苔寺

苔寺

大東亜戦争の傷跡がようやく消えつつある昭和30年夏。
半年前に妻を亡くした初老の男、虎三。その前に突然現れたのはサイパンで玉砕した戦友の妻。直子。お互いに戦争を潜り抜け、再会し、そして二人のたどり着く先は…
あの元祖「君の名は」を超える人気沸騰中とのウワサ。
女風呂がカラになったという伝説が平成最後に不死鳥となって甦る!

第一話 蛇の目傘

第一話 蛇の目傘

昭和40年夏、東京。
朝から油蝉が果断なく鳴いている。虎三は蒸し暑い座敷の真中であぐらをかき、大きく開けた硝子戸の外をぼんやりと眺めていた。日差しが虎三の近くまで迫ってくる。
「やりきれんなぁ、こう暑いと」
先月亡くなった妻のカヨの仏壇を背にして呟いた。亡くなった後もこうして呟く癖は消えず、ああ、そうか、君はもういないんだったな、と目を伏せる。胃がんという病魔が40代半ばの妻の命を突然奪っていった。虎三はと言えば会社一筋で、家庭を顧みなかったが、その自分も今年末には定年退職、結局ひとりだけが残されることになってしまったのだ。一人娘は横田基地で知り合ったアメリカ人と結婚し、今はグアムに住んでいるらしい。妻の葬儀の時に初めて知った。
雨雲がにわかに広がったかと思うと、サーッと通り雨が軒先に音を立てて降り注ぎ、苔がまだらに生えた狭い庭を濡らしている。これまで家庭を妻にまかせっきりで、帰宅すれば疲労困憊、家族と口もきかなかった自分。今日はことのほか苔の濃い影が深く心に沁みこんでくる。

「うむ、回覧板が溜まっていたんだな。雨も上がったことだし行ってくるか」
座布団をそのままにして、玄関に向かい靴箱の上に雑に重なっていたバインダー板をつかんだ。下駄に親指を掛けたところで、玄関の呼び鈴が小さく響いた。一体誰だろうか、と思いながら格子戸を横に引くと見覚えのない一人の女性が和服でお辞儀をした。
「すみません、突然お伺いして。私カヨちゃんの女学校時代の知り合いで、小野直子と申します。ある友達から先月カヨちゃんが突然亡くなったとお聞きして、お葬式にも参列できなかったので、お線香だけでもあげさせていただきたいと思って参りました」
見知らぬ女性の突然の来訪に戸惑いながらも、虎三はとにかく中に招き入れ、居間の仏壇にまで案内した。足袋を履いた直子は音も立てずに居間に入り、静かに線香を炊き霊前で手を合わせた。手を下して遺影をしばらく眺めていたが、スッと立ち上がり
「ご主人様、このたびはご愁傷さまです。どうぞお気を落とさぬよう。それでは私はこれで失礼致します」
「ご丁寧にありがとうございます。折角お越しいただいたのですから、故人の話でも聞かせて頂けませんか。カヨとは女学校時代のお友達だったとか」
「はい、無二の親友でした。結婚後は疎遠になってしまいましたけど」
「はぁ、そうでしたか。しかしこうして雨の中わざわざお越し頂けるとは、カヨも喜んでいることでしょう。ありがとうございました。実は妻は亡くなる直前に葬儀に参列してもらいたい人たちのリストを私に託しました。その中にどうも貴女のお名前はなかったようで。或いは書き漏らしたのかもしれませんね」
直子はしばらく虎三を驚くほどまっすぐな視線で見つめていた。
「田宮さん、私の夫は小野幸三と言います。サイパンで戦死しました」
「え!小野幸三ですって?もちろん知っていますとも。中野の陸軍学校で席を並べていましたから。彼の戦死は戦後間もなく官報で知りましたが、貴女がまさか小野の奥さんだとは」
虎三は小野というかつての戦友の名前を彼の妻から聞かされて、少なからず動揺した。
直子はすすめられるままに座布団に座り、居住まいを正しながら言った。
「実は私、田宮さんにお目にかかるのは今日が初めてではありません。3月10日の東京大空襲の時、あなたに命を助けて頂いたのです。B29の落とす焼夷弾で焼かれる苦しみから逃れたくて隅田川に飛び込み溺れかかっていたところを、田宮さんが川岸まで引っ張ってくれたのです。憶えていらっしゃいませんか?」

虎三はしばし直子の顔をじっと見つめた。空襲当時は帝都防衛第七連隊の指揮を執っていた。連隊が救助した被災者は無数におり、一人ひとりの顔を覚えてはいなかった。そもそも生死の狭間を彷徨う地獄絵図の中でそんな余裕などあろうはずもなかったのだ。空襲の翌日は焼け野原の中で焼け焦げた死体の山を無表情で片づけたが、自分が生き残れたことの喜怒哀楽などに対して無感覚になっていた。ただ明日になればこの死体の一人になるのだろうと漠然と感じていた。
「どうもあの空襲でのことはよく覚えていません。川に飛び込んで数名の人間を救助したのかもしれませんが、それもあやふやです。しかし小野の名前は久しぶりに耳にしましたよ。サイパンでの戦死、無念です。彼とは予科練でも寝食を共にし、切磋琢磨してきた仲でしたからね。それにしてもよく私だとわかりましたね」
虎三も少し興奮気味に畳みかけた。改めて見ると直子は軍人の妻らしく、背筋が伸びた気品を感じさせる。一方で憂いを帯びた横顔も美しい。
「あの時、私は幼い娘と一緒に飛び込みました。結局救助されたのは私だけでした。岸辺であなたの田宮虎三という布の名札を見たとき、あぁ、この人がサイパンで玉砕した夫の親友だったのだわ、とすぐに分かったのです。戦地へ赴く前に田宮さんのことはよく夫から聞いていましたから。娘はその主人と同じ墓で眠っています」
あの戦争でどれだけの息子や娘たちの命が犠牲になったことであろう。残された母たちは戦後10年たっても墓に詣でているに違いない。こうして奇跡的に生き残った自分だが、直子のような女性と対面していると、改めて戦争の非道さに強い憤りを覚える。国家の命令とはいえ、その戦争に加担していた自分の愚かさが身に染みてくる。
「カヨの墓は隣町の十輪寺にあります。よろしければこのままご案内してさしあげたいのですが。カヨも喜ぶと思います」
「ありがとうございます。私もお参りしたいと願っておりました。連れて行ってください」
十輪寺まで徒歩でも半時間くらいである。妻の死で心に風穴が空いたように、寂寞とした日々を送っていた彼には、直子の訪問は青天の霹靂である。来意は弔いであっても男気一本で人生を渡ってきた男にとって、妻以外の女性と初めて親密に話をしたことは、不謹慎とは思いつつ心が躍る。神妙顔を装いながらも、声は自然と上ずってくるのが自分でもわかる。

家を出ると二人は夕暮れの並木道を肩を並べて歩いた。夕立もすっかり上がり、川からは涼風が吹いている。人通りは少なく、初老の二人の歩く姿は仲睦まじい夫婦の散歩に見えるだろう。直子は口数少ない女だった。女慣れしていない虎三も道中何を話したらよいか、見当もつかないまま結局そのままほとんど無言で十輪寺の門をくぐった。この町では大きな真言宗の寺で、見事な苔庭でも有名である。住職に一応挨拶しておくかと、社務所に入ったが住職は不在で見習い小僧が出てきた。
「はぁ、住職は檀家の寄り合いで外にでおります。お参りならどうぞごゆっくりと」
それだけ言うと、小僧はジロジロと直子を見みながら「はぁ、キレイな方ですな」
と生意気を言う。虎三はみるみる顔を赤くして怒鳴った。
「こらっ!失礼じゃないか!この人は小野さんと言ってカヨの女学校時代の…」
小僧はヘラヘラと笑っている。
「はぁ、これはとんだ失礼を。それでは」
虎三と直子は本堂の脇の苔むした小道を辿って、田宮家の墓の前に立った。墓前で直子は吹き出すように笑った。意外な彼女の変化に虎三は戸惑った。
「あら、ごめんなさい。だってさっきの田宮さんったら小僧さんの前でわざわざ私のことを説明なんかするんですもの、おかしくて笑いをかみ殺していたのですよ。それにカヨちゃんがご主人に愛されていたこともわかって嬉しかったのです」
女というのはわからない。なんでそんなことが可笑しいのか、しかしこれで二人の間で流れていたぎこちない空気は消えた。虎三も思わず微笑んで、
「なるほど、そうですか。それでは一緒にカヨに手を合わせましょうか。あ、カヨが化けて出てきますかね、あはは」
「いえいえ、ぜひご主人様と一緒に手を合わさせてください。カヨちゃんも安心すると思います」
門前で買った菊を備えて、線香の束に火を付け二人して手を合わせた。ずっとこれからは一人詣でだと思っていた。しかし今日は「カヨ、お前の古い友達を連れてきてやったぞ」とちょっと威張ってやりたい気持ちに顔もゆるんだ。
「静かでいいお寺ですこと。今日は思い切ってお訪ねして本当によかったわ。これで私の気持ちも少しは晴れました」
虎三も直子が訪問してくれて、鬱屈した毎日が多少でもやわらぎ、感謝の気持ちが胸一杯に広がった。
「奥さん、それは私も同じです。妻を亡くしてさびしい毎日で心が荒んでいたところ、思いがけずに旧友の奥さんが訪ねてきてくれるなど思いもよりませんでした。これからも気が向いたときで結構ですので、カヨの墓に詣でていただけませんか。もちろん拙宅にもお立ち寄り頂ければ嬉しいです。奇遇にも貴女とカヨは学校時代の友、私と小野は戦友ですし、これも何かの縁でしょうから」
虎三にしては珍しく饒舌になっていた。言ったことに嘘はないが、直子とこのまま永久に別れてしまうことを惜しむ気持ちが潜んでいた。
「ありがとうございます。本当に奇遇なお話ですね。でも男やもめに戦争未亡人、世間であれこれ揶揄する人たちも出てきましょう。お墓にはまた参りますが、田宮さんのお宅はご遠慮させてくださいね。ごめんなさい、せっかくご親切でおっしゃってくださるご厚意なのに、どうも私って明治の女のせいか、頭が古ぼけているんです」
「いやいや、おっしゃる通りです。そういう凛とした姿勢は戦死した小野とそっくりです。それでは駅までお送りしましょう」
直子はそこでまたまた意外なことを言った。
「さきほどは言いそびれていましたが、私、田宮さんとはもう一度だけお目にかかっていたはずなんですよ」
虎三はまた頭を傾げた。隅田川で引っ張り上げた話のほかにも何かあるのか?
「お忘れのようね。小野と形ばかりの祝言を挙げた席に、ちょっとだけでしたけどお顔を見せてくれたじゃありませんか」
この時ばかりは虎三も膝に手を打って奇声を発した。
「ああ!そうだそうだ、あいつの出征前に配給の酒と塩を持ち込んだことを思い出しました!あの時の花嫁が貴女だったんですね。いやぁ、奇遇が重なるもんだなぁ」
虎三の返答に喜ぶとばっかり思っていた直子は急に顔を曇らせて呟くように言い放った。
「はい、そうです。でもあなたは私に何もおっしゃらずにそのまま連隊に戻ってしまった。薄情な人でした」
直子はそのまま急に背を向けると、その場を去って行ってしまった。虎三は追いかけようとしたが、結局唖然として見送るしかなかった。直子の気に障るようなことを言ったのか、一体何なのだ、あの直子という女は。華奢で美しい後ろ姿を見送りながら虎三は何度も頭を捻った。

家に帰ると、玄関に直子の蛇の目傘が立てかけてあるのを見つけた。彼女の居所や連絡先は分かっていないので届けようもない。小野の妻らしい節操を絵にかいたような女だったから、もうこの家を訪ねてくることもないだろう。しかし初対面に近い男に「薄情な人」と言い放ち、そのまま背を向けて立ち去るとは解せない。虎三は「おい、小野。お前のカミサン、一体何なんだよ?」と座布団に腰を降ろしながら呟いてみた(続く)

第二話 軍事教練

第二話 軍事教練

墓参りを済ませて、くるりと背を向けて田宮から立ち去った直子は京成電鉄に乗車し、発車ベルとともに遠ざかる平たい街並みを眺めていた。天井には大きな扇風機の羽がゆっくりと回っているが、一向に蒸し暑さはおさまらない。電車のゴトンゴトンという重苦しい揺れとともに直子の思いは18年前に遡っていった。

昭和12年7月に勃発した盧溝橋事件を端緒に、日本は中国大陸への侵略を本格的に開始した。近衛文麿内閣および軍中枢は自衛権の発動を口実に陸海軍を増派、事実上の戦争に突入したのだ。国内は徐々に戦時色を高め、国民の戦意昂揚のために「欲しがりません、勝つまでは」「ぜいたくは敵だ!」「全てを戦争へ」などの戦時標語を掲げ、女性や子供を含む非戦闘員の国民にまで耐乏生活を強いた。この頃には、飯の真ん中に梅干しを1個乗せただけの「日の丸弁当」奨励、「パーマネントはやめましょう」、国民服やモンペ姿を男女の制服として推奨した教化運動なども叫ばれた。
直子はその当時、女学校に通う生徒であった。盧溝橋事件の翌年から女学校でも軍事教練が始まったのである。帝都墨田小連隊の若い士官が毎週月曜日に教官として訪れ、剣道や柔道だけではなく竹やりや拳闘まで教えた。教官たちは女学生だからと言って決して手を抜かなかった。訓練は過酷を極め、少しでも気を抜くと容赦なく教官の握る竹刀が彼女たちの背中を打った。「貴様たち、それで銃後の守りができると思っているのか!大陸では大勢の兵士たちが毎日敵の銃弾に斃れているのだぞ」と士官たちの間で熾烈な激が飛び交った。直子は生まれつき体も弱く、とてもではないが過酷な軍事訓練に耐えられるものではなかった。しかし士官たちは直子に手加減はしない。ある時、竹刀を背中に浴びた直子はその瞬間、気を失ってその場で倒れてしまった。

目が覚めると、衛生室の木台にそのまま寝かされていた。起き上がるとまだ体中が痛む。この時間ならまだ教練は終わっていないはずだ。這いつくばってでも戻らなければ、と直子の中にも軍人精神のようなものが宿っていた。木台を降りてそのまま廊下に出ると一人の士官がいたので、思わず敬礼をして言った。
「面目ございません。これより教練に戻り、皇国を必ず勝利へと導くよう精進致します!」と叫んだ。
士官は少し微笑んだように見えた。そして直子の目を憐れむように見ながら言った。
「今日はもうよい。このまま帰宅してよろしい」
意外な言葉に直子も少し拍子抜けした。名札を見ると「田宮虎吉」と書いてある。階級はまだ二等兵の若い士官であった。
「このまま帰ったら、ほかの生徒たちに申し訳が立ちません。どうか戻るお許しを」
田宮二等兵はじっと窓の外を見つめながら呟くように言った。
「盧溝橋でわが軍が敵陣に発砲してから、この国はすっかり変わってしまった。君のような体の弱い女学生に竹刀を浴びせるなど、国全体が狂っているよ。でもオレなんかが止められるものじゃない。こんな時代がいつまで続くのだろう」
地獄のような教練の中で初めて聞いた人間らしい言葉、しかもそれが軍人の口から出てこようとは思わなかった。
「しかし皇国の存亡は銃後にも託されています。体が弱いなどと言ってはおられません。私が男だったらすぐに大陸へ飛んでゆきたいところです」
田宮は声を立てて笑った。
「あははは、まるで君と僕とで言うべきことが反対になってしまったな。そうだよ、君のような勇ましい女は僕なんかに代わって前線の兵隊となって皇国に身を捧げてほしいものだよ。」
田宮の一言で一挙に尊敬の念が生まれた。そうだ、いつのまにか私が戦争に洗脳されてしまっていたんだわ。田宮さんの言うことが正論だ。それにこの人ってちっとも怖そうじゃないし、面白い人なのかもしれない。そう思っていたところ、田宮は「気をつけて帰りなさい」と言い残して教練に戻って行ってしまった。

家に帰ってから直子はずっと田宮のことを考えていた。ほんの5分にも満たないような面談であったが、ほのかな恋心が生まれていた。あんなお兄さんがいたらよかったのにな、いろんなことを教えてくれそうだわ。なにより田宮さんは優しい人だ。訓練で倒れた私のことをいたわってくれた。死ぬほど辛い軍事教練だけど、田宮さんに会えるなら我慢できそうだ。いえ、来週の月曜日が来るのが楽しみになっている私…
「直ちゃん。さっきからなんだかニヤニヤしているじゃないの?何かいいことでもあったのかしら」
二つ違いの姉の正子からちゃぶ台で茶を飲んでいるときに不意に言われて直子は我に帰った。田宮さんのことを誰かに聞いてほしい、でも父さんや母さんに言ったら「非国民」と言い返されるかもしれない。姉だったらその心配はない。直子は思い切って今日起こった一部始終を正子に告げた。
「ずいぶん優しい兵隊さんだわ。それにその人ってきっと勇気があるのよ。この戦時下でたとえ相手が女学生の直ちゃんであったにせよ正論を言うなんて、なかなかできないことだわ。兵隊さんって鬼のように怖いひとばかりではないのね」
我が意を得たりとばかり、直子は思いのたけを姉の正子にぶつけた。
「憲兵隊や特高警察なんかに見つかったら、大変なことになるって聞いたわ。あの田宮さんっていう人は、ほかの教官たちと違うのね。なんだか私、来週の教練が楽しみになってきた。来週は田宮さんが私たちの班に来てくれたらいいのになぁ」
正子はすぐに妹の初恋の炎を瞳の奥に見つけた。でもいくらなんでも軍人と女高生では釣り合いがとれない。ましてやこの戦時下で教官と女高生が恋仲になるなど、もってのほかである。
「直ちゃん、あなたの気持ちはわからなくはないけど、その兵隊さんはいつ戦地へ赴くかわからないの。そんな人を好きになったりしてはダメよ、いいわね」
似たような感情を過去に抱いたことのある正子は、諭すように言った。恋愛感情なんて一時の迷い、冷めればウソのように消滅することもよく知っていた。
「あら、お姉ちゃんったらそんなこと言って。私はそんな大それた気持ちを田宮さんに持ってません。それにしてもね、もうちょっと体を鍛えないとダメだと思ったわ。学校から帰ったら腹筋と背筋、それに持久力をつけるため隅田川の側道を走ることにするわ。そのうち田宮さんを驚かしてあげたいわ、あはは」

戦時の暗い世相の中、意外な場面で直子の心に青空が広がった。もちろん恋心は姉には隠したつもりだが、そこは姉妹の中だからすぐに感づかれてしまった。姉に言われなくたってそんなことは百も承知だった。でも田宮さんのおかげで今まで体の弱いことでウジウジと悩みながら過ごしていた毎日から解放されたような力強い気持ちを持てた。女だってやればできる。虚弱な体質だって自主練で改善してみせるわ。

翌日の朝、直子は元気良く家を出た。不思議と昨日の背中の痛みはない。それどころかいつもは途中の坂道で息を切らしていたのが、今朝は楽々と登り切ったのには我ながら驚いた。本当に「病は気から」なのだと分かった。
教室に入ると、親友の関野カヨが駆け寄ってきた。
「直ちゃん、大丈夫なの?昨日の教練で倒れて衛生室に運ばれたって聞いてビックリしちゃったんだけど」
直子は余裕の笑みで返した。
「カヨちゃんごめんね、心配させて。でももう大丈夫よ。これからは体が弱いなんて言い訳しないで、自主練して鍛える決心をしたの。それにね、今まで虚弱だなんて自己弁護してても、なにも良いことはなかったわ。これからは心も前向きに生きようって思いました」
「それは良い考えね。でも昨日何かあったの?ずいぶん嬉しそうじゃない」
直子は否定せずに答えた。
「あぁ、来週の教練が楽しみだわ。どれだけ自分が挑戦できるか試せるし、それに教官の先生にもご指導頂けるしね」
カヨは直子の突然の変貌ぶりに驚いた。これまで死ぬほど嫌っていた教練が楽しみだなんて気が狂ったのか。それに教官の指導が楽しみって何よ。まさか田宮さんのことではないでしょうね。
「へぇ、直ちゃんもいきなり変ったわね。でも前向きに生きることは良いことだから、ぜひ続けてほしいわ。でも教官先生って誰のことかしら?」
直子はちょっとためらった。でも親友のカヨになら打ち明けても良いと思った。
「田宮さん。昨日衛生室で私のことを介護してくださったの。ステキな方だわ」
直子はちょっと脚色してカヨに威張ってみせた。するとカヨは思いがけないことを言った。
「あぁ、田宮さんね。あの人は間もなくラヴァウル基地へ赴くっていう噂を聞いたわ。残念だわね、直ちゃん。せっかく介護してもらったのにね」
直子の目の前は真っ暗になった。ウソだ、あの人が遠いところへ行ってしまうなんて。あの人を目指してこれから自己改革をしようと思っていた矢先に消えてしまうなんてあり得ない。
「ふーん、そうなんだ。でもまだ南方は帝国陸海軍によって治安は守られていると聞いているから、田宮さんもいずれ無事帰還されることでしょう」
ここでたじろいではみっともない。直子は精一杯の背伸びをした。間もなく教壇に修身の先生が入ってきて、一同起立して天皇・皇后両陛下の御影に向かって拝礼した

授業中、カヨは隣の席に座っている直子を落ち着かないふりでチラチラとカヨは見ていた。親友直子の目の奥には田宮さんへの憧れが表れていた。とっさに私は田宮さんはラヴァウルに赴任するなどとウソをついた。よりによって親友の直子が私の田宮さんに恋するなんて許せない。だって私と田宮さんは密かに将来を誓い合った仲なんだもの。そこに親友に横恋慕されても困るのよ。お願い、直子。あの人のことは忘れてちょうだい。

直子は修身の先生の言葉など耳に入らなかった。あの人がラヴァウルに赴任するなんて信じられない。さっきのカヨちゃんの言ったことは本当なのかしら、それとも単なる噂話かしら。でもまさかそんなことを田宮さんに聞けないし。今朝まで意気揚々としていた直子であったが、突然の親友の言葉に打ちのめされ、再び奈落の底にでも突き落とされたような暗い気持ちになったのだった(続く)

第三話 婚礼

第三話 婚礼

満州事変以来、着々と中国に入り込む日本を警戒するアメリカは、航空機用燃料・鉄鋼資源の対日輸出を制限するなど、日本の締め上げが図られた。それでも中国から撤退しない日本に対して、アメリカは石油輸出全面禁止などの経済封鎖を以て之に答えた。その後数度にわたる日米交渉も難航し、アメリカは1941年(昭和16年)11月26日、ハル・ノートを日本側に提出した。これを最後通牒と受けた日本は、12月1日の御前会議で日米交渉の打ち切りと日米開戦を決定、同月8日に大日本帝国海軍連合艦隊はハワイ真珠湾を奇襲し、アメリカ海軍に大打撃を与えた。

大本営発表による真珠湾攻撃の大成功に日本国民は沸き立った。街では提灯行列が連なり、子供たちは軍艦マーチを歌いながら広場で戦争ごっこに興じた。老人たちは日露戦争で大国ロシアに勝利した時のことを思い起こし、感涙に咽ぶのだった。神国日本はアメリカに勝ったのも同然だと皆が信じた。
昭和14年の春に女学校を卒業した親友の直子とカヨであったが、あの事件以来どちらからともなくよそよそしい関係になって行った。実際、カヨの父親は当時海軍大佐であり、田宮の父親とは海軍へ学校の同期であったこともあり、早くから婿候補として田宮に目をかけていたのである。父親同士の決めた結婚にカヨも虎吉も反対のしようがなかったのだが、なにより本人同士が好きあっていたのが幸いであった。特にカヨの虎吉に対する恋慕の念は強く、女学校に虎吉が教官として突然現れた時には胸がつぶれるかと思った。それだけに、親友とはいえ直子が自分と同じ想いを虎吉に抱いていることを知って穏やかではいられなかった。親友である直子への友情は断ち切れないが、かといって邪魔はされたくないという矛盾したような気持ちが支配した。

昭和17年の春が来た。
卒業式の日、袴姿のカヨは思い切って直子に告白した。
「実はね、私と田宮さんはこの秋に結婚するの。私たち親同士が軍人でね、ずっと前から二人のことは決められていたの。ごめんなさいね、今まで黙っていて」
直子は天地がひっくり返るかと思うほど驚いたが、取り乱しては恥だとばかり平静を装った。
「あら、そうっだったの。おめでとう、カヨちゃん。田宮さんはラバウルに赴任されるとか聞いていたけど、結婚の後かしら?」
直子も薄々あれはカヨの嘘だということに気づいていたから、皮肉を込めて言ったつもりだった。
「その予定だったらしいのだけど、戦局が変わったとかでまだ日本にいるのよ。女だからよくわからないの」
カヨも少し口ごもって言った。
「ねぇ直ちゃん、結婚式には来てくれるわよね?こんなご時世だから式と呼べるようなことはできないけど、是非とも直ちゃんにも列席してほしいわ。近くなったら連絡するからね」
直子は長い間、田宮とカヨのことを秘密にされていたような悔しい気持ちで一杯だったが、笑顔を見せながら答えた。
「ええ、もちろん列席させて頂くわ。女学校時代の私にとっても大事な人ですから」
二人の目はしばし小さな火花が飛んだ。お互いに言わなくても心の奥は分かっていたから。
「ありがとう、直ちゃん。そうだ、あなたの旦那様も軍人さんがいいわね。父さんに探してもらおうかしら」
ここまで勝ち誇ったような態度をされ、初めて直子は強い憎しみをカヨに抱いた。これまで友情で結ばれていただけに、その反動の念は強かった。いつかはカヨに復讐してやりたかった。

開戦以来、破竹の勢いで南太平洋を制圧していった日本軍であったが、昭和17年6月のミッドウェイ海戦で大敗北して形勢は逆転した。主力空母4隻や巡洋艦、それに艦載機の多くを失い、ジリジリと制海権を失いつつあった。しかしその後も大本営は依然として日本軍の華々しい戦果を声高にラジオで放送し続けた。日本国民は依然として皇軍の勝利を信じて疑わなかった。
その年の10月、カヨは新郎の田宮と自宅で婚礼の儀式を行った。戦争中でもあり、身内とごく親しい者たちが列席したが、その中に直子の姿もあった。田宮方の列席者のなかに田宮の親友として紹介のあった小野幸三という田宮と陸軍中野学校で同期の若い男の軍服姿もあった。口髭をたくわえ目鼻立ちの深い顔は、直子に少なからず威圧感を与えた。婚礼はまず三三九度で始まり、最後にのど自慢の長老が「高砂や この浦舟に 帆を上げてこの浦舟に帆を上げて~」で二人の門出を祝福した。戦争時の婚礼は儀式ばっていて、参列者に笑顔は見られなかった。いや、むしろ笑顔を見せることは不謹慎でさえあるという空気が支配した。直子も正直言って早く婚礼が終わってくれないか、そればかりを内心祈っていた。退屈であることもそうだが、何より初恋の田宮が親友であったカヨの隣席に収まっているのが辛かった。私を労わってくれたはずの田宮がなぜカヨと一緒になるのか、割り切れない思いであったのだ。

式が終わると通常であればお披露目として街を一回りするのが下町の仕来りであったが、非常時であることもあり、自粛されていた。まして新郎は軍人であるので、派手なことは慎まなければならない。しかしこのまま解散というのはあまりにも味気ないので、田宮の父がこっそりと調達した樽酒が振る舞われた。参列者の男性の前には檜の香りのする枡が塩を盛った皿と一緒に配られた。女性には御萩と抹茶が配られた。酒も甘味も当時としては入手しづらいのだが、贅沢は敵だという時世ながらも婚礼の時くらいは大目に見られていたのだった。
配膳が終わると一挙に場が和んだ。男たちは久々に味わう酒に塩を舐めながら舌鼓を打った。自然と会話もはずむ。
「不肖の息子ではありますが、カヨさんよろしくお頼み申し上げますよ」
田宮の父親は満面の笑みで語りかけたが、カヨは恥ずかしがって顔を真っ赤にするだけである。すると当然のことながらカヨの父親も応答する。
「いや、こちらこそ不束な娘ではありますが、田宮君、がまんしてれよな。その代り君が海軍大将になるまで娘は内助で支えさせるから」
田宮はニコリともせずに答えた。
「その前にこの戦争を終わらせなければなりません」
ちょっとした不規則発言に場は少しどよめいた。
「うむ、早く有利に終結させて、交渉の場に米国を引きずり出さなければならんな」
田宮の父もその場を収めるように言った。米国を中心とするABCDライン包囲は日本をして真珠湾攻撃を決断せしめ「石油の一滴は血の一滴」の合言葉のもと、東南アジアに向かって資源侵略していった。その米国を排除しなければ日本の将来はないと皆が思っていた。
少し硬くなった雰囲気を和らげるように、田宮の母親が少し高い声で言った。
「そういえば虎吉の大の親友でいらっしゃる小野さんはまだお一人でしたわね。カヨの親友の直子さんもこれからお婿さんさがしをしなければならないわね。どうかしら、今度お見合いでもなさったらいかがかしら?」
突拍子もない母の発言ではあったが、白無垢姿のカヨまではしゃいだ。
「お母様、それは良い考えだわ。幸三さんだったら絶対にカヨちゃんにお似合いだと思うの」
母娘の会話を聞いて、当人の小野幸三は真っ赤になってうつむいているのもまたその場を沸かせた。虎吉の父親は幸三に向かって厳かに言い放った。
「うむ、小野君なら申し分ない。きっと直子さんを幸せにする。ただちょっとばかり堅物ではあるがね」
どっと参列者は笑った。やっと婚礼の席らしい華やかな気分が広がったところで、幸三が思いがけない発言をした。
「上官の命令とあれば是非もありません。謹んで直子さんを頂戴いたします」
今まで爆笑していた虎吉の父であったが、幸三のただならぬ表情に虚を突かれてややたじろいだ。
「いや、命令ではない。少し私も酔いが回って口が過ぎたようだ。すまん、忘れてくれ」
幸三は黙ったまま答えない。幸三の一途な性格を皆は知っているだけに、場が白けてきた。婚礼の席がこのまま終わってはまずいと思った虎吉の母が助け舟を出すつもりで直子に向かって言った。
「突然そんなこと言われてもね、直ちゃん。あなたはまだ若いし、第一まだ幸三さんのことを全然知らないんだし、お嫁入りなんてムリだわよね。もう、ウチのお父さんたら酔っぱらっていい加減なこと言うものだから。ごめんね、直ちゃん。それにカヨまではしゃぎたてたりするから直ちゃん、困っているじゃないの」
カヨもさすがにちょっとシュンとしておそるおそる直子のほうを盗み見ると、彼女は意外にも正面に正座している幸三をまっすぐに見ている。
「小野さん、私のようなものでよかったらどうぞもらってください。これも何かの縁だと思いますので」
直子の言葉に一同、唖然とした。しかし直子の顔に曇りや惑いはなさそうである。幸三も黙ったまま直子を凝視している。雷雲から飛び出した運命の稲妻が二人を打ったような厳粛な婚礼の最後となった。直子は心の中で叫んだ。
「私から初恋の人を黙って奪った仕返しはいつかしてあげる。虎吉さんなんか戦争で死ねばいい。カヨちゃんも病気で死ねばいいんだわ」
復讐の念は幸せそうな二人を見ていて、ますます増してくる。幸三と結婚してもいい、などと自分でも思ってもみなかったことを口走ったのも、いつか二人を見返してやりたいという思いだけだったのだ。

苔寺

苔寺

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-30

Public Domain
自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

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  1. 第一話 蛇の目傘
  2. 第二話 軍事教練
  3. 第三話 婚礼