ピンクと黒のパヴァーヌ

ピンクと黒のパヴァーヌ

 明け方、ふと目が覚めた。カーテンの外はまだ薄暗い。毛布にくるまったまま体をおこすと、テーブルに置いてあるミネラルウォーターの蓋を開けた。
 古いワンルームマンションの一室に住んでいる。5階まであるのに、エレベーターなんてない安いマンションだ。黒いダウンを羽織ると、部屋を出て屋上に向かった。基本、どのビルやマンションも鍵のかかっていることが多い屋上。このマンションの屋上のドアの鍵が壊れているのを知ったのは、ここへ引っ越してくる前のこと。東京タワーの見える場所に住みたくて。だけど俺の給料ではそんな好条件な場所はなかなか無く。物件を探している時に紹介された、ここの屋上にこっそりのぼって、外に出れることを知った。タワーから歩いて5分もかからない場所なのに、部屋からは全く見えない。陽が沈んでから、タワーが点灯してからの時間なら、ベランダに出れば風景の隅っこに赤い鉄骨の色が少しだけ見えるんだけれど姿は見えなくて。でも、ここの屋上に出ると、きれいに見えるんだ、東京タワーが。物件をいくつか見回ったけれど、屋上からのタワーが気に入って、ここに決めた。

 屋上の定位置で、色褪せた柵に両肘をかけて見上げる。タワーの上半分が見える。ダウンのポケットに手を突っ込むと、クシャっとなったまま入っていた煙草を見つけて取り出した。火をつけてふうーっと煙を吐く。息の白さと煙の白いのとで東京タワーが少し煙るんだ。足元には俺が今までに散らかしてきた煙草の吸殻が転がってる。これも、見つかったらいつか叱られるんだろうな。それから何を思うでもなく東京タワーを見つめる。冬の冷たい空気に触れて頬はすっかり冷たくなった。そしたら空が、ゆっくりと色を変えていくんだ。灰青から、柔らかい薄群青の色へと。


 職場にいつもの時間に出勤したら、店長が待ちわびてたとばかりに俺に声をかけた。

「林原くん!遅いよ」
「おはようございます。え?俺、遅れてないですよね?」

 腕時計を見ようとしたらその手を掴まれた。

「来てたよ、ほら」

 店長から封筒を手渡された。マンションの郵便受けは蓋が無くなってしまっていて、郵便物を紛失すると困るから、大事なものの時は郵送先を職場に指定させてもらっている。宅急便の荷物もよく店長が受け取ってくれているんだ。俺より一回りくらい年上のふくよかな見た目の女店長はまだ独身で、常に彼氏募集中。見た目は可愛いんだけど、短気がちょっと損をしている。

「早く早く」

 せかされて、その場で封を開けた。3つ折りにした用紙が1枚入っていて、『実技試験の合格通知について』とあった。

「やった!林原くん!合格!」

 もともと独学で勉強していたピアノの調律師の、きちんとした資格を取ってみてはどうかと勧めてくれたのは店長だ。ピアノやギター、サックスなど多種の楽器と、楽譜を扱っている店。俺はここでピアノを担当している。ただの調律師と、国家資格であるピアノ調律技能士としての肩書では全然違う。素直に、嬉しかった。

「今日は合格祝いしなきゃね、夜あいてる?」
「横須さん、いきなり今夜ですか?」
「お祝いはすぐのほうがいいのよ」
「お任せします。ちょっと遅くなるけど21時にはホテルのバイトあがれます」
「OK。何食べようかなあ」

 満面の笑みでそう口にすると、店長は開店の準備を始めるために、バックヤードの部屋のドアを開けて入って行った。背中が喜びを表してるよ。単に、美味しいものを食べに行く理由が欲しいだけなのはわかってるんだけどね、だけど店長のそういう明るさにいつも元気をもらっている。姉ちゃんみたいな感じなんだ。俺には兄弟がいないからよくわらないけど。あらためて手元の通知を広げて見た。これで、少しは仕事を増やせるかもしれない。
 夕方5時から入ってくれるバイトの志乃が来るまで、この楽器店で仕事をして。交代すると、6時からはホテルやレストランなんかでピアノを演奏している。時々休憩を入れながら弾くこと3時間くらい。それで俺の1日の仕事は終わる。今日はホテルのラウンジでの演奏だった。演奏を済ませ、毎日着ていても堅苦しくて着慣れないスーツから、楽なスウェットに着替えようとホテルの従業員ロッカーに戻ると、スマホに連絡が入っていた。店長から、今夜の店の連絡だ。

「あ、志乃も来てくれんのか」

 志乃は大学3年生。もちろん、音大。サックスの勉強をしている。店では管楽器全般を担当してくれている。とても詳しい。音楽も、俺なんかよりよっぽど才能がある。演奏をしている時はダイナミックで、深い音から高い音まで自信に満ち溢れている。そんな彼女の普段の素顔は、とても地味な女子大生だ。いつも店長が飲みに誘っても、明日早いので、と断ることが多い。俺の別でのバイト時間に合わせてくれる手前、飲みに行くとなるとスタート時間が遅いってのもあるんだけど、今夜は来てくれるらしい。長くてきれいなロングヘアがチャームポイントだ、と俺が勝手に思っている。姉貴みたいな店長の横須さんと逆に、志乃は妹みたいな感じなんだ。いい意味での仕事のパートナーだ。スマホの画面を閉じて着替えると、スーツをスーツ用のケースにしまう。これはある意味商売道具。スーツは嫌いだけど、高級な店でピアノを弾く時にはこれを着るのが客に対しての礼儀のひとつである。店を出て、言われた店に向かった。
 その途中だ、大きく響く車のクラクションの音が気になって、大通りのほうを横目で見ながら小走りで急いでいた俺は、大きく誰かとぶつかった。振り返ると、これまた大きく転げている人がいる。

「すみませんっ!」

 声をかけると大きな返事が返ってきた

「くっそ、おっさん!痛ぇだろ!!」

 は?おっさん?大きく尻もちをついたまま見上げるその人は、セーラーデザインの制服を着ている。女子高生?短いショートヘアで、だけど口はとてつもなく悪い。

「おっさん、よそ見してただろ」
「悪い、怪我はない?」
「怪我してたらどうにかしてくれんの?」

 とにかく彼女の声がデカい。通りすがる人がちらっとこちらを見たのにも気づいた。

「ごめん、立てる?」

 手を差し出すと、彼女はその手を掴んだ。とても細くてきれいな長い指。そしてとても冷たい。そう言えば、真冬だって言うのに制服の上に何も防寒着を着ていない。彼女は掴んだ手に思いきり力を入れて、自分の全体重をかけるようにして立ち上がった。

「本当にごめん、悪かったね」
「反省はしてるんだ?悪いと思ってんならいいよ。気を付けてよね!」

 俺の手を振り払うと彼女は制服のスカートを直して、俺の顔をじっと見てから歩き去ってしまった。威勢のいい子だったな。おっさんって言われたのはショックだったけど。彼女の後姿をじっと見ながらふと思った。見たこと・・・ある気がするんだ。たぶん、気のせいだと思うけどさ。
 俺はまた、店長たちの待つ店に走り出した。言われた店は、そこそこ高そうな雰囲気だった。店内は照明を落として暗めで、大きな水槽に色とりどりの熱帯魚が泳いでる。

「おしゃれ過ぎだろこの店、俺スウェットだぜ?」

 どう見てもカップルで賑わってそうな店で、横須さんの名前を出すと奥の席に通された。2人掛けのソファが向かい合って、その間にガラスのテーブル。すでに着いていたふたりは、飲み始めていた。

「来た!来た!主役!お疲れー」
「何が主役なんすか、もう飲んでんじゃないですか」
「お疲れさまです」

 テンションの高い店長と違い、志乃は落ち着いてそう声をかけてくれた。

「志乃、今日はいいの?来てくれて嬉しいけど」
「はい、お祝いなんで」
「ありがとう」

 志乃は俺の手からスーツ用のケースを取ると、立ち上がって自分の座る席の壁にあるハンガーラックに引っ掛けてくれた。気の付く女子ってのはこういう子のことを言うんだろうな。志乃は何もなかったようにスッと元の席に座った。

「さ、林原くん、何にする?もっかい乾杯しよう!」
「もっかいって、もうやったんすか?」
「まぁね、志乃ちゃんとふたりでね」
「なんすかそれ」

 楽しい時間だった。祝ってくれる人がいる喜び。この広い世界では小さな出来事なんだろうけど。



 数日後、店で扱う雑誌の整理をしていた。新しい刊が発行された雑誌は、古い刊を店頭から引く。そしてある雑誌を手に取って俺は暫くじっとその表紙を見ていた。見たこと・・・あるんだ、この人。

「ああ!」

 この間の口の悪いセーラー服。・・・に、似てる。肩までのボブヘアの女性。肩を大きく出した赤いドレスを着て微笑んでいる。俺は雑誌の目次ページに目をやった。そして記事のページを開く。えっと、小谷沙也加。17歳。K女子音楽大学付属高校。あ、そうだ、あの時の制服、ここのだ。でもヘアスタイルが違う。あれか、先月号の雑誌だから、この後で髪を切ったのか。てことは本人?あの口の悪いのが?雑誌に載ってる女性の印象と全然違うんだけど。真っ赤な唇が17歳にしては色っぽい。

「林原くん、雑誌終わったらこっちちょっと手伝ってもらえる?」

 店長の声がして、俺はその雑誌を持ってバックヤードに入って行った。



 ピアノ調律技能士という肩書は、早速効果があった。

「だったら、今度からピアノの演奏と、あと定期的にピアノのチェックも林原くんにお願いするよ」
「本当ですか?」
「別に古い付き合いがあるところに頼んでいたわけでもないからね。常にここのピアノを弾いてくれている人がやるほうが、いいんじゃないの?こういうのって」
「まぁ、こちらとしては嬉しい話です」

 週に3日、ピアノの演奏をさせてもらっているホテルのラウンジで、支配人とそんな話になった。まだ40代の若い支配人。だけど強面で、貫禄のある体型。学生時代、アメフトの選手だったと、ちらっと話したことがある。ここの他の部屋にもあるピアノの調律を、全て仕事としてもらえることになった。もちろんピアノの演奏も引き続きさせてもらえる。支配人との話のあと、俺は従業員ロッカーでスーツに着替えた。表の大通り沿いにある、全面ガラス張りの大きな壁の前に置かれたグランドピアノ。ピアノは外からもよく見える。ピアノを取り囲むようにゆったりとソファとテーブルが置かれている。ふかふかの絨毯。所々にアレンジフラワーが飾られ、ホテルの玄関を入ってすぐの、顔のような場所だ。ちらほらと席が埋まっている。コーヒーの良い香りがする。宿泊客なのか、誰かとの待ち合わせなのか。そんな客の中でも、今日は少し年配の夫婦が多いような印象を受けた。それで、今日は静かに落ち着いた曲を弾こうと決めた。

「モーリス・ラヴェル、かな」

 横須さんにはマニアックって言われるんだけど、自分では好きで得意な作曲家の1人。ピアノの椅子を引き、ゆっくりと腰かける。ピアノの鍵盤蓋を開けると、ソファに座った客たちの視線がチラッとこちらに向く。いつものことだ。ピアノは自信を持って弾くようにしている。おどおどしていたら客に悟られる。今だけは、俺は有名なピアニストで、みんな俺のピアノを心待ちにしている。そんな風に演じながら心に言い聞かせて、ゆっくりと鍵盤に指を置く。『亡き王女のためのパヴァーヌ』。静かに音を出していく。派手な曲ではない。だけど、心休まる静かな曲。そしてその後俺は続けて、『月の光』を弾いた。こちらのほうがメジャーな曲だ。だいたいこの2曲は続けて弾く。それがとても好きで。どちらの曲も引き立たせ合う。静かな曲だから、客たちの拍手も柔らかく静かだ。そんな感じで数曲弾いて、俺は1度ピアノから離れた。
 次の演奏まで30分ほど時間をあけるので、1度バックヤードに戻るのだけれど、その時に声をかけられた。

「今ピアノ弾いてた人?」
「はい・・・」
「ふーん、まだこの後も弾く?」
「はい・・・あ・・・」

 知っている。この人を知っている。昼間、もう売れ残っていて出版社に返却する予定だったあの雑誌。結局俺が買い取ったあの、ピアノ雑誌。表紙にいた、あの肩までの髪に赤い唇。目の前に腕組みをした同じ人が居た。

「小谷・・・沙也加さん」
「サヤカのこと知ってるんだ?」
「あぁ、あの、雑誌で見て」
「へぇ。昨日も逢ったしね」
「昨日?」
「ねぇ、おっさん」

 あ・・・。おっさん。

「やっぱり、昨日の女子高生って、あんた?じゃなくて、あなた?」
「私もびっくりした。外歩いてたらピアノ弾いてる姿が見えて。顔見たら昨日のおっさんじゃんと思って」

 流石に、昨日もこの口調にびっくりしたけど、今日の、しっかりと化粧をしてシックなドレスを着ている姿でこの口調をされると尚更戸惑ってしまう。

「だってヘアスタイルが・・・短かったよね」
「短いよ。これはウィッグ」
「ウィッグ?」
「か・つ・ら。これだからおっさんは。ヘアスタイルなんていくらでも変えれんじゃん」
「知ってるよ、それくらい。で、何か用ですか?」
「そう。この後も弾く?ピアノ」
「もう少ししたら」
「じゃあ聴いてから行こう」
「え?いいよ」
「なんで?」
「あんた、ピアニストなんだろ?」
 
 雑誌の特集では大きく取り上げられていた。今注目の女子高生ピアニスト。コンクールでは賞をいくつも取り、コンサートを開けばチケットは即SOLD OUT。CD発売の予定もある。

「俺のはプロに聞かせるほどのもんじゃないよ、ただのバイトだし」
「ふーん。下手なんだ?そんな下手なピアノをここで客に聞かせてるんだ?」

 ムカッとした。才能のあるやつに言われたくない。ずっと、練習して、練習して、音大まで出て、けれどコンクールではいつもそこそこ。これ一本で生活できる才能は俺にはなかったんだ。それでも、バイトだから弾いてるなんて思ったことはない。自分にどれだけ能力がなくたって、ピアノを弾くのは好きなんだ。聴いてくれる人がいる限り弾きたいんだ。あんたとは境遇が違うんだよ。

「悪いけど、帰ってよ。外から俺を見かけたって、どこか行く途中なんじゃないの?そのドレス」
「親の知り合いのパーティーでピアノを弾いてくれって言われてるから行くだけ」
「じゃあ急ぎなよ」
「面倒くさいじゃん。こういうところで弾けるほうがいいよ」

 そう、上から俺を見下ろすように言ったかと思うと、急に真面目な顔をして、優しい声で続けて言った。

「静かにこういうところで弾くピアノのほうが、楽しいよ」

 そう言われて、何て言っていいかわからなかった。皮肉言われてる感じでもなく、彼女の表情は優しく、声は淋しそうだった。さっきまでの威勢のいい感じがなくなって、なんだか戸惑ってしまって、それで俺は昨日のことを聞いた。

「あ・・・昨日、怪我しなかった?」
「大丈夫」
「本当にごめん、よそ見をしていて」
「仕方ないから許してやるよ」
「そっか」

 彼女の表情がまた強気の笑顔に変わる。そっちのほうがいいよ、と、ふと思った。

「ねぇ、またピアノ聴きに来てもいい?」
「だから、俺は下手だからさ」
「いいよ、聴きたい。次弾くのはいつ?」
「えっと、明後日」
「じゃあ聴きに来る」

 そう言い返した時の笑顔は少し可愛らしかった。

「そうそう、おっさん名前は?」
「あのさ、おっさんって言うなよ」
「え?だって、若いの?」
「知らねーよ」
「ふーん」
「林原琉伽」
「え?」
「俺の名前」
「ルカね。おっけー、おっさん」

 静かなロビーで、目立つくらい大きく手を振って彼女はホテルから出て行った。



 煙草の煙は今日も東京タワーをぼやかす。

「吸い過ぎかな・・・」

 そう言葉にしたそばから、足元に吸殻を転がして上から踏みつける。屋上の柵をピアノ代わりにして弾いてみる。音は出ないけれど。頭の中で流れてる。
 実は、ピアノを弾く仕事をしているくせに、家にピアノはない。持っていたとして、この狭い、エレベーターもないマンションの部屋までピアノを運ぶのは無理だ。玄関も通らない。ベランダに出入りする扉もピアノは通らない幅だ。部屋に唯一置いてあるのは安い電子音のキーボードのみ。実際、家ではピアノを弾けないから弾くことを仕事にしたいと思って、楽器店に就職した。バイトも始めた。そうしたら、仕事の日はピアノに触れられるから。ピアノは、本当に好きなんだ。

「どうして林原さんはピアノやってるんですか?」
「なんで?」
「私も最初はピアノだったんですけど、自分の性格に合わなくて」

 志乃が楽器店にバイトに来始めて1ヶ月くらいの頃にそんな話をしたのを覚えている。そして、そんなことを言う志乃を見て俺は笑った。

「なんで笑うんですか?」
「ごめん、性格に合わないっての、ちょっとツボった。たしかに、志乃はサックスだな」
「林原さんもそう思います?」
「正直最初はサックスやってる人?って思ったけどね、地味過ぎて。でもそれは、演奏している時の自分を好きでいたいからこそのギャップだ。そのギャップを志乃は自然と作り出してるんだって気づいたときは、俺すごい感動したけどね」
「そんなつもりないですよ?」
「あるよ。初めて聴きに来てくださいって言われた大学の演奏会の、あれ、パフォーマンスしてる時の表情も動きも、バイトん時のいつもの感じと全然違ったもん。その後のコンクールのときも。でも、常にその演奏者としているときのテンション、その志乃でいるとそれはそれで目立つししんどい。だから普段は静かにしてるんだよ、志乃は。それを自然にできるんだよ。俺は凄いと思うけどね」

 店の、ピアノを1つ1つ志乃と掃除しながらそんな話をした。

「なんか、うまく話逸らされた気がするんですけど。林原さんのピアノの話したいのに」
「志乃が先に自分にピアノは合ってないって話をしたんだろ?ほら、すぐ熱くなる。やっぱりサックスだね、志乃は」
「すみません。ほんとに、どうしてピアノ続けてるんですか?」
「俺は、単純に好きだからだよ」
「それだけですか?」
「それだけ」
「弾くのが好きなんですか?」
「聞くのも好きだけど、自分のタイプのピアニストの演奏だったらいいけどね。たまにこの人の弾き方は、うまいんだけど俺が求めてるものと違う、ってことあるじゃん。ピアノに限らず」
「はい・・・わかります」
「そしたら、好きな曲を、自分の好きな風に自分で弾いてそれを聴くのが1番でしょ?」
「じゃあ、バイトでピアノ弾いてるのとかは、お客さんにっていうよりは自分のために弾いてるんですか?」
「んー、そこは難しいんだけど。その場にいる人の雰囲気を見て、邪魔にならないようにってのは思ってるよ。会話だったり例えばレストランだったらその食事だったり、邪魔にならずに、でもなんとなく耳に残るような演奏をする。その時間を過ごす人のBGMになれたらなって。それにプラスして、俺が好きな音、かな」
「その時間を過ごす人のBGMってすてきですね」
「ほんと?」
「はい。自分以外の人が弾いてるピアノは全く聞かないんですか?」
「波長があえば聞くよ?CDも持ってるし、いくつか」

 志乃に質問をされて、初めてちゃんと、ピアノを続けている意味を自分でも確認した気がする。あまり何も考えたことがなかった。だから志乃とのあの日の会話はよく覚えているんだ。でも実際、ピアノを弾くことも好きだけど、それ以上に自分のピアノの音が好きなんだ、たぶん。だからこそ、その音を世間には受け入れられなかったとき、評価されなかったとき、味わう感情はたまらなく辛い。もう味わいたくない。コンクールで叱咤されたときの記憶が蘇る。だけどそれはもう思い出したくないものなんだ。だけどピアノを辞められない。そんなだから、いくつになってもこんななんだ、俺は。

 目の前の、東京タワーの灯りが消えた。もう、そんな時間か。



 2日後、ホテルのロビーにスーツに着替えて足を運ぶと、小谷沙也加がいた。ラウンジのソファに、制服姿でドカッと座っている。髪の短いままの彼女が、足を組んで。ホテルに違和感のある制服姿、とても目立っていた。

「まじか・・・」

 ただでさえ、彼女がいるその空間はホテルのロビーらしからぬ雰囲気で、すでに空気が悪い。そしてだ、彼女は間違いなく予告通り、俺のピアノを聴きに来ているんだ。ちらっと目をやると目が合って小さく微笑まれた。それがまた嫌な感じだった。もう思い出したくもない、昔に経験したピアノコンクールみたいな感覚。忘れてしまいたい緊張感。それでも仕事だ、これは。ピアノにゆっくり近づくと椅子を引き、座る。フロアを軽く見渡して、鍵盤蓋を開ける。1度目を閉じて、そっと笑顔を作ってから目を開ける。ショパンの『ノクターン第2番』を選んだ。この空気を変えるには、誰もが知っている曲じゃないといけない、そう思って選んだ。軽やかに、とても軽やかに、自分自身も楽しく。そうリズムを刻みながら弾く。そして続けてドビュッシーの『パスピエ』を。そしてレスピーギの『イタリアーナ』を続けて弾く。何も考えずに頭に浮かんで弾き繋いだ3曲だった。引き終わって小さく深呼吸をすると、次の曲を弾くまでの合間に拍手をいただいた。どうしてだろう、今日は気分がよかった。小さく会釈をして、続けてまた数曲弾いた。彼女が来ていることは、もう忘れていた。
 ピアノに向かって座ると、ちょうど向かいにある壁にかけられた時計が見える。いつもその時計の時間に合わせて演奏を終了する。ちょうど弾き始めて30分。気分よくピアノの鍵盤蓋を閉じると、俺は立ち上がった。椅子を元の位置に戻し、ピアノをあとにする。そしてやっと思い出したんだ、近づいてきた彼女を見て。そうだった、聞きに来てたんだった。

「お疲れさま、ルカ」
「ちょ・・・なんで下の名前」
「けっこうちゃんと弾けるんだな」
「なんだよちゃんとって」

 無視して休憩する部屋に戻ろうとしたけれど、そこで小谷沙也加に腕を掴まれた。ピアノから少し離れただけの場所でふたり立ち止まると、彼女は俺に顔を近づけて耳元で言った。

「下手くそ」
「は?」
「リズムが時々崩れる。強弱がイマイチ伝わらない。たまに指が気持ちより先にいってる。音こそは間違ってないけど、下手」

 俺だけに聞こえるように、彼女はそう言った。

「だから何?」
「え?」
「自分がプロだって言いたいの?それだけすごいって言いたい?」

 そう答えると、彼女は俺の腕から手を離すと、そのままピアノに向かった。

「ちょっと!おい!」

 そしてピアノの蓋鍵盤を開けると、椅子に座り、ピアノを弾き始めた。ショパンの『革命』だ。止めようとしたけれど、止められなかった。ミスひとつない演奏。ソファでコーヒーを飲んでいた客も、ロビーを歩いていた客も、従業員でさえも、みんなが一斉にピアノに視線を送る。じっと聴いている。聴いてしまうんだ。一音ごとに力強く激しく、時に哀しみを表すようになめらかに、彼女の指がメロディを作り出す。素晴らしい音色だった。俺のとは全然違う演奏だった。今注目の女子高生ピアニスト。まさに、その通りだった。
 演奏が終わると、ゆっくりと腕を上にあげるようにして彼女は動きを止めた。そして、ホテルのロビー中が大きな拍手で包まれた。彼女は椅子から立ち上がると、客の方を向き、大きく頭を下げた。

「ちょっと、林原くん、なんの騒ぎ?」
 
 ホテルの支配人が、俺の肩をたたいて声をかけた。

「すみません、彼女が勝手に弾き始めてしまって」
「知り合い?」
「あ、ちょっと・・・」
「すごかったね、今の演奏」
「あぁ、はい。彼女はプロのピアニストなんで」
「プロ?」

 深々とお辞儀をしていた頭を上げた彼女は、プロの顔をしていた。彼女は、ふたつの顔を持っている。ふいにそう思った。プロのピアニストの顔と、口の悪い、ただの女子高生の顔。彼女はピアノをきちんと元のようにしまうと、まだ止まらない拍手の中、俺の方に歩いてきた。そして俺の隣にいる、支配人に気付いて頭を下げた。

「勝手に弾いてすみません」

 そう言ったかと思うと、今度は俺の手を掴んで支配人にまた言った。

「ちょっとこの人借ります。ほんのちょっとだけ」

 「え?ちょっと。おい!」

 俺は、彼女に手を掴まれたまま、ホテルの外に出た。彼女が走り出すから、俺も自然と走っていた。でもなんだかスローモーションみたいに景色が見えて、不思議な気分だった。

「ルカ!」
「は?なに?」
「気持ちいいね、あそこでピアノ弾くの」
「は?ってか、ちょっと!!」

 俺は彼女の手を振り解いて立ち止まった。大通りの歩道の途中で、手を離された彼女も振り返りながら立ち止まった。

「どういうつもり?俺まだ仕事中なんだけど」
「ちゃんと支配人に許可取ったよ」
「あぁいうのは許可って言わない。それより俺の許可取ってない」
「いいじゃん。うっさいな、おっさん」

 そして彼女はまた俺に近づくように歩いて戻ってきた。

「ルカはピアノ下手だよ、でもね、すごく優しい」
「優しい?」
「音が、すごくすごく優しい。心地いい。あそこで弾いてるからかな」
「どういう意味?」
「コンクールなんて最悪。コンサートなんてもっと最悪。あんな風に、ルカみたいに楽しんでピアノ弾きたい」
「何言ってんの?おまえプロなんだろ?」
「この間弾いてた『亡き王女のためのパヴァーヌ』、あれ泣きそうだった」
「この間って・・・一昨日は通りがかっただけだったんじゃないの?」
「見かけてすぐに中に入って、全部聴いたよ」
「は?」
「また聴きたいって思ったから今日も来た。今度はいつ?いつ来たら聴ける?」
「ちょっと、ほんとに何なの?俺なんかのピアノ聴かなくても、周りにもっとすごいピアニストはいるだろうし、自分のピアノのほうがすごいだろ、あんた」
「違うよ、サヤカたちみたいな型にはめられたピアノより、ルカのピアノのほうが、いいよ」
「ちょ・・・だから下の名前で勝手に呼ぶなって」
「いいじゃん。私もサヤカでいいよ」
「そういう問題じゃなくて」
「いつあそこで弾いてる?いつも聴きに行くから」
「あのね、俺の話とおまえの話、噛み合ってないんだけど?」
「聴いていたいっつってんだろ!!」

 びっくりするほど大きな声で、彼女は急に叫んだ。だから俺は、小さな声で言った。

「そんなデカい声で叫ぶなよ」
「ルカのピアノ聴いてたいのーーーー!!!」


 なのに益々デカい声で彼女は叫んだ。すれ違う人が笑って歩いて行く。あたふたしながら俺は彼女を落ち着かせようと必死で。セーラー服着た女子高生と、どう見てもかなり年上のスーツの俺と。やめてくれよ、こんなところで。

「わかったから。あそこでは火、水、金の週3で入ってる」

 そう言うと彼女はやっと静かになった。だけど彼女のテンションは止まらない。笑顔で俺をじっと見る。

「あそこは、ってことは、他のところでも弾いてるの?」

 しまった。彼女は感がいいというのか頭がいいのか悪いのか、そういうところを一々拾う。

「あそこだけだよ」
「嘘だ、他でも弾いてるんだ?」
「あそこだけだって」
「ふーーーーん」
「なんだよ」
「まぁいいや。今度は火曜日だよね、また聴きに来てやるよ」
「いいよ、来なくて」
「いいじゃん!サヤカはルカのピアノのファンだから」

 ファン。そんなこと初めて言われた。ていうか、さっき俺に下手くそって言ったくせに。でも、俺のピアノは優しいとも言った。

「連れ出したのにごめん。早くバイトに戻りなよ」
「あ、あぁ」
「ほんとは今すぐまたルカのピアノ聴きたいし、もっと話してたい気分だけど」
「あのね、俺はバイト中で」
「わかったから。ごめんなさい。ルカを連れ出したい気分だった」
「気分って・・・そんなんで意味もなく俺を巻き込んで走らすなよ」
「わかったよ、じゃあサヤカ今日は帰るから。また!」

 元気にそう言って歩き出したかと思うと、また振り返って、一昨日みたいに大きく手を振った。それから彼女は俺を残してまた歩き出した。どうしてだろう。俺も小さく、その後姿に手を振り返した。勝手に連れ出しといて、勝手に自分だけ帰んのかよ。今どきの女子高生は自由というか。なんてこと言ってるからおっさんなのかな、俺。

「待ってるよ」

 小さく声にして、俺もまたホテルに戻った。



 次の週。火曜日、水曜日、金曜日、楽器店の仕事を終わらせてバイト先のホテルに着くと、サヤカは俺よりも先に来てロビーに座っている。火曜日に、制服だと目立つから、せめて私服で来てよって彼女に言った。そしたら水曜日、デニムのショートパンツに赤いパンプス、長い脚を出した派手なファッションで来ていた。冬なのに寒くないのかって言ったらまたおっさんだって言われた。私服の方がもっと目立ってしまうから、結局、金曜日、彼女は学校が終わると制服のままでバイト先のホテルにやってきた。それは、支配人はもちろん、フロントやカフェのスタッフなんかの間であっという間に話題になり、俺が着替えていると、戻って来たスタッフに「今日も彼女来てるよ、ラブラブだね」なんて言われた。

「彼女じゃありませんよ、あんなガキ」

 どれだけ否定してもみんながからかってくるのはきっと、その3日、彼女が俺のバイトの終わる時間までずっと待っていたからだ。ロビーのカフェで、携帯をいじったり本を読んだりしながら、ちゃんとオーダーして紅茶を飲んだり、時にケーキを食べたり。俺のピアノ演奏が終わるのがだいたい21時前。そこから着替えてホテルを出るのがいつも21時過ぎになるんだけど。それまでずっと待っていた。

「なんで待ってんの?」
「一緒に帰りたいから」
「高校生かよ」
「私は高校生だけど?」

 間違ってない。

「あのね。未成年は22時までに家に帰りなさいよ」
「いいじゃん。ルカが保護者代わり。大人同伴だったら怒られないよ?」

 間違ってはいない。 

「こんな時間に帰ってこないって、親が心配するでしょう?」
「心配されて怒られてたらここにいないよね」
「怒らんないの?」
「K女子音楽大学付属高校、2年C組ピアノ専門科」
「うん、だから?」
「あそこの付属でピアノやってる時点で家は間違いなく金持ちだよね」
「自慢話かよ」
「父は常に海外で家に居ない、母は自分の生徒のレッスンが最終23時まで。問題なし」
「レッスンって?」
「ピアノの先生やってる」
「へえ。それであんたもやってるんだ、ピアノ」
「まあ、きっかけはな」
「ところでさぁ」
「うん、なに?」
「なんでいつも腕組むんだよ」

 振り払ってもすぐ組んでくるからもう半分諦めてるけれども。こんな時間に、制服の女の子に腕組まれてるってだけで通り過ぎる人の視線を完全にまともに受けちゃってんだ。

「ルカといるとホッとするんだよ」
「だからって、別に腕組まなくてもいいだろ?」
「離したら逃げるだろ?」
「逃げないよ、もう何日このやりとりすんだよ」

 それから、サヤカは腕を組まなくなった。けど、週3日のバイト先には必ず現れて、俺のピアノを聴きながらラウンジのカフェで時間をつぶす。仕事を終えて着替えて出てくると、サヤカも勘定を済ませて一緒にホテルを出る。そのあと、何処に行きたいでもなく、何かしたいでもなく、ただ、俺が帰るホテルから駅までの道のりを一緒に歩く。ホテルのすぐ傍には駅があるのだけれど俺の住む場所は沿線が違って、なのでその沿線の駅までの距離をただ一緒に歩いて、何か話をするだけ。たった10分の距離。どうやらサヤカも俺と同じ沿線らしく、駅につけば、それぞれ電車に乗ったらそれで終り。彼女は反対車線の電車に乗るんだ。何処に帰るのかも聞いた事はないし、俺も聞かれない。駅までの道のりは、だいたいが彼女のほうから、俺の今日のピアノに関しての感想だったり、ピアノの話をしてくる。そして俺が、彼女に何か聞こうとすると、駅についてしまう。彼女のペースに巻き込まれたまま、ずっと彼女のことは聞けないでいる。
 最初は苦手な女子高生って印象しかなかったんだ。17歳にしてピアニストで。雑誌で読んで、目の前で演奏を聞かされ、才能を持ってるってことに嫉妬さえした。それをあっという間に覆すくらいの彼女の性格は、とてもサッパリとしていて明るくて。口が悪いのは気にかかるけど、差し支えない。ピアノの話をこんなにできるのは、俺にとっても、とても楽しい時間だ。今日も、元気に大きく手を振って、彼女は反対のホームの階段を上がって行く。それを見送ってから、俺は自分のホームに向かう。俺がホームに着くころには彼女はすでに向かいのホームで俺を待っていて。俺を見かけたらまた大きく手を振る。流石に恥ずかしいので、振りかえしたりはしないけど。

 最寄駅に着くと、東京タワーの灯りに向かって歩く。マンションに着くと、自分の部屋の階は通り越して、そのまま屋上に向かった。ダウンジャケットのポケットから煙草を取り出して火をつけた。ゆっくりと煙草を吸いながら東京タワーの灯りが消えるのを見てから部屋に戻った。鍵が、開いていた。

「おかえり」
「来てたの?」
「遅かったね、シチュー作ったんだけど、何か食べてきた?」
「いや」
「じゃあ、食べる?」
「いや、いいよ、ごめん」
「だよね。私の作ったもの、いらないよね」
「そういう事じゃなくてさ」
「・・・なんか最近、返事くれないし」
「そうだっけ?」
「あ、会社の先輩から青山の美味しいパンのお店教えてもらったんだ、買って来たから明日にでも食べてよ」
「あぁ、ありがと」
「じゃあ、帰ろうかな」
「待ってたんじゃないの?」
「待ってた・・・けど」

 半年ぐらい付き合っている彼女、篠田朋美。29歳、普通のOL。朋美と逢うのは久しぶりだった。まさか家に来ているとは思ってもいなかった。
 ピアノ調律技能士の試験の少し前のことだ。朋美が旅行に行こうと言い出したのを、試験が終わるまで待ってほしいと言ったところで口論になった。試験までにはたしかに1ヶ月くらい日はあった。朋美はちょうど、その季節限定でおこなっているツアーに行きたかったらしく。それでも、俺からすれば次の機会でいいんじゃないかって話で。朋美は、まだ1ヶ月もあるから大丈夫でしょって言った。たしかに、そうかもしれない。だけど、必死で勉強して取りたかった資格。俺にとっては仕事のひとつでもあった。遊びじゃないんだ。思わずため息をついた俺の前で彼女は散々駄々をこねて泣いて、それから逢ってない。何度か朋美から連絡は来たけど、試験もあったし、もうどうでもいいやと連絡をしていなかった。俺もちょっと、頑固だった。
 着ていたダウンを脱いで、狭いキッチンでペットボトルの水を飲んだ。たしかに、コンロの上には蓋の閉まった白い鍋が置いてある。香りがしないってことは、もうすっかり冷めている。きっと朋美は長くこの部屋で俺を待ってたんだろう。

「ごめんね、琉伽くん」
「なにが?」
「旅行ぐらいで、どうしても一緒に行きたかったからって我が儘言って」
「もういいよ」
「本当にごめんね。あの試験、どうだった?」
「受かったよ」
「ほんと?」
「あぁ」
「よかった。これでダメだったら私もっと嫌われちゃうとこだよね」
「別に嫌ってはないよ」
「ほんと?」
「あぁいうのは、出来ればやめてほしいけど」
「うん、ごめん。ちょっと子供過ぎた」
「いや、俺も悪いから」
「琉伽くんは悪くないよ。試験のほうが優先なのは、当たり前だよね。後からすごく反省したんだ」
「もういいって言ってんじゃん」

 別に、怒ったわけじゃなくて、本当にもう、どうでもいいよって思ったからそう言ったんだけど、朋美は口を尖らせた。

「なによ・・・。悪いと思ったから、謝りたいから勇気出して部屋まで来たのに、琉伽くんのほうこそ、いつまでもそうやってグチグチ言う?」
「グチグチは言ってないでしょうよ」
「言ってるよ・・・」

 朋美の、拗ねてる顔は好きだ。色っぽさがあって、たまらなくキスをしたくなる。ジッと顔を見ると、朋美もジッと俺を見返した。足元に転がっていた部屋のライトのリモコンを手に取って俺は電気を消した。ゆっくりと朋美の背中に手を回すと、彼女も俺のニットの腕の部分をくしゃっと掴んだ。それから俺は朋美の唇を奪った。何度も角度を変えてキスをすると彼女の頭を支えるようにしながら床にゆっくり横になる。ベッドが無いんだから仕方がない。ソファとテーブルの間の狭い場所で俺は彼女の上に覆うようにした。キスをしながら。テーブルをそっと端に押しのけて、その手は次に彼女の太ももをなぞっていた。電気ストーブのオレンジの灯りだけが光って、薄っすらと照らす彼女の表情はたまらなく体を熱くさせる。

「ねぇ、琉伽くん」
「ん?」
「愛してるって言ってよ」

 朋美の声が震えていた。なんで、泣いてんだよ。

「愛してるよ」



 次の日の土曜日、まだ寝ている朋美に風邪ひくよって声をかけると、俺の分の毛布をふんだくってソファでまだ寝ていた。彼女は休みだけど、俺は仕事。買って来てくれていたパンをかじって家を出た。今日もいつものホテルだけど、演奏ではない。資格を取ってから始めてのピアノの調律の仕事だ。所属は楽器店にしてあるので、横須さんの店からの派遣というかたちで契約をした。俺のメインの職場は楽器店になるので、そのほうが依頼に合わせてどの時間でも調律先に迎えるからだ。

「林原くん」
「あ、支配人、おはようございます。今日は調律で来ました。仕事いただいて、助かってます。ありがとうございます」
「こちらこそ、林原くんのほうが頼みやすいから助かるよ」

 今日は堅苦しいスーツではない。きちんとシャツを着てネクタイは締めたけど、演奏のときに比べたらラフなほうだ。

「じゃあ、さっそく」

 持ってきた道具の入ったバッグを肩まで持ち上げてロビーのメインピアノに向かおうとしたら、支配人が俺を引き留めた。

「そう言えば、彼女来てるよ」
「え?」
「いつも林原くんを待ってる子」
「え?小谷沙也加ですか?」
「取材らしくてね。うちの式場のスペースにあるピアノを使って写真撮影なんだってさ。場所使ってもらうのは宣伝になるから大いに嬉しいことなんだけど。本当に有名な子なんだね、あの子」
「取材ですか・・・」
「だから、式場のほうのピアノは最後に頼むよ」
「わかりました」

 ロビーの、いつも俺が弾いているピアノから順番に調律をする。1音1音確かめながら仕事しているんだけど、どうしてだか急くように仕事をする自分がいた。また音楽雑誌の取材かな。サヤカのことが気になった。もう何度かバイト帰りに彼女と話をして、いつもピアノの話相手をしてくれる年下の女友達みたいな感覚になっていた。けど、彼女はピアニストなんだよな。前に店で見かけたサヤカが表紙の音楽雑誌は、家にある。彼女のインタビューは全部読んだ。1度でなく、何度も読んだ。普段のサヤカとは印象の違う、ピアニストとしての言葉がたくさんあった。最後のピアノの調律を済ませて、俺はゆっくり、式場のあるスペースの扉を開けた。大きなその白い扉の向こうは、光がたくさん入る明るく広いスペースで。自然の緑を多く植えこんだ庭がすぐ横に見える。撮影スタッフはまだ居た。角度を変えて動き回るカメラマンの向こうに白いピアノ。そして見えるのはふわっと長い黒いスカートのドレス。サヤカだ。髪は、短いまま。セットされた髪は艶を増し、首筋をすらっと見せる。17歳には見えないな。

「何か軽く弾いてみてもらっていいですか?」

 カメラマンが声をかけると、微笑んでサヤカは頷いた。流石に俺も、これが終わるまで仕事はできない。いったん部屋を出ようと思ったら、サヤカのピアノが聞こえてきた。

『亡き王女のためのパヴァーヌ』
 
 思わず振り返った。俺の、大好きな曲。とても優しく、とても、哀しい。こんな柔らかい音は初めて聞く。俺は部屋を出ずに、それを最後まで聴いた。涙が出そうだった。悔しいくらい、素晴らしかった。ピアノを弾き終えるとカメラマンも撮影を終え、サヤカもピアノから立ち上がった。そしてどうやらそのタイミングでサヤカは、俺に気付いた。びっくりした顔をして、そのあとにっこり笑って、ちょっと照れくさそうにした。いつもみたいに手を振られたらどうしようかと思ったけど、ドレスの長い裾を手にして、そしてもう1度俺を見る。

「ん?」

 彼女が口の動きだけで何かを言う。だけどわかるはずもない。そのあとロビーのほうを指出して、ゆっくり大きく口を動かした。

「待って・・・る?かな?」

 俺が小さく相槌を打つと、またにっこり笑ってスタッフたちと出て行った。若い女性スタッフが俺に気付いて、言う。

「すみません、調律師さん、ですよね?」
「はい、そうです」
「急にここをお借りする事になって。もう終わりましたので、どうぞ」
「ありがとうございます。お疲れさまです」

 荷物を片付けて出て行こうとするその女性スタッフに、今度は俺から慌てて声をかけた。

「今のって、小谷沙也加さんですよね?」
「そうですよ、ご存じですか?あ、調律師さんですもんね」
「何の取材だったんですか?」
「あ、取材ではないです。ポスター用の撮影です」
「ポスター?」
「この夏からのコンサートツアー用の」
「コンサートツアーやるんですか?」
「そうみたいですよ、全国回るらしいです。すごいですよね、高校生なのに」
「へえ、あ、ありがとうございました」
「いえ、お疲れ様です」

 コンサート、やるのか。そういうのを聞くと、ピアノの調律機材を持っている自分が虚しくなってくる。必死で勉強して取った資格なのに、ピアノが駄目だったからこれって言われてるみたいで、自分で自分を笑うしかなかった。
 仕事を終えて支配人に声をかけると、俺はロビーのカフェに向かった。広いそのカフェをなんとなく見渡して、今度は元気に手を振る姿が目に入る。サヤカは珍しくおとなしめのワンピースに着替えていた。俺は仕事道具をしっかりかかえ、彼女の座る席に向かった。

「どしたの?ルカと別の曜日にここで逢うなんてびっくり。仕事?」
「俺だってびっくりだよ、俺はピアノの調律に」
「調律?そんなことまでやってんのかよ?ルカ」
「けっこうメインの仕事なんで、これが。それよりなんでこんなとこ来てんの?別のとこでやれよ」
「だって、記者の人がここでって言うから。まぁ、来慣れてる場所だからちょっと嬉しかったけど」
「記者?だって今日はポスター撮影だろ?」
「え?違うよ雑誌のインタビュー用の写真撮影だって。後日インタビューだけ受けることになってて」
「あれ?さっきスタッフにコンサート用のポスター写真だって聞いたけど」
「コンサート?」
「夏に全国回るんだって?夏休みとかそういうの利用してって感じ?」
「え?知らない」
「おまえのコンサートなのに知らないってことないでしょ」
「だって知らないもん。誰がそんなこと言ってんだよ、勝手に嘘つくなよ」
「なんで俺が文句言われなきゃいけないんだよ、さっき居たスタッフが言ってたけど?」
「うそぉ・・・」

 だんだんと、彼女の表情が悪人みたいになっていく。

「ばばぁだ、きっと」
「ばばぁ?」
「うっわ、ムカついてきた」

 サヤカはそう言って立ち上がって、そのまま歩いて出て行く。

「おい、何なんだよ」

 俺は一度も座ることなく、慌てて彼女の紅茶の支払いをして、ホテルの外に出た。だけど彼女の姿はなかった。近所を少し走り回ってみたけれど、何処にもいない。そういえば、聞かれてもないし聞いてもいないから、連絡先とか知らないんだよ。その日は夜からレストランでのピアノ演奏のバイトが入っていたのだけれど、何かが気になってミスタッチばっかりだった。

 次のホテルのバイトの日、火曜日。ずっとピアノを聴きに来ていたサヤカは、現れなかった。演奏を終わらせて着替えていると、彼女にフラれたのかなんて他のスタッフに言われて、なんとなく笑っておいた。付き合っているわけじゃないのに、フラれたみたいな気分だ。そして気になったのは、彼女がコンサートのことを知らないと怒っていたことだ。どうなったんだろう。なんてことを考えながら、ホテルのバイトのあと、ひとりで駅まで帰ったのは久々だった。たった10分がとても長く感じた。
 ところが、次の日、水曜日。楽器店の仕事を終わらせてホテルに向かうと、サヤカはロビーのソファに座っていた。制服姿ではなかった。いつもみたいな存在感はあまりなく、さりげなくそこに座っていた。そして俺を見つけると小さく手を振った。いつものように俺のバイトが終わるまでそこにいて、一緒にホテルを出た。


「今日はブラームスだったね、ちょっと寝そうだった」
「わかる。あの時間帯だから、疲れてホテルのロビーでコーヒー飲んで、たまに寝そうになってる人いるよ」
「ほんとに?心地いいんだよなあ、ルカのピアノ。次は?金曜日、何弾くんだよ?」
「そんなの決めてないよ、その日の客の雰囲気で決めるから」
「リクエストしてもいい?」
「リクエスト?」
「お客さんからリクエストもらったりはしないの?」
「・・・しないね。たまにはそういうのも面白そうだけど」
「じゃあ、どうしようかな」

 そんな話をする。昨日どうして来なかったのか、コンサートの話はどうだったのか、聞きたかったけど聞けなかった。昨日は長く感じた10分ほどの距離があっという間に終わる。そして俺達は人のまばらな改札を通って、別々のホームに向かうんだ。

「ルカ!金曜日、リクエストは『愛の夢、第3番』!!」

 反対のホームから急に大きな声で叫んだ。こんな人の少ない時間に彼女の声はよく響く。静かにしててほしいから、俺はわかりやすく大きく頷いた。

「じゃあ、またね!!!」

 今日も、いつもみたいに元気に手を振って。それから少しして、彼女は先にやってきた電車に乗り込んだ。と、思っていた。いつも通り、俺は電車に乗った。
 マンションに戻って、俺はその日もマンションの屋上に直行した。今日は特別寒い。雪にでもなるんじゃないかって寒さだ。吐く息が白い。少しだけ煙草を吸って、東京タワーをじっと見てから煙草を足元に踏みつけて火を消した。そして部屋に帰ろうと振り向いてびっくりした。

「何してんの?おまえ」
「ルカ・・・」
「なんでこんなとこに居んの?さっき電車乗ったよな?反対の」

 サヤカは首を大きく振った。

「乗らなかった」
「なんで?」
「そのままホームに戻って、ルカと同じほうの電車に乗った」
「え?なんで?」
「帰れないから」
「は?」
「ルカしか頼る人いないから・・・」
「は?????」

 口を押えて考えた。どういう、ことなんだろうか?これは。ゆっくりと彼女に近づいて、しっかりと月明かりに見えてくるその表情の真剣さが冗談ではないと確認した。俺は彼女の背中に手をやると、顔を覗き込んで言った。

「とにかく家に帰ろう、な?」
「いやだ」
「いやだって言っても、今日は冷えるしこんなところに居てもさ、時間だって遅い、親も心配するだろ?」
「心配なんてしてないよ」
「なんで?そんなことないでしょう?」
「コンサート、勝手に決められてたよ」
「コンサート?」
「この間の、ルカのバイト先で撮った写真のやつ、やっぱりコンサート用のポスターだった。やりたくないのに勝手にばばぁに決められてた」
「ばばぁって?」
「ママ」
「なんでお母さんが勝手に?」
「いつもそう、なんでも勝手に決めてくんだよ。私の意見は無し。コンクール、コンサート、CD発売、なんでも勝手に」
「いやだって言えばいいだろ?」
「言ったって無理、あなたのためよ、の一点張り。勝手に決められるんだ。小さい頃からそう。この歳になってもそう」
「だからって、どうしてここに」
「ルカしか頼れる人がいないから!」

 そう言って、サヤカは俺に抱きついた。

「え・・・」

 どういう、・・・ことなんだろう。彼女の事情がさっぱりわからない。好きなピアノ音楽の話はするけれど、彼女自身の話はほとんど聞いたことがない。これから先が楽しみな、天才的ピアニスト、そう勝手に思っていた。なのに、コンサートをやりたくなくて、母親がなんでも勝手に決めてって、どういうことなんだ?

「なぁ、おまえってピアニストなんだろ?」

 俺の胸に顔を埋めたサヤカは、そのままで首を振った。

「でもピアノはやってんだよな?」

 今度は頷いた。

「だけど、ピアニストでは、ない?」

 また頷いた。

「コンサートも、やりたくない?」

 続けて頷く。俺は、彼女の肩を掴んで俺の体から離すと、顔を近づけて言った。

「人前で弾くのが好きじゃないとか、それとも何か事情でもあんの?」

 彼女は、じっと俺の目を見ているだけで、何も言わない。俺は小さくため息をついた。そしたらサヤカは、泣き出した。子供だ、まだ17歳の。目の前の彼女はそんな風だった。声には出さないけれど、ポロポロと涙を流し始めた。俺の顔をじっと見たまま。そして言ったんだ。

「コンサートやりたくない」

 我慢しようとしているけれど、反して涙はどんどん流れる。

「コンサート、やりたくないんだ、ルカ」
「うん、わかったから、泣くなって」
「泣いてないよ」
「あー、もぉ、そうかもしれないけど、涙すごいよ?」

 両手で頬をおさえてやると、とても冷たかった。

「とりあえず、おいで」

 頭に手をやって、彼女にそう言うと、小さく頷いた。屋上をあとにして、自分の部屋の階まで階段を降りる。降りながら話しかけた。

「俺と同じ電車に乗って、そのあとずっと、ここまでついてきたの?」
「うん」
「なんで?」
「だから、サヤカにはルカしかいないから」

 彼女の涙が全然止まらないから、彼女を部屋の中に入れた。狭い1DKの部屋の、それでも外よりは暖かいだろう、ここのほうが。急いでストーブを付けて彼女をソファに座らせると、洗面所にタオルを取りに行った。

「ほら、涙拭いて」

 だけど、逆にサヤカは大きな声を出して泣き出した。我慢してたんだ、きっと。タオルに顔を埋めて大きく泣いた。隣に座って背中をさすってやると、また俺にしがみついた。ゆっくり、ずっと俺は彼女の背中をさすった。

「わかったから。なんぼでも泣きな」

 やっと、話をできたのは2時間くらい経ってからだ。泣き止みそうになったと思ったら、また思い出したかのようにタオルを抱きしめて泣く。何度か繰り返した。部屋は暖かくなっていて、彼女は着ていたコートを脱いだ。それをハンガーにかけると俺はキッチンに向かった。

「ちょっと待ってね」

 冷蔵庫から飲み物を取り出して彼女に手渡した。

「水?もっといいものないの?」
「ないよ、ビールくらいしか」
「しかたないなあ」

 口調は元に戻っている。クスッと笑うと何よ?って顔で見られた。

「ちょっとはスッキリした?」
「うん」
「ただ、まずいよねぇ、こんな時間まで男の一人暮らしの部屋に入り込んでるってのは」

 そう言うと、彼女はあたりをキョロキョロと見回す。俺は、彼女の肩をたたいてから、ある方向を指さした。ビデオデッキに表示されているデジタル時計は、0時を回っていた。

「で、どうしたわけで家に帰りたくないの?」
「ママが、勝手にコンサートツアーを決めてきたから」
「本当に勝手に?一言もなしに?」
「うん」
「それはたしかにひどいけど、コンサートできるなんてすごいことだよ?」
「でも、やりたくないから」
「どうして?」
「私はそういうことのためにピアノ弾いてるわけじゃないから」
「そういうことってのは?」
「ピアノを弾いてお金を貰うとか、そういうの」
「それ言われたら、俺がいつもホテルのラウンジで弾いてるのだって、金は貰ってるよ?」
「あれは、コンサートとは違う」
「どう違う?」
「あの場所でお茶を飲んだりケーキ食べたり会話したり、そうしている人たちのBGMをルカは弾いてる。そこにいる人たちの大切な時間に音楽を添えている素晴らしい仕事だから、お金を貰ってもいい。お客さんから直接貰ってるわけじゃないし、提供しているホテルに貰ってるから意味合いが違うよ、ルカの場合は」

 しっかり自分の意見を言う。彼女はだいぶ冷静にはなれているんだろうか。

「コンサートだって、聴きに来ている人たちのその時間に音楽を提供してるんだから、お金貰ったっていいんじゃないの?」
「違うの!」

 サヤカは、急に声を荒げた。

「コンサートは、ピアノの演奏すごいだろ?って、こんなに弾けるんだぞって、テクニック見せつけたり、お客さんに対して上からな感じがすんの!」
「だったらそうじゃない弾き方すればいいじゃない」
「それじゃ、耳の超えた観客は満足しない」
「なんで?」
「そんなもんか。そんな程度で金を取るのか、楽譜通りじゃないとか、その音は好きじゃないとかそのテンポはその曲に合ってないとか、いろいろ言う」
「言われた・・・の?」

 サヤカは何も反応せずに黙った。それからちょこんと頷いた。

「ひどい客だね」
「ママだよ」
「え?」
「ママが言うんだよ」
「ウソだろ?」
「あんな演奏じゃお金を払って聴きに来た観客に失礼だ。もっと練習しなさい。もっと上を目指しなさい。大学だって、海外の学校の資料を勝手に集めて、知らない間にCDも発売させられた。でもまだまだダメだって怒るの」

 順風満々なんだろうと勝手に思っていた高校生ピアニストの現実は、こんなもんなのか。何も言えなかった。けど、サヤカ自身は自分のことを話せたことで落ち着いたのか、ミネラルウォーターを口にして、大きく深呼吸をした。

「だから、家を出てきた」
「家を出た?」
「うん、今日からここに住んでいい?」
「何言ってんだよ、家出は、よくない」
「だってあんな所に居たら息詰まっちゃうし、一生ばばぁの言いなり。もう2度と家には帰らない」
「ほんとに家に帰らないの?」
「帰らない」
「ふーん]

二人掛けのソファ。さっきまでと違い、お互い向かうように斜めに座って、少し距離がある。自然と、話しやすい距離。普段から生意気で、大人っぽい彼女もやっぱりまだ幼い表情をしている。

「ガキだな」
「なんだよ。急におっさん偉そうに」
「おっさんだよ?俺は。おまえより一回り長く生きてるんだ。俺はおっさんだけど、おまえはガキだ。思ってることをきちんと自分の親に伝えることさえもできない、つまんないガキだ」
「うちの事情わかんないくせに偉そうに言うなよ」
「わかるかよ、おまえんちのことなんて。ただ、自分の考え、自分のこれからのこと、母親に対しての苦情、文句さえも言えないなんて、ただのガキだ。言葉としてきちんと伝える能力がないから逃げてるだけ」
「なんだと!」

 サヤカは立ち上がって、俺を殴ろうと、拳を作って振り上げたけれど、細い彼女の腕を掴むのなんて簡単なことだった。身動きとらせないようにして、暴れる彼女を俺は、力いっぱい抱きしめた。

「何すんだよ!」
「俺を頼って来たんだろ?だったら、俺も一緒に行くから帰ろう。ちゃんと話そう、思ってること」
「いやだよ」
「だったら俺を頼るのやめろ。たまたまピアノ弾いてる、話できる相手が見つかったからって勝手に頼るなよ。俺はおまえを知らないしおまえも俺のことほぼ知らない。俺なんかに慕う意味がわからない。うまく利用したいんだったら、もっと金持ってるやつんとこ行けよ。そこだったら家に泊めてくれんじゃないの?それとも勝手にどこかで住むとこ探してバイトでもして、生活するか?とにかく俺を頼ってくんな」
「ひどい。ルカだけは味方だと思ったのに」

 抱きしめていた俺を突き放すようにして、サヤカは俺から離れた。

「俺は味方のつもりだよ。たしかにおまえの話を聞いてる限り、おまえの母親はちょっと勝手すぎる気はする。けど、おまえもガキすぎる」
「何度も言うなよ、ガキって」
「じゃあちゃんと、大人らしく話をしたらどうだ?その、ばばぁと」
「だって・・・」

「な?サヤカ」

 俺がそう言って微笑んで。だけど彼女は驚いた顔をした。

「ルカが初めてサヤカのこと名前で呼んでくれた」
「は?呼んでねーよ」
「呼んだじゃん!今」
「そう?」
「サヤカって呼んだもん、今!いつもおまえって言うだろ?」
「おまえはおまえだろ」
「違うよ、私はサヤカだもん」
「だったらサヤカ、もう1度諦めないで話してみないか?お母さんに」

 手を差し伸べたら彼女は、躊躇ってからその手を握り返した。白くて細い手。

「何て言って話をしたらいいんだよ」
「ほら、ガキ・・・」
「うるさいな、質問の答えは?」
「まず、その口調やめろ」
「え?」
「どうせそれも、親への反発でやってんだろ?ちゃんと普通に話せよ」
「普通だよ」
「それが普通だったら全世界喧嘩だらけだ。ちゃんとした言葉遣いしろよ、特におまえは女なんだから」
「・・・わかった。そんで?」
「おまえのためだって言う親の気持ちも少しは理解してやれよ。おまえの才能を応援したいんだろうと思うよ、俺は。やり方はイマイチだけどね。とにかく気の悪いこと言われようが、それはわかった、と納得したうえで、でも自分のやりたいこと、こうしたいって希望もきちんと言葉にして伝えるんだ」
「できるかな?聞いてくれないと思うよ?」
「本当に今の生活が嫌なんだろ?」
「うん」
「だったらできるよ」
「でも、喧嘩になったら?」

 不安そうな顔をするサヤカは、今まで一番かわいらしかった。

「深呼吸しろ」

 そして俺も、今まで一番優しい表情でサヤカに話している気がする、今。

「深呼吸?」
「ピアノ弾く前の、静かに指を鍵盤に置く瞬間みたいに、心を落ち着けるんだ。それからもう1度、自分が伝えたいことを頭に描いて、感情ではなく、言葉で音にするんだ。伝えるんだ」
「深呼吸ね」
「あと、ピアノは辞めんなよ」
「ピアノ自体は、辞めないよ」
「ならいいよ。俺が初めて好きだって思える音なんだ、おまえのピアノは」
「ほんと?」
「うん。これがおっさんからのアドバイス」
「わかった・・・でも帰るの明日でいい?」
「だめだよ」
「でも、もうこんな時間だよ、ぜったい怒られるよ」
「怒られるのは今でも朝になってからでも一緒だろ?ちゃんと家まで俺がタクシーで送ってくから、準備して?俺が遅くなった事情を説明する」
「ルカが?」
「ちゃんと俺が責任もって謝るから」
「ダメだよ」
「なんで?」
「私とばばぁ・・・ママの問題だもん。こんな時間に一緒にルカが現れたら、ぜったいにルカが怒られるし。それでもう逢うなとか言われたら私もう無理だもん」
「でもさあ」
「大丈夫、ひとりで帰れる」
「いや、家までは送るよ、な?」

 少し考えて、サヤカはしっかりと頷いた。もう1度彼女はタオルで涙を拭い直すと、笑顔で俺に言った。

「ちゃんとママと話せたらデートしてくれる?」
「デート?」
「がんばるから」
「なんで俺がおまえとデートしなきゃなんねぇんだよ?」
「言い方間違えた。デートしてやるよ」」

 そう言って肘で俺を突いてくる。

「なんだそれ」
「いいだろ?女子高生とデートできんだぜ?」
「だから、その口調やめろって」
「ごめん・・・」
「デートは、まぁ考えとくよ」
「ほんとに?」
「それより早く帰ろう」

 タクシーを東京タワーの傍でひろった。そこから、彼女の家までしばし走る。場所はなんとなくサヤカが説明をした。あまり行くことのない場所だ。大きな家が建ち並ぶ。

「ねぇ、なんでルカは寒いのにあんな屋上で煙草吸ってたの?」
「あぁ、あそこタワーが見えるんだ」
「タワー?」
「東京タワー」
「ルカんちから東京タワーってすぐ近くじゃん。あんなとこからじゃなくて近くまで見に行けばいいじゃん」
「なんか、近すぎるとまた違うっていうか。あの距離から見るからいいんだ」
「よくわかんないや」
「いいよ、わからなくて」

 彼女の家の傍でタクシーを降りた。もう1度、一緒に謝るよって話してみたけど、断固として彼女に断わられた。その目を見れば大丈夫だって思った。今のサヤカならちゃんと親と話ができそうだ。
 ふたり並んで数歩、サヤカが立ち止まる。外灯がちらほら明るいだけの人の居ない街並みに、1軒、リビングの灯りがしっかりと点ている家がある。

「ここ?」
「うん」
「電気点いてるよ、起きて待ってんじゃないの?」
「うん・・・何度も連絡入ってたみたい」

 彼女はポケットから取り出したスマホを俺に見せた。何件も残る着信履歴。

「ねえ、ルカの連絡先教えてよ」
「え?」
「嫌なの?」
「嫌っていうか、面倒くさい」
「なんでよ」
「返事入れたりするの苦手なんだよね」
「いるいる、たまに、そういう人」
「そういう人代表、俺」
「いいよ、既読スルーしてくれて。既読ついたらそれで、見てくれたってことだけで私納得できるから。だめ?」
「本当に返事とか入れないよ?」
「いいよ」

 この夜初めて、サヤカの連絡先を知った。そしてサヤカはひとりで家に入って行った。俺はそれを見送って、少しして、歩いて大通りまで出た。通り過ぎる車は少ないけど、うまく止められたタクシーに乗って家に帰った。
 彼女からのメッセージが届いたのは明け方だ。ソファでうとうとしていたら音が鳴った。

『あまり納得してもらえなかったけど、ちゃんと思ってる事全部話したよ。ありがとう。ルカ大好き』

 届いたメッセージを、3回ほど繰り返して読んだ。なんだよ、大好きって。誰もいない部屋でひとりクスッと笑って、半分締め忘れてるカーテンの外を見た。灰青の空だ。俺はまた、何かに誘われるように屋上に向かった。

「おはよう、東京タワー」

 長い夜だった。



 木曜日。そうだ、まだ平日だ。すっかり寝不足のまま、いつもより早く家を出た。楽器店の鍵は店長と俺とふたり持っている。まだ誰も出勤していない店の鍵を開け、中に入る。店のメインの扉の鍵は締めたまま、俺は楽譜のコーナーで棚を見上げた。

「リスト、リスト・・・」

 作曲家名ごとに分かれているピアノピースのリストのコーナーで、『愛の夢、第3番』を探して取り出す。俺は、店の中央にゆったりと置かれているグランドピアノの鍵盤蓋を開けた。椅子を引いて座ると、手にした譜面を設置する。もちろん練習したことのある曲。だけど、あらためて練習してみると時々ミスタッチする。朝だからとか手がまだ悴んでいるからとか、理由にならない。何度も繰り返し、弾いた。

「あれ?おはよう」

 店長が俺に声をかけて、思わず時計を見た。1時間弱ずっとピアノを弾いていたようだ。時間がそんなに経っているのにも気づいてなかった。

「すみません、おはようございます。すぐ準備を・・・」
「熱心に弾いてたね、何か受けるの?コンクールとか」
「違いますよ、弾きたくなっただけです」
「愛の夢を?彼女のために、とか?」
「違いますって」
「でも彼女居たよね?林原くんって」
「あ・・・はい」

 鍵盤蓋を閉めて、店長と奥の部屋に話しながら移動する。店長は着ていたコートを脱ぎながら俺より先を行き、奥の部屋の電気を付けた。

「結婚とかしないの?どれくらい付き合ってるんだっけ?」
「半年くらいです。結婚は・・・いつかはって思いますけどね」
「彼女いくつ?」
「俺と一緒です」
「29かあ。絶対待ってるね。できれば30になる前に結婚したいもん、女って」
「そうなんですか?」
「43歳独身の私が言うんだから間違いない」
「あ・・・説得力あります」

 そう言うと睨まれた。

「あ、えっと店長、このピアノピース買いますね、俺」
「当たり前でしょ、彼女に聴かせてあげなさいよ、愛をこめて」
「はい、すいません」

 店長と笑いながら開店の準備をはじめた。



 次の日、この日も早めに店に入ってピアノを借りて練習した。普段自分では選曲しない曲なだけあって、久しぶりに弾くと楽譜につい頼ってしまう。ホテルでは楽譜は見ないようにしているから、2日間みっちり弾き込んで、夕方からホテルのバイトに向かった。いつもみたいにサヤカが来ていて、カフェで紅茶を飲んでいた。目だけでなんとなく挨拶をして着替えに裏へ行く。ロッカーを閉めようと思ったら携帯の音がした。朋美からだった。

『今日バイト終わったら逢える?今ロビーに居るからお茶しながら待ってるね』

 メッセージに返事は入れず、俺はラウンジに行った。ピアノに向かって歩いて行こうとすると、朋美の姿が目に入る。気付いた朋美も小さく俺に手を振った。小さく頷くようにしてから俺はピアノの前に着く。なんとも、複雑だ。とりあえず、ラウンジを見回して数曲弾いた。少しの拍手をもらったあと、俺は深呼吸をして静かに音を出した。リストの『愛の夢、第3番』。弾いてみるととても心地がいい。どうして今までこの場所で弾かなかったんだろう。意外とホテルの雰囲気とも合っている。気分よく弾き終わると、今度はいつもの席に座るサヤカと目があった。ピアノの席からちょうど斜めに視線を移した場所に、いつもサヤカは座っているんだ。ピアノを弾いている間には一瞬忘れていた、先程の複雑な感情が戻ってくる。変な緊張感。そうか、この場にサヤカと朋美が一緒に居るからだ。どうしてだろう、罪悪感のような気分になる。本来30分ほど演奏するところを、20分で切り上げて俺はピアノの席を立った。一度バックヤードに戻る。その途中で走り寄って来た朋美に話しかけられた。

「LINE、見てくれた?」
「あぁ」
「今日、うちに来ない?終わったら」
「今日は・・・」
「ね?泊まってってもいいよ?」

 そうか、今日は金曜日だ。朋美は明日は休みなんだ。ただ、今までここには2回ほど来たことがある程度なのに、どうして今日は急に来たんだろう。わからないまま、とりあえず「わかったよ」と返事をした。

「じゃあ、終わるまでここで待ってるね」

 そう言って朋美は座っていたソファに戻った。そして気付いたんだ、俺たちのことをじっと見ていたサヤカの視線に。俺はそのまま、ロッカーに戻った。
 次の演奏でラウンジに出てきた時には、サヤカの姿はなかった。そのまま、何度か演奏を繰り返して今日の仕事は終わりだ。着替えて出て来ると、朋美が待っていた。

「ちょっと飲んでから、うち来ない?」
「あぁ、いいけど」

 キョロキョロと、あらためてラウンジを見回してみるけれど、やはりサヤカの姿はなかった。

「どうしたの?」
「いや、何も」

 そのまま朋美と一緒に飲みに出かけた。少し軽く食べて、ほろ酔いで。いつもだったらサヤカとピアノの話をする時間。今日は朋美の職場での愚痴の時間だった。

「でさ、その上司が偉そうに言うの。こんなんじゃ篠田さんにこの仕事は任せられないなあって。ひどいでしょ?元々手一杯だからすぐには無理ですって言ってあったのに」
「でも実際、期限までに出来ずに先方に迷惑かけたんでしょ?だったら取りあえず謝っとけばよかったのに。謝らずに反論するから上司も要らぬこと言っちゃった感じなんじゃないの?早めに手を打つことはできたでしょう?」
「えぇ?私が悪いの?」
「朋美が悪いって言ってるんじゃなくて、小まめに上司に報告入れるなり出来たでしょ?って話」
「琉伽くんも結局、上司寄りなんだよね?考え方が。それとも男はみんなそんな感じ?」
「悪かったね」

 彼女はいつもより酔っていて、なんだかんだで結局家まで送ってく羽目になる。俺は明日も仕事なのに。

「琉伽くん、ビール飲む?」

 部屋に着くなり、コートを脱ぎ捨てて朋美は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

「朋美、飲み過ぎ」
「いいじゃん、もう家なんだから」

 止める間もなく、朋美は缶ビールを開けた。そしてグッと口に入れる。

「ほら、やめとけって」

 朋美からビールを取り上げるとそれをテーブルに置いた。途端に朋美は俺に抱きついた。

「もう、会社辞めたい」
「なんで?上司がムカつくから?」
「うん」
「せっかくずっと勤めてんのに、勿体ないよ」
「いい。琉伽くんと一緒に居れればそれでいい」

 そう言って、ふふふと笑うと、抱きしめる手に力を込めた。

 朋美は、以前俺がレストランでピアノを弾いていた時に、客として食事に来ていた。

「ピアノ素敵ですね」

 それが最初に話しかけられた言葉だ。

「ありがとうございます」

 と返しただけ。でも、その印象が忘れられなかったって、後になって聞いた。とても嬉しそうに俺が、ありがとうと言葉を返したそうだ。その後朋美は何度も店に足を運んで、俺がピアノを弾いている日は、ピアノに近い席で友人と食事をしていた。俺にとってはただの客だった。だけど、いつの間にか親しく話をするようになり、一緒に食事に行くようになった。付き合って欲しいと言ったのは朋美からで、それから半年経つ。

「ねえ、琉伽くん」
「ん?」
「ここで一緒に住まない?」
「なんで?」
「琉伽くんち狭いし、うちだったらふたりでも平気じゃない?そしたら毎日一緒に居られるから」

 たしかに、ワンルームの寒いうちの部屋と違って、朋美のマンションは2LDKのゆったりした間取り。オートロックで、エレベーターもついてる。OLってのはこんなに収入がいいのかと、初めて家に来た時に思ったりした。

「悪いけど、俺はあそこが気に入ってるから」
「あの狭いとこ?」
「落ち着くんだよ」
「でも、ずっと一緒に居たい」

 俺の首に手を回したまま、朋美は自分から俺にキスをした。そして耳元で囁くように声にする。

「やっぱり、琉伽くんは私のこと嫌い?」
「なんで?」
「私が一方的に好きなだけな気がする」
「そんなことないでしょ」
「だったら今日は、泊まってってよ」

 朋美のことは、好きだかどうだか、よくわからなくなっていた。半年の間で、良い部分も悪い部分もなんとなく見えた。朋美が居たら居たでこうやって抱き合って、居なければ居ないで、どうってわけでもない。ただ、求められるからキスをして、一時の快楽に堕ちるだけ。
 結局、陽が昇る前に俺は朋美の部屋を後にした。なんだか虚しかったんだ。



 月曜日が、俺の決まった休日。昼過ぎまで寝る。目が覚めたら急におなかがすいてきて、外に食べに出た。近所の行き慣れた店で簡単に食事を済ませ、天気がよかったので東京タワーの傍まで歩いた。前にサヤカにも言われたけど、実はあまり近くでタワーを見る事はない。すぐ近くに住んでいるってのに。平日なのに、観光客が多い。スマホの振動が急にダウンのポケットで響いたので、取り出すとサヤカだった。

「もしもし?」
「うわ、出た。起きてた?」
「起きてるよ」
「月曜休みだって言ってたから」
「うん、休みだよ」
「サヤカも今テスト終わったとこで、ルカ、デートしない?」
「テスト?てか、デート?」
「学力テスト。ほら、前にデートしてやるって言ってたじゃん?」
「言ってたっけ?」
「また出た、いつものルカのすっとぼけ」
「用それだけ?切るよ?」
「待って!待って待って。今どこに居んの?」
「東京タワー」
「東京タワー?マンションの屋上?」
「違う、ほんとに東京タワーのとこ」
「前にタワーには行かないって言ってなかったっけ?」
「たまたま、散歩してただけ」
「じゃあ、行くよ。東京タワーで待ってて」
「え?面倒くさいな」
「すぐ行くから。タクシー飛ばして」

 それだけ言って電話を切るから、俺はタワーの下のところでただ待っていた。ダウンのポケットに手を突っ込んで、背中を丸くして。やっぱり人の出入りは多くて、入っていく人、出て行く人。写真を撮る人、さまざまだ。そういえば、制服姿のサヤカと一緒に居ることには慣れた。勝手にはしゃいでくれるから、俺は彼女のあとをついて行くだけ。ただ、それはいつもホテルでのバイトのあと、つまり夜の時間帯の話であって、こんな昼間に逢うのは初めてだ。電話を切ってから、サヤカは本当にすぐに東京タワーまでやってきた。

「マジでタクシーで来たの?金持ってたの?」
「だって私、稼いでますから」

 そう言ってピアノを弾くフリをした。

「ねぇ、サヤカ展望台のぼりたい」
「え?のぼるの?でも今たしか、工事してた気がするなあ」
「工事?じゃあ入れないの?」
「いや、入れないわけじゃないよ、ほら、入場券買ってる人いるだろ?」
「じゃあ行こう!」

 俺の手を引っ張って、タワーの入り口まで歩き出す。

「デート、か」
「ん?なんか言った?」

 俺は首を振った。朋美と、こうやって昼間に逢うことなくなったなーと、ふと思っていた。休みが合わないってのもあるし、気づくといつも晩飯を一緒に食って、どちらかの家に居るだけなんだ。
 タワーの中に入ると思っていたほどの人ではなく、サヤカがガラス張りのそこから外を見てスマホで写真を撮っていた。俺もその横に並んで、外を見る。

「ねえ、ルカんち見えるかな」
「うちは、こっち側じゃないよ、あっち」

 指さしたほうにサヤカが移動したので、俺もついて行った。

「どこ?」
「あのへん」

 俺が指さす方をサヤカも指さして聞く。ガラスの向こうの東京の街、遠くを見る人が多い中、俺たちだけがタワーの足元に近い場所を見下ろす。

「どのへんよ?」
「もっと手前。近過ぎて逆に見えないよ、うちは。あの、白い建物の裏ぐらい」
「ふーん」

 展望デッキのふちのカウンターに頬杖を付きながらサヤカが外を見ていた。

「楽しい?これ」
「楽しいよ、あのへんにルカ住んでるんだーって思って」
「見えてないのに?」
「うん」

 また、サヤカは外に向けてスマホカメラのシャッターを切った。

「ねぇ、ルカ」
「ん?」
「愛の夢、すてきだった」
「あぁ、この間の」
「まぁ、サヤカが弾いたほうがもっといいけどね」

 俺はクスッと笑った。サヤカは、俺のほうを見ることはなかった。だけどずっと、外を見ながら続けて言う。

「ルカって、彼女いたんだね」
「え?」
「きれいな人だね」
「あぁ、まあ」
「否定しないんだ?やっぱり彼女なんだ?どれくらい付き合ってんの?」
「半年・・・くらい」
「いいなーーあ、サヤカも彼氏ほしい」
「できるだろ、そのうち」
「そのうちじゃなくて、今すぐほしい」

 俺はまたクスッと笑った。だけどサヤカは全く俺のほうは見なかった。淡々と話しながら、遠くをずっと見つめていた。

「ルカが彼氏だったらいいなーって思ったことあるよ」
「俺が?」
「もうちょっと若かったら、の話だけどね」
「悪かったね」
「でも、ルカだったらなんでも話せて、なんでも相談できる」
「そういうのは、友達とかは?」
「あんまりいないかなー。みんな表面的に仲いいだけで、ライバルだから」
「ライバル?」
「コンサートやりたくないのもCD出したくないのも、それが理由なんだ」
「え?」
「私がコンサートやるとね、友達が離れていくんだよ」

 彼女はスマホをまた自分の目線までやると、何かを探すようにシャッターを切った。俺は情けなくも何も言えなくて、サヤカの隣で一緒に東京の街を見た。楽しいとは思わない。サヤカは楽しいって言ったけど。でも、いつもマンションの屋上からタワーを見ているときと同じように、とても時間がゆっくりで、心が落ち着く。時折飛行機が遠く高く見えて、そんな景色をまたサヤカがスマホで撮る。「いい感じ」って言いながら見せてくれるそれを、「俺にも送ってよ」って言うと、俺のスマホにも届く。

「いいね」
「いいでしょ?」
「うん、これいいよ、サヤカ」

 きっとサヤカも、この写真みたく素直でとても優しい。

 それから少しして、タワーの中を少し歩いた。サヤカが欲しいって言うので、タワーのぬいぐるみを買った。タワーを降りると、今度はしっかりと手を繋がれた。

「ちょっと、なにこれ」
「今度は、あの場所からタワー見よ?」
「あの場所?」
「いつものルカの特等席」
「いいけど、手は離せって」
「いやぁーだ」

 手を繋いで、大きくゆらゆらと揺らしながら歩く。うちまでの距離、5分ほど。少し陽が落ちてきて、空の色が変わりつつある。たぶん、もうすぐタワーに灯がともる。マンションにつくと手を解き、サヤカは俺よりも先にマンションの階段を駆け上がって行く。元気だな、ほんとに。俺はゆっくり、そのあとをついていく。屋上の扉を開けると、サヤカは俺がいつも居る場所に駆け寄った。

「ねえ、煙草吸い過ぎじゃない?」

 足元にたくさん散らかった吸殻を、彼女は黒いローファーで蹴るようにする。1年どころじゃない吸殻の山は、雨に打たれ、コンクリートに張り付くようになっている。

「これ、掃除する」
「は?」
「なんかないの?掃除道具」
「ないよ、そんなの」
「じゃあ今度持ってくる」
「いいよ、そのままで」
「良くないよ。あと、これあげる」

 サヤカは、通学バッグを開けると、黒い色の紙袋を取り出した。黒いリボンが付いているシックな包装。俺に向けて、サヤカはそれを差し出した。

「何これ?」
「ルカにプレゼント」
「プレゼント?なんで?」
「あげたい・・・から」

 受け取ってサヤカを見ると、ニコっと笑っていた。俺はリボンを解くと、その紙袋の裏についているシールを外した。中の箱を手のひらに出した。しっかりとした手のひらサイズの箱。
「開けてみて?」

 言われて俺は、その箱を開けた。

「アッシュトレイ?」
「うん、持ち歩けるからいつでもどこでも使えるでしょ?」
「買って来てくれたの?」
「うん、愛の夢のお礼」
「俺、ピアノ弾いただけだよ?」
「うん、でもリクエスト聞いてくれたから」
「いやいやいや、俺も弾く曲には悩むし、普通にあれは助かったし、さ?」
「うん、でもあれ、嬉しかったから」
「だからって」
「サヤカからのプレゼント困る?彼女に悪いとか?」
「そういうことはないよ、嬉しい、よ」
「だったら使って?ここ、今度掃除するね」
「掃除は大丈夫。さんきゅ、これ、大事に使わせてもらうよ」
「うん」

 アッシュトレイを箱にしまうと、紙袋と一緒にダウンのポケットにしまった。顔にも言葉にも出さなかったけど、突然のプレゼントが実はちょっと嬉しかった。ポケットに手を突っ込んで、それに触れるとちょっとニヤけそうになる。そして顔を上げると東京タワーの灯りがついた。

「あ・・・」

 俺が声をあげたから、サヤカはどうしたの?って顔をする。

「タワーに灯がついた」
「え?」

 俺の見るほうをサヤカも見上げる。ここからは上半分しか見えない東京タワーが、静かに暗くなる空に赤く光っていた。

 「またタクシーで帰るから送らなくていいよ」ってサヤカは、俺を屋上に置いてその後帰って行って。俺は貰ったばかりのアッシュトレイを使って煙草を吸った。手のひらに丁度いいそのアッシュトレイはシルバーのしっかりした丸いデザインのもので、スカルのイラストがついている。チェーンキーホルダーが付いていて、たぶんこれはベルトループに付けることができるんだろう。そのチェーンのところに付いているチャーム、見たことがある。なんだっけこれ。何気にアッシュトレイを裏返して気が付いた。

「Vivienne Westwood?」

 裏の部分に書かれた文字を思わず口にした。

「高いんじゃないの?これ」

 もう、使ってしまった・・・。高校生からこんなの貰っていいのかよ?すでに、アッシュトレイの中には俺の吸った煙草の灰が入っている。

「マジか・・・」

 そして可笑しくなってきて、俺は東京タワーを見ながら笑った。


 部屋に戻ると、鍵が開いていた。もしかしてと思ったら、やっぱり朋美だった。

「おかえり」
「ただ・・・いま。どしたの?」
「うん、ちょっと早く帰れたから、来ちゃった」
「そう」

 サヤカにもらったアッシュトレイをダウンのポケットに残したまま、俺はダウンジャケットを脱いで部屋の隅に置いた。

「ねぇ、あの女子高生、誰?」
「え?」
「この間もホテルに来てた子」
「誰のこと?」
「さっきまで屋上で楽しそうにしてたじゃん」
「屋上って・・・?」

 ソファの傍で立ったままの俺を、床に座り込んでいる朋美が見上げるようにしていた。表情なんてなくて、ただ、何かが冷たかった。

「また仕事でミスしちゃった。帰っていいって言われて、早く会社を出たから逢いたくて来てみたら、琉伽くんは居なくって。中に入ってようって鍵を開けようとしたら、琉伽くんの声がして。帰ってきたんだ、って思って階段の方に行きかけたら。そしたら、女の子と一緒にこの階通り越して上の階に行っちゃうから。どこに行くんだろうって思って、あとをついて行ったら屋上で」

 思わず俺は、朋美から目をそらした。

「この間もホテルで、私より先に、琉伽くんと目を合わせて笑ってた」

 ゆっくりと朋美は俺のほうに向かって床を這うように近づいて、手を伸ばして俺のダウンジャケットを手にした。

「おい・・・」

 ポケットの部分に手を突っ込もうとするから、俺は朋美からダウンジャケットを無理やり奪い取った。

「あのあとね、ピアノ弾き終わったあと。わざと琉伽くんに声かけたの。そしたらあの子、帰っちゃった」
「わざと?」
「可哀想なことしちゃったかな。琉伽くんのこと待ってたの?あの子も」
「違うよ」
「そう。ならいいんだけど。本当ならあの日、私じゃなくてあの子とやるつもりだったんじゃないの?ここに連れ込んで」
「朋美?そんなこと俺は・・・」
「何度も逢ってるの?ここの屋上で。プレゼントなんか貰っちゃって」
「彼女は、ただの知り合いだから」
「ふーん」

 俺は、ダウンジャケットをキッチンの床に残して、部屋の床に座る朋美の前に座った。

「ピアノを聴きに来てくれてるだけだよ。彼女はピアニストなんだ」
「そう」
「あの日も、アドバイスをもらったからそれを俺が弾いていて、聴きに来ていただけだよ」
「そうなの?」
「そう」
「でも、あの子琉伽くんのこと好きだよね」
「え?」
「見てたらわかるよ」
「いや、そんなことないと思うよ?」
「琉伽くんは別に好きじゃないの?」
「別に・・・」
「そう」
「だったら、私とセックスしようよ」
「え?」

 目の前で、朋美が服を脱ぎだして。脱ぐたびに俺がその服を拾って、手渡す。

「今日はやめておこう、服着て?」

 だけど彼女はすぐに裸になった。

「できない?あの子のことが好きだから?」
「だから違うって」
「だったら安心させてよ」
「いいから落ち着けよ」
「仕事はできないし、何のとりえもない、我儘ばっかり言うし性格も可愛くない。私なんかより、あの子のほうが若くて可愛くていいよね。まだ何も知らない、恋もそれほどしてないだろうから、琉伽くんの好きなようにできるもんね」
「何言ってんだよ」
「もうやったの?」
「だから。朋美?」
「高校生だよね?そんなの犯罪だよ。それともお金とか払ってんの?どこをどうしたら気持ちいいか、琉伽くんが教えてあげてたりして、手取り足取り」

 さすがに・・・切れた。

「いい加減にしろよ」

 朋美の体を強く押し倒して、鼻と鼻が触れるか触れないかの距離まで顔を近づけた。俺の声は静かだったけど、怒りで止まらなかった。朋美の首元を、片手で絞めるように少し力を入れると苦しそうにする。

「自分がダメだからっていい加減にしろよ。あいつのほうが数倍苦労して、数倍努力してるよ。おまえなんかより。まだまだ楽しい時期のはずなのに、狭い世界で苦労してんだよ。好きなだけ稼いで自由に遊んで暮らしてるおまえなんかと違うんだよ」
 
 朋美の首元から手を離すと少し咳をしながら大きく息をする。苦しそうな顔が、余計に苛立たしい。そのまま俺は、朋美の体に触れた。すでに露わになっている朋美の体を、唇で指で、触れた。こんなに荒々しく誰かを抱いたのは初めてだ。朋美の叫ぶような声は止まることはなく、俺もずっと体を動かし続けた。何を思っていたのかとか何を考えていたのかとか、その時の自分のことでさえさっぱり覚えていない。朋美がどう思って俺に抱かれていたのかなんて、もっとわからない。ただ、いつもより激しく長く、抱き合っていた。終わったあとも、彼女はずっと大きく息をして床に横たわっていた。俺はそのままシャワーを浴びてさっさと服を着た。それでもまだ、朋美は裸のままで横たわっていた。新しいタオルを朋美の体に被さるように投げ渡して、冷蔵庫から取り出して缶ビールを飲んだ。

「シャワーしてこいよ」

 朋美から返事はなく、俺はまた続けてビールを口にした。

「早くシャワーしてこいよ。そしたら帰ってくれる?」

 朋美は、ゆっくりとこちらを向くと体を起こした。タオルを手にして。部屋が暗いままで表情はわからなかった。向こうからも見えていないと思う。

「どうだった?やってほしかったんだろ?気持ちよかった?満足?」

 すごく嫌なやつだ。俺は。俺のその言葉を聞いて、朋美はタオルを俺に投げつけた。

「最低」

 そして俺に近づくと、俺の頬を大きく叩いた。叩かれて思わず笑ってしまった。頬を叩かれたのも、今日が初めてだ。

「笑うなんてひどい」

 急くように朋美は服を着ていく。

「シャワーしないの?」

 問いかけても返事はなく。彼女は着てきた服を身にまとうと、俺の横をすり抜けて出て行こうとした。それを俺は引きとめた。

「鍵は置いて行ってくれる?うちの」

 朋美は何も言わず、手にしたバッグからごそごそと探して手にしたものを、キッチンの床に投げ捨てて、部屋を出て行った。

「はは・・・はははは」

 どうして笑っているんだろう、俺は。そして、どうして涙がこぼれてくるんだろう、俺は。泣きながら笑って、俺はビールを飲みほした。部屋のベランダからは赤い鉄骨の色しか見えないんだ。何なんだろうな、いったい。あんな風に朋美を傷つけて、何がしたいんだろうな、俺は。そのまま、スマホを探した。どこにやったっけ。ダウンのポケットに入れたままだったっけ?ダウンジャケットを手に取ってポケットに手をやると、サヤカからもらったプレゼントに触れる。箱を、取り出した。なんだろうな、また涙が出てくる。もう片方のポケットに手をやって、スマホを手にした。

『彼女と別れた』

 ただそれだけのメッセージを、サヤカに送った。なんで彼女に一々送ってんだろう、こんなメッセージ。そしたらすぐに電話がかかってきた。

「もしもし?ルカ?別れたって、なんで?」
「もしもし?デカいよ、声が」
「なんで?なんで別れたの?」
「喧嘩した」
「喧嘩ぐらいで?」
「ぐらい、どころの喧嘩じゃないよ」
「でもたかが喧嘩じゃん?」
「無理なもんは、無理」
「どうして?なんかしたの?」
「逆」
「逆?なんかされたの?」
「一番、傷つけたくない人の悪口を言われた」
「悪口?なに?ルカってガキなんじゃないの?」
「ガキがうっせーよ」
「ダサいなぁ、喧嘩ぐらいで別れるなんて」
「ていうか、一々電話してくんなよ」
「ルカがメッセージ入れてきたんじゃん」
「誰も電話してくれなんて頼んでないでしょが」
「またまたあ、慰めてほしかったくせに」

 そうなのかな。そうなのかもしれない。サヤカの、声が聞きたかった。電話してきてほしかったんだ、俺はきっと。

「ルカ?どうしたの?聞こえてる?」
「聞こえてるよ」
「でもね、別れて正解だよ。私あの人あんまり好きじゃなかった」
「どうして?」
「この間ホテルにあの人も来てたじゃん?あの時ずっと、ルカが演奏してる間も携帯いじってた。全然ピアノなんて聴いてないの。最後までずっと」
「最後?おまえ途中で帰ったよな」
「帰ってないよ、場所変えただけ。カフェの端のほうに」
「そうだったの?」
「あの日、3回の演奏。3回とも『愛の夢』弾いてくれたでしょ?」
「知ってたんだ?」
「嬉しかったんだ」
「そっか、それで、あのプレゼント買ってくれたんだ?」
「まぁ、そういうことだけど」
「ありがとな。あれ、高かったんじゃないの?」
「そんなことないよ。小銭程度だよ」

 サヤカの、ちょっと生意気で元気な声は、今の俺には優しすぎた。

「ありがとう、サヤカ」



 それからも変わらず、サヤカは俺のバイトの日に合わせてピアノを聴きに来た。その帰り道に話して、たまに電話で話して。いつもだいたい、音楽の話。ピアノの話。

「夏のコンサート、やることにしたよ」
「マジで?あんなに嫌がってたのに?」
「経験だよ、経験。でもそれで、当分はやらない」
「当分は、ってことは、いつかはまたやるのね?」
「まあ、普通に、国内の音大に入って、ルカみたいにホテルとかレストランでピアノ演奏のバイトする」
「海外留学は?」
「しないよ」
「どうして?」
「海外にはルカがいないもん」
「なんだそれ。せっかくの勉強できるチャンスなのに」
「いい。そんなことよりルカから教えて欲しいこといっぱいあるし」
「俺?」
「ラウンジとかで演奏する時の心構えとか、礼儀とかルールみたいのとか。選曲の方法とか、いろいろ」
「あぁ、そういうのね?」
「なんだと思ったの?ピアノなら、サヤカのほうが上手いから」
「わかってるよ」
「そこは認めるんだ?」
「俺はコンクールで落ちまくってる男なんで」
「でも、今からでも挑戦はできるじゃん?」
「無理だよ、俺もうすぐ30(歳)になるんだから」
「まだそんくらいじゃん。ずっと弾いてたらいつか急にフューチャーされるかもしれないよ?フジコ・ヘミングみたいに」
「あの人のピアノは元々がすごいから」
「だから、わかってないなあ。ルカのピアノは優しいんだって」
「そんなんじゃ無理だよ」
「私は、ルカみたいにいろんな場所で演奏して、たくさんの人に聞いてもらって自分が納得できたら、その時、次のコンサートができるのを目標にがんばりたい」

 そう思えるのが羨ましい。まだたったの17年しか生きてない彼女のそんなすべてが。

「そうだ、忘れてた」
「ん?」
「次の水曜日、バイト終わったらすぐホテル出れる?」
「次?」
「1月31日。出れる?ってか、出て」
「なんで?」
「内緒」

 不思議と、内緒にされてるそれも楽しみで仕方がない。サヤカが優しいと言ってくれた俺のピアノが、自分でも今まで以上に好きになって仕方がない。相変わらず下手くそだとは言われるけれど。



 次の水曜日、クタクタで楽器店に戻った。

「お疲れさまです」
「あぁ、志乃。もうマジ助けて」
「また店長に仕事入れられたんですか?」
「あの人頭おかしいんじゃないかな。なんで東金と湘南台の施設のピアノの調律、同じ日に受けるかなあ。千葉と横浜。はしごしろって簡単に言うけど、移動時間どんだけだよ。2時間半とか、ないわー」
「ほんとお疲れさまです」

 言葉とうらはらに志乃は笑ってた。少し休んで楽器店を出て、次のホテルに向かう。スーツ用のケースを片手にホテルに着くと、サヤカはすでにカフェで紅茶を飲んでいた。

「なんなの?今日の内緒は」
「だから内緒だって」

 何も聞かされないまま、スーツに着替えに行った。今日も3回、演奏をしてピアノをしまう。着替えて出てくると、サヤカはカフェの店員と楽しそうに話していた。

「最近ね、顔覚えてくれて、時々パンケーキとか出してくれるの。おなかすいてるから超助かる」
「そんなに入り浸ってるっけ?」
「支配人とも顔見知りだよ」
「マジで?」

 サヤカは会計を済ませると、俺より先に外に出た。そういえばすぐに出るって言ってたっけ。

「ちょ・・・タクシー?」

 ホテルの前の通りで、彼女はタクシーを止めていた。

「今日は急ぐの。だから」
「だからって」
「ほら、早くう」

 タクシーに乗り込むと、サヤカが行き先を告げた。

「東京タワーまで」

 愛想よく頷いて、運転手は車を出した。

「ちょっと、タワー行ってどうすんだよ」
「だから、内緒って」
「おまえさ、家の方向逆だろ?」
「今日だけ」
「帰るの遅くなるだろ?また怒られるよ?」
「大丈夫だって。今日だけだから」
「いつもそうやってさぁ」
「ほんとに。少しだけ。タワー見たらすぐに帰るから」
「何があるんだよ、東京タワーに」

 タクシーが大通りを走る。キラキラと街灯を窓の外に光らせて。サヤカは楽しそうにニコニコしていて、わけのわからない俺はどんな顔していいのかわからなくて。腕を組みながら窓の外を見ていた。こんな時間に車だとタワーまですぐだった。すぐ前でタクシーを降りると、サヤカは東京タワーを見上げながら指さした。

「今日はピンクなんだよ」
「え?」

 たしかに、時々あるんだ。赤くない時。イベントとか記念とか、何かの追悼だったり。ピンクも見たことはある。

「今日は満月で、月に1回、満月の日だけピンクになるんだよ」
「そうなの?」
「ルカが東京タワー好きだって言うからなんとなくネットで検索してて、それで見つけたんだ。満月ダイヤモンドヴェール」

 うちのマンションの屋上からだと下のほうが見えないから、これをきちんと見るのは初めてだった。下から上に向かって途中まできれいなピンク色で、てっぺんだけは消灯するんだ。だからいつも見えるのは、ほんのちょっとのピンクで。時々見られるそれは、上の方のライトが点いてないからなんだか寂しいなって思っていた。全体を見ると、こんな風だったんだ?今日のこの目の前の東京タワーは、とてもとてもきれいだ。

「どうして上まで点けないんだろうな」
「満月だからだよ」
「満月?」
「満月の邪魔にならないように、点灯は下の方だけなんだって。書いてあったよ」
「へえ」
「そして今日は皆既月食、ほら」
「あぁ、だから変な色してんの?月」
「スーパーブルーブラッドムーン!今日ってもともとブルームーンの日なんだって」
「ブルームーン?」
「1ヶ月の間に満月が2回あることをそう呼ぶらしいよ」
「へえ」
「そんで、皆既月食の時は少し赤くなる。その2つが重なるって珍しいんだって」
「ふーん」
「それがスーパーブルーブラッドムーン」
「詳しいね」
「調べたからね。3年ぶりなんだって。で、次に日本で見れるのは、2037年!」
「2037年?そうなの?」
「そうだよ」

 サヤカは満足げに、そして得意げに、俺を見て笑った。

「これを、見せたかったの?」
「うん」
「そっか」

 今日の東京もとても寒い。吐く息は白くて、だからこそ澄んだ空気の中に浮かび上がるピンク色がとても鮮やかだった。

「そっか。そっか・・・」

 そっとサヤカが俺の手を握った。暖かかった。だけどサヤカのほうは見れなかった。ずっと東京タワーを見上げたまま、俺はその場で動けなかった。少しでも下を向いたら、涙がこぼれそうだったんだ。

「ごめん、早く帰らなきゃいけないけど、もう少しいい?」
「いいよ。ルカに付き合うよ」
「偉そうに」
「仕方ないから付き合ってやるよ」

 サヤカの手を握り返すと、彼女もその手に力を込めた。



 俺は今もピアノを弾いている。サヤカも今もピアノを弾いている。たまに逢って話をする。あの頃みたいに、週3ではないけれど。俺は楽器店とホテルを行ったり来たりし、昼間は調律技能師として関東近郊のあちこちを走り回っていることも多い。サヤカは大学を卒業するのと同時に、本格的に音楽活動を始めた。再始動で出したCDはサインを入れて持ってきてくれた。相変わらず海外には行かないと言う。理由は、そこに俺が居ないから、だそうだ。

 そうだ、1年ほど前に引っ越しをした。引っ越す前に、あのマンションの屋上はきれいに掃除した。今度は、程よく東京タワーから見えるマンション。部屋からきれいに全体が見える。満月の日には、下の方だけピンクに見えるタワーがとてもきれいだ。そんな日は、サヤカもうちに遊びに来る。店長に頼んで安くしてもらったピアノを、リビングの端に置いた。ピンクの東京タワーを見ながら聴く、サヤカの『亡き王女のためのパヴァーヌ』は最高にせつなくて優しくて、いつも「弾いてほしい」ってせがむんだ。そしたら彼女は、「仕方ないなあ」って言いながら弾いてくれる。この曲はサヤカのCDの1曲目に収録されている。俺が好きな曲だからと選んでくれた。

 『亡き王女のためのパヴァーヌ』を俺がどうして好きなのかってのは、サヤカ以外には内緒なんだけどね。いつか機会があったら、話すよ。

ピンクと黒のパヴァーヌ

ピンクと黒のパヴァーヌ

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted