのを忘れていた。住所を教わったのだから送り返せば良い。それよりこれは大切な物だろうから石切に帰ったら奈良まで持って行けば良い。それならば正当な会う口実になる。茜は自分自身をそう納得させた。
「お母さん、元気そうね」「御無沙汰しております」いつも変わらない大人たちの挨拶を聞きながら揺れる桟橋を渡り駐車場出ると白いカローラの窓から手を振りながらクラクションを鳴らす男がいた。峰子の弟になる沢田達郎だった。水泳選手のように広い肩を振り回し後部座席の扉を開けてから荷物をトランクに押し込んだ。
「車の調子はどうだ」この車は康介が達郎に譲り渡した車で茜や勇にとっても懐かしく感じていた。
「このまえ車検を受けたのですが修理するところが無かったので安く済みました。有難う御座います」車が県道に入りウインカーが切れると達郎は康介に頭を下げた。
 後部座席の中央で勇と並んで座っている茜はフロントガラスからギラギラと差し込む太陽の光を掌で遮った。
「疲れたやろう。眠れたんか」
「爆睡やで」勇は親指を立てバックミラーに映るように手を上げた。
「私は眠たいわ」
「茜は眠れんかったんか。婆ちゃんの家で昼寝でもしろ」
 バックミラーに映る叔父さんの瞳はきらきらと輝いていた。
「達郎叔父さん。図書館に行きたいのだけど今日は開いているかな」
 達郎は驚いて運転中にも関わらず顔を後部座席に向けた。一番驚いたのは母親の峰子だった。
「どうしたんよ。普段、図書館なんかに行かないやない。熱でもあるんやないか」峰子は茜の額に掌を押さえつけた。
「疲れているんやろ。明日にしたら」祖母は茜の肩に手を置いた。
「でも、明日は月曜日で休みでしょう」図書室に行くことが少ない茜でも公営の図書館が毎週月曜日には休館になることは知っていた。
「わかった。途中で図書館に降ろしてやる。みんなを送り届けてから――。そうだな。一時間後に図書館に迎えに行く。それでええか」 達郎叔父さんはそんな折衷案を提示してくれた。いつも子供の気持ちを理解してくれる叔父さんが茜は好きだった。
 車は濠を取り巻く片側三車線の道をゆっくりと走っている。路上を走る市電に抜かれてしまうほどの速度だ。叔父さんは茜を降ろす場所とタイミングを計っていた。勝山の麓を抜ける脇道で車が止められた。松山城が山の上から睨みを利かせていて茜にはちょっと緊張する場所だった。
「図書館の場所は判るか。十一時半にここで待ち合わせだ。ええか」叔父さんはプラスチック製の腕時計を外し茜の腕に巻いた。流行りのデザインだが子供に貸すぐらいだから安物の腕時計だろう。
「分かった。有難う」叔父さんは茜の掌にボールペンで実家の電話番号を書き込み、革製の小銭入れをその手に渡した。
「何か有れば図書館の横に公衆電話が有るから電話しろ。喉が乾いたら自動販売機でジュースでも買え」
「すみません」茜は叔父さんを見上げてから頭を下げた。
「僕も行く」勇も車から降りて来てしまった。勇は茜より本好きなので図書館に行きたいと言い出すのは自然なことだった。
「あなたたちの子供は優秀やね」祖母は後部座席から顔を出し子供たちを囲んで立っている康介と峰子に言った。嫌味では無く素直にそう思ったのだ。大人たちの会話とお礼が終わった後に叔父さんが運転する車は大通りに戻り車の行列に吸い込まれて行った。
 茜が叔父さんから渡された小銭入れを開け指先で中の小銭を弾いていると、幾ら入っているの。と勇が茜に尋ねた。
「そうね。千円ぐらいかな」
「叔父さん、気前がええな」
「馬鹿ね。これは非常時のお金よ。全部使っても良いなんて叔父さん言わなかったわ」勇は唇を蛸のように尖らせた。
「それより、図書館で騒いだりしないでよ」
「図書館のことならお姉ちゃんより僕の方が先輩やから大丈夫や」と茜の一歩前を歩き濠に掛かる橋を渡った。
 茜は関西の地図を長机の上に広げた。
「お姉ちゃん。何を調べるんや」勇は茜の隣に座り地図の上を小さな手で撫でてから一点を指差した。それは生駒山と東大阪市の文字の間にある茜たちが暮らす石切だった。
「よく判るわね」
「僕はクラスで博士と呼ばれているのを忘れたんか」勇は鼻の下を指で摩り髭を整える仕草をした。
「それでは博士。この住所は何処でしようか」茜は徹に住所を書いてもらった左腕の内側を上にして長机の上に置いた。
勇は腕に書かれていることに動じることもなく、地図上の線路を石切から辿りながら若草山の麓まで指先を滑らせた。
「奈良県奈良市御蓋山一の一。春日大社の近くやな。でもこんな番地はあらへんで」茜は無言で首を傾げた。
「この住所がどうかされましたか。お姉さま」茜は調子に乗る勇の額を平手で叩いた。
「暴力反対。ここは本を読む図書館や」勇は胸を張った。茜が唇の前で人差指を立てると勇は納得いかないと首を左右に振る。
「ここが井原徹君の家らしい」茜は鞄から手帳とシャーペンを取り出し腕に書かれた住所を書き込み井原徹と名前を加えた。
「兄貴は春日大社の軒下で暮らしているんやろか」勇の額が再びパッチっと乾いた音を立てた。
「冗談の分からへん関西人やな」勇は叩かれた額を掌で押さえ尖らせた唇を茜に向けた。
「ねえ活断層って知っている」茜は勇に声を潜めて尋ねた。勇は背筋を伸ばして立ち上がり腕を胸の前で組み頷いた。勇は腕を組んだまま踵を返し早歩きで本棚の林に身を隠した。
『日本の活断層図鑑』という題の分厚い本が 地図の横に低い音を立てて置かれた。勇はその前に座り茜の手帳を机の上で開き、両側から掌で圧縮し始める。更に力を加えると手帳の左右が山のように持ち上がり、撓みに耐えきれなくなった山は中央で弾けた。
「この手帳が大地やとするとやな。曲げられて亀裂が入ったところを活断層と呼ぶんや。そこは癖みたいになってやな、また力が加わると同じ所が割れるんや。姉ちゃん分かったか」
「大地が動いているの」
「そこから説明せんとあかんのか」勇は肩を落とした。
「まあいいわ。地面が弾けたり割れたりしたのが地震なのね」黒板の前で偉そうに生徒を見下ろす先生のように勇は腕を組み直して頷いた。茜はそんな勇が憎たらしく思えたが勇が茜より詳しいのは事実。ぐっと我慢して話を続けた。
「徹が中央構造線という活断層が有ると言っていたけど知っている」
「常識。活断層の横綱級や」
 勇は図鑑を捲った。老婆の皺のように赤線が無数に描き込まれている日本地図が次次に現れ、近畿の頁が開かれた。
「奈良も京都も大阪も、それに和歌山も皺だらけね」
「これが活断層や」勇は顔を持ち上げ茜の表情を見た。茜は口を開けたまま頬を強張らせている。
「生駒山の周辺も活断層だらけじゃない」茜は石切を指で押さえた。
「そうや。いつ地震に襲われても不思議ではないやろ。海底に押されて盛り上がったのが生駒山やと僕は信じている」勇は自信がないのだろう。最後は声が小さく聞き取れない。
「そしてこれが中央構造線」勇の指先は徳島から海を渡り淡路島の南を通り和歌山に。和歌山から紀ノ川を上り奈良を抜け三重県の伊勢神宮を通る赤く長い線の束をなぞった。
「徳島から反対はやな、松山を通り大分や熊本まで続いているんや」
茜は椅子を後ろに蹴り立ち上がった。徹は本当のことを言っていた。
「勇、ねえ勇。この横綱はいつ動くのよ」ホチキスを地面に打ち付けているときに地面が割れて徹が落ちていく姿が脳裏に映った。
「それが分かればノーベル賞もんや」それは勇の口癖で自分が理解できないことに突き当たると直ぐにノーベル賞を出してくる。
「大学の先生に聞いても分からない」
「だめや。ノーベル賞を取ってへんやろ」
「じゃあ。横綱が割れたらどうなるの」
「日本がむちゃくちゃになるんとちゃうか」
「丈夫なマンションなら大丈夫よね」
「無理や。地面が何メートルも上下左右に動くやで」
 茜は小学生の勇に聞いても真実に辿り着けないと思った。誰か詳しい大人に聞かなくては。叔父さんに借りた腕時計を見ると、針は十一時二十五分を指していた。
「ねえ、叔父さんと待ち合わせる時間だわ」最初に叔父さんに聞いてみようと茜は思った。
 白いカローラはハザードランプを点滅させて茜と勇を降ろしたところで停車していた。
「叔父さん、お待たせしました」と助手席の扉を開けるとラジオからアイドルの歌声が聞こえてきた。
「おお、時間ピッタリやな。何か収穫は有ったんか」
「はい。でも疑問が増えてしまいました」
「ほう」達郎叔父さんはそう言って車を発進させた。
「そや。叔父さん、誕生日プレゼントありがとう」後部座席でシートベルトに収まった勇が大きな声でそう言うと叔父さんは目尻に皺を寄せた。勇を博士にしてしまったのは達郎叔父さんだった。勇が幼稚園の年長になってから叔父さんが送ってくれる誕生日プレゼントは図鑑だった。峰子が叔父さんに電話で図鑑はまだ早いと言っていたのを茜は記憶している。勇は貰った動物や昆虫の図鑑では満足できず、幼稚園が終わると遠回りをして図書館の石切分室に通い始めた。図書館から園児だけだと何か有ったときに困ると言われ、土曜日の午前中に茜が勇を連れて図書館に行くことになってしまった。そういうこともあって茜は叔父さんを少し恨んでいる。
「日本の歴史なんていう図鑑が欲しいなんて言うから送ったけど、流石に難しかったやろう」
「叔父さんが図鑑を送ってくれるものだから私は勇から漢字を聞かれて大変だったのよ」茜は叔父さんに嫌味を言ったつもりだった。
「やけど辞書が使えるようになったからもう大丈夫や」勇は自分の胸を拳で叩いた。
「そうか、勉強になったんやな。来年の誕生日は何がええんや」
本は図書館に沢山有るので結構です。お金にしてくださいと茜は勇の代わりに言いたかったが勇の希望は『日本の活断層図鑑』だった。
「はあ」雨も降っていないのにワイパーが軋みながらフロントガラスを拭き始めた。
「それって――。大人が読む本やないか」
「さっきの図書館にはあったんやけど、石切の図書館にはあらへんのや。やけど凄くおもろいんやで」勇はニタニタと笑っている。
「お前ら、そんなことに興味が有るんか」
「私も夏休みの自由研究で活断層のことを調べたいのです」茜は無理やり理由をこじつけた。船内で知り合った徹のことを知られ大人たちの要らぬ詮索が始まってしまうことはどうしても避けたかった。
「五年生になるとそんな難しいことを研究するんか」
「友達と同じ内容になりたくないんやろ」勇が後ろから口を挟んだ。
「叔父さんは活断層って知っている」
「詳しくはないが、見たことは有る」
 茜と勇は背もたれから背中を浮かせ叔父さんの横顔を見詰めた。
「どこ、どこで見たのですか」
「去年行った砥部動物園を覚えているか。あの先に国の天然記念物になっている砥部衝上断層があるんや」
「活断層って天然記念物なの」
「そうみたいやな。川の間をひび割れた色の違う地層が重なっているだけやけどな。公園とか藤棚も有ったかな」
「連れて行ってください」茜はシートベルトを緩め上半身を傾けた。
「僕も見たい」後部座席で小さな手が上がった。
「分かった、分かった。姉さんと相談してみよう。でもな、断層を見に行くとは言うな。普通の小学生はそんな物に興味は示さへん。砥部動物園に連れて行ってもらうやと言うんやぞ。分かったな」
茜と勇は同時に頷いた。
 松山城は街の中央部にある勝山の山頂にあり、祖母の家はその裏手を東西に抜ける平和通から路地を入ったところにある木造二階建ての家だった。茜と勇が寝るのはいつも二階の四畳半。大人たちは一階で宴会をしているので二階には茜と勇だけだった。カーテンを開けると松山城がライトアップされ宙に浮く要塞のようだった。
「姉ちゃん、良かったな。断層を見に行けることになって」
「駄目よ。動物園と言わなきゃ」
 達郎が峰子に茜と勇を動物園に連れて行ってやると言ってくれ、子守が現れたと峰子は手放しに喜んだ。反対したのは康介だった。
折角の休みなのに子守をさせてはと大人の意見を振りかざしたのだ。
茜は父の意見はもっともだと思ったが、そこは譲れない。また自由研究という魔法の言葉を使い、父を納得させたのだった。
 茜と勇が二階に上がるとき、達郎叔父さんが小さな声で「断層を見るのは時間がかからないから帰りに動物園に寄るぞ」と言われた。
「私は自由研究に断層を書くわ。勇は動物園で絵日記を書きなさい」
「分かったよ。お姉ちゃんはどうしてそんなに断層が見たいんや」
 勇にそう言われた茜は自分の心に問いただしてみた。徹が話していたことが本当なのかを確かめたい。――本当にそれだけなのだろうか。徹は大分で杭を打ち終えたら海を渡って四国の端から端まで杭を打ち込むと言っていたのだ。大分から四国に渡るのならやはり隣の愛媛県からだろう。茜は手拭を首に掛けた徹が杭を打ち込んでいる姿を頭の中に描いた。断層が見えている砥部衝上断層に徹が来ない訳がない。そこに行けば徹に会えるかもしれない。
「――断層をこの目で見たいだけよ」茜は嘘をついた。

 トーストを口に運んでいた勇の手が空中で止まり頬を膨らませた口が「叔父さん」と動いた。今日は断層を見に行く日なので二人はいつもより三十分も早く起きた。茜は食パンとハムエッグを焼いて勇に食べさせ、これから朝食を取るため椅子に座ったところだった。
「お早うございます。パンでも食べますか」
「お早う。食べてきたから大丈夫や。茜は料理が出来るんか」
「ハムエッグぐらいしかできませんが」峰子が二日酔いで寝坊したときのために朝食は作れるように仕込まれている。今日がその二日酔いの日だった。昨夜も従兄妹が集まり夜遅くまで飲んでいたのだ。
「卵料理は火加減が一番難しいんや。ハムエッグができたらフランス料理だって作れるぞ」叔父さんは勇の頭を大きな手で摩った。
「叔父ちゃん。ちょっと待ってね。直ぐ食べるから」
「急がなくて大丈夫や。俺はコーヒーを飲んでっから」叔父さんは棚からコーヒーのフィルターを取り出し、その隅を慣れた手付きで折り曲げ陶器のドリッパーに差し込んだ。
「お母さんは寝てるんか」
「ええ二日酔いみたいです。叔父さんお母さんにあまり飲ませないでくださいよ」
 叔父さんは返事をせずカップに乗せたドリッパーにポットから熱湯を落としカップの中に落ちたお湯を回してカップを温めている。
「大人にはお酒が飲みたくなることもあるんや。久々に実家に戻って来たんやから勘弁してやってくれや」
大人は何か有ればお酒に逃げることができるけど、子供は何に逃げたら良いのか。子供だってストレスは有る。
「実家にいる間だけなら良いけどね――」嫌みに聞こえるか聞こえないか中途半端に言い返すのが茜の得意技。少しイントネーションを間違えると親子喧嘩に火がつく。嫌みだと受け止めなかったのだろうか叔父さんはフィルターに挽かれたコーヒー豆を一杯半入れ豆を均す為にドリッパーを傾けてからお湯を少し注いで豆を蒸らした。
「叔父さん、コーヒーって美味しいの」勇が口に入れていた食パンを飲み込んでから聞いた。
「若い頃は苦い物は喉を傷めつけるものだと思っていたが最近はな鼻や舌で飲む物だと思うようになったんや」叔父さんはコーヒーカップを鼻の高さに持ち上げ、その香りを鼻から注いだ。
「昼食は叔父さんがご馳走してやろう。何が食べたいんや」茜と勇は視線を合わせ無言の打ち合わせをした。
「そうね。私は――」それを勇が遮り「お好み焼き」と続けた。
「大阪のガキは粉物が好きやな。でもそれは却下。お好み焼なんぞは家で作るもんや。そや、うどん。うどんにしよう」
 叔父さんが決めるなら聞かないでよ。それにうどんだって元は粉じゃない。と茜は勇にそう言おうしたが、うどん好きの勇は満面の笑顔。茜は全てを飲み込んだ。
 叔父さんがドリッパーに湯を回しかけると茶色い泡のドームからコーヒーの香りが霧のように広がってテーブルの上に降りてきた。その香りは両親が飲んでいるインスタントコーヒーのものとは天と地ほど違う。好きな香りだと茜は思った。
「勇。ほら鼻でコーヒーを味わって」
 勇は首を傾げてから茜を憐れむような目で見ていた。

 白いカローラは城下に溜まった橙色の熱を掻き分けて走った。
 昨夜、道後温泉で洗った茜の髪からコンディショナーの香りを風が引き掻くように奪って後部座席の窓から逃げていく。
 重信川に架かる橋を渡りきるとフロントガラスを緑の山が覆う。もうすぐ断層と会える。茜は耳の奥で太鼓が鳴っていることに気が付いた。船の銅鑼のようにだんだん早くなっていく。心臓がドスンドスン。明らかに体の中で何かが蠢きだした。
「どうして」声には出さなかったけどそう叫びたかった。その音が風に乗って勇に聞こえてしまわないように茜は右胸を両手で押さえた。信号の横に砥部動物園の看板が有ったが叔父さんは更にアクセルを踏み込む。行き先を示す青色の看板は高知までの距離を刻み伝えている。永遠と上り坂が続きこのままアクセルを踏み続けていると昇天してしまうのではないか。茜の心は深い霧に取り巻かれどこを走っているのか分からなくなっていた「もう帰ろう。断層は見なくても良い」茜は唇だけをそう動かした。
 ウインカーがカチカチと音を立てた。天然記念物砥部衝上断層の看板。もうだめだ。徹が霧に覆われた断層の前で両手を広げて待っている。茜は両手で顔を覆った。叔父さんの言う通り駐車場から階段を降りると磯部川に掛けられた小さな吊橋。川に沿うように藤棚やベンチがある。天然記念物の周辺は喉かな公園になっていた。地震を起こす断層がどうして天然記念物と崇められているのかと違うことを考え頭の中から徹の姿を追い出すように努めた。肝心の天然記念物は川を斜めに横切り小さな滝を造っているだけだった。
「古い地層が新しい地層の上に重なった断層で中央構造線が露頭しているところやそうや。地質百選に選ばれるくらい珍しいみたいやな」叔父さんは看板に書かれた解説文をかいつまんで説明してくれるのだが茜にはどうでも良い事だった。
「いつできたん」勇が叔父さんに尋ねた。
「千二百万年前。相当昔の話しやな。おい満足したか」叔父さんは断層を睨み付けている二人を見降ろした。
 茜は違うことを考えていた。徹が川岸の断層を跨ぎながら赤い鳥居のような杭を額の汗を拭いながら打ち込んでいる姿が浮かんでは消える。ここで徹と再会できることをほんの少しだけ期待していたのだが数日で大分での作業を終え松山に来ることなど有り得ない。それでも茜は岩肌に打ち込まれた赤い鳥居の頭を探していた。
 勇も想像していた。この断層は九州から四国北部と奈良を横断し伊勢神宮……長く長く繋がっているのだ。ここで飛び跳ねたら映画のチケットをミシン線で切り取るように地面が裂けるのだろうか。いや板チョコを溝にそって真直ぐに割るくらい難しいはずだ。
「お前ら、断層がそんなに面白いか」叔父さんは両手を大袈裟に広げた。勇は滝を形作っている岩に降りその上で手招きををしている。茜は叔父さんに手を引かれて降り透き通った流れに沿って並んだ。
「なあ。三人でジャンプしてみよや」勇は鼻の下を人差指で摩った。
「どうして」
「ええから、ええから」勇の掛け声に合わせて三人はジャンプした。
 勇はしばらく断層を睨んでいる。
「どうかしたんか」叔父さんは心配そうに勇の頭を覗きこんだ。
「静かに」勇は耳に掌を添え断層に向けている。三人の体重では軽すぎたのか。動物園から象を借りて来てジャンプさせたらどうだろうか。勇は動かない断層を睨み付けた。
「おかしいな。断層が割れへんな」
「馬鹿。もし断層が割れたら大変なことになるわよ」勇は茜にそう言われポカリと口を開けている。
「地震が来るのだろう。ガタガタ」勇は体を上下左右に揺らした。
「勇は大きな地震を体験したことが無いからそんなことが言えるのよ。家は倒壊し火事になるの。もしこれが割れたら私たちだって死んじゃうのよ」茜の剣幕に驚いたのは勇では無く叔父さんだった。
「まあ、落ち着け。俺たちが飛び跳ねたくらいで地震は起きへん」
「象が飛び跳ねても」
「もちらんだ。ほらトラックだって走っているやろう」叔父さんは県道を走るトラックを指差した。
「地震が起きたら茜が言うように沢山の人が犠牲になる。やから備えが大切なんや」
「備えってなんや」
「非常食とか水のことよ」勇は「ふーん」と言いながら首を傾げた。
「叔父さん。断層に杭を打ち込むとか、瞬間接着剤で固めるとかして地震を防ぐことはできないの」
「それは無理や。もしできたとしても違うところが割れる。人間が自然をコントロールすることなんかでけへん」
茜は今では小さな滝にしか見えない断層に目を戻した。もしそれが本当ならば徹のしていることは無意味なのでは。茜は徹に手紙を書こうと思った。
天然記念物を見学した後、動物園には行かず叔父さんの家に立ち寄った。叔父さんは本棚から埃を被った分厚い本を取り出し茜と勇が並んで座っている食卓の上に置いた。背表紙に『日本の活断層図鑑』と書かれていることに気が付いた勇は悲鳴を上げた。
「活断層に興味を持つのは結構やけどな。自然災害は地震だけやない。火山が噴火することやってあるんや。九州の阿曽が大噴火したら松山も火山灰の中や。それだけやない。どでかい台風がこれから増えると言われているんや。突風で家が飛ばされたり川が氾濫したり。日本人はそういうとこで暮らしているんや」
「でも僕らには地震や噴火、それに台風も止められへんやろ」
「そや。やから被害を減らすために防波堤や堤防を造っているんや」
「それやったら安心やな」
「安心は災害を生むんや」勇は目を丸くしている。
「災害は重なることが多いんや。例えば南海トラフで起きた宝永地震の後に富士山が大噴火や。関東大震災が引き起こした大火事もある。江戸時代の中頃に起きた天明の飢饉って知っているか」
「そんな昔のこと知らへん」
「大雨が長く続いた後に浅間山の大噴火が起きたもんやから農作物が全部駄目になってしまったんや。食料を備蓄してへんかったもんやから東北でも沢山の人が飢え死にしたんや。それがやな。米を備蓄していた白河藩は飢え死にを出さへんかったんやな。堤防を造ることも食べ物を備蓄することも全て備えなんや」
「ふうん。叔父さんは何か備えているんか」
「本当は頑丈な家に建て替えればええんやが」と叔父さんは食器棚の横の壁を叩いた。食器棚が転倒しないように食器棚と天井の間に差し込んだ段ボール箱。玄関の横に積まれた非常持出袋。壁に掛けられたヘルメットに懐中電灯を二人に見せた。叔父さんは図鑑を見せたかったのではなく、防災を茜と勇に教えたかったようだった。
「防災オタクやな」茜は慌てて勇の口を掌で押さえつけた。
「そうやな。でも誰かが生き延びないと周囲の人を助けることもできひんやろう」と叔父さんは目を輝かせた。
「なるほど」勇はそう言って金具で壁に止められた本棚の前に立ち動かなくなった。
「その本棚も固定しているやろ」勇は叔父さんの声が聞こえないようで返事もせず一冊の本を本棚から抜出しパラパラと捲る。
「叔父さん。この本凄いな」勇が掲げた本は土木の専門書だった。
「それは流石に難し過ぎるやろ。大学生が勉強する本やで」
叔父さんは土木科を卒業していると茜はお母さんから聞いていた。
「勇。勝手に触っちゃ駄目よ」
勇は茜の注意を無視し図や表だけを追って本を捲った。
「堤防のコンクリの中は土なんや」
「そや。本当は質の良い土を使いたいんやけど金が掛かるからその現場の土を使うことが多いんや。それにあの堅いコンクリートやって寿命が有るんや。上質の材料を使ってやな毎年補修したとしても百年。まあ戦後の日本は急激に造ったやろ。粗悪なコンクリートが多いんや。まあもって五十年。補修せんかったら三十年が限界や」叔父さんは大人に説明するように勇に真面目に答えた。
「安いコンクリで堤防造ったらすぐにひびが入ってまうんやないか」
「そのひびから川の水が滲み込んで中の土が削られ流れ出すんや」
「大雨で川の水が多くなったら――」
「水圧に耐えきれないでボン。決壊やな」
「もう止めて。考えたくもないわ」静かに聞いていた茜が叫んだ。茜には泥の湖からビルの頭が突き出している大阪の街が見えていた。
「お前らが土木に興味が有ると思わんかったわ。変な子供やな。親の顔を見てみたいわ」と言って叔父さんは一人で笑った。
「この本借りてええか」
「かまへんで。そんなに興味が有るんやったら一生懸命に勉強して教授になればええ。土木はな建築のように目立たんけどな。お前らの足元で頑張っているんや。そや。おもろいところに連れて行ってやろう」叔父さんは頬を弛めて勇の頭を撫で車の鍵を握った。
「おもろいところって」
「ついてくれば判るわ」
石手川で少し冷やされた空気を車内に巻き込みながら川沿いの道を叔父さんは石手寺に向かって車を走らせた。山城を囲む三車線の道。叔父さんの車を赤いスポーツカーがアスファルトに貼り付く熱い空気を震わせ削りとりながら抜き去っていく。
「叔父さん負けるな。追い越して」勇は興奮し後部座席で喉を震わせたのだが、叔父さんはしばらく無言で法定速度を保っていた。
「勇は怪獣を倒すヒーローが好きなんやろう」
勇は好きなヒーローの名前を連呼しその格好良さを付け加えた。
「勇。自分の身や家族を守ることは男として大切や。やけどな他人を攻めてはならない」
「なんでや。大人やってあちこちで戦争しとるやんか」
「それがいかんのや。石油が欲しいとか領地を広げたいとか思う気持ちに別の口実を貼り付けて戦争するのはただの殺人なんや。特にリーダーやヒーローになるんやったら他人を攻めてはいかん。守るんや。どうしても戦いたいのやったら自分自身と戦えばええ」
勇は唇を尖らせ城を守る櫓を見上げている。スーパーでジュースを買ってから川沿いに出ると桜の木の間から岩肌に架けられた赤い吊橋が現れた。叔父さんは躊躇なく橋の真ん中に立ち川を指差した。
「足立重信って知らんか」茜と勇が首を傾げているのを確かめてから叔父さんは話を続けた。「松山城を造った人なんや。昔、この石手川はよく氾濫していたもんでな。城を造る前に治水をしたんや。石手川を太い重信川に繋げて流れをよくしようと考えたんやけど、ここに大きな岩が有ってな」叔父さんは握り拳を反対の拳で叩いた。
「ノミで砕いたんか」
「そや。よく川底を見てみろ。岩肌にノミの跡があるやろ」
勇は吊橋に膝を付いて川底を覗き込み感嘆の声を上げた。
「昔の人は川底の土砂をすくい堤防を造っただけやないんや。人手だけで川の流れまでも変えたんやな」
「昔の人は凄いわ」茜と勇は川底に向かって拍手をする。
「もしかしたら、それで重信川って言うんか」
「その功績をたたえて伊予川を重信川と呼ぶようになったんや」
勇は暫く水面を眺めてから「土木って人の役に立つんやな」と言って立ち上がり松山城がある西の空と叔父さんの顔を見上げて「今度でええから城に連れて行ってくれへんやろか」と手を合わせた。

 茜は祖母が昔使っていた机の上に広げた便箋を眺めていた。
薄黄緑色の紙に縦書きの線が引かれた便箋はいかにも祖母が好みそうな古風なものだった。普段なら母にピンクで横書きの便箋と封筒のセットを買ってもらうのだが、そんなことを頼んだら「誰に出すの」と聞かれ面倒なことになる。つきたくない嘘も口走るかもしれない。しかたなく祖母が常備している便箋を借りることにした。祖母は買い置きの切手までそっと渡してくれた。祖母は母に内緒の手紙を書こうとしていることに気が付いているのかもしれない。
 勇は茜の横に丸椅子を並べ自由研究のノートに大阪の地図を描いていた。横には叔父さんから借りた『日本の活断層図鑑』が置かれ関西の頁を開いている。それを書き写しているのだ。叔父さんに借りた土木の本は既に読み終えて机の隅に閉じて置かれていた。
「あー。何を書けば良いのよ」茜は黒髪に両手の指を櫛のように入れて耳の上を掻いた。先祖代々行っていることを「断層に杭を打ち込んでも無駄よ」とは書くことは無神経だと思うし会いたいなんて恥ずかしくて到底書けない。
「天然記念物を見たと書けばええやん」勇の適切な助言だった。
 中央構造線が天然記念物になっていたこと。叔父さんが防災オタクだったことを書いてから、最後にネックレスを返し忘れた謝罪と奈良に遊びに行きたいと書き加えた。
 地図を描き終えた勇は椅子に座ったまま首を後ろに反らし二十四枚撮りのフィルムを天井に向かって突き上げた。
「帰ったら現像して」勇はノートを捲る。表紙には『そなえ』と大きくて太い文字が書かれていた。「できたで」天然記念物や叔父さんの家で撮影した段ボール箱の転倒防止やヘルメットの写真をノートに貼れば夏休みの宿題が完成する。
「え、もう自由研究が終わったの」
勇は親指を立てた手をニタリと膨らませた頬の横に並べた。
「大阪には活断層が沢山有ることと、備えが大切やと書いたんや」
「ちょっと見せて」茜は勇の書いたノートを取り上げパラパラと頁を捲り終えてから肩を落とした。ひらがなが多いことを除けばその構成は高学年レベルだ。二年生が親の手を借りたとしても作れるような代物ではない。優秀な弟であることは嬉しいのだが、どろどろした気持ちが湧き上がりノートを持つ手に力が入った。このままではノートを切り裂いてしまう。茜はノートを投げ机の上を滑らせた。
「良くできているわ。お姉ちゃんはどうしようかな」
「お姉ちゃんは地震が起きる仕組みを書いたらええんとちゃう」勇は図鑑をパラパラと捲り、ひび割れた地球が描かれた頁を開いた。地球は大小に分かれたジグソーパネルのようになっていた。
「地球が割れてひよこが生まれそう」
「何を子供みたいなことを言っているんや」
「勇の方が子供じゃない」指を精一杯開き勇の頭を鷲掴みにした。
「暴力反対」勇は頭の上の茜の手を引き離そうと両手で茜の手首を掴もうとする。茜はガードがあいた脇に手を差し込みくすぐった。 勇が高い声でキャッキャと騒ぐのが子供らしくて好きだった。
「年上はどっち。言いなさい」「キャッ。お――おばさん」「なに」このやり取りを繰り返すのが流行になっている。
 それが一段落すると、勇は椅子に座り直し図鑑を捲った。次の頁には四枚の大きなプレートがひしめき合っている日本地図が現れた。
「日本が割れている」勇が横に居なければ茜はそう叫んだだろう。
茜が気にしていた日本最大の中央構造線など祖母の皺ぐらいでしかない。規模が違う。太平洋の底が日本の下に減り込んでいるのだ。
茜は両肘をテーブルの上に付き頭を抱えた。
「ホントなのこれ」
「東大の偉い先生が書いているんや。嘘は付かへんやろう」
「ねえ見て」茜は太平洋に両手の掌を立て日本列島に向かってブルドーザーのように押す仕草をした。
「東と南から押したら日本が曲がるでしょう。ねえ日本が近畿で折れ曲がっているのはプレートが押しているからじゃない」
 勇は親指と人差し指をVの字に広げ自分の顎に押し当て低い声で「そうかもな」と呟いた。
「勇、日本はポッキって折れてしまわないの」
「分からへん。皺は海まで繋がっていないようやから折れないで皺が増えるだけやないか」二人は日本地図を睨み溜息を付いた。二人でいくら議論しても埒が明かなかった。
「まあ。ブルドーザーで皺ができたんやと書いとけばええ。間違っていたら先生が教えてくれるで。きっと」末っ子はどうしてこんなに要領が良いのだろうか。茜は勇の性格が羨ましく思えた。

 茜は船の上甲板に駆け上がり周りを見渡す。
水色の空と濃紺の海が瀬戸内を奪い合っているところに、左右から尖った島がつぎつぎと現れミシン目を造っていた。陣取りを終えた二等室には徹の姿は無かったので彼と恐怖を味わった上甲板に勇気をだして上ってが徹は居なかった。徹に手紙を出したが送り先は住所を教えてもらった奈良。手紙が送り先に届いていたとしても徹が奈良に戻るまでは読むことはできない。自ずと返事は来ないし徹がいつ奈良に帰るのかどの船便に乗るのか知らない。この船で会えるとするならばテレビドラマの世界ぐらいだと思った。
「姉ちゃん。何を探しているんや」
「ちょっとね」茜は大人の真似をして勇の質問をはぐらかした。徹と二人で座ったベンチに腰を下ろして座板をそっと摩った。
「兄貴を探しているんやろう」勇は鼻の下を人差指で摩った。この仕草をするときは確信があるときだ。隠し通せないと茜は思った。
「夜中、姉ちゃんと兄貴は船室に居なかったやろ。僕、起きていたから――。何をしていたんや」と勇は刑事のようにつぎつぎと状況証拠を付け加えた。勇の問いに答えないと次はデートしていたのだと冷やかしに入るのは間違いない。
「このベンチに座っていると――」茜は艦橋を指差し船長が太刀を持ち飛び降りてきたときのことを説明した。勇は口を大きく開け焦点の合わない目でしばらく茜の顔を見ていた。勇は糸が切れた操り人形のように上甲板にお尻を落とし握り拳で床板を叩いた。勇は顔を上げ「これが割れるんか」と茜の話を信じていない。茜も話したことが本当なのか今でも信じられないし逆の立場なら「嘘つきは泥棒の始まり」だと勇を攻め立てていただろう。
「その首飾りはどうしたんや」
「これは徹から借りたのよ。これを返そうとおもって徹を探しているのよ」咄嗟に出た言い訳を勇は信じてくれるだろうか。勇は煙草を靴の裏で消すようにデッキの上で靴先を捩じり「なるほど」と唾を吐くように言った。勇がどこでこんな仕草を覚えたのか茜には分からない。言葉をそのまま捉まえれば納得してくれたのだろう。
「兄貴に手紙を送ったんやろ。なら、その首飾りも一緒に送れば良かったんやないか」勇の理論攻めが始まった。本好きの男は融通が利かないので結婚するならば筋肉質で単純な男の方が良い。
徹が見知らぬ男の人から本を借りて坊さんの頭を説明してくれたことを思い出し勇は徹と似ているのかもしれないと思った。
「馬鹿ね。大切な物を見知らぬ郵便局さんに渡せるものですか。ちゃんと謝って本人に手渡しするのが礼儀だと思うわ」
「なるほど」勇は鼻の下を人差指で摩ってから「姉ちゃんは兄貴に会いたいってことか」と付け加えた。
「そんな性格だと女の子にモテないわよ」茜にはそんな子供染みた反論しかできなかった。ここは話を切り替えるしかない。茜は立ち上がり「奈良に行くわ。奈良に行ってこれを返すの」と声を上げた。
「無理や」勇は何も迷わず言い切った。
「どうして無理なのよ」
「だってお姉ちゃんはトンネルが怖いんやろう」
 茜は掌を自分の額に当て水色の空を見上げた。学校の遠足で電車に乗って奈良に向かうときのこと。電車がトンネルに入ると車内をヘルメット姿の作業員がつるはしやスコップを振り回しながら狂ったように逃げる姿を見た。しかも作業員の下半身は床下に埋もれていた。茜は家に帰ってその話を父の康介にすると「そうか――見たか」とビールが入ったグラスを傾けた。
「幽霊だよ」隣でその話を聞いていた勇が低い声で言った。
「その可能性はあるで。あのトンネル工事のとき事故で沢山の人が亡くなっているからな。トンネルの入口に小さなお稲荷さんがあるのを知っているやろう」康介は座布団に座ったままトンネルの方向に体をくるりと回し両手を合わせて目を瞑った。
「あなた。子供をからかうのは止して下さいな。あんたたちも父さんの話を真に受けないでよ」と峰子が言ったが茜はその日から電車で奈良に行くことができなくなった。
「大丈夫よ」茜は勇に強く言い切った。怖いのはトンネルだけなのだから生駒山を徒歩で越えれば良いだけ。
「歩いて登ろうなんて考えていないやろな」勇は里芋に火が通っているかを確かめるみたいに茜の心を透明の竹串で突き差した。
「頂上の遊園地まで遠足で登ったことがあるけど子供の足やと三時間はかかったわ。生駒山に登って奈良に降りるだけで六時間。家に戻るときに六時間。足すと十二時間。早朝から昇っても帰って来るのは夜。兄貴に会っている暇はあらへんで」低学年の子供に足し算を教わっているようで、茜は無性に苛立った。
「歩いて生駒山を越えるなんて馬鹿が考えることよ」
「そしたらどうするつもりなんや」
「電車に乗るわ。トンネルの中は目を瞑っていたら良いのよ」
「ふーん。なるほど」勇は納得したようだ「解決しなくてはならないことがまだあるで――船長だよ」
「船長がどうしたのよ」茜は奈良に行くことと船長がどのように関係しているのか分からなかった。
「船から飛び降りた船長の行方を調べていないで」
「奈良に行く話しと関係ないわ」
「直接は関係ないかもしれんけど、船が割れたのを記憶しているのは姉ちゃんと兄貴だけやし、その原因は船長なんやろう」
 勇は何に興味をもったのだろうか。船が割れたことを実証しようとしているのだろうか。茜は勇に船長の話をしたことを悔やんだ。
「もう良いじゃない。船は元に戻ったし乗客にも被害は無かったのだから」船を降りるとき上甲板で船長と女が立っていたのを茜は思い出したが、これ以上話をややこしくしたくなかった。
「なあ、船長って船に乗ったとき甲板で迎えてくれた太ったおっさんのことやろ」勇は茜の意見を無視し犯人捜しを始めていた。
「そうだけど。どうするつもり」
 勇は茜の問いに一言も答えないで船首に向かって歩き出した。
「おっちゃん」手でメガホンを作って叫んだ。声の先には特等室に並んでいる救命いかだの前で作業をしている船員がいた。船員はスパナとスプレーを持っていて折り畳んだ腰を持ち上げて振り返った。
「ご苦労様です」勇は船員に労いの言葉を掛けた。素直に大人の懐に入っていける勇の能力はずば抜けていた。
「それって救命いかだやろ」
「坊主。良く知っているな」
「壊れたんか」
「いや。金属が錆びないように塗装するやろ」船員は刷毛で自分の頬にペンキを塗る仕草をした。
「何回も塗装するとペンキで固まって動かなくなることがあるからな。ときどき部品を交換するんや」
「へえ」勇は茜に手招きをしながら話を続けた「船長知っているか」
「もちろん。艦橋でこの大きな船を操縦しているぞ」船員は海に突き出した艦橋を指差した。
「船長って太っていて白い顎鬚の人やろ」
 船員は首を傾げ「細くて髭は無いな。どうしてそんなことを聞く」
「大阪からこの船に乗ったとき甲板で挨拶をしてくれたんや」
「――ああ。そいつは船長やない」船員は顔をしかめた。
「でもその人、電話で誰かを怒鳴りつけていたわ」茜が勇の後ろから話した。
船員は額の汗を手の甲で拭き取りながら唸った「子供の夢を壊すようで悪いけど、お前らが見た船長は乗客の相手をするアルバイトなんや。本物の船長は安全に出航させるのに忙しいからな」
茜と勇は顔を見合わせた。「そのアルバイトの船長と会えませんか」
「あいつ、九州で降りたよ。普通は往復するんやけど。本物の船長と口喧嘩したもんやから降ろされたんや。それ以上のこと知らんわ」
「そうですか。有難うございます」茜と勇は丁寧にお辞儀をした。
「子供たちだけやと危ないからお母さんのところに戻るんやぞ」
「はーい」茜と勇は船員に手を振って別れ両親の待つ船室に降りた。

     3
誕生日に両親から買ってもらったナップザックを抱き茜は石切駅のプラットホームのベンチに座り震えていた。今日は秋分の日でもあり実母の命日でもあった。茜はプラットホームの先に見える母の亡くなったヘルスセンターに向かって震える手を合わせた。
秋は足音を消し生駒山の山頂からじわりと下りてくるものだから石切駅が緑葉や黄葉で描かれた点描画に包まれていることなど誰もが気が付いていない。馬蹄形をしたトンネルはその全ての色を吸い込み中で混ざり合って黒くて重い不気味な空間を生み出していた。
「どうしても奈良に行かなきゃいけないの――」
昨夜、机に首飾りを広げ塞ぎ込んでいる茜を見かねて勇が奈良行きを強引に決めたのだった。
「手に持っているのは切符やろ」数十円の切符でも子供にとっては大金で。両親に奈良町で作られている墨について学校で発表するからと嘘を付いて交通費を貰い、お昼のおにぎりまで作ってもらったのだ。茜も今更後戻りができないことは十分に理解している。
「姉ちゃんが目を瞑れば大丈夫やと言ったんやないか」
「そうだけど――。徹は奈良に戻っていないかもしれないし」
「奈良だってとっくに学校は始まっているやろし、もたもたしていたら冬休みが始まってまうで。そしたら兄貴は杭い打ちの旅や。兄貴から返事がこないんやったら行くしかないやん」
「徹は筆不精なのよ」首飾りを守るように胸の前で腕を重ね背中を丸めている茜を勇はしばらく眺めてから「あれやこれや考えて塞ぎ込むのやったら、その首飾りをとっとと返した方がええと思うんや」
 茜は祖母に買ってもらったトレーナーの上から首飾りを握った。
「首飾りは見せる物やないんか」
「馬鹿ね。失くしたり傷つけたりしたらどうするのよ」やはりその首飾りを兄貴に早く返してしまうことが、姉の為には良いと勇は茜の手を引き、ホームに滑り込んで来た電車に飛び乗った。
トンネルの壁を蛍光灯の光が尾を引きながら流れ消えていくのを勇は運転室と客室を区切るガラス窓に鼻の頭を押し付け眺めていた。電車はトンネルの坂を上り終え下り始めていた。運転手はマスコンを落としブレーキレバーを小刻みに動かす。勇はそれを食い入るように見詰め運転手の動作にあわせて自分の手を動かした。茜はナップザックを脚で挟み、手で目を覆い、額を扉のガラス窓に押しあて「どうして電車の先頭に乗るのよ」と勇に詰め寄ったが、勇は「もう少しやから頑張れ」と茜の背を叩くだけだった。
対向する電車とすれ違った後直ぐヘッドライトが反射板を浮き上がらせた。保全は電車が走らない夜中に行われるはずなのに数名の作業者が線路の上でつるはしを振り上げていた。どんどん作業者が迫ってきているというのに運転手は警笛一つ鳴らさない。
「危ない」と勇は運転手に向けて叫びガラス窓を握り拳で叩いた。
「逃げて、逃げて」勇の声で目を開いた茜は作業者に向かって手を振り叫んだ。「駄目や」茜と勇は手で目を覆い床にしゃがみ込んだ。数秒経っても音も衝撃も無かった。茜と勇はお互いを見詰めた。作業者は無事に逃げられたのだろうか。二人は目だけで議論したが結論は出ない。恐る恐る立ち上がろうとしたところに運転席の壁から燻し銀の尖った物が湧きだし茜と勇の間の床に突き刺さり減り込む。二人は尻餅を付き、こわばった顔を突き合わせた。勇は声が出せず唇を「ナニ」と動かしたが茜は首を横に激しく振る。勇は車両の中央を指差した。つるはしの先端が座っている乗客の足元から現れ円弧描き反対の席に座っている乗客の足元に突き刺さって消えた。乗客は誰一人気が付かない。茜は肩を震わせ泣きだしていた。
「姉ちゃん。ごめん、ごめんやで」茜に奈良行きを無理強いしたことを悔やみ勇は腰を浮かし両膝を足にして茜に近づき抱き付いた。
「私は大丈夫よ。勇は男の子だから」茜は勇の背中に手を回した。勇は握り拳を作り、腹に力を入れむっくと立ち上がると馬蹄形の白い光が暗闇の奥から揺れながら近づいてくるのが見えた。
「姉ちゃん。出口や。もう少しでトンネルを出るで」トンネルの壁は黒色から灰色に移り変わり、トンネルの出口は乳白色の寒天でできた暖簾のように見えた。
「雨、雨よ」立ち上がった茜は運転手に向かって叫ぶ。
 電車がその暖簾を突き破ると運転席のフロントガラスも、小豆色の車体も、蝋人形みたいに動かない運転手も、砂と変わりパラパラと崩れ落ちてしまった。茜はガラス窓に鼻先を付け固まっている勇の背中から床に押しつけた。

 仰向けに回転した茜は勇を抱き締めたまま濡れた草の上を滑り落ちていた。枯枝が頬を叩こうが体が飛び跳ねようが茜は勇が着ているトレーナーを強く握り離さなかった。雷光のような激痛が背中から拡散し足の親指から頭の天辺まで走った。
目を薄らと開けると流れていた景色は止まり一列の膨らんだ水滴が一斉に落ちてきて茜の額を叩いた。丸太で組まれた枠の下で水滴は成長し茜たちを狙っている。もぞもぞと茜の腹の上で何かが動いた。勇の呻き声。茜が腕の力を抜くと腹の上から勇が転がり落ちた。
「勇、大丈夫。怪我は無い」茜は草の上に倒れている勇の体を見回した「手も足も付いている。血は出ていない」と勇の体に触れて確かめた。生れたばかりの小馬のようにゆっくり勇は立ち上がった。勇の額に草が貼り付いていたが、怪我は無さそうだ。
「手とか足は動く」
「うん、僕は大丈夫や。姉ちゃんは怪我してへんのか」
 茜は痛みの残る背中に手を回し触れてみた。
「血は出てへんな」勇が茜の背中を確かめた。
「でもここはどこなんやろか」勇はくるりと草の上で回転した。茜も丸太の枠の下で立ち上がり辺りを見渡した。背中は熱を持ちヒリヒリと痛む。周囲は霧が漂い太い木が並ぶ森が見えるだけ。勇は尻尾を踏まれた猫のような声を出して丸太の柱にしがみ付いた。
「崖や」柱は霧を溜め込んだ崖の際に立っていた。もし柱に当たっていなければ今頃崖から落ちていただろう。
「列車事故に巻き込まれたのかも」
「姉ちゃん。そやない。電車も乗っていた人も見当たらへん」
 茜は草の上で四つん這いになって崖下を覗き込んだ。崖には剣山のような木々。電車が滑り落ちた跡はない。電車が脱線して崖下に落ちたのならばこの枠もなぎ倒しているだろう。それにトンネルを抜けるとすぐにある生駒駅が見当たらない。茜は首を傾げた。
「あれトンネルやないか」勇は崖と反対の木々の間を指差した。
トンネルの出口が崩落し電車の先頭に乗っていた私たちだけがここまで飛ばされたのかもしれない。線路や駅は土砂に埋まり電車はトンネルの中に取り残されているのだと茜は理由づけた。
「トンネルで雨宿りしましょう」獣道を跨ぐと岩肌が現れた。岩の間にあるトンネルの前で二人は呆然と立ち尽くした。それはトンネルではなく洞窟。大人だと天井に頭を磨ってしまうほどの高さしかない。壁はコンクリートではなく土肌で所々岩がむき出しになっている。その奥は暗闇が支配していた。
「まあ、雨が止むまでここにいましょう」茜はそう言うしかなかった。二人は洞窟の入口に並んで立ち、降り続く雨を見上げた。
「姉ちゃん。この山は生駒山やろか」
「そう思っていたけど。駅前の店やケーブルカーの駅も無くなっているわ」茜は事実を並べてみたが納得できる答えは見つからなかった。雨が滲み込み柔らかくなった地面を勇はつま先で突いた。
「お姉ちゃん。もう、もうお母さんと会えへんのやろか」勇の声は微かに震え涙声が混ざっていた。
「大丈夫よ。お姉ちゃんが何とかするから」茜は勇の背中を温めるように体を当て肩に腕を回した。
「何とかするって、どうやって」勇は濡れた目で茜を見上げた。
「雨が上がったら探検に行くのよ。家に戻る道を探すわよ。めそめそしないで。男の子でしょう」茜は勇の頭を摩り泣きたいのは私なのにと心の中で呟いた。これが生駒山だとして、山道が見つかれば六時間で石切に戻ることができるが雨の中は危険だ。雨が止んで山道が見つけたとしても今晩はここで寝なければならないだろう。布団も枕も無い。それどころか食べる物も水も無い。茜は焦った。
「ねえ。私のナップザックはどこ」中には峰子からもらったお金に水筒とお弁当が入っている。それがあれば一晩くらい何とかなる。
「さあ。足元に置いてへんかったか」
「そうだっけ。あれが無いと――」勇を不安にさせてはいけない。茜は唇を強く閉じ、雨で白く霞む空を見上げた。
「この雨、止まないわね」勇は何も答えてくれないので茜が勇に視線を落とすと、勇は目や口を大きく開き洞窟の外を見ていた。
「どうかしたの」
「馬」勇は擦れた鼻声を出した。茜が勇の視線を辿ると太くて短い脚をした馬が首を項垂れていた。馬のたてがみと鞍に当たった雨が砕け散り、馬全体が白く輝いて見える。その馬の影から現れたのはオレンジ色の貫頭衣を着た男だった。男はぬかるむ土に足を取られながら近づいて来る。茜は勇の手を強く握り男を刺激しないようにゆっくり後退りを始めた。男が洞窟の入口でべっとりと体に張りついた貫頭衣を脱ぐとはち切れそうな筋肉が現れた。
「キャー」茜は父と勇以外の男の裸を見たのは初めてだった。
「誰だ」男の声は雷鳴のごとく鋭く洞窟に刺さった。汗臭い毛むくじゃらの太い腕が背後から茜と勇の首に巻き付いた。

 茜は気を失っていた。
「姉ちゃん。姉ちゃん」微かな声が耳の中で木霊した。スニーカーの先端で幾度も太腿を蹴られる。勇は土の上で転がっていた。
「何よ」
「しっ。僕らは誘拐されたみたいや」手首と足首は縄で縛られ起き上がることができない。洞窟の入口で火が焚かれ左右の壁には松明の炎。茜と勇が押し込められた洞窟の壁はオレンジ色に揺れていた。男たちが着ていた貫頭衣は枝に通され火の回りで炙られている肉と一緒に干されていた。裸の男は素焼きの壺に唇を付け傾けている。
「あの毛むくじゃら変やで」全身毛に覆われ狐のお面を被っている男は焚火を回りながら串刺しになった肉を順番に裏返していた。
「誘拐犯だったら拳銃とかナイフとか振り回しているでしょう。それに着ている服が変よ。ポンチョみたいよ」
「そやなあ。僕らも炙られて食べられてまうんとちゃうか」
「馬鹿ね。人間を食べるような人はいないわ。美味しくないわよ」
「姉ちゃん。子供の肉は柔らかくて美味いって聞いたことないんか」
「止めてよ」茜は大きな声を上げてしまった。
「気が付いたか」裸の男が近づいて来て二人の顎を指先で掴んだ。男の唇は肉の脂でギラギラと光っている。
「小父さん。僕らは排気ガスまみれや。汚い水もたらふく飲んでいるし、派手な色のおやつも沢山食べているから不味いで」
「馬鹿、何を言っているの。落ちついてよ」
「どこから来た」
「山の裏側。石切からよ」
 男は首を傾げ「イシキリ。――知らないな。その見たことの無い身形。なるほど、海を渡って来たのだな」
「船じゃなくて電車。トンネルを潜って来ただけよ」
 男は頭を掻いた手で茜の頭を叩いたり摩ったりを繰り返す。
「暴力反対」勇は体を捩って茜の前に躍り出て男を睨み付けた。
「こいつら、頭を打ったようだ」と焚火の前で肉の焼き加減を確かめている狐男に声を上げた。
「その服を脱げ」勇の手首を縛っていた縄を男は解いた。
 勇が濡れたトレーナーを脱ぐと、男はそれを奪い取りトレーナーの両袖を持ち左右に広げ顔を近づけた。首口のタグを引き伸ばしそこに書かれたアルファベッドの列を見て首を傾げた。
「お前も脱げ。乾かしてやる」
 茜は男に背を向け着ていたトレーナーを脱ぎ男の前に投げつけるとその風で松明の炎が震えた「寒い」茜の歯は茜の意志に反して獅子舞のようにカチカチと音を立てている。
「お姉ちゃんが寒がっているやないか。何か服を貸してくれや」
 男は二人の服を焚火の前で座っている狐男に投げてから壁に立て掛けていた麻袋の口を広げひっくり返した。床は芋やどんぐりの山。男は腰に差していた銅剣で麻袋の底と横を切り裂いた。
「ほら」男は茜と勇の前にその麻袋を投げ着るように顎で命令した。
「チカチカする」茜は袋を被り首と手を出して言った。二人の服は狐男が器用に枝を通し凧のように広げられ焚火の前に干されていた。
「姉ちゃん。腹が減ったわ」勇はか細い声を漏らした。今日は朝食のパンしか食べていない。勇が音を上げるのももっともだった。
「何か食べさせてよ」茜は足首を縛られていることを忘れ立ち上がろうとしたが一歩飛び跳ねてから顔から倒れてしまった。
「大丈夫か」勇はうつ伏せに倒れている茜に蓑虫のように這って近寄り茜の足首を縛っている縄を解いた。茜は素早く立ち上がりドシドシと焚火に向かって歩いていき男たちの前で仁王立ちになった。その顔は峰子が子供を叱るときに見せる鬼の顔だった。
「弟がお腹空かせているじゃない。それを寄越しなさいよ」茜は焚火の周りで炙られている肉に向かって両手を突き出した。
 男が狐男に顎で指示すると狐男は枝に刺し炙られていた肉を口で抜き取り、その枝で焚火の中をまさぐった。焚火の中から転がり出てきたのは皮が焦げた里芋。狐男はその芋に枝を刺し炙っていた肉と一緒に茜に差し出した。
「ありがとう」茜が頭を下げると狐男は無言で鼻を上下に動かす。勇は茜から渡された肉にかぶりついた。肉には塩も振られてなく肉から滴り落ちる肉汁の味しかしない。
「硬いけど美味い」勇は獣のように肉に噛みついた。芋の甘味は少ないが空腹を紛らわせるには十分だった。
「原始人みたいやな」洞窟の中で唇を油で輝かせながら肉を食べる姿は図鑑に載っている古代の暮らしの絵に似ていた。
「あの人たち悪い人じゃないみたいね」
「そうやろか。太らせて食べるつもりかもしれんで」
「馬鹿なこと言わないでよ」お腹が満たされた茜と勇は土の上に寝転がり深い眠りに落ちてしまった。

 茜が右手で目を擦ろうとすると左手が付いてきた。土壁が柿色に染まっている。何が起きているのか自分が何処にいるのかしばらく分からなかった。勇が両手両足を縄で縛られ麻袋を着て寝ているのを見てやっと自分も縛られていることに気が付いた。
「勇。起きて」茜は縛られた両手を持ち上げ勇の腹に落とした。
勇は微かに呻き声を上げて薄目を開けた。
「姉ちゃん。どうしてそんな恰好をしているんや」勇も自分の置かれている状況を忘れていた。勇が体を起こそうとすると両手が使えずまた地面に俯せになって倒れた。
「どうして縛られているんや」勇は頬を地面に押しあて唇を歪めた。
「覚えていないの」勇は膝を立てて上半身を起こし洞窟に差し込む柿色の光に全身を染めて申し訳なさそうに首を横に振った。
「原始人に誘拐されたみたい」と茜が言うと勇の目が大きく開いた。
洞窟には焚火の燃えかすだけが残され男たちはいない。
「あの狐男たちが居ない間に逃げへんか」
「どうやって。私たちは這うことしかできないのよ」
 勇は洞窟の口まで兎のように飛び跳ねて移動し外を覗きこんだ。
帯状に連なる山の背後から柿色の太陽が上がり濃紺の空が天高くに押しやられていく。
「姉ちゃん。朝日が綺麗やで」茜は目を瞑り冷たく新鮮な空気を吸い込んだ僅かな間に勇が目の前から消えた。
「勇」茜は足を怪我した兎のようにぎこちなく跳ねて洞窟から頭を出したが勇の姿は無い。
「姉ちゃん。上や」勇は狐男に吊り上げられ、洞窟の横で寄り添う白馬と黒馬の間に張られた革のシートに掛けられた。
「どこに連れて行くつもり」
「それが朝の挨拶か」背後から男の声。太い腕が茜の腰に巻き付き吊り上られ勇の横に並べて掛けられた。
「こいつらを頼むぞ」男は白馬の鼻を撫でている狐男に命令した。
「どうするつもり」狐男は人差指を鼻の下で立てるだけだった。
白馬が前足を上げると黒馬も同時に前足を上げる。首を振るのも同じだ。まるで黒馬は白馬の影のようだった。馬の背は温かく歩く度に両方の馬の背骨がグシグシと音を立てる。そのリズムは寸分の違いも無い。良く調教された馬だと茜は思った。男は茶毛の馬に乗り先頭を進む。狐男は馬には乗らず手綱を引いて歩いていた。獣道は山の間を流れている川に沿いながらゆったりと下っていた。
「ここはどこですか」茜は威圧するのではなく精一杯上品に尋ねたが狐男は前を見たまま首を横に振るだけだった。狐男は昨日から一言も話してくれていない。首を横に振るということは話しは理解している。声が出ないのだろうか。
「僕らは殺されるんか」勇が狐男に尋ねると首を大きく横に振った。
「姉ちゃん。ハイかイイエで答えられるように質問すれば良いんや」
勇の頭が柔らかいのは茜とは血が繋がっていないからだと思った。
「ここは奈良なの」狐男は首を横に振る。
「そしたら大阪なの」狐男はまた首を横に振った。もしかしたら狐男は首を横にしか振れないのかもと茜は質問を変えた。
「狐のお面は脱げないの」狐男は首を縦に振った。茜はその理由を知りたかったがハイとイイエだけで聞き出すのは至難の業だった。
「おじさんは狐なの」と勇が尋ねると狐男はあっさりと認めた。
「おじさんは人間なの」おじさんはしばらく考えてから首を縦に振った。要約するとおじさんはお面を被っているのではなく狐と人の合いの子と言うことになる。狐男のお父さんが人間でお母さんが狐なのか、その反対なのか茜は揺られながら妄想に耽っていた。
 川の対岸に渡るには橋が必要になるぐらい川幅は広くなっている。左右から圧迫していた山が離れ山裾もなだらかになってきた。馬の鼻先に見える田圃は擦り減ったデッキブラシのように刈り取られた稲株が並んでいるけれど、その奥の田圃は一面茶色い水に覆われていた。徹に首飾りを返す為に頑張って電車に乗ったのに。どうして私は手足を縛られて馬の背に乗せられているのだろうか。もしかしたら電車の中で気絶して病院のベッドの上で夢を見ているだけなのでは。目を開けばベッドの傍らに両親が居て「茜が目を覚ましたわ。先生を呼んで来て」と母が叫び私の手を両手で握ってくれるのでは。
 茜は目をゆっくりと開いた。道端に綿帽子を被っているタンポポが並んでいた。道は舗装されていないし電信柱も無い。茜は首を上げ周囲を見渡した。摩天楼などは望まない。木造の民家が軒を並べ、その横に白い軽トラが有る田舎の風景があればそれで良かった。
――茜の希望は叶えられなかった。
 茶毛の馬が首を横に曲げて反転しこちらに引き返してきて、その馬に乗っていた男が狐男に何かを囁いた。
「お兄さん。ここは何ていうところなんや」勇は男に尋ねた。
「平群の田圃だ」
春の遠足で信貴山と法隆寺に行くことが担任の先生から告げられたとき勇は小学校の図書室に立ち寄り図鑑を開いた。信貴山の山腹に建てられた寺の写真と地図が頭の中に浮かんだ。その麓に平群の文字が有ったのではないだろうか。平群から更に南に下ると奈良盆地から大阪湾に流れ込む大和川が低い地を求めて大蛇のようにくねっている。その少し上流に法隆寺が有ったはず。
「お兄さん。法隆寺に行ったことありますか」
「ホウリュウジ。なんだそれ」男は真面目な顔で答えた。
 勇は首を傾げてから茜を見た。茜も首を傾げている。聖徳太子の名前と法隆寺の五重の塔と八角堂の姿は子供でも知っている。
「法隆寺に連れて行ってよ」茜が男に向かって叫んだ。法隆寺まで行けば近くに駅があり電車に乗ることができると茜は考えた。
「だから、そんなものは知らない」こんどは男が首を傾げた。
 男は馬の鼻先を日が傾く山の方角に変え川に沿って坂を上った。坂を登りきると茜と勇を乗せている白黒馬が首を左右に揺らして立ち止まった。枝を切り落としただけの丸太が土塁の上に打ち込まれ塀を造り、その周囲を濠が取り巻いている。丸太で組まれた短い橋を渡り藁葺の寄棟屋根が付いた物見やぐらを潜ると内側に開かれた観音扉が見えた。藁葺屋根の平屋の民家が三軒、畑を挟んで馬小屋と高床式の倉庫。茜は映画のセットに迷い込んでしまったと思った。
「ただいま戻りました」男が叫び手綱を引くと馬が一斉に止まった。槍を持った兵士が近寄ってきて茜たちを睨んでいる。
「今日は田圃の小屋に泊まるのではなかったのか」年老いた擦れた声が背後から聞こえた。
「爺。ところがちょっと。お見せしたいものがありまして」足音が近づいて来て馬の顔を摩る皺くちゃの手が覗いた。葡萄色の絹織物の裾が風に揺れる。白い顎鬚が見え目尻に深い皺のある片目がじわりと細くなり焦点を馬が乗せている荷物に合わせた。
「なんだこれ」と老人が茜の髪を引っ張り上げた「生きているじゃないか。どこの部落の子供じゃ」と声を張り上げた。
「鳥見の里で見つけました」男は老人にトレーナーを差し出した。
「これはなんじゃ」
「子供たちが着ていた服です」
「見たことが無い形だな」老人はトレーナーの袖を掴み広げ表と裏を確かめた「見たことの無い柄だ」トレーナーの胸の当たりに頬擦りをし「なんと柔らかい」と言いながら勇を見た。
「そっちは男か」
「そうです。どうしましょうか」
「きっと海を渡って来たのだろう。小屋に閉じ込めておけ」
 馬が奥に進むと母屋から葡萄色の絹織物を着た女が出てきて真直ぐな黒髪を両手ですくい広げてから馬から降ろされた茜と勇を見下ろした「何です、この子供は」女は足の先で勇のお尻を突いた。男が経緯をその女に説明し「変な服を着ていたそうじゃ」老人は二人が着ていたトレーナーを女に渡した。
「絹でも麻でもないわ。これは何に」女は茜に首口のタグを向けた。
「それはブランド名……。いいえ会社の名前のようなものです」
「カイシャとやらを知っていますか」女は男と狐男を睨んだが二人は首を横に振るだけだった。
「爺。この者共から国のことを聞き出していただけますか」女は茜の顎を掌で持ち上げ「目が大きく鼻が尖っている。なんと不細工な」と茜に向かって呟いた。茜は女に不細工だと言われ頭に血が上り、その大きな目を見開いて女を睨み返したが、女は茜と視線を合わさず掌を口に当て急に踵を返し家に入ってしまった。
 茜と勇は物見やぐらの傍にあるに円錐の屋根に藁が掛けられた小屋に押し込められた。炭と粘土で押し固められ壁。土間の中央は丸く掘り下げられていて井形に組まれた炭の燃えかすが残っていた。その周囲の土は黒く焦げ、それを避けるようにござと鹿の皮が敷かれている。奥の壁際に引かれたござの上に茜と勇は降ろされた。
「この家は図鑑で見たことが有るで。竪穴式住居やないか」
「穴が掘られていないから平地式住居じゃないの」
「姉ちゃん。えらい詳しいな」
「勇に褒められても嬉しくないわ」茜は微笑みを隠さなかった。
「でもね。分類は後世の人が頭を整理するためにしたことで、どうしてそのような差が生まれたのかを知ることが大切だと思うわ」
「そうなんや。そんなこと今はどうでもええか。これからどないするん。どうにかせんと僕らも分類され図鑑に載ってまうで。――いっその事、この縄を切ってここから抜け出さへんか」
「馬鹿ね。ここを抜け出して何処に行くのよ。あのお兄さんは法隆寺を知らないのよ。この世に法隆寺が存在しないってことでしょう」
「そんなの探してみいひんと分からへんで」
「そりゃあ、あのお兄さんが知らないだけかもしれない。どっちにしてもここはまるで博物館にある原始時代の展示室みたいでしょう。私たちが住んでいた時とは違う時代に来てしまったのよ」
「――お母さんと会えるやろか」
「馬鹿ね。お母さんもお父さんもまだ生まれていないわよ」茜はしばらく俯いて勇の気持ちを自分の心の中で探った。勇はまだ幼いのよ。お母さんにもう会えないなんて言ってはいけない。でも嘘をつくと心の傷口は更に裂け広げてしまうのではないだろうか。
「ねえ。勇は遠足で法隆寺に行ったばかりじゃない」茜は顔を上げ勇の気を逸らすことにした。
「法隆寺はいつ造られたのよ。覚えている」
「ええと。確か――」勇は頭の横を両手で押さえ目を瞑った。図鑑に載っている法隆寺の写真は細部まで思い出せるのだが、その横に並んでいた文字はぼやけて見えない。
「早く思い出してよ」
「確か、六百何年……。間違っとるかもしれんけど」
「役に立たないわね」
「ごめん」勇は素直にそれを認めた。
「でもね。もし法隆寺が無かったとしたら私たちはかなり昔にやって来たことになるわね」茜は頬を膨らませて溜めた空気を溜息と共に尖らせた口からゆっくりと吐きだした。
「でも、僕らはタイムマシーンには乗ってなんかないんやで」
「馬鹿ね。映画と現実を一緒にしたらいけないわ。勇は白馬の王子様と会ったことある」勇は首を激しく横に振り藁の天井を見上げた。
「姉ちゃん。腹減った。ラーメンが食べたいんやけど」
「はあ。この一大事によくお腹が空いたなんて言えるわね」
 茜の腹の中から錆びついた扉が閉まるような音がした。茜は縛られた両手をお腹に押し付けた。
「なんや。姉ちゃんやって腹が空いているんやんか」
 吠え続けていた犬が急に甘えた声を漏らした。入口に掛けられていた布の扉が持ち上げられると部屋の中に赤い光が広がり冷たい空気が地を這って流れ込んできた。狐の顔をした女がつるりとした素焼きの壺を持って入ってきて勇の前で両膝を付き足元にそっと壺を置いた。女は一言も話さず勇の手を持ち上げ縛っていた縄を解いてくれた「ありがとう」女は微かに頷いてから茜の前に来て茜の縄を解いた。女は壺の口に重ねて被せていたお椀を茜と勇に渡した。壺の口から柔らかい湯気が立ち上がり糊を煮詰めたような臭いが小屋に広がる。女は壺を傾けお椀にどろりとした物を注いだ。それは薄茶色のお粥のようなもので畦道に生えていたナズナの葉が粒に絡まっていた。女は懐から竹を割って作った靴ベラのような形をしたさじを二人に手渡し顎をしゃくり食べるように促した。
茜は勇に待つように言ってから一口食べて不味いものでないかを確かめて頷くと、勇はそれを一気に流し込んだ。
「美味い」塩味は無くナズナの苦味しか感じられなかったが冷えた体を優しく温めてくれる。
「お姉さんも話ができないのですか」茜の問いに女が首を縦に振ると金属が擦れる音が聞こえた。
「お姉さんは狐男の奥さんとちゃうか」
「こら、勇。すみません」茜は勇に代わって女に謝った。そこに狐男が入って来て奥さんに串に刺し焼かれた川魚を数本手渡した。魚の皮が焼けた香ばしい臭いが小屋に広がり土と草の臭いを一気に追い出した。狐男は顎で食べるように茜と勇に促した。見たことの無い川魚で大きさは鮎ぐらいだ。勇は魚の背からかぶりついた。
「姉ちゃん。美味いで」
「有難うございます」茜はそう言ってから魚を口に運んだ。
 また足元に冷たい風が舞い込んできた。茜は魚を咥えたまま入口を見ると先程の老人が狐男の背後に立っていた。
「どうして縄を解く。こいつらが逃げたらどうするつもりだ」女は腰を落としたまま後退りをした。女の唇は震えている。老人は片手で女の首輪を掴み「逃がしたら女の命は無いと思え」老人が首輪を引っ張ると女は頬からござの上で転がった。狐男は女に覆い被さり身をひるがえして両手を広げ無言のまま両手を合わせた。
「こいつらの手を縛れ」老人は狐男に命令した。
この夫婦も囚われの身だったのだ。茜は頭に血が上り「そんなの差別よ」と叫んでしまった。
「差別だと」老人は茜に顔を近づけて来て低い声で言った。女は茜に向かって首を横に振っている。
「人に首輪を嵌めるなんて人間のすることじゃないわ」
 老人は鼻で笑ってから「こいつらは人間に成りきれなかった狐だ。話しさえできない屑じゃ」
「酷い」茜の背筋を電気が駆け登る。女は膝で歩き茜を全身で抱き首を左右に振る(もう良いから)と女の声を茜は感じた。
老人は右目だけを細くし茜を睨み返し眉間の皺を深く刻んだ。
「私たちの話しが聞きたいなら乱暴は止めてください」
老人は唇を薄らと開き隙間だらけの黄色い歯を見せた。
「そうだな。話を聞くのが大切じゃな」老人はゆっくりと腰を曲げござの上に腰を下ろし、ふっと息を吐いてから茜を見た。
「お前たちは何と呼ばれているのだ」
「はい。私が倉田茜。弟の倉田勇です」茜は勇を指差す。
「ほお。聞いたことがない名じゃな」
「お爺ちゃんは何て言うや」勇は体を前に乗り出した。
「平群の爺と呼ばれている。お前たちの群の名は何という」
「家は石切と言う町にあります」
「イシキリ……。聞いたことが無いな。その群はどこにあるのじゃ」
「生駒山の向こう。山の反対側」
「河内湖のあたりじゃな」
「河内に湖なんか有ったっけ」勇はしばらく首を傾げていた。
「昔、大阪城の周辺は湖で城がある場所は岬の先端だと達郎叔父さんが言っていたわ。その岬に添って大きな活断層が有るのだって」
「僕、その話聞いてへんで」
「活断層図鑑を必死に見ていたからよ。それから叔父さんはこんなことも言っていたわ。琵琶湖の西に断層が有って西側がせりあがり比叡山になって東側が沈んで湖になったそうよ。その話は聞いていたの」勇は唇をヘの字に曲げ、頭をゆっくりと左右に振った。
「何の話をしている。オオサカジョウとかカツダンソウとか」
「ごめんなさい。夏休みの宿題の話しをしていたの」
「シュクダイ。年寄りでも分かるように話してくれないか」
「ごめんなさい。爺は東大寺の大仏とか法隆寺とかは御存知ですか」
「ダイブツ、ホウリュウジ。それは何じゃ」平群の爺は首を傾げた。。
「爺はお寺を知らへんのか」
「オテラ」爺は片目を細めて首を傾げた。
「お寺には偉いお坊さんが居て、生き方を教えてくれるんや」
「生き方か。そんなことを考えたことも無かったな」
茜は爺を見て「爺は何を信じているのですか」と恐る恐る尋ねた。
「そりゃあ神じゃあ。海にも山にもどこにでも神様がおられる。みんなの心の中にも神様は居られるぞ。オテラなんていらん。お前たちの言うオボウサンとやらが神様のようなものなら面倒そうじゃのう。まあ、信じるのは何でも良い。人間が神様のいる大地や海や空を、そして心を大切にすれば、それでいいのじゃ」
「爺の言う通りね。それならば動物の心にも神様がいるのよね」
「そういうことになるな」
「なら、この人たちの心の中にも神様はいるのよ。爺は神様に首輪をして痛めつけているのよ」茜は爺を睨んだ。
爺は皺の間から茜を睨みつけ「子供に言いくるめられるのは情けないが茜の言っていることはは正しい。首輪を外すことを約束する」
「暴力も駄目よ」
「分かった」居づらくなった爺は腰を浮かそうとござに手を付いた
「爺。ちょっと待ってください。今は何時代なのか教えてください」
「ジダイとはなんじゃ」
 時代なんて未来の人が過去を振り返って決めること。明治から現代までだって未来の図鑑では戦国時代となっているかもしれない。
「姉ちゃん。そんなこと爺が知るわけないやん」
「なんじゃと。わしは平群で一番の物知りなのだ」
「やけどオテラも知らんかったんやないか」
「仏教がまだ日本に伝わっていないのよ。きっと平仮名もまだ作られていないわ」茜は地面に平仮名のあ行を書き並べた。
「なんじゃ、そのミミズみたいのは――」
「ほら」茜は勇に向かって顎を少し前に出した。
「仏教も平仮名も無いのなら僕らは何時代にいるんやろか」
「そうね、奈良時代より前。飛鳥。古墳。もしかしたら弥生時代」
茜は地面に銅鐸の絵を描いた。
「銅鐸だな。これは」
「やった」二人は腰を浮かして喜んだ。
「それならば古墳時代より古い弥生時代ね。――どうやって家に帰るのよ」二人はお互いの顔を見合わせた。
「お前らの話は訳が分からん。話しの続きは明日じゃ」平群の爺はござに手を付いて立ち上がった。
「平群の爺。縄を解いてくれませんか。私たちはここから逃げても行くところがないのです。それに私たちも爺の心の中にも神様がいると信じていますから」平群の爺は掌を狐男に向かって縄を解く仕草をして外に出て行った。
 狐女は住居の中央に組まれた薪の隙間に細い枝を投げ入れた。狐男はその横に黒い穴が並ぶ木の板を置き足で踏みつけ掌で挟んだ木の棒を板に押し付けて回した。板から白糸の煙が立ち上がると狐女はもぐさを棒の先端に押し付け息を吹きかけた。ホタルのように点滅しながら火が成長し毛むくじゃら男の顔が住居の中で薄らと浮かび上がった。勇は産声を上げた炎に手を叩いて喜び「マッチ。火打石でもええからどこかで売っていたら楽ができるんやけどな」と明るく振舞っていた。茜はそれを見ながらずっと考えていた。この二人がどうして人間に成れなかったのか。どうして話ができないのか。どちらの回答も用意されていない。はっきりしているのは茜たちが暮らしていて現代に彼たちは暮らしていないことだった。
 もぐさの中から立ち上った炎は枝の隙間に差し込まれ薪がパチパチと撥ねながら炎を膨らませ狐女の物寂しそうな顔が見えるようになった。狐男が炎の近くに寄れと茜に向かって手招きをする。茜と勇は掌を炎に向けた「あの。名前は無いのですか」茜が炎の奥で肩を寄せ合っている夫婦に尋ねると夫婦は同時に頭を横に振った。
「それなら、名前を付けましょう」茜がそういうと夫婦は尖った口を開いたまま首を傾げた。
「そうですね。焚火を作ってくれた奥さんが小枝さん。私たちを助けてくれた旦那さんが助さん。どうでしょうか」茜の提案に勇は笑顔で賛成したが夫婦は意味が分からないのか首を傾げたままだった。
「急に名前なんて言われても戸惑うでしょうね。でも名前は人間の幹のようなもので大切だと思うのです」夫婦の切れ上がった目が少し緩んだように茜には思えた。

 藁吹きの天井が蝋燭の灯った提灯のように柔らかな橙色に染まっていた。茜は体に小枝さんが掛けてくれた獣の毛皮で巻いて寝転がり現れては消える現代をその天井に映していた。両親は元気にしているだろうか。私たちが行方不明になってしまって警察の廊下で泣き崩れているのでは。元気だから心配しないで必ず帰るからと電話でも電報でも飛脚でも何でも良いから伝えたい。涙を使い果たし乾燥してしまった瞳から知恵は一滴も落ちてこなかった。代わりに出てきたのは茜を生んでくれたママの顔だった。亡くなった人に現状を伝えるのは更に難しい。もしかしたら天国には時代が無くてママが空の上で見守ってくれているのかもしれない。
(ママ。二人を助けて欲しい。二人が駄目なら勇だけでも。他人の私を娘同様に育ててくれたお母さんには寂しい想いをさせたくない)茜は毛皮の中で両手を合わせた。寝返りを打つと藁が頬を突く。芋虫のように丸めた勇の背中。茜は毛皮から両手を出した。手首には赤く磨れた痕が残っていたが痛みも無く自由に動かすことができた。
「勇、起きてよ」茜は上半身を起こし勇の耳の穴に優しく小声を流し込んでみたが勇は耳元を掻くだけだった。茜が勇の顔を覗き込むと頬に土でできた蟻の行列。勇は何も言わないけれど涙を流すほど寂しかったのだ。勇は図鑑で知識を詰め込み大人ぶっているが実のところは小学二年生の子供。茜は勇の頭を母のように優しく撫でた。

 住居の入口に垂らされていた布は巻き上げられ小枝さんが赤土を焼いた土鍋を持って現れた。
「小枝さん。この毛皮ありがとうございます」小枝は茜に微笑みを返してから焚火の横に転がっている石を集め、その上に土鍋を置いた。中身はお粥が焦げ茶色くなったものだった。
「勇。起きてご飯よ」
 勇が上半身を起こすと掛けられていた毛皮が足元にずれ落ちた。
「姉ちゃん。ここはどこ」勇は両目の下を這った蟻の行列を擦り落としてから薄目を開けた。
「それをこれから調べないといけないのでしょ。小枝さんが朝ごはんを作ってくれたからいただきましょう」
 勇はお粥が注がれたお椀を小枝さんから受け取り眉を寄せた。
「贅沢を言っちゃ駄目よ。勇は生きて家に帰らなければならないのだから」茜はそう言ってから持っているお椀を傾けた。
「姉ちゃん。トイレ、トイレ」勇は股間に両手を添え立ち上がった。昨夜までの緊迫した状況は今も変わりはないのだが熟睡し温かい朝食を食べたことで気持ちにゆとりができたのだろう。
「そこらでしてきなさい。濠とか川とかどこでも良いじゃない」
 勇は外に飛び出すと叫び声を上げた。間に合わなかったのだろうか。茜は首だけを外に出し様子を窺った。勇は股間を押さえたまま馬の行列を見ていた。
「お姉ちゃん。白馬と黒馬がピッタリ一緒に歩いているで。ほら」
「今頃気が付いたの。昨日だってあれに乗せられたじゃない」
「そやけど。引っ付いた馬なんて図鑑でも見たことが無いやろ」
「化石が発掘されたから図鑑に載せることができるのは判るわよね。動物が化石に成るには土石流などに巻き込まれ急に土の中に埋もれたり空気の少ない沼に落ちたりしないとならないの。沢山の条件が重ならないとだめってことね」
「ふーん。土に埋めただけやと化石にはなられへんのやな」
「絶滅危惧種って知っている」
「今生きているのが死んでもうたら、もう終わりっていうやつやろ」
「そう。白黒馬だって数が少ないから化石になる確率も低いのよ」
勇は口をあんぐりと開け「人間も絶滅するんやろか」勇は長い溜息を付いた。
「そうね。人間は公害を生み出すし戦争は止めないでしょう。今のままなら有り得るわね」茜と勇は口を一文字に結んだ。
 朝日が馬の尻を赤く染め、それを拭き消そうとするように二本の尻尾が揺れていた。獣の皮を着た助さんが白馬と黒馬に膝を立てて座り上半身を捩じって小枝さんに手を上げた。
「小枝さん。助さんはどこに行くの」
 小枝さんは左腕を前にピンと伸ばし右手で作った握り拳を後ろに引き片目を閉じた。
「狩りなのね」茜がそう答えると小枝さんは頬を緩ませて頭を上下に振った。勇は顔を歪めたまま弓を引く仕草を真似している。
「勇、早くトイレに行って来たら」勇は急に背筋を伸ばし身震いさせてから小股で丸太の塀に向かって駆けて行った。
 小枝さんは部屋の隅に折りたたんで置いてあった衣服を脇に抱え鼻先で濠の外を流れている川を差した。茜と勇に付いてくるように言っているのだろう。濠を跨ぐ木の橋を渡り川岸まで三人は縦に並んで歩いた。川岸には丸太で造られた踏み台が並んでいた。小枝さんは真ん中の踏台に降り持っていた服を片手で川に押し込んでから顔を上げ茜の胸の辺りを指差してから服を脱ぐ仕草をし川から引き上げた服を台の上に広げ半分に折り畳み押し洗いを始めた。
「服を脱いで洗うのね」小枝さんは微笑んで頷いた。
「勇もトレーナーを脱いで洗いなさい」川の流れに逆らい泳いでいる魚に目を奪われている勇は川を見ながら毛皮の上着を桟橋の上に落としトレーナーを脱いで茜に渡した。
「馬鹿ね。自分で洗うのよ」勇は甘えた顔を茜に向けた。
「あのね。私たちがずっと一緒に居られるとは限らないのよ。自分のことは自分でできるようにならないと――」茜が視線を落とすと勇は目に涙を溜めていた。
「姉ちゃん。どこかに行ってまうのか」
「行かないけれど無理やり引き離されることだってあるでしょう。ほら」茜は小枝さんを見た。
「小枝さんは人質なのよ。狩りの途中で助さんがどこかに逃げ出したらきっと小枝さんは殺されてしまうのよ。だから私たちもどうなるのか分からないの」
「――分からへん」勇は唇を尖らせている。
「仕方が無いわね」茜は勇が握っているトレーナーを引っ張り取ろうと手を伸ばしたら勇はトレーナーを背に隠し後退りをする。勇は茜から少し離れたところで腰を下ろし自分のトレーナーを水面に叩きつけて洗い始めた。
 川下には川を跨ぐ橋がありその中央に枝木で囲まれた小屋が付いている。小枝さんが逃げないように監視している矢と弓を背負った男たちがときどき出入りしているのでトイレなのだろう。川上の踏台では男が片膝を付き竹筒で川の水をすくい一気に飲み干してから四本の杭に差し込まれた木の板を一枚抜き上げた。川から引き裂かれた水は濠を経由して集落の周囲にある畑に鱗状に輝きながら流れ込んでいく。この川がこの部落を守る要なのだと茜は思った。
小枝さんは洗い終わった服を腕で抱え川岸から道に上がった。出てくるときには気が付かなかったけれど道端に柿の木があり、その陰にも武器を持った男が立っていた。ここから逃げ出すことはできそうもなかった。小枝さんは茜と勇のトレーナーを小屋の横の物干し竿に掛けてくれている。干し終えた小枝さんは肩を自分の握り拳で叩き首を回し休む間もなく爺が暮らす母屋をほうきで掃きだした。
「小枝さん、掃除を私たちにも手伝わせてください」茜は掃除を三人で分担することを提案した。竹を半分に割ったヘラで馬小屋の糞をすくい畑の横にある穴に入れる作業を勇が受け持った。勇は片手で鼻を摘まみながら残りの手でヘラを操っていたが馬糞は重くそんな生温い手法では続けられない。いつしか勇は臭いを忘れて腰を低く落とし両手で掃除をするようになっていた。茜は畑の雑草抜きを受け持った。素手で草を抜くので爪に土が詰まり指先はどんどん土色に染まっていった。母屋の掃除を終え戻って来きた小枝さんは茜が集めた草の山を崩し、食べられる草を籠に入れた。
「姉ちゃん。終わったで」勇の額には馬糞が擦り付けられていた。
「汚いわね。川で顔と手を洗っておいで。川に落ちないでよ」いつの間にか、お母さんに似た小言を茜は言っていた。小枝さんは土まみれになった両手で湯呑の形を作って口の前で傾けている。
「お茶にするのね。休憩よ」茜は川で手を洗っている勇に叫んだ。
 お茶と言っても煎茶が有るわけではない。残り火で沸かした湯に野菜くずを入れ煮だしたもの。それでも胃袋を湯たんぽに変わり全身を温めてくれる。茜は暖まったお椀に冷えた指を絡ませた。
「雨や、雨や」物干し竿の下でトレーナーを取ろうと勇が手を伸ばし飛び跳ねている。大粒の雨が藁葺に刺さり黄土色の泥水は王冠のような波紋を描いている。馬小屋が白く霞みその先の母屋は白い雨の壁に塗り込められ形さえ見当が付かなくなっていた。
 茜は小枝さんが下ろしたトレーナーを胸に抱え小屋に飛び込んだ。
「酷い雨ね。今は秋でしょう。梅雨でもないのによく雨が降るわね」
「そうなんじゃ」勇の後ろから入ってきたのは平群の爺だった。爺は髭に溜まった水滴を掌で掻き落とし話し始めた。
「今年は春から大きな嵐が何回もくるし暑くなる前から雨が降らない日はほとんどない。去年まではそこの川は歩いて渡れたのじゃがな。今年は川が氾濫し田圃の半分は今も水に浸かっている」
「異常気象ね」
「なんじゃそれは」
「神様が怒っておられるのよ。爺が悪い事をしたのじゃない」
「悪い事……」爺は顔色が曇った。
「――百二十七年」爺の横で勇が呟いた「どこかの教授が百二十七年は大雨やったと言っていたんや」
「どうしてそんな昔の事が判るのよ」
「確か――木の年輪に含まれている何とかの量を調べると雨量が計算できると言っていたと思うんや」勇は両手で自分のこめかみを押さえ必死に思い出そうとしていた。
「たまたま大雨だと言うだけで百二十七年とは限らないじゃない」
「そうなんやけど……。ごめん、それくらいのことしか知らんのや」
 茜は大きな溜息を付いて「そうよね。小学生の知識じゃ限界があるわ。でも勇は偉いわ。そんな難しい事を覚えていたのだから」
「お前たちは何の話をしているんじゃ」爺は首を傾げた。
 そこに物見やぐらの上にいた男が血相を変え小屋に入ってきて爺に向かって叫んだ。
「大変です。川の神様が暴れて田圃が……。それに田圃のやつらがこっちにやってきます」
 濠に架かる橋の袂に鍬を持った群衆。群衆の頭は雨を弾き光輪のように白く輝き、ずぶ濡れの着物の裾から泥色の水が滴り落ちていた。槍を横に持ちそれを群衆の胸に押し付ける男が三人。橋の中央で太刀を持った男が仁王立ちになり睨みを利かせていた。
「平群の爺。塀の中で隠れていないで出てこい。俺たちに食べ物を分けろ」悲痛な叫びが濠を跨いで門の中まで聞こえてきた。茜は門柱に隠れている爺に話しかけた。
「米の蓄えは有るの」
「少しはな」
「それなら皆に分け与えてください」
「馬鹿を言うな。わしたちの食い物が無くなるじゃないか」
「達郎叔父さんが言っていた天明の大飢饉みたいになるんちゃうか」
「そう。ここで食べ物を分け与えないと暴動が治まらなくなって平群が壊されてしまうわ。それにあの人たちが死んじゃったら誰が田畑を耕すのよ。平群の爺。来年の米はどうするのよ」茜は怒鳴った。
「そりゃあ」爺は口の中でもごもご何かを言った。
「私に任せて。爺、米を直ぐに焚いてください。勇、一緒に来て」茜は赤鬼のように赤面した頬を膨らませ橋板をミシミシと音を立てて撓らせ橋を渡った。
「ちよっと開けてくれる」振り返った四人の男に茜は指を向け「あなたたちよ。爺の許可は貰っているから安心して」男たちは左右に避け背後に隠れているはずの爺の姿を探した。茜と勇は男たちの中央に背筋を伸ばし並んで立った。
「おい、見たことの無い子供が現れたぞ」群衆の前列から後列まで失笑が広がる。
「皆さんに食べてもらおうと中で米を炊かせております。それに蔵に有る米も皆さんに分けたいと思います」
「爺、子供に嘘をつかせるな」群衆は騒ついた。
「姉ちゃんは嘘つきやあらへん」勇の関西弁が群衆を引き付けた。
「爺とは話が付いています。私を信じてください」
 群衆のそれぞれは顔を見合わせたり首を捻ったりした。茜は側にいた男に肩車をしてもらい一呼吸置いてから大きな声で話し始めた。
「その代りにお願いが有ります」群衆は一斉に茜を見上げた。
「来年。川が氾濫しないように堤防造りを手伝って欲しいのです」
「テイボウ」民衆は一斉に首を傾げた。
「説明しますから馬小屋に集まってください」
 茜は肩車されたまま橋を戻り、馬小屋の端に群衆を集めた。
「勇、堤防を作ってくれる」勇は手で地面に曲がりくねった溝を掘るとそこに雨水が流れ込み水溜りができた。
「これが川ね」周りにあった土をかき集め溝に沿って盛った。
「川沿いの田圃を掘り下げて、その土で川に沿って長い山を造るの。これをテイボウと言うの」群衆はその箱庭を囲み覗きこんだ。
「そんな川の神様に逆らうようなことができるかよ」群衆の中から顔を上げた男が茜にそう言うと頷く人が広がった。
「川の神様に逆らうのではないわ。川を広げ曲りを少なくして神様が流れやすくするの。ご褒美に米が沢山取れるようにしてくれるわ」群衆が蠢きながら馬小屋は歓声に沸いた。
「堤防を造ったら踏み固めないとならないの」
「なら、堤防の上に馬が通れる道を造ってやな。崩れへんように木を植えたらええんとちゃうか」
「良い考えね。木を植えるなら。実のなる柿や栗の木が良いかも。柿や栗が実ったらみんなで分けて食べれば良いでしょう」
 群衆は茜と勇の話しに呑みこまれていった。そこに群衆の後ろから米俵を肩に担いだ爺が現れた。
「平群の爺だ」
「爺、恩にきります。これでなんとか食いつなげます」
「頑張ってテイボウとやらを造りますから」爺は渋い目のまま口元を緩め「分かった、分かった。テイボウができあがったら来年は美味い米を頼むぞ」と群衆の肩を励ますように次次と叩いた。
「米が炊けたようだ。みんな遠慮などせずに食べていけ」夕食に招かれた群衆は一人残らず爺の家に吸い込まれると茜は骨が抜かれた秋刀魚のように箱庭の上に尻を落とした。

 話しの流れで茜と勇は堤防造りの工事監督のようなことをすることになってしまった。小学校で堤防造りなど教えてもらったこともなく勇は叔父さんの土木の専門書に描かれていた図や写真と大阪湾に流れ込む淀川の堤防を思い出すしかない。
「なあ、姉ちゃん。コンクリは無いんやろか。川の流れが増したら土の堤防じゃ、もたへんように思うんや」
「コンクリートなんてこの時代に有るわけがないでしょ。材料も道具も違うのだから私たちが暮らしていたときと同じ物を造るのは無理。有るもので工夫して似たものを造るしかないわ」
勇は両手を熊手のように広げ髪の毛を掻き乱している。一生懸命に考えている弟に理屈だけ伝えるのでなく何か具体的なことを。茜はべとべとの髪の毛を耳の上に持ち上げ考えた。
「ねえ。石を積みましょうよ」
「そんなに沢山の石がどこに有るんや」
 茜は戦国武将が使わなくなった城の石だけでなくお地蔵までも城壁の石として使ったと教えてくれた先生の顔を思い出した。
「そうよ。城壁の石を再利用したらいいのじゃない」
「その城壁がこの時代には無いんや」
「そうね、そうよね。ここらに有るとしたら上流から流れてきた丸くて小さな石。それと木しかないわね」
「そや」勇は立ち上がった「平群の塀に丸太を使っていたやろ。川沿いに塀を二重に造ってやな。その塀の間に川岸に転がっている砂利を敷いて踏み固めるんや。その上に土を被せて台形にする」
「そうね。それなら造れるわね。土だけで造るより頑丈になるし川底の石をさらえたら川も深くなる。やってみましょう」
茜は爺に圃を見張るために建てられた小屋に皆を集めるように頼んだ。小屋の中で丸くなって座り勇に土床に川と台形の堤防を表した断面図を描かせて説明してみたが集まった人は首を傾げている。平面を立体的に想像する力が足りないと察した茜は勇に箱庭を作りらせた。勇は土床を掘りその横に小石を並べ小枝を床の上に並べた。
「これが川で川岸に転がっている石がこれや」勇が箱庭の川を指差すと周りの大人たちは頷く「そして、これが丸太で造った塀や」勇は小枝を折って川の横に並べて刺した「塀を二列造ってやな。この中に川岸の石や砂利を間に掘り込む。そして踏み固めるんや」勇は指先で小石の頭を突いてみせた「その上に土を入れて更に踏み固めてやな斜面に木を植え天辺の平らなところが道になる。これが堤防や」小屋の中にどよめきが広がった。
 作業は簡単ではなかった。北の山から木を切り出し力のある白黒馬に丸太を引かせるのだが山から川沿いまでは人が一人歩ける程の狭い畦道しかない。丸太を運ぶ前に東西に流れる川と直角に白黒馬が通れるぐらいの広い道を整備しなければならなかった。全て手作業だった。しかも長雨が邪魔をする。田圃の男たちは長雨を眺めているよりは良いと言って森から切りだした木の枝を落とし先端を鋭角に削った。茜と勇も女たちに交じって畦道を広げた。
「姉ちゃんは凄いよな。こんな工事までさせてまうんやからな」
「何言っているのよ。勇が堤防の造り方を考えて説明してくれたからできたのよ。それに大人の人と話ができるのはヘルスセンターでお客さんと話をしていたのが役に立ったのだと思うわ」茜は勇の背中に掌を添え「これからも頼むわよ」と小さく囁いた。
 泥水を溜めた田圃が柿色の夕陽を反射させていた。
「姫。日が暮れる前に平群に戻りましょう」白黒馬の手綱を引いた額と鼻の下に泥の筋を付けた男が茜に声を掛けた。いつの間にか茜は平群の人たちに姫と呼ばれるようになっていた。
「ご苦労さま。お腹が空いたので帰りましょう」
「さあ、馬に乗ってください」
「いいえ。馬も疲れていると思うのです。私たちも歩きます」茜はそうきっぱり断った。皆とできる限り同じことをすることが親しくなるために大切だと茜はヘルスセンターで身をもって体験していた。
 平群の塀の向こうから湯気が立ち昇っている。小枝さんたちが夕飯の支度をしているのだろう。このまえの騒動から夕食は全員が集まり食べることなっていた。女たちも堤防造りに参加しているので食事も洗濯も皆で分担し協力することになった。男たちが橋を渡ると忙しく働いていた女たちが手を止め自分の旦那さんのところまで駆けて来て男の体を見回し怪我をしていないかを確かめている。この時代には医者も薬も無い。怪我が命取りになることもある。小枝さんも茜と勇を一周見渡して頷き二人の頭を優しく撫でた。
 小屋の中で小枝さんが焼いてくれた竹串に刺した川魚を食べていた勇が「姉ちゃん。ここで子供を見たことが無いやろ。変やと思わんか」と半身が骨になった魚を睨みながら尋ねた。確かに赤ちゃんの泣き声も聞かないし子供が走り回っている姿も見たことが無い。
「不思議よね。子供が居なければいくら頑丈な堤防を造っても将来田畑を耕す人が居なくなってしまうわね」
「ここには子供は居ないの」茜は背の高さを示すように掌を地と平行にかざして小枝さんに尋ねたが小枝さんは唇を噛み悲しそうな目をしたまま首を横に振り地面に指先で絵を描き始めた。赤子に乳をあげている母親の絵。離れたところに柵で囲まれた家。その間に山を描いた。小枝さんはその母親の顔にバツ印を描いてから赤子の頭から線を引き出し、その線は山を越え柵の中に突き刺さった。
「赤ちゃんが奪われたのか」勇の問いに小枝さんは頷いた。
「それって誘拐じゃないの。どうしてそんなことになるのよ」
 小枝さんは腕を曲げできた小さな力瘤を指差してから掌を下に向け右手を頭上まで持ち上げ左手を腰の高さに構えた。
「部落に力の差があるからね。でも子供を奪うなんて酷いわ」
 小屋の入口に垂らされた暖簾が捲れ上がった。
「そうなんじゃ」爺が顔を出し勇の隣にあぐらをかいて座った。
「若い男は殺され女も子供も奪われた」
「誰がそんな酷いことを」茜は腰を浮かして爺を問いただした。
「和珥のやつらだ。やつらもこの長雨で田畑を失い仕方なく平群の米を狙ったのだとは思うが子供まで奪うのは道理に外れている」
「それで濠を造ったんやな」勇は皺の隙間から覗く爺の目を見た。
「昔は和珥とも仲よくしておったのじゃあがな」爺の枯れた声。
「もしかして助さんと小枝さんの子供も奪われたの」
「和珥から逃げるときに子供を手放すしかなかったのじゃろう」
「爺は二人をかくまってあげたのにどうして首輪なんて付けるのよ」
「どうしてと言われても――。奴らは人間に成り損ねた狐だからな」
「馬鹿を言わないで。話はできないし顔も違うけど私たちの言葉は理解しているし体は同じよ。平群を守ってくれてくれる仲間じゃないの」茜は顔を真っ赤にし耳の穴から湯気が吹き出すのではと思うほど真剣に怒った。爺は長く息を吐いて考え込んでいる。
「二人はここを抜け出してもきっと生きていけないわ。平群の人間として認めて欲しいの」
「ならば、わしの願いも叶えてもらえんじゃろか。この部落はこのままだと滅びてしまう。お前らに行く当てがないのならこの部落の子供に成って欲しいのじゃ」平群の爺はそう言って片目を細めて勇を見詰めた。勇は老人の視線を外すために茜を見上げた。
「私たちにも親がいるのよ。ここの子供になるかは両親が住む石切に行ってみてからよ」爺は顎鬚を摩りながら天井を見上げている。
「分かった。確かその部落は山の向うにあるのじゃな。近いうちに河内湖に出掛けるからそれに付いてこい。そしてこれからをどう生きるのかよく考えるのじゃな」平群の爺は立ち上がり助さんと小枝さんの首輪の後ろに開いた穴に腰にぶら下げた小さな板を差し込んだ。首輪は金属音を立て外れ地面にドサリと落ちた。爺はもう一度茜と勇を睨んで「約束だぞ」と言って踵を返した。助さんと小枝さんは茜の前に正座し額を地面に付けてから爺の後を追った。
「姉ちゃん。僕らはここの子供に成ってしまうのか」
「原始の地で生きる知識も無く親戚も居ない私たちがこの部落を出て生きて行けると思うの」勇は頭を傾けた。
「ここを出て生きて行く方法が有るとしたら……」「有るとしたら」
「現代に戻る方法を探すしかないのよ」
 勇は大きく頷き「それで爺に石切に行きたいと言ったのか。姉ちゃんは凄いわ」と目を見開いた。
「でも何を探すんや。僕らが本当に昔に来ているなら石切に行っても何もないかもしれへんで」
「そうね。だから何を探すのかを探すのよ」
「なんやそれ」勇は大袈裟に両手を広げた。
「まだ時間は有るわ。だから考えて。今の私たちができることは考えることくらいしかないのよ」

     4
 ここに来て何日が過ぎたのだろうか。最初の一週間ほどは数えていたのにあまりにも同じような日が繰り返されたので数えるのを忘れてしまった。朝晩が寒くなってきたのは明らかで茜と勇は寄り添って眠るようになっていた。
「ほら、起きろ」薄目を開けると白く綿菓子のような物が揺れていた。平群の爺が寝ている二人を見下ろしていた。
「爺。まだ薄暗いやないか。馬もまだ寝ているやろ」馬小屋の掃除をするのは、お日様が完全に顔を出し男たちが馬で猟に出かけてからだと勇は言いたかった。
「掃除じゃない。その馬に乗る日が来たのじゃ」
 勇は目を丸く広げ上半身を起こした。
「もしかして石切に行くの」茜は遅れて上半身を起こした。小枝さんは既に芋粥が入った鍋を混ぜている。
「そうじゃ。急いで朝ごはんを食べて支度をしろ」
 茜は粥を口に流し込みながら考えた。支度をすると言っても荷物など無い。トンネルから吐き出されたときにナップザックを失くしている。現代人である印は無く貫頭衣と毛皮を纏った姿はこの時代の人と差は無い。このまま勇と二人で爺の孫としてここに暮らすことになるのだろうか。諦めてはいけない。茜は左手で拳を作り「探しに行くわよ」と自分に気合を入れた。
 馬小屋で助さんが白黒馬の鼻筋をそれぞれ均等に摩りながら水を飲ませていた。小枝さんは助さんに籠を渡すと茜と勇の目の前で行き成り助さんに抱き付いた。普段はそんなことはしない。いつもは笑顔で送り出すだけだった。今回はしばらく戻ってこられない旅になることを意味しているのだと茜は思った。小枝さんは茜と勇の前にしゃがみ込み二人の瞳を順番に見てから両手を二人の後頭部に当て自分の頬に引き寄せた。
「助さんのことは僕らに任せてくれや。無事に戻って来るからな」
「馬鹿。小枝さんは私たちのことを心配してくれているのよ」
「小枝さん。畑をお願いします」
「小枝さん。馬小屋をお願いします」
「馬鹿。馬が居なくなるから馬小屋の掃除はしなくても良くなるの」
「馬鹿、馬鹿言うなよ」
 勇の口を塞ぐように小枝さんは二人の顔を自分の胸に引き寄せた。
 馬に乗るのは捕らえられたとき以来だった。白黒馬が対で動くことには慣れもう驚かなくなっていた。行列の先頭には助さん。その後には茜と勇を捕らえた男が太刀を背負い敵からの攻撃に備えている。男の後ろには勇と茜が乗った白黒馬と平群の爺が続く。爺は先頭の助さんが乗る馬に肩を並べ助さんに何かを話した。話しが終わると助さんは列から外れ向きを変えた。
「助さんは行かへんのか」勇は戻ってきた爺に聞いた。
「助には平群に残ってもらう。奴には堤防の整備と新たに道を造ってもらわないとならんからな。それにほら」爺は助さんと小枝さんが馬小屋の前で抱き合っている姿を顎で指した。
「爺。有り難う」茜は爺に頭を下げた。爺は助さんと小枝さんを平群の仲間だと認めたのだと茜は思った。
 平群から坂道を下ると濃紺の影となっていた山の峰からお日様が昇り製氷皿の氷のように固まった田圃と柿や栗の木が植えられた東西に連なる堤防の道が橙色に浮き上がった。茜は掌を馬の横腹で温めてから自分の頬に当てながらその堤防を眺めた。堤防を造ったからと言って安心してはいけない。大きな台風が来て水嵩が増えれば堤防は削られ、また決壊することも考えられる。田圃を守る人たちが暮らす小屋を高台に移さなくてはならない。茜はそれを爺に頼もうと思った。勇が左腕を水平に伸ばし何かを指差した。
「僕らが見つかった鳥見の里はあっちやと思う」勇は胸を張り鼻の下を人差指で摩った。堤防造りのために広げられた畦道は南北に行き来する主要な道路となっていた。茜たちはその道に突き当り河内湾に出るために鳥見の里と反対の方向に折れた。堤防の急な坂を登ると川底は盆地の湿気と冷気を全て集めてきて川霧に埋もれていた。
「田圃を襲うことができなくなった川の神は霧でも流していればいいのじゃ」爺は髭を摩り水色の空と霧の境に向かって言った。
「爺。神様はそんなに寛大ではないわ。山で大雨が降り続くと川の流れで堤防は削られ切れてしまうの。毎日、堤防の見回りをして削られていたら補修しないとならないの」
「堤防を造るだけではならんのか」
「爺。川の神様に謝った方がええで」
「そうじゃの」爺は川底に向かって手を合わせ暫く拝んでいた。
爺が自慢していた堤防が途切れ山が近づいてくると川幅は狭くなり霧は急になった流れに巻き込まれて消えていた。
「姉ちゃん。もしかしたらこのへんは奈良と大阪の県境やないか」
 茜は生駒の長くて怖いトンネルを使わずに大和川沿いから奈良へと入る電車を捜していたことがある。これが大和川ならば確かに県境となる。男の乗る馬が体を傾け川岸を埋めている草を太い脚で押し分けながら川に降りていく。馬の脚を草が叩き蹄は草を踏みつける。その音は船が海を切り分けて進む波の悲鳴のように聞こえた。
「休憩にするぞ」全ての馬が無事に草の帯を抜け丸い石を踏み鳴らしたところで男は叫んだ。白黒馬は同時に首を下げ川の水を飲んでいる。男が白黒馬に積んでいた竹製の水筒に川の水を入れ、まだ色が薄い柿の実と一緒に配ってくれた。
「お姉ちゃん。柿の皮はどうやって剥くんや」茜にも分からなかった。母が包丁で柿を四等分に切ってから皮を剥いている姿を茜は思い出したが、ここには包丁もまな板も無い。男は柿を茜に見せるように頭上にかざしてから皮ごと豪快に噛みつき、しばらく口をもぐもぐさせてから器用に種だけを川に吐き出した。
「勇。真似をして食べて」勇は柿を手で拭いてから躊躇しないでかぶりついた。見た目とは異なり指先から果汁が滴り落ちるほど柿は熟している。小さな体験を積み重ねることで私たちも平群の子供として熟していくのだと茜は思った。
 馬は川の流れと雑草の間を一列になって石の上を慎重に進む。海から届いた風は唯一開いているこの渓谷に押し込められる。
「おー」茜は上半身を起こして腰を浮かせ声のする方を見上げた。先頭の男が背中に差していた太刀を抜き天に向けて掲げていた。左右の岩陰で待ち伏せをしていた敵が現れたのか冬眠を控えた熊が男に襲い掛かっているのか。男の太刀は夕陽を反射し松明の炎のようにめらめらと揺らめく。男はもう一度雄叫びを上げて炎を払い消すように太刀を振り下ろしてから背中の鞘に戻した。
「綺麗よ」橙色の光の帯が茜を刺した。広い湖が鯛の鱗のように輝いている。その奥には湖を巻き込むように伸びる半島と瀬戸内海。六甲山が空と海を繋き堂々と横たわっていた。
「河内湖だ。お前らの部落はどこじゃ」爺は馬を並べて尋ねた。
「きっと、あっち」生駒山と河内湖の間の傾斜地を茜は指差した。
「そうか遠いな。今日は洞窟で眠るぞ」爺は男に指示を出した。男が乗る馬は鼻先を河内湖から山の裾野に向きを変え歩き始めた。男は太刀を振り回し大人の背丈ほど有る藪に分け入る。馬に乗っていても茜からは洞窟は見えず切り立った崖だけが迫ってきていた。
男は草木に包まれた崖の前で立止まり、気合と共に頭上から太刀を振り下ろすと草の固まりが裂け音を立てて地に落ちた。崖をえぐる半円の暗闇が現れ色を失い始めた夕焼けがそこに吸い込まれた。
「洞窟や」勇が茜より早く声を出した。
 松明に火をつけた男が洞窟に炎を突き差した。洞窟の壁がゆらゆらと揺れふわりと明るくなった。男は松明を左右に振りながら一歩ずつ慎重に洞窟の奥に入っていく。爺は洞窟の入口で大刀を上段で構え爺と反対側に立った勇は引き攣った顔で松明を頭上にかざした。
洞窟の中はそんなに危険なのだろうか。茜は洞窟を睨みつけた。洞窟の中で大声が反響し勇の持つ松明の炎が揺らぐ。地を蹴る音が近づいて来て洞窟から黒い塊が飛び出した。爺が太刀をその塊に振り落すと、鈍い音と口から血を流した猪が転がり落ちた。
「爺。お見事でした」男は猪の腹を膝で押さえ短剣を猪の首に差し命を奪った。茜は両手で顔を覆い短い悲鳴を上げた。
「おや。どうした」爺は頬を膨らませている茜を笑顔のままで自分の懐に向かえ入れた。
「どうして殺したんや」勇は茜の代わりに爺に噛みついた。
「食べるために決まっておる。お前たちは肉を食べないのか」勇は首を横に振る「ならば、今晩は御馳走だな」爺は馬の背から降ろした荷を背に担いで洞窟に入って行った。
 茜と勇は洞窟の一番奥で座っていると入口で炎が上がった。勇は猪が丸ごと焼かれるのを見て唇を噛み締めている。
「仕方がないわ。食べないと私たちが死んでしまう」
「分かっているんやけど。生き物が食べ物に変わるところを見たことがあらへんかったから」勇は言葉を詰まらせ涙が零れ落ちないように顔を少し上に向けた。茜は勇の小さな体を引き寄せた。
肉は硬かったが肉汁が一気に口の中に溢れる。味付けをしていないのに茜の舌は塩気を感じることができるほど敏感になっていた。   お腹が膨れると頭の中は両親のことで溢れていた。親元に帰るにはどうしたら良いのかを考えているうちに眠りに落ちてしまった。

平群の爺が寝ている茜の頬に皺だらけの手を当てて目を細めた。
茜はその手を払いのけ寝返りを打つ。
「出発するんか」先に起きたのは勇だった。
「そうじゃな。石切という部落を捜さんとならんだろう。それに晩秋は日が短い。暗くなると中臣に襲われるかもしれんからな」
「中臣って獣なんか」
「いや、それも部落の名前じゃ。鳥見の里から分裂し山を越えて来た奴らで気性が荒い。部落に近寄り過ぎると殺されるかもしれない」
爺の話を真面に捉えた勇は頬と肩を振るわせた。
「お早う御座います。中臣ってどこにあるのですか」茜が地面に手を突きゆっくりと起き上がった。
「なんじゃ、起きておったのか」爺は洞窟の天井を見上げてから話しを続けた「河内湖側の麓じゃ。お前らが言う石切に近いかもしれないな。危険を伴うかもしれないが、それでも行くのかな」
「もちろんです。私たちの人生がかかっています。――でも爺たちに危険な思いをさせるわけにはいけません。近くまで連れて行ってもらえたら後は私たちで探します」
「子供だからと見逃すような奴らではない。それにわしらの子供になるふたりを守るのはわしの使命じゃ」爺はふんぞり返り「出発するぞ」と茜の肩を叩き洞窟を後にした。
瀬戸内海から湧き上がった雲が河内湖を覆い冷たい風が灰色の湖面を揺らしている。手綱を持っていた手に吹き掛けた息は白く濁り茜の顔を覆い隠した。それを押し流したのが潮の香りだった。森が貼り付く山の裾野を北上していると急に森が途切れすすきの壁に突き当たった。すすきは山頂から一直線の帯となって湖畔まで続いている。潮風はすすきを波立たせながら山を駆け上がった。
「爺。ここが中臣の部落なのですか」茜は爺の耳元で尋ねた。
「いや。山が暴れた所に住むようなやつはいない。そこに道ができているだろう」爺は森との境にすすきが踏み倒されてできた狭い道を指差した「山がまた暴れたら森に逃げ込むしかない。それを警戒して森の際を歩くのじゃ。今日は湖が荒れているから森の中で畑でも耕しておるのじゃろう」
先頭の男が右手を湖に向けた。ここを下り湖畔に出るつもりだ。すすきの影に中臣の兵士が隠れていたら一溜まりも無い。茜の心臓は強く脈打った。男を先頭に坂を駆け下り素早くすすきの端に回り込み身を隠す。馬は湖面を踏んでいた。馬が足踏みする度に波紋が広がり、すすきの端から覗いている小舟の先端に当たった。
「やはり、奴らの港のようだな。長く留まるのは危険じゃ」爺は先頭の男に囁いた。男は無言で頷く。ゆっくりと湖畔を進み、すすきの壁を回り込んだところで止まった。
「向こうの森に身を隠せ」先頭の馬が嘶いた。白黒馬も水面を蹴って坂をかけ上り森の陰に身を隠した。森は静かだった。すすきが風と擦れる音だけが森の奥に染み入ってくる。爺は地面を眺めた。
「足跡だ。やはり、やつらの部落は森の奥にあるようだな。もう少し登ってやつらの部落を迂回するぞ」爺は男に言った。馬は前脚を浮かしてから歩幅を広げすすきの壁に沿って坂を登る。前方には濃紺の山波が近づいてきていた。
「姉ちゃん。あれが生駒山やないか」勇が山波の一番高くなっているところを指差している。木が多いためか山は膨らんで見えた。
「そうね。電波塔も遊園地も無さそうだけどね」
「お前たちの部落はどこに有るのじゃ」爺が茜の背から疲れた声を上げた。茜と勇は順番に首を傾げた。見渡す限り木ばかりで石切の町がどこに有るのか目印になるものは無い。
「生駒山の山頂があの辺りやから、もうちょっと北やな」勇は鼻の下を擦る。すすきが途絶えた辺りから森の中に入ると、木の間に塀となる木が植えられ馬の進入を拒んでいる。
「馬は置いて行こう」と爺は男に命令した。男は手綱を木の幹に縛り付け太刀を抜いて背の高い草をなぎ倒しながら、その塀の中に踏み入った。しばらく歩くと木の塀は途切れ周囲を木に囲まれた楕円形の草むらが現れた。草むらの中心に大岩が横たわっている。河内湖を覆っていた厚い灰色の雲が生駒山を越え箒で掻いたようなすじ雲になり、その隙間から漏れた光が帯となってその岩を照らした。
「この岩どこかで見たことない」勇は腕を組み岩肌を睨み付けた。
「姉ちゃん。お化け屋敷の中に大きな岩が有ったやろ」
お化け屋敷とは茜の実母が働いていたヘルスセンターのことで、火事の後買い手が付かづベニヤ板で囲まれたまま放置されていた。そのべニア板も雨風で朽ち果て火災で亡くなった人が大勢出たこともあって周囲に住む子供からお化け屋敷だと呼ばれていた。
 二人はゆっくりと岩の周囲を回り生駒山を背にしたところでピタリと静止しお互いの顔を突き合わせた。
「露天風呂の岩」それは女風呂から見た岩の形だった。男湯との仕切りに使われていた岩で、その上から更衣室の壁まで板塀が連なっている景色がふわりと茜の頭の中で浮かんだ。勇は去年まで母親と女湯に入っていたのでその岩の形に見覚えがあった。勇は茜に手招きをしてからもう一度岩を回り込み湯船に浸かるように草の上に腰を下ろした。男湯側の岩肌には斜めの白い筋が走り女湯側より幾分切り立っている「間違いあらへん」「間違いないわ」二人は両手を頭の上で広げ手を叩くように合わせた。
「ここが石切であることが証明されたんやな」勇は鼻の下を人差指で摩っていると、そこに爺が近づいて来た。
「ここがお前達の部落なのか」
「そうや」勇は両手を左右に広げ地面を叩いた。
「何も無いじゃないか。家も馬小屋も。それにお前たちの家族は何処にいるのじゃ」爺は鼻から息を出し嘲笑った。
「そうやけど、ここに露天風呂があって――」説明をしている勇を茜が手を勇の体の前に差し出して止めた。
「未来にはここに部落ができ、人が増えるとそれが町に成るのよ」
「ミライじゃと。それはなんじゃ」
「未来とは――。何回もお日様が昇り沈むことを繰り返した後ね」
「それは次の冬ぐらいのことなのか」
 茜は大きく首を横に振った「もっと先の話し。爺も私たちも死んだ後のずっと先の話し。私たちはその未来の石切から来たのよ」
「人間は死んだ後お前たちのように昔に戻ってまた生まれるというのか。そんな都合の良いことを神様がお許しになるとは思えないがな」爺は掌を広い額に当てながら天を仰いだ。
 茜は爺に説明するのを止めた。それは諦めたと言うより現状を自分自身が理解していないからだった。私たちは長い夢を見ていてお日様が生駒山から昇るとお母さんに揺り起こされ、いつものように学校に行く生活に戻ることを心の隅で願っている。
「爺。両親に僕らが元気にしていることを伝えるにはどうしたらええんやろか」姉の姿に見兼ねた勇が一歩踏み出して尋ねた。
「そうだな。山の神にでも祈ることじゃな」今度は勇が額に手を当てて空を見上げた。
「祈っているだけじゃあかん。タイムカプセルを埋めへんか」勇は卒業生が校庭にタイムカプセルを埋めたのを思い出していた。
「駄目よ。タイムカプセルを埋めたことをどうやって親に伝えるの」
勇は自分の額を掌でパチリと叩いた。何も事情を知らない未来の両親に何かを伝えることは容易ではない。二人は岩にもたれて生駒山を越えていく灰色の雲を眺めるしかなかった。
「ミライでも判る目印がいるのう。お前たちの親はこの岩を知っているのか」
「知っているで。体を洗うお風呂というところにこの岩があってやな――。そや姉ちゃん。この岩に何かを書けばええんや。お母さんやお父さんが露天風呂に浸かっているときにこの岩を眺めるやろ」
「そうね。そうよね」茜は胸の高鳴りを感じた。
「でも、ここには書くものが無いわ」茜は握り拳を岩に押し付けた。
「岩に文字を彫ろうや。その太刀を貸してくれや」勇が爺の腰に差している太刀を指差すと、爺は柄に手を添え太刀の頭を隠した。
「駄目じゃ。これは子供が触る物ではない」爺は一歩後退りをして怒鳴った。周囲を警戒していた男が近づいて来て自分の腰に差していた短剣を鞘ごと抜き勇の足元に置いた。
「使ってええの」勇が男の目を見ながら尋ねると男は黙って頷いた。
 仏頂面を貫いている男と無口だが優しい父の顔が重なった。
「姉ちゃん。何て彫ろうか」
「そうね。勇は男湯側に自分へのメッセージを書いたら。私はお母さんに無事であることを書くから」茜は女湯側に回り込み岩肌を眺めた「だめよ」茜は岩の裏側で岩に文字を刻んでいる勇に聞こえるよう顔を上げて叫ぶと直ぐに勇の声が戻ってきた。
「だめ、と書いたで」
茜は急いで勇が居る岩の裏に回り込んだ。勇が自分へのメッセージを書いても勇がその字を読める頃には露天風呂ではなく幽霊屋敷になっている。「読めないわよ」と茜は勇の背に向かって言った。
『ならだめ』勇は振り返り岩に掘った文字を茜に自慢そうに見せた。
「僕らが奈良に行かないように書いておいたで。読めへんことないやろ」勇は奈良という漢字がまだ書けなかった。
「その文字は読めるわ。上手よ。でもね。勇が将来その文字が読めるようになったときは、ここは幽霊屋敷になっているからベニヤ板に囲まれてもう入れないの。読めないのよ」
「いや。隣のよっちゃんとベニヤ板の隙間から幽霊屋敷の中に入って探検して遊んでいるから、きっとこれを見ると思うで」
「あなたたち、そんな遊びをしているの」勇は舌をぺろりと出した。「その短剣を貸しなさい。私の番よ」茜は勇の手から短剣を取り上げ女湯側に戻っると男が岩肌を袖で拭いてくれている。
「ありがとう」茜は男に頭を下げてから岩を見上げた。
「茜と勇は元気。弥生時代にいる。と書こうかな」と男に訊くが男は首を傾げるだけだった。男と茜の間を斜めに切り裂く鋭い音。男が岩の横で仰向けに倒れている。
「どうしたの、大丈夫」茜は男の肩を揺り動かした。男は目を見開いて天を仰いでいる。男の左頬に一直線の赤い線ができていた。
「血よ」茜は自分の頬に一直線に人差指を滑らし男にできた傷を知らした。地面に突き刺さった矢が震えている。矢の勢いからすると威嚇ではない。第二の矢尻が岩の上で輝いた。
「岩に隠れろ」男は岩に向かって体を横に転がし茜にそう叫んだ。岩の上で若い女が矢を男に向け弓を引いて立っていた。茜は岩横に背を当ててしゃがみ込み息を潜めた。風切音と共に茜の右手に衝撃が走った。男に借りていた短剣が弾かれ宙をゆっくり縦に回転しながら地面に転がった。子供の茜も狙われていた。
「姉ちゃん、どうしたんや」勇は岩影から顔をのぞかせた。
「勇。こっちに来ないで。岩に貼りついて。殺される。早く隠れて」茜は喉が捩じれるぐらい大きな声を出した。
「周りを見なさい」岩の上から女の高い声が岩を包む。森のあちこちから弓矢を持った兵士が出てきて岩を取り囲む。兵士は二十人ほど。武器の質も兵士の数も圧倒的に不利。兵士たちは弓を引きじわりと茜たちに迫る。手足を少しでも動かすものなら矢の雨が岩に刺さり剣山となる。茜の目は見開いているが瞳は既に閉じていた。
「太刀を捨てなさい」
「無理をするな」男は岩の反対側にいる爺に声を張り上げ茜の顔をちらりと見てから太刀を鞘ごと兵士の足元に投げ出した。
 弓矢を引いていた男の一人がその太刀を拾い背後に投げる。太刀先を首に押し当てられた爺と勇が茜の前に連れてこられ膝の裏を蹴られ地に跪く格好になった。岩の上に居た女が飛び降りて来て男の首に茜の手から落ちた短剣を食い込ませた。
「どこから来た」女が短剣を男の首に添ってゆっくりと動かすと男の首から一筋の赤い血が滲みだす。女は小柄で黒髪を後ろで団子に丸め葡萄色の絹織物を着ている。鼻は高く目は鋭い。どこかで見たことのある中東と東洋の血が混ざった顔だった。
「わしらは平群の者じゃ。食料を調達にきただけじゃ。お前らと争うつもりはない」口を堅く閉じている男の代わりに爺が説明した。
「どうして神を傷つけた」女は男を睨みながら短剣の先だけを勇に向けた。勇は目を強く瞑り両手に作った握り拳を震わせている。
「私が書くように言ったのです。その子には責任はありません」茜は女に向かってそう言い放った。
「そうか。命令したのはあなたなのね」勇に向けられていた短剣の先がキラリとお日様の光を反射した後、茜に向けられた。
女が茜と視線を合わせるために腰を曲げようとしたとき男の左手が微かに動いた「舐めんじゃないよ」女の筋肉がバネのように弾け男の喉仏に短剣の先を突き当てた。
「今度、馬鹿な真似をしたら喉仏をえぐるわよ」
「姉ちゃんは悪くあらへん。僕が岩を傷つけたんや。神様やとは知らんかったんや。ごめんやで」と勇は岩の横で土下座をしたが女は振り返らず短剣を男に向けたまま目の玉だけを動かし茜を見た。
「姉想いの弟じゃないか」女は目を細めて男をもう一度睨んでから刃先を茜の首に向け上下に振った。
「何を首に掛けている。見せなさい」茜は貫頭衣の上から手で包むように首飾りを押さえた。女は男を再度睨んでから茜に一歩近づいて低い声で「見せろ」と言った。茜は震える手を反対の手で押さえながら首飾りを貫頭衣の中から引っ張り出した。
「深緑の管玉と琥珀の勾玉。赤碧玉の門。おい、この首飾りをどうした。どうしたと言っているのだ」女は声を荒げた。
「これは私の大切なものです」茜がどこから説明すれば良いのか悩んでいると首飾りに顔を近づけていた女は短剣を背後に素早く隠し数歩後退りをして地の上で平伏した。
「姫。申し訳ありません。姫とは知らず大変失礼いたしました。どうかどうかお許しください」茜が周りを見渡すと茜たちを取り巻いていた兵士たちも弓矢を投げ出し平伏した。茜は困ってしまい爺や男に向けて首を傾げてみたが爺も男も唾を飲み込むだけだった。
「やっと気が付いたか。無礼者」勇は茜の横に立ち胸を張ってそう叫ぶと女と兵士たちは一斉に額を草の上に押し付けた。
「勇。止めて」
「姫。王様はどこに居られるのですか。御無事なのでしょうか。お日様は捕らえることができたのでしょうか。それにどうしてそんなに汚い格好をされているのですか」
「姫を質問攻めにするなど失礼だろうが。先ずは状況を姫に報告するのが筋だろう」返答に困っている茜を爺が助け船を出した。
「失礼致しました。お日様を捕らえに行かれた王様がいつになっても島に戻って来られないので兵を集め王様を探しに参ったのですが我々は山に阻まれ――。山は険しく山越の道を造くるのに手間取っておりました。申し訳ありません」
「そんなことだったのか」爺は勇と調子を合わせて胸を張った。
「王様が戻って来られなかったら私たちが代わりにお日様を捕らえて奥様に届けるようにと王様から命を受けております。ところであなた方は――」女は爺を見上げた。
「山で迷子になっていた姫を救った者だ」
「姫の命の恩人だったのですね。大変失礼致しました」
「そうだな。そう言うことになる。姫がここにくれば何かが有ると言われたのでここにお連れしたのじゃ。見つけたのは神様の岩とお前たちじゃ」爺は掌で岩を磨くように摩り女を強く睨んで「お前たちは山も越えられず姫を救うこともできなかったのじゃ」
「申し訳ありません」女と兵士は更に額を地面に押し当てた。
「姫は山で王様とお別れになられたのでしょうか」茜はどのように答えたら良いのか分からず眉間に皺を寄せるしかできなかった。
「残念だが姫は山で何か恐ろしいものに出くわされて――。それまでのことを何も覚えておられないのじゃ」
「本当なのですか。姫」
「はい。昔の事は何も覚えていないのです。ですから山で王様と別れたかどうかも。王様の顔さえ思い出せないのです」
「山を越える迂回路なら我々が案内するから心配するな」
「有難うございます。でしたら。私たちの使命に手を貸していただけないでしょうか」
 いま大切なのは勇を守ること。それに私たちを守ろうとしてくれている爺たちを救うこと。短い時間に導き出した茜の答えは「分かりました。あなたの使命は王様の望むところ。爺たちの身を守ってもらえるのでしたら助け合いましょう」だった。
「姫。もちろんで御座います。皆さんの命は我々が身を挺してお守り致します」女は胸に手を当て深く息を吸いゆっくりと吐いた。
「女。この先は海の魚が取れないのじゃ。ここに陣を一部残して干物を作らせて新月と満月ごとに平群まで運ばせてくれんか」
「なるほど。魚の道がいるのですね」女は日焼けした男を指差し「ここを任せた」と言うと兵士たちは陣割を始めた。八名の兵士がここに残り十二名が女を先頭に列を作った。
「十二名の内二人。お前とお前。これから向かう平群までの道をしっかり覚えてくれ。ここに戻って魚を運ぶ道を伝えてもらわないとならんからな」爺は筋肉質で目が鋭い兵士に命令した。
七色の絹織物が掛けられ毛並みが良い馬の手綱を引いた兵士が茜の前で片膝を地面に付けて頭を下げた。
「私が乗っていた馬で申し訳ありませんが一番速く走ります。どうかお使い下さい。それと少し大きいと思いますがこれを着てください」女は馬から葡萄色の絹織物を取り出し茜の前で広げた。
「それでは姫はお前と同じ服を着ることになる。お前は皆と同じ貫頭衣に着替えろ」爺は女に命令した。
「爺、待ってください。私はこのままの格好が良いと思います」と茜は着ている貫頭衣の裾を伸ばすが爺は不満そうだった。
「敵は見た目で攻撃する相手を見定めます。危険を分散するためにも着ている物は皆さんと同じ方が良いのです」
「なるほど、それも一理ある。ならば女。姫の身代わりとして平群に着くまでは葡萄色の服を着ておけ。そこの森の裏にわしらの白黒馬がおる。姫はそれに乗せるので連れて来てくれないか」
女は無言で頭を下げ、先頭の男に列を進めるように前に腕を振り下ろし馬に飛び乗った。女が差し出してくれた馬に爺と茜と勇が団子のようになって跨った。茜が爺を小声で呼ぶ。
「いったいどうなっているの。私がどうして姫なのよ」
「奴らは何か勘違いをしているのだろう」
「私、これ以上嘘を付いくのはいやなのよ」
「殺されたいのか。奴らは武力も兵の数も勝っておる。嘘も方便と言うだろう。お前が姫であることはお前たちだけでなく平群を守る唯一の方法なのじゃ」爺に平群の名を出されては従うしかなかった。
「爺。もしかして兵士を分けたのは――」
「そうじゃ。いざと言う時のために相手の武力を落としておく方が良いだろう。それに干物を定期的に食べることができる。両得じゃ」爺は髭をゆさゆさと揺らして笑った。
「爺。俺の芝居はどうやった」
「上手いものじゃ」爺は手を伸ばし勇の頭を撫でた。
 あの急転直下の間に策略を巡らせた爺を尊敬したのに反し嘘の鎧で身を固め始めた自分自身を茜は恐ろしく感じていた。
「先頭の男の人は爺の子供なんか」勇は急に振り返り突拍子も無い問いを爺に投げかけた。
「ほお。良く気が付いたな」爺は目を輝かせている「やつはわしと同じにはなりたくないと言って髭を生やさないのだ。ほら」爺は片手で顎鬚を隠した。ぎょろりとした目が男と似ていた。
「それ反抗期やな」勇は鼻の下を摩った。
「なんじゃそれ」
「大人になる準備をするような。心配しなくても大丈夫ですよ」
「ほお。子供の姫に子育てで意見されるとはな」
「それがいけないのですよ。子供も必死なのですから、対等に向き合わないといけません」茜はママが隣の小母さんに言われていた言葉を思い出して使った。森を抜けると先回りをしていた兵士が隠していた白黒馬の手綱を持ってススキの壁の前で待っていた。
 茜と勇が乗った爺の馬を守るために兵士が乗った馬と歩兵。それを導く為に爺の息子が先頭を。最後尾には貫頭衣に着替えた女が付く形になった。その一行は生駒山の麓を南下して昨夜泊まった洞窟の近くの川に到達した。まだお日様は高いが洞窟で一夜を明かす用意を始めるものだと茜は思ったが爺の指示は違った。
「南の空に黒い雲が湧き上がっておる。山で雨が降りこの川はしばらく増水する。今日の間に一気に川を抜ける。松明を用意しろ」
歩兵は林から竹を切りだしてきて、その竹の先端に松の枯れ枝をつるで巻きつけ炎が成長したのを見計らって馬に乗っている兵士に渡した。一行は一列になって川岸に降り石を踏み鳴らす。川岸は崖に囲まれ薄暗く左右に駆け登れるところもない。ここに鉄砲水が襲ってきたら一巻の終わり。茜は震え勇の肩を強く引き寄せた。
「それにしてもどうして姉ちゃんが姫なんや」
「きっとこの首飾りが原因だと思う。あの人たちお日様を手に入れると言っていたわね」
「どこかで聞いた話しやな――。えーと」
「井原家に伝わる話よ。王様がお日様を捕らえようとしたらしいわ」
「その王の娘と間違えられたってことか」
「分からない。爺の言う通りあの人たちの勘違いよ。だってこれ徹から借りたものでしょう」茜は貫頭衣の上から首飾りを押さえた。
「これから僕らはお日様を捕らえに行かんとならんのやろ。嘘がばれたら――」勇は首の前で手刀を横に引いた。
「そうなったら、そうなるわね」
「お日様を捕まえるなんて絶対無理やで。常識で考えれば判るやろ」
「私たちの時代では非常識なことでも、この時代の人にとっては常識なのかもしれないわ」勇は唸りながら頭を掻きむしった。
「誤魔化すしかないわ」茜は川に落ちる木漏れ日を見ながら呟いた。
一行が川を遡り川岸から堤防に駆け登ると雨が茜の頭を突いた。揺れる松明の炎の先から黒い煙が炎の尾のように天に昇っていく。広げられた畦道を北上し坂を上ると松明の光が届く範囲に真新しい二軒の竪穴式住居が見える。
「ここに宿泊する。おい飯を炊くぞ」爺は馬を飛び下り女にそう指示を出した。どうして平群に戻らないのだろうか。茜は不安になった。爺は息子に何か小声で話すと息子は馬に鞭を入れて走り去った。
爺は二人が乗っている白黒馬に近づいて来て「お前たちも夕食作りを手伝ってくれるか」と頭を下げた。
「それは良いけど。ここはどこなの」
「ああ。田圃の世話をするときや猟に行くときの拠点となるところを造らせたのじゃ。ここなら堤防が壊れても水浸しにはなるまい」「良い考えだと思うけど、どうして平群に入らないの」茜は顔を爺に近づけ小声で聞いた。
「平群への坂を登るのは、兵士も馬も辛いだろう。それにこれだけの人数を入れる家も無い」爺は急に小声になって「こいつらに平群の場所を知られたくないのじゃ」爺は用心深い。平群を守る最善の方法をいつも模索しているように茜は思えた。夕食は小屋に備蓄されていた米を松明の火で焚き河内湖で捕れた魚を炙った。そこに爺の息子が戻って来て酒が入った壺を兵士たちに配り細やかな宴が始まったが兵士たちは皆無口だった。
「みんな静かやな」爺の息子が茜を短剣で脅した女に尋ねた。
「疲れていることもありますけれど皆不安なのです」
「何が不安なんや。寝るとこも食べる物も酒だってある」
「そんなことではありません。私たちに下されている命令が途方もなく大きくて。どうすればいいのか判らなくなっているのです」
「お日様を捕らえることか」
「お日様が西に沈むと直ぐに闇に姿を消してしまうでしょう。それならば東の空に上がるときを狙えば良いと王様は考えていたのです。東へと船を進めたのですがお日様はどんどん逃げてしまうです」
「お日様を捕らえるなんて無理や」女は立ち上がり勇を睨んだ。
「やめて。それより爺の息子さん。名前は」茜は話をすり替えた。
「名前など無い。平群の爺の子だ」
「平群の爺の子が結婚して子供が生まれたら、その子は平群の爺の子の子供と呼ぶの。面倒ね。名前は――そうね、若にしましょう」名前を無理やり決まられた爺の息子は新しい名前を口の中で繰り返している。赤い顔をした爺がよたよたとやってきて若の横に座った。
茜が爺に息子の名前を付けたと言うと「そうか。それは良かった」と言うだけだった。
「爺。あの東の山を越えたことがありますか」茜は満月が照らし浮かび上がらせている山を指差した。
「一度越えようとしたけどな。山が深すぎて無理じゃ」
 茜は若の横に座り直した女に「お姉さんの名前は」と尋ねた。
「名前など有りません」
「じゃあ。そうね。忍者みたいだから忍にしましょう」
「犬やないんやから人の名前を勝手に決めたらあかんやろ」
「名前が有った方が便利ですよね」全員が一斉に首を縦に振った。
「王様はお日様を捕まえてどうするつもりなの」茜は忍に聞いた。
「一日中お日様が照っていたら米も野菜もどんどん育ち飢えも無くなりますし夜は松明も要らなくなり獣に襲われることも無くなると考えておられます」忍は目を輝かせて言った。
「お日様を捕まえるなんて絶対できひん。遠いし燃えているんやで」
勇は我慢できず口を出した。それに反論したのが若だった。
「松明だって燃えているけど持てる。東の山の後ろに朝になるとお日様が飛び出してくる大きな穴が有って。穴から出てきたところを狙って太い木の幹をお日様の腹に差し込めばいい」
勇は若の話を頭の中で思い浮かべた。お日様のキャンデー。勇は急いで首を横に振ってそれを吹き飛ばした。
「いやいや。お日様はもっともっと遠い。そこの丸い石を取って」
勇は茜から石を受け取り顔の前に持ち上げた。
「僕らの住んでいるところは平らでなくこんな形をしていて」勇は左手で握り拳を作り小石の横に並べた。
「一日に一回転しながら、お日様の周りを回っている。だからずーっと離れているのや」
「勇、無理よ」茜は勇に向かって首を振った。
「俺たちの住んでいるところが石みたいに丸くて回っていたら下に来たときに俺らは落ちてしまうだろう」
「そうよ。目が回っちゃうわよ」忍が若を援護した。
 達郎叔父さんならどのように説明してくれるのだろうか。
「仕方が無いわ。行ってみるしかないわね」
「はあ。行くと言ったって道が無いんやで」
「徹の話しが本当か確かめたくない」
「そっちか。まあ、おもろそうやけどな」
「じゃ決まり」忍の目を茜は睨み直した。
「忍さん。お隣の若は私と勇を山で助けてくれたのよ。その上お日様の生け捕りを手助けしてくれたとしたら王様はどうされると思う」
「それはたいそうなご褒美をくださると思います」
「若、手伝ってくれるわね。爺、部落の安全と繁栄の為に息子さんを借りても良いわよね」
「それなら助も連れて行け。お前らを守ってくれる筈じゃ」
「それだと小枝さんが一人になってしまい可哀そうよ。助さんは残ってもらって河内湾からの道を造ってほしいの」
「川岸で峠を越えるのは危険すぎるからな。爺、この人たちもいるから助一人でもで大丈夫だろう」若は酒を酌み交わしている兵士たちを指差した。
「大雨で海の食材が手に入らなくなることを心配しているのじゃな」
「そうです。これから平群は人も増えるでしょうし自分たちが食べる物ぐらいは自分で手に入れないとなりません」
「なら、峠には馬一頭がぎりぎり通れるぐらいの狭いところを造った方がええと思うんや」勇は爺の目を見て話した。
「どうして」
「図鑑で見たんやけど鎌倉には切通しと呼ばれるところがあるみたいや」勇は足元に岩の割れ目を歩く馬の絵を描いた。
「それがキリドウシなのか。なるほど。敵から攻められにくくするためなんじゃな」爺は勇の頭を摩った「お前は頭が良いの。分かった助にやらせてみる。お前ら全員無事で戻って来い。絶対だぞ」爺は擦れた声を兵士たちに振り絞った。
「おー」酔いの回った兵士は握り拳を頭の上に突き上げた。
「ところで姫。どうやって山を越えるのですか」忍の問いに誰も即答できるものが無く小屋の中は静まり返った。
「勇。奈良と三重の間に電車が走っていなかったっけ」
「この時代には電車なんか走っているわけないやん」
「そうじゃなくて山を越えるルートを考えているのよ」
「確か――。関西本線と近鉄が有ったかな」
「どっちが古いの」
「調べたことあらへんけど関西本線の方が古そうや。それがどう関係するんや」
「工事が簡単なところから線路を通そうとするでしょう。だとすると歩くのも楽だと思うのよ。近くに大きな川が有るのはどっちよ」
勇は茜の突飛押しの無い問いに両手で頭を掻いて考えた。
「確か、関西本線は木津川沿いに走っていたと思うんや。近鉄もなんとかって言う川は有ったけど……。そうだ近鉄には長いトンネルが有ったと思うで」
「それならば木津川に決まりね」
「どうしてそうなるんや」
「勇が川の名前を憶えているってことは大きな一級河川じゃない。川が大きければ川岸も広くて馬が歩けるし飲み水も手に入れやすい。それに長いトンネルが有るってことは山が険しいってことよ。ちょっと地図を描いてみて」勇は手に持っていた石の地球で地面に地図を描き始めた。舌の形のような紀伊半島。そこに生駒山と奈良盆地。木津川と大和川を描き込んだ。
「上手よ」茜は勇を煽てるように手を数回叩いた。
「勇。石を貸して」茜は勇から石を受け取ると大きく深呼吸をしてから「お日様を見に行くなら山を越えるしかないの」と言い全員の顔を見渡し三重と奈良の間に山脈を描いた。
「これが河内湖から歩いてきた大和川。私たちがいるところがここ」
「おー」全員が地図を取り囲んで口を丸く開いた。
「どうして、こうなっていることを御存知なのですか」若が地図に指を差し。爺はその後ろで顎に手を当てたまま頷いている。茜は困った。図書館で地図を見たとか授業で習ったなどと答えても意味が伝わらない。勇に目で助けを求めたが掌を茜に突き出し振っている。
「そりゃあ。姫だからです」そう切り出したのは忍だった。
「なるほど」茜はなぜ皆が納得したのか判らなかったが、ここは流れに身を任すしかない。反論が出る前に茜は話を進めた。
「片道四日。現地で二日。そうね短くても十日間の旅になるわ。寒くなる前に行かなくてはならないわね。若。旅の用意をお願いします。明後日、お日様が上がったらすぐに出発しましょう」
「姫。山越に時間がかかるかもしれませんので一日目辿り着いた所にこの者たちで小屋を造らせます」忍は兵士の中で一番お腹の出ている男を指差した。
「ベースキャンプね。良い考えだわ」
「ベースキャンプとは何ですか」
「ああごめんなさい。寝泊まりができて食料を蓄えておくところよ」茜は勇に向けて舌を出した「山を越えたら、小屋に戻ることはできないわ。米だけでなく魚や獣を獲る道具も用意しておいてください」茜が深々と頭を下げると大人たちは一斉にひざまずいた。

     5
この盆地に都と呼ばれるものは無いのだろうか。藍色の空が青白く薄まり始めている東の山を茜は馬の上から眺めた。都が攻め落とされ寺院や町は焼かれ全て田畑に戻されたのだろうか。もしかしたら戦争や災害で全てを失った未来に来ているとは考えられないだろうか。やはり都ができるよりもっと昔に迷い込んだと考える方が自然なのだろう。茜は目を瞑った。どちらにしても、ここは私たちが暮らしていた現代では無い。茜は両脇に力を入れ背筋を伸ばし凍りそうな空気を鼻から味わうように吸い、首飾りを服の上から握りしめた。この首飾りのお蔭で姫だと持てはやされ殺されないで済んでいる。これを渡してくれた井原君に感謝しないといけない。それよりも、どうすれば現代に戻れるのだろうか。試験のように必ず正解が有ればいいのにと茜は思った。
 行列は土手に添って東にしばらく進んでから南北に広がる草原を北上した。草原の西には低い山が連なりその背後に濃紺の生駒山が覗いている。行く手を阻む東の山は途切れることはなかった。それどころか二階建ての家ほどの高さがある段差が山裾から生えて来て北に向かうほど高くなる。石も積み上げられていない切り立った赤土の壁だった。茜にはその壁が山を守る自然の城壁のように見えた。
「この段差どこまで続いていると思う」茜は勇に尋ねた。
「そうやな。数キロは続くやろな。これはきっと断層や。大きな地震が有って山側が盛り上がったのか、こっちが下がったのかや」
「どうして断層だと思うのよ」
「日本の活断層図鑑でこの辺りに縦縞が沢山あったのを見たやろ」
 茜は達郎叔父さんと一緒に見た図鑑に赤い縦線が引かれていたのを思い出したが、この壁がその赤い縦線の一部とは思えなかった。
「あの辺りが大仏のあるところやないか」勇が東の山を指差した。そこには東大寺の大仏はもちろん建物も無い。なだらかな山腹を持つ若草山の辺りは鬱蒼とした森。目印になる物など無かった。
「よく判るわね」
「遠足で登った生駒山から東を見たら若草山や平城宮が見えたからな。もしかしたらこのあたりに平城宮が造られるのやないか」勇が指差した西側には稲が刈られた田圃が広がり川が南北に伸びていた。 茜が知っている平城宮は草原で横から串刺すように電車の線路が若草山に向かって伸びている。トンネルで変な事にならなければ東大寺の辺りで徹と会っていたのに。茜は首飾りをまた強く握った。
「和珥の奴らが動き始めたぞ」若は東の山を指差した。小鳥のさえずりはピタリと止み。朝日が紅色に染めている木々の先端から煙が一直線に昇った。爺が話していた和珥が東大寺や興福寺が造られる断層の上にあることになる。今見つかってしまうとこちらは兵士を連れているのだから和珥からすれば奇襲を受けていると思うだろう。身を隠さなければと茜は思ったが周囲には田圃しかなかった。
「若、あの崖の下に隠れるしかないわ」若は頭を縦に小さく動かし声を潜め「音を立てるな」と勇が断層だと言っていた崖を指差して兵士たちに命令した。崖の腹には波打った地層を持ち波の中心はこちらを睨んでいる目のように茜には見えた。若や兵士たちは唇を一文字に閉め、その目に右膝と肩を磨らしてゆっくりと前に進むしかなかった。茜は目を口も閉じて肩をすくめた。本来ならば和珥の首長と助さんの子供を返してもらえるように話し合わなくてはならないが、お日様を捕らえることなどできないことを早く忍さんに納得してもらって王様の奥さんが住む西の国に帰ってもらうのが誰も血を流さない最善の方法。茜の周りにはベニヤ板で造られた城壁しかなく、その外は敵ばかりなのだとあらためて感じた。
先頭を進む若の前に断層の上から土砂の固まりが落ちてきて地面を揺らした。若は声を出さず左手を頭上に上げ一行を止めた。茜と勇は手で口と頭を覆った。和珥の攻撃。こんなに至近距離だと矢でも石でも狙われたら百発百中。敵の懐に飛び込むなんてなんと無謀なことをしてしまったのだろうか。茜は頭から手を下ろし両手を口の前で合わせた。小石がぱらぱらと落ちて来て茜と勇の背中に当たり横に飛び散った。馬に小石が当たってしまうと馬は暴れ敵に見つかってしまう。茜は口を覆っっていた手を馬の頭に伸ばし天を見上げると槍を持った兵士が将来平城京の街になる広大な田圃を見下ろしている。兵士の黒い顎鬚と背負っている矢羽根が赤く光った。茜の背中から温かい血液が抜け代わりに冷水が首筋に向かって駆け上って来る。震えが止まらない。茜は勇の背中に強く口を押し当てた。
馬が一歩を踏み出す。恐る恐る顔を上げると顎鬚と矢尻は消え透き通った水色の空に変わっていた。冷え切った茜の首筋に温かい血液が流れて頬が温かくなってくるのが分かった。
「おい。川が見えたぞ」丘の上で先頭の兵士が振り返って叫んだ。うねる流れは茶色く輝いていた。
「これが木津川ね」背を伸ばした勇は横で大きく頷いた。
「若。明日はこの川に沿って山に登ります。日が暮れる前に川沿いで寝床を造ってください」
「姫。ベースキャンプですね」若は微笑んでから上半身を捩じり兵士に向かって木を伐る指示を出した。
一時間もかからない内に太い木の枝で組まれた骨組みが建ち木の皮が細い枝で組まれた屋根に張られた。これでしばらく雨風は凌げ、食料も備蓄することができる。もし山越に失敗したとしても戻って来るところがあれば心強い。日が落ち辺りが暗くなると小屋の前で火が焚かれ昨夜のように宴会が始まった。兵士たちが酒を飲めるのも今日までだ。赤い顔をした小太りの兵士が踊り始め、それにつられて踊りの輪が生まれた。川を下る風で揺れる炎に照らされたその輪は左右に揺れながら火が消えるまで続いた。
茜は小屋の柱にもたれ掛かり膝を抱えて座っていた。大人たちの笑顔と裏腹に茜の気持ちは沈んでいた。明日は最も危険な山越だ。自分が決めた道が正しかったのか。もし崖崩れや鉄砲水に巻き込まれて命を落とす人がでたら。お日様を捕まえることが不可能であることを証明するだけの無謀な旅に勇を巻き込んでいる。部落にいる小枝さんに勇を預けてくることもできたのに――。今更引き返すことなどできない。茜は隣に並んで座っている勇の手首を強く握った。

 茜は日の出前に目が覚め横で丸くなり寝ている勇を起こした。大人たちは既に起き馬に荷物を積んでいる。木の葉を皿にした握りめしが二つ。小太りの兵士が昨晩の残りで握ってくれたのだろう。茜は欠伸をしている勇の前にお握りを差し出し、一つを口に運んだ。
 若の判断で出発は日が昇るのを待った。霜は融けないにしても暗闇で足元が見えず川に落ちるのを防ぐためだった。城壁のような山頂と漆黒の宇宙を切り裂くように朝日の赤い帯が左右に広がった。それを合図にして馬が歩み始めた。山越に臨んだのは総勢五名。勇を乗せた若の馬、忍の馬には茜、最後尾が小太りの兵士。兵士たちの乗っていた栗毛の単独馬に乗り換え一列となって川沿いの獣道を縫いながら登っている。茜は勇とで馬に乗ると言ったが忍がそれを許さなかった「外敵に遭遇したとき暴れる馬を姫は落ち着けさせることができますか。馬と共に崖下に転落ですよ」と脅かされた。
 忍は茜のことを姫と呼び茜の考えに従っているのだが茜の身を脅かすことに関しては断固として反対し意見を押し通した。
「私は姫なのですよ」と強がってみたが忍は引き下がらない。
「王様の命令が絶対で、姫の命を守ることが優先されるのです」
 本当の姫はどこにいるのだろうか。偽物の姫であることが分かったら忍は私たちをどうするのだろうか。そもそも王様は子供の姫を置いて何処に消えたのだろうか。茜は背中に密着する柔らかくて暖かい忍の体を感じながら考えていた。それらの疑問を忍に尋ねればもう少し確かなことが判るだろうが、それは大勢の人の命と引き換えになる。茜は唾と共に疑問を飲み込んだ。
 薄暗かった森が急に明るくなった。居眠りしていた茜は目を細め光源を探した。一行はしばらく離れていた木津川沿いに戻ったようだ。崖がつづき川岸に降りることは叶わないが降りることができたとしても水の流れは激しく川幅いっぱいを濁流が埋めていた。
「山で雨が降ったのかもしれないな。一休みだ」若は片足を後ろに跳ね上げ馬から飛び降りた。
森の中から戻ってきた若は倒れた木に腰かけ肩を上下に動かして呼吸を整えている。獣道が途絶え若は太刀で枝を切り落としながら馬が進める道を探していた。忍が崖から頭を出して上流を見渡した。鬱蒼としていた森が急に明るくなった理由は明白だった。崖が崩れ、紅葉を抱えていた森ごと谷底に落ち、虫が食った着物のように大地がえぐり取られている。
「この先進めますか」忍は若に尋ねたが若は首を横に振った。
「無理ですか」忍は溜息を付いた。
森の中から葉が擦れ合う音とキューンという鳴き声が入り混じった奇妙な掛け合いが幾度と聞こえてきた。茜は丸太を飛び越えその奥の草むらを掻き分け森の中に顔を差し込んだが草の先は草、草以外何も見えない。突然草が鳴った。草がざわざわと音を立て左右に揺れながらその波は茜に向かって近づいて来る。忍は太刀を抜いて草むらに体を差し込んだ。草の間から毛むくじゃらの塊が飛び出し茜の頭上を越え丸太の上に立ったが足を滑らせ茜の背の上に転がり落ちた。忍の太刀がその塊を捉えると草むらの揺れはピタリと収まり森に静けさが戻った。それを切り裂いたのは茜の悲鳴だった。
その塊は茜の悲鳴と似た鋭く高い声を放ち丸太に抱きつくように飛び移った。暗褐色がかった毛衣の日本猿が丸太の上で首を傾げ茜の顔を憐れむように眺めている。尻を掻きながら赤い顔を歪めて茜に何かを訴え始めた。猿の話しが終わると茜は振り返り「馬も人もこの先は進めないみたい」と忍の顔を見て独り言のように洩らした。
「歩きも駄目だということですね」忍も肩を落とした。
「ちょっと待ってや。姉ちゃんらは誰と話したんや」茜は猿の赤い顔を指差した。
「そんな、あほな」
「お猿さんに山越ができる道を尋ねていただけないでしょうか」忍は勇の疑問を無視し真剣な表情で茜に頼んだ。
「対岸なら山を越えられるみたい」猿は頷き手を上下に叩いた。
崖は深く川はこの大雨で激流。対岸に渡ることなど不可能。
「若。一度ベースキャンプに戻って対岸に馬で渡れるところを探しましょう」若は残念そうに頷き馬に飛び乗った。
「姫。そのお猿さんに道案内を頼んでいただけないでしょうか」忍にそう言われた茜が猿に問い掛けると猿は開いた手を茜に伸ばした。
「団子がいるのか。それじゃあ、お姉ちゃんは桃太郎みたいやな」
「勇。茶化さないで」茜が声を張り上げると勇と猿は背筋をピンと伸ばす。無事に山越するために茜は必死だった。
(私たちが山を越え海に出られたらベースキャンプにしている家を上げるから)猿は丸太の上で宙返りを繰り返しキャッキャと叫んだ。
「若。ベースキャンプに戻ったら対岸に新しい家を造らせて。今のキャンプはお猿さんに差し上げて欲しいの」そうと決まればここに長居している理由は無かった。日が暮れるまでにベースキャンプに戻らないとならない。馬に跨った茜は猿を抱きかかえて山を下った。
 ベースキャンプの広場から煙が上がっていた。日が沈む前に夕飯作りを終えておきたいと言って最後尾を守っていた太った兵士は馬を走らせていた。動きが鈍い彼を旅に連れて行くのには理由があった。未開拓の地で戦う相手は人間でなく自然だと忍は踏んでいたので料理も家作りも得意な彼を選んだのだ。
 炎を囲んで宴が始まる前に若と忍が立ちあがり明朝から対岸に渡りベースキャンプを造りなおし猿にこのキャンプを明け渡すことを告げたが反対する兵士は現れなかった。野生の猿だって冷たい雨風を凌ぎたいと皆も思っている。茜は胸を撫で下ろし勇の横で背を丸め座っている猿に視線を落とした。
(お猿さん、名前は有るの)猿は唇を尖らせ頭を横に振った。
「それなら僕が決めるで」勇が茜の前に割り込んで来て「格さんはどないや」と提案した。
「それじゃあ。水戸黄門に成っちゃうじゃないの」茜は助さんの尖った顔を思い出し反論したが勇は引き下がらない「僕らを守ってくれるんや。最強の名前にしとかんとあかん。お猿さん格さんでええやろ」猿は宙返りをして手を上下に叩いた。

茜が目を覚ますと勇は丸く口を開き上り坂に差し掛かった蒸気機関車のように小刻みに白い息を天井に向けて放っていた。勇の頭の横で座っている格さんはそんな勇を不思議そうに眺めている。
「おはよう。何をしているのよ」
「機関車が有れば東の海に行くことなんて簡単なんやけどな」
「まだそんなことを言っているの。無い物は無いの。機関車を造っても線路を東の海まで誰が引くのよ。だけど歩けば道はできるわ。さあ起きて」茜は飛び起きて勇の額を掌で叩いた。大人たちは既に荷造りを始め太った兵士はお粥を作っている。茜は渡されたお椀を眺めながら、昨夜勇がカレーライスを食べたいと言っていたのを思い出した。茜は「そんな甘えたことを」と言い返したが内心はパンやお母さんの肉じゃがが食べたかった。茜は溢れてくる唾液を配られた淡白な味のお粥と共に飲み込んだ。
 流れが激しくなければ川幅の狭い上流に向かうのだが川岸が削られるほどの流れ。川幅が広くなっても流れが緩やかな川下が無難と意見が纏まり若を先頭に川を下り始めた。馬の腹を摩るほどに伸びた葦が曲がりくねった川の両岸を埋めていて馬の上から見降ろすとそれは黄金に光る海のようだった。
「昔、京都と奈良の間に巨椋池が有ったって聞いたことあらへんか」
「知っているわ。豊臣秀吉が開拓し交通の要所にしたのでしょう」
「確かやないんやけど木津川や宇治川なんかが合流してできた大きな湖やったと思うんやけど」
「巨椋池って池じゃないの」
「でっかい沼かもしれん。湖か沼かはわからんけど、でっかいんや」
「秀吉って最近の小父さんよね」
「あかん。渡れへんようになるで」
茜は腰を浮かして前を進む若に向かって叫んだ「若。この先に大きな湖が有るのよ。だから湖に出る前に早く川を渡らないといけないの」茜にそう言われた若は先程通り過ぎた卵形の中州に戻り対岸に渡ることにした。上流程ではないが中州に渡る水の流れは早く荷を背負った足太の馬でさえ前脚を踏みかえるほどだった。川を渡り土手を登りきった馬は身震いをする。辺りを見渡すと黄金の海の代わりに広大な沼地が広がっていた。
「これが巨椋池なの」現代ならば舗装された道が格子状に通りそれに纏わりつくように電柱と住宅が並んでいるのだろう。
「大阪も奈良も京都も無いのね」
「姫。巨椋池の先はどこに繋がっているのですか」
「そうね。忍さんがやってきた海に繋がっていると思うわ」
「そうなのですか」と忍は首を傾げた。
葦を踏み倒しながら巨椋池と木津川に挟まれた岬のようなところを山に向かって進んだ。葦の岬を抜けると兵士たちは二手に分かれベースキャンプを建てるための地ならしと木の切り出しを始めた。小屋の骨組みができると仕上げは残る者に任せ茜たちは上流に向かって進むことになった。一行は坂に差し掛かった。今朝まで使っていた対岸のベースキャンプに向かい格さんが勇の肩に乗り背伸びをして奇声を上げた。その屋根の上に数匹の猿が立ちこちらに向かって大きく口を開いている。喜ぶ仲間を見て格さんは約束を反古にし川を泳いで対岸に逃げてしまうのではと茜は心配になっていたが、格さんは勇の肩から飛び降り馬のお尻を蹴って茜の乗る馬の頭を飛び石にして茜の前に後ろ向きになって座って頭を横に出し川の下流を指差した。巨椋池を跨ぐ空に墨汁を落としたような黒い雲がいつの間にか湧き上がっていた。格さんは両手を上下にバタつかせた。
(雨が降るのね。それも大雨に)格さんは顎を小刻みに振る。
「若。これから大雨になるみたい。雨を凌げるところを探して」
(崖に洞窟)格さんが太い杉木の先にある黄色い肌の崖を指示した。茜にも崖は見えるが洞窟など見つからない。
「あの崖に洞窟があるみたい」忍は腰を少し浮かせ片手で茜の胸に腕を回した。周囲の風景が上下に乱れる。馬のたてがみに沿って草と土の臭いが舞いがってくる。木の幹が左右から迫って来て膝に枝先が擦れ音を立てた。木の葉が一斉に騒めく。大粒の雨が落ちてきた。枝の隙間から黄土色の崖が透けてきて馬の四脚が宙に浮き振動が途切れた。冷たい風と雨粒が茜の太腿と頬を叩き髪に落ちた雨粒は少しして額から垂れ落ち瞼を乗り越え目に滲み入ってくる。忍は茜に絡めた腕を解き空中で体を捻って着地し両手を茜に伸ばした。忍はやはり忍者だと茜は思った。「早く」忍は茜の腰を掴み馬から引きずり降ろして脇に抱えた。格さんは忍の肩に飛び移った。忍の香りが土の臭いに変わり、洞窟に転がり込んだ。
「もう大丈夫です。御怪我は無いでしょうか」忍の口調がいつもの丁寧な言葉に戻っていた。馬を木に括り全身水浸しになった若の後を少し遅れて太った兵士が膨らんだ上半身を上下に弾ませながら洞窟に飛び込んできた。「火を起こしますのでお待ちください」服の中から塊をバサリと落とした。兵士はあの短い間に雨に濡れる前の木の枝と枯れ葉を懐に押し込み集めていた。
 格さんは炎から離れ洞窟から外を窺って雨が止むのを待っているようだったが急に振り返り険しい表情で両手をバタつかせた。茜は腰を折り格さんと顔の高さを合わせ(どうしたの)と尋ねた。
(山では雨が雪に変わるかもしれない)茜が格さんの言葉を復唱すると洞窟の中に緊張が走った。
「もし雪が積ったら融けるまで山越は難しくなるわ」
「山に雪が積ったらベースキャンプに戻りましょう」
「しかし。王様の命令が――」忍さんの顔が歪んだ。
「王様はお日様を捕らえることと、皆の命とどちらを大切にされると思うの。忍さんが王様から怒られないように私が話しをしますから安心してください」茜は嘘を重ねた。
「分かりました。そうなったら一度戻って体勢を整えましょう」忍さんはそう言って火を操っている太った兵士と相談を始めた。茜は洞窟の壁にもたれて座り森を切り裂くような強い雨を睨んだ。王様はどのような方なのだろうか。民を大切にする方なのだろうか。私はどうなっても勇だけは助けなくてはいけない。でもどうすれば――。茜はまた同じことを考えていた。
「姉ちゃん。どうして格さんの話しが分かるんや」勇は茜の隣に座って訊ねた。勇の疑問は天候が急変しても変わらない。
「え。どうして」と茜は答えた。
「格さんはキイキイと鳴いていただけやで」
「勇は聞き取れなかったの」茜が困惑していると洞窟から掌を差し出している若が「おい。小降りになってきたぞ」と叫んだ。
 茜も洞窟から顔を出して山を見上げたが厚い雲に覆われていて山頂どころか目の前にある木の先端も見えない。
「若。ここで一晩明かすことできるかしら」
 若は顎を親指と曲げた人差指で挟んで洞窟の中を睨んだ。
「女は奥に」勇が茜の前を這って若の足元に移動すると茜と忍は自動的に洞窟の中に押しやられた。洞窟の奥は暗いが温かい。
「勇も奥に行け」若は洞窟の奥を指示した。
「僕は男だ」腕を組んだ勇は口を一文字に結んだ。
「女子供は奥だ」若は子供を付け加え勇は目尻を吊り上げて頬を膨らませた。勇にも男としてのプライドが芽生えたのだと茜は思った。
「勇。腹を空かした狼と素手で戦えるのか」若に強く言われた勇の瞳には涙が浮かんでいた。蟻でさえ殺せない優しい勇が狼と命懸けで戦えるわけがない。茜は勇の肩を横から抱き「勇を苛めないで」と若を諭すと勇は声を出して泣き崩れてしまった。勇を抱え洞窟の奥に向かっている茜の背から青白い尖った光が差し込んだ。洞窟全体が上下に揺れ空気を切り裂くような爆音が響く。
「伏せて」茜は勇の体を覆うように強く抱きしめた。
黒く焼けた木が石や土砂と共に落ちてきて洞窟を塞ぐ。
「雷様だ。雷様がお怒りになられた」腰を抜かし倒れ込んだ兵士が叫んだ。大木は煙が吐き出し洞窟の中は焦げ臭い空気が充満した。
「落ち着け。雷様が降りてこられただけだ。おい。木を蹴り出すぞ」若と兵士が肩を組み気合と共に木を蹴り出した。
「危険なのは狼だけじゃない」若は勇にぼそりと呟いた。
茜と勇は洞窟の奥で手を握り合いぶるぶると震えるしかなかった。

 木の隙間から朝日が差し込んできた。眠れぬ夜を過ごした茜は洞窟から飛び出し、その透き通った黄金の光を掌で遮りながら山頂を見上げた。山頂は白光を放っていなかった。
「雪は積っていない。山越できるわ」茜は両手を上げて洞窟から出てきた勇と飛び跳ねた。馬に餌をやっている大人たちは茜たちの喜ぶ様子を見てくすくすと笑っている。
「何が可笑しいのですが」と茜が聞くと大人たちは歯を見せて笑い出す「昨夜、山に落ちた雷様を怖がっておられたのに、その山を見て飛び跳ねているからですよ」忍は口を手で隠して話した。洞窟の横には根を付けたままで黒焦げになった木が横たわっている。格さんから大雨の知らせを聞かなかったら茜たちが木のように墨になっていたかもしれなかった。
「自然に逆らうことはできないわね」
「そうやな。一生懸命に造った道も堤防もいずれ自然の力に飲み込まれてまうんやな」二人は肩を落とした。
山越するために一行は一度川岸に下った。雨水を吸った腐葉土が馬の足を深く包み沈んでいく。枝を伝い落ちてきた水滴は薄日を浴び輝いていたが茜には楽しむ余裕は無かった。山は登り続けることを拒んでいるのか、それとも誘っているのか、茜は悩んでいた。命を賭けてまでお日様を捕らえに行くことにずっと疑問を抱いている。忍が繰り返す「王様の命令」と、平群の爺が手を握り「平群を守ってくれ」と言った姿が無ければ茜はとっくに諦めていただろう。姫だと嘘をついて大人に命令している自分。嘘を付いているだけではない。その命令がみんなの命を奪うことになるかもしれない。お日様など捕らえることなど絶対にできないことを知っているのに危険な旅を止めることもできない。茜の心は痛みを感じていた。
 森を抜け川に接した崖の上にでると格さんが茜の懐で騒ぎ始めた。川の対岸に向かって奇声を上げ馬の背で飛び跳ねている。
(格さんどうしたの)格さんは毛むくじゃらの長い手を対岸に伸ばし(家族、家族)と同じ言葉を繰り返した。対岸の木に母猿が腰かけている。母猿の首に腕を絡ませ背に張り付く子猿。母猿の胸に抱き付く子猿。その姿は数年前の茜と勇に似ていた。母猿が唇を捲り上げ震わせている。数匹の若い猿が木に登り枝を揺らしだした。
 母猿が立っているすぐ横の切り立った崖下には崩落した木や土砂の塊が川の流れを遮っていた。山越を諦め折り返した地点、格さんと出会ったところ。茜は対岸の猿たちが格さんの家族なのだと気が付き対岸に手を振った。茜を前へと推し進めるものは、もう人間の都合だけではなくなった。逆らえない運命という濁流に足を踏み入れてしまっている。茜の小さな心をブルリと震わした。
 森を抜けると足元を草に覆われていた地面は黄土色の粘土質に変わった。そこは馬一頭がぎりぎり通れる獣道。若は馬から飛び降り、その道に顔を近づけた。若と兵士は顔を寄せ合い話している。
若は馬の手綱を兵士に預け茜が乗っている馬の前に立った。
「姫。道に出たようです」
「やはりそうですか。これで山越できますね。格さん、どうも有難う」と茜は皆を労ったが若の表情は硬かった。
「そうなのですが。ここは人が歩きやすいからとできた道。それを狙った山賊と出くわす危険性が高くなったとも言えるのです」
「山賊」
「ええ。森や崖の上に身を潜め一本道を行き交う旅人を襲うのです」
 折角、高速道路のような便利な道に出たのにそこには危険が待ち構えている。茜は引き戻したい衝動にかられた。
「森に再度入り山賊のいないところに抜けることはできませんか」
「山と崖に囲まれた一本道なのです」
「私は姫を守ります。あなたたちは前後を固めてください」茜の頭の上から忍の声。若の眉間に皺を寄せたがすっと若の唇が緩んだ。
「そうですね。それしかありません」
「待って、待って。私だけが助かっても、お日様を捕らえることなどできません。意味が有りません。引き返しましょう」茜は自分の気持ちを吐き出すように話した。
「駄目です。王様の命は絶対です。私の命に代えても姫を守りベースキャンプまで送り届けます。その後姫は兵士を連れてお日様を捕らえてください。若、もし前から襲われたら坂を下り引き返しますので敵を食い止めてください。もし背後から襲われたら坂を掛け上りますので道を開けてください。あの兵士にしんがりをさせます」
「もし、挟み撃ちにされたら」茜は忍を見上げた。
「馬を捨てて姫を担いで崖を駆け上ります。あの兵士を盾にしてでも若は姫を逃がす為の時間を稼いでください。しかしながら、きっと山賊は背後から攻めてくるでしょう」
「どうしてだ」
「上り坂は逃げ足を阻みますし、背後からの方が気配を消せます」
「なるほど、分かった」若はきっぱりと答えた。
「ちょっと待ってください。勇はどうなるのですか」
 忍は細めた目で若と視線を合わせて「残念ですが。若と一緒に山賊と戦っていただきます」
「勇は男の子ですけど、太刀も持ったことのない子供ですし私の弟なのです」
「姫には弟はおられません。王様の後を引き継ぐのは姫だと決まっているのです」勇が血縁関係の無い弟であることを忍が知っているはずがない。どうして。茜は忍を睨んだ。
「まあ。逃げ道が無い山道だ。忍が言うように山賊が襲ってくるとしたら背後からだろう。ならば私が最後尾に付く。あの兵士に勇を任せ先頭をお願いしましょう。逃げるときは姫と勇は一緒になる。それならば良いだろう」若は忍を見てから茜に視線を回した。
「よし決まりだ。あの兵士に名前は有るのか」忍は首を横に振った。
若は兵士に手招きすると兵士は上半身を揺らしながら坂道を下ってきた。若は兵士に戦い方を説明し振り返って「姫、彼に名前を授けてやってください」と言った。
「私に名前などはなくても」
「いいえ。あなたが居なければ先には進めません。大切な仲間なのです。――手先が器用ですから匠はいかがでしょうか」
「匠。良い名前をいただけましたね」忍は兵士に微笑み。兵士は人差指で鼻の下を摩り「匠」と囁いた。
「よし、匠。先頭と勇を頼む」先頭の匠の馬に勇と格さんが乗った。匠のお腹が柔らかく乗り心地が良いと勇はご満悦だった。山賊が背後から攻めてきたら大きな声を出してそんな匠と勇を煽ればいい。茜の心を乱すもの。それは目の前を神経質に上下する手綱と周囲の不穏な気配を感じとろうと息を殺している忍の姿だった。
「姫。これは乗馬の練習ではないのです。盗賊は姫だといって容赦してくれません。私が殺されたとしてもどうか生き延びてください」
茜が聞きたくない言葉を忍は真剣な眼差しで話した。背後には若が居る。馬の吐く息の大小で若との距離が感じ取れる。それは胡坐をかいた父の足の上に腰かけたときのような安心感がある「なんとかなる」茜は忍に聞こえないように心の中で呟いた。
道は幾度も折れ曲がり、その度に馬は白い息を吐きながら苦しそうに体を曲げ足踏みを繰り返して方向を変える。坂を登りきると道は馬が数頭並べるほどに。馬の足元ばかりを見ていた茜が顔を上げると景色は一気に広がっていた。馬の頭の先には空を区切るように山々が頂を連ね。崖下には森がのっぺりと腰を下ろしていた。山賊に襲われず取り越し苦労に終わったことを茜は胸に掌を当ててひっそりと勾玉に伝えていると(危ない)と声が漏れるように聞こえてきた。格さんが勇の肩に立ち奇声を上げた。格さんの家族や仲間がいるとは思えない。格さんは匠の背に隠れ馬は前足と鼻先を上げ白い息を吐いて嘶く(危ない)若が太刀に手を掛けて茜の乗っている馬の横をすり抜け匠さんと並んで太刀を抜いた。
「前から山賊だ」若の声に手綱を持っていた忍の腕に力が入り茜の両肩を強く挟む。完全に裏をかかれた格好だった。岩陰から大柄の男が太刀を振りかぶった姿で現れた。誰かが太刀を振り下ろした瞬間に戦いが始まり動く者が居なくなるまで続けるしかなくなる。
茜は忍の腕を振り払って馬から飛び下り若と匠のいる最前線にでた。
「姫。忍と逃げてください」若は開いた手を茜の顔の高さで振る。
馬から飛び降りた勇が茜の前で腕を組み大柄の男を睨み「この人を誰やと思っているんや」と茜を掌で差した。
「勇、戻りなさい」と茜が叫び前に出ようとしたが「姫、馬に乗ってください」と忍に両肩を掴まれ動けなくなってしまった。
大柄の男が顎を横に動かすと、その後ろで控えていた太刀を腰の高さで構えている男たちがじわりと前に詰め寄ってきた。
 若と匠は太刀を頭上に振り上げ勇の前に体を捻じ込んだ。
「若、太刀を下ろしなさい」茜は大柄の男に聞こえるように叫んだ。
「姫、殺されたいのですか」若は前を見たまま叫んだが茜は一歩も引き下がらない。
「若、命令です。太刀を下ろして一歩下がりなさい」茜は生まれて初めて命令という言葉を本気で使った。若は太刀の先端を腰の高さに下げ半歩下がった。半歩だけなのは若の抵抗なのだろう。
「私たちはあなたたちに危害を与えるつもりは有りません。ここを通して欲しいだけです。山を下り海に出たいだけなのです」茜が両手を頭上に伸ばし半歩前に出ると山賊たちは太刀を構えたまま半歩後退した。茜たちの背後で土が崩れる音がした。崖の上から次から次と太刀を持った男が現れ茜たちは逃げ道を失った。
「匠さん。酒は有る。有るなら出して」茜は山賊を睨んだまま若の横で太刀を小刻みに震わせている匠に叫んだ。匠は馬の背から壺を取り出して茜が背に伸ばす手に渡した。茜は頭の上で壺を左右に振ってから山賊に向かって差し出した「このお酒を飲んで」
大柄の男は太刀の先を地面に刺し岩陰にいた少年に顎で指示を出した。少年は最初首を横に振っていたが男が地面に刺した太刀に手を添えると少年はしぶしぶと頷き周囲の挙動を全身で感じながら腰を落として茜に向かってきた。少年は茜と変わらない背格好。少年は壺を茜の手から奪い取り早足で男の元に戻った。男が少年にそれを飲めと命令する。毒味だ。子供が飲んだら駄目だと茜は言いたかったが毒を入れていると勘違いされたら戦いとなる。茜は目を細めただけで口に出すのは止めた。少年は目を瞑り壺からそれを一気に飲むと激しく咳き込んだ。男たちは一斉に茜を睨んだ。壺の中身が毒だと勘違いしたのだ。男の一人が太刀を茜に向けて振りかぶるとその前に顔を赤くした少年が地を転がりながら割って入った。
「酒です。これは酒です。僕が酒を飲めないのです」少年は膝で立ち唇を震わせ壺を男に差し出した。
「どうぞ、飲んでください。毒など入っておりません」茜は少年の背後まで近寄り男を見上げて訴えた。大柄の男は少年の手から乱暴に壺を取り上げた。その男は茜を横目で睨み酒を口に流し込む。
「美味いじゃないか」男は目尻に皺を作り茜に向かって微笑んだ。
「姫。下がってください」若が茜の前に左腕を差し入れて男に太刀を向けたときには若の喉仏に男の太刀の先端が触れていた。
「貴様が下がっておれ。俺はこの姫と話がしたい」若は強張った表情のまま男と視線を外さないよう慎重にすり足で下がった。
「姫とやら。いい度胸をしているな。幾つだ」
「女性に年齢を訊ねるの」茜は母が化粧品を売りに来たセールスマンに言っていた言葉を使った。
「そうだな。この山を纏めている伊賀と言う。年齢は数えていない。姫はどこから来たのかな」
「石切。いいえ、平群です」
「平群だと。爺の孫なのか」
「そ、そのようなものです」伊賀は片膝を地面に付き茜と視線の高さを合わせ背後の男を追い払うように手を振った。
「爺は元気にしているのか」
「ええ、元気にしていますよ。爺とはどこで」
「俺が和珥に囚われているときに爺が救ってくれた。爺は恩人なのだ。あの青年はもしかして爺の息子か」茜は頷いた。
「そうか。俺の事は覚えていないか。それは無理か。やつはまだしょんべん小僧だったからな。酒でも呑みながら話を聞こうじゃないか」伊賀は酒を飲む仕草をして若を手招いた。
「すまないが部落に入るまでは目隠しをしてもらおう」兵士が手拭で茜たちの目を覆う。格さんの高い声だけが聞こえる。しばらく手を引かれてから立ち止まると草木が磨れる音。出入口を覆っていた扉のような物が動かされたのだと茜は思った。兵士が茜の背中を突く。捕虜になった気分だった。平群の爺が部落の位置を隠そうとしていたのと同じ理屈。茜はそう考え心が乱れるのを抑えた。少し歩くと手拭の隅から漏れてくる淡い光と頬を摩っていた冷たい風が急に無くなり全身が温かい空気に包まれた。洞窟の中を歩かされているのかもしれない。暫く歩くと手拭が外された。黄土色の崖に取り囲まれた広場は青い空が丸く抜けている。崖の上には木が並び垂れ下がった蔦が崖を覆っている。正面の崖には大人が立って歩ける高さの洞窟が口を開けていた。その上に小さな楕円形の穴が三つ一列に並び弓を持った兵士が睨みを利かせていた。中庭で遊んでいた子供たちが身を引き寄せあい茜を横目で睨んでいた。ここの部落は崖に横穴を掘って住居にしているようだ。
 茜はどのように話をすれば良いのか悩み始めていた。伊賀には平群の人間であることにしなくてはならず忍には姫であることを貫かなくてはならない。命を守るためについた嘘。嘘に嘘が上塗りされ茜の心は四方から圧力が加わり押し潰されそうだった。
「姉ちゃん」勇が茜のすぐ横に立っていた。声は小さく弱弱しい。
茜は勇にその気持ちを伝えた。
「ここを生きて通り抜けるには平群の姫になるしかないやないか」
「嘘に嘘を重ねているのに更に嘘をつくなんて」
「仕方がないやないか。それに嘘の嘘は本当になり、その嘘は嘘」勇は鼻の下を摩った。勇は粋な言葉でも言ったつもりなのだろうが、茜には呪文にしか聞こえなかった「でも、もしばれたら」
「化けの皮が剥がれたら、もう逃げるしかないやろ」勇はいつからこんなに大胆な性格になったのだろうか。茜は首を傾げた。
「姫。何でしょうか」勇が忍の手を引いて連れてきた。
「――あの。私たちはここをなんとか切り抜けなくてはなりません。あの伊賀という男は平群の爺を恩人だと言っております。それで私はしばらく平群の姫となりますので話を合わせてください」
「しかし、嘘をつくなど姫がすることではありません」
「王様の命を実行するためです。判りましたね」茜は顔色一つ変えず低い声で言った。
「分かりました。私たちも平群の部下と言うことで若と匠に話しを合わせるよう伝えます」
「お前たち何をしている。宴を始めるぞ」伊賀は切り立った洞窟の入口で手招きをしていた。
 洞穴の横の柵に馬の手綱を括りつけ茜たちは兵士が両脇に立つ大きな洞窟の中に入った。洞窟で幾度も寝泊まりをした茜は洞窟の生活には驚かなかったが全て人の手で掘られている洞窟はここが初めてだった。三つ編みのように捩じれている太い幹が丸太の柱で蒲鉾状の天井に押し付けられ、その幹から左右に広がる黒く焦げた枝の先端が地面に突き刺さっていた。天井や壁が崩落しないように捩じれた幹や枝が洞窟の骨組みとなっている。
「恐竜か鯨の骨格みたいやな」勇は図鑑の中に潜り込んだように目を輝かせ天井を見上げていた。壁の所々に横穴があり松明の光が揺れるとその奥にある部屋に収められた土器や人影がちらりと見える。
 茜たちは洞窟の一番奥にある円形の部屋に通された。中央に囲炉裏があり、その上には排気口と思われる縦穴。天井は排気口に向かって煤けていた。その囲炉裏に足を向け放射状になれば十人は寝ることができる広さがある。
「まあ、座ってくれ」
 火がつけられた囲炉裏に串に刺さた肉が並ぶ。横穴から出てきた女が皿や御猪口を配り伊賀が酒を御酌して宴会が始まった。
「海に行くと言っていたな。海の魚なら西海の方が近いだろう」伊賀は姫にそう言って酒を口に注いだ。
「そうですね。でも魚じゃないのです」
「魚でなけらば何が欲しい。平群なら米も野菜も豊富だろう」
「お日様を捕らえに行くのです」
「お日様――。次から次と生まれては消えるあのお日様か」伊賀は洞窟の天井を指差した。
「そうです」
「面白いことを考える姫だな。お日様を捕らえてどうする。お日様を串刺しにして松明にでもするのか」伊賀は腹を抱え笑い飛ばした。
「はい」と茜が答えると伊賀は顔を強張らせ口髭を腕で拭いた。
「そうすればすっと昼間になるな。夜も米も野菜が早く育つだろう。それに山賊や獣に襲われることも少なくなるな。面白い考えだ」
「まあ。どうぞ」忍が伊賀と茜の間に割り込んできた。忍は酒を注ぎながら茜を睨んだ。余計なことを喋るなという目だった。
 茜と勇は食事を終えると宴会の席から抜け中央の洞窟から分岐した奥の小部屋に通された。茜は勇と背中を合わせ横になり宴会場から聞こえてくる話し声に耳を傾けた。話の内容までは判らないが時折聞こえる笑い声を聞いて今日もなんとか生き抜けたという安堵感に浸っていた。勇の寝息が聞こえてきた。馬に乗っていたとはいえ山賊にいつ襲われるか分からない緊張が長く続いたのだから疲れたのだろう。その茜の瞼も重くなり開けておくことができなくなった。

 小鳥の囀りが洞窟の生温かい空気だけを揺らして聞こえてきた。勇は蓑虫のように丸くなり眠っている。松明が消えた洞窟は暗く話し声も聞こえてこない。宴会は終わったのだろう。茜は勇を起こさないように包まっていた獣の皮から抜け出した。入口を守る兵士の持つ松明の光だけが唯一洞窟の中を照らしていた。横穴の奥まではその光は届かない。兵士は微動だにしない。茜は忍び足で洞窟を横断し横穴の暗闇に隠れた。悪いことをしているわけでもないのに茜の心臓は音を立てて脈打つ。兵士の揺れる影を見ながら一歩後退りすると片足が持ち上がった。足の裏で探ると段差がある。茜は体の向きを変え、もう一歩踏み出すと足は更に持ち上がった。階段。茜は腕を伸ばし掌で次の段差を探った。四つん這いのまま階段を昇ると濃紺で楕円形の開口がある小さな部屋に出た。冷たい空気で薄められた半月の光が部屋の片隅に差し込む。その壁には弓矢が掛けられ、その下には握り拳ほどの石が円錐状に積まれていた。この部屋は洞窟の上で弓矢を持った兵士が睨みを利かせていたところだ。山賊が攻め込んで来たときここから矢を射ったり石を投げつけたりするのだろう。茜は開口の前で膝を付いて恐る恐る外を眺めた。濃紺の空は月の光がまだ優勢を保っているのだが遠くに見える山並みと空の境は密かに白み始めている。ゆっくり瞬きをすると黄色い光が揺らいだ。茜は瞬きを我慢すればするほど景色が揺らぐ。生温かい涙が目の淵に溜まっている。茜は堪らず目を閉じると目尻からそれが流れ落ちた。この景色に感動した涙なのだと茜は頭の中で唱えた。
「綺麗だろう」男の低い声が耳元で囁かれ茜は反射的に涙を指先で拭き取ってから振り返った。声の主は格さんを肩車した伊賀だった。格さんはすっかり伊賀に懐いている。伊賀は茜の顔の横に酒臭い空気を纏った髭顔を寄せて来た。
「お日様はここから見える山より遥かに高いところを通り過ぎる。櫓を組んでも届きはしない。若は大きな穴からお日様が昇ってくると思っているようだが、それは誤りだ。東の海に行けば若も分かると思うが、お日様は海を突き破って昇ってくるのだ。ならば海から昇るところを狙うしかない。巨大な船と山を覆う程の大網が必要だ」
「お日様を捕らえるなんて始めから無理なのです」
「ならばどうして」
「王様が――」と言ってしまい口を茜は手で押さえた。
「隠さなくても良い。姫は爺の孫でないのだろう。姫は爺にも若にも似ていない。別の部族の顔だ。どちらかと言えば忍に似ている」嘘のために重ねた嘘のどれかが音を立て砕け落ち、どこまでが本当であると言えるのかが茜には分からなくなっていた。
「王様か。自分が望む物は全て手に入ると考えてしまう。それを叶えるために民が苦しみ我慢していることなど気にも留めない」
「でも、王様に逆らう事なんてできないわ」
「逆らうと自分の命だけでなく大切な家族まで危険が及ぶから戦わないで我慢する。普通はそうだ。だが姫は王様の娘なのだ。王様に正しい道を説得できるのは姫しかいないのではないか」
「伊賀だってここの権力者でしょう」茜は厳しい表情を隠さず伊賀を問い詰めたつもりだったが伊賀はあっさりと首を横に振った。
「唯のまとめ役だ。皆と話し合って物事を決める。唯、敵が攻めてきたときは私が指示を出す。話し合っている暇は無いからな」
「でも、伊賀の子供が後を継ぐのでしょう」
「いや。まとめ役は持ち回りだ」
「選挙でまとめ役の人を決めるのではないの」
「センキョとはなんだ」
「ああ。手を上げてくれた人が多い人がまとめ役になるのよ」
「そんなことをしたら部落内に争いが起こるだけだ。順番にまとめ役になって奉仕をすることにすれば皆が部落の問題を知ることができるし、ここを守る意識が高くなるだろう。そう思わないか」
「権力を集中させないためなのね」
「姫に余計なことを吹きこまないでくれる」忍が階段の最上段に片足を掛け伊賀を睨んでいた。
「丁度いい。聞いてみたいことがあった。実のところあなたは王様の暴挙に手を焼いているのではないのかな」
「暴挙だと、言葉がすぎる」忍は目尻を吊り上げて右手を伊賀に向けて突き出した。忍が敵と相対したときの仕草だった。
「それを我儘に置き換えれば同意してくれるかな」
忍は額に掌を当てて暫く考えてから黒髪を掻き上げ「でも命令には逆らえない」と鋭い言葉を返した。
「王様に使える者から意識を変えないと始まらない。本当にお日様を捕らえることができると思うのか」
 忍は伊賀から視線を外し、楕円の開口から広がる景色を眺め「お日様が昇ってきたわ」と呟いた。お日様は峰に並ぶ雲を押し除け四方八方に橙色の帯を広げ柿色に紅葉した山々は輝きを取り戻した。
「山の向こうは海でお日様は海を切り裂いて昇ってくるのだ」
「嘘を言わないで」忍は伊賀の顔を鋭く見上げた。
「まあ良い。信じてもらうには海に行って日の出を拝んでもらうしかなさそうだな」
忍は眉毛の間に縦皺を作り伊賀を睨んだまま茜の横に立った。
「あなたの言うことが正しいとしましょう。どうすれば王様にお日様を捕らえたと納得してもらえるの」
「王様というのは強い誇りを持っている。お日様を捕らえていなくても捕らえたのは王様のおかげだと家来が褒め称えたらどうなる」
「それは権力者じゃなくても褒められたら嬉しいわ」茜は答えた。
「そうではありません。権力者は誇りを傷つけられたくはないから実際には捕らえていなくても捕らえたと言い切るしかなくなるの」
「その通りだ」
「でもどうやって」
「捕らえてなくても構わない。捕らえたように見えれば良いのだ」
「伊賀は私に王様を騙せと言うの」忍は伊賀を強く睨んだ。
「そうじゃない。お日様を網で捕らえることはできないが、こうやってみろ」伊賀は山の上で黄色く輝きだしたお日様に向け左右の手を伸ばし指で四角い枠を作った。光はその枠を通り抜け伊賀の顔を浮かび上がらせた。
「馬鹿じゃない。子供騙しですよ」茜は左目を細めて伊賀を見た。
「良いじゃない」忍は素早く立ち上がり伊賀と視線を合わせた。
「ちょっと待ってよ。王様がそんな子供騙しで納得すると思うの」
「指の枠では誰も納得しないわ。皆が崇める何か神様が住んでいるような崇高な枠を造って、そこにお日様を入れればいい。それなら王様も納得してくれるわ」
「皆が拝むような枠だな」そんな枠がこの世の中に有るのだろうか三人は白く輝く山を眺めながら考え込んでしまった。
「鳥居でええんとちゃうん」洞窟に関西弁が響いた。
「勇、大きな声を出して。皆が起きるでしょう」
「それは構わない。それよりもトリイとはなんだ」階段に両手両膝を付き見上げている勇に伊賀は問いただした。勇は這うようにして階段を昇って来てむくんだ顔を覗かせニタリと笑顔を作ってから忍の足元に鳥居の絵を石で彫った。
「丸太をこんな形に組むんや」
「鳥居は人が潜る門で枠ではないわよ」
「地面に鳥居を建てたらほら枠に成るやろ」勇は鳥居の絵の下に地面を表す横線を加え、その石で鼻の下を摩った。
伊賀は忍の頭の上から覆いかぶさるようにしてその絵を覗きこんだ。
 勇は石を持った指でもう一度鼻の下を摩ってから鳥居と地面の間にお日様の形の丸と四方八方に放つ光を線にして彫り込んだ。
「お日様を捕まえた」忍は獣を捕らえた猟師のように飛び跳ねた。
「そうだそれが良いわ」忍は胸の前で腕を組み大きく頷く。
「皆、馬鹿ね。それはお日様を捕らえたのでなくて枠に入ったように見えるだけでしょう」茜はどうしても納得がいかない。
「いやそれで十分だ。王様がその瞬間を見たとき皆で拍手をして王様を褒め称える」階段を昇ってきた若が勇の背後からそう言うと伊賀の肩に乗っていた格さんが若の頭に飛び移った。
「お日様は直ぐに鳥居から外れてしまうわ」
「王様はお日様を捕らることをお望みなのだろう。縄や網で捕らえよとは言っていない」若は頭の上の格さんの背を撫でた。
「若。それじゃまるで一休さんのトンチじゃない」
「イッキュウさんとは何だ」
「お坊さんの名前だけど――」
「仏教が伝わる前やで。王様が本当に望んでいることは作物が沢山育って餓死する人が居なくなることやろう。それなら毎年、鳥居にお日様が収まった瞬間に豊作をお祈りするようにすればええやん」
「姫の弟はなんと頭が良いこと」忍は勇の頭を優しく撫でている。
弟が褒められたのに茜は素直に喜べなかった。
「毎年――」伊賀は目を瞑りしばらく天井を見上げた「お日様が勢力を取り戻すときがある」伊賀は人差指を南東の方向を差した。
「お日様の昇るところがもう少しすると東に向きを変える。そうするとお日様はどんどん高く昇るようになり温かい日が続く」
「必ずお日様は向きを変えるの」
「勿論だ。小さな頃からここで日の出を眺めている。間違いない」
「姉ちゃん。それって冬至のことやないか。確かクリスマスの頃やと図鑑に書いていたような……」
「そう冬至だわ。お日様が昇る最南端。それから東に戻っていくのね。忍さん、伊賀の話しは正しいと思うわ」
「それなら、お日様が折り返す日の日の出を王様に祈ってもらえば良いのよ。そう、その後お日様はどんどん強い光を放つようになって王様の祈りにお日様が従ったことになるわ。鳥居を造りましょう」「どこに鳥居を建てるのよ」
「お日様を遮る山が無くて――。お日様が海を切り裂いて昇ってくる最も近く。そうね、伊賀の指差した方に浜は有るかしら」忍は船から見た瀬戸内海から昇る朝日を思い出しながら言った。
「海岸はずっと続いているから大丈夫だ」
「あなたたち鳥居をそこらの木で造るつもりではないでしょうね。王様に祈っていただくのだから立派な木でないとならないのよ」
「そんな木がどこに有るのよ」茜は忍に詰め寄った。
「ちょっと付いて来てくれないか」伊賀はそう言って階段を降りて洞窟の中央で顔を天井に向け天井を支える木の幹を叩いた。
「この木なら良いのか」
 天井を支えている捩じれた幹が朝日を受け波のように見える。
「こんな立派な木はどこにあるのですか」
「南東の方角に川が有って、その上流の山奥だ」
「それって、お日様が向きを変える方角よね」
「そうだ。鳥居が建てるとしたら海に近い川沿いになるな」
「なるほど。それを切り倒したら川を使って運ぶんや」と勇が伊賀の話しに続けた。
「素晴らしいわ。これならば王様に見せても恥ずかしくない」忍は背伸びをしてその幹を摩った。
「ねえ。そこまでどれくらいかかるの」
「ここから川を下り海に出て南に数日歩いたところだ。俺たちはこの木を伐り出して川を下って海を北上してから、川を使って運んだ」伊賀は乾いた額に腕を磨り付けて、大袈裟に汗を拭く仕草をした。
「でも、ここまで運ぶわけじゃないから――。その山から木を伐り出して川を下ったところで鳥居を建てればいいだけよね」
「なら、僕たちでもできそうやな」
「伊賀さん、手伝ってくれるわよね」忍は伊賀の太い腕に細い腕を絡みつけた。伊賀は恥ずかしそうに頭を掻いている。急流の川を流れる枯れ葉のように素早く岩を避けながら物事が決まっていく。気がついたらそれは川底に沈んでいるのではないだろうか「伊賀さんはこの部落を守る仕事があるから」と茜は抵抗してみた。
「王様から褒美が貰えると言って部落は前のまとめ役の人に面倒をみてもらえば良いじゃない」忍は伊賀の肘を引っ張った。
「よし、前のまとめ役に掛け合ってみよう」伊賀の判断は早く顔を上げると伊賀は男たちが寝ている横穴に吸い込まれていた。
「姫。ベースキャンプで待っている兵士に私たちの行き先を伝えておきたいので匠を帰らせたいのですが宜しいでしょうか」
「それは駄目です。これから鳥居を造り建てる作業があります」茜は忍に言いながらどうしたら良いのかを考えていた。
「文を届けましょう。若は平群の爺に忍さんは兵士への文を書いてください。これから東の海を南下しお日様が昇る海岸に鳥居を建てることを伝えてください」
「姉ちゃん。紙もペンも無いのに文なんて書けへんで」
「寝るときに掛けていた獣の皮を太刀で長細く切り落として……」
「ここの若者を匠の代わりに走らせようか」横穴から戻ってきた伊賀がそう切りだした。
「その人はベースキャンプの場所を知りませんし、我が兵士に敵だと勘違いされてしまうかもしれません」忍は反対した。
「ならばどうすればいいのですか」茜は忍に詰め寄った。
「格さんに伝言をお願いしましょう。格さんはベースキャンプの場所を知っていますし兵士とも面識が有ります」
「格さんに文を背負わせるのですね」
「いいえ。文は使いません。兵士は文が読めないのです」
「格さんに文を届けてもらっても駄目じゃないですか」
「姫が格さんと話ができるように兵士にも聞き取れる者がいます」
「本当ですか」(格さん降りて来てください)若の頭にしがみ付いていた格さんが降りて来て茜の前で尻を地に付けて座った。
(格さんお願いがあるの。川沿いに新しく造ったベースキャンプに戻って兵士に伝えて欲しいの)格さんは両手を上下に叩き頷いた。
(私たちは無事で、これから東の海に出て海岸を南に下るの)「勇、地図を描いて」勇は洞窟の床に地図を描き、茜が地図を指差して格さんに説明すると格さんは地図を指先でなぞりだした。
(ベースキャンプは閉めて平群に戻って欲しいの。そして爺に伊賀に案内してもらってこの辺りに行くと話してくれる。格さんできる)
格さんはその場で一回転して頷いた。
(兵士に伝言できたら川を渡って家族が待つ家に戻って良いから。お願い)茜は両手を合わせ格さんに頭を下げた。格さんはキッキと叫び頷いてから、勇が描いた地図の横に同じ地図を描いた。

     6
 茜たちが朝食を終えたときには木を切り出す鋸や川を下るときに木を引く綱、鳥居を造る道具までも伊賀は用意し馬に積んでいた。
「気を悪くしないでくれ。部落の決まり事なのだ」と馬に跨った茜たちに伊賀は目隠しを配った。門を隠している草木が動く音がし、しばらく進むと馬が止まって目隠しが外された。山の間を縫う道が二股に分かれている。
「目隠しをさせて悪かった。部落に入りたければその松の木の前に馬を並べて全員で手を振ってくれ。見張りの者が降りてくるだろう」
「格さん。ここでお別れ。山賊に見つからないようにね。必ずベースタウンの兵士に伝えてね」茜は格さんを強く抱き寄せた。
格さんは道を数歩飛び跳ねてから木に飛び移り一度木の枝にぶら下がり茜をチラリと見てから森の中に姿を消した。
 伊賀は手綱を引き馬の向きを変え「これから川沿いを下り海に出る」と茜たちに叫んでから馬を進めた。
 森は途切れ白い光が足元を照らす。三日月形をした深緑色の池が広がっていた。弧に沿って池を半周すると伊賀は馬を止め「海から部落に繋がるこの川を我々は神の道と呼んでいる。山に住む我々にとって海の食べ物を運ぶための大切な道なのだ」伊賀はその道に向かって両手を合わせてから「神の道を使わせてもらうぞ」と言った。
 森を抜けると海までなだらかに下る草原が広がっていた。部落や田畑が有るわけでもない唯の草原だ。潮の香りを薄らと含んだ冷たい風は海と陸の境を隠すススキを揺らす。川に沿って馬を進めると淡い黄土色の砂浜が弓を模るように伸びていた。伊賀と匠は先の様子を見て来ると言い馬を走らせた。忍は手綱を若に預けて茜と一緒に砂浜に降り首を傾げ水平線を眺めている。お日様が本当に海から昇るのか疑っているのだ。勇も馬から降り茜の隣で海を眺めた。
「やっぱり。コンビナートも倉庫もあらへんな」
「当たり前でしょう。山を越えただけで戻れるなら苦労しないわ」
「そやけど。僕らだって生駒山をトンネルで越えただけやで」
「そうだったわね」茜は勇の理屈に逆らうことはできなかった。ならばどうすれば戻ることができるのか。久々に茜は自分たちの最も大切な課題を思い出した。
「どうした。何か有ったか」偵察から戻ってきた伊賀が馬の上から心配そうな顔で茜たちに話しかけた。
「ごめんなさい。久々に海を見てみんな思うところが有るのよ」
「何を思う。ただの海だぞ」詰るような問いに茜は対処が取れず「私ならあの山奥に住まないでこの辺りで部落を造ると思うけど」と心の隅にあった些細な疑問を返した。
「そうだな。ここなら海の魚も捕れるし少し海岸から離れれば田畑を造るのも簡単だな。だが絶対守らないとならない言伝えが部落には有るのだ」茜と勇は伊賀の唇が次にどう動くのかを見上げた。
「ここで魚を捕っても良いが、住んではならないというものだ」
「なんで住んだらあかんのや」
「俺は見たことが無いが嵐でここは海に飲み込まれてしまうらしい」
「それって台風と高潮のことやな。きっと」
「ここには嵐を避ける山も洞窟も無い危険なところなのだと木を運ぶときに子供たちに教えている」伊賀は幾重にも重なった白波を見てから「あそこで夕食にするぞ」と指差したのは海岸の瘤のような木に囲まれた低い丘だった。防風林に囲まれ円を描くように続く坂を登ると頂上には雨を凌ぐことができる高床式の小屋があった。偵察に出ていた匠は小屋の屋根を修理していた。ここは自然の丘でなく伊賀らが造った要塞なのかもしれない。小屋の下に荷物を下ろし丸太を削っただけの階段を上ると隅に薪が積まれていた。奥は全員が雑魚寝すると満杯になってしまう。ここには武器も濠も無いことからすると自然との闘いが強いられるところなのだろう。
 若が魚を捕りに行っている間に忍が小屋の横で火を起こして米を炊き伊賀は馬の世話を始めた。茜と勇は砂浜に流れ着いた丸太に腰かけ膝に逆さまにした籠を両手で押さえ沖にある小さな岩礁で魚と格闘している若の姿を眺めていた。
「姉ちゃん。僕たち遠いところまで来てもうたな」
「そうね。ここって伊勢湾よね。向こうに見えるのは知多半島か渥美半島じゃないかな。伊賀たちは木をこの海岸に沿って運んだのね」
「ハハハ」ほとんど裸の若が魚を掴んだ両手を茜たちに突き出し砂浜を飛び跳ねるように近づいて来た。魚は尾を振りもがいている。
茜は悲鳴を上げ勇の背に顔を隠した。若は茜の膝から転がった籠に魚を乗せ勇の膝に置きごつごつした尻を振って海に戻っていった。
人数分の魚が獲れると茜たちは小屋に戻った。勇は小屋の横にある切り株に座って枝で足元に紀伊半島の地図を描き。それを切り裂くように一本の線を引いた。その線は奈良から伊勢を通り抜け伊勢湾を渡り渥美半島に沿って切れ上がっていた。
「何よ、その線」
「――中央構造線や」
「そんなことより。鳥居をどこにどうやって建てるかを考えようよ」
 勇は茜を無視し葉っぱの上に置かれたお握りにかぶりついた。
「忍さんのお握りも美味いで」
「そう、有り難う。私が勇のお母さんになってあげようか。そうすればお母さんが恋しいと泣かなくて済むわよ」
「勇はお母さんが恋しいのか。赤ちゃんだな」若がからかった。
「僕は赤ちゃんやあらへん」勇は唇を尖らせて背を向けた。
「勘弁してあげて。これでも一生懸命我慢しているのよ」
「姉ちゃんはいらんこと言うな」勇は頬を雨蛙のように膨らませた。 
「この地図は勇が描いたのか。上手だな」「勇、今私たちは何処にいるのか教えてくれない」若と忍が勇の機嫌を取る。勇は体を捩じり足元の地図を枝で指示した。
「これが渥美半島でここが知多半島。僕たちはここらやと思う」
「俺の部落はどこだ」
勇は伊勢湾から川を描き込み、その上流に丸印を描いた。
「きっと、ここらやな。捩じれた木はどこらへんに有るんや」
「そうだな。この線は川か」伊賀は地図に引かれた中央構造線を指差した。勇が返事に困っていると伊賀は指をゆっくりと西に動かし
「この線の辺りに川が有って。その上流。木はここぐらいにあるだろう」と丸印を描いた。
「それなら木を切ったら川で運んで――。ここ辺りに鳥居を建てることになるわね」茜は河口の横に鳥居の絵を描いた。
「伊勢の辺りに鳥居を建てることになるのか」勇は首を捻った。
「伊勢って伊勢神宮の有るところよね」
「さあ。中央構造線が伊勢神宮の辺りを通っているのは確かやけど、川は沢山あるやろから伊賀の言っている川がそれやとは限らんけどな」勇はごちそうさまと忍に言って小屋に上がってしまった。
 その夜、茜は眠ることができなかった。勇の話しだと伊勢には九州から繋がる中央構造線が通っている。確か達郎叔父さんも同じようなことを言っていたし、そんな地図を見た記憶も有る。それよりも気になるのが徹の言葉。確か徹の祖先が鳥居を建てた途端に地面が割れたと。私たちが鳥居を建てたら地面が割れてしまうのではないだろうか。茜は跳ね起きた。
「悪い夢でも見たんか」勇は寝ぼけた顔で茜に声を掛けた。
「ちょっといい」茜は立ち上がり足を踏まないように外に出た。
「姉ちゃんはもう五年生なんやからトイレは一人で行ってくれや」
「そうじゃなくて、眠れないのよ」茜は鋭い目で勇を睨み付けてから勇に砂浜の丸太に座るように手で導き茜も勇の横に座った。
「綺麗。星が横に見えたの初めて」頭上には白い太鼓橋が掛かり星座探しを諦めなけらばならないほど無数の星が海面ぎりぎりまで降りて来て煌めいている。風は無く沖は鏡のように滑らかで無数の光が尾を引いていた。二人はしばらく無言で海の星を眺めていた。星を結ぶ線が徹の横顔に変わり星が煌めくと徹の瞳から涙が落ちているように茜には見えた。
「祖先が鳥居を建てたら地面が割れたという言伝えが井原家にはあると徹が言っていたのを覚えている」
「姉ちゃんから聞いたで。それがどうしたん」
「私たちがその鳥居を建てようとしていると思わない」
「なんや、そんなことか。達郎叔父さんの話しを忘れたんか。中央構造線ができたのは千二百万年前のことやって言っていたやろ。僕たちが昔に来たと言ってもせいぜい二千年前や。桁がちゃう」
「そうしたら、言伝えが間違っているってこと」
「そや。長いこと伝言ゲームしているんやで祖先も間違えるやろ」
「なるほど。話に尾ひれが付いたのかもしれないわね。流石私の弟」
「結局、手柄は姉ちゃんが持って行くんやな」
「そうじゃない。勇が居てくれなかったら私はどうなっていたことか……」茜は瞳を潤ませた。
「そやろ。しょうもない事を考えてへんで、もう寝よ」勇は鼻の下を人差指で一掻きしてから立ち上がり階段をよたよたと上った。

 朝日が砂浜を照らし冷たい潮風が馬のたてがみと茜の髪をなびかせた。潮でべっとりとしている顔と腕を茜と勇は川の水で洗い流していると桃色に染まる砂浜で忍がうずくまっていた。
「忍さんどうしたの。お腹でも痛いの」
「こんなに遠くまで追って来たのにお日様は逃げていく」砂浜に付いた忍の手は砂を強く握りしめ、肩を細かく震わせている。
「忍さん」茜は忍の肩に手を添えた。忍は半島の裏から昇るお日様に砂が付いた手を合わせて拝み目を閉じると砂浜に細い涙が落ちた。
「姫、すみません。お日様を捕まえるなんて無理だったのですね」
「やっと受け止めてくれたのね。ですから鳥居で囲い込むしかないのです」茜は南に続く海岸を指差した。
粥を流し込んでいるときに伊賀が今日中に捩じれた木に辿り着くのだと言ったことも有って馬は昨日より早足で湿った砂を蹴っていた。川が海に注ぎ込んでいるところで馬に水を飲ませる以外は昼食も取らず走り続けた。茜は両手を脇の下に入れて温めているが手綱を持ち続けている忍の手は赤くはれていた。
 伊賀が手を高く上げて馬を止めた。山の形と半島の位置を確かめて「この川だ。この川に沿って山に入るぞ」と叫んだ。伊賀は手綱を強く引き馬の鼻先を山に向けゆっくりと歩み出した。
「伊賀。少し休みましょうよ。疲れたわ」忍が珍しく弱気を吐いた。
「馬も人間も疲れている。こんな状態で敵に襲われたら逃げることもできないわ」茜は忍の意見を後押しした。
「分かった。少し上流に俺たちの小屋が有る。そこで泊まろう」
弓なりに曲がった川岸を一列になって進んだ。川の水は清らかで浅く馬でなくても渡れそうだった。弓曲がりの頂点で伊賀の馬はクルリと向きを変えて木の間から見える藁葺屋根を指差した。
「匠は小屋の修理を。若は枯れ木と水を。忍たちは夕食の準備をしてくれ。俺は海に戻る」伊賀はそう言って来た道を戻って行った。
 小屋は平地式の住居で平群の家に似ていた。しばらく使われていなかったようで屋根から奥の林が透けて見える。家の中はその隙間から舞い込んできた落ち葉が塊を作っていた。
「忍さん、私たちに手伝えることありませんか」
「そうね。先ずは掃除をしましょう。それが終われば土鍋とお椀を川に洗いに行きましょう」
 匠が骨組みだけになった屋根に枯草を括りつけていると、海から伊賀が籠を両手で抱えて戻ってきた。
「ほら、どうだ」籠の縁から赤くて細い針金のようなものが左右に動いている。伊賀はそれを掴み茜たちに突き出した。
「海老だわ。勇、伊勢海老よ」茜の声に驚いたのか勇の目の前で海老は尾を跳ねさせた。勇は後ろに仰け反り腰から砕け落ちた。
 伊賀が太刀で伊勢海老を縦に割ると殻の中から身が弾けた。指から零れ落ちた汁で頬を濡らしながらその身を口に運んだ伊賀は手に残った殻を湯が張られた土鍋に投げ込んだ。勇も伊賀から渡された半割の海老の身を咥えて喉を震わせて飲み込んだ。ざらざらとした土器のお椀の縁が唇に触れることに抵抗がまだある茜は海老のうま味が染み出た汁に尖らせた唇を入れ啜ったが勇はそんな事にはお構いなしに「美味い、美味い」を繰り返して飲んだ。茜は表情を変えず湯気の間からたくましくなった勇を眺めた。勇はこの時代でも十分に生きて行ける力があるようにも見えるが汁を一心不乱に飲む姿は母親の乳を吸う赤子にも見える。両親から勇を引き離すにはまだ幼すぎると茜は温もりの残るお椀を掌で包みながら思った。
「この川の上流に捩じれた木が有る」と伊賀に急に話しかけられ茜は現実の世界に引き戻された。
「この川を使って木を運ぶのね」川の左右には森が続き奥には夕日が滲む山影が見える。
「木をこの人数で川から離れたところまで運ぶのは難しいし海岸だと波に流されてしまう。鳥居を建てるなら海が臨めるあの辺りが良いのではないか」伊賀は川向こうの中州を太い指で差した。
「そうね。明日早起きをして日の出を見てみましょう」
「そうだな。鳥居を建てる場所を先に決めておこう」
 夕食を終え川で鍋やお椀を洗い終えた忍は勇を抱え小屋の隅で丸くなり寝ていた。匠は小屋の前で胡坐をかき右手で握った太刀を地に立ててその忍を守っていたのだが既に居眠りを始めている。太刀が音を立てて倒れる度に匠は目を見開き背筋を伸ばすのだが幾分も保てないで眠ってしまう。茜は匠の太刀が倒れないように地面に刺されたその先端を石で挟む。項垂れる匠の横顔に「ご苦労さま」と囁き匠の横に座り木の間から見える月光に輝くせせらぎを眺めた。
 勇の地図が正しければ対岸のあたりから伊勢神宮だということになるのだが、そこには森が広がっている。神社どころか田畑も家も無い。勇の言う中央構造線が松山の天然記念物のように地上に現れていたらその証拠となるのだろう。それにしても誰がその礎をいつ創ったのだろうか。茜は歴史の森に寄り添うように眠ってしまった。

 暗闇の中茜は片膝を地に付けた伊賀に頬を指先で優しく撫でられて起こされた。茜は匠の横で門番をしていたのに、どうして小屋の奥で寝ているのか理解できないでいた。
「鳥居を建てる位置を決めるのだろう。日の出を見に行くぞ」伊賀は皆を起こさないように囁いたが全員が上半身を起こした。
「伊賀。水臭いぞ」と言われた伊賀は「ならば、皆で出発だ」と言って茜の横で立ち上がった。皆も一斉に立ち上がったが茜は上半身を起こすのがやっとだった。
「姉ちゃん、行くで」十分に眠った勇は朝食前だと言うのに力強く茜の背を押した。
 生温かい風が海から吹いて来て川を駆け上る。山の上に雲が広がっていたが東の海には雲一つ無い。日の出の位置を示すように東の空に淡い光の扇が海から生えてきた。忍さんの手を借りて茜は湯気が這う馬の背に上ると視界が一気に広がった。
「よし、川を渡る。俺の後ろに続けば深みに嵌ることは無い」伊賀は背筋を伸ばして腰を浮かした。
 昨日まで透明だった川は藍色の水を運んでいる。深みがどこにあるのか見えはしない。川底の石を蹄が踏みしめる振動が馬の背骨から伝わってくるのを茜は感じていた。丸い石が集まってできた中州に上ると渥美半島を撫でるような細い雲。スチール束子に火を放ったように雲の端がチリチリと橙色の光を放ちながら燃えていた。
「もうすぐ日の出よ」茜は馬を降り、つるりとした表面の石を拾い上げた。冷えた耳たぶが温かく感じるほど石は冷たかった。
「ほら」馬の上で忍が手綱を持ったまま海を指示す。雲の穴から茜の瞳に射し込むように橙色の帯が東の海を渡った。茜はその方向に石を円錐に積み上げその頂上に掌で温めていた石を置いてから、お日様を見ながら十歩ほど後退りをしたところに石を積み上げ、その背後に立ってお日様の昇る位置とずれが無いか確かめた。
「また日の出の位置を観察するわ」茜は日様が勢いを取り戻す冬至を正確に知りたかった。
「姉ちゃん。ここは中州やないで」勇は茜に背を向け対岸を覗き込んでいた。中州は舟形になっているが川と反対の窪みは水の流れは無く空堀のように乾いている。
「海から押されて川底が盛り上がって川の流れが北へと向きを変えたんやな」勇の推理が独り言となって茜の耳に入った。
「姫。昨夜の残りなのですけどどうぞ」忍がお握りを配ってくれた。
「木はここから遠いの」茜は米粒付けたた頬を伊賀に向けた。
「そうだな。半日も有れば」
 木を切り倒すのに一日。川を下って来るのに半日とすると最短で明後日にはここに戻って来ることになる。鳥居の形に組み上げて建てるのに更に一日。茜はそんな計算をしてみた。「急ぎましょう」
「行くぞ」伊賀が先頭となり頭の上に掲げた人差指を立てた手を山に向かって振り下ろした。
 曲がりくねった川を遡ると川岸の石は大きく尖った岩が行く手を塞ぐ。伊賀は川が二股に分かれているところで一行を止めた。
「どちらに行くの」茜は伊賀に尋ねた。
「いや」伊賀は馬の上で腰を浮かして川を分断する森を睨んでいる。
「気を付けて。何かがいる」忍がそう言うと大人たちは一斉に太刀に手を添えた。木の陰で何かが動いた。枝が一斉に揺れ木の間毎に人影が並んだ。既に弓が引かれこちらを捉えていた。
「太刀から手を放せ。両手を上げるのだ」
「戦わないのか」若は伊賀に怒鳴った。
「死にたいのか、早くしろ」伊賀が怒鳴り返した。
「伊賀の言う通りにして」茜が率先して両手を高く上げると木の間からぞろぞろと弓矢を持った兵士が湧き出てきて川岸に並んだ。その先頭には太刀を広い肩に乗せた大柄の男がいる。川の流れが交わる先端の岩にその男は登りこちらを見下ろした。
「伊賀じゃないか」その声を聞いた伊賀の両肩が落ちた。
「お。もしかして伊勢か」
「そうだ。久久じゃないか。まあこちらに渡ってこい」
 伊賀がまだ弓を引いている兵士たちを指差す。
「お前ら、いつまでそんなことをしている。やつらは親戚の伊賀だ」兵士たちは不満そうに弓矢を片付け伊勢は太刀を鞘に仕舞った。
 茜たちが川を渡りきると伊勢を取り囲んでいた数名の兵士は森に消え木と木の間に丸太が渡され八角形に組まれた小屋から壺を持った女性たちが現れて茜たちがいる川岸に降りてきた。
「俺の嫁だ」伊勢は胸を張り髭面の顔から黄色い歯を覗かせた。
「お前が嫁を取ったのか」伊賀は頭を両手で掻きむしる。
「お前はまだ独り者だったな」伊勢は返事を聞かず嘲り笑った。
「俺はお前と違って忙しい」
「どうせ部落のために自分を犠牲にしているのだろう。まあ座れ」「この前は俺たちが平群に入るより少し前に出てしまったようだな。馬を走らせたが追い付けなかった。伊賀を通らなかったようだがどうやってここに辿り着いた。心配していたのだぞ」
 嫁は川原に芋を入れた落ち葉の山に火を入れ伊勢と伊賀たちはそれを取り囲むように座った。
「ああ、別の山を越えた」
「別の山だと。そんな道が有るのか」
「道は無い。そんなことよりお前がここに来るということは木か。この前木を運んだところじゃないか。洞窟でも造るつもりなのか」
「いや。洞窟でなく鳥居を造りたい」
「トリイ。なんだ、それは」
「勇、絵を頼む」
「絵と言われても、ここは石ばかりや。どこに絵を描けばええんや」
 それならと茜は首飾りを取り出し先端に付いている鳥居を伊勢に見せた。伊勢はその首飾りを見ると大きな体を震わせ「お前ら何をしている」と兵士に叫び「失礼致しました」と大声を上げ茜の前に正座して石に額を付けた。
「伊勢、大丈夫だ。安心しろ。この方は怖い方ではない」
「ではどちら様で」
「姫様だ」と忍が姫の前で仁王立ちになった。
「前から聞こう思ったのだけど、どうしてみんな私を怖がるの」茜は忍に尋ねたが伊勢が代わりに答えた。
「実はお日様が沈む地に海の品と米を交換しにでかけたのですが和珥のやつらに行く手を阻まれたのです。そこにその首飾りに似た物を掛けた男が現れ助けてくれたのです。それはものすごく強くて」
「その方のお名前は何といわれた。王と名乗らなかったかのか」忍はその方が王様であることを確かめたかった。
「分かりません。顔も見ていないのです」
「顔を見ていないだと。首飾りは見たのだろう」
「俺たちと和珥の間に立ちはだかったそのお方は頭に何かを被っておられ首飾りを背に回し太刀を構えただけで和珥のやつらは一斉に逃げました。そのお方は無言で俺たちに逃げる山を指差したのです。恥ずかしいことですが命辛々山を越え逃げてきたのでお礼もしていないのです」伊勢は更に頭を下げた。
茜には被り物をした男は助さんぐらいしか思い当たらないが、ここは王様にしておく方が無難だ「その方が王様ならば私からお礼をしておきます。私は捩じれた木でこのような鳥居を造り、この川下に建てたいだけなのです。どうか手伝っていただけないでしょうか」
 伊勢は腰を曲げたまま数歩下がってから頭を上げた。
「もちろんです。あの方の姫が困っておられるのですから」
「それは助かる。それとさっき気になったのだが兵士たちが疲れているように見えたが何か争いが有ったのか」
「争いではない。兵士たちは腹が空いているのだ。爺から分けてもらった米は山越するには重くて途中の洞窟に置いて来てしまった」
「俺たちは山に段々に切って田畑を造ってみたのだが天の神が泣かれて大雨だ。山が柔らかくなっているところに地の神が暴れられるものだから田畑は折角育った稲や野菜と共に崩れ落ちた。上手くいかないものだ。また爺のところに米を分けてもらいにいかなくてはならない。そうだ爺の孫がこんなに大きくなったぞ」そう言って伊賀は若の肩に手を置いた。
「あの洟垂れか」伊勢はそう言って腹を抱えて笑ったが、急に真面目な顔に戻り「平群に戻ったら伊勢は東の海で元気にやっておると爺に伝えてくれ」と若の目を掴むように睨んだ。
「分かりました。平群に戻るためにも鳥居を建てなくてはなりません。木の所に案内してもらえませんか」若は頭を下げた。
「姫。トリイのための特別な木を差し上げます」
「有難う御座います。鳥居が建ちましたら王様にも来ていただくことになります。そのときもどうかお手伝いください」
「良く分かりました」伊勢は茜に深々と一礼してから、ゆっくりと向きを変え「木を切るぞ」と兵士に向かって大声を張り上げた。伊勢は川向こうの山を指差し、お日様の光を跳ね返し白く輝いている川を渡り始めた。森の中から鳥が一斉に飛び立った。伊勢のその手は小刻みに震え始めた。川岸の石が軋み川は尖った波を立てだした。
「なんだ」伊勢は川の中で立っていられなくなり両腕を広げ尻が濡れない程度まで腰を下げた。茜は悲鳴を上げ勇は頭の上に掌を乗せて「地震や」と叫んだが木が磨れあう音で掻き消されてしまった。若や忍は腰を下ろし両手で川岸の岩を掴み呪文のような言葉を繰り返している。揺れは長く続いた。渓谷を唸るような地響きが反響する。目の前の山が塊となって滑り落ちてきて黄色い土砂と岩が川の水を押し出し黒い塊となって茜たちに襲い掛かった。
「森に逃げて。逃げて」茜は叫び砂利を蹴散らしながら川岸を駆け上がった。木の間に体を捻じ込み幹に抱き付いた。振り返ると馬は空に首を伸ばしもがきながら土砂と濁流に巻き込まれ代わりに濁流から飛び出した大木が岩に圧し折られる。勇の手は茜の腰を掴んでいる。その腰まで泥水が上がってきた。
「勇、木に登って」勇は茜の頭を鷲掴みにし肩に足を掛けてその上の枝に飛び付いた。勇は胸まで泥に浸かった茜に手を差し伸べた。
「姉ちゃん」「勇」小さい手は絡まったが勇の力では茜を引き上げることができなかった。茜の尻が何かに押され体が一気に持ち上がった。濁流の中から濡れた髪を額に貼り付けた忍の顔が現れた。忍は口から泥水を吐き出し「姫。登って」と叫んだ。
 茜と勇は尻を忍の頭で突き上げられてやっと腰かけられる枝まで登った。「木が」と叫んだのは別の木によじ登っていた伊賀だった。目の前を土砂に押し出され幹が捩じれた木が流されている。伊賀と伊勢は森から飛び出し岩を伝ってその木に飛び移り跨った。若と匠も後を追ったが流れが速く追いつかない。茜は登った木から手を伸ばしたが背後から忍に抱きかかけられ動けなくなった。
「姫、動いてはなりません」忍は茜の命を守ることを優先させた。
「でも、でも、でも」茜は激しく頭を左右に振った。
「流れが治まるまで待つのです」茜と勇を押さえつけている忍の手も震えていた。
 両岸の岩に木が引っ掛り、それに引き寄せられるように二本の木が重なり川を堰き止めた。飛沫を浴びながら伊賀と伊勢が木の束に登り茜に手を振っている。
「その木で鳥居を作りましょう。川岸に引き上げることができませんか」茜は匠に叫んだ。匠は木に登って幹に巻き付いていた蔦を切り落とした。岩の上で若がそれを輪にして伊賀に向けて投げた。徹が船の甲板から投げてくれた紙テープとその軌跡が茜の瞳には重なって見えた。頭上に上げた伊賀の腕に蔓の輪が刺さり枝に蔓の端を絡め残った蔓の輪を岩の上に投げ返した。伊賀が手を振ると若と匠は手首に巻きつけた蔓を引いた。木は岩から離れ先端で川岸の石を掻き分けて止まった。川は音を立て溜まっていた土砂を押し流したが上流からまた木を運んできて直ぐに新たなダムを造ってしまった。
 茜たちは木を降り川岸に引き上げた捩じれた木の幹に触れた。
「匠さん、これで筏が作れないかな」茜にそう言われた匠は腰に差していた太刀を抜いてまた森に入っていった。暫くすると匠は蔓を肩から斜めに掛け蔓の端を引き摺りながら戻ってきた。
「これで木を結ぶぞ」匠は蔓を肩から外し若の前に下ろしてから、鋭い風切音を立てて太刀を頭上で回し木の枝と根の端を次々と切り落とした。伊勢と伊賀は並べた三本の木を押さえ匠と若が蔓で木の所々を蔓で縛りあげる。筏の上には太い枝が数本投げ込まれた。
「姫、勇、筏に乗ってその枝で川底を押してください」茜と勇が筏に乗ると大人たちは一斉に筏を川に向かって押し筏が流れに誘われると皆が飛沫をあげて次々とその上に飛び乗った。
「よしこれで海に行けます」匠が東を指差した。筏は渦を切り分け川の中央を迷うことなく流れ落ちていく。漕ぐ必要などなかった。 これが家族で楽しむ保津川の川下りならなんと幸せなことだろうか。茜は両親の顔を飛沫が上がる水面に思い映した。
「おい、中州だ」鳥居を建てようとしていた川岸は泥水に囲まれた中州になっていた。
「右に向きを変えますぞ。左を突いて」一斉に川底の砂利を枝で突いたが筏の向きは変わらない。筏は中州の直前で左に向きを変えた。筏がバリバリと音を立て震え中州を巻き込むように向きを変え砂利に乗り上げた。その衝撃で全員が川に投げ出されてしまった。
茜と勇は土色の泡のなかで揉まれているところを忍と若に助けられ中州に引き上げられた。茜は川の水を飲み咳き込んでいる。
「姫。大丈夫ですか」
「大丈夫です。それよりも筏が流されていく」茜は流れに引き込まれようとしている筏を指差した。大人たちはもう一度川に入り筏を中州に引き上げ丸い小石の上で仰向けに転がって息を弾ませた。
「残ったのは木だけですな」匠が青い空に向かって言った。
平群に戻るために大切な馬も食料も全て流されたことに茜はやっと気が付き心の底から溜息を吐いた。
「誰も怪我をしなかっただけでも儲けだ。俺たちには足が有る。何とかなる」伊賀は青空にそう返した。
 薬も無く手術もできないこの時代に大怪我をすることは死を意味する。茜は伊賀の言うように生き延びることができたのだから「そうよ。みんな儲けよ」と青空に向かって叫んだ。
「姉ちゃん。雨雲の塊やないか」黒く厚い雲が山に突き刺さり天気の急変を告げていた。
「川が増水するわ。みんな急ぎましょう」全員が立ち上がった。
「急きたいですが馬を失ってどうやって鳥居を建てるのですか」と困惑してい匠を勇は広げた手で制しながら頭の中で図鑑を捲るとエジプトの労働者がオベリスクを人力で立ている絵が浮かんだ。
「まず極力深い穴を二つ掘ってやな。穴に入る大きさの石を木の端に蔦で縛りつけるやろ。それを穴に落とせば勝手に柱が立つやろ」
「流石、勇。でも笠木はどうやって付けるのよ」
「笠木ってなんや」
「柱と柱の間に渡す木のことよ」茜は空中に鳥居の絵を描いた。
「あれか。道具が無いから柱に穴をあけることもでけへんし」
「それならば枝が有った所に木を嵌め込んで蔦で縛るのはどうだろうか」匠の提案だった。
「格好は悪いけど時間が無いわ。それで行きましょう」茜と勇は日の出の位置を印した石と直角に小石を積み歩幅で穴の位置を測り円形に石を取り除いた。匠と若が穴の位置に合わせ柱になる木を平行に並べて寝かせ笠木と石を蔓で縛り上げた。伊賀と伊勢は勇がすっぽり入る程の深さまで穴を掘った。忍はすっかり水位が下がってしまった川を一人で渡り小屋に残していた米を洗っている。
「よし、鳥居を建てるぞ」男たちは柱に括り付けた蔓を引っ張った。先端の石が穴に差し掛かると鳥居は軋み地を揺らして跳ねるように立ち上がった。
「忍さん。鳥居は真直ぐに立っていますか」茜は対岸の忍に尋ねると、忍は上半身を左に傾けた。
「左に倒れているみたい」男たちが鳥居を押し戻し茜と勇は小石を柱と穴の隙間に押し込み鳥居を固定した。茜は男たちに混ざって両手を高く上げ鳥居の下で跳び撥ねた。
「明朝、お日様が鳥居に納まるかを確かめましょう」鳥居を建てたことで忍が背負っていた重い任務は半減しただろうし無用な争いを避けることもできた。若は平群に飛んで帰って爺に、忍は王様に報告したいのだろうと茜は思った。
「馬を失ってしまったけど、どうやって帰りますか」茜は若に尋ねると若は鳥居の下に胡坐を組み額に手を当て考え込んでしまった。
「遠回りだが行き来た道を戻って俺の部落に泊まれば良い。ここから山を越え平群に出る真面な道は無いだろう」伊賀は若を納得させようと力強く話した。
「歩いて伊賀の部落に行くのはどれくらいかかる」
「部落に辿り着くのに早くて四日、その内三日間は野宿になるが海で魚も獲れるし川の水も有る」
「そうね。そうしましょう」
「ならば急いだ方が良い。山で雪が積ったら動けなくなる」
「明日、日の出を確認したらすぐに出発ね。疲れているでしょうが支度をお願いします」茜は若に頭を下げた。
「よし」と若が声を上げると、森の中が騒がしくなり数えきれないほど沢山の黒い鳥が一斉に飛び立った。笠木を縛った蔓の端が左右に揺れ中州の小石がガサガサと打音を放ち始めた。
「地震よ。鳥居から離れて」中州の上でできることは低い姿勢になり鳥居が倒れないことを祈るくらいしかない。
「また地震。どうなっているの」茜は勇に向かって叫んだ。
「余震やで」勇の言葉を打ち消すように大地は大きく揺れ始め笠木がけん玉のように飛び跳ねた。
「本震や――長い。神様勘弁してくれや」勇の声は涙声に変わった。
「団子虫よ。団子虫になって」茜は背を丸くして中州の小石を両手で握ることが精一杯で勇にそう叫ぶしかなかった。
 長い揺れが治まり茜は勇に駆け寄った。勇は後頭部を両手で守り団子虫の姿のままで震えている。
「勇、治まったわ」茜は勇の背中を叩いた。中州は砂煙に包まれていた。空を見上げてもお日様が満月のように見えるだけだった。
「姫。姫」忍は水飛沫を上げて川を渡ってきて砂煙の中から見つけた茜の体を強く抱きしめた。茜の両肩を持って突き放し全身を見回してから「痛いところはありませんか。歩けますか」と騒ぎ立てた。
「私は無事です。忍さんは怪我をしていない」
「大丈夫です。皆は」
「俺は大丈夫だ」鳥居の影が見え隠れしている煙の中から若の声。鳥居の柱に若と匠がしがみ付いているのが茜と忍には見えた。
「鳥居が倒れたら危ないじゃない」
「折角苦労して建てたのですよ。俺たちは命懸けで守ります」若は茜に微笑んで埃まみれの額を腕で拭った。
「駄目です。鳥居は造りなおせますが人は死んだら終わりです」茜は唇を強く噛んだ。
「姫。怪我をしなかったのですから勘弁してあげてください。鳥居も無事でしたから私たちは姫を平群に送り届けなければなりません」
「そうだな」男たちはつぎつぎと立ち上がった。砂埃は海からの風で山に流されていき次第に視界が広がった。
「おい。小屋が無いぞ」木の間から覗いていた屋根は無く木の根元に丸太が折り重なって倒れていた。
「倒壊したのか。今晩から野宿になるな」肩を寄せ合わないと横になれないほど狭かったが寒さを凌いでくれる大切な小屋だった。
「匠、小屋を建てなおすことはできませんか」
「できないことはありませんが数日かかります。取合えず片付けから始めますよ」
「皆さん、手伝ってください」茜は男たちに頭を下げた。
「姉ちゃん、何か変や」
「私の何が変なのよ」
「そうやなくて、海を見てくれや」勇は鳥居の下からお日様が上がる方角を指差した。水平線が白く盛り上がっていた。その帯が河口に入ると更に高さを増しながら白から灰色に色を変えていく。波が川岸の林をなぎ倒して近づいてくる。茜は目を細めた。
「津波」どうして直ぐに逃げなかったのか。
「ツナミって」忍が茜に尋ねた。
「波の大きな奴や」勇が声を出せないでいる茜の代わりに答えた。
「逃げて、高いところに逃げて」と茜は声を振り絞ったが砂を巻き込んだ波は更に高さを増し目の前に迫っていた。
「間に合わない。匠、太刀をその小石の塊に刺せ」忍は大声を上げた。茜がお日様の向きを示すために小石を積み上げて作った円錐の山は地震で壊れ小石の塊になっていた。匠は両手で太刀を頭上まで持ち上げ、その塊に向けて振り下ろす。刃を波に向けた太刀は小石を弾き飛ばし地に刺さった。
「皆、匠を後ろから支えて。姫は私に掴まって」匠を若が、若を伊賀が、伊賀を伊勢が、忍は茜と勇を伊勢の背と胸の間に挟み伊勢の肩にしがみ付いた。
「無理よ」茜は伊勢の背に向かって叫んだ。
「諦めないで」忍の声は波の砕け落ちる音に掻き消された。
「姉ちゃん。大変や」
「勇、大変なのは分かっている。しっかり掴まって」
「ちゃうちゃう。後ろを見て」茜が忍の胸の下から頭を出し振り返ると丸太を巻き込んだ黄土色の波が壁となって迫っていた。揺れに耐えきれず自然にできたダムが決壊したのだと茜は思った。
「太刀を」茜は忍の腰から太刀を抜きお日様と反対側の石の塊に向かって走った。「姫」忍の制止は茜には届かない。勇も茜の後を追った。茜と勇は刃を土石流に向け頭上から振り下ろした。釼先は石に跳ね除けられて刺さらない。
「姫。持ち上げて」忍が太刀を持った二人の手を両手で握り再度振り上げ体重を太刀に預け振り下ろした。太刀は表面の石を押し除け地に刺さった。背後から男たちの悲鳴が聞こえた。振り返ると鳥居の高さ程ある灰色の波が男たちの支えている太刀に食い込み左右に切り裂かれていく。忍の頬が茜の頭に押し付けられた。茜の目の前は土色の水壁。忍の手に力が入る。土色の壁はその太刀に切り裂かれ鳥居を駆け上がり海から来た灰色の波と鳥居の真上で繋がって空に浮かぶ水の小舟を模ってから飛沫を天に放った。

 茜は鳥居の下で仰向けになって空を見上げていた。二色の飛沫に差し込む黄色い光が晴天の空の下で乱反射し雨上がりの紫陽花が鳥居の上で咲いたように見えた。
「冷たい」勇の声。勇が額を掌で拭いていた。笠木から水の塊がつぎつぎと茜の顔にも落ちてきた。
「助かったよ。助かった」男たちは鳥居の下で仰向けのまま両手両足を天に向けてバタつかせ大の字となって声を出して笑った。
 茜は周囲を見渡した。助かったのは中州に居た私たちと鳥居だけで倒壊していた小屋や食料を入れていた籠や壺も海からの風を避けるように傾いて立っていた林も根こそぎ海に流されて消えていた。
 もうここに留まっている理由は無くなった。いや留まっていてはいけない。康介叔父さんの話しだと津波は何度も押しよせてくる。茜は飛び起きた。
「海岸線を戻って俺の部落に向かおう」伊賀が左手を肩の高さに上げ海岸線を差した。
「駄目。絶対駄目。もっと大きな波が来るのよ。海や川から離れて少しでも高い山に急いで逃げるの」
 首を傾げている忍に茜は「命令よ」と強い口調で言った。
「姫。ならばあの山の峰に上がりましょう。登るのは大変ですが峰を伝って山を越せば波に飲まれることはありません」
「それに俺の部落にも向かうことができます」と伊勢が忍と茜の間に入って進言した。茜が頷くと全員が山に向かって駆け出した。話をする者はいなかった。誰もが駆けることに必死だった。茜は死んでなるものかと心の奥で考えながらただ走った。
 山の中に張り出した岩の上で伊勢と伊賀は立ち止まり振り返る。忍たちが遅れている。若と匠は岩の上で仰向けになり肩で息をしていた。伊賀は太刀を岩の上に置き昇ってきた坂を駆け下りた。膝を手で押し斜面を登っている茜と勇の背中を忍は押していた。鍛えられた忍でも二人を抱えこの山を登るのは難しかった。
「怪我は無いか」駆け下りてきた伊賀が忍に尋ねた。
「姫たちは山を登るのが苦手のようで」
「よし、俺の肩に乗れ」伊賀は地に片膝を落として戸惑う勇を左肩に乗せてから茜の太腿に太い手を回し込み肩まで持ち上げた「あの岩まで登るぞ。忍は大丈夫か」忍は大きく頷いた。
 岩の上から見降ろすと山を押さえつけていた雨雲が川に沿って流れてきて中州の辺りで切り裂かれて散り散りになり海に溶けていく。
その海は沖から膨らみ、その先端は魚を追い込むように白い波の帯となり伊勢湾を北上し青く澄んでいた湾と半島を飲み込んでいく。
「姉ちゃん。名古屋が津波に襲われてしまう」
「――私たちにはどうしようもないわ」
勇は頬に両手を当て「逃げろ。高いところに逃げろ」叫んだ。
「きっと名古屋の街はまだ無いわ。無いと思わないとやっていられない」茜は目を閉じ海に向かって手を合わせた。茜が目を開けると大人たちも海に向かって手を合わせていた。
「伊勢の家族が心配よ。尾根伝いに伊勢の部落に向かいましょう」
「そうしてもらえたら助かる」伊勢が頭を下げた。
伊賀は伊勢の肩を叩き「よし行くぞ」と気合を入れた途端。山が唸り出して岩がビリビリと音を立て震えた。
「地震よ。岩から離れて。山に上がって」茜は勇の手を引いて岩を蹴り土がむき出しになっている山に飛び移った。茜の判断は正しかった。山肌にひびが入りそこから水が吹き出す。茜たちが座っていた岩は木の根を切り裂き土煙を巻き上げながら谷底に落ち山全体を突き返す揺れと鈍い音が足の裏から伝わってきた。
 茜と勇は岩が落ち崖となった縁まで這っていき目だけを崖から出して谷底を見下ろした。岩は中州の上流で割れ川の流れを変えた。
「自然と戦ってはいけないわね。寄り添いましょう」茜は勇の肩を叩いて立ち上がった。
伊勢が太刀で木の枝を切り落としながら道を造っていたが、その足が急に止まった。伊勢が崖下を覗きこんでいる。伊賀が伊勢に駆け寄ると二人は膝と太刀を草の上に落とし呻き声を漏らした。伊勢の部落が有った森は津波に襲われ抉られていた。
「伊勢の家族が――」茜は木の間から灰色の天を見上げた。物静かな奥さんの顔を思い浮かぶ。自然と涙が零れ落ちた。
「おい。あれは」若が対面の山頂を指差した。山頂から一筋の白い煙が上がっている。
「もしかしたら」伊勢は太刀を杖にし立ち上がり、その山に向かって叫んだが川に沿って流れる風に巻き込まれ流されてしまった。
「よし、あそこに向かうぞ」伊賀は伊勢の背中を叩いた。峰を下り川岸に降りると山が崩落し深く抉れた崖と波で引き千切られた森に取り囲まれた。部落がどこに有ったのかさえ分からないほど地形が変わっていた。自然の力に人間が勝てるわけがない。体の中の震えを抑えるために茜は震える手を胸の首飾りに押し当てた。
伊勢は上流から流れてきて川を堰き止めている木に登った。
「また山が崩れるかもしれない。急いで川を渡ろう」伊勢は木を渡りながら邪魔になる枝を切り落とす。匠が最後に対岸に渡り着いたとき、また地面が震えた。
「早く山に登れ」波に削られて土がむき出しになった崖を無我夢中でよじ登る。男たちでさえ崖の上で仰向けに倒れ込むほどだった。
「みんな。もっと上に――。ここで諦めないで」顔に付いた泥を茜は手で振り落とし目を吊り上げ息を弾ませて言った。木の間の腐葉土に爪先を差し込み這うような姿で登るしかない。男も女も大人も子供も関係なく自力で登るしかなかった。頂上まで上り詰めると木が円形に伐り倒された小さな広場。その奥には木の間に造られた八角形の小屋。広場の中央で炎を取り囲む人影があったが皆はそんなことを気にもせず広場の端で大の字になって倒れた。
「あなた」一人の女性が伊勢の分厚い胸に覆いかぶさった。
「無事だったのですね」伊勢の貫頭衣を握り締め左右に揺らした。
「お前も無事だったか」その女性は伊勢の妻だった。伊勢は妻の背に手を回し「部落の者は皆無事か」と尋ねたが妻は首を横に振る。
「崖の崩落で川が堰き止められてできた池の水を男たちが抜こうと迂回路を掘っているときに地が揺れて堰が壊れ濁流に巻き込まれてしまったのです」岩に額を当てて泣き崩れる女性を妻は指差した。伊勢は起き上がり足を引きずりながらその岩に向かった。
「伊勢さま。主人は下流に流れ着かなかったでしょうか」伊勢は重たい首を横に振り「申し訳ない」と言って頭を下げた。
「元を言えば私が伊勢に無理をお願いしたからです」茜は直立しその女性に頭を下げた。
「こちらは」泣いていた女は不審そうに茜の顔を見た。
「姫さまだ」
「もしかして私たちを滅ぼしに来たのではないですか」女は鋭い目で茜を睨み、その目で伊勢に何かを訴えた。
「いや。お日様を捕らえに来られただけだ。我々に危害を与えないと約束していただいている。それに決壊したのは地が揺れたためだ。姫を恨んではならぬ」伊勢は私を信じるようにとその女性に向かい瞼をゆっくりと下ろし頭を下げた。
「頻繁に地の神が騒いおります。海岸を進むと大波に襲われますし山も岩が落ちてくるかも知れません。何よりも雪が積れば命を落としかねません。お急ぎでなければ春までここで過ごされたらいかがでしょうか」伊勢の妻は伊勢と女の間に入って茜に話した。
「有難うございます。山を越え平群に通ずる道が有るのでしょうか」茜は振り返り重なる山の波を見上げた。
「ひたすらお日様の沈む方角に向かえば平群に辿り着くと思うのですが道も部落も有りません」伊勢が妻に変わって説明した。
「伊勢は道が無くても平群からここに辿り着けたのですよね」
「私たちが逃げてきたときは、まだ雪が降らない暖かいときです。鹿が獲れましたし木の実や茸が食べられましたからね」
 伊勢の言うことはもっともだった。少なくても四日間は山の中で飲み食いしないといけない。山の恐ろしさを知らない偽の姫がこの人たちをこれ以上危険にさらして良いのだろうか。茜は頭を抱えた。
「ここで冬を越すような暇は有りません。一日でも早く戻って和珥から平群を守らないとなりません」忍が腰を下げ訴えた。
「米が獲れ雪が積る前のこの季節に奴らは冬を越す為の米を狙って攻めてくるのです。伊勢を追いやる程の勢力のようですから兵士を纏め指示を出すことができる忍と私が平群に居ないのは痛手でなのです」若が忍に並んで茜の瞳を掴むように見上げた。
「伊賀も山越の道は知らないのですよね」
「我が部落を抜ける道しか知りません。だからと言って部落まで戻っていると間に合わなくなります。この山を越えるしか有りません」
「地図を描いてちょうだい」茜は勇に落ちていた小石を手渡した。勇はその場にしゃがんで土の上に舌の形をした紀伊半島を描いた。
「ここが今いるところ。川はこんな感じに左右に分かれていて――」
「平群はどこなの」
「きっと、奈良盆地はここらかな」勇は舌の付け根に楕円を描きその左下に小石を突き差した。
「こんなに離れているの」茜は肩を落とした。
「伊勢の言う通り西に向かえば平群に辿り着くと思うけど山や谷を上り下りしていると方向感覚を失ってしまうで」
「お日様はどちらを通るのかな」伊賀の問いに対し勇が地図に半円を描き加えた。
「お日様が昇るところがここ。沈むのがここらへん」
「そんなことまで分かるのか」若は勇の頭を優しく摩った。
「ならば俺に任せておけ、お日様を見ながら山を歩くのは慣れている」伊賀は勇が描いた地図の前に立ち両腕を真横に伸ばしてから左手をお日様が一番高くなる南に向きを変えて右手で西を指差した。
「こちらに向かって山を越えていけば平群に辿り着けるのだな」
「そうや。間違いあらへん」
「勇の地図を信じよう」伊賀は南に向けていた左手で地図に向けた。
「姫。あの山の西に狩りをするために作った小屋が有るのですが、そこまででしたら案内いたします」
「有り難うございます。奥さん伊勢をお借りしても大丈夫ですか」
「皆さんは無理をしても山を越え平群を守りたいのですね。少ししか有りませんが」伊勢の奥さんはどんぐりの入った袋を忍に渡した。
「明朝。ここを出発してあの山を越えます」灰色の雲から透けて見える沈みゆくお日様を頭に乗せた山を茜は指差した。

 伊勢の奥さんが貴重な米で作ってくれたお握りを茜と勇は川原の岩に腰かけて食べていた。風も無くお日様が届くところならば座っていても暖かい。森の中で伊勢が木を指差し匠に何かを教えてから川原に戻ってきた。
「何を話していたのですか」
「小屋の作り方です。もう少し歩けばこの前建てた小屋に辿り着きますが小屋は一軒だけで三人しか眠ることはできません。それで匠に教えていたのです」
「一晩くらい小屋が無くても大丈夫ですよ」若が笑いながら言った。
「冬の山をみくびってはなりません。急に雪が降ってくることも有ります。それに一番大切なのは先を進めなくなったときは躊躇なく引き返すために戻る場所が必要なのです」
「それベースキャンプやな」勇の言葉に皆は「なるほど」と頷いた。
 川に沿って更に登り川が沢になったところ辺りで伊勢は森の中に入っていく。伊勢は立ち止まり木の間から零れてくる青空を見上げ、ここが寝床だと屋根の落ちた八本の木を指示した。
「仕方がない。二軒作るぞ」匠は口を一文字に閉め若の肩に乗り両側の木の枝に体重をかけてしならせ枝が重ね合ったところで左右の枝を蔓で縛った。それを繰り返し八角形の梁を作った。切り落とした枝を梁に渡して屋根に、梁に枝を立て掛けると壁となった。匠は八本の木の根元に蔓を二重に巻き立て掛けた枝をその間に挟んで壁を固定していく。勇が壁の下の土を掘ると出入口となった。現代で言うテントのような小屋があっと言う間に仕上った。壁となった枝の隙間から光が差し込んできているがこの時期の屋根や壁は生き抜くための盾のようなもの。茜はこの小屋が誇らしく思えた。
「姫。床が平らになるように掘っていただけないでしょうか」
 茜は湿った腐葉土を手で掻き出し出入口から外に投げ捨てる。
「姉ちゃん。これを中に敷いてくれや」勇は乾いた落ち葉を出入口から押し込んできた。それは敷布団のように柔らかく温かい。その上で両手を広げ寝転ぶと家族と徹とで寝た二等客室が思い浮かぶ。
茜が小屋から顔を出すと忍は小屋の外に穴を掘りその中で火を起こしていた。若はその横で兎を絞めようとしている。茜は目を瞑って耳を両手で塞いだが押し潰した音が掌を通り抜け聞こえてきた。
「姉ちゃん、どうした」
「勇は何とも感じないの」茜は赤い血で染まった忍の手を指差した。
「可哀そうやけど食べないと僕たちが死んでまうやろ」
「そうだけど。そんなことは判っているけど。でも」
「生きるということはそう言うことや。だから食べるときに手を合わせるのと違うんか」それは正しいと茜も思っている。弟にそれを教わっている悔しさも少しあるが、それが肉になってしまうと美味しいと言って食べてしまう自分自身が一番恐ろしくてならなかった。
 辺りが薄明るくなると忍は火を起こし昨夜残しておいた串に刺している兎の肉を炙りだした。海や川から離れると野生の動物を食べるしかなくなるしその動物でさえ更に寒くなれば獲ることが難しくなる。早く平群に辿り着かないとならない。茜は焦っていた。

「姫、お早う御座います」
「お早う御座います。忍はいつも朝早いですね」
「私の仕事ですから。これからしばらく山の中を歩くことになりますので残り物ですがしっかりと食べてくださいね」忍が肉を茜に渡そうと串に手を伸ばしたときに周囲の木の枝が上下に揺れて草が左右に波打つ。忍は腰の太刀に手を掛けて腰を落とし身構えた。冬眠の前に餌を探す熊かもしれない。茜と勇は忍の背に身を隠した。草むらから燃え尽きた松明を持った伊勢が現れた。
「姫。そろそろ私は部落に戻ります」伊勢は寝ずに火の番をしてくれていて兎のように赤い目をしていた。
「案内をしていただき有難うございました。伊勢に一つお願いがあります」茜は腰を落としたままの忍の前に出た。
「なんなりと」
「朝日が河口の鳥居に納まるか観て欲しいのです」
「分かりました。王様がいつ来ていただいても良いように鳥居近くの丘に丈夫な家も建てておきます。ご安心ください」
また、草が波立った。草の狭間から顔を出したのは伊賀だった。
伊勢は伊賀に分厚い胸を近づけ「帰らねばならん。姫を頼む」と言い残して踵を返し忍に目で合図を残してから草むらに姿を消した。

 お日様が西に傾き始めた頃に茜は忍が今朝しっかりと食べておくようにと言っていた意味を体感することになった。動物を仕留めることができず岩肌に流れる湧水を舐めて飲んだだけだった。茜と勇の脚は既に悲鳴を上げている「勇。歩ける」茜は勇に向かって自分に問い掛けるように言った。
「大丈夫や。姉ちゃんこそ歩くのが遅くなったんやないか」山越を決めたのは自分なのに弟に弱音を上げることはできない。茜は笑顔を作り返した。
「川が見えたぞ」力を失ったお日様の赤い光が岩肌を流れる水に反射し森の血管のように見えている。
「川岸にでたら小屋作りだ」伊賀が明るい声を放ち大股で山を下る。
 川は岩に囲まれ、空を見上げると赤く焼けた雲が山と山の間に掛かる太鼓橋のようだ。小屋を造ると息巻いていた伊賀が道を切り開いていた太刀を投げ出し川岸の岩の上で仰向けになって倒れ込んだ。
川魚を焼いた香ばしい空気が鼻孔をくすぐる。食べた全てが茜の体に吸い込まれ肉や血になっていくのが分かった。
「伊賀。平群まで後何日ぐらいかかるの」伊賀は首を傾げ「行ってみないと分からない。ただ方角は誤ってはいない」と言ってお日様が真南に上がったときに手を広げ方角を確認する仕草をした。
「姉ちゃん。焦ってもかかるもんはかかるんや」勇は魚の骨を川岸に穴を掘って埋め手を合わせた。
「道を造りながら進むしかないのだから焦っちゃ駄目よね」闇が空から降りて来て松明の炎が川原を浮かび上がらせた。また長い夜が茜と勇を包んだ。夜の楽しみは岩の上に座って星を見上げること。茜は天の川の横にある宇宙の小さな暗闇を捜した。
「綺麗ね。徹も見ているかしら」
「見ていたとしても時代がちゃうから同じ星やないやろ」
「そんなことを言っていると女の子に嫌われるわよ」
「そんなもんなんか。なら何て言えばええんや」
「そうね。話を合わせてロマンチックなことでも話せば良いのよ。テストの答えじゃないのだから正解なんてないわ」
「男同士やったら、あの星に生物はいるんやないかとか、兄貴は杭を打ち続けなくても良いんやないかとかを話するんやけどな」
「ちょっと待って。徹が杭を打たなくても良いってどういうこと」
「兄貴の祖先が鳥居を建てたら地面が割れて中央構造線になったと言っていたんやろう。でも中央構造線ができたのはもっと昔のことやったし、鳥居を建てたときに偶然に起きたのは海底の地震やったんや。津波が来たんやから間違いない。ようするに中央構造線が割れた訳ではないと言うことやな。そやから兄貴は断層に杭を打ち続ける必要なんかないんや」勇は畳み掛けるように話した。
「ね。と言うことは、徹の祖先がここに居るってことよね」
「なんでそうなるんや」
「鳥居を建てた時に地震と津波に襲われたのよ。それを知っているってことは私たちの中に徹の祖先になる人がいるってことじゃない」
「そうなるのか」勇は首を傾げ半信半疑のまま答えた。
「でも、井原っていう苗字の人はいないし」
「そら姉ちゃんが名前を勝手に付けてしまったからやないか」
「そうか。でもなんとか伝えたいのよ。鳥居を建てたから地面が割れた訳じゃないってことを」
「ならば、ここにいる全員にそれを説明するしかあらへんな」
「偉い。それが良いわ。そうしましょう」茜は尻に付いた砂を両手で払い落として立ち上がった。
「みんな起きて」茜は小屋の入口から頭を差し込んで叫んだ。
「熊か」若が飛び起きた。その声に驚いた伊賀と匠は枕元に置いていた太刀を握った。忍は隣の小屋から飛び出してきて茜を背中から抱いたまま男たちの小屋の中に飛び込んだ。
「そうじゃないの。大切な話があるの」皆は姫の前に座った。
「姫、大切なお話って何ですか」
「ときどき大地が揺れているでしょう。あれは地震と言うの」
「知っていますよ。神様が怒っておられるのですよね」匠が手を磨り合わせ地面に向かって拝んだ。
「地震は神様が揺らしているわけではないの」
「ならば、誰が大地を揺らしているのですか。そんなことができるのは大地の神様しかおられません」
「大地に神様はいないの」茜は髪を掻き乱した。
 勇が掌を顔の前で左右に振りながら「大地の神様はおられるんやけど神様が怒ったわけではないんや。海底の大地が深い溝に沈み込んでいくときに陸の大地を巻き込んでいくんや。我慢できなくなったとき陸の大地が弾けて揺れるんや」
「大地の神様が怒って大地を蹴飛ばしたと言うわけか。なるほど」
「ちゃうちゃう。大地に神様はいないんやってば」今度は勇が髪を掻き乱した。
「我々は神様に生かされているのだ。大人をからかうものじゃない」
「からかってなんかいません。でしたら、これだけは信じてください。地面が揺れたり割れたりすることも、海からの大波もいずれ繰り返されます。地震でできた亀裂に杭を打とうが地震を人間には止めることができないのです。どうすれば生き延びることができるのかいつも考え続けて欲しいのです」茜はそう力説した。
「姫。俺たちはどうやって生き延びるかだけをいつも考えています。神様のなされることに逆らうなんて馬鹿のすることです」若がそう言うと皆がそうだと繰り返した。この時代の人は神という自然を恐れ、逆らうことなく上手くやり過ごす術を身に付けている。茜は川の堤防造りを教えてしまったことを悔やんだ。堤防ができたことで水害の恐れを忘れてしまい反対に甚大な被害を受けてしまうのではないのだろうか。茜は徹への伝言など忘れてしまい、何をこの時代に残せば良いのかを考え込んでしまった。
「姫。私たちが鳥居を建てたことが地や海の神様の逆鱗に触れたのではないのですか」今まで静かに話を聞いて居た忍が発言した。
「そうだよ。鳥居を建てた途端にドカンだったぞ。神様の嫌がるところに鳥居を差し込んでしまったのではないか」
「それが違うのです。たまたまなのです」
「それでも神様は大きな波を起こし、山の大きな岩を落として俺たちを殺そうとされたのではないか」
「そうだ。俺たちはあの鳥居まで戻って神様に謝らないといけないのではないか」「鳥居を抜いて穴を埋めないとならないぞ」
 茜は掌を上に向け両手を横に広げていた。
「――分かりました。私が王様に謝ってもらうように頼みます」
「そりゃあ、俺たちよりは王様が謝ってくれた方が神様も納得してくれるだろう」
「そうだな。ならば明日も早いから早く寝よう」男たちはぞろぞろと小屋の中の落葉に体を預けた。自分の小屋に戻ろうとしている忍に茜は声を掛けた。
「忍さん。鳥居を建てたことが神様を怒らせたわけではないことだけは判ってくださいね」忍は小さく頷いて小屋を出て行った。
「時代を越えて話をするのは難しいんやな。兄貴を助ける方法はきっと他に有る。元気出せや」勇は茜の肩を掴み優しく揺さぶった。

 茜は昨夜のことで眠れず水を飲むために川岸に降りると、まだ日が昇らないうちから伊賀は河原の大きな岩の上に立っていた。今朝は灰色の分厚い雲が山の頂上を押し潰すように広がっていた。茜は伊賀に朝の挨拶を投げかけたのだが、伊賀は「お早うございます。高いところから失礼致します」と周囲を見ながら答えた。
「何をしているのですか」
「お日様が上がる方向を探しているのです」
「平群の方角を確かめているのですね。でも曇っていますからお日様は見られませんよ」
「まあそうなのですが、この川を上るべきか下るべきかを決めようと思いまして。山を突っ切ってここまで来てしまったので、分水嶺が分からないのです。この流れの向きが鳥居なのか平群なのか」
「源水に辿り着いたのですから分水嶺は越えたのではないのですか」
「いや。山頂では川は四方八方に流れ落ちているので、源水を越えたからといって川の流れが反対側に流れるとは限らないのです」
「分からなければ西に向かって山を突っ切るしかないのですか」
「もうそれは限界でしょう。遠回りになっても川沿いを歩く方が楽ですので」伊賀は皆の疲れが限界に達していることを考慮し進む方角を決めていた。
「今日の天気だとお日様を見つけることは難しそうです。勇の地図にこの川が有れば良いのですが」
「それは無理です。生駒山の周辺ならば覚えていると思いますが」
「そうですか。ならば先を調べて来ますので、皆を休ませておいてください」伊賀はそう言い残し川を下った。
 茜は残った人に事情を説明し体を休めるように話したが、ごろごろしている者は誰一人居なかった。若は逃げる魚と一緒になって川で水飛沫を上げているし、忍は山の中で茸や木の実を探し、匠は蔓で籠を編んでいる。勇は体力を温存しろと作業に加えさせてもらえず川岸で頬を膨らませていた。
「姉ちゃん。僕たちにしかできひんことがあると思うんや」
「そうね。山で生き抜く技は私たちには無いから別のことをしなくてはね」二人は乳白色の筋となって流れる川の水を眺めていた。
「兄貴に杭は打たないで良いと伝えることができひんかな」
「無理よ。徹が生まれるのは二千年ぐらい先の話しなのよ」
「そやけど。ここに来ることになったきっかけは兄貴やし。それを分かってくれるのも兄貴しかおらへん。上手くすれば僕たちを助けてくれるかもしれんやん」
「勇は楽天家でいいわね」茜は唇の隙間から尖らせた舌を出した。
「おーい。伊賀が手を振っているぞ」川の中で若が川下を指差してから、伊賀に大きく手を振り返した。
「俺たちを下って来いと呼んでいる。みんな、荷物を纏めろ」
「匠。杖になる枝を姫と勇にやってくれ」
「僕たちは年寄りやないんや。杖なんかいらへんで」
「阿保。滑る川岸を下るときは杖が有ると楽なのだ」勇は匠から渡された木の枝をしっかりと握り川岸の砂利を数回突いてみた。杖は軽いのに折れることはなく尖ったその先端は砂利の隙間をとらえた。
「匠、有り難う」匠は嬉しそうに目尻を下げて微笑んだ。
「川下に向かうと言うことは、この川は奈良を通り和歌山か大阪に流れていることになるのか」勇はぼそりと独り言を言った。
「そしたら、平群が近いってことよね」
「まあ、そうやと思うけど」勇は不安に満ちた顔を隠さなかった。茜は首を垂れる稲が金色に輝き広がる奈良盆地を想像し、砂利に足の裏を貼り付けるように慎重に一歩を踏み出した。
 川が大きく左に曲がるところで伊賀が待っていた。伊賀は河原の岩に太刀の先端を突き立て何かを刻んでいる。直線の割れ目が走っている岩には幾重にも重なる山とそれを縫うように流れる川、山の中腹には八本の木、左端には鳥居と海が刻まれていた。
「地図ね」
「勇が描いていた地図を真似させてもらった。王様をお連れするときにこれが道しるべとなります」
「ここが昨夜泊まったところね」茜は絵の凸凹を指先で触った。
「平群は鳥居と反対側ね」茜は右手を伸ばし川下を指示した。
「その可能性が高い」
「もしかしたら間違っていることも有るわけ」伊賀は小さく頷いた。
「川が二つ曲がる先まで見てきましたが、川は急に向きを変えることがあります本当に正しいかは行ってみないと分からないのです」
 伊賀の話しは勇の話しとそんなに差はなかった。
「姉ちゃん、仕方あらへん。そうやって新しい道はできていくんや」
 現代には地図が有り道路も整備されている。電車や自動車も有る。なんと便利な生活をしていたのだろうか。茜は地図を見ながら暮らしていた未来を思い浮かべた。魚もスーパーに行けばトレーに入れられ売られている。誰かが魚を獲り、運び、トレーに入れてパックしてくれている。いつの時代も一人では生きていけない。茜の瞳から一筋の涙が流れた。
「どうして泣いているんや。母ちゃんに会いたくなったんやろ」
「馬鹿。そんなのじゃないわよ。勇こそ寂しいのでしょう」
「僕は平群に帰るまでは泣かへん」勇は唇を一度強く閉めてから金魚のように丸く口を開いた。
「姉ちゃん。僕たちここで暮らしていけるのとちゃうか」
「諦めちゃ駄目よ」
「帰るのを諦めたわけやない。ここは電気もゲームもあらへん。やけどなんとか楽しく暮らしているやんか。母ちゃんに会えないは寂しいけど、ここにも助けてくれる人が沢山おるやんか」
 姉を励ますために言ってくれているのだと思うが勇が同じようなことを考え、ここで生きる覚悟をしていることに茜は驚いた。
「どうして私は泣いているのでしょうね」勇には負けたくない。でも涙は零れ落ちて行く。
「これからが不安やからやないか」
「確かに不安ね。最近感じるのやけど。いつの間にか何か大きな流れに乗っているような――。自分ではどうしようもない運命みたいな。もしかしたら王様が伊勢で日の出を拝むための新しい道を私たちに造らせているのではないの」
「僕もそう思う。自分たちで道を切り開いている筈やのに既に決まった道を歩かされているような。なんか不思議で不安になるわ」勇は頭を掻き、顎を握り拳で支え伊賀が岩に描いた地図の前に立った。
「何か間違っているか」伊賀が勇の顔を横から覗きこんだ。勇は横に首を横に振るだけで、その地図から目を離そうとしなかった。
「どうしたのよ」伊賀が心配そうな目で茜の顔色を窺うので勇の横顔にそう尋ねた。勇は長い溜息を付いた。
「だからどうしたのよ」茜は堪らず勇と地図の間に顔を入れた。
「この亀裂、達郎叔父さんに連れて行ってもらった天然記念物の断層に似てへんか」
「中央構造線のことよね」勇は頷いた。
「九州から四国を通って伊勢を貫いているのだから、この辺りで断層と出会ってもおかしくはないわ」
「そやなくて、ここらの中央構造線はほぼ東西に伸びていたやろ。川が断層に沿って下っているのやから方向は東西のどちらかや」
「峠は越えたのだから川は西に流れている可能性が高いのね」
「そうや。お日様が雲に隠れていて分からんが。こっちが西やと思う」勇は人差指を立てた右手をその亀裂に沿わした。
「まあ、これが中央構造線やったらな」
「違うの。そんなことより――」茜が心配しているのは天気だった。今にも雨を落としそうな分厚い雲が垂れこめている空を見上げた。
「姫、雨が降りだす前に小屋を作らなくてはなりません。先を急ぎましょう」伊賀が立ち上がった。
「ちょっと待ってください」伊賀を止めたのは匠だった。匠が意見するのは初めてかもしれない。
「あの。この籠を被って欲しいのです」匠は蔓で編んだ円錐状の籠を配り始めた。
「こうやって籠を頭に乗せて蔓を顎にかけてください。本当は釣った魚や集めた薪を入れるために作ったのですが、頭を濡らさないようにも使えます」匠は籠をひっくり返し頭に乗せ肩掛けになっていた蔓を顎の下に回した。
「凄い。かぶり笠ね」茜は親指を立てた握り拳を匠に向けて突き出したが、匠はその意味が分からず首を傾げている。
「匠は凄いわ。笠を発明しちゃうのだから」
「どうして僕が思いつかなかったんや」勇は自分の頭を叩いた。
伊賀の掛け声で全員が列を作り川岸を伝って下っていると、空は暗くなり冷たい風が川を駆け上ってきて茜の笠を押し上げた。
「おい、嵐が来るぞ」若が列の最後尾から叫んだ。
「あの山に入って小屋を作るぞ」伊賀が木の生い茂る山を指差した。
茜は笠を前に倒し森に入ると森の天井は大粒の雨を弾き騒がしく唸りだしたが、それを掻き消す「逃げろ」若の声。茜が振り返ると目玉をむき出しにした若の青白い顔。若の後ろには若の背丈を遥かに超えた黒毛の熊が両手を頭上で広げ牙を出した。茜は森の上から湿った岩の臭いが流れ落ちてきたことも気が付かず森を駆け登った。
「駄目や」勇の声が目の前の岩壁に反射して森の中で響いた。左右に伸びる岩壁は大人でも登れる代物ではない。大人たちは岩に背を向けて太刀を抜き、森を撓らせながら登って来る熊を睨むしかなかった。茜と勇が岩裾に貼り付く草に寄りかかった途端、背中から倒れ天地が反転した。倒れた大人たちの頭の間から森の欠片が見え、それを食べるように赤い口が開いた(ここは俺の住いだ)太く黒い手を暗闇に差し込み大人たちが落としてきた太刀を掻き混ぜた(知らなかったの)茜は声の主に謝った。輝く鋭い目が茜たちを睨む。忍がかぶり笠を円盤にして投げると鍔はその目を捉え、森が唸り声で揺れた。暗闇に静寂が戻った。若は音を立てないように転がっている太刀を拾い、釼先を森に突き出し左右に振ってみた。
「熊は逃げたようだ」若のその言葉で暗闇は安堵の息で包まれた。
「お。見つけた」暗闇の一番奥で勇が叫ぶと、大人たちは一斉に太刀を拾い、勇が居る暗闇に釼先を向けた。
「勇。熊なの」
「そやない。米や。きっと米や。姉ちゃん手伝ってくれや」茜と勇は俵を大人たちが暗闇に向けている釼先まで転がした。
「本当にお米だ。これで食いつなぐことができる。何処に有った」
「この岩の奥や」勇が天井の岩を叩いた。転がり込んだところは大きな岩の下にある空間。大人が三人ほど寝転がる程の幅しかないけれど奥行きがあるので子供が奥に入ればなんとか全員が寝ることができる。天井は大人が座ると頭が岩に触れるほど低かった。
「米がどうしてこんなところに有るのよ」
「伊勢とちゃうか。米を置いて山越したとか言ってへんかったっけ」
 人間が山道を一日で歩ける距離は限られているのだから川が近く雨風が凌げ安全に夜を過ごせるところは同じようなところになるのかもしれない。こんな偶然が有るのだろうか。
「姉ちゃん。何をぶつぶつ言っているんや。伊勢がここで宿泊したんやったら、数日で平群に辿り着けるんやないか」
「なるほど。そうとも言えるわね」
「まあ、明日の事を心配しても仕方ない。食べ物も水もある。ちょっと窮屈だが何とか雪を凌げるな」
「雪。若、雪と言ったわね」若は頷き森に太刀を向けた。雨は牡丹雪に変わり森の頭は綿帽子を被ったように白くなっていた。
「薪を集めないと」
「姫。大丈夫です」忍は足元にある枝の塊を指示し、匠は重ね合わせた笠を開き干した川魚を見せた。
「節約すれば二晩は過ごせるわね。でも雪が積ると動けなくなるわ」
「姉ちゃん、洞窟が雪に埋もれへんように雪掻きでもしとこか」
茜と勇は笠をスコップ代わりにして雪を掻き木と木の間に北風を防ぐ雪壁と草の葉が混じった小さな雪だるまを作って入口に並べた。
「姫、これは何ですか」魚を焼く火をおこした忍が雪だるまの前で首を傾げて訊ねた。
「雪だるまです」
「ユキダルマ。何のために飾るのですか」
「まあ、お地蔵様の代わりのようなものですかね」
「オジゾウサマ――」
「まだ地蔵は伝わってきていないのとちゃうか」
「そうだったわね。雪の神様みたいなものかしら」茜が忍にそう説明すると、忍は雪だるまに向かって手を合わせ何かを拝んだ。
「なあ、姉ちゃん」勇は雪壁を指差す。
「石切の岩にメッセージを書いたやろ。あれと同じような方法で井原の兄貴に連絡でけへんやろか」
「徹が石切まで来てあの岩を見ることはないでしょう」
「そうなんやけど、なんか手が有るんちゃうか」
「それなら鏡はどう。ほら古墳から出土する三角なんとか鏡」
「古墳時代の三角縁神獣鏡のことやろ。図鑑で見たことがある」
「偉い。その鏡にメッセージを入れたらどう」
「駄目や。井原の兄貴の祖先が誰だか分からないやろ。チラシやあるまいし奈良中に鏡を配る訳にもいかへん。もっと確実に兄貴に手紙を出さんとあかんのや」
「私たちが奈良に向かわないように徹が止めてくれれば、この時代を彷徨はなくても済むのに」と茜は握った雪を壁に投げ付けた。

 石清水が洞窟の前に積った雪に垂れ格子のような白い氷柱を作っていた。朝日がその氷柱を通り抜け洞窟は虹の中のようだった。虹が消え氷柱の外で何かが動いた。茜は上半身を起こし隣で寝ている勇の背中を揺り動かした。
「勇、起きて。何かがいる」勇は目を手で擦りながら上半身を起こすが、目は薄氷のように細い。完全に寝ぼけている。
「入口が塞がっているやないか」勇は這って氷柱に近づこうとした。
「待って。外に何かがいるの。熊かもしれない」茜は四つん這いになり今にも飛び掛かろうとしている勇の肩に手を掛けた。氷柱に黒い影が映ると勇は猫のように飛び撥ね背中を天井にぶつけた。
「う。皆を起こしてくれ。一人ずつゆっくりとやで」
獣の影と目の玉が氷柱の隙間に張り付き洞窟の中を覗いている。
「キャー」茜は悲鳴を上げてしまった。大人たちが飛び起き低い天井に頭を打ち付けた鈍い音と呻き声が洞窟に響いた。。
「驚かしたらあかんやろが」
「ごめん。でも」
「姫、何事ですか」茜は若に氷柱に貼り付いた影を指差した。若は唇の前に人差し指を立て、ぶつけた額を擦っている伊賀の膝を足先で突き、顎で氷柱を差した。若と伊賀は洞窟の壁を背に氷柱の前まで這って行き、音をたてないようにゆっくりと太刀を抜き槍のように前に突き出した。忍は洞窟の奥に茜と勇を押し込み、二人に覆い被さって身を盾にした。若と伊賀は気合とともに氷柱を蹴り折り、間髪を容れず洞窟から飛び出すと、キャッキャと高い声が洞窟の奥に言葉となって届いた。
(僕は姫に世話になった格です)
「格さん」茜は忍の脇をすり抜け猪のように洞窟を飛び出した。
「格さん、格さんなのね」茜は格さんの手を掴み上下に振った。
(どうしてこんなところにいるの)
(平群に行って勇の地図を地面に描くと、爺は日の出の方角に向かう道と寝るところを造ると言い出した)
(爺とうまく話しができたのね)
(いや、兵士が通訳をしてくれた)
(ああ、忍さんの兵士ね。格さん一人で来たの)格さんは頭を横に振ってから毛むくじゃらの腕を雪が積もった森の中に向けた。
(誰かと一緒なのね)格さんは森に向かって雄叫びを上げると「格。何処に行った」としわがれた男の声が木の間から返ってきた。
若と伊賀は太刀を地に置いたまますっと立ち上がり背伸びをして声のした方角に神経を集めた。
「聞いたことがある声よ」茜が呟くと若が頷く。
「もしかして親父か」若は雪壁に駆け登り掌を頬に添えて叫んだ。白い木陰から白い顎鬚が現れ「おお、息子よ」
若は雪壁を転がり落ち声の主に抱き付いた。
「無事だったか」爺は若の背中を撫でるように叩き涙ぐむ。
「親父。どうしてこんなところに」若の声も擦れていた。
「話しは後だ。まずは洞窟に」若が爺に肩を貸したが、深雪に足を取られると反対の手で空気を掻いた。伊賀も雪壁から飛び降り若と反対側の爺の脇に肩を差し込んだ。爺は二人に抱えられて茜たちの前に連れてこられ髭を動かして微笑んだ。
「おお姫、お元気そうで。勇も忍も無事で良かった」爺は二人の肩から降ろされ洞窟の壁を背に腰を下ろした。
「狭い洞窟だろう。まだ住居とは言えんな」爺は洞窟の壁に掌を当て、奥を覗き込みながら言った。
「爺はこの洞窟を知っていたの」
「ああ。わしと格が寝泊まりするだけなら十分だが、王様に寝泊まりしてもらうには狭すぎる。御供の兵士も大勢来るだろうからな」爺は肩を揺らして笑った。
「王様――」そう言って忍が膝を地に落とした。
「お日様を捉えたところを王様に見てもらうのだろう。伊賀には悪いが、伊賀の道は遠回りだし盗賊がいて危険だ。ならば新しい道と寝るところを造ろうと思ったのじゃあ」
「爺と格さんだけでか」
「いや。忍の兵士たちにも手伝ってもらった。喋ることができない助なのだが兵士を束ねるのが上手い。人は見かけで判断してはいけないようだな」爺は自分の後頭部を叩き笑顔を忍に向けた。
「忍。兵士を勝手に使わせてもらった。王様の為だと言ったら頑張ってくれたぞ。それに平群が和珥から襲撃を受けたときも奴らは勇敢に戦ってくれた」忍は戦いが有ったと聞いて心配そうに爺を見た。
「安心してくれ。そのとき兵士の二人が怪我をしたが、今ではぴんぴんと道を広げてくれている」爺は忍の顔を見てもう一度微笑んだ。
「だがそれも、春までは中止だ。天の神は雪を降らすし、地の神は地面を揺らす。お前ら何かしでかしたのではないか」
茜が返事に困っていると「平群までは近いのか」と若が助け船を出してくれた。
「遠い。だが馬が通れる道を近くまで造ったから、馬がおれば早い」
「馬は居ないのか」
「この先を偵察に行ったとき馬を失った。こんなことになるなら兵士に待っていてもらえば良かったな」
「兵士と別れたのはいつのことだ」
「一昨日のことだ」
「格さん。悪いが兵士を追ってくれないか。爺と姫を乗せる馬が必要なのだ」若の言葉を姫が格さんに通訳した。
「どうやって兵士に伝えるんや」
「兵士に格さんの言葉が解る者がいる。もし居なければ――。これを持って行かせて」忍が首に掛けていた首飾りを外した。忍の首飾りは茜の琥珀の勾玉に比べ小さいが磨き上げられていて世の中の景色を全て映し出すほどに輝いていた。
「兵士たちがこれを見たら私がいることを理解するわ。格さん。兵士にこれを見せて馬に乗って手綱を揺らすの。そうすればきっと助けに来てくれると思う」格さんは姫の顔を見ながら話を聞き頷いた。
「格さんお願いね」忍は格さんの首に首飾りを掛け、頭の天辺を優しく撫でると格さんはキイーと甲高い声を発してから雪壁を一蹴りして木に飛び移り、枝から枝と渡り森の中に吸い込まれた。
「まあ、格を信じて待つしかないな」爺は目を閉じ地面に倒れた。
「親父」若は爺の顔に耳を近付け息をしている事を確かめた。
「大丈夫だ。寝てしまっただけだ。歩き疲れたのだろう」若は掌を爺の額に乗せ頷いた。
「奥に寝かせましょう」皆で爺を洞窟に担ぎ入れ一番奥に寝かせた。
「格さんが馬を連れて戻って来てくれたら平群に帰れるわね」茜は勇と並んで腰を下ろした。
「そうやな。爺と格さんのお蔭やな。なあ姉ちゃん」勇は茜の胸元に視線を落とした。
「忍さんの首飾りを見て思い付いたのやけど――。姉ちゃんの首飾りって井原の兄貴から貰ったんやろ」
「貰ったのではなくて、返し損ねただけよ」
「それはどっちでもええんや。兄貴が持っていた物やったらそれに文を書けば兄貴に伝わるのやないか」
「勇は露天風呂の岩みたいに文字を掘れと言うの。駄目よ。これは借りている物よ。傷つけることなどできないわ。それに徹は今これを持っていないのよ。持っているのは私なのよ。どうやって勇は見ることができるのよ」
「兄貴が姉ちゃんに渡す前なら見ることができるやろ」
「ちょっと待って。理解できない。どういうこと」茜は首飾りを胸に押さえ付けた。徹から借りた首飾りを持って過去に来てしまった。その首飾りを私と会う前の徹は持っているのだろうか。私がここに持っているのだから徹の手から消えてしまうのではないだろうか。
「ああ、分からない」茜は寝ている爺の前で髪の毛を掻き乱した。
「詳しい事は分からんが、分からないことはやってみるしかない。やらないで失敗するよりは良いと思うぞ」爺が擦れた声を出した。
事情を良く知らない爺にそう言われ茜は何故だか苛立つ。でも、爺の話しはその通りだと思った。勇は爺から離れ手招きで茜を呼んだ。
「兄貴がその首飾りを持っているのかを心配しているんやろう。文字を刻んだらこの時代に置いて行けば良いのやないか。それが兄貴の物になる運命なら運命が届けてくれるやろ。大切なのは首飾りではなく僕たちがここに迷い込まないようにすることなんや」
「傷つけて手離せと言うの」茜は胸に手を押し当てた。
「私は大切な首飾りを格さんに託したわ。首飾りで姫の命が救えるならば惜しくはありません」忍が二人の会話に入ってきた。
「でもこれは――」
「それは王様が子供の時にされていた首飾りなのですが、姫が王様と一緒にお日様探しに出発されるときにお守りだと奥様がそれを姫に手渡されたと聞いております。姫はまだ小さかったから覚えておられなくても仕方はありません。首飾りは大切な物ですが王様の命を守る為なら失っても仕方がありません。奥様には私から謝ります。今何が優先され何を守るのかよく考えていただきたいのです」
 話がややこしくなってきた。王様を見つけるために首飾りを誰かに託すのだと忍は勘違いしている。これに文字を刻むなんて。でも、勇を両親に返すにはこの方法しかない。徹も分かってくれる。ならば何を刻んで誰に手渡せば良いのよ。茜は目を強く閉じて考えた。
洞窟にキャキャーと高い声が響いた。
「格さんよ」茜が洞窟から這い出ると格さんが必死に何かを話していた。馬が雪に足を取られ洞窟まではたどり着けないと説明している。格さんは雪を掻く格好をした。
「兵士が雪を掻いて道を造っているのね。でも時間がかかる。歩いて下りられないか」茜は通訳をした。
「そうか。ならば下りて行くしかあるまい」爺が洞窟から顔を出して忍に向かって言った。茜は爺の足を見た。
「大丈夫じゃ。若が肩を貸してくれる」
「格さん。馬がいるところまでどれくらい離れているの」格さんはお腹の前で腕を三角形に組んだ。
「谷に降りれば良いのね。若と伊賀は爺を運べますか」茜の問いに二人は頷いた。
「匠。先に行って雪を踏み固めて」忍が目を見開いた。匠は笠を被り爺に一礼をしてから森の中に消えた。爺が造ってくれた洞窟に向かって全員が一礼をしてから、笠を深く被り、匠が踏み固めてくれてできた轍を下った。雪が融け岩肌が覗いている川岸に出ると、対岸で兵士たちが雪の塊を川に流していた。
「助かったわ」茜は兵士に手を振った。川を渡ってきた兵士が馬から飛び降り茜の前で跪いた。
「御無事で何よりです」
「ご苦労さまです。馬は一頭だけなのですか」
「申し訳ありません。雪道を歩けるのはこの馬だけでして」
「ならば爺を馬に乗せてください」
「いいえ。姫が馬に乗ってください」
「駄目です。爺は歩くことができないのよ」兵士は渋い顔を返した。
「ならば、親父が馬を操りその前に姫と勇が乗れば良い」
「それならば」兵士は若に手綱を差し出した。

 森が途切れ急に周囲が明るくなり視界も広がった。水色の空の下に白い山並みと焦げ茶色の盆地が広がっていた。
「大地の先に見える山がお前らの言う生駒山だ。その麓に平群があるのじゃ」爺は生駒山に指先を向けた。茜が両手を広げると心が澄み渡り、無事に戻って来られた喜びが胸の中から湧き上がった。
「ぐるりと回って戻って来たんやな」勇は空に指先で円を描く。
「そうじゃ。春になればお前らが歩いてきたところが東の海にでる近道となるのじゃ。ハハ」
山裾に沿って盆地からの土の香りが舞い上がり茜たちを包んだ。
「姫の言う通りに川に堤防を造り、田畑は長方形に整え、道も広げた。皆が暮らせる家も建てている」
「忍さんが居ないのに兵士たちは良く働いてくれたわね」
「貢献してくれた兵士はそこで獲れた米や野菜は自由にして良いことにしたらと助と小枝が提案してくれたからな。わしは頷いただけだ。奴らは皆、頑張ってくれたよ」
「それやと爺に米が入って来なくなって困るんやないか」
「安全で住み易い部落がでるのじゃ。損は無い。後はどうやれば部落と部落が仲良くすることができるかだな」
「先ずは爺がお土産を持って他の部落を訪れてください。話をするとお互いを知ることができますし、何を助け合えば良いのかが分かると思うのです」茜は真剣な顔で爺に言った。
「そうだな。仲良くなれば食べ物も分け合えるな。息子よ。ここに平和な部落を造ってくれ」爺は盆地に向けて両手を差し出した。
「姫。息子に知恵を授けてやってくれ」
「今は山も海ももうたくさん。ふかふかの布団で寝たいわ」
「フカフカノフトンとはなんじゃ」爺が尋ねた。
「布に綿を詰めたものよ。お日様に干すとふかふかになるのよ」
「ワタ。なんじゃそれ」
「爺に説明するのは大変やな」勇は両手を広げた。
「お前らがわしに分からない言葉を使うからいけないのじゃ」
「爺。あそこの小屋は何だ」伊賀は忍の横で田圃の隅を指差した。
「おお。ベース……何て言ったかな」
「ベースキャンプね」
「そうじゃ。あそこで忍の兵士が暮らしておる」堤防が整備された川岸に藁ぶき屋根が二軒向かい合って見える。その間に長方形の屋根の馬小屋が造られていた。
「あそこまで降りたら、平群に帰ったようなものだ」爺はそう言って馬を進めた。山を下りると白く霜が降り凍り付いた碁盤の目のように広がる田畑に足を踏み入れた。ベースキャンプの馬小屋の前に人が集まって来て沢山の馬がこちらに駆けて来る。兵士たちは茜の乗る馬の周りに集まり両手を上げて喜んだ。
「姫、ご苦労様です」兵士の一人が茜に向かって一礼すると、他の兵士たちも一斉にお辞儀をした。
「道を造っていただいたお蔭で無事に戻ることができました。有難うございます」茜は馬から降りて深々と頭を下げた。
「この道が東の海まで開通すれば王様をお連れできますね」兵士は茜たちが降りてきた道を指差した。
「そうですね。しかし海までの道のりはまだまだ遠く険しいのです。道を開通させるには皆さんの力とそれを維持するための食べ物が必要です。道が造れない冬の間に部落同士がともに手を取り合って田畑を耕してください」茜は盆地に向け両手を広げ他の兵士にも聞こえるように話した。忍が手を叩くと拍手の輪が田圃に吹く風のように波紋となって広がった。

 夕食を終え月の光の下、小屋の壁にもたれて茜と勇は首飾りに刻む文章を考えていた。太刀の先で文字を刻むと文字は大きくなり、勾玉が大粒だといっても二文字を刻むのが精一杯だと思えた。
「127。なんやこの数字」勾玉の縁に小さく刻まれた数字を勇が見付けた。この時代にはこんなに小さく数字を刻む技術は無い。きっとレーザー光線を使って加工されたものだと勇は思った。
「二四金なら知っているけど――。もしかしたら結婚記念日や誕生日が一月二七日だとか」
「そんなことより兄貴への文を考えようや」
「船で知り合った倉田茜と勇が奈良に行くのを止めさせて」
「そんなに長い文は刻めへんし、太刀で漢字を刻むのは不可能や。直線の多い片仮名にするしかあらへんで」
「それなら何て刻むのよ」
「アカネ ナラ イクノ イシキリエキ トメロ。それと奈良に向かった日付を刻んだら一杯や」勇は勾玉を数えた。
「それで徹は判るかな」
「兄貴の推理力を信じるしかあらへん」
「徹がこの文を読んでから船に乗るのでしょう。信じてくれるかな」
 茜と勇は空に広がる星を見上げ、しばらく沈黙した。
「後、一文字なら刻めるで。船に乗った兄貴が必ず見る物をここに刻めば信じてくれるんとちゃうか」
「一文字で表すなんて無理よ」
「文字でなくても記号でもええんや」
「そうね。船が半分に割れたとか」
「そんなの記号にでけへん。他にあらへんか」
「星とか島とか」
「そんなの、ありふれている。もっと印象的な物は無いんか」
「神戸のポートタワーはどう。デッキから二人で見上げたから」
「それってどんな形をしているんや」
「鼓よ。中央部がくびれている太鼓よ」茜は地面に鼓の絵を描いた。
「それやったら刻めるな。それでいこか」
 徹がそのアカネを信じ、奈良に旅立つのを石切駅まで止めに来なくてはならない。そんな奇跡が本当に起きるのだろうか。
「姫たちは何を話しているのですか」匠が勇の横に腰を下ろした。
「勾玉に文字を刻むんや」
「勇。馬鹿」茜は勇の肩を叩いた。
「ほお。面白そうな話ですな。そのモジって何ですか」
「忍には内緒にして欲しいの」茜は匠を睨んだ。
「姫の命令なら勿論です」
「ならば命令でお願いします」茜にそう言われた匠は頭を下げた。
「モジっていうのは飾りのこと。この勾玉の側面には飾りが無くて寂しのよ」
「どんな飾りを入れるのですか」茜は片仮名と数字を地面に書き、最後に鼓の絵を描いた。
「こんな飾りは今まで見たことがありません。最初の方は真直ぐなので簡単ですが、この丸い形は苦労しそうですね」匠は日付の数字の下に直線を入れた。
「これは蛙の赤ちゃんなのでしょうか」匠は数字の9を指差す。
「キュウと言うのよ」
「ここにも赤ちゃんがいますね」
「それはロクよ」
「キュウとロクは兄弟なのですね」
「刻める」
「勿論です」匠は腰に短剣と一緒に刺していた釘のような物を取り出して見せた。
「これは皮を繋ぐときに使う道具です。勾玉をしっかり固定してお日様の光の下でなら刻めます。でも大切な勾玉にモジとやらを刻んでも良いのですか」
「だから忍には内緒なの」
「しかし――」
「匠、お願いよ」茜は頭の上で両手を合わせた。
「姫のお願いならば仕方がありません。晴れたらやらせていただきます」匠は立ち上がり姫に頭を下げてから小屋に入っていった。
「後は首飾りを誰に渡せば徹に届けることができるかやな」
「井原と言う苗字の人が居れば首飾りを託せば良いのだけれど――」茜は自分の頭を壊れかけのテレビを直すように握り拳で二度叩いた。
「頭を叩いたりされてどうされたのですか」小屋から匠と入れ替わり出てきた忍は匠が座っていたところに腰を下ろした。
「王様がどのあたりにおられたのか思い出せないでしょうか」
茜はまた頭を叩いた。平群に戻っても部落の繋がりを保つためにも茜は記憶を失っているふりを続けなければならなかった。
「忍さんが居た大きな岩の有るところと生駒山を挟んで反対側のところで私たちは若に見つけられたのです。しかし記憶があやふやで何を信じたら良いのかさっぱり分からないのです」
「まだ王様のことも思い出すことができないでおられるのですね。何か恐ろしいことに出くわしてしまったのでしょう」
茜は小さく遠慮がちに首を縦に振り、辻褄を合わせるためにも私の両親となってしまっている王様と奥様のことと本当の姫のことについても知っておくべきだと思った。
「私がまだ幼いのに王様はどうして旅に連れて行ったのですか」
「王様がお日様のことばかりを考えるようになってからは民の話しに耳を傾けなくなったのです。代わりに民からの要望を奥様が聞くようになったのですが、判断を祈祷に頼ることが多くなり、ついには一日中熱心に祈祷をされるようになって、子育てが疎かになってしまったのです。王様は姫を守り姫として育てるために旅に連れて行かれることを決断されたのだと思います」
「そうだったのですか。前から聞きたかったのですが、私の両親はどのような人なのでしょうか」
「そこからお話しないとなりませんか」忍は額に中指を当てた。
「王様がお月様、奥様がお日様、それぞれが神の代理人なのです。昼と夜が有るようにお二人は対等なのですが、王様が民の繁栄のためお日様を捕らえると言われ出し、奥様は民の為にならないと言われ、お二人は大層揉めておられました。奥様は王様がお日様と会う為に出掛けるのだと思われて、奥様の護衛をしていた私に王様と同行するように命じられたのです」
「要するに母の嫉妬で忍さんは父の監視役をさせられたのですね」
「姫。駄目です」忍は立てた人差指を茜の唇に近づけ首を横に振る。
「姫でもそのようなことは口に出してはなりません。実際のところ私は奥様への連絡係のようなものでした。三艘の船に乗ってお日様の現れるところを探しながら島を転々と渡ったのです。王様は朝早く起きられ、お日様が昇った方向に木の門、そうですね姫が東の海に建てられた鳥居のような形の門を島々に建てられました。円錐の形をした島に到達したときその頂上にも。旅で疲れ果てた私と匠に、王様はこの島をいつでも戻ってこられるようにしておけと言われたのです。私たちは海沿いに家を建て、雨水を溜める池や食料を保つために田畑も造ったのです。あるとき偵察に出ると言って島を出た王様と姫はそれっきり戻ってこられなかったのです。二艘の船を出し王様を探させたのですが、二艘の船の内の右岸に沿って進んだ一艘は渦を巻く潮に飲み込まれて沈んでしまったと言われています。戻ってきた一艘に私と匠は乗って左の岸を注意深く進み辿り着いたのが海に繋がった湖でした。私たちは上陸し立ちはだかる山の麓に部落を造ったのです。それが姫と再会した大きな岩の神が居られるところです」忍は一気に話しきった。
茜はその話を聞いて別の疑問を思い出した。幼い姫だったといえ面影は残っているはず。忍が他人の私を姫と見間違えるだろうか。しかしそれを確かめることは姫で無いことを認めるのと等しい。茜はその疑問を胸の奥にしまった。
「姫」と忍に呼ばれ茜の心臓は飴玉ぐらいまで収縮した。
「原点に戻りましょう」
「原点――」
「そうです。姫たちが発見された生駒山の麓に王様が何か痕跡をとどめておられるかもしれません」
「――そうだな」そう言って忍の横に腰を下ろしたのは爺だった。
「道に迷ったら来た道を戻るのも大切じゃ。姫がわしの若いころの気持ちを思い出させてくれたおかげで平群の民が纏まり始めた。姫には感謝しておるんじゃ。原点に戻る旅で姫が前進することができるのなら行くがいい。そうじゃ姫を発見した若と助を同行させよう」
 もしもそこで王様を発見し、私が姫でないことを王様から告げられてしまうと平群はどうなるのだろうか。そもそも忍はどうして私を偽者の姫と見抜けないのだろうか。相談できるのは勇しかいない。 茜は枯れた枝を集めながら勇と二人になって話を始めた。
「どうして小枝拾いをしながら話をしないといけないんや」
「大人たちに話を聞かれたくないのよ。大切な相談なの」茜は勇に疑問に思っていることを伝えた。
「姉ちゃん、お姫様に似ているんとちゃうか」
「真面目に答えてよ」余りも子供染みた回答だったので茜は握り締めていた枝を勇の足元に投げ付けた。
「もしも私が偽者だと判ったら平群と忍さんたちはどうなると思う」
「騙されたのは我らも同じだ。とか言って爺は上手く逃げると思うで。僕らは殺されるかもしれんけどな」
「殺される――」
「そらそうや。姫やと嘘ついたんやからな。重罪や」
「だって仕方が無かったでしょう」勇に相談したことが失敗だったと茜は自分の額を掌で叩いた。
忍と匠は兵士たちを労うための宴がしたいと田圃の小屋に泊まるという。伊賀はもちろん忍と一緒に呑むつもりだ。
「姫、お疲れになられたでしょう」
「疲れていますが平群に戻ればぐっすり眠れそうです。今まで私たちを守っていただき有り難うございました」茜は忍に初めて礼を言えたように思えた。
「まあ、姫に労ってもらえるなんて」忍は頬をほのかに赤らめて微笑んだ。
「姫はいつ頃王様を探しに行かれるおつもりですか」
「まだ決めていません。王様を捜すと言うより、原点に行って何かを思い出したいだけです」
「分かりました。匠に相談し旅の用意をしておきます。指示を出していただければ同行いたしますので、それまではどうか体をお休めください」忍はそう言って頭を下げた。
茜と勇は爺と若の馬に乗せられて平群を目指した。田畑の中央を流れていた川は細くなり左右から山が迫ってくる。曲がりくねった坂道を上ると藁葺き屋根が見えてきた。若は爺と茜に一礼してから全速力で駆け出した。櫓の上で助さんが手を大きく左右に振っている。若は櫓の前に掛けられた木の橋をギシギシと音を立てて渡った。
塀の向こうから女の悲鳴が聞こえ、すぐに泣き声に変わった。茜が櫓を潜ると、平群に連れてこられたときに会った若い女性と若が抱き合っていた。
「お前たちも暫くゆっくりしろ」爺は新しく建てられた高床式の小屋を指差した。若は女性の住む奥の母屋に入って行く。あの女性は若の奥様では。忍さんを巡る若と伊賀の争い茜の妄想だったのか。あまりにも呆気ない結末に茜の心は揺らいだ。
「ええやん。爺と仲のええ伊賀と忍さんが結婚したら三つの部落が争うことはなくなるで。それに僕たちの嘘がばれても殺されんですむかもな」勇は鼻の下を人差指で摩った。勇がそんなことを考えることができるようになっていることに茜は驚いた。
「疲れた。寝よ」茜と勇は部屋の新鮮な木の香りに包まれると張り詰めた心と全身の力が抜けて毛皮の上に転げ落ち、船の二等客室のように大の字になって深い眠りについた。

     7
茜が目を覚ますと、この時代に紛れ込んだときに着ていたトレーナーと新しい貫頭衣が枕元に畳んで置かれていた。小枝さんが用意してくれたのだろう。貫頭衣に慣れてしまった茜はトレーナーに着替えることはせず、新しい貫頭衣に袖を通した。勇も新しい貫頭衣に着替えさせ、古い貫頭衣を川で洗おうと丸めて脇に挟んだ。
「姫。原点を探しに行かれるならば用意はできております」伊賀が朝の挨拶もせず小屋に入って来た。下の部落から馬を飛ばして来たのだろう。伊賀の息は上がっていた。
「ちょっと待ってください。朝食もまだ食べていませんし、この洗濯もしたいのです」茜は古い貫頭衣を脇ごと持ち上げて見せた。
「朝食なら小枝さんがお粥を作ってくれています」伊賀は茜に出発を必死に勧めている。原点を捜す旅は、忍は王様を探す旅に、伊賀は忍さんとの旅に変わっていた。
「そうですか。私たちを見つけた場所を知っているのは若と助さんだけなのです。お二人も準備ができているのですか」
「いや、あのう」伊賀は口をへの字に曲げ顔を赤くしている。
「伊賀。落ち着いて先ずは座って話しましょう。若と助さんはどうしているのですか」
「二人は子供が生まれるとかで走り回っていまして――。そう言えば小枝さんもその手伝いで忙しくしておられて。姫と勇に自分で粥を食べてもらうように伝えてくれと」
「赤ちゃんが生まれるのですか。どなたの赤ちゃんなのですか」
「若の子だと――」
「あの女性は若の奥さんだったのですね。良かったじゃないですか」
「ですから私の子供でなく、若の子……」
「はっきり言います。伊賀は忍さんのことが好きなのですよね」
 伊賀は肯定も否定もしない代わりに、目を見開き、口が半開きのまま閉じることがなかった。
「若には奥さんがおられ子供も生まれるのですから、忍さんと仲良くなればいいじゃないですか」
「確かにそうですね。まあ、若と助さんが行けなくても鳥見洞窟は、私も行ったことがありますのでご安心ください」
「でしたら明日、天気が良ければ朝から出かけてみましょう」
「分かりました。忍と匠とは平群を下ったところで待ち合わせするように伝えておきます。それと念のために洞窟で一泊できる用意をしておきます」伊賀は唇をしっかりと重ね合わせ顎を小さく引いてゆっくりと小屋を出て行った。茜は伊賀が出て行ったことを確かめてから横で寝ている勇の尻を平手で叩いて起こした。
 二人が小屋の階段を降りると部落は騒然としていた。門は閉められ、火の見櫓で武器を持った兵士が睨みを利かせていた。伊賀は下の部落に戻ったのだろう。助はお湯を沸かし、若と爺が太刀を下段に構えたまま母屋の前でうろうろしている。母屋から空の鍋を持って出てきた小枝に若と爺は何かを訊ねているが直ぐに肩を落とし、またうろうろと玄関の前を歩き始めた。
 茜は鍋を頭の上に担いで走って来る小枝に話しかけた。
「敵が攻めてくるの」
「姉ちゃん。小枝さんは話せないのを忘れたんか」
(いや。赤ちゃんが生まれる)小枝は一文字ずつゆっくりと返した。
「だから、助さんは話しができないやってば」
「どうして兵士たちは厳戒態勢を整えているの」
(目に見えない敵が攻めて来て母と子供を殺すときがある)
「見えない敵……。そんな馬鹿な」と茜は呟いた。医者も薬も無いこの時代の出産は命懸けで、皆は見えない敵が母子の命を狙っていると考えている。
「私たちに手伝えることある」鍋を助に渡した小枝に茜は尋ねた。
「お粥が鍋に入っているから自分たちで食べて。食べ終わったら川から水を汲んで来て」小枝は地に転がっている壺を指差した。
茜と勇はお粥を口に流し込んでから壺を持って川に降りた。
「姉ちゃん、どうして二人の話しが判るんや」
「そうね、不思議よね。森で格さんと話ができるようになったからかもしれないわ」
「姉ちゃんは森の主やな」勇は川から壺を上げてぼそりと言った。
 二人が門を潜ると若と爺が母屋の前で太刀を振り上げ雄叫びを上げていた。赤ん坊の元気な泣き声も聞こえてくる。
「生まれたの。生まれたわ」茜は壺の口から水を溢しながら泣き声のする母屋に向かった。
「生まれましたぞ」爺は皺だらけの顔をくしゃくしゃにしている。
「若、奥さんも無事なのですね」若は首を縦に幾度も振って、手を叩きながら猿のように飛び跳ねた。

 茜の目覚めは早かった。小屋の高床を支える柱にもたれながら首飾りを首から外し、勾玉を朝日に透かした。これを見て徹は私たちが奈良に行くのを止めてくれるのだろうか。誰にこの首飾りを託せば良いのか。色々と心配事を並べたが答えは何一つ浮かばなかった。
 勇は馬小屋の前で風呂敷に包んだ荷物を背に担ぎ、ずれ落ちてこないことをピョンピョンと飛び撥ねて確かめている。ここに来た時からすると勇の頬は痩けてしまったが、その代わりに肩幅が広く胸板は厚くなったように茜には見えた。勇は馬小屋の柵に跨り久々に会えた白黒の馬の顔に片手ずつ添え優しく摩った。
「おはよう。どうしたのよ、こんなに早く」
「姉ちゃんやって早いやないか」
「そうだけど。遠足とは違うのよ」
「知っとるわ」勇は柵から飛び降り、真剣な眼差しで馬の腹を毛並みに沿って摩り続けている。勇も運命を掛けた旅になると覚悟している。何か手がかりが掴めればもうここに戻って来ることはなくなり、何も見つけることができなければここで骨を埋めることになる。何が正解で何処に暮らすのが幸せなのか茜にも分からなくなっていた。勇の両親が今も息子を探し苦しんでいることを想像すると、やはり勇だけでも両親の元に返したいと茜は思った。馬の腹を摩っている勇を茜は背後から抱きしめた。
「姉ちゃん、何すんねん。気持ち悪いわ」と肩を左右に振ったが茜は更に強く抱いた。
「私たちどうなるのかな」勇の耳元で茜は呟いた。
「わからへん。僕なりに考えたんやけど、王様には会えないのやないか。きっと海で遭難したとかやで」
「どうしてそう思うの」
「王様だけやない。奥様や本当の姫も結局現れてへんやないか」
「そうだけど」
「まあ、いくら悩んでも解決せえへんやろ」算数のように決まった答えはこの時代には無い。何か判断を変えると答えはパラパラと変わってしまう。分からないことを悩んでいないで、自分たちに少しでも良くなると思うことを選択することが大切なのだと茜も思った。
「なら、この首飾りを誰に託すのがいいのかな」
「そうやな。井原の兄貴は九州の別府が実家やと言っていたやろ。ならばや。王様と一緒に船に乗って河内湾にやって来た本当の姫と兄貴とがどこかで繋がると思うんや」
「その姫が居ないのよ」
「話は最後まで聞けや。鳥居を建てたときに海で地震が起き津波に襲われたやんか。それが地を割ってしまったと兄貴の祖先に誤って伝わたのやから、やはりあの鳥居を建てた僕たちの中にそれを託す人がいると思うんや。両方の条件に合致するのがやな。忍さんや」勇は地面に重なる二つの輪を描き、その交わるところを指差した。
「忍さんに首飾りを渡すことが本当の姫とつながり最終的には兄貴の祖先に託される可能性が高い。そう思わへんか」
「まるで算数ね」勇が悩んでいてくれたことが茜は嬉しかった。
「でも、どう言って忍さんに渡すのよ」
「そんなこと分からんわ。姉ちゃんが考えろや。まあ、伊賀には渡さん方がええで。忍さんと結婚できるかは分からへんやろ」
「結婚て――。勇は結婚の意味を知って言っているの」
「図鑑に書いているぐらいのことはな」勇はどんな図鑑を読んでいるのだろうか。茜は心配になってきた。
「どう言って渡すかは姉ちゃんの方が上手やろ」
「なによ。期待していたのに」茜は頬を膨らませた。
 荷物を背負った伊賀が馬小屋に居る茜たちを見つけて「姫。今朝はお早いのですね」と皮肉を込めて言った。
「お早うございます」背から朝日に照らされ伊賀の表情は読めない。
対面する母屋から顔を真っ赤にした若がふらふらと出てきて、馬小屋の前にへたり込んだ。
「息子が可愛くて」若は蛸のようにふにゃふにゃと両手を上げ、その間から目尻が下がった目と赤く染まった鼻を出した。
「おめでとうございます。これで平群も御安泰ですな」伊賀は若に深々と頭を下げた。
「有難う、有り難う。――姫。原点を探す旅には御供できなくなりました。申し訳ありません。その代り伊賀をお供させます」若は尻の土を払い酒の臭いを残し妻と息子の待つ母屋に戻って行った。
「姫。任せてください。忍も匠も同行しますので、怖いものなど有りません」伊賀は胸を叩いた。
「なるほど。忍さんも一緒なんやな。伊賀も若に負けずに頑張れや」
「勘違いをされては困ります。私はだた――」
「顔に泥が。汚い男は嫌われますよ」
伊賀は顔を両手で摩りながら「それでは顔を洗いに」と言って逃げるように川に向かって駆けだした。
「伊賀は判り易いわね」
「そうやけど。姉ちゃんも意地悪やな」
「意地悪なんかではないわ。忍さんと誰が結婚するのかは、忍さんに首飾りを託していいかの目安になると思うのよ」
「忍さんが結婚せんで、この辺りから遠くへ行ってまうんやったら、ちゃう人に渡さんとあかんのやな」
「そうね。戻ってきて思ったのだけれど、平群の人たちと忍さんや匠とは顔の感じが違うでしょう。忍さんに似た人をどこかで見たことがない」茜は小声で勇に尋ねた。
「さあ。確かにここらに住んでいる人とはちゃうな。まあ、あえていうんやったら、似ているのは姉ちゃんぐらいやで。それで姫と間違えられたのやないか」
 茜は自分の顔に掌を当て上から下に撫でた。そういえば自分の顔を暫く見ていない。
「他に似ている人はいない」
「ここには居ないけど――。兄貴もどっか似ているんやないか」
「兄貴って、徹のこと」
「そや。似ているというより同じ系統の顔やな。彫が深いとか目が二重だとか顔には特徴があるやろ。船長も同じ系統やったな」
鼻筋が通っていて目は二重で切れ長。写真で見た若い実母の顔と忍さんの顔が重なった。茜は首飾りの勾玉を握り締めた。
「思い出したわ。船の甲板で徹を監視していた女が居たのよ。その女も同じ系統だったわ」
「その女と船長はもしかしたら忍さんと匠やないんか」
「まさか。会ったのは今から二千年ぐらい先のことよ」
「阿保やな。僕たちが二千年も昔に来ているのやから、あの人たちが未来に現れても変やないんとちゃうか」
「私たちも最新の技術を使ってここにきたわけじゃないから、ここの人が偶然に未来に移動する可能性がないわけじゃないけど。その女の人も船長も未来の格好をしていたのよ」
「僕たちやってこんな原始人みたいな格好をしているやろ。服は着替えてその時代のことを学べば、同じ人間なんやから未来でも暮らせるんとちゃうか」
「そうね」茜は勇に阿保やと言われ腹を立て睨み返したが、勇の理屈に反論できず仕方が無く相槌を打った。船長は船を真っ二つに切ったのだ。この時代の人がそんな宇宙人のような力を持ち合わせているとは思えない。もし時代を跨いだ人ならば更に未来からやって来たのではないのだろうか。時間の網に絡まって動けなくなっている自分の姿を茜は思い浮かべた。
 茜のトレーナーを胸に抱えた小枝さんがやってきて、トレーナーを茜の前に突きだしてから、もう一度胸に強く抱いた。
「姉ちゃん、小枝さんは俺たちにトレーナーを着ろと言っているのか」小枝さんは激しく首を横に振った。
「そうじゃないわ。トレーナーを着ると目立ってしまって危険なの。
私たちはこの新しい貫頭衣の方がいいわ。そのトレーナーは小枝さんに差し上げます」小枝さんは花が咲いたような満面の笑顔でトレーナーを頭の上に突き上げ、もう一度胸に抱いた。
「大人が着られる大きさやないのに、どうするんやろか」
「勇が見たことがない図鑑を見つけた時と一緒よ。珍しいのよ。それに小枝さんに子供が生まれたら着せることができるでしょう」
 小枝さんは頬を赤らめたかと思うと急に目を潤ませた。助さんを姫に同行させられないことを悔やんでいる。
「伊賀と下の部落にいる忍と匠という人が付いて来てくれますので心配ありません。助さんにもそう伝えてください」小枝さんは小さく頷いて、トレーナーを小屋に仕舞ってから若の家に駆けて行った。

 茜は白黒馬に乗るのは久々だった。爺の話しだと東の海への道を造るとき伐った木を川まで運ぶのに力のある白黒馬が活躍したと聞いている。勇は伊賀の馬に、茜は一人で白黒馬に乗って平群を出た。
茜は冷えて痛くなった耳を懐に入れていた左手で温めながら霜で銀色に輝く田畑を見下ろした。待ち合わせている分岐点には忍と匠の姿は無かった。忍の性格だったら先に到着し待ってくれていると思っていた茜は焦りを感じた。
 忍と匠が現れたのはお日様が高くに昇ったころだった。二人はゆっくりと馬を歩かせて現れ「姫、遅くなって申し訳ありません。馬を走らせると気持ちが悪くなるので。ゆっくりと」と忍は胸を掌で押さえ頭を下げた。昨夜呑み過ぎたのだと言う。
山道は危険だと言われて茜は忍の馬に、敵の攻撃に備え身軽になっておくために伊賀の馬に乗っていた勇は匠の白黒馬に乗換ることになった。茜は地震や津波から逃れ山を越え東の海から戻って来たのだ。度胸も体力もそれなりに備わった。忍さんは過保護なのだ。酒の臭いを漂わせて馬に乗る方が危険だと言いたかったが、頭を押さえ頭痛と闘っている姿を見ると哀れで口答えする気持ちも萎え我慢するしかなかった。
川沿いの道を遡ると周囲の田畑は直ぐに草木に代わり、林となり辺りは薄暗くなってきた。道なき山を越えてきたのだから茜は何一つ恐ろしくはなかったし、勇のことを心配することができるほどの余裕もある。手綱が緩み、頭の上から声が降りてきた。
「やってみますか」茜が振り返ると忍の苦しそうな表情は消え微笑んでいる。茜は忍から手綱を受け取った。
「腕に力が入り過ぎです。力を抜いてください」茜は手綱を持ったまま両肩を小さく回し、上半身を横に倒して馬の輝く瞳を見た。
「私にもし何かが有ったら、この馬で平群に戻ってください」忍が茜の耳元で囁いた。
「何かって何ですか」
「何かは何かです」忍の言葉に茜は首を傾げた。
「山には多くの敵が住んでいます。毒蛇や熊。山の神様が怒ると岩が落ちてきます。盗賊という恐ろしい人間も住んでいます。私は姫を命懸けで守りますが、私が動けなくなったとき姫には自力で逃げていただかなければなりません」
「分かりました。それで馬の乗り方を教えてくれているのですね」忍は茜の両肩を強く掴んだ。
「何が有っても、生き延びてください」
 忍さんがどうしてそのようなことを言うのだろうか。山に危険があるのはわかるけれど、今どうしてそんなことを話すのか。
「王様は姫を残して、どこに行ってしまわれたのでしょうね」忍はそう言って酒の臭いが残る息を弱弱しく漏らした。
私は記憶を失っているのだと茜は頭に叩き込んでから忍に尋ねた。
「王様がこの辺りにやって来たと、どうして分かるのですか」
「それはもちろん姫が発見されたところだからです。王様は船に乗って東に向かったのですから、私と同じように上陸し山に行く手を塞がれたと思うのです。無理してこの山を越えたにせよ、迂回されたにせよ、この辺りに王様が来られ何かが起きて姫と逸れた考えるのが自然なのです。王様のことですから何か痕跡を残されている筈です。それに姫が何かを思い出していただけるかもしれません」
「痕跡ですか」茜にはもともと王様と会った事がないのだから記憶を取り戻す痕跡など有る筈が無い。それでも王様の行方について何かを忍さんに教えてあげられないだろうか。関係するとしたら首飾りを持っていた徹。そのヒントが有るとしたら徹と一緒にいた船の上の出来事しかないのだ。茜は目の前の森を海に、馬を船に置き換えてその出来事を思い出してみた。徹が茜に淡路島を指差して、俺の親戚が住んでいると言っていた。もしかしたら、王様と姫は生駒山に阻まれて忍たちを残してきた島に戻ろうとしたのではないだろうか。淡路島の周囲は渦潮ができるくらい潮の流れが早い。船が途中で壊れて河内湾から最初の島となる淡路島に漂着したのかもしれない。ならば王様を探すなら淡路島ということになる。その前に徹は王様の子孫なのだろうか。東の海で鳥居を建てたのは私たちで、王様も本当の姫も鳥居を建ててはいない。やはり徹は王様の子孫ではなく、徹の祖先は私の周辺に居ると考えた方が良い。子供が生めるのは忍しかいない。私だって現代に戻れなければここで大人となり子供を――。そうだとしたら私は徹の祖先。男の人だって徹の祖先に成り得るじゃない。茜は困惑し口から唸り声が漏れた。
「姫。どうされました」忍が心配そうに茜の顔を横から覗きこんだ。
「大丈夫です」
「しかし、苦しそうでしたよ」
「王様の記憶を思い出そうとしているだけですから」
「どうか無理をされないでください。姫が元気でおられることが何よりも大切なのですから」
地響きと嘶きが背後から聞こえてきた。二頭の馬が通り過ぎた。
「伊賀様。一大事です。伊賀様の部落が何者かに襲われたと言う兵が来まして、我々は兵を出すことになりました。直ぐにお戻りください」兵士の一人が手綱を強く引き馬の向きを変えてそう叫んだ。
「伊賀。私たちは大丈夫です。直ぐに部落に戻ってください」 
伊賀は険しい顔のまま、馬に積んでいた荷物を匠に渡し、片手を天に突き上げ馬を走らせた。
「私たちも戻った方がいいのではないですか」茜は忍に尋ねた。
「いいえ。逃げてきた兵士を追って敵がやって来る可能性があります。そこに姫を連れて戻ったりすることはできません」忍はいつも戦略的に物事を考えていた。
「戦になるんか」勇は忍に尋ねた。
「そうですね。戦い方を誤ると長い闘いになるかもしれません」
「なんで人間は戦を繰り返すのやろか」勇は首を傾げている。
「難しい質問ですね。助け合う気持ちを忘れてしまうからでしょうか。それよりも、ここで戦えるのは匠と私。守るべきは姫と勇。しかも荷を積んだ動きの遅い白黒馬。盗賊にでも襲われたら一溜りもありません」茜の背中をムズムズと冷たい血が駆け上がった。
「鳥見洞窟に急ぎましょう」忍は厳しい顔を隠さなかった。もし盗賊に襲われたら忍は馬も荷も勇も置き去りにし、茜を背負って山を駆け登るつもりだった。
 なだらかな上り坂はいつの間にか風景を変えていた。左側に赤色の岩肌が迫り、右の沢は深い谷。先頭を進んでいた匠が片手を上げ止まった。匠は白黒馬から降り、草の絡まった枯れた蔦を太刀で切り落とすと蔦の固まりが音を立てて落ち、洞窟の口が開いた。
匠がどうして洞窟の在りかを知っているのだろうか。茜は直ぐその疑問に襲われたが、匠は何事も無かったように蔦の塊を腕の長さほどに刻み松明を作っている。洞窟の前で火を起こした忍の顔が赤色の岩肌と共に浮かび上がった。茜は自分の額を掌でパチリと叩いた。私たちを発見してくれた若と助さんの二人は奥さんの出産で平群に留まることになり、伊賀も戦いに向かってしまった。忍も匠も鳥見洞窟を知らないはずなのに、のこのこと付いて来てしまった。茜は自分の未熟さに腹が立ち、眉間に皺を寄せた。
「匠さんはここに来るのは初めてなのですよね」匠はでき上がった松明を顔の横で左右に揺らして頷いた。
「どうして、洞窟がそこに有るを知っていたのですか」
「ああ。それですよ」匠は背伸びをして茜の背後を指差した。
木の間から丸太で四角く組まれた門が見える。その門には茜たちも見覚えがあった。
「それが目印なのです。道を挟んだ反対側の斜面に洞窟が有るのだと若からの伝言が有りまして」茜の眉間の皺が消える間も無く、高い声が森に響く「あれは王様が建てたのよ」忍は門を指差し、胸に手を当てて言った。
「どうして王様が建てたと分かるのですか」
「形です。姫が建てられた鳥居は上に載せる丸太が柱より左右に出っ張っていましたでしょう。王様が島の頂上に建てたものは柱の外に丸太は出さないのです」忍は門に向かって手を叩き何かを祈ってから、すっきりした顔で微笑んだ。
「やはり王様はここに来られていたのです。何か思い出しませんか」
「――残念ですが何も」茜はそう答えるしかなかった。
「洞窟の中を調べてください。王様が暮らされた痕跡が残っているかもしてません」匠は松明に火を灯し太刀を抜いて洞窟の暗闇に入っていった。暗闇で揺れる炎を眺めている茜と勇の前で忍は太刀を上段に構えている。鳥居の周辺を張り詰めた空気が支配した。
 暗闇から出てきたのは太刀を鞘に仕舞った匠だった。王様の痕跡どころか食料になる兎さえ居ないと匠は両手を広げている。忍は洞窟の前に浅い穴を掘り、枯れ葉と枝を入れて松明の火を差し込んだ。茜たちはそれを取り囲むように座った。
「もしかしたら、王様は忍さんが残った島に戻ろうとされたのではないでしょうか」
「王様は私たちが待っている島には戻ってこられなかったのですよ」
「瀬戸内海の地図を描いてちょうだい。河内湖も入れてね」茜は勇に落ちていた枝を渡し、足で落ち葉を掻き分けて土の黒板を作った。
勇は首をひねりながら河内湖を描き、その横に生駒山を付け加えた。
「淡路島と小豆島。本州と四国」勇は二本の平行線の間に島を落とし込んだ。
「これから西は小さな島が星の数ほどあって描けへん」
「有り難う。忍さんはどこの島で暮らしていたのですか」
「この二つの大きな島の西。円錐形の小さな島よ」
「そう」茜は小豆島の西に小さな丸を加えた。
「王様は河内湖から船に乗ったとすると淡路島の北か南の海峡を通ることになるでしょう」
「鳴門海峡には渦潮があるやろ」勇は淡路島の南に渦巻きを描いた。
「王様は東に向かったとき渦潮で兵士を失っているわ。そうしたら島に戻るときも行きに通った淡路島の北、明石海峡を選ぶよね」
「そうやな。でも手こぎの船やろ。通る時間帯を間違えると明石海峡も潮の流れが早いで。――淡路島に漂着したかもしれんな」勇は腕を組み自分の考えを唱えてから一人で頷いた。
「王様はそのあたりに居られるのね」忍の目は輝く。
「淡路島から王様が立ち去ってしまったとしても、鳥居が作られているかを調べれば足取りが掴めるわね。匠、船を造ってちょうだい」忍は即座に指示を出した。
「材料は沢山有りますので船は造れるのですが、ここから船を海までどうやって運ぶのですか」匠は苦しそうに顔を歪めている。
「それやったら、ここからあの山を越えれば河内湖に流れ込む川が有るから、その川岸で船を造ったらええとちゃうか」勇は地面の地図に川を描き込んだ。
「以前から一度聞きたかったのだけど」地図を見て匠と一緒になって喜んでいる勇を制するように、忍は声を落とした。匠の顔からすっと笑顔が消えた。
「どうして山や川、そして遠くの海や島まで描くことができるの」
「どうしてと言われても――。図鑑を読んでいるうちにいつのまにか覚えたんや」
「ズカンって何ですか」
「ああ、本や、絵や写真が集められた本のことや」
「ホンとは、シャシンとは」忍は一字一句も聞き落さない。
「姉ちゃん、助けてくれや」勇は両手を頭の上で擦り合わせながら顔をしかめた。
 茜は目を閉じ、白い紙だけが閉じられた図鑑を思い浮かべた。図鑑を説明する前に本、本を説明する前に紙。そう頭の中で唱え、大きく息を吸ってから答えた。
「まず、写真とは細かいところまで描かれた絵のこと」忍は何とか納得してくれたようだ。紙の説明はどうする。この時代には紙が無い。紙に変わるものを必死に考えた。紙は木からできている。だからといって紙は木のことと説明しても忍は納得してくれないだろう。紙に変わるものを見せなくては。茜は焦った。紙の歴史を思い出そうとするが、和紙をすく職人の姿、巻物に墨で書かれた読めない文字ぐらいしか思い浮かばない。
「文字が書かれた木の板が土の中から見つかったやないか」
「それそれ。――木簡。平城京跡で見つかったものね。匠さん。竹を取って来て、縦に細く割ってくれない」
「姫。何を始めるのですか」
「本を説明しようと思います」
匠は林から切り倒した竹を担いで戻ってきた「縦に割るのですか」
「ええ、一節分で構いません」
 匠は切り株の上で竹の一節を切り出し、それを切り株の上に立て八等分に割った。茜は切り株の上に竹の内側が見えるように並べた。
「匠さん。勇の描いた地図を掘ってくれる。勇。松明を持って来て」
 匠は竹がずれないように竹の隅を足で踏みながら竹の裏に地図を刻んだ。茜が松明の灰になった先端を切り株の上に並べられた竹に擦りつけると、竹の内面に地図が浮かび上がった。
「これが有れば地図を持ち運べるでしょう。本当は竹に穴を開けその穴に紐を通せばバラバラにならないのですが」茜は竹の端を両腕に挟み込んで纏めて裏返し、匠に竹の表に斜めの線を切り込ませた。
「これがバラバラになってしまったとしても」茜は竹を切り株の上でかき混ぜ、斜めの線にそって竹を並べ直し、皆にニタリと微笑みを振り撒いてから、また両腕に竹を挟み纏めて裏返した。
「おー。地図だ」大人たちは目を丸くした。
「これを沢山集めた物が本なのです」
忍は切り株の前に座り地図合わせを行って「勇が話していたモジとは何かですか」と尋ねた。
「そりゃ。俺が首飾りに刻んだへんてこな絵のことではないのか」匠が茜の首飾りを指差した。茜は首から掛け服の中に入れていた首飾りを抜き出し、忍が伸ばした両手の上に裏返して広げた。忍は目を瞑り、首飾りを頭上に持ち上げて、目尻から一筋の涙を流した。
「何が描かれているのですか」忍は勾玉を涙に映したまま尋ねた。
「将来の持ち主への願いよ」茜は分かり難くなるように説明した。
「なるほど、願いなのか」匠は勾玉に合わせた手の先を近づけ「モジサマ、モジサマ」と唇を動かす。
「あの鳥居みたいな門を王様が建てたんやったら、柱に何か残してへんやろか」茜たちは獣道を跨ぎ鳥居を見上げた。
「王様」忍が首飾りを持った手で門の柱に触れた途端に風切音と門の奥は大粒の雨が落ちて来た。門の間だけが白濁し、大粒の雨をたっぷりと含んだ強い風が吹きこんで来て柱を抱きかかえた忍と匠は吹き流しのように両足を浮かせた。足元をすくわれ地に転がった茜と勇は草を掴んだが、黄色い雷光と軍手を嵌めた二本の太い手が門から飛び出し茜と勇の太腿を掴んだ。


 茜と勇は砂利の上で仰向けになって転がっていた。
「勇」茜は立ち上がり勇の姿を探したが見つからない。茜の背後から近づいて来た砂利を踏みしめる黒皮の安全靴が目に入った。
「姫。失礼いたします」茜は軽々と持ち上げられ肩に担がれた。汗と油の臭いがする男の背中が見え、脇腹に硬い尖ったものが当たる。
「どこに連れて行くつもり」茜は肩の上で暴れた。
「女王様のところにお連れしますのでご安心ください」男は筋肉質の体の割に丁寧な言葉を使った。
「女王様って。ここは何処。いつの時代なの」茜は不安を全て吐き出すことができれば答などなくても構わなかった。
「姉ちゃん。コンクリの壁や。蛍光灯や。トンネルやで」勇の声がどこからか聞こえてくる。茜は助さんに担がれ平群に連れていかれたときのことを思い出したが、この男は助さんではない。男が着ている上着は水を弾きつるつるとしていて貫頭衣とは明らかに違う。背中に落ち続けていた雨粒は消え、周囲は薄暗くなった。砂利を踏む音が反響し、白い光が男の足元を浮かび上がらせた。
「姉ちゃん。無事か」額から光を放つ男の脇に抱えられた勇の尻が男の背中越しに薄らと見えた。
「お前らは誰なんや」勇は光を放つ男に噛みついた。
「驚かしてすみません。女王様にお使いするものです。石切駅まで我慢してください」
「石切駅やて。大阪の石切やのか」
「そうです」男は息継ぎの合間に短く答えた。
「てことは、生駒トンネルってことなんか」男は反論しなかった。
「こんなところを歩いていたら電車が来てひかれてまうで」
「大丈夫です。先ほど架線に雷を落としておきましたので止まっています」男は一息で答えた。土と鉄の錆びた臭いが鼻を突く。
「トンネルに電車、石切。姉ちゃん、元に戻ったんとちゃうか。な、おっちゃん。ここは現代。本当の現代やろ」勇の興奮した声がトンネルの端から端まで響いた。
「馬鹿ね。現代に居る人は現代にいることなんて感じていないのよ」
 蹴られた砂利がトンネルの壁やレールを叩くと尖った音が返ってくる。茜は目を閉じその現代の音を耳で味わっていた。
「突っ切るぞ」茜を担いでいる男は叫んだ。勇が顔を上げると背後から昇る朝日に照らされた鳥居の影に見えた。
「電車や。運転席や」上りと下りに電車が並んで止まりトンネルを塞いでいる。数枚の四角いガラスから非常灯の光がトンネルに漏れていた。その中で運転手は帽子を取り額の汗を拭い、車掌は背を向けマイクを握り何かを話している。
「ぶつかるで」と勇は男の厚い胸に向かって叫んだが、男は鼻で笑ってから茜と勇を頭の上に持ち上げた。勇の声は悲鳴に変わった。
目を開くと男の胸から上だけが灰色の床から抜け出していて、黒色の革靴や赤いハイヒール、流線型のスニーカーが左右を流れ後方に消えていく。薄暗い電車の中を茜と勇は飛んでいた。
「スーパーマンやで」勇は握り拳の右手を前に、両足を揃え真直ぐに伸ばしたが、誰一人気が付く乗客は居なかった。
「止まるんやったら駅で止まれや」「トイレはどないするんや」乗客の不満の声が次々と聞こえては消えていく。運転席と眩しい光のアーチを通り抜けると茜と勇は堅くてザラザラの床に転がっていた。
「もっと丁寧に降ろしてよ」と茜は上半身を起こしたがそこには男たちの姿は無く、代わりに幼児が寝転がっていた。
「坊や。どうしたの」茜は男の子の傍まで這って行った。
「坊ややない」床の上で振り返ったのは幼い時の勇だった。きっと勇と初めて会ったときぐらいの。
「どうして」茜は周囲を見渡した。見覚えがある石切駅。しかし何かが違う。プラットホームの屋根を支えている柱が新しい。下りのプラットホームにはしばらく動きそうにない無人の電車。電池が無くなったアナログ時計のように長針が足踏みし同じ時を何度も刻んでいるような空虚な感覚に襲われた。茜は目をパチパチとさせている幼い勇に救いを求めるしかなかった。
「もしかして、勇なの」
「そや。姉ちゃんどうして幼いんや」
「年上に向かって失礼なことを――」姉弟喧嘩を止めたのは背後からの問いかけだった。
「茜さんですよね」急に声を掛けられた茜は叫び声を上げた。声の主は小さな男の子。小学校の低学年ぐらいだろうか。その後ろにお腹の出た中年男性と派手なシャツにパンタロンを合わせた若い女性が立っていた。三人ともどこかで会ったことのあるように思えた。
「茜さんですよね」男の子はまた尋ね、茜が頷くと
「やっと会えました。僕のことを覚えていますか」と微笑む。
 やはりこの人たちと会ったことがあるのだ。茜は錆びついた記憶を辿ったが遊園地のミラーハウスのように正しい道が見えず右往左往するだけだった。幼い勇が右手を伸ばし山肌に張り付きながら下る線路を指差した。線路沿いの建物から狼煙が上がっている。
「何の合図なの」
「ちゃう、火事や。お化け屋敷が燃えているんや」記憶から消す事ができなかった消防車のサイレンが遠くから聞こえてきた。
「もしかしてヘルスセンター」
「そや早く助けに」
「お姉さん。勇をお願いします」茜は男の子の後ろで突っ立っているパンタロンの女性にそう言い残し、プラットホームから飛び下り線路の上を走った。電車が動き出したら私は終わり。頭の隅でそう思ったが、体は勝手に枕木を数本も飛越て跳ねるように走っている。茜は線路と道路を区切る緑色のフェンスをよじ登り、ヘルスセンターから黒い煙が立ち昇っているのを確かめてからアスファルトが敷かれた道路に飛び下りた。あの時の火事なのだろうか。現代に戻ったのではなかったのだろうか。どうして勇は小さいのか。状況が掴めないまま茜は走るしかなかった。ヘルスセンターの玄関から浴衣姿の客がタオルを口に当て走り出てきた。
「お母さん」と茜は叫びながら半開きになって止まっている自動扉をすり抜ける。ロビーの天井から黒煙が両手を広げて降りてきた。茜は消えかけている記憶を必死に手繰り寄せて、お母さんがどこにいるかを思い出そうとした。確か更衣室に残されていた勇の母親をお母さんは探しに戻ったのだ。更衣室に行こう。受付のカウンターに沿って右に曲がれば更衣室にでる。頭の中のヘルスセンターの地図を広げ一番奥の更衣室を目指した。カーペットの上を四つん這いになって馬のように駆けた。男性用の更衣室を通り過ぎたところで
「何やってるの茜」頭の上から怒鳴り声。茜は尻餅をつき見上げた。
「茜。子供と一緒に逃げたのではなかったの」煙の切れ目から口と鼻を掌で覆ったお母さんの顔が見えた。
「お母さん。死んじゃだめ」茜はお母さんのお腹に顔を埋めシャツを掴んだ。お母さんの香りに包まれ全身の力が抜けようとしている。
「茜。しっかりしなさい。お母さんは男の子の母親を探しに行かなくてはならないの」
「男の子のお母さんは避難したわ。お母さんも早く露天風呂から逃げて」茜は更衣室を指差した。
「何て格好をしているの」茜は自分の服を見て貫頭衣のままであることに気が付いた。
「それは後。早く逃げて」茜は煙とお母さんを更衣室に押し込んだ。
「茜。ここにいた男の子はどこにいるの」
 遠い昔に母から裸の男の子を連れて逃げてと言われたことを茜は思い出した。その男の子が勇なのだ。更衣室には勇の姿は無く、茜は露天風呂に飛び出した。ボイラー室からは太い狼煙のように空高く黒い煙を上げている。男湯と女湯を仕切っている岩の上から木製の塀が落ちて来て露天風呂で飛沫を上げた。
「もしかしたら勇が溺れているのかも」茜は露天風呂に入り、浮かんでいる木の破片を掻き分けたが勇は見つからない。違う。勇は駅のプラットホームに居たのよ。駐車場に面した木の扉が音を立てて開き塀が波打つように揺れた。その扉から勇を抱きかかえている太った男が現れ、露天風呂に入ってきた。
「姉ちゃん」勇は茜に手を伸ばした。
「その子とお友達なの」
「ええ、ちょっと」茜は言葉を濁した。
「勇ちゃん、勇ちゃん」泣き叫ぶ女の声。駐車場から濡れた長い髪を振り乱し女の人が飛び出してきた。バスタオルを体に巻いただけの峰子だった。峰子は露天風呂の湯船の中で立っている茜に見向きもせず、露天風呂の縁に立っていた太った男から勇を取り戻し、胸に抱いて頬と頬を磨り合わせた。
「勇。無事だったのね」峰子は瞳から溢れた涙を胸に落とした。
「ここは危険だ。駐車場に逃げて」太った男の背後から現れたのは駅で茜に声を掛けてきた男の子だった。岩の上から黒い影が忍者のように飛び降りて来てお母さんの前に片膝を付いて座った。
「女王様。御無事で」降りてきたのは駅で男の子の背後にいた若い女だった。お母さんがどうして女王様と呼ばれているのだろうか。「あなたたちが来たと言うことは、時の変わり目なのね。徹君。茜をお願い」お母さんは胸を張った。
「徹」思わず茜は大声を放った。
「徹って、井原徹君なの」徹は頷いた。
「どうしてそんなに小さいの」茜は徹に問いただした。
「小さいって。同学年なのだろう。一度鏡を見た方が良いよ」
 浴室のガラスに映り込む幼い自分の姿「嘘でしょう」頭の中を整理できなくなった茜は掌で頭を叩いた。
「その話は後にして、船長避難しましょう」徹は太った男に話した。
「船長――」茜は頭をもう一度叩いた。この男に制服を着せれば確かに船長に化ける。と言うことは、横に立つ若い女は船のデッキで徹を監視していた女ということになる。
「姉ちゃん。逃げるで」幼い勇が茜の手首を掴んだ。機械室の窓が落ち火柱が屋根の上に這い上がった。駐車場に繋がる扉から防火服を着た消防士がホースを引き摺って現れた。
「こちらから逃げて」消防士は銀色の腕を激しく振る。峰子は勇の腰を強く抱き、茜はお母さんに手を引き駐車場に飛び出した。
駐車場の端で燃え上がるヘルスセンターを呆然と見ている茜の耳に、タイヤが唸る音が飛び込んできた。消防士の制止を振り切って駐車場に入ってきた白いカローラ。マフラーから黒い排気ガスを振り撒いている。その車が急ブレーキをかけ目の前に止まった。運転していたのは勇の父、康介だった。
「峰子、早く乗れ」峰子は勇を抱いたままは助手席に飛び乗った。勇は振り返り助手席の窓越しに茜の顔を探し「姉ちゃん」と叫んだが鉄の扉とガラス窓に遮られた。カローラはお尻を滑らしながらタイヤを鳴らして消防車の間をすり抜け駐車場を飛び出してしまった。
茜は何一つ声が出せなかった。勇は見知らぬ男女に拉致されたのではなく本物の両親の元に無事に戻ったのだ。それよりも康介も峰子も茜に気が付かなかったことがとても辛かった。徹の肩が茜の肩に触れた。徹は寂しそうな顔を隠さずに「俺が話をややこしくしてしまったみたいだ。ごめん」と囁いた。
「どうして徹が話をややこしくしたことになるのよ」
 徹は一文字に閉めた唇を一呼吸置いて緩め「家で話そう」
「そうね。落ち着いて話をしましょう」お母さんが手を伸ばし茜の手を握った。茜はお母さんと手をつないだまま線路沿いの坂道を登り踏切にでた。その踏切は渡らず家のある生駒山に向かって伸びる坂を更に登った。母の手の温もりと柔らかさを久しぶりに感じ茜の心は高鳴ったのだが、まだお母さんと呼ぶことができていない。茜は自宅に向かう細い道のアスファルトの亀裂をひたすら眺めていた。
「茜。母さんを助けてくれて有り難うね」
茜は萎んでいた胸を張ってお母さんの顔を見上げた。この顎この鼻この香り。間違えなくお母さんだった。
「私――。混乱しているの」茜は人差し指でこめかみをつついた。
「そうよね。お母さんは数分の記憶が重なっているだけなのに頭が痛いわ。茜は長い記憶が複雑に絡みあっているのだから辛いでしょうね。大変だけどゆっくりと解いていきましょう」茜は強く頷いた。今までとは違い、私には本当のお母さんが傍にいる。辛いことや分からないことが有ればお母さんを頼ればいい。自分で決断し全ての責任を負わなくてもいい。茜は姫として背負っていた沢山のものを下ろして良いのだと自分に言い聞かせた。今頃、勇はお母さんとお父さんに会えて幸せを噛みしめているだろう。勇と正真正銘赤の他人になってしまったが勇とは記憶を共有しているのだから、明日にでも勇と会って両親とどんな話しをしたのか聞いてみようと思った。
小さな鳥居を潜り賽銭箱の前で手を合わせてお母さんを助け出す機会を与えてくれた神様に感謝の気持ちを伝えて頭を下げた。大人たちは賽銭箱の横を通り抜け、神社裏の壊れたブロック塀を跨ぎ我が家の裏庭に入った。隣の家とは大人が一人通れるぐらいしか隙間はない。茜はその隙間からピンクのカーテンが閉められた二階の子供部屋を見上げた。母が火事で亡くなってしまった後、生活のために売ってしまった家だ。その後は取り壊され小さなマンションが建てられた。茜は無性に懐かしかった。徹が勝手口で手招きをしている。大人たちは勝手口からぞろぞろとキッチンに入り、玄関とキッチンの間にある六畳ほどのリビングのソファーに身を沈めた。
「茜。シャワーを浴びて服を着替えてきなさい」お母さんが冷蔵庫の中を覗きながら茜に言った。
木の階段を素足で上り子供部屋の扉を開くと抜け落ちていた記憶が一気に蘇った。畳に足をそっとおろすとその柔らかい畳の目が足裏に食い込む。それは懐かしい感覚だった。茜は天井を見上げた。二連の丸い蛍光灯が四角い笠を被って茜を見降ろしている。茜は笠の中から垂れ下がる紐を引いた。青い稲妻が蛍光灯の中を駆け巡り青白く灯った。理由は判らないが茜の瞳から青白い涙が溢れていた。
「茜」茜の胸に腕が絡まり背中に柔らかい物が触れた。お母さんが心配をして様子を見に来てくれた。
「お母さん」涙が溢れ畳にポツリと音を立てて落ちた。茜は巻きついた腕を強く掴んだ。
「お帰り。無事で良かった」
「お母さんこそ――。やっと親子に戻れた。もうどこにも行かないでね」と言うとお母さんは長い溜息を洩らした。
「後で説明するから、先にシャワーを浴びておいで」と言って顎を引き階段を早足で降りて行った。
 シャワーから落ちてくる薬の臭いがする水を茜は顔で受けてから、長旅でばさばさになってしまった髪を濡らした。安物のシャンプーの香りさえ茜には嬉しかった。泡は全身の汚れを削り落とし排水溝に吸い込まれていく。二千年前の記憶も流されて消えてしまうのではないだろうか。茜は不安になった。お母さんの「後で説明するから」の言葉も引っ掛かる。それにどうして徹がここに居るのだろうか。首飾りに刻んだ日は三年も先なのに。茜は体をちゃちゃと洗い、綿菓子のようなバスタオルで体を包んだ。茜は自分の幼い姿が映る鏡を直視することができなかった。どうして元の時代に戻らなかったのだろうか。茜は目を閉じて顎を上げ肩に垂れた髪をバスタオルで挟んだ。そのおかげでお母さんを助けることができたのよ。この幼い体は後三年間我慢すれば元に戻るじゃないの。勇とは家族で居られなくなったけれども近所にいるのだから会いたくなれば遊びに行けば良いのよ。茜は現状を前向きに捉え、この時代に来たことを幼い頭に納得させようとした。――やはり気になるのはお母さんが説明すると言ったことだった。応接間の扉を開いたら私は何を宣告されるのだろうか。茜はドライヤーの熱風で心の乱れも吹き飛ばそうとした。脱いだ貫頭衣はゴミ箱には捨てず洗濯籠に畳んで入れた。
「あ、勾玉が無い」心が揺れ始めた。茜は勾玉がいつも触れていた自分の胸に握り拳を当て、勾玉のつるりとした形と冷たさを思い出していた。鳥見で忍さんの腕に首飾りを掛けたまま。誰に首飾りを託せば良いのか答えを出せないうちに忍さんに託してしまった。奈良に行くのを止めてくれた訳ではないが、小さな徹が石切の駅で待っていてくれたのだから、二千年前の忍さんから幾人の祖先の手を伝い徹に届いたことになる。 勾玉に刻んだのは『アカネ ナラ イクノ イシキリエキ トメロ』に日付とポートタワー。
「ちょっと待って、私が奈良に行くのは三年も先の話しなのよ」茜は鏡に映る自分に問い掛けた。奈良に行くのは五年生のとき。それに徹が駅に来たと言うことは首飾りを持っている筈。茜は脱衣場を飛び出し応接間の扉を開けた。
「茜。お客さん用のグラスを取って来てくれる」お母さんは顎でキッチンを指し、直ぐにキッチンに戻って行った。
「ちょっと」茜はソファーでお姉さんと仲良く話している徹の横顔を確かめてからキッチンに入った。お母さんは霜で被われた瓶ビールを冷蔵庫から取り出して、机の上にある丸いお盆の横に置いた。茜は食器棚の奥からグラスを取り出してお盆の上に並べた。
「お。やっぱりそっちの方が良い」「可愛いわよ」グラスを乗せたお盆を持ってリビングに戻ると大人たちは茜のパジャマ姿を見て口々に誉めた。
「そりゃあ、さっきの格好よりは良いわよね」ビールを持ったお母さんが茜の後ろからそう言った。あの格好で一年近く過ごしたのだ、可愛いとは言えないけれど愛着もある。茜はぎこちなくはにかんで、既につまみが置かれているテーブルにグラスを並べた。大人たちが持つグラスは次々とビールの泡を膨らませる。お母さんがオレンジジュースの入ったグラスを茜に手渡し「皆さん。私たち親子の再会を手伝ってくれて有り難う」と言ってコップを頭上に掲げた。
「乾杯。女王様も姫も戻ってこられて、わしの肩の荷がおりた」船長は大袈裟に肩を回した。
「姫って私のこと」
「そりゃそうですよ。他に姫がどこに居られます」船長が張り出したお腹を抱えて笑った。
「それならお母さんが女王様ってこと」皆が一斉に頷いた。
「どうしてお母さんが女王様と呼ばれているの」お母さんは両手で持っていたグラスをテーブルの上に置き、茜に顔を近づけた。
「そうね。何から話せば良いかしら」お母さんは人差し指を自分のこめかみに当て話す順序を考えた。他の人たちも持っていたグラスをそっとテーブルに置き、お母さんの言動を見守っている。
「茜は狐なのよ」母が何を話しているか茜には理解でず「狐ってなに」と訊ね返すことだけで精一杯だった。
「ほら、山に住む犬のような……。尻尾がふわふわで……」
「狐なら知っているわ。私と狐はどういう関係になるのよ」
「頭の中はもう五年生なのよね」
「茜。怖い思いしたときお尻に何か変わったことは無かったか」戸惑っている親子を見兼ね徹が立ち上がった。茜は左手でお尻を押さえ右手に持ったグラスで開いた口を隠した。船が真っ二つに切れたとき。東の海で津波と鉄砲水に襲われたとき。茜のお尻は服の中で膨れ上がた。徹には見えないように隠したのに――。違う。徹と船に乗るのは三年も先、徹が知る筈が無い。
「ややこしいわね。その話は後にしましょう」
「ちょっと待って。私には何が何だか分からないわ」
「そうよね。そしたら茜の結婚の話しを進めましょうか」
「は、結婚」茜はグラスを持った手で自分の胸を隠した。
「お母さん。何を言っているのよ。私はまだ小学生なのよ」
「だから急がなくてはならないの」茜は母の言葉をどう理解すれば良いのか見当が付かず、ジュースを一気に飲み干した。
「女王様。姫は何もご存じではないのです。急がず外堀から埋めて参りましょう」船長はソファーの前で片膝をカーペットにつき顎髭を自分の胸に押し付けて言った。
「そうですね。何からどう話せば良いかしら。上手く説明できる人はいますか」リビングの中を見渡したが、どの顔も歪んでいる。
「お母さん、話しを急ぎ過ぎたわね。今日は疲れているだろうから話は明日。ご飯を食べたら早く寝なさい」と言って、大人たちの宴会が始まった。

 母が言った狐や結婚のことを考えると眠れるわけがないと思っているうちに茜は深い眠りに落ち、目覚めたときには辺りは明るくなっていた。時を飛び越えることに体力を使ったのか、時を操作したことのしっぺ返しなのか、熱が出る直前のように全身がだるく直ぐには起き上がれなかった。天井には蛍光灯。机の上で時計が時を刻んでいる。昔の家の天井がそこに有る。現代のちょっと前に戻ってきたことは間違いない。現代に戻るのだろうか。もし現代に戻ったとしても昨日母を助け、勇と他人になってしまったのだから、現代も茜の知る現代とは変わってしまう。――悩んでいても仕方がない。状況を把握し何が最善なのか判断しないとならない。茜は部落を救うために勝手に身に付いた決断力を使うときがやってきたと思った。
――伊賀は無事に部落を取り戻すことができたのだろうか。若の赤ちゃんは元気にしているのだろうか。赤ちゃんの顔だけでも見とけばよかった。心配しても変えようのない二千年前の過去より、今の自分、目の前の現実を前に進めなくてはならない。茜は上半身を起こした。枕元にワンピースが置かれていた。茜はそれに袖を通した。忍び足で階段を降りたが廊下も玄関も静まりかえっていた。応接室の扉を少し開いて中を覗いてみたがもぬけの殻。テーブルの上はビールの空き缶やお摘まみの袋だけでなく、水滴の跡さえ残っていなかった。キッチンに回り込むとの毎朝食べていたテーブルに食パンとバナナが置いてある。茜は堪らずバナナを咥えた。
「美味しい」茜の瞳から涙が零れた。昨晩は宴会用の寿司を食べたがそこまでの感動は無かった。二千年前でも米も魚も食べていたからかもしれない。もしパンやチョコレートを口に入れたらどうなってしまうのだろうか、茜は想像しただけで身震いがした。
「どうかされました」子供の声がキッチンに響き茜は飛び上がった。
「驚かせてしまってすみません」声の主は徹だった。
「食べますか」茜が小さく頷くと徹はテーブルの上の食パンをトースターに入れてから、冷蔵庫からオレンジジュースとヨーグルトを取り出しスプーンを茜に突き出した。
 茜は徹と目を合わせることができなかった。指先の震えを必死に抑えそれを受け取り、落ちるように椅子に座った。子供の徹に何を緊張しているのだろう。それよりもここは私の家。徹に朝食を出すのは私。そう思ったのだが体は鋼のように硬く重かった。
 狐色に焼かれた食パンが乗った白い皿がテーブルの上を滑り茜の前に止まった。徹に礼を述べ、小さく千切ったパンを小さく開けた口にできるだけ上品に入れ「美味しい」と言ってみたが、味など判らない。胸の鼓動が徹に聞こえてしまうのではないか。徹はどうして我が家に居るのだろうか。どうして皿やスプーンの在りかを知っているのだろうか。頭の中が沸騰し耳から湯気が吹き出してしまいそうだった。茜はパンを持ったまま耳を掌で覆った。
玄関の引戸に嵌め込まれた磨りガラスを震わせる音が聞こえた。
「すんまへん」幼い男の子の弱々しい声が聞こえた。
「まあ、どうしたの」廊下からお母さんの声がし、その声でこの家全体が急に息を吹き返し動き出した。徹はオレンジジュースを持ったまま頭だけを廊下に出し玄関を覗き込んだ。
「勇ちゃん。眠れたか」徹の発した勇と言う名に反応したのは茜だった。茜はパンを皿に投げ出し「勇」と短く叫んで立ち上がり徹を押し退け廊下に飛び出した。紺色の短パンとアルファベットが並んだティーシャツに着替えた勇が玄関で立っていた。茜は裸足のまま玄関に飛び降り勇を強く抱きしめた。
「姉ちゃん。痛いやんか」
「ごめんなさい。お父さんとお母さんは元気にしている」
「二人共元気や。それよりちょっと話が有るんやけど」
「勇ちゃんは一人で来たの」お母さんが心配そうに覗きこんでいる。勇の家は近いとは言え、今の勇は幼児だ。お母さんが心配するのも無理は無かった。
「失礼致します」玄関ポーチで人影が動いた。大人の男性が引き戸の隙間から顔を覗かせた。
「どうぞ」お母さんがそう言うと引き戸が音を立て開いた。
「早朝からすみません。勇の叔父の澤田達郎と申します。勇がどうしても茜ちゃんと話がしたいと言うもので保護者として伺いました」と言って脇に抱えた本が落ちないように手で押さえて御辞儀をした。
「おじさん」茜がそう言うと、勇は茜の顔の前で指を広げた手と首を忙しく左右に振った。茜は倉田家にもらわれなかったのだから、達郎叔父さんとは赤の他人。それどころか初対面。茜は大きく息を呑んだ。叔父さんは応接室に子供たちは茜の部屋に上がった。
「姉ちゃんは記憶がかすれて来てへんか」勇は畳に足を伸ばして座りそう切り出した。
「かすれるって昔のことを忘れてしまったの」
「そうではなくて現実なのか夢だったのか混乱してしまってやな」勇の姿は幼児になってしまったが、話し方は二千年前と同じで物知りの小学生だった。
「そうね。私はかすれると言うより皆にあれやこれやと理解できないことをつぎつぎと言われて頭の中が混乱しているのよ」
「あれやこれってなんや」
「まず。大人たちがお母さんのことを女王様と呼ぶのよ」
「おばさんも首飾りをしているんか」茜が困った顔をしているのを確かめてから勇は「女王様の家系とちゃうんか」とからかった。
「そうなんだ」徹は奈良の大仏のように硬い表情をしている。
「茜のお母さんは先祖代代女王様を継がれている。正確に言うと元々は王様だったのだが――」
「てことは、姉ちゃんは次の女王様やな」勇はそう言って笑ったが
「そう言うことになる」徹は顔を強張らせた。
徹は何を知っているのだろうか。どうして親戚でもないのに私の家に居るのだろうか。茜は徹との関係を確かめてみることにした。
「ねえ、徹君はどうして石切駅に居たの」
 茜の問いに徹はしばらく考えてから、自分の胸元をまさぐり、首飾りを頭から抜き取り茜に渡した。
茜がは勾玉を裏返すと『アカネ ナラ イクノ イシキリエキ トメロ』と刻まれていた。
「姉ちゃん、兄貴に届いたんや。すげーやんか」勇が茜の掌に有る勾玉を覗きこんだ。
「――姉ちゃん。ちゃうで」
「間違いないわ。匠が刻んでくれた物よ。ほらポートタワーも」茜は勾玉を指差した。
「ちゃうちゃう。日にちは合っているけど年がちゃうで。ほら」
茜は目を凝らして数字を追うと最後の9が6と刻まれていた。
「匠が上下を間違って彫ったんとちゃうか」
「それで私たちはお母さんの命日。火事の日に戻ったってことなの」そんなに都合良く匠が彫り間違えてくれるのだろうか。茜は顎先を横に傾け勇を睨んだ。勇は首を傾けて茜を睨み返した。
「まあ、小母さんが助かったんやからええやん。僕らは姉弟ではなくなってしまったけどや。こうやって会えるんやから我慢するしかあらへん。やけどなあ、また退屈な幼稚園児やわ。積み木やミニカー遊びなんか赤ちゃんのする遊びやで。姉ちゃんはええな天国やで。もう九九や漢字は覚えとるし、テストやっても満点やで」
 勇の言うようにここは天国なのか。得をしたらどこかで損をするのではないだろうか。それに解決しなくてはならないことが山積みされている。
「徹に説明しないといけないことが有るの。徹の祖先が大地を割ったのではないの。だから徹が中央構造線に鳥居を打ち込む必要はないのよ。鳥居を打ち込んでも地が割れるときは割れてしまうのよ」
「どうして――鳥居を打ち込んでいることを知っているのですか」徹は目を丸くさせた。
「だって、船の上で教えてくれたじゃない」
「姉ちゃん、それは未来の話しや」
「そうね、そうよね」茜は胸に手を当てた。
「未来の話しって何なのですか、僕の未来に何が起きるのですか」徹は取り調べをしている刑事のように上から茜を覗き込んだ。
「そうね。説明しないとね。私たちは大阪から松山に帰省する船の中で知り合ったの。徹は大分に行くと言っていたわ」
「勘違いしているみたいですね。ちょっと待っていてください」と言って徹は階段を降りて行った。
これから何が始まるのだろうか。茜は湿った掌を擦り合わせた。徹が軽快な足音を放って階段を昇って来て、畳の上に地図を開けた。西日本だけが描かれた珍しい地図。片隅は千切れ太平洋には褐色の染み。勇は畳に両手を付き地図を覗きこむ。茜は息を呑んだ。
「裏の鳥居は道しるべなんです」徹は窓の外を指差した。
「家の裏の神社のことよね」鳥居が道しるべだと言うことが目の前の地図とどのように関連するのか。茜は理解ができない代わりに頭の中央で白い混沌としていた液体がゆっくりと広がっていくのが分かった。声には出さなかったが勇も眉間に人差指を当て悩んでいる。
 部屋の空気が突然弾けた。徹がちゃんと閉めたはずの扉の下が幾度も音を立て揺れている。茜が扉を慎重に開けると達郎叔父さんが紙パックのジュースと重ねられたグラスを両手に持って立っていた。
「ジュースでも飲まへんか」叔父さんは地図の前に胡坐をかきジュースを茜に、グラスを勇に突き出した。勝手に飲めと言うことだった。叔父さんは脇の下から缶ビールを取り出して喉を鳴らした。
「宝探しでもするんか。面白そうやな。この青い線は中央構造線だよな」叔父さんは地図に描かれた青い線を指先でさっとなぞった。
「兄貴はな。活断層に鳥居を建ててやな、地震が起きるのを食い止めようとしているんや」勇が余計なことを口に出した。
茜は勇の口を掌で塞いだが既に叔父さんの目は徹を捉えていた。
「そんなことをしても自然の力には敵わへんよな」と真顔で答えた。
「判っています。僕らがしているのは王様の奥様が歩いた後を辿りその地の神様に祈ること」
「王様の奥様って」
「我が家には言い伝えが有りまして。二千年ほど昔の話しなのですが、王様の奥様が行方不明になった王様を探しに船で対馬を出たのです。季節外れの台風に遭遇し流れ着いたのが九州の大分。原住民に助けられしばらく滞在したそうなのですが、硫黄山の噴火で大分を追われ修理中の船で愛媛県の佐田岬半島になんとか渡ったそうです。瀬戸内海沿いの集落に助けてもらいながら東に向かい鳴門から淡路島、そして和歌山と。紀ノ川を遡り奈良に辿り着いたそうです」
「なるほど。それはまるで中央構造線を辿る旅やな。それで奥様は王様とは会えたんやろか」
「はい。会えたようですが、王様は御蓋山で、奥様は三輪の辺りで和珥と言う部落に捕らえられ、出会えたのは檻の中だったそうです。その後山火事の混乱の中逃げ出した王様と奥様は平群という部落で保護されたと」
「平群の爺や」勇は右手を突き上げて叫んだ。茜は勇の肩を押さえ込み、口を掌で強く塞いだ。
「亡くなった王様の後を継いで奥様が女王様に成られたそうです」
「詳しく伝えられているんやな」
「言い伝えが竹簡というのに残されていたようなのですが、それも焼けてしまい、どこまで正しいのかは分かりません」
「地の神に祈るのはどうしてなんや」
「奥様が旅の途中でお世話になった部落に立ち寄り、住民に地震の恐ろしさを伝えために鳥居を建て地の神に祈るのです。そうすれば住民は自分たちで身を守る術を身に付けることでしょう」
「それで徹君の家族はこの青い線を辿って旅をしているんやな。判らへんのはこの赤い直線や。何か知っているんか」叔父さんは西日本を南北に分ける東西に伸びる赤い線を指差し徹に尋ねた。
「赤い線は王様が歩んだ道だと言われています」赤い線は対馬から日本海を渡り東へ伸びていた。線の下には岡山の古墳群、神戸のポートタワー、石切、生駒山を越え奈良の御蓋山へ一直線に引かれていた。叔父さんの指は対馬から瀬戸内海に入り岡山の古墳群の辺りでピタリと止まった。
「この辺りは湿地でな。近年干拓されたところなんや。更に昔は瀬戸内海だったんや。航路の中間地点やから王様はここらに留まり船を修理してから東に向かうやろな。ベースキャンプみたいなもんやな」叔父さんは地図上の岡山の文字を指先で数回突いた。
 叔父さんの指先は海の上を滑り、いくつかの島で一休みしながら瀬戸内海を守る淡路島に近づいた。
「王様は淡路島に渡ったのでしょう」茜は忍に王様は淡路島に居られるのではと言ったことを思い出していた。
「いいや、淡路島の周辺は潮の流れが早いところなんや。不幸にして淡路島に流されたかも知れんが、王様は真東に行きたかったみたいやから明石寄りの海岸線に沿って神戸港辺りを抜けて大阪に向かったと考える方が自然や」
 茜は幼い徹の横顔を見てから視線を上げ、徹と上甲板から見上げた真っ赤なポートタワーを思い出した。
「大昔は大阪城辺りを突端にした岬が有ったんや。大阪の街はもともと湖の底やったんや。確か名前は――」
「それってあの河内湖とちゃうか」勇は上半身を乗り出した。
「そや、河内湖や。今は埋め立てられて大阪の街になっているけどな。東に進んだのやから、船は生駒山の麓辺りの岸に着けたんやろう」叔父さんはビールを口に流し込んだ。
突然引き離されたあの時代を茜は既に懐かしく思えていた。忍さんは河内湖に出るための川を見つけただろうか。匠のことだから切り出した木を川で河内湖まで運び、そこで流れに負けない頑丈な船を造ったのだろう。それなのに王様は淡路島に居ないなんて。でもそれは叔父さんの想像に過ぎない。それよりも忍さんが私たちをまだ捜していたら辛い。茜は思考の渦潮に飲み込まれていく。
「どうして対馬から線が引かれているんや。赤い線は御蓋山の辺りから擦れて消えているやろ」勇は違うことを考えていた。
「実は王様は大陸の奥地から攻めてくる敵から逃れるために海に出たらしい。海流に流されてたどり着いたのが対馬だったそうだ」
叔父さんは朝鮮半島の下を指差しふむふむと頷き「どうして赤い線が真東に引かれているかやな」と首を傾げた。
「それは簡単やで。お日様を捕まえに日が昇る東を目指したんやで」
「アホか。どうやって太陽を捕まえるんや」
「いや、叔父さん。勇君の考えは間違っていません。昔の人は東の山を越えたら穴からお日様が出てくると考えていたようで、王様が留まったところには真東に向かって鳥居を建てた形跡があるのです」
「鳥居は真東の印だと言うんか。もし本当にお日様が捉まえることができたとしてやな、王様はどうしようとしてたんや」
「僕の想像なのですがお日様の力で大陸の敵を追い払おうとしたのではないでしょうか」
 叔父さんは肩を左右に傾けてから首をぐるりと回した。
叔父さんは二千年前に行ったことがないのだから納得できないのは仕方がないことだと茜は思った。
「人間は昔から武力を纏って神になろうとしていたのか」叔父さんは肩を落とした「御蓋山で赤い線が途絶えているのは王様が捕まってしまったからなのだな。まあ、赤と青の線は交わっていないが王様と奥様が奈良で会えたのだから良かったとするか」叔父さんは一人で納得していた「おい、ちょっと待てや、赤い線は石切のヘルスセンターの上、いや、この家の上も通っているやんか」目を細めた叔父さんはそう言って立ち上がろうしたが、天に向かって短い呻き声を上げ、膝から砕け落ち地図の横に倒れてしまった。
「叔父さん」茜が声を上げた途端、扉が勢いよく開き船長と女、その後ろからお母さんが入ってきた。
「あなたたち外で遊んできなさい。叔父さんは疲れておられるのよ」
 茜たちは部屋を掃き出されるように出て階段を降り外に出た。
「叔父さん。大丈夫かしら」茜は二階の自分の部屋を見上げた。
「姉ちゃん。何か変やないか」
「変って何がよ」
「叔父さんが倒れたときや。呼びもせんのに船長たちが部屋に入ってきたやろ。叔父さんが倒れるのを知っていたんやないか」
「そんな」と茜は口先から声がこぼれたが確かに変に思えた。
「きっと、缶ビールの呑口にでも眠り薬みたいなのが塗られていたのかもな」と徹は顎を指先で摩り茜の部屋を見上げている。
「何の為にお母さんたちがそんなことをするのよ」
「叔父さんは知り過ぎたのだと思う」
「それって口封じってやつか。これ以上秘密を知られたらグッスやな」勇は掌で自分の口押さえ、腹を握り拳で突き顔を歪めた。
「耳封じだな。叔父さんの身を守る為だと思う」
「耳封じ――。なら私たちはどうして殺されないのよ」
「身内やからに決まっているやないか。でも僕たちも裏切ったらグッスやで」茜は両手で胸と腹を隠した。
「ちょっとヘルスセンターまで付き合ってくれ」勇は鳥居をくぐり、坂を下りながら頭の上で手招きをした。坂の上から参道を見下ろすとヘルスセンター、その先には大阪の街が広がっている。叔父さんの説明通りならばこの向きに対馬が有り、そこから伸びる赤い線の上を歩いていることになる。駐車場の入口にはパイロンが並んでいて車は入れない。露天風呂に繋がる木製の扉にも黄色いテープが張られ立入を制止しているたが勇はお構いなしに扉を押した。
「勇、駄目よ。怒られるわ」
「大丈夫や。僕は幼児や、怒られるのは家で寝ている叔父さんやで」
「あなたね。叔父さんや両親が警察に怒られるのよ」
 勇は振り返り心配する茜に唇を横に歪め「姉ちゃん。僕たちが岩に刻んだ文字を見たくないんか」と言って扉を跨いだ。
 女湯と男湯の間を仕切っていた塀は倒れ湯船に木の破片が浮かんでいる。露天風呂の周りは水浸しになっていた。火の出たボイラー室の白かった壁は黒く焼けただれ、屋根は焼け落ちていた。
勇はつま先を立てて歩いて、壊れた壁を跨ぎ女湯から男湯に入った。
「なんやこれは」岩を覗き込んでいた勇が露天風呂全体に響くほどの声を出した。茜が男湯に頭を差し入れると、勇が男湯側の岩を指差し怒っていた。徹は勇の横で握り拳を口に当て笑いを堪えている。
「勇、どうしたの」
「どこかの阿保が、おを付けたんや」勇が岩に刻んだ「ならだめ」の先頭におの字が刻み込まれていた。
「自分へのメッセージが唯の落書きになちゃったわね」勇の背中を叩いて茜は声を出して笑った。こんな時は笑い飛ばしてあげる方が勇の気持ちを和ませることを茜は知っていた。茜は女湯側の岩に背をぴたりと当て天を見上げ、肩を落としている勇に話しかけた。
「こうやって忍さんから隠れたわね」
「動いたら忍さんがグッサやったな」勇は男湯側の岩に背を当てた。
「忍さんって誰」徹は岩に貼り付いている二人に尋ねた。
「二千年前に行方不明になった王様を捜していた女の人」
「女やのに沢山の兵士を纏めているんや」徹は二人の説明を聞いても驚く素振りさえしなかった。
「この岩を神様だと信じていて、それを傷つけた私たちを殺そうと岩の上から弓矢で狙っているのよ。皆元気にしているかしら」
「姉ちゃんは阿保やな。二千年も生きている人はいないで」
「だって昨日――」茜はそう言いかけて、勇がもっともなことを言っていることに気が付いた。二千年前の人が死なずに生きているとしたら、この世の中には凄い人数の人が生きていることになり地球は人で埋め尽くされてしまう。二千年先の現代に戻って来たと言うことは、その間に沢山の人が生まれ死んだことになる。茜は体を翻して額を冷たい岩に当てた。忍さんだけではない若や平群の爺も、みんな死んでしまった。私はそんな人たちが残してくれた命の上に立って生きている。私も何かを残し未来の人を支えることができるのだろうか。茜の頬に透明の涙が一筋流れた。
「ねえ。昨日お母さんが変な事を言ったのよ」茜の告白は露天風呂に重い空気を呼び込んだ。
「私が狐なのだと言うのよ。失礼しちゃうわよね」
「――それは事実なのです」徹は腕を組み平然と答えた。
「馬鹿言わないでよ。私は人間よ」茜は手の甲を見せ、毛の生えていないことを強調した。
「ものすごく怖いことに遭遇したときに尻が膨らんだでしょう」徹は眉間に皺をよせ、自分の尻を叩く。
「お尻が膨らんだのは尻尾が飛び出したからなのです」
「尻尾」茜はお尻を掌で押さえた。お尻から尻尾が出ると言われ平常心でおられる女の子などどこにもいない。
「どうして私が狐なのよ」
「それは――。お母さんが狐だからかな」
「はあ。お母さんも狐なの」
「茜さんのお母さんは我らの女王様。茜さんは姫になるのです」
「女王様と姫」茜は頭を抱えた。
「ほら、現代でも姉ちゃんは姫やないか」勇はからかった。
「徹、我らの女王様って言ったわね。ということは徹も狐だということ」徹は頷きあっさりと認めた。
「同じ狐ですけど我が家は女王様に仕える身。姫の家とは家柄が違うのです」
「それで私の家に徹が住み付いているってわけね」
「住み付いている訳ではないのです。行方不明になっていた女王様を僕の父が長く探していたのですけど、見つけることができず大分に戻ってきたのですが先日亡くなってしまったのです。父の形身であるこの首飾りを朝日にかざしたとき、勾玉に文字が刻まれていることに気が付いて――。石切で赤い線が通る家をしらみつぶしに当たったのです。そして女王様である姫のお母さんを見つけたのです」
「姉ちゃん。小枝さんや助さんは首から上が狐やったやないか。あの二人が姉ちゃんの祖先やったんやあらへんか。――それでか。それで姉ちゃんは動物と話ができたんやな」勇は一人で納得している。
「二千年前にはまだ狐人が生き残っていたのですね。言い伝えによると人間と狐人は共に暮らしていたのだけれど、言葉が話せる人間が狐人を奴隷のように扱うようになってしまったそうです。狐人は身を守る為に人間の血を取り入れ狐の血を薄めることで姿も声も人間に変えたそうですが、僕らの祖先は人間の血が濃くなると横暴になってしまうことに気が付いたのです。人間は動物が住む山を壊し川や海そして空までも汚す。最後には人間同士が殺し合う。だから祖先は狐の血を守ろうとしたのだと思います」
「もしかして、私たちはその血を守る狐だと言うの」徹は頷いた。
「僕らは絶滅危惧種なのです」
「もしかして僕も狐なんか」勇は尻に手を当て眉間に皺を寄せた。
「みんな動物の血が混ざっているのですが、勇君は人間の血が濃いのです。我々は長い間血統を重んじたばかりに狐の血を濃ゆく引き継いでいる人は非常に限られているのです」
「でも仲間やったら小母さんや船長たちだっているやないか」
「そうなのですが子孫は残せないのです。女王様たちの姿は若く見えるますが狐の年齢だともう老婆なのです。姫だって僕だってもう若くはないのです」
「嘘でしょう。私はまだ小学生なのよ」
「僕たちは一年で人間の三、四歳も年齢を重ねているのです。だから人間のように長くは生きられないのです」
「私はもう大人だと言うの」
「人間の年齢で言えば成人していることになります」茜は膝を濡れたコンクリートの床に落とし両手で顔を覆った。
「僕は姫のような立派な家系ではないのですが、その血を受け継いでいる若い男はもう僕しかいないのです」
「もしかして、母が言っていた結婚って、徹と結婚するってことなの。ちょっと待ってよ」茜は握り拳でこめかみを押さえた。
「おい、お前たち。ここで何をしている」低い声が露天風呂に響いた。懐中電灯を持った警察官と銀色のケースを持った消防官が男湯から首を出した。
「逃げるぞ」徹は茜と勇の腕を引いた。
「待て、待たんか」そう言われて待つ奴はいない。三人は露天風呂から駐車場に出た。正面玄関には消防署の赤いライトバン、駐車場の入口にはパトカーが赤色灯を回したまま止まっている。
「こっちよ」茜は学校の帰りに通っていた裏道、垣根沿いのどぶに蓋をしただけの狭い隙間に入った。垣根の隙間から赤色灯が動き出したのが見える。追いかけてくる。
「私らが何をしたのよ」茜は赤色灯にそう吐き捨てると何故だか忍の顔が浮かんだ。「忍さん助けて」裏道から出ると右手のT字路からパトカーが顔を出し、こちらに向きを変え速度を上げている。
「左や」勇が叫ぶ。
「駄目、右。パトカーに向かって」茜は赤色灯に向かって全速力で走った。パトカーは三人の横を通り過ぎタイヤを鳴らす。
「今よ。路地に入って」茜は道を渡り車が入れない狭い路地に入った。この路地は図書館に抜ける近道だった。茜は野良猫のように穴の開いたフェンスを潜り民家の裏を通り抜けると図書館の前に出た。
「図書館に入って」勉強嫌いの悪がきが図書館に逃げ込むなどと大人は考えない。茜は本棚に身を隠してから、適当な本を抜き取って椅子に腰かけ本を開いた。本はジュニア向けの歴史本で、心を落ち着かせようと文章を追うのだが内容はさっぱり頭に入って来ない。
「ごめんな。僕が露天風呂に入ったもんやからこんなことになって」
「何よ今更。勉強している振りをして、勇は得意でしょう」勇に嫌味の一つぐらい言わないと気持ちが落ち着かない。徹は腕を伸ばし逆さまに持った本を見詰めていた。
「やっと現代に戻って来たのに少年院になんか送られたくないわ」
「僕らはまだ子供やから少年院も入れてくれへんで」
「そうだけど怒られるでしょう」
「怒られるとしたら警察が親を怒ってやな、親が僕らを怒ることになるんやろな」
「だから嫌なの」
「女王様が怒ると怖そうだからな」
「そうじゃなくて、お母さんに心配をかけたくないのよ」
「シー」徹は人差指を唇の前で立ててから、首をすくめ用心深く辺りを見回した。茜の耳にカウンターで警察官と司書が話している声が聞こえてきた。徹にも聞こえているのだろう。
「裏口は無いのか」茜は首を横に振った。
「姉ちゃん。バラバラに行動したら警察官も判らへんのとちゃうか」
「そうね。私がお巡りさんを引き付けますので先に逃げて。家の裏の鳥居のところで待ち合わせしましょう。徹、勇をお願いね」茜は口をポカリと開けたままの二人を置いて警察官と話している司書に向かって本を脇に抱え歩き始めた。カウンターに近づくにしたがい心臓が大きく脈を打つ。どうしてこんなに大胆なことができるのだろうか。二千年前を姫として生き抜いたことが糧になっている。それ以上に勇を守り抜くという使命を背負っているからだとも思える。
 警察官が振り返り茜に何かを訊ねようとしたときに茜の口が勝手に動いた。「この本を借りたいのですがどうしたらいいですか」茜は警察官の脇の下を潜り抜けカウンターのお姉さんに尋ねた。
「お母さんは一緒じゃないの」
「お母さんはそこのスーパーで買い物しています」
「そこのスーパーなら直ぐに戻って来るわね。お母さんが戻って来たら貸し出しカードを作ってあげるから、しばらくそこの椅子に座って待っていてね」
「ハーイ」茜は幼い声を出して踵を返し椅子に腰かけ本を開いた。
「困ったものね。最近のお母さんは図書館を保育園と思っているのよ」司書は横目で茜を見て警察官に愚痴をこぼしているのが、カウンターから離れているのに茜には聞こえてきた。徹と勇は上手く抜け出せたろうか。外で掴まってパトカーの中に押し込まれていないだろうか。不安になった茜は本を棚に戻しカウンターを迂回して図書館を出た。ハザードランプが点滅しているパトカーが図書館の入口に止まっているが後部座席の窓ガラスにはスモークが貼られ中を窺い知ることはことはできない。茜はパトカーの背後に回り込むことにした。きっと子供の身長だと運転席からは見えないだろう。パトカーの扉が開き閉まる低い音がした。大人の足音だけだったから徹と勇が捕まったわけではない。警察官は他を探すのだろう。茜は身を屈めパトカーとは反対の神社に続く坂を上った。
茜は神社の階段に腰を下ろしゼイゼイと息を繰り返した。体は小学生の低学年。長い坂を上るには何もかもが足りなかった。階段に仰向けに倒れ頭上の鳥居を見上げると、鳥居の柱の影から徹も勇が飛び出してきた。
「茜さん。大丈夫ですか」「姉ちゃん。お巡りさんは」
「勇。先ずは私を心配しなさい。まあ、大丈夫よ。撒いて来たから」
「流石、姫ですね。ここに居ては危険ですから、家に入りましょう」
徹は茜の背から腕を反対の脇の下に差し入れた。嬉しいのだけど恥ずかしい。体は幼児だけど頭と心は少女。茜の頬は熱く真っ赤に染まった。茜は心の中でやはり私は徹が好きなのだと呟いた。
 茜は勉強机の椅子に座り、勇と徹は畳に腰を下ろし天井を見上げるだけで子供部屋はしばらく沈黙が流れた。茜が勇と家族となって三年、二千年前の旅を入れると四年間一緒にいたことになる。勇にとっては物心ついたときには茜がいたのだから実の姉と変わらない存在になっている。それが徹と結婚したら勇とは離れ離れになって暮らすことになる。それで良いのだろうか。
「姉ちゃん。本当に結婚してまうのか」勇は重い口を開いた。
「――そうね」茜が気の無い返事しかできなかったのは、二千年前のことを思い出していたからだった。
「助さんと小枝さんのこと覚えている」
「今のところ」
「話す事ができない二人を見て可愛そうにも思ったけれど心の隅で下の種族だと考えていたと思うの。私がその種族の末裔だたのね。少しは進化して話す事はできるようになったけど驚いたら尻尾が生えるのよ。笑っちゃうわよね」茜は鼻で笑い唇を強く噛んだ。
「僕やって更に昔は同じ種族だったかもしれんし、尻尾かて生えていたかもしれん。みんな元は同じなんやと思うで」
「そうね。みんな一緒なのかもしれないね。見た目で差別したらいけないのね」茜は髪の毛を手櫛で掻き上げた。
「姉ちゃん。忍さんと匠を覚えているか」
「もちろんよ。あの二人、王様と会えたかな。忍さんに淡路島に向かうように言っちゃったから」茜は髪の中に手を入れて頭を掻いた。
「あの二人が王様と会えんかったとしても、首飾りは兄貴に届いたんやし、今まで血がつながったということは、王様と奥様が再会できた証や。二人の希望は叶ったことにならへんか」
「そうね。私たちも王様と奥様と会うことができていたら、二千年後に絶滅しそうになることを教えてあげられたのにね」
「それは無理やと思うで。僕たちがそのことを知ったのは、この時代に戻ってきてやからな」
「そうだったわね。上手くいかないわ」
「姉ちゃんが種を繋いでも人間が山を壊したら住むところを失うし、戦争を始めたら人間だって絶滅危惧種の仲間入りや。そんなこと子供でも分かるのに大人はアホやで」
「私たちはどうしたらいいのよ」
「――わからん」勇は下を向いたまま頭を横に振った。
「お金に目が眩んだ大人は無理や当てにならん。やけど、子供ならなんとかなるかもしれん。僕、作文を書くわ。自然や動物を大切にしましょうとか戦争はしたらあかんとか、クラスで発表するんや」
「地道なこと」
「地味やけど子供にできることは限られてまうやろ」
「なら、これから作文を書けば。姉ちゃんが手伝ってあげるから」
「これからか」
「当たり前よ。私がお姉ちゃんで居られるのも結婚式までなのよ」
「宿題は出てへんけどな」
「馬鹿ね。先生に売り込むのよ」
「宿題を売り込むんか」勇は目を見開いた。
「宿題じゃないわよ。自由作文よ。全生徒の前で読み上げるのよ」
「全生徒の前って、朝礼の校長先生みたいにか。無理や」勇は両手と頭を勢いよく振り、座ったまま後退りをした。
「姫の命令が訊けないの」
「そんなときに姫を持ち出すんか。ちょっと待てや。僕は小学校二年生の頭やけど体はまだ幼稚園児や。もともと宿題もあらへんし、売り込む担任もおらへん」
「すっかりそのことを忘れていましたね。でも書きましょうね」
「なんで」と拒む勇を茜は睨んで「勇が小学校に上がったらそれを先生に売り込めばいいでしょう。ほら」茜は勇の背中を叩いて勉強机の横に立ち上がり、椅子を回転させて勇を座らせた。

額を浮かすと腕全体がジンジンと痺れ、勇は顔をしかめた。首筋と肩の筋肉が張っていて体を起こすことができない。右手は指に鉛筆が絡まった格好で固まっている。作文が仕上がり茜に作文を読んでもらっている間に勇は眠ってしまった。「そや。姉ちゃん」勇は椅子に座ったまま体を捻り部屋を見渡した。部屋には誰もいない。勇が寝るはずだった客布団が畳の上に取り残されていた。机の上には昨夜書いていた作文と三つ折りになった手紙が置かれている。作文にはお姉ちゃんが赤鉛筆で添削した丸い文字が並んでいたが、それは勇にとってどうでもいいことだった。作文の隣に置かれた手紙がカーテンを透けた淡い光で浮き上り早く読めと勇に催促している。

 二千年前に行ってしまったときは、勇が図鑑で身に付けた知識で生き抜くことができました。これからはその知識でお父さんとお母さんを守ってください。私の弟でいてくれてありがとう。

勇は「姉ちゃん。行ったらいかん」と叫びながら階段をかけ降り、応接室の扉を開けた。昨日からソファーで眠り続けている達郎叔父さんが鼻の下を摩り寝返りを打ち軽快に鼾をかいている。
部屋は片付けられ台所のシンクは水滴一つ残っていないし、ゴミ箱も空。生活感が全くない。
「おっちゃん、起きて。姉ちゃんを見んかったか」勇は叔父さんの肩を揺らした。
「おー、勇。おはよう」
「姉ちゃんを見んかったか」
「茜ちゃんなら二階やろ」
「駄目や」勇は叔父さんの顔にそう吐き捨てるように言って家を飛び出した。勇は鳥居の下で立ち止まり、顎に指先を立て茜がどこに向かっているかを考えた。「赤い線。駅や」勇は鳥居からの下り坂を全速力で駆け下り踏切の手前で線路と平行する道に折れた。紫色の生駒山は赤と黄を纏い、木の行列が峰の形を生み出していた。
「姉ちゃんは奈良に行くつもりなんや」勇はフェンスに顔を押し付け横たわる線路を東に辿る。プラットホームの端で人影が動いた。
「姉ちゃん」勇はフェンスを両手で掴み叫んだがその声は届かない。
勇はまたフェンスに沿って走り始めた。ホーム端のペンキで黄色く塗られた柵が開き、懐中電灯の光が煌めく。光は上下に揺れながら階段を降りている。数人の男がホームの下からトロッコを引き摺り出して線路にその車輪を合わせた。ホームの上に黒と白の塊が現れた。黒い塊が何だか勇には判らなかったが、白い塊は白無垢を着た花嫁。花嫁は黒い塊に白く尖った手を乗せ、階段を一歩一歩降りていく。線路に敷かれたバラスの上でよろめく花嫁を黒い塊は支えた。
男たちは線路上のトロッコに畳が敷かれただけの台車を連結させた。花嫁は黒い塊の肩を借りその畳の上に座った。
「兄貴や。姉ちゃんを連れていかんでくれ。姉ちゃん。僕や。行ったらあかん。結婚したらあかん」勇はフェンスに足をかけよじ登り、フェンスの上から上半身を乗り出して叫んだ。花嫁さんは畳の上でゆっくりと向きを変え勇に向かって綿帽子を傾けた。
「奈良に行ったらあかん。なんでや。なんで僕を捨てるんや」
花嫁は勇に向けて両手を合わせてから、畳に両指を立て綿帽子を大きく傾けた。花嫁は何かを振り切るように素早くトンネルが待ち構えている東の向きに上半身を戻した。
姉ちゃんを引き止めるには線路を走って行くしかない。勇は右足をフェンスの上にかけた。
「こら何をしているんや」大きな手が半ズボンのベルトを掴み、勇は動くことができなくなった。
「バカなことはよせ」すててこ姿の爺さんが勇のズボンを両手で引っ張った。爺さんの横で白い犬が勇のお尻に向かって狂ったように吠えている。
「爺さん、行かせてくれ。姉ちゃんが行ってまう」勇は駅を指差した。爺さんはフェンスに顔を寄せ勇が指を差しているホームを覗きこんだ。
「何も居らへんが」
「花嫁が居るやろ」勇の瞳から大粒の涙が溢れ爺さんの額に落ちた。
「もう、ええ。降りんか」爺さんにはその姿が見えていない。
木にしがみついている蝉を剥がすように爺さんは勇の手足を左右順番に外して痩せた肩に抱え、勇の尻を平手打ちした。
「姉ちゃん。姉ちゃん」勇は爺さんの背中に向かって泣き叫ぶしかなかった。

     9
トロッコがゆっくりと動き出した。男たちがハンドルを押す度に金属の軋む音と息遣いだけが聞こえ、ヘルメットに付けられたヘッドライトが上下に揺れる。白粉の香りと口紅の味、隣には夫となる徹の緊張した横顔。背後には留め袖を着た女王様がしっかりと前を向き座っている。なぜだか茜にはどの光景も新鮮で他人事のように思えた。トンネルの入口が迫ってくる。勇とはもう会えないのだと覚悟を決めなくてはならない。茜は唇を噛んだ。泣いてはいけない。茜は両手で顔を覆い溢れてくる涙を受け止めるしかなかった。
徹の暖かい手が茜の背に添えられ(好きなだけ泣いた方がいい)と言う。人間として泣くのもこれが最後に成るのだろう。顔に風が当たっているはずなのに風をまったく感じない。緊張しているからなのか。いや違う。全身が痒くて熱い。白無垢の中で皮膚が剥がれているのかもしれない。茜は目を閉じて耐えるしかなかった。そうすると人間だったときの思い出が右から左へと流れては消えて行く。茜の瞼を暗闇が覆った。
トロッコがトンネルの坂を登りきった辺りでトンネルが突き上げられ縄のように波打つ。茜は太腿の上で重ねていた両手を畳の上に広げつぱったがトロッコごと宙に浮いた。トンネルの両壁に並ぶ蛍光灯が一斉に消え車輪とレールが上げた火花がトンネルを照らした。トロッコは背後から何かに押され奈良に向かって加速した。
(何が起きたの)茜が振り返ると女王様は両手を広げた。
(後ろを見ないで。人間は進化しようとして自然の中で生きる感覚を失ったのよ。危険を察知することができなくなったのよ)
(危険って。もしかして地震なの。勇は無事なの)
(人間のことより茜は自分の事を心配しなさい)
顔の毛穴が一斉に開き、顔面が火照りだした。毛穴の奥から釘が突き出たような無数の傷み。膨れ上がった口。茜は両手で顔を押さえ呻き声と悲鳴を同時に上げた(頑張れ)畳に倒れ込み、のたうち回る茜の背中に徹は手を添えた(トンネルを抜けるまでの辛抱よ)
トンネルには車輪がレールの繋ぎ目を弾く音だけが響いた。。
茜から遠く離れた鼻先にトンネルの天井から落ちてきた水滴が当たった。何かが変。茜が自分の顔に手を添えようとしたら、徹が茜の手を強く押さえつけるように握った。徹の毛むくじゃらの手は小刻みに震えていた。男の徹でも今の状況は恐いのだろう。でもこれから頼れるのは徹しかいない。茜は徹の手を強く握り返した。
(大丈夫だ。俺が付いている)茜は口元が弛み微笑んでしまった。
(なんだ。どうした)徹は茜の顔を覗き込む。茜は頭を左右に振り(なんだか幸せ)茜は徹に聞こえないように囁いた。
(何か言ったか)徹が困惑し少し苛立つ顔を見るのが茜は何故だか楽しく、いつまでもこんな細やかな会話を続けたかった。
暗闇から破裂するように緑色と水色の世界が広がった。
(出た。奈良だ)徹は味方が待っ砦に戻ってきた勇者のように目を輝かせた。茜は金魚のように口を大きく開け新鮮な空気を肺一杯に吸い込んだ。
(空気が美味しく感じます。ずいぶん昔にやって来たのでしょうね)
(昔なんかに来ていないわ。生駒山が大阪から流れてくる汚い空気を止めてくれているだけよ)女王様が後ろから答えた。トロッコが生駒駅を通過すると左右に住宅地が広がる。その奥には山を切り開いて造られた団地がひしめき合っている。トンネルから吐き出された汚い空気が山や川をじわじわと灰色に固めていくように思えた。
(トンネルを大きな岩で塞いでしまいたいわ)茜は徹に話しかけた。徹は真っ白い毛に被われた尖った鼻で風を切り裂き、毛を風に踊らせて前を睨んでいる。茜は正座したまま徹に寄り添えるように体をずらした。徹は茜の顔をちらりと見て表情を緩め、茜の手の甲に手を合わせ二度軽く叩いてから手を離す。そこには艶やかな白い毛に包まれた茜の手が残されていた。茜は素早く手を引いたが、その手は自分の影のように陰湿にまとわりつく。自分の顔にその手を当て顔の起伏を確かめた。鏡が無くてもそれが今までの自分でないことは明らかだった。鼻や口は前に飛び出し、太く硬い毛で覆っている。茜は小枝さんの顔を思い出し遠吠えに似た悲鳴を上げた。
(落ち着け。この先が大変だ。早起きの住民に気が付かれないように、奈良町を御蓋山までかけ上がらないとならない)
(無理。目立ち過ぎるわ。私たちはこんな姿になってしまったのよ)
(人間に捕まると俺たちは動物園で見せ物になるか、最悪は田畑を荒らす害獣だと撃ち殺される)
(どうして車で移動しなかったのよ)
(あのトンネルを潜らないと俺たちは人間の姿を捨てることができないのだ)夫婦の肩に白い毛で覆われた前足が置かれた。
(山の向こうで大きな地震が有ったの。人間たちはそのことで必死のはず。平城京跡を抜けると小川を跨ぐ橋でトロッコを止めるわ。そしたら私に付いてきなさい、川の中を走るから。途中から鹿の群れに紛れて道路を走って春日大社を目指します。遅れないように)
(鹿の群れが道路を走っていたらそれこそ人間に見つかるわ)
(地震に怯えた鹿が山に向かって逃げていると人々は思うだけだから)女王様は二人の背中を優しく叩いて背筋を伸ばして座り直した。
女王様が地震を起こしたのだろうか。いくら女王様でもそんな力が有るはずはない。きっと地震が起きることを本能で感じ取って私たちの結婚式の日取りを決めたのだろう。茜はそう思うようにした。
草の匂いが立ち込める平城京跡にトロッコは突入すると正面には若草山、その横に御蓋山が並ぶ緑の景色が広がった。あの山奥で私たちは人里を避け暮らすことになる。この風景はもう二度と見ることができないのだろう。茜はカメラのシャッターのように瞼を瞬きさせて風景を頭の中のフィルムに焼き付けた。
男たちが背中を反らせてブレーキをかけ、トロッコはコンクリートで固められた護岸の上で止まった。
(行くわよ)白い毛の狐となった女王様はその左右の護岸を蹴り跳ねながら降り、水飛沫も立てずそっと川底に立ち茜たちを見上げた。(徹。どうしたら立てるの)茜は御蓋山頂上から届いた光が毛の一本一本を赤く被覆し輝いている若い狐に尋ねた。狐は真っ直ぐに伸ばすことのできない右足を前に浮かせ茜の前足を指し示した。茜の足元には帯と着物が畳の上に落ち白い輪を作っている。茜の体も人間の姿を失い桃色に輝く狐に変わっていた。茜は遠退く意識を必死に留め四つ足を震わせながら台車の上で立った。狐は茜の頭にそっと首を巻き付けるように擦り付けた。川底から遠吠えが沸き上がってくる(お母さんが呼んでいる)茜は前足をばたつかせて川底を覗きこむと、背筋を伸ばし堂々と円を描いて歩く女王様の姿があった。茜は枕木の上に前足を投げ出したが後足が台車から離れない。台車が後ろにずれ動き茜はよろめいた。狐は茜の腹とレールの間に体を投げ入れて茜を支えた(徹。有り難う)茜は四つ足で枕木を探しゆっくりと歩くことはできたが護岸を駆け下りることは難しかった。
(この先に階段が有るわ)川底から女王様の声が聞こえてくる。
(茜。僕に付いて来て)線路と川沿いに設けられたフェンスは鉄橋の付け根で途切れていて護岸の上に出ることができた。川底に導くコンクリートの階段を茜は這うように降りた。川の水は茜が想像していたより温かい。トロッコを漕いでいた男たちは黄土色の毛をした狐になっていて、茜たちを護衛するように周囲を取り巻いた。
「急ぐわよ」女王様の掛け声で狐の集団は水飛沫を上げ走り出した。暫く川底を走ると葛餅色の排水が川に流れ落ちている護岸の四角い穴に狐たちは飛び上がり一度暗闇に吸い込まれてから、女王様だけが穴から顔だけを出し前足を持ち上げた。上がって来いと言っている。徹の背を踏んで茜は穴に這い上がった。その穴はコンクリートの板で小川を塞いだ暗渠だった。生臭い空気が充満している。板の隙間から差し込む細い光しか見えない。狐たちは茜が上がったことを確かめると何一つ躊躇せず暗闇を駆け出した。
(懐中電灯が無いと無理よ)茜は徹に語りかけた。
(瞬きをしてごらん)徹は瞬きを三回繰り返してから鼻先をその暗闇に向けた。茜も徹と同じように瞬きを繰り返すと視界がすっと広がった。暗渠は松明が並ぶ洞窟のように明るかった。
(これなら進むことができるわ)茜は耳を立て鼻先を動かした。
暫く進んだところで徹は振り返り鼻先を左に向け上下させた。
(左に曲がるのね)茜は前を走る狐それそれの微かな臭いを嗅ぎ分け、足音も聞き分けることができるようになっていた(人間が失ってしまった獣の能力なのね)茜は徹と並んで全速力で走った。水面が橙色に輝いている暗渠の口から飛び出ると川底の藻が茜の足裏を舐めた。川沿いに並ぶ木の塀が回り茜は水飛沫を立て川に沈んだ。
徹が茜の首下に鼻先を捩じ込み水に沈んだ茜の頭を持ち上げる。
(花嫁衣装が――)と茜は体を捻り立ち上がり袖の辺りを見るが、水を丸く弾いた白い毛並みが胸へと続く(狐になっていたのね)茜の心は記憶と現実の間で揺れ動く(怪我は無いわ)茜は心を体の中心に戻し辺りを見回した。川は深緑の水を溜めた池に繋がっていた。亀が重なり合って甲羅干しをしている岩。池の先には石の階段段差の上に五重の塔がそびえている(興福寺――。もしかしてここは猿沢池なの)茜は勇と断層に隠れながら東の海に向かったことを思い出した。女王様が鼻先を天に向け人間には聞こえそうもない甲高い声を上げると、その声を聞き付けた鹿がしだいに池に接した遊歩道に集まってきた。狐たちは護岸を跳ねて登り、白い息を吐く鹿の群れに体を隠した。その群れはゆったりと動きだし幅広い石段を避けて、その横の上り坂を御蓋山に向かって上った。鳥居を潜り砂利道に足を踏み入れると、御蓋山から流れ落ちてきた二筋の光が道の左右に並ぶ石灯籠に次々と炎を入れ砂利道を揺れ照らす。茜は風に煽られた炎のように心を震わせて立ち止まった。徹は鹿の群れの中で茜の体に背を摺り寄せ(心配するな。僕が傍にいる)と言って茜を慰めた。春日大社の回廊が見えてくると鹿たちは二股に分かれた道を左へと折れ掛けていく。女王様は茜が体を左に傾けた音を聞きもらさなかった(茜。真っ直ぐ進みなさい)女王様は鼻先を御蓋山の左に向けている。鹿たちの足音は軽快だった。朱色の慶賀門を鹿たちは脚を前後に伸ばし空を飛ぶような姿で潜りつぎつぎと春日大社に吸い込まれて消えた。
(私たちはどうして春日大社に行かないの)茜は女王様に尋ねた。
(春日大社は人間のもの。私たちは山の中)女王様はなだらかで奥行きのある石段を大股で登り、突き当りを右に折れ伊勢の方角に向かって駆けると、そこには紀伊神社の社が鎮座していた。女王様と徹は社と灯籠の間をすり抜け枝を揺らし森に入って行く。茜もその後を追った。足元が腐葉土に変わると足の裏がなんとも心地好い。自分の足がアスファルトやコンクリートにはもう適応していないように思えた。その上、木の陰に入ればもう人間に見付かることは無い。茜の張り詰めた気持ちが微かに緩んだ。女王様が急に皆を止め、振り返り走ってきた参道を見下ろした。
(茜、徹。よく見ておきなさい。人間の世界を。もう見ることは無いわ。人間も動物の一種に過ぎないことに気が付いてくれれば私たちも共存できたのに――。残念だわ)木の間から朱色の回廊と南門、それを守る火の消えた燈籠。生駒山の山頂を刺すように稲光に似た細い雲が赤く輝いていた。
(未練は無いわね)一生のほとんどを暮した人間の世界に未練が無いなんてありえない。勇や勇の両親、親戚や学校の友達だってもう会えないのよ。茜の赤く腫れた瞼からもう涙は溢れなかった。その代り人間には見えない一筋の流れ星が石切の有る西の空に流れた。
(人間だ)朝拝の用意をしていた神職が白い袴を蹴飛ばして南門から出てきて竹ほうきを上段に構え周囲を睨み付けている。早朝の地震につづき鹿の群れが林檎の庭に流れ込んできたのだから神職も驚いたのだろう。
(山に入れ)小さな声の伝言が先頭の狐から届いた。狐たちは木の枝を揺らさないように身を屈めゆっくりと山の奥深くに入っていく。笠を伏せた山容の御蓋山を越え奥山の山腹まで茜たちは進んだ。
(ここが神様の降りてこられる場所と人間は考えている)山頂に霧を纏った御蓋山を女王様は見上げ(我々は奥に進むわよ)と言った。
森が薄暗くなるころまで茜たちは山を奥に入った。
(ここは何処なの)(地名などない)
(あの山は)(山に名前などない)茜の問いに女王様は短く答えた。
(名前を付けることは自分の領地としてしまうことに繋がる。茜。人間と同じ過ちを犯してはならない。全てを神様の体の一部を借りているだけ。だから争いは神様を傷つけることになるの)女王様は茜と徹に託すように話した。
 西の空から紅雲が広がっていた。早朝から慣れない体で山を駆け続けている茜の四足は限界をむかえていた。
獣道が左右に分かれるところで女王様は立ち止まり振り返った。女王様が前足を高く上げると大木に忍んでいた猿がその木をするすると上り、大木の先端を左右に揺らした。
(こちらです)大木から降りてきた猿は女王様に一礼をしてから獣道を戻り、毛むくじゃらの手を蔦の壁に向けた。女王様が頷くと、その壁は滑り落ち、狐の体がやっと差し込むことができるほどの岩の裂け目が現れた。女王様は前足を前に投げ出し、裂け目に頭を押し込む。女王様の尻尾が裂け目に吸い込まれると茜たちもその後に続いた。岩を抜けると広場が現れ柿色の空が円形に抜けていた。広場の奥には蔓が垂れさがった崖。その中央に洞窟とその上に小さな穴が並んでいる。洞窟に導くように十五匹の古狐の頭が並んでいた。
(何処かで見た風景よ)茜はかすれ行く人間の記憶を辿った。
(伊賀、伊賀の部落よ)茜はそう叫びながら洞窟に向かって走った。
洞窟の天井は捻れた幹の木で補強されていた。
(やっぱり。伊賀の部落だわ)茜は洞窟の中に入って伊賀を呼んだが自分の遠吠えだけが響いた。洞窟の奥には腐葉土がひかれ獣が寝るだけの部屋がある。伊賀と会ったのは随分遠い昔。伊賀が生きているわけがない。茜は記憶を振り落とすように頭を左右に振った。
(ここを使いなさい)女王様は横穴の入口で体を壁に寄り添えた。
(女王様の部屋ではないのですか)徹は悲壮な表情を隠さなかった。
(ええ。ここなら人間は入って来ないから安心して子供を育てられるわ。それに外で並んでいた爺さんと婆さんが助けてくれるわ)
(もしかして、生き残っているのはあの人たちだけなのですか)
(そうよ。でも年寄りを馬鹿にしたらいけないわ。腕力は無いけれど知識と経験があるのです。それに身を挺してあなたたちを守ってくれることでしょう)
(分かりました。相談にのってもらうように致します)
(お母さんはどの部屋に――)徹は茜の背中に手を添えた。
女王は目細め首を横に振った。女王様はここを出て行くつもりなのだと茜は悟った。
(もう、私はお母さんでも女王でもないわ。あなたが女王様なのよ)お母さんは前足を振るわせ、ゆっくりと鼻先を外に向けふらふらと歩き尾を振った。
(お母さん)(私はお母さんでも女王でもありません……)と同じ言葉を狭い気道から苦しそうに絞り出し首を弱々しく左右に振った。
(お母さん)茜は後を追うために駆け出したが、洞窟の外に立っていた門番が出入り口を塞いだ。
(そこを開けなさい。あなたたちは私の言うことが聞けないの)
(これが前の女王様が残した最後の命令なのです)
茜は尻を地に落とし天井に張り巡らされた捻れた木を見上げ涙を流した。茜は二階に部屋が有ることを思い出し洞窟の横穴から階段を登り小部屋の穴からお母さんの後ろ姿に向かって高い声で息の続く限り長く長く吠えるしかなかった。お母さんの姿が岩の亀裂に吸い込まれるのを見届けた茜は頭を左右に激しく振って涙を飛ばした。
(女王様。御主人が呼ばれています)門番が下から叫んでいる。
茜は階段を降り徹の声のする部屋に入った。徹が前足を上げ地に埋められた瓶を指し示している。茜が瓶の口を覗き込むと中には茜と勇が着ていたトレーナーが折り畳んで入っていた。色褪せ、持ち上げることができないくらい朽ち果てているが、首の後ろに縫われたタグにブランド名が読み取れる。茜は瓶の口を前足で押さえ口を突っ込んで「お母さん、お父さん、勇」と最後となる人間の言葉を使って叫んだ。これがここに納められていると言うことは、助さんが古代の王様だったということなのか。それならば小枝さんは王様の奥様だということになる。王様と奥様は平群で暮らしていたのよ。
茜は少しずつ笑顔を取り戻していく。あの二人は話ができない振りをして平群で身元を隠していたのよ。種を絶やさないために――。
 徹の白い毛で覆われた暖かい前足が茜の背に添えられた。

                    終

狐福

狐福

母から女王様を捜すよう命令され旅に出た小学生の井原徹は女王様を見つけることができず実家に戻る船に乗った。 倉田茜は家族で松山に帰省する船の中で知り合った徹に実母を亡くした経緯を打ち明けたことで物語は転がり始める。 地図に真直ぐに引かれた二本の線の下に人間には知ることができない狐福が眠っていた。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-31

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