弦月

『まだ・・・・、足りない』
 アカリはつい別の意味でため息を洩らす。 横向きに寝そべっている彼女の両足を左右にひろげ、バレリーナがアラベスクの姿勢のままソテの瞬間のような格好をさせている男は、アカリとは対照的にいかにも満足そうだった。
 アカリは男の白い肌がギリシア神話に登場する神々の彫刻のような光沢を放っているのを、うす暗闇の中でおぼろげに感じる。男は体勢を変え、風車の一方の羽のようにしてアカリの身体に重なり、緩慢な動作で執拗に出たり入ったりを繰り返していた。
 『足が邪魔だわ。重苦しい・・・』
 前開きの白い綿レースのキャミソールが、第3ボタンまで外されている。
 彼女の発育途上の乳頭はへこんだままで、男の下手な愛撫に反応しない正直さがあるが、男はそれすら鈍感だ。アカリの貧相な胸は男を欲情させる対象ではなく、主に下半身に関心は注がれた。それが証拠に男は、アカリに紋切り型の黒い絹製の長い靴下を着用させて、その上から念入りにくちづけた。精巧にできた壊れやすい人形でも抱くように。
『私を物そのもののようにに扱う奴なら誰でもいいのよ』
彼女は常日頃感傷もなくそう思っていたつもりだった。一見どこにでもいるようなありきたりな女子高生。
 目鼻立ちが整った美人でもなければ、その反対に誰が見ても不細工だと思うほどの顔ではなく、雑踏の人々の群れにのまれてしまう程度の外見だった。ファッションセンスは特別洗練されている風でもなく、流行には無関心で、普段はシンプルなデニムのタイトスカートにカジュアルなチェックのシャツを着ている身長一六〇センチの女の子。いたって目立つ風貌ではない。ただ東洋人にしては珍しい、磁器のような肌の色は人の目をひいた。それが他人が気付く唯一の特徴といえばいえるかもしれない。 一五歳でバージンを失ってそれから男と性交した数を勘定してみると、記憶によると一ダース。その消せようもない事実は、彼女を唯一安心させる拠り所だった。昨今取り沙汰された援助交際などではない。一定の男と継続的に付き合うわけでもない。アカリはただ「欲しい」と自分に対し向けられる男の視線に対して敏感なだけで、処女の観念やセックスに対してポリシーの持ち合わせはなかった。学校生活は周囲の人間達と同じ程度につまらなく退屈していたし、心底仲の良い友達も持てなかったが、無駄なおしゃべリに付き合うくらいの対人関係は作れた。彼女は何にしても「振り」が上手く適当に器用だったため、そこそこ人気もあったが、アカリ自身は自分に寄ってくる人間に対して内心無関心だった。
 『学校は私の居場所ではないわ。ただ、ここにあるだけの期間限定の収容所みたいなもの。勉強も適当だし、スポーツはセックス以上にはやる気はないし、周りの子達も結局幼くて性に対しては好奇心だけが発達しているにすぎない』
 彼女が暮らしているのは、九州はN県の片田舎だが、田園地帯とはほど遠い中途半端な町だった。適度に便利で都市部の情報にも影響を受けやすい人々が暮らし、若者は自分も都会の人間と同じように、今でいう「イケテル」と思い込んで暮らしていた。そのくせ内心は都会に対する羨望や劣等感は強い。しかしその種の不満を紛らわせるのも得意で、生活水準をあげるための努力は惜しまない。家も車も人並みな暮らし。戦争や大災害などの極端な事態が自分の人生上に起らない限り、世の中の流れに淡々と影響を受けて生きるのは、いつの時代もそう変わらない。自分にとって損か得かの判断次第で、社会に対しての関わりもスタンスも変幻自在のカメレオンのように色を変える大人達もまた多く暮らしていた。
 アカリの家庭環境はそういった一九八〇年代のニッポン的「中流」から逸れることはなくやっぱり人並みだった。三LDKの築10年の家には犬が一匹いたし、アカリの母親は自分が誰からもかまわれなくなった分ペットに愛情を注ぐ始末で、父親は若い頃からの浮気癖が治らず、年中行事のように茶の間でニ人は諍いを繰り返していた。アカリはそれでも自分の家庭は「普通」だと思っていた。大なり小なりトラブルの種は、他所の家にもあるもんだと。だからそのテの事が原因となって非行少女と化したり、男と関係をもつ動機になるのはちがう、と漠然と考えていた。アカリの中学時代はおりしも社会現象や、サブカルチャーとして所謂「〜族」と呼ばれるつっぱり、ロカビリーブームが蔓延した時代だったが、両親はアカリの素行に疑いを持ってはいないあくまでも鈍感な人種だった。
 
   四月○日 金曜日 くもり

 今日はあたしの一七歳の誕生日だ。幼馴染みの正志君は、あたしを心配しているような事を言ってきた。彼は×○弁がかなりきつい。わからない言葉もたまにでるから困るのよね。F県に住んでる明子は小学五年生の時に、ヨコハマから引っ越してきたからほとんど標準語。あたしは生まれも育ちもO市だけど、方言がそれほどひどくないって、トウキョウに住んでる叔母さんから言われる。高校に入ってから、いつか上京する日のために明子や地元の人間以外と接する時などは、×○弁を話さないようにしているのだ。
 正志君はあたしと寝たいの?特定の恋人はいないようだし、唯一熱中していることは、洋楽を聴くことと、バンドでギターを弾くこと。あたしの知らないマニアックなイギリスのロックが好きなようだ。彼にもらったCDも、ちょっと暗い。かきながら聴いてるけど、だんだん気分がおちこんでくる変な音楽だ。プレゼントってほんとに嬉しい物ってないんだなー。結局いらなくなるものばかりで、処分に困る。それなら完全に実用的で、使ったらなくなる物のほうがまだ有り難い。
 新しいクラスメートに、一人だけ気になるコがいる。彼女は、他の女子とはちがう気がする。でもそのせいで、あのコを見ると何かカンに障る。何故なんだろうか?
 
 アカリが男と知り合うのは、引っ越した友達の住むF県に遊びに行った際だ。土曜の午後にはナンパに応じ、深夜過ぎには男と性行為に耽るパターン。ホテルか相手のアパートかマンションで、アカリは大差のないセックスに励んだ。奇妙なことにアカリに食指を働かせる男は似通った性能の持ち主だった。受け身なアカリを愛でることに情熱を感じ、ごっこ遊びの御遊戯が好きな連中ばかり。彼女は男を愛撫することなどまったくなく、愛玩用としてオブジェに徹する自分に陶酔していただけだった。その点趣向は見事にかみ合った。それは相手はいるが、オナニズム的な交歓でしかなかった。しかし彼女の潜在意識の中では、充たされない想いが見知らぬ男達と性交を重ねるごとに増幅していた。
 友人の明子は屋台のラーメンをすすりながら、暑い湯気で上気した顔をして言った。
 「アカリ、今夜はどうするの?」
 「運次第だからわかんない。だめならだめで、あんたの家に泊まらせてもらうからいいでしょ?」
 明子はアカリとはちがって滅多にナンパに応じない。それに特定につきあっているボーイフレンドがいた。
 「でもさー。いい加減、この遊びはきりあげた方がいいんじゃない」
 「迷惑になってきちゃったんだ?」
 「ちがうけど・・・、ただ、考えてたよりずっとやってるからさ、心配じゃない?」
 「大丈夫だよ、毎回避妊してるし、安全日の間しかうろつかないと決めてるから」
 「いや、そうじゃなくって・・・」
 明子は、保守的な考えがいたって強く「フリーセックス」は、女性の肉体を消耗させ害があるのだと思い込んでいた。セックスというものは、あくまでも種を保存するための本能で、愛情を媒介して行われるものだと。
 立ち上がり勘定を済ませるアカリを追いかけるようにして、明子は食べ残したラーメンを置いて出てきた。
 「ねえ、見て。今夜は月がきれいだよ」
背伸びしながら屈託なく笑いかけるアカリは、何人もの男を知っているようには見えない程、時に純朴そうだった。
 「・・・あれって満月じゃないし、三日月でもない、あんなのきれいっていうの?」
 「まー、いいじゃない。何か好きなんだから、半分のがね」
 「ふーん・・・。アカリってちょっと変わってるよね。小学生の時から思ってた」
 「えー。そうかな?」
 「あんたってまったく無自覚よねえ」
 長い潤いのある天然に栗色がかった髪をかきあげながら夜の街を歩くアカリは、模範的に見える同級生の間では大人びた存在だった。
 「顔も身体のスタイルもけっこういいしさ。それだから男もそこそこ寄ってくるんじゃん?わたしじゃ到底無理。名前も可愛いしさあ。『子』がつく名前って多いし、野暮ったいからあたしは厭だな、自分の名前も。」
 「名前ってたんなる記号みたいなものでしょ?なんだっていいんじゃない」
 「またまた〜。親って希望をこめて名付けるもんじゃないのお。それにもし『いね』とか『もん』とかいう名前ならどうする?あんたってほんと妙なこと言うよね」
 アカリは同級生の前では本当に感じてることを話さないのが常だ。たまに話したところで相手は大抵ありきたりな反応しか返さないしまともに受け合わない。アカリは住んでるのが田舎のせいで話の合う人がいないとは思わなかった。仮に都会に暮らしたってきっと大差ないんだろうとタカをくくっていた。
 二人はH市の繁華街の方に向かって歩いていたが、今夜は誰も声をかけてこなかった。大人が集う週末の夜の街の賑わいには、彼女達がいくら背伸びしていても何処か拒絶したムードをもって流れているように感じられた。
 「今夜は収穫ないんじゃない?あきらめて帰ろうよ。あ、そうだ!琢也のところに行かない?あんた、うちの親に電話してこっちの友達の振りしてよ」
 アカリは明子のボーイフレンドには会ったことがなかったから好奇心がすこし湧いた。
 「わかった。いいわよ」
                  
   四月△日 水曜日 晴れ

 明子の恋人から電話があった。もう一週間以上経つのに案外しつこいから困る。明子はあの夜のことを知らない。もしかしたら知らない振りをしてるだけかもしれない。彼は早朝の空の下であたしにキスをした。話に聞くと彼は前科のある母親がいるようだ。本人はそのことを隠しているようだ。けれど一部の暇な人達は、誰ともなく秘密の匂いを嗅ぎ付けて暴いてしまうのだという。彼はその変えられようもない事実の前では無力になり、差別による陰湿な苛めに抵抗する気力も萎えて立場はますます過酷となる。彼の避難場所は唯一本の世界みたいで、やたら世界の文学に詳しく饒舌だった。退屈で明子が居眠りしてしまうくらいに。話に聞き入ってあげた感謝を示しただけなのかもしれないと、その時私は思った。でも孤独な人間というものは、思いきって秘密の一端をみせた人間に対しては信用し、その後ろ姿を執拗に追いかけてしまう性質を兼ね備えているのかもしれない。理解者の存在を失うのを怖れて。私は彼に対してただ同情しただけなのに。明子との友情?にヒビが入ると困るからと言って彼を説得した時、情けない声を出して哀願する彼にマゾッ気を感じてしまった。もしかして彼は、苛められ続けているうちにそれが快楽に転じたのかもしれない・・・?あたし、マゾヒストの傾向のある人は好きじゃない。人間の本性なんて見た目じゃよくわからないもんだと思う。
 
 アカリは他人との待ち合わせにおいて、一度も待つ側にまわったことがなかった。約束の時間五分前に行ったとしても、相手は必ずアカリより先に来ていた。平日の正午のO駅は人影も少ない。一時間に数本しか走らない『汽車』は当時レジャー目的のファミリーに主に利用されていた。
 アカリは一度関係をもった男とはニ度と会わないことにしていた。そうやってある種の規制を課することは、アカリには必要に思えた。そうしないと知らぬ間に他人の感情は回転をはじめ、泥沼に沈みこむとも限らない。その警戒心は実は、自分自身へ対してのコントロールでもあったのだが、彼女は自分の冷淡さを過信している程度の女子高生だといえる。
 男は一五分程遅刻して車に乗って現れたが、アカリはその倍以上待たされた気がして不愉快な気持ちになった。
 「誘いに応じたのは、何故なんだい?」
 男は、車が高速から出るとようやく口火をきった。
 「あなたには少し興味が湧いたから、その好奇心に正直になっただけ」
 「例えば、どんな?」
 「最初のデートで私に手をだそうとしなかったことと、つい最近まで首都で暮らしていたこと。加えてO市の人間ではないらしいということです」
 男は片手間に煙草に火を点けると、煙りを一気に吹き出しながら苦笑した。
 「手をだすとか、何か悪びた言い方だな。お嬢さんには」
 アカリは自分が子供扱いされていることに気分を害して、そっぽを向いたまま車窓の移り変わる風景を無言で追った。
 「その態度が幼いんだよ」
 アカリは無反応でいることがすぐに耐えられなくなった。
 「感情に素直なだけだわ」
 「君はあからさまな感情が苦手じゃなかったんだっけ?」
 アカリは自分を困らせ、答えを詰まらせる男が嫌いではなかったから、次第に口元に笑みが戻っていった。
 男はゆっくりとハンドルを切った。
「・・・どこへいくの?」
「知ってるモーテルがある。そこへいく」
 彼は平素口数が少なく話は簡潔で、見ようによっては素っ気なかった。
 国道沿いにあるホテルは棟にわかれた一軒家スタイルの平家で、ドアを開けるとワンルームにバスルーム+トイレがついた造りだった。各部屋にパイプのようにつながっている筒状のプラスティックの容器が空気圧によって送られ、事務的な手続きはそれで行われる。面と向かわないスタイルが男は気楽だった。  
2人は休憩にはならない休憩をとり、風呂に入る。よくあるラブホテルのように、そこの風呂はベッドのある部屋から入浴している人間が見えるように、しきりの壁に透明な硝子窓が設えてあった。
 「のぞき趣味の人はこの程度で満足できるのかしらね」
 アカリは男が寝そべっている隣で全裸のままで胡座をかいた。
 「チープな快楽」
 独り言のように話すアカリ。男の反応のなさにはもう慣れてきていた。別の事を考えているか、ただたんに放心しているのだろうと思う。
 「望さんて、車持ってたのね」
 「親父のだよ。借りてきた」
 アカリは、やっと男が口を開いたのがなんとなく嬉しかった。
 「車の趣味がやけにじじ臭いと思ったら、どうりでね。トウキョウからこっちへ来てまだ三ヶ月なんでしょ?あっちでは何をしていたの?」
 「女と暮らしていた」
 「ふーん」
 アカリにとって同棲は、ほのかな憧れが漂う言葉だった。
 「どんな人と?」
 「年上の、和服の似合う美人」
 アカリは、着物雑誌のグラビア写真にでてきそうな旅館の若女将風の女性を思い描く。
 「大和撫子七変化だったりして。」
 「・・・僕は谷崎潤一郎の晩年にかいた本も好きなんだ。彼なりの当時の日本女性に対する審美眼というかね」
 アカリは名前のあがった小説家は知らなかったし、てんから文学などには興味がなかった。生きていく上で所謂純文学などなくても暮らしていける「健全」な人間だった。何か確実に得意分野を持った人間に対して羨望や尊敬はなく、むしろ漠然とした対抗意識が湧いて出て、謙虚を装うよりも攻撃的な応対や無視する態度にでてしまい、劣等感を薄めようとする無意識の働きがあった。だから望の前になると、自分の稚拙さがこぼれおちそうで(相手が文学愛好者というだけで、劣等感を感じること自体が浅薄だということには気付かない)急に寡黙を決め込んだ。男はアカリの心を見透かしたように彼女を横目で観察した。アカリは男と最初に出逢った時大学生だと偽った。簡単にばれるような嘘。もっとも男は即座にアカリのことをまだ高校生だと見破ったが、彼女はミステリアスを気取りたいのか言ってる事の半分はでたらめだった。
 「君は、思いのほか劣等感が強い、自信があるように振る舞うのは得意のようだけど」
 アカリは男の断定口調に対し反発のつもりで無言を通す。
 「僕の好きな作家の本に、修業僧が主人公の小説がある。彼が、老師に向かってこうたずねる場面があってね、『私を見抜いてください』と。僕はその台詞をたまに思いだす」
 男の言葉には何か含むところがあるのかアカリにはわからなかった。
 「その気になったら、読んでみるといい。無理にはすすめないけど」
 膝を抱えて顔をうつ伏せにしてベッドに座ったアカリの前に一冊の文庫本が投げ出された。薄目をあけて本のタイトルを一瞥する。
 『これって確か、去年の読書感想文提出の課題の本のひとつだわ』
 自分に注がれた望の視線に応えて、アカリは出逢ってからはじめて、薄茶色がかった大きな瞳で彼の眼を直視した。
 
   五月▽日 曇りのち晴れ (月)
 五月病?あたしはすっかりユウウツ気味。なんかいつももやもやしている。気が付くと望さんの事を考えている毎日だ。彼とはあれから会っていない。一昨日も遊んで別の男と寝たけど、安心できなかった。疲れたわりに眠れない。正志君のくれた暗い曲ばかりのテープがなんだか聴いてて気持ちいい・・・。
 あのコとはじめて今日話した。事務的などうってことない話だけど、人を見る目つきが何か独特。眼で何か言うってことはきっとあるんだろうと、あのコと視線が合う度に思う。不思議なんだけど、その感じって望さんに似てる気がする・・・。 
 指が長細いのが神経質な感じがした。彼女はピアノが上手いと誰かが言っていたっけ。
                 
 アカリは市内の女子高に自転車で通学しており、下校途中たまに寄り道して海まで気晴らしに行くことがあった。彼女にとってこの潮と海藻の匂いのする海岸は、四季を問わずちょっとした日常の避難場所だった。子供の頃は遊泳禁止なのに幼友達と一緒に泳いだ無邪気な想い出も多かったが、今では黄昏れるための舞台装置というわけだ。
 煙草をふかすと望の傍にいるような甘い感傷に耽れた。男はかなりのヘビースモーカーだったから。アカリは彼を最初見た時、何故か懐かしい気持ちになった。そして反面、嫌悪にちかいものがこみあげた。それはいたって健全だと自認する同性同士が感じる、ある種の嫉妬のようなものかもしれない。アカリは嫉妬を感じるような異性にはじめて出逢ったと思った。
 彼の身長は一八〇センチ位で鼻が日本人にしては高く、顔の輪郭や目の大きさと感じがイギリス人のデビュー以来イメージを万華鏡のように変えることが売りの有名なロックミュージシャンに雰囲気が似ていた。
 望 嵩と名乗るその男はいつもシャツスタイルでジャケットに細めのジーンズを着て、何が入っているのかよくわからない小さい革のトランクを持っていた。アカリは同級生の付き添いでついて行った美容室で彼と出逢った。新顔の美容師に切ってもらったからちょっと緊張したと、あとで友人は洩らした。他の美容師とは明らかに違う静かな仕事ぶりと、周辺の雑多なモノに囲まれていても、その新入りの男だけが明確な線を形づくって、違和感を醸し出しているような雰囲気がアカリの気を惹いた。ヘアカットされる友人を待つ間ソファに座って横目で男を観察しながらも、何処となく落ち着きのないざわついた心を持て余していた。唐突に学校の鞄からメモ帳をひっぱりだすと、アカリは彼宛に短い手紙を書いた。それは彼女自身、予想外の行動で衝動的ですらあった。
 イッシュウカンゴノゴゴ8ジハン、シリツトショカンノイリグチフキンデマッテイマス。マチノアカリヨリ
 アカリは周囲の目を盗んで彼の手の内へそっと紙片を滑らせた。意外なことに彼は戸惑う様子もなく、そのメモ書きをズボンのポケットに無造作に入れ、一瞬アカリの顔に視線を注いだ。まるで何かを確認するかのように。アカリは無表情を装って、支払いを済ませる友人より先に店から出て行った。
 『私ったら、自分からアプローチすることなんかこれまで一度もなかったというのに、どうしたことだろう?』
アカリがはじめて男性と関係をもったのは男の一方的な性行為だった。それが本質的にレイプであったのかはアカリ自身判断がつかないまま、まるで交通事故のように遭遇してしまった。相手の男は高校受験のためにアカリの親が雇ったアルバイトの家庭教師の大学生だった。アカリはその一件を親には隠した。親もまったく気付く様子がなかったから、アカリはその無頓着に救われた思いだった。彼女は男が自分に対して異性として興味をもっているのを、最初から勘付いていたが、あくまでも無邪気を装っていた。女というものは程度の差はあっても、誰しも演技できる才覚があるにちがいない。アカリは中学2年生の時の文化祭で、劇の主役をやった舞台を数人の中学教師に誉められ、将来女優になれなどとそそのかされたこともあって、動揺を顔に表さないことにかけてはかなりの線をいっていた。喜怒哀楽は普通に表情に出すが、自分にとって都合の悪いことなどを相手に気取られないように振る舞うのが上手かった。自信過剰ではないが、自意識は人並み以上といえる。
 アカリは家庭教師が母親の留守を心待ちにしているのを知っていた。母親にそのことを告げて警戒を促したり、家庭教師をクビにする手配を頼んだりはしなかった。何故ならアカリ自身、性行為に対する欲望が、大嫌いな真夏の太陽のようにジリジリと身体を焦がしてきていたのを自分でよくわかっていたから。男を誘惑するほどの積極性はなくても、アカリの態度は他人から見て、性に無関心ではないとみてとれるところがあった。抑圧している風でもなければ大胆でもない。女に不自由な男からみたら、ちょうど性欲を刺激されるくらいの若い甘酸っぱさがあった。ほんとうに清純可憐な女性がもし同じシチュエーションにたったらそうはいかないだろう。レイプは犯罪で醜聞を覚悟する度胸さえあれば警察沙汰にできる。不運にも被害者はその心の傷を癒すのに長い時間を必要とし、自分の人生を無駄にしてしまう可能性もある。だがアカリはそうではなかった。家庭教師の男に愛情を感じていたわけではなかったが、いざ性行為を望まれた時に心は抵抗しなかった。一方には快楽を求める極があり、他方に初体験の恐怖があって、複雑な気持ちのまま態度は抵抗を示すに到った。家庭教師の男は、行為のあとの出血を危惧していたが、シーツを赤く染めることがなかったことを逆に訝う純情さをもっていた。アカリは下着を脱がされたスカート姿のままで自分ではよくわからない気持ちを持て余し泣いた。それは決して相手を責める抗議の涙ではなく、初体験に際して緊張が弛んだはずみで流したものだった。男は自分の行為を否定も肯定も謝罪もせず、その代わりのように長いキスをした。唇をただ合わせるだけではなく舌を挿入する場合もあるということを、アカリはその時になってはじめて知り、ついで男の自分を求める気持ちを感じ、お互いの欲情が高まるにつれ男を招き入れる準備が整ってしまうことも、身体の奥底で感じとった。
 「それで君は、その家庭教師とは関係を続けたの?」
 望はホテルの一室でアカリの話を大儀そうに聞いていた。煙草の吸い殻が一杯になり灰皿から溢れてこぼれそうな位、退屈な時間。
 「ううん。先生は、そのあとすぐに辞めちゃったわ。うしろめたくなったみたい。もともと、おとなしい人だったからね。まあ、悪人ではないのよね」
 アカリは自分の性遍歴を望に話すことには躊躇いがあった。退屈でもわざと話させようとする曖昧な態度の望の、普段は触れると心地良いはずの彼の髪の毛の柔らかさが憎らしく見えた。
 「その一件は、精神的外傷になったと思う?」
 「・・・わからないわ」
 アカリは「トラウマ」という言葉にアレルギーがあった。少々の人間関係の挫折を大袈裟に語ることを嫌った。しかし望にだけは否定することが何故かできなかった。
 「私は『愛する』ということがよくわからないのかもしれない。『愛』にも種類があるのかしら?」
 「ねえ、『好き』という表現では不十分?」
 望は質問には答えずに祭司や裁判官のような確実で威厳に充ちた振舞いで、アカリの服を脱がせ始めた。「私に治療を施すつもり?」
 アカリは抵抗もなく、望に身を委ねる。
 「ベッドにいきたいわ」
 望はその言葉を無視して、籐製のカウチに仰臥するアカリを抱き起こし座らせ、太腿を開き、プリーツスカートの中に顔をうずめる。普段は寡黙な望の口は、うす水色の下着の上からアカリの中心の割れ目を上手に開かせようとする。アカリの上半身はすでに裸で、その姿は未成熟な青く硬い果実を連想させる。尿意をこらえるような子供の表情で、アカリは左手を伸ばしカウチのクッションを強く掴み、もう片方の手で弄るのは、望のしなやかな髪の毛だった。
 「あなたとはずっと一緒に・・いたい」
 アカリは望にだけは能動性をみせた。望の突起物は誰よりも逞しく、自身のプライドの高さを誇示するかのごとき聳えをみせ、その前でアカリは素直に跪き奉仕した。そこには今までには経験したことのない満たされた幸福感があった。褪めることない高揚感があった。

   六月△日(火)午後から一時雷雨

 あたしは望さんのもの・・・。
     
 短い梅雨が終わると、唐突に真夏の慌ただしさが訪れた。クラスメートの女子達は、こぞって夏休みの遊びの計画に熱中する。まるで夏が再び巡りくることがないかのような焦燥感を伴って。確かに彼女達は敏感だった。一七歳の夏はニ度はないという決定された現実。「サマーバケーション」は彼女達にとって、「バレンタインデー」や「クリスマス」と同じような特別な「シーズン」らしい。アカリにとって夏は一年中で最も嫌いな季節だった。茹でたシュリンプを見るだけで、ぞっとした。日焼け止めを絶えず塗っておかないと、肌がヒリヒリと灼ける。まるで何かの罰のようだと被害妄想は酷暑に膨らんだ。だからあまり人には会いたくなかった。浅黒くなって溌溂とした笑顔が氾濫するのが不愉快だった。海水浴に行く機会を好んで逃し、夏はただ過ぎるのを待つのが習慣になっていた。それはアバンチュールの中休みともいえる。
 「わたし、この夏オキナワへ旅行に行くわ。もちろんカレとね」
 深夜の長電話の相手は明子だった。
 「カレったらここ最近、ずっと変だったの。オレは最低な男だ、だからどうぞ奴隷だと思ってこき使ってくれとかなんとか・・・。前から男らしいタイプじゃないとは感じてたけど、もっと軟弱になっちゃってさ」
 アカリは内心バツが悪かった。
 「まあ、ただマッチョなおばかさんよりマシだと思いなさいよ」
 「マシだなんて思わないけど、でも、まあカレはそこそこ勉強はできるから、その点は確かに気に入ってるわ」
 生真面目な文学青年顔が脳裏に浮かんで、アカリは少々嫌気がさす。明子は、アカリのように無意識ではなく、意識的に、自分が文学にまったく関心がないという事が、ただちに劣等感になり、文学に詳しい人間に浮ついた憧憬と尊敬があった。
 「文学好きなんて今どき流行らないけど、そういや『文学少女』って一口にいうにはやたら大人っぽい人がいたわね。中学三年の時に同じクラスだった根音真理子さん、あの人は印象に残ってるわ」
 アカリはその名前を聞いた瞬間、心に陰りがさした。
 「ああ、彼女はあたしと同じ高校でおまけにクラスメートよ。あのコが『文学少女』?」
 「わたしと根音さんの親がわりと親しくしててて、彼女の情報はけっこう入ってきてたんだよね」
 根音真理子は際立って目立つほどの美少女ではなかったが男子には人気があり、彼女は異性の中にあって不自然なほど彼等と馴染んでいた。それが一部の女子の反感をかったりもしていたが、真理子は女性特有の本能的な媚が感じられなかった為、女子全体からほどなく黙認された。ただアカリは彼女に対してだけは、嫉妬に似た思いを度々感じることがあった。
 「彼女の母親が音大の教授のせいか、クラシック音楽には詳しいし、楽器もできるでしょ?声もきれいなソプラノで、独唱によく選ばれてたよね。スレンダーな身体つきだからちょっとモデルっぽいし。顔もけっこう端正な美人でしょ?ヘアスタイルも、顔が小さくないとできないベリーショートだし、あれって、セシルカットっていうんだっけ?なんというのかな、なかみが顔つきにでてるというか・・・ストイックにもみえるね。学習という意味の勉強ができるというよりも、頭がいいという感じ。もっとも、成績も優秀だったけどさ。」
 アカリは真理子の噂話が長引くに耐えられなくなって、口実を言って受話器を置いた。
 ベッドに仰向けになり、アカリは真理子の像を頭の中に結んでみる。一昨日までは同じ空間の中、見回すと彼女は確かに存在した。中庭に面した窓際の席の彼女は休み時間、大抵窓の外を眺めている。頬杖もよくつく。授業の終了を告げるチャイムが鳴りだすと、衝突したビリヤードの色んな球のように、男子の数人が彼女の周囲に散らばり、彼女と親し気に会話する。他の女子達は会話というものを知らない。彼女達から分泌されるのは、スナック菓子のようなたわいもない駄弁にすぎない。言葉のキャッチボールというよりは一方的な浅薄なおしゃべりだ。それを互いに交換しているだけ。アカリはその違いをわかっていた。真理子の同性から抜きん出た存在感は、アカリを苛立たせることがよくあった。真理子が傲慢な質ならまだよかったろう。真理子には妙なプライドの高さを誇示する自己主張の素振りはまったく見あたらず、むしろ影が薄いところがあった。たまに独りで中庭に佇んでいる姿など目に入ったが、光の直中にいると、その存在がだんだん稀薄になり、しまいには影も形もなくなるのではないかというそういう錯覚を自分に起こさせることがアカリには我慢ならないことだった。アカリは積極的に彼女を避けた。同じクラスになってから接触する機会がないように用心した。根音真理子の存在を黙殺したいほど、彼女に対してだけは執拗に意識的だったといえる。
 『去年の全校の読書感想文で、最優秀賞をとって、○□書店の主催する全国大会にまで出されたのは確かあのコだったんだ・・・。』
 その小説は望がアカリに薦めたものだった。アカリはこの偶然を何かよからぬ予兆と感じた。望に対する想いはアカリの内部で膨張の臨界点に達し、今や破裂してしまいそうな勢いがあった。アカリは望の筋肉質の隆起した胸板や男にしては美しい繊細な鎖骨のくぼみを思い起こしながら、独りベッドの上で自らの貝に似たものを指で弄んで悦楽に浸った。具体的な人物を想起しながら自慰行為に浸るのは、アカリははじめてのことだった。
 アカリの母親はアカリが一日中部屋にこもるのを良しとはしなかったが、外出して親の眼を盗んで『フジュンイセイコウユウ』に及ばれるのもかなわないという考えから黙認していた。強い紫外線を浴びないアカリは肌の青白さがますます目立つようになり、黒いノースリーブのワンピース姿は脆弱な不健康さが漂った。母親はアカリにとって夏はまるで御弔いの季節だ、と言って度々からかった。
 「夏は食べもんが傷みやすかけん、困るねえ・・・、腐るのがはやか」
 アカリの母親は冷蔵庫の整理をしながら愚痴った。「あら、アカリちゃん、その足と手はなんね?」 
 「おかあさん、あたし出かけてくる。晩御飯はいらんよ」
 アカリは、バスに乗り、いつものように駅前の公衆トイレで手慣れた化粧を終え、マニキュアとペディキュアの色とお揃いの赤いルージュをひくと、家にひきこもる毎日の蓄積した憂さを晴らすように、鏡の中の自分に向かってふざけた笑顔をつくってみせた。
 白い麻製の日傘をさしてアカリは望が現れるを待った。約束はしていなかったが、望の仕事が終わる頃駐車場にいれば会うことはできた。夕暮れの苺のシャーベットのような鮮やかさが、夏の夜のざわめきを呼び寄せているようだった。一日の明暗をわけるつかのまの時間帯に、とりわけアカリの胸は踊った。
 『今夜は望に愛されたい』
 アカリはいつしか待つことが平気になっていたのだ。無邪気な子供じみた悪ふざけで望を驚かせようと、他の車の蔭に隠れて待った。しびれをきらした頃、ふいに望の低音で乾いた声が近くに聞こえてきて反射的に飛びだしていこうとした瞬間、アカリは思わず息をのみ後ずさった。車のキーを開ける望の傍にいたのは、根音真理子だったから。 

七月▽日 快晴 (月)

 わからない。何故、彼女が望さんと一緒にいたのか。どうして?ずっと疑問が続くだけ。
 昨日はあのまま家には帰りたくなかったから、思わず正志君を訪ねてしまった。彼があたしに気があるから?たぶん、そうなんだろう。頼りたくなった。はじめて他人に相談なんて真似、してしまった。彼は笑いながら言った。君は恋しているんだ、と。そんなのわからない。この混乱が恋なの?彼女に聞いてみる?望さんとの関係を。そんな事、悔しくて聞けない。でも、知りたい。望さんには怖くて聞けないから・・・。
              
 数日後アカリはクラスメートの連絡簿を手に取った。根音真理子の家はアカリの住んでいる隣町にあった。アカリははじめて他人の存在を強く意識した。それまでの真理子に対する反感は、漠然としたものであったが今は違っていた。真理子という人間に心から興味を持ったのだ。アカリの変化のなかった受け身な姿勢は、真理子のおかげで一八十度転換した。
 待ち合わせ場所に現れた真理子は、少々物憂げだった。アカリの用件に辟易していたが、
断る理由もなかった。
 「率直に聞くけど、あなた、望さんを知ってるでしょ?」
 街はずれにある冷房のきいた照明を抑えた喫茶店は、『ハワイ』という名まえだった。アカリが促した一番奥のボックス席に座り、真理子はしばらく店の壁に飾ってある土俗的な仮面などの装飾を眺めていた。
 「答える義理はない、と思ってるかもしれないけど、あたしには重要なことなの。だからお願い。教えて。」
 真理子はしばらくして、革のショルダーバッグから煙草を出して吸いはじめた。その手つきは手慣れたもので、アカリは真理子が喫煙者だということを意外に感じた。
 「町野さんが彼を好きなら、それでいいんじゃないですか?」
 真理子は悪びれてはいなかった。煙草の銘柄が望と同じものだったのを発見したアカリは瞬時に感情が高ぶった。
 「そうよ!あたしは望さんが好きなの。はじめて男の人を好きになったと思うの。この気持ちはもしかしたら愛かもしれないわ・・・。運命の」
 アカリの切実な訴えに真理子は微笑んだ。それは嫌味なものとはかけ離れた、ある種清々しいものであった。
 「そんな余裕のある顔しないでよ。一体あなたは望さんの何なの?」
 普段は口から出てきそうもない言葉がアカリをみじめな気分にさせる。
 「何って・・・。どう答えたらいいんでしょうか」
 真理子が話し終えないうちに、アカリは怒ったように声をあらげた。「丁寧な言葉使い
はやめて。カンにさわるのよ!」
 昼下がりの喫茶店は客もまばらで、カウンター席に座った客と話していた店のマスターのまだ若そうなひとり客が、アカリに注目した。アカリはこの喫茶店の顔馴染みで、そのマスターとはただの客と店主の関係だけではなかった。マスターはアカリ達に店からのサービスだと言って、カシューナッツを皿にいれて持ってきた。
 「マンゴージュース、甘過ぎず、おいしいです」真理子はまた微笑んだ。
 マスターは何も答ず、ニ人に向かって軽い会釈をして戻っていった。
 「よかったら、場所、変えませんか?」
 真理子の穏やかな提案に、冷静さを取り戻したアカリはごく小さく頷いた。
 
 「望さんは、兄の友人やった」
 アカリがたまにふらりといく海辺の防波堤に腰をおろして、真理子は再び煙草に火を点けた。海が好きな真理子は、急にリラックスしたように、普段の言葉づかいに戻っていた。
 「うちに泊まるくらい親しい間柄。それで私とも親しくなったとさ。兄は一七歳で亡くなってしまったけど、兄のことはずっと忘れられん、一番大事な存在だった・・・。彼は兄が亡くなってから上京したとよ」
 アカリは予想もしていなかった事情を聞かされて戸惑いの表情を隠せなかった。
 「町野さんにはショックな事かもしれんけど、兄と望さんは愛しあっていた。この意味、わかる?」
 「友情・・・、じゃないの?」
 「友情が二人の間にあったかはしらんけど、私は彼らがキスしとるのを何度か見かけた。所謂同性愛というもんね」
 真理子は彼女特有の爽やかな笑顔をアカリに向けた。
 「でも望さんはバイセクシャルやけんね。兄は、肉体的には完全に同性愛者やった・・・。兄と私は容姿が似とるとさ。兄は女性っぽかったし、私は見ためも男っぽいやろ。望さんは兄を忘れきれんのじゃないかな。私と会うとはそのせいと思うけど」
 アカリは、無言で目前の海を眺めた。今日の夏の日の夕暮れは甘酸っぱい苺色ではなく、いつかの夜に道路を走っていた車の窓から見た遠いガソリンスタンドの店のオレンジ色のライトのように悲しげに映った。
 「いつの季節も太陽が沈む時間帯はよかね」
 アカリはそう呟く真理子の横顔を見つめていると、嫉妬していたことなど忘れてしまうような、何故か理由もなく切なげな気分になっていった。
 「町野さんて男性とよく関係しているようけど、たいした意味はなかとね。精神分析じみたことならいくらでもいえるだろうけど、その必要もない。機会があって妊娠の心配がなければ、ほとんどの女性もセックスは好いとるとじゃない?それに愛だの恋だの飾りをつけて情慾を精神化しとるようけど、私はナンセンスと思う。望さんが町野さんを好きになったのはわかるし、合っとるとも思うし」
 アカリに向けられた冷静な言葉に、腹立たしい気持ちは沸騰したが、それを冷却させたのは、真理子が何か透明な美しさすら漂わせていて、一種の気迫さえ感じたせいだった。
 「あなたは・・・、望さんのことは好きじゃないの?」
 真理子は沈む夕陽を見つめていたが、アカリの心配気な言葉に思わず苦笑した。
「・・それじゃ、彼に会いますか?一緒に」
 アカリは、自分が彼女を疲れさせていることに気がつくと羞恥心を覚えた。
      
   八月○日 (木)

 今日は、晴れ。一時にわか雨
 彼女と話してみて、わかったこと。
 望さんと彼女はある絆で結ばれていた。共通した喪失感。彼女へのあたしの反発は所詮子供じみたやきもちにすぎない。あたしは彼女のことをずっといいな、と思っていたのだ、心の奥底では。それを認めたくなかったのはちっぽけなプライドからなんだ。本当は彼女と親しくなりたいと思ってた。だからこそ彼女と望さんが関わりがあることが厭だったんだ。彼女とは親友同士と呼べる女友達になれたのかもしれない。でも、複雑な気持ち。私は望さんのことを誰よりも愛している。だって、もうこれ以上、他の男と寝たくないもの。あたしは望さんがとても好き、彼のためなら死んでもいいくらい・・・。

 望はアカリの一途な思いが増してくるのを感じるにつれて、次第にそれを負担に感じ疎ましくさえなっていた。真理子が判断したように望はアカリが「恋愛」に簡単には溺れない性質の女である、ということに着目して肉体関係を結んだ。それは暗黙の契約だと彼はタカをくくっていた。しかし反面、アカリがいずれは自分に執拗な愛情をふりかざしはじめることを、どこかで予測する自惚れもないわけではなかった。アカリは聖なるアバズレでもなければ、思春期にでる吹き出もののような恋に恋する自己陶酔型の女子高生でもなかったが、決して思慮深く賢くはない。こうしたこまっしゃくれた女の子は本当のところ、自らの浅薄な自尊心のもとで他人を区別して「恋愛」に走る。今まで関係した男達は、謂わば性交渉を持ってもいいくらいの人間だったというだけで、対象を選んだ上での情慾にすぎなかった。アカリはまちがっても、容姿の悪い男や貧乏くさい男の誘いにのることはただの一度もなかったから。望も最初はその例外ではなかったが、彼に対してだけ更に区別した理由は、望は少なくとも出逢った中では一番知性があるように見え容姿が好みで、彼のアイシカタが自分には合っているとアカリには思えたからだ。加えて今では真理子の存在による刺激もあった。自分が心の奥底では羨望していた女と、愛する男が複雑な関係を結んでいるという事実は、アカリの無邪気な恋心に拍車をかけ、高飛車な心を満足させていただけだ。
 
 田舎町O市では夏祭りがアーケードの商店街をあげて行われる。どんな町もそうだが、お祭りという催しは、人々の心を活気づかせ、市民がいっせいに真夏の狂乱に参加し躍りたがる。殊に夏祭りに血が騒ぐのはある種の本能なのかもしれない。特に若い人間にとっては、またとない「ラブ・アフェア」の好機であり、この日を逃す手はないと充血した眼で男女ともに物色をはかる。アカリは望と花火大会を見物しにきていた。夜の闇の中ならアカリも自由に泳ぐ事ができた。望は喧噪のどさくさにまぎれて、アカリと一切の関わりをなくす話をするつもりで会った。O市の経済を潤し人々の退屈をしのぎ、場合によっては転落させる競艇場のパーキングエリアや周辺は、夏には車に乗る恋人達の格好の逢い引きの場所として利用される。花火大会もここからの眺めは、深淵なる海を背景に、恋愛遊戯向けのいい穴場であった。アカリと望は周りのカップルたちのヒートアップを尻目に、響き渡る花火の音に耳を傾けた。
 「虫よけスプレー、あるけど?」
 アカリは、沈黙の気まずさに耐えられず声をかけた。「いや、いいよ」
 望は自分の優柔不断さや相手を不憫に思う自分の弱さが、自分でもわかりすぎる位わかってしまう腑甲斐無さを内心責めていた。
 「花火に圧倒されて、星も見えないくらいだわ・・・」
 アカリは歌劇の女主人公のように薄暗闇の中で澱みのない独白をはじめた。
 「あたし・・・望さんのことを愛してるわ。こんなに夢中になったのは、はじめてなの。あなたがいなくなったら、きっと生きていけない」
 アカリ自身の不安が高まるにつれて、熱烈な恋の情熱も比例した。
 「真理子さんに会って話を聞いた。あなたとのことも。でもあなた達の関係は恋でも愛でもないのよね?少なくとも彼女は、あなたを愛してはいないと思ったわ」
 望は咄嗟に怒りに似た表情を浮かべたが、それでも黙っていた。
 「あなたのことをもっと知りたかっただけなの。ごめんなさい」
 アカリの潮らしい態度は、望にとって歓迎すべきものではなかったが、迷惑というわけでもなかった。
 「あたしは望さんと会えて、自分が変わっていくことを拒否はしなかった。変な言い方かもしれないけど、それが自然なの。あたしの中での変化を私の身体は拒もうとしなかった。これはあたしにとってはまちがいのない真実だわ。あたしは自分の肉体的な欲求と精神的な愛情が完全に分離しているんじゃないか、心底好きにならなくてもオトコとは寝ることができる、それならそれでいいと思っていたの。かえって愛情は肉欲にはお荷物だとさえ思ったくらいよ。だけど、ほんとうに好きになった男の人と寝るのって、こんなに楽しいものだとは思わなかった。あなたのことだけを考えてしまう自分が苦しくなる時もあったけど、あなたとの出逢いこそは運命だと感じるの。あなたと結ばれるのはあらかじめ決められていたことなのね、きっと・・・」
 望は遠くに様々な模様を描く花火の鮮烈さを、ぼんやりとした心地で眺めやった。響き渡る観衆のにぎやかな嬌声が、あたかも彼を歓迎し祝福しているかのように聞こえた。アカリの際限なく続きそうな愛の告白を、映画の台詞のような非現実的なお話を聞くように、女が深い思い入れをこめて使う「運命の愛」という言葉には強力な磁場が発生し、相手の男の意識を呪縛する作用があるものだということをうっすらと感じていた。
 「真理子とは、ずっと寝てないんだ」
 アカリの瞳は瞬時に輝いた。その発言は自分の愛の告白に対する不器用な答のように思った。夏の熱気というものはどうしてこうも人の感情を浮き立たせるのであろうか?おまけにアカリは感情表現が得意で、重ねた唇から唇へと、自分の熱い想いを相手に伝播させる仕方が上手かった。とたんにそれは望に波及して頭の中がスパークするような発熱し合う接吻へと変化した。望の決断はまたしてもかき消され、次の逢瀬は必定となった。花火大会の夜を彩る最後の見事な大輪の華は散り、人々は熱狂に未練を残しながらもそれぞれの居場所へ向かって身支度をはじめた。
 「今日は・・・帰るわね。」
 アカリは、望の耳元に囁いた。意外な言葉に安心したのもつかのま、アカリは望の手を握りしめ、最後の一手をかけ勝利を確信したような将棋師にも似たおちつきのある毅然とした態度で、軽やかに告げた。
 「あたし、あなたの子供ができたみたいなの」
 白地に紺の紫陽花模様のオーソドックスな浴衣姿の真理子が雑踏の中にいて、あの独特な穏やかな微笑を浮かべて、二人を遠くから見つめているように、望には感じられた。

弦月

弦月

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 成人向け
更新日
登録日
2018-01-29

Copyrighted
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