夢の渚

夢の渚

1 陽射

1  陽射

パパ怖いよぅ…

ごめんなさい…あなた…
わたし…

これまで本当にありがとう…
あなたと出会えて良かった…


8年前のあの日…
愛する妻と娘の命を奪ってしまったのは俺だ…



ー陽射ー

天空に我を張る太陽の陽がジリジリと肌を刺した。
普段なら海から10kt(ノット)の風が吹き込むこの地だが、今日に限って風神様の気まぐれか風はピタリと止んでいる。
麦わら帽子を被っていてもこめかみや首の後ろに流れ落ちる汗は止まることを知らず、首にかけているタオルで拭いても焼け石に水であった。
白いランニングシャツにグレーの作業ズボンと土で汚れた作業靴はもはや真田諒太のユニフォームであった。
島の人間ならこんな日は家の中や日陰に入って動こうとはしないだろう。
そんなことはここの常識なのだ。

しかし、この男は元々島の人間ではない。
日射は黒く日焼けした肌に追い討ちをかけるように浴びせ掛ける。一人、畑で作業するその男の額から滴り落ちた汗は土に落ちるとたちまち蒸発した。
側から見ればその姿はまるで自らに苦役を課した苦行者のように見えるかもしれない。
猛暑のなか、体の限界まで鍬を振るうと、ギラギラと照りつける南国の夏の太陽は”もういい加減そのへんで家に戻れ “と諒太に命じた。
諒太は木の柄の部分が黒くなるほど使い込んだ鍬を肩にかけて塀の角を曲がったところでにわかに足を止めた。家の前で見知らぬ女が石塀にもたれかかってぐったりと座り込んでいるのが目に入ったからだ。

女はつばの大きい帽子を被り、Ray−Banのブラウンの大きなサングラスをかけて苦しそうに息をしていた。
一見ラフな服装に見えるが、グレーのTシャツの胸元にはGUCCIの横文字が見える。耳には涙滴形のシルバーのイヤリングと、ピンクの文字盤のLONGINESの腕時計が左の手首に光っていた。
諒太には全く興味のないモノであるが名前くらいは知っている。デニムのダメージパンツもおそらくビンテージ物だろうと推測出来る。

このようなブランド物は島で生活するものには不釣合いなばかりか無用の代物であった。
ベージュ色のサンダルから覗く女の足の爪にはしっかりと紅いペディキュアが塗られているが、踵からは長時間歩いた代償か皮が擦れ血が滲んでいた。
Tシャツは汗で濡れ、露出している腕や首もとは強い直射日光で赤くなり、熱を持っているようだった。この島の日射はなまじっかの日焼け止めを貫く。女には黒く日焼けをした後はない。
つまり赤くなった女の肌は元は白いということを証明していた。顔は上気した様に赤くなって、玉のような汗が光っていた。明らかに熱中症の症状だ。
近づいて声をかけても女の返事はなかった。
島の人間なら熱中症になるような行動は初めからしない。こんな所で倒れるのは沖縄八重山地方のお天道様を甘くみている 「ヤマトンチュ(本土人) 」と相場が決まっている。
まあ、そう思う諒太も元は ヤマトンチュ(本土人) なのだが…

諒太は持っていた鍬を石塀に立て掛けると、はじめから施錠も戸も締めていない玄関から女を抱き抱えて居間に入った。
諒太は女を居間の畳の上に寝かせると、台所の冷蔵庫から冷えたスポーツドリンクを取り出し、女の頭を片腕で支えながら意識が朦朧とする女に半ば無理やりに飲ませた。
次に冷凍庫から氷を取り出すと氷枕と袋に簡易な氷嚢を作り、冷水でタオルを絞ると畳の上に寝かせた女の脇や首、腕に当てがった。
サングラスを外した女の顔は20代後半から30代前半位に見える。
扇風機の首を回転させ、女の全身に当たるように風を向けると諒太は救急箱を取り出し、手慣れた手つきで踵を消毒液で殺菌し、ガーゼの上からテーピングを施した。

石塀に立て掛けたままの鍬と女のキャリーケースを取りに外に出てみると、ちょうど近くに住んでいる諒太の親友でもある 宮城竜男 が白い発泡スチロールの箱を両手に抱えて歩いてきた。
この男、身長が160㎝程度しかなく、バリカンで刈った坊主頭に真っ黒に日焼けした体に愛嬌のある顔はまるで猿を思わせる風貌であった。
実際に昔は南海の猿鬼だとか沖縄の猿飛などとあだ名が付いていたほどだ。
こう見えてかつて一部の人からは英雄扱いされていたほどの男である。
現在は家を継ぎ漁師をしている。

「今日は一つも鳥山が見つからないし、沖の波が高くなってきていて大して獲れんかった。
売り物にならない雑魚だから飯に食べてくれ」

竜男はそう言うと諒太の許可も取らず遠慮もなく玄関に入っていった。

「竜男、いつもすまんな」

諒太は外から声をかけた。

竜男が玄関に入って魚の入った箱を置こうとした時 女物のサンダルがあることに気づいた。

「誰か来とるんか?」

竜男は振り返って諒太を見た。
諒太が答える間も無く竜男はズカズカと家の中へ入っていった。

「お前…
とうとう女を家に入れるほどになったんか⁈」

竜男はニヤニヤしながら諒太を見上げた。

「そんなんじゃあない。
今しがた畑から帰ってみると家の前でこの人がぐったりしていたんだ。
間違いなく熱中症だろう。この通り荷物もあるようだし観光客だとは思うが…」

「そうか…しかしこんな観光するところも何にもない島に女一人でくるかね?」
まだ意識が戻らない女の顔を見ながら竜男は怪訝な表情で腕を組んだ。

「しかしえらい美人だなぁ…」
竜男はにやけながら肘で諒太の腹を二、三度突いた。

「そうかねぇ?…」
諒太は全く関心も示さず発泡スチロールの箱から魚を冷凍庫に移し始めた。

「お前はそういうところがいかん。もっと人に興味を持て」

「俺も努力はしているよ…」
背中越しに諒太はボソッと答えた。

「それはわかる。
お前がこの島に来てから変わったことは俺が一番知っている。
だけど、島の年寄りばかりじゃなくてもっと年頃のおなごにも興味を持て」

諒太は苦笑いをした。

「まだそこまではな…」

「でもまあ、少しづつでも島に馴染んでくれようとお前はよくやっているよ」
竜男はしみじみ言った。

「それはこの島の人達に俺は助けてもらっているからだよ…」
諒太は遠い目をして答えた。

「いや…諒太、お前が来てくれて島民も助かっていると思うぞ」
竜男は真剣な眼差しで答えた。

「諒太、俺はこれから一旦家に帰ってからまた港に行かなきゃならん。この人のこと嫁にも伝えとくから何かあったら遠慮なく言ってくれ」

「ありがとう竜男」

屈託のない笑顔を残して竜男は去っていった。

諒太たちが住んでいるこの島 「美波間島」といい、日本最西端の島「与那国島」から北東約15キロほどに位置し、これといった産業もなく、竜男のような漁師やサトウキビ農家、肉牛を放牧する牧場などが主な産業で、空港もなく、観光と言っても与那国島で観光を済ませてしまった観光客がわざわざ与那国島から一日一往復しかない不便なフェリーに乗ってまで訪れる人などほとんどおらず、来訪する人間は釣り人くらいしかいなかった。
島には就職先が無いため、若い人はどんどん沖縄本島や石垣島に出て行ってしまい、島では年々高齢化が進み、今では美波間村の人口は180人を切っていた。
周囲12キロ足らずの面積は歩いても一日あれば十分一周出来る程の小さな島だった。
客室が三つしかない民宿が一軒と、夜には閉まってしまう小さな個人経営のスーパーが一軒、港の近くに漁船用と数少ない自動車用のガソリンスタンド兼整備場が一軒、昼は食堂、夜は居酒屋に変わる飲食店が一軒、あとはこじんまりした村役場と児童数3人の小学校の分校が一つあるだけで、信号も無ければコンビニも無い自販機すら港と役場に一つづつあるだけの誠に小さな島村である。
必要な物資は旅客とともにフェリーで運ばれてくるのだが、このフェリーも荒天で海が荒れると運休になることがしばしばあった。年々利用者が少なくなり、フェリーの運行会社も赤字続きで減便が続いた挙句、今では行政からの補助金で何とか与那国島との連絡船を一日一往復保つのがやっとであった。

しかし、この島には美しい海と風光明媚な昔ながらの自然の中の風景が手付かず残っており、天候条件が良ければ、沖縄本島や石垣島より遥かに近い距離にある台湾の陸地を高台から見ることも年に数回はできた。
宿泊施設のない事、また交通手段の不便さも手伝って観光ガイドブックの編集者もこの島を掲載することは避けているほどだ。
こんな何も無い不便な島に観光で来る人間など余程の物付きでなければいない。

諒太は竜男の言う通り、女が一人きりで観光のためこの島に来たということを疑問に思いはじめた。
女はいまだ意識が回復しない。
諒太は居間で横になる女の様子を気にかけつつ、縁側からのぞく庭で、野菜収穫用コンテナの箱に腰掛け、芋の選別をはじめた。まだ外は強い陽射しが照りつけていたが、ゴーヤの緑のカーテンの日陰に心地よい風が吹きはじめていた。

諒太の住むこの家は、沖縄八重山地方特有の猛烈な暴風を伴う台風に耐える石積みの頑丈な塀に囲まれた堅固な平屋建てで、オレンジ色の瓦屋根にはシーサーが乗っている。
廃屋同然の古民家を諒太は数年前安く譲り受け、少しずつ自ら補修を施したのだった。
最近ではエアコンを設置する家も多くなってきたが、この地域特有の建物は元々風通しを考えて設計されているため、暑さがこもることもなく、夏でも快適に過ごすことが出来た。
暑さに強い諒太も勿論エアコンなど必要のない人間だった。
庭の片隅には無計画に造られた花壇に色とりどりの花が植えてあった。
独りで住むには広すぎる間取りであったが、諒太は家の前の防潮目的の土手を越えると、すぐそこには白く美しい砂浜と、広大な碧い海があることが気に入りこの家を手に入れたのだった。

しばらくして女は外から聞こえる物音に気がつき起き上がった。
諒太もその気配に気がつき居間を覗き込んだ。


無精ひげを生やした日焼けして黒い顔の男がぬっとこちらを見ていた。
女は身構えた。

誰…?
怖くて声が出ない。

立ち上がった男の身長は180㎝は超えていると思われた。
男は土で汚れた白いランニングシャツに首にタオルをかけていた。褐色に日焼けして、がっちりと引き締まった筋肉質の体躯は腹にも腰周りにも贅肉は無く、ピアスやネックレスの類いもtattooなどの洒落たものは何もない。つまり男には何一つ無駄なものが無かった。唯一あるものは左の肩に大きな傷痕があるのみだった。比較的短く切られた黒い髪と、東洋人にしては彫りの深い顔をこちらに向けている。

男は低い声で
「冷蔵庫に飲み物が入っている。
腹が減ったなら台所に即席麺もあるし、家のもの好きに使っていい。
俺はまだやる事があるからちょっと出てくる」

そう一方的に言い残すと戸も閉めずに出て行ってしまった。

「あの…ちょっと」

必死に声をかけたが男は聞こえなかったのか聞こえていて無視をしたのか目の前から消えた。

あの人誰なの?
それにここは?
部屋の中を見回して見たが全く記憶にない。
脱水したためかまだ頭が痛い。
女は枕元に置いてあったペットボトルのスポーツドリンクを一気に飲み干した。
周りには氷枕や氷嚢があり、濡れタオルで冷やされた腕はかなり赤みが取れていた。

そうか…私暑さでクラクラして気が遠くなったんだ…
女は立ち上がろうとしたとき足に痛みが走った。

痛っ!

そうか…靴づれもしていたんだ。
しかし踵にはテープが巻かれしっかり治療が施されていた。

あの人が?

痛む足を引きずって家の中を見て歩いた。
相当に古い感じの木造の建物で、居間の他にもいくつか部屋があるようだった。

「すみませーん…」

声をかけて見たが、家の中は静まり返り人の気配は無かった。
通気のためか開け放されている部屋を覗いて見た。
物がほとんど無い簡素な畳敷きの座敷が四部屋あって古いが清潔に保たれている。
どの部屋にもエアコンもテレビもDVDプレーヤーもパソコンも無い。
その内の一部屋はあの男が使っていることが推測出来た。壁の上の方には額に入れられて理解できない達筆の書が飾ってあった。卓と年季の入ったレコードプレーヤーのみのステレオ、棚にはクラシックやジャズなどのLP版が並んでいた。
さらに部屋の片隅には、何枚ものキャンバスと木製のイーゼルが立て掛けられていた。
その他には生活感がほとんどない家で、男のほかには誰も住んでいないようだった。
廊下にはアンティークショップで売っていそうな黒電話があり、玄関には自分のサンダルがきれいに並べられている。

することもなく再び居間に戻り縁側に腰をかけると風に乗って海の匂いがしてきた。

2 追想

2 追想

神聖な教会の中に白いタキシードで正装した長い髪を後ろに束ねた男を女は正面に見据えていた。
女は真っ白なウェディングドレスに身を包み、白いサテングローブをした手にはピンクや白の色とりどりのブーケを持って男の言葉を待っていた。

「やっと一緒になれるんだね…」
男は優しく微笑んだ。

「愛しているわ…」
女は潤んだ瞳を男の瞳に合わせると囁いた。

「僕も君を愛している…」

男は優しく女のベールをとって女の瞳を見つめると顔を近づけた。

そして二人はくちづけを交わした…


「ハイ、カットー!
オッケー!」

監督が撮影を止めた。
周りからは拍手が送られた。
途端に二人は他人のように離れて歩き出した。

「良かったわよ志玲…
いいキスシーンだった」

ベテランの女マネージャー
張花妹は 蔡志玲(サイ チーリン)に駆け寄ると声をかけた。
張花妹は今年50歳になる芸能畑で生きてきたやり手のキャリアウーマンで、志玲のマネージャーについて今年で3年になる。
未だ独身の身であった。

そしてこの日が撮影中のドラマのクランクアップの日であった。

「はぁー…」

「どうしたの志玲?ため息なんかついて」

「なんか虚しくて…」

「何かあったの?」
花妹は心配そうに聞いた。

「そうじゃないんだけど…」

「じゃあ元気だして! この後のスケジュールも一杯よ!
これから台北東海公司のレセプションパーティー、夜は続けて取引先のお客様の接待よ。
ドレスアップしていかなきゃね」

「まるで私コンパニオンみたい…」
チーリンは顔を曇らせた。

「仕事なんだから文句いわないの。
それに今や台北東海公司は親会社なんだからしょうがないのよ」

台北東海公司…
ここ最近飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長している台湾の投資ファンドである。
社長の呂威は46歳という若さで世界中の優良企業やベンチャー企業を次々に買収し、半ば強引な手法で会社を拡大していた。
とうとう去年は芸能界にまで触手を伸ばし、チーリンの事務所を吸収合併して子会社化したのである。
今年に入ると斜陽の日本の老舗電気メーカーTARPを買収して世界を驚かせた。
今や金融、証券、建設業、不動産業、リゾート開発、ホテル、飲食業、芸能、電機メーカー、通信、カジノ、デパートなど小売業、ネット通販などの企業を傘下に持つ大企業へと成長していった。

一部の人間の知るところでは裏で呂威を傀儡として大陸の中国の大企業から大きな資金が流れていると黒い噂が立っていた。

チーリンは事務所が買収されてから会社の所有物としてまた広告塔として扱われる立場となった。
そこには血の通う温情など微塵も無かった。

呂社長の手法は買収した企業に自分の息のかかった部下を送り込み、徹底したコストカットを命じ、これまでのやり方・伝統を一切無視し、反対勢力の執行部を全て解雇するという強引なもので、買収された企業の一般社員からは反感を買った。
投資家からは時代の寵児と持て囃されたが、会社にとって株主が最優先であり、顧客はその次と堂々と公言し、金で何でも解決するという手法は大衆からは異端として白い目で見られた。

蔡 志玲(サイ チーリン)は最初モデルとして細々活動していたのを事務所の社長に見出されスカウトの後女優業にも幅を広げた。
元々モデルだけあって9頭身174㎝の長身に色白で手脚の長い細身の躰にシルクのような黒くて長い髪、憂いのある瞳の持ち主のチーリンは女優になって瞬く間に頭角を現した。

チーリンは見映えの良さばかりでなく、カナダの名門大学へ留学経験もあり、英語、広東語、北京語、台湾語、日本語まで会話できるほどの才女であり、芸能界に入ってからはチャリティー活動にも熱心であった。
チーリンが女優として転機になったのは、数年前に抜擢されたハリウッドで活躍する香港の有名監督が制作指揮した台湾、香港、中国、日本の合作映画「三国志演義」のヒロインになったことだ。
映画は世界中でヒットし、その美貌は観客を魅了し、チーリンの名が一躍世界に広く知れ渡るきっかけとなった。その後、映画だけではなくドラマ、CM、イベントに引っ張りだことなり、日本の人気アイドル男優が主演するTVドラマにも出演を果たした。今や年間億を稼げる身分となり、一躍セレブの仲間入りをした。台湾の街にはチーリンのポスターや看板がありとあらゆる場所に存在した。

台湾一の大女優
東洋一の美女

と肩書きまでつくられた。
現在33歳。女優としても円熟味が増して乗りに乗っていた。
その完璧過ぎる美貌は男性のみならず、女性からも憧れの対象として圧倒的な支持を受けていた。
それが事務所が買収されてからというもの、呂社長の意向で会社の広告塔としてチーリンを女優としてではなくいやらしい目で見てくる取引会社のお偉いさんの接待までさせられるようになった。
時には酒に酔った勢いで尻を触るものまでいたがチーリンは笑顔を絶やさず我慢した。

そして事件が起きた。

チーリンには長く付き合っている恋人がいた。
台湾のC4というアイドルグループのジュリーチェンというスタイリッシュなイケメンだ。

チーリンはある日ジュリーに呼び出された。
チーリンはまさかプロポーズされるのかと思い、ドレスアップして気持ちも軽やかに待ち合わせ場所に指定されたカップルに人気の碧潭(ビータン)という川岸に向かった。夜の碧潭は吊り橋に七色のライトがあたり、街の夜景が川面に美しく映っている。

しかしチーリンの期待は裏切られた。

ジュリーはふわっとした長い前髪を右手でかきあげると川面を見ながら唐突に口を開いた。

「志玲…君には悪いけど僕と別れてほしい…」

一瞬チーリンにはジュリーの言葉が理解出来なかった。

「何を言ってるの?ジュリー?」
チーリンは困惑した表情でジュリーを見つめた。

「これ以上続けることはできないんだ…」

ジュリーの突然の言葉にチーリンは衝撃を受けた。

「なぜ⁈」

チーリンはジュリーを問い詰めた。

「僕はまだ芸能界に残りたいんだ…」

「それがどうして別れる理由になるの⁈」

ジュリーは困った顔をした。

「実は…うちの事務所に圧力がかかった」

「どういうこと?」

「君ならわかるだろ?
このまま君と付き合うと僕は芸能界を干される…
グループのメンバーにも迷惑をかけられない…」

チーリンはようやくジュリーの言いたいことが理解出来た。

「呂威社長ね?」

ジュリーは何も答えず首を縦に振った。

「ごめん…」
一言残しジュリーは背を向けて歩いて行った。

「意気地なし!」

チーリンはジュリーの背に向かって怒鳴った。
チーリンは悲しさと悔しさで胸が張り裂けそうだった。

後日、チーリンは事務所の徐社長に溜まった思いを告げた。徐社長はチーリンがまだ駆け出しのモデルのときから何かと目を掛けてくれた。自分の事務所にスカウトしてチーリンが女優として大成したのも芸能界で親代りとしてチーリンを育ててくれた徐社長あってのことであった。
すでに齢70を超えた徐であるが、娘のようなチーリンの悩みを放っておくことができなかった。
翌日、徐は親会社の台北東海公司の芸能担当部長にチーリンの待遇を改善してもらうよう掛け合った。
担当部長は前向きに検討すると答えたが、後日、台北東海公司から返された回答は徐社長の解雇通知であった。
それからすぐ本社から新しい事務所社長が送り込まれた。

チーリンの我慢は限界を超えた。
チーリンはマネージャーのデスクに置き手紙を残してスマホの電源を切り台湾を後にした。

手紙には

「心身ともに疲れたので無期限の休暇を取ります」

とだけ書き残し、行き先も帰る日も書かなかった。

とはいえ、人気者の宿命だが知名度があり、背の高いチーリンはどこへ行っても目立ってしまう。
ひと目を避けて香港-那覇-与那国島と流れ、この美波間島に今日辿り着いたのだった。
台湾から離れたつもりだったのに結局台湾に一番近い島にいるとは皮肉なことだと思った。

チーリンは大きな溜息をついた。
目の前には緑色の大きなゴーヤが実っていた。

3 懇篤

3 懇篤

陽が西に傾き、空が茜色に染まりだしたころ諒太は家に帰った。
色々な野菜をかごいっぱいに持った諒太は玄関からではなく庭から家に入った。
諒太はまさか縁側に女が座っているとは思ってもいなかった。いきなり視界に入った女の姿に驚いて立ち止まった。

チーリンも物想いにふけっていた時にいきなり男がぬらりと現れたので驚いて声を出しそうになった。

一瞬目があったが男は

「もういいのか?」

一言いうと土の付いた靴を脱ぎチーリンの横を抜け縁側からそのまま居間に入っていった。

「あ、あの…」

チーリンが慌てて声をかけようとしたが、男はそのままドカドカと居間の奥に隣接している台所へ入ると持っているかごの野菜を収納棚に入れ始めた。
そしてチーリンのことを構いもせずに土で汚れた手を台所のシンクで洗い出した。

チーリンは男の立っている台所まで痛む足を庇いながら歩いた。

「本当にありがとうございました…」

チーリンは男の背中に向かって礼を言った。
しかし男は何も言わず手と顔を水で洗い続けていた。
チーリンがどうして良いかわからずその場で佇んでいると暫く間があってから

「ああ…」

と男の声が聞こえた。
顔の水をタオルで拭き取りながら男はチーリンの足をちらっと見て

「あっちで座っていな」

あごで居間を指した。
チーリンは男の動向が全くわからず困惑した。
仕方なくチーリンは言われた通り居間の座布団に座って困った表情で男の背中を見つめた。
男は何か調理を始めたようだった。
暫くすると居間にいい匂いが届いた。

男は居間の橙色の電気を点灯させると、丸いちゃぶ台の上に大皿に盛られた野菜とイカの炒め物を置いた。
それ以外には茶碗に盛られた大盛りの白飯と取り皿が二つ…
それだけだった。

「大した物はないが食べな」

男はそう言うと大皿から野菜炒めを取り皿に取り分けチーリンの前に置いた。
チーリンはどんな対応して良いのかわからず戸惑った。
男はそんなことを気にするそぶりも見せずガツガツ食べ始めていた。
その様子を見てチーリンも箸をとった。
見た目は大雑把な男の料理だったが、味はとても美味しくチーリンの口にあった。
今日一日何も食べていなかったチーリンは盛られた大盛りのごはんを完食した。

「ご馳走様でした…
足の治療までしてもらったうえにご飯まで食べさせてもらって…」

チーリンは頭を下げた。

男はうなずいたが何も話そうとはしなかった。

部屋に沈黙が続いた。


「あんたは何処から来たんだ?」
男は唐突に聞いてきた。

「私は…台湾から来ました」

「ふぅーん…」
男は大して興味を示さなかった。

「俺は 真田 諒太…あんたは?」

チーリンは本当の名前を言うべきか躊躇った。
しかし助けてもらった人に嘘を言うのはいけないと思った。

「私の名前は…
蔡志玲 (サイチーリン)と言います…」

チーリンは素性がバレたかと思って諒太の顔を見たが諒太はチーリンの顔も見ずに全く気にする素振りも見せなかった。
きっとテレビもないし映画館もなさそうな小島だから私のこと知らないんだろう…と思った。

「あんたこんな場所に観光かい?」

チーリンは答えに詰まり下を向いた。

「まあいいや…」


「こんばんわー 諒太さんいるー?」
突然元気な女性の声が玄関から聞こえてきた。

「いるよー 上がってー」
諒太は声をかけた。

背の小さな30代半ば位の女性が居間に入ってきた。
ニコニコして丸い可愛らしい顔をしていた。

「竜ちゃんに聞いて心配になって来てみたんだけどもう大丈夫そうね」
女性はチーリンの顔を見て言った。

チーリンは慌てて立つと挨拶をした。

「私は蔡志玲と言います…」

「私は宮城千鶴です。
昼に来た宮城竜男の妻です」

「ああ、竜男が来た時まだ意識が戻ってなかったからこの人まだ竜男には会ってないんだよ」

「そうだったのね。
それにしても…大きいわね…
それに顔ちっちゃ…」

千鶴はチーリンを見上げた。
26㎝もこの二人には身長差があった。

「まあ千鶴さん座りなよ…」

諒太は座布団を千鶴に勧めた。

「あ、これ…スポーツドリンク…
竜っちゃんが持ってけって」

千鶴は諒太にドリンクの入った袋を差し出した。

「千鶴さん悪いね」

「そんなこといいのよ、お互い様だから」

「チーリンさんはどちらから?」
千鶴はチーリンの方を向いて尋ねた。

「台湾です…」

「あらそうなの?
でもあんなに近いのに直接は行けないのよね。まさか密入国とか?」

「いえ、違います!」
チーリンは必死に手を振った。

「冗談よ〜 」千鶴は笑った。
「あなた日本語上手ねぇ…」
笑うとえくぼが出来る可愛い笑顔だった。

「今日はどこに泊まるの?
比嘉さんとこの民宿?
暫く釣り客でいっぱいの筈だったけど…」

「いえ…何も決めずにフェリーでこの島に来たものですから…」

千鶴と諒太は顔を見合わせた。

チーリンは初めから無計画だったが、行けば何とかなると思ってフェリーに飛び乗り美波間島に上陸したのだった。

千鶴は真剣な顔をして言った。

「チーリンさん…
この島にはホテルとか無いのよ。
外から来て泊まれるとこは三部屋しかない比嘉さんの民宿だけなの。
しかもさっき主人から聞いたんだけど、波が高くなってきていて暫く与那国との連絡フェリーは運休ですって」

え!…
チーリンは青くなった。
どうしよう…
もう外は暗くなっている。

「私の家の部屋が空いていればいいんだけど…瞳ちゃんが帰ってきてから部屋空いてないし…」
千鶴は考えを巡らせた。

「あんたの好きなだけここに居ればいい。
部屋はいくつも空いてる」

諒太はぶっきらぼうに言った。

「そんな迷惑じゃ…」
チーリンは遠慮しようとしたが、
千鶴が
「そうね。そうさせてもらいなさい」
チーリンの肩に手を置いて促した。
チーリンも全く対案が見つからず困っていたので

「真田さん申し訳ありません、お願いできますか?」
諒太に頭を下げた。

「俺は構わんよ」
無表情で諒太は答えた。

「良かったわね」
千鶴は笑顔でチーリンを見た。
「じゃあまた来るわね…」
千鶴は帰っていった。

諒太は立ち上がって空き部屋に入ると何やらごそごそしていたがチーリンを呼んだ。

「この部屋使いな」

部屋の中には既に布団が敷いてあった。

諒太は部屋を出ようとした。

「色々ありがとうございました…」
チーリンは諒太に礼を言った。

「あの…爪が割れちゃったんですけど、この辺にネイルサロンはありませんか?」

「そんなもんあるか」

「それからシーツと枕カバーは新しいのに代えてあるから…」
後ろを向いたままそう言い残すと諒太は部屋を出ていった。

しばらくしてチーリンは灯りを消して布団に入った。

見ず知らずの一人暮らしの男性の家に泊まることなど通常考えられないチーリンであったが、この状況では選択肢もなくどうしようもなかった。
しかもチーリンには真田という人間がよくわからなかった。
ちゃんと目も合わせてくれないし、無愛想で少しも笑顔を見せない。

それでいて行動は優しい…

でも…私のところを嫌っているようにも感じ取れるし…
洗練された都会的な部分などこれっぽっちもない真田という人間はチーリンの今まで付き合ってきた男性とは見た目も性格も真逆の男だった。

いづれにしてもフェリーが動いたらこんな島出て行くんだからと深く考えることはやめた。

翌朝チーリンが目覚めると家の中に真田の姿は既になかった。
居間のちゃぶ台の上には虫除けのための食卓カバーに被されて焼き魚と梅干しが置かれ、箸とひとつ茶碗が伏せられ、傍らにはご飯の電子ジャーがあった。

これ私が食べるために真田さんが?

既に真田の食べ終えた食器類は洗われて台所の水切りかごの中に入っていた。

こんなに朝早く出掛けてあの人は何をしている人なんだろう…
野菜つくっている専業農家なんだろうか?
仕事のことまで昨日は聞く余裕はなかった。

一人チーリンは真田の用意した朝食をとった。
お世辞にもいわゆるインスタ映えするような派手さはなかったが、質素だが味わい深い味は感動さえ覚えた。

チーリンは台所で食べた食器を洗いながら考えていた。
あんな感じの人初めて見た…

チーリンの人生の中で自分の周りの男性のタイプは三通りだった。
格好つけてにこにこしながら近寄ってくる男。鼻の下を伸ばして下心丸出しの男。遠くから羨望の眼差しで見つめるだけの男。
しかし真田はどの部類にも入らない。
チーリンにも女優としてのプライドというものが多少なりともあった。

(私に全く関心を持たないなんて…)

チーリンは逆に真田という男に興味が湧いた。

部屋にキャンバスが立て掛けてあったけど、どんな画を描いているんだろう…
チーリン自身カナダに留学しているときには美術を専攻している。
真田がいない部屋にチーリンは再度入ってみた。
立て掛けてあるキャンバスを右から傾げて見てみた。
美波間島の風景だろう、青い空と美しい海が油絵で描かれている。
次々にめくってみるが、砂浜からのものや崖の上からのものと場所の違いはあれどどれも美しい海の画ばかりだった。
繊細さは感じられないが男らしい大胆なタッチの上手な作画であった。

そして最後の二枚に…
一枚は鉛筆で描かれたデッサン画だった。
そこには小さな女の子が描かれていた。

最後の一枚を見た時チーリンは戦慄した。
途中で描くのを放棄したと思われるそのキャンバスに描かれていたのは…
暗い鉛色の空に白い雪が降っている。
そしてどす黒く真っ黒に描かれた海があった。

それまで描かれている海とは全く違うタッチの画を前にしてチーリンは固まった。

これ…何なの…?
チーリンは真田の心の闇に触れてしまったような感じがした。

いきなり後ろに人の気配を感じたチーリンは振り返った。
チーリンは心臓が飛び出しそうなくらい驚いた。
そこには真田がその画を哀しい目をして見つめて立っていた。

「家のもの好きに使っていいとは言ったが、俺のこと詮索するのはやめてもらいたい」

「そ、そんなつもりじゃ…」

「ごめんなさい…」

チーリンは謝った。

真田はそのまま振り返るとチーリンの言葉に反応することもなく庭のほうへ去っていった。

チーリンは居間に戻り座ると膝を抱えた。

真田さんには何かある…
あの態度の裏にはきっと隠しているものがあるとチーリンは推測した。

昼頃になり鍬を持った真田が納屋に入っていくのが見えた。
畑か何処からか帰ってきたらしい。
そして昨日と同じように縁側から居間にズカズカ上がると何も言わずチーリンの横を抜けて台所へ向かった。

「おかえり…なさい…」

チーリンは歩く真田の背中に弱々しく言葉をかけた。
真田はまた何か調理を始めた。
真田の作る料理はあっという間に完成した。
チーリンが今まで見たことの無い料理が目の前に置かれた。
何やらビーフンかベトナムのフォーのようにも見える。チーリンがまじまじと見ていると真田が声を出した。

「ソーミンチャンプルーだ。
食ってみろ」

チーリンは麺を啜ってみた。
台湾にも見た目は似た麺があるが、それとは全く異なる味だった。

「美味しいです」

チーリンの言葉に真田は言葉も発せずうなずいた。

「さっきはすみませんでした…」

チーリンは真田の顔を見て言ったが真田は麺を食べ続けていた。
数秒沈黙が続いた後、

「別にいいよ…」

ボソっと真田は呟いた。

昼食が済み真田は暫く自分の部屋に籠っていたが、午後になりふらっと外出するのをチーリンは目にした。
先ほど真田に詮索するなと釘を刺されたばかりだが、そんなことではチーリンの好奇心を抑えることはできなかった。
チーリンは真田に見つからないよう後からついて行った。
いったい何処にいくんだろう…
チーリンはまだ足が痛かったが物陰に隠れながら真田の後を静かに追いかけた。
サトウキビ畑を抜け、起伏のある道を登っていくとやがて海が遠くまで見える崖が広がる場所に出た。
丁度いい具合にこの場所には大きな岩がごろごろあったのでチーリンは岩陰に隠れながら真田を観察した。さっきみた画の中にあった美しい海の風景と同じ場所だった。
また写生に来たのかとも思ったが、そういえば手には何も道具を持っていない。

真田は海を眺めていた。
風が強く海は白波を立ててうねっていた。
チーリンは岩陰に隠れこっそりと真田の様子を見ていた。
しかし真田は全く動かず海を見続けていた。
(なにをしているんだろう…)
かれこれ20分はそうしていただろうか…

突然真田の頰に涙が流れた。

チーリンは驚いた。
(何で泣いているの⁈)
あの無表情の真田が泣いている…
チーリンには訳がわからなかった。

真田は涙を拭おうともせず遠く海を見ていた。

さっき部屋で見せた真田の哀しい目をチーリンは思い出した。
チーリンは静かにその場を離れ真田より先に帰った。

諒太が後から帰ると玄関にあるチーリンのサンダルが砂埃で汚れていることに気がついた。

フッ…

諒太は呆れた。
しかし諒太は何も言う気は無かった。
諒太が家の中に入ると台所にチーリンが立っていた。

「あ、お帰りなさい…」
今晩の夕御飯は私に作らせてください。

「無理すんな」

「大丈夫です。
これくらい私にさせてください。
食材使わせてもらいますね、真田さんは座っていてください」
そう言うとチーリンは野菜を棚から取り出し洗い出した。
しかしチーリンには料理の経験がほぼなかった。
芸能界に入ってからは毎日外食やケータリングだったし、学生の頃は全寮制で自炊はしなかった。自宅では母親の料理を食べていた。
チーリンは四苦八苦しながら具沢山のスープを完成させた。

「はい、お待たせしました」

諒太の座る前にチーリンがつくったスープが置かれた。

「食べてみてください」
チーリンは自信ありげに言った。

諒太はレンゲですくって食べてみた。

「どう?」
チーリンは探るように諒太の顔を見た。

「不味い」

え?

「だからマズイ」

「ちょっ…もう少し言い方ってものが…」
チーリンは真田を睨みつけた。

「言い方を変えるなら全然美味くない」

真田のデリカシーのない物言いにチーリンは頭にきた。

「そんなハズないでしょ!」

チーリンも口にしてみた。

ゔ…

塩辛い…
しかも食材のじゃがいもや人参には火が入っておらず固い。
鶏肉の生臭さがスープに移って酷いものだった。

チーリンはうなだれた。

しかし真田は形も不揃いの固いじゃがいもや人参をバリバリ音を立てて食べていた。
不味いと言いながら食べてくれている…
真田の優しさだとチーリンは思ったが真田は言った。

「不味いことと食べ物を粗末にする事とは別のことだ。
あんたも捨てることなく食べ切れよ」
そう言うとさっさと食べ切った真田は台所へ食器を片付けに立った。

「それから…これ」
真田は三角コーナーからチーリンの切ったじゃがいもの皮を手にして言った。
「もっと薄く切らなきゃ。
こんなに食べられるところが残ってる」
そう言い残すと台所をさがっていった。

細かい男!
チーリンは海で涙を見せた真田に少しは情の念を感じたが、今は完全に嫌悪感しかなかった。

チーリンが必死になって苦労して自分で作った美味しくない?スープを何とか食べ切った頃、真田は風呂上がりの格好で首にバスタオルをかけ、白い無地のTシャツと短パンで戻ってきた。

「あんたもシャワー使いな
汗で臭うぜ」

チーリンは失礼なことをズケズケ言う真田を人を不快にさせる天才だと思った。
庭の方を向いてチーリンに背を向け畳の上で肘枕をつきながら扇風機の前で涼んでいた。
片手にはビール缶が見えた。

チーリンはイライラして

「シャワー借ります!」

大きな声を真田の背中に浴びせると頰を膨らませ大きな足音をわざと立てて風呂場に立った。
チーリンがシャワーから出てきてもまだ真田は同じ姿勢でビールを飲んでいた。

「冷蔵庫にビール入っているから好きに飲みな」

顔を向けることもなく真田は背中越しに声をかけてきた。

「結構です!」

チーリンは苛立ちを隠さず断わった。

「好きにしな…
それから押入れに救急箱入っているから足のガーゼ変えなよ」

「わかりました!」
チーリンは口を尖らせて救急箱を取り出し踵のテープを取りガーゼを変えた。
新しいテープを貼ろうとしたが丸まってしまって上手くいかない。
もたもたして治療しているチーリンの姿を真田は首だけ向けて見ていた。

「あんた不器用だな」

真田の言葉に益々チーリンは苛立った。
(私を誰だと思っているのよ!)
しかし苛立ちと焦りでなかなか上手くいかない。
顔を真っ赤にしていると

「貸してみろ」

真田はチーリンの手からテープを奪いとった。

「結構です。自分でやりますから。
それに私には名前があります。
あんたじゃありません」

「そうかい…」

チーリンは頑なに断わったが、真田は正座した膝の上にチーリンの足首を強引に乗せると瞬く間に両足のテーピングを完成してしまった。

「まだあまり歩き廻るんじゃない。特にサンダルではな」

真田の言葉にチーリンは返す言葉がなかった。

突然廊下の黒電話の呼び出しベルが鳴り響いた。
チーリンはアンティークの置物と思っていたので本当に使えるものだとは思わなかった。
真田は廊下に出て電話に出ると電話の主と何やら話しているようだった。

今時スマホも携帯も持って無いのあの人?
まるで原始人か猿ね。
チーリンは真田を蔑んだ。

電話を切ると戻った真田はチーリンに言った。

「これから出掛けてくる。
もしかしたら今晩は帰れないかもしれないから、あんた明日の朝飯は適当に食ってくれ」

「だからあんたじゃないって!」

チーリンの抗議に耳を貸さず真田は荷物を持って玄関を出て行った。

今晩帰れないって…?
ハハーン
きっと女性ね。
チーリンはそう思った。

翌朝チーリンが目覚めた時間に真田の姿は家の中にやはりなかった。
昨夜は人の家でひとり残される不安はあったが、あの無愛想で偏屈な真田の顔を見ることがなかったのでチーリンは清々していた。

昼も近くなった頃、真田は帰ってきた。

「飯は食ったのか? 俺は少し寝るから」
真田がチーリンの横を通り過ぎようとしたときチーリンは真田に言い放った。

「一晩中女の人と会って朝帰りのうえに昼寝ですか?
いい身分なんですね!」

チーリンは嫌味を言った。

「女?」

「まあ、女には違いないか…」

フッ…

真田は鼻で笑うとあくびをしながら自室に入ってしまった。

最低!

チーリンはこんな人間に助けられたことを後悔した。
見た所、定職もなさそうだし、一日出たり入ったりフラフラしているようにチーリンには見える。
きっと患ってしまった遊び人の独身なんだと思った。

暫くして千鶴が訪ねてきた。
「チーリンさんもうお昼食べた?」
ニコニコしながら人の良い顔で聞いてきた。

「いえ、まだですけど…」

「諒太さんは?」

「ついさっき帰ってきてまだ寝てます」

「そう…起こしちゃ可哀想ね」

「別に可哀想なことないんじゃないですか」
チーリンは苦々しく言った。

「そんな事言っちゃだめよ。
チーリンさんうちでお昼食べない?
私、シフォンケーキ作ってみたんだけどお昼のデザートに味見して欲しいの」

「へぇー千鶴さんすごーい!
是非行きたいです。
私甘いもの大好きなんです」

二人は諒太の家を出ると500メートル程離れた千鶴の家へ歩き出した。
「今日は土曜日だから義理の妹の瞳ちゃんもいるし、今小学校ニ年生の娘の唯もいるわ。
主人の竜男もそのうち港から帰ってくるはずだから」

二人は僅かな時間で千鶴の家に到着した。

「ただいまー」

玄関を入ると20代後半位の女性が出てきた。
チーリンは千鶴が話した義理の妹の瞳さんだなと感じた。
千鶴と違い背が高く、身長も165㎝はありそうでショートカットに小麦色の肌で大きく黒々とした双眸は沖縄女性特有で南国美人の特徴を醸し出していた。

「こんにちは 宮城瞳です」
「はじめまして私は蔡志玲です」

二人は玄関先で挨拶を交わした。

瞳はチーリンの顔をまじまじ見つめると首を傾げた。

「あ…お義姉さんソバのお汁出来ているよ」

「ありがとう瞳ちゃん。唯は?」

「お兄ちゃん迎えに港に行っているよ。
そのうち帰ってくると思うけど」

「さあ、上がって」
千鶴に促されチーリンは家の中に入った。
真田の家と同じ沖縄独特の平屋であったが、家の中は改修が施されリビングやキッチンは洋風の仕様になっていた。
一番真田の家と違うのは真田の家のように殺風景ではなく物もあり、家族の生活感が感じられたことだ。
独身で一人暮らしのチーリンは実家に帰ってきたような居心地の良さを感じた。
瞳に案内され大きなダイニングテーブルにチーリンは腰掛けた。

「ただいまー」

玄関から女の子の大きな声が聞こえてきた。

「お母さんお腹すいたー」

と走り込んできた。
髪をおさげにして目の綺麗な女の子だった。

「これ、唯、お客さんに挨拶なさい」
女の子は千鶴に叱られた。

女の子はチーリンの方を向くと
「宮城唯です」
大きな声でぺこりと頭を下げた。
間を置かずに

「ただいま」

小さな男が入ってきた。
男は千鶴と背の高さがあまり変わらず真っ黒に日焼けして坊主頭でニコニコした顔はまるで猿のようだった。

男はチーリンに挨拶した。
「宮城竜男です。
もう体調の方は良いのかい?」

「はい、おかげさまで…
私は蔡志玲と申します」

「つぁい⁇」

唯が不思議そうな顔をして呟いた。

「うん。台湾から来たの」
チーリンは唯の目線に屈んで答えた。
唯は納得した。

「台湾人の蔡志玲?…」
今度は瞳が声を出した。
「あの…もしかしてあなた女優の
蔡志玲?」

「…はい」

チーリンは俯いて小さな声で答えた。

「本当に−!」
千鶴が大きな声をあげた。

「マジかよ?」
竜男も驚きを隠せなかった。
唯は訳も解らずチーリンと竜男の顔を交互に見ていた。

「どうりで綺麗なわけだわ…」
千鶴はチーリンの顔を見て感心している。
「でもどうしてこんな何にも無い島に?
一人きりでバケーション?」

「まあ…そんなところです…」
チーリンは答えに困った。
皆の視線がチーリンには痛かった。

「芸能人だからって休暇くらいとるでしょ」
瞳は特別驚いたふうもなく答えた。

「そ、そうね…
そんな大女優さんなんて知らずに失礼な事言っちゃってごめんなさいね。
それにこんな汚い家にきてもらっちゃって何か恥ずかしいわ…」

「汚いは余計だろ?」
竜男が口を挟んだ。

「特別扱いしないでくださいね。
女優なんてただの職業ですから…」
チーリンは申し訳なさそうに答えた。

「ほら、チーリンさんもそう言ってるんだし御飯にしよ。」
瞳は淡々と言った。

チーリンを中心にダイニングテーブルに座ると千鶴が作ったそばがテーブルに並んだ。

「八重山そばよ。
お口に合うかしら?」
大きな肉が麺の上に乗っていた。
チーリンには久しぶりの大人数での家庭の食事だった。
チーリンは肉にかぶりついた。

「うん、とても美味しいです!」
笑顔を見せた。

台湾の大女優が庶民的な食事に満足してくれた様子だったので千鶴はホッとした。
そばはチーリンの味覚にも合いペロリと完食した。

「お姉ちゃん遊ぼうー」

唯がにこっと笑い、声をかけてきた。

「唯、宿題は済んだの?」
千鶴がたしなめた。

唯は首を振った。

まず宿題をやっちゃいなさい。

「はぁい…」

唯はつまらなそうに答えると
「お姉ちゃん今度遊んでくれる?」
とチーリンに聞いてきた。

「いいわよ」
チーリンは笑顔で答えた。

「約束だよ」
にこっと笑うと唯はダイニングを出て行った。

「ごめんなさいね。
小さい島だから遊び相手がいなくて」
千鶴はチーリンに謝った。

「いいんですよ。私も子供好きだし…」

千鶴は紅茶と手作りのシフォンケーキをテーブルに並べた。

「ところで諒太は今日何やってるんだ?」
竜男が訪ねた。

「それがお昼頃帰ってきて寝ているんですって」
千鶴が答えた。

「朝帰りか?」

「真田さん帰ってきてから女の人と会ってきたみたいな事言ってましたよ」
チーリンは答えた。

「女だぁ?」
竜男は訝った。

「諒太さんに女なんかいるわけないじゃない!」
瞳は強く否定した。

竜男は瞳の顔を見てニヤッと笑った。

「何よ⁈ お兄ちゃん!」
瞳は竜男を睨んだ。

「別にぃ…」
竜男は惚けた風にそっぽを向いた。

確かに諒太に釣り合う年齢の女性など数える程しかこの島にはいない。

「ねぇ、ご飯とかどうしているの?」
千鶴はチーリンに訪ねた。

「千鶴さん聞いてくださいよ」
チーリンは堰を切ったように諒太の不満を話し出した。

「昨日なんか真田さん私が一生懸命作った料理をハッキリ
不味い!って
言ったんですよ。
確かに美味しくはなかったけど…
そんな言い方されると私傷つきます。
それに切ったじゃがいもの皮をわざわざ取り出してこんな切り方じゃダメだ、もっと薄く切れとか…
全部食べ切れとか…
汗臭いとかあんたは不器用だとか酷い事言うんですよ」

「ははは、諒太の言い出しそうなことだ」
竜男は笑い出した。

チーリンは不満顔で更に続けた。

「それから…私見ちゃったんです。
昨日…真田さんの後を黙ってつけて行ったんです。
そしたらあの人…海を見ながら一人で泣いていたんですよ。
部屋には小さな女の子の画や真っ黒い海を描いた気持ち悪い画もあったし…
真田さんってどこか情緒不安定なんですか?」

三人は黙って聞いていた。
竜男の顔から笑顔が消えている。

ドン!

突然瞳がテーブルを両手で叩いた。

「あなた、諒太さんの事知りもしない癖によくそんな酷いこと言えるわね⁈」
瞳の剣幕にチーリンはびっくりした。

「おい…」

竜男が窘めようとしたが瞳は勢いよくドアを閉めると出て行ってしまった。

竜男も千鶴も難しい顔をしてため息をついた。

「何か私…瞳さんの気に触ること言いましたか?」
チーリンには理由がわからなかった。

「そうじゃないの…
諒太さんには色々と事情があるのよ…」
千鶴は哀しい顔をチーリンに向けた。

「え?…真田さんってどんな人なんですか?」

4 憂愁

4 憂愁

「竜ちゃん…」
千鶴は竜男の横顔を見つめた。

「俺から話そう…
諒太を知りたいなら俺と諒太の関係から話した方が近道だ」

「チーリンさん、俺と諒太はどういう関係だと思う?」

「えっ? 友達なんじゃ…?」

「今はね…」
竜男は遠い目をした。

「チーリンさん、あいつは元々美波間島の人間ではないんだ…
かつて…あいつは俺にとってライバル…
いや、そんな生優しいものじゃない。
あいつはどう思っているかわからないが、俺にとってあいつは仇敵、怨みの対象だった」

「怨み?」
チーリンは竜男の物騒な言葉に眉を寄せた。

「俺はガキの頃から剣道に打ち込んでいたんだ。
生まれは美波間島だが、当時俺は沖縄本島に住んでいた。自分で言うのもなんだが、小、中と向かう所敵なしだったよ。
沖縄県の大会でも俺の実力に匹敵する相手は誰もいなかった。
俺は気に入らなかったが、周りからは俺が猿に似ているからって南海の猿鬼だの沖縄の猿飛だのあだ名をつけられたりしたよ。
実際、全国優勝も何度もしたしな…

それが高校に入ってインターハイに出場した時、あいつは俺の前に突然現れた。
今からおよそ20年前のことだ。
俺も周りの剣士も真田諒太なんて名前は誰一人聞いたことがなかった。
下馬評では俺が高校日本一になるって専らの噂だった。最強の剣士はこの宮城竜男なんだって俺自身も自負していたしな。
そんな名も知れぬ奴など、ハナから眼中になかった。そして、あいつはトーナメントを勝ち進み決勝戦で俺とあたった。
場所は日本武道館…
俺の剣道人生はあの日を境に変わった」
竜男は目を細めた。

「体格差は元々あったが、俺にとってそんなものはハンデでも何でもない。
それまでもあいつよりデカイ男を何人も負かしてきたからな。
俺から見ればデカイ奴はのろまに見えたよ。
勝負を一瞬で決めると思って審判の「はじめ」の掛け声を俺は待った。
試合が始まって俺は得意の小手を打ち込もうとしたんだ。
ところが体が動かない。
あいつに隙が全くないんだ。
あいつは微動だにせず中段の構えで立っていたよ。
面の奥に見えるあいつの目の光に俺はたじろいでしまったんだ。
あいつの後ろからはオーラのように強い気迫が立ち昇っていたよ。
こうなるともう蛇に睨まれたカエルだ。
俺が全く気がつかないうちにあいつの電光の打ち込みに俺は負けていた。
何も出来なかった…
二本目も全く試合にならずに終わった。
こんな屈辱は生まれて初めてだった。
そんな無様な負け方をして俺は那覇に帰ってから毎晩、毎晩、悔しくて泣いた。そして眠れぬ日々を送った。
それから俺の目標は真田諒太を倒すことになった。
インターハイ優勝なんてどうでもいい、あいつを叩きのめすことができるなら。毎日何時間も稽古を手のマメがつぶれてもやり続けた。

そして二年のとき再びあいつと合間見えた。
俺はあいつとの間合いを詰めるため一年間徹底的に踏み込む足と常人には捉えきれないほどのスピードを鍛え そして身につけた。
一年前と一緒、あいつは構えを崩さず全く動かなかった。
あいつの目の力に怯まぬよう俺もあいつの目を見据えた。
俺は絶対にあんな無様な負け方は二度としたくはなかった。
俺はとにかく足を使ってあいつを撹乱したんだ。
そして離れた場所から一気に懐に飛び込んで電光石火の連続攻撃を繰り出した。
あいつは俺の攻撃に防戦一方だったよ。

俺の剣が動ならあいつの剣は静の剣だった。
しかし、打ち込んでも打ち込んでも有効打は一向に奪えない。
あっという間に試合時間の四分が終わった。
ここからは一本勝負の延長戦だ。
俺はあいつの小手を狙って試合場を所狭しと動き回って狙い続けたが
わずかな所であいつは躱し続けた。
そうさ…俺の剣さばきはあいつに見切られていたのさ。
でも素早く動く俺の動きにあいつも攻めあぐねていたよ。
もう竹刀に鉄の重りが入っているんじゃないかと錯覚を覚えるほど腕が上がらなくなっていた。

剣道の試合では前代未聞の審判判断で水入りが入った。
防具を取ると全身から汗が吹き出し白く湯気が出ていたよ。
それは向こうにいるあいつも同じだった。
少しでも気を抜けば失神しそうだった。
気がつけばもう延長戦に入って50分も経っていた。
会場は水を打ったように静まり返っていたのを覚えているよ。
もう、あと一撃のスタミナしか俺には残っていなかった。
俺は小手狙いをやめて胴を狙う作戦に切り替えたんだ。
何にしてもこれが最後の一刀になると俺は覚悟した。
そして俺たちは正眼に構え睨み合った。
あいつの腰がぐっと下がったと見た俺は剣先を少し上げた。
あいつもそれにつられたと感じた。
その一瞬を見逃さず前に飛び出し俺は胴に打ち込んだ。
俺は勝った!と思った。
もうあいつには俺の胴打ちを躱すことも剣で払うことも不可能な間合いだったからだ。

それがだ…
あいつは俺の胴打ちに自ら間合いを詰めて当たりにきた。
こんな戦法があるものか!
距離がゼロになった。
俺は胴を打ち抜くことが出来なくなってしまった。
これでは当然有効打にはならない。
あいつの捨て身の防御に俺の攻撃は封じられてしまった。
今度は上ががら空きになった俺が窮地になる番だ。
あいつの横をすり抜けた俺はあいつに背中を見せる格好になっていた。
振り返った瞬間俺は負けを確信した。
あいつの面打ちで確実に俺はやられるからだ…

しかしあいつは上段に構えたまま動かなかったんだ…
そして一時間に及ぶ試合は引き分けで終了した。

なぜ諒太は最後打ち込まなかったって?
わからない…
しかし俺の考えではあいつは背後からは打たない。
そういう奴なんだと思う…
あと…これは俺の思い込みかもしれないが、その瞬間あいつの声が聞こえた気がした。
「もっとやろうぜ」って…
勝負に拘っていたのは俺だけで、あいつは試合を楽しんでいたのかもしれない…

一時間もの死闘を繰り広げて防具を取ったとき、俺はフラフラで倒れそうだったのにあいつは涼しい顔をしていたよ。
この対決は一時間にも及ぶ世紀の引き分け劇として新聞にも取り上げられたが、俺は引き分けとは思えなかった。
また俺はあいつに負けたんだ。
またしても俺は一年間あいつを倒すためだけに厳しい修行を続けた。

そして高校最後の三年の大会…
あいつは出て来なかった。
途中で負けた訳でも選抜に選ばれなかった訳ではない。
出場さえしていなかった…

真田諒太なぜ出てこない!

俺は悔しくて地団駄を踏んだ。
その大会は結局俺が優勝したが、あいつのいない大会の優勝に何の意味がある?
俺は悔しくて帰ってから貰った賞状を破いた。

その後 俺が大学に進学しても剣道界にあいつの名前があがってくることは二度と無かった」

竜男はテーブルに手を組んでその手を見つめた。

「真田さんは剣道を辞めてしまったのですか?」

「ああ…あいつの出身県の群馬県の剣道者リストまで隈無く探してみたが名前は無かったよ。
俺は何年も鬱々とした日々を送ったが、時間の経過と共に次第に真田諒太の名前は俺の中から消えていった。
それが12年の時を経て偶然あいつと再会することになったんだ」

「あんなかたちで…」

竜男は哀しい目をした。

「俺は大学卒業後沖縄県警の機動隊に入った。
俺の体格では身体検査で弾かれる可能性が高かったが、剣術の腕を見込まれて入隊することが決まった。
それから数年が経ち、俺は仕事にもだいぶ慣れて充実した日々を送っていた」

「そして…運命のあの日を迎えた…」

「あの日?」

「チーリンさんは2011年3月11日
この日がどんな日か知っているかい?」

チーリンは少し考えこんだが直ぐに思い出した。
チーリンは竜男の顔を真っ直ぐに見つめ答えた。

「大地震と津波…」

台湾からも日本に多くの支援金が贈られ、チーリンも個人的に多額の支援金を寄付したのだった。
チーリンの記憶にもまだあの光景ははっきりと脳裏に刻まれていた。

「そう…日本の東北地方一帯を襲った東日本大震災だ」

俺は機動隊員として被災地の石巻へ向かった。
現場は道路が寸断され、橋も落ち、通信もライフラインも壊滅していた。
俺たち沖縄県警チームもやっとのことで石巻に到着した。
津波をもろに受けた石巻の街は酷い惨状だったよ。
俺たちが到着した時点でもまだ水が引いてなくて腰くらいまで水が残っていた。
住宅は軒並み破壊され、水にのまれた車や瓦礫が行く手を遮って前に進むことも困難な状況だった。
3月の東北の水は氷のような冷たさで空からは雪が舞っていた。
俺たちの当面の仕事は負傷者の保護と遺体を発見することだった。
瓦礫の下敷きになって水の中から無念の表情で冷たくなっている御遺体を俺たちは無言のまま引き上げた。
任務として集中する事でいろいろ考えることはやめたんだ。
考えてしまったら俺たちの感情が崩壊してしまうから…

でも…俺たちだって人間だ。
小さな子供の遺体を見つけると涙が止まらなかったよ。
そんな過酷な状況で俺たちは任務をこなしていたんだ。

ある日、まだ残る冷たい水の中を一人の男性が俺たちの前を歩いていたんだ。
まるで夢遊病患者のような足取りで真っ青な顔をしていた。
肩には包帯が巻かれていたが、大きく血が滲んでいた。
俺はその男性に近づいた。

「あなた、怪我をしてますけど大丈夫ですか?
どこに行くのですか?」

俺は声を掛けた。
俺を見た男性の目の焦点は合ってなかったよ。

俺はその顔に見覚えがあった。
全く印象が違っていたがその顔は
真田諒太 その人だった。
激闘を繰り広げた男の顔を忘れる筈はない。

ショックだったのは彼奴は俺の顔を覚えていなかった…
まるで震える仔犬のような目をしていたんだ。
俺の知っている目の奥に力強い光りのある真田諒太ではなかった。

あいつは俺の足にしがみつくと
言ったんだ。

妻と娘が波に…

波に…

お願いです…
助けてください…

涙を流して俺に懇願したんだ…

竜男は当時を思い出して目を潤ませた。
千鶴はハンカチで涙を拭っていた。

あいつは津波にさらわれた奥さんとまだ二歳にもならない娘を冷たい水に浸かりながら毎日毎日探し続けていたんだ。

「そんな…」

チーリンは手を口に当てた。

「これは後の捜査の中で分かったことなんだが、当時、諒太はSOMYで働いていた。
そう、あの世界的電気機器メーカーのSOMYだ。
国立大の工学部を卒業してSOMYに入社してからデザイナー兼エンジニアとして諒太は開発チームの一員として次々とヒット製品を世に出した。
俺はあまり詳しくないが、当時SOMYを代表するスマホやゲーム機もあいつが開発したって聞いたよ。
そして石巻工場の製品開発部で勤務していた時に被災した。
工場も被災して壊滅的な打撃を受けたそうだ。
かなりの犠牲者が出て諒太の仲間の多くが亡くなったそうだ。

そして諒太の家族も…

もう津波から逃げ切れることが出来ない状況であいつは子供を抱っこする奥さんの手をしっかり握っていたそうだ。
しかし津波の勢いはあいつの全てを無情にも奪った。
あいつ自身、肩に大怪我を負い、目の前で黒い濁流に奥さんと娘さんを流され家族は引き裂かれたんだ…」

竜男は涙を流した。

「諒太は今でも後悔している。
あの時…どうして手を離してしまったのかって…
どうして自分も一緒に連れて行ってくれなかったのかって…」

チーリンの頰にも涙が流れた。

「あの日を境に俺の知っている真田諒太は死んだんだと思う… 」

「あの時…どこの避難場所も混乱して酷い状況だった。
避難場所は暖房もなく、仮設トイレも汚物が溢れて酷い臭気を放っていた。
食事も温かい食べ物など手に入らず、一日パン一個なんてことも珍しくなかった。
道路が寸断されていたし、燃料も手に入らなかったから仕方なかったんだ」

チーリンはハッとなった。
今理解できた。諒太がどうして食べ物を粗末にしないのか…

(真田さんは今もその時の生活を忘れていない…)
チーリンは自分が恥ずかしくなって俯いた。

「毎日あいつは日も昇らないうちから避難場所を出ては抜け殻のように廃墟のような石巻の街と海岸を彷徨い歩いていたよ。泥だらけになりがら…
しかし何日経っても奥さんと娘さんの手掛かりは全く見つからなかった。
恐らく引き波にのまれて海に流されたのではないかというのが専門家の見解だった。
結局行方不明者として扱われたんだ」

「そして三ヶ月が経ったころ俺たち応援部隊にも帰還命令が出た。
隊員は誰も帰りたくはなかった。
まだまだ復旧復興には程遠い状態だったし、東北の人達を見捨てて帰るような気がして心苦しかったんだ。
しかし命令に背くことは出来ない。
俺たちは断腸の想いで東北を後にした」

「その後すぐ 今は奥の部屋に寝たきりになっているが、うちの勝男オジーが脳梗塞で倒れて俺は漁師を継ぐことになって機動隊を辞めたんだ。
俺は東北を離れて一年が経ったころ、諒太のことが気掛かりで石巻へ一人で再訪した」

「あいつは仕事も辞め、仮設住宅に住みながら奥さんと娘さんが亡くなったことがまだ信じられずに海岸を彷徨い歩く日々を送っていた。
その姿を見た俺はこのままじゃ諒太自身が死んでしまうと思った。

いや…もしかしたら諒太はそれを望んでいたのかもしれない…

やつれ果て明日を見失った諒太を俺は放っておけなかった。
嫌がる諒太を半ば強引に俺の生まれ故郷、この美波間島に連れてきたんだ。家族との思い出が残る場所に残るより、全く知らない場所で再出発した方があいつのためと思って…

何かここでひとつでも生き甲斐を見つけてくれたのなら…
生きていてさえくれればそれだけで…
あの輝く目をした諒太を二度と見られなくても俺はいいと思ったんだ。

チーリンさん…あいつああ見えても美波間島に馴染もうと努力してきたんだよ…
諒太が人に心を中々開かないのは怖いからなんだと思う」

「怖い?」

「あの日…親しい人を大勢なくしてまた同じようなことがあったらと…
自分の大切な人を失うのを怖がっているんだと思う。
だから必要以上に自分の心を開こうとしないじゃないかと俺は思っている。
こんな小さな島の人達に馴染むのにも一年はかかったからね。
二日やそこらで諒太を理解しようなんて土台無理なことなんだよ」

「真田さんにはそんなことがあったんですね…」
チーリンは哀しい表情で息を吐いた。
(私、真田さんを誤解していたのかもしれない…)

暫くしてチーリンは一人竜男の家を後にした。

5 海人

5  海人

午下チーリンは諒太の家に帰った。
家の中が静まり返っていたのでチーリンは襖が開いたままの諒太の部屋をそっと覗いてみた。
座布団を枕替りに畳の上に直接体を横たえ諒太は眠っていた。

私が借りている布団…真田さんの1組しかないものだったんじゃ…
それを私に…?

時折苦しそうにうなされている諒太の顔をチーリンは哀れみの表情で見つめた。

チーリンは諒太の半生に同情した。また、気の毒とも思った。
しかしチーリン個人にどうすることも出来ない問題であった。

明日…
フェリーが動いたらこの島を出て行こう…
チーリンは決意した。

チーリンは夕食の準備に取り掛かった。
何度も食べたことのある松鼠魚という中華料理の定番の揚げ魚の甘酢餡かけを作ることにした。
しかしチーリンは食べたことはあっても調理工程を知らない。
食べた時の記憶を頼りに初めて挑戦してみた。

「キャー!」

台所から悲鳴が聞こえた。
諒太は何事かと跳ね起き、台所へ入ると中華鍋から白い煙がもうもうと立ち上がり、鍋からバチバチ音を立てて油が飛び跳ねていた。
チーリンは冷凍庫から凍ったままの魚を解凍も下処理もせずに煮えたぎる油の中に突っ込んだものだからたまらない。
台所中煙くなったのである。

「理科の実験も結構だが火は出さないでくれよな」

諒太はため息をついてそう言うと台所を出て行った。

チーリンは自分の不甲斐無さに腹だだしくまた情けなかった。
結局出来上がった代物は真っ黒に焦げた魚にゼリー状に固まった餡がかかったものだった。
炊けたご飯もベチャベチャのお粥に近いモノだった。
ちゃぶ台に置かれたチーリンの作った料理?を諒太は眉間にシワを寄せて無言のまま食べ続けた。

「こんな料理しか作れなくてすみません…」

チーリンは本当に申し訳なく素直に謝った。

あんた本当に不器用だな。
とか、
糞不味い。
とか言われる覚悟をチーリンはしていた。

しかし諒太は

「料理は数をこなさなきゃ上手にはならん。
初めから上手く出来る奴なんていやしない」

無愛想に言って食べ続けた。

「…ありがとう」

この言葉が諒太の気遣いから出た優しさなのか単純に本音を言ったものなのかチーリンにはわからなかったが、諒太の予想外の言葉が嬉しかった。
チーリンも責任を持って自分が作ったものを残さずに食べ切った。

「真田さん、冷蔵庫に千鶴さんから頂いたスイカがあります。
口直しに頂きませんか?」

「千鶴さん来たの?」

「いえ、私がお昼にお家に招待されてお邪魔してきました」

「そう…」

二人は縁側に並んで座ってスイカを食べはじめた。

「私、明日フェリーが動いたらここを出ようと思います…」

諒太は関心も示さずに無言でスイカを食べている。

「お昼に竜男さんから聞きました…
真田さんがどうしてこの島にきたのか…」

「竜男に?」

「はい…
本当になんて言ったらいいのか…」
チーリンは俯いた。

「余計なことを言って…
あいつは話を大きくするから話半分に聞いとけ」

「そんな感じではなかったです…」
チーリンは諒太の横顔を見つめた。

諒太は正面の花壇に咲いている花に虚ろな視線を合わせたままだった。

「これは俺の問題だ。
あんたは聞いたことは忘れてくれ…」

「…はい」
チーリンは小さな声でうなずいた。

チーリンが荷作りしている間も諒太は全く言葉を発せないまま庭の花を見つめていた。

その時、玄関から大きな声が聞こえてきた。

「諒太ぁ!
諒太いるかぁ!」

諒太が玄関に行ってみると赤ら顔の60過ぎの男が立っていた。
この男、名を 糸村源一 といい、皆から通称 源さんと呼ばれている。
源一は竜男ら漁師のリーダー格で漁労長をしている。常に酒を飲んだように顔が赤く、薄くなった髪を隠すためか一日中漁協のキャップを被っている。
言葉が乱暴で声が大きく、毒を吐く事が多いが、裏表のない面倒見の良いオヤジであった。

「なんだ源さんか…」

「なんだじゃねぇ、おい!諒太!
この家にサイチーリンがいるって本当か?」

「なんで源さんがそんなこと知っているんだよ?」

「夕方、唯ちゃんに聞いたんだよ!
いるか、いねーか聞いてんだ馬鹿野郎!」

「いるよ」

「なにー⁈
本当にいるのか?あのチーリン様が!」

「チーリン様?」
諒太は源一が何をそんなに興奮しているのかわからなかった。

「お前ぇ、知らねーのか? チーリン様を⁈」
源一は赤ら顔を更に赤く興奮している。

「知らん」

「あの台湾の大女優サイチーリン様のことだ!」

「さあ?」
諒太はポカンとしている。

自分の名前が聞こえてきたのでチーリンは玄関を覗いてみた。

「げ! ほ、本物だぁ!」
チーリンに気づいた源一は腰を抜かした。

「あ、あの…この方は?」
チーリンは戸惑った表情を浮かべた。

突然すっくと立ち上がると
「わたくし、糸村源一と申します」
源一は直立不動で答えた。

「何が わたくし だ?」
諒太は茶々を入れた。

「うるせー馬鹿野郎!」
源一は諒太の腕を拳で突いた。

「あ…私 蔡志玲と申します」
チーリンは頭を下げた。

源一は挙動不審者のようにガチガチになっている。

「チーリン様は何故こんなむさ苦しい男の家にいらっしゃるので?」

「むさ苦しくて悪かったな」
諒太は返した。

「お前は黙ってろ!」

「そのチーリン様っていうのはやめてもらえますか?」
チーリンは困った顔をして言った。

「じゃあチーリンさんで?」
源一はにやけて聞いた。

「はい…それなら…
色々ありまして、真田さんの家にお世話になっています。
でも明日フェリーが動いたらこの島を出ようと思っています」

「そいつぁいけねぇ!」
源一は生まれも育ちも美波間なのにまるで江戸っ子のような口調だった。
「チーリンさんお願いだ。
この源さんの顔を立ててもう少し出発を遅らせてくれねえか?
明日の夜、俺たち漁師仲間の懇親会があるんだが是非チーリンさんも呼びたいんだ。
頼む。この通りだ」
源一は拝んだ。

「諒太!お前ぇからも頼め!」

「俺は関係ないだろ?」

「ごちゃごちゃ言わねえで頭を下げろ!馬鹿野郎!」

「痛テテテ…」

源一は諒太の首根っこを押さえると強引に頭を下げさせた。

「わかりました、とにかく乱暴はやめて下さい」
チーリンは慌てて止めた。

「いやいやこれは乱暴じゃなくスキンシップってやつで。へへへ。
なあ、諒太!」

「勝手なこと言うオヤジだ」
諒太は呆れた。

「おっと、早く帰らねえとかあちゃんに怒られちまう。じゃあ、チーリンさん明日夕方6時にうみんちゅに集合ってことで!」

「じゃあ諒太頼むぞ!」
源一はそう言うと猛スピードで走り出すとさっさと出て行ってしまった。

「ちょっと源さん! 俺は明日…」
諒太が声をかけた時には源一の姿は消えていた。

「面白い方ですね…」
チーリンはくすくす笑いながら言った。

「粗暴だが憎めない人だよ。
源さんの人情味があって裏表のない人柄に俺はこの島に来てだいぶ救われたんだ…」

「ところであんた女優なの?」

「はい…
隠すつもりはなかったんですが、殊更言うことでもなかったと思ったので…」
チーリンは下を向いた。

「ふーん…例えばあんたがどこかの国の王女様だろうが俺は変わらないよ」
そう言うと諒太は部屋に入ってしまった。

もしこの時、諒太が豹変して態度を変えたならチーリンは諒太を軽蔑したのかもしれない。
女優としてではなくむしろ只の一人の人間として扱ってくれる諒太の態度の方がチーリンにとって気持ちが楽であった。

翌朝チーリンは早く起きて家の周りを散歩してみることにした。
この朝も諒太の姿はすでにない。
家の前の土手を上ると広大な海が広がり白い砂浜が目の前にあった。
まだ涼しい朝の空気は清々しくチーリンの気分を清廉にした。
白々と明るくなる空は日の出前の静寂を保ち、打ち寄せる波音だけが支配していた。

チーリンはふと遠くの砂浜に人影が動いているのを見つけた。
目を凝らして見ると諒太が砂浜のゴミを拾っているのが見える。
遠目には白く美しい砂浜だが、様々な漂流物が海岸に打ち上がっているようだった。
チーリンは砂浜を歩いて諒太に近づいた。

「おはようございます…」

「今朝は早いな」
諒太はゴミ袋に流れ着いたペットボトルを入れながらチーリンをチラッと見た。

「真田さんは毎朝ごみ拾いを?」

「ああ…」

「これが真田さんのお仕事なんですか?」

「あんたは自分の家の前に落ちているゴミを拾うとき仕事と思ってやるのかい?」

「え?…」

「俺は少なくとも感謝の気持ちでやっている」

「感謝?…ですか…」

「そうだ。こんな俺を美波間島は生かしてくれている。
だから俺は島に感謝している。
この美しい砂浜も放っておけば流れ着いたゴミですぐ汚れてしまう。
俺が島に恩返し出来ることなんてこんなちっぽけな事しかないんだ」
諒太は目を細め水平線を見つめながら独り言のように呟いた。

「それに今日は…」

「…いや、何でもない…」
諒太は何かを言いかけてやめた。

「俺はこの時間が好きなんだ…
打ち寄せる波の音とこれから明けようとする空…
他に邪魔なものが何もない空間…
時間によって変わる海の表情…
さっきまでエメラルドグリーンの海が光りの入り方や潮の流れによってコバルトブルーへと色を変える…
水はどこまでも透明で透き通って白い砂浜に押し寄せる…
こんなに美しい海はここ以外俺は知らない…

それと、ここにいると海と同化することが出来るような気がするんだ…

だけど、海は時に人に牙をむく。
あんたも聞いての通り俺は全てを海に奪われた…

けれど、俺は海を恨んじゃいない。
人間が誕生するずっと前から海はそこにあったんだからな…
人が海を支配しようなんて出来るはずがないんだ。
俺は美波間の海も石巻の海も変わらず好きだし、海に感謝している。
俺たちはこの海に生かされているんだよ」

チーリンは諒太の言葉を何も言わずに聴いていた。
寡黙な諒太がこれ程饒舌に語るとは意外だった。

「それから…
この浜で泳ごうとするなよ。
ここは沖の潮の流れが物凄くはやいんだ。離岸流もある。
渚で水と戯れるくらいなら問題ないが、普通の海水浴場みたいに遊べる場所じゃないんだ。
遊泳禁止の看板も台風でその度飛んじまう。
俺も竜男に聞くまでは綺麗な海水浴場だと思ったくらいなんだ」

「わかりました…」

「朝飯まだだろ?
今朝は俺もまだ食べてないんだ。
こっちの人はあまり食べないんだが、この前手作りで鯵の一夜干しを作ってみたんだ。
帰って焼いてやるから飯にしよう」

「はい!」

チーリンは白い歯を覗かせた。

少しずつ顔を出してきた太陽が水平線の彼方まで光を放ち出していた。

その日も諒太はまるで毎日のルーティーンのように鍬を持って農作業に出掛けたり、芋の選別などして過ごしていた。
夕方になり諒太も懇親会に出掛けるものばかりと思っていたチーリンであったが、諒太から店の地図が書かれたメモを唐突に渡された。

「俺は今日、大事な用があるから懇親会には行けない。
海人(うみんちゅ)は島に一軒しかない居酒屋だから行けばすぐわかるはずだ。
源さんによろしく言ってくれ」

「はい…わかりました」
チーリンは諒太のいう大事な用というのは先日の朝帰り女性とのデートなんだろうと勝手に想像した。

夕方とはいえ、西の果てにあるこの島の日の入りは遅い。
まだ日中のような太陽の陽が島を照らしていた。
チーリンは白のVネックのTシャツにデニムのパンツというおよそ女優らしくないラフな格好で歩いて出掛けた。
チーリンは諒太に渡されたメモを頼りに歩いていくと舗装された道から20メートル程入った細い砂利道の先に海人はぽつんとあった。
電光の看板やネオンなどなく、古そうな建物に手作りでつくられた白木の看板に居酒屋食堂 海人 と墨で書かれていた。
チーリンは恐る恐る引き戸を開けた。

海人は昼は食堂、夕方からは居酒屋にかわる。
観光客もごくたまに来るが、客のほとんどは島の人間である。
何しろ美波間島には飲食出来る店はここしかない。
店は50代後半の平仲夫妻が二人で切り盛りしている。
口数少なくおとなしい性格の主人 平仲 篤 が調理場に立ち、元気がよく気風の良い奥さんの 平仲 寛子が店を取り仕切っていた。

「いらっしゃいませー!」
女性の大きな声がかかった。

チーリンの前に元気の良い寛子がにこにこしながら近寄ってきた。

「あなたがチーリンさんね?
源さんから聞いているわよ。
ようこそ海人へ
もうみんな集まっているわよ」

寛子はにこっと笑うとチーリンを小上がり席に方へ誘導した。
店は外から見るより意外と中は広く、カウンターとテーブル席に小上がり席が4つほどあった。
奥には個室もあるようだった。
普段は沖縄時間というものがあって、集合時間はあくまで目安でしかなく、三々九度自分の時間で集まることが通例なのだが、源さんの掛け声で皆今日は集合時間より早く集まっていた。

「おう!チーリンさん
こっち、こっち!」
源一が大きな声で手招きした。
源一はもう飲んでいるのか、これが普通の状態なのか既に赤い顔をしている。

竜男が慌てて近寄ってきて手を合わせてチーリンに詫びた。

「ほんとごめん…唯が源さんに喋っちゃったみたいで…」

「別にいいんですよ」
チーリンは笑って答えた。

「竜男!何ごちゃごちゃやってんだ! 早くチーリンさんを席にご案内しろ!」
源一は大きな声で竜男に促した。

チーリンは奥に座る源さんの右横に用意された座布団に腰を下ろした。

「さあ、チーリンがお見えになったところで乾杯といくか!」

「源さん、みんなの紹介がまだですよ!」

「あ、いけね、そうか…」

竜男に言われフライング気味の源さんは手のひらで自らのひたいを叩いた。

「こちらが台湾の大スターで大女優のサイチーリンさんだ。
みんな知ってるよな!」
源一は自慢気に紹介した。

チーリンは照れながら頭を下げた。

「チーリンさんの右に座っている猿顔の男が宮城竜男だ。
もう知ってるんだっけか?」

「誰が猿顔だよ?
源さん変なこというなよ」
場が笑いに包まれた。

「俺の正面にいるのが 金城浩司
俺と同じ船に乗っている中堅格だ
お前何歳になるんだっけか?」

「源さん覚えてくださいよー
今年もう40ですよ」

「そうか、そうかお前もう40か、
こいつのとこは小学校一年の娘がいて、待望の二人目の子供がそろそろ産まれそうなんだ。
楽しみだろ、このヤロー」

金城は日に焼けて黒くなった顔をほころばせて優しそうな笑顔でチーリンに挨拶した。
金城は落ち着いた雰囲気で諒太と歳も近く、兄貴的存在で良き理解者として普段から何かと諒太の相談に乗っていた。

「そしてチーリンさんの正面にいるのが美波間漁師界の若手のホープ
上地 拓巳だ。
まあ、俺から見たらまだ漁師の腕は赤ん坊程度だがな!
今竜男と組んでやっている」
髪を茶色く染めてひょろっとしたいかにも今風の若者という感じであった。

「拓巳の横が竜男の妹の瞳ちゃんだ。瞳ちゃんは村役場で働いてんだ」

瞳はチーリンと先日のこともあり少しばつが悪そうな感じだった。

「瞳ちゃんは拓巳の幼なじみでお前ら付き合ってるんだっけか?」

「源さん! 私たちはただの友達!
付き合ってなんかいません!」
瞳は強く否定した。

「そうか、わりい、わりい、」
源一は謝った。

はっきりと否定され拓巳は不服そうな表情だった。

「あの…今日、諒太さんは?」
瞳はチーリンに尋ねた。

「おう、そうだ諒太はどうした?」

「それが今日大事な用事があるから行けないって言ってました」

瞳はがっかりした表情をした。

「あのヤロ、今夜はチーリンさんの歓迎会だって言っておいたのに!」

「いえ、私の歓迎会だなんて…
漁師仲間の懇親会って昨夜は…」
チーリンは必死に否定した。

「いや、チーリンさんがわざわざ来てくれたんだ。
今日はチーリンさんの歓迎会だ」
源一は勝手に会の名を変更してしまった。

「それにしても諒太くんの大事な用事ってなんでしょうね?」
金城は呟いた。

「俺が知るか!」
源一は吐き捨てた。
「寛子さんどんどんお酒と料理持ってきてー」

「はいよー」
寛子の大きな声がしてテーブルにビールや泡盛が運ばれてきた。
料理が運ばれている最中 竜男は向かいに座る妹の瞳に声をかけた。

「今日って何日だ?」

「7月7日だけど?」

(そうか!…)
竜男はハッとした顔を見せると何かに気がついたようだった。
周りは酒や料理をまわしていたので竜男のことに気がついていない。
唯一隣のチーリンだけが竜男の変化に気がついた。

「どうかしたんですか?」

「いや…また後でな…」

「それじゃあみんないいかぁ!
チーリンさんようこそ美波間島へ!」

「乾杯!」

各々飲み物のグラスを合わせた。
テーブルの上にはご主人の篤さん特製の料理が並んだ。
アオダイの刺身やカジキのマース煮(塩煮)、海ぶどう、島豆腐や豚肉料理、長命草と呼ばれる島の薬草の天ぷらなど様々な地元の名産が所狭しと並んでいた。

源さんは待ち兼ねていたかのように一気に泡盛をあおった。

「プハー
今晩は美女と一緒だから酒が殊更うめーや!」

「そんなこと言ったら奥さんに叱られますよー」
拓巳がつっこみを入れた。

「馬鹿野郎テメー!
絶対言うんじゃねーぞこのヤロー」
源一は笑いながら返した。
また場が笑いに包まれた。

「さあ!チーリンさんもどんどん食べて!飲んで!
今夜はみんなでご馳走するから遠慮なく!」

「え?
今夜は源さんの奢りじゃないの?」
今度は竜男がつっこんだ。

「そうだ!そうだ!」
今度は皆んなで源さんにつっこみを入れた。

源さんは酔っ払った顔を更に真っ赤にして吠えた。

「馬鹿野郎!
おーし、今夜は俺が奢ってやる!
吐くまで飲みやがれ!」

いえーい!

歓喜の声が上がった。
チーリンはこの楽しい雰囲気を笑顔で見守った。
料理やお酒も美味しいしチーリンはこんなに賑やかで楽しい飲み会は久しぶりだった。

宴も進んだころチーリンの向かいの上地拓巳が語り出した。

「俺たち漁師にとって竜男さんとこの勝男オジーは伝説の漁師としてここのみんなが尊敬しているんですよ」

「おうよ。オジーに敵う漁師はまずいねーな。
俺もここにいる浩司もオジーに厳しく鍛えられたんだ」
源一は相槌を入れた。

金城は穏やかに語りはじめた。
「そうだったね…
オジーは昔、たった一人で漁に出たんだけど、エンジンの故障で漂流したことがあってね、無線の電源も落ち、貨物船に救助されるまで雨水を飲み、魚を食べ1ヶ月も耐え抜いたことがあるんだ。
島中の人たちが心配したんだけど当の本人は救助された時もぴんぴんしていたそうだよ。
それからオジーは漁に出て他の船が全く魚が取れなくてもオジーの船だけは大漁なんて日もよくあったものだよ。
僕も若かったけどよく覚えている。
オジーがいたから今の僕があると言ってもいい過ぎじゃないんだ」

「島の東側の岩場の細い道を下るとネシキ浜という小さい浜があるの。
そこは昔から美波間島の神聖な場所として一般人はおろか島民も立ち入る事が出来ない場所なの。
大昔から海を守る神がいると信じられていて唯一うちのオジーだけが入る事が許されているの。
オジーは海の試練に耐える事が出来たから先代の神職からその資格を継承することが出来たのよ」
瞳はチーリンに説明した。

「だけどオジーも脳梗塞で倒れてしまったから…」
瞳は悲しい顔をした。

「竜男もオジーが倒れたから漁師になったんだもんな…
お前さん達の親も気の毒だったよな…」
源一は真面目な顔で呟いた。

「なにかあったのですか?」

「竜男と瞳ちゃんの両親のことなんだが、二人一緒に事故にあってな…」
源一は沈んだ顔をした。

「瞳さんはまだ小さかったから覚えていないだろうね…」
金城が昔を思い出すかのように呟いた。

「竜男と瞳ちゃんのお袋さんは昔この島で育った人でな、俺も小学校の時は同じクラスだった。
今より児童数が多かったから賑やかな学校でな、多江子ちゃんは可愛くてクラスのマドンナ的存在だったよ。
俺たちは隣の与那国島の寮に入って中学も一緒に通ったんだ。
俺は学がなかったからよ、高校のときは別になって優秀な多江子ちゃんは那覇の進学校に入ったんだ。
それから那覇にある名門の国立大学に入って卒業してからは県の職員になって、そこで後に竜男と瞳ちゃんの親父さんになるご主人と出会って結婚したんだ。
美男美女の人も羨むようなカップルだったなぁ…
それがあんなことになるなんてな…」

源一は手にしているグラスに目線を落とした。

その日、仕事を終えて県庁を出た二人を待っていた悲劇を誰が予想できたであろうか…
たまには二人で夕食を外で食べようと退庁時間を合わせた二人は国際通りの近くにある食堂へ徒歩で向かおうとした。
子供の竜男と瞳は夫の妹の家に遊びに行っていた。
青信号の横断歩道を渡っているとき信号を無視してきた暴走車にはねられ二人は死亡した。
車を運転していた男は本土から観光で来ていた若い男のグループで、泥酔するまで酒を飲んでの飲酒運転だった。
何の落ち度もない夫婦は二人の子供を残したまま還らぬ人となった。

「二人が亡くなってからというものオジーが腕一本脛一本漁師の僅かな収入で竜男と瞳ちゃんを大学を出るまで育て上げたんだ」
源一はグラスの酒を飲み干した。

今まで黙っていた竜男が口を開いた。
「俺は法を破る悪い奴が許せなかった。あの時、何で親父とお袋が死んで酒を飲んで運転していた奴がのうのうと生きているのか…
俺は世の中の矛盾が納得出来なかった。
その事を忘れるため俺は剣道に没頭し、悪い奴を根絶したいという思いで警察官になった」

「決して俺たち兄妹は裕福な生活ではなかったけどオジーには俺も瞳も感謝をしてもしきれない」

金城はしみじみと語った。
「オジーは僕たちに美波間の漁師とはなんたるかを一から教えてくれたんですよ。
海からの恵みである魚は決して取りすぎてはいけない。漁師が稼ぎにはしるなど以ての外だってね。最低限生活できるだけの収穫があればいいんだって。
オジイは常に海に感謝しているんですよ」

「そういえば今朝、真田さんも同じこと言ってました。
俺は海に感謝しているって…」

「ほお〜 あの諒太のヤローがねぇ…」
源一は腕を組んで顔をほころばせた。

「そういえばチーリンさん、諒太くんの作った芋食べましたか?」金城が尋ねた。

「いえ… 収穫されたのは見ましたけど…」

「なんだあのヤロー、てめえで作っているくせにチーリンさんにご馳走しねぇなんて水臭ぇ奴だな」

「諒太くんの栽培している芋『黄金芋』って品種で僕たちもよく分けて貰うんですが、ほくほく甘くて物凄く美味しいんですよ」
金城はにこにこしながら答えた。

「まあ、今でこそサツマイモなんて言っちゃあいるが、元々サツマイモの発祥はこの琉球なんだがな」
源一は知識をひけらかすようにドヤ顔した。

「前にお義姉さんと諒太さんに頂いた黄金芋でスイートポテト作ってみたんだけど、もうとろけるような甘さですごく美味しかった」
瞳も芋の美味しさを思い出して幸せそうに微笑んだ。

「だけどよぅ、あいつも最初苦労したよな。 何しろ最初のころあいつの畑の土、芋の栽培に適してなかったから一年目に採れた芋なんてゴボウみてぇで全然食えたもんじゃなかったな」

「そうだったね。それまでエンジニアでやってきた諒太は今まで農業なんてやった事なかったから四苦八苦して一から土づくりを始めて三年経ってようやく出荷できるまでになったんだもんな…」竜男は懐かしそうに語った。

「そうそう、真田さん荒地になっていた土地を一人で毎日朝から晩まで開墾して汗流して努力してましたね…
島民もそんな姿を見るにみかねて色々助言をしたりして真田さんと島民の関係も近くなっていったし…」
拓巳も当時のことを振り返っていた。

「だけどそれが絶望していた諒太の生きる力になったんじゃないかな?
チーリンさん、あいつの部屋に諒太が目指す生き方が書になって飾ってある。機会があったらあいつに聞いてみたらいい」
諒太のことを見続けてきた竜男には諒太が島に来てからの努力を誰よりも理解していた。

チーリンは諒太の部屋の壁の上に額に入った書を思い出した。

「チーリンさん、あいつはねぇ家の芋作りだけじゃなくて島の何でも屋みてぇな男なんだよ」

「何でも屋?」

「年寄りが多いこの島であいつの働きは皆んな重宝してるんだ。
もし時間があれば一度奴に付いて行ってみるといいよ。
ヤローが嫌がったら、源さんがただじゃおかねぇって言ってたって伝えな」

「わかりました」

「ところでチーリンさんはどうして美波間島に来ようと思ったんです?
ここには稀に人生に疲れたとか失恋したとかで女性が一人で来るなんてこともあるんですけど、チーリンは間違ってもそんなんじゃないでしょうし…」
拓巳が興味本位で尋ねた。

「ちょっと拓巳…」
横の瞳が眉にしわを寄せて肘で拓巳の腕をついた。

「いいんです…
失恋したというのはその通りなんです」
チーリンは微笑んだ。

「ええっ!マジですか⁈」

チーリンは少し躊躇したが、これまでの自分の経緯を包み隠さず語り出した。
そしてチーリンの口から台北東海公司の名前が出た時だった。

ガシャン!
皿の割れる音が店に響いた。

「ごめん」
女将の寛子が慌てて落ちて砕けた皿を拾った。
一瞬場が凍りついたようになった。

チーリンには理由がわからなかった。

「そ、そうか…でも大丈夫だ。
この美波間の人間は皆んなチーリンさんの味方だからな」
なにかを取り繕うような源一の言葉だった。

皆沈んだような顔をしていた。

「おう、そうだ! 寛子さん三線やってくれや!」

「あいよ!」

「おい拓巳!オメェ踊れ!」

寛子の陽気な三線の音色にのって拓巳が踊り出し周りから指笛が鳴り響いた。

竜男はチーリンの耳元で何かをささやいた。

「竜男! オメェも踊りに入れ!」

「はい、はい、」
竜男はにっこり笑うと拓巳と一緒に陽気に琉球踊りカチャーシーを踊り出した。
楽しい宴は続いていった。


諒太は海岸の砂浜に一人座ってぼんやりと海の方を眺めていた。
天空には満天の星が広がり、まるで宝石を散りばめたような星々が煌き光芒を放っていた。
この美波間には人工の強い光がないため、漆黒の闇の向こう側には輝く星がはっきり見ることが出来る。

小さなグラスの中に入ったキャンドルを砂の上に置き、前には家の花壇で摘んできた美しい花々をひとつに束ねて置いてある。
ぼんやりとキャンドルの光が幻想的に辺りを照らしていた。穏やかな波の音は聞こえてくるが、暗くなった海は空と水平線の境がわからないくらいだ。
波の音しかしない一人きりの静かな夜であった。

「一年…また過ぎたんだな…」

諒太は独り言を呟くとオリオンビールの瓶を手に取りそのまま喉に流し込んだ。

チーリンと瞳は先に海人を出た。
家の方向が同じ二人は並んで夜道を歩いた。
犯罪とは無縁のこの島では女性が夜道を歩いていてもなんの心配もない。
夜空には無数の星々が見える。手を伸ばせば届きそうな近さに淡い雲のような天の川銀河が光り輝いていた。

「ねぇ…チーリンさん今晩は楽しめた?」
少し酒で顔が赤くなった瞳はチーリンに尋ねた。

「はい、とても楽しかったです。
皆さんいい人はがりで…」

「そう…良かった」

「ところで諒太さんまだあなたに冷たいまま?」

「冷たいってことではないんです。布団なんかひと組しかないものを私に貸してくれたり… でもあまり会話もないですし、笑った顔も殆んど見たことがありません」

「まだあなたに心を開いていないようね… 諒太さん色々あったから…
あ、布団ならうちに余っている布団があるからまたお兄ちゃんにでも言って持っていってあげるね」

「ありがとう瞳さん」

「まあ、これから長い付き合いになる人じゃない限り諒太さんは自分を出さないかもしれないね」

「そうなんですね…」

「チーリンさんは島を出ていく人なんだからあまり色々考えない方がいいと思うよ」

「はい…」
瞳のアドバイスももっともなのだがチーリンには何か釈然としないものが残った。
二人は曲がり角で別れてそれぞれの家の方へと歩いた。

海人に残った男たちと店の平仲夫妻は顔を付き合わせて一緒に小上がり席に座っていた。

「驚いたねぇ、チーリンさんから台北東海公司の話が出るとはねぇ」
女将の 平仲 寛子はつぶやいた。

「ああ、まさか台湾の芸能界まで影響が出ているなんて驚きだね」

「台北東海公司の美波間島リゾートホテル計画、絶対阻止しなきゃならねぇ」
源一は息巻いた。

「俺よくわからないんだけど、どうしてリゾートホテルが出来ることがいけないんだい? 美波間に就職先だって増えることになるんだろ?」
一番若い拓巳が聞いた。

「馬鹿野郎、台北東海公司のリゾートホテルの計画はな、台湾企業が台湾人の従業員を使って台湾の観光客を呼ぶためのホテルなんだよ!
しかも工事の施工業者も地元から傘下の業者が入り込んでくるらしい。
つまりここ美波間には金は落ちねぇ。なんのメリットもねぇのさ!
しかもだ、この間、極秘に村長から計画書を見せてもらったが、計画のホテルは海に突き出す構造で周辺の珊瑚がやられちまうんだ。
そうなるとどうなると思う?
え!拓巳!」

「珊瑚が死滅すると?…小魚がいなくなる… 小魚がいなくなるとそれを食べる大型の魚がいなくなる…
えー‼︎」

「今気づいたか馬鹿たれ。そうなれば俺たち漁師はどうなるんだ?」

「それはダメだよー」

「だから絶対にこんな計画は中止に追い込まなきゃいけないんだ」

「幸い村長は慎重派だから計画に賛同はしてないし、これからもしないだろう。 しかし副村長の宜保が村議会の連中に賛成に回るように根回ししているって噂だ」

「こりゃあ なんとかしなきゃいけねぇな」

全員がうなずいた。


弱い風が吹きキャンドルの炎が揺れ辺りを照らす光が揺らいだ。
諒太がキャンドルの炎を虚ろな目で見続けていると砂を踏みしめる足音が背後から聞こえた。
チーリンの姿がキャンドルのオレンジ色の灯りに照らされてぼんやりと浮かび上がった。

「なんだ…あんたか…
どうしてここが?…」

「竜男さんに聞きました…多分ここにいるんじゃないかって…

今日…娘さんの誕生日なんですってね?」

「ああ…生きていればランドセル背負って小学校に通っているんだぜ…
信じられるか…?
あの震災の年…よちよち歩いていた子供がだぜ…
俺の中では今でも娘の愛は小さな子供のままで歳をとらないんだ…
妻の絵美もそうだ…
俺ばかり無為に歳をとるのに…」
諒太は寂しそうな顔をしてキャンドルの炎に目を移した。

「震災の時、奥さんは何歳だったのですか?」

「25だ…いま生きていれば33か…」

(私と同い年…)
チーリンは深い同情の念を覚えた。

チーリンは諒太の横に座った。
「もしかして真田さんは奥さんと娘さんが亡くなったと今でも思ってないんじゃ?…」

諒太はうなずいた。
「遺体も見つからないんじゃ 俺はどこで諦めたらいいんだ?」

諒太は砂を握りしめた。

「俺だって頭ではわかっているんだ。 もう二人は戻ってこないって…
もう二度と会えないってことは…

あの夜…俺は薄れる意識の中で瓦礫が浮かぶ水に一人漂いながらふと目を開けたんだ…
そしたら…
そしたら…
空には今夜と同じような満天の星が輝いていたよ…
まるで何事も無かったように…
悲しいくらい懸命に光り輝いて…
あんな事があったのに…
美しい…何故かそう思った…
涙が出て止まらなかった…
その夜のことは今でも鮮明に覚えている…
後になってきっとそれは犠牲になった人たちが星になったんだって言った人がいたけど、俺にはそうは思えなかった。
妻と娘は必ず戻ってくる…
そう信じた…
そう信じたかった…
今でも近くに二人がいるような気がしてならないんだ…」
諒太の瞳に涙が浮いた。

「今日…7月7日 日本は七夕なんですよね?
一年に一度だけ彦星と織姫が再開できる日…
素敵ですね…」

諒太は顔を上げチーリンの顔を見た。

「旧暦ですけど台湾の七夕の日は恋人の日として男性が女性に贈り物をして愛を告白する日なんですよ」

「フッ…台湾の男は大変だな。バレンタインに七夕にクリスマスに誕生日か…それだけで破産しそうだ」
諒太は苦笑した。

「ええ…ホントですね」
チーリンも微笑んだ。

チーリンは諒太の傍に置いてあった残っている瓶ビールを勝手に手に取るとそのまま飲みはじめた。

「おい、それ俺の…」
慌てる諒太を尻目にチーリンはビールを飲み干した。

「おいしー!」

諒太はチーリンの突拍子のない行動に思わず吹き出した。
チーリンも釣られて笑った。

穏やかな波音だけの夜のしじまが二人を優しく包んでいった…

6 ラムネ瓶の中のガラス玉

6  ラムネ瓶の中のガラス玉

「断る」

「どうして?」

「足手まといだ」

「邪魔はしません!
だから連れていってください」

「あんた一昨日、島を出ていくって言ってたじゃないか?」

「昨夜、海人で皆さんのお話聞いていたらもっとこの島のこと知りたくなったんです。だからお願いします」

「大体…そんな痩せっぽちで何が出来るっていうんだ?」

「私、痩せっぽちじゃありません!
ちゃんとでるところはでています!」
チーリンはそう言うと両手で自慢のD−cupの胸を真ん中に寄せた。

「………」

諒太の冷めた視線に我に返ったチーリンは思わず赤面した。

「それにもし断わったら源さんがただじゃおかないって言ってましたよ!」

「源さんめ…
チェッ…勝手にしろ」


朝から二人は揉めていた。
朝食後、諒太がいつもと違って上下作業服に着替えて工具箱を持って出かけようとしたところをチーリンに捕まったのだ。

口論の末、諒太は面倒臭そうな表情で無言で工具箱やら荷物を持つと家の裏に停めてある車に向かった。車は元々赤色だったと思われるが、色は掠れ朱色にも見える。ところどころ塗装が剥げボディには錆も多く見られた。
諒太のこの車、後ろにDATSUNと白いペイントがされている80年代の国産ピックアップトラックだ。現在は生産はされていないかなりの旧式車で、廃車となり野晒しになっていた車を諒太は島民から譲り受け、自ら修理を施し動けるまでにしたものだった。
諒太は自分の歳と同じくらい年期の入ったこの車に愛着があった。
赤の塗装と現代の車には見られなくなった男っぽいいかついデザインが気に入ったからだ。

諒太は工具箱を後ろの荷台に置いて運転席に座った。
チーリンは外から珍しいものでも見るかのように車をジロジロ見ている。

「何だ? 乗らないのか?」

「いえ…」
チーリンはあまりの車の古さに絶句した。
皮が破れスポンジが露出している助手席のシートに乗り込んだ。

フン…
諒太はさもつまらなそうにエンジンをかけると車を出した。

「キャー!」
途端にチーリンが悲鳴をあげた。

「何だ⁈ うるさいな!」

「だって!この車どうしてこんなに揺れるのよ!」

車は少しの段差でも暴れ牛のように上下に揺れた。少しでも油断したら頭を天井に打つけるだろう。

「サスペンションが逝かれてるんだよ!」

「なんで直さないのよ!」

「部品が手に入らないんだからしょうがないだろ!」

さながら音のうるさいアトラクションの乗物に乗っているかのようだった。
普段静粛で乗り心地の良いドイツ製の高級車に乗っているチーリンだけにこんなポンコツが走ること自体信じられなかった。
走っている途中で分解してしまうのではないかとヒヤヒヤしたが、そんなこともなく車は大きな音を軋ませながら諒太の目指す目的地に着いた。

「ちょっと頼んでおいた工具買ってくるから待ってな」
チーリンに言い残して諒太は店の中に入っていった。

建物の看板には「呉屋工務店」とあった。
ここは島で唯一の工務店で電気工事、水道工事、建築、土木、木の伐木、屋根の修理と何でも出来ることはやるというのがモットーの店であった。
主人の 呉屋 亜久里と妻のとし子のたった二人だけの小さな工務店で、主人の亜久里は当主となって4代目となる。石垣島の工業高校に通う三年生の息子が来年島に戻って店を手伝ってくれることが夫婦の一番の楽しみであった。
45歳の亜久里はスキンヘッドにあご髭といかつい風貌であったが、笑うと笑顔がかわいい気持ちの優しい男で、島一番の大食漢であった。
43歳のとし子も主人同様大食漢でこの二人の肉好きは島でも有名であった。故に横に大きな二人であった。
以前、諒太はこの家の食事に招かれたことがあるが、量が多すぎて気持ちが悪くなったことがあった。

諒太が美波間島にやってきたとき、亜久里は竜男から諒太が電気にめっぽう強いと聞き、電気工事を手伝ってもらったのが最初の出会いであった。
諒太も電気関係のみならず亜久里の大工仕事を手伝っているうちにその面白さにハマってしまい、持ち前の手先の器用さでめきめき技能をつけていった。
工務店が忙しい時などは電気工事を手伝いではなく諒太個人に仕事を発注することもあった。
諒太も大学在学中に様々な工学系の資格を取っていたことがここにきて活かされた。

村の公共事業も通常は入札による企業選定となるが、そもそも競争相手がいない美波間村では自動的に呉屋工務店に随意契約となる。
しかし、たった二人だけの店では公共工事でやれる事はたかが知れている。
役場や学校、公園の補修工事や台風通過後の折れた木の伐木、穴の空いた道の補修などあくまで簡易な仕事に限られた。それらの仕事も諒太が代行することがままあった。

「お!真田ちゃん 」
店の奥から主人の亜久里がにこにこ目を細めて出てきた。

「注文受けていた20m3芯VVFケーブルに圧着スリープ届いているよ」

「ありがとう呉屋さん」

「分校かい?」

「うん、そうだよ」

「あら!真田ちゃん 久しぶり!」
声を聞きつけて奥から妻のとし子が口に何か頬張りながら出てきた」

「ちゃんと食べてるの〜 真田ちゃん?男一人なんだからしっかりお肉も食べなさいよ!」
丸い顔と丸い体をしてとし子は豪快に笑った。

「あの女の人は?」
店の外に置いてある亜久里が仕事の片手間に趣味で作製した箪笥やベンチ、子供アニメのキャラクター像などの木工品を食い入るようにチーリンは見ていた。

「あ…うん…なんというか…」
諒太は答えに困った。

「まさか真田ちゃんの彼女かい?」
亜久里はにやけながら小指を立てて聞いた。

「違う違う、観光だ…うん、観光客だ。 ついでに島を案内しているだけだよ…」
半分は合っているが…亜久里は納得した様子はなかった。

「またまた〜真田ちゃんも隅に置けないねぇ〜。
いやぁ…彼女美人だな〜」

亜久里は鼻の下を伸ばしてガラス戸の外のチーリンに見惚れていた。
いきなりパチンと音がしたと思ったらとし子が亜久里の剥げ頭を叩いた音だった。

「馬鹿言ってんじゃないよ!このハゲは!」

「痛ってえな! このブスが!」

この夫婦のいつもの光景なのだが、諒太は夫婦喧嘩が始まる雰囲気を感じとると代金を払い、物を受け取ると急いで店を退出した。


「買い物は済んだのですか?」
何も知らないチーリンが聞いた。

「あ、ああ… 早くここを出よう」
諒太は顔を強張らせながら車に乗り込みエンジンをかけると勢いよくアクセルを踏み込んだ。

次に諒太は分校へ向かった。
与那国小学校 美波間分校の歴史は古く、50年以上前に造られた木造校舎を改修し今も使用している。
昔はそれなりに児童数がいたが、今では全学年で三人しかいない。
教師も若い男女の二人だけである。
本島から移り、島に住み込みながら教鞭をとっていた。
校舎、校庭ともいまでは児童の数に対して広過ぎる感があった。
この分校の保健室を使って月に一度与那国島から医師が往診にやってくる。

分校に到着した諒太は購入したケーブルを肩にかけ工具類を持って車を離れ校舎に向かって歩き出した。
チーリンも諒太の後に続いた。

「おねーちゃーん!」

窓が開いている教室の中から元気の良い声が聞こえた。
唯が手を振っていた。

「真田さーん!」
「おじちゃーん!」

もう二人子供が手を振って叫んでいる。
男の子は見た目で黒人の血が入っているハーフだとわかる。
小学校6年生で分校で一番年長の
津嘉山 アントニーだ。
もう一人の女の子は金城浩司の娘
金城 真奈美 小学校一年生だ。

「まったく…あいつら授業中だろうに…」
諒太は口ではボヤいたが頰が緩んでいた。子供たちに手を振り返した。
チーリンも一緒に手を振って応えた。

校舎から一人の女性が出てきた。
女性は髪をポニーテールに纏め清楚な感じの色白で綺麗な女性だった。
チーリンには20代半ばくらいに見える。

「真田さんすみません。 子供たち元気が良いもので…それにわざわざ来ていただいてありがとうございます」
女性は諒太に笑顔を見せると丁寧にお辞儀をした。

「そんなこと良いんですよ島袋先生」

「あの…そちらの方がチーリンさんですね。 唯ちゃんから話は聞いてますよ」

「私、この分校で教師をしております 島袋 千夏と申します。
いつも真田さんにはお世話になっております。
どうぞよろしくお願いします」

チーリンに対しても深々とお辞儀をした。

「私は蔡志玲です。 こちらこそよろしくお願いします」

チーリンはもしかしてこの女性が諒太の彼女で朝帰りの相手なのではないかと勘ぐった。

「私じゃ工事のことわかりませんので又吉先生に代わりますね」

女性の島袋先生と入れ替わり男性の若い先生が現れた。

歳も島袋先生とあまり変わりなさそうで優しい表情をした真面目そうな若者だった。

「真田さんすみません、僕が出来ればいいんですけど電気はさっぱりなもので… 出来ることといったら蛍光灯を交換することくらいで…」
又吉は頭を下げた。

「いや、今回は断線しているんだから素人じゃ無理だよ」

諒太は優しく答えた。
電気の不具合の連絡を又吉から受け一度諒太は現場の下見に来ている。
しかし、諒太の器材の在庫では対応出来なかったため、呉屋工務店で発注していた部材を受取りようやく今日の工事となった。

「あ、僕 、又吉翔と申します」
又吉は爽やかにチーリンと挨拶を交わした。

「じゃあ早速取り掛かるよ」
諒太はそういうと校舎の中へ入っていった。
チーリンも慌てて諒太についていった。

諒太はタオルを頭に巻くと工具類が付いたベルトを腰に巻き脚立に上って天井の点検口から上半身を天井に潜りこませた。
その姿を見てチーリンは諒太の言う通り自分に出来ることは何もないと痛感した。

その時、諒太の咳払いが聞こえた。
「あ、あの、えー チーリンさん…圧着スリープを取ってもらえるかな?さっき呉屋工務店で購入した箱に入っている筒状のやつ。三つほど…」

天井の裏から諒太の明らかに動揺したうわずった声が聞こえた。

「初めて『あんた』じゃなく名前で呼んでくれましたね?」

「そう…だった…かな?」

「そうです。今初めてです」

偏屈な諒太も人にものを頼む時にさすがにあんたとは呼べなかったようだ。

「これからはその呼び方で通してくださいね」

暫く無言だった諒太であったが、

「…わかった」

と返ってきた。

いまどんな顔してるんだろう?
チーリンは微笑みながら箱から部材を取り出した。

「はいどうぞ」

上半身が天井裏にある諒太は右手だけ下に出した。
チーリンから部材を受け取ろうとした時、宙を彷徨った諒太の右手は誤ってチーリンの手を掴んでしまった。

「…すまん」

諒太は素直に謝った。

(別に謝らなくていいのに…)
チーリンは諒太の差し出された手のひらに部材を手渡した。
握られたごつごつした諒太の掌の感触がチーリンの右手に残った。

諒太の手際の良い作業で断線していた配線は繫り、問題なく照明が点灯するようになった。
以前の職場では開発室に籠り、パソコンを前に一日の大半を過ごしてきた諒太だけに埃にまみれ、汗を掻くこの様な仕事は場違いなものであったが、自分のかいた汗で結果がすぐ出るこの仕事はなんとも清々しくやりがいがあった。
諒太とチーリンは作業終了の報告をするため職員室に向かった。
休み時間中とみえて子供達は大きな声をだして伸び伸びと校庭で遊んでいる。

「真田さん助かりました。どうもありがとうございます」
又吉先生は律儀に頭を下げた。

「これで問題ないはずだよ。じゃあ俺たちはこれで」

「あ、真田さんちょっと待ってください! 少しお話しがあります。いまお茶いれますのでそちらに掛けて待ってもらっていいですか…」

話とはなんだろうと思いながら諒太とチーリンはソファーに座った。
暫くして島袋先生が甲斐甲斐しく冷たいお茶を持って現れた。
その後を又吉先生が緊張した面持ちで続くと二人並んでソファーに腰掛けた。
二人は一瞬目を合わせると照れた様に顔を赤くして下を向いた。
諒太には何のことやらわからず又吉の言葉を待った。

「実は…僕たち結婚することになりました…
それをまず真田さんに報告したいと思いまして…」
又吉は顔を赤くして照れながら言った。

「そうか!おめでとう!俺は君たちが付き合っているなんて全然気がつかなかったよ」
諒太は興奮ぎみに答えた。

「ありがとうございます。僕たちお互い教師としてここ美波間島で出会って子供達と過ごすうちにとてもかけがえのない時間を得ることができました」

又吉と島袋はお互いを見合うと照れるようにうなずいた。

「私たちはまだ教師になって日が浅くてまだまだ未熟者ですけど、この島に来て本当に良かったと思っているんです。何故なら私たちの目指す血の通った教育がここではできるからなんです。子供達もみな良い子ばかりですし、一人一人顔を合わせて授業ができる…
こんな素晴らしいことは他の大きな学校ではないと思うんです。
又吉先生と一緒にここで教鞭をとるうちにこのまま美波間島で教師を続けられたらどんなにいいだろうと思えるようになったんです」

「出来ることならこの先もずっと美波間島に残りたい…
それが僕たちの素直な気持ちです」

「そうか…それを聞いたらあの子たちも喜ぶに違いないね」

又吉先生も島袋先生も諒太と同様、美波間島の出身ではない。
諒太にとってもこの若い二人が島を愛してこのような決断をしてくれたことはなにより嬉しいことだった。
諒太は感慨深げに口元を緩ませた。

「また島の皆さんには追って報告したいと思います。まずは真田さんにお話ししてからと二人で話しあって思いまして…」

「そうか、ありがとう」

「学校の夏休みを利用して僕の故郷の名護市で結婚式を挙げる予定なんです。近く美波間島でお世話になっている方々をお招きして海人でささやかな披露宴をしたいと考えているんですが真田さん、来ていただけますか?」

「ああ、喜んで」
諒太は微笑んだ。

「もしよろしければチーリンさんも御一緒に?」
島袋はチーリンに顔を向けた。

「えっ…? 私なんかが行っても構わないのですか?」

「もちろんですよ! チーリンさん
是非来てください」
又吉、島袋とも喜びを隠せなかった。

諒太とチーリンは幸福に浸る若い二人の学び舎を後にした。
(島袋さん真田さんの彼女じゃなかったんだ…)
チーリンの予想は外れた。

車に乗り込むと諒太はチーリンに話しかけた。

「あんた…

チーリンは屹と諒太を睨みつけた。

諒太は慌てて発言を訂正した。
「あ、いや、チーリンさん…
また島を出る機会を逸してしまったな」

「別にいいんです。結婚が決まったあの幸せそうな二人の顔を見ていたら私もなんだか嬉しくなったんです」

「そう…
ところで君自身結婚は?」

「そんなプライベートなことは話したくありません」
チーリンはムスっとした表情で答えた。

「なるほど…」

諒太もさほど興味があって聞いたことではないのでそれ以上追求しなかった。
暫く車を走らせていると開いた窓の外の景色を見ていたチーリンが唐突に口を開いた。

「さっきの質問ですけど、私は結婚していません。したこともありません。相手がいませんから!」

「そう…」

またお得意の嫌みでも言われるのかと思ったのに諒太の返事は素っ気ないものだった。
チーリンはむしろまだ罵られたほうが気が楽だと思った。

車内に沈黙が続いた。

「私! 恋人に振られたんです!」

チーリンはヤケになって声を荒げた。

「そんなに大きな声出さなくても聞こえているよ」

諒太の軽はずみな質問でチーリンは恋人のジュリーに振られた夜のことを思い出さずにはいられなかったのだ。
あのまま順調に愛を育んでいけたのなら私だって結婚していたのかもしれないのに…
そう思うとチーリンは益々イライラした。
(どうして今日に限っていつもみたいに罵らないのよ!
それにこういう時、普通男ならひとこと優しい言葉の一つもかけるものでしょう⁈)
チーリンは心の中でそう思いながら運転する諒太の横顔を見た。

諒太はそんな話にはまるで興味がなさそうにサトウキビ畑が続く直線の一本道を運転しながらぼんやりと流れる景色を横目に見ながら運転を続けている。

(何で無反応なのよ!
ホント女心がわからないんだから!
よくそんなんで結婚できたわね!)
チーリンは頰を膨らませた。


車は周囲が緑の草原の道を進んだ。
遠くには青い海が見える。
牛がのんびりと草を食んでいるのがチーリンの目に入ってきた。

「ここは?」

「津嘉山さんの牧場だ。今やブランド肉牛の与那国牛という種類の牛を飼育している」

諒太は車を停めると遠慮もなく厩舎の中へ入っていった。
チーリンも後に続いた。

「津嘉山さーん!」
諒太は広い厩舎の中で声をかけた。

「おお、真田君こっちこっち!」
奥の方で返事が返ってきた。
青いキャップを被り、青いつなぎを着た背の高い老紳士が手招きをしているのが見えた。
津嘉山 正雄は髪も口髭も白くなっていたが、歳を重ねてもガッチリした体をしており、その端整な顔つきは若い頃は相当モテたのではないかと推測できた。
現在奥さんと一緒に牧場を経営しており、分校に通う津嘉山アントニーの伯父にあたる。

「津嘉山です。貴方のことは唯ちゃんを通してアントニーから伺ってますよ」
津嘉山は帽子をとりニコっと笑うと右手を差し出した。

「初めまして 蔡 志玲です」
チーリンは津嘉山と握手を交わした。

「津嘉山さん、あの子その後元気ですか?」

「ああ、元気だよ真田君。こっちにいるから来てごらん」
そこには母牛の母乳を一生懸命に吸う小さな子牛がいた。

「名前はハナにしたよ。女の子っぽい名前を色々考えたんだけど中々難しくてね…」
津嘉山はハナを見ながら嬉しそうに言った。

「かわいい…」
チーリンは産まれたばかりの子牛を見るのは初めてだった。

「この間、真田君に徹夜してもらって一緒に取り上げた子牛なんですよ。
いつも真田君には手伝ってもらってばかりで何もお返しが出来ない」

「やめてください津嘉山さん。俺はそんなつもりで来てるわけじゃないんですから」

(真田さんが朝帰りしたのってこの子牛のためだったんだ…)
チーリンは大きな勘違いをしていたことに気づいた。

「ハナの寝床の掃除していきますよ」

「いつもすまないね。真田君」
津嘉山は申し訳なさそうに言った。

「私にも手伝わせてください」

「チーリンさん、これはかなり重労働の仕事だよ」
津嘉山は非力そうに見えるチーリンを心配した。

「大丈夫です。私、見た目以上に力ありますから」

諒太は何も言わなかった。
途中で根を上げたら源さんが何を言おうとチーリンを二度と連れて行かないと決めていた。

チーリンは長靴、軍手を借り、ビニル製の丈夫な作業用エプロンを身につけ長い髪を一つに束ねた。

「俺は外から乾草を運んでくるから中の汚れた草をこれを使って一輪車に積んでくれないか」
諒太は牧草をすくう作業フォークをチーリンに手渡した。

「わかりました」
早速チーリンは作業を開始した。
しかし、簡単に思えたこの作業も湿った草は思いのほか重く中々捗らなかった。
そうしている間に何往復もする諒太の運ぶ乾草はどんどん溜まっていった。
汗だくになりながらもチーリンは手を休めなかった。
次第に腕がぱんぱんになっていった。
女優の仕事ではこんなに長い時間 力を使うことなど経験したことなどないことだった。

「終わりました!」
ようやくチーリンは作業が終わったと思い晴れやかに声を出した。

「何言ってんの?まだ終わりじゃないよ。次にそこのホースで水を撒いて床のブラッシング」
チーリンは諒太にフォークを取り上げられ代わりにデッキブラシを渡された。

「もっと腰入れてやらないと汚れが取れないよ」
同時に作業する諒太のブラッシングの音はチーリンものとは明らかに音が違った。

「はい…」
さすがにチーリンはバテてきた。
諒太は横目でチーリンの作業を見ていた。もう根を上げるころだろうと思っていたが、チーリンは歯を食いしばり諦めなかった。
諒太同様こめかみや首すじには汗が流れていた。

(ほう…あの細腕で頑張るじゃないか)
諒太は予想外のチーリンの頑張りに感心した。
最後に乾草を敷き詰めてハナの厩舎の清掃作業は終了した。
他の場所で作業していた津嘉山が近寄るとチーリンを労った。

「よく頑張ったね。女性には大変だと思ったんだけど貴方根性あるわ」

「そんな…」
チーリンは汗を拭いながら照れた。

「真田君今日も乗っていくかい?」

「いいんですか?」
諒太は目を輝かせた。

「勿論だとも。ハヤテも真田君を待っていると思うよ」
津嘉山は悪戯っぽく笑った。

(乗る?なんのことかしら?)
チーリンにはなんのことやらわからなかった。

別の厩舎に入るとチーリンは言葉の意味が理解出来た。
毛足の長い鹿毛色の馬が何頭もいたからだ。
見た目はサラブレッドより小柄で優しい顔をしている。

「チーリンさんこの馬は与那国馬と呼ばれているんですよ。日本原産で天然記念物に指定されています。
水を怖がらないので海も平気で入っていきますよ」
津嘉山は馬の顔を撫りながらチーリンに説明した。

「こいつが真田君お気に入りの雄馬のハヤテ。隣が牝馬のナミ」

「私も乗馬させてもらえませんか?」

「え?」
津嘉山と諒太は驚いて同時にチーリンの顔を見た。

実はチーリン、大の馬好きでプライベートではサラブレッドに乗馬することを一番の趣味としている。
数年前には落馬事故を起こし三カ月も入院生活を送った過去があるが、そのことは口に出さなかった。
サラブレッドより小柄な馬なら問題なく乗りこなす自信があった。

「日頃馬には乗っているので大丈夫です!」

津嘉山は顔を曇らせた。
津嘉山の育てる与那国馬は食用でも農耕馬でもましてや競走馬でもない。
隣の与那国島では観光客相手に観光牧場のスタッフが手綱を引いて島を観光するケースがあるが、津嘉山は希少な与那国馬を繁殖目的で飼育しているに過ぎず、馬も人を背に乗せることには慣れていない。
いくら大人しく人懐こい与那国馬とはいえ単独走は何が起こるかわからなかった。
故に女性であるチーリンの乗馬には津嘉山も心配だった。

「お願いします」
チーリンは懇願した。

うーん
津嘉山は腕を組んだ。

「津嘉山さん…俺からもお願いします」

(真田さん…)
チーリンは諒太の顔を見た。
諒太は至って真剣な顔だった。

「まぁ…真田君がそういうなら…」
津嘉山は諒太の頼みに折れた。

諒太は礼を言うと早速ハヤテの手綱を引いて厩舎の外に引っ張っていった。
チーリンも津嘉山に随伴されて牝馬のナミを引き出した。
諒太は慣れたもので颯爽とハヤテに跨った。
チーリンも津嘉山に手綱を持ってもらいナミに跨った。
しかし、鞍をつけていない裸馬に乗馬するのは初めての経験で、通常は鐙に足を乗せるものだが、それもないので踏ん張りが効かず、手綱だけで馬を乗りこなすのは大変に難しいものだった。
ナミは同じ場所でクルクル回ってしまいチーリンの思い通りに動かなかった。 乗馬というものは手先の技術より、まず馬との呼吸が合わないと乗りこなすことは出来ない。

「ナミ、落ち着いて、大丈夫よ」
チーリンはナミの首を撫りながら優しく声をかけた。
するとナミはたちまち魔法にでもかかったように大人しくなった。
諒太はそれを見ると一気に駆け出した。
チーリンも諒太を追いかけた。

「できるねぇ…」
津嘉山はチーリンの手綱さばきに感心した。

起伏にとんだ広大な緑の草原を二人は疾走した。
軽快に走る馬の蹄の音と風をきる音が全身を包み込んでいく。
作業でかいた汗に正面から疾風が爽快にあたった。

「気持ちいい…」

チーリンは思わず声にしていた。
それは今までの乗馬場での乗馬では味わったことのない爽快感だった。
諒太の乗るハヤテはもう目の前にいる。
チーリンは更にスピードをつけて諒太に並走した。
丘陵を一気に駆け上がり頂上に辿りつくと目の前には真っ青な大きな海が広がっていた。
そのまま丘を下ると柵も何もない断崖絶壁の縁に出た。
ナミも当然承知しているようでギリギリのところで止まると諒太の乗るハヤテの横に並んだ。

目の前には群青に染まる海が水平線まで果てしなく広がっている。
海風がハヤテとナミのタテガミをたなびかせた。
二人はその自然が創り出した圧倒的な景色に言葉を失った。
どれだけそうしていただろう…
諒太が突然声を出した。

「このじゃじゃ馬め…」

「えっ?… とても大人しい馬でしたよ」
チーリンは諒太の言葉の意味がわからなかった。

「君のことだよ!」
諒太は口元に笑みを浮かべると手綱を返し来た方に向かって走り出した。

「ひどーい!」
チーリンは口を尖らせて諒太を追いかけた。
しかしその顔は和かなものだった。

二人は厩舎に馬を帰すと津嘉山に家に呼ばれた。

「チーリンさん馬どうでした?」

「ありがとうございました。とても気持ちよく走る事が出来ました」

「それは良かった。またおいでなさい」
津嘉山は笑みを浮かべた。

「アントニーも来年は中学生だから島を離れてしまう。いまあの子が牧場の仕事を手伝ってくれているからだいぶ助かっているんだが、来年からは少し牛の数も減らさなきゃと思っているんだよ。僕らももう年だしね」
津嘉山は残念そうに肩を落とした。

「そうですか…
そう言えばこの前話していた住込みのアルバイトの件はどうなったんです?」

「北大の獣医学部から中国人の留学生二人が夏休みを利用して僅かの間だけど来てくれることが決まったよ」

「北海道ですか? そんな遠方からわざわざ美波間に?」

「なんでも卒業論文に与那国牛を研究材料にするんだそうだ。
あ、そうそう、真田君に持っていってもらいたいものがあるんだ」

津嘉山は一度席を離れると10キロはありそうな真空パックに入れられた冷凍の肉の塊を持ってきた。

「何だかわかるかね?」

「これは?」
諒太には牛肉の塊ということしか答えが出なかった。

「真田君が島にやってきて初めて子牛を取り上げるのを手伝ってもらったときのこと覚えている?」

「まさか⁈」

「そう、あの時のサクラだよ。加工場からお里帰りしてきたんだよ」

お里帰りとは生産者にも品質を確認してもらうため肉として一部が帰ってくることである。

「あのサクラが… 帰ってきたんですね…」
諒太は感慨深げに肉の塊を見つめた。

「是非真田君にも食べてもらいたくてね」

「はい、有り難く頂きます」
諒太は頭を下げた。


暫くして諒太とチーリンは津嘉山の牧場を後にした。

「今晩はこの肉を解凍してステーキを焼いてやるから」

「あ、あの…このお肉ってさっき見た子牛のハナのように以前真田さんが出産を手伝った牛なんですよね…?」

「ああ、そうだよ」

「なんか…それを食べるのって…ちょっとかわいそうな気がして…」

「君は何を言っているんだ?
津嘉山さんはペットを飼っているわけじゃないんだぜ」

「それはそうなんですけど…
ハナのあのかわいい姿を見ると…」
チーリンは目を伏せた。

「気持ちはわかるが、これが自然の循環なんだ。今、殆どの人はスーパーでパックされた肉しか目にしないだろし、こういうことを目の当たりにすると残酷だと言う人もいる。
だけど、人の口に入るものはこうやってうまれているってことなんだよ。
いずれあの子牛のハナも大きくなったら人の口に入ることになる。
だから俺たちは他者の尊い生命を頂いて生かされているってことを忘れちゃいけないんだ。
ちゃんと美味しく食べてあげることが罪深い人間の責任なんだと俺は思う…」

「はい…」
チーリンは日頃考えもしなかった命を継なぐということに正面から向き合うことが出来た日になった。

「それから…私が乗馬できるように頼んで下さってありがとうございました…」

「ああ…君の目を見てわかったよ…
本当に馬が好きなんだなって。
あの人馬一体になった時の風をきる疾走感はやった者にしかわからないからな。
あの感覚俺は好きなんだ。 与那国馬良かっただろ?」

「はい!」
まさにチーリンの乗馬好きの理由が諒太の言葉に有った。

「少し遅くなったけど、国吉商店で昼飯を買おう。米や日用品も買いたいしな」

国吉商店は美波間島に一軒しかない個人経営のスーパーで、生鮮食品から飲料、菓子、酒、煙草、日用品、雑貨、新聞、雑誌、簡易な薬まで量は少ないがありとあらゆるものが販売されていた。
ただ、個人経営のため夜7時には閉まってしまう。
15年前に夫を亡くし未亡人となった69歳の国吉 節子が店を切り盛りしながら義母の102歳になる 国吉 絹 の面倒も同時にみていた。
国吉商店は美波間島のオアシスのような場所であり、スーパーとはいっても街のそれとは違い華やかさはないし、店も小さく、街の一般的なコンビニよりも狭い。しかし、ここが無くなってしまうとフェリーを使って隣の与那国島まで買い出しに行かなければなくなるため、島民にとってここはどうしても無くなっては困る店なのだ。

諒太は国吉商店の脇に車を停め、チーリンと一緒に店の中に入った。
装飾もPOPも商品へのライトアップも何もない蛍光灯が灯るだけの殺風景な店内には所狭しと棚に商品が並べられていた。
中には何年も売れ残っていそうな日用品まである。
客の入店を報せる電子的なベルが鳴ると奥から店主の国吉節子が顔を出した。

「あら、真田さんお久しぶり!」

「節子さんご無沙汰してます」
諒太は頭を下げて挨拶した。
節子は諒太の後ろのチーリンに気づいた。

「きゃー!チーリンさん!
昨日千鶴さんが買い物に来てあなたのこと聞いていたのよ!
私、前にDVDであなたの出演した映画観たことあるのよー!
本人に会えるなんて嘘みたい!
映画より本物はさらに綺麗ね〜
握手してもらえますか?」

「ありがとうございます。
よろしくお願いします」

節子は大女優のチーリンと会えたことに感激して握手を交わした。

「絹さんの具合はどう?」
諒太は心配そうに節子に聞いた。

「オバーも最期くらいはよその病院のベッドの上じゃなくて生まれ育った島でってきかなくて…
本当は入院治療しなくちゃいけないんだけど…オバーの気持ちも考えるとね…」

絹オバーは諒太が島に来たばかりの頃にはまだ店に立っていた。
いつも店の前に椅子を置いて皺だらけの顔をくしゃくしゃにして客を笑顔で迎えていた。
オバーにとって国吉商店こそが生き甲斐であり、来店する島民と話をすることが何よりの楽しみであった。
しかし今は高齢のため、もうそれも叶わず家の中で寝たきりになっている。
諒太も買い物にここを訪れると絹オバーから島の昔話を聞くことが楽しみで、オバーも諒太のことを孫と同じように接していた。

「そう…絹さんがそんなことを…」

(絹さんはすでに覚悟しているのか…)
諒太は寂しさのあまり唇を噛んだ。

「で、真田さん今日は何を買いに?」
節子は明るく話を変えた。

「あ、米と洗剤を…それと昼飯」

「あら、お昼まだなの?お腹すいたでしょうに。
まだおにぎりくらいなら残っているわよ」

「チーリンさん、節子さんの作るおにぎりやお弁当は絶品なんだよ」

「いやだぁ 真田さんたら〜
そんなにおだてないで!」
節子は諒太の腕を何度も叩いた。

諒太はそのほか何点か買出しを済ますと店を後にした。暫く車を走らせ高台にある展望台のベンチに向かった。展望台からはよく海が見える。

「この展望台からは条件が良ければ君の故郷の台湾の陸地が見えるんだ。俺も何度か見たことがある」

(そんなに近いんだ…)
チーリンは今日は靄で見ることの出来ない海の彼方の台湾のある水平線を見つめた。

諒太はペットボトルの冷たいお茶とソフトボールくらいはありそうな大きなおにぎりを袋から出しチーリンに差し出した。

「節子さんの作るおにぎりは汗をかく仕事の多い島の人のために少しだけ塩が多く振ってあるんだ。
しかもミネラルたっぷりの石垣島の天然塩だ。
今日はいっぱい汗をかいたから美味いと思うよ」

チーリンはおにぎりを頬張った。
諒太の言う通り絶妙の塩加減で体力を使った後には最高の食事であった。
普通なら女性には大きすぎるサイズだが、良い汗をかいてお腹が減っていたチーリンはペロリと完食した。

「あと、これ。 俺好きなんだ」
諒太は袋からラムネの瓶を取り出した。

「汽水ですね?」

「汽水? ラムネのこと台湾では汽水って言うの?」

「私はまだ飲んだことないんですけど、台湾の温泉地に売っているみたいですよ。もしかしたら日本から入ってきたのかも…」

「ふぅーん。台湾にもラムネがあるんだね…」

諒太はラムネの蓋を押し下げガラス玉を落とすとチーリンに手渡した。
そして二人は一気に冷えたラムネを飲み干した。
空にはカンムリワシが悠々と飛んでいる。

「私…この島に来たのは観光なんかじゃないんです…
台湾を離れたのには理由があるんです…」
チーリンはまだ諒太には話していなかった自らの置かれた状況をありのまま話した。

諒太は遠い海を見ながらチーリンの話を何も言わずに聞いていた。
チーリンがすべての話を終えても諒太はまだ海を見つめ続けていた。
結局諒太はチーリンの話を聞いてもなんの反応も示すことはなかった。

諒太はおもむろに空のラムネ瓶を手に取ると横に振った。

チリン チリン

瓶の中のガラス玉が高い音を立てて鳴った。

「昔はこのラムネの瓶はこんなチャチなプラスチックじゃなくて緑色をしたしっかりしたガラス瓶で出来ていたんだ。どこででも買えるものではなくて、ラムネはお祭りの屋台か近所の駄菓子屋にしか売ってなかった」

諒太は再び瓶を振ってガラス玉を鳴らした。
チーリンは諒太が一体何を言い出すのかと訝った。

「子供の頃、俺はこの瓶の中のガラス玉がどうしても欲しくてね。逆さにして振ってみたり、思い切り吸ってみたり、棒を突っ込んでみたり…
でも結局取り出すことが出来なかった。
ある時ふと思ったんだ。このガラス玉は何のためにあるのだろう?って。
単に蓋の役目なのか? 飲む時に中のソーダ水が出過ぎないように調整するものなのか?
良い音を出して清涼感を演出するものなのか?
もし、良い音を出すことが目的ならガラス玉はラムネ瓶のこの狭い空間の中だからこそ活きるんだよな…
はたしてラムネ瓶の中のガラス玉は外の世界に出たいのだろうか?とふと思ったんだ。

考えたけど俺にはガラス玉の気持ちが解らなかった…

当時、駄菓子屋でラムネを買うとラムネはその場で飲むもので瓶は店に返すのが暗黙のルールだった。
俺はラムネを飲み干すと店裏に行って隠れて石で瓶を叩き割った。
瓶の中から取り出したガラス玉を手にとってみると何のことはない只のビー玉だったよ。
でも…俺にはそのガラス玉が宝石のように貴重なものに思えた。
瓶の外に出たガラス玉はもうあの良い音は出さなくなってしまったけど、俺はしっかりとこの手にガラス玉を握りしめたことを覚えている…

だけど、瓶を割ったことを駄菓子屋のおばちゃんにバレてひどく叱られたよ。 危ないだろ!って…
それに懲りて俺は二度と瓶を割ったりしなかったな…
その一つきりのガラス玉が俺の宝物になったんだ。
いまでも持ってんだそれ…」

諒太は小銭入れの財布から小さなチャック付きのビニール袋に入った透明なガラス玉を取り出した。
長い年月によりガラスは曇り、当時の輝きは失われていたが、諒太は肌身離さず大切に持ち歩いていた。

「ラムネを飲むたび俺はその日のことを思い出すんだ…」

諒太は手のひらの上のガラス玉を見つめると薄く微笑んだ。

海から展望台に一筋の風が吹き抜けていった…

7 イーハトーヴの耀き

7  イーハトーヴの耀き

この日は海から強い風が吹き、夏というのに肌寒い朝となった。
この美波間島も気圧や海流の変化などの気象条件によって夏でもこのような日があるのだった。
持ってきた荷物に厚手の服が一枚もないチーリンは鳥肌を立てていた。
それを見かねた諒太は自室の押入れの引き出しから紺色のパーカーを持ってくるとチーリンの膝の前あたりに放った。


チーリンはキョトンとしている。

「それやるよ」

「でも…これ真田さんのじゃ?」

「いいんだ、似たようなのあるし。返さなくていいから」

「ありがとうございます…」

チーリンは早速袖を通したが諒太のサイズは華奢なチーリンには少しだけ大きかったようで腕をまくって着る形となった。

「真田さん、私、洗濯物溜まってきちゃったんですけど、洗濯機貸してもらってもいいですか?」

「構わんよ」

「真田さんの洗濯物も一緒に私洗いますよ」

「いいよ俺のは」

「だってついでじゃないですか?」

「いいって、自分でやるから」

「もしかして料理と同じで私なんかじゃ洗濯も出来ないんだろうと思っているんですか?…」
チーリンは悲しそうな顔をしてうつむいた。

「違う!そうじゃないって」
諒太は慌てて弁解した。

「なら私がやります」
チーリンは立ち上がると洗濯機に向かって歩き出した。

(あ!ちょっ、ちょっと…)
諒太は何かを思い出し急いでチーリンの後を追いかけたが時すでに遅し、チーリンは諒太の洗濯物を洗濯機に入れていた。
チーリンの右手にはちょうど諒太のトランクスが持たれていた。

「どうかしたんですか?」
チーリンはケロッとした顔で振り返った。

「い、いや、お願いします…」
顔を赤くして諒太はその場をそそくさと立ち去った。


洗濯機が回っている間、正座をしたチーリンは諒太と向き合った。

「どうした?急に改まって」

「これ…受け取ってください」
チーリンは十枚はあろうかという一万円札をちゃぶ台の上に置いた。

「何の真似だ?」

「私、真田さんにお世話になりっぱなしで… 食費も家賃も入れてないのに真田さんの厚意に甘えてばかりです。 どうかお金受け取ってください」

「いらん」
諒太は金に見向きもしなかった。

「でも…受け取ってもらわないと私…」

「何でも金で解決するやり方は俺は好きじゃない」

「だけど、お金がないと何も出来ないじゃないですか? お金を払う以外でどんなやり方があるというんです?」
チーリンは諒太の言葉の意味がわからず諒太を問い詰めた。

「ひとつ聞きたいが君にとってお金はそんなに大事かい?」

「勿論です! お金が無いと何も買えませんし、生活も出来ません。
私、チャリティー活動もしているんですが、貧しくて不幸な人にお金を寄付して社会貢献だってしているんですよ。
それだってお金がなければ出来ません」

「災害や事故で親を失った子供たち、教育を受けられずに今日の食べ物に事欠く子供たち、働きたくても働くことが出来ない人たち…
世の中には本当に救いの手が必要な人達がいるのは確かだ。
だけど、貧しいから、物を持っていないから不幸だと決めつけるのは金持ちの傲慢なんじゃないのか?
寄付したから正しい事をしたと錯覚しているだけなんじゃないかい?」

「そんなことないです!
喜んでだってもらえてます!」

「喜んでいるのはむしろ金持ちの偽善者の方なんじゃないかな…
手段が目的になってはならないと思うんだ。
義援と施しは似て非なるものだと俺は思う。
君もこの数日この島を見てわかったと思うが、この島には裕福な人間なんてほとんどいない。
逆に物質的には貧しい人が多い。
だけど、君の目には島の人達は不幸に映ったかい?」

「え…それは…」
チーリンは反論できずに下を向いた。

「これは以前、国吉商店の絹さんに聞いたことなんだけど、この美波間島は地理的に遥か昔から交易船の航路上にあるそうなんだ。
だから嵐になると座礁した船が浜に打ち上がる。
島民は昔も変わらず貧しい暮らしをしていたが、自分たちのことよりも困窮した船員たちを必死で助けたそうだ。
この島にはそういう文化が息づいていて困っている人、他所からやってきた人には親切にするということがいまでも伝統的に存在するんだ。
俺もこの島に来たばかりの頃は言ってみれば井戸に落ちかけた子供と同じだった…
でも、島の人たちとの人の絆と島民の清貧であたたかい真心に俺は救われたんだ…
貧しいから不幸だなんてことは決してないんだよ。
お金なんてものは自分の身の丈にあった必要最低限あればそれでいいんだと俺は思う。
もしかして島民から見たら人の繋がりが希薄な金持ちの方が窮屈で不幸に見えるかもな…

かつて美波間島の人たちに救われたように俺も今は島民の一人だ。
困っている人からお金をとって助けるなんてことは絶対にしない。
もし君が俺に恩義を感じるのなら、この先困っている人に対してこの気持ちを受け継いでもらえれば俺はそれだけでいい…
だからこのお金は受け取れない」

(真田さん…)
チーリンは目を潤ませ深く頭を下げた。



ここにひとり真田諒太と真逆の価値観を持つ男がいる…

ー台北東海公司会議室ー

巨大な一枚窓からは台北の街並みを見下ろすことができる。
高層階にあるこの会議室には二十人を超える人間が一堂に会していたが場は水を打ったように静まり返り、ピリピリした緊張感が漂っていた。

「次の報告を行います。先般より案件となっておりました日本電器メーカーTARPの買収後一時的な混乱がみられたものの、結果的に我が社のブランドイメージが上がったことにより堅調な売上げが見込め、電器製造部門は第二四半期中には業績が黒字に転換する見込みです」

「よろしい。次」

「ハッ、リゾート開発部門から報告致します…」
立ち上がった担当部長の声は緊張のあまり上ずっていた。

「美波間島リゾートホテル開発計画の件ですが…依然村長の認可が得られず一部島民の反対もあり…

トン トン トン トン…

机を指で叩く呂威社長である。
会議に出席しているメンバーたちにはその行為の意味がわかっている。
社長はイライラしている…
発言中の担当部長の背中に冷汗が流れた。

「君は僕の経営方針がまだわかっていないようだね?」

「いえ…決してそのようなことは…」
部長は失神しそうな体を必死に持ちこたえた。
顔は汗でびっしょりである。

「計画からもう一年だ。君はその間仕事もせずに只飯を食っていたのかな? 寛大な僕でももう見逃すことは出来ないよ?」

「あ…あ…チャンスを…もう一度だけチャンスをください」
部長は直角になるまで腰を折った。

「よろしい。君に最後のチャンスをやろう。我が社にとって島民がどうなろうと知ったこっちゃない。
どんな手段を使ってもいい。
なんなら実弾(札束)を使ってでも計画を実行するように。これが君の最後の仕事にならない事を祈っているよ。利益をもたらさない社員は只飯を喰らう豚以下だからね」
呂社長は椅子に踏ん反り返ると10歳も年上の部長を蔑んだ。

狐のように釣りあがった細い目をギラつかせた呂社長は椅子から立ち上がると窓から眼下の街を眺めた。
僅か24歳で世界的大手証券会社から独立し、個人でファンドを立ち上げ、中国大陸との太いパイプを背景に投資家から資金を集め、豊富な資金で目を付けた企業にTOB(敵対的株式買付け)を仕掛け、過半数の株式を手に入れるやり口で様々な業種の企業を傘下に収めた。その後大掛かりなリストラを断行し経常利益を貪り、利用価値がなくなった企業は簡単に解体して売却した。性格は良く言えば超合理主義者、悪く言えば血も涙もない冷血な男で、自分に歯向った者に対してはたとえ会社を辞めようと徹底的に追い詰め二度と立ち上がれないまでに追い込むという蛇のようなしつこさがあった。このような性格から人に恨まれることが多々あるが、自分の身の回りには高給で雇った体の大きい屈強なボディーガードを三人も付けて常に側に置いていた。社内ではこのボディーガードを使いダーティーな仕事をやらせているのではないかという噂があり、実際に呂威にとって邪魔な人物の何人かは謎の失踪を遂げていた。
利益さえ上がれば手段など問わないという経営方針は実際に利益を上げていたし、株の利益にしか興味のない投資家たちからは時代の寵児と賞賛されていた。
こうして業界にのし上がっていった呂威は現在46歳。社内の誰も呂社長の証券会社以前のキャリアのことは一切知らない。出自も不明で謎に包まれていた。

「社長、もう一つご報告があります」
芸能担当部長の黄だった。
この男は昔から呂威の腹心の男だ。

「何だ?」
呂威はベルサーチ製の幅の広いストライプ柄のスーツの襟を正した。
この日呂威の身に付けている物は腕時計や靴も含めて10万ドルは下らないだろう。

「失踪中の蔡志玲の行方ですが、香港で目撃されたのを最後にその後の行き先は依然不明のままです。現在鋭意捜索中です」

「彼女の人気はまだ高い。今後も我が社の広告塔として稼いで貰わなくてはならない。全力を尽くして探し出せ。まさか引退や事務所移籍などないんだろうな?」

「はい。志玲は従前の事務所との契約があと3年残っており、我が社による買収は契約条項もそのまま引き継いでおります。間違ってもそのようなことはございません」

「よろしい。マスコミに公になる前に必ず行方を掴んで隠密裏に連れ戻せ」

「ハッ!」

呂威は眼下の街を見下ろしまるで天下人にでもなったような顔でにやついた。



小さな軽自動車に乗って小さな体の千鶴がやってきた。

「諒太さーん!手伝ってー!」
玄関先で千鶴は大きな声をあげた。

「あっ!千鶴さん、この間はご馳走さまでした」
チーリンが急いで出て行くと千鶴が車から布団を取り出すところだった。

「そんなこといいのよ〜
あら? そのパーカーずいぶん大きくない?」

「真田さんから貰ったんです。私、薄手の服しか持ってなかったので」

「そうなの…それにしてもあなた何でも上品に着こなしちゃうわねぇ…
ところで諒太さんは?」

「畑に行きました。今日みたいな涼しい日は仕事がはかどるからって」

「頑張るわねぇ…瞳ちゃんから諒太さん布団がないって聞いてうちの布団持ってきたんだけど、うち押入れ一杯だから余っている布団二組も持ってきちゃった。諒太さんの家、物が少ないから置いてもらおうと思って。
それに今日みたいな日はタオルケットだけじゃ風邪ひいちゃうからね。
チーリンさん運ぶの手伝ってもらえる?」

「もちろんです」
チーリンはニコっと笑った。

「ついでだから諒太さんの部屋まで入れちゃおうか」
二人は車から布団を持ち出すと家の中に運び込んだ。

「よいしょっと。この辺に置いておけば諒太さん自分でやるでしょう」
二人は持ち込んだ布団を諒太の部屋の隅に置いた。

「あの千鶴さん、あそこに掛かってる額には何て書いてあるのですか?」
チーリンは部屋の壁の上に掛かっている額を指差した。さすがに片仮名がまだよくわからないチーリンには読み取ることが出来なかった。しかもかなり達筆の書である。

「ああ…宮沢賢治ね。私も小学校の時に勉強したわ…懐かしいわ。
日本の昔の詩人よ。
もしかしたら諒太さん、こういう人物になりたいと思っているのかもしれないわね。
私にも読むことはできるけど、諒太さんがどんな風に解釈しているかまではわからないから、諒太さんが帰ってきてから教えてもらう方がいいと思うわ」

チーリンは書を見つめた。
(真田さんが目指す人物像…)

チーリンは千鶴を居間にお茶に誘いちゃぶ台を囲んだ。

「ねぇ、その後ご飯とかどうなの?
チーリンさんがやっているの?」

「はい…それが私、料理の経験ないものですから全然上手くいかなくて… 真田さんもできた料理を馬鹿にせずにしっかり食べてくれるんですが、それを見ると逆に心苦しくて…」

「そう…大変ねぇ…
あっ!そうだ!チーリンさん清子オバーに料理習ったらいいよ! オバーはここからすぐのところに住んでいるし通うのは楽だよ。今確か83歳だったかな? 前に会った時なんか退屈だなんて言ってたし、色々教えることが好きな人だから快く引き受けて貰えると思うよ」

「清子おばあちゃん?」

「そう。産婆さんやっていてね、産婆さんってわかる? 今で言う助産師さんみたいな。少し前まで島で産まれたほとんどの人はオバーに取り上げて貰ったのよ。
島伝統の料理なんかも上手でね、私も教わりに行ったことがあるのよ。私から頼んであげる。
諒太さんをぎゃふんと言わせてみなさいチーリンさん!」

「はい!よろしくお願いします」

お茶を飲みながら一頻り雑談を交わすと千鶴は帰っていった。

暫くすると収穫した黄金芋やその他の野菜を籠に入れ諒太はいつも通り庭から帰ってきた。
いつもなら首にかけたタオルが絞れるほど汗で濡れるのに今日のタオルは乾いたままであった。
そのため諒太の疲労もいつもより軽い一日となった。縁側の外に諒太の姿を見とがめたチーリンは声をかけた。

「お帰りなさい。さっき千鶴さんが来てお布団を持ってきてくれましたよ」

「布団を?」

「ええ、真田さんの布団を私が使っちゃっているって話したら余っている布団をわざわざ持ってきてくださったんです」

「そう…俺なんか布団なくても大丈夫なのに。
今度お礼言っとかないとな」

「お布団真田さんの部屋に置いてあります」

「わかった…」

諒太は手についた土を洗い流すと居間に座った。
お盆に乗せられた温かいお茶を煎れた急須をチーリンはちゃぶ台の上に置いた。

「お疲れさまでした」
諒太の前に茶碗に注がれたお茶が差し出された。

「ああ、すまん。今日は体を動かしてもあまり汗をかかなかったよ」

「そうですか…台湾でも稀にこういう日があります」

「台湾とここは120キロ位しか離れてないからな…」
諒太はチーリンが煎れた熱いお茶を啜った。

「あの…真田さん、真田さんのお部屋に掛かっている額の書には何て書いてあるのですか? 千鶴さんは真田さんの目指す人物じゃないかって言ってましたけど、私には読むことが出来ないので教えてください」

「あれか…あの書は今は亡き俺の剣道の師匠が好きだった宮沢賢治の詩を師匠自ら書にしたものなんだ。
俺の師匠は塚田孔平先生といって剣の道ばかりか俺に人としてどう生きるかを教えてくれた俺にとっては父のような人だった。
俺は中学から剣道を始めたんだが、先生から剣道を習ったのは僅か5年間だったんだ。
俺が高校二年になったとき先生は急逝してしまったんだ。
普段は優しい先生も剣を取ると目の色が変わるくらい厳しく俺を鍛えてくださった。
先生は剣だけではなく学業も同時に修練することが大切だと常々仰った。つまり文武両道の考えだ。
だから俺は先生が亡くなられてから先生の意志を大切にしたいと思い、大学に入るべく一生懸命勉学に集中した。
あの書に書かれていることは実は塚田先生自身が目指したことなんだよ。

そしてあの震災で俺が被災したことを知った先生の御子息が俺に送ってくれたものなんだ。
それからというもの俺は先生の書いた書の言葉にいつも励まされた。
あの書にはこう書いてあるんだ…」

諒太は目を瞑ると滔々と朗読を始めた。


雨にも負けず 風にも負けず

雪にも 夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち
欲はなく 決して怒らず
いつも静かに笑っている

一日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずによく見聞きし分かり そして忘れず
野原の松の林の陰の小さな茅葺き小屋にいて

東に病気の子どもあれば 
行って看病してやり

西に疲れた母あれば 
行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば 
行って怖がらなくてもいいと言い

北に喧嘩や訴訟があれば 
つまらないからやめろと言い

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなにデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず

そういうものに わたしはなりたい


チーリンも諒太の朗読を目を瞑って静かに聴いた。

「今では先生のように俺もこういう生き方を目指しているのかもしれない。だが、まだその境地には到底及ばない。
俺はいつかそんな賢治の詩のようなデクノボーになりたいんだ」

この詩を聴いたチーリンの心の奥にも何か沁みるものがあった。

(これが真田さんの目指す生き方…)

8 赤いハイビスカス

8 赤いハイビスカス

「今日は村役場の作業があるんだけどチーリンさんも行くかい?」

朝食を食べている最中諒太はチーリンに声をかけた。

「それが…ちょっと用事があって…」
チーリンは上目遣いに諒太に答えた。

「ふぅーん…わかった」
諒太は顔には出さずに平静を保って答えた。

(この島にいて用事ってなんだ?)

諒太は作業服に着替えると車に工具類を積み込んで村役場へ向かった。
美波間村役場は村長、副村長、瞳を含めた一般職員2人、あとはリタイアした嘱託職員やパートが交代で勤める非常にこじんまりとした小さな役場であった。
建物は台風に耐えられるようコンクリートで造られていたが、いかんせん村の税収入が限られているため、古い建物は建て替えができず至る所が傷み外壁などは黒くシミがついているほどだ。
諒太が役場に到着するとちょうど村長が役場に併設されたヘリポートの草むしりをしていた。
このヘリポートは空港の無い美波間島にあって、ヘリを使って災害時の物資の運搬や急病人などの搬送など緊急時に利用される。

「村長、お疲れさまです」
諒太はこちらに気付かず一心不乱に草をむしる波平(なみひら)村長に声をかけた。

「おお、真田君! 」
波平村長は首にかけたタオルで汗を拭うと笑顔で諒太に近づいた。

「村長自ら草取りを?」
諒太は波平の姿に驚いて声をかけた。

「役場で働くみなさんは自分の仕事が忙しいからね。真田君、僕はこう見えて結構暇なんだよ。やれる事は自分でやらないと村の人に示しがつかないからね」
波平はこだわりのない笑顔を見せた。

そう波平は謙遜して言うが、波平村長が暇なわけがないことは誰もが知っていることだ。

波平は既に村長を5期勤め、年齢はかるく70歳を超えていた。
頭は白髪で真っ白になり、眼鏡をかけた顔は優しい好々爺という雰囲気で、いつも穏やかな表情で島民と接していた。
諒太も村長が怒ったり、気分が悪そうな顔など島に来て一度たりとも見たことがなかった。
波平は島民全ての名前を記憶し、自分から気さくに話しかけるなどその優しくきめ細かい性格の人柄から美波間村の島民から絶大な信任を得ていた。
諒太も島に来た時など波平の自宅に夕飯に招かれたこともあった。
諒太もこの気さくで偉ぶらない波平村長に深い信頼を抱いていた。

「真田君、今日は役場の工事かね?」

「はい。パソコンの設置や配線の工事に伺いました」

「そうか、ご苦労様。総務の瞳さんに聞けば委細わかると思うよ」

「はい、わかりました。では早速取り掛かりますね村長」

「よろしく頼みます真田君」
どこまでも腰の低い村長であった。

諒太が役場に入って廊下を歩いていると廊下の向こうから歩いてくる副村長の宜保とすれ違った。
諒太は立ち止まり軽く会釈をしたが宜保は全く意に介さずに歩き去った。
この男、事務仕事は卒なくこなすが、人間的に問題があるようなところがあり、自分より立場が上の人には媚び諂うくせに立場が下の人間には居丈高に振る舞うところがある。
出入り業者などにはまるで汚い物でも見るような態度をとることもあった。
背が低くきっちりと髪を七三分けにしているところなどはいかにも役人といったところである。
島の産業振興のことを考えれば美波間島リゾート開発計画には賛成だという意向を早くから示し、このところ存在感を高めていた。
外向きは大人しく振る舞ってはいるが其の実、能面のような顔の下には野心家の顔が隠されていた。
諒太はこのような人間はどこの世界にもいるものだと割り切り、宜保の態度など気にもとめなかった。

「やあ、瞳ちゃんお疲れさま」

諒太は真剣な眼差しでデスクのパソコンに向かう瞳に声をかけた。
瞳は村の正職員として総務課に所属をしてはいるが、小さい村役場だけに一般的な役場の住民課、健康福祉課、観光課などの業務にあたる仕事を兼任し、パート職員の統率者として毎日忙しい日々を送っていた。

「あ!諒太さん!」
瞳は満面の笑みで諒太に顔を向けた。

「瞳ちゃん相変わらず忙しそうだね」

「そんな事ないよ。皆さん頑張ってくれているから」

瞳のデスクの周りに座っているパート職員の我那覇道子と宮里志乃が照れたように笑った。
二人とも50代のベテランパート職員で若い瞳を支えていた。

「あら、瞳さん、真田さんが来てくれて嬉しそうね〜」
我那覇道子は瞳を揶揄った。

「もうー道子さん変な事言わないでよー」
瞳は顔を赤くして頰を膨らませた。

我那覇と宮里は顔を見合わせクスクス笑った。
諒太は横を向いて咳払いをすると工事の作業手順を瞳に聞いた。
既に倉庫に届いている新しいパソコンを設置する作業で、古いパソコンからデータを転送する作業も含まれた。当然セキュリティソフトも新たにインストールしなければならない多少時間がかかる作業であった。
早速取り掛かった諒太は慣れた手つきで次々に作業をこなしていった。
コンピュータを扱う事に関してこの島で諒太の右に出るものはいないだろう。
なぜなら畑で鍬を振るう年数よりコンピュータを使って仕事をしていた年数の方が圧倒的に長いのだ。
しかも世界的大企業SOMYで大容量のコンピュータを使って電子機器の開発をしてきた実績がある諒太にとってこのような作業は朝飯前というところであった。
奥から砂川博之が近づいてきて後ろに立つと諒太の素早いタイピングを見つめた。
砂川は正職員として普段は村の水道管理、公園管理、建築土木などの業務を取り仕切り、台風などで被害が発生するような時には危機管理主任として先頭に立つ事になっている。
外に出ることの多い砂川は真っ黒に日焼けした顔をモニターに向けた。

「真田さん役場で働かない?
その腕もったいないよー」
砂川は軽口を叩いた。

「砂川さん勘弁してくださいよ。
俺は外で汗かく仕事の方が性に合っているんですから…」
諒太は砂川の冗談だとわかりつつ明るく答えた。

「やっぱりなぁー、真田さんだったらそういうと思ったよ」
砂川は微笑し諒太の肩を軽く叩くとと自分の席に戻った。
暫くしてパソコンのデータ転送が始まり、ひと時 人の手がいらなくなったタイミングで瞳は諒太に声をかけた。

「諒太さんちょっと話があるんだけど、先に中庭に行っててもらっていい?」

諒太は緑の生垣で囲われた役場の中庭のベンチに座り瞳を待った。
生垣には可憐な赤いハイビスカスの花が咲いている。

「諒太さん、ハイッ!」
いきなり声が聞こえたと思ったら放物線を描いて瞳が放った缶コーヒーが宙を舞った。
諒太は両手で上手く受け取った。

「ナイスキャッチ!」
瞳は親指を立ててニコっと笑った。

「ありがとう瞳ちゃん」
とても冷えた諒太の好きなブラックコーヒーだ。
瞳は諒太の隣に腰をかけた。
諒太はコーヒーを瞳はシークァーサージュースを口にした。

「どうしたの? 話って何かな?」

「うん…台北東海公司のことなんだけど…チーリンさんがここに来た理由聞いて驚いた。まさかチーリンさんまで翻弄されていたなんて…
諒太さんも聞いたでしょ?」

「ああ…聞いたよ。数年前とは比べ物にならないくらい台北東海公司の勢いは増しているようだね…」

「ねぇ諒太さん…チーリンさん、いつまで美波間島に居るつもりなんだろう?」
瞳はじっと諒太の横顔を見つめた。

「さあ…俺にはわからないが、彼女人気のある女優なんだろ?
事が落ち着けば台湾に帰るんじゃないかな」

「婚姻もしていない若い男女がひとつ屋根の下に暮らしているって世間体が悪いんじゃないかなって思うんだけど…」

「世間体か…ここの島民ならチーリンさんがここに来た理由がわかれば心配いらないんじゃないかな…」

「それはそうなんだけど、世間体というより私が…」
瞳は下を向いた。

「えっ?」

「ううん。何でもない」
瞳は取り繕うようにベンチから立ち上がった。

「そういえば最近、宜保副村長の携帯電話がひっきりなしに鳴るの。
その都度席を外して誰かと話しているみたいなの。
もしかしてリゾートホテル計画のことなのかなと思って…」

「そうか…副村長は計画推進派の筆頭だもんな…
でも波平村長は慎重な姿勢を示しているし、源さんや竜男をはじめ反対派だって頑張っている。
そんなに心配しなくても大丈夫じゃないかな」

「そうだといいんだけど…」
瞳は心配そうに顔を曇らせた。
風にハイビスカスの花が揺れていた。


作業が終わり片付けをしていると主に社会福祉の業務をしている宮里志乃が諒太に声をかけた。

「真田さん、お願いがあるんだけど、帰りに浦添のおばあちゃんの家に寄ってもらえないかな?」

「浦添りくさんの家ですね。いいですけど、どうしたのですか?」

「さっき役場におばあちゃん テレビが映らなくなって困っているって電話があったの。悪いんだけどちょっと家に寄ってみてもらえないかしら?」

諒太は快く引き受けた。
諒太はいままでこの手の依頼を断わったためしがない。
呉屋工務店から入る大規模な仕事の依頼を除けば個人の手伝い程度の仕事に関して決して諒太は謝礼を受け取らなかった。
それでは気が済まないと礼金の代わりに自分の畑で採れたトマトやナスなどの野菜や果物、海藻や魚介、なかにはちんすこうなどのお菓子まで差し出す島民までいたが、諒太は自分が食べられるだけの量を有り難く頂戴するのみで、それ以上のものは決して受け取らなかった。
家への帰り道にある高齢の浦添りくの家に行ってみるとテレビが映らなくなっていた原因はなんのことはない、リモコンを誤操作して入力をビデオ画面にしてしまっていただけのことであった。 高齢になると最近の電化製品は必要のない機能が多く、そのリモコンも実に複雑で厄介なものなのだ。
諒太はりくの長い茶飲み話しに捕まりかなりの時間を費やしてしまった。 話し相手がいない高齢者にはよくあることなので諒太は嫌な顔ひとつせず話しに付き合った。
そして家に帰る頃にはすっかり陽も傾いていた。

「あ!真田さんおかえりなさい」
チーリンが出迎えた。
笑顔を浮かべ何やら嬉しそうな空気を醸し出していた。

「た…ただいま」
諒太はチーリンのいつもとは違う雰囲気に圧倒された。

「晩御飯できているから食べましょ?」
陽気にチーリンは言った。

諒太は何かチーリンに変化が起こったことを感じ取った。
諒太が着替えて居間に入るとなんとちゃぶ台の上にはラフテーやじゅーしーと呼ばれる炊き込みご飯が並べられ味噌汁まで作られていた。

「これは…」
諒太はチーリンの顔を見たがチーリンは静かに微笑んでいるのみである。

「さあ、とにかく食べてみてください」

「あ…ああ」
諒太は言われるがままチーリンの作った味噌汁を口にしてみた。

お⁈…
他の料理にも手を付けてみた。
チーリンは諒太をじっと見つめている。

「どうですか?」
チーリンは上目遣いに諒太の顔を伺った。

「美味い…」
諒太は口に出した。

チーリンはちゃぶ台の下で小さくガッツポーズをした。

「これ…島の味付けだよな…これをどこで?」
諒太はいままでの料理とは違う味の変化に驚きチーリンに聞いた。

「やっぱりわかりますよね…実は清子おばあちゃんに教えてもらったんです…」
チーリンは伏し目がちに答えた。

「そうか…これ清子さんの味か…」


チーリンの指を見ると何ヶ所も絆創膏が巻かれている。

「チーリンさん…女優が指に怪我なんかして大丈夫なのかい?」

チーリンは慌てて手を隠した。

「あ、これ…
怪我は本当はまずいんですけど、女優としてというより女性としても向上していかなきゃいけないと思ったんです。
料理が上手くなることでこれから演技の幅が広がるかもしれませんしね…

それに…自分が作った料理を美味しいって食べてもらえるのは嬉しいです…」
チーリンは照れたように俯いた。

諒太は女優ということを鼻にかけないチーリンのいじらしい姿に感心した。


そしてそれから数日が経った頃、源一が慌てて玄関に飛び込んできた。

「諒太ぁ! いるかぁ⁈
大変なんだちょっと来てくれ!」

9 青空と白球と…

9  青空と白球と…

「諒太ぁ、ちょっと来てくれ!」

源一が諒太の家に飛び込んできたのはちょうどお昼をまわったころのことである。

「一体どうしたんだい源さん、そんなに慌てて?」
諒太とチーリンが玄関に行ってみると源一が息を切らして立っていた。

「今よぅ、体のでっかい黒人が漁協の事務所に来て英語でまくしたてているんだ!
俺は学がねぇからヤローの言っていることちんぷんかんぷんでさっぱりわからねぇ。諒太お前来て訳してくれねぇか?」

「そんな事言われても俺、英会話なんて出来ないよ。書いてある物を翻訳するのがせいぜいだ」

「なんだお前ぇ英語出来ねーのかよ⁈」

「そんな事言われたって俺理系だもの。ネイティヴな英語なんてわからないよ」

源一はがっくりと肩を落とした。

「あの…私、英語ならわかりますよ。学生の頃カナダに留学していたので」
チーリンが声をかけた。

「本当か!チーリンちゃん⁈」

源一は生き返ったようにチーリンを見つめた。
早速諒太とチーリンは源一の後に続いて漁協に赴いた。外には若い上地拓巳が源一の帰りを今や遅しと待っていた。そして事務所の中には一人口髭を生やした体の大きな黒人がソファーに頭を抱えて座っていた。

「この男なんだよチーリンちゃん」
源一は困ったように頭を掻いた。
チーリンは男に英語で声をかけた。
男の目には涙が見える。
時には怒るように、時には泣き叫ぶように話す男は精神的に不安定になっているように諒太には見えた。

男の話がある程度落ち着いたところでチーリンが訳した。

「興奮していてあまり要領を得ていない話しなんだけど、この人が言うには俺が悪かった。知らなかったんだ。神に懺悔しても許してはもらえまい。息子よパパを赦して…と」

「息子?」
諒太と源一は顔を見合わせた。
チーリンは男に質問をぶつけた。

「息子がこの島にいると聞いた。
一目会って息子に謝りたいって言ってます…」
男はチーリンに話を聞いてもらったことで少し落ち着きを取り戻したように見えた。

「まさかアントニーの親父か⁈」
源一は合点がいったようだ。

「この方マイケルって名乗っています。もし本当に息子がいるのなら会わせて欲しいって…」

「おぅ、拓巳!ちょこっと津嘉ちゃんのとこ行ってこのこと伝えてきてくれや」
早速 上地拓巳は事務所を飛び出していった。

チーリンは更にマイケルから事情を聞いた。
マイケルは米軍海兵隊の軍人として13年前嘉手納へ配属されていた。
その時、那覇の飲食店で働いていたアントニーの母親 津嘉山 百々子と出会い愛し合うようになった。
しかし、世界情勢の変化によりマイケルは嘉手納からイラクへ異動となり沖縄を離れることとなった。
マイケルはイラクから帰ってきたら百々子にプロポーズをするつもりであった。
マイケルがイラクでの過酷な任務を終えて沖縄に帰ってきた時、既に百々子の姿はなく消息を絶っていた。
マイケルには理由がわからなかった。
なぜ百々子はいなくなってしまったのか…
百々子を血眼になって探したが結局手掛かりを掴めず失意のままマイケルは任務を解かれ本国へ帰った。

その後マイケルは軍を辞め、ロスで中古車販売店を開き、現地で結婚し一男一女の幸せな家庭を作った。 今年の初めマイケルは旧友に会うべく那覇に来た時に当時百々子と共に飲食店で働いていた女性と偶然街で出会した。
そこでマイケルは衝撃の事実を告げられた。
百々子は店を辞める前に子供を身ごもっていたというのだ。
マイケルはその子は自分の子供だと確信した。
しかし、その女性もその後の百々子の足取りまではわからないということだった。
マイケルは必死になって再び百々子のことを探した。 そして最近になって百々子の兄がここ美波間島に居て息子とともに暮らしているという情報を得たのだった。
忙しい仕事に穴を開け、本国の妻に事情を話してここ美波間に来たが、どうしても明日には帰らなくてはならない。
マイケルがここにいられる残された時間は限られていた。

最近涙腺が緩んでいる源一は涙ぐんでいた。
暫くして拓巳が津嘉山を連れて帰ってきた。

「津嘉ちゃん、アントニーは⁈」
源一は津嘉山に聞いた。

「本人は会いたくないって言っている。
僕も彼をアントニーに会わせる事は反対だ」
津嘉山は険しい表情で答えた。

「だってよぅ津嘉ちゃん!」
源一は津嘉山の肩を揺らしながら津嘉山さえ知らなかったこれまでマイケルが語ったことを全て話した。マイケルは息子がこない事実がわかり涙していた。津嘉山はため息を吐くとぽつりぽつりと語り出した。

「11年前…百々子はいきなり混血の小さくてかわいい赤ん坊を連れて僕の前に現れたんです。
僕が何を聞いても百々子は事情を話そうとはしなかった…
百々子と僕は年の離れた兄妹でね、
妹というより僕は娘のように接していたんですよ。
百々子は高校を卒業したころから実家とは疎遠になっていきましてね… 那覇にいることは知っていたんですけど当時、僕も自分の牧場を開いたばかりで彼女のことを気にする余裕がなかった。
何年か振りに会って赤ん坊だけを残して百々子はまた何処かへ行ってしまった。
今も自分の子供を残して去った百々子の気持ちは僕にもわからない。
ここ美波間なら肌の色が違っても誰も差別をするものなどいない。
そう思ったんでしょうか…
ただ…アントニーは親に捨てられたと思っている。
あの子は12年間僕の息子として平穏に暮らしてきたんです。
今になってアントニーが親に会いたいと思うかどうか…」

津嘉山は腕を組み瞼を閉じた。

「とにかく…アントニーには僕から説得をしてみる。 だが、事情があるとはいえあの子の気持ちを考えると僕には強制することはできない…
あの子が本当にマイケルに会いたいかどうかだ。少し時間が欲しい」

そう言って津嘉山は帰って行った。
津嘉山自身もアントニーの育ての親としてやってきただけに複雑な心境のようであった。
チーリンは津嘉山の話したことをマイケルに訳して話してあげた。
マイケルは深く自分を責めているような表情だった。
この日、源一は津嘉山からの吉報を待つべくマイケルを比嘉の経営する民宿『さんご荘』に泊まるよう手配した。

一方、家に帰った諒太は居間に座り深くため息をついた。

「アントニーはマイケルさんに会いますかね?」

チーリンは諒太に声をかけたがその言葉に諒太が反応することはなく、何かを考えるかのように中空の一点を見つめ続けていた。
結局夜になっても津嘉山から連絡が入ることはなかった。
それはアントニーが父のマイケルに会うことを拒絶していることの意思表示を示していた。

翌日は平日のためアントニーは普段通りに分校へ登校した。
身体はここ数年見違えるほど大きくなったアントニーではあるが、まだ小6の12歳なのだ。
大人が考えるより感受性が豊かなこの時期の子供が突然の父親の出現に動揺していない筈はない。
既にアントニーには全てを話してある津嘉山にはこれ以上アントニーを追い詰めるような真似は出来なかった。
こうしている間にもじりじりとマイケルが島に滞在出来る限られた時間は無くなっていく。

諒太は押入れから何やらスポーツバッグのような物を持ち、学校の放課後の時間を見計らいチーリンを伴い分校へと向かった。
まだアントニーは諒太がこの一件に関わっていることを知らない。
諒太はアントニーがまだ小学校低学年の頃よりサッカーやキャッチボールの相手として彼の面倒を見てやっているほどの間柄である。
諒太が島に来た当時はまだ小さかったアントニーもぐんぐん背が伸びて今では声も変わり始めていた。
アントニーは既に下級生が帰った教室で一人帰宅準備をしていた。

「よう!アントニー元気か?」

諒太は普段と変わりなく開けられた教室の窓の外からアントニーに声をかけた。 アントニーは諒太がまた学校の修繕に来たものと思っているようだ。

「アントニー、久しぶりに俺と野球でもしないか?」

「本当?真田さん!」

アントニーは学校ではいつも上級生として自分より下の子の面倒をみるばかりで、自分自身おもいっきり体を動かすことがなかなか出来ない。
野球が好きなアントニーはごくたまに教師の又吉とキャッチボールやノックを受けることもあったが、又吉も教師の仕事が忙しいため、アントニーにばかり時間を費やすことも出来なかった。
そのためアントニーにとって普段野球は相手がいなくてしたくても出来ないスポーツであり、諒太の誘いは嬉しかった。
諒太はちょうど教室に入ってきた又吉にも野球に入ってもらうようお願いをした。

「アントニー、今日は少し志向を変えて俺がピッチャーをやるからお前のバッティングを賭けて勝負してみないか?」

「ちょっと真田さん、子供相手に賭けって…」
又吉は慌てて間に入った。

「なあに、又吉先生ただのゲームですよ」

「ゲーム?」
アントニーは諒太の言うことが理解出来なかった。

「そう。俺がストライクボールを10球投げるからお前はそのうち一本でもヒットを打てたらお前の勝ち。
全球無安打に抑えたら俺の勝ち。
お互い勝った方が負けた方に好きな要求を言えるってゲームだ。
簡単だろ?」

「面白そう、やる。僕が勝ったら新しいグローブが欲しい!
来年中学に行ったら野球部に入って活躍して将来野球選手になりたいんだ。だから硬式グローブが欲しいんだ。
もし真田さんが勝ったら何して欲しいの?」

「まあ、それはお前が勝てば聞く必要はないだろ?」

「わかった!僕、絶対打つからね」
アントニーは自信満々だった。

諒太はバックから自分のグローブを出した。
アントニーと又吉は普段学校で野球をしているので、教室のロッカーに道具は置いてある。
三人は早速グラウンドに出た。

(このタイミングで野球なんかしている場合じゃないでしょうに…)
グラウンドの外のチーリンは心配した。

アントニーは右のバッターボックスに立った。
又吉はキャッチャーとして諒太の球を捕球することになる。
諒太はマウンドに立つと白いボールを二度三度軽く手の上で放った。
又吉はど真ん中にミットを構えた。
諒太は大きく振りかぶると腕を思い切り振って渾身のストレートを又吉のミットめがけて放った。

ズバン!

諒太の投げたボールは唸りを上げて又吉のミットに収まった。
ど真ん中のストライクボールだ。
アントニーは今まで見たことのない速球に目を丸くしていた。

「ちょっ、真田さん!」

又吉は立ち上がるとマウンドにいる諒太に近づいた。
誰の目にも小学生相手に投げるスピードの球ではないと映るだろう。
諒太は又吉の接近を目で制した。

2球目…諒太はまた大きく振りかぶると直球を投げ込んだ。
今度はアントニーの胸元をえぐるブラッシュボールだ。
明らかにそこを狙ってコントロールされた球であった。アントニーはのけぞって尻もちをついた。

「真田さん! 子供相手に本気になって大人気ないです!
ひどいですよ!」
チーリンが大きな声で抗議した。

「うるさい! 男同士の勝負に女が口を出すな!」
諒太は一喝した。

「何よ! 女だからって馬鹿にして!」
チーリンは諒太を睨みつけた。

「アントニー! そんなんで野球選手目指すのか?
ビビってんじゃねぇぞ! 立て!」
諒太は悪びれた様子も見せず仁王立ちでマウンドからアントニーを挑発した。

アントニーは諒太を一度睨みつけるとズボンの砂を払い起き上がった。
遊びとばかり思っていたアントニーの中で別のスイッチが入った。

(よし!)
諒太はうなづいた。

「アントニー頑張ってー!
ホームラン打って!」
チーリンは必死にアントニーに声援を送った。

今の一球はボール球のためカウントには入らない。
改めて2球目…ど真ん中のストレート
アントニーは思い切りバットを振るが当たらない。
ドンッとボールは良い音をたてて又吉のミットに収まった。
3球目、4球目、5球目、諒太の投げ込む速球にアントニーのバットは虚しく空を切る。

「アントニー、バットをもっと短く持ってタイミングを早くとるんだ」
又吉が小さな声でささやいた。

6球目…キンと音がしたがミットに収まる。
僅かにチップした音だ。

7球目…当たった! しかし球は一塁線ゴロでファールとなる。

8球目…バットはボールの下を叩きキャッチャーの真後ろに上がるファールフライとなる。
タイミングは合ってきている。

9球目…金属バットの快音を残したが少し振り遅れてバットに当たった球は諒太の真上に上がるピッチャーフライで諒太が軽々と捕球する。
もうアントニーには後がない。
アントニーは一度打席を外した。

(絶対に打つ…)
アントニーは自分に気合いを入れた。

「アントニー! 打てるわよー!」
チーリンも精一杯声を出す。

最後の10球目…諒太は変わらず大きく振りかぶると渾身の力を込めて全力のストレートを投げ込んだ。

(きた!)
アントニーはバットを振り抜いた。

カキーン!

瞬間、その場にいた全員がボールの行方を目で追った。
砲弾のように放物線を描いた打球はホームラン性の打球となって見る見る青空に向かって飛んでいく。

「やったぁー!」
チーリンはホームランと確信して声を上げた。

しかし…
打球は三塁を超えた辺りから左に急に切れはじめ大きなファールとなってしまった。
飛距離はホームランに充分であっただろう。
打球の行方を目で追っていたアントニーはガックリと肩を落とした。
チーリンは勢いよく走り出すとアントニーに駆け寄った。

「よくやったわ…あの速い球をあれだけ飛ばすことが出来たんだもの。グローブなら私がプレゼントしてあげるから…」

「余計な真似はやめてもらおう。
アントニーは勝負に負けたんだ。
男ならそれを潔く認めなければならない」

諒太はバッターボックスにゆっくり近寄ると冷たく言い放った。

「真田さん!あなたって人は⁈」

チーリンはここまで真田が非情な男だとは思ってもみなかった。
キャッチャーをしていた又吉も同じ思いであった。
子供相手に本気になって勝った事がそんなに嬉しいのか…?
二人は憮然と諒太を睨みつけた。

「いいんです…僕が打てなかったんだから…」
アントニーは唇を噛み締めた。

「それで真田さんの望みって何なんですか?」
アントニーは悔しそうに聞いた。

「ああ…俺の望みか…
キャッチボールだ」

「キャッチボール?」
又吉が素っ頓狂な声を上げた。

たった今バッティング勝負をしたばかりである。
それなのに今更キャッチボール?
誰も諒太の意図が理解出来なかった。

「但し、キャッチボールの相手は俺じゃあない」
諒太は倉庫の方に向かって目配せをした。
すると建物の陰から源さんと津嘉山に伴われてマイケルが姿を現した。

「何でだよ…
真田さん僕のこと騙したの?…」
アントニーは引きつった顔を諒太に向けた。

「俺は騙してなんかいない。キャッチボールの相手はマイケルさんだ」

「嫌だ…嫌だよ」
アントニーは後ずさりした。
マイケルがグラウンドに入ってくるとアントニーは背を向けて歩き出した。

「卑怯者かお前は‼︎ 」

諒太の大喝にそこにいる全員がビクッとなった。
ここにいる者だけではない…
これまで島の誰一人諒太の大声など聞いた事がなかった。諒太はびっくりして立ち止まったアントニーに回り込み肩に手をかけて言葉をかけた。

「アントニー、マイケルさんは必死になってお前を探し出してやっとの思いでここまで来たんだぞ。
今日、マイケルさんはアメリカに帰らなくてはならないんだ。
お前が話したくないというならそれでもいい…
俺の望みは少しの時間でいいから
マイケルさんとキャッチボールをして欲しいんだ…」

先程の鬼のような形相とは打って変わり優しい顔と声で諒太はアントニーに諭した。

「わかったよ…キャッチボールだけなら…」

アントニーは渋々諒太の言葉に従うと使い込んでボロボロになった自分のグローブを取り出した。
諒太はマイケルに自分のグローブを差し出した。

二人は距離をとると正面に対峙した。
アントニーは手にしている白いボールを見つめると右手でギュッと握りしめた。
諒太、チーリン、源一、津嘉山、その様子を誰も声も出さずにじっと見つめた。
アントニーは12年間の想いをこめ思いきりマイケルに向かって投げつけた。
アントニーのしなやかな筋肉から投じられたボールは物凄いスピードでマイケルのグローブにバシン!という音とともに収まった。
ボールを受け止めたマイケルは優しい顔でうなずいたマイケルはアントニーの胸元に優しい球を返球した。再びアントニーは思い切り速球を投げつけた。
それでもマイケルはアントニーに優しく返球するのであった。
そんなボールの遣りとりが延々と続いた。
もはやこの二人には言葉は必要なかった。
お互いを行き来する白いボールがこの親子の会話そのものなのだ…

(何で今になってこんな所まできたんだよ?)

(父さんが悪かったんだ。お前には寂しい想いをさせてしまったね…)

(大人は勝手だよ…)

(そうだな…勝手だな…だけどお前の存在を知ってから父さんはお前を思わなかった日は一日たりともないんだよ…)

(僕はずっと独りだった…)

(ごめんよ…アントニー…)

(でも…僕のこと知らなかったんだから仕方ないよね…)

(父さんは成長したお前を見ることができて幸せだよ)

(僕、将来メジャーリーガーになりたいんだ)

(そうか…アントニーお前ならなれるさ。父さんの息子だもの)

(うん…)

ボールの一球一球に込めた二人の想いが周りの人間にも見えるようだった。
最初は険しい顔でキャッチボールに臨んだアントニーも次第に柔らかい表情に変わっていた。
それは誰にも邪魔されない父子の無言の会話であった…

そして時間となった…

マイケルはゆっくり歩くとアントニーの前で立ち止まった。
マイケルは優しく微笑みアントニーの左手のグローブの中にボールを手渡すとアントニーの頭を撫でた。

「thank you my son…」

それはとても大きくて温かい父マイケルの手であった。

「アリガトウゴザイマシタ」

諒太にグローブを返すとマイケルはグラウンドの外に向かって歩き出した。


「お父さん!」

アントニーの魂の叫びだった…

振り返ったマイケルの目からは大粒の涙が溢れていた。

そしてマイケルは美波間島を後にした…



帰りの車の中でチーリンは諒太を責めた。

「私を除け者にしてひどいじゃないですか!
全部真田さんの計算だったんですね?」

「さあな…」
諒太は空惚けた。

「もう!」
チーリンは拗ねたように諒太の顔を見た。

「でも真田さん、もしあの時アントニーにヒット打たれていたらどうするつもりだったんですか?」

「俺のストレートが打てるもんか」
諒太は苦笑した。

「えらい自信ですね?」

「だけど…最後の一球…
あれがもう1センチ外にいってたら間違いなくやられていたな…」
諒太はアントニーの成長を喜ぶように笑みを浮かべた。


「親子か…」

運転しながら諒太はポツリと呟いた。

「いいですね…親子って」
チーリンも台南にいる両親のことを思い出していた。
いつもチーリンの身体を気遣ってくれる優しい父親…
いつになったら結婚相手を連れてくるのかと心配し早く孫の顔を見たいという母親…
(あ…)
チーリンは急に現実に戻されるのであった。

諒太は車窓から流れる景色を眺めながらもう二度と逢うことが叶わない娘のことを想っていた。


それから何日か経ったある日、アントニーのもとに荷物が届いた。
そこにはピカピカの新品の硬式用グローブと簡単な手紙が添えられていた。


親愛なる息子アントニーへ

また一緒にキャッチボールをしよう

父より

10 黄金色の汗

10  黄金色の汗

島は夏本番となり、子供達が夏休みに入る時期を見計らい分校の教師又吉翔と島袋千夏は日頃世話になっている人たちを集め、海人でささやかな披露宴を兼ねた婚約発表会を開いた。
海人では若い二人を祝うため、村長や与那国島から本校の校長や同僚の教師なども駆けつけ、諒太とチーリンも二人の門出を祝うため参加した。
海人には二人の教えている子供達も参加し、手作りで会場の装飾が施され、あたたかな雰囲気が作られた。
二人はこの後、本島に移り又吉の故郷で式を行う予定だ。

島ではそんな喜ばしい話題で満ちている頃、与那国島から着いたフェリーのタラップを大きな荷物を持って降りる二人の若い男がいた。
一人はひょろっとした体格で前歯が出ている。 着ているTシャツにはアニメの少女のプリントがしてある。背中に背負ったリュックサックにはカエルのキャラクターのキーホルダーが付いていた。
もう一人の方はずんぐりとした体格で背が低い。頭にはバンダナを巻き、これも着ているTシャツにはstar warsのプリントがしてある。
二人とも銀縁の眼鏡をかけ、いかにもオタクの風貌の二人はこの島ではちょっと浮いて見える。
背の低いずんぐり男がひょろっとした男に声をかけた。

「ねぇ紳々、いくらなんでもフェリーを乗り継いで来なくても飛行機使えば良かったのにぃ…僕もう船酔いが続いて気持ち悪いよぅ…」

「しょうがないだろ竜々、お金浮かせなきゃいけないんだからさ。
何たってこの島のバイトで稼いだお金で夢にまで見た秋葉原でラブリーライブのイベントに行くんだからな」

「そうかぁ〜そうだよねぇー
もう僕楽しみで眠れないよぅ」

「バイトをしながら卒論の題材を研究できるなんて一石二鳥じゃないか?」

北大の獣医学部で牛の研究をしている中国人留学生の紳々と竜々はいつも北海道で研究している乳牛と日本最西端の島で飼育されている与那国牛の生態を比較研究するため夏休みを利用してここ美波間に降り立ったのだった。
二人は多少よこしまな考えを持ちながら美波間島にやってきたのだが、フェリーの発着場を出てもこの島にはバスもタクシーもないことにこのとき気がついた。

「紳々、どうやって津嘉山さんの牧場までいくんだよぅ?」

「バスもないんじゃ歩いていくしかないだろ?」

「えー!もう僕暑くて死にそうだよぅ」

「うるさいな竜々、文句ばかり言っていると置いていくぞ」

「待ってよぅ、紳々〜」

二人はとぼとぼと暑い日差しの中を歩き出した。


チーリンはあれから毎日欠かさず清子オバーの家に行っては料理を教えてもらっていた。
その成果もありチーリンの料理の腕は見違えるほど上達していった。
女優をしていたころには味わうことができなかった家事の出来ることを日々の喜びとして充実した毎日を送っていた。
諒太は相変わらず自分の畑の仕事をしながらその合間に高齢の島民が困っていると無償で手伝いをしてあるいた。

又吉・島袋の宴から数日経ったある日、畑で収穫した芋を島の集荷場へ持ち込むため、家の庭先で大きさ別にコンテナボックスに仕分けする諒太の作業を縁側に腰掛け、チーリンはじっと見つめていた。
諒太はチーリンの視線が気になり声をかけた。

「何だ?」

「皆さん真田さんの作ったお芋 とても美味しいって言ってました…」

チーリンは膝を抱え上目遣いに物欲しげな表情で芋を見つめた。

「何だ? 芋食べたいのか?」

「いいんですか⁈」
チーリンは表情を明るくした。

「君のようなセレブがこんな庶民が食べるような芋を食べるのか?」

「バカにしないでください。私だって夜市の屋台の食べ物が好きでよく行ったりもするんですよ。
むしろ堅苦しいのは私あまり得意じゃないんです…」

「そうか…
ただし女子が好きそうなスイーツなんて気取ったものは作れないぞ。
俺にできるのは焼くか蒸すかのどちらかだ」

「普通に食べられれば私は十分です」

「わかった。今から蒸してやるから待ってな」

諒太は適当な大きさの芋を数本手に取ると台所へ向かった。チーリンも芋を蒸す手順を覚えるために諒太の横に立った。20分もすると立ち昇る蒸気とともに芋の甘い香りが広がってきた。
諒太は湯気があがる熱々の芋を皿に移すとちゃぶ台に移動した。半分に割ると黄金色の断面が現れた。

「ほら。熱いから気をつけな」
諒太はチーリンに半分にした熱々の芋の片方を手渡した。
チーリンは早速かぶりついた。

「甘ーい! こんな美味しいお芋食べたの私初めてです!」

普通のサツマイモとは違い、ねっとりとした甘さは蒸しただけなのにまるで調理されたスイートポテトに勝るとも劣らない甘さでしかもくどくない。
まさにチーリンにとって生まれて初めて出会う味であった。
美味しそうに芋を食べるチーリンの顔を穏やかな表情で諒太は見守った。

「黄金芋(おうごんいも)は別に黄金のような価値がある訳じゃない。
火を通した後のその見た目が黄金色になるところから黄金芋と呼ばれているんだ。
俺がこの島に来た時、まだ美波間島にはこの品種は栽培されていなかったんだ。
君が通っている 桑江清子 さんの息子さんの信之さんが石垣島のホテルで料理長をしているんだが、一度この黄金芋をお土産でもらったことがあってね、それを食べたとき世の中にはこんな芋があるんだって感動したんだ。それから俺は一年荒地を開墾して畑づくりをしてから本島から種芋を取り寄せて栽培を始めたんだ。
だけど最初のころは思ったようには上手くはいかなかった…
俺は当時農業をなめていたんだ…」

諒太は過去を思い出すかのように語り出した。

「俺はこの島に来る前はエンジニアとして当時世に出る前のスマホや携帯ゲーム機の開発に携わっていた。それなりに成果もあげたし、まだ20代だった俺には出来ないことはないと有頂天になっていた…
その時は正直農業なんて誰にでもできる職業だと見下していたんだ。
そしてあの震災に見舞われ、全てを失った俺はこの島に来た。
この芋だって土に植えれば勝手に収穫できるくらいに思っていたんだ。
だけど、最初の年…次の年…全く食べられるような芋は出来なかった。
俺は土地の風土や気候、土の成分を全く理解していなかったんだ。
それから島の農家の人たちから助言をもらって化石サンゴの欠片をまいてみたりして、一から土を改良してやっとここまで収穫できるくらいになったんだよ。 俺は驚いたよ。農業ってやつはまさに科学の知識が必要じゃないかって。 天気、水質、大気、土の栄養、害虫対策、様々な知識がないと作物は育たないんだってことに気づいた。
それを農家の人たちはひけらかす事もなく淡々と受け継いでこなしている。
まだ36の俺ですらたまには畑作業がしんどく感じることだってあるんだ。
それを80を超えたご老体が現役でしゃきっとして畑に出ている姿を見ると本当に頭がさがる。
俺はまだまだ甘いと感じるよ。
それだけ大変な思いをして作った作物を人に美味しいって食べてもらえることが農家にとって 何より嬉しいことなんだよ。
手塩にかけた作物は自分の子供と一緒だからね。
今ではこんなに素晴らしい仕事はないと思っている。
これは研究室にこもっていたんじゃわからなかった事だと思う…」

諒太はそう言うと芋の半分を頬張った。



その翌日…
美波間島に暗雲が立ち込めた。

波平村長が忽然と姿を消したのだ…

11 狂飆

11  狂飆

村長の波平は那覇の県庁で行われる定例の沖縄県 市町村長会に出席するため美波間島を後にした。
波平は無駄な経費がかかることを嫌い、いつも移動には随行員を付けず、移動の際の飛行機も常にエコノミー席にこだわった。
波平は県庁の会合に出席した後、宿泊するホテルに戻ったところまでは確認出来たが、その後の消息が掴めず忽然と姿を消してしまったのだ。
当然、沖縄県警も波平の足取りを追って捜査をはじめたが、防犯カメラにもその姿は確認ができず、携帯電話も不通となっていた。
警察も事件事故の両面で調べたが、まるで神隠しにでもあったようで一向に手掛かりが掴めなかった。
ごく小さな村とはいえ、一首長が失踪したことは地元の新聞にも大きく報じられ様々な憶測がとんだが、誰一人波平が突然いなくなったことに対する明確な根拠を示すだけの理由を説明できるものはいなかった。
美波間村の村民も皆憂慮したが、島から600キロも離れた本島のことだけに何も出来ることはなく、警察に推移を任せるほかはなかった。
本島の警察も美波間島まで乗り込んで捜査聴取を行なったが、事件性は低いとみられ、激務であった波平村長が自らの意思で姿を消したのではないかというのが捜査員の見立てであった。

しかし、村民はそんな考えには誰も納得出来なかった…


「ふざけんじゃねぇ! 何が村長の意思だ! こんな真似するのは台北東海公司の連中に決まってんだろうが!」

漁協の事務所の外にまで聞こえる声を源一は張り上げた。

「ちょっと源さん、声が大きいよ」
竜男が窘めた。

「うるせー! こんなこと誰が納得できるんだよ! 奴等がやったに間違えはねぇんだ!」

「だけど、奴等がやったって証拠がないんだよ、源さん…」

「お前ぇはどっちの立場なんだ馬鹿野郎!
お前ぇは元警察官だろうが!
何とかしやがれ!」

「俺も昔の同僚に説明してみるから少し待ってくれよ…源さん」

源一は鼻息荒く顔を真っ赤にして腕を組んだ。


諒太の家でもチーリンが失踪した波平村長の心配をしていた。

「村長さん…いったい何処へ行ってしまったんでしょう…」
最近、又吉と島袋の披露宴で波平村長に優しい言葉をかけられたばかりのチーリンは諒太に尋ねた。

「わからない… ただ…言えることは波平さんは絶対に途中で職務を放りだすような人ではない。
今は村長が戻ることを信じて待つほかはない…」
諒太はため息混じりに答えた。


その翌日の未明…ゴゴゴゴと凄まじい音を立てて美波間島の海沿いの広範囲に海鳴りが聞こえた。

島に嵐が近づこうとしていた…

フィリピン沖の海上で発生した熱帯低気圧は気圧 920hPaというコンパクトだが、勢力の強い台風へと変わった。当初進路を北西にとり、大陸方面に向かっており、大方の気象予報士もそのままの進路を予想していた。
しかし、台風は急激に進路を北東に変えて先島諸島に迫ってきたのである。
この台風は猛烈な暴風を伴う風台風で、時速40キロという速い速度で島に接近した。発生した距離が近かったことと、その速度が異常に速かったこともあり島の台風対策も遅れた。
島は厚く暗い雲に覆われ、暴風が木々の枝を揺らした。漁船など船舶は大急ぎでクレーンで陸揚げをしたり、しっかりと係留ロープで繋がれた。

諒太も急いで家の窓に板を打ち付けるなど風の対策を施した。さすがに美波間島に来て7年近くになる諒太はこの地方に襲来する台風の凄まじさを身をもって知っている。しかし、その諒太でさえこの時期の今回のような足の速い台風の襲来は初めての経験だった。
作業が終わるころにはついに雨が降り始め、猛烈な風と合い間って横なぐりの雨が美波間島を襲った。
高い山のない美波間島は風の影響をもろに受ける。

「清子さんが心配だ。これから行ってくるから君は家で待っていてくれ」
諒太はリュックに救急箱や工具類を詰め込み雨合羽を着込んでいるときにチーリンに声をかけた。

「私も行きます!」

「ダメだ。危険すぎる」
諒太はチーリンの申し出をにべもなく断った。

「だけどおばあちゃんが…」
チーリンは泣きそうな顔で諒太を見つめた。

「清子さんのことは俺に任せろ」
諒太はそう言うと玄関から暴風吹き荒ぶ中へ飛び出していった。

チーリンが毎日のように通う一人暮らしの桑江清子の家は普段ならゆっくり歩いても10分もかからない。
しかし、この日は正面からの猛烈な雨風でなかなか進む事が出来ない。合羽を着ていても顔にあたる雨は針が刺すような勢いで諒太の歩みを阻んだ。
立ち並ぶ椰子の木も今にも折れそうな勢いでしなっている。諒太は前傾姿勢でようやく前に進むことができた。雨雲のせいもあり周囲は薄暗くなっている。 諒太がやっとの思いで道のりの半分くらい来たとき風雨の音に混ざってかすかに人の声が聞こえたような気がした。

「真田さーん!」

後ろから聞こえたその声はチーリンの声であった。
雨具も着けずTシャツ姿のチーリンは頭から足下までずぶ濡れとなり、突風に煽られていた。

「馬鹿! 何で来たんだ⁈」
諒太は怒鳴った。

「だって!
おばあちゃんが心配で…」

チーリンは目を開けていることも息をするのもやっとで、強い風を受け一つにまとめた長い髪が真横になびいている。

「無茶をしやがって…
仕方ない…俺について来い!」

諒太はチーリンをこの暴風雨の中、半分まで来た道をこのまま一人で帰すのはより危険と判断し、自ら風よけとなってチーリンの手を取って歩き出した。

「絶対に手を離すんじゃないぞ!」

「はい!」

二人は前屈みになって進んだ。

いよいよ雨風は強くなっていった。
いつもの倍の時間がかかり到着した清子の家の中に入ったとき、奥の方から人の呻き声が聞こえてきた。
依然風は強くガタガタと家の中の建具を震わせている。

「清子さん!」
「おばあちゃん!」

清子は暴風が吹きこむ部屋の片隅でうずくまっていた。
風に煽られた物干し竿を支えるポールが倒れこみ窓ガラスを破壊していた。 割れた窓からは猛烈な雨風が吹き込み部屋の中はひどい状態であった。 清子は転倒したことで足首を捻り動くことができくなっていた。

「おばあちゃん! 私よ!わかる?」
チーリンはうずくまる清子にすがりついた。

「あれ…チーリンちゃん…どうして」
清子はチーリンが目の前の視界に入ったことでようやく二人の存在に気づいたようだった。
清子の足首は赤く腫れあがっていた。

「おばあちゃん、今助けてあげるからね」
チーリンは清子を励ました。
諒太はリュックの中から救急箱を取り出し清子の足首に湿布の上から足首を固定する包帯を巻いた。

部屋の中は吹き込む風で もぎ取れそうな勢いで開いたカーテンをバタバタとはためかせた。
諒太は玄関から外に飛び出すと納屋に入り中を物色した。
あった!
棚に置いてあるブルーシートを引っ張り出すと靴のまま縁側から部屋に戻った。 部屋の窓際は割れたガラスが散乱していたからである。
諒太はリュックの中の工具箱から金槌と釘を取り出すと穴が開いた窓の仮補修をすべく作業に取り掛かった。
割れた窓からはビュービュー雨風が吹き込んでくる。
左手でブルーシートを抑えるが猛烈な風に煽られ釘を打つことが出来ない。

クソッ!…

その時、諒太の背後から手が伸びた。

「私が押さえます!」
チーリンが必死に手を伸ばしていた。

「すまん!
足下のガラス片に気を付けるんだぞ!」

「はい!」

諒太はチーリンの手を借りブルーシートを釘で打ち付けた。しかし、雨の吹き込みはこれで防げるが、あくまで簡易補修なので突風の進入は防げるものではなかった。部屋の片隅でうずくまっていた清子が足の痛みのあまり声をあげた。

「大丈夫⁈おばあちゃん!」

チーリンと諒太が駆け寄り声をかけた。 年齢が年齢だけにわずかな転倒でも骨折の可能性があるため、むやみに動かすことは控えなければならない。
強い風がシートの間から大きな音を立てて絶え間なく吹き込んでくる。 瞬間的な突風が箪笥の上の物を吹き飛ばし落下させた。 咄嗟に諒太は清子とチーリンに覆い被さった。 落下したものの中に小さな写真が入った写真たてがあった。
清子は目の前に落ちたその写真たてを大事そうに抱え込んだ。
それは10年以上前に亡くなった清子の御主人の写真であった。

「おとうさん…守ってください…」
清子は写真に両手を合わせて祈った。

「清子さん大丈夫。この台風は速度が速いからそのうち島を抜けるはずですよ」
諒太は清子を元気づけた。

諒太の言う通り、暫くすると風は弱くなり空は明るくなっていった。
ようやく三人の緊張も解け、諒太は大きく息を吐いた。

「真田さん、私来て良かったでしょ?」
チーリンが無邪気な表情で諒太に声をかけた。

「美波間島の台風を甘くみるんじゃない!
何かあったらどうするつもりなんだ⁈」

諒太は厳しい顔でチーリンを怒った。

「…すみません」
チーリンはふて腐れたように口を尖らせた。

「でも、チーリンちゃんが来てくれて私は嬉しかったよ。 真田さん、あまりチーリンちゃんを責めないでちょうだいね」
清子は手を合わせ諒太に懇願した。

「わかりました…
清子さんがそう言うなら…

チーリンさん…さっきは助かったよ
…ありがとう」

諒太は照れ臭そうに横を向いて無愛想に呟いた。

清子はしわだらけの顔でニコっと笑いチーリンの手を握った。
チーリンも清子に微笑み返した。

村役場から島全域に防災スピーカーを通して放送が流れ始めた。
放送の内容は現在、各自治会と消防団が各戸をまわって住人の安否確認を行なっている。
怪我をしていて動けない人はすぐ役場に連絡をしてほしいこと。
怪我をしていても歩ける人は役場に集まってほしいこと。
村から自衛隊に対して災害派遣要請による救援活動で怪我人はヘリで石垣島の病院に運ばれることが告げられた。

いつも近所同士で助け合いながら生活している島民にとって災害が起こっても他所と違って行動が冷静で動じることがない。

清子は石垣島の病院に行くためチーリンに手伝ってもらい荷物をまとめ始めた。
清子は大丈夫と言ったが、足の具合が心配だという諒太の説得に応じた形となった。
何しろこの島には病院や診療所がない。 万が一骨に異常があってもここでは対処出来ないのである。
諒太は清子に石垣島の観光ホテルで料理長をしている清子の息子の信之に連絡を入れてもらった。
信之は清子直伝の沖縄郷土料理をホテルのレストランで提供し観光客に大変喜ばれているそうだ。
これまで信之が何度説得しても頑として美波間島を出ようとしなかった清子だが今回はそうもいかないようだ。
チーリンに清子の荷物を持ってもらい、諒太は清子を背中に背負って役場へ歩いて向かった。

南の空は雲の間から青空が見えている。 まだ風は残ってはいたが、既に台風の暴風域は抜けていた。
途中の道路はところどころ崩れたり陥没し、木々の枝が折れ道路に落ちているところもあった。
住宅の瓦が風で落とされたり窓ガラスが割れている家もある。
今回の風台風は美波間島に少なからず爪痕を残していったようだ。

諒太は背中の清子に振動を与えないようにゆっくりと慎重に歩いて役場に向かった。
役場のヘリポートには既に宮古島から飛来した自衛隊のCHー47大型輸送ヘリ 通称チヌーク が着陸していた。村役場の防災係 砂川博之の迅速な判断で救助活動が進められている。 島では幸い死者、重傷者は一人もなく、帰宅途中に風に煽られて転倒した高齢者や台風対策中に梯子から落ちて怪我をした者、飛来物に当たり手を切った者などの怪我人は軽症者に限られ、役場には清子を含め5名の怪我人が集まり自衛隊員により応急手当てが施されていた。
チヌークはこの後、隣の与那国島にも立ち寄り与那国村の怪我人も搭乗させることになっている。
与那国島には小さな診療所があるが、入院できる設備がないのだ。

諒太は離れた場所で自衛隊員に清子の代わりにヘリ搭乗名簿に記入をしている。
チーリンはヘリが飛立つまでの間清子と別れを惜しんだ。清子はおもむろに懐から大事そうに先程の写真を取り出した。

「チーリンちゃん…私と主人はこの美波間島で出会って長い時間この島でずっと一緒に過ごしたのよ…」
清子は優しい眼差しで写真の中で笑う亡き夫を見つめた。

「私は幸せよ。気持ちの優しい息子にも恵まれてなにより人の温もりが残る美波間村に暮らすことができてね…
それに…主人はまだ私の心の中に生きているの…
私は死んでからまたこのニライカナイの海で主人と再会するのを楽しみにしているのよ…」
清子は幸せそうに笑うとチーリンを見つめた。

「チーリンちゃん…真田さんに美味しいお料理たくさん作ってあげなさい」

「はい…」
チーリンは涙ぐみながらうなづいた。

「あなたと真田さん…とってもお似合いよ」
清子はクシャっと笑った。

「えっ…?
私たちはそんな関係じゃ…」
チーリンは顔を赤くした。

諒太がこちらを呼ぶ声が聞こえた。
いよいよ清子との別れの時がやってきた。

「おばあちゃん…怪我を治して元気になったらまた帰ってきてね…
私、おばあちゃんにもっとお料理を教えてもらいたいから…」
チーリンは涙を流した。

「はい。チーリンちゃんも元気でね…
真田さん、家のことよろしくお願いします」
清子は諒太に手を合わせた。

「清子さん、家のことは任せてください」

清子は二人にニコっと笑いかけると
御主人の写真を大事そうに抱え清子の荷物を持った隊員に身体を支えられてヘリに搭乗した。

そしてチヌークは轟音を立てて空へ舞い上がっていった。
諒太とチーリンはヘリが見えなくなるまで手を振って清子を見送った。

「あの…」
チーリンは下を向いて顔を赤くしている。

「どうした?」

「いえ…おばあちゃん絶対戻ってきますよね?」

「ああ…戻るさ。清子さんは誰よりも美波間島を愛しているからな」

チーリンは先ほどの清子の言葉が頭から離れず諒太の顔をまともに見ることができなかった。

その二人の様子を役場の中から面白くなさそうな表情で瞳が見ていた。


昼間の台風が嘘のように西の空には真っ赤な夕焼けが雲に反射していた。

12 嵐のあと

12  嵐のあと

その日の夜、石垣島の桑江信之から諒太に電話があった。 母親の清子が世話になったことの礼と清子の怪我の具合の報告だった。
レントゲンの結果、幸い清子の足には骨折は見られず捻挫と診断された。念の為入院した病院の病室では石垣島でも一流ホテルの料理長まで務める信之が差し入れした料理の味にダメ出しするほど清子は元気だということが諒太に伝えられた。
しばらくの間、信之はこの機会に普段できない親孝行をするという。
清子を案じていたチーリンも諒太からその話を聞いてほっとした表情であった。

翌日、日が昇ってから台風一過の島では復旧作業に大忙しとなった。
諒太は島中を駆け回り、折れて道をふさぐ木を撤去したり、飛来物の片付けに奔走した。
また、力仕事が必要なお年寄りの家では求めに応じて快く作業の手伝いをしてあるいた。
一方、チーリンは風の影響で荒れてしまった清子の家の中の掃除に取りかかった。

まだ台風の混乱が残る島であったが、その日の宵の口の時間帯、居酒屋海人の奥の個室では極秘の緊急集会が開かれていた。
出席者は宮城竜男、瞳の兄妹、呉屋工務店の呉屋亜久里、民宿さんご荘の比嘉俊夫、海人の女主人
平仲寛子の5人が額を突き合わせ密会をしている。彼等は台北東海公司による美波間島リゾートホテル開発に反対する意思を持つ島民の中核をなすメンバーである。
一番激烈に反対する源一は性格が猪突猛進で何を仕出かすかわからないという理由で今回は声をかけず後日竜男の口から報告することとした。
海人は台風一過ということもあり、他に誰も客はいなかった。

比嘉俊夫が口を開いた。
俊夫は代々美波間島で民宿を経営しているさんご荘の四代目である。
比嘉はあまり商売っ気がなく、三部屋しかない客室で今まで設備に投資することも民宿を拡張することもなく、こじんまりと古い民宿経営を続けている。
民宿「さんご荘」は安い料金で新鮮な魚介類を提供する民宿として釣り人に愛される知る人ぞ知る名宿なのである。しかし、リゾートホテルなどがくればこんな小さな民宿は簡単に吹き飛ばされてしまうだろう。
それだけに普段昼行灯のような比嘉にも強い危機感があった。 俊夫は顔が長い馬面で天然パーマは子供のころからなおっていない。現在50歳で同い年の妻と高齢の両親と共に民宿を切り盛りしている。

「この前、うちにパインを納入に来た具志堅さんにカマかけて見たんだ。そしたらさ、村議会の連中 、宜保の口車に乗せられて現状賛成派が過半数を占めているらしいんだ。
今度の議会で正式に採決をとるらしい」

具志堅は島でパイナップル農家をしながら村会議員を務めているベテラン議員である。
宜保副村長の水面下での根回しの結果、議会の意思がリゾートホテル開発計画承認に傾きかけているということを意味している。

「そんな馬鹿なことがあるかよ?
村長がいないこのときに!」
スキンヘッドでいかつい顔をした亜久里は拳でテーブルを叩いた。

波平村長のおかげでこの一年、開発計画は頓挫していたのだが、ここへきて急に動き出した感がある。

「あまりにもタイミングがよくないかい?」
平仲寛子が疑問を呈した。

「寛子さんはやっぱり村長の失踪に宜保がからんでいると思うのかい?」
亜久里は腕を組みながら寛子に尋ねた。

「証拠はないかも知れないけど、だっておかしいじゃないの?」

「俺もおかしいと思う」
比嘉も寛子に同意した。

瞳が思い立ったように口を開いた。
「昨日…役場の中は台風のせいで
もう一日中バタバタだったの…
いろんな機関に連絡いれたり、各自治会と連絡とりあったり息つく暇もないくらい。
副村長が別のデスクで砂川さん達と防災会議をしていたときに副村長のデスクに置いてあった携帯電話が鳴ったの。
私は別に興味があったわけじゃないんだけど、あまりにもしつこく鳴っていたから携帯電話を上から覗いてみたの。 そしたら画面には 尹(ユン)って表示されていたわ。それに気付いた副村長は物凄い形相で私を睨みつけて慌ててコソコソ電話に出たの…もしかしてその相手台北東海公司に関係している人物じゃないのかって思って…」

「ユン? 誰だろうね?」
寛子が眉間にしわを寄せた。

「わかんね−けど瞳ちゃんの言う通り台湾と関係ある奴かもしれねぇな…」
亜久里は呟いた。

「とにかく議会で採決されたら、
現状村長不在なんだから副村長の宜保が首長代行者として奴らの申請を承認することになるんだろ?
そうなったらもうお手上げだよ」
比嘉は頭を抱えた。

「なんとしても宜保副村長の尻尾を捕まないといけないね…」
寛子は言った。

「竜男君、黙ってないで何とか言ってよ」
黙り込んでいる竜男に比嘉が声をかけた。

「うん…確かに宜保副村長の動きは怪しいけど、どうやってそのことを証明したらいいか考えていたんだ…」

「それなら竜男いい方法があるぜ」
亜久里がニヤリと笑った。


諒太の家の居間では扇風機が首を振って回っている。

「今日は片付けご苦労さん」
諒太は冷蔵庫からキンキンに冷えた缶ビールを二本取り出すとプルトップを引き上げそのうちの一本を居間で座るチーリンに手渡した。

「ありがとうございます!」
チーリンは諒太からビールを受け取ると美味しそうに喉に流し込んだ。

「この島では台風被害は避けては通れないものなんだ。 最近台風も大型化していて被害も大きくなってきている傾向なんだ。 でもあの風でこの程度の被害で済んで良かったよ」

「そうですね…清子おばあちゃんの怪我も大したことなくて本当に良かったです」

「俺もこの島に来て教えられたんだが、島の人は必ずしも台風を厄介者とは思っていないそうなんだ」

「どういうことです?
台風が来たら大きな被害が出るじゃないですか?」
チーリンは首を傾げた。

「ああ。勿論そういうこともあるんだけど、台風が来ると良い具合に海を搔きまわして高くなった海水温を下げてサンゴが生育するのにちょうどいい温度を保つそうなんだ。それによって豊かな漁場も生まれる。
だから島では台風も自然の恵みとして当たり前に付き合っているんだ。
人は自分のところにだけは災害が起こらないと思う傾向があるけど、島民は災害があるのは当たり前で、大事なのは災害が起きてからどう対処するかを日頃から考えているんだ。
俺も8年前のあの時、そういう認識があったらと悔やまれる…」

諒太は遠い目をしてほろ苦いビールを飲みこんだ。

「それから破れた窓の替えも呉屋さんに発注しておいた。清子さんがいつ帰ってきても良いようにしておきたいからね。 今日君に部屋を片付けてもらって清子さんも喜んでいるんじゃないかな」

「はい、そうだといいんですけど」
チーリンは嬉しそうにビールを飲んだ。

台風が去って少し蒸暑くなった居間に外から心地よい風が吹き込んだ。


「亜久里さん、やっぱりやめよう、これは犯罪だ」
竜男は心配そうな顔で呉屋亜久里の横顔を見つめた。

「今になって何言ってんだ竜男!」

竜男と亜久里は宜保副村長の自宅が見える近くの草むらに潜んでいた。
宜保副村長の自宅は昨日の強風で敷地内の老木が折れ、勝手口の窓ガラスが割れたという。 呉屋は昼間宜保から連絡を受け現場に行ったが、清子の家同様、呉屋工務店のガラスの在庫では対応出来ないことがわかった。 そこで新しいガラスが本島から届くまで割れた窓には亜久里の手によって簡易なプラスチックのボードが被せられた。
更に瞳の話によると今回の台風被害が暗い夜間にどう村民に被害を及ぼすかわからず、緊急の連絡を受けなければならない可能性があるため、しばらくの間、職員が交代で役場に泊り込むことになっている。
ちょうど今夜、宜保副村長が当番になっていて自宅は留守となっている。

そこで、呉屋亜久里は竜男に思い切って宜保副村長の自宅に忍びこみ、波平村長の失踪に関する手掛かりを掴もうと竜男に提案したのだ。

「竜男、お前は元警察官だから良心の呵責があるのは分かる。
だけど、なにも俺たちは盗みに入るわけじゃねぇ。 何も手掛かりが出なければそれでいいじゃないか。
でも、何か失踪した村長の手掛かりがあったらどうするんだ?
手遅れになるかもしれねぇんだぞ。
竜男!腹をくくれ」

「…わかった」

暗闇の草むらで小声で話す二人の意思は決まった。

宜保の神経質で内弁慶な性格が災いし、数年前に妻は宜保との生活に嫌気がさして子供を連れて実家の西表島に帰り現在別居中である。
そのため、主人のいない家は暗く静まりかえっている。
亜久里は勝手口にまわると手際よく自ら設置した仮のプラスチックボードを外し、鍵を開けると中に入った。竜男も亜久里の後に続いた。
亜久里は以前リフォーム工事でこの家に入ったことがあり、部屋の配置は覚えている。
二人は懐中電灯の明かりを頼りに宜保の書斎に向かった。部屋のドアは鍵がかけられておらず、二人は慎重に中に入った。
懐中電灯に照らされ浮かび上がった書斎の中には事務机とその後ろに大きな本棚、机の前には一人暮らしには場違いな大きさのソファーとテーブルがある。事務机の上にはデスクトップパソコンがあり、後ろの幅の広い本棚は上下セパレート式で上段に本棚、下段は引き出しや扉があり、物を収納出来るようになっていた。
竜男は事務机の棚を、亜久里は本棚の下の棚を開け、何か手掛かりになるものがないか探し始めた。
誰も居ないとはわかっていても自らの心臓の鼓動が聞こえてきそうなくらいの緊張感であった。
引き出しの中を片っ端から探るがこれといった物は出てこない。
竜男はデータの中に手掛かりはないかとパソコンの電源を入れた。

亜久里は下段の観音開きの扉を開けてみた。 するとそこには高さ1メートルはありそうな金庫があった。
亜久里は駄目元でハンドルに手をかけたが、当然鍵がかかっていて開かない。
亜久里は金庫の鍵を必死に探した。

竜男もパソコンを立ち上げてはみたもののパスワードロックがかかっていて先に進むことが出来なかった。

「クソ!ここにもない…」
二人は焦った。
その時であった。 厚手の遮光カーテンに外から車のヘッドライトの白い灯りが広がった。

「やばい!竜男隠れろ!」

車のドアが閉まる音が聞こえた。
二人は慌ててソファーの裏にうずくまり身を隠した。

しまった!
暗闇の書斎にパソコンのディスプレイが青白く光を放っている…
電源を切り忘れたことに気がついた竜男は青くなった。
すぐに玄関から人が入ってくる気配がした。
心臓の鼓動が早くなり、二人の背中に冷汗が流れた。

〈ギシギシ…〉
人が廊下を歩きこちらに近づいてくる足音が聞こえてくる…

〈ガチャリ…〉
書斎のドアが開いた。

これまでか…
竜男は目を閉じた。

部屋の照明が点けられた。

「ハアー…」
宜保がため息をつきながら部屋に入ってきた。
宜保は車の鍵が付いたキーホルダーの束を事務机に無造作に放ると大きなあくびをした。

うん?
宜保はパソコンの電源がついていることに気がつき周りをキョロキョロと見渡した。
亜久里と竜男は物音を立てないよう必死に息を殺した。

「電源切り忘れたか…
疲れているのかな…」
宜保は独り言のようにつぶやくと指で目頭を押さえた。

「大体、何で私が当直など…」
宜保はブツブツ文句を言いながら書斎を出て行った。
しばらくすると風呂の方からシャワーの音が聞こえてきた。
宜保は一旦役場を抜け出し自宅に帰り、シャワーと着替えに戻ってきたらしい。

もしや⁈
竜男は再び照明が落とされ暗くなった部屋の中にやわら立ち上がった。
竜男は事務机に歩み寄ると宜保が机の上に置いていったキーホルダーを手に取った。

「亜久里さん!金庫の鍵この中じゃ?」
竜男はいくつかの鍵の束の中に金庫の鍵があるのではないかと踏んだのだ。

「竜男試してみろ」

亜久里に促され竜男は大きさの合いそうな鍵を一つずつ金庫の鍵穴に差し込んだ。

〈カチャッ〉
金庫の鍵が開く音がした。竜男の読み通り金庫の鍵は車の鍵のキーホルダーと一緒に宜保は持ち歩いていたのだ。 竜男は大きな音が出ないようにゆっくりとハンドルを回した。
厚く重い重厚な扉が開いた。
懐中電灯で照らしてみると五段の引き出しになっている。
竜男はそのうちの一つの引き出しを開いてある物を開いて懐中電灯を当ててみた。

「亜久里さん、これ!」
竜男はある一点を亜久里に指し示した。

「竜男、こいつは⁈…」
暗闇の中二人は顔を見合わせた…

13 真夏の夜の花火

13  真夏の夜の花火

翌日の朝、諒太はようやく自分の畑の作業に取り掛かることが出来た。
台風の影響で畑には様々な飛来物があり、強風の影響を受け作物が被害を受けている場所がところどころ見受けられた。

諒太が作業しているとふらりと竜男が顔を出した。
ただ、その顔はいつも魚の差し入れに来る時のような陽気な感じではなくいたく真剣な顔である。
竜男はいつもの麦藁帽子に首にタオルをかけた姿でしゃがんで作業する諒太の背後から声をかけた。

「諒太…」

夢中で作業に没頭していた諒太は竜男が後ろにいた事など声をかけられるまで気がつかなかった。

「おお…竜男か、どうした?
そんな深刻な顔をして?」

「ちょっと話がある…」

「話?」

逆光に映る真っ黒に日焼けした坊主頭の竜男を諒太は眩しそうに見上げた。

二人は畑の畔に並んで腰を下ろした。諒太は普段とは違う竜男の雰囲気を感じ取った。

「お前…台北東海公司のリゾートホテル開発計画知っているよな?」
竜男は諒太の方に顔を向けず正面を向いたまま聞いた。

「ああ、聞いてはいる。それが?」

「お前は村議会の議題に上がっているリゾートホテル開発計画どう思う?」

「うん…」
諒太は目を細めて遠くを見つめた。

「俺は後から来た人間だし島民の民意には従うつもりだ」

「建前はいい! お前の本音はどうなんだ?」

「本音か…こんな美しい自然の残る美波間島にホテルを造って観光客を呼び込みたいって気持ちはわかる…
ただ、ホテルを造ることによってその美しい自然が破壊されてしまうようなことになったら本末転倒じゃないか。
美波間島は俺の絶望していた心を癒してくれたんだ。 だから無闇に自然を壊すような開発はしてほしくないと思っている…」

「わかった!お前ならそう言ってくれると思った」
竜男ははじめて諒太の顔を見て力強く言った。

「お前に頼みがある。俺は今日那覇に行く用事があるんだ。今晩、唯を預かってもらえんか?」

「唯を? 俺は全然構わないが、千鶴さんや瞳ちゃんは?」

「千鶴は昨日から風邪気味で寝込んでいる。瞳は今日、役場の宿直の当番なんだ」

「えっ? 千鶴さんがそんなときにお前の那覇に行く用事はそんなに大事なことなのか?」

竜男は少し考えこんだが昨夜の海人での話、呉屋亜久里と宜保副村長の家に不法に侵入したことを包み隠さず諒太に語った。

「金庫の中の宜保の通帳にユンという人物から500万円の入金記録があった。 それが直ちに台北東海公司からの収賄とはいいきれないが、波平村長が失踪した時期とも重なる。
俺はこの写真を資料として県警の昔の仲間を頼ってみようと思う」
竜男はスマホを取り出し昨夜の宜保の通帳の写真を画面に出した。

「波平村長の失踪に裏があったというのか…」
写真を見た諒太は絶句した。

「それを確かめるために俺は那覇に行くんだ」

「わかった!
唯のことは俺に任せてお前は那覇に行ってこい」
諒太は竜男の背中を叩いた。


二人の若い男がサトウキビ畑が続く一本道を並んで歩いている。

「台風凄かったな竜々」

「ああ…僕、風の音が怖くてさぁ…
さすが南国だよな紳々」

中国人留学生の紳々と竜々は現在津嘉山の家に住み込んで牧場でアルバイトをしている。
今日の仕事も一区切りつき、二人は津嘉山に場所を教えてもらった国吉商店にお菓子やジュースの買い出しに出かけたのだった。
二人が商店の店先まで辿り着いた時、店の中から背が高くスラリとした髪の長い美しい女性が買い物袋を持って出てきた。
女性は一瞬二人に目が合うとニコっと微笑み、まるでモデルがランウェイを歩くように颯爽と歩き去っていった。

紳々と竜々は呆けたように女性の姿が見えなくなるまで目で追った。

「あぁ…女神様…」
紳々は口をぽかんと開けてため息をついた。

「なあ紳々、あの人 女優の蔡志玲に似てなかった?」

「まさか?こんな日本の小さな島に蔡志玲がいるわけないだろ」

「そうだよなぁ…きっと似た人だよなぁ… それにしても綺麗な人だったなぁ」

「日本にもあんな美人いるんだな。竜々」

「美人とは思うけど僕たちのタイプとは違うんだよなぁ…」

そう…彼らのストライクゾーンはスタイルの良い大人の女性ではなく、あくまで二次元のアニメから飛び出したような可愛らしい少女のような女の子なのであった。

チーリンは今夜唯が家に来ると聞き、唯のためご馳走を作ろうと国吉商店に買い出しに出かけたのだった。
今夜は清子オバーから伝授されたレシピに従って唯のためにハンバーグを作ろうと張り切っていた。

夕方になり、那覇に向かうため与那国島行きのフェリーに乗るべく竜男は唯を連れて諒太の家にやって来た。

「おねえちゃーん!」
唯は玄関に出迎えたチーリンの足にいきなり飛びついた。

「いらっしゃい 唯ちゃん」
チーリンは唯と同じ目線に屈むと笑顔で答えた。

「チーリンさん、面倒をかけるけど唯のこと頼みます」
竜男は頭を下げた。

「そんな…全然面倒なんて思いませんよ。私子供が好きなんで…」

「唯ちゃん、夕飯作るの手伝ってくれる?」

「うん!やるー!」
唯は大喜びで答えた。
チーリンは唯を誘って台所へ向かった。

「諒太、頼む」
竜男は真剣な眼差しで諒太を見つめた。

「ああ。任せておけ」
諒太は頷いた。
この二人の間にはくどくど語らずともわかる阿吽の呼吸というものがあった。
竜男は唯の着替えなどの入ったバッグを諒太に手渡すとフェリー乗り場に向かって歩き去った。

日が傾き諒太が庭先で農具の手入れをしていると台所からはチーリンと唯の楽しそうな声が聞こえてきた。しばらくすると家の中に良い匂いが漂ってきた。居間のちゃぶ台にはチーリンと唯の手作りのハンバーグが並べられた。子供が食べやすいようにケチャップベースのハンバーグだ。

「諒太おじちゃん、これおねえちゃんと唯が作ったんだよ!」
唯は自慢気に言った。

「そうか、唯はお料理も出来るのか? 偉いなぁ」
諒太は目を細めた。

唯はニコっと笑った。
諒太は唯の隣のチーリンにアイコンタクトで感謝の気持ちを伝えた。

「さあ、冷めないうちに食べましょう」
チーリンもいつにも増して嬉しそうである。

ハンバーグは唯の小さな手で成形されたとみられ、形もまばらで不恰好なものであったが、二人の手作りの温もりが伝わってきた。
子供を間に挟んでの食事は諒太にとって数年ぶりのことである。
なにより唯が美味しそうにハンバーグを食べる姿が食卓を一層明るくした。
チーリンは家庭の温かさというものを感じる時間となった。楽しい夕飯が終わるころ唯が諒太に向かって言った。

「諒太おじちゃん! 唯、お父さんに買ってもらった花火持ってきたの。
チーリンおねえちゃんと一緒にやろう?」

「花火か…久しくやってないなぁ…
よし!唯、皆んなでやろうか?」

「うん!」
唯は嬉しそうに大きな声で答えた。

「そうするとバケツとロウソクが必要だな…さて?ロウソクどこにしまったかな…」
諒太はロウソクを探しに居間を出て行った。
チーリンと唯は先に縁側に並んで座って諒太を待った。

「ねーおねえちゃん?唯が大人になるまでずっと島に居てくれる?」
唯は唐突にチーリンに聞いてきた。

「えっ?」
唯の急な質問にチーリンは答えに窮した。

「うーん…
私にも家族がいるし、仕事もあるからいずれ台湾に帰らなきゃいけないの…」

「そうなんだ…」
唯は悲しい表情をした。

チーリンは相手が子供とはいえ話を合わせて嘘をつくのはばかられた。
唯はうつむいたままである。

「ごめんね…唯ちゃん」

「そうだ!唯、良い事考えた!」
唯はパッと明るい表情に変わった。

「なぁに唯ちゃん?」

「チーリンおねえちゃん、諒太おじちゃんと結婚すればいいんだよ!
そうすればおねえちゃんずっとこの家に居られるじゃない!」

いかにも名案だという風に唯はチーリンの顔を見上げた。

「え⁈
そ、そんなこと出来ないよ…」
チーリンはひどく動揺して答えた。

「どうして? おねえちゃん諒太おじちゃんのこと嫌いなの?」

「嫌いじゃないけど…」
チーリンは返答に困った。

「嫌いじゃないんでしょー?」
唯はチーリンの袖を引っ張った。

「う…うん…」
チーリンは顔を曇らせた。

「唯は諒太おじちゃんのこと大好きだよ」

(ああ…そういうことか…)
チーリンは納得した。

「私も真田さんのことは唯ちゃんと同じように好きよ」

「よかった!」
唯は明るい笑顔で答えた。


しばらくして諒太が水が入ったバケツと探しだしたロウソクを持ってきて唯をチーリンと挟む形で縁側に腰をかけた。

ん?
唯は諒太の顔を見つめてニコニコしている。

「諒太おじちゃん良かったね!」

「何のことだい?」
諒太は唯に尋ねた。

「チーリンおねえちゃん、諒太おじちゃんのこと好きだって!」

な⁈
諒太は唯の発した言葉にびっくりしてチーリンを見た。

「ち、違うんです!
そういう意味じゃなくて私はlikeの意味のほうで言ったまでで…」
チーリンは慌てて否定した。

「わ、わかってるって!
子供が言ったことだもんな」
諒太も動揺を隠せなかった。

諒太とチーリンは顔を真っ赤にしてうつむいた。
真ん中に挟まれた唯は楽しそうに足をブラブラさせて右手でチーリンの左手を左手で諒太の右手を掴んだ。

あ…
チーリンは唯の手の温もりを感じた。そしてふと以前台南の母親から言われたことを思い出した。

(あなたも早く家庭をもちなさい。
全然景色が違ってみえるものよ)

今のチーリンにとって家族の単位とは父と母、そして一人の兄、その中に自分がいるものである。
自分が主体となって家族を築くことなど別世界のことのようで想像もつかないことであった。
女優として世に出、大成してそれなりのステイタスを築きあげることが一番の目標であり、漠然と結婚願望はあったが、現実に家庭を持つことなど少しも考えていなかった。
しかし、間近にチーリンの友人の中の何人かは唯と同じくらいの年頃の子供がいる。
今迄チーリンはそれを特に羨ましいとも思わず横目に見ながら仕事に没頭してきた。

家族か…

家族… いいな…
こうして三人縁側に並んで座り、嬉しそうに笑う唯を見ると胸の中がじんわりとあたたかくなる。

(母さんが言ったことが今なら少し分かる気がする…)
チーリンは優しく微笑むと唯の温かい手を握り返した。

「早く花火やろう?」
唯の言葉にチーリンは現実に戻された。
諒太は立てたロウソクに火をつけた。 唯が持参した花火は玩具に分類される子供でも安全な手花火のセットである。
諒太は袋から唯とチーリンに一本づつ花火を手渡した。 三人はロウソクの炎を花火に点火させた。

「綺麗…」
花火は赤や緑の色で勢いよく発光し庭を明るく照し出した。

諒太もまた違う感情で唯が楽しそうに花火をする姿を見つめていた。

「わあーすごーい」
金色の火花を放つ手花火に感激して声をあげる唯を優しい表情で見守った。

(唯も大きくなったんだな…)

諒太がこの島に来た時、唯はまだ2歳を過ぎたばかりの小さな女の子であった。 諒太が島で過ごす日々がそのまま唯の成長を見守ることでもあった。
そしてここにいる唯は津波に流された娘の愛と同い年なのだ。
諒太はこれまで時折唯を見かけると今は亡き娘の愛のように思えることがあった。
さらに偶然にも唯と楽しそうに花火に興じるチーリンの歳もいま妻の絵美が生きていれば同い年なのである。

(俺はあの頃…仕事に追われるあまり家族と時間を共に過ごすことが出来なかった…

愛…俺みたいな男がパパで幸せだったのかい?
絵美…俺みたいな男が夫で幸せだったのかい?

ごめんな…
お前たちを助けられなくて…

あの震災がなければ、こことは違うどこかでこうやって家族三人並んで花火をしていたのだろうか…)

諒太は声をあげて楽しそうに笑う唯とチーリンを見らながらふとそんな事を想った。

諒太の目に光るものがあった。
花火の煙が目に染みたのか、それとも別の要因なのかそれは諒太にしかわからない。


それぞれの想いをのせて美波間島の夜は更けていった…

14 黒い陰謀

翌朝、当直上がりの瞳が唯を迎えに来た。
唯は昨夜、楽しい時間を過ごせたようでチーリンと布団を並べてぐっすり眠った。
諒太にとってもチーリンにとっても唯と過ごせた一夜は忘れられないものとなったようだ。


唯が諒太の家に泊まった日から2日後、竜男は那覇から戻った。
しかし、期待は大きく裏切られる結果となった。 まず、収賄などの汚職事件というものは警察や検察がしっかりとした証拠固めをした上で地検に送られ告訴が可能かどうか決められる。
竜男はかつての県警の後輩と特捜部を訪れたが、反応は芳しいものではなかった。検察特捜部という組織は自らの信用を落としかねない事柄を嫌う。
つまり、空振りに終わりそうな案件は最初から扱わないという体質なのだ。竜男が示した写真には興味を持ったものの、ユンという人物が台北東海公司の人間であるという確証がない。よしんばそうだとしても日本の捜査権が台湾に及ぶことはなく、国際刑事警察機構(インターポール)に捜査依頼するにしても写真一枚では証拠が薄すぎた。
宜保の通帳に記載された500万という大金であるが、宜保に人から借用したのだとシラを切られればそれ以上追求することは困難であり、確たる証拠がない限りは特捜部が動くことは難しいという判断であった。
もう一つは写真の入手経路についても指摘された。竜男はまさか宜保の家に忍びこんだとは口が裂けても言えず口を濁した。
尚且つ宜保は波平が消息を絶った日、美波間村役場に出庁しており、宜保自身が那覇で波平の失踪に関与することは不可能であり、また間接的に関与をしていたとしても、これだけの内容で立件するには程遠いことであった。
結果、竜男の告発は特捜部預かりという曖昧な処断が下された。

竜男に一縷の望みを託していた開発計画反対派の島民はがっくりと肩を落とした。

その後、村議会ではリゾートホテル開発に関して決議がとられ、多数決の結果、僅かに賛成派が過半数を上回り議案は正式に可決された。
宜保の水面下での根回しが効果をあげた結果になった形となった訳だ。
そして、その日のうちに村長代理の宜保副村長によって認可のサインがされた。もはや島は後戻りが出来ない状況となったのである。


ー台北東海公司社長室ー

尹(ユン)リゾート開発担当部長は
社長の大きなデスクを挟んで直立不動で呂威と向き合っている。

「どうだね?尹部長、私の指示した通りにしてみたら簡単に事が運んだだろう?」
呂威は本革張りの高級チェアーに踏ん反りニヤリと笑った。

「ハッ!社長の御炯眼には畏れいるばかりです」

ようやく美波間島のリゾートホテル開発の工事認可がおりたことでユン部長は首の皮一枚繋がった形だ。

「宜保とかいう男、これからも使えそうなのかね?」

「はい。宜保は現在妻との離婚調停中ということもあり、多額の金が必要だという情報を掴んでおります。
今後も金次第でいかなる条件ものむものかと…」

「よろしい。来年の夏までには何としても美波間島に我が社のホテルを完成させるのだ。 金はいくらかかっても構わん。
考えても見たまえ…傘下の子会社に高速フェリーを建造させて新たに航路を設ければ島までここから2時間もかかるまい。
そうすれば美しいリゾート地に台湾の金持ちどもがどっと押し寄せるようになる。 それが全て我が社の利益になるのだ。 同時に島の土地を買い占め別荘地を造成して販売すれば莫大な利益をもたらすことになるぞ。
フハハハハ!」

呂威は狐のような釣り上がった目を更に細くし高らかに笑った。

社長室を退室したユン部長は呂威社長の方法を選ばない強引なやり方と底の知れない強欲さに背筋を凍らせた。 ユンは元々呂威の子飼いの部下ではない。台北市で中堅の不動産デベロッパー会社の社長をしていたのだが、数年前に呂威の台北東海公司に会社を買収され現在の部長職に留まっているのだ。
ユンは呂威の前に出ると体が固まってしまう。あの狐のようなギラギラした目で見られると時に恐怖すら感じることがある。 呂威に命じられたプロジェクトに瑕疵が生じることなどあってはならないことで、失敗すれば身の上にどんな事が起こるかわかったものではないのである。
ユンは大きなため息をつくと背中を丸めて廊下を歩き出した。

「上海を呼び出してくれ」
社長室の呂威は電話の内線ボタンを押すと隣室にいる秘書に命じた。
呂威が上海と呼ぶのは台北東海公司に大口の融資を行なっている上海に本社がある中国でも屈指の大企業のことである。
暫くして電話が繋がった。

「どうも社長、呂です。先般よりお話ししている日本の美波間島リゾートホテル開発計画の件、申請が通りました。これによって建設に向けて工事に移れます。つきましては兼ねてからお願いしている追加融資の件お願いしますよ社長。
何しろ僕とあなたは一蓮托生なんですからねぇ…
ーー
ーー
はい。それではよろしく」

呂威は通話が切れると勢いよく受話器を置いた。

「ケッ!…苦労知らずのボンボンの若造が!」
呂威は誰も居ない社長室で悪態をついた。



多くの台湾製のスクーターや日本製のスーパーカブが行き交う雑踏の中にそのビルはあった。通りには道路にはみ出すように様々な看板が突出している。路上ではランニングシャツの親父が鼻歌を歌いながら屋台で焼き鳥を売っている。 すえた臭いが鼻をつくこの場所であるが、誰でも一週間もいればこの臭いに慣れてしまうだろう。

ここは台北市の中心地から少し郊外にある築20年を超える雑居ビルである。3階には玉山通信 (ギョクザンツウシン)という社員数10名の小さなローカル通信社が入っている。

江江は社内でキャップと呼ばれる局の責任者の
王重林と顔を突き合わせて議論を交わしていた。

江江はかつて台湾随一のキー局に所属していたやり手のキャリアウーマンであった。見た目は気が強そうで近寄り難い雰囲気だが、付き合ってみると面倒見の良い女性である。
キー局に居た頃は夕方のニュースを担当する人気キャスターで、ズバリとものを語る歯に絹着せぬ言動はお茶の間から圧倒的な支持を得ていた。
今年50歳でまだ働き盛りの江江が今何故こんな小さなローカル局にいるのか…
それには理由があった。
正義感が強く妥協というものを知らない猪突猛進型の性格の江江はかつてキー局にいたとき、ある事件のニュースの一件で社内で上層部と激しく対立したことがあった。

それは数年前のこと、一人の女性が23歳という若さで急死した。
死因は急性心不全。
これだけなら何もニュースにはならない。
しかし、女性の遺族は死因に納得出来なかった。
女性には持病もなく、学生の頃はバスケットボールの大会で優勝するほどの体力があり、健康に関して全く問題がなかったからだ。
遺族はしかるべき公共機関に不服を申し立てた。
だが、医師が作成した死亡診断書には間違いはないとして相手にもされなかった。 その後、遺族はマスコミを頼った。女性の死には問題が隠れているということを訴え出たのだ。

女性が働いていた会社は
「台湾通電」という台湾でも大手の広告代理店であった。
女性が死亡する一年前に台北東海公司に買収され傘下に入った企業である。会社は買収されてからというもの、徹底的なリストラが敢行され、少なくなった人員でいままでと同じ仕事量をこなさなければならない状況が発生し、結果、残った社員にしわよせがきた。若い彼女は不満を口にすることもなく上司の命令には従順に従った。しかし、仕事の過酷さは尋常ではなく、朝の5時から深夜2時までの常軌を逸した長時間の労働時間に加え、休暇などニヶ月に一日あればいいほうで、会社に泊まりこむ事もざらであった。家にいるときも何かあれば上司から電話が入るという生活で女性は心身ともに衰弱し、ついには帰らぬ人となってしまったのだ。
田舎で暮らしていた女性の両親は娘を救えなかったことを酷く悔やんだ。

マスコミ各社は女性の両親の訴えを取材した。しかし、新聞、テレビ、週刊誌に至るまでその訴えを公にとりあげることはなかった。
そこにはマスコミ業界の闇が広がっていたのだ。 女性の働いていた台湾通電は大手テレビ局に入り、番組制作を取り仕切っている重要なピースだったからだ。 そしてもう一つの大きな問題は台湾通電の親会社は台北東海公司であったからだ。
台北東海公司は全てのテレビ局と新聞社にパイプを持ち、各社の最大のスポンサー企業であった。
遺族の悲痛な訴えはそうしたマスコミ側のエゴに黙殺されてしまった。

江江はこのような腐ったマスコミの体質が許せなかった。
女性の死の真相を自分の番組内で報道するよう上層部に直訴した。
しかし、彼女の意見具申は通ることはなかった。 江江の働くテレビ局も台北東海公司が大口のスポンサーであったからだ。 結局テレビ局サイドはスポンサーに頭が上がらないいわゆる報道の「忖度」が生じた。

江江は常々報道に携わる者とは真実を伝えることが使命であるという強い信念を持っていた。
江江はキャスターを務める自分の夕方のニュースがあと1分で終了するというとき、プログラムになかったことをカメラに向かって独自の判断で語り出した。 企業名だけは伏せたが、厳しい労働環境に置かれ、痛ましい死を遂げた女性のことを視聴者に向け問題提起した。生放送中でしかも番組終了時間直前であったため、江江の突然の行動に面食らったプロデューサーはCMを挟むことすら出来なかった。

だが、このことは局内で大問題となった。
早速、台湾通電からクレームが入り、重役室に呼び出された番組プロデューサーと江江は居並ぶ重役たちから激しく叱責された。
しかし、江江は自分の持論を曲げることはしなかった。そればかりか局の姿勢を批判した。
結果、江江を監督出来なかった番組プロデューサーは地方局に左遷、江江は番組を降ろされ事務職に異動させられた。江江はそれを潔しとせず局を退社した。視聴者の間では江江の突然の退社に様々な憶測が飛んだが、局は江江の体調不良が退社原因だと発表し、時間が経つにつれこの話題は徐々に忘れさられていった。

江江はその後、真実の報道を目指すことを社是とした今の会社「 玉山通信」に移ったのである。玉山通信は創設間もない小さなローカル通信社である。
元々大手新聞社でジャーナリストとして働いていた王重林が自らの出版本の収益を元手に創設した会社で現在、社の責任者としてキャップを務める彼も社の都合で偏向報道や捏造記事がまかり通る新聞業界に嫌気がさして野に下ったのであった。
それから王は志を同じくする同志を集め、会社を立ち上げたのだった。しかし、資金が乏しいため紙媒体での発刊は出来ず、主にネット上にニュースを掲載するという方法で情報を発信した。ここ最近マスコミの報道に疑問を持ち始める人も増え始め、本当のことを知りたいと思う購買層から支持を受けていた。スポンサーはなく、こういう購買層からの有料配信の収益が柱のため、使える資金は限られていた。
しかし、逆にスポンサーにおもねることもないため自由な報道が可能なのだ。
これを面白く思わない輩から社に怪文書や脅迫状が送られることもしばしばあるほどであった。

キャップの王は中年肥りした大きな腹にサスペンダーがトレードマークの男で、フリーになっていた江江に声をかけ、チーフ職として玉山通信に迎え入れたのも彼であった。

今、江江と王は事務所で議論を交わしている。
再びあの忌まわしいマスコミ業界の闇が覆いかけていた…

最近、台湾のみならず各地でスマートフォンが爆発炎上する事故が相次いでいた。 数週間前にはその事が原因で高雄市に住んでいる男性の家が全焼するという火事が発生した。
幸い男性は逃げ出し人的被害はなかったが、一歩間違えれば大変な事故になっていたはずだ。爆発炎上したスマホのメーカーはチャオミーという中国企業のメーカーで、米国、韓国のメーカーに次いで世界3位のシェアを誇るスマホメーカーであり、安価な販売価格をウリにしてここ数年急成長している電子機器メーカーである。
そのチャオミーに発火の原因とされるスマホの電池を供給しているのが台北東海公司の子会社の
「陸進」という電子機器メーカーだったのである。
さらには台北東海公司はチャオミーの大口の株主であった。
このことを重く見た王は江江に調査を命じていた。


「キャップ、だめです…また取材拒否です…」
江江は王に報告した。

「そうか…またか…」
王は腕を組んでため息混じりに答えた。

江江は発火が起きたスマホ利用者の取材をしていた。当初は事故に憤り江江の取材に協力的であった彼らであったが、この数日の間に江江に会うことを拒絶し、一切口を閉ざしてしまったのだ。 何らかの力が働いたことは疑いようがなかった。

「おそらく被害者にはこれ以上騒ぎを大きくしない事を条件に多額の示談金が支払われたのだろうよ…」

王は窓に架かるブラインドを指で広げ外の景色を見ながら独り言のように呟いた。

「はい…私もそう思います」
江江は悔しさのあまり拳を握った。

「この案件は被害者側から追うルートは絶たれてしまったが、必ず突破口はあるはずだ。私は諦めない…

台北東海公司…我々にとって高い壁だな」
王は振り返り江江の顔を見ながら言った。

「はい…」

顔を合わせた二人の目は怒りに燃えていた。

電池製造メーカー陸進の公式発表によると発火は「使用者が適切な方法での充電を怠ったため」と決して自社の過失を認めようとはしなかった。第三者の調査機関による調査においても政府検査機関に提出されている電池の性能データは十分水準に達していてメーカーサイドの問題はないとされた。

マスコミ各社は電池に問題なしの報道のみを連日流した。


「行くわよ!」
江江はほとんど来客が来ることなどない会社の応接ソファーで寝そべりながら愛用のカメラをいじる
陽 代沫に声をかけた。

「どこ行くんすかチーフ?」
陽は目だけ江江に向けて尋ねた。

「腹ごしらえよ」

「俺、昨日スッちゃってスッカラカンなんすよ」
陽の傍らにはいくつも赤ペンが引かれた競馬新聞が置いてあった。

「全くあなたはしょうがないわね…
奢ってあげるからついてきなさい!」

「やりぃー!」
陽は喜んで立ち上がった。

陽代沫は玉山通信専属の報道カメラマンで、ムービー、一眼レフ問わずカメラの扱いについてはこの業界で彼の右に出るものはいないほどの腕の持主であった。 彼もまた、勤務していた新聞社と大喧嘩をしてドロップアウトした後、フラフラしていたのを王に拾われた人間である。
35歳の独身で競馬が命。宵越しの金は持たないというのが彼の信条だった。

江江は陽を連れ出し、行きつけのイタリアンレストランに向かった。
このレストランは江江が大手キー局にいた時からランチに使っていた小洒落た店で、二階の窓際が江江のお気に入りの席であった。

「いらっしゃいませ 江江様」
顔馴染みの若いウェイトレスに二人は案内された。

「私はいつもので。
さあ、好きなもの食べていいわよ」
渡されたメニューに目を輝かせている陽に江江は声をかけた。

「本当にいいんすか⁈ チーフ?」

「いいわよ。あなた競馬ばっかりやって食べてないんでしょう?」

「じゃあ…俺ボンゴレビアンコ…
…の、大盛りの大盛りで!」
陽はウェイトレスの顔を見てニッと笑いかけた。

「は…はぁ…」
ウェイトレスは困ったように注目を受けた。

「あなた本当に痩せの大食いね?」
江江は呆れたように微笑んだ。

「俺はそれだけが取り柄っすから」

そうは言うものの、少ない社員の中で陽はカメラマンの仕事だけではなく、編集やスケジューリングまで行なう今や会社になくてはならない存在であり、江江も少々クセのある陽を高く買っていた。

席から窓の外を見ると、向かいのビルの壁には蔡志玲(サイ チーリン)の大きな広告看板があった。
真っ赤なドレスを着て微笑むチーリンの化粧品広告の看板だった。

「そういえば蔡志玲…最近テレビで見かけないわね…」
江江は肩ひじをテーブルにつき頬杖をつきながらボソッと呟いた。

「なんでも次の映画出演のために充電中だって事務所は発表してるみたいすよ」

「へぇ…あなた芸能担当でもないのに詳しいのね?」

「だって俺、蔡志玲の大ファンですもん。志玲は綺麗だけじゃなく少女のように純真で天真爛漫なところと、艶のある大人の女性が共存するところが男心をくすぐるんすよね〜」

「なるほどね…
確かに私も蔡志玲の持っている知性と教養とその美しさは世界レベルだと思う…
彼女は台湾の誇りよね」

「志玲と結婚が噂されているジュリーチェン、ほんと羨ましいっすよ。
俺も出来ることなら志玲と付き合いたいっす」

「あら?ずいぶん高望みをするのね?蔡志玲と釣り合う男性になりたいのなら、まずそのボサボサの頭とシワくちゃのシャツを何とかしないとね」

「そうっすよね〜」
陽は頭を掻いた。

江江は陽と別れた後、台北の街を一人歩いた。
そしてある場所で足を止めた。
そこは台湾のランドマークタワー
台北101が間近に見える台北のビジネス街にある
地上30階建ての近代的な高層ビルの前である。
天空にそびえる巨大な楼閣のように台北東海公司の本社はそこにあった。

さながら風車と対峙するドンキホーテのように江江はそれを見上げた…

15 遠き旅路

最近諒太の様子がおかしい。
諒太自身はそうは思ってはいないかもしれないが、少なくともチーリンにはそう見える。

朝のことだった…
チーリンはシャワーを浴び、体にバスタオルを巻いて洗面台の前で化粧水をつけていた。
その時いきなりドアが開き、諒太が洗面室に入ってきたのだ。
一瞬のことに状況がのみこめずチーリンはフリーズしてしまった。

「キャッ!」

チーリンの悲鳴に我に返った諒太は

「すまん…いたのか…」

と声をかけると慌てるそぶりも見せず洗面室を出て行った。その目は虚ろで心ここに在らずという感じであった。
また、いつものように収穫した黄金芋を庭で大きさ別にコンテナに仕分けしている時も何かを考えこんでいるような顔で一点を見つめ、作業する手は止まっていた。食事の時間もチーリンの問いかけにも上の空で何も言葉を発することはなかった。
チーリンはこんな集中力を欠いた諒太の姿を見るのは初めてのことだった。

(あの日からおかしい…)
今思うとチーリンには思い当たるふしがあった…
唯が帰った翌日の昼頃、チーリンは家の中の掃除をした後、洗濯物を庭で物干し竿に掛けていた。
すると一台の赤いバイクが玄関先に止まり、郵便ポストに何かを入れていくのが見えた。 島に一つしかない郵便局の配達バイクである。
家にポストはあっても普段郵便物など届いた試しが無いだけにチーリンは訝った。バイクが勢いよく走り去った後、ポストを覗いてみると白い封書が一通入っていた。封書は諒太宛で裏の差出人の箇所には住所などの記載は無く、ただ「海野」とだけ書かれていた。楷書体で書かれた綺麗な字である。島の人間ならわざわざ郵便など使わず直接会うだろう。
つまりこの海野という人物は島外の人だということを意味している。
昼頃、諒太が畑から帰って来るのを待ちチーリンは封書を諒太に直接手渡した。

「真田さんにお手紙が届いてますよ」

「俺に手紙?」

封書をチーリンの手から受け取った諒太は差出人の「海野」の文字を見るや否や顔色を変えて自室に閉じこもってしまった。
それから何時間も部屋から出て来ない諒太を心配したチーリンは襖が開かれたままの諒太の部屋を覗くと何かを書いている手を止め、チーリンから隠すように紙を裏返した。

「大丈夫ですか?」
というチーリンの問いかけにも

「ああ…何でもない…」
と小さな声で答えるのみであった。

暫くして
「郵便局に行ってくる」
とだけ言い残し封書を手に持って出掛けて行ってしまった。

(身内の方かしら?…
それとも…島の外に彼女でもいるのかしら?)
思いを巡らせるもチーリンにわかるはずもなかった。

それからというもの、諒太はいつも何かを考えているような顔で、何をするのも上の空という状態が何日も続いた。

瞳は役場の仕事を定時に終え、家への帰り道の途中、比嘉の経営する民宿「さんご荘」へ立ち寄った。観光課の仕事として島の観光パンフレットを民宿に置いてもらうためだ。
島に訪れる釣り人達に地元に帰ってから島をPRしてもらうため瞳の提案で始めたことで、もう何年にもなる。 いつものようにさんご荘に入るとロビーで比嘉が眉間に皺を寄せながら近寄ってきて瞳を呼び止めた。

「どうしたの比嘉さん?
そんな顔して?」

「それがさぁ瞳ちゃん、今日着いたお客さんがちょっと変なんだよ」

「変? 何が変なの比嘉さん?」

「ビシッとスーツなんか着込んじゃってさ、持っている物は釣竿じゃなくビジネスバックなんだぜ?」
比嘉は腕を組んだ。

確かに美波間島にスーツで訪れる人間など皆無に等しい。さんご荘の客層もほとんどが釣り客で、稀にダイビングや海水浴で訪れる客もいるが、どちらも隣の与那国島がメッカであり、わざわざ海を渡ってくる必要もない。ましてやスーツで訪れるような会社などこの島にはなく、役場の職員ですら暑い夏場は「かりゆしウェア」で業務をこなしている。
外食産業の営業マンが新鮮な海産物を漁師から直接買い付けに来たとも考えられるが、いかんせん美波間島は沖縄本島や本州から距離が離れ過ぎているため、輸送コストを考えるとそれも考えにくい。

比嘉は続けた…

「それでね、お客さんの書いた宿帳を見返してみたらお客さん 東京の住所だったよ。で、お客さんの勤務先の処を見たら驚くことなかれ あのSOMYって書いてあるじゃない。
SOMYって言ったら諒太君が以前勤めていた会社だろう? もう俺驚いちゃってさぁ…」

「それ本当⁈ 比嘉さん⁈」
驚いたのはむしろ瞳である。

「本当さ瞳ちゃん。もしかしてその人、諒太君を連れ戻しに来たんじゃないかと思ってさ」

「そんな…」
瞳の目が泳いだ。

「あ!来たよ そのお客さん」
比嘉は小さな声で瞳に耳打ちした。

廊下を歩いてくるその男性は50代後半という年齢に見える。
スーツで歩く姿は背筋が伸び、上品な紳士という雰囲気であった。
髪には白いものが混じってはいるが、柔和な表情で優しそうな感じの人物である。紳士は比嘉に話しかけてきた。

「すみません、この島の簡単な地図はないでしょうか?」

「あ…それならこれを…」
瞳は持参したパンフレットを一部手渡した。 パンフレットには美波間島の名所が地図と共に載ってる。

「ありがとう。お嬢さん」
紳士は瞳に優しく笑いかけた。

「いえ…」
瞳はそれ以上言葉が出てこなかった。

「それからご主人…真田諒太さんと言う男性がこの島に居ると聞いたのですがご存知ありませんか?」

(やはり…)
比嘉と瞳は目を合わせた。


瞳は急いで諒太の家へ向かった。
幸い諒太は在宅中であったため、瞳は居間にいた諒太に さんご荘に泊まるスーツ姿の紳士のことを伝えた。

「そう… こんな遠くにまで…」
諒太は全て悟っていたかのように元気なく小さく呟くのみであった。

隣で話を聞いていたチーリンも瞳の話しでそれまで疑問だった事の成り行きが理解できた。

その時であった…

「ごめんください」

玄関から声が聞こえてきた。
あの紳士の声だ。 瞳にはすぐわかった。

「君たちは奥の部屋に行っていてくれないか?
俺には一切構わないでいい…」
諒太はそう言い残すと一人玄関に向かった。

(諒太さん…)
瞳は心配そうに諒太の背中を見送った。
諒太は玄関に立つ海野と対面した。

「真田君…」

「…海野さん」

二人はしばし言葉もなくお互いの顔を見つめ合った。

「探したよ…真田君。まさかこんな遠い所にいたとは…」
海野は声を詰まらせた。

「立話しもなんですから…とにかく上がってください海野さん」

諒太は普段使っていない座敷の部屋に海野を誘った。
諒太は自ら冷たいお茶をいれ、海野の前の卓の上に置くと二人は座布団の上に正座して向かい合った。

襖一枚挟んだ隣の座敷には瞳とチーリンが聞き耳を立てながら息を潜めて諒太の部屋の中の様子を伺った。

「海野さん…こんな孤島まで…」
諒太は目を伏せた。

諒太と海野の出会いは今から14年前に遡る…
諒太が大学を卒業する頃、日本は大変な就職氷河期であった。 4年制の大学を出ても就職出来ない就職浪人が街に溢れた。日本の先の見えない景気状況に学生も企業も極寒の真冬の日のように背中を丸め下を向くような時代であった。成績の良かった諒太でさえ就職が保証されているものではなかった。

その頃、SOMYでも内需の冷え込みから なかなか業績が上向かず苦しい経営が続いていた。この数年、新規採用の学生の数も抑えられ、社内でも暗い雰囲気が立ち込めていた。
当時、海野はまだ40代にして新商品の開発責任者に起用されるなど社から信頼を得る人物であった。

海野は入社間もない新入社員の頃にはまだ現場に立っていたSOMY創業者の森田昭雄の薫陶を直接受けたことがあり、爆発的人気商品となったカセット型音楽再生機 ウォークヒューマンの発展型を製作したのも後の海野のチームであった。

海野には危機感があった。80年代頃からSOMYはハリウッドに進出し、米国の老舗映画フィルム会社を買収したり、ニューヨークの高層ビルや高価な絵画を買収したりとおよそ ものづくりとは関係ない分野にまで業態を伸ばし、バブルが弾けた後はそれらが一気に不良債権と化し経営を圧迫していたのだ。そのため新商品開発のための研究開発費は大幅に減額され売れる商品が出ず、さらに経費削減という悪いスパイラルに入っていた。

14年前、世界では様々な企業が今で言うスマートフォンの開発にしのぎを削っていた。
当時、米国の企業が斬新で先鋭的なデザインのタッチパネル式携帯電話を研究開発しているという話が海野の耳にも入ってきていた。
海野は上層部にSOMYも他社に遅れをとることなくタッチパネル式携帯電話の開発に着手すべきだと強く進言した。その後、社内では喧々諤々の議論の末、なんとか海野の進言は通った。
しかし、僅かな開発予算しか付かず、研究室も東京から遥か離れた石巻工場内の一角が与えられたのみであった。海野はそんな状況でもめげることなく直ちに研究チームの立ち上げに取り掛かった。
だが、不景気のさなか、今付いている担当業務を放り出してまで先の見えない研究開発に異動を希望する奇特な社員などいるはずもなかった。そればかりか海野のしていることは金ばかり食う余興だと蔑むものまでいたほどであった。

海野は固定観念に凝り固まったベテラン社員より柔軟な発想の出来る若い人材に希望を見出そうとした。
本来は有り得ないことだが、海野は人事部の同期に頼み込み新規採用の面接に同席させてもらった。
そこで海野は一人の青年と出会うことになる。
それが真田諒太だ。
諒太は国立大の工学部を卒業し、就職先にSOMYを志望した。
諒太がSOMYを志望した動機はSOMYの社訓の一節にある

「ものづくりを志す者はそれを利用する者の幸福の為にものをつくり、その技術で社会の発展に寄与する責任がある」

というSOMY創業者森田昭雄がつくった崇高な目標に共感したためだ。

面接会場で諒太をはじめて見た海野は諒太の目の奥に宿る情熱を持った強い光に若いころの自分が重なって見えた。海野は人事部に強く働きかけ諒太を自らのプロジェクトチームの一員として引き入れたのだった。
チームの完成までには更に一年の月日がかかったが、海野の集めた若い精鋭たちが諒太を含め8名チームに加わり、海野をリーダーとするこのチームを後に人はチーム海野と呼ぶようになる。
各自得意とする分野があり、互いの能力を刺激しあうことによって若人のチームは少しずつ一つにまとまっていった。その後、彼らの昼夜問わずの努力により僅かな期間でSOMYが世界に誇るスマホXberia初号機が完成した。

カラン…
麦茶が入ったグラスの氷が溶け音を立てた。
遠い記憶の中にいた諒太は急に現実に戻された。

「真田君、君には本当に申し訳ないと思っている…」
海野は頭を下げた。

「え…?」
諒太は俯いた顔を上げ苦痛に滲む海野の顔を見た。

「ご家族があんな事になったのに私は君を気遣うことが出来なかった…」

海野は震災の前の年からフランクフルトに異動となっていた。
その年SOMYは社長が交代し、手薄となっていたヨーロッパ地区の底上げを図るため海野を欧州統括責任者として諒太らのプロジェクトから外しドイツへの異動を命じていた。
そのため震災の際にも海野はドイツを離れることが出来ず、石巻に帰ることが叶わなかったのである。

「海野さん…頭を上げてください…
謝らなければいけないのは自分の方です… 大恩ある海野さんに礼を尽くすことなくいきなり消えてしまったんですから…」

「いや…あれだけの思いをしたんだ…君の心痛を思えば誰が君を責めることができようか…」

諒太は再び俯いた。

しばらく二人の間に沈黙が続いた…

「真田君…君から送り返された断りの手紙は読んだよ…

しかし…それでもだ…私の気持ちは変わらない…
君が誰よりも辛い想いをしたのも承知している…
もう一度考え直してくれないだろうか?
こんな時代だからこそ君の力が必要なんだ。
SOMYに戻ってきてくれ。
頼むこの通りだ」
海野は頭を下げた。

「海野さん…」
諒太は俯いたまま目を閉じた。


(諒太さん…)
隣の部屋で瞳は正座をしたまま唇を噛んだ。
チーリンに瞳の悲しげな顔が目に入った。


「海野さん…海野さんが使っているスマホを見せて頂けますか?」
諒太は唐突に口を開いた。

「私のスマホを?」
海野は上着のポケットからスマホを取り出し諒太に手渡した。

「薄くなりましたね…
ディスプレイも綺麗で大きい…」
諒太は手に取ったスマホを穏やかな顔で見つめた。

「そのXberiaは君たちが造った初号機から数えて8世代目になる」

「そうですか…」
諒太はまじまじと海野のスマホを観察した。

「それも君たちチームの努力があったからこそ今に繋がっているんだぞ」

諒太は顔を上げた。
「俺たちチームは自分たちの創ったものが利用者の幸せのためと信じて疑わずに日々邁進してきました…

でも…出来たものは本当に人を幸せにしているのでしょうか?…
正直…俺にはそう言える自信がないんです…」

「何を言っているんだ真田君?
君たちは他社にも引けを取らない素晴らしい製品を世に送り出したじゃないか?」

「だけど俺には…こいつが人を幸せにしたとは到底思えないんです…」
諒太は手にしていたスマホを海野に返した。

「何が言いたいんだ真田君?」

「スマホを手にした人たちは、
下ばかり見ていて顔をあげようともしない…
目の前に美しい空があるのに…
目の前に美しい山があるのに…
目の前に美しい海があるのに…
目の前に美しい月や星があるのに…

スマホを手にした人たちは、
写真を撮ることばかりに夢中で、自分の目で、自分の肌で、自分の心で感じることすらしない…

スマホを手にした人たちは、
目の前に家族や友人がいるのに下ばかり見ていて語り合おうともしない…

スマホを手にした人たちは、
SNSの既読通知や評価に一喜一憂し、つまらない疎外感を生みイジメを助長している…

俺たちは機械を通じて人と人とを繋ぐためのツールを創ることを目指して開発をしてきたんです。
それが、スマホを手にしたことによって人はむしろ本来持っている人間としての感受性を失い、他人を思い遣る優しい気持ちや本当の意味での人と人の繋がりを失ってしまったんじゃないかと思っているんです…

俺たちの創ったものは決して人を幸せになどしていない…
俺にはそう思えてならないんです」

諒太は淋しそうに目を落とした。

「それは違うぞ真田君!
確かにこの道具には君の言うようなネガティブな一面はあるだろう。
しかし、SNSを通して個人が情報を発信出来る時代になったんだ。
それまで独裁者の圧政に苦しんできた人々がスマホを使って声を上げられるようになったことで『アラブの春』と言われる民主化を達成した国だってある。
通信の進歩は人と人との距離を昔とは比べものにならないくらい縮め、国境を越えたボーダーレスの時代に入りつつある。
現に都会に住む子供たちが過疎の地域に住む高齢の家族と顔を見ながら会話を出来るようにもなった。
君たちの功績は誰もが評価しているんだぞ」
海野は諒太の顔を見据えて力強く力説した。

諒太は俯いたまま言葉を発することはなかった。

また沈黙が続いた…

(真田さんがスマホや携帯電話を持たないのにはそんな理由があったんだ…)
隣の部屋で静かに諒太の話を聞いていたチーリンも諒太の発した言葉に深く考えさせられるものがあった。それはこの美波間島に来てみなければ気がつかなったかもしれない。

「真田君…君に渡したいものがあって持ってきたんだ」
海野は沈黙を破るようにおもむろにに鞄から封筒を取り出すと諒太に差し出した。

「何です?」

「見てみたまえ」

諒太は封筒を開けた。
諒太は中のそれを見るなり固まった…

封筒の中に入っていたのは一枚の写真であった…
当時忙しい日々の合間たった二日…社員旅行でチームで行った礼文島で撮った集合写真…
諒太は懐かしげで…そして哀しげな表情で写真を見つめ続けた…

「海野さん…覚えていますか?
三好貴弘と吉弘の兄弟…
あいつらいつも明るて馬鹿ばっかり言って…
二人の陽気な性格のおかげで時にチームが険悪になった時もみんな和んだ…」
諒太は写真に写る二人の顔をなぞった。

「もちろん覚えているとも。二人はチームのムードメーカーだったな。兄の貴弘君を追いかけるように弟の吉弘君が入社したのだったな…」

「隣ではにかんでいる筧明利…
カメラの技術では彼の右に出るものはいなかった… 初任給でお袋さんを温泉旅行連れて行ったって楽しそうに話していました…」

「筧君は母子家庭だったね…
彼はとても親孝行な若者だった」
海野は口元に笑みを浮かべた。

「端に立つ穴山大輝…
あいつ…担当していた回路プログラミング失敗ばかりしていた…
だけど、言い訳もせずに寝る間も惜しんで成功するまで一生懸命頑張った…」

「穴山君はいつも前を向いていたね。
彼の諦めずに頑張る姿がチームに活力を与えたね…」

前列の鎌田由利さん…
チームで唯一の女性…
妻の良き理解者でうちに愛が産まれたとき…いち早く病院にやってきて愛を見てくれたっけ…
翌年には彼女、結婚も決まっていたんです…」

「由利さんは気持ちの優しい女性だったね… 女性には珍しく電子機器が好きだったね… 私も由利さんを面接したとき彼女の機械知識には驚いたものだよ」

「その横の根津 賢一…
初めは暗くてとっつきにくい奴だと思ったけど、酒を飲ますと人が変わったように明るくなったな…
彼の不器用だけど生真面目な性格が製品によく反映された…」

「根津君は他社の内定を断ってまでうちに来てくれたんだよ。
人の敷いたレールの上を進むのは嫌だと言っていたんだよ。自分の力で新製品を創りたいって夢を持っていたからね。見た目ではわからない熱い志を持っていた」

「そして俺の横に写る望月昌史…
いつも開発では意見が合わず俺と衝突したっけ…
頑固で意地っ張りな男だった…」

「真田君と望月君はチームの双璧だったね… クールで優秀な若者だった」

「はい…良きライバルでした…
彼はクールのように見えて熱い男だったですよ…
俺の結婚披露宴のときなんか人一倍大きな声を張り上げて俺と絵美にエールを送ってくれたんです…」

「そういえばそんな事もあったね…」

「なのに… なのに…」
諒太はうつむき肩を震わせた。

「海野さん教えてください!
なぜ罪もないあいつらが死んで
どうして俺だけ生き残ったんですか⁈」

諒太の嗚咽し、咽び泣く声が隣の部屋の瞳とチーリンの元へも聞こえてきた。

「あいつらだって夢があってまだやりたい事がたくさんあっただろうに…
何で俺だけ… 何で⁈…」
諒太の嗚咽はやがて慟哭へと変わった。

震災の日ー
地震の影響で通信網が遮断され電話が不通となった。
街ではサイレンが鳴り響き、津波の接近に早急に避難所へ避難を促す放送が流れていた。当時海野がドイツに異動となり、チームのリーダーを引き継いだ諒太は直ちにチーム全員の避難を指示した。チームのメンバーとは避難所で落ち合うことを約束し、連絡がとれない妻と娘の安否を確かめるべく諒太は一人社宅である自宅アパートへと走った。他のメンバーは根津のワゴン車一台に乗り込み山の避難所へ向かうことにしたのだった。

しかし何という皮肉であろう…
旧北上川沿いに山の避難所へ向かっていた彼らのワゴン車は実に海から4キロも川を遡ってきた津波にのまれてしまったのだ。地元の人間でさえ誰一人こんな山の上まで津波が襲ってくるとは思っていなかった。
彼らの乗ったワゴン車は軽々と濁流にさらわれると海へと流されてしまったのだ。
結局その後、彼らが発見されることはなかったのである。
諒太本人も家族が犠牲となり、諒太自身大怪我を負ってしまったため、諒太が彼らの訃報を聞いたのはずっと後のことである…


「その後、合同社葬が執り行われたのは知っているかな?…君は必ず来てくれると思ったんだが…」

「はい…知ってました…」
諒太は元気なく呟いた。

「だったらどうして来なかったんだい?」

「俺はあいつらが死んだなんて信じられなかった…いや…信じたくなかった… 葬儀に参列なんかしたらそれを認めることになってしまう…

俺には…俺には… ウッ…
俺一人だけ残されてしまった…
なぜ? なぜなんです海野さん?
何で俺なんですか!」

下を向く諒太の目から大粒の涙がポタポタと落ちた。

「俺は…ずっと独りです」


「諒太さん…ひとり残ってしまったことの罪悪感と家族と同僚を失った喪失感に苦しんでいたんだ…何年も…何年も…」
諒太の涙に震える声に隣の部屋にいる瞳の頰にも涙が流れていた…
瞳の顔を哀しげな表情でチーリンは見つめていた…


海野もかつての愛弟子の打ちひしがれた姿に同情の念を禁じ得なかった。

「真田君…正直その答えは私にはわからない…
だが、こうは思えないだろうか?
君が生き残ったことには理由があると…」

「理由?…」

「上手く言えないが、天の意思が君にはこの地上でやる事が残っていると言っているのではないかと私には思える…」

「天の意思…?」

「無念のまま逝ってしまった彼らの想いを考えればチームで唯一残った君ができることはおのずとわかるのではないかね?」

「…………」

諒太はうつむいたまま言葉を発することはなかった。


「諒太さん…迷ってる…」
瞳が独り言のようにつぶやいた。

その瞬間…チーリンはやおら立ち上がると廊下の方へ向かって歩き出した。

「ちょっ、チーリンさんどこへ?」
瞳の小さな声に答えることもなくチーリンは部屋を出て行った。

諒太と海野の部屋では重苦しい空気が流れていた。
海野は諒太の返答を辛抱強く待っていた。

「海野さん…俺は現場を離れてもう8年ですよ?
既に骨董品みたいな男に今更何ができるというんです?」

「真田君、技術のブランクなど何とでもなる。大事なのは仕事に関わる者の志だ。昨今会社はサラリーマン従業員ばかりで、現場にはかつての君のチームのような夢に向かって突っ走る熱い気持ちを持った人間がいないんだ。
それにここのところ他国の製品に押されてSOMYのブランド力も落ちてきている。
こんな時だからこそ君のような志を持った人材が必要なんだ。

私は来年、取締役員に就任することが決まっている。君には相応しいポストを用意するつもりだ。だから真田君戻ってきてほしい…」

熱意のある海野の説得に諒太の気持ちが揺らいだ。
その時であるー

「失礼します…」

チーリンが部屋に入ってきた。
うつむく諒太の目は涙のせいで腫れ赤く充血しているのがチーリンにも見てとれた。
チーリンは卓に新しいお茶とチーリンの手で蒸された山盛りの黄金芋がのった皿を置いた。

「どうぞ…これ真田さんが畑で作った黄金芋です」

諒太は顔を上げ皿の上の芋を見ると我に返ったようにハッとなった。
真剣な眼差しで諒太を見るチーリンの目は何かを語りかけていた。

「ありがとう…」
海野はチーリンに笑顔で礼を言った。
チーリンは海野に会釈をすると部屋を後にした。
客人である海野は諒太に自分の見知らぬ女性のことを尋ねるような野暮な真似はしなかった。

「海野さん…芋は嫌いですか?」
諒太はまるで瘧が取れたように先程とは打って変わって晴れやかな表情で尋ねた。

「いや、むしろ好物だが…」

「俺がこの島に来て一から作った黄金芋という品種です。是非食べてみてください」

「ほう…では遠慮なく頂戴するよ」
海野は芋を割ると噛り付いた。

「こ、これは…
何という自然な甘みだろう…
私はこんな美味しい芋を今まで食べたことがない…」

「よかった…」
諒太は嬉しそうに息をはいた。

「海野さん…
これが俺の5年の集大成です」

「うん?」

「この芋みてください。形も不揃いで不細工でしょう?
どんなに努力したってすべて同じ形の芋を作ることなんて決して出来ない…
細いのもあれば太いのもある、長いのもあれば短いのもある…
でも味は一緒です。

一つでも違う物が混ざれば工場なら不良品として弾かれるでしょうね…
でも…これが畑で育ったこの芋の個性なんです。

俺はこの島に来て気付いたんです。
人を幸せにできる方法は一つじゃないって…
今、海野さんは美味しいって言って芋を食べてくれた…
俺の作った芋を美味いって食べてくれる人がいる…
その言葉を聞くと俺も嬉しいし、
その一言で畑で土に汚れ、汗をかいてやってきたことが報われるんです。
それに人は美味しいものを食べるとき幸せでしょ?

美波間島の自然は厳しいです…
せっかく苦労して作った作物も一回の台風で全滅することだってある。
決して人の思い通りになんかならないんです。
でも…俺はこの島に来て学びました。自然と付き合っていくっていうことはそういうことなんだって…」

「だが真田君、君だってエンジニアとしてものづくりの楽しさを忘れた訳ではあるまい?」

「もちろんです。
俺は今だってものづくりが好きですし、エンジニアとして過ごした日々を忘れてはいません…
海野さん…俺はこの美波間島に来て俺のこと全てを受け入れてくれる大自然とこの芋のような個性豊かな島の人たちに救われました。
海野さんは先程 天の意思って仰いましたよね…
天の意思があるのなら、俺の残りの人生、この美波間島で自分と向き合って生きてゆくことだと思うんです。
俺は俺のやり方でこいつらに報いてやりたいと心から思うんです…」

諒太は手にした写真を優しい眼差しで見つめた。

「そうか…わかった…」
海野は一言だけ言うと微笑んだ。
海野は決してそれ以上食い下がるようなことはしなかった。

「真田君、その写真は君のものだ。
津波に流されてしまって君の手元には無いんだろう?
どうかこれからも彼らのことは忘れないでほしい」

「忘れる訳ありません…
こいつらと過ごした日々は俺の青春そのものでした…
それに彼らは俺のかけがえのない仲間ですから…」

海野はゆっくり頷いた。
「真田君、この君の作った黄金芋…持って帰ってもいいかな?」

「是非…」


海野は諒太の見送りを固辞し、諒太の家を後にした。
海野は振り返った。

美波間島か…
何と不思議な島だろう…
初めて来たのにどこか懐かしい…
時間がゆっくりと進み、包み込まれるような温かさがある… まるで母の腕の中のような…

真田諒太…君は辿り着いたのだな…
己の目指した場所に…
試練に負けず頑張れよ…
彼らの想いを背負って…

フッ…私もまだまだ頑張らなくては…

海野の見上げる先には真っ青な美波間島の空があった。
海野の頰を気持ちの良い海風が撫でていった…


瞳とチーリンが諒太が一人残る部屋に入ってきた。

「諒太さん…
私… 私…諒太さんが島から出て行ってしまうのかと…」
瞳は涙声で下を向いて諒太のシャツの袖を引っ張った。

「心配かけたね…瞳ちゃん…
俺は瞳ちゃんをはじめ竜男や島のみんなから受けた恩は忘れていないよ」
諒太は優しく瞳に声をかけた。

「それからチーリンさん…あのとき君が芋を持って部屋に入ってきてくれなかったら俺は…」
諒太は顔を伏せた。

「真田さん前に言ってたじゃないですか。こんなに素晴らしい仕事はないって… 私はまた真田さんの作ったあの美味しい黄金芋を食べたかったんです」
チーリンはニコっと笑った。

「ああ、そうだな…確かに言った…」
諒太は照れたような顔をしてチーリンに答えた。

「二人ともありがとう…」
諒太は瞳とチーリンに礼を言うと自室に入って行った。


「ねぇ…チーリンさんちょっと話があるんだけど、海まで一緒にきてもらえるかな?」

「はい、いいですよ」
瞳とチーリンは連れ添って家の前の土手に向かった。



部屋の諒太は写真を卓に置くと目を閉じた。

(ごめんな…お前たちとはまた会えるから…)

諒太は静かに写真に手を合わせた…

16 傘

16 傘

諒太の家を出た瞳は目の前に海が広がる土手にチーリンを誘った。西の空は既に陽が傾きかけ、空と海を赤く染めている。夏の夕方の心地よい風が海から吹いていた。二人は夕陽を受け、海を正面に見据え土手に並んで座った。

「チーリンさん…私が礼を言うことではないかもしれないけど、さっきはありがとう…」
瞳は遠く海を見ながら言った。

「えっ?」

「あなたが機転をきかせてくれたおかげで諒太さん島を出ていくのを思い留まってくれたでしょう?」

「いえ…私は何も…
ただ、真田さんが毎日畑に出て汗流しているのを近くで見ていたものですから…」
チーリンは答えた。

「そう…
今から7年ほど前…諒太さんが島に来たとき…
それは酷い状態で見ていられなかった…
絶望のあまり可哀想なくらいやつれ果てていたの…」

「ご家族と同僚の方を津波で一度に亡くされたのですものね…」
チーリンは視線を落とした。

「ええ…お兄ちゃんがこのままじゃ諒太さん死んでしまうかもしれないって石巻にいた諒太さんを無理矢理美波間島に連れてきたの…
最初の頃は諒太さん…息をしていても死んでいるのと同じだった…
まるで魂の無い人形のようにね…

でも…少しずつだけど、この島で畑を耕したり、お年寄りと交流をはじめたり…諒太さん生き甲斐を見つけてやっとあそこまで立ち直ることができたのよ…」
瞳は目を細め当時を振り返った。

「私…怖いの…また諒太さんがあんな風になってしまうことが…」

「またってどういうことですか?」
チーリンは瞳の言葉の意味がわからず質問した。

「ねぇ…チーリンさん…あなたこれから先どうするの? 故郷へ帰るの?」
瞳はチーリンを見つめた。

「それは…

まだわからないんです…」
チーリンはうつむいた。

「あなたには責任ある行動をとってもらいたいの…」
瞳は真剣な眼差しでチーリンの目を見つめた。

「えっ?」

「これ以上大切な人を失うようなことになったら諒太さんもう耐えられない…
だからチーリンさん、もし美波間島に残るつもりがないのなら諒太さんに深入りしないで…お願い…」

「そんな…
私が真田さんにとって大切な人だなんてことはあり得ないですよ」
チーリンは首を横に振った。

「ううん…何年も諒太さんを見てきた私にはわかるの…
あなたの存在が諒太さんにとって大きいものになりつつあるって…」

「まさかそんな…?」
チーリンは瞳の話をにわかには信じられなかったが、瞳の表情は真剣であった。

「瞳さん…もしかして真田さんのことが…?」

「バ、バカなこと言わないの…
私はただ落ち込む諒太さんを二度と見たくないだけ…
さっき隣で聞いていてわかったでしょ?諒太さんの心の傷がどれだけ深いか…」
瞳は顔を赤くして答えた。

「…はい」

「実は私…オジーが病気で倒れるまで福岡のアパレルメーカーで働いていたの。 だからモデルとしてあなたの活躍する姿はよく目にしていたわ…
前衛的な服もさり気なく着こなしてしまうあなたの実力は凄いと思った… もちろん女優として世界で活躍するあなたのこともね…

私…人にはそれぞれ居場所というものがあると思うの…そして役目も。
この島の人たちはみな貧しいけど、お互い助け合いながらみんな個性を持って一生懸命自分の役目を果たしていると思うの。
さっきの諒太さんの言葉のようにね…

チーリンさん…あなたこの島にいて自分の役目はあるの?
人のために役に立つことができるの?」

「……………」

チーリンはうつむいたまま何も言えなかった。

「あなたは多くの人に夢を与えることができるじゃない…?
きっとあなたを待ってくれるファンが沢山いるはず。あなたはこんな日本の小さな島で燻っている人じゃないと思う…」

チーリンは返す言葉もなく目を閉じた。

はるか遠くの大海原の水平線に真っ赤な太陽が沈もうとしていた…



その夜、チーリンは眠ることができずに瞳の言葉を噛み締めた…

私の居場所…か…
この島に私の居場所なんてないのかもしれない…
私に出来ることなんて…

なにも…

女優というだけで周囲からチヤホヤされることに慣れてしまっている自分がいる。
だけど…女優という肩書きをとってしまったら私は何なの?
私の存在価値って?
人のために役に立つことなんて何もできないじゃない…

私には…
何もない…

チーリンは悲しい気持ちになった。そして自分の無力さが情け無く悔しかった。
暗い部屋の布団の中から天井を見上げるチーリンは唇を噛み締め固く目を閉じると頭から掛け布団を被った。

チーリンはこの数週間、美波間島で暮らして様々なことを経験し、様々な人との出会いがあった。
チーリン自身、ここでの生活で心身ともに癒されたことも事実である。
しかし、その恩恵も島の豊かな自然と島の人々の無償の優しさがあったからである。
そして気付かぬうちにその優しさにいつしか甘えてしまっている自分がいる。
自分は島の人たちに何も恩返しができない…
そう思うとチーリンはいたたまれなかった。
一睡もできずに朝を迎えたチーリンは島を出る決意を固めた。

(また…逃げるの?…)
チーリンは自分の心の弱さに辟易し気持ちが不安定になっていた。

一方、諒太は海野が帰ったあとしばらく一人で静かな時間を過ごし心が落ち着いたのか穏やかな気持ちで朝を迎えていた。
もう虚ろな諒太ではない。
顔を洗っている時、ふいにチーリンから声をかけられた。

「真田さん…お話しがあります…」

「どうした?
そんな思い詰めた顔をして?」
チーリンの暗く沈んだ表情に諒太は気付き声をかけた。

「私… 私…島を…

チーリンが躊躇いながら何かを言いかけた時、けたたましく電話のベルが鳴り響いた。

「ちょっと待って…」
諒太は右手をあげチーリンの話を遮ると電話のある廊下へ急いだ。

電話は千鶴からのものであった。
第二子の出産を控えていた漁師 金城浩司の妻 亜矢子が出産予定の一月も前なのに急に産気づき、分校の保健室に運びこまれ陣痛に苦しんでいるという。 亜矢子は予定日の1週間前には石垣島の病院に入院して出産することが決まっていたのだが、今朝想定外に早い陣痛が始まってしまったのだ。
しかもタイミングが悪いことに美波間島の漁師たちは与那国島の漁師と協働で外洋にカジキマグロ漁に出ていて直ぐに戻れる状況ではない。
当然夫の浩司もその中にいる。
さらに経験豊富な産婆の清子オバーも今 島にはいないのだ。
隣の与那国島唯一の診療所の医師紀藤賢介が急遽こちらに向かっているという。

諒太はかいつまんで千鶴からの電話の内容をチーリンに話した。

「すまないが後で君の話は聞くよ」

「…はい… わかりました…」
チーリンは元気なく答えた。

「君も分校に行くだろ?」
諒太は尋ねた。

「私も行った方がいいんですか?」

「うん?」
諒太にはチーリンが落ちこむ理由がわからなかったが、元気なく答えるチーリンの姿が気掛かりであった。

「私は真田さんみたいに何でも器用に出来るわけじゃありません…
私が行ったところで…」
チーリンは唇を真一文字に結んだ。

「そんなことはない。俺にも出来ないことは山ほどある。全然器用なんかじゃないさ」

「真田さんはどうしてそんなに人のために頑張れるのですか?
どうしてそんなに強いのですか?
私は貴方みたいに強い気持ちを持って人の役に立つことなんて出来ない…」
チーリンは今にも泣きそうな顔で視線を落とした。

「君は誤解している。俺は強くなんかないよ…弱い男さ…
未だに過去を断ち切ることすらできないんだからな…」
諒太は寂しそうに答えた。

「だったらなぜそんなに他人を思い遣れるの⁈
私にはわからない!
私には何もないんだもの…
私に出来ることなんて‼︎…」
チーリンは瞳に涙を溜めて大きな声を出した。

チーリンの突然の感情の昂りに少し驚いた諒太であったが優しい口調で言葉を発した。

「何もない人間なんていやしない…
現に昨日、君は行先を見失っていた俺にきっかけを与えてくれたじゃないか…
人は皆支え合って生きている。
どこかに君の力を必要としている人がいるんじゃないのか?」

「そんな人いるわけありません…
私にはそんな力もありません…
私には何も出来ない…」
チーリンは哀しそうな表情で諒太から顔を背けた。

「何も出来なくたっていいじゃないか…」
諒太はポツリと小さな声で呟いた。

(えっ?…
何も出来なくてもいい?)
チーリンは驚いたように諒太を見据えた。

「世の中完璧な人間なんているはずがないんだ…
結果なんてどうだっていい、
どんなに泥臭くても…
どんなにかっこ悪くてもいい…

自分に何が出来るかとか考える以前に俺はただ困っている人の傘になりたいと思っているだけなんだよ…
俺は石巻の被災地で多くのボランティアの方々に助けてもらった。彼らの志と想いは今でも俺の心の支えになっているんだ。
人を助けたいと思う気持ちに理由なんかいらないんじゃないかな…
俺が出来ることなんてたかが知れてる…
でも後悔はしたくないんだ。何か人の役にたてたならと…何もしないで後悔するよりやってみて後悔する方がずっといい…」
諒太はまるで自分自身に言い聞かせるように答えた。

「だけど…」
チーリンは視線を落とした。

「そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないか?
目の前に困っている人がいるのなら
助けたいと思う気持ちがあればそれだけで…
結果…その人の役に立ったかどうかは後の話しだ。
こんな孤島では、人はお互い助け合っていかなければ生きてはいけない。その気持ちを持ち続けることが結果を求めることよりよっぽど大切なことだと俺は思う…

じゃあ俺は行ってくるよ」
諒太は優しげに口元を緩めるとチーリンの横を通り過ぎ玄関から出ていった。

(結果を求めることより目の前の困っている人を助けたいと思う気持ちが大切…?

あ…
(私…自分が周囲から認められたいということばかり考えていた…
自分の居場所なんて人から与えられるものなんかじゃない…
自分からつくるものなんじゃないの…?
私…大切なことを忘れていたのかもしれない…
わたし…もう逃げない)

「待ってください真田さん!
私も行きます!」
息を切らして走り諒太に追いすがったチーリンは声を上げた。

「そうか…君の判断に任せるよ」
諒太は振り返って一言だけ言うと再び歩き出した。

チーリンは思った。

(どうしてだろう…?
真田さんに話したら凄く気持ちが楽になった…
真田さん…私の愚痴みたいな話を苛立つこともなくちゃんと正面から向き合って聞いてくれた…)

昂ぶった感情を普段人に向かって出すことが出来ないチーリンであったが、思いの丈を吐き出す事が出来ていつの間にか気持ちのつかえがとれた感じがしていた。

真田さんだから言えたのかな?
…私にとって真田さんって…

チーリンは目の前を歩く諒太の大きな背中を見つめた…

17 与那国島の仁星

「まだかねぇ?…あんた?」

「心配すんな もうすぐ来るさ…」

呉屋亜久里とその妻とし子はジリジリしていた。
ここは美波間島の港の埠頭である。
与那国島からの連絡フェリーが到着する時間にはまだ2時間も早い。
二人が今や遅しと待っているのは与那国島を出港した一艘の観光用モーターボートである。
夫婦は観光客を待っているのか?
いや、そうではない。
モーターボートに乗船しているのは与那国島の医師 紀藤賢介である。
紀藤は隣の与那国島の小さな診療所で働くたった一人の医師である。紀藤は月に一度、美波間島の分校の保健室を使って美波間島民のため出前診療を行うため海を渡ってやってくる。
しかし、今日はその定期診療の日でもない。
急患の連絡を受けた紀藤は、フェリーの時間まで待たず、普段懇意にしている与那国観光船の社長に頼み込み観光用レジャーボートで海を渡ってくるというのである。
呉屋夫婦はこちらに向かっているはずの紀藤医師の到着を今や遅しと待っていた。

医師 紀藤賢介の生き方は普通の医師とは少々異なる。
現在36歳になる紀藤は最高学府の東京帝国大学医学部を優秀な成績で卒業し、その後帝国大学病院で外科医として勤務した。頭脳明晰で手先が器用な彼は外科医としてたちまち頭角を現し、僅か数年で帝国大学病院でトップクラスの外科医として名を馳せるまでになった。
その正確無比な執刀の腕は周囲から「神の腕を持つ医師」と呼ばれ、やがて紀藤に執刀してほしいと希望する患者が日本中から集まるほどになった。
正に紀藤は医師の中でも誰もが認めるエリート中のエリートであったのだ。

当時の紀藤は医師として天狗になっていた。
有力な政治家や経済界の重鎮から直接指名で執刀を依頼されることもざらで、給与以外に受け取る報酬もかなりの額に達した。都内に月に数百万もする家賃のマンションに一人で住み、紀藤が執刀した裕福な会社社長から贈与された外国製高級車を乗り回した。
紀藤は誰も手を出したがらない難しい開腹手術のタイムレコードをだすことだけに医師としてのアイデンティティを感じ、自らの技量に酔った。患者の名前やその家族など興味もなく、彼にとってはあくまでいちクランケであり、紀藤が向き合っていたのは病気で苦しむ人ではなく、病症そのものであった。

そんな紀藤に人生が一変する出来ごとが起こった。

それは一人の少年との出会いであった…

2011年3月、東日本大震災で大きな被害が出た岩手県釜石市に紀藤は医師として派遣されることになった。
これは赤十字が帝国大学病院へ現場で不足する医師の応援の派遣要請をしてきたためであった。 当初紀藤は東京を離れることに難色を示し、被災現場へ行くことを拒絶した。
大学病院側もいっときでも紀藤が抜けることは痛手であったが、赤十字との関係を慮った学長のたっての頼みについに紀藤は折れた。
だが、釜石までの移動は困難を極めた。車に医薬品や燃料などを満載し、紀藤ら医師や看護師四人を乗せた自家用車であったが、通常ルートは災害の影響で既に通行が出来ず、大きく迂回して釜石に到着したのは東京を出発して実に18時間後のことであった。
到着した釜石の街は酷い惨状で地震と津波の被害が広範囲に渡っていた。 そんな中、指示により紀藤らが行き着いたのは釜石郊外の中規模の病院であった。
紀藤らが到着した段階でも病院の中には被災し怪我を負った人々がロビーや廊下にまで溢れかえり、それはまるで野戦病院のようで街は戦場の中のような様相であった。
怪我人の呻き声があちこちから聞こえ、その中に混じって泣き声も聞こえた。現場の医師や看護師たちは何十時間も休むこともなく必死で患者の手当てにあたっていた。
郊外とはいえ、この病院でも震災の影響は大きく、病院に貯蔵していた重油が底をついたせいもあり、自家発電機が停止し、断続的な停電が続いていた。
そんな中で紀藤ら応援の医療関係者も早速怪我人の治療にあたった。
運び込まれる怪我人も裂傷し血を流しているもの、捻挫しているもの、腕や脚を骨折しているもの、油の浮いた水が目に入って目が見えなくなっているものなど症状は様々であったが、これらはまだ軽いほうで、頭や内臓に損傷を受けているものなど重傷者も数多くいた。
それらの症状別にトリアージされ、患者の腕に色別のリボンが巻かれ治療の優先順位が決められた。その中でも特に怪我の程度が重い患者の治療に紀藤はあたった。 普段とは違い、停電のため満足な検査が出来ない状態であったため、次から次へと運び込まれる患者を紀藤は持ち得る医療機器で対応する他はなかった。
そして持参した医薬品は瞬く間に底をついた。
何人にも及ぶ長時間連続した手術で紀藤の体力も限界に達しようとした時、30代後半くらいの一人の女性が運び込まれた。
女性は内臓を損傷をしていて腹部に血が溜まっていた。このまま開腹すれば出血過多で助からないことは紀藤の触診でも明らかであった。病院の輸血用の血液ストックも底をつき、別の病院に女性を搬送するにももう手がなく、運び込まれた時点で もはや手遅れの状態であった。
これがもし東京の大学病院なら万に一つでもこの女性を救えた可能性があったかもしれないが、ここの設備と今のこの状況下ではさすがの紀藤でもどうすることも出来なかった。
痛みに苦しむ女性に応急処置の鎮痛剤を打つことくらいしか紀藤に出来ることはもう残っていなかったのである。

それから数時間後…女性は静かに息を引き取った。
紀藤が看護師から女性の病室に呼び出された時には既に心電図はフラットの波に変わっていた。
紀藤はその時はじめて気づいたのだが、女性のベッドの傍には一人の少年が佇んでいた。
紀藤の見たところ少年は中学一年生といったところか…
少年は涙を流すでもなく、女性にすがりつくでもなく、ただ直立不動で静かに眠る女性の顔を見つめていた。
ただ拳を握りしめて…

そして少年は紀藤の正面に立ちハッキリとした口調で言った。

「母がお世話になりました
ありがとうございました」 …と

(え…? ありがとう?)
紀藤は少年の言葉に呆然と立ち尽くした。

そして少年は紀藤に深々とお辞儀をすると病室を出て行こうとした。

「あっ… 君…どこに行くの…?」

紀藤の問いかけに少年は

「妹を探しに行ってきます
まだ見つからないんです」

少年は気丈に一言だけ言うと顔を上げ歩き出した。
災害にみまわれたためか全身埃にまみれ ところどころ破けた服を着た少年のその背中は小さく震えていた。
他の人も大変な思いをしているのに自分だけ泣いてなんかいられない…
気丈に立つ少年の背中はそう語っていた…


僕は…無力だ…
その瞬間紀藤の頰に涙が溢れ落ちた…


この出来事が紀藤を変えた ー
患者には患者を想う家族がいる…
患者には病院に治療に来るまでに長い人生の物語があり、その後も長い人生の物語があるということ。
そして一人の人生が周りの多くの人に影響を与えているということ。
その命の灯火が消えたとき悲しむ人が大勢いるということ。
医師の仕事とは病症を取り除くことではなく、病気や怪我で苦しんでいる人を待ってくれている家族の元へ無事に帰すことが使命だということ。

紀藤には医師として見失っていたことが今はっきりと見えたのであった。
東京に帰ってきてから紀藤は所詮自分の腕など最新医療機器に囲まれ、高価な薬品の力に助けられていただけのものであったと痛感した。
また、痛みに苦しんでる患者が診察室に入ってきてもパソコンの画面ばかり見て患者の顔を診ようともしない現場の医師や、再診に患者が訪れてもカルテを見ないと患者の名前すら覚えていない医師ばかりの今の病院の現状に紀藤は憂いを覚えた。

その後、紀藤は周囲が止めるのも聞かず全てを投げ捨て与那国島に渡る決意をした。
当時、離島医療は慢性的に医師が不足していた。
生活に不便な離島へ転勤希望する医師がなく、そのため多くの離島は所管する都道府県の県立病院から医師が一定期間当番で診療所に派遣される形を取らざるを得ない状況にあった。
その時、たまたま医師不在となっていた与那国島の医師求人募集を目にした紀藤は、満足な医療機器など望めない離島の小さな診療所の現場で医師として患者と真正面から向き合う覚悟をしたのだった。
与那国島に移住した紀藤は、島で購入した愛用の白いママチャリで島中を走り周り、名前を覚えてもらうため行きあう人に積極的に声をかけた。
また紀藤は、診療所にこもることなく、話しの中でお年寄りなどが体の調子が悪いと聞くと自ら精力的に自宅に訪問し診療を実施した。
紀藤にとってかつてクランケと呼んだ患者の呼び方は一人一人尊厳ある名前に変わった。
与那国島の島民も最初は直ぐに東京に帰るものだと紀藤をみていたが、紀藤の真正直な性格と本気で島に定住する覚悟の彼を見て次第に心を許すようになっていった。
紀藤は島で暮らす島民の生き方と考え方に敬意を持っていた。
自宅の畳の上で最期を迎えたいというお年寄りには何時間でも布団の側に座りこみ最期の瞬間までともに付き添い、幸せそうな表情で息を引き取っていくお年寄りの手をしっかりと握りしめ周りの目も気にせずその家族とともに涙を流し死を看取った。

紀藤の心の中にはいつもあの少年がいる…
母親を救ってあげることができなかったことへの贖罪…
いや…自らの驕りに対する戒めなのであろうか…
紀藤は生涯あの名も知らぬ少年と
ともに生きていく道を選んだ。

あれから8年経った今、あの時少年だった彼は成人しているはずだ。
今どんな風に暮らしているのか?
元気にしているのだろうか?
その後妹さんは見つかったのだろうか?

いや…
それを調べても詮無きことだと紀藤は認識している。
今の紀藤はこの先もしあの少年に偶然会ったとき、医師として恥ずかしくない生き方をしていたいと思うだけなのである。

医師 紀藤賢介はそんな想いを胸に抱き今、海を渡り美波間島に向かっている…



「来たよ!あんた!」

コバルトブルーの海を白く波を切り裂きながら純白のモーターボートがこちらに向かって来るのが見える。
ボートは波の上をまるで飛び跳ねるように疾走してくる。

「あんた…なんかおかしいよ…」

モーターボートの舷側から上半身を海に突っ伏している人の姿が見て取れた。
ボートが近づくにつれその様子がはっきりと呉屋夫婦に見て取れるようになった。

「あちゃー 先生まただよ」
亜久里は頭を抱えた。

紀藤は船酔いで吐いていた。
紀藤の乗り物に酔いやすい体質は与那国島や美波間島でももう有名だ。
大きなフェリーでも酔ってしまうのに今日のような小さなモーターボートでは尚更である。ボートが接岸するとヘロヘロになった紀藤がいくつも荷物を持って島に上陸した。

「徳さんありがとう…」

「先生頑張れよー!」
徳さんと呼ばれたボートの操舵手は手を振ってボートを離岸させた。


「大丈夫かい先生⁉︎」
呉屋夫婦は紀藤に駆け寄った。

「あ、呉屋さん…
だ、大丈夫で … ウッ…」
紀藤は手で口を押さえた。

亜久里ととし子は顔を見合わせた。

紀藤は医師としての腕は超一流なのだが、外見に気を配ることを知らない。 黒縁眼鏡に放ったらかしの寝ぐせのついた髪、ヨレヨレになった白衣と知らない人が見たら医師というより時代遅れの学者に見えるかもしれない。 与那国島に移り住んでからその洒落っ気のない様は更に磨きがかかったようだ。


その頃、分校には千鶴や居酒屋「海人」の女主人 寛子、源一の妻 鐘子、今ベッドで苦しんでいる金城亜矢子の愛娘で小学校一年生の真奈美らが集まり紀藤の到着を待っていた。

「亜矢子さんの具合はどう?」
車で駆けつけ保健室のドアを開けた諒太は千鶴に尋ねた。チーリンも諒太の後に続き保健室に入った。

「あ、諒太さん、チーリンさん…
それがだいぶ辛そうなの…」
千鶴は見るに忍びなさそうな表情で亜矢子の姿を見ながら答えた。

ベッドで横になっている亜矢子はあぶら汗を浮かべ息も荒く痛みに耐えている様子だった。

「今、港に呉屋さん夫婦が紀藤先生を迎えに行っているから多分もう少しでここに着くはずよ」
寛子が答えた。

「そう…ところで浩司さんとは連絡はとれているの?」

「携帯の電波が届かない外海にいるみたいでさっき私から漁協の無線でうちのに話しといたよ」
源一の妻 鐘子は心配そうにベッドの上の母親を見つめる真奈美の手を取りながら答えた。
源一の漁船に亜矢子の夫であり、真奈美の父親の浩司は乗っている。

お互いこの時が初対面の鐘子とチーリンは挨拶を交わした。

「うちの旦那がいつも迷惑かけているみたいで悪いわねチーリンさん」

60代で肝っ玉母ちゃんの雰囲気が滲み出ている鐘子は頭を下げた。
実際、鐘子は美波間島の漁師の良き母親役で気性の荒いあの源一ですら頭が上がらない存在であった。

「とんでもないです…私の方こそお世話になっているばかりで」
チーリンも頭を下げた。

「鐘子さん、源さんの船は今どこにいるんです?」
諒太は尋ねた。

「与那国の漁船と船団を組んで島から200キロも離れた海にいてどんなに急いで帰っても5時間はかかるみたいなのよ…」
溜息混じりに鐘子は答えた。

「そうですか…」

その時、エンジン音が聞こえ呉屋の車が校舎の外に到着した。

「大変遅くなりました!」
医療セットなど荷物を肩にかけた紀藤医師がまだ船酔いの抜けぬ青い顔をして呉屋夫妻とともに保健室に入ってきた。

「先生!」
そこにいる皆が紀藤の元に駆け寄った。

「皆さんご無沙汰しております」
律儀な性格な紀藤は一人一人の目を見て会釈しながら挨拶を交わした。

「はじめましてサイチーリンといいます」

「どうも…紀藤で…

紀藤は自分より背の高いどこか見覚えのある美しい女性の顔を二度見した。

「えっ!サ、サ、サイチーリンさん⁈」

「はい…」

紀藤は後ろを向くとおもむろに白衣の内ポケットからくしを取り出しペタペタ寝ぐせのついた髪を撫で回した。

「い、医師をしております き、紀藤と申します!」
紀藤はチーリンに向き直ると照れと緊張で吃りながら自己紹介をしだした。顔は赤く上気し眼鏡は白く曇っている。

「この部屋なんか曇ってますねぇ
チーリンさん… ハハハ…」

「ちょっと先生!早く亜矢子さんの具合を診てやってくんな」
鐘子は紀藤の様子を見かねて声を出した。

「そ、そうですね」
紀藤は我に返って答えた。

「それではこれから亜矢子さんの診察をしますので皆さんは隣の教室の方で待っていてもらえますか?」
紀藤は医師の真剣な目に戻って移動を促した。
カーテンを閉め、痛みに耐える妊婦の亜矢子の横に立つと紀藤は亜矢子に声をかけた。

「亜矢子さん、紀藤です。わかりますか? 辛いでしょうけど頑張りましょうね」

しかし紀藤の励ましにも亜矢子は汗だくになり呻き声を上げるだけで言葉で返すことはできない状況であった。
早速紀藤は持参した医療セットを駆使して亜矢子の診察を開始した。

うぅ…
亜矢子は陣痛の痛みのあまり声を上げた。

検査する紀藤の顔が曇った…
(これはまずいな…)

18 胎動

「結論からお伝えします。亜矢子さんにはここで産んでもらいます」

亜矢子の診断を終え、保健室から皆が待つ教室に移った紀藤ははっきりとそう宣言した。

「マジかよ⁈ この分校で出産するっていうのかい先生⁈」
驚いた呉屋亜久里が大きな声を出した。

この紀藤の発言に周囲が騒ついた。

「この状態で今から亜矢子さんを他へ移動させることは体に大きな負担がかかることとなり、お腹の胎児ばかりか亜矢子さん自身に危険が生じる可能性が高いんです」
紀藤はゆっくり皆の顔を見回した。

「先生、ドクターヘリで病院に運ぶってのはどうなんだい?」
鐘子が心配そうな表情で質問をした。

「もちろんドクターヘリは呼びます。けれど、それは未熟児で産まれてくるであろう赤ちゃんを感染症を防ぐ保育器のある病院に運ぶためです。今からヘリを呼んでも出産には間に合わないかもしれないし、もし手術が必要となった場合、揺れるヘリの中での手術は極めて困難です」

紀藤の言葉に場は静まり返った。

「じゃあ…ここで紀藤先生が赤ちゃんを取り上げるということなんだね?」
寛子が尋ねた。

「はい。 ただ…」
紀藤は顔を曇らせた。

「ただ? ただ何なの先生⁈」
紀藤の含みのある発言に呉屋とし子が声を荒げた。

「亜矢子さんにここで出産してもらうためには幾つか解決しなければならない問題があるのです…」

「問題ってどんな問題なんだい先生?」
今度は鐘子が尋ねた。

「はい…一つ目はここの保健室の光量が足りないんです」

「こうりょう?」

「はい。つまり明るさが足りないんです。この古い保健室の天井の蛍光灯と北側窓からの自然光だけでは万が一オペとなった場合、暗い灯だと影ができてしまって繊細な動きが必要なオペが難しくなるのです。そのため通常オペには影が出来ないほどの強い光が必要となります。オペ室の無影灯までとは言わないまでもそれに近いライトの光量が必要なんです」

ここは孤島の小学校の古い分校である。
そんな医療用無影灯などありはしない。いや、島中探してもそんなライトなどないだろう…
千鶴と鐘子は顔を見合わせた。

紀藤は続けた…

「二つ目はもし帝王切開手術となった場合、オペの進行具合によっては亜矢子さんに輸血をする可能性が出てきます。しかし亜矢子さんに対応できる血液型の輸血パックは1パックしか診療所にはありませんでした。
このB型血液250mlだけです」
紀藤は持参したクーラーボックスを開いて全員に見せた。

「血が足りねーのかよ…」
亜久里がボソっと呟いた。

「そして三つ目…

「おいおいまだあるのかよ先生⁈」

「はい。これが最大の問題かもしれません…
僕は外科医です。今まで一度も赤ん坊を取り上げた経験がありません…」
紀藤は目を伏せた。

「紀藤先生がそんな弱気じゃあ…」
寛子が嘆いた。

「もちろん僕も医師として最善を尽くします。
ただ、一人ではどうしようもありません。何故なら赤ちゃんが産まれた瞬間…診なければいけない対象は二人になるんです。ですからどなたか僕の助手としてお手伝いをしてもらえる方が必要なんです。
可能であれば医療従事者か過去に医療に携わった経験がある方がいれば尚良いんですが…」

美波間島には現役はもちろん過去においても医師や看護師経験者など一人もいない。島唯一の産婆の清子オバーも今 島にはいないのである。
果たして人の命にかかわる荷の重い仕事が素人に出来るものだろうか…
皆 口を閉ざし重苦しい空気が流れた。

紀藤の出した三条件をクリアするのはどれも簡単なことではない…
そのことは当の紀藤自身が一番わかっている。
紀藤は難しい顔をして静かに目を閉じた。

その時、重苦しい空気をやぶるように今まで黙っていた諒太が口を開いた。

「ライトの件は俺が何とかする」

「何かあてがあるのかい真田ちゃん?」
亜久里が聞いた。

「呉屋さん、店にLEDランプとソケットあるかな? それと小さめのアルミのボウルがいくつか欲しいんだけど…」

「ランプとソケットは確か10個くらいならあったと思うよ。それからうちは金物屋じゃねーんだからアルミのボウルなんて扱ってないぜ」

「アルミボウルならお店にたくさんあるわよ。
でもそんな物どうするの真田さん?」
居酒屋海人の女主人寛子が尋ねた。

「無いのなら作るしかない」
諒太は顔を上げ毅然と答えた。

「なるほど!それでライトを作るってことだな真田ちゃん⁈」
亜久里は合点がいったようで手を叩いた。

「お前ちょっとひとっ走り店からLEDランプとソケット取ってきてくれや! 俺は砂川ちゃんに連絡とって役場の有線使ってもらってB型の血液型の島民に集まってもらうよう頼むわ!」
亜久里は妻のとし子にがなった。

「あいよ!」
とし子は元気よく答えた。
この夫婦、喧嘩を始めると手が付けられないが、このような時の夫婦の結束は強い。

「あとは先生の助手だな…」
亜久里は答えが出ずに腕を組んで溜息をついた。

「私にやらせてもらえませんか?」
チーリンが立ち上がった。

え⁈
そこにいる皆が驚いた表情でチーリンを見つめた。

「チーリンさん 医療従事の経験があるの?」
千鶴が尋ねた。

「いえ…ありません…
でも以前ドラマの役作りのため半年間ですが台北萬吉病院で医療研修を受けたことがあります」

「チーリンさん…これは女優さんの役とは違うのよ」
諭すような鐘子の言葉であった。

チーリンは何も言えずうつむいた。

「待ってください!台北萬吉病院といえば名の通った名門の病院です。
そこで受けた研修なら役に立つかもしれません。 チーリンさん、僕の助手をお願いできますか?」

「はい!」

紀藤の言葉にチーリンは大きな声で答えた。

「よし! そうと決まれば急いで取り掛かろう!」
諒太は皆の不安を取り払うように立ち上がると手を叩いた。

「先生、他に何か必要なものはあるのかい?」
鐘子が聞いた。

「そうですね…チーリンさんが着る手術着に代わるものが必要ですね。
あと、赤ちゃんを包むものを…」

「割烹着でもいいかね?」
寛子が尋ねた。

「はい、清潔なものなら差し支えありません」

「じゃあ私は店からボウルと割烹着を持ってくるね」
寛子は立ち上がった。

「うちに昔 唯に使っていたお包みがどこかにしまってあったと思う…
唯も今家に一人でいるから連れてくるわ」
千鶴も立ち上がった。

「俺は工作室から使えそうな工具類を探してくる」
諒太が立った。

「私はもう一度漁協に戻ってこの事を無線で浩司君に伝えてくるよ」
鐘子も立ち上がった。

「あんた、私も店からランプ取ってくるね!」
とし子も元気よく立ち上がった。

「ああ、よろしくな。俺は役場に連絡いれるから。それからあと何すりゃいいんだ?」
亜久里は困った顔でとし子に聞いた。

「まったくこんな時 男なんて役に立たないんだからぁ…
あんたは産湯に使うお湯でも沸かしてな!」

「お、おう…」
亜久里はスキンヘッドの後ろ頭をかいた。

ここに居る女性たちはチーリンを除いて皆 出産経験者である。亜矢子の陣痛の苦しみは自分のことのようにわかる。亜矢子と産まれてくる赤ん坊のため皆が一丸となって動き出した。

「紀藤先生…お願い…お母さんを助けてください…」
真奈美が小さな手で紀藤の袖を引っ張りながらつぶらな瞳で懇願した。

「真奈美ちゃん、大丈夫だよ。
先生が必ずお母さんを元気にするからね」
紀藤は真奈美の目線まで膝を折り頭を撫でながら優しい眼差しで答えた。

「うん!」
真奈美は安心したように首を縦に振った。
紀藤には自信があった。
それは自分の腕にでは無い。
ここに居る皆んながひとつになって支えてくれる。
その心強さが紀藤に勇気をもたらしたのだ。

(あの時とは違う…僕は必ず亜矢子さんとお腹の赤ちゃんを救ってみせる…)
紀藤の胸に熱いものが込み上げた。

紀藤はドクターヘリの手配をするため携帯電話を取り出した。
宮古島に配備されているドクターヘリであるが、美波間島まで距離が直線で250キロもある。病院からは準備も含めてヘリの到着までに数時間はかかるという返答であった。
どう考えても亜矢子が病院で出産するのは時間的に困難なことである。さらに紀藤は東京の病院で働いているかつての同期の産婦人科医に連絡をとり亜矢子の現状を伝えるとともに出産に向けての指示を仰いだ。

「チーリンさん、これからの手順を説明します。資格のないチーリンさんに医療行為は出来ませんから僕の指示通りに補助をお願いします。
僕がバイタルと聞いたら僕が持参したこの機器の液晶画面に出る血圧と心拍数を口に出して教えてください」

「はい」

「あと出来る限り亜矢子さんを励まし続けてください。チーリンさんも初めての事で大変でしょうけど、僕らが緊張すると亜矢子さんが安心して出産できませんからね…
基本的に亜矢子さんには自然分娩で頑張ってもらいますが、状況によっては帝王切開手術に切り替えることも十分ありえます。チーリンさんもそのつもりでいてください」

チーリンは真剣な眼差しで頷いた。
だが、今回は映画やドラマの撮影のようにやり直しがきかない。
絶対に失敗が許されないのである。
人の命がかかっているのに緊張するなと言われてもそれは無理なことであった。
チーリンは無性に口の中が渇いた。

紀藤とチーリンが手順確認を進めていると鐘子やとし子らが次々と教室に戻ってきた。
諒太は図工室から木製の板やら棒などを持ち込み始めた。

「真田ちゃん、店からランプとソケット持ってきたよ!」

「私もアルミボウルと割烹着持ってきたわ」
諒太に声をかけたのはとし子と寛子である。

「ありがとう!」
諒太は早速無影灯の製作にとりかかった。諒太は器用に電動ドリルや工具を使い板とボウルの底に穴を開け、ネジで板にアルミボウルを取り付け更に真ん中にソケットを通すとLED電球を接続させた。
板に取り付けられた合計9基のライトである。
後は配線処理を施し設置をした後、保健室で実際に点灯試験を行う。
諒太は部材を持ち保健室へ移った。

「チーリンさん、これ着てみて」
寛子は真っ白な割烹着と三角巾をチーリンに差し出した。
チーリンは髪をアップにし三角巾を頭に着けると割烹着を身につけた。

もう後戻りは出来ない。
チーリンは緊張で胸の鼓動が高鳴るのが自分でもわかった。

しばらくすると役場の有線を聞きつけた島民が分校に集まり出した。
集まった全員が求めているB型の血液型ではないが、亜矢子の出産の話を聞いて心配で家にはいられないと島の老若男女かなりの人数が思い思いに分校の教室に集まってきたのだ。

「先生、わしは見ての通りの老いぼれだけれども必要ならいくらでも血を抜いておくれ」

「先生、わたしからもお願いします。亜矢子さんにわたしの血を使ってあげて…」

次から次へB型の血液型の島民が名乗り出た。

「美波間島では7年ぶりの赤ん坊なんです…先生何卒お願いします」
別のお年寄りが紀藤に手を合わせた。
紀藤に皆の願いがひしひしと伝わってきた。

「ありがとうございます…必要となった時にはお願いします」
紀藤は目頭を熱くし頭を下げた。

一方、保健室の諒太は横になっている亜矢子のベッドの脇に脚立を立てライトの設置を始めた。
カーテンレールに横に棒を二本固定してランプを取り付けた板を組み合わせると残りの配線処理を行なった。
ベッドの上の亜矢子は紀藤の手で点滴が打たれ先ほどよりは容態が安定して見える。

「バタバタして悪いね亜矢子さん」
亜矢子の頭の上で作業する諒太は亜矢子に声をかけた。

「真田さん…私のほうこそ迷惑かけちゃってごめんなさい… 皆んなにも…」
亜矢子の小さな声が聞こえてきた。

「亜矢子さん何を言ってるんですか?
誰一人迷惑だなんて思っていないですよ」

「でも…」

「亜矢子さんはそんなこと気にしないで元気な赤ちゃんを産んでください。皆んなそれだけを祈っているのですから…」
諒太の優しい言葉に亜矢子の目に涙が浮かんだ。

「真奈美はどうしてる?」
亜矢子は話題をあえて変えたようだ。

「心配いらないですよ。真奈美ちゃんなら教室で鐘子さんと一緒にいますから」

「そう…よかった…」

「主人は…?」

「紀藤先生は出産に立ち会うのは時間的に難しいって言っているけど、浩司さんの船、今急いでこちらに向かっています。だから亜矢子さんは心配しないで」

亜矢子は首を横に振った。
「ううん…私は主人に出産に立ち会って欲しいなんてこれっぽっちも思っていないの…」

「え…?」

「私は主人が海から何事もなく無事で帰って来てくれたらそれだけでいいの… 主人がこんな事で心配して事故にでもあうことが私は一番怖い…
この子は私一人で産むから大丈夫…」

諒太は目を伏せた。
(女性にとって出産は闘いだ…
亜矢子さんはそれを一人で立ち向かおうとしている…)

諒太は脚立を降り顔を亜矢子に向けた。
「亜矢子さん、あなたは一人じゃないですよ。
集まってくれている皆んながついています」

「…そうだったね」
諒太の言葉にとうとう亜矢子の瞳から涙が溢れ落ちた。


教室の紀藤は持参した青い術衣に着替え、チーリンに医療用マスクと手袋を手渡し言った。

「そろそろ行きましょうか?
チーリンさん」

「はい…」
チーリンは緊張のあまり体中に力が入っていた。
撮影の時にもこんなに緊張することはない。これはチーリンにとって未知の体験であった。

「それでは皆さん行ってきますのでよろしくお願いします」
教室に集まった島民に向かって紀藤は頭を下げた。

「先生しっかりね!」
「紀藤先生よろしくね!」
「チーリンさん頑張って!」
「待ってるわよ!」
「頼んだぞ!」

集まった人たちから次々に紀藤とチーリンに激励の言葉がかけられた。
中には二人を拝むお年寄りまでいた。


「紀藤先生、ライトの確認をしてもらえますか?」
諒太は保健室に入ってきた紀藤に声をかけた。
諒太はコンセントを差し込みライトを点灯させた。諒太手作りのライトは亜矢子が横になっている直下のベッドを明るく照らし出した。
板に取り付けられた合わせて9基のLED電球と各個に付けられたアルミボウル。LED電球の光の直進してしまう特性を巧くアルミボウルのわん曲が光を拡散し影を消した。諒太の目論見通りの無影灯であった。

「真田さん見事です!
影も出来ませんし、光量も申し分ありません」
紀藤は短時間でこれだけのものを作り上げた諒太の発想と仕事ぶりに驚いた表情で敬意を払った。

「紀藤先生あとはお願いします」
諒太は頭を下げた。

「任せてください!」
力強く紀藤はうなづいた。

諒太は一瞬紀藤の後に立つチーリンと目があった。 チーリンはマスクをかけ表情を読み解くことが出来なかったが、その目は緊張していることが諒太にもわかった。
諒太はチーリンの目を見て柔和な表情でゆっくりうなづくと通り抜けざま無言でチーリンの肩を一度軽く叩き保健室を出て行った。

あ…
緊張のあまり全身に力が入っていたチーリンであったが、諒太の温かい手が触れた肩の力が一気に抜け、体の隅々に至るまで緊張が解けていくのがわかった。
チーリンはおもいがけず振り返ったが、諒太の姿は既にそこにはなかった。

君ならやれる…
チーリンは諒太にそう言われたような気がした…

更に時が経った…

「あれからもう一時間半だよ…」
鐘子は不安そうな声を出した。

「どうなってるんだろうね…」
とし子も心配した。

亜矢子が保健室に入ってからかなりの時間が経つ。
しかし、皆が待つ教室には未だ何の知らせも入ってこなかった。
立ったまま腕を組むもの、子供の椅子に腰掛けるもの、そわそわ歩き回るもの、各々待つ格好は様々だが、皆が朗報を待ちわびていた。

「お前ちょっと様子見て来いや」
亜久里はとし子に命じた。

「いや、ここは紀藤先生とチーリンさんを信じて待ちましょう」
諒太の声だった。

「そうだよ…うちも息子の時は三時間もかかったんだから。真田ちゃんの言う通り二人を信じて待とうよあんた…」
とし子は亜久里に言い聞かせた。

「確かにな…この瞬間も亜矢子さん頑張っているんだもんな…俺たちがテンパってちゃ見っともないわな」
亜久里は考えを改めた。


その頃、保健室では亜矢子の陣痛の間隔が短くなり、亜矢子の苦痛も増していた。

「チーリンさんバイタルは?」
紀藤は尋ねた。

「血圧173 心拍159です。先程より高くなってきています」
チーリンは計器を読み紀藤に伝えた。

諒太の作ったライトに白く照らされた亜矢子の顔は苦痛に歪んでいた。
この時、紀藤はこのまま自然分娩で進めるか帝王切開に切り替えるべきか迷っていた。 亜矢子が腹部の痛みを覚えてこの保健室に入ってからもうすぐ4時間近くになる。紀藤に決断の時が近づいていた。

「先生…わたしはどうなってもいいからお腹の赤ちゃんを…
この子だけは…」
亜矢子は苦痛に顔を歪め腹部を押さえながら必死に紀藤に懇願した。

「何を言っているんですか⁈
僕はお腹の赤ちゃんもあなたも二人共助けます!
真奈美ちゃんも信じて待っているんですよ!
亜矢子さんが頑張らなくてどうするんですか!」
紀藤は弱気になる亜矢子を叱った。

チーリンは亜矢子の子を想う母の愛を目の当たりにして目頭が熱くなった。

「 ごめんなさい…紀藤先生…
わたし頑張ります…
チーリンさん…お願いがあるの…
手を…わたしの手を握っていてもらえますか?…」

「はい。頑張りましょう亜矢子さん!」
チーリンはしっかりと亜矢子の手を握りしめた。

うぅ…
亜矢子の顔が歪んだ。握られたチーリンの手に亜矢子の力が込められた。
間をおかず亜矢子はついに破水した。
これをみて紀藤は帝王切開はせず亜矢子にこのまま分娩してもらうことを選択した。

「亜矢子さん、オペはしません。
このままいきますので頑張ってくださいね。
チーリンさん、お願いします!」
紀藤は医師の真剣な目でチーリンと目を合わせた。

「はい!」


ーその後亜矢子の苦闘は更に一時間の時を要した…

「亜矢子さんいきんで!
もう少しですよ!」
紀藤の檄が飛んだ。

「痛い…」
亜矢子は顔にあぶら汗を浮かべ苦痛に顔を歪めている…

「頑張って!亜矢子さん!」
チーリンも必死で紀藤の助手としてのつとめを果たしていた。


そして…ついに…

小さな小さな胎児が産まれた…
直ちに紀藤の手で臍の緒の処置がなされた。

…しかし
赤ん坊はピクリとも動かない…
紫色の肌のまま息をしていなかったのである…

「そんな…」

チーリンはその悲しい光景を目の当たりにして両手を口に当てた。
出産経験のある亜矢子も真奈美のときとは違う違和感を察し涙を流した。

「僕は諦めない…
諦めてたまるかぁ!」
紀藤は全く声を上げない赤ん坊の足を持ち上げると尻を叩きだした…
何度も…何度も…

だが…赤ん坊は全く動く気配がなかった。尚も紀藤は赤ん坊の尻を叩き続けた。

「…もうやめて」
亜矢子は嗚咽しながら紀藤に訴えた。

「先生…」
震える声でチーリンも涙を流しながら一心不乱に赤ん坊の尻を叩く紀藤を見つめた。

「お前がこの世に産まれ出たのは何のためなんだ!
こんな短い命を終えるために産まれたんじゃないだろ!
お母さんに抱かれるためじゃないのか⁈
親より先に逝くなんて親不孝だろ!
泣け!泣け‼ ︎泣けー‼︎」

紀藤は赤ん坊に大きな声を張り上げ必死の形相で赤ん坊の尻を叩いた。

ううっ…
亜矢子とチーリンのすすり泣く声が悲しく保健室に響いた…


まさにその時であった…

オギャー‼︎
赤ん坊の力強い泣き声が響き渡った。

「泣いた! 泣いた‼︎」
奇跡のような瞬間であった…

赤ん坊の肌はみるみる赤みがさして血色が戻っていった。

「やった…やった…
お前…チビのくせに頑張ったな…」
紀藤は涙を流しながら腕の中で泣き叫ぶ赤ん坊に語りかけた。

「チーリンさん…赤ちゃんの体を洗いたいので準備する間、少し抱っこしてもらえますか?」
紀藤は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらチーリンに言った。

産湯の準備はチーリンがするつもりであったが、紀藤はあえて自分が裏方に回り、いっときでもチーリンに赤ちゃんを抱いてもらいたかったようだ。
チーリンは恐る恐る赤ちゃんを自らの手に抱いた。

それは両手に収まるくらい小さな小さな生命。
チーリンの腕の中で元気に泣き叫ぶ早産で産まれた小さな命の体重はとても軽い…
しかし、チーリンにとってその重さは何にも変えがたい重さであった。

「これが…命…」

手のひらに伝わるぬくもり…
チーリンの瞳からはとめどなく涙が溢れた。
それは先程までの冷たく悲しい涙ではなく、とても熱い涙であった…

紀藤の手で赤ん坊はきれいに洗われ、お包みに包まれた後ベッドで横になっている亜矢子は赤ん坊と対面した。

「元気な男の子ですよ。亜矢子さんよく頑張りましたね」
紀藤は優しく亜矢子に声をかけるとまだ泣き続ける赤ん坊の顔を亜矢子に向けた。

「ほんと…よく泣いて…」
亜矢子は赤ん坊の顔を撫でた。
我が子との対面に亜矢子は涙が止まらなかった。

赤ん坊の元気な泣き声は隣の教室にも届いた。

「おい? 産まれたんじゃねぇか?」
亜久里が椅子から立ち上がった。

「そうよ!産まれたんだわ!」
皆が一斉に歓喜の声を上げた。

「真田ちゃん、見にいこうぜ!」
亜久里は満面の笑みで諒太に声をかけた。

「そうだね!」
諒太も亜久里の誘いにのって教室のドアを出ようとしたとき両手を開いた千鶴が二人の行手を止めた。

「ダメよ!赤ちゃん見たいのはわかるけど、そんなデリカシーがないことしちゃ。ご主人でもない男性に亜矢子さん、産後すぐの姿を見られたいと思う?」

「あっ…そうか…」
二人は千鶴にたしなめられあっさり諦めた。

「まったく…男は気が回らないんだから…
代表して私と千鶴さんが亜矢子さんの様子見てくるから待っていて。
さあ、真奈美ちゃんお母さんの様子見にいこうか?」

「うん!」

鐘子は幼い真奈美の手を引っ張って千鶴と保健室に向かった。


「おかあさん…」
真奈美は恐る恐る母亜矢子がいるベッドのカーテンを引いた。

「真奈美こっちにいらっしゃい」

真奈美が見つめる先にはお包みに包まれ母の亜矢子に抱かれている小さな小さな赤ちゃんがいた。
赤ちゃんは泣き疲れたのかスヤスヤと眠っている。

「あなたの弟よ…」
亜矢子はニコっと笑い真奈美をいざなった。真奈美はおどおどしながら小さな手で赤ちゃんの顔を優しく触った。

「かわいい…」

真奈美は幸せそうな笑顔を見せた。

「あ、真奈美ちゃん」
紀藤がカーテンの中に入ってきて真奈美に声をかけた。

「お母さんも赤ちゃんも一生懸命に頑張ったんだよ」
紀藤は真奈美の目線に降りて優しく語りかけた。

「せんせい、おかあさんをたすけてくれてありがとう」
真奈美は紀藤に礼儀正しく頭を下げた。

その後、紀藤とチーリンは鐘子と千鶴にその場を代わってもらい隣の教室に入った。

「よくやった!」
拍手と歓声が二人を待っていた。

紀藤は穏やかな表情で皆を見渡しながら言った。

「元気な男の子です。母子ともに健康です」

盛大な拍手が送られ皆安堵の表情が浮かんでいた。

「紀藤先生頑張ったね!」
紀藤に声がかけられた。

「いえ…亜矢子さんが最後まで諦めず頑張ってくれたんです。僕がしたことなんてなにもありません…
それからここにいるチーリンさんの頑張りがなかったら僕一人ではどうしようもなかったと思います…」

拍手が鳴り響きチーリンの周りに人集りができた。

「チーリンさん頑張ったわね!」
「よくやったね」
「ありがとうチーリンさん」
「ご苦労さまー」

皆笑顔でチーリンを労った。
チーリンは胸が熱くなり穏やかな表情の中にも頰には涙が流れていた。
この時、初めてチーリンは来訪者の立場ではなく、美波間島の島民の一人として迎え入れてもらえた気がしていた。

「それと…ここに集まっていただいた皆さん一人一人が亜矢子さんと赤ちゃんを守ってくれたんです…
一番の功労者は皆さんなんです…
ありがとうございました…」

紀藤は目に涙を浮かべ頭を下げた。

集まった島民の何人かの顔にも涙が見えた。
教室に再び歓声と拍手が起こった。

(医者になって本当に良かった…)

紀藤の頰に涙が流れ落ちた…


先生…ありがとう…

え…
この時、紀藤の目には教室の隅に
あの時の少年が微笑みながら立つ姿が見えていた…


「紀藤先生…」
諒太が紀藤の目の前に立った。

「真田さん…」

この二人、実は数奇とも言える似た人生を歩んでいる。震災により人生が大きく変わったことにより、新たな人生を日本の最果てにある孤島に見出したこと。そして二人は学部こそ違えど、同じ東京帝国大学の同級生であるということだ。諒太は工学部を出たあとエンジニアとして生きがいを見いだし、紀藤は外科医として能力を発揮した。
当時の二人は知る由もなかったが、大学の入学式には諒太にとって思い出深いあの日本武道館で同じ空気を吸っていたのである。
その二人が18年の時を経て東京から2000キロ以上も離れた小島で同じ目的のため協力したことは運命を感じるには充分なことであろう…
二人はうなずきあうとガッチリと握手を交わした。

時を置かず砂塵を巻き上げて校庭にドクターヘリが着陸した。

「紀藤先生はいらっしゃいますか⁈」

「はい、僕ですが」

「金城亜矢子さんのお迎えに参りました航空救急医の浜田と申します!
紀藤先生のご高名はかねがね伺っております!」
浜田は最敬礼で紀藤に向かった。

「僕はそんな大した者ではありませんよ…」
紀藤は頭を掻きながら照れ笑いして答えた。

しかし浜田は大真面目の顔で言った。
「御謙遜を。日本の外科医療界で紀藤先生を知らぬ者などいやしません。
尊敬する紀藤先生と一緒にヘリに搭乗できるなど、こんな名誉なことはありません」

「へっ?一緒にヘリに搭乗?
もしかして僕も乗るのですか?」
紀藤は驚いて声を上げた。

「勿論です!
金城さん親子の診察経過のリレーをヘリの中でお願いしなければなりません!」

紀藤は倒れそうになった。

(今度はヘリかぁー…)
紀藤の乗り物酔いの試練はまだまだ続きそうである…

亜矢子と赤ちゃんはストレッチャーでヘリに運ばれ、青い顔をした紀藤と共に空に舞い上がっていった。
亜矢子と産まれた赤ちゃんは石垣島の病院にヘリで搬送され入院することが決まった。
長女の真奈美はしばらくの間、母と離れることになるが、その間鐘子と源一が面倒をみることになった。
気性の荒い源一であるが、年に数回しか会えない孫の年齢に近い真奈美の前ではデレデレのじい様に変わることは誰もが想像できた。


「腹減ったな…」
帰路での車の運転中、諒太はボソっと呟いた。

「私、帰ったら何か作りますね!」
助手席のチーリンは元気に答えた。その顔は達成感に満ちていた。

「君は疲れているだろう? 今日は俺が作ろう」

「大丈夫ですよ」
チーリンは笑顔で答えた。

「そういえば話ってなんだい?」

「何のことです?」

「今朝、話があるって言っていただろう?」

「ああ…
その事でしたらもう解決したので忘れてください」
チーリンは満足そうにニコっと笑った…

19 遥かなるニライカナイ

19 遥かなるニライカナイ

「そう…わかった…
知らせてくれてありがとう千鶴さん…
残念だ…」

諒太はかたく目を閉じると静かに受話器を置いた。

諒太が電話のある廊下から居間に戻るとよほど疲れたのであろうチーリンは畳の上に横になっていた。
その顔は満ち足りたような穏やかな表情で寝息をたてて眠っている。

「よく…頑張ったな…」

諒太は優しく微笑むと横になっているチーリンの体にそっとタオルケットをかけ、重い足取りで夜の帳がおりた縁側に一人腰を下ろした。
外はいつのまにか雨が降り始め、まるで糸のような白雨が庭に降り落ちていた。諒太は静かな雨音の中、ソテツの葉に降りしきる雨雫をぼんやりと眺めた。

千鶴から電話があったのは諒太とチーリンが分校から戻って食事を済ませた後のことであった。
千鶴が電話で伝えてきた内容には二つの知らせが含まれていた。

亜矢子と産まれた赤ちゃんが紀藤とともに石垣島にヘリで飛び立った後、鐘子は無線で外洋にいる夫の源一に分校での経過を伝えた。
源一は一緒に漁船に乗り込んでいる亜矢子の夫
金城浩司を亜矢子の元へ向かわせるべく美波間島に針路をとり急いでいたが、鐘子の一報を聞き
急遽行き先を与那国島の漁港に変更した。浩司にそこから空路石垣島に向かわせることにしたのだ。
この時、源一も浩司も漁に出るのに必要のない現金を持ち合わせていなかった。しかし、亜矢子の話を聞いた与那国島の漁師たちは同じ漁師の浩司のため快く航空券代をカンパをしてくれた。浩司は皆に感謝し漁師姿のまま急ぎ与那国空港から石垣空港行きの飛行機に飛び乗った。
石垣島の病院に入った赤ちゃんは健康に何ら問題なく元気に保育器に入っているということだった。
勿論、亜矢子も紀藤らの尽力により順調に回復しているという。
その後、親子三人無事対面を果たしたということが伝えられた。

そして…産まれた赤ちゃんは浩司と亜矢子によって島の人々との絆を表した『大絆 』(だいき)と名付けられた。

もう一つの知らせは大絆が産まれたちょうどその時間、国吉商店の国吉絹が静かに息を引き取ったというものであった…
老衰のため102歳の生涯を終えた絹は苦しむこともなく本人の希望通り国吉商店の二階自宅の畳の上で穏やかな顔で旅立っていったという…

美波間島の一つの時代の終わりを告げる訃報に接し諒太は深い溜息をついた。
諒太がこの島に来た時、絹はまだ現役で国吉商店前にある大きな木の下の木陰に椅子を置いて皺だらけの顔でにこにこしながら来店する客をもてなしていた。
当時、絶望に打ちひしがれていた諒太に明るく気さくに声をかけてきたのが絹だった。美波間に生まれ育った絹はまさに島の生き字引という人物であった。
諒太は絹から美波間島や沖縄の文化や伝統、慣習、歴史、考え方などを教えてもらったのである。 右も左もわからない美波間にあって深い悲しみの中にあった諒太にとって孫と同じように優しく接してくれた絹の穏やかに語る話しは心の癒しであり、前を向こうと思える力になったのである。

絹の102年の生涯はこの美波間島とともにあったと言っても過言ではない。絹の若かりしき頃、美波間島はほとんどの家が自給自足の貧しい生活を送り、自ら手に入らない必要な物は物々交換か月に数回来る行商船から購入するほかなかった。
19歳という若さで国吉徹雄という幼馴染みと結婚した絹は貧しいながら幸せな暮らしを送っていた。美波間島の島民の生活を少しでも向上させようと二人は必死に働いた金を元手に美波間島にたった一軒の店舗『国吉商店』を開店させた。島内では耕作出来ず手に入らない米であったり、医療品や日用品をこれまでは他の島に買い出しに出たり、行商船が運んでくる割高な商品を買うしかなかった島民にとって島内に商店ができるというのは長年の念願でもあった。
夫婦は朝から晩まで一生懸命働き二人の子宝にも恵まれた。島民も二人への協力を惜しまず店を盛り上げ経営も順調であった。
しかし、この幸せは長くは続かなかった。絹が25歳の時に太平洋戦争が始まったのである。
夫の徹雄は徴兵にとられ、絹は女手一つで幼い二人の子供の面倒をみることになった。
更に戦況の悪化により物資は滞り、店に陳列する商品にも事欠く事態になったのである。そして開戦から三年後、絹にとって生涯忘れることのできない日が訪れることになる。
徹雄がサイパン島で玉砕したという訃報が届いたのである。
後にわかった事だが、徹雄らサイパン島守備隊は満足な銃弾も食糧もないまま飢えとマラリアに苦しめられ、弾薬が切れるまで徹底抗戦のうえ膨大な物量をほこる米軍に最期の突撃を敢行し部隊は全滅したという。
数ヶ月後には米軍の沖縄への攻撃が激烈を極め沖縄本島は地獄と化した。幸い沖縄本島から遥か離れた小さな孤島の美波間島は米軍からみて戦略的価値がなく、直接の戦災こそなかったが、空爆と潜水艦の雷撃により物流の手段である船舶をことごとく沈められたため物資が入らず、今日食べる物にも事欠いた島民は大変な苦労を強いられた。
そんな中、絹は畑で採れた野菜など有るものを工夫して店頭に並べ一日も休むことなく店を守った。
それは戦死した夫と二人で築き上げた国吉商店を決して閉じてはなるまいとする絹の意地でもあり、一緒に盛り上げてもらった島民への恩返しでもあった。

それから間もなく日本は連合国に無条件降伏した。
しかし、戦後沖縄は日本に還されることはなく米軍の占領下に置かれた。当然、沖縄県に属する美波間島も例外ではなく、時には夫の仇である米兵が横柄な態度で店に顔を出しても絹は笑顔を絶やさず商売に徹した。
昭和47年にようやく沖縄は米国から日本に返還された。世間はお祭りのような騒ぎであったが、絹はいつもと何ら変わることなく店を切り盛りするだけであった。この時期、息子の春雄が妻を迎えた。それが今国吉商店を守っている義娘の節子である。その後、絹は孫にも恵まれ以前に比べると生活も楽になったが、絹は全く変わることなく国吉商店に立ち続けた。だが、最愛の息子 春雄が60歳を超えた時、病気を患い呆気なく先立ってしまったのだ。
夫を若くして失い、そして息子にまでも先立たれた絹であったが、自ら年老いても尚、店を閉めることなく踏み止まった。この国吉商店が無くなってしまえばまた美波間島の島民は船を使って買い出しに島を出なければならなくなり、高齢者の増えた島のことを考えると店を閉じることだけは絹には出来なかったのだ。年齢的に自分の身体が動かなくなり、寝たきりになっても絹は常に店のことだけを心配していた。
正に国吉商店は絹の生き甲斐だったのである。
そして今日、大正・昭和・平成・令和と四つの激動の時代を生き抜いた絹は旅立っていった…

絹の人生は決して平坦ではなかったが、絹はそんな事をおくびにも出さずいつもにこやかに笑っていた。そんな絹の生きる姿に諒太は絶望していた心に明日を生きる勇気をもらったのだ。

諒太はある日の絹の言葉を想い出していた…

「沖縄に古くからあるお墓はどれも海を向いているんです。どうしてかわかりますか?真田さん」
絹はクシャっと笑った。

特に意識をしていなかったが、言われてみればそのような墓が多いことに気がつく。 諒太の知っている本土の墓は大概が山手の墓地かお寺の敷地にあるものである。諒太は今まで海を向く墓など見たことがなかった。しかも沖縄の墓所は諒太の知っている本土の墓の2倍から3倍も大きく、広大な敷地に特徴的な形で頑丈な石やコンクリートで造られていてそれが海を向いている。

「わかりません…どうしてですか?」
何故墓が海を向いてなければならないのか諒太には理由が見つからなかった。

「少し前までこの辺では風葬だったんです」

「ふうそう…?」
聞きなれない言葉に諒太は首を傾げた。

「はい。今でこそ人が亡くなると火葬が当たり前で風葬は法律で禁止されていますけど、その昔、この地方では人が亡くなると遺体をお墓に寝かせてそのまま自然に朽ちるのを待ったんです」

「えっ⁈ 土に埋葬することもなく?」
諒太は初めて聞く風習に驚きの声を上げた。

「内地の方にこの話をすると皆さんびっくりします」
絹は悪戯っぽく笑った。

「故人を野晒しにするということですか?」

「他から来た人からみたらそう見えるでしょうねぇ…この地方では人が亡くなるとお墓に寝かせて自然に朽ちていくのを待ちます。体は海風に洗われ浄化され、その魂は煙りのように肉体から抜けて遠い遠い海の先にあるニライカナイに行くと信じられているからなんです」

「ニライ…カナイ…?」

「はい。常世の国とでもいいましょうか…人によっては理想郷とか竜宮なんていう人もいます。そこは遠い東の海の果てにあって、この世とつながっているんです。人の魂はニライカナイからやってきて死ぬとまたニライカナイに還ります。ですからニライカナイは人の故郷のようなものとも言えます。私も近いうちにニライカナイの地に還ります。でもそれは悲しいことではなく、とても喜ばしいことなんです。先に亡くなった主人も息子も待ってくれています。ご先祖様もいます。友人もいます。

また人として生まれ変わるまでそんな楽園みたいな処で過ごせるなんて楽しみじゃないですか。そうは思いませんか?真田さん…」
絹はシワだらけの顔で嬉しそうに笑った。

うぅん…
後ろでチーリンが寝返りをうつ音で諒太は現実に戻った。
未だチーリンは気持ち良さそうに寝息をたてて眠っている。
雨はいつの間にか上がり、涼しい夜風が庭から居間に吹き込んでいった。

(絹さん…俺はあなたみたいな超越者にはなれないです…
家族や身近な人が亡くなれば悲しいし、身を切られるように辛い…
死にのぞむ人だって怖いだろうし、死ぬ時は苦痛なんだと思います。
現にいま絹さんが亡くなったことを聞いた俺はとても寂しいです…

きっとニライカナイは生き残った人の希望が幻想として現れた夢物語なんですよ…
俺は…今でもそう思っています…)
諒太は拳を握った。

死にゆく命に生まれくる命…
遠い昔から変わらぬこの自然の摂理…
そのことを当たり前と思うのか…奇跡と思うのか…
悠久の時間だけが答えを知っている…
大きな人間の輪廻の無常さに諒太は想いを馳せた。

その時…諒太の膝の上に何か光るものがあった。

⁈ 蛍?
季節外れの蛍が一匹緑色に発光を繰り返していた。
やがて蛍は自らの生まれたときの間違いを悟ったように音もなく空に舞い上がった。そしてしばらく名残を惜しむかのように諒太の目の前で飛翔すると美しい緑色の光の帯を残して何処かへ飛び去っていった。

諒太はその光景を茫然と見つめ続けていた…

20 素顔のままで

絹の葬儀も終わり、ここ数日美波間島は穏やかな日々が続いていた。
ある昼下がりチーリンは普段とは違う格好で諒太がふらりと庭から出かけようとするのを見かけた。
チーリンは急いで追いかけると諒太の背中に声をかけた。

「真田さんどこに行くの?」

諒太は背中を向けたまま手に持っている釣り竿を上げて言った。

「釣り」

「私も連れて行ってください!」

「やったことあるのか?」
諒太は振り返って聞いた。

「ないです」

「素人に釣れるもんか」

「そんなのやってみないとわからないじゃない」

「まったく…」
諒太は溜息をついて納屋からもう一本竿を出してチーリンに渡した。

「それからほら」
諒太は普段自分が使っている麦わら帽子をチーリンの頭に片手で無造作に被せた。

「海は紫外線が強いからな」

諒太の麦わら帽子はチーリンには少しだけ大きかったがチーリンはなんだか嬉しくなって白い歯を見せてにこっと笑った。

フン…
諒太は微笑すると先を歩いて行った。

チーリンはこの日、白いノースリーブのワンピースを着て諒太の麦わら帽子を被り、足はサンダルという清楚な格好である。
一方の諒太は頭には楽天イーグルスのキャップを被り、白のTシャツに紺の短パンにビーチサンダルと簡単な格好であった。
チーリンはドラマの役の中で釣りをするふりをしたことはあっても実生活でしかも海で釣りをしたことなど今までの人生で一度も無かった。
家と海岸の間にある土手をしばらく歩いて海に突き出したコンクリートで出来た防波堤の突端までくると諒太は腰を下ろした。波は比較的穏やかで、海の中を覗くと透明度の高い水の中には小さな魚が泳いでいるのが見える。
チーリンも諒太と並んで腰を下ろした。

「あんまり近づくなよ。
糸が絡んじまう」

「だってやり方わからないんだもん」
チーリンは口を尖らせた。

「しょうがないな…」

諒太はブツブツ言いながらもチーリンの仕掛けもこしらえてあげた。
二人は同時に海に釣り糸を垂らした。

「魚ってのは釣る人間をみるんだ。
だいたい初心者にそう簡単にかかるもんか。
釣りはそんなに甘くない」

諒太が説教じみたことを言っているとチーリンの竿に早速引きがあった。

「なんか引いてる!
どうすればいいの⁈」
チーリンはパニクった。

「竿をゆっくりたてろ!」

チーリンは諒太に言われた通り竿を立てた。小刻みに竿の先に魚の引く感触が伝わってくる。
諒太はタモ網にチーリンの釣り上げた海面で跳ねる赤い魚を捕まえた。

「オジサンだ」

「おじさん? どこに?」
チーリンは周りを見渡した。

「釣れた魚だよ!
長いヒゲみたいのがあるだろ。
通称オジサンって呼ばれているんだ。刺身やフライにすると美味いぞ」

「やったぁ!
私が釣ったんだよ!」
チーリンは初めて釣りあげた魚に大喜びだった。

「まあ…ビギナーズラックっていうのもあるしな…」
諒太はチーリンの釣り針から魚を外しながら負け惜しみを言った。

それからというもの釣れる魚、釣れる魚、全てチーリンの竿にかかった。諒太はチーリンの竿の餌付けと魚を外す作業ばかりさせられたあげく結局自分の竿には全く引きがなかった。

「魚も人を見るのよね〜」
チーリンは諒太をからかった。

………

「つまらん…帰る…」
諒太は道具をしまいだした。

「もうー!」

バケツにいっぱいになった魚を持ってチーリンは諒太の後ろを歩いた。
諒太と一緒に楽しい時間を過ごせてチーリンは満ち足りた気分であった。抜けるような真っ青な青空で強い日差しの中、陽の光を反射してキラキラ光る海からは心地よい風が吹いている。
目の前を歩く諒太の大きな背中を見ながらチーリンはふと思った。

(もし…ここで暮らせたら幸せなんだろうな…)

二人は来た時と同じ土手の上を帰って行くと諒太が突然大きな声を出した。

「マズイ!」

そう叫ぶと釣り道具を放り出して脱兎の如く土手を駆け下り砂浜に走り出した。

「え? なに⁈」

チーリンが諒太の走る方を見ると一人の女性がエアマットに体を横たえて海水浴をしているのが見えた。
チーリンも諒太の後を追って駆け出した。

諒太は大声で叫んだ

「戻れ!
流されるぞ!」

腕を回して必死に戻るよう女に合図したが女は何を間違えたのか呑気に手を振って応えた。

「岸に戻って!」
チーリンも声の限界まで叫んだ。

しかし、女は気づくこともなく波の間に見え隠れしながら海に浮かんでいる。次第に女の乗るエアマットは沖の方へ流されて行く。
女も自分が置かれた事態にようやく気づいたようだった。慌ててバタ足で水面を蹴るが思いとは裏腹に潮に流され沖の方へ流されていった。

「クソ!だめだ…」

諒太はTシャツとビーチサンダルを脱ぐと海の中へ向かって走り出した。

「真田さん⁈」

チーリンの心配をよそに諒太はクロールで必死に女の後を追って泳いだ。諒太は生まれも育ちも海のない地方であったため、波のある海での泳ぎは元来得意な方ではない。
しかし、女にとっての命綱はもう諒太しかいない。
幾つもの波をこえて諒太はなんとか女の側まで泳いだ。女は沖に流される恐怖で顔が引きつっていた。
女は近くまできた諒太を見つけると助かったと油断した。エアマットの上で重心を移動した瞬間エアマットがひっくり返った。女は勢いよく海の中に投げ出された。

浜にいるチーリンにもこの光景がはっきりと見えていた。諒太の頭と明るい茶髪の女の頭が波の間に見え隠れしている。
だが、手前の波に隠れて二人の姿が見えなくなってしまった。しばらく経っても二人の姿は見えない。
チーリンは青くなった。

「お願い! 戻ってきて!」
チーリンは膝をついて祈った。

この時、諒太は海の中に沈んだ女を追って海中にいた。海中で女はもがいている。諒太は冷静に女の背後に回り込むと肘を女の首に回してゆっくりと浮上した。諒太は海面に頭を出すと思いっきり息を吸い込んだ。
女も最初は必死に息をしていたが次第に意識がなくなっていった。

「おい!しっかりしろ!」

諒太は海面上で声をかけたが女の返答はなかった。事態は切迫していたが、ここで女にパニックにかられて暴れられるよりはマシである。
諒太はあえて沖の方向に流れる潮の流れに逆らうことを避け一旦岸と平行に泳いだ。
これはいつか離岸流の対処方法として竜男に教えてもらったことだ。

チーリンからも二人の頭が海面に出たのが確認出来た。こちらの浜に戻ってくるものだと思っていたのに諒太は浜と平行に移動している。
チーリンも諒太の動きにあわせて浜を移動した。

(真田さん頑張って…)
チーリンは心の中で祈った。

諒太は女を小脇に抱え必死に泳いだ。次第に体にかかる潮の流れが変わってきたと感じた。諒太はいよいよ浜に向かって方向を変えた。
もう先ほどまでのような潮の抵抗はない。諒太はこれならいけると思った。体力の限りバタ足で浜に向かって前進した。
膝ほどの浅瀬まで来たときチーリンも海に入って女を砂浜まで引っ張った。諒太は全身ずぶ濡れとなり息が上がっていた。
女は見るからに水商売風の風体で派手な化粧に長いつけまつ毛、ショッキングピンク色のビキニを着けていた。

諒太は意識のない女の口元に自らの耳を近づけた。

「息がない…」
諒太は呟いた。

「嘘…」
チーリンにはこの事態が信じられなかった。

諒太は女の胸に両手を重ねると心臓マッサージを開始した。
1.2.3.4.5.6.

「戻ってこい!」
諒太は女に声をかけた。

続けて女の顎をあげると鼻をつまんでマウストゥーマウスの人工呼吸を施した。
チーリンは何も出来ずにただ見ているほかなかった。
一連の動作を3サイクルほどしたとき女はえづいて口から水を吐き出し咳き込んだ。
チーリンはほっとして諒太を見て微笑んだ。

その瞬間、女の腕が伸び諒太の首に巻きつくといきなり唇を重ねてきた。

「あーん…俊輔ぇ」

女は意識が朦朧としているようだった。

「ちょっ…離せ…」

諒太は首に巻きついた女の腕を離そうしたが尚も女は力を入れて離そうとはしない。
しまいには諒太の口に舌を入れようとしてきた。

ウッ…
諒太は目を丸くしてもがいている。

「ちょっとあなた何しているの!
離れなさい!」

チーリンは女に怒鳴った。
チーリンが後ろから羽交い締めにするとようやく諒太から離れた。
命を救うためのマウストゥーマウスなら仕方ないが、目の前での不埒なキスは容認できないチーリンであった。鋭い目付きで女を睨みつけた。

「なーんだ俊輔じゃないじゃん…
なんか眠ーい…」

女は大きなあくびをするとその場で寝入ってしまった。

「何なのこの人?」

「わからん…」

チーリンと諒太は顔を見合わせた。
二人は女を起こそうと声をかけたが起きる様子は全くなかった。
仕方なく釣り道具をチーリンに持ってもらい諒太は女が浜に残した荷物を持つと背中に女を背負って帰路についた。風通しの良い縁側に女を横たえると諒太は居間の壁に背中を預けて座った。慣れない遠泳で疲労した諒太も次第に舟を漕ぎ出した。
もう諒太は色々な意味でぐったりであった。

チーリンは庭に干してある洗濯物を取りこんでいた。

「う−ん… ここどこ?」
女が目覚めたようだ。

「ねぇ、大丈夫?」
女が目覚めたことに気づいたチーリンは声をかけた。

「大丈夫っていうかぁ…
まだ眠いや」
女はあくびをして目を擦りながら周りを見渡していた。

「あなた海で溺れかけたのよ。
覚えている?」

「ああ…なんかだんだん流されちゃってさぁ、ウケるよね。
そーいえばそこの人にキスされちゃった私…きゃははは!」

「あなたからしたんです!」
チーリンは怒った。

「マジ? ま、いいか」
女はケロっと答えた。

「あなた彼に溺れているところを助けてもらったのよ。あの浜は遊泳禁止の危険な場所なの。あのままだったらあなた海の彼方に流されていたのよ」
チーリンはきつい目をして女を諭した。

「だってしょーがないじゃん。
知らなかったんだもーん。
そんなにプンプンしないで」
女はウィンクして舌をみせた。

チーリンは女の態度に呆れた。

「あなたどこから来たの?」
チーリンは苛立ちを抑えて聞いた。

「東京。 ねぇ、私追いかけて男こなかった?」

「見てないけど…」

「そぉ…あのタコ逃げやがったな。
ねぇ、聞いてよ!
私キャバ嬢してんだけどさぁ、リッチな客と沖縄旅行来たんだけどぉ、途中で喧嘩しちゃってそいついなくなっちゃったんだよ。
今回旅行代あいつもちだからさぁ、与那国まで追いかけてきたんだけど見つかんなくてフェリー乗ったらこんな変なトコに来ちゃったってワケ。それでヤケになっていたらキレイな砂浜見つけて一人で泳いでたんだぁ。そしたら海の中にドボンってうけるよね〜
それにしてもどこ行ったんだか、ほんっとあのチビ使えねぇ!」

機関銃のようにまくし立てる女の話をチーリンは唖然として聞いていた。

「あ、私、店じゃしのぶって源氏名なんだぁ。どこが 忍ぶ女なんだかバカみたいでしょ?本当の名前は 田中 みうっていうんだ。あなたは?」

「私は サイ チーリンです…」

「へぇー日本人じゃないんだ。
日本語上手いね〜どこの人?」

「台湾です」

「台湾かぁ、行ったことないけどタピオカミルクティー美味しいよねー
あとマンゴーのかき氷東京でも流行ってるよ」

「あの人も台湾人?」
みうは諒太を指差した。

「いえ、あの人は日本人です」

「ふーん。
あなた達は夫婦なの?」

「違います」

「じゃあ恋人?」

「違います」

「え?何?友達?」

「違います」

「アパートの大家さんとかホームステイ?」

「違います」

「わかんないよ。教えて?」

「私この家に居候しているんです。」

「居候?マジ?
ルームシェアでもないんだ?」

「はい。ここは彼の家です。
家賃も払っていません。彼の厚意でここに居させてもらっています」

「うそー!
男と一つ屋根の下で暮らしていて何かあったりとかないの?」

「何もありません!」

「本当ぉ?」
みうは疑うような目でチーリンを見た。
「ねぇ、彼何て名前?」

「真田諒太さんです」

「私さぁ、ワイルド系の細マッチョ結構好きなんだよねぇ〜」
みうはそう言うと眠っている諒太の肩や胸を遠慮もなく勝手に触りだした。

「何だ?」
諒太が起きた。

「もう大丈夫なのか?」

「さっきは助けてくれてサンキューりょーたん」
みうはニコっと笑った。

「りょーたん?」

「そう。諒太だからりょーたん。
私のことはみうって呼んで」

「何がりょーたんだ。くだらん」

「りょーたん怒ったぁ?かわいい!」

諒太は苦々しい顔をしてチーリンを見た。
チーリンはため息まじりに首を横に振ると今までのみうの話をかいつまんで諒太に話した。まだビキニ姿のみうは諒太を上目遣いに見上げた。
大きなメロン位はある豊満な胸の谷間を強調していた。

「とにかく服を着ろ。
冷えて腹を壊すぞ」

「だって暑いんだもん。
ここクーラーもないしさ。
なんもないよねこの家」

「悪かったな。
それであんたこれからどこへ行くんだ?」

「みうって呼んでりょーたん。
それがさぁ、帰りの那覇から羽田までの航空券は持ってるんだけど明後日の夜発なんだよねー。
泊まるとことか逃げた男が手配していたから私お金持ってないの。
出発日までここに泊めてくれない? お願いりょーたん」
みうは甘えた声で諒太に迫った。

「仕方ない…空いている部屋使え」

チーリンはみうのような女性をここに泊めてあげるのは反対だったが、考えもなく美波間島に上陸したこと、諒太に助けられたこと、状況こそ違えど自分と同じ境遇で諒太という人間が人で区別するわけもなく、それをわかっているチーリンは口を出せなかった。

「ありがとう〜 りょーたん」
みうは諒太に抱きついた。

「おい、よせ!」

チーリンはそれを横目に見ながら
膨れっ面をして立ち上がった。

「夕ごはん作ってきます!」
チーリンは台所にたった。

「俺も行く!」
慌てて諒太も立ち上がった。

「何作るの– 私も見たい〜」
みうも後を追った。
先程チーリンが釣った魚がバケツに入っている。
それを見たみうが声をあげた。

「何これキモ!
こんなグロいの食べるつもり?」

「嫌なら食べなくていいぞ。
そのかわり他に食べるものはないからな。魚が気持ち悪いのなら座って休んでいろ」

「はぁぃ…」

諒太に言われてみうはふてくされたように台所を引っ込んだ。
諒太とチーリンは並んで台所に立った。

「おじさんは捌き方が難しいんだ。
チーリンさんは俺が捌いた後フライにしてくれるか?」

「はい」
チーリンは諒太が自分を頼りにしてくれることが嬉しかった。
最初のころのチーリンの料理の腕では考えられないことだっただろう。
諒太は出刃庖丁を操り見事な包丁捌きでオジサンを捌いていった。
チーリンも諒太の指示通り完璧にフライに仕上げた。チーリンの料理の腕は最早安心して見ていられるレベルである。チーリンは同時に清子オバー直伝の味噌汁を瞬く間に作った。諒太はその間、他の魚を刺身に仕上げていった。

チーリンは料理の最中、諒太がこちらの料理の手捌きをチラチラ見ては薄く微笑むのを見逃さなかった。
チーリンは台所に諒太と並んで料理を作れる喜びを感じていた。
出来上がった料理を丸いちゃぶ台に運ぶとみうは驚いた表情で声をあげた。

「すごーい! あのキモい魚がこんなになったの!」

「ああ…今日はチーリンさんが魚を釣って料理も作ってくれたんだ。
有り難く頂戴しないとな」

「そんな…私だけじゃ作れなかったですよ…」
チーリンは顔を赤くして照れた。

「なんかさぁ暑くなっちゃった〜」
みうはニヤニヤしながら手のひらで顔を仰く仕草をした。

諒太はそんなことは無視して御飯を食べだした。
「じゃあ遠慮なくいただきまーす」
みうも食べ始めた。
オジサンは刺身にしてもフライにしても白身の甘い味でとても食べやすい美味しい魚だった。最初敬遠していたみうも美味しいと喜んで食べていた。チーリンは自分が作った料理を美味しいと食べてもらえることがなにより嬉しかった。女優中心の生活では味わえない喜びであった。
三人は残さず完食した。

「ねぇ?この島にはクラブとかバーとかないのー?」
みうは諒太に聞いた。

「そんなものない」

「じゃあさぁ、この島の人達ってどこで遊ぶの?」

「日が出たら仕事、日が沈んだら寝るんだ」

「何それ?退屈じゃん」

「島の人間は仕事を一生懸命やっている。退屈になることはない」

「ふーん。お酒も飲まないの?」

「酒くらい飲むさ。
海人っていう居酒屋もあるし、晩酌くらいはどこの家でもしている」

「りょーたんも飲む?」

「ああ…なんならビールくらいはあるぞ」
諒太は立ち上がると冷蔵庫からビールとグラスを3つ持ってきた。

「私がやる〜」
みうは瓶の蓋を慣れた手つきで開けると諒太のグラスにビールを注いだ。

チーリンは目の前でその光景を見ていて腹立たしく思った。
いつも諒太は手酌で飲んでいたし、チーリンは諒太にお酌をするのは恥ずかしく遠慮があった。それをいとも簡単にみうはやっている。

(私だって仕事の酒宴の席で接待することだってあるのに…
どうして素直に真田さんには出来ないのだろう…?)

「はい、チーリンちゃんもどうぞ〜」
みうはチーリンのグラスにもお酌をした。

「あ…ありがとう…」

諒太はお返しにみうのグラスにビールをさりげなく注いだ。

「りょーたんありがとう〜」

チーリンはショックだった。
諒太は今日来たばかりの女性にもう心を開きはじめている。

「乾杯しよ!」
みうは陽気に笑った。

三人はグラスをあわせた。
チーリンは複雑な気持ちだった。

「おいちぃー
ねぇ、りょーたんはこの島で育ったの?」

「いや、俺の出身は群馬だ」

「マジー? 私のおばあちゃんち群馬だよ。 確か倉賀野とかいったかなぁ? 私も子供の頃よく遊びに行ったなぁ〜」

「そうか…俺はもう少し北の中之条だ」

「へぇ〜こんな世界の果てで会えるなんて奇遇だね〜」

「世界の果てではなく日本の果てだがな」

その後二人は群馬のローカルの話しを交わした。チーリンは全く話題についていけず、ただ下を向いて疎外感を味わった。諒太の顔を見ても故郷の話題だけに普段より柔らかい感じがした。

話が途切れたときチーリンの空いたグラスに諒太がビールを注ごうとした。

「いえ、私はもう…」
チーリンは咄嗟に口に出てしまった。

「そうか…」

諒太はビール瓶を持った手を引っ込めた。

私…
真田さんが心を開かないと勝手に決め付けているだけで、本当は私のほうが真田さんに自分を出せていないんじゃないの?…
愚痴みたいな話は言えるのに…

何の遠慮もなく簡単に人の懐に入ることの出来るみうを見てチーリンは思った。それは羨ましくもあり悔しくもあった。
しかし、なぜ悔しい気持ちが湧き上がるのかまではわからなかった。
それから諒太がシャワーを浴びに浴室に行っている時、チーリンとみうは並んで台所で食器を洗っていた。

「ねぇ?りょーたんは好きな人とかいるのかなぁ?」
みうは唐突に質問してきた。

「さあ…いないんじゃないかな…」

「じゃあさぁ、チーリンちゃんはりょーたんのことどう思ってるの?」

「どうって?…」

「男性として好きなのかなぁって?」

「まさか…」
チーリンはみうに顔を向けずに皿を洗いながら答えた。

「ふーん。
じゃあさぁー私りょーたんにアプローチかけてもいいかなぁ?りょーたん結構タイプなんだよねー」
みうは顔を崩して笑った。

「好きにすればいいんじゃないですか? 私には関係のないことですから…」

チーリンは冷たく突き放すように言った。

(真田さんがあなたなんか相手にするはずないじゃない!)
チーリンは顔には出さずに心の中で呟いた。

その後、みうは諒太に空いている部屋をあてがわれた。

「今日は死にかけたんだ。
無理しないで早く寝ろ」

「はぁぃ」
諒太に言われみうはつまらなそうに返事を返した。

深夜、諒太やチーリンがそれぞれの部屋で寝静まったころ家の中に諒太の声が響き渡った。

オワッ!

何事かとチーリンは跳び起き諒太の部屋を覗き込むと寝ている諒太の背中にしがみ付いてみうが寝ていた。
チーリンは諒太の部屋の電気をつけた。
諒太はびっくりして寝ぼけ眼を擦っていた。

「バレたか…」
みうは舌を出して部屋に戻っていった。

はぁ…
チーリンは怒るより呆れていた。

「真田さん…あの娘ここに置いておいて本当に大丈夫?」

「今更出て行けとも言えないしな…」

「そうですね…」
チーリンは不満だったが諒太がそう決断した以上何も言えなかった。

夜が明けて朝になってもみうは深夜の事は無かったかのようにケロっとしたものだった。

「おっはよ! りょーたん!」

洗面所で海岸のごみ拾いから帰ってきて手を洗う諒太の背中をパチンと叩いた。みうはデニムホットパンツに胸には昨日と同じビキニを着けている。茶色の長い髪はきっちり巻き髪をつくっていた。

「りょーたんって何歳になるの?」

「36だ」

「ふーん結構若く見えるね。
私何歳に見える〜?」

「さあな…27 ,8ってとこか?」

「本当! 嬉しい〜!
もう今年30だよ〜
店では25で通しているけどね〜
この前なんかさぁー 客に詐欺パネマジかよ!って言われたんだよー
酷くない?
りょーたんはみうのことわかってくれて嬉しい!」
みうは諒太の腕を掴んで寄り添った。

「おはようございます!」
後ろからチーリンの声が聞こえた。

振り返った諒太は驚いた。
いつも家の中ではラフなTシャツ姿が多いチーリンが今日は胸元まで大きく開いたキャミソールを着て立っていたからだ。
長身の上にスタイル抜群で美しいデコルテを強調したチーリンはさすが世界で活躍するモデル兼女優というオーラを醸し出していた。

チーリンは「失礼!」

と二人の間に割り込むと洗顔を始めた。みうは諒太の間を邪魔されたようで気分が悪かった。

朝食の時間もみうとチーリンの微妙な空気は続いた。まるで胸の谷間を競い合うかのように強調し、お互いを見合う二人の間に挟まれ諒太は目のやり場に困った。

あの…ここ俺ん家なんだけど…

と喉まで出そうになった諒太であったが、このただならぬ雰囲気の中で口に出す勇気はなかった。

「おーい!諒太いるかぁ⁈」
玄関から竜男の声が聞こえてきた。

「ああ!」
諒太は席を立った。
正直このタイミングで竜男が来てくれて助かったと思った。竜男は発泡スチロールの箱を持って立っている。

「外道の雑魚ばかりだがな、チーリンさんと食べてくれ」

「ありがとう」
諒太は礼を言った。

「かわいい〜 お猿さんみたい〜」
みうがいつの間にか顔を出していた。

「誰が猿だ!それよりあんた誰⁈」
竜男は訝った。
諒太は竜男を玄関から家の外に引っ張り出し経緯を説明した。

「お前の家はいつから女子寮になったんだ?」

「そんな事にはなっていない。
彼女は明日には島を出る。
それまでのことだ」

「まったく…どこまでお前はお人好しなんだ?」

チーリンが外に出てきていただいた魚のお礼を竜男にした。

「チーリンさん…あなたも色々大変だね」
竜男は同情した。

「私は別に… 真田さんが決めたことですから。
それに真田さんもけっこう楽しそうにしていますしね」
チーリンは諒太をクールに横目で見ながら言った。

諒太はしかめっ面である。

竜男もこの事がもし妹の瞳にでも知れたら更にえらい事になると思った。

その時、軽トラが諒太の家の前で勢いよく停まった。

「おい!竜男忘れ物だ!」
源一が竜男の水筒を持って降りてきた。

「おや…チーリンちゃん!
おはよう!今日は一段と色っぽいね〜」
源一は猫なで声で挨拶した。

チーリンも笑顔で挨拶を返した。

「ねー?
みんなで何話してんのー!」

みうが外の騒ぎを聞き付け出てきてしまった。

「何だこのねーちゃんは?」
派手な化粧と格好のみうを見て源一はまるで宇宙人でも見るかのように目を丸くしている。

あちゃー源さんに見られた…
竜男は頭を抱えた。

「私、りょーたんの彼女のみうで〜す!」
みうは諒太の腕にしがみ付いてピースをした。

「本当か⁈」
源一は信じられないという顔をしてみうを見た後チーリンの方を見た。

チーリンは知らんぷりをした。

「おい!ふざけるな!」
諒太はみうの腕を振りほどいた。

「りょーたん…そんなに否定しなくても… 昨日は一緒に寝たのに…
みう悲しい…」
今度は泣き真似をして源一の傍に行った。

「おい!諒太! こんなかわいい娘を泣かすんじゃねぇ!」

「ちょっと源さん!」
竜男が止めにかかった。

「おじさん、優しいんだね…」
みうは潤んだ瞳で源一を見上げた。

「おうよ!困ったことがあったらこの源さんに任せとけってんだ!」

「こんな野暮ったいイノシシ男は放っておいておじさんと今晩飲みに行くか?」

「行く!行く!」
みうは最初から泣いてなどいない作り泣き顔を急に笑顔に変え源一に甘えた。

「じゃあな、ねーちゃん夕方おじさんが迎えにくるからな、待っていな」

「コラ諒太!女を泣かすんじゃねぇぞ!」
そう言うと源一は軽トラで颯爽と去って行った。

「本当ですよ…」
チーリンは小さく独り言を呟いた。

「じゃあ、諒太俺も帰るわ…」

「待て竜男!もっと話があるよな?」

多分ない…
きっとない…
全然ない…
呪文のように唱えると竜男も速足で帰ってしまった。

残された三人に再び気まずい空気が流れた。

みうが口を開いた。
「ねぇ、目薬欲しいんだけどどっか売っているとこないかなぁ?」

「国吉商店になら売っているぞ。
後で地図をかいてやる」

「みう この島のことなんかわからないよ〜
ねぇりょーたん一緒に行こ?」

一瞬諒太はチーリンを見た。

「連れて行ってあげればいいじゃないですか…
みうさん困っているんだし…」
チーリンは諒太に目も合わさずに無愛想に答えた。

「チーリンちゃんもああ言っているんだし行こ!りょーたん」

みうは部屋からハンドバッグを持ってきてから諒太の腕にしがみついた。

「おい!やめろって言っているだろ!」

諒太は口で制止したが無理矢理力ずくで外すことまではしなかった。

「じゃあ…行ってくる…」
諒太とみうは腕を組むかたちで歩きはじめた。

チーリンはおもいっきり二人の背中に向かって舌を出した。

諒太の心の中もなぜかもやもやしたような後ろめたい気持ちが支配していた。

チーリンは二人が出掛けた後も気持ちが晴れることはなかった。昼になっても午後に入っても二人は帰ってこない。

二人とも一体どこで何しているんだろう…

チーリンはすることもなく家の前の土手に腰を下ろして目の前に広がる海を眺めた。綺麗な海でも見れば少しは気分が晴れるだろうと思ったのだが、チーリンの頭には腕を組んで出かけて行く諒太とみうの後姿が浮んでくるのだった。

幹!(バカ!)

チーリンは叫ぶと手元に落ちている石を拾って白い砂浜に向かって投げつけた。

あれ?…
私、何で怒っているんだろ?
馬鹿みたい…

陽の光を反射して輝くエメラルドグリーンの海を飽くことなくチーリンは見つめ続けた。


「おい、そんなところで何やっているんだ?」

チーリンを土手に見つけた諒太が下の道から声をかけた。
夕方になり諒太が独りで帰ってきたのだ。諒太は土手の階段を登って座っているチーリンの側に立った。

「みうさんは一緒じゃないの?」

チーリンは正面に広がる海から目を離さずに諒太に尋ねた。

「ああ…途中で源さんに会ったから。そのあとは源さんと海人に行っているはずだ」

「そう…
みうさんとても楽しそうに出て行ったね…」
相変わらずチーリンは海を見たままだ。

諒太も腰を下ろした。

「そう? …かな…

あの娘にはどこか俺と同じ匂いがするような気がしたんだ」

「ノロケですか?」
チーリンは初めて諒太の顔を見て
軽蔑にも似た目線を送った。

「そんなんじゃない。
あの陽気さの間に見せる表情だ…
今日一緒に歩いてふとした瞬間に見せる寂しそうな顔を見たんだ」

「また演技なんじゃないですか?」

「いや、演技じゃあんな顔は出来ないんじゃないかな…君みたいにプロの女優じゃないんだし。あのカラ元気はなにか無理をしているんじゃないかと思ったんだ」

(きっとそれは真田さんが彼女に心を惹かれているからそんな風に思えるんですよ…)
チーリンは諒太の横顔をチラッと見て思った。

その後諒太とチーリンはお互いに普段よりよそよそしい態度で夕食を共にした。

夜も深くなったころ玄関が開いた。

「おーい 起きてるかぁー?」
源一の声が聞こえてきた。

「源さん!大丈夫か?」

酔っ払ってフラフラのみうに肩を貸し、息も絶え絶えに源一は諒太の家に辿りついたのであった。

「ハァー重い。諒太、ちょっと手伝え」

諒太は源一と共にみうを居間まで運び寝かせた。

「どうしたの、源さん?」
チーリンも心配して部屋から出てきた。

「いや〜 チーリンちゃん、みうちゃんちょっと飲み過ぎたようだ。
悪りぃーけど水を一杯もらえるかい?」

「はい」
チーリンは急いで源一に水を持ってきた。

「呼んでもらえれば迎えにいったのに…」
水を美味しそうに一気に飲む源一に諒太は声をかけた。

「いや、それにはおよばねーよ」

源一は自分も相当飲んだのであろう顔を真っ赤にして答えた。

「こんなに飲みつぶれるまで飲むなんて…」
チーリンはみうを見て顔をしかめた。

「チーリンちゃんはみうちゃんのこと嫌いかい?」

「嫌いとかじゃなくて女性としてだらしないのがちょっと…」

「まあ、この娘にはこの娘なりの悩みがあってここまで飲んじまったってことだよ」

「なんかあったのかい?」
諒太は源一に尋ねた。

「ああ、今までこの娘も色々あったみたいだな。飲んでいるうちに俺に話してくれたよ。最後は俺までもらい泣きしちまったくらいだ」

「どういう事ですか?」
チーリンはみうに顔を向ける源一に問いかけた。

「この娘には実は息子がいるそうなんだ。18の高校生のときに子供ができて学校は退学…
この娘自身、両親は小学校のときに離婚して母親に育てられたそうなんだ。その母親も夜は水商売で働いてこの娘と一緒に過ごす時間は殆どなかったらしい。そんな寂しさを紛らわすためにみうちゃんは夜の街に出ては遊びまわっていたそうだ。
そこで出会った遊び仲間の5歳年上の男といい仲になって子供が出来た。
だが、その男も根っからの遊び人で真面目に働くような奴じゃなかったらしいんだ。しかも、その男の父親は町の議員で世間体ばかり気にするような人間だったようだ。
当時高校生のみうちゃんに子供を育てられるわけもなく、男の親が自分の養子にすることで養育することになって嫌がるみうちゃんから赤ん坊を取り上げたそうなんだ。
それからというもの…男の親は過去のことは全部なかったことにして子供をみうちゃん会わせることもなかった。それでもとみうちゃんは一生懸命働いて貯めた金で息子の小学校の入学に合わせてランドセルを送ったんだ。ところがランドセルは封も開けることなく送り返されたそうだ。
同封の手紙には息子さんが別のランドセルを背負った写真が一枚と向こうの親から手紙が一枚入っていた。

この子の親は私です
二度と構わないでください

とたった一言書いてあったそうだ。

今じゃ息子も中学生だ。
だけど…ずっとみうちゃんは子供には会えていない…
みうちゃん今でも大切にその写真を持っていたよ。
この娘の明るさはきっと自分の哀しさを隠すために身につけた処世術なんだろうな…
諒太、お前が家族を失って人から距離を取ったことと同じように…」
源一は目を潤ませて顔をみうに向けた。

「諒太、それからな、今日お前に美波間の綺麗な景色を見せてもらったこととても喜んでいたぞ。
こんな楽しかったこと今までなかったって言ってな…
この娘は愛情に飢えているんだと俺は思ったよ」

「そう…」
諒太はみうを見つめて頷いた。

「俺が昼、 島を案内したのは彼女が東京に帰るまで何か一つでも美波間島を気に入ってもらえたらと思ったからなんだ…
せっかくこんな遠くまで来て何も思い出に残らないんじゃあんまりじゃないか…」

(夕方…真田さんは自分とみうさんは同じ匂いがするって言ってた…
哀しみを抱えたもの同士通じ合うものがあったのね…)
下世話なことを考えていたチーリンは恥ずかしくなって俯いた。
チーリンはみうの部屋から掛布団を持ってくると優しくみうにかけてあげた。

「じゃ、てっぺん超えるとかぁーちゃんに怒られるから俺は行くわ」
源一は立ち上がった。

「ありがとう源さん…」
諒太は礼を言った。

「いいってことよ」
源一は今になって酔いが回ったのか千鳥足で帰っていった。

居間に戻った諒太はみうを見てボソっと独り言のように呟いた。

「人は大なり小なり悩みを抱えて生きているんだな…」


翌朝みうの目覚めはさすがに遅かった。諒太は既に畑に出かけ、チーリンは洗濯や掃除の家事をしているときにみうは起き出した。

「チーリンちゃん ごめん…
昨日飲み過ぎちゃった」

夜飲み過ぎたためか今朝は昨日のような元気のないみうであった。

「おはよう…あまり顔色良くないわね…」
チーリンは心配そうにみうの顔を覗き込んだ。

「源さんと飲んでいたらつい楽しくなっちゃって… でも何話したかあんまり覚えてないや。
りょーたんは?」

「今出かけているわよ」

「そう… ちょうどいいや。
チーリンちゃんちょっと話せる?」

みうはチーリンを砂浜まで連れだした。二人は海を正面に腰を下ろすとチーリンはみうに尋ねた。

「どうしたの? 私に話って?」

「うん…
昨日りょーたんに島を案内してもらって美波間島って凄く良いなぁーって思った…
東京じゃ味わえない自然がいっぱいあって景色も綺麗で人も優しいし…」

チーリンはみうの話を黙って聞いていた。

みうは次の話を切り出せないようでもじもじしていた。

「実は…昨日りょーたんにアプローチかけたんだ…」

チーリンはじっとみうを見つめた。

暫くの沈黙の後みうは口を開いた。

「やっぱダメだった!」
みうはにっこり笑った。
「りょーたんは私に女として興味がないみたい」

「そう…」
チーリンは視線を落とした。

「私一人であげちゃってウケるよね?りょーたんの心にはもう入る余地がないみたい…
ねぇ…チーリンちゃん…
多分りょーたんの心にはあなたがいるよ…」

「まさか…
どうしてみうさんにそんな事がわかるの?」

「うーん …職業柄なのかな?
私さぁ、今までいろんな男と付き合ってきたし、仕事でもいっぱい男と接しているから結構そーいうとこ敏感なんだぁ。
りょーたんってあの通りポーカーフェイスきめているけど、私がチーリンちゃんの話をふると一瞬フリーズすんだよね。耳赤くしてさ…かわいいよねぇ〜 まあ、チーリンちゃんのこと好きかどうかまではわかんないけど意識はしているんじゃないかな?」

「そんなことないと思うけど…」
チーリンはみうから視線を逸らした。

「ううん、りょーたんはきっとチーリンちゃんのこと大切に思っていると思うよ…」

チーリンは顔を赤くした。

「チーリンちゃんも昨日はああ言ったけど、本当はりょーたんのことまんざらでもないんでしょ?」

「私はそんな…」

「いいじゃん隠さなくても〜
昨日源さんから聞いたよ。
チーリンちゃん有名な女優さんなんだってね?
でもさぁ、もしそんな肩書を意識してんだったらそんなの邪魔なだけだよ。女優だろうが大統領だろうが人を好きになるって気持ちは純粋なものじゃん。全部剥がして最後に残るのは一人の女と一人の男…
肩書なんてポイって捨てちゃえばいいんだよ。
私が見るところりょーたんだってあなたのこと特別女優扱いなんてしてないじゃん。
りょーたんは女優としてのチーリンちゃんじゃなくて一人の女性としてあなたを見ているんだと思うよ…

チーリンちゃん、自分の気持ちに素直になればいいんじゃない?」

チーリンは返す言葉も見つからずただ黙って俯いた。

砂浜には穏やかな波が打ち寄せていた。


諒太が畑から帰って洗面所で手に付いた土を洗い流しているとみうとチーリンが連れ立って帰ってきた。

「ただいま〜りょーたん!」

「なんだ? 二人そろって…」

「いいのー!
女子には女子の話があるんだから〜」

「ね!チーリンちゃん!」

チーリンは諒太の顔をチラッと見ると少し照れたような表情で目線を逸らした。

諒太には昨日とは打って変わったこの二人の関係性がさっぱりわからなかった。

みうが美波間島を離れる前の最後の食事に諒太は得意のソーミンチャンプルーを振る舞った。
みうは相変わらず明るく一切陰を見せなかった。
諒太もチーリンも昨夜聞いたみうの話を口に出すことはなかった。

そして美波間から与那国行きのフェリーの出港の時間、諒太とチーリンはみうを見送りに波止場まで一緒に向かった。
この先みうは来た時と逆のルートで与那国空港から小型のプロペラ機に乗り那覇空港まで飛び、那覇から羽田空港までジェット機に乗り換えることになる。

目の前にフェリーが接岸している。
みうは明るい顔で諒太に言った。

「りょーたん いろいろありがとね!」

「ああ…また遊びにこい」
諒太は優しく声をかけた。

みうは小さく頷くと諒太の耳元に近寄った。そしてチーリンには届かない小さな声で囁いた。

「チーリンちゃんをしっかり守ってあげてね…」

ん…?

諒太が驚きの表情を浮かべているとみうは突然諒太の頬にキスをした。

「東京に来た時はお店に遊びにきて! サービスするよ!」

チーリンはその光景を目にして厳しい顔をしてみうを見つめた。
みうはチーリンの前に立つと諒太に言った。

「りょーたん、チーリンちゃんと話があるからちょっと離れていて」

「あ…ああ、わかった…」
諒太は数歩離れた。

「チーリンちゃん、そんな顔しないの…
りょーたんはあの通り不器用だからチーリンちゃんがリードしてあげるんだよ」

えっ?
チーリンは驚いた表情でみうを見た。

「チーリンちゃん…自分の気持ちに素直になりなよ…
私 …あなたには幸せになってほしいから…」

みうはにっこり笑った。

「じゃねー!」
みうは軽快にタラップを渡るとフェリーの中へ消えていった。

「みうさん最後何て言ったんだい?」
諒太はチーリンに聞いた。

「…ヒミツ」

フェリーが港を離れていくのを見ている諒太の後姿をチーリンは優しい表情で見つめていた…

21 亡失の海

みうが乗船した同じフェリーの船室の席には美波間島の太陽を浴びてすっかり日焼けして黒くなった紳々と竜々の姿があった。

「なあ…竜々、とうとう美波間島での住込みバイト生活終わっちゃったな…」

「うん。紳々僕寂しいよぅ…」

「そうだなぁ…津嘉山さんも島の人も優しかったし、アントニーも素直な良い子だったしな。なにより美波間島の綺麗な海や景色がもう見られなくなるのは本当に寂しいよな…
…でも、卒論に使う与那国牛の生態の研究も出来たし、バイトのお金も溜まったからこれで念願の秋葉原のラブリーライブのイベントに行けるんだぜ?竜々」

「ほんとだよなぁ紳々。僕待ち遠しいよぅ」

「美波間島で過ごした日々を僕は一生忘れないよ…」

「僕もだよぅ
また一緒に来ようよぅ紳々…」

二人は船窓から見える少しずつ遠ざかる美波間島の風景を飽くことなく見つめ続けた。

一方で美波間島における台北東海公司のリゾートホテル建設計画は具体的に進行し始めていた。 港には台北東海公司傘下の台湾企業の建設会社の大型船が接岸し、建設予定地には一般人の侵入を防ぐフェンスが囲われた。建設作業員は建設中この船で生活することとなり、本部からは作業員に不必要な島への外出や美波間島民との接触は固く禁止する旨の通達が出された。
白く美しい砂浜にはあまりにも不釣り合いな建設重機や杭打ち機が並べられた。

この光景を村役場の担当者砂川博之と民宿「さんご荘」の主人比嘉俊夫は苦々しい表情で高台から遠巻きに見つめていた。

「砂川君、君は若いから知らないかもしれないけど、この南浜にリゾートホテルの建設計画の話がきたのは今回が初めてじゃないんだ」

「その話、ついこの間親父に聞きましたよ比嘉さん。昔、倒産してしまった東京の不動産デベロッパーが大規模な開発を計画していたらしいですね? 僕も当時小学生でしたけどうっすら覚えていますよ」

「あの時代はバブルで日本中が狂っていたんだよ。資本が市場に余って土地やゴルフ場、スキー場開発に金が湯水のごとく使われたんだ。
やがて開発業者はここ美波間島に目を付けた。この綺麗な浜に大型ホテルを建設して都会から客を呼び込もうって魂胆でね。銀行も是非借りて下さいとばかりにろくな審査もしないで融資を行なったんだ。…ところがバブルが弾けて建設は計画段階で頓挫した。その後、その不動産デベロッパーも融資を実行した銀行も行き詰まり倒産。幸いこの場所にリゾートホテルが出来ることはなかったんだ」
比嘉は昔を思い出し溜息をついて腕を組んだ。

「比嘉さん…その時に計画が頓挫したのは関連会社が傾いたという理由だけじゃないようなんですよ」

「どういうことだい砂川君?」

「親父からその話を聞いて気になったもんでこの間役場の書庫に入ってその時の資料を探し出して見てみたんです」

「うん。で?」

「まだコンピュータ化される前の紙ベースの資料でしたが、当時の開発業者から提出されたホテルの建設計画の申請書及びそれに付随するデータと村側の回答文書の写しがありました。大まかに言うとこの場所の地盤がコンクリート造りの重量物の耐荷重にあわないということらしいんです。元々この場所は比較的新しいサンゴが堆積して出来た浜ですからね」

「ということはなにかい?
物理的にこの浜には今もホテルは建設出来ないってことなのかい?」

「いえ…そうとも言い切れないんです比嘉さん。
昔と比べて建築技術も格段に進歩していますしね。
…ただ僕が気になったのは当時の地盤調査の結果と今回台北東海公司から提出された地盤調査のデータには大きな開きがあることなんです。
今回提出された書類にはどこにも地盤に関して数値が低い箇所はありませんでした…
僕にはわずか三十年余りでそんなに土地の状態が変化するなんて信じられないんですよ」

「しかし役場だって検査確認したんだろう?」

「それが…村の予算が不足していて今回村独自の地盤検査は行われていないんです。台北東海公司側から提出されたデータに基づく書類に宜保村長代理が認証印を捺して今に至っているんです」

「何だって!じゃあ調査結果のデータの信憑性がないまま工事が行われるってことなのかい⁉︎」

「そのバブル時代の経緯を知っていた波平村長はそのことを理由に村議会に議題として上げるためのサインをすることを先延ばししていたんです。最終的に議会で通っても村の調査が終わるまでは承認できないと。だけど宜保村長代理は自分に権限が移るなりすんなりと通してしまった… 」

「おいおい、砂川君、まさか君まで台北東海公司から提出されたデータを信用しているんじゃないだろうね?」
比嘉は疑心の目を砂川に向けた。

「比嘉さん…提出された調査結果は台北東海公司とは別のちゃんと検査資格を持った企業から出されたものでした…」

「しかし、その調査会社だって台北東海公司の息がかかってないとは言えないのだろう?」

「もちろんないとは断言できません…」
砂川は眉間にしわを寄せて目線を落とし答えた。

「だったらなぜ君は止めないんだ?」

「比嘉さん…僕だってこんな工事は反対です…生まれ育った故郷が他人に荒らされてしまうようで…
だけど、工事の認可は村議会での決定事項であり、現時点で最高責任者である宜保村長代理が承認した島の民意が示された結果なんです…
…残念ですが行政というところは感情では動けないんです…
法に基づき書類に不備があるとか手続きに瑕疵がない限り出された申請は受け付けるほかないんですよ…」

「ちくしょう… こんな大事な時に波平さんは一体どこに行っちまったんだよ…」
比嘉は唇を噛んだ。

依然失踪した波平村長の行方はようとしてわからずあれから警察からも何の音沙汰もなかった。


翌日…
漁港に諒太の姿を見ることができる。諒太が漁港にきた目的は普段魚を貰っているお返しにクレーンで陸揚げされた竜男の漁船のメンテナンスを手伝うためであった。年に数回はこのような補修作業が船には必要で、諒太にとって最早恒例の作業となっている。諒太は特殊な金属製の長いヘラを使って船底にこびりついている甲殻類の一種「フジツボ」をこそげ取る作業を竜男から依頼され行なっていた。フジツボくらいと馬鹿にして何もしないでいると船底を痛める原因となるばかりか水の抵抗が大きくなり、船の速力が落ち、延いては燃費の低下につながるのだ。
竜男の漁船は漁船としては比較的小さいが、強化プラスチック製の軽量の船体に大きな馬力のエンジンを積み最大25kt(ノット)以上の速力が出せる。魚群探知機やGPS位置測定器や水上レーダー、気象レーダーなどの最新機器も搭載していた。数年前に漁師として独立した竜男がローンを組んで購入した船である。

竜男の船の横には竜男の祖父勝男の船がさながら役目を終えた銅像のように静かに鎮座している。
しかし船にはすっぽりとカーキ色の帆布が被せられ直接見ることは出来ない。
一昔前までこの船は勝男オジーの『伝説の船』として漁師たちから崇められ、隣の与那国島の漁師までもがわざわざこの船見たさにここまできたものであった。 現役時代には外洋で幾度となく襲ってきた暴風雨に耐え、エンジン故障による一カ月に及ぶ漂流にも転覆も座礁もせず勝男を守り耐え抜いた。
更には他の漁船が不漁であってもこの船だけは大漁旗をあげられるくらい漁果があるほどの強い運を持ち合わせていた。そんな勝男オジーの船は次第に人々から神がかった船と呼ばれるようになり、引退後はそれが伝説となった。横に並べて見てみると竜男の船より1.5倍は大きく見える。
かつては駆け出しの漁師であった源一も金城浩司も勝男に厳しくこの船で鍛えられたのだった。
しかし主人の勝男オジーが脳梗塞で倒れたいま、役目を終えたこの船がもう海に出ることはない…

美波間島に来てから諒太はこの勝男オジーの船を一度も帆布をとった姿で見たことがなかった。
そんな勝男オジーの船を横目に見ながら慣れた手つきで諒太はフジツボをとっていった。

「真田さん、もう本職とかわらないくらいになりましたね。俺もそっち手伝います」
梯子を使って船の甲板から別の作業を終えた上地拓巳が下りてきた。

茶髪の髪にキャップを後向きに被り耳にはピアスが光っていた。
拓巳はひょろっとした体型で沖で焼けた黒い顔をして諒太に近づいてきた。格好は今時の若者で源一などはそのチャラチャラした風体に眉をひそめるが、拓巳は都会の若者のようにスレておらず、仕事を真面目に取り組む素直な若者である。漁師を希望する若者が減っているだけに漁師たちは拓巳のような若い力に大いに期待をしていた。現在拓巳は竜男と組んでこの船で漁師修行中である。

「竜男は?」
諒太は汗をタオルで拭いながら拓巳に尋ねた。

「竜男さんはエンジンルームに入ってシャフトにグリースの補充をしていますよ」
拓巳は地面から甲板を見上げながら答えた。

「そうか…船内は暑いだろうな」
きっと汗だくになりながらあの猿のような小柄な体を潜らせ作業をしているであろう竜男を諒太はねぎらった。

拓巳ももう一本ヘラを取り出すと諒太と並んでフジツボ取りを始めた。

「ねぇ真田さん…真田さんは瞳のことどう思ってるんですか?」
拓巳は唐突に質問をぶつけてきた。

「えっ?瞳ちゃん?
役場の仕事も一生懸命だし、竜男の妹として竜男や千鶴さんを支えて家のこともしっかりやっているし良い娘だと思うよ」

「いや、俺が聞きたいのはそういうことじゃなくて…」
拓巳は溜息をつきながら諒太を見つめた。

諒太は拓巳がどんなことを聞きたいのかわからずぽかんとしている。

「瞳を女としてどう思うか聞いているんですよ」

「どういうことだい?」

「真田さん、あなた気づいてないんですか?」

「何のことだい?」
諒太はますます拓巳が何を言いたいのかわからず首を傾げた。

「まったく…あなた本当に鈍いんですね…
…瞳はあなたのことが好きなんですよ」

「え?…まさか?
瞳ちゃんは兄の友人である俺に親切に接してくれているだけだよ」

「真田さんわかってないですよ!
瞳がどんな気持ちであなたに接してきたのか… 」

「気持ち…?」

「そうです…瞳の気持ちです…
こんなんじゃ瞳が哀れすぎますよ」
拓巳は諒太を睨みつけた。

「あいつは貴方がこの島に来た時からあなたのことを一途に思ってるんですよ」
拓巳は肩を震わせながら両の拳を握った。

「…そうだったの…瞳ちゃん…こんな俺のことを…」
諒太は固く目をつむり俯いた。

「真田さん、このままじゃ瞳が可哀想です。あいつは竜男さんの友人であるあなたに遠慮して自分の気持ちをずっと伝えられずにいるんです」

「…拓巳君…君と瞳ちゃんは幼なじみだったね…
君が瞳ちゃんを支えてやっていったらいいじゃないか…
俺には瞳ちゃんの気持ちを受け止められるようなそんな資格はないんだよ…」

「どんな資格なんですかそれは!」
拓巳は諒太の答えに苛立ち大きな声を出した。

「…俺は妻子を守ることすら出来なかった無力な男なんだよ…
どうして若い瞳ちゃんをこれから先幸せにすることが出来ると言えるんだい?
瞳ちゃんだけじゃない…

俺はこの先誰も愛しちゃいけない男なんだよ…
誰も幸せにすることなんてできやしない…」

「真田さん!あなたには男としての誇りはないんですか⁈」


「誇りか…
あの日…津波と一緒に流されてしまったのかもしれないな…」
諒太は寂しそうに笑った。

「真田さん…あなたそこまで…」
拓巳は諒太を憐れんだ。

「おい!もう作業終わったのか⁈」
船上から竜男が下を覗き込んだ。

「ああ、もうすぐ終わるよ竜男」

拓巳には諒太の姿がいつもより小さく見えた…

22 選ばれし者

22 選ばれし者

その日…島中が大騒ぎとなった。

間も無く夕方になるというころ、諒太は自宅の屋根に上り傷んだ屋根の補修作業をしていた。
ちょうどそんな時千鶴が勢いよく玄関に飛び込んできた。

「諒太さーん!いるー⁉︎」

千鶴は慌てた様子で家の中に声をかけた。

チーリンが玄関に出ていくと千鶴は息を切らせて切迫した表情で立っていた。

「千鶴さん 一体どうしたの⁉︎」

チーリンは千鶴の雰囲気から何か大変な事が起きたのではないかと直感した。

「チーリンさん、唯来てない⁉︎」

「いえ、来てないですよ、どうかしたの?」

「朝 家を出て行ったまままだ戻らないの…
お昼も食べに帰らずに…
唯が行きそうなところに連絡とってみたんだけど誰も見てないって…
竜っちゃんたち漁師の人みんな与那国の漁師と合同で遠くの漁場にカジキマグロ漁に出ていて明日まで帰らないし…私どうしたらいいかわからなくなっちゃって…
私、 唯に夏休み遊んでばかりいないで勉強しなさいって強く言いすぎたのかもしれない… …ああ…どうしよう」

千鶴は明らかに動揺していた。

ちょうど諒太が屋根から脚立で降りてきた。千鶴は諒太の顔を見ると泣きそうな顔で縋った。
動揺して言葉が出てこない千鶴の代わりにチーリンが諒太に事の顛末を説明した。

「千鶴さん大丈夫だ、落ち着いて。
唯はしっかりした子だから必ず帰ってくる」

諒太は千鶴の肩に両手をかけて励ました。

「千鶴さん、もう一度唯が出て行った時の様子を教えてもらえるかい?」

「そ、そうね、」
千鶴は諒太の冷静な対応に幾分落ち着きを取り戻したようだった。

「今日着ていた服は?」

「花柄の黄色のワンピースに麦わら帽子だった…」

「どこへ行くとか言ってなかったかい?」

「いえ、何も… ただ…
透明なプラスチックの虫かごを持って出掛けていったわ…」

「虫かご…?」
諒太は考えこんだ。

「よし、俺もこれから唯を探しに出るから千鶴さんは役場の瞳ちゃんに頼んで村の防災スピーカーで見かけた人いないか呼びかけてもらって」

「そうね、わかった!」
千鶴は飛び出して行った。

「真田さん私も唯ちゃんを探しに行きます!」

諒太はチーリンの申し出に少し躊躇した表情を顔にだした。

「唯ちゃんは私にとっても家族みたいなものなんです!」

「わかった…
チーリンさんも一緒に来てくれ」

「はい!」

諒太は車を出してチーリンと一緒に唯を探しに出発した。
唯の足取りを追って通りすがり島民に片っ端に声をかけたが唯を見たという人はいなかった。諒太は子供が寄りそうな場所や分校も立ち寄ってみたが唯が来た形跡は全く見られなかった。しばらくして島の防災スピーカーから唯を探している旨のアナウンスが流れ始めた。

車がサトウキビ畑の農道を進んでいると畑で作業していた高齢の真栄田 正一が手を振って諒太の車を止めた。真栄田は既に齢80を超えるが足腰は矍鑠としたもので未だに畑に出て働いている。しかし最近では視力と聴力が弱ってきていた。
諒太もサトウキビの収穫期にはこの畑で収穫の手伝いをしたことが何度もある。

「真田さん、今放送で聞いたが唯ちゃんがいなくなったんだって?
昼頃だったかなぁ、わし、唯ちゃんを見かけたよ。これから役場に知らせに行こうと思っていたらちょうど真田さんが通りかかったもんで」

「本当ですか!真栄田さん?」

「ただ、かなり遠かったから顔までは見えなかったけど多分あれは唯ちゃんだったと思う。黄色い服を着て一人で西の方に歩いていったよ」

「間違いない…それ唯ちゃんです」
諒太とチーリンは顔を見合わせた。

「真栄田さん、申し訳ないが俺たちはこのまま唯を追うからこのことを役場に行って話してもらえますか?」

「そんなことはお安いご用だよ。
子供は島の宝だからね」

黒縁の分厚いレンズのメガネをかけた真栄田はしわの多い笑顔で快く請け負ってくれた。
こうして島中の手の空いているもの歩けるもの全ての人たちが唯の捜索に出た。

先を急ぐ諒太の運転する車はある三叉路の前で止まった。

「どうして止まるの?」
チーリンは諒太の顔を見た。

「左に行けば沢のある雑木林に出る。そして右に行けば海に出る。
千鶴さんは唯は虫かごを持っているといった…」

「だったら虫を採りに雑木林に行ったはずでしょう?」
チーリンはさも当然だと言うように諒太に言った。

「それならいいんだが…
虫かごは虫を採るためだけのものじゃない…」

チーリンには諒太が何を言いたいのか解らなかった。

「右に少し進んで海に出た崖の下には島の人たちが鬼の洗濯岩と呼ぶ岩場があるんだ。そこの崖にはいくつも洞窟があって、岩場は海が干潮の時に現れ満潮になると水没する…
干潮の時には洗濯岩の岩場の穴に取り残された小魚や蟹や貝が子供でも簡単に採れるんだ。もし唯がそっちに行ってたなら大変なことになる」

「どうして?」

諒太は腕時計を見た。
「この時期の満潮の時間はもうすぐだからだ」

「なんですって⁈」

「唯が雑木林に行ったことを祈って俺たちは海へ探しに行こう」

「はい!急ぎましょう」

車は崖の上の草っ原に停まった。
そこから下へは人の手で造られた岩をそのまま利用した荒削りな階段が下の岩場まで続いている。
まだこの時間、崖の上から岩場が見ることができたが、低気圧が近づいているため沖の海の波は高く白波がたっているのが見える。
二人は急いで階段を駆け下りた。

「唯ー!」
「唯ちゃーん!」

二人大きな声で呼びかけるが唯の返事はなく岩場に唯の姿は見えない。

長い年月をかけ波によって浸食されたこの場所はまさに洗濯板のようなギザギザの紋様が岩に記され、至る所に窪地があり、海水が溜まったところには干潮のため小さな海棲生物が取り残されていた。沖の100メートル程先にはまるで筍かゴジラのような奇岩が海からいくつも突き出している。そして崖下には大小8つの洞窟群が暗い口を開けていた。
小さなもので大人が屈んでやっと入れる程度の大きさで、最大のもので大型トラックがそのまま入れるくらいの大きなものまであった。
島の言い伝えによるとこの洞窟にはこの地域の海を荒らし回った大昔の海賊の財宝が隠されているという話しがあるが、実際にはその様な証拠は見つかってはいない。
洞窟の奥行きも3メートルくらいのものから長い洞窟で50メートルくらいと様々であった。
岩場にいない以上、もし唯がこの場所にいるとしたらあとは洞窟の中であった。

諒太は唯がここにいない事を祈った。

「手分けして探しましょう!」
チーリンが言った。

「わかった、ただしあと10分もすれば潮が満ちてくる。
絶対に無理はしないで時間になったら階段を上るんだぞ」

「はい!」

「俺は奥の方から探すから手前の方を頼む!」
そう言うと諒太は一番遠い洞窟に向かって駆け出した。

「唯ー!」

諒太は洞窟の中に入り唯の名前を叫んだ。湿ったひんやりとした空気が諒太を包み込んだ。西に位置するこの島は夏の日の入り時間が遅い。
幸い洞窟の中が真っ暗ということはなかった。

いない…
諒太は次の洞窟に移った。

チーリンも足場の悪い洞窟の中を進むのに苦労していた。

「唯ちゃーん!」

洞窟の中に声が反響するが返事はなかった。こうしている間にも水位が上昇していった。チーリンが次の洞窟に入るころにはとうとう海水がチーリンの膝の高さにまで達していた。その時、僅かだが波の音に混ざって子供の泣き声がチーリンの耳に聞こえたような気がした。

「唯ちゃーん!いるのー⁈」

「おねーちゃーん!」

奥の方からはっきりと唯の泣き声混じりの声がチーリンに聞こえてきた。水の中をチーリンは進むと洞窟の行き止まりで唯が動くことも出来ずに泣いていた。

「唯ちゃん!」
チーリンが近寄ると唯はチーリンに抱きついてきた。
足元には貝が入った透明な虫かごが転がっていた。

「もう大丈夫よ…
怖かったね…」

唯はチーリンにしがみついて震えながら泣いていた。チーリンが唯を抱き抱えて戻ろうとしたとき洞窟の中に入ってくる波は勢いを増してチーリンの腰の辺りまで達していた。
進もうにも勢いのある波の力に前に進むことが出来ない。

チーリンは思いっきり叫んだ。

「真田さーん!」


岩場に出た諒太も増えた海水に行く手を遮られてなかなか前に進むことが出来なかった。
どこからかチーリンの自分の名を呼ぶ声が波の音の間から聞こえてきた。

「チーリン! いま行く!」

連続してチーリンの呼ぶ声が聞こえる洞窟に諒太は飛び込んでいった。
水は諒太のへその辺りを越えようとしている。

「チーリン! チーリン‼︎」

「真田さん! 唯ちゃんも一緒よ!」

十数メートル程進むと洞窟の奥でチーリンに抱き抱えられた唯を諒太は見つけた。

「諒太おじちゃん!」

一度は泣き止んだ唯が諒太の顔を見た瞬間また泣き出した。

「唯! 心配させやがって…」
諒太は泣く唯の頰を両手でさすった。

「さあ、チーリン急ごう!」

しかし後ろを振り向いた諒太は愕然とした。この洞窟は奥に進むにつれて緩やかに上っている。つまり引き返す出口の方向は下りとなり、海水は諒太が入った時よりかなり増えていた。諒太一人ならなんとか抜ける事も出来るかもしれないが、チーリンと唯を連れてこの高い水位の中を進む事は自殺行為に等しい。
しかも洞窟に入る押し寄せる波と強い引き波に体がさらわれる可能性が高く、この波の中を子供を連れて十数メートルも泳ぎきることなど不可能である。

遅かったか…!
目の前の光景に諒太はほぞを噛んだ。諒太は他に出口がないか周りを隈無く見渡した。しかしこの洞窟には横穴や縦穴もなく、目の前には行き止まりのほぼ垂直の壁があるだけだった。このまま時が過ぎれば間も無くここも海水に飲み込まれてしまうだろう。
諒太は諦めずに洞窟内を観察していると壁に黒く残されたライン状の水の跡に気づいた。
これは過去の満潮で海水が入って来たときに残されたものだ。

そうか!

諒太は気づいた。
つまり海水が入ってきてもこの水の跡より上に水が満ちることはなく、この洞窟が完全に水没することはないということだ。
そしてチーリンの足元の行き止まりの壁には人ひとりが乗れる高さ30センチ程の段差があった。
これなら何とかしのげるかもしれない…

「チーリン、唯と一緒にその段差に乗るんだ!」

「でもそれじゃあ真田さんが!」
チーリンは泣きそうな顔をして諒太を見つめた。

「議論している暇はないんだ!
早く!」

チーリンは諒太に言われるがまま仕方なく両親に似て小柄な唯を抱き抱え段差に上がった。諒太は背中で押し寄せる波から二人を守るように防波堤となりチーリンと唯に向き合うと両手の塞がったチーリンの体をしっかりと支えた。

そして…
海水が諒太のみぞおちの辺りに達したとき、諒太の脳裏にあの日の光景がまざまざと浮かんでくるのだった…


あの日ー

街中に響き渡るサイレン…
石巻の空には雪が舞っていた。
3月の未だ春の遠い東北の鉛色の空だった…

通信網は遮断され諒太は妻の絵美と連絡が取ることが出来なかった。
もうさすがに避難所に避難しているだろうと思ったが諒太は嫌な胸騒ぎにとらわれた。
緊急対応マニュアルに従って業務を閉鎖した後に会社の研究室から飛び出した諒太は2キロ離れた社宅に向かって走った。街には既に車が溢れ大渋滞を起こしていた。
街はところどころ大きな揺れで破壊されたブロック塀や落ちた看板などで道が塞がっていた。息を切らしていつも以上に時間がかかる道のりをやっとのことで社宅に辿りついた諒太はちょうど保育所から娘の愛を連れ帰ったばかりの絵美と出会した。

「絵美!
何で避難しない!」

「だってあなたと愛が写った思い出のアルバムが!」

「いいから早く高台に避難するんだ!」

娘の愛を抱っこひもで抱えたままの妻、絵美の手を引っ張って諒太は高台に向かって走り出した。
津波の接近を知らせるサイレンがけたたましく鳴り響き、至る所で車のクラクションが鳴っていた。
遠くに見える港には空に向かって黒い煙と火炎の炎が立ち上っている。

そして悪魔のようにそれはやってきた…

逃げてー!
キャー!
助けてー!

悲鳴と怒号…
人々の阿鼻叫喚が渦巻いていた…

ゴォーという轟音とともにどす黒い水が街をのみこんでいく。

バリバリという凄まじい音をあげて昼まで幸せに過ごしていた人々の家々が白い煙をあげ倒壊し呆気なく濁流に流される。
車もまるでおもちゃのように軽々と水に浮かぶと人を乗せたまま黒い水に流されていった。
倒壊した木々、さっきまで建物だったであろうと思われる木材や瓦礫、船、看板、そして動物、屋根の上に上った人まで…すべてが飲み込まれ流されていく…
それはまさに地獄の光景であった…

諒太は高台を目指して絵美の腕を引っ張って必死で駆けた。
後ろの横道から黒い水が流れこむのが見えた。この先の寺の脇の細い路地の先には山に続く階段がある。そこを登れば助かる!

しかし…

諒太の希望は絶望へと変わった。
古い民家が倒壊し路がなくなっていた。

「あなた…」
絵美は哀しい顔を諒太に向けた。

絵美の胸で愛は泣き出した。

濁流はすぐそこまで迫っていた。


もう…
どうすることもできなかった…

諒太は街灯の支柱に掴まると愛と絵美を抱き寄せた。


パパ怖いよぅ…

ごめんなさい…あなた…
私…

これまで本当にありがとう…
あなたと出会えて良かった…

絵美の声にならない声だった…


「馬鹿!最後まで諦めるな!」

涙を流す絵美を諒太は叱った。


「パパ…」

愛がか細い声で諒太を呼んだ。

「愛…」

諒太は愛の頭を優しく撫でた。
諒太の瞳からも涙が流れ落ちた。

そして黒い濁流が三人を襲った…

必死に支柱にしがみつきながら諒太は絵美を抱き寄せた。
水の勢いは圧倒的で愛を抱いた絵美は諒太から離れそうになった。
諒太は左手で支柱を掴むと右手で辛うじて絵美の手を掴んだ。

「絵美! 手を離すな!」

首まで水に浸かった諒太は叫んだ。
更に濁流の勢いは増す。

諒太の手を握る絵美の手はもう指がかかるだけとなった。

絵美は首を横に振った。

そして諒太に笑いかけた…

そんな…だめだ!
諒太は指に必死に力を入れた。
その瞬間、流されてきた先端の尖った木の枝が諒太の左肩を貫いた。

グァ!

諒太は支柱を離した。

無情にも掴んだ手は離れ絵美と愛は流されていった…


絵美…

愛…


諒太の意識は遠のいていった。
皮肉にも諒太の肩を貫いた枝が漂流物に引っかかり諒太だけ引き波に海まで流されず救助された。


諒太は全てを失った
海に全てを奪われた

妻の絵美も…

娘の愛も…

苦楽を共にした同僚も…

明日を生きる力も…

そして誇りも…


「怖いよぅ…」

唯の怯える声で諒太は我に返った。

「唯… おじちゃんが必ずお母さんとお父さんのところに唯を帰してあげるからな…」

諒太は唯の髪を優しく撫でた。

「本当? 諒太おじちゃん?」

「ああ、本当だ。
少しの辛抱だからな… 唯は強い子だから我慢できるよな?」

「うん…」

唯は安心したように頷いた。


諒太はチーリンを見上げた。

「チーリン…君もだ…
俺が必ず君を守る…」

諒太はゆっくりと大きく頷くと爽やかに笑った。


…え?

真田さんのこんな笑顔初めて見た…
諒太のチーリンの瞳を見つめ続ける目はどこまでも透き通っていた。

チーリンは体の中が熱くなっていくのがわかった。

そして…
チーリンは諒太の小さく呟いた声を聞いた。

俺は二度と離さない…



その頃、唯を探しに出ている島民で結成された捜索隊は真栄田からの情報をもとに唯が向かった方向にある雑木林と海に分かれて捜索を続けていた。
海に捜索に出ていたグループが崖の上に停まる諒太の赤いピックアップトラックを発見した。
真栄田から諒太とチーリンがすでにこちら方面に捜索に出ていることも皆に伝えられていた。
周りに人影はない。

「真田君たちは唯ちゃんを探しに崖下に降りたのか⁈」

津嘉山正雄は雑木林に向かったグループに急いで海に来るよう携帯で連絡した。

「おじさん!俺、下に見に行ってみるよ!」
アントニーが叫んだ。

「だめだアントニー!
お前一人だけじゃ危険すぎる!」
津嘉山は止めた。

「だって…真田さんとチーリンさんが!…」

「気持ちはわかるけど皆んなが来るまで待ちましょう…」
国吉 節子がアントニーに声をかけた。
他の島民も頷いた。

日頃諒太に面倒を見てもらっているアントニーだけに男として何も出来ないことが悔しく唇を噛んだ。


洞窟の中では押し寄せる波と諒太は格闘していた。すでに水は諒太の胸に達し、強い波を背中で盾となりチーリンと唯を守っていた。
波は諒太の背中にぶつかると今度は引き波となって諒太たちを海に引きずり込もうと強い力で引っ張った。
諒太は足を踏ん張り必死で耐えていた。

雑木林から千鶴をはじめ唯の捜索隊が合流し、役場からも瞳がかけつけた。

「唯! 唯はどこに⁈」
千鶴は泣き叫ぶように辺りを見渡し津嘉山を問い詰めた。

「わからない…
ただ、真田君の車がここにあっただけなんだ…」

「そんな… 唯! 唯!」
千鶴は血まなこになって崖の階段を下りようとようとした。

「だめだ、千鶴さん!
危険過ぎる!」
普段大人しい海人の主人 平仲 篤が千鶴を遮った。

「嫌!離して!」
千鶴は平仲の腕を振り解こうと暴れた。

「僕が階段を下りて見てくるから千鶴さんは動かないでください!」
平仲は階段に向かった。

「あんた気をつけるんだよ!」
常に勝ち気の海人の女主人 寛子が夫の篤に声をかけた。

平仲は慎重に階段を下っていった。
左手に見える海はゴーゴーと唸りをあげて白波をたてていた。
右にカーブしながら崖沿いに下りながら続く階段は先が見えなかった。
10メートルも下ったところで平仲の足が止まった。

平仲はその場に立ちすくんだ。

(なんてこった…)



ドーンと崖に波が当たる大きな音が外からして数秒後にザーッと洞窟の中に白く泡立った海水が勢いよく押し寄せた。そして波は次の波の助走のように一気に引き波となっていく。とうとう押し寄せる海水は諒太の首の高さまで達し、否応なしに諒太の体力を奪っていった。
震えながら唯はチーリンにしがみついていた。

「諒太さん!」

チーリンは眼下の諒太に声をかけた。

「チーリン… 唯を…しっ…かり
抱い…て …いて…くれ…」

諒太は頭に波をかぶりながら必死に言葉をつないだ。

「はい!」

諒太のチーリンを支える腕に力が入った。



平仲が階段から上がってきた。
その場に集まる全員が平仲の言葉を待った。

平仲は沈んだ声で言った。

「階段の下の方は海にのまれてしまって下ることが出来なかった…
唯ちゃんも真田君もチーリンさんもいなかった…」

その言葉を聞いた千鶴は失神したようにその場にうずくまった。
つい先程役場から来たばかりの瞳も呆然と立ち尽くした。
誰もが三人の無事を祈っていたが、平仲からの状況を聞いて絶望感がこの場を支配した。

「洞窟は? 洞窟はどうだった?」
リタイヤして近所でもずく漁をしている喜久山という老人が聞いた。

「いや、階段からは洞窟までは見えなかったよ喜久山さん…」
平仲は下を向いて答えた。

「そうだよ!真田さんたち洞窟にいればもしかして助かるんじゃないの⁈」
アントニーが声を弾ませた。

「いや、アントニー…満潮の時は洞窟も海の中だよ…」
真栄田が沈んだ声で呟いた。

「そんなのわからないじゃないか!
誰か船を出して真田さんたちを助けに行ってよ!」
アントニーは声を張り上げた。

「無茶を言うんじゃない、あんな岩場に船を出したらすぐ座礁してしまう。それに源さんたち漁師が出払っている今、こんな荒れた海に船を出して船を操れる人間がいないじゃないか?
今は真田君を信じて潮が引くまで待つしかない…」
津嘉山はアントニーを諭した。

「おじさん!…」
アントニーは苦虫を噛み潰したような顔を津嘉山に見せたあと強く両手の拳を握って海を睨んだ。


満潮の時間帯がやってきた。
押し寄せる波はついに諒太の頭を超えた。諒太は引き波の時に息をする他なくなった。
174センチの長身のチーリンとチーリンに抱き抱えられる唯も首から上が水面から出るのみで全身が水の中に没した。押し寄せる波より引くときの波のほうがより諒太の力を奪ってく。足をしっかり地面に踏ん張らないと後ろにもっていかれてしまう。さらにチーリンと唯を壁に押し込む力も必要だった。
尚且つ諒太はこの力がいる瞬間に呼吸もしなければならない状況になった。

浮力で体が浮く…
諒太の体力はみるみる奪われていく…
次々に押し寄せる波に諒太はついに水を飲みこんでしまった。
むせびこむ諒太はいよいよ呼吸が出来なくなった。

「諒太さん!」
「おじちゃん!」

諒太は全身が完全に水中に没した。
肺の中の空気が全部気泡となって口から出ていった。


苦しい…

踏ん張れない…


諒太の体が水中でぐらついた。


ここまでなのか…

俺は…

また…


意識が遠退いていく…

水中なのにまるで木漏れ日の中のように暖かい…

気持ちが良かった…

諒太は抗うことも出来ず身を任せた…

引き波に引っ張られ諒太は水中をまるでスローモーションのようにゆっくりと後ろに倒れていった。

その瞬間…後ろに倒れゆく諒太の背中を押し返す力が働いた…

だ…れ…?

諒太は薄れゆく意識の中、はっきりと自分の背中を押す温かい人の手の温もり感じたのだった…

そして…
諒太には絵美が愛を抱き、二人の笑う顔が見えた…
優しく諒太に微笑みかける絵美は右手をそっと差し出した…

絵美…

諒太は絵美の差し出された右手を掴もうと自らの右手を出した…



次の瞬間、諒太の耳に声が聞こえた…

「立って! 諒太さん!」

水中で倒れかける諒太の右手をチーリンが左腕に唯を抱えたまま右手を必死に伸ばして握っていた…


諒太はチーリンに引っ張られ顔を水上に上げると胸いっぱい息を吸い込んだ。
そしてはっきりと覚醒した。

「チーリン⁈」

「諒太さん!…」

しばし二人は見つめ合った…
無事で戻った諒太を見てチーリンの瞳には涙が溢れていた…

もう諒太に怖れはなかった。

その後、諒太は潮が引きはじめるまで実に3時間もの間二人を波から守り続けた…



崖上では皆言葉もなく絶望感が拡がっていた。
どうする事もできずにうずくまる千鶴の肩を瞳は抱いている。
陽はすでに水平線の下に沈み、波の音だけが黄昏時のこの時間を支配していた。

「お母さーん!」

階段から唯がずぶ濡れのまま元気に駆け上がってきた。
皆一斉に階段の方に顔を向けた。

「唯!」

突然の娘の姿に千鶴は泣きながら駆け寄って唯をしっかりと抱き締めた。

「唯ちゃん⁈」
「奇跡だ! 奇跡が起こった!」
皆一斉に駆け寄った。

フラフラの諒太とチーリンもずぶ濡れの姿で階段から上がってきた。

「諒太さん!」「真田君!」
「チーリンさん!」「諒太おじさん!」

皆思い思いに二人に駆け寄った。
三人の無事の帰還に皆安堵の表情を浮かべた。
涙を流すものもいる。

唯を抱き抱えた千鶴が涙を流しながら諒太とチーリンに歩み寄ってきた。

「諒太さん… チーリンさん…
ありがとう… 本当にありがとう…」

諒太は微笑みながら唯の顔を撫でた。唯は母親の胸に抱かれて安心した表情を浮かべていた。
同時に周りの人たちから歓声と拍手が起こった。

諒太は唯とチーリンの安堵した表情を見て万感の思いで微笑えんだ…


良かった…

二人とも無事で…本当に良かった…

俺は…これで…


ドサ!

その場に諒太は倒れた…
一瞬の出来事であった。
満身創痍の諒太はとうに限界を超えていた。

「諒太さん?」

「諒太さん‼︎」

チーリンが地面に倒れた諒太に駆け寄った。

諒太はピクリとも動かなかった。


嫌ァー‼︎

茜色に染まる陽の沈んだ空にチーリンの悲鳴が響き渡った…

23 暁の南十字星

穏やかなさざ波が砂浜によせていた…
やわらかな陽の光に反射してキラキラと海は光り輝いていた。
真冬とは思えないほどポカポカして気持ちの良い昼下がりの海岸。

柔らかい灰色の砂に足を取られながらよちよちとおぼつかない足取りで砂浜をピンク色のダウンを着た一歳六ヶ月の目元が母親に似た可愛らしい女の子が歩いている。女の子の先には母親が優しく微笑みながら手を叩いて女の子を呼び寄せていた。

「パパ〜」

女の子は手を叩く母親を視界に入れながら母親の隣でしゃがみながら手を広げる父親を呼んだ。

どこまでも碧い太平洋の海は優しく三人の家族を見守るように雄大な景色を広げていた…

母親が女の子の名前を呼んだ。

「愛ー こっちよ〜」

愛はにこにこ笑顔を振りまきながら砂浜を歩いた。

母親の絵美も久しぶりの家族水入らずの時間に笑顔が絶えなかった。
絵美は隣の諒太に向かって最高の笑顔で応えた。
諒太にとっても普段仕事で忙しい日々の中、なかなか家族と時間を取ることが出来なかったが、久しぶりの家族団欒の時間で正月休みを利用して訪れた近所の石巻の海岸だった。
若い夫婦にとって日々成長する娘を見ることが何よりの幸せであった。
正月を迎えた東北石巻も例年になく暖かく、太平洋を仰ぐ海岸も柔らかい陽が燦々と降り注ぎ休日を過ごすのには最適な一日であった。

二ヶ月後にこの地に起こることなど誰一人予想もしていない平和で穏やかな一日だった。

そう…諒太にとって人生で一番幸福な時間…


ここは皆が天国と呼ぶところなのか…?

それならそれでいい…
俺はこの時間を離したくはない。
俺にとってこの幸福なときは天国をこえているんだから…
もし…命があるとしてもこれから人生何十年あるかわからないが、それと引き換えても俺はここに居たい…
二度とやってこないだろうこの幸せを俺は手放したくはない…

今持っているもの全て要らない…
何も欲しくもない…
この一瞬がもう一度手に入るのなら俺は悪魔とだって契約してもいい…

愛と絵美が波打ち際で戯れる笑顔を見ながら諒太は幸せを噛み締めていた。


…さん

諒太さん…

諒太さん!…

諒太さん‼︎…


誰かが呼ぶ声が聞こえる…


うるさいな…

誰だ? 邪魔をするのは?



諒太はうっすらと瞼を開けた。

天井が見える…
どこかで見たことがある…
どこだったか?

諒太はボーとしながら思い出していた。

たしか…
美波間島にある俺の家の…?

美波間って? …何だ?

なんで俺はそんなところにいる?
どうして石巻にいない…
諒太の頭の中は混乱していた。

その時、諒太の視界の中に一人の女性の顔が入ってきた。

絵美か?

心配そうに諒太を見つめるその瞳には涙が浮かんでいた。

「チーリン…?」

一瞬で諒太の記憶が一つに繋がった。

「諒太さん…」
小さなかすれる声で一言絞り出すとチーリンは顔を伏せた。

布団に寝かされている諒太は周りを見渡した。足元には千鶴とその横には瞳が座っている。

「皆んな…」

「諒太さん! 気がついたのね?」
千鶴と瞳は抱き合って喜んだ。

「俺は…?」

「あれかから三日経つのよ…」
千鶴は感謝の表情を浮かべた。

「三日?…」

諒太にはついさっきのような気もするし、ずっと前のような気もする。
諒太は布団から体を起こそうとしたが力が入らない。

「まだ起きちゃダメ!
紀藤先生からも体力が回復するまでは安静にしてなきゃダメって言われているのよ」
瞳が叱るように諒太に言った。

「紀藤先生が来たの?」

「ええ、諒太さん三日三晩意識が戻らなかったから覚えてないでしょうけど、あの翌日、紀藤先生フェリーに乗って直ぐ駆け付けてくれて諒太さんに点滴していってくれたの…
長い時間海水に浸かっていたことと、体に強い波を受け続けて急激な体力の消耗による血圧の低下がみられたらしいんだけど、生命に別状はないってことで一晩治療して帰られたの。それからはチーリンさんが献身的にあなたの看護をしてくれたのよ」
千鶴は涙ぐんだ。

「唯が助かったのは諒太さんとチーリンさんのおかげよ…」
千鶴は二人に頭を下げた。

殆ど眠っていないチーリンは疲れで充血した赤い眼をして俯いたまま首を横に振った。

「そうだったの…
でも…残念だ…」

諒太はため息混じりに無念そうに言った。

「残念…?
残念って何が残念なの?」
瞳が怪訝そうに尋ねた。

「俺は唯とチーリンが助かってさえくれればそれで良かった…
俺のことなどどうでも…

むしろ絵美と愛が待つ世界に俺は行きたかった…
あの幸せだったころに帰れたなら…」



「どうして…?」

「どうしてそんなこと言うの?」

チーリンが下を向きながら小さな声で呟いた。

「どうしてそんなこと言うのよ‼︎」

チーリンは突然寝ている諒太の胸に突っ伏して号泣し始めた。

「私…」

「私…本当に諒太さんが死んじゃうかと思ったんだよ⁈」

「なのに…
なのに…何でそんなこと…」

震える声でチーリンは顔を上げた…
チーリンの瞳からは大粒の涙が溢れ落ちていた。

「チーリン…」

諒太はチーリンを見つめた…


その光景を唇を噛み締めて瞳は見ていた。

そして瞳は悟った…

哀しい顔をして瞳は下を向いた。
それに気がついた千鶴が瞳の肩を抱いてその場を静かに離れた。

諒太は自分の胸で泣くチーリンの手に自らの手を重ねた。


諒太が眠っていたこの三日の間、入れ替わり立ち替わり島民が諒太の見舞いに訪れていた。
チーリンはその一人一人丁寧に応待し、限られた者しか安静中の諒太の部屋へ通さなかった。
漁から帰ってきた竜男をはじめとする漁師たちも諒太の見舞いに訪れていた。
部屋の中には見舞いに訪れた島民が置いていった野菜や果物、子供達が描いた諒太への励ましの絵などが所狭しと並んでいた。

諒太が目を覚ました後、チーリンは身を粉にして諒太のために栄養のある食事を作ったり、身の回りの世話をした。
その甲斐もあって三日もすると諒太の体力はみるみる回復していった。

夜も更けたころ、二人は久しぶりに並んで縁側に座って居間から漏れる灯に映し出された庭を眺めていた。二人の間には氷の入ったさんぴん茶がグラスに入って置かれている。外は夕方のスコールで庭の木々の葉を雨粒が濡らしていた。
まだ近くで雷鳴も聞こえる。

諒太は正面を向いたままチーリンに話しかけた。

「君は強いな…」

「え…?」

「並みの女性ならあの状況で何時間も唯を抱き抱えてはいられなかっただろう…」

「だって私…女優ですから…」

「どういうことだい?」
諒太は意味が解らず尋ねた。

「ほとんどの人はモデルや女優ってただカメラの前でポーズや演技するだけだって思っているでしょ?
…でも皆んな裏ではカメラの前に立つまでに血のにじむような努力をしているのよ…
私も体型を維持するためと役を作るために一日何時間も体を鍛えたり、食事制限をしたり人には見えないところで努力した。
だって人に見られることが仕事だから…
だからこう見えても人並み以上に体力はあると自負しているつもり…」

「なるほど…
知らなかったよ…プロ意識が強いんだな…」
諒太は納得した。

「それにしてもよく頑張ったな…
俺一人じゃ到底 唯を助けることは出来なかったよ…」

チーリンは首を横に振った。

「君はそんなに努力して手に入れた女優の仕事に未練はないのかい?」

「正直わからないの…
これからどうすべきか…」
チーリンは俯いた。

「諒太さんは私が台湾に戻ったほうがいいと思っているの?」

「あ…いや…それは…」
諒太は動揺した。

「ハッキリ言って」
チーリンは諒太の横顔をじっと見つめた。

「お、俺は、君にずっとこの島に残って欲しいと思っている…」
諒太の言葉を遮るように同時に大きな雷鳴が響き渡った。

「今なんて言ったの諒太さん?
聞こえなかった」

「いや…その…この間は変なこと言ってゴメン…」
諒太は照れくさそうに顔を赤くしながら言葉を濁した。

「えっ…?」

「俺はどうなってもいいって…」

「諒太さん…あなたのことを必要としている人がたくさんいるのよ…」

「うん…」
諒太は恥ずかしくなって俯いた。

(私もその一人なのよ…)
チーリンは目を伏せた。

二人の前で雨の雫を避けるように大きな葉の下に隠れてツマベニチョウが白い羽を休めていた。
雷は遠くに去りつつあった。


そしてその翌日、チーリンが怖れていたことがついに起こった…

チーリンは少なくなった日用品を買うため国吉商店へ一人で買い物に出かけた。
しかしこの日の行動が取り返しのつかない事態を招いてしまうこととなる。
偶然にも台湾から来てきた観光客にチーリンは写真を盗撮されてしまったのだ。この写真を撮影した若い台湾人カップルは単なる好奇心で与那国島から美波間島に渡って来たのだった。午前に着いて島を散策してから午後の便でまた与那国島に戻るつもりでたまたまここに立ち寄っただけなのだが、まさかこんな小さな島にあの 蔡志玲(サイチーリン) がいるはずはないと目撃しても最初は信じなかった。
カップルは隠れて写真を撮りながらチーリンの後をつけた。
チーリンは買い物のビニール袋を持って一軒の古い沖縄様式の民家に入っていった。

「絶対違うよ。きっと似た人だって」

「でもすごい似ていたじゃない?」

「まあ、あんな美人そうはいないけどさぁ…パリやニューヨークじゃなくてここ日本の孤島だよ。いま、蔡志玲は次回作に向けて休養中だってきいたよ。こんなへんぴな場所に居るわけないよ〜」

「意外と灯台下暗しってこともあるかもしれないよ?あえてひと気のないところで休養しているのかもしれないし」

半信半疑であったが二人は早速SNSに アップした。

『蔡志玲に激似の女性 日本の離れ小島で発見?』

この投稿はチーリンの後ろ姿の写真入りで掲載された。人気女優のチーリンのSNSのフォロワー数は軽く100万人をくだらない。ネット上でもその影響力は大変なものであり、その写真は日々ファンの間で急速に拡散していった。

…まだそんな事は美波間島の島民は誰一人知る由もなかった。

翌日の日曜日チーリンは瞳に話があると海に誘われた。
諒太は体力が回復しすでに畑に出ていた。

「どうしたの?瞳さん話って?」

「ごめんね…チーリンさん急に呼び出したりして…」

二人は土手に並んで座って海を眺めた。

「諒太さんもう外に出ても大丈夫なの?」

「うん…止めたんだけど芋畑の雑草を抜くんだって言って私の言うこときかなくて…」

「芋畑か…諒太さんらしいね」
瞳はくすっと笑った。

つられてチーリンも笑った。

「私…ずっと前にチーリンさんに言ったこと謝りたくて…」
瞳は真剣な表情に戻って言った。

「謝るって何を?」
チーリンは微笑みながら首を傾げた。

「もし美波間島に残るつもりがないのなら諒太さんに深入りしないでって言ったでしょ…
それと…この島にいて自分の役目はあるのかとか酷いことを…」

「そのこと…」
チーリンは海に視線を移した。

「私…わかったの…
あなたが決して諒太さんに対して軽い気持ちじゃないってことが…
軽い気持ちじゃあんなに献身的になれるはずないもの…

そしてこの間のあなたの涙を見て
私…悟った…
チーリンさんは諒太さんのことが好きなんだって…」

チーリンは俯いたまま沈黙を答えとした。

「あなたも気づいていたと思うけど私…諒太さんのこと好きだった…
だからあなたに嫉妬した…」

チーリンは言葉を言いかけたが瞳に制された。

「最後まで聞いてチーリンさん…
私にはあなたの代わりは出来ないと思ったの…
チーリンさん…あなただから諒太さんは…」

瞳はチーリンの目を真剣に見つめた。

「諒太さんは…飾らないあなただから心を開いたんだと思う…
チーリンさん…私、諒太さんのこときっぱり諦めます…
だって諒太さんを暗闇から陽の当たる場所に導いてあげることができるのはチーリンさん…あなたしかいないから…
そしてそれはあなた自身が幸せに近づくということなのよ…」
瞳はチーリンの目を見つめ微笑みながら頷いた。

「瞳さん…」
チーリンもゆっくり頷いた。

潮風が優しく二人の頰を撫でていった…



ー台北ー

このところ台湾の週刊誌、マスコミ、芸能界では 蔡志玲の話題でもちきりだった。
以前のチーリンの恋人、ジュリーチェンが新しい彼女と手を繋いで歩いているところを週刊誌にすっぱ抜かれたことで、ジュリーとチーリンが破局したことが周知の事実としてわかってしまい、ちょうどチーリンが長期休養の時期と重なっていたということもあり、チーリンは傷心のあまり仕事が出来なくなったのではないかと憶測が飛んだ。
そこへ持ってきてSNS上で旅行者が撮影した美波間島でのチーリンと思われる一枚の写真が更に話を大きくした。
ファンの間では写真は本当にチーリンなのか?何故そんな場所にチーリンがいるのか?と芸能事務所に問い合わせが殺到した。

チーリンの事務所の社長室ではチーリンの女マネージャー張花妹に社長の叱責がとんでいた。
徐 前社長が解任追放され、新たに送り込まれた 陳 新社長は本社の方針通りワンマンなやり方で、所属する俳優やタレントを物としか思わない徹底した合理主義者で社内から嫌われる存在であった。

「張さん、一体どうなっているんだ?
一月以上も志玲の行方がわからないばかりか今回の一般旅行者の写真の一件といい…
君は志玲のマネージャーとしてちゃんと職務を果たしているのか!」
陳はデスクを叩いた。

「すみません…」
張花妹は頭を下げるしかなかった。

「これ以上志玲のイメージに傷がついたらどう責任をとるつもりなんだ! え‼︎
マスコミが嗅ぎつける前に君がチーリンをここへ連れてきたまえ!」

こうしてソースが一般人のSNSという不確実なものであったが、真意を確かめるべくマネージャーの張花妹は、直線距離で台湾から僅か120キロしか離れていない小島なのに、那覇経由で飛行機と船を乗り継いで半日かけてどうにか美波間島に上陸した。

(本当にこんな何にもない島に志玲はいるのかしら?)
美波間島のフェリー波止場に立った花妹は周りを見渡しながら思った。
花妹はSNSに掲載されていた沖縄の古民家を探すべく島を歩き始めた。
土地勘もなく闇雲に歩き回ること数時間、しかしどこも似たような家ばかりでどこに志玲がいるのか全くわからなかった。
仕方なく途中、道路端の石に座って途方に暮れていると親切な島民が声をかけてきた。

「こんな所でどうしました?」
声をかけてきたのはサトウキビ畑の真栄田 正一の妻のつねだった。

花妹は片言の日本語でサイチーリンを探していると答えた。

「ああ…チーリンさんなら真田さんの家にいますよ」

「え!本当ですか?」

まさか志玲が本当にいる?
半信半疑でこの島にきたもののチーリンはアメリカやヨーロッパの大都市にいるものばかりと思っていたのでこんな離島にいるなどとても信じられなかった。
それに真田って人は誰なの?
花妹の疑問は募った。

花妹はつねから真田の家までの道順を教えてもらいまた歩き出した。
しばらく歩くと海の匂いがしてきた。太陽の陽射しは暑かったが、風が心地よく吹き続け、体感は台北より涼しく感じた。
つねに教えられた家のオレンジ色の屋根には対のシーサーが乗っていた。
高い石造りの塀に遮られ中の様子ははっきりわからなかったが、平屋のその建物はひどく年季が入っているようだった。

多分ここよね…
表札も呼び出しチャイムも無かった。敷地の塀から少し入ったところにある玄関は扉が開けっ放しであった。
花妹は意を決して玄関に入った。

「ごめんください…」

返事はなかった。

「ごめんくださーい!」
花妹は大きな声で再び声をかけた。

「はい…」

玄関先に出てきたのはチーリン本人だった。

「花妹!」
「志玲!」

二人は突然のことにびっくりしてお互い固まった。

「花妹、どうしてここが…?」

「志玲あなたこそどうしてこんな所にいるの⁈」

「私を連れ戻しにきたの?花妹…」

「そうよ。志玲帰りましょう…」

「会社の命令で来たんでしょ?」

「そうだけど皆んな心配しているのよ志玲…」

チーリンは黙り込んだ。

「どうしたんだ?」
諒太がちょうど畑から帰ってきた。

花妹は驚いた。
家の佇まいからこの家の家主はもっと高齢の人だと勝手に思っていたのだが、日に焼け背の高いガッチリした精悍な顔をした若い男が声をかけてきたので花妹は面食らった。

(もしかしてこの人が真田って人?)

諒太は土で汚れた白いTシャツに麦わら帽子を被り肩には鍬を背負っていた。

「諒太さん…」
チーリンは沈んだ顔をして下を向いた。

諒太は花妹とチーリンの顔を交互に見渡した。

花妹は慌てて口を開いた。
「私、志玲のマネージャーをしております
張 花妹 と申します」
鞄から名刺を取り出し諒太に差し出した。

「真田です…」
諒太は帽子をとり挨拶を返した。

「諒太さん…花妹は私を連れ戻しにきたの…」

「こんな所ではなんなのでどうぞ中へ…」
諒太は花妹を家の中へいざなった。

「諒太さん!…」
チーリンは不満げの表情を浮かべた。

「台湾から遠い道のりをわざわざ来てくれたんだ。礼を欠いてはいけないよ、チーリン」

諒太は茶の間に花妹を案内し、冷たいさんぴん茶を振る舞った。
何か二人の間にピリピリした空気があるのを諒太は感じとった。
花妹はいきなり本題に入ろうと話しだした。

「ちょっと待ってください、俺には正直 芸能界のことなんてさっぱり解らない。張さん、今日はもう帰りのフェリーには間に合いません。時間はたっぷりあるんだし、お互い久しぶりに会ったんだから焦らずにゆっくり話してみたらどうです?
今夜はここに泊まっていけばいいですよ」
諒太は柔和な表情を浮かべた。

「そ、そうね…
ありがとうございます…」
花妹の表情が変わった。
諒太の一言で緊張した空気が柔らかい空気に一変した。

「ありがとう…諒太さん…」
チーリンの顔にも優しさが戻った。

「じゃあ俺は芋でも蒸してくるよ」
諒太はそう言い残しその場を立った。

「ねぇ、志玲、あの真田さんって誰なの?」
花妹は興味津々に尋ねた。
まるで昔の二人の関係に一瞬で戻ったような花妹のくだけた口調だった。

「いろいろな意味で私の恩人よ…」
ちゃぶ台に頬杖をつき奥の台所で芋を蒸す諒太の背中を見ながら目を細めチーリンは微笑んだ。

「まさか…志玲あの人のこと?」
花妹はチーリンに女の表情を見てとった。

チーリンは諒太の背中を見つめたまま何も答えなかった。
その後、二人は雑談を交わしていると諒太が皿に山盛りの芋を持って戻ってきた。

「この黄金芋っていう品種、諒太さんが何年もかけてこの島に合うように改良したものなのよ。
花妹、食べたら驚くわよ」

「チーリン、そんなにハードルを上げないでくれよ…
大したものではないけど、どうぞ食べてみてください」

「では頂きます…」
花妹は熱々の黄金芋にかじりついた。

「何…これ? すごい甘い!
口の中でとろけるような舌触り…
私こんな美味しい芋生まれて初めて食べたわ…」
花妹は感動した。

「チーリン、明日晴れたら張さんに島を案内してあげたら?」

「え…? うん…わかった…」

(何故私を連れ戻しにきたのにそんなに優しくするの…)
チーリンは諒太の真意がわからなかった。

花妹はよほど黄金芋が気に入ったのか2本目にかじりついていた。

チーリンは夕食を作るために台所へ立った。

「え? あの志玲が料理を⁈」
花妹はびっくりしてチーリンの背中を見つめた。

「今じゃ上手いものですよ…
最初のころはひどかったけど…」
諒太は懐かしそうな目をして答えた。

「俺が今こうして元気に立っていられるのも彼女のおかげなんです」

花妹は二人の言葉と表情に余人が立ち入れない深い信頼関係があることを感じた。

「張さん…俺も何故チーリンが台湾を離れたか話は聞いています。
俺が何かを言える立場じゃないけど、どうかチーリンの想いもしっかり汲んであげてくれませんか?
チーリンが納得したうえで帰りたいというなら俺は何も言いません。
ただ…会社の一部品として生き続けなきゃいけないなんてあんまりです。人にはもっと幸せを追い求める権利があると思うんです。
今夜じっくりチーリンと腹を割って話してみてください、お願いします…」
諒太は花妹に頭を下げた。

花妹は真田が志玲を台湾に連れ帰らないでほしいと懇願するものばかりと思っていた。
しかし真田はチーリンのことだけを考えていた。
花妹は諒太の姿勢に誠実な人柄を感じた。

暫くしてチーリンが出来上がった料理を運んできた。
庭で採れたゴーヤと見舞いに頂いた野菜と牛肉を使ったチャンプルーと鯵のカルパッチョがちゃぶ台の上に並んだ。

「これ…志玲が…」
チーリンが料理を作れない事を知っている花妹だけに驚きを隠せなかった。

「花妹食べてみて」
チーリンはにっこり笑った。

「美味しい! 凄いね志玲!
いつの間にこんなに料理上手くなったの⁈」
料理の美味しさだけではなく、チーリンが活き活きと楽しそうに料理を作っていたことが長年マネージャーとしてまた姉のようにチーリンを側で見続けてきた花妹だけにチーリンの違う一面を目の当たりにして衝撃を受けた。

(志玲…あなた変わったわね…)
嬉しそうに夕食を食べるチーリンの顔を見て花妹は思った。

夕食の後、諒太は布団をひと組チーリンの使っている部屋へ運び込んだ。元々花妹とチーリンは年の離れた姉妹のように仲が良かった。
それが事務所が買収されたのち会社の方針変更の影響で二人の関係に微妙なズレが出ただけのことであり、決してお互いを嫌っているわけではなかった。今夜二人は久しぶりに枕を並べて話し合う機会をもったことになる。

花妹は現在台湾でチーリンが置かれている現状を説明した。
また、チーリンの気持ちは理解出来るが、マネージャーとして社命を果たさなければならないことも話した。
それを踏まえたうえでやはりチーリンにはすぐに台湾に帰ってもらいたいと頼んだ。

チーリンも今までの出来事を隠すことなく正直に話した。
特にこの美波間島に来てからの心境の変化について花妹にはわかってほしかった。

しかし、花妹にはなぜ地位や名声、経済力のある志玲がわざわざこんな何もない小さな孤島にこだわるのかが理解出来なかった。
その夜、チーリンの首は縦に振られることはなく話は平行線を辿った。

翌日チーリンは諒太に言われた通り花妹を外に連れ出した。
雲一つない快晴であった。
チーリンは崖の上から海が良く見える展望台へ向かった。

「おや、チーリンさんこんにちはー」
お年寄りのおばあさんが気さくに挨拶をしてきた。
花妹はチーリンをよく知る知り合いなんだろうと思った。
しかしそうではなかった。

「今日はいい天気だね〜
チーリンさんお散歩かい?」
また年配のおじいさんが声をかけてきた。

道で出会う人、出会う人 皆 志玲にニコニコ優しい笑顔で挨拶をしてくる。
チーリンもそれに応えるように満面の笑みで挨拶を返した。

志玲は島民との間で絆とも言うべき信頼関係を構築しているのを花妹は感じ取った。
島民は皆優しく親切で志玲をねぎらってくれている。
また、歩く途中で見かけたサトウキビ畑で働く者、野菜を作る者、果物を作る者、家で作業をする者、見たところ裕福な人など誰もいなかったが、どの人も生き生きと仕事に取り組んでいた。

台北の街のような雑多なところはまるでなく、この島では時間がゆっくりと流れているような感覚に花妹はおちいった。
そして島の美しい景色はいつしか忘れてしまった心の原風景を思い起こさせた。

海が良く見える展望台からは陽の光がエメラルドグリーンの海面に反射してキラキラと輝いていた。
細い砂利道が続く突き出した岬の崖上の先にある小さな白い灯台に光が反射して綺麗に見える。

チーリンは海の先を見ながら言った。

「私はまだ見たことないけど、条件が良ければ年に何回かはここから台湾の陸地が見えるそうよ…」


(この島はそんなに近くにあるのね…)
今は見ることが出来ない近くて遠い台湾の方向を花妹は黙って見つめた。
海からは気持ち良い汐風が吹いていた。

(私…志玲の気持ちも考えずに仕事を上から言われるがまま入れていたのかもしれない…
そうよね…真田さんの言う通り人は機械の部品やロボットなんかじゃない…
志玲はこの島で人間らしく生きるということはどういうことなのか知ったのね…
私がマネージャーとしてしなくてはいけないことは言われるがまま仕事をブッキングすることじゃなく志玲を守ることなのかもしれない…)
花妹は海の彼方を見つめ続ける志玲の横顔を見ながら思った。

夕方過ぎ竜男がやって来た。
竜男は一度諒太が意識が戻らず眠り続けているころ尋ねてきていた。
妹の瞳から諒太が復調したと聞き、再びの遠洋漁から帰ってその足でやってきたのだった。
諒太に娘の唯を助けてもらったことの礼を伝えたくていてもたってもいられない日々を送っていたのだ。

「諒太ぁ! 諒太ぁ!」
玄関で竜男は大きな声をあげた。

「あ、竜男さん」
チーリンが玄関先に出てきた。

「諒太が元気になったって聞いてこれ!」
竜男は大きなマクブーと呼ばれる高級魚を発泡スチロールの箱から覗かせた。
店で買えば何千円もしそうな立派な魚であった。

「諒太さんまだ帰ってないんだけど、そのうち帰ると思うから良ければ中で待ってて」

「ああ、今日こそはこの間の礼をしたいからな…
そうさせてもらうよ」
竜男は勝手知ったる諒太の家に上がると花妹がいる茶の間に入った。

「こちらは?」
竜男はチーリンに尋ねた。

「私のマネージャーの張 花妹よ。
こちらは諒太さんのお友達の宮城竜男さん」

竜男と花妹はお互い挨拶を交わした。

「マネージャーって芸能事務所の?」
動揺したように竜男はチーリンに聞いた。

「うん…」

「まさかチーリンさん台湾に戻ったりしないよね⁈」

「私はそのつもりはないんだけど…
花妹が私を連れ戻しに来たのは確か…」

「ちょっ…ちょっと待ってくれ、
張さん、本当にチーリンさんを連れて帰るつもりなのかい⁈」

「ええ…私はそのつもりで社命を受けてここに来ました…」

「頼む!いまチーリンさんに帰られたらまた諒太はカラになっちまう…
頼むからそれだけは止めてくれ!
この通りだ…」
いきなり竜男は花妹の前で頭を畳に擦り付けて土下座した。

「ちょっと、どうしたの竜男さん!」
チーリンは驚いた。
花妹も竜男の行動にびっくりしている。

「そんなことしちゃだめ、頭を上げて竜男さん」
チーリンは必死に土下座する竜男を起こそうとした。

「宮城さん…どうしてそんなことするんです?」
花妹は何故竜男が志玲が帰らないよう懇願するのか理由がわからなかった。

「俺にとって…あいつは大切な友なんだ…
またあいつの悲しむ顔を俺は見たくないんだよ…
だから頼む」

友達のためにここまでする竜男の姿に花妹は胸が熱くなった。

チーリンは花妹に諒太がなぜ美波間島にきたのか今まで歩んで来た半生を語った。

花妹はすべてわかった。
志玲がこの島にこだわる理由が…
この島の何人も受け入れて包み込んでくれる美しい自然とそこに住む人の優しさと人と人の強い絆、そして真田 諒太という周りの人を惹きつける人徳と朴訥だが誠実な人柄。
花妹が見知っている志玲が今まで付き合ってきたルックスと表面のみの優しさの中身の薄い男とは全く異なるタイプ…
それが真田 諒太という男性…

志玲…
生まれて初めて自分の居場所に辿り着いたんだね…
花妹は心の中で姉が妹を想うような気持ちで目を潤ませた。

「わかりました…
私は志玲の気持ちを尊重します」
花妹はまだ畳にうずくまる竜男の手を取った。

「花妹…」
チーリンは涙を浮かべ花妹を見つめた。

ゴトッと庭から音がした。
そしていま帰ってきた諒太が庭から顔を出した。

「おう、竜男来ていたのか?」

「諒太ぁ!」
竜男は裸足のまま庭に飛び出し諒太に抱きついた。

「おい何だ⁇
男が気持ち悪いな…」
諒太は驚きを隠せなかった。

「ありがとう諒太…
唯のこと本当にありがとう…」
竜男は諒太に頭を下げた。

チーリンと花妹は男同士の友情を眩しそうに見つめていた。

24 偽りの海峡

24  偽りの海峡

その夜、竜男が持参した高級魚マクブーを竜男自身が刺身におろし、諒太の料理でスパムと野菜を軽く炒めたものやチーリンが先日買っておいた島豆腐を酒のあてにささやかな酒宴が開かれた。
特に竜男にいたっては諒太が復調したことと、チーリンが島に留まってくれることが何より嬉しかったようで酒の進みが早かった。
そして酒が進むとどういうわけか竜男と花妹はウマが合った。

「諒太喜べ! 花妹さんはチーリンさんを連れて帰らないそうだ!
ね!花妹さん?」
竜男は顔を赤らめ少し酔った感じで言った。

「そうよ! あんな社長の言いなりになるもんですか!さあ、もっと宮城さんも飲みましょう!」
花妹も気分が良いようで陽気だった。

二人の様子を見て諒太とチーリンはお互い顔を見合わせ笑った。

花妹も次第に美波間島と真田諒太という人間に魅了されていった。

しかし、そんな楽しい時間も長くは続かなかった。
とうとう台湾のフリーのカメラマンが美波間島に乗り込んできたのだ。
カメラマンもまさかチーリンがこんな孤島にいるとは思わなかったが、巷に広がるSNSの写真の真相を確かめるため単独島にやってきたのだ。
島民もまさかチーリンを写真に収めにきたカメラマンとも思わず親切心で諒太の家を教えてしまった。
カメラマンが諒太の家の近くで張っていると、偶然チーリンが洗濯物を干しているのを目撃した。

(間違いない…蔡志玲だ)
カメラマンはその姿を激写した。
しばらく粘っていると若い男が家を出ていくのが見えた。

(志玲は男と一緒にここに住んでいるのか?)
カメラマンは男の写真も撮影した。
どこよりも早いスクープにしたかったこのカメラマンは、持ち込む週刊誌のデスクと連絡を取り、早速メールに画像を添付して送信した。
写真はその日の夜には有料電子版記事で掲載された。

【長期休養中の蔡志玲を日本の離れ小島 沖縄 美波間島で激写!】

【傷心の志玲に新たな恋人か?】

【古民家ですでに日本人男性と同棲中⁈】

電子版にはこのような文字が踊り、写真にはハッキリとチーリンと諒太の顔が写っていた。
このスクープはチーリンのファンのみならず台湾全土、さらには海を越え上海や香港でも大騒ぎとなった。翌日には早速台湾の週刊誌、テレビのワイドショー、新聞社までが大挙して美波間島に押し寄せた。
ついに諒太の家は完全にマスコミの取材陣に包囲されてしまった。

「志玲さんいるんでしょう?
出てきて話を聞かせてくださいよ−!」
「なぜこんな所にいるんですかー?」
「この家の男性誰なんですかぁ?」

塀の外から容赦ない質問が大きな声でとんでくる。
チーリンは俯いたまま耐えていた。

「私…彼等の前で本当のことをはなしてきます…」
チーリンは立ち上がろうするところを花妹に制止された。

「志玲行っちゃダメよ!
外のマスコミ各社の大口スポンサーは台北東海公司なのよ。彼らが不利になるような話しが記事になる訳ないじゃない」

「でも…」

「花妹さんの言う通りだ。ほとぼりが冷めるまで相手にしなきゃいい」
諒太も花妹の意見に同調した。

午前中大挙して押し寄せた記者たちも、夕方には波が引くように一斉ににいなくなった。
美波間島には彼等が宿泊出来る施設はないし、条例で島にテントを張ることも禁止されている。
そのため、夜は宿泊施設のある隣の与那国島まで連絡フェリーで移動していくのだ。島唯一の民宿さんご荘もこの時期は釣り客で部屋が埋まっていたし、そうでなくとも主人の比嘉は諒太とチーリンを付け狙うマスコミになど理由をつけて部屋を貸さなかっただろう。

昼間の喧騒から一転静りかえった夜、チーリンは諒太に頭を下げた。

「諒太さんごめんなさい…
私のせいで…」

「君のせいじゃない…気にするな」

「だけど…」
チーリンは表情を曇らせた。

「まくとぅそーけーなんくるないさー」
諒太はいきなり奇妙な言葉を発した。

「え?何? まくとぅそーけー⁇」
チーリンは諒太が何を言ったのか全くわからず首を傾げた。

「こっちの方言なんだけど、人として正しいことをしていれば何も心配することはないという意味だよ。俺はこの言葉が好きなんだ」
諒太は微笑した。

その魔法のような言葉の響きにチーリンは幾分気持ちが楽になったような気がした。
そして諒太の自分を元気づけようとする気遣いに感謝した。
だが、諒太が言うようにほとぼりが冷めるというようなことはなく、逆にマスコミの報道は過熱していった。取材陣は島民を強引に引き止め、二人の質問をするばかりか脚立まで使って諒太の家を覗きこんだ。チーリンは一歩も外に出ることができなくなってしまった。

一方で諒太はそんな取材陣のことを気にすることもなく普段通り畑に出かけていった。しつこいインタビュアーの質問に一切口を開くこともなく、諒太はいつもと同じように淡々と仕事をこなした。
次第に巷の関心事はチーリンと一つ屋根に住む真田という男性は何者なのかということに集まり、諒太のことを調べようと各社の取材合戦はヒートアップしていった。

そんな中、ある日を境に記事の内容がガラリと変わった。
その記事は真田という男は新興宗教の教祖であり、チーリンを洗脳し、思い通りにしているという全くデタラメなものであった。また、真田をトップとするこの宗教団体は法を守らず、暴力をもってリゾートホテル開発を妨害しているというでっち上げの酷い内容のものであった。
この報道は一斉に広まり、真田をチーリンの新恋人ではないかと興味の対象としてみていた人々の感情は憎悪に変わった。
この内容に日本の週刊誌までもが裏も取らずに追随した。
ついには、諒太の家に脅迫文のようなものが郵送されるようになり、村役場のパソコンにも諒太を誹謗中傷するメールが大量に送信されるようになった。一夜にして真田諒太は悪の権化とされ、SNS上でも恋人と別れ、傷心中のチーリンにつけいった卑劣な真田の手から我等のチーリンを救い出せという声が日に日に高まっていった。

この騒ぎを石垣島で聞きつけた清子オバーの息子 桑江信之から諒太に連絡が入った。現在、管理を諒太に任せている母 清子の家を自由に使っていいという有難い申し出であった。
諒太も憔悴するチーリンをこのまま放っておくことはできなかった。
嫌がるチーリンを説得し、諒太はマネージャーの花妹とともにマスコミがいない時間を見計らい、密かに清子オバーの家に二人を移らせた。

諒太のことを悪く言うものなどこの島には誰一人としていない。
この出鱈目な報道に普段穏やかで気のいい島民も一様に憤慨し、マスコミの取材に一切応じなくなった。そしてその夜、肩を怒らせて源一が諒太の家にやってきた。

「これ見てみろ諒太!」
源一は週刊誌をちゃぶ台に放り投げた。

【衝撃の事実発覚!台湾の人気女優 サイチーリンを洗脳する真田諒太氏には妻子を目の前で見殺しにした過去があった!】

と見出しに大きく書かれていた。
諒太はその記事を淡々と読み進めた。

「お前ぇこんなこと書かれて悔しくねぇーのかよ!
俺りゃあ悔しくて悔しくてよぅ!」
源一は顔を真っ赤にし、鼻息荒く頬は怒りでぴくぴく痙攣している。
記事を読み終えた諒太は一度溜息をつくとぽつりと呟いた。

「ありがとう…源さん」

「ありがとうってお前ぇ…それはどういう意味だ?」

諒太は自分のことでここまで本気で親身になってくれる源一の気持ちが嬉しかった。

「源さん…俺にはもう迷惑がかかる家族はいない…
俺一人が悪者になることでチーリンの名誉が保たれるならそれでいいじゃないか…」
諒太は寂しそうに笑った。

「諒太…お前ぇ…」


  ー東京 蒲田ー

京急蒲田駅から少し離れたネオン街にある千鳥足の酔っ払いが行き交う細い通り沿いに場末ともいえる店キャバクラ「Heaven」はあった。
奥にある控室で休憩中のキャバ嬢「忍」こと みうは店に置かれたゴシップ誌を広げていた。

「ふっざけんな!
何が新興宗教の教祖だよ!適当なこと書きやがって!」
みうはゴシップ誌を壁に投げつけた。

(りょーたん… チーリンちゃん…)
みうは二人に想いを寄せた。

しばらくして控室のドアが開き、
やる気のなさそうな顔をしたボーイが声をかけてきた。

「忍さん、3番テーブルご新規さんお願いしまーす」

「はーい、わかりました…」
胸元が大きく開いたバイオレットカラーのドレスに身を包んだみうは立ち上がった。

「ぎゃははは! 何その格好⁈
あんたたちオタクなの?
ちょーウケるんだけど!」
みうはテーブルの客を見るなり指をさして大笑いした。

「紳々、怖いよぅ…」
竜々は紳々の腕にすがりついた。

紳々と竜々は秋葉原で開催されたラブリーライブのイベントの後、しばらく東京見物をして楽しんだのだが、羽田空港から札幌へ帰る途中、食事をしようと蒲田に立ち寄った路上で客引きに捕まったのだ。

「でも二人ともなんかかわいい〜」
みうは二人の腕を掴むと強引に二人の間に割り込んで座った。紳々と竜々は照れで顔を赤くしてうつむいた。


ー台北 玉山通信ー

応接テーブルを挟んで江江とカメラマンの陽 代沫はキャップの王重林と顔を突き合わせソファーに座った。キャップの王はトレードマークのでっぷりと肥えた腹に食い込んだサスペンダーを気にすることもなく前傾姿勢で二人の顔を見渡し言った。

「君たちにはこれから美波間島に渡ってもらいたい」

「美波間島?」

カメラマンの陽は嬉しさを隠せないようににこにこと笑顔を見せている。

「何よ?
あなたずいぶん嬉しそうね?」
江江は眉を寄せて陽の横顔を見た。

「そりゃあー美波間島といったら蔡志玲の取材でしょう? 俺としては願ったり叶ったりっすよ」

「キャップ!私たちは報道ですよ?
芸能ネタなんて他の人にやってもらってください!」
江江は厳しい顔をしてにべもなく断った。

「いや、江江そうじゃないんだ。
君たちに追いかけてもらいたいのは蔡志玲ではなく、真田諒太という人間なんだ」

「真田?あの志玲を洗脳している暴力運動家の教祖様ですか?」
陽は驚いて口を開いた。

「これを見てもらいたい」
王は各社の週刊誌をテーブルの上に並べた。

「どの社も最初は志玲のスキャンダルとして記事を載せていたな?」

テーブルの上に並べられた記事にはどれも志玲と日本人男性との熱愛の報道として書かれていた。

「ところがだ…」
王はテーブルの上の週刊誌を新しいものに全て入れ替えた。するとある時を境に志玲は被害者として扱われ、真田という人物が志玲を貶める悪の男として内容が変わっているのがわかる。しかも一社だけではなく全ての社が一斉にである。

「つまりキャップは各社に何らかの圧力がかかったと?」
江江は上目遣いに王を見据えた。

「まだわからんが、君たちにはそれを調べてきてもらいたい。いま、蔡志玲の事務所は買収され、台北東海公司の傘下に入っているそうじゃないか。それと現在、美波間島リゾートホテル開発も台北東海公司の手で進められている。臭いとは思わんか江江?」

「確かに。マスコミを利用するのは彼らの常套手段ですからね」
江江は目の前の週刊誌に目を落とした。

「真田という男の真の姿を君たちの目で確かめてきてくれ」

こうして江江と陽は美波間島に旅立っていった。
江江にとって台北東海公司にはいつもあと一歩というところで煮湯を飲まされてきただけに、今回の美波間島での取材は心に期すものがあった。

島ではこれといった事件も起こらず、のんびりとした時間が流れ、諒太の家を取り囲むマスコミ陣にも厭戦気分が漂い始め、だれた空気が流れていた。
島民はもう取材に対して非協力的だし、真田諒太も一貫して一切口を開かない。
当のチーリンもこの家に居る気配が全くないのである。暇な彼らは顔馴染みになった他社の社員とおしゃべりをして過ごすのが唯一の暇つぶしであった。

「俺たちのしている事って意味あんのかねぇ?」

「まあ、仕事だからしょーがねーけど、せっかく書いた記事を勝手に書き換えられたんじゃあ やってらんねーよな?お互い」

ここに集まっている取材陣の誰もが毎日真面目に畑に出ている真田が暴力活動家でないことも、宗教活動などをしていないことも承知である。
しかし、ここで本社の書いた記事に対してそれは違うと叫んだところで本社の意向には逆らえないことも知っているのである。
彼らは島内をぶらぶら歩きまわりダラダラとおしゃべりしながら煙草を吹かし吸殻を平然と放り捨てた。

「テメェー!俺たちの島を汚すんじゃねぇ‼︎」
煙草のポイ捨てを偶然見かけた源一が吸殻を捨てた男の胸ぐらを掴んだ。

その瞬間、カメラのシャッターが一斉にきられ、後日写真付きの記事となった。

【真田教の信者、取材陣に暴力!
記者は殴られ怪我!】

源一がさも暴力を振るったと虚偽の報道がなされた。この源一が記者の胸ぐら掴んでいる瞬間の写真や映像は見た人々にインパクトを与え、いよいよ真田憎しの声が高まっていった。

「諒太すまねぇ…」
取材陣が島を離れた夜、源一は諒太の家にやってくると頭を下げた。

「俺はいつも直ぐカッカしちまう悪いくせがあるのはわかってるんだが、奴らの態度を見ているとつい抑えられなくなっちまってな…
俺のせいでお前ぇに迷惑をかけちまった…この通りだ」

「源さんは何も悪くないよ。殴ってなどいないんだもの。しかし、マスコミなんてものはいい加減なものだね…自分たちの好きに話を作り上げることが出来るんだから」

「ああ…まったくだ」

その時、外から人のくしゃみのような音が聞こえた。諒太と源一が玄関の外を覗いてみると暗がりの中、見知らぬ50歳前後の気の強そうな女性と、30代くらいの肩までかかる天然パーマの長髪の男が佇んでいるのが見えた。男の首からはいかついカメラが下がっていた。

「この野郎…」
源一は身構えた。

「テメェら!こんな時間まで‼︎」
源一は大きな声を張り上げた。

「源さん…」

諒太は今にも彼らにつっかかっていきそうな勢いの源一の後ろから声をかけた。

「うっ…」
源一は我に返って歩みを止めた。

その時、女が日本語で声を掛けてきた。
「夜分遅くにすみません。私は台湾の玉山通信で記者をしております
江江と申します。隣はカメラマンの陽代沫です」

「なんだお前ぇ?
日本語がわかるのか?」

「はい。私だけですが」
江江は表情を崩さず気の強そうな顔を源一に向けると鞄から名刺を差し出した。

「チーリンちゃんのことなら誰も何も喋んねぇよ。わかったらとっとと台湾に帰ぇーりな」
源一は手で追い払う仕草をした。

「いえ、私たちがお話を聴きたいのは真田さんのことなんです」

「何ぃ?諒太のことだと?
もうオメーらマスコミどもが新興宗教の教祖だなんだとありもしねぇこと適当に書きまくっているじゃねーか⁈
ふざけんなこの野郎‼︎
帰ぇれ!帰ぇれ!」

ぐぅぅぅー

源一の激しい剣幕の間をぬって気の抜けたような音が聞こえてきた。
音の先を見るとカメラマンの陽がひもじそうに顔を江江に向けている。

「何だ?あんた腹が減っているのか?」

この時初めて源一の後ろにいた諒太が口を開いた。
江江が陽に訳した。
すると陽は諒太のほうを向き、腹を押さえて何度も笑顔で頷いた。

「フッ… あんた面白い奴だな。上がれよ。飯くらい食わせてやる」

「諒太!こいつら家に上げるつもりかよ⁈」

「俺もさすがに腹を空かせているやつを目の前にして見て見ぬ振りはできないよ」

「だけど、こいつらマスコミはお前ぇをコケにしたんだぞ?そんな奴らを助ける義理はねぇだろうが?」

「まあ、いいじゃないか。
それとこれとは話は別だよ」
諒太は柔和な顔を見せた。

「俺は嘘を平気でつくマスゴミってやつが大嫌いなんだ。今日は帰るが、何かあったら俺んとこに連絡よこせよ諒太」

「ありがとう源さん」

源一は江江と陽を睨み付けると肩を怒らせて帰っていった。

「まあ、入りな」
諒太は二人を家に誘った。

25 訣別の空

「何か作ってやるからそこで座って待ってな」
諒太は二人に声を掛けると台所に一人立った。

江江と陽はキョロキョロと周りを見渡した。 あまりに何もない部屋の佇まいに二人は拍子抜けした。他に人の気配はないし、宗教関連の道具などどこにもない。贅沢な物など見当たらないし、そこにあるのは質素な古い民家に住む一人の男の姿のみである。

(やはりでっち上げの記事だったのね…)
江江と陽は目を合わせた。
しばらくするとちゃぶ台の上に見たことのない料理が運ばれてきた。

「スパムとゴーヤのソーミンチャンプルーだ。あんたたちの口に合うかどうかは保証はしないぞ」
諒太は苦笑しながら言った。

「真田さん、私たちのためにわざわざ作って頂いてありがとうこざいます」
江江は頭を下げた。

「構わないさ。どんな思想や考えを持っていたとしても人間は皆ひさしく腹が減るものだからな。ほら、彼もう我慢出来ないようだよ」

陽は目を輝かせ目の前の皿を見つめている。
「チーフ!真田さんにこれ食べていいか聞いてください」

江江は日本語に訳して諒太に聞いた。

「ああ、もちろんさ」
諒太はジェスチャーで食べる仕草をして見せた。
途端に陽は麺を勢いよくすすり始めた。

「美味い!美味いよチーフ!」

陽はこちらを見ている諒太に対して親指を立ててニコっと笑うと美味しそうに再び麺をすすりはじめた。

「彼、面白いね。さあ、江江さんも冷めないうちにどうぞ」
諒太は穏やかな顔で料理を勧めた。

「ありがとうございます」
江江も諒太の厚意に甘えることにした。

「とても美味しいです。陽もとても良い味だと言っています」

「よかったな…」
諒太は片手に麦茶の入ったグラスを手に取って静かに立ち上がると二人に背を向けて縁側に座った。
江江は庭を向く諒太の背中を見つめた。

(真田さんにとってあれだけ酷いことを書いたマスコミは憎い相手のはず…なのに家にまで上げてくれて御飯まで…)

江江はズバリと聞いた。
「真田さん、私にはとても貴方が報道されているような人物には思えません。今日話を聞いた島の人たちもなかなか私たちに口を開いてくれませんでしたが、貴方を悪く言う人は誰一人いませんでした。むしろ貴方に感謝しているという声ばかりでした。貴方はどうして何も話そうとしないのですか?」

しばらくの沈黙の後、諒太は口を開いた。

「俺が新興宗教の教祖だとか暴力運動家だとか報道されていることは耳にしている…
確かにそんな事は事実じゃない…

だけど…目の前で妻子を見殺しにしたってことは全く嘘ということではないんだ…」
諒太は右手に持つグラスに目を落とした。

「だけど、そうだったとしても捏造報道に関しては反論すべきじゃないでしょうか?」

「俺が余計な口を挟む事で世間に要らぬ誤解を与えたくはない…」

「要らぬ誤解? 真田さん…それはもしかして蔡志玲のことを言っているのではないですか?」

諒太は江江の質問に答えることはなく無言で空を見続けてた。
夜空には無数の星が瞬いている…

「こんばんは真田さん。中にいるのは竜男さん?」
暗がりの中、裏口から庭にまわり、花妹が縁側に座る諒太の目の前に現れた。

「あなた張花妹じゃない⁈」
江江は急に立ち上がると中国語で大きな声をあげた。花妹は居間から漏れる逆光の灯りのなか、しばらく江江の顔を目を細めて見ていたが、記憶が合致したのか驚いたように声を上げた。

「え⁈ 江江⁉︎」

二人は抱きつかんばかりに喜びを隠さなかった。

「知り合いなの?」
諒太は花妹に聞いた。

「はい!私たち台北放送大学の同級生なんです。お互い報道関係の仕事を目指して当時一緒に日本語学科のカリキュラムを勉強していたんです。私は卒業してから違う道に進んだけど、江江は台湾でも有名な報道キャスターになったんです。会うのはもう同窓会以来15年ぶり…」

「花妹あなたがどうしてここにいるの?」
江江は我に返って尋ねた。

「え⁈…わたしは… その…
江江こそどうして?」
花妹は江江から目線を逸らし質問を質問で返した。

「私は社命で真田さんの取材に来たの」

「真田さんの?」

「私は今、玉山通信という通信社でジャーナリストとして働いているんだけど、いまマスコミで真田さんについて報道されていることが事実なのかどうか確かめに来たの」

「なぜそんなことを?」

「我が社ではずっと台北東海公司の不正を追っているんだけど、今回の報道も裏で彼等の圧力があるんじゃないかというのがうちの編集長の見立なの。彼等を追い詰める何か糸口でもあればと思って真実を確かめにここに来たのよ」

花妹はしばらく口を噤んでいたが思い切ったように口を開いた。

「実は…わたし三年前から蔡志玲のマネージャーをしているの…
台北東海公司はいまや私たちの事務所の親会社…
志玲が台湾を離れ、ここ美波間島に来た理由も会社の横暴なやり方が原因なの…」

「花妹…あなたが志玲のマネージャーをしていたなんて…」
江江は驚きを隠せなかった。

「こんな場所で立ち話をしてないで中に入ったら? 今日はもうフェリーはないことだし、ここに泊まって部屋で話せばいい。15年ぶりに話すんでしょ?」
中国語で語り合う二人を諒太は家に誘った。

諒太は陽に一部屋と江江、花妹のために一部屋のふた部屋用意した。
江江と陽はせめてもと自分たちで食べた食器を洗うため台所に立った。
その間、花妹は諒太と二人で空き部屋に入り布団の準備を始めた。

「花妹さん…チーリンの具合はどうですか?」

「いま横になっています。
だいぶ精神的に疲れているみたい…
自分のせいで真田さんをはじめ島の皆さんに迷惑をかけてしまっているって自分を責めてろくに食事もとらずに…

それから…真田さんのいるこの家に戻りたいって…このところ口数も少なく落ち込んでる様子で…」
花妹は溜息まじりに肩を落とした。

モラルのかけらもないしつこいマスコミの目から逃れるためチーリンは花妹とともに清子オバーの家に移っているのだが、このところあまり体調が優れない日々が続いていた。
普段陽気なチーリンがそんな状態になっていることに諒太も胸が痛んだ。

「ねえ…真田さん、いま志玲を元気づけてあげられるのは他の誰でもない貴方だけしかいない。
きっと志玲はそれを望んでいると思う。
彼女、眠っている時もうなされるように貴方の名前を囁いているのよ…
諒太さん…諒太さん…って…
真田さん…きっと志玲は…
花妹は諒太の目を正面に見据えた。

「他に何か手伝いましょうか?」
諒太が口を開こうとしたと同時に陽が顔を出した。
諒太は陽の声に静かに立ち上がると陽の脇を抜け部屋から出て行った。

「真田さんどうしたんすか?
なんか思い詰めたような顔してましたけど?」
ぽかんとした表情で陽は花妹に聞いた。

「なんでもないわ…」
花妹は顔をそらせた。

その後、花妹と江江は夜を徹して膝を交え話し合った。最初はお互い懐かしさのあまり身の上話に盛り上がったが、夜も更けたころ、花妹は真剣な顔になって江江と向き合った。花妹は事務所が台北東海公司に買収されてからの実状を隠すことなく江江に語った。また江江はこれまで自らの取材で明らかになった社会に報道されていない台北東海公司の手段を選ばない遣り口について赤裸々に語った。そして話題はチーリンと諒太のことに及んだ。

「花妹、志玲が美波間島に来た理由はわかったわ。ここで真田さんに助けられたことも。真田さんはどうしてマスコミに反論しないのかしら?
彼、さっきは要らぬ誤解は与えたくないって言っていたけど…
このままだと真田さん自分の名誉を保つことができないじゃない?」

「江江…真田さんってああいう人なのよ…」
花妹は目を細め遠くを見つめた。

「え…?」

「いつも自分のことより周りの人のことを考えてる…自分の名誉なんてものに全然こだわっていないの…
今回のことだって女優としての志玲の立場を守ろうと何も語らず自らマスコミの矢面に立って捏造報道を甘んじて受けている…
そういう人なの真田さんは…」
続けて花妹は竜男とチーリンから聞いた美波間島に来るまでの諒太の半生を江江に語して聞かせた。

「真田さんにはそんなことが…」
江江はため息混じりに目を落とした。

「志玲はそんな真田さんとこの島で暮らすうちに人間にとって本当の幸せとは何かということに気づいたんだと思う…」

「人として本当の幸せ…か。
でも花妹、この先、志玲をどうするつもりなの?
このままって訳にはいかないでしょう?」

「志玲の気持ちを一番に考えてやりたいとは思うんだけど、このまま呂威社長が大人しく黙っているなんてあり得ない…わたしもこれからどうすべきか考えてあぐねていたの江江…」

「花妹、一度台湾に戻って私と一緒に闘ってくれない?
私もジャーナリストの端くれとして嘘がまかり通るこんな状況を許しておけない。様々なところで台北東海公司の不正は揉み消されている。
人々に真実を伝えることが志玲をそして真田さんを助けることになるはずよ。私が必ず呂威社長を追い詰めてみせる!」
江江は両手でしっかりと花妹の手を取った。

「わかった!」
花妹も力強く江江の手を握り返した。



  ー台北東海公司部長室ー

「上手くいきましたね黄部長」

「ああ。マスコミなんざスポンサー契約を打ち切ると脅してやれば何でも言うことをきく。君の妙案ぴたりとはまったな。まさかFake newsを垂れ流すとはな…考えたものだ。
事務所を買収し、徐の老いぼれを追い出して君を事務所社長に押した私の立場もなんとか保つことができたよ陳くん」

「ありがとうございます。なにせスキャンダルは蔡志玲の女優としてのイメージダウンにつながりますからね。
真田を悪役にすることで世論は一気に志玲に対して同情に傾きましたからね…」

「その通りだ。志玲は芸能部門の一番の稼ぎ頭であり、我が社の大事な商品だからな。それで志玲のその後の動きはどうなんだ?」

「説得の為、マネージャーの張花妹を送りましたが未だ動きはありません。話によると志玲は現在、真田の家からどこかほかへ移っているという情報が入っています。但し島から出たという報告はありません」

「志玲が台湾を出てからもう二カ月だ。とりあえず呂社長には現状を報告せねばならん。今までと同様マスコミは私が抑える。君は何かあれば逐一私に報告したまえ」

「はい」

「そういえば事務所に新しい女優の卵が入ったと聞いたぞ」

「李娜のことですね。さすが黄部長お耳が早い。
今年田舎から出てきた17歳の色白で綺麗な娘ですよ」

「それはそれは。早いうちに私の元に連れて来たまえ。それが女優として大成する早道だからな」
黄は脂ぎった顔でニヤリと笑った。

「部長もお好きですねぇ」
陳はいやらしく笑った。

「勘違いしてもらっては困るよ君。私が個人的に演技指導してやろうというんだ。ふふふ」

「黄部長自ら演技指導を?なるほど…それは熱が入りそうですね」

ハハハハ…
二人は豪快に笑った。

それから花妹は少しの間台湾に戻るとだけ諒太に告げ、チーリンには全ての事情を告げると江江、陽と共に美波間島を後にした。

翌日…
美波間島は朝から肌寒い陽気となった。 海から吹き込む風は冷たく、波は高まりこの日のフェリーの運航は全て欠航と決まった。
今日は海を渡って報道陣が来ることはない。
諒太は涼しいなか午前の仕事を終わらせ自宅に戻った。
居間に入ると、諒太が以前あげた紺のパーカーを着てチーリンが一人佇んでいた。チーリンが諒太の家に帰ってくるのは久しぶりのことである。
諒太の帰宅に気づいたチーリンは表情をぱっと明るくした。
しかし、諒太にはチーリンの姿は以前と比べ少しやつれたように感じた。

「諒太さん…」

一度は笑顔を見せたチーリンだが、諒太の顔を見るといまにも泣き出しそうな表情に変わった。

「チーリン … 久しぶりだね…
あ!そういえばこの間、さんご荘の比嘉さんからコロンビア産のコーヒーをわけてもらったんだ。何でも馴染みのお客さんからのお土産だって。今から淹れてあげるよ。コーヒー好きだろ?」
諒太はあえて暗い話題に触れないようにチーリンに背を向けて台所に立つとコーヒーを淹れ始めた。

「諒太さん…私のせいで迷惑かけてしまって…ごめんなさい…
島の皆さんにも…」
チーリンは諒太の後ろに立つと震える声で必死に言葉を繋いだ。

「迷惑だなんて思っちゃいない…
俺も島のみんなだって君の味方だよ…」
諒太はチーリンに心配かけまいと微笑した横顔を向けコーヒーを淹れる手を休めることなく背を向けたまま答えた。

「私… 私…」
チーリンは思い詰めたようにうつむいた。

「ほら、いい香りがしてきただろ?
俺はブラックが好きなんだ。
君はどうす…

その刹那…
チーリンは諒太の背中に抱きついた…

(チーリン…)
諒太はその手を止めた…

「台湾を離れて美波間島に来てからの日々…
私にとって毎日が宝物のように尊い時間だった…
優しい島のみんなと出会えたこと…
そして諒太さん…あなたに巡り合えたこと…
私は…あなたに出逢って変わったの…」

諒太は口を開くこともなく目の前の一点を見つめたまま振り返ることもせずに背中でチーリンの言葉を聞いた。

「私はここであなたと過ごした日々を想い出にしたくない…
女優を辞めてもいい…
名声もお金も財産も何もいらない…
これからもあなたとここで暮らせるのなら…
…何もいらない
あなたとふたりきり…ここで…

私…ずっと自分の気持ちに素直になれなかった…
でも…いまなら言える…
あの洞窟の中であなたの瞳を見たとき…はっきりわかったの…
自分の本当の気持ちに…

諒太さん…私は…
私は…あなたが好き…」

諒太は背中にチーリンの頰の温もりを感じた。


「チーリン…俺は…

諒太が自分の気持ちを伝えようと顔を上げ振り向こうとしたまさにその時であった。

バリバリバリ!
目の前の窓ガラスが震え、勢いよく砂埃が上がるのが見て取れた。
大きく木々が揺れ、尋常ではない轟音が響いた。
諒太が目を凝らして台所の窓から外を見ると砂埃の中、真っ黒に塗装されたヘリが超低空飛行で目の前を高速で横切っていった。
ドクターヘリや自衛隊のヘリではない。何故なら民家の上空をあんなに低空で飛行することなどありえないからだ。

そして時間を置かずけたたましく電話のベルが鳴り響いた。
電話に近いチーリンは廊下に走った。

「瞳さん⁈」
チーリンが電話に出るとその雰囲気にただ事ではない空気を感じとった。
「もしもしチーリンさん⁈
今すぐそこから出て諒太さんとどこかに隠れて!
あいつらが! あいつらがやって来たの! 早く!早くそこから逃げて!
ーーー
嫌ッ!離して!
そこで瞳の電話が切れた。

「瞳ちゃんがどうかしたの⁈」

チーリンは諒太の言葉に答えることもなく勢いよく家の外に出ると一気に駆けだした。
諒太もチーリンの後を追って駆けた。
チーリンの向かった役場のヘリポートには先程の黒いヘリが着陸していた。ローターはゆっくりと回り、まだエンジンはかかったままだ。

「チーリンさん来ちゃだめ‼︎」
ヘリの傍らで瞳が大きな男に押さえられながら必死に叫んでいた。

「瞳さんを離して!」
勢いよく走り込んだチーリンの体を別の男が押さえた。

「離して!」
チーリンは必死で抵抗したが男の力に敵うはずもなかった。

「お前ら!」
チーリンの後に走り込んだ諒太の前に体重150kgはありそうなまるで関取を思わせる巨漢が立ちはだかった。

「フッ、サナダ…お前のほうから来るとはな。手間が省けたぜ」
巨漢男は片言の日本語で不敵に笑った。男は刺青の入ったスキンヘッドの頭に真っ黒なサングラスをかけていて表情を読み解くことができない。

諒太は周囲を見渡した。
瞳を押さえる大男はソフトモヒカンの頭にサングラスをかけ、まるで泥棒のようなひげを蓄えていた。この男も身長が190センチをはるかに超えていると思われるほどの大男で、胸板が厚くガッチリとした体型はまるでレスラーのようである。
そしてチーリンを力ずくで押さえる男は金髪をオールバックにした白人であった。この男も同様に黒いサングラスをかけ、背格好は諒太とさほど変わらないが、諒太はこの男の纏う雰囲気に常人とは異なるただならぬ空気を感じとった。三人全てがご丁寧に上下黒のスーツを纏い、黒のタイにシャツと靴まで真っ黒とまるで葬列にでも参加するかのような風体であった。

建物の陰には村役場のパート職員の我那覇道子と宮里志乃が恐怖に慄いた表情で身を小さくしていた。
男性職員の砂川はどこかに出かけているようで見当たらない。

この連中がヘリで台湾から無許可で国境を越えて侵入してきたことは疑いようがなかった。

「嫌!離して!」
男に捕らわれている瞳とチーリンは男の腕を解こうと必死に抵抗している。

「彼女たちを離せ!」
諒太は巨漢男に向かっていった。
諒太も182センチの身長があり、決して小さいわけではないのだが、巨漢男を前にするとまるで大人に向かう中学生のように見える。

「おっと。あまりしゃしゃり出ない方がいいぜサナダ。呂社長は会社の所有物である蔡志玲をお前に断りもなく利用されていることに大変ご立腹だ」
巨漢男はヘリのほうに目線を送った。そういえばよく見ると先程から操縦席のパイロットの横でサングラスにヘッドセットを付けた男がニヤニヤしながらこちらを見ている。

(あの男が呂威社長…なのか? )
諒太はこのような乱暴なことをする呂威のやり方に憤慨した。

「ふざけるな!チーリンは会社の所有物なんかじゃない!」
諒太は怒りで拳を握り巨漢男に近づいていった。

「それ以上近づくなサナダ!」
巨漢男は瞳を押さえる男に目配せをした。

「離してよ!」
瞳を押さえるモヒカン男の太い腕が背後からまるでアナコンダのように瞳のか細い首に巻きついていた。

クッ…
諒太は唇を噛んだ。

「諒太さん!私のことはいいからチーリンさんを助けて‼︎」
瞳は首を締め上げられながら絶叫した。

「黙れ女‼︎」
モヒカン男がその太い腕で更に瞳の首を締め上げた。瞳は苦しそうに身動きひとつ取れないでいる。

「よせ! 乱暴なことはするな!」

「おい、俺たちだってなるべくことを荒立てることはしたくねぇんだ。お前がこのまま大人しく蔡志玲を引き渡せば呂社長はこの島の開発計画を白紙に戻してもいいと仰っている。どうするサナダ?」
巨漢男は諒太の目の前で不敵な笑みを浮かべた。

(な…に…?
島の開発から手を引くだと…)
諒太の目が一瞬泳いだ。
諒太の中で様々な思いが交錯した。

「そんな男の言葉を信じないで!
諒太さんチーリンさんを行かせてはダメー!」

懸命な瞳の言葉にも諒太の体が動くことはなかった…
チーリンは金髪白人男に押さえられながらヘリの大きなエンジン音にかき消されてもなお必死に諒太の名前を叫び続けている。

「時間切れだサナダ。こんな場所にいつまでもいたくないからな」

嫌がるチーリンを金髪白人男は力ずくでヘリに押し込めた。
諒太はその光景をただ呆然と見ていた。

「腰抜けめ!」
巨漢男は諒太の胸をついた。
勢いで諒太は後ろに倒れて尻もちをついた。
巨漢男は地面に唾を吐き、モヒカン男は瞳を乱暴につき飛ばすと二人はヘリに乗り込んだ。
そして無情にもチーリンを乗せた黒いヘリは砂埃を舞い上げ上昇していく。

「諒太さんどうして…」
瞳は涙を流しながらその場にへたれこんだ。

「諒太さん!諒太さん!」
チーリンはヘリの窓にへばりつきながら諒太の名前を叫び続けた。

ヘリはさらに高度を上げていく…

紀藤医師と一緒に大絆の出産を手伝った分校…
アントニーとマイケル親子がキャッチボールをした校庭…
源一たち漁師たちと楽しい時間を過ごした居酒屋海人…
食材を買い出しに行った国吉商店…
厩舎で汗をかき、諒太と一緒に馬を走らせた津嘉山の牧場…
諒太と大きなおにぎりを頬張り、ラムネを飲んだ海の展望台…
サトウキビ畑…
漁港…
島にやってきて最初に降り立ったフェリーの波止場…
諒太と釣りをした防波堤…
みうを助けた白く美しい砂浜…

そして…二ヵ月余りを過ごした諒太の家…
懐かしい風景がどんどん小さくなっていく…

いつしか風景は海が見えるだけとなり、島の姿は視界から消えた…

(諒太さん…)
チーリンは窓に頭をもたれながら涙で滲んで見えるコバルトブルー色の海を気が抜けたようにただ見つめ続けた…

諒太は呆然とチーリンを乗せたヘリが飛び去った後の空を見つめた。いつしか曇天の空からは小雨が降り出していた。

美波間島の長い夏は終わろうとしていた…

26 約束の場所

グラスが空になった…
何杯飲んでも酔うことが出来ない。

「寛子さんおかわりください」

「真田さん、もうそのへんにしといたら? 飲み過ぎると身体に毒だからあと一杯だけよ」

寛子はキッチンの中から顔だけ出して諒太を心配した。
海人のテーブル席で一人諒太は冷えた泡盛をあおっていた。
他に客はいない。
寛子が諒太の座るテーブルにおかわりの泡盛を運んでくると同時に店の扉が開いた。

「いらっしゃい。
あら、竜男さん久しぶりね。
まぁ…瞳ちゃんまで一緒?」

諒太はチラッと背後の二人に視線を送ったが、直ぐに寛子が持っているトレイから泡盛のグラスを勝手に手に取るとまたあおりはじめた。

「昼の一件、話は聞いたぞ。お前、チーリンさんが連れ去られるのを指をくわえて見ていたそうだな?」
竜男は諒太の背中に向かって声を浴びせた。

「お前に何がわかるって言うんだ竜男…」
諒太はグラスに残った泡盛を一気に喉に流し込んだ。

「お前はそうやって一人でやさぐれてりゃいい。
だけど今この時、チーリンさんがどんな気持ちでいるのか考えているのか?」

「そんなこと…関係ないだろ…
寛子さんもう一杯…」

「くぬ、ぼってかすーが!」
(この大馬鹿野郎!)
諒太が空のグラスを上げた瞬間、竜男は諒太の胸ぐらを掴むと頰の辺りをめがけていきなり拳を振り抜いた。
大きな音を立ててテーブルやその上にあった食器を巻き込みながら諒太はもんどりうって倒れた。
体は小さいが、普段から揺れる漁船に乗っている竜男の強靭な下半身から繰り出された拳は酒の入った諒太を吹き飛ばすには充分な威力であった。

「お兄ちゃん‼︎」
瞳はびっくりして大きな声を上げた。
竜男はなおも仰向けに倒れる諒太に馬乗りになり胸ぐらを掴んで床に叩きつけた。

「お前は… お前は…」

「やめてお兄ちゃん‼︎
諒太さん、あいつらにチーリンさんから手を引けば島の開発を止めるって言われたのよ!」

「ふざけるな!女ひとり守ることが出来ない奴が何が島だ⁈
お前は何様のつもりだ!
自惚れんじゃねぇ‼︎」

諒太は生気のない目をしながら竜男のされるがままであった。

「お前に見捨てられたチーリンさんはどんな気持ちだったと思っているんだ!
どんな想いでここを…
くっ…

関係ないだと⁈
俺の知ってる真田諒太はどこに行っちまったんだ⁈
お前はそこまで堕ちてしまったのかよ!

…馬鹿野郎」

諒太の顎に何かが落ちた
それは竜男の涙であった
竜男は泣いていた…

「お兄ちゃん…」

諒太は竜男の顔をまともに見る事が出来なかった。

「行くぞ瞳…」
竜男は拳で頰に流れた涙を拭きながら店を出ていった。
その竜男の流された涙の意味は20年という時の流れに変わり果ててしまったかつてライバルとして激闘を繰り広げた真田諒太と名乗っていた男の〈死〉をいまこの場で目の当たりにした瞬間にあったのかもしれない…

「諒太さん…」
瞳も仰向けのまま呆然と天井を見上げる諒太に視線を送りつつ悲しい表情をしながら兄の後を追った。

諒太は重そうに体を起こすと寛子に呟くように声をかけた。

「ごめん寛子さん…また弁償するから」

「そんなこと気にしなくていいから今日は帰って休んだほうがいいわよ真田さん」
寛子の言葉に首を縦に振り諒太は海人を後にした。

何も目に入らず、何も聞こえず、匂いすら感じず、どこをどうやって歩いたのかさえ記憶もなく諒太は脚を引きずるように重い足取りで自宅に帰った。
家の中は静まり返って物音ひとつ聞こえない。
電気も付けず諒太は家の中を彷徨い歩いた。薄暗い台所には昼間チーリンに淹れてあげたコーヒーがそのまま手付かずに残ったままだ。
諒太はチーリンがまだいるような気がしてチーリンが使用していた部屋を覗いた。

「諒太さんおかえりなさい!」

チーリンの笑顔とそんな明るい声をどこかで期待していたのかもしれない…

しかし、暗い部屋にはチーリンの姿はなく、わずかな荷物とチーリンの残り香が微かに残るのみであった。

この家…こんなに広かったっけ…
諒太は茫然と立ち尽くした…

静寂に耐えかねたのか自室に入り棚から一枚のLPジャケットを取り出した。
それを古いレコードプレーヤーに置き、針を落とした。このレコードプレーヤーもレコードもこの古民家の前の所有者が置いていったもので、諒太は廃棄することもなくそのまま使っていた。
諒太が選曲した音楽は75年にヒットしたエリック・カルメンの
「オール・バイ・マイセルフ」
だった。
諒太が誕生するより遥か前にヒットした曲で、その後何度も有名歌手によってカバーされている名曲であった。まさに今の諒太の心中を代弁するかのようなメロディーである。
家の中に音楽が流れるなか諒太は居間に入ると独り縁側に腰を下ろした。

元の暮らしに戻っただけじゃないか…

諒太は心の内で強がってみせたが、
8年前…独り取り残されたあの漆黒の闇のなかにいるようなとてつもない孤独が再び襲ってくるのだった。

これでいいんだ…これで…
島の開発も止まる。
チーリンには台湾に帰れば待ってくれているファンが大勢いる。
俺みたいなしがない男の元で暮らすより故郷に帰れば彼女にとって遥かに大きな幸せが待っているじゃないか…

そうだよ…これでよかったんだ…

……

そうなのか?…
本当にそうなのか…?
違う!それは違うだろ‼︎
そんなの都合よく理由をつけているだけじゃないか!

ズキリと竜男に殴られた頰が痛んだ…
諒太の耳に海人での竜男の涙ながらの声が再び蘇った。

「お前に見捨てられたチーリンさんはどんな気持ちだったと思っているんだ!
どんな想いでここを…」

確かに島から手を引くという奴らの言葉に動揺したのもある…

だけど…
本当は俺にはチーリンの真っ直ぐな想いを受け止めるだけの自信がなかっただけなんだ…

竜男の言う通り…俺は堕ちてしまった救いようの無い男なんだ…
震災から8年…何も変わっていない…

あの時のチーリンの目…
引き波にさらわれた時の絵美の目と同じ目をしていた…

俺は何も出来なかった…
いや…何もしなかったんだ…

チーリンは最後まで俺を信じて助けを求めていたじゃないか?…

それなのに…

それなのに…

俺は…彼女を見捨てたんだ…

俺は…また同じ過ちを…

俺は最低だ…


昼間の雨は上がり、雲の間からは宝石のような星々が煌めいている。
今の諒太には美しい夜空を見上げることすら無意味なものに変わっていた。
セルゲイ・ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番を基に作られたメロディーは美しいピアノの旋律を奏でながら悲しく暗い空間に響き渡っていた…
諒太の五体は沈黙と闇の中に漂流した。

この日を境に家の門扉は固く閉ざされ、何人も諒太に会うことも連絡をとることもできなくなった。



ー台北 玉山通信ー

「キャップ何故なんですか!」

キャップの王重林は自分のデスクの椅子にどかりと座り腕を組んだまま目を閉じて動こうとしなかった。

「キャップの見立て通り真田さんの記事は完全な捏造でした。これには台北東海公司の圧力があったのは間違いないことです!
私たちが真実の報道をしない限り真田さんの名誉回復も蔡志玲の真の自由もありえないんですよ!」

江江と陽は美波間島から戻り経緯を説明するためキャップのデスクの前に立っていた。
江江から全てのことを聞いて尚、王は記事にすることを止めた。

「江江、残念だが今回も機を逸してしまったようだ」

「どういうことです?」

「これを見てくれ」
王は一枚の用紙を机に置いて二人に見せた。

「そんな…」
内容を見た江江と陽は顔を見合わせた。

「つい先程、台北東海公司芸能部から報道各社に送られてきたものだ。
明日には新聞、テレビで報道され大騒ぎになるだろう」

見出しに速報と書かれた文章にはこのように記載されていた。

【先般 弊社 呂威代表取締役自ら沖縄美波間島に乗り込み、新興宗教教祖である真田諒太氏の元で洗脳監禁状態にあった弊社所属俳優の蔡志玲の救出に成功した。
志玲に怪我などはなく、今後、芸能活動復帰を目指してしばらくの間、精神的ケアを含む検査療養のため入院が必要となる見通し。尚、真田諒太氏については会社として今後社会的制裁含め賠償を求償する予定】

「馬鹿な!真田さんは志玲を助けた恩人ですよ!こんなの無茶苦茶だ‼︎」
カメラマンの陽も憤り机を叩いて大きな声を上げた。

「キャップ!真実は一つしかありません!やはり私たちは本当のことを報道すべきです!」
江江も怒りが収まらなかった。

「江江、気持ちはわかるが時期が悪すぎる…
今、マスコミによる捏造記事のせいで真田諒太は悪者、蔡志玲は被害者という構図が完全に出来上がってしまっている。そこへこの記事だ。
大衆はよくぞ真田の毒牙から自ら危険を顧みず先頭に立って志玲を救ってくれたと呂威社長が賞賛され英雄視されるのは火を見るより明らかだ。今、うちがいくら真実は違うといったところでおそらく志玲が帰ってきたという熱気に押し潰されてしまうだろう。

江江、陽くん、美波間島での君たちの取材記事は必ず日の目を見せてやる。だがそれには台北東海公司を追い詰めるネタを掴んでからだ」
王は腕を組んだまま椅子を回転させ二人に背を向け溜息を吐くと再び目を閉じた。

(ごめんなさい…花妹…)
江江は肩を落とし唇を噛んだ。

そのチーリンのマネージャーである張花妹は事務所で社長の陳に美波間島でのチーリンの実情を必死に訴えた。しかし陳には歯牙にも掛けられず、マネージャーとして結果を出せなかった花妹に対して出社にはおよばず命令のあるまで自宅待機の命令が下された。

翌日、王の予想通りチーリン帰還の報に台湾のみならず中国、日本をはじめ世界中が大騒ぎになった。
呂威社長の勇気ある行動はチーリンのファンのみならず国内外から賞賛され、マスコミ各社も彼をリーダーとして決断力があり、行動力もそなえる稀代の英雄として報じた。
普段から呂威を快く思わない層も彼を批判する声を出しづらい状況に追いやられていった。
そしてマスコミが注目するこのタイミングで台北東海公司広報部は改めて真田諒太ら島の運動家のありもしない工事妨害工作を並び立てて批判するとともに、法に則った美波間島リゾートホテル開発の正当性を説いた。
結果的にこの一件を機に会社を率いるリーダーとしての呂威社長に対する人気が高まり、台北東海公司の株価は大幅に上昇した。

一方、数日経っても諒太は家にこもったまま出てくる気配はなかった。
諒太を心配した多くの島民が家を訪れたが、門扉は固く閉ざされたままで雨戸までも閉めきられ、誰も諒太の顔を見ることが叶わなかった。
外から声をかけても一切返事はなく、家は静まり返り、庭にある花壇の花の周囲の雑草は伸び放題になっていた。

諒太の心は8年前と同様に再び閉ざされてしまっていた…


チーリンはヘリで連れ戻されてからというもの、台北東海公司傘下のホテルの特別室に軟禁状態となっていた。これは一般人やマスコミの目からチーリンを遠ざけるための処置であった。しかもチーリンが所有するスマートフォンをはじめとする通信機器は全て通信制限がかけられた同社所有のものと取り替えられ、外部との連絡は一切出来ない状況に置かれた。更に監視員による24時間監視がつけられ、チーリンの自由は完全に奪われた。
数日が過ぎた頃、チーリンは台北東海公司本社社長室に出頭を命じられた。当然チーリンの意思など加味されることのない監視員に連行される形の強制出頭である。

「社長、蔡志玲様をお連れしました」
二人の女性監視員は間にチーリンを挟む形で呂威の前に現れた。

「御苦労。下がっていいぞ」
呂威は顎をしゃくった。
呂威はいつものように本社最上階にある広い社長室で一人自らの執務机の椅子に踏ん反り返り新聞を広げていた。

「フフフ…株というのは面白いねぇ…
まるで生き物のようじゃないか?
このところ我が社の株価もうなぎのぼりだ。
こういうのを災い転じて福となすとでも言うのかな?
これも君と真田くんのお陰だよ。
二人には僕も社長として感謝しなくてはいけないねぇ…」
呂威はこの時はじめて経済新聞から目を離し狐のようなつり上がった細い目をチーリンに向けた。

「何が感謝よ」
机を間に挟みチーリンは目の前に対峙する呂威を屹と睨みつけた。

「おいおい、そんなに睨まないでくれよ。僕は君のためを思って行動を起こしたまでなんだからねぇ…」

「ふざけないで!
貴方のしていることは横暴な独裁者そのものじゃないの!」

「独裁者ねぇ…ひどい事を言ってくれるじゃないか志玲。
僕は独裁者なんかじゃないよ。
フフ。僕はいつだって公平さ…
信じられないのなら君にいい事を教えてあげる。
君を美波間島から連れ帰る時、僕は真田くんにある提案をしたんだ」

「えっ?」
チーリンは思わず身を乗り出した。

「気になるかい志玲? フフフ…
あの時、僕は真田くんに蔡志玲から手を引いて大人しくこちらに渡せば島の開発工事を白紙に戻すと言ったんだよ」

「何ですって⁈…」
チーリンの顔から血の気が引いていった。

「結果は君も承知の通りだ。真田くんは大人しく君を渡してくれたよ。
どうだい?彼に選択肢を与えた僕は寛大で公平な人間だろう?
それにしても人の心ってものは面白いねぇ…
今どんな気分かな志玲?
なんたって信じていた男に裏切られたんだからなぁ…
これで人なんてものは信じられないってことがわかっただろ?ハハハ」
呂威は満面の笑みを浮かべた。

呂威の言葉を聞いたチーリンの頰にまるで朝露が葉を流れ落ちていくように涙が流れた…

「そうか悲しいか?
そうだろう。そうだろう。
それとも真田くんに裏切られての悔し涙かなそれは?」

「可哀想な人…」
チーリンは流れた涙を拭うこともせずに独り言のように呟いた。

「なるほど。蔡志玲ほどの大女優を袖にした真田くんを憐れんでいるんだな?
まあ、気持ちはわかるよ」

「いいえ…可哀想なのは貴方…
お金の魔力に取り憑かれて人を信じることが出来ない…
世の中で信じられるのは唯一お金だけ…
貴方には貴方のことを本気で心配してくれる友と呼べる人はいるのかしら?
貴方を本気で愛してくれる人はいるのかしら?

私のこの涙は悲しいからでも悔しいからでもない…
私が美波間島に行ったばかりに静かに暮らしていた諒太さんを巻き込んでしまって申し訳ない気持ちで流れた涙よ…
それに…私は…それでも諒太さんを信じている…」

「くだらない。何が愛だ?
馬鹿馬鹿しい!そんなもので腹の足しになるものか。僕は偽善者が何かと言えば口にするそんなまやかしを信じるほど楽天家ではない。
それから僕が調べさせたところによると君が信じている真田諒太はいまだ家に閉じこもったまま出てこないそうだ。
もしかしたらもう首でもつって死んでいるのかもしれないよ。フッ」
呂威は鼻で笑った。

「貴方には人を愛する心なんてこれからもずっとわからないのでしょうね…
それから…貴方はひとつ勘違いしている…真田諒太という人はそんな弱い人じゃない… 見くびらないで」

「君ほど成功した女性があの貧乏百姓のどこがいいのか僕にはまったく理解できないね。
まあ、君が僕のことをどう思おうと勝手だが、こうなった以上、君には今まで通り僕の下で働いてもらうよ。
もちろん会社の広告塔としてね。
ハハハハ」
広い社長室の空間に呂威の高笑いが
響き渡った。

「わかりました…
私に異存はありません…
社長の言う通りにします…
そのかわり…約束通り美波間島から手を引いてください」
チーリンは悲しい顔でうつむきながらそう言うと呂威に一礼し部屋を出ていった。

「フンッ」
呂威は鼻で悪態をつくと脚を机の上に投げ出しチーリンを目で追った。

隣室の秘書室でこの様子をモニターで見ていた呂威の腹心で芸能担当部長の黄が入ってきた。

「黄くん、引き続き志玲には監視をつけておくように」

「ハッ! それにしても今回の社長のお手際の良さには驚きました。まさかヘリを飛ばしてご自身で志玲を連れ帰るとは… とても私には思いも及ばぬことでありました」

「フフ…君はまだ甘いな。欲しいものがあるのなら手段を選ばず力づくで奪うくらいの気概がなければリーダーにはなれないよ黄くん」

「はい。勉強になります。それはそうと本当に社長は美波間島の開発工事から手を引かれるおつもりなんですか?」

「僕は白紙に戻してもいいと言ったまでだ。
白紙に戻った紙にはまたどんなことでも書けるではないか。
違うかね?」
呂威は黄を見上げてニヤリと笑った。

「それでは志玲との約束を反故にする事になりますが?」

「だから君は甘いというんだ。
そもそも莫大な利益を生みだす美波間島の開発事業と女一人ごときが同じ天秤にかかるはずがあるまい。
志玲には今後最後の血の一滴まで稼いでもらう。
その上で利用出来なくなった時は棄てる。彼女の替えはいくらでもいる。それだけのことだ」

「なるほど!さすが社長ですな」

「世論も味方につけることも出来た。これで我が社も大手を振って事業が出来るというものだ。
僕はマネーの力で必ず世界を制覇してみせる」
呂威は蛇のように舌舐めずりをしてみせた。

「はい!私も一生お供致します」

社長室に二人の高笑いが響いた。


その日の夜、チーリンは監視員の車に乗せられ自宅に帰ることが許された。台北市の中心部にあるセレブのみが住むことの許された高級タワーマンションの最上階にチーリンの部屋はあった。実に三ヵ月ぶりの帰宅である。チーリンは誰もいない暗く静まり返った我が家に入った。

(三ヵ月前まではこれが普通だった。なのに…今感じるこの寂しさはなんなの…)

北欧製の高級ソファーも、大型プラズマテレビもフカフカのベッドもウォークインクローゼットにかかる多くのブランド物の服も、色とりどりの輝くジュエリーも今のチーリンにとってそれらを見ても何の感慨も湧かなかった。
使い慣れた部屋の風景
その全てが色褪せて見える…

30畳にも及ぶ広いリビングにチーリンは一人ぼっちで取り残されたような孤独を感じていた。

いまチーリンの脳裏に浮かぶのは…
虫の声…
庭の緑の匂い…
白い砂浜に打ち寄せる波の音…
星々が耀く美しい星空…
丸いちゃぶ台…
島の料理…
あたたかな居間の風景…

そしてそこには諒太がいる…
意識したわけでもないのに瞳に涙が溢れた。
チーリンはたまらなくなってベランダに出た。

成功したものだけが見ることのできる高層階からの景色…
涙で滲む台北の街の灯が遠い先まで光り輝いていた。その灯のひとつひとつに人々の家庭があり、あたたかな生活がある。その眩いばかりの光に反比例するかのようにチーリンの心は寒く凍えていた。

諒太さん…もう独りで苦しまないで…
あなたの選択は間違っていない…
あなたは島を守ったのよ…
私があなたの立場でも同じ答えを出したはず…
あなたに平穏な生活が戻るなら
私はそのことが一番嬉しい…

ヒートアイランドの生温い夜風がチーリンの髪を撫でていく。

だけど…どうして…?
どうしてこんなに苦しいの?…

こんなに苦しいのなら…
いっそ出逢わなければ良かったというの…?


逢いたい…島の皆んなに…
帰りたい…美波間島に…
帰りたい…あのあたたかい家に…

逢いたい…
諒太さんに…

私の願いはたったひとつだけ…
逢いたい…諒太さんに…

もう一度だけ…

「諒太さん…」

チーリンは諒太からもらったパーカーを強く胸に抱きしめた。

チーリンの瞳からはとめどなく涙が流れ落ちていた…

台北の夜空には街の光が反射して美波間島で見たような美しい星空を見ることは出来なかった…
海を挟んで僅か120㎞の距離がチーリンの中ではもう永遠に交わることのない無限の距離に思えるのだった。



その美波間島では…
虚ろな目をした諒太が右へ左へ定まらない足取りでまるで夢遊病者のように裸足のまま足を進めていた。
諒太の向かう先は諒太自身、いや殆どの人がいまだかつて訪れたことのない約束の場所…

青白く妖しげな光を放つ満月が夜空に浮かぶ夜のことであった…

27 月光

27  月光

漁から帰った竜男は自宅で夕食を済ませ晩酌をしていた。
その竜男を千鶴と瞳が囲んでいた。

「お兄ちゃん…このままじゃ諒太さんが…」

「そうよ竜っちゃん、瞳ちゃんの言う通りよ。諒太さんの家、窓も戸も全て閉じられたままなのよ。
竜っちゃん何とかならないの?」

千鶴も瞳も諒太が家に引きこもってから心配で毎日のように様子を見に出かけていたのが、一向にらちが明かなかった。

竜男はいかにも不機嫌そうな表情になるとボソっと答えた。

「ほっておけ」
竜男の答えは千鶴と瞳の期待を裏切る誠につれないものであった。

「でも…」
瞳はうつむいた。

「あいつは臥竜なのさ…天を見上げることさえ忘れてしまった…」

「何?その がりょうって?」
聞いたことのない言葉に千鶴が首を傾げた。

「臥竜っていうのは天に昇る龍のことだ。ただし、その能力があるのに動かずに地上に伏したままのな」

「お兄ちゃん…その龍は飛び方を忘れてしまったの?…
それとも飛ぶことが出来るのに飛ばないだけなの?」

「さあな…どうだろう…
だが、一生天に戻ることも忘れて空を飛ぶこともなく地上で朽ち果ててしまうこともあるのかもしれない…」

「竜っちゃんは諒太さんがこのまま朽ち果ててしまうこともあると思っているの?」

「ああ…」

「それじゃあ…あんまりじゃない…」
瞳は唇を真一文字に結んだ。

「これはあいつ自身が乗り越えなくてはならないことなんだ。
諒太の心の傷は俺が思っていたより深い。
あいつは今、飛ぶことが出来ずにもがいている。
震災で多くの大切なものを亡くし、さらに目の前からチーリンさんが居なくなって孤独という鎖に雁字搦めになってな…
その暗いトンネルから抜け出す方法はあいつ自ら出口を見つけるほかないんだ…
もし、このまま出口を見つけ出せずに朽ち果てるのなら…
その時は…
あいつはそれだけの男だったということなのさ。
俺たちが安易に慰めることはかえってあいつの邪魔になるだけだ」
竜男は苦い顔で手にしていたタンブラーのビールを一気に飲み干した。

(お願い…龍のように天空に駆け上がって諒太さん…)
瞳は心の中で祈った。


静寂のなか、諒太は絶望という名の真っ暗な海で一人溺れ必死にもがいていた。
雨戸まで閉め切った光の入らない暗い部屋の中で仰向けになったまま生気のない目を薄っすらと開いて茫然と天井を眺めていた。
時間の感覚もなくなり、今が昼なのか夜なのかさえ判断が出来なくなっていた。
腹も減らず、喉の乾きもない。もはやどうでもいいという感情が支配し、呼吸をすることさえ面倒と感じた。
元々無精髭はあった諒太だが、あの日から全く手入れもされず伸び放題になっていた。着ている衣服も一度も変えられることもなく、それは酷い惨状であった。知らない人が見たら空き家に勝手に入り込んだホームレスに見えるかもしれない。

このままいなくなってしまいたい…

諒太の心は太陽の光も届かない冷たい深海の底に沈んでいるかのようであった。

諒太はこのところ意識のある世界と無意識の世界を行き来するような感覚を覚えていた。
言い換えるなら、眠りに落ちる間際の状態にも似た夢うつつの状態である。

ある時、一筋の細い光がわずかな雨戸のすき間から横になっている諒太の体に差し込んだ。

(夜明け…か…)

諒太は呻き声を上げなから重そうに体を起こすと雨戸を少しばかり開いてみた。
諒太が陽の光とばかり思っていたその光の正体は月の光であった。
普段より何倍も大きく見える月は満月で青白い光を放ち、夜空を昼間のように照らしだしていた。

うぅ…
これが現実なのか夢なのかもわからないまま、まるでゾンビのような唸り声を発し、諒太は居間からそのまま裸足のまま庭に出た。
それから、ふらふらした足取りで諒太は歩き始めた。どのくらい歩いただろう…この時、本人の意思が介在していたかどうかはわからない。
何かに導かれていたという他は説明のしようがないのである。
途中一人の島民とも行きあうこともなく、妖しく青白い光を放つ月夜のなか、諒太はとうとう島の東の果てにたどり着いた。
ジャングルのような鬱蒼とした自生するフクギの林を抜け、さらに進むと巨大なガジュマルの樹が迎える場所に突き当たった。周囲には月に照らされ、夜間にしか咲かない幻の花と言われる淡いピンク色をしたサガリバナがまるで線香花火のような可憐な姿を見せている。更にその先には見上げるほどの巨石がお互いを支え合うように寄りかかり、その間を人ひとりがギリギリ通ることの出来る隙間を形成していた。
その巨石に挟まれた迷路のような細い通路を下っていくと一気に眺望が開け、小さな渚が現れた。

わずか畳六畳ほどの小さな渚の砂浜の砂は月の青い光に反射してキラキラと銀色に輝き、穏やかな波が打ち寄せていた。

そう…
ここは観光客はおろか島民ですら決して入ることが許されない場所…
案内板もなく、島民ですらはっきりとした場所を知る者の少ない伝説の地。
言伝えでは遥か昔、遠い海の彼方よりこの渚に壺が流れついたたという。その壺の中には五穀の種が入っていて、その種子がこの地域の農耕の始まりになったという伝説が残されている。

「ネシキ浜」と呼ばれるこの地はそれ以降、島で最も神聖な場所とされ、最高の聖域として信仰の対象として大切に守られている。
島の伝聞ではこの小さな砂浜は巷でスーパームーンと呼ばれる超満月の干潮の夜に姿を現し、普段は海に没しているという…
そして今宵はその超満月の日にあたる。
潮が引き、水位が浅くなるため、船では近づくことが出来ず、外海からは決して見ることが出来ない。今夜のような満月の夜の干潮で渚が現れる時に陸側からのみ立ち入ることが出来ると言われている。
唯一この場所に入ることが許さているのは、この神聖な渚を護るため神職を務める竜男の祖父、勝男オジーただ一人である。その勝男オジーも数年前に脳梗塞で倒れてからというもの容易に外出がかなわなくなり、それ以降、誰一人としてこの地に立ち入ったものはいない…
誰も入ったことがない場所ゆえ、現在は勝男オジーを除き、実際に自分の目でこの渚を見たものは一人もおらず、島民にとってこの渚の存在はまさに神話の世界の中のものであった。
諒太も島の定めを知らぬ訳ではなかったが、罪の意識もなく、全く無意識のうちにいつの間にかこの光り輝く砂浜に立っていたのだ。

ー何かの力に導かれるように…

蒼く幻想的に輝く海は遠く水平線まではっきりと視認することができる。
諒太は魂を奪われたかのように夜空に浮かぶ白い月の光を反射して蒼く光る海の彼方に目を奪われていた。
すると、目の前にいきなり白いものが舞い降りてきた。

…雪?
まさか⁈

沖縄本島では真冬にみぞれのような雪が観測されることが稀にあるが、ここ美波間島は本島から南西に600kmも離れているのである。
この島で雪が降ることなど考えられず、しかも今は冬でもない。
しかし、諒太の目の前にひらひらと降りおちるものは紛れも無く雪であった。
だが、不思議なことに空を覆う雪雲などどこにもなく、粉雪のような白く細かい雪は音もなくどこからとも知れず天空の夜空からただ静かに舞い落ちてくるのであった。

こんな馬鹿なことが…
諒太が降り落ちる雪を前に混乱していると海の方がぼんやりと明るく光り出した。
そしてその光はゆっくりと海上で球体に形を変えていった。
人工的に作られた光りとは明らかに異なるあたたかく柔らかな光りは諒太を優しく包み込んでいった。
諒太は眩い光に手をかざし光りの中心に目を凝らした。

あなた…
パパー

そこに現れたのは石巻で諒太の目の前で津波で流されたはずの妻 絵美と愛娘 愛の姿であった…
さながらキリストを胸に抱く聖母のような凛とした姿で二人は諒太の前に現れた…
二人は柔らかい笑みを浮かべ諒太を見つめていた…
歳をとることもなく8年前の姿そのままで…

絵美‼︎ 愛‼︎

諒太は叫び声を上げた

お前たち…
生きて…
生きていたのか…?

諒太は目に涙を浮かべ、すがるように一歩、二歩、前に進んだ…

絵美は微笑みながら首を横に振った

そんな…
だってここに…

残念だけど…私と愛はもうあなたと同じ世界にはいないの…

絵美 …
俺は…俺は…
ずっと…お前たちのことを…

俺があの時…お前の手を離さなければ…

いいえ…あなたは懸命に私たちを助けようとしてくれた…
誰もあなたを責めることはできないわ…
これも天の定め…
仕方のないことなのよ…

あなたはまだ一人で苦しんでいるのね…


俺は…お前たちを失ってからずっと独りぼっちだった…
諒太は涙を流した

辛かったわね…
あなたを一人にしてしまってごめんなさい…

でも…あなたはもう独りではないでしょう?
それはあなた自身よくわかっているはずよ…
あなたは8年前のままじゃない…
私と愛はあの日からずっとあなたを見守ってきたのよ…

あの…あの洞窟で俺の背中を押してくれたのはお前たちだったのか…?

絵美は笑みを絶やさずにうなずいた

俺も…
俺もそっちに連れて行ってくれ!

いいえ…あなたがここに来るのはまだずっと先のこと…

膝をついた諒太は嗚咽して涙を流した

ママ…パパ泣いているの?

母の絵美の胸に抱かれた愛が無邪気に尋ねた

いいえ…愛 パパは泣いてなんかいないわ… 強い人だもの…
人は迷い悩むほど強くなるものなのよ…

あなた…短い間だったけど、私も愛もあなたと歩んだ時間を忘れない…
あなたは私たちにたくさんの愛情を注いでくれた…

とても幸せでした…

そして…あなたの命が尽きるまで私も愛も生き続けているのよ…

あなたの心の中で…

私も愛も今とても幸せにしています…

さあ、立ち上がって
未来に向かって…
私も愛も遠い海の彼方からあなたの幸せを祈ってます…

光りは次第に小さくなっていった

パパー バイバイ〜

愛が絵美の胸に抱かれながら無邪気に笑顔で手を振っていた…
絵美は優しく微笑み諒太に最後の別れの言葉を告げた…

待って! 行かないで!
行かないでくれ‼︎
諒太は腰まで海に浸かり追いすがったが、とうとう目の前から光は消滅した。

絵美ー‼︎
愛ー‼︎

諒太はそのまま気が遠くなっていった…



裸足の足に波がかかった…
打ち寄せるさざ波の音が聞こえる…
気がつくと諒太は仰向けで砂浜に大の字に寝ていた
夜空には変わらず幻想的な青白い月が浮かんでいる…

夢…? だったのか?…
俺は幻を見ていたのか…?

その時…ひらひらと舞い降りた最後の雪の華の結晶が諒太の頰に落ちた。
雪はすぐに諒太の頰の体温で溶けると水に変わって流れ落ちた。

…冷たい

夢じゃない…
これは現実だ…

絵美…愛…

本当にあったんだな…
ニライカナイは…

そうだよ…
石巻の海も…
美波間島の海も…
海はひとつだもんな…

海は…
ひとつだ…

辿り着いたんだな…お前たち…

天上の夜空を見つめる諒太の目からはとめどなく涙が流れていた…

そして諒太の耳には絵美が最後の別れ際に言った言葉がはっきりと残っていた…

『取り戻して… 誇りを』

…という言葉を


諒太は立ち上がった…
明日に向かって…

それは海の水に漂うように月の光の帯が揺れる夜のことだった…


 ー台北ー

遂に社命が下り、チーリンの芸能活動復帰が決定した。
しばらくイベントやテレビなど一般大衆の前に出る仕事は控え、当面は関係者のみで収録が出来る台北東海公司傘下企業のCM撮影と映画撮影に限っての復帰である。
チーリンが会社側に出した唯一の条件は、張花妹を自らのマネージャー職に復職させることだけだった。
他に会社側が提示した条件は全てのんだ。
それにはそうせざるを得ない理由があったからだ。

チーリン復帰に際してファンや世間、マスコミの注目は高かった。
所属事務所には二ヵ月間に及ぶ失踪の理由と救出されるまでのチーリンが置かれた状況に関して説明を求める声が上がり、報道各社からは本人による記者会見を開くことを要求された。それを受け事務所側の見解は、本人が大勢の人の前に立つ事はまだ時期早々であり、監禁状態が続いたため、精神面の不安が残るとして記者会見については一切拒絶した。
だが、それは生放送の記者会見でチーリンの勝手な言動を警戒した事務所側の詭弁であった。
更に本社黄 芸能担当部長の命を受けた事務所はチーリンに対し、もし、美波間島での一件を公にするようなことがあれば直ちに真田諒太に対しチーリンの拉致監禁の刑事訴追と休業補償を含む損害賠償請求を実行すると脅しをかけたのだ。

囚われの籠の鳥と同じチーリンに最早選択肢はなかったのである。

そして案の定、呂威の約束は守られることはなく、美波間島の港には大型運搬船が着岸し、大量の建設資材が搬入された。
数日のうちには珊瑚が生育する海を埋め立てる基礎工事が始まる見込みとなっていた。
当然チーリンにこのことが知らされることはなかった。


「こんばんは瞳ちゃん、竜男はいるかい?」

「えっ…⁈ 諒太さん?…なの?」

瞳は諒太の顔を見るなり後ずさった。瞳の見知ったいつもの諒太の顔ではなかったからだ。
髭は綺麗に剃られ、さっぱりした表情には生気がみなぎっていたからだ。以前にも増して精悍な顔には何か吹っ切れたように口元には微笑をたたえている。
瞳は未だかつて一度もこんな諒太を見たことがなかった。

夜も更け、瞳が玄関の扉を閉めようとしたタイミングで突然諒太が現れたのだ。
瞳は驚きの表情で諒太の顔を凝視しながら兄のいるダイニングへ誘った。千鶴が娘の唯を寝かしつけ眠りについた頃、竜男はまだダイニングテーブルで一人晩酌をしていた。

「お兄ちゃん! 諒太さんが!」

竜男は入り口に背中を向けたまま烏賊をつまみに飲んでいた。

「竜男…頼みがある」
諒太は一人静かに飲んでいる竜男の背中に向かって声をかけた。

「何だ?」
竜男は振り返ることもせずにぶっきらぼうに答えた。

「船を出してもらいたい」

「船だと?船を出してどこへいく?」

「台湾…」

「台湾に行って何をする?」

「取り戻す」

「何を?」

「誇りを…」

「誇り?…だと?」
この時はじめて竜男は振り返り諒太の顔を見た。

「お前…」
竜男は諒太の目の奥ににかつて武道館で闘った時の力強い光を見てとった。
竜男は勢いよく立ち上がると諒太を見上げて言い放った。

「いいだろう。但し条件がある」



夜空には月が浮かび、雲の間からはまるで昼のように月光が地上を青く照らし出していた。
波の音が聞こえるほかは何も邪魔な音がない。
満月から半月に向かって月の形が変化するこの夜、二人は海岸の砂浜に向かい合い立っていた。
離れたお互いの顔の表情がわかるほど月の光は遠く海岸線の果てまで明るく照らし出していた。

「どうしてもやるのか?」

「ああ!やる!
諒太、俺がどれだけこの日が来るのを待っていたと思っている?」

「お前も物好きな奴だな…」

「うるさい!早く取れ!」

砂浜には竜男が家から持ってきたありったけの竹刀が突き刺さしてある。

二人は防具もつけず砂から竹刀を引き抜くと蹲踞の姿勢で相手の目を射るように見据えた。
そして…呼吸を整えゆっくりと立ち上がると周囲の空気が震えるような腹の底からの咆哮を気合いとともにはきだした。

鋭‼︎ 応‼︎

正眼に構える姿勢はあの日と同じ…二人とも変わらない。
裸足の足の裏には柔らかな砂の感触がそのまま伝わってくる。
諒太と竜男はぐっと腰を落とすと、いつでも相手の懐にとびこめるように引いている左足の親指を砂にしっかりと噛ませた。

審判もいなければ観客も応援団もいない…
邪魔なものなどなにもない広い砂浜には月光に浮かび上がる二人の剣士の姿しかなかった。

月明かりのなか、静かに中段に構える二人の間に一陣の風が通った瞬間、二人はほぼ同時に左足を蹴って踏み込んだ。

二十年の時を超えて二つの魂は空中で激突した…

28 明日へかける虹

バキ‼︎

最後の竹刀が折れたー。
両者の激しい打ち合いで竜男が家から持ってきた合計8本の竹刀は全て折れるか修復不能になるまでバラバラに砕けた。
二人の月夜の下での闘いは実に一晩に渡って行われたのである。
東の空は白々と明るくなり始めていた。

二人は同時に手にしている折れた竹刀を砂浜に放った。
竜男はその場に勢いよく座ると豪快に笑い出した。

「ハハハハハハッ」

それを見て諒太もその場に座るとつられるように笑った。

「フフフ、ハハハハハハ」

二人の目の前には何事も無かったように広大な海から白い砂浜に穏やかな波が打ち寄せていた。

相打ち数知れず…だが、両者これだけの時間、剣を交えたのに決定的な有効打を奪うことが出来なかった。
諒太の両腕は竜男の激しい小手打ちにより紫色に腫れ、数多くのミミズ腫れが出来ていた。
一方の竜男は諒太の面打ちで額の周囲が赤く腫れあがり、一部裂傷し前頭部から流れた血が潮風で乾きはじめていた。
防具も装着しないで剣を交えたのにこれだけの負傷で済んだのは、打撃の際にギリギリのところで寸止めをする技量がこの二人にあったればこそで、扱う得物が竹刀とはいえ、剣の未熟者が同じことをした場合、下手をすると大怪我をする危険性がある。

「結局…勝負つかずか…」
竜男は清々しい顔で呟いた。

「まあ、いいじゃないか」
諒太も正面の海を見ながら爽やかな表情で呟いた。

「ああ!」
竜男は嬉しかった。
待ち望んでいた二十年来の念願が叶ったこと。
そして一番はあのかつてのライバル真田諒太が帰ってきたことが…

諒太もまた、竜男に打ち込まれた箇所の痛みより何とも言えない清々しさが心を支配していた。

「諒太…お前の『誇り』を取り戻す仕事、俺にも手伝わせてくれ」

「ありがとう竜男」
諒太はにこっと笑った。

「見ろ!諒太!夜が明ける」
竜男は雲の間から水平線に昇る太陽を見ながら目を細めた。

諒太は立ち上がると力強い口調で言った。

「いや、もう夜は明けている」

「行くか諒太」

「頼む。だが、その前に勝男さんに会わせてもらえないか?」

「オジーに?」


竜男の祖父勝男は数年前、脳梗塞を患い半身不随となってしまい、以来海に出ることが出来ずに現在竜男の家の奥の部屋でほぼ寝たきりになっている。
勝男の面倒は竜男の妻千鶴と瞳が交代で診ていた。
諒太は無断で神域のネシキ浜に立ち入ってしまったことを神職を務める勝男にどうしても謝りたかったのだ。

勝男オジーは早朝であるのにもかかわらず既に電動ベッドを引き起こし目覚めていた。
竜男に連れられ部屋に入った諒太に対し勝男オジーは動く左手で手招きをすると竜男に一旦部屋を出るように指示をした。
何も知らない竜男は怪訝そうな表情をしながら部屋を退出した。
諒太が美波間島にやってきた時にはオジーは既に病床の中であったため、挨拶を交わしたことはあっても親しく会話を交わしたことは一度もない。
オジーはかろうじて呂律が回る口でベッド脇に立つ諒太に言葉をかけた。

「真田諒太…
お主…光をみたのであろう?」

「勝男さんどうしてそれを⁈」
諒太はまだ何も話していないのにオジーに心の中を見透かされたようで驚きのあまり声を上げた。

「お主の体から光が発散しておる。

わしもまた光を見たことがあるのじゃよ」

「えっ⁈ 勝男さんもあの光を?」

オジーは目を細め懐かしそうに語り始めた。

「あれは今からおよそ25年も前のことになるか…
あの日はまだ夏の暑さが残る蒸し暑い日であったと記憶しておる。
わしはまだ日も昇らぬうちから漁をするため一人船を出した。当時、わしのもとで修行中の源一は前日、ハブクラゲに刺されて腕に怪我を負っていてな、その日は一人きりで海に出たのじゃ。
じゃが、その日は網を流してもさっぱりでな、その日に限ってわしは漁果を焦るあまりに船の舵を普段なら行かない外沖へと向けてしまっていた。運が悪い時は何をやっても上手くいかん。急に船のエンジンが止まってしまったのじゃ。原因はわからぬ。わしは洋上で出来うる限りの修理を施したが、まるで動く様子はない。同時に電源も落ちたために命綱の無線機も死んでしまった。
今のようにGPSなんて物もない。
その場所がどこなのかさえ分からず、わしは大海原に漂流してしまったのじゃ。夕方には帰る予定であったから、船には僅かな水と食糧しか積んでなかった。きっとすぐに誰かが見つけてくれる…その時はそう思っていた。じゃが、2日、3日経っても飛行機はおろか船一隻見ることはなかった。見えるのは見渡すばかりの水平線だけであった。
やがて水も食べ物も底をついた。
夜が来ると闇の中じゃ。月や星が出ていればいいのじゃが、空が雲に覆われると目の前にかざした自分の手のひらすら見ることができないほどの漆黒の闇の世界に変わった。
一週間、二週間経っても状況は変わらなかった。わしは雨水を貯めては飲み、船に飛び込んできたトビウオを食らって命を繋いでいた。
嵐の日などまるで洗濯機の中に放り込まれたようでな、あちこちぶつけて酷い目にあったわ。
木の葉のように揉まれたわしの木造船などいつ転覆してもおかしくなかった。
誰にも発見されず、わしはこれまでかと諦めかけていた。いよいよ死を覚悟したわしはその夜、月明かりの下で遺書を書き始めた。
まさにその時であった。
突然海が明るく光り出したのじゃ。
やがてわしはその光に包まれた。
それは何とも優しくあたたかな光であった。光りの中には一年前に交通事故で亡くなった娘の多江子の姿があった。多江子は優しく微笑みながらこう言った。
『お父さん、竜男と瞳をよろしくお願いします… 』とな。
わしはそのまま気が遠くなるように眠ってしまっていた。

あれは夢であったのかの?
その時はそう思った。
翌朝、目が覚めるとパナマ船籍の貨物船に救助されていた。
その後、連絡を受けた海保の船に曳航されわしのひと月に渡る漂流生活に終わりがきたのじゃ。
わしが発見されたのは美波間島から遥か離れた小笠原諸島の海域であったそうだ。

光の話をするのはお主が初めてじゃ」

勝男オジーは一つ二つ咳をすると自らの手をじっと見つめた。

「わしは思った…
娘はわしにまだ死んではならぬと言いたいがため姿を現したのではないかと…

わしは娘に…そして海に生かされたのじゃ…
真田諒太よ、人というものは決して己の意思のみにて生きているのではないぞ。
悠久のころより我らに限りない恵みを与えてくださる天地万物と自分を取り囲む人と人の繋がりによってその命は生かされておるのじゃ。

よいか、ニライカナイは神話でも幻想でもない。
現世において命を終えて尚、遠く海の先にあって、人と人とを結ぶ強い絆と愛が形を変えた魂の故郷だということを忘れてはならぬ。

…お主ならわかるな?」

「はい」

諒太の返事に満足したようにオジーは優しい笑みを見せると諒太に竜男を呼ぶように指示をした。

「竜男よ、今日より真田諒太をネシキ浜を守護する神職になってもらうことにした」

「なんだって!諒太を神職に⁈」
竜男の中では島で最高の聖域を護る神職というものは美波間島で生まれ、美波間島で育ったもののみがその権利を有すると思っていただけにオジーの言葉は驚きであった。

「お前も知っておろう…
ネシキ浜はニライカナイに繋がる海を祀っておる。
神職となる者は海の試練に耐え、海から愛された者しかなることができぬ。わしもまた先代からこの職を受け継げたのは海の試練に耐えぬいたからなのじゃ。
そういう意味ではこの男こそその職に相応しいのじゃ。
家族や仲間を海に奪われてもそれでも海を敬仰し続けているのじゃからな。
お前は今後こやつを助け、共に美波間のちゅら海を守るのじゃ。
さすればわしもようやく肩の荷を下ろすことができるというものじゃ。
これでいつ旅立っても悔いはないわい」

「オジー…」
竜男は満足げに笑みを浮かべる穏やかなオジーの顔を見てオジーの決意に納得した。

「オジー…実はこれから諒太と一緒に船で台湾に渡るつもりなんだ。
だけど…入国許可は受けていない…
万が一捕まった場合、しばらく帰ってこれんかもしれん…」

「ほう…台湾とな…
じゃが理由は聞くまい。
これも天の御導きであろうことゆえな…
…竜男、ならばわしの船を使え」

「え⁈ オジーの船を⁈」

「お前が心配するように密入国で捕まればまさか命まで取られることにはならんだろうが、しばらく身柄は拘束され、最悪船は没収されるかもしれぬ。
お前はこれからも漁師を続けるのであろう?
であれば自分の船がなくなっては困るではないか。

わしはあの船と長年に渡り苦楽を共にしてきたのじゃ。最後の航海をお前たちに任せたい。
あの古い船が一隻なくなったところでどうということはあるまいて。
それにわしの船にはツキがある故な」

勝男オジーは遠い眼差しで窓の外を見つめるとつぶやいた。
「あれにも最後の花道を飾ってもらいたいのじゃ…
竜男、これはわしからの最後の頼みでもある」

「オジー…」
竜男は目を潤ませた。

「さあ、行くがよい真田諒太よ…
お主の行く先には必ず海の御加護があるはずじゃ」

「勝男さんありがとうございます」
諒太は深々と頭を下げた。

部屋の外には瞳の姿があった。

「諒太さん…行くのね?」

「うん…。
忘れ物を取りに行ってくるよ」

瞳は優しく微笑みながら言った…
「諒太さん…私…いつかこんな日が来ると思ってた…
必ず想いを遂げて無事に帰ってきてね。
あと、これ使って!
その傷だらけの腕じゃ見栄えが悪いよ」

瞳は諒太の腕に残る紫色に変色したあざとミミズ腫れを心配して真紅のリストバンドを差し出した。
瞳のリストバンドは手首から肘まで覆う長いものである。

「何だ瞳?俺には無いのかよ?」
竜男がつまらなそうに聞いた」

「お兄ちゃんにはさっき絆創膏貼ってあげたでしょ! もう!いい歳をしてチャンバラごっこなんて子供みたい」

「ちぇっ…」
竜男は口を尖らせながら苦笑した。

「あとお兄ちゃんこれを。もしかしたら必要になるかもしれないでしょ?」
瞳は以前、福岡にいたときにつくったクレジットカードを竜男に差し出した。島で使うことはなく、ずっと引き出しに入っていたものだ。

「おう、悪りぃな」

「色々ありがとう。瞳ちゃん」
諒太は早速リストバンドを両腕に装着した。

「前から思ってたんだけど、どういう訳かお前、紅色が似合うよな。
なんでだろう…」
竜男は一人でぶつぶつ言いながら玄関に向かった。

「竜ちゃん!待って!待って!」
息を切らして千鶴が駆け込んできた。

「よかったぁー 間に合ったぁー
これ持っていって!急いで作ったから塩むすびしか出来なかったけど」

千鶴は竜男と諒太の分のおにぎりと水筒を差し出した。

「しっかり食べないと力出ないからね!」
千鶴はにこっと笑った。

「千鶴さんありがとう…
竜男を巻き込んでしまって本当に申し訳ない」
諒太は千鶴に頭を下げた。

「何言ってるの諒太さん!
困っている時はお互い助け合うのがこの島のゆいまーる精神じゃないの!
私は竜ちゃんも諒太さんも信じているんだから!
必ず帰ってきてね!私たち待ってるから」

「じゃあ、ちょこっとそこまで行ってくるわ」
竜男はまるで近くに散歩にでも出かけるかのように陽気に軽く右手をあげた。
竜男は竜男なりに千鶴や瞳に心配をかけまいとする気遣いがあるようだった。

「はい!行ってらっしゃい!」
千鶴は竜男の背中をパチンと叩いた。

諒太と竜男の背中を二人の姿が見えなくなるまで千鶴と瞳は見送った。

「今晩は御馳走を作って待ちましょう!」

「え?」

「竜ちゃんも諒太さんも必ず帰ってくるわよ瞳ちゃん。
…そしてチーリンさんもね」
千鶴はにこやかに言った。

「お義姉さん…」

「瞳ちゃんも手伝って!」

「はい!」

ふたりは顔を見合わせ笑顔で頷いた。


漁港では瞳から連絡を受けた拓巳が待っていた。

「真田さん、俺にも手伝わせてください!」

「ありがとう拓巳くん」
諒太は拓巳の肩に手を置いて頭を下げた。

「拓巳、わかっているとは思うが、今回の航海は無事に帰ってこれるという保証はない。その時は残ったお前一人で俺の船を操船して漁に出てもらうことになる。頼むぞ」

「わかってますよ竜男さん。俺だって何年も竜男さんの下で修行してきたんですから。任せて下さい!」

早速三人は船にかかるカーキ色の帆布を外しにかかった。
陸に上げられ実に7年…
それからこの船が一度も海に出たことはない。
諒太も初めて目にするレガシーとも言えるオジーの伝説の船が目の前に現れた。
木製の船体には真っ白なペンキが塗られ、喫水線より下の船底には鮮やかな赤の塗装が施されている。
そして諒太は船尾に書かれた船名を目にした。

『虹天丸』

と書かれたオジーの船はメンテナンスのため陸に上がった他の船の横にあって威風堂々とした姿で鎮座していた。

「天にかかる虹か…」
いかにも幸運に恵まれそうな船体を諒太は眩しそうに見上げた。
船は竜男と拓巳の息の合った作業でクレーンで海に降ろされた。

「俺急いで燃料入れるんで竜男さんは出航準備に専念して下さい!」
拓巳がクレーンの操縦席から身を乗り出して大きな声を上げた。

「おう!わかった!頼む!」
玉掛けを外し終わった竜男は操舵室に入り、操縦系統の確認と計器類のチェックを始めた。
しかし、しばらくすると竜男が青い顔をして甲板に出てきた。

「大変だ諒太…」

「どうした?」

「コンパス(羅針盤)が無いんだ…」

「それがどうした?」

「何ぃ?お前、船にコンパスが無いってことがどういうことかわかっているのか?」

「俺はお前の操船技術を信じている。もう俺たちの向かう未来に羅針盤など必要ないんだ。
そうだろ?竜男」

「お、おお…」
竜男は自信に満ちた諒太の顔に圧倒された。
(こいつめ…言いたいこと言いやがる)
しかし竜男は内心嬉しかった。

だが、問題はそう単純ではない。
船を動かすということは思っているほど簡単なことではないのだ。
竜男は子供のころオジーに乗せられこの船に乗ったことがあるが、自ら操船したことは一度もない。
竜男の船と違い、すべてがアナログの虹天丸にはレーダーもGPSも搭載していない。あるのは唯一無線機だけである。漁船というものは、魚の生息する水域、つまり漁場において活動する。漁師は毎日、海に出ても大方決まった漁場と港との往復で船を動かすのだ。つまり、漁船はヨットのように自由に外洋に出ることを目的とはしていない。故に美波間島の漁師の誰一人、最初から行くことを想定していない台湾領海海域の詳細な海図など持っていないのだ。海図がないということは、航路上の普段の潮や風の流れの向きや強さ、ましてや水深すらわからず、どこで隠れた岩礁に座礁するかもわからないのである。竜男はこれらの障害を全て乗り越えて海を渡らなければならないのであった。
さらに台湾に向かう海峡には世界有数の潮流、黒潮が待ち構えていた。


「燃料入りましたー!」
外から拓巳の元気な声が聞こえた。

「拓巳!バッテリー持ってきてくれ!」
竜男はがなった。

「了解です!」
拓巳は近接する漁協の物置に走った。

「諒太、あとはエンジンだ…」

エンジンがかからなければどうしようもない。竜男は緊張した面持ちで拓巳を待った。

直ぐにDCバッテリーを持った拓巳が船に飛び乗ってきた。
竜男はパネルを開きバッテリーを接続した。

「いくぞ…」

竜男は始動レバーを回した。

キュッ キュッ…

かからない。

もう一度レバーを回した。

今度はうんともすんともいわない。
何度やってもエンジンは始動しない。

「何故だ! どうしてかからない!」
竜男は船壁を拳で叩いた。
やることは全てやった。
しかし虹天丸の心臓が動くことはなかった…

駄目か…
沈黙の中、水の動きに船の軋む音だけが聞こえた…


「そんなやり方じゃ動かねぇよ!」
突然桟橋から大きな声が聞こえた。

「そうだよ!その船は何年も動いてないんだよ!
普通のやり方じゃ無理だ!」

そこにいたのは腕を組んでこちらを見守る源一と優しい笑顔の金城浩司の姿であった。

「源さん⁈ 浩司さん⁈」

諒太と竜男が驚いている間もなく、源一と浩司は身軽に船に飛び乗ると浩司は機関室の扉を開き潜り込んだ。
源一は竜男が立っている操舵室に入ってくると竜男をその場から追い退けた。

「俺と浩司は何年もこの船でオジーから鍛えられたんだ。汚れジミひとつの位置まで頭に入ってらぁ。
竜男、お前ぇとは年季が違うんだよ!」
そう言うと源一は二、三度自分の腕を叩いた。

「浩司!どうだ⁈」

「源さん!いいですよ!
回してください!」
機関室から浩司の声が聞こえた。

「よし!浩司いくぞ!」
源一はグローを入れレバーを回した。

キュッルル…
ドゥルドゥルドゥル …ドドドドッ
勢いよく黒煙が煙突から上がり、虹天丸のエンジンが7年の時を超えて息を吹き返し、ディーゼルの小刻みな振動が伝わってきた。それはまるで獰猛な闘牛の如く力強い唸りを上げているかのようであった。
浩司が手を真っ黒にして機関室から上がってきた。

「一体どうやって…?」
竜男は目を丸くして驚いていた。

「馬鹿野郎!ずっと陸(おか)に上がったままだったんだぞこの船は!キー回しただけで冷えたエンジンが簡単にかかる訳ねぇーだろ!」

「揮発性の高い濃い燃料をシリンダー内に手作業で直接噴霧してやったんだよ。一度かかれば後は問題ないはずだ」
浩司は首にかけたタオルでオイルで黒く汚れた手を拭きながら笑顔で答えた。

「そうか!」
竜男は合点がいったようだった。

「まったく最近の若いもんはデジタルだの自動制御だのにかぶれやがって船の本質を知りゃしねぇ!
オジーが現役だったら蹴飛ばされるところだぞ!」

「すまない…さすが源さんだ… ところでこの船にはコンパスが無いんだ。何か知らないか?」

「ああ…あれか…あれな… えーと」
源一は後ろ頭を掻いて竜男から顔を背けた。

「竜男くん、虹天丸のコンパスなら源さんが取り外して記念に家に飾ってあるよ」

「馬鹿野郎!浩司言うんじゃねぇ!」

「えぇー ‼︎どうするんだよ?」
竜男は源一を責めた。

「まさかこの船をまた動かすなんて思っちゃいなかったんだよ!これ使え…」
源一は腕時計を外して竜男に渡した。

「なんだい?これは?」
竜男は意味がわからずぽかんとしている。

「俺の腕時計には方位磁針がついてんだ」

「こんなオモチャを使えって?」

「うるせー馬鹿野郎! 2万もしたんだぞ!後でちゃんと返せよ!」

まあ、無いよりはマシか…
竜男は左の手首に巻きつけた。

「竜男!お前ぇは俺が鍛えた海のプロだ。プロのお前ぇが海でヘマすることがあったら俺が許さねぇぞ。
諒太を守ってちゃんとやってこい!」
源一は真剣な顔に戻り竜男にはっぱををかけた。

「諒太ぁ!お前ぇの想い、しっかりはたしてこの美波間島に必ず戻ってくんだぞ!
俺たちゃお前ぇの帰りを待ってんぞ!」

「そうだよ諒太くん。君には無事に帰ってきてもらわないと…
だって、まだ大絆の顔を見てもらってないんだから。大絆も亜矢子も一緒に君の帰りを待っているよ」

「真田さん…俺…自分が恥ずかしいです… この間はあなたに男としての誇りはないのかとか偉そうなこと言ってすみませんでした。
今日の真田さんすげーカッコいいです…俺、信じてますから。無事で帰ってきてくださいね」

源一、浩司、拓巳、それぞれが自分の言葉で諒太を励ましてくれる。
そして…竜男、千鶴、瞳、勝男オジー
誰一人として損得で動いているものなどいない。
諒太のために…
皆、諒太を信じて力を貸してくれているのだ。

そう…独りではない…
皆の想いに諒太は胸が熱くなった。

「行くぞ。諒太」
竜男はスロットルレバーを倒し、さらに汽笛を鳴らした。ディーゼルエンジンが唸り、徐々に船は岸壁を離れていく。
7年という時を経て舫を解かれた虹天丸は海を行く…
それは諒太の人生と重なるような復活の歩みであった…
見送る者に頭を下げると諒太は外海に顔を向けた。

目指すは人口200万人を超す大都市 台北…
曇天の空の下、遥かな水平線の先を目指し荒波の海へ二人の漢を乗せた虹天丸はついに出航した…

29 廻天の海

「そろそろ行きましょうか志玲?」
マネージャーの張花妹は心配した表情でソファーに座るチーリンに声をかけた。

「うん…わかった…」
チーリンは元気なく答えるとソファーから腰を上げた。
この日からチーリンの芸能活動が再開する。
時は無情にも進む。この世の誰一人として時間を戻すことなどできやしない…
そんなことはわかっている…
ただやり切れない気持ちだけがチーリンの心を支配していた。
エントランスには送迎のため既に監視員の車が待機しているはずだ。
花妹は横でチーリンを支えるように部屋を出た。


チーリンが住むマンションの出入口が見渡せる向かい側の路上の端に停めた車の中からチーリンを張り込む江江と陽代沫の姿がある。

「いいんすかチーフ?
キャップに許可もなく勝手に動いたりして?」

「あなた志玲を追えて嬉しかったんじゃなかったの?」

「それはそうなんすけど、最近の志玲の境遇があまりに可哀想で俺見ていて辛いんすよ…
あいつらのやり方酷すぎますよ…
それにチーフ、既に自宅に戻ってきた志玲を今更追ったところで何か新しいネタが出てくるんすか?」

「わからないわ…」

「なんだ…チーフのことだから何か確証があってのことだと思いましたよ」

「そんなものはないわ。
ねぇ?ジャーナリストとして大切なものは何?」

「自分の勘と足と確実な裏どりってとこっすっかね?」

「その通り。あなたもわかっているじゃない。
私は自分の勘に賭けてみたいの」

「わかりました。
じゃあ、俺もチーフの勘に賭けてみましょう。
あ!チーフ出て来ましたよ!」

マンションの出入口に停まっている窓に黒いスモークを貼ったバンにチーリンとマネージャーの張 花妹が乗り込んでいく姿が見える。

「追うわよ!」

「了解っす!」

江江と陽はチーリンの乗ったバンを追って車を出した。


ー美波間島沖海上50kmー

「このままの針路で西に進めばそのうち台湾の山並みが見えてくるはずだ」

竜男と諒太は操舵室の中で千鶴の作った塩むすびを頬張りながら正面の水平線の先を見据えた。
この日は薄く霞がかかり、晴れていればもう見えるはずの陸地がまだ見えない。虹天丸は舳先で波を切り裂き上下に揺れながら順調に航行していた。現在のところエンジンも快調に動いているし、目立ったトラブルもなく18ktの速度を保っている。
台湾周辺海域の詳細な海図がないため、竜男の考えた計画では正面に陸地が見えた段階で舵を右に切り、陸地と一定の距離を保ちながら北から回り込んで台北市を目指すというものだった。あまり陸地に近づきすぎると水深が浅くなり、見えない岩に座礁してしまう危険性があるためだ。既に船は台湾のEEZ内に入っていると思われる。この先いつどこで台湾海上警察(海警)に見つかるかもわからず、さらに黒潮の流れを計算しながらこの古い船で航行するのは海のプロの竜男にして骨の折れる仕事であった。
しかも虹天丸は竜男の船のような強力なエンジンを搭載していない。
速力も最大でせいぜい20kt(約40km)程度で黒潮の流れに逆らう往路ではさらに速力が落ちる。万が一海警に違法操業の不審船として追尾されてもこの船で足の速い海警の巡視船を振り切ることなどまず不可能であろう。
幸いこれまで周辺に船は一隻も見えなかった。だが、心配なのは虹天丸にはレーダーが無いためにこちらは目視による確認しか出来ないが、相手はレーダーでこちらを既に捉えている可能性があるのだ。
机上の計算ではこの速力で台北まで4時間強という長旅である。

竜男は片手で船舵を握りながら空いた手で水筒のお茶でおにぎりを流し込むとチラチラ見るように諒太に視線を送った。

「何だ?」

「いや…何でもない…」
竜男は何か言いたげな顔で口をつぐんだ。

「水臭いじゃないか、言えよ」
諒太は話を促した。

「うん…あのな…俺、なんていうか…前から瞳をお前の嫁さんに貰ってもらいたかったと思っていたんだ」
竜男は照れ臭さそうに目線をずらして言った。

「竜男…」

「いや!お前にはお前の人生があるし、瞳にもあいつの人生がある。これは親代りとしてやってきたあいつの兄貴としてのただの戯言だ!
今のは忘れてくれ!」

「竜男…瞳ちゃんは人の気持ちがわかる心の優しい素晴らしい女性だ。これから幸せを掴んできっといいお嫁さんになるはずだよ…
それに千鶴さんも唯もお前の家族は皆、暖かい。
家族を大切にしてやれよ。
それから竜男…お前の20年に渡る変わらぬ友情に感謝する。俺を美波間島に連れてきてくれたこと…本当に恩に着るよ。
今まで俺のために色々ありがとうな…」

「何だよおい、今生の別れみたいな言い方しやがって」

「見ろ!陸地が見えてきたぞ!」
諒太は言葉を誤魔化すように大きな声を張り上げた。
水平線上に浮かび上がるように台湾の山々が現れた。諒太は操舵室を出て船首甲板に立つと腕を組んで陸地を見据えた。

(馬鹿野郎…今更殊勝なこと言うんじゃねえよ。
やっぱ俺はお前には敵わねぇのかもしれねぇな…
俺はそれでも機動隊にいるまでは剣道を続けていたんだぜ。それなのに高校2年から竹刀を握っていないお前に勝てないどころか一本も取れなかったんだからな…
それにその体幹は何だ?
漁師でもないお前がこの揺れる船の上でまるでよろけもしない。
それも毎日畑で鍬を振っていた成果だというのか?
まったく…大した奴だよお前は…)
竜男は操舵室から諒太の背中を見つめ苦笑した。

虹天丸は波を切り裂きながら面舵に舵を切った。

チーリンの向かう先は台湾でも歴史が古く、由緒のある「台湾基督長廊教会」という台北市内にある大きなプロテスタント系の教会である。1800年代にスコットランド系イギリス人宣教師により造られた煉瓦造りの重厚な建物で、毎週日曜日には礼拝が行われている。
現在、牧師を務めるジョージ・スコット氏は格式高い教会に一般の人々にも気兼ねなく足を運んでもらおうと様々な催し事を企画するなど、常日頃から型にはまらない地域に開かれた教会を目指していた。
彼自身大変くだけた人柄で決して偉ぶらず、信者でなくとも周辺住民にスポーツの話や世間話のような話を彼の方から気さくに声をかけるなど台北市民から大変親しまれている人物であった。
そんな彼であるから、ミュージシャンのプロモーションビデオの撮影やドラマや映画の撮影にこの荘厳な教会を貸し出すことも厭わず、芸能活動も社会貢献の一環として理解を示していた。
今から三カ月程前、チーリンが台湾を飛び出す前にドラマの撮影が行われたのもこの教会であった。
この日、教会を貸し切り、台北東海公司のグループ会社であるブライダルジュエリー専門店のCM撮影が行われる予定となっていた。
チーリンはCMのモデルとして教会の控室で専属メイクにより清楚なメイクが施された。またスタイリストからこの日のためイタリアの一流デザイナーにより製作された純白のウェディングドレスを渡されその身を包んだ。
最後、チーリンはドレッサーの前で自らROSECOLORのripを塗り、おもむろに目線を上げると鏡に映る自分と目が合った。

(あなたは誰?)

ふいに鏡の中の花嫁姿の自分に問いかけられたような気がしてチーリンはたまらず目を伏せた…

国際法上 領海は12海里(およそ22km)
虹天丸はすでに台湾領海に入っている。港が近いと見え、大きな貨物船や漁船がひっきりなしに行き交う姿が見える。流石に船団で徒党を組んで航行していれば否応無く目につくだろうが、虹天丸のような漁船一隻、近くを航行していても誰も気にするものなどいなかった。船体に書かれた船名も漢字表記であるし、すれ違う船に搭乗する船員たちもまさかこんな古い漁船が国外から来たとは思っていないのかもしれない。
これがオジーの言うこの船の持っているツキのおかげなのであろうか…
虹天丸は幸運なことに一度も巡視船に遭遇することもなくここまで無事にたどり着くことができた。
左舷遠方には台北市を流れる大河 淡水河 の河口が見てとれる。
目標地点まではもう少しである。

諒太は操舵室に入り竜男に声をかけた。

「上陸した後のことなんだが…」

「ああ!わかってるって!
チーリンさんの居場所のことだろ?
花妹さん、自分の携帯を使ってSNSに毎日写真をアップしているんだ。花妹さんが島にいた時、俺に教えてくれたのさ。花妹さんが撮った台湾の写真を見せてもらったりしてな。あの日一緒に飲んだ酒は美味かったよなぁ…
流石にチーリンさんの行動予定まで載ってはないが、恐らく花妹さんはチーリンさんと一緒にいるだろう。写真があればある程度場所は絞れるはずだ。チーリンさん自身のSNSはずっと更新されていなかったが、会社も花妹さん個人所有の携帯まで気が回らなかったみたいだな。
これがさっき台北から入る電波を受信して見ることが出来た今日花妹さんが撮った写真だ」

竜男が手にするスマホの画面には煉瓦造りの大きな教会が写っていた。
画面を拡大すると教会周辺の交通標識の看板には台北市の文字も見える。台北市内の大きな教会ということで間違いはないと竜男は踏んだ。

「諒太、お前の創ったスマホってやつはこんなに役に立つんだぞ。
上陸したらこの教会を目指して行こう」
竜男はにこりと笑った。

「そうじゃないんだ竜男…
俺はチーリンのところへは行かない…」

「何だと⁈
お前は何をしに台湾に来たというんだ⁈ チーリンさんを連れ帰るために来たんだろうが⁉︎」

諒太の答えに竜男は怒りを露わに声を荒げた。

「じゃあ、お前は一体どこに行くつもりでここまで来たんだ⁉︎
ちゃんと答えろ諒太!」

「結果で答えを出すいうことでは駄目か?」

「何を言っているのかさっぱり分からん!
俺にわかるように言え!」

竜男の激しい詰問に諒太は無言で答えた。

「諒太ぁ‼︎」
竜男は諒太の胸ぐらを掴んで睨みつけた。

「俺が目指す先は台北東海公司本社。
呂威社長のところだ。一人で行く」

竜男の顔色が変わった…

「馬鹿かお前は! 奴らは目的のためなら手段など選ばない連中なんだぞ!そんなところへ一人でのこのこ出て行ったらどんなことになるかわからないお前じゃないだろうが⁉︎」

諒太は言葉を発することもなく真っ直ぐに竜男の視線に目を合わせた。

「お前…まさか…
まさか呂威と刺し違えるつもりなんじゃないだろうな?」

「物騒なことを言うな。俺は話をしにいくだけだよ。お前は俺を買いかぶり過ぎている」

「嘘だ!お前は嘘を言っているな⁈
お前の目を見れば判る!お前のその目は命を懸けて捨身になっている男の目だ!」

「わかってくれ竜男…」

「嫌だ!俺が船を出したのはそんなことのためじゃない!」
竜男は顔を背けた。

「頼む…俺は行かなければならない」

「嫌だ!お前を一人でなんて行かせないぞ俺は!」

「聞いてくれ竜男」

「嫌だ!たった一人でそんな所へ行って勝算などあるわけないだろう⁈」

「ああ…恐らくないだろうな…
だが、かつて、俺の剣の師 塚田先生はこう言葉をかけてくださったことがあるんだ…
たとえ空が暗い雲に覆われていても厚い雲の上には青空が…蒼天が広がっていると…
この世に男として生を受けた以上、たとえ負けるとわかっているとしても立ち向かわなければならない時がある…
背を向ければそこで全てが終わる。
だが、僅か1パーセントでも勝つ可能性があるのならそこに全力を尽くすことで不可能が可能になることもあるんじゃないのか?…
今がまさにその時なんだ」

「それはそうかもしれんが、お前、何か策はあるのか?」

「ない。正面から堂々と行く」

「それはあまりに無謀だ!
ならば俺も一緒に行くぞ諒太!」

「いや、駄目だ。これは俺の、俺自身の『誇り』をかけた闘いなんだ。
なあ竜男…俺はこう思うんだ…
命を懸けてでも守るべきものがあるとするならそれは自分自身の『誇り』だと思うんだ。
俺は美波間島でそれがやっとわかったんだよ。
無駄なことだ。無謀なことだ。勝てるわけない。
死んでしまったら何になる?
ああ…俺もそう思うよ。
思いあがっていると俺のこと笑ってくれてもいい。
だけどな、俺はそれでも自分の気持ちに正直に生きたい。
馬鹿な奴だと思ってくれてもいい。
それでも行きたいんだ…
頼む…俺を止めないでくれ。
俺は俺自身の『誇り』を取り戻すために行くんだ。
これだけはどうしても譲れないものなんだ…
わかってくれ…」

「諒太…」
竜男は目に涙を浮かべ諒太の瞳をじっと見つめた。

「わかった…
だけど必ず帰ってこいよ…
一緒に美波間島に帰るんだ…
いいか、GPSの無いこの船での夜間航行は不可能だ。どうしても暗くなるまでには島に帰らなけばならない。
台湾を発つリミットは15時。
絶対にこの時間までには船に戻るんだぞ」

「了解した。
竜男、もう一つだけお前に頼みがある…
頼まれてくれるか?」

「どうやら今日はこの教会で何か撮影があるようすねチーフ?」

教会の正面が見える路上に停車した江江と陽は目立たないよう周囲の様子を伺った。
教会周りには何台ものトラックやワンボックス車が停まり、作業員たちが撮影機材や足場などを運びこんだりと慌ただしく動いているのが見える。
出入口の扉の前には教会の警備員とチーリンたちをここまで連れてきた女性監視員が張り付き周囲を警戒している姿が見える。
流石に教会の中に入ることまでは不可能のようである。
江江たちはこの場所で車の中から張り込むことを余儀なくされた。

その後、竜男の操船する虹天丸は淡水河が海に流れ込む陸の突端に位置する観光名所の情人橋という美しい吊り橋が架かる大きな漁港に入港した。
稀ではあるが、外洋が嵐で荒れていたり、船の不具合などで他の港に所属する漁船が緊急回避的に入港することもないではない。しかし、その際には統括する管区と港を管理する漁協に連絡を入れるのが筋であるが、竜男はそのような手続きを一切踏まず空いている桟橋に強引に船をつけた。
事がばれた時はその時。こうなればもはや運任せである。ここまで誰にも見つからずに来れただけでも幸運といえよう。諒太と竜男は船から勢いよく飛び降り台湾の大地を踏んだ。二人にとって初めての台湾である。
近接する港には一般旅客フェリーターミナルが見える。ターミナルがあるということはきっと何らしらの交通手段があるはずである。ここから台北市街地まで30㎞弱。二人はターミナルに向かって駆け出した。

教会の中には撮影のためのセットが組まれ、アシスタントによるカメラリハーサルが行われていた。監督からは大きな声で照明やカメラ位置の確認など細かい指示がとんでいた。
チーリンの相手役の新郎のモデルも白いタキシードを着て既に椅子に座って待機している。
しばらくして花妹に付き添われウェディングドレス姿のチーリンも現場に入っていった。

ターミナルビルの周りではタクシーが数台客待ちをしている。
竜男と諒太は先頭のタクシーに乗り込むと運転手に行き先を告げた。
しかし案の定、日本語が通じるわけもなく、運転手は両手を広げて解らないとジェスチャーを返した。
そこで諒太はメモに「台北東海公司本社」と漢字で書いて運転手に見せることにした。
タクシーの運転手もこの港からこんなラフな格好をした外国人を台北市の大企業まで乗せた経験がないようで少し驚いた顔で二人を見たが、指で丸をつくり理解したと諒太に意思表示した。
移動中の車内で竜男は諒太に言葉をかける事が出来なかった。かける言葉が見つからなかったのである。
諒太は台湾の流れる風景を車内から眺めている。
それはまるで少年のような目であった。
諒太からは全く悲壮感などというものは感じられない。それだけに竜男の心の内も複雑であった。
これを最期に二度と会えなくなるかもしれない…
そう思うと竜男は諒太に顔を向けることすら辛かったのである。

大きな渋滞もなく順調に走ってきたタクシーはやがて高層ビルが立ち並ぶ市街地へと入った。歩道には多くのサラリーマンやOLが行き交う姿が見える。数多くの外資系企業の入るオフィスビルや店舗が並ぶエリアを抜け、タクシーは港から一時間もかからず台北市のビジネス街の中心部にある台北東海公司本社ビル前に到着した。
運転手はビルを指差し何やら喋り出した。どうやらここが正面エントランスだと言っているらしい。

諒太は竜男に顔を向けると言った。

「竜男、後のことは頼む」

竜男は体をシートに預け俯いたまま腕を組み目を閉じていた。
開いたドアから諒太は出ていく…

「諒太ぁ‼︎」
竜男は思わず大声を張り上げた。

振り返った諒太に竜男は掠れる声で言葉をかけた。

「約束してくれ…必ず戻ってくると」

「ああ。約束だ。必ず戻る」
諒太は爽やかに笑顔で答えた…

30 遠謀

「オジー!動いて大丈夫なの⁈」

杖をつきながらヨタヨタとリビングに入ってきた勝男オジーの姿に驚いた瞳は声を上げた。
すぐさま瞳と千鶴はオジーの傍らに駆け寄った。

「心配は要らぬよ。今日はなんとも調子が良いのじゃよ」
オジーは口元に笑みを浮かべた。

勝男オジーはここ数年、ほぼ寝たきりとなり、移動には歩行器や車椅子を使用し、瞳や千鶴の介助が必要な体となっていた。

「瞳、千鶴さん、すまぬが今日はわしの我儘を聞いてくれんかの?」

「何?おじいちゃん?」
千鶴は優しく声をかけた。


家からほど近い場所にある土手の上からオジーは満足そうな表情を浮かべ海を眺めた。
久しぶりに潮風にあたりたいというオジーの願いを聞き入れた千鶴と瞳は車椅子を押してここまでやって来たのだった。
オジーはなんとも言えぬ幸せそうな顔で目を細めると広大な海から吹く風を全身に浴びた。
漁師をしていたころはこの海がオジーの仕事場であったのだ。

「美波間島の海は変わらず美しいのう…」
オジーはぽつりと呟いた。

「そうですねおじいちゃん…きっとこれからもずっと綺麗ですよ…」
千鶴は車椅子に座るオジーの後ろから優しく答えた。
オジーは満足そうにうなづくと車椅子から立ち上がろうとおもむろに身を乗り出した。

「ダメよオジー!無理をしちゃ!」
瞳は慌ててオジーの肘をとった。

「瞳…わしは自分の脚で立ちたいのじゃ。手を離しておくれ」

瞳と千鶴の心配をよそにオジーは全身をブルブルと震わせながらゆっくりとその場に立ち上がった。
杖も補助もなくオジー自らの力で立ち上がるのは一年ぶりのことであった。

「瞳、すまぬがわしの右手を上げてくれぬかの?」

「こう?オジー?」

瞳は不随となり動かすことのできなくなったオジーの右手を胸の位置まで上げた。
オジーは海に向かって自らの意思で動く左手を瞳に支えられ上げてもらった右手に合わせた。

「多江子…浩幸くん…
こんな無力なわしであったが、島の皆様方のおかげで瞳も竜男も立派に育てあげることができました…
お前たちの存念…確かに果たしたぞ…
わしにはもう何も思い残すことはない…
どうかこれからも瞳と竜男を見守っていておくれ…」

「オジー…」
右手をとる瞳の目には涙が光っていた。

オジーはやっとのことで揺れる体をすっかり肉の落ちてしまった細い脚で支えると言葉を続けた。

「ニライカナイに在わす全ての御霊よ…
真田諒太のこと、どうか護ってあげてください。
お頼み申し上げます」
オジーは目を閉じると海に向かって手を合わせたまま静かに頭を下げた。

その男は野心に溢れていた…
人から離れた木製のベンチに腰を掛け、静かに出番を待つその男は下を向き不適に微笑んだ。
男の名前は 周 廣中
今回CM撮影に抜擢され、チーリンの相手役として指名された28歳のモデルである。
細身の体型で身長188㎝の長身に長い手足、そしてシミひとつない美肌色白で小顔の甘いマスクは通りすがりの女性を振り向かす理由として誰もが納得するだろう。
まだ芸能活動が駆け出しの彼にとって今回、世界的大女優 蔡志玲との共演は大抜擢といえるもので、彼の気合いの入り方は尋常ではなかった。
彼の夢は芸能界でビッグになること。モデルの仕事だけではなく、ゆくゆくは歌手や俳優としてもデビューをして世界に名を広めたいと考えていた。
しかし、その眉目秀麗の容姿とは裏腹に内には黒いものを抱えていた。
彼はモテた。それは誰もが認めるところである。今まで付き合う女性が途切れたことはなく、黙っていても向こうから声がかかった。
苦労知らずの彼にとって女などひとつの道具に過ぎなかった。彼にとってタイプでもない歳上セレブの女性に甘い言葉を囁いては誑かし金を無心しては贅沢な生活を送っていた。
同時に複数の女性と付き合うことも厭わず、何の後ろめたさも感じていなかった。それに気づいた女性が彼の姿勢を問いただそうとしようものなら殴る蹴るのDVを加え、それまでに撮影した女性の卑猥な動画をネタに脅迫し心身共に支配した。
その生活はまるでジゴロのようで、気を許す悪友たちと飲んでいる時など
「俺に落とせない女などこの世界にいない」
などと豪語するほどの自信家であった。だが、彼の本性がわかるのは暫く経ってからで、初対面の相手にはその甘いマスクで柔和な表情を浮かべ礼儀正しく下手に出た。
それ故に彼の隠された内側を知る者は少ない。

(チッ、俺をいつまで待たせるつもりなんだよ)
白いタキシードを着た周は膝を緩りイライラしていた。

「蔡志玲さん入りまーす!」
若いスタッフの元気な声がして扉が開くとマネージャーに付き添われた志玲がチャペルの中に入ってきた。
真っ白なウェディングドレスに身を包んだ志玲は少し伏し目がちにゆっくりと歩いてきた。
スタッフの間からは拍手と同時にその纏うオーラにどよめきの声が上がった。
周はベンチから腰を上げて急いでチーリンの元へ駆け寄ると自己紹介を始めた。

「はじめまして!周 廣中と言います!まだ未熟者ですがよろしくお願いします」
周は甲斐甲斐しく頭を下げた。

「お待たせしました…こちらこそよろしくお願いします…」
チーリンも顔を上げ周に挨拶を返した。
周は目の前のチーリンと目があった瞬間息をのんだ…
吸い込まれそうな水晶のような澄み渡った瞳、赤くルージュの引かれたみずみずしい潤いのある唇、シルクのような艶のある黒髪、ウェディングドレスから覗く美しいデコルテ、男なら誰しも守ってあげたいと思いたくなるような白く華奢な肩、身につけている輝くジュエリーに相まって周の目には全てが眩しく映った。

(蔡志玲…これまでも写真や映像は目にしていたが実物はこれほどまでに美しいのか…
俺の想像の遥か上をいっている…
俺が今まで付き合ってきた女など彼女の前では霞んでしまう…)

「あの?」
チーリンを見つめたまま固まってしまった周に隣の花妹が声をかけた。

「あ、いえ…
憧れの志玲さんと共演できるなんて夢のようです。今日は色々と勉強させてください」
我に返った周は白い歯を見せ爽やかに笑った。

「はい…」
チーリンは目を伏せ小さな声で答えた。

(もしかして俺を目の前にして照れている?
フフッ 可愛いところがあるじゃないか…
俺より年上だが、まあ、この美貌なら連れて歩いても何の問題もない。そうさ、世界中で名の通っている大女優と付き合うことができれば一気に俺の名前も売れるしな。必ず志玲を落として俺の女にしてみせる)
周は内心ほくそ笑んだ。

監督から声がかかり撮影のスタンバイが始まった。直前までこの教会の牧師であるジョージ牧師から入念なレクチャーを受けていた牧師役の俳優もカメラ前に集まった。


そのころ諒太は台北東海公司本社の正面に立ち、その巨大なビルを下から一瞥するとエントランスからたった一人堂々と入っていった。
一階は広々とした高価な大理石をふんだんに使った空間で、外に面する壁面は全面ガラス張りとなっており、充分な採光がとられている。また、ロビーには多くのビジネスマンが行き交っている姿が見て取れる。
台北東海公司は投資会社としてここ数年、世界規模で様々な企業を買収したことにより、その子会社の社員や取引先の人間など、その国籍は多様で、肌の色の異なる人々が何かを会話しながら足早に行き来している。セキュリティも万全のようで、大きな駅の改札を思わせるようないくつも並ぶセキュリティゲートにはICチップの入った社員証か特別に発効されたゲストカードが無ければ先に進むことも上階にあがることも出来ない仕組みになっていた。
ゲート奥には警備員が立ち、不審な人間はいないか入場する者に目を光らせている。

諒太は吹き抜けの広いロビーを進み正面に奥にあるインフォメーションに向かった。
そこにはキッチリと制服を着用した容姿端麗の二人の女性が姿勢正しく並んで座っていた。一人はベテランと見られる30代半ばくらいの気の強そうな美形の女性社員と、もう一人は20代前半くらいのまだ入社間もないと見られる初々しい雰囲気の残る女性社員であった。
カウンター上のボードには案内が可能な言語として英語、中国語、韓国語、日本語の表記があった。
取り引きのあるこれらの国の来客のため、マルチリンガルのこの二人がコンシェルジュとして対応しているのであろう。

「呂威社長に会いたい。取り次いでもらいたい」

日本語で話しかけた諒太にベテラン女性社員はまるで汚らしいものでも見るように眉を寄せた。

「アポイントメントはございますか?」

「ない」

「社長はお約束がない方とはお会いになりません。まずアポイントメントを取ってからお越しください」

「そんな時間はない。今すぐ頼みたい」

ベテラン女性社員は言葉は丁寧だが、諒太に冷たい視線で一瞥をくれると鼻でせせら笑った。
社会のエリートともいえるスーツ姿の一流サラリーマンが行き交う中で、腕に紅いリストバンドを巻いたTシャツ姿の得体の知れない男の突然の来訪に、女の顔にはお前のようなものが呂威社長に会いたいなど場違いの身の程知らずで片腹痛いとでも言いたげな表情がありありと滲み出ていた。

「お引き取りください」

棘のある物言いをしてもそれでも引き下がろうとしない目の前の男にとうとう嫌気がさしたのか女は溜息をつくとカウンター下に隠された非常ボタンを押した。
ほどなく一人の制服姿の警備員が走ってきて何かを怒鳴ると建物から摘み出そうと諒太の肩に手を掛けた。
その瞬間、どこをどうされたものか警備員は諒太に手首をとられ後ろ手に締めあげられた。

「アー! トーグ(痛え)!」

警備員の痛みに耐えかねた大きな悲鳴がロビーホールに響き渡った。
行き交う人々が何事かと足を止め振り向いている。

「ちょっとあなた!何をするの⁈」
ベテラン女性社員は金切り声をあげた。隣の新人と見られる女性社員は怯えた顔を向けている。

「社長に取り次げと言っている。
何ならここの映像、社長室でも観ることが出来るんだろ? ほら、周りが見ているぞ。
あまり大ごとになったらそちらがまずいんじゃないのか?
美波間島から真田諒太が会いにきたと伝えろ」

諒太は女に向かって言い放つとさらに警備員の腕を捻りあげた。

「アー!」

警備員の苦痛の声があがる。
ぞろぞろと更に3人程警備員が集まってくると周囲を取り巻いた。
ここで大立ち回りをすることになっても致し方ないと思っていた諒太であったが、集まった警備員たちは意外にも距離を置いて出来るだけ穏便に済ませようという態度である。
恐らく日ごろから台北東海公司より警備会社には会社の顔ともいえる人目につくロビーでのゴタゴタは避けるよう言い聞かされているのであろう。今はどんな些細な事でもスマホの動画撮影で瞬時に世界中に配信されてしまう時代なのだ。

台北東海公司はこれまで投資家から集めた豊富な資金に物を言わせ、法律すれすれの強引な手法でM&A つまり発行株式の過半数の取得により企業買収を繰り返し成長してきた。結果、彼等の都合で会社を潰されたり、一方的に解雇され恨みに思っている人間も少なくはない。人生を壊され不満を持った人たちがここ本社ビルに押し掛けてくることも珍しくはないのだ。そんな醜態ともいえる会社の裏の部分を多額の資金を出資する株主には見せたくはないはずである。
さらに、もし警察など呼べば否応無く世間の注目を浴びる。世界中の投資家から投資を受け、急成長している会社だけにこのような騒ぎは極力避けたいというのが本音であろう。

女は自分の目の前の男が蔡志玲の一件でマスコミを通していま世間で騒がれているあの真田諒太だとわかった瞬間、顔色を変え慌てて内線ボタンを押して受話器を上げるとどこかへ連絡を入れた。
すぐに恰幅の良い白髪混じりのスーツ姿の中年の男が現れ、諒太を冷めた視線でジロリと一瞥すると無表情のまま片言の日本語で口を開いた。

「社長がお呼びだ。私に付いて来い」

男は諒太に対し指で来いと合図を送った。

「騒がせてすまなかったな」
諒太は警備員の腕を離した。
ベテラン女性社員は相変わらずきつい目つきで諒太を睨みつけていたが、新人の女性社員のほうは安堵の表情を浮かべている。
集まってきていた警備員たちの間を抜け中年男は歩き出した。
諒太を案内する男は一般のゲストが通る入場ゲートには向かわずに、インフォメーション奥にあるドアの電子鍵を社員証を当てて開くと更に先まで続く廊下を歩いて行った。
蛍光灯だけが灯る光を反射する白い無機質な構造の壁と床が続く廊下にはまるでひと気がなく、男の革靴の単調な乾いた靴音だけが響いた。諒太はその後ろを一定の距離を保ち続いた。途中、警備員の詰所やサーバー室や倉庫と思われるドアの前を通り過ぎ、突き当たりのエレベーターの前で男は立ち止まった。恐らく事務用品などの物品を運ぶための業務用エレベーターであろう。当然、人目から避けたいと思っている彼等が諒太を客人扱いなどするはずはない。
エレベーターに乗っても男は死んだ魚のような目をして無表情のまま何も言葉を発しようとはしない。

果たして本当に呂威社長のもとに向かっているのか?
微動だにせず扉の方を向く男の様子からはそれをうかがい知ることは出来なかった。
上昇を続けるエレベーターは1分ほどで頭上の表示がこのビル最上階の30の数字を指すと動きが止まった。そしてゆっくりとその扉は開いた。
エレベーターを降り、10畳ほどの何もない空間に出ると男はいきなり振り返り諒太に対し両手を上げるよう指示をした。

「心配するな。ボディチェックをするだけだ」

男には感情というものがまるでないのか抑揚の無い声でそう言うと顔色ひとつ変えず淡々と諒太の体の隅々までチェックを行った。凶器となるようなものは何も所持していないことを確認すると男は一つしかないドアの横にあるにキーモニターの前に立った。すぐに男の目に光が横切りドアは自動で開いた。
突破が困難な網膜認証キーを採用しているところをみるとやはり警備が厳重な場所にあると思われる社長室へ向かっているのか?

諒太は先を行く男の後に続いた。
ドアの向こう側は一階とは違い、壁や天井にダークブラウンのウッドを贅沢に使った広い廊下で、高い天井からは等間隔で光量を抑えた暖色のダウンライトが周囲を淡く照らしている。床にはワインレッドカラーの絨毯が敷かれ、通路の脇の装飾台には一定の間隔で細かな細工が施されたガラス製品や眩いばかりの金で作られた虎の彫刻などが飾られており、まるでそこは超高級ホテルのそれを思わせる造りとなっていた。
以前諒太が勤めていたSOMY本社ビルですらこのような華美な造りにはなっていない。
途中、電気を流すと白色に変化し、ブラインドとなる瞬間調光ガラスの入ったガラス張りの大きな会議室があり、人の居ない楕円形の巨大なテーブルには30を超える革張りの椅子が整然と並んでいた。
さらに正規エレベーターや秘書室のドアの前を通り一番奥の黒いドアの前で男は止まった。

「さあ!パーティーの始まりだ」

男はこの時初めて口角を上げると不気味に笑った。
男が開いた重々しいドアの向こうに入った瞬間、諒太は男の言葉の意味を瞬時に悟った。

(なるほど…そういうことか…)

社長室の中には三人組の男たちが諒太の入室を手ぐすねを引いて待ち構えていた。
あの日、美波間島にヘリでやってきて瞳を脅しチーリンを連れ去った呂威直属のボディーガードである。
三人はあの時と同じ黒いサングラスに黒いスーツで統一された服装で、美波間の村役場のフロアが余裕で入りそうな広い社長室の奥に横一列に並んで立っていた。
そしてさらに奥…執務机を挟んで一人の男がニヤニヤしながらこちらを見ている。
そう、台北東海公司社長の呂威である。呂威はブランド物のスーツに身を包み、革張りの椅子に足を組みながらまるで余興でも楽しむが如く涼しい顔を向けていた。

広々とした部屋の中は毛足の長い真っ白な絨毯が敷かれ、彼らの手前にはコの字に20人は一度に座れそうな応接用の黒色の革張りソファーとガラステーブルがあり、天井からは豪華なクリスタルのシャンデリアが下がっている。壁際の木製のアンティークの棚にはバカラのグラスがいくつも並び、1926年物のマッカランやロマネコンティが場を占めていた。
それ以外にも数多くの調度品や高価な美術品が並び、壁には500号はありそうな大きな絵画が二枚並んで飾ってあった。
いづれも巨万の富を得た呂威個人の趣味が表れていた。

勿論、ここに諒太を通したのは決して歓待するためなどではない。
目的はただ一つ。人目につかないよう静かにカタをつける…
この連中お得意の手口である。
だが、諒太にとってはそんな事は初めから想定内のことで全く動揺はない。

すぐに巨漢男が薄ら笑いを浮かべながらゆっくり近づいてきた。
あの日、諒太を突き飛ばした男である。

「腰抜けがノコノコとこんなところまで何しに来やがった?」

「俺は呂威社長に話があって来たんだ。お前達のような下郎には用はない。退がっていろ」
目の前の巨漢男がまるでそこに居ないが如く諒太は言い放った。
諒太の見据える先は呂威である。

「舐めた口きいてんじゃねえぞ!
この餓鬼がぁ!
馬鹿は調教してやんなきゃわからねぇようだな!」
巨漢男は刺青の入ったスキンヘッドに青筋を立てながら腰のベルトから警棒を抜いた。
そして腕を振ると「ガチ」っという音ともに20センチ程の警棒は60センチ程の長さに伸びた。

「退けといっている。邪魔だ」

まるで動じることのない諒太の態度に怒り心頭の巨漢男は手にしている警棒を振り上げると諒太目掛け勢いよく振り下ろしたー

31 紅(くれない)の咆哮

やわらかな自然光が差し込む、内装に木材をふんだんに使ったバロック様式の高さのあるアーチ型の吹き抜け柳梁天井構造の荘厳なチャペルの空間に、牧師役の俳優の澄んだ声が響いた。
現在行われているリハーサルに続き、これから始まるのは神と牧師の面前で新郎新婦となる二人が結婚を誓い合い、指輪の交換をするシーンの撮影である。
このCM撮影の為に時価数億円にも及ぶ宝石や指輪が準備された。
撮影も本番が近づき撮影クルー達の間にもピリピリとした緊張感が漂っていた。しばらくして一連のリハも終わり、監督の掛け声で助監督のカチンコが入りカメラが回された。
周廣中は白のタキシードに、チーリンは純白のウエディングドレスに身を包み、白い十字架の前に立つ牧師と向き合い、牧師の誓いの言葉を神妙な面持ちで聞いた。

この様子を優しげな眼差しでこの教会の真の牧師であるジョージ・スミスが後方のベンチに座って見守っている。彼の熱心なレクチャーの効果があったとみえ、牧師役の俳優のよどみない言葉がチャペルに響いた。続いて新郎新婦役の周とチーリンによる宣誓と指輪の交換が交わされた。そして撮影はこのCMの肝とも言える新郎新婦の誓いのキスの場面となった。
周はチーリンのベールを上げると二人はお互いの顔を見つめ合った…


ブン‼︎

黒い警棒が唸りを上げて空気を切り裂いた。
巨漢男が振り抜いた警棒は諒太の鼻先で空を切った。
尚も巨漢男は大きく振りかぶると連続攻撃を繰り出した。
諒太は右へ左へまた上半身を後ろへ逸らせ男の攻撃をかわした。

(この男…棒の扱いに関してまるで素人だな)
諒太が男の攻撃を避けつつそう思ったのは、巨漢男は力任せに腕を振り回すだけの攻撃で、まるで脅威を感じなかったからである。
体重を武器に力で相手を圧倒する。それがこの男の普段のスタイルなのであろう。しかし、男の攻撃は大きく振りかぶることで諒太からみれば隙だらけに見え、これまではその図体とパワーで相手を圧倒してきたのであろうが、剣の心得のある諒太にはそれは通用しない。男が繰り出す警棒の軌道を完全に読んだ諒太は男の攻撃を避け続けた。

「フン!フン!」
諒太に向けて巨漢男の繰り出す警棒はあと数センチというところで全てかわされ、次第に男の息が上がり始めた。男は顔を真っ赤にしながら肩で息をしている。

「この餓鬼!ちょこまかと!」
巨漢男はとうとう苛々が頂点に達したのか手にしている警棒をかなぐり捨て、諒太に向かって突進を敢行してきた。タックルを仕掛けて圧倒的な体重差でのしかかろうという肚である。怒りで荒れ狂う熊のようにぶちかましを敢行してくる巨漢男を前に正対した諒太は何と男に向かってこちらから突進したではないか。

(馬鹿が!俺とまともにぶつかって勝てる訳ねぇだろうが!向こうの壁まで吹っ飛ばしてやるわ!)
諒太の腰に標準を合わせた男は前傾姿勢で肩から突っ込んでいった。
その瞬間、男の視界から諒太が消えた。

何⁈

諒太は一瞬早く左斜め下に屈みこむと巨漢男の突進する足に向かって自らの足を掛けた。
男は勢いよくつんのめると宙を泳ぐかのような格好で数歩進んだ後、大きく転倒し壁際に置かれた高さ2メートルはありそうな美術品として置かれている大きな磁器の花瓶に頭から突っ込んでいった。
物凄い音とともに花瓶は粉々に砕け散り、男の額からは血が噴き出した。サングラスも割れ、脳しんとうを起こしたのか花瓶の破片に埋もれ顔中血だらけの巨漢男は意識を失いピクピクと痙攣している。

諒太は倒れた男に一瞥をくれると男が床に放った警棒を手に取った。

(うん?意外と軽い…)
鋼鉄製と思って手に取ってみた警棒だが、想像していた重さとはかなり違う。

(そうか…これは炭素繊維か)

炭素繊維とは鉄と比較して重さは四分の一、強度は十倍あるといわれ、最近では航空機やバイクのフレームなどに使われる素材である。
こんな物をまともにくらえば人の骨など簡単に砕けてしまう。
頭部に入ればまずただでは済まないだろう。つまりその先には死が待っているということだ。
彼らの思惑がこの鈍く黒光りする一本の特殊警棒に透けて見えた。

「テメェ!弟に何しやがる‼︎」

勢いよく駆けてきた大男が諒太の頭目掛け警棒を振り下ろした。

ガチ‼︎

火花が飛んだー
男の振り下ろした警棒を諒太は手にしている警棒で受けたのだ。
瞬間、諒太は後方へ飛び退いた。
ソフトモヒカン頭のプロレスラーのような厚い胸板を持つ大男は怒りで眉間や鼻先にシワを寄せ、泥棒のような口髭がヒクヒクと動いている。
濃いサングラスをかけていても憤怒の表情が明らかである。
こんな田舎者の日本人ひとり、弟があっさり片付けるだろうと高を括っていたようだ。

ヒュン!ヒュン!
ガチッ‼︎ ガチッ‼︎

大男の繰り出す攻撃を諒太は時に体を引き、時に自らの警棒で受けとめ避け続けた。
先程までの巨漢男の繰り出す攻撃に比べはるかに無駄のない動きの速い連続攻撃である。しかも右腕一本で受け止める警棒の衝撃はかなりのもので、大男の筋肉質の太い腕から打ちこまれる強烈な打撃は諒太をジリジリと後方へ押し込んでいった。

(クッ…片腕では無理か…)
大男の攻撃の手が一瞬止んだとき諒太は咄嗟に警棒を両手に掴み直し体を正面へ向け男と対峙した。
長さこそ違えど竹刀のように切っ尖を男の目元に向け左足を引くと諒太は静かに正眼に構えたのだ。
これこそが本来の諒太の型である。

(小賢しい真似をする野郎だ‼︎)
大男は尚も高い身長を生かし、上から警棒を振り下ろす。

ガキン‼︎
警棒と警棒がまともに当たりまたも火花が飛び散る。

(体の見た目通り凄まじいパワーだ…先程の男と比べスピードも格段に速い… だが…)
諒太はもう男の繰り出す警棒を体を引いて避けようとはしなかった。
男の攻撃を諒太は両手に掴む警棒で全て受け止めると逆に間合いを詰めだした。

(小僧‼︎ 舐めやがって‼︎)

ガキン‼︎ ガキン‼︎
渾身の力を込めた攻撃が簡単に弾き飛ばされる。

(クソッ!どうしてあらたねぇ‼︎)
男は歯軋りをして悔しがった。

(お前の剣には魂がこもってない。
怒りや憎しみの感情だけでは決して勝つ事は出来ない)
サングラス越しの大男の目を眼光鋭く睨みつけると諒太は更に前に出た。立ち昇る諒太の気迫に押されたのか男は苦し紛れに警棒を打ち込みながらとうとう後方に下がり始めた。

ハア…ハア…
(何故だ?…全く攻撃が通じねぇ)
間合いを2メートル近くもとった男の顔には汗が流れ落ち、焦りの色が広がっていた。
後方の執務机では呂威社長がこの様子を見ているのだ。
(だが、俺とて伊達に社長のボディーガードをやっているわけじゃねぇ… 次だ!次の攻撃でカタをつけてやる!)

その時、それまで微動だにせずに中段に構えていた諒太が持つ警棒の切っ尖が僅かに下がった。

(今だ‼︎ 死にくされ!この餓鬼‼︎)
千載一遇の好機と見た大男は、2メートルの間合いを一気に詰めるべく床を蹴り上げ、勢いよく踏み込むと唸り声をあげ諒太に迫った。
それを受けて諒太もほぼ同時に床を蹴り上げ、男に向かって迫った。
空中に飛び上がった諒太であるが、高さでは到底身長にまさる大男には敵わない。
両者の間合いは一気に縮まるー。
男は圧倒的な高さから諒太の頭めがけ警棒を振り下ろす!

二人は空中で交差すると互いに背を向ける形で同時に着地した…

(クソッ‼︎ 一発で決め切れなかったか!だが次だ‼︎ 次で殺る‼︎)
男は振り返った…
しかし諒太は男に背中を向け、だらりと腕を下ろしたまま動こうとはしない。

(小僧!舐めやがって!)
男が諒太の背後から後頭部を目がけ打ち込もうと腕を上げた瞬間だった。
男の右手からぽとりと警棒が落ちた。

「ギャー‼︎」
途端に大男の悲鳴が部屋に響き渡った。男は右の拳を抱えるように床に転げまわった。

「無理に動かすと二度と物を掴めなくなるぞ」
諒太は激痛のあまり悶絶しながら絨毯の上をのたうち回る大男の背中に言葉をかけた。
一瞬のことに男も何が起こったのか理解出来なかったのであろう。
男が諒太の頭を目がけ高い打点から警棒を振り下ろす瞬息前、諒太は中段からすくい上げるように小手打ちを繰り出したのだ。男が踏み込む前、警棒の切っ尖を下げたのは諒太の誘いであり、男はまんまとそれに乗ってしまったのだ。
しかも通常、手首辺りに打ち込む小手打ちを諒太は警棒を握る男の右の指4本の第二関節に狙いをつけて打ち込んだのだ。これにより男の四本の指の骨は関節から粉々に粉砕された。
この飛込み小手の戦法は竜男が得意とするもので、自分より背の高い相手と対戦する際に有効な戦術である。
昨夜、月明かりの下、砂浜での闘いで諒太はこの技を幾度となく竜男から繰り出されていたのである。
それを諒太はたった一晩のうちにまるで自分のものとしていたのだ。

パチパチパチパチ!

乾いた拍手の音が聞こえた。
最後に残ったボディーガードのオールバックの金髪白人男の拍手である。
後ろに座る呂威は机に頬杖をついてまるで見世物でも観ているかのようにニヤニヤと笑みを浮かべていた。


(私の人生こんなはずではなかった…なぜこんな事になってしまったのだ…)
エレベーターを降り、廊下を歩く尹(ユン)リゾート開発部長は大きな溜息をついた。

(あの頃は良かった…
情熱もあったし、良い部下にも恵まれていた…)
今、尹の脳裏に浮かぶのは失ってしまった夢も活気もあったあの時代のことである…

尹は20代後半という若さで勤めていた大手不動産会社を退社し、かねてからの夢であった出身の台北市郊外の下町の商店街で僅か10坪ほどの小さな不動産事務所を設立し代表となった。
尹には以前からどんなに会社が小さくとも一国一城の主人として生まれ育った地域の為、自分を叱咤激励してくれた地域の人々の為に恩返しをしたいという夢があった。開業当初はできたばかりの吹けば飛ぶような会社に銀行から融資がつくはずもなく従業員を雇う余裕すらなかった。
しかし、常日頃から何かと支えてくれる商店街の人たちや近隣住民の協力のおかげで尹の小さな不動産会社は大海原に船出したのだった。
もう一つ尹の大きな支えとなったのは妻の献身的な協力であった。
30代半ばには娘も誕生し、尹にとってこの時期が一番夢と希望に溢れていた時代だったかもしれない。
尹は持ち前の優しさと人の良さでお客様に対してホスピタリティ溢れる接客を心掛け、不動産を仲介した顧客に対しては契約時だけではなく、その後も顧客の要望に応えるべく住居のトラブルなどの雑用でも昼夜を問わず快く対応したし、自らの意思で高齢の顧客の家の側溝の掃除や、草取りなど金にならない仕事まで率先して行った。
尹のそんなきめ細かな仕事ぶりが評判となり、次第に客からの紹介も増え、業績は順調に推移していった。
年を重ねる度に従業員も徐々に増えて小さかった事務所も中心市街地にオフィスを構えるまでとなり、尹は名実共に会社の大黒柱となった。
妻も幼な子の面倒を見ながら会社の経理を一手に請け負い、面倒見のいい尹夫婦は若い社員などからは父母のごとく慕われた。その暖かな家庭のような雰囲気は職場を一層明るくして従業員のやる気を引き出した。
事業も軌道に乗り、銀行からの信用もできた頃、尹はあるプロジェクトに挑戦した。
それは過疎化し廃校となった学校を買い取り、老人ホームとして再利用するというものだった。
確かに既に様々なインフラ設備が整っている学校をホームに改装するのは大掛かりな工事は必要としない。
しかし、銀行から多額の融資を受けてまで進めることはリスクが高いという意見が周囲から多く上がった。だが、尹には高齢化社会の中、街に弾かれ行き場なくなった老人を放っておくことは出来いという思いがあった。尹にあるのは歳をとっても尊厳を持って最期の時間まで過ごしてもらいたいという純粋な気持ちだけであった。
結果、このプロジェクトは多くの賛同者を呼び、終の住処として田舎の自然の中で余生を送りたいという高齢の入所希望者が殺到した。
見送る家族にしても都会の中で窮屈に過ごす親を見るよりも環境の良い自然の中で生き生きと過ごす親を見ることは何よりも嬉しい事だった。
尹のこの善意から生まれた行動は社会から高く評価され、県や自治体からも表彰された。これにより尹の会社は一躍世に知れ渡るようになり、その後ホーム建設は台湾各地に及ぶまでとなった。

それから間もなく尹の会社の実績を聞きつけた日本の星矢リゾートという高級リゾートホテルを展開する企業が世界各地に展開している1日1組限定の宿泊コテージ群を造るための候補用地を台湾の自然豊かな温泉地で探してほしいというオファーが入った。
尹と社員達はクライアントの要望に添える場所を探すため連日足を棒にするまで台湾中を駆けずり回り、自信をもって推薦できる候補地を紹介することに成功した。
台湾初となるプライバシーが守られたおもてなしをコンセプトとする高級志向のこの各戸露天温泉付宿泊コテージは大きな反響を呼び、国内外からセレブたちが大挙して押し寄せるまでになった。それは実に一年先まで予約が取れないという大盛況ぶりであった。

この成功により星矢リゾートから大きな信頼を得た尹は彼等から台湾におけるリゾート開発の専属契約を依頼されるまでとなり、続けて第二、第三のホテル建設の為の用地確保の仕事が舞い込んだ。
このプロジェクトをきっかけに台湾の不動産業界で尹を知らぬ者はいなくなった。尹は実に僅か20年という歳月で自ら起こした会社を一代にして台湾でも中堅クラスの不動産会社までに成長させることに成功したのだった。

だが、この隆盛はこの後続くことはなかったのである。
尹が50歳のとき、経営コンサルタントや取引する金融機関などの勧めもあり尹の会社は念願の株式上場を果たした。しかしこれが現在に続く転落の始まりとなってしまった。
尹の会社を虎視眈々と狙うものがいたのである。それが当時急成長していた呂威率いる新興の投資ファンド・台北東海公司であった。
呂威はかねてより利益率の高い不動産事業に興味を示し、そのノウハウを持つ尹の会社に食指を伸ばしてきたのだ。
台北東海公司は当初から尹の会社に対し敵対的株式公開買付け(TOB)を宣言し、グループの傘下にするべく公開株を買い漁った。
尹も業務提携などの妥協策を模索し提示したが、呂威がこれに応じることはなかった。あくまでも呂威の目的は目を付けた企業は自社の傘下に収め、更なる業務拡張するための足掛かりにするという戦略があったのである。そしてもう一つの真の目的は尹が長年かけて築き上げてきた信用や取引先などのコネクションを一挙に手中にしたいと考えたからである。
これまでもこうした強引なやり方で会社を大きくしてきた台北東海公司には配当金目当ての世界中の投資家から資金が集まり、その潤沢なマネーパワーで会社は急激に肥大していた。

尹も発行株の総数を増やすなど対抗策を講じたが資金力に勝る台北東海公司の力には到底及ばず、ついに発行株式の過半数を握られてしまったのである。
これにより尹の会社は完全に吸収され台北東海公司の子会社と成り果ててしまった。
この時、呂威から尹に対し二つの選択肢が示された。
一つは全てを手離して業界から身を引くこと。
もう一つは取締権の無い役員として台北東海公司の一社員として働き続けること。
だがこの時、尹にこれを選択するは余地はなかったのである。この一年前、尹の妻はこれまでの仕事の無理がたたったのか頭頚部に腫瘍が見つかり、高額な治療費のかかる重粒子線治療を行っていたのだ。また、一人娘の春鈴の大学進学とも重なり、尹は仕事を失うことはどうしても出来なかったのである。
尹は台北東海公司の社員として働き続ける道を希望したが、呂威から提示された条件は非情なものであった。それは合理化をはかるという名目で無駄なコストを削減するために現従業員の半分をリストラせよというものであった。更にこのリストラの人選は尹自ら行うことが尹を迎え入れるための条件だというのである。
これまで家族同然に自分のために尽くしてくれた社員の首を切るということは尹にとって筆舌に尽くし難いほどに耐え難い事であった。
しかし、この話を知った社員たちは尹に内密で密かに集まると、ある結論を導き出した。それは身軽な独身社員たちが率先して自ら身を引こうというものであった。これまで親身になって接してくれた尹夫婦ためにせめてもの最後の恩返しをしたいという思いから誰彼となく自然と声が上がったものであった。
これを聞いた尹は彼等の前で人目をを憚らず男泣きに咽び泣くと頭を下げて詫びた。

そんな尹の心情を推し量ることもなく呂威は尹を不動産業務を統括するリゾート開発部の部長に据えると次々に命令を下した。
呂威のやり方はこれまで尹が携わってきた仕事の考え方とは全く違うものであった。呂威の下した指示は、回りくどい時間のかかるような手順など踏まずに目を付けた土地があれば方法を厭わず金で人心を掌握し、所有者から土地を買い漁れというものであった。
それでも土地の売却を渋る者には様々な嫌がらせや脅迫電話などの手段をとることを強要された。このような法に触れる半ば強引な地上げ行為は時に呂威直属のボディーガードが前面に出てきては立ち退きに抵抗する一般人に対し恐喝や暴力に訴えることさえあった。
その結果、台北東海公司側が提示した金だけ握らされ、行き先も決まらぬまま強引に家を追い出される者が続出した。

尹はこうした仕事のやり方に異議を訴えることすら許されず、否応無くずるずると引きづり込まれる形で違法行為の共犯者として引き返すことが出来ないところまで追い込まれていった。当然このようなことを病床にある妻や当時高校生の娘に言えるはずもなく尹の苦悩は増すばかりであった。
それからしばらくして、治療の甲斐なく尹の妻は息を引き取った。
常に側で支えてきた妻の死は尹の心にぽっかりと大きな穴を開け、深い悲しみのうち、尹は自らの行く先を考える思考さえも停止させた。
こうして尹は自尊心を失い、呂威に従属するだけの社畜となり下がってしまったのだ。
そして今回、呂威の命令により美波間島リゾートホテル建設に際して宜保副村長に対して贈賄工作に手を染めてしまった。
尹はストレスですっかり頭に白いものが混じるようになり、吃音の症状が出るようになっていた。
このような尹を見ては台北東海公司の他の部署の社員たちは陰で彼を馬鹿にした。

(私がこうなってしまった理由?…
はっきりしているじゃないか…
私が弱いからだ。
私がもっとしっかりしていれば…
私の心がもっと強ければ…
従業員も守れたはずだ。
妻にだってあんな苦労をかけなければ、もしかしたらもっと長く生きたかもしれない…
ああ…私は弱くてそしてとんでもない人でなしだ)

尹は背中を丸め元気なく社長秘書室に入った。

「社長に指示された資料が出来たので持ってきたのだが、社長は?」
尹の問いかけに全く反応しない女性秘書はデスクの上のモニターを食い入るように見つめていた。

「ちょっと君?」

「あっ!尹部長」
秘書の顔は強張り、まるで何かまずいものでも見られたような慌てた様子である。
構わず尹は秘書のデスクに回り込んだ。

「これは…⁈」
尹は目を見張った。
モニターには腕に赤いリストバンドをした見知らぬ男が警棒を持って立っているのが見える。さらに椅子に座る社長の他にデスクの前には呂威のボディーガードの一人がその男の前に立ちはだかっていた。
よく見ると画面の端の方には他の二人のボディーガードが倒れているではないか。

(何だこれは⁈一体何が起こっているんだ?)
尹は秘書に構わずスピーカーの音を大きくした。

「君はここを出ていきなさい」

「えっ…でも…」

「いいから!出ていきなさい!」
普段穏やかで昼行灯のような尹の人が変わったような大きな声に秘書は驚き慌てて部屋を出ていった。尹は急いで内側から部屋の鍵をかけるとかじりつくようにモニターを見つめた。


「なかなか面白いショーを見させてもらったよサナダ…」

オールバックにした金髪白人男は片言の日本語を喋り、ニヤリと笑うとジャケットを豪快に脱ぎ捨てた。男の黒いシャツの肩には革製のホルスターベストが巻きついている。

(今、サナダと言ったか? もしかして美波間島のあの真田か⁉︎ まさか… 一人でここまで?
お前はたった一人で彼等に立ち向っているのか⁈)
尹は社長室に隣接する秘書室でモニターを凝視し生唾を飲み込んだ。

(しかし…お前の前に立つその男はあまりに危険だ…
その男は彼の経歴を知った呂威社長が自らのボディーガードとして高給でスカウトした凶暴な男で、名前はニック・ダグラス。またの名をマッド・ドッグ。狂犬という意味だ。アイルランド出身で、フランス外人部隊で傭兵としてアフリカ・コンゴでは対ゲリラ戦を、中東・シリアではIS掃討のため戦地へ派遣され、実戦経験も豊富で、近接戦を得意とする金で動くプロの兵士だ。
噂ではこれまで前線において、歯向かう者に対しては、民間人とて男女問わず、たとえそれが子供であろうと、その手で何人もの命を奪ってきた人の命など何とも思わないあたたかい血など通ってない冷酷な殺人マシーンと聞く。
奴は目の前で人が血を流して苦しみながら死んでいく様を見るのがなによりも快感を覚えるという狂った男だぞ)

「狂犬を相手にするなど無茶だ!早く、早くそこを出て逃げるんだ真田!」
尹は思わずモニターに向かって叫んでいた。


「ここまで来たお前の勇気は褒めてやるサナダ。だが、お前はここを生きては出られない。お前がここを出る時は死体袋の中だ。何故なら俺がお前を切り刻んでやるからだ」
ニックは左胸横のホルスターからナイフを引き抜いた。

諒太は身構えた。何とも言えない殺気が目の前の男から立ちのぼっていたからだ。これまで経験したことのない悪寒ににも似た気持ち悪さである。
ニックは、ナイフを前方に突き出し
体を沈め半身に構えた。ナイフの形状は殺傷力の高い軍用のもろ刃である。まるで人の血を吸い込んだような鈍く光るナイフを手にニックは不気味に笑った。だが、濃いサングラスの向こうの男の目の動きを伺い知ることは出来ない。

諒太は変わらず正眼に構えたまま微動だにしない。

シュッ!
いきなり空気を切り裂くニックの突きが諒太の喉元に向けられた。諒太はかろうじて頭を引いてナイフを避けた。
(クッ!いきなりナイフが目の前に⁉︎ 間合いはこちらが有利だったはず⁉︎…)
竹刀より短い警棒とはいえ、諒太が手にする得物はニックのナイフより倍は長い。それをいとも簡単にニックの攻撃は諒太が考える安全距離を突破してきたのである。

次の瞬間!
諒太の思考を中断させる二の矢、三の矢が襲いかかった。諒太はこれも鼻先と胸の前でかろうじて警棒で弾いた。
ニックの攻撃は人間の急所とされる体の中心線に確実に向けられていた。
ニックは舌舐めずりをしながらニヤニヤと薄ら笑いを浮かべている。

(何という速さだ…かわすのが精一杯だ。あの竜男の電光石火の突きより、この男の攻撃はスピードも正確性も一枚上だ。しかもこの間合いでどうして?)

「よく躱したな。俺の攻撃を躱したのはお前が初めてだよ。フフフ、ならばこれはどうかな?」
ニックは一歩踏み出すと連続突きを繰り出してきた。
目の前に鋭いナイフの先端が迫る。
諒太は首をひねり躱す。次に左胸、腹部、これも間一髪警棒ではねのける。
(チイッ、速い!奴の動きに追いついていけない、こいつの間合いは一体どうなっているんだ⁈)
諒太はニックの怒涛の連続攻撃に翻弄された。ニックはこれだけの無酸素運動を強いられたのにもかかわらず息を切らせることもなく平静を保っている。

(ならば、こちらから仕掛けて光明を見出してみるか)
諒太は右足で床を強く踏み込み、小手、面の連続二段攻撃を繰り出した。 だが、諒太の動きはニックの想定内だったようで、ひらりと軽快なステップで躱されてしまった。
ニックは余裕の表情で後方へ跳びのき、その場でボクサーのように軽くフットワークを刻んでいる。
その時、諒太は気づいた。両腕を伸ばした男の常人のそれとは違うことに。
(そうか!こいつ、身長に対して腕が長いのか!)
諒太のとった間合いを簡単に詰めてくるのは、男のリーチが異様に長く、諒太の間合い感覚の距離がずれていたのである。

(サナダ、どうやら気がついたようだな。だが、それに気づいたところでどうということはない)
ニックは不気味な笑みを浮かべると攻撃を再開した。

ニックは長いリーチを生かしナイフを突き出した。諒太はこれまでより半歩ほど余計に間合いを取り応戦する。

ガチ!ガチ!
激しくナイフと警棒があたる。

(隙有り!!) ブン‼︎
空気を切り裂き諒太の警棒が唸りを上げる。
自分の距離を取り戻し、ニックの攻撃に僅かな隙を見つけた諒太は、胴に向かって電光石火の水平打ちを打ち込んだのだ。ニックは瞬時に後方に避けたが、警棒の先端が僅かに擦り、ニックの着ていたシャツのボタンを二つほど弾き飛ばした。

(クソッ!浅かったか!)
諒太は悔しがった。決まっていれば確実に肋骨が粉砕されていただろう。

次の瞬間、見る見るニックの顔色が変わっていった。

「ジャップ!俺に触れやがったな!」
怒りで眉間にしわを寄せ、赤鬼のような形相で顔を真っ赤にしたニックは怒涛の反撃を開始した。諒太は必死にこれを防いだ。

(怒りは判断力を鈍らせる)
諒太がそう思った瞬間だった。ニックは突き出したナイフに捻りを加え、諒太の手首辺りを撫でた。同時に瞳から貰った赤いリストバンドに切り裂かれたあとが一筋残った。
じかにやられていたら大変な出血を伴う怪我を負っていたことだろう。
つばの無い警棒での応戦では相手の刃物の刃先が手元まで滑る。ニックはこれを逆に利用し、突きを打ち込んだ後、手首のスナップを利かせ諒太の腕に狙いを定めてきたのだ。

(こいつ…判断力が鈍るどころか頭はすこぶる冷静だ…)

「サナダ!闘い方に教科書なんてものはないのだよ。戦況に応じて臨機応変に変化する。自分のやり方に固執してこれが出来ない者は戦場で生き残ることは出来ないのだ!」

諒太とニックの闘いに向かう思想は根本的に異なる。諒太は相手に痛烈な一打を与え、戦意を奪うことに重きを置いている。一方のニックは目の前の相手の命を奪うことを目的とし、その手段は選ばない。正々堂々などという言葉は綺麗事の戯言であって、相手の息の根を断ち、自分が生き残ることこそが絶対の正義なのである。

ヒュッ!
ニックはこれまでの突きの攻撃に加え、ナイフを縦横に薙ぎ、切り裂く動きを混じえてきた。
ここまでの闘いで一撃で命を奪う突きの攻撃だけでは諒太を倒すことが難しいと判断すると、すぐにナイフを寝かせ『斬る』ことに攻撃方法を変化させてきたのだ。太い血管でも切断しない限り、表皮を斬ることで人の命を奪うには時間がかかる。ニックはそれでもそれを選択した。

(これだけ骨のある男と闘うのは久しぶりだ!こんな相手簡単に殺したら面白くない。血だ…血を流して苦しめ!)
ニックはフェイントかけて低い姿勢からさらに屈み込むといきなり下方から斜め上にナイフを振り上げた。
ニックのトリッキーな動きに諒太の反応がわずかに遅れた。
鋭いナイフの先端が触れたものか、疾風のごときニックの動きにカマイタチのような真空状態が発生したものか諒太の頰がスパッと切れた。

「ヒッヒッヒッヒ」
ニックは諒太の頰から流れる赤い血を見ながら薄気味悪く笑った。

諒太は己が修練してきた剣道の動作にはないニックの変幻自在の動きに翻弄され続けた。
諒太も反撃を試みるがニックには当たらない。

(甘い。甘いぞサナダ。そんな鈍らが俺に当たると思っているのか?
俺はこれまで地獄のような戦場で命の取り合いをしてきたのだ。お前の道場剣法が俺に通用するわけなかろうが!死ね!死ね!)
ニックは諒太の攻撃が脅威になることはないと取ると一気呵成に攻めこんできた。諒太は防戦一方となり、ジリジリと後退していった。

ガッ!
後方へ退く諒太の踵が壁にあたった。諒太はいよいよ壁まで追いつめられると最早どこにも逃げ場はなくなり絶体絶命の窮地に追い込まれた。

32 SACRED

(仕事とはいえ、蔡志玲とキスが出来るなんて役得だな。まあ、いづれその唇は俺のものにしてやるさ…)
新郎役の周 廣中は心の中でほくそ笑んだ。

純白のウェディングドレスのベールを上げ、向き合った二人の姿は周囲から見れば誰もが認める非の打ち所のない美男美女の新郎新婦に映るだろう。
チーリンは憂いのある瞳で周を見上げた。

(やはり美しい…)
周はチーリンの赤くルージュのひかれた潤いのある唇に顔を寄せた。
周を受け止めるため瞳を閉じて待っていたチーリンであったが、直前で目の前の周から思わず顔をそらしてしまった。

「カットー!」
撮影監督からNGが出された。

「ごめんなさい…」
チーリンは目の前に立つ周に呟くような小さな声で謝った。

「そんな…謝らないでください。志玲さんは久しぶりの芸能活動なんですから仕方ないですよ」
周は爽やかに笑った。
(やはり俺を相手に照れているのか?かわいいところがあるじゃないか)

撮り直しのTake2…
だが、結果は同じだった。

(おいおい、まさか俺とのキスが嫌なんじゃないだろうな?
ん?…そういえば、報道でどこかの島で日本人の男に洗脳されていたって言ってたな。ならば、俺のキスでその魔法を解いてあげるよ)

しかし、チーリンは周を受け入れることが出来ない。
何回やっても結果は同じだった。

「カット!カットー‼︎
ちょっと何やってるの志玲⁉︎
押しているだがらしっかりやってよー! それに晴れの日にそんな哀しい顔をした花嫁いないよー⁈
それから周くんももっと間に気をつけてちゃんとやってよ! これだから下積みもしていないモデルあがりの男はダメなんだ全く!」
監督は苛立ちを隠さずに大きな声を張り上げた。

「すみません…」
チーリンは頭を下げた。
痛々しいチーリンの姿をマネージャーの花妹は悲しい表情で見つめた。

(おい、ふざけるな!俺のせいだっていうのか?俺はスターになるべくして生まれた男だぞ。お前のような三流監督のもとで足踏みしちゃいられないんだよ!)
周は内心苛立ちながらヘラヘラと作り笑いを浮かべ監督に頭を下げた。

「監督、そろそろテープチェンジをしなければなりませんし、少しの間一息いれませんか?」
助監督の進言で休憩が入り、スタッフたちは思い思いに散らばっていった。

「NGなんか気にしないでお互い頑張って良い演技しましょうね、志玲さん!」
柔和な表情を浮かべながら優しい言葉をチーリンにかけると周は自分の控え室に下がっていった。
(志玲も志玲だ。俺に恥をかかせやがって!大女優が笑わせる!)

この様子を二階バルコニー席から見下ろす二人の男がいる。
台北東海公司芸能部 黄部長と子会社となった傘下のチーリンの所属する芸能事務所社長の陳である。

「陳くん、あんな調子で志玲の女優復帰は大丈夫なのかね?」

「なあに黄部長、今日が復帰初日の撮影です。何も問題ありません。
それに万が一の時は私に考えがあります」

「ほう?どんな考えだね?」

「たとえ演技が出来なくなったとしてもまだまだ志玲の使い道はあるということですよ、黄部長」
陳は冷ややかに笑った。

「女優のほかに何かやれる事があると言うのかね?」

「はい。主要な取引先に性接待させるなんてこともありでしょうし、志玲の鮮度が落ちる前にヌード写真集を出すというのは如何でしょう?何ならAV出演なんて手も面白いかもしれませんよ?」

「ほ!それは妙案だね君!実現すればかなりの売上げが見込めるんじゃないかね?」

「間違いなく…」

「フフッ、志玲には稼ぐだけ稼いでもらい、この業界からおさらばしてもらおうか。そして志玲の後釜には私の李娜が入る。よく出来たシナリオじゃないか陳くん?」

「はい。黄部長の御希望のままに」

「陳くん、李娜はいいぞ。生娘だけあって私の腕の中で震えながらシーツを掴む仕草は何とかわいいものだ。これからはどんどん李娜を使ってくれたまえ」

「畏まりました黄部長。私はこれから新人オーディションがあるのでこれで失礼しますが、部長はまだ撮影を御覧になっていかれますか?」

「何?また新人を入れるのか?私も同行しよう。私が品定めをする」

「そう来ると思いました黄部長。
今後、私の報酬の上乗せもお願いしますね」

「任せておきたまえ陳くん」

「フフフッ」

二人はいやらしい笑顔を浮かべ教会をあとにした。


「チーフ、誰か出てきましたよ!」
停めた車の中から教会の出入口を見ていた陽代沫は隣の助手席に座る江江に声を掛けた。

「あれは確か…台北東海公司 黄芸能部長と志玲の事務所の陳新社長…
恐らくマスコミに真田さんのねつ造記事を書かせたのは彼等よ」

「ふざけた真似しやがって…尾けますかチーフ?」

「いいえ…今は志玲本人の動向を注視したいの」

「了解っす」



花妹はチーリンを支えるよう寄り添いながらベンチに腰を下ろした。

「志玲…」

「わかっているの…私もプロの女優なんだから、ちゃんとやらなきゃいけないってことは…」

「割り切れないのね?…」

花妹の言葉にチーリンは静かにうなづいた。
チーリンの気持ちが痛いほどわかる花妹は、それ以上何も言わず俯いたままのチーリンの手にそっと自らの手を重ねた。

「どうしました志玲さん?元気がないようですが?」
穏やかで人懐っこい笑みを浮かべながら牧師のジョージ・スミスがチーリンの横に腰をかけた。

「スミス先生…」
チーリンは哀しげな表情で顔を上げた。
三カ月前のドラマ撮影の際にもこの教会を使用し、その時にチーリンはジョージ牧師と親しく言葉を交わしている。

「何か悩み事でも?」

「スミス先生…来世というものは本当にあるのでしょうか?」

「勿論ですとも」
スミス牧師は優しく微笑んだ。

「来世が訪れるためには何か条件があるのでしょうか?」

「条件?ですか…人は皆、神のもと平等に救われますが、今世において神に懺悔をして罪を償っていない者と嘘をつく者は次のステージに上がる資質が伴っていないと判断され、来世は訪れませんでしょうね…」

「スミス先生…その嘘は自分に対しての嘘も含まれるのですか?」

「自分に対してついた嘘ということですか?」

スミス牧師はチーリンの唐突な質問に少し驚いた表情でチーリンの横顔を見つめた。

諒太は後方の壁まで追い込まれ逃げ場がなくなった。
ニックは薄気味悪い笑顔を浮かべ諒太にジリジリと迫った。
正面からのまともな攻撃では実戦経験豊富なこの男には勝ち目はないことはもはや明らかであった。
次の攻撃でやられるー
諒太は大きく息を吐いた。

「サナダ、俺を相手にここまでよくやった。だが、これまでだ」

ニックが最後の攻撃のためアクションを起こそうとしたその瞬間だった。
諒太は構えを崩しダラリと両腕を下ろして目を閉じた。いや、諒太が目を閉じたようにニックには見えたと言った方が正確である。
諒太は静かに息を整えると全身の力を抜いた。

(気が狂ったかサナダ?それとも生きることを諦めたか?ならばお前の望み通りに殺してやる!)

ニックは右手のナイフを掴む指に力を込めた。



「諒太よ…目に見えるものが全てではない。感じるのだよ。全身を研ぎ澄ませてな…」

諒太は遠い昔、今は亡き剣の師 塚田孔平師範からかけられた言葉を思い出していた…

諒太が塚田道場の門を叩いたのは中学一年のとき。幼い頃から食が細く、もやしのように貧弱な体格の当時の諒太は周囲からからかわれ、時にいじめられることさえあった。

そんな諒太も中学に進学し、その通学初日の帰り道、「パンパン」と小気味よく聞こえる打撃音と空気をつん裂くまるで女性の悲鳴のような甲高い大きな声を耳にし、驚きのあまり思わず足を止めた。
一体何事かと外から恐る恐る音が聞こえる建物の中の様子を覗いてみると、そこは民家の敷地の一画に設けられた剣道道場であった。道場の中には防具をつけた数名の剣士たちが気合いとともに全身から蒸気のような熱気を立ち昇らせながら一心に稽古に励んでいる姿があった。
諒太はその非日常的な光景に目を奪われ動けなくなってしまった。
それからというもの学校が終わると一目散に道場へ行くと窓の外から張り付くように稽古の様子を見続けた。そんな日が数日続いたある日、諒太は一人の男性から声をかけられた。

「このところ毎日見かけるが君は?」

「あっ!ぼ、僕は真田諒太と言います!け、決して怪しいものではありません…」

例のごとく食いつくように稽古の様子を窓の外から覗いていると突然背後から声がしたのだ。驚いた諒太はしどろもどろになりながら名乗った。男性は穏やかな表情で微笑むとこう返した。

「私は、この道場主で師範をしている塚田孔平というものだ。その制服は…君は中学生かな?」

「はい!今年入ったばかりの一年生です」

「そうか、道場の稽古は見ていて面白いかな?」

「はい!」

「よかったら中に入って近くで見ていきなさい」

「えっ?いいんですか?」

「もちろんいいとも。毎日熱心に稽古を見ている君のことはもうとっくに門下生の間でも話題になっているよ」
塚田は優しく微笑むと諒太を道場の中に誘った。
諒太と塚田が道場に入るなり左右に分かれた十人ほどの門下生たちが諒太に顔に向けて一斉に頭を下げ挨拶をした。

(僕のようなものに礼を?…)
これまで存在感が薄く、周囲からからかわれ、いじめられてきた諒太だけにこれには驚き思わず立ち竦んでしまった。

「今日は試合形式の実践稽古を行うんだよ。君は私の横に座って見学していくといい」

塚田師範の横で正座する諒太の背筋は無意識のうちに伸びていた。
道場には試合に向かう蹲踞の姿勢で向かい合う剣士を前に水を打ったような静寂の中、何ともいえぬ張り詰めた緊張感が漂っていた。いよいよ試合が始まると腹の底から発せられる気合い声はビリビリと道場の空気を震わせた。諒太は間近で繰り広げられる目にも留まらぬ速さで竹刀を打ち合う剣士の迫力に圧倒された。
激しい打ち合いのすえ試合が終わり、雌雄を決した剣士は防具を取るといかにも凛々しく流れる汗は爽やかに諒太の目には見えた。

「どうだったかね?」

そんな激しい試合を数試合見終わり、顔を上気させ呆けたように空間を見続けていた諒太に塚田は声をかけた。

「は…はい…なんと言ったらいいのか…言葉にならないくらい凄かったです…」

塚田は満足そうに頷いた。

「あの…」

「うん?」

「僕もやってみたいです。僕みたいなものにでも出来ますか?」
諒太は思わず口走っていた。

「君も剣道をやりたいのかね?」

「はい!」

「そうか…これは入門希望者には必ず聞いていることなんだが、君はどうして剣道をやってみたいと思ったのかね?」

「僕は体が貧弱で周りからいじめられています…皆さんの姿を見て僕も皆さんのように強くなりたいと思ったんです」

「そうか…君はいじめを受けているのか…」
塚田は溜息まじりに言葉をはいた。

「それで君は強くなったあかつきにはどうするつもりなのかね?」

「強くなって僕をいじめた奴らに仕返しをしたいです!」

一瞬、塚田は顔を曇らせたが、穏やかな口調で諒太に語りかけた。

「諒太君と言ったね?
多分、君が思う強さというものと私が思う強さというものは違うと思う…武道というものは相手を傷付けるものではなく、自分を守るために存在するのだよ。ましてや剣道というものは決して私怨のために使うものではないと私は思っている。いや、これは私の信念だ。仕返しのために剣道を使うことは決して許されない」

「でも…このままじゃ…
僕はいつまでたってもいじめられたままです…」
諒太は悲しそうにうつむいた。

「だが、一つ解決法がある。諒太君がそれでも私のもとで剣道の稽古をはじめたいという強い思いがあるのであれば、私は君が周りからいじめられなくなる方法を教えてあげる事が出来ると思う」

「本当ですか⁉︎」
諒太は目を輝かせた。

「道場の修行は厳しいぞ?ついて来れるかな?」

「はい!よろしくお願いします!」

こうして中学一年の真田諒太は、木蓮の花の香が漂う季節、正式に塚田孔平の門下生となった。
塚田道場には上は社会人から下は小学校低学年まで約20人程の門下生が在籍し、日々稽古に励んでいた。
各々道場に顔を出す時間が異なるため、全員が一堂に会する機会は殆ど無かったが、諒太が道場に行くと常に十人程の門下生たちが汗を流していた。
入門した諒太に対し、師範の塚田はいくつかの課題とルールを与えた。
まず、通常の竹刀の三倍もの重さのある素振り用竹刀での素振りを日に千回行うこと。面、小手以外の防具をつけたままでの登坂走を毎日一時間は行うこと。更に摺り足と足の運び方の練習。これらの徹底した基礎練習を日々の課題とした。
塚田が諒太に対して課題の他にルールを設けたのは、中学三年の間、対外試合には出場させない。もう一つは道場内の稽古においても諒太からの打ち込みは一切禁止とするという厳しいものであった。
つまり、目の前に相手が居ようとこちらからは一切手出ししてはならず、塚田の指示はとことん相手から「打たれよ」というものであった。
諒太が竹刀を振る事が出来るのは、唯一素振りに限られた。
もしこの時点で、体の小さな小学校低学年の女子剣士を相手に対戦をしたとしても諒太はぼろ負けしていたであろう。
それ程に経験を積んだ者と諒太の実力はかけ離れていたのである。
しかし、例え相手にならないとわかっていても竹刀を手にしているのに防御も打ち返すこともできずにただただ打たれるという事は他の剣道経験者から見れば屈辱以外の何者でもない。
最初のころなどは、重い竹刀を十回も振ると体がフラフラになり、腕が震え竹刀を上げることすら困難な状況であった。また、立会い稽古でも自分より体の小さな小学生相手にただ打たれ続けた。防具を着けていても打たれれば痛い。しかも、攻撃は必ずしも防具部分に当たるとは限らない。
的がずれて上腕や脇など防具の無い箇所に竹刀が当たることも茶飯事であった。すぐに諒太の体はどこもアザだらけとなった。

そんな日々が数ヶ月続いたある日、この様子を見かねた明石登という高校一年の剣道経験が6年にも及ぶ諒太にとって先輩剣士が師範の塚田に訴え出た。
これまでも他の門下生の幾人かはこんなやり方は道場内のイジメやシゴキの類いではないかとコソコソ話すものまでいたほどだ。
相変わらず諒太は同門生から練習の的として打たれまくっていた。
諒太に同情して打ち込みを手加減しようものなら、その者を塚田は激しく叱った。この時まだ諒太に反撃の機会は与えられてはいない。

「先生!あれでは諒太があんまりです!まるで案山子か木偶ではありませんか⁈ このままでは諒太は潰れてしまいます!」

「お前にはそう見えるか…
登、見てみろ。諒太は稽古についていっているではないか?」

「しかし!」

「あいつは見込みがある。私から見ても太刀筋が良い。今後、化けるかもしれないぞ。登よ、お前も諒太に越されないように励めよ」

塚田師範の予想外の言葉に明石の心中は穏やかでなかった。
(僕があんな剣道を始めたばかりの素人に越される?馬鹿な!)

この時の諒太を見て、後の諒太を想像出来たものは師範の塚田のほか上段者の極僅かな者しかいなかった。
ようやくこの時期、諒太は塚田の与えた課題についていけるようになっていた。

それから二年の月日が流れた…
塚田は休日を利用し、車で一時間もかからずに行ける草津の湯へ諒太を連れ出した。草津温泉は歴史が古く、打ち身や捻挫、切傷に効果があると言われる東日本屈指の名湯である。
深い緑が続く山道を歩き着いた露天風呂は広大な掛け流しの天然温泉で多くの来訪者が身体を癒していた。

「諒太、今日はここの湯に浸かり傷を癒すとよい」

「ありがとうございます先生!」

裸になった諒太の体はどこもあざだらけで、上腕などは何ヶ所も紫色に変色していた。しかし、塚田はその傷やあざではなく、諒太の肉体の変化に満足していた。諒太の体は入門した時とは比べ物にならないくらい肉がつき、厚みが出ていたのだ。
身長も更に伸び、顔つきもおどおどしたところが全く無くなっていた。
湯に浸かりながら塚田は聞いた。

「諒太、お前も来年は高校生だな。
将来、何になりたいとか夢はあるのか?」

「いえ、まだ具体的な目標があるわけではないのですが、僕は物作りが好きなので、そういう仕事ができたらと思っています」

「そうか…素晴らしい夢じゃないか。お前のその情熱で世界中の人の為、世の中の為になる物を造りなさい。そしてその夢の実現の為に学業も疎かにしないように励みなさい」

「はい!」

「諒太、実は私にも夢があるのだよ。昔からずっと温めていた夢がな…」

「先生にも?」

「ああ…息子も独立したし、近いうちに妻と一緒に人里離れた場所に小さな家をこしらえて畑をやりたいと思っているんだ」

「えっ⁈では道場はどうなってしまうのですか⁈」

「道場は閉じるつもりだ」

「そんな…」
塚田の突然の告白に諒太は動揺を隠せなかった。

「先生は剣道を捨ててしまうのですか!」
諒太は声を荒げた。

「諒太、よく聞きなさい。私は剣道を愛している。これまでの人生でさまざまなことを剣道から学んだと言っても過言ではない」

「では何故!?」

「剣道が好きだからといって、おのれの全てを捧げることが必ずしも正しい行ないとは限らない。剣道というものは読んで字のごとく剣の道だ。剣道によって培われた精神や肉体を他の別の道の為に使うことは決して剣道を捨てたということにはならないのではないかな?」

諒太は口を真一文字に結んで無言のまま目を落とした。

「なに、私が竹刀を置くのは今すぐということではない。安心しなさい」

「はい…」

「諒太、お前はよく稽古についてきている。稽古は辛くないか?」

「最初の頃は辛かったです…
先生の課題をこなすことが出来ずに毎日情けなくて…悔しくて…
でも、日が経つにつれ少しずつ体が軽くなっていくような感覚がして、素振りも走り込みも辛くなくなりました。今ではもう手のマメも痛くなくなりました」
諒太は湯から手を出し、手のひらをまじまじと見つめた。諒太の手のマメは、できては潰れを繰り返し、皮膚が硬くなっていた。

「お前は当初、いじめをする連中に仕返しをしたいが為、強くなりたいと言っていたが、今もその気持ちに変わりはないか?」

「それが…不思議なことにここのところぱったりといじめが無くなったんです先生。絡まれそうになったとき、相手のリーダーの目をじっと見返してやったんです。そしたら何もしないでその場からいなくなりました。思い返しても理由がわかりません」

「ほう…それはお前は気がついていないのかもしれないが、お前の目には自然に闘気が気迫として出ていたのかもしれないな」

「闘気?ですか? でも、僕には相手と闘う気なんてありませんでしたよ。先生の言いつけ通り争い事は避けるつもりでした」

「それこそが私が思っていたいじめを受けぬ解決法だったのだよ」

「えっ?どういう事ですか?」

「諒太、お前はこの二年の間に成長したのだよ。体も見違えるほど大きくなったし、私が与えた課題を逃げる事なくやり続け、精神力も強くなった。今のお前の顔には自信がみなぎっている。『戦わずして勝つ』これこそが私がお前に伝えたかった最善の方策なのだ」

「戦わずして勝つ…?」

「そうだ。諒太、お前はこれまでいじめをする側の気持ちを考えたことはあるか?」

「いえ…」

「いじめをする人間というのは自分に自信がない。だから自分より力の弱い人間を標的にすることで優越感を得る。何かに向かって一心不乱になって自信に満ちている者や、自分より力の強い人間には決して手を出さない。自分が負けることが怖いからだ。そういう人間はいじめをしてもその心は満たされず虚しいままなのだよ。なぜなら心が弱いからだ。お前はこれまで道場でも負け続けた。それでもお前は耐えた。
絡まれたとき、負けても構わない、やれるものならやってみろ、という気持ちがどこかになかったか?」

「ありました…その時、自分に自信があったかどうかはわかりません…でも、いじめをする連中を哀れに思いました。もっと自分を高めればいいのにと…そう思ったら急に怒りというか哀しみというか複雑な感情が込み上げてきました。彼らにではなく、何か別のものに対してです…」

「お前のその怒りや哀しみの感情のもとは業ともいうべき人の心の弱さと、理不尽さに対してではないかな…そのモヤモヤした気持ちが闘気として発せられたのだと私は思う。諒太、腕力に訴えずとも勝つことはできるのだよ。相手はお前の気迫の前にこれは敵わないと直感的に悟ったのであろうよ。だから引き退った。それはお前に強い精神力が宿っていたからなんだよ」

「僕にそんな力が?…」

「諒太、次の日曜日、登と対戦してみよ。お互い条件は同じ三分一本勝負だ」

「えっ!明石先輩とですか⁈
無理です!僕の実力じゃ十秒と持ちません!」

「私はそうは思わんよ」
塚田は穏やかな顔で言い切った。


試合の日、諒太が縛りを解かれ、初めて竹刀を用いて試合にのぞむというので、普段は時間が合わず一度に集まることのない塚田道場門下生全員がこの試合見たさに集まった。
この時、殆どの門下生は試合開始直後に明石が一本を取るだろうと予想した。

(諒太、お前には悪いが、僕は今年のインターハイが最後なんだ。こんなことに時間をかけて遊んでる暇はないんだよ。お前に恥をかかせないよう一瞬で決めてやる)
明石は冷静に防具をつけ始めた。

「先生!やっぱり僕に試合なんてまだ無理です!」
諒太は塚田に泣きついた。

「お前にはまだ攻撃を教えてはいない。何も登に勝てとは言わん。三分の間打たれるな。負けるな。お前なら出来る」

「でもどうやってあの速い明石先輩の攻撃を躱すというのです⁈」

「諒太よ…目に見えるものが全てではない。感じるのだよ。全身を研ぎ澄ませてな…」

塚田の指示はこれまでとは真逆のものであった。これまで「打たれよ」という指示どおりに稽古をしてきた諒太にとって「打たれるな」という指示は全く予想外のものであった。

そしていよいよ試合が始まった−。
明石は諒太に向かって飛び込むと脳天に向かって疾風の面を打ち込んだ。
殆どのものが決まったと思った。
だが、一瞬早く諒太は頭を引いてこれを躱していた。場がどよめいた。明石の攻撃を躱せるものはこの道場でもそうはいない。一番驚いたのは明石本人である。完全に決定打を確信した面打ちであった。

(諒太、はては俺が面を打つとあらかじめヤマを張って準備をしていたな?…だが、次の攻撃は予想出来まい)
明石の怒涛の攻撃が開始された。
しかし、諒太はこれもことごとく躱す。諒太は明石の打ち込みを僅かにポイントを外しながら避け続けた。結局三分間、諒太は決定打を一本も取られることもなく立ち続けたのである。
礼をして退がった明石の顔は驚嘆のあまり青ざめていた。

「何故だ…何故当たらない…」
放心状態で防具をとりながらぶつぶつと呟く明石に向かって隣に座る塙直幸が口を開いた。塙は社会人で、経験も豊富な上段者であり、これまで数々の賞をとるほど道場の中では師範の塚田に次ぐ腕の持ち主である。

「登…わからないか?」

「えっ…?」

「諒太はこの二年の間、打たれ続けた。誰だって打たれれば痛い。つまり諒太はその痛みを誰よりも知っている。体が覚えているといってもいいほどにな。あいつはこの二年の間にどこを打たれれば痛くないかを悟ったのだよ。だからお前の打撃は全て紙一重のところで躱された。
恐らく塚田先生は経験の浅い諒太がどうすれば短期間に力をつけるか先を見据えてあの課題を与えたんだろうな…」

「痛いのが嫌だから躱すことができた?」

「登、諒太はお前の攻撃をただそれだけの理由で躱していたんじゃないぞ」

「どういうことです塙先輩!」

「あいつは剣道上段者でも中々会得が難しい『見切る力』を自然に身につけていたんだよ。諒太はお前の繰り出す剣筋を一瞬で判断し見切っていたのさ。登、人間というのは動作をおこす時には気づかぬうちに何かしらサインが出ているものなんだ。
腕を動かす前には肩が動き、脚を動かす際には腰が先に動く。眼球の動きや呼吸する胸の動きでも次の動きを察することができる。諒太はこちらから攻撃が出来ぬ縛りがあることで逆に相手を観察することに長けたんだと思う。
この試合は、その鋭い観察力とあいつの修行で鍛えられた強靭な肉体があればこその三分であったのかもしれない…
もし俺が諒太と対戦していたとしてもあいつから一本取るのは難儀であっただろうな…」

「なっ…」
明石に続く言葉はなかった。


その後、諒太はめきめきと力を付け、高校に進学すると、初めての対外試合となるインターハイ個人戦に出場する。
予選を勝ち進むたび、師範の塚田はその勝利を自らのように喜び、諒太を抱擁し諒太の髪がぐしゃぐしゃになるまで褒め称えた。
そして、決勝では二年に渡り竜男と激闘を繰り広げることになる。

その諒太が尊敬してやまない師の塚田であったが、諒太が高校三年に上がったとき突如逝去した。
死因は心筋梗塞であった。深夜、道場で一人稽古中に倒れ、そのまま息を引き取ったのだ。
早朝に家族が見つけた時には、既に冷たくなっていた。道場の真ん中で仰向けに倒れ、死して尚、その姿はまるで持国天のようにその手には木刀が握られていたという。

道場は悲しみに包まれた。
生前、塚田に一番可愛がられたと言ってもいい諒太も深い悲しみの中にあった。

その日を最後に諒太が道場に姿を見せることはなくなった。
諒太は師の塚田の遺志を守り、竹刀を置きペンに持ち替えた。もう一つの夢のため歩みだすために…


もう…側に師の塚田はいない…
諒太はゆっくりと息を吐くと全神経を目の前のニックに集中させた。
腕をだらりと下げ、視覚に無駄な情報を入れないよう薄く開いた眼からは低い体勢でナイフを構え薄気味悪くニヤつく男のみが見えている。
もう逃げ場はない。次の攻撃で全てが決まる。
ニックはサングラスをかなぐり捨てると青い瞳で諒太を睨んだ。

33 蛇と龍

脇の路地道に、一台のタクシーが勢いよく滑り込んでくるのが教会を張り込んでいる江江と陽の目に留まった。間をおかず後部ドアが開くと、真っ黒に日焼けした坊主頭の小男が飛び降り、手にスマホを持ちながら周囲をキョロキョロと見渡しているのが見える。すると男は、教会前に駐車されている無人の撮影隊のワンボックスカーへ向かうと、開いたままになっている後部ハッチから荷室に入り、脚立を取り出すと肩にかけ、黄色いヘルメットを頭に被っておもむろに教会の入り口に歩いていった。この男に対し、入り口に貼り付けている警備員も特に気にする様子もない。

「遅刻したバイトみたいっすね?
それにしてもあいつ猿そっくりだな…ハハハ」

「そうみたいね。今時のバイトは現場に来るのにタクシー使うの?
随分と贅沢じゃない」

「あまり遅れると、上からこっ酷く叱られるんじゃないんすか?その点、うちは緩くて助かりますけど」

江江と陽は苦笑した。

「チーリンさんは何かご自身に対して嘘をついているのですか?」

スミス牧師の問いかけにチーリンはうつむいたままだった。

「チーリンさん…私は神に仕える身…
どうか心を開いて話してみてはくれませんか?」
スミス牧師の優しい口調にようやくチーリンの口が開いた。

「スミス先生…私には心から慕っている方がいます…でも…その方とは今世では幸せを共にすることは出来そうにありません…
だから…だからせめて来世でもう一度出会いたい…
そう思ったんです…

でも…それすら出来ないのですね…」

「どうしてです?」

「私はこの先ずっと嘘をついて生きていかなければならないからです…全て忘れたふりをして自分の気持ちを押し殺し、偽りの笑顔を見せながら生きていかなければならない…
一生自分の気持ちに嘘をつき続けながら…」

「チーリンさん…」
スミスは心配そうに哀しげにうつむくチーリンの横顔を見つめた。

「いいんです…スミス先生…私には縁が無かったことなんです…私だけの儚い思い…これも与えられた運命として受け入れるつもりです」

「チーリンさん…牧師という立場でありながらこんな事を言うのは適切ではないのかもしれませんが、私は運命という言葉が好きではありません。後付けの言い訳に使う都合のよい言葉に聞こえてならないのです」

「言い訳?」

「はい。多くの人は運命とは予め定められた道であり、人の力では変えようがないと思っていますが、そうではありません。人間は命がある限り未来は変えられるのです。そのために力を尽くし、足掻いて、足掻いて努力を惜しまぬ者にのみ望む未来は開かれるのです。
そうです。運命というものは努力次第で変えることが出来るのですよ。
チーリンさんは運命を受け入れる前に力を尽くしましたか?」

「え…? でも…どうしたら…」
チーリンは再びうつむいた。

その時であるー。

「チーリンさん、花妹さん」
いきなり聞き覚えのある日本語が背後から聞こえてきた。
振り向いた二人は驚嘆した。そこには首にタオルをかけ、黄色いヘルメットを被った竜男がベンチに座っていたからだ。傍には脚立が置いてあり、まさにその姿は美術スタッフと見分けがつかないほどだ。

「竜男さん⁈」

「シッ!振り向かずに前を向いていて」
竜男は目立たないように下を向きながら囁いた。

「宮城さん⁈ どうやってここまで⁈」
花妹は信じられないという顔で声をあげた。

「船だ。諒太と一緒に海を渡ってきたんだ」

「真田さんと⁈」
花妹は思わず横に座るチーリンの顔を見つめた。

チーリンは、やにわに立ち上がると周囲を隈なく見渡した。
しかし、諒太の姿はどこにもない。

「諒太さんは?諒太さんはどこに⁉︎」
チーリンは竜男の忠告も聞かず振り返って問いただした。幸い今のところ休憩中の撮影関係者たちは、おもいおもいに飲み物を飲みながらお喋りしたり、煙草を吸いに外に出ていて、チャペルの中に気を配る者はいない。

「諒太はここにはいないんだ…」

「何処にいるの竜男さん!」
悲痛にも似たチーリンの声であった。

「あいつは…あいつは今、台北東海公司本社にいる。一人で呂威と決着をつけるために…」

「何ですって⁉︎ 呂威社長がどんな人間か知っているの宮城さん⁈そんな所に行ったら真田さん無事で戻ってこれないかもしれないのよ!」
花妹は驚き声を上げた。

「俺も止めた…だが、あいつの覚悟の行動を俺でも止める事は出来なかった…すべて承知の上でであいつは行ったんだ花妹さん…
あいつは一命をかけて乾坤一擲の勝負に出たんだ…」

「私も本社に向かいます!」
チーリンが今にも飛び出しそうな勢いで立ち上がった。

「ダメだ!行ってはならない!」
竜男は強い口調で言い放った。

「どうしてなの竜男さん⁉︎」

「何人たりともあいつの邪魔をすることは許されないんだ…
諒太は俺に言ったんだ。一人で呂威のもとへ行く理由は、自分自身の誇りを取り戻すためだって…
…あの震災から彷徨っていたあいつの魂はようやく大切なものに気づいたんだ。あいつは今日、この台湾の地で終わってもいいとさえ思っている…呂威と刺し違え、命を捨ててでも誇りを取り戻すためなら…

それだけの覚悟の男を一体誰が止める事ができる?…
チーリンさん…わかってほしい…あいつの決意を無駄な物にしないで欲しい…
あいつを失いたくない気持ちは俺だって一緒なんだ…俺だって…俺が一番…」
竜男は掠れた声で瞳に涙を浮かべた。

「そんな…」
チーリンはその場に力なく崩れた。

「だけど…だけど、あいつは俺に約束したんだ…必ず戻るって…
諒太はこれまで一度たりとも約束を違えたことはない。あいつは必ず帰ってくる。俺は諒太を信じて待つつもりだ」

「ねぇ⁉︎宮城さん、真田さんは志玲に何か言ってなかった?」

「いや…何も…」

「何も?…」
呻くような声を発し花妹は絶句した。

悲痛な顔でうつむいているチーリンは瞳を閉じ肩を震わせている。

「あいつは何も言わなかった…
ただ、チーリンさん…これを貴方に渡してほしいと頼まれた。そのために俺はここに来たんだ。俺にはこれにどんな意味があるのかはわからない。諒太は渡してくれればチーリンさんならわかってくれると言っていた…」

竜男から諒太の託された想いを受け取ったチーリンの瞳にはみるみる涙が溢れた。

「志玲、何なのそれは?」

「自由…」

「自由?」

(諒太さん…)
チーリンの瞳から大粒の涙がぽたりと溢れ落ちた。

休憩時間が終わったとみえ、ぞろぞろと撮影スタッフがチャペルの中に戻ってきた。
体の大きな美術の責任者と見られる男が何やら竜男に向かって大声を張り上げている。仕草からどうやらこっちに脚立を持ってこいと言っているようだ。

「じゃ、チーリンさん、花妹さん、俺は行くよ」
竜男はヘルメットを脱ぐと男の言葉を無視して出口に向かって歩き出した。

「私…何やっているんだろう…あの人は運命を切り開くために一人で試練に立ち向かっているというのに…

スミス先生…まだ…間に合いますよね?
私…運命になんか負けたくない…
自分の心に嘘をつきながら生きていくなんてやっぱり出来ない…」
チーリンは涙声で呟いた。

スミス牧師は穏やかな笑みを浮かべながら首を縦に振った。

その瞬間、教会の荘厳で聖なる鐘の音が鳴り響いた。

「おかしいですねぇ?…今日は撮影があるので鐘は止めてあったのですが…」
スミス牧師は首を傾げた。

「志玲、行きなさい」
花妹は力強くチーリンの手に自らの手を重ねた。

「花妹…」

向き合う二人は優しい笑みを浮かべて無言のままうなづき合うと、チーリンは意を決したように身につけているジュエリーを全て外し花妹に渡すと先を行く竜男の背中を追いかけた。

「待って‼︎待って竜男さん!私も一緒に連れて行ってください!」

「わかった!」
竜男は振り返り戻るとチーリンの手を取り走り出した。
この様子を狐にでもつままれたような顔で見ていた撮影スタッフだが、このただならぬ空気に気がついたチーリンの監視員の女性がドアの外から急いで駆け寄ってくる。
すると、花妹がいち早く監視員の前に立ちはだかると両手を広げて行く手を遮った。

「ここは私に任せて行くのよ志玲!行って幸せを掴みなさい!」

「花妹ありがとう!」

「そこを退きなさい!」
監視員は花妹を力づくで退けようとするが、花妹も引かない。揉み合いながら必死で監視員を押さえる花妹のわきを抜き竜男とチーリンはついに教会の外に飛び出した。

(真田くんはたった一人で彼等に立ち向かっているというのに私はここで一体何をしている?私のこのザマはなんだ?)
尹部長は秘書室で隣の社長室の様子をモニターを見つめながら頭を抱えていた。尹の脳裏に浮かぶのは苦楽を共にして亡くなった妻の顔である。

(私のこんな姿を妻が見たらどう思うだろう…夫婦二人で築いてきたものを私が全てぶち壊してしまったのだ。
私は心の弱さからいつも楽な道を選び、目の前の壁を乗り越えることが出来なかった…いや、しなかったんだ。見てみろ!彼は遥々日本からやってきて命がけで闘っているじゃないか?
ああ…私は恥ずかしい…
私にだってやれることはあるはずだ…私は魂まで奴等に売ったわけではない!私は…私の信念に従う!)
尹は覚悟を決めたように今、モニターに映る社長室の映像の録画を開始するとともに、全館放送にその音声をのせた。


薄く開くまぶたの内にはギラギラした殺気に満ちた男の姿が映っていた。しかし、諒太には全く気負いはない。正に『無』の境地とはこのことであろう。死の恐怖も感じない。目に映るものはただの現象に過ぎず、音すら聞こえてこない。だらりと伸ばした腕にも些細な力一つ込められていない。一切の重力のストレスから解放され、川縁の柳の木のように諒太は涼やかにただそこに佇んでいた。仏陀のように口元には笑みを浮かべ、まるで気持ちよく眠っているかのように…

その時ー
男が放つ気の流れが変わった。

シュッ‼︎
男の突き出したナイフが空気を切り裂き突き出された!

今‼︎

諒太の耳の奥に師の塚田の声が響いた。瞬間、諒太の体がその場にがくりと落ちた。

繰り出されたニックの殺人ナイフは今そこにいた諒太の喉元に寸分の狂いもなく正確に突き出された。しかし、ナイフは虚しく空を切ると背後の壁に突き刺さった。
諒太の体はまるで糸の切れた操り人形のように一度ガクンと床まで落ち込むと、一転、警棒をくるりと回し、持ち手の部分を上にすると思いきり床を蹴って警棒を突き上げた。

グシャ!

何とも言えぬ気味の悪い音が空間に響き渡った。

「グハ‼︎」

次の瞬間、ニックの大きな呻きが響き渡った。諒太の突き上げた警棒は、ナイフを突き出した後、前傾になっているニックの前歯を吹き飛ばし、さらに上唇を裂いて高い鷲鼻をありえない方向に曲げた。同時に白い絨毯はニックの折れた鼻と口から噴き出す鮮血に赤く染まった。ニックは止まることのない、たちまちのうちに腫れ上がった鼻から流出する夥しい血を必死に両手で押さえながらついに両膝をついた。
諒太の突き上げで鼻と口を真っ赤に染める大量の流血は呼吸を困難にしているようだった。

「戦況に応じて臨機応変に変化する。自分のやり方に固執してこれが出来ない者は戦場で生き残ることは出来ないか…なるほど。あんたの忠告役に立ったよ」
諒太は背後の壁に突き刺さったままのナイフを引き抜くと男の近くに放った。

「滚出去‼︎」
(出ていけ‼︎)

呂威の怒号が飛んだ。
三人のボディーガードたちは苦痛に顔を歪めながら立ち上がると、互いの体を支え合い、社長室を這々の体で出て行った。

諒太は手にしていた警棒を床に放り、ゆっくりと前に進むと、左壁に掛かった巨大な二枚の絵画の前で足を止めた。

「良い腕だ真田くん。しかし酷いことをしてくれるじゃないか?君が破ったあの花瓶、あれは清朝時代のものでねぇ、君が逆立ちしても買える代物ではないのだよ」
自分のボディーガードの体の心配などどうでもいいと云うように呂威は破壊された花瓶を指差して椅子にふんぞり足を組んだ」

「ほう…あんた日本語が話せるのか? それは悪かったな。だが、俺は振りかかる火の粉を払ったまでだ」

諒太は一枚の絵画に目を奪われながら呂威に顔を向けることもせずに口を開いた。
諒太が見つめる絵画は、光と影の魔術師の異名を持ち、スポットライトを当てたような光の明暗を駆使したオランダバロック美術の巨匠レンブラントの絵画であった。
諒太は初めてみる実物のレンブラントを前に心を奪われたように見入った。描かれているのは、地位の高い人物のようで、立ち姿の男性は王族のような高貴な衣装を纏っている。向かって左側から入る光に顔半分の姿は浮かぶが、右半分は暗く黒い闇の中に隠れ人物全体を垣間見ることは叶わない。

(光と影か…)
諒太はキャンバスという限られた空間の中に人間という生き物の二面性を映しだすような表現をするレンブラントの見事な大作を前に感嘆し、大きな息を吐いた。

更に横に並ぶ絵画は、ホイッスラーの画風を連想させる椅子に座る婦人が描かれたものであった。
黒い髪を一つに纏め、紫色のチャイナを着るその東洋系の婦人は、薄い笑みを浮かべてこちらを見ている。必ずしも若くはないその婦人の姿はどこか物悲しい雰囲気をたたえていた。作者の分からない作品であったが、諒太は何か言いたげなその婦人の表情に惹きつけられ、画に見入った。

「真田くん、君のことは色々調べさせてもらったよ」
呂威はおもむろに机上のファイルを開いた。

「真田諒太。国籍日本、群馬県出身36歳。戦国武将真田幸村の末裔…
中学から剣道を始め、高校の時にはインターハイ出場、二年に渡り全国優勝するも、3年の時に剣道の世界から突如姿を消す。その後、優秀な成績で東京帝国大学に現役で合格、4年間電子工学を学ぶ。卒業後はその知識を活かすべくSOMYに就職する。入社後はSOMY初のスマートフォン開発担当者として宮城県石巻研究室に配属され、僅か数年でXberiaを完成させ世に送り出すなど数々の実績をあげる。しかし、2011年3月、震災に見舞われ、目の前で妻子を津波に奪われる。
それからはSOMYも辞め、世捨人のように美波間島に移り住み、独り芋づくりをしながら隠遁生活を送る…か。フンッ!くだらん人生だ」

呂威はファイルを閉じ乱暴に机に放った。

「どうだい真田くん、僕の下で働かないか?君ほどの腕ならボディーガードとして高給で雇ってやるぞ?
なんなら、あの三人の年俸をあわせた額を君一人にやろう。彼奴らをクビにしても三人分の働きを君ならしてくれそうだしな」

呂威の言葉に諒太の反応はなく、呂威に目を合わせることもなく静かに絵画に見入っている。

「チッ、ならば特別ボーナスをつけてあげるよ。台北市内に君のためにマンションを用意してやる。
そこに蔡志玲も付けてな。君が望むならそこで一緒に住んでもいいさ。もちろん世間には内密にだがな。この条件ならば君も文句はあるまい?」
呂威は目を細めニヤリと笑った。

「チーリンを自由にしてやれ…」
この時、初めて諒太は呂威と向き合った。

「フッ、何を言うかと思えば。君はわざわざそんなことを言う為に遥々ここまで来たと言うのかね?」

「ああそうだ…チーリンは純真で聡明な女性だ。決して会社の部品などではない。物扱いはするな」

「真田くん、君は何か勘違いをしているようだね?志玲は人気女優ではあるが、あくまで我が社の労働者の一人で我が社のものだ。志玲に限らずどう従業員を使おうと代表者である僕の裁量の範囲なんだよ。君は甘い事を言っているが、所詮、被雇用者というのは会社の歯車であり、いち部品なのさ」

「それは違うぞ!社員にも生活があり、家族がいる。あんたのためにどれだけの社員が身を粉にして働いていると思っているんだ?どうしてもっと社員を大事にしない?社長にとって社員は家族同然じゃないか?」

「社員は家族だ?寝言を言うな。
社員など組織を支える単なる駒に過ぎないのだ。
使えなくなれば捨て、使える新しいものに変える。
それが世の中の道理であり、社会の秩序なのだ。
そう…言ってみれば人間など単なる道具に過ぎない」

「道具だと…?」

「真田くん、世の中は常に動いているのだよ。近い将来、AIが人間の頭脳を抜き、人にとって変わる。更に凄まじいスピードでロボット工学は進歩している。労働など人間でなくとも良くなる時代がもうそこまで来ているのだよ。現に君が従事する農業だって自動化の波が来ているではないか。工学を学んだ君なら簡単に分かる事ではないかね?」

「人間には機械には無い感情があるんだぞ」

「それだよ!真田くん。その感情というものが邪魔なのだ。機械ならば報酬も要らず、文句を言うこともなく24時間働き続ける事が出来るではないか?人は何かといえば給料を増やせだ、待遇を改善しろと叫び、隙あれば組織を転覆させようと企む。
僕は歯向かうものは決して許さない。それが機械ならばその心配はないからね。近く我が社も大規模なリストラを行い、社員を人工知能に切り替えていくつもりだ。人間は組織の中枢に少人数いればよい。結果、人減らしが会社に利益をもらたすことに繋がるのだ。合理的だとは思わないかね?」

「それがあんたのために…台北東海公司に尽くしてきてくれた人たちへの答えだと言うのか?」

「Exactly!」(その通り!)
呂威は両腕を広げておどけた。


(こんな…こんな男のために私は人生の全てを捧げたというのか…)
秘書室でこの様子モニターを見つめる尹は、唇を噛みしめ涙を流した。


「呂威、あんたには人の心が分からないのか?」

「真田くん、君こそ企業の論理が理解出来ていないようだね。企業は慈善事業をしている訳ではないのだよ。企業の存在価値とは如何なる手段を使ってでも利益を上げ続けること。その利益を株主や投資家に分配する。それこそがマネーをあまねく循環させ、世界を動かす力となるのだ」

「その為に多くの人を不幸にしてもか?」

「そんな事は関係ない。世の中には持つものと持たざるもの、この二種類の人間しかいない。持つものは更に富み、持たざるものは生涯地を這いながら辛酸を舐めて生きることになる。それは不幸なことか?自業自得の必然の結果だろう?
貧乏人は金持ちを卑しむが、そんなものは妬み以外の何物でもない。
不幸なのは社会のせい?
政治のせい?
生まれ育った境遇が悪いから?
甘ったれたことをほざくな。
貧乏人は才能もないのに夢ばかり見ている。自らを変えようともせずにな。僕はそんな輩を見ると反吐が出る。成功を収めるものにはそれだけの能力があるということだ。
能力を有するものは大きな金を手にする事が出来る。そうさ…金は力だ。力こそが正義であり、世界を支配することが出来る原動力なんだよ」

「それは違う!金で買えないものだってある!」

「それは何だ?
まさか愛だ、友情だ、絆などと寝惚けた事を言うんじゃないだろうな?志玲も君と似たような事を言っていたが、人間はそんな清廉なものではない。平気で嘘をつくし、平気で裏切る。人の心などというものは移ろい易いものなのだ。
目の前に札束を置いてやればころりと態度を変える。つまり、この世に金で買えないものなどないということだ。現に君の近くにも私欲のために美波間島を金で売る輩までいるではないか」

「やはり島の開発計画が急に進行したのはあんたの差し金だったのか…
呂威…あんた哀れだな…
人の優しさを知らないとは…」

「フンッ、優しさだと?笑わせる。ならば君は、人のために何が出来る?命をかけることが出来るとでも言うのかね?」

「ああ…大切な人のことを守れるのならばこの命…惜しくはない。
改めて言う。チーリンを自由にしてやれ」

「ハッハッハ狂気だな。たった一人の女のために命を張るなどまるで馬鹿げている」

「狂気か…確かに狂気なのかもしれない…だが、人は大切な人のためになら狂気にもなれるんだよ。
例え自分が犠牲になってでも大切な人を守りたい…それだけだ。
呂威、これまでの人生、一体何があった?
あんたには大切な人はいないのか?」

「そんな者などいない!僕が大切なものは僕の会社を支えてくれる株主であり、投資家さ。そんな陳腐な情に縛られているようでは社長は務まりはしない。それに真田、お前の論理は破綻している。自分が先に死んでしまったら守りたい人が残ったとしても、その先を見る事が出来ないではないか?」

「俺はそれで構わないと思っている。俺のことなんて忘れてくれたっていい。その先、他の人と愛を育んでくれてもいい。見返りなんて何もいらない。大切な人が幸せになってくれるのなら…
その為にかける命ならば意味がある。一途に大切な人の幸せを願う…それが人間ってものなんじゃないのか?」

「フンッ…そんなものは戯言だ。
一体、人が何をしてくれる?あくまで人が人の為に動く動機は金だよ。お前がいくら人を想ってもお前の儚い願いはガラス細工のように簡単に砕かれてしまうのさ。
真田、お前はそんな世迷言を僕に講釈するためにここへ来たのか?」

「呂威、あんたのおかげで自由を奪われ、仕事を奪われ、住む場所を奪われた人たちが大勢いる。今からでも遅くはない…進むべき道を正して、もっと人の心に寄り添った生き方をしてはもらえないだろうか?どうか会社のトップとして厚情ある英断をくだしてほしい…暴力や抑圧から生まれるものは悲しみと虚しさしかないんだぞ…」

「黙れ!僕は誰の指図も受けない!
僕は僕の信念のまま生きる。志玲も解放しないし、美波間島の開発もやめない。金を産みだす事業を誰がみすみす手放すものか!真田、お前には邪魔をさせない!」

諒太は黙ったまま呂威に向かって歩みを進めた。

「そ、それ以上近づくな‼︎」
呂威は慌ててデスクの引き出しからグロック拳銃を取り出すと諒太に狙いをつけた。

「呂威!」

諒太に向けられた拳銃を持つ呂威の手はブルブルと震え、目の焦点も合っていない。

諒太は構わず更に一歩前に出た。

「こ!これが見えないのか真田!」

「見えているさ。撃つなら撃て。俺はここにいるぞ」
諒太は眼光鋭く呂威の目を見つめた。

「う…ううっ…」
呂威の額からは汗が流れ落ち、顔は紅潮している。

「あんた人を殺したことはあるのか?」

「な!何だと⁈」

「やはりな…あんた、手の汚れる仕事はあの連中に全てやらせて、自分は指示するだけだったのだろう?」

「煩い!ぼ、僕がこの引き金を引けばお前は死ぬんだぞ!」

「ああ…この至近距離で撃たれれば死ぬだろうな。だが、撃てばあんたも終わりだ。この場をうまく誤魔化せても人を殺したという事実は変わらない。一生罪の意識を背負いながら生きていくがいいさ。俺は死んでもあんたの目蓋の奥に生涯残る。あんたを社会から追放出来ればそれで本望さ…俺は暴力には屈しない。さあ、遠慮は要らない。撃て」

ガチガチガチガチッ
呂威の奥歯が当たる音が聞こえる。
呂威はガタガタと震えながら後ずさった。
諒太は更に前に出る。

「さあ撃て!」

「う、うあぁぁ!」

パン‼︎

一発の火薬が炸裂する乾いた銃声が轟いた…

34 光と影

「何だぁ⁈」
いきなり教会から、先程の坊主頭の小男に手を引かれ、真っ白なウェディングドレスを纏った蔡志玲が飛び出してきたのだ。車内からこの光景を目撃した江江と陽は目を見張った。
たまたま出会した通行人もびっくりして足を止めている。それはまるで黒い猿に手を引かれた美しい花嫁というところで、誰一人この珍妙な事態を飲み込めるものはいなかった。
二人はそのまま大通りまで走ると、流しのタクシーを捕まえ乗り込んだ。

「追って!」

「了解っす!何だか面白くなってきましたね」
江江と陽の車は、志玲が乗り込んだタクシーの後を追い、勢いよくアクセルを踏み込んだ。

その教会の中は騒然となっていた。
苛立つ監督の怒声が飛び、目的を失った撮影スタッフたちは、ただ右往左往していた。そんな中、休憩を終えてチャペルに戻ってきた周廣中は目の前を通りかかった若い男性アシスタントの腕を強引に引っ張った。

「どうした?何かあったのか?」

「蔡志玲が教会を飛び出していってしまったんですよ!」

「何⁈ 撮影はどうなる?俺の夢はどうなる?」
周はアシスタントの肩を強く揺すった。

「そんなこと僕に分かる訳ないでしょ⁈ 痛いなぁ、離してください!」
アシスタントの男性は周の手を振り解き走って行ってしまった。

「そんな…俺のスターへの道が…」
周はその場にへなへなと崩れ落ちた。


薄く煤のついた一発の薬莢が絨毯の上に転がっている。立ち昇った白煙と硝煙の臭いがまだ部屋の中に漂っていた。
発砲した姿のまま、呂威は少しも動くことも出来ず、腕はぶるぶると震え、見開かれた眼球は血走っていた。

この一部始終の光景を尹は固唾を飲んでモニターごしに凝然と見つめていた。

ガタン‼︎

僅かの間生まれた静寂を切り裂くように大きな音と共に婦人が描かれた絵画が突然床に落下した。
その途端、呂威はいきなり現実に戻ったかのように手にしている拳銃を机に放ると画に向かって走りよった。

「妈妈‼︎」(マーマ‼︎)
諒太を狙って放たれた弾丸は、大きく軌道を外して額縁を吊すワイヤーの一本に当たり、バランスを崩した画が床に落下したのだった。

「ママ?
その女性はあんたの母親だったのか…」
諒太は目を細め婦人が描かれた画に縋る呂威の背中を見つめた。

「ごめんよ…痛かっただろ…?」
膝をつき、縋り付くようにして呂威は画に向かって語りかけた。

描かれた婦人の目は先ほど観たときよりも悲しそうに諒太には見えていた。

「真田…滑稽だろ…今や世界を股にかける台北東海公司のCEOが手が震えてまともに拳銃の引き金ひとつ引けない…笑いたければ笑うがいい…」

「あんた…根っからの悪党ではないようだな?」

「フッ…どうかな…
僕が日本語を話せるのは、僕の父親が日本人だからだ…
そして、香港生まれのこの母のおかげで、僕は人並み以上に教育を受けることが出来た」
呂威はキャンバスを見つめながら、ぽつりぽつり語り始めた。

「僕は香港で生まれ育った…今は無きあの忌まわしき九龍城砦でな。
そうさ…僕にとってここ台湾は縁もゆかりもない場所なのさ…
お前も知っているとは思うが、当時、九龍は世界でも屈指のスラム街で、その環境は地獄のほうが余程マシと思えるほどだった。雨が降れば水が溢れ、下水などまともに整備されていない敷地の中には、人の汚物や鼠の死骸が浮き、酷い臭気を放った。当時の九龍の治安は最悪で、賭博、麻薬取引、銃器の売買、売春などありとあらゆる犯罪が蔓延っていた。時には些細ないさかいが原因で殺人も起こった。九龍はそんな世の中の掃き溜めのような場所であったが、人間の尽きない欲望が熱気となって溢れていた。無届け非合法の店が乱立し、床屋、食堂、酒場、刺青屋、もぐりの病院など、ない物などない独自のコミュニティを形成し、まるで香港の中に独立した小さな国家があるようだった…
一日中、妖しい光を放つネオン看板に惹きつけられるように、行き場をなくした人間たちがまるで街灯に集まる蛾のように群がった。何も知らずに入ったら最後、二度と出る事は出来ないなどと真しやかに噂が立ったほどだ。それは些か大袈裟だが、九龍には警察でさえ恐れをなして近づこうとはしなかったのは事実だ。
当時、九龍城砦は、司馬碕という香港マフィアのボスが仕切っていた。
裏で香港政庁の長官ともサシで話が出来る程の大物だ。司馬碕はマフィアの親玉ではあったが、懐の大きい男で、自らが作ったルールを守らない者や、楯突くものに対しては暴力で容赦ない制裁を下したが、食うに困った弱いものには住む場所を与え、庇護を施すような同時に善行を行う風変わりな人物だった。
女一人、頼るあてもなく、幼い僕を連れた母さんは司馬碕に九龍に住む事を許された。しかし、住むことを許されても生活の面倒まではみてはくれない。九龍では、司馬碕に目を付けられない限り、何をするのも自由だが、自ら糧を見つけ生きていくのが九龍に住むうえでの最低のルールだった。
九龍の内部は違法に増築を重ねたエレベーターすら無い汚れた剥き出しのコンクリートのビルが建ち並び、行き場をなくした人間の底辺ともいえるどうしようもない連中が一日中たむろっていた。昼間でも日の当たらない暗い建物の中は、常に湿気でカビ臭く、鼠やゴキブリが這い回り、廊下や階段には昼間からドラッグに溺れ、目がイッテしまったジャンキーたちが居座るまさに無法地帯だった。

筆舌に耐えがたいそんな環境の中で母さんは女手一つで僕を育ててくれたんだ…
犯罪に手を染める事もなく、昼は屈強な男たちに混じって解体作業現場で力仕事を…夜は弁当工場で夜勤…
殆ど寝る間もないほどに働いて…」

「その日本人の父親は何をしていたんだ?」

「当時、父は僕が幼い頃に流行病で死んだと母さんから聞かされていた。 僕はそれを疑うこともなく信じていた。でも、それは違ったんだ…
後からわかった事だが、僕の父親は日本の商社マンで、香港には仕事で度々来ていたそうなんだ。母はそのころ、市内のホテルのラウンジで給仕として働いていた。何度もホテルを利用する父とは次第に顔馴染みになり、父の方からの猛アタックで二人は結婚前提で付き合うこととなった。この時、父からは結婚後は一緒に日本に移り住むことを約束されたそうだ。じきに母は妊娠し、お腹に僕を宿した。ところが、父は僕ができたことを喜ぶどころか青い顔をして日本に帰ってしまった。
それからというもの、父は二度と香港に来ることはなかった。何も知らされていない母さんは、父に何かあったのではないかと心配して、父が住む大阪へと向かった。だが、そこで母さんは騙されていたことに気づいたんだ。
父には既に家庭があり、大きな子供までいた。そこで家族と楽しそうに語り合う父を見て、母さんは何も言わずにその場を離れ香港に帰ったそうだ。
その後、母さんにはお腹の子は堕胎するべきだという周囲の執拗な圧力が待っていた。でも母さんは、そんな言葉に屈することはなかった。
女一人でも強く生きていこうと誓ったんだ。しかし、未婚のまま日本人の子を宿したことを快く思わない世間体ばかり気にする親兄弟からは絶縁され、そればかりか同情を装った悪い友人の言葉に騙されて財産の全てを失った。幼い僕を連れ、色々な処を転々として、行き場をなくし最後に流れ着いた先が九龍だった…

九龍での生活は貧しく、それは悲惨なものだった。母さんと一杯の粥を分け合うような日々が続いた。しかし、母さんは決して卑屈になる事はなかった。その日の食べる物にも事欠く状況でも、母さんは僕を学校にだけは出してくれたんだ。しかも、香港の名門校にだ。自分はぼろぼろになるまで朝から晩まで働いてまで僕には人並み以上に勉強をさせてくれたんだ。僕にだけは不憫な思いをさせたくない一心で…
九龍での生活も10年を超えたある日、僕は学校の同級生から九龍に住んでいることを理由に酷い誹謗を受けた。お前は犯罪者が住む九龍の貧者の子供で汚らわしいから近寄るなと…僕は家に帰り泣きながら母さんに話した。すると、母さんは貧乏なことは決して恥ずかしいことではない、そんな事を言う人間こそ、心が貧しく恥ずかしいのだと言って僕を励ましてくれた。
その日を境に僕はいつかこんな地獄を抜け出して母さんを幸せにすると誓った…
母さんが必死に働いて得た金は僕の学費と教材費に消えた。
まだ母さんが仕事から帰らぬ独りぼっちの夜、ネオンの灯りの下、僕は必死で勉強した。
何の苦労もせずに学校へ通う連中になど絶対に負けたくなかった。
いや、負ける訳にはいかなかった。
同級生が遊んでいる姿を横目に、僕は教科書がぼろぼろになるまで一心不乱に学業に向き合った。だけど、僕はいつも独りきり…寂しかった…
だけど、母さんの姿を見ていてそんな事を言えるはずもない。
母さんは忙しく、僕と顔を合わせる時間はほんの僅かだった。
当時、香港は中国に返還を控え、街の建設ラッシュが続いていた。古い建物は取り壊され、中国資本による新しい建物が次々に建設されていた。そんなさなか、母さんが倒れた。長い年月、解体作業現場でアスベストを吸い込んだ事が原因による中皮腫だった。身体は蝕まれ、肺はゴムのように硬くなって、病症が発見された時にはもう手の施しようがなかった…勤めていた会社に相談しても自己責任だと言って知らぬ存ぜぬだった。当時は中皮腫とアスベストの因果関係がはっきりしていなかったからだ。多くの作業員が中皮腫を発症したが、どこからも何の補償を受けることも出来なかった。
中皮腫は死の肺病と呼ばれ、発症すれば最後、後は苦しみながら死を待つしかないという恐ろしい病で、唯一の治療法は外科手術と放射線治療しかなかった。だが、そんな高度な治療が出来る病院など九龍にはない…それに当時学生だった僕にそんな治療費が払える訳もない…
この時くらい自分の無力さを感じた事はない。どんなに勉強を頑張ったって金が無ければ目の前の母さんを助けることが出来ない…
日に日にやつれていく母さんを僕は見守ることしか出来なかった…
母さんはそんな体で僕がどんなに止めても仕事は休まずに出かけて行った。僕が学校を卒業するまでは続けなければならないと言って…
薬も買えず病院にもかかれない…
金がないと事がこんなに惨めなものだということは経験したものにしかわかるまい…」
呂威は歯を食いしばり両の拳を握りしめた。

「僕も出来る限り介抱を続けたが、母さんの病は着実に進行していった。一日中苦しそうに咳き込む母さんの体力は日を追うごとに奪われていったんだ。心配した近隣の住人も少しでも精がつくようにと、苦しい生活のなか、少しずつ卵や肉を持ち寄ってくれた。しかし、母さんは僕に食べろと言って自分は決して口にすることなかった。いよいよ母さんが危篤状態となったとき、どこからか話を聞きつけて、かつて母さんとホテルで共に働いていた同僚の女性が見舞いに訪れた。そこでその人から僕は今まで聞かされていなかった出生の秘密を明かされたんだ。
僕はショックを受けた…僕には父親がいた事。その父親には日本に家庭があり、まだ生きている事。
病気で死んだと信じていた父親が生きている…そしてその父親に母さんも僕も捨てられた!
僕は病床の母さんを責めた。
どうして本当のことを伝えてくれなかったのかと…
母さんは息も絶え絶えに最後にこう言ったんだ。

黙っていてすまなかった…
でも、父さんを赦してと…

その言葉を言い残し、僕の目の前で母さんは逝ってしまった。独り残す僕を心配し、無念そうな目をして…そして、何一つ父に不平を残すこともなく…
何故!何故、母さんは何も悪くないのにどうしてそんな男のために卑屈になるんだ⁈
僕には母さんの気持ちが理解できなかった…冷たくなっていく母さんを前に、天涯孤独となった僕は絶望という谷につき落とされた。涙が枯れるまで泣き続けたが、母さんは二度と戻ってこない…
僕は独りぼっちになってしまった…
それから独り過ごす夜が怖かった…
寂しかった…

その寂しさはやがて父への憎悪と変わっていった…
それから僕は必死で日本語を勉強した。いつの日か見たこともない父とその家族に会い、全てぶちまけてやるつもりでな。向こうの対応如何によっては家族の目の前だろうが父を殺してやる…そう思った…
必ず母さんの墓前で謝ってもらう!
もう周りの誰に何を思われても構わない。復讐心に燃え、ずっとそればかり考えて高校を卒業した僕は、旅券にかかる費用と、旅費を貯めるためアルバイトに没頭した。誰もやりたがらない汲み取り業者の助手として全身糞尿塗れなって九龍中を這いずり回りながらな…
僅かだが、まとまった金を手にした僕は早速大阪行きの航空券を購入した。たった一人、九龍から出て外国へ行く不安に押し潰されそうになりながら大阪に降り立った僕は、母さんの遺品の中にあった僅かな情報を頼りに父を探した。しかし、行った先の住所は既に駐車場になっていた。そこで、誰も頼るあてのない僕は市役所に行って父の転居先を調べてみることにした。
だが、家族以外の人間に個人情報を教える訳にはいかないと門前払いをくった。いくら職員に息子だと説明しても規則を盾に断られた。
そうさ…僕は父と血は繋がっていても家族じゃない…。それから僕は、毎日大阪の街を彷徨いながら父の行方を追った。母の同僚の話では、父は営業マンとしてその頃、香港に支店があった大阪の企業から出張で来ることが多いと言っていた。ならばと近所での聞き込みと、通勤圏にある該当する会社をしらみつぶしに当たった。直ぐに父は近くの中小企業のバネ製造会社に勤めていたということがわかった。父に会える!僕の胸は高鳴った。無論、復讐心に駆りたってだ。しかし、その会社には既に父の姿はなかった。10年以上も前に辞めていた。僕は必死に事情を受付で訴えていると、偶然通りかかった父と共に働いていたことのある工場長と会計課員と話す機会を得た。
父の評判は酷いものだった。必要営業費と称しては会社の接待費を湯水のように使い、挙句の果てには下請けに契約金のキックバックを強要し、差額を自分の懐に入れていたそうだ。家ではマイホームパパを演じながら外では女遊びが絶えなかったらしい。その工場長も再々注意したようだが、改められることはなく、結局、キックバックの件が経理にバレて会社は解雇され、その後、家庭も壊れたそうだ。工場長もそれからの父の行方は詳しく知らないということだったが、一度、あいりん地区という所で見かけた事があると難しい顔で話してくれた。それを聞いてその場を立とうとした僕に工場長は、

『これ以上お父さんを追う事は君の為にならないからやめた方がいい』

と声がかかった。
だが、ここまで来て父に会わずに帰る訳にはいかない。僕はその足であいりん地区に向かった。あいりん地区は、僕にとって初めての場所なのに何故か不思議な感覚を覚えた。
どこか九龍に似た雑多なところがあったからだ。
周囲の人に聞き込みをすること小一時間、父を探しあてるのにはさほど時間は必要なかった。あいりん地区では父の名前を知らぬ者などいなかったからだ。
あの男は、小さな立ち飲み居酒屋で昼日向から酒を浴びるように呑んでいた。僕は客の振りをして隣に立ち、隣の動向を伺いながら熱くなる感情を抑え、独り言のように身の上を語った。
あの男はしばらくの間、少し驚いた表情を浮かべていたが、信じ難い言葉を言い出した。

お前…息子なら酒代を貸してくれと…

信じられるか?僕や母への謝罪など一言もなく、まるで他人事のようにだ。吐く息は酒臭く、グラスを持つ手は震えていた。完全にアル中の様相だった。
”一日中呑んだくれている素行不良の男”
それがあいりん地区の誰もが知る父の姿だったんだ。遥々日本にまで来てこんなものを見ようとは…
そう…工場長は知っていたんだ。あの落ちぶれた父の姿を…
僕は一万円札をテーブルの上に叩きつけてその場を去った。あの男は恥ることもなく、歯の抜けた面で立ち去る僕にぺこぺこ頭を下げていたよ…」
呂威は寂しそうに笑った。

「九龍に帰った僕はなすべく目的を無くし、心が空っぽになってしまったようで、何をする気も起こらず呆けたように日々を過ごしていた。
そんな時、司馬碕から声がかかった。僕を見込んで、自らの仕手組織の下で働かないかと。やる事も見つからないその時の僕には否応もなかった。
司馬碕は非合法で得た資金を元手に相場にも手を広げていた。自ら金やプラチナ、小豆やとうもろこしまで扱う商社まで興してだ。表向きは普通の企業だが、裏ではマフィアの力を使い、賄賂、恫喝、強迫、何でも有りだった。力のある政治家や、官僚に金や女を貢いでは有益な情報を引き出して利益を上げた。当然、表沙汰になればインサイダー取引として摘発されることになるが、司馬碕は警察や検察の人間にまで賄賂を贈り、法の網を潜り抜けていた。
僕は組織の中で株の取引を任される事になった。今思えば、司馬碕はよくこんな若僧に大金が飛び交う組織の重要なポストを与えてくれたものだと思うよ。僕のこれまでの生い立ちに情けをかけてくれたのか…それとも僕が発する飢渇精神に賭けてくれたものなのか…それは今となってはわからない。だが、与えられた仕事は生半可なものではない。組織の金を扱うという事は、司馬碕の金を扱うのと同じであり、組織全体の栄枯盛衰にも繋がる重大な事だったからだ。
実際、組織に対し損害を与えた者は、組織にとって必要の無い人間として執拗なリンチを加えられた後、ドラム缶にコンクリートに詰めにされ、海に棄てられる末路が待っていた。
僕は、常に背中に死の恐怖を感じながら事に当たった。寝る間も惜しんで、様々なところからもたらされる大量の情報を精査し、分析して最大の利益が生じるよう株の売買に没頭した。僕には失うものは何もない…失敗した時は潔く命を差し出す…そう開き直ると不思議と肩の力が抜けて思うような取引が出来たんだ。
組織の中では、失敗者は酷い目にあうが、成功者にはそれなりのステイタスが保証されていた。僕が手掛けた取引は連戦連勝だった。僕は物事を分析する能力が人より長けていたんだ。無論、それを裏付けるための学修を積んだ結果だがな。
組織からは多額の報償金に加え、住む場所も与えられた。
ようやく九龍を出られた僕は、なんでも好きなものを食えるようになったし、欲しい物はなんでも手に入るようになった。金を稼ぐことがこんなに楽しいものなのか…
この時初めてそれを知った。
組織の豊富な資金を元に仕手を仕掛けてぼろ儲けをしたことも一度や二度じゃない。裏情報をもとに株価急騰確実の企業株を上場前に陰で仕入れて売り抜いたこともある。またある時は、下部組織を使い、ある製薬会社の新薬の特許が取れそうだと偽の情報を流し、さも事実を装って一時的にその株を大量に購入し、値を吊り上げる。それに釣られた欲深い浮き足立った馬鹿な連中が慌てて株を買い漁る。そして株価が上がりきった臨界点で売り抜ける。後でその情報は嘘だと分かっても後の祭りだ。連中は大損して泣きを見ることになるが、それは自己責任だ。この世界では、大損害を出したあげく破産し、自殺するものまでいる。だが、当たれば大儲けする事も可能だ。儲けのためなら他人を蹴落とすことも厭わない魑魅魍魎が闊歩するそんな修羅の道なんだ、この世界は…
僕にはこの世界が性に合った。一分の隙もなく、能力のみが評価される。そこには生まれも育ちも関係ない。どんなに家柄が良くても実績を上げる事ができなければ消えるだけ…そのなんとも言えぬ緊張感が堪らなかった。
そして僕は競争に勝った。金を生み出すことに関して、組織の中で僕に敵うものはいなくなっていた。
それから暫くして、僕は司馬碕から新たな任務を与えられた。僕の経歴を作り直し、イギリスに本部を置く香港の世界的投資ファンドに就職させようというものだった。僕の経歴は一流大学の経済学部を卒業し、アメリカのMBA有資格者として書き換えられた。当然、就職面接はあったが、それはあくまで形だけで、裏では既に司馬碕が面接官を丸め込んでいた。
司馬碕の指令は、普段はいち社員として普通に働きながら、投資に有益な情報を事前に組織へ流し、隙を見て大口の顧客リストを持ち出せというものだった。
フッ…何が世界有数のファンドだ?
入ってみて僕はそのぬるま湯のような環境に驚いたよ。どの社員も裕福な家庭に育ってエリート街道を歩んできたのだろうが、僕からみたらまるで仕事が出来ないボンクラばかりだった。甘ちゃんの坊々たちにとって投資家から預かった金は所詮人の金。損を出しても誰一人責任を取ることもない。自分の懐が痛むこともなく、これで高い給料を貰える?
こいつら人生を賭けてないからこんな半端な仕事しか出来ない。
そう…まるで緊張感がないんだ。
こいつらエリートと呼ばれる輩は一体今まで何をしてきたんだ?
こんな生煮えの中での手緩い仕事は嫌だったが、一般社員として潜り込んだ僕は次々に利益を生み出した。無論、司馬碕の密命も並行して行なった。すぐに僕はファンドの優良社員として会社から表彰されることになった。
さすが君は香港支社のエースだとな。
フッ…何が優良社員だ?ちゃんちゃらおかしい。僕は表彰されながら上司のおめでたい顔を笑いを堪えて見ていたよ。
僕は莫大な利益を司馬碕にもたらせたが、しばらくして司馬碕も歳には勝てずこの世を去った。その後、香港は中国に返還される日を迎えた。マフィアに対する中国当局の取り締まりは厳しく、また、カリスマだった司馬碕を失った組織の力は急速に弱体化していった。香港での仕事がやりづらくなったと感じた僕は、組織から独立し、ここ台湾で事業を興した。それがこの台北東海公司だ。
僕が会社を興した理由の一つは、自由になって、またあのゾクゾクするような緊張感をどこかで渇望していたのかもしれない。それから次々と企業買収を行い、事業を拡大していったのさ。それは何とも言えぬ快感だったよ。僕より遥かに学もあり、育ちのよいエリートたちが僕のようなスラム育ちの成り上がりにぺこぺこ頭を下げるんだからなぁ…
僕は、事業が行き詰まっている会社を助けてあげているんだぞ?
僕が資金供給をしてあげなければ、潰れていた会社が何社もある。
金は使ってこそ価値が出るんじゃないのか?
なあ…真田、教えてくれよ。利益の追求は悪か?
金儲けは悪いことか?」

「金儲けが悪いことだとは思ってはいない…ただ、その手段と、目的を見失なっては心が虚しくなるだけなんじゃないのか?金を持つ者はそれなりに社会への責任はあるはずだろ。それに他人を不幸にしてまで金を稼がなければならない理由などあるのか?」

「そんな事は綺麗事だ!金に良いも悪いもあるものか!ならば、なぜ母さんは死ななければならなかった⁈
あの時、うちに金があれば母さんは医者にかかれたんだ。死なずに済んだのかもしれないのだぞ⁈
お前に僕の気持ちがわかるか‼︎」

「わかる…
なんて言葉は軽々しく言えるはずがない…あんたのその感傷は、あんたしかわからない。他人がどうこう言えるほど無粋なものではないと思う…
あんたの話を聞いていて、あんたと俺は似ているのかもしれないと感じたよ。一つ違うと思ったのは心の強さだ」

「僕とお前が似ているだと?真田、僕はお前より心が弱いとでもいうのか?」

「逆だよ呂威…俺は不器用で弱い男なんだ。それがわかっているから、弱いことを隠さずに曝け出した。
すると、災害に見舞われ絶望し、自暴自棄になっていた俺に多くの人が手を差し伸べてくれたんだ。
こんな俺なんかを助けたって何の得にもならないのに…
俺がこれまで生きてこられたのは、俺一人の力ではないんだ。
あんたはこれまで全て一人で背負い込んで頑張ってきたんだろ?弱音も吐かずに…大切な家庭を失い、孤独を力に変えながら自分の道を信じて。けどな呂威、人の心は決してあんたが思っているほど冷えきってもいないし、捨てたものじゃあない。
あんたはこれまで誰の力も借りず一人で十分頑張ってきた。もうこれ以上一人で頑張らなくともいいじゃないのか?立ち止まってこそ見える景色だってあるんだぞ」

「頑張らなくともいい?」

「呂威、あんた今幸せか?」

「何…?真田、お前には僕が不幸せに見えるか?今の僕は何不自由なく何でも思うがまま手に入るのだぞ?」

「それであんたの心は満たされるのか?富を得るかわりに失ったものだってあるんじゃないのか?」

「何が言いたい?お前は人の心は冷え切ってないと言ったな?僕の父が母さんにしたことを聞いてもそんな事を言うのか?僕と母さんはあの男に人生を滅茶苦茶にされたんだぞ。あれが人間のすることか?
僕にもあのどうしようもない男の血が流れていると思うと堪らないんだ。人生を狂わされ母さんは一生不幸のまま死んでいった…一度も幸せを感じることもなく…
何故?何故母さんは僕に父親を赦してなんて言ったんだ…恨んでも恨みきれないだろうに…」
呂威の目には涙が浮かんでいた。

「本当にあんたのお母さんは不幸だったのか? 俺にはそうは思えない」

「…どういうことだ?」

「まだ分からないのか呂威…?
それが愛だよ…人は大切な人のためなら全てを捧げることができるんだ」

「愛?…」

「あんたの父親は確かに酷いことをしたと思う…だけど、あんたのお母さんにとって一度は心を寄せ愛した人だ。お母さんは裏切られたことを知っても、どうしてもお父さんを恨むことが出来なかったんじゃないのか?それは決して卑屈になったわけではなく、それほどにお父さんを思慕していたから…そしてお父さんを愛したその気持ちに嘘はなかったから…
だから…愛した人が幸せに暮らしているのをみて静かに自分から身を引こうと決めたんじゃないのか?
どうしても相手の家庭を壊すことまでは出来なかった。そんな事をしても不幸になる人が増えるだけだから…
自ら身を引く…その決断がどんなに切ないことだったか…どんなに淋しい思いだったか…
赦すことは怨むことよりはるかに辛いことだったはずだ。あんたなら想像できるだろ?…それでもあんたのお母さんはその道を選んだんだ。たとえ裏切られても自分の信じた愛を裏切ることは出来なかったんだよ…
そして、あんたにとってどんなに酷い父親であっても子供に実の父親を怨んではほしくなかった…
きっとお母さんは、その事実を隠したまま墓場まで持っていこうと決めていたに違いない。それは呂威、あんたを一番大切に想っていたから…
お母さんにとって呂威、あんたがかけがいのない宝物だったんだよ。
貧しいなか、自分を犠牲にしてもあんたには幸せになって欲しかった。だから無理をしてまで働いた。
子が親を想う気持ちより、親が子を想う気持ちのほうがはるかに大きい…俺も人の親になってそれがよくわかった。きっとお母さんは、遅い時間に仕事から帰ってから、あんたの寝顔を見ながらこう思ったんじゃないか?この子のために明日も頑張ろうと…それは親の義務感なんかじゃない。無償の愛があったからだ。
お母さんはあんたが産まれたとき、どれだけ嬉しかったか…親にとって一番の幸せは子供が健やかに育つのを見守ることなんだ。
きっとお母さんは不幸だなんて思ってはいなかった。あんたと暮らせた日々は何ものにも変え難い幸福な時間だったはずだ。あんたもお母さんと共にした時間は物憂いだけの日々ではなかったんじゃないのか?」

「えっ…」
諒太の言葉を聞いた呂威の脳裏に過去の記憶が鮮明に蘇ってきた。

たった一杯の粥を分け合って食べた二人だけの夜…
子供の頃、頭を洗ってくれた母…
疲れているのに、なけなしの金で買ってくれた絵本を何度も何度も読み聞かせてくれた母…
眠れない夜、布団の中で子守唄を唄ってくれた母…
仕事から帰ってくると、荒れた手の平で頬をさすってくれた…少し痛かったけど温かな母の手…
いつも体調を気遣ってくれる母の優しい声…
呂威の瞳から涙がこぼれ落ちた。

「もう一度…僕をその温かい腕で包んで欲しい…もう一度…優しい言葉をかけて欲しい…もう一度温もりを…
もう一度…母さん…」
呂威は画にすがり付き嗚咽した。

「お母さんはあんた一人残してどれだけ心残りだったろうな…
あんたの成長を見届けることができず先に逝くこと…どれだけ無念だったろうな…
最後の最後まで命を燃やし尽くし旅立っていったあんたのお母さんはあんたに期待していたんだよ…あんたには立派な大人になって欲しいと心から願って…それは、独善的に成り上がるなんてことなんかじゃなく、あんたたち親子のような不遇な環境で暮らさざるを得ない子供を一人でも多く救ってくれるような優しい大人になって欲しいと思って…
お母さんは背中でそれをあんたに教えてくれたんじゃないのか?」

呂威の目からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。

「こんな出会い方じゃなきゃ、俺とあんたはもっと分かり合えたのかもしれないな…もしかしたら友と呼べる間柄になっていたかもしれない…」

「友達…?」
呂威は顔を上げた。

「ああ…あんたは俺なんかに自分のことを嘘偽り無く話してくれたじゃないか。何でも言いあえるのが友達だろ?呂威、人は一人では生きてはいけない弱い存在だ。強がる必要はない。もっと自分の弱さを曝け出したっていいんじゃないか?
それから、あんたのお母さんがあんたにかけてくれた愛情を今度はあんたが他者にかけるやる事だって出来るはずだ」

「…僕にも?」

「そうだ。だって、あんたにも優しいお母さんの温かい血が流れているんだから」

「母さん…」
呂威は肩を震わせ突っ伏して咽び泣いていた。


その様子を見て、諒太は出口に向かって静かに踵を返した。
その時であったー


呂威の咽び泣く声が、まるでしゃくり上げるような声へと変わった。そこから、人の声ともとれぬ、怪鳥のような奇声へと変化した。
諒太が振り返ると、何と呂威は顔を真っ赤にして笑っていた。
 
「ヒヒヒヒッ!アーハハハハ!」

「何が可笑しい?」

過呼吸になった息を必死に抑えながら呂威は顔を上げた。頬に流れた涙はまだ乾いてはいない。

「ダメだ!ダメだ!ダメだ!ダメだー!ハァ…ハア…真田、お前の言ったことは多分正しい…母さんが生きていたとしても、お前の言った事と同じ事を言ったと思う。だが、もう遅い…もう遅いんだ!」

「何が遅いと言うのだ?」

「僕が選んだこの道は蛇の道。進むことは出来ても戻る事は出来ないのだ。失うものが何もなかった頃は良かった。だが今は違う。僕は何も失いたくはない!何一つ誰にも取られたくもない!二度とあんな地獄は御免なんだよ!」

「それほどに失うことを怖れているのか?」

「当たり前だ真田!僕には夢がある。マンハッタンに自社ビルを建て、世界の富豪と肩を並べるんだ。そして、今まで僕をコケにしてきた連中を僕の前で跪かせる。フフフッ…ヒヒヒハーハハハハ!」

「そんな風に金の亡者になることは、お母さんの顔に泥を塗ることになるんだぞ」

「貧乏人は黙れ!今、僕が大切にしているのは、僕に出資をしてくれる投資家だ。金が金を産みだす。こんな愉快な世界は他にはないじゃないか」

「過剰な期待は危険だ呂威!彼らはハイエナの群れだ。自らの私服を肥やすことだけしか考えていないんだぞ。あんたの会社になどこれっぽっちも愛情を持っていない。旨味がなくなれば簡単に切り捨てられてしまう。あんたが大切にしなければならないものは他にあるだろ?」

「ハッハッハッハッ!…これだから世間知らずの田舎者は困る。僕たちが棲むこの世界は、僅か60人あまりの大富豪が地球上の富の半分を所有する世界なのだよ。それが現実だ。弱肉強食のこのシステムが資本主義という社会を動かしているのだ。
グズグズしていたら、たちまち喰われてしまう。故に僕は勝ち続けなけなければならない。美波間島のリゾートホテル開発だって僕がやらなくとも、いずれ誰かがやる事になるのさ。僕が代表して島を発展させようとしているのではないか?」

「島民は貧しくとも幸せに暮らしている。故郷の自然を破壊するような行為など望んではいない」

「そんな理由は無意味なことだ。利益さえ上がれば島民のことなどどうでもいい。そうだ!良いことを思いついたぞ。リゾートホテルと共に島にIRを誘致しよう。僕には懇意にしている日本の政治家が何人かいるんだよ。彼らの力で島にカジノを作って世界中のセレブたちを呼び込もう。そうしてゴミのような島民には金を持たせて排除すれば一石二鳥じゃないか。我ながら良いアイデアだろ?」

「今…何と言った?」

「ゴミのような…

「もういっぺん言ってみろ!!」
諒太の大喝が響き渡り、部屋の空気をビリビリと震わせた。
同時に諒太の仁王のような激しさに呂威の顔は引きつった。
諒太は鋭い視線を呂威の目に合わせると、一歩近づいた。

「ヒ!…ヒィー!」
呂威は尻をつきながら後退った。
諒太を見上げるその顔は恐怖に怯え、全身はガタガタと震えている。

(真田その目は何だ?怒り…?いや怒りとも違う…哀しみ?…そうだ…哀しみの目…
そ、そんな目で僕を見るなぁー!)

構わず諒太は更に近づく。

呂威は恐怖に慄き後退りながら、脳裏にはあの日の出来事が鮮明に蘇っていた。それは子供の頃、空腹に耐えかねた呂威は露店市場から饅頭を二つ盗んで走り去ったことがあった。一つは自分の空腹を満たすために。一つは母親に食べてもらいたくて…母親に喜んで貰いたい。その気持ちが道徳心を上回り罪悪感など全く感じることはなかったのだ。呂威は母親が帰宅すると饅頭を差し出した。

「この饅頭どうしたの?」

「う、うん、貰った。母さん食べて」

子供の呂威が饅頭を買える金など持っていないことは知っている。また、饅頭を誰がくれたのかと聞いても呂威は決して答えようとはしない。第一、誰もが厳しい生活を送る中、気前良く饅頭を二つも与えてくれる者などいない。

「どこから盗ってきたの?正直におっしゃい」

「盗ってなんかいないよ…貰ったんだよ…」

「母さん嘘は嫌いよ」

「…市場
母さんに食べて欲しかったんだ」


(そうだ…あの時の母さんの目と同じだ…
怒るわけでもなく、ただ僕の目をジッと静かに見つめていた。とても哀しい眼差しで…
僕はあの目が怖かった…
母さんはいつも優しくて怒られたことなど無かったのにあの日のことだけは今でも忘れられない…

嗚呼…
あの…目が僕は怖い…

「く、来るな…僕に近寄るな…」
諒太の接近に呂威は尚も後退るが、遂に背中が背後の壁にあたった。
顔からは脂汗が流れ落ち、息は苦しく心臓の鼓動は高鳴った。その時、呂威の目に信じられない光景が映った。

(⁈…何だあれは…?
真田の体から立ち昇っているものはなんだ?
何かが揺らいでいる…

何だ?

光…?

光が揺らめいている…?

まさか…

ああ…だけどこの優しい温もりは何だ…
なんてあたたかい…
僕は森の中の木漏れ日の中にいるのか…
それとも…

懐かしいこの温もり…
そうか、僕は母さんの腕の中にいるのか…)

呂威は完全に正気を失っていた。
瞳孔が開き、体中の穴という穴から何かを表に出し、焦点を失い破顔した口元からはヨダレが流れ、股間を濡らす暖かいものが流れ出した空間にはアンモニアの匂いが漂っていた。

「ヒヒヒヒヒヒヒヒ…」

諒太はもはや「人」では無くなった呂威を哀しげな表情で見つめると思った。

(この男は誰よりも愛を欲していた…この男には誰よりも愛が必要だったんだ…憐れな…)

社長室を出て行く諒太とその場で壊れてしまった呂威の姿を壁に掛かったレンブラントが何事も無かったかのように見下ろしていた…

隣の秘書室でこの様子をモニター越しに見ていた尹は哀しげな顔で録画したデータをUSBメモリーに移すとその場から姿を消した…

35 Golden Smile 〜誓いの海〜

正規エレベーターを使い一階ロビーに降りたった諒太は、一人、出口エントランスに向かって歩みを進めた。すると、突然大挙して大勢の人間が大きな足音を鳴らして駆け寄って来ると瞬く間に十重二十重に諒太を取り囲んだ。
それは尹が流した全館放送を聞いたこの本社で働く台北東海公司の社員たちの姿であった。
ざっと数えてもこの場に集まった頭数は男女合わせて50人はいるだろうか…
周囲を囲む彼らの視線は諒太一人に注がれた。さすがの諒太であっても、これだけの人数に一度に抑え込まれたらどうしようもない。完全に取り囲まれてしまった諒太に最早この場所から抜け出す方法は残っていない。
諒太はぐるりと周囲を見回した。
諒太を見つめる社員たちのその目はそれぞれで、部外者の分際で一体何てことをしてくれたのかと憎悪の目を向ける者、これからの未来に何かを期待している眼差しで諒太を見つめる者、単なる野次馬として冷めた目で見つめる者などその顔は様々である。
台北東海公司は先頃、日本企業TARPを買収したことにより、それまでTARPで働いていた多くの日本人がこの本社ビル内に在籍していた。
また、その業務上、かなりの割合で日本語が理解出来る台湾の優秀な人材がこの本社にはいる。尹が流した社長室での音声は彼らの耳に届いていた訳である。
諒太は一度目を閉じ、ゆっくり目蓋を開けると静かに口を開いた。

「皆さんの中には報道で知っている方もいるかもしれませんが、俺は日本の美波間島という小さな島から来た真田諒太と云うものです。俺が今日ここに来た理由は、皆さんの仕事の邪魔をするためでも、仕事を奪うためでもありません…
一つだけ皆さんに伝えたいことがあるのです…
俺には守りたい大切な人がいるんです。そして…守りたい大切なものがあります。

俺は8年前、津波によって多くのものを一度に無くしました。
目の前が真っ暗になりました…
もう、生き続けることが嫌になるほどに…何故なら俺に残ったものは絶望しかなかったんです…
俺は何か悪いことをしたのか…?
どうして自分なんだと…理不尽な応報にどれだけ天を恨んだか分かりません…
こんな辛い思いをするのなら、いっそ、生まれてこなかった方が良かったとも思いました…
こんな報いを受けるために人は生まれてくるのか…?
人間に生まれてきたからには不幸は甘んじて受けるほかないのか…?
賽の河原の石積みのように、築き上げたささやかないとなみが一度に崩されてしまう…
なら、何の為に生きなきゃいけない?
生きる理由って…?

人が生きる理由…
いくら考えてもその時の俺にはその答えは出なかったんです…
それから、毎日一人で悩み苦しむ日々を送りました…

でも、そんな俺に多くの人があたたかい手を差し伸べてくれたんです。それはまるで暗闇に光が差し込むように絶望した俺の心に明日を生きる希望が生まれた瞬間でもありました。
独りで生きているんじゃない…
そう思えただけでどれだけ心強かったか…
俺に失った大切なものを気付かせてくれた…
それが美波間島という小さな孤島であり、そこに住む心の優しい人々でした。俺はそんな島民と島で暮らすうちに長年疑問だったその答えがようやく見つかったんです。

皆さん…皆さんは仕事にやりがいを感じていますか?
家に帰ってから、奥さんに、ご主人に、お子さんに、親御さんに自分の仕事はどれだけ人の為になったか、世の中の為に役立つ仕事なのかということを胸を張って語ることが出来ますか?

そして…皆さん自身今幸せですか?

世の中、理不尽なことが多いです…
どんなに努力したって報われないこともある。いや、むしろ報われない事の方が多いのかもしれない。
長い人生の中で夢を諦めてしまうこともあるかもしれない。
時世に流されて自分を見失う事だってある。様々な人間関係の中で憤ることも泣きたくなることもある。
自分の弱い心に負けてしまうことだってある…
でも、そんな時、自分の心の中にある大切なものを思い出してほしいんです。その大切なものは皆さん一人一人の心の中に必ずあるものです…
これを見てください」

諒太は手のひらを取り巻く人達にかざした。

「俺のこの手のひら、皆さんには汚く見えますか?長い年月をかけて手の皺の奥に入った土はいくら水で洗っても簡単には落ちません。
でも、この手の汚れは俺の勲章なんです。
俺はただの農夫です…
芋を売って得る僅かな収入など、皆さんの収入の足元にも及ばないでしょう。
だけど、毎日畑で汗をかき、土に塗れて向かう仕事に俺は幸せを感じています。この土で汚れた手のひらだって堂々と見せる事が出来ます…
決して恥ずかしく思うこともありません…

何故なら『誇り』を持っているから…

俺の…そして皆さんの心の中にもある大切なものこそ誇りなのです。
どうか忘れないでください。
どんな時も…どんな場所にいても…
大切なあなたの誇りを…」

「彼、何て言ったんだ?」
日本語がよく分からない社員が隣りの社員に聞いた。

「夸耀」

「夸耀?」

「そうだ、彼はPRIDEを忘れるな…と」

「PRIDE…」

「誇り…」

次々に伝播する言葉に社員たちの目の色が変わっていった。

「どんな苦難が待ち構えていても、誇りを持って生きていく…
漆黒の夜にも必ず朝は来る…
降り続く雨もいつかはやみ、明るい陽が燦々と差し込む時が必ずくる…
人間はどんな苦難に遭おうと前を向いて歩いていかなければなりません。立ち止まったっていい…休んだっていい…心に誇りを持ってさえいればまた歩くことが出来る筈です。

そして…俺は人は何のために生きるのか…その答えが分かったんです。
例え一瞬でも幸せと思える瞬間がある。その一瞬のために…そんなささやかな幸せのため人が生きる意味があるのだと分かったんです。
真の幸福とは、物質的に富む事なんかじゃなく、本当に人にとっての幸せとは…
自由であること…
独りじゃないこと…
心のまほろばに幸せを分かち合える仲間がいること…
愛する人がいること…

そして…
愛する人と共に生きること…

幸せと云うものは求めるものじゃなく、とても身近なところに…既に皆さんの足元にあるのかもしれません。皆さんにも、大切な人、愛する人がいる筈です。今はいなくともこれから必ず現れる筈です。どうかもう一度自分にとっての幸せとは何かということを心に問いかけてみてください…
他者を不幸にして得られる幸せなどありはしないのです…
それから…自分を愛してください…

俺が皆さんに伝えたいことはそれだけです…」

諒太は一つ息を吐くと前方へ歩き始めた。すると、諒太を包囲していた人の輪が崩れ、諒太のために道が開かられたのである。未だに一部の社員の中には諒太に対し憎悪の目を向けるものもいたが、多くの社員たちの目には涙が浮かび、立ち去る諒太の背中に拍手が送られた。社員たちの顔にはこれまでずっと忘れていた自信が蘇っていた。

諒太は無事エントランスから外へ出ると、感慨深げに目を細め背後にそびえ立つ100メートルはあろうかという巨大な台北東海公司本社ビルを見上げた。そして目の前に広がるオフィス街の高層ビル群が立ち並ぶ方へ向かおうとしたその時だった。

「真田さん、真田さん!」

突然日本語で自分の名前を呼ぶ声に足を止め振り返ると、一人の初老の男が目の前に息を切らせて走り寄ってきた。

(この人…どこかで見たことが?…)
微かに見覚えのある顔に記憶を遡ってみるが、諒太にはどうしても目の前にいる男のことを思い出すことが出来ない。

「真田さん、お久しぶりです!霧谷です!霧谷才三です。お忘れですか?」

男の名前を聞いた途端、諒太にある日の記憶が蘇った。

「きりたに?…さん…?
もしかしてTARPの霧谷さんですか?」

「はい!正確には元TARPの霧谷ということになりましょうか」
霧谷は息を弾ませながら答えた。

霧谷は諒太が石巻SOMY研究所で働いていたころ、一度諒太を訪ねてきたことがある。当時TARPは、世界で隆盛を誇った基幹産業であった液晶パネル事業が後発の韓国企業の為替差額による安価な製品の猛追に太刀打ちができなくなっていた。
その結果、会社の屋台骨がぐらつき始め、経営そのものが行き詰まってしまったのだ。
そこで、起死回生を図るべくTARPもスマホの製造に舵を切ろうと会社の生き残りを模索していたそんな時、TARPの電子機器開発責任者であった霧谷は、優秀なエンジニアが石巻にあるSOMY研究所にいると聞きつけた。霧谷にはこの時、TARPの命運がかかっていた。スマホの開発にどうしても優秀なエンジニアが必要だったのだ。霧谷は諒太をヘッドハンティングすべく石巻へ遠路赴いた。
霧谷と面会した諒太はエンジニアとして霧谷のものづくりにかける熱い想いと、TARPを立て直そうと奔走し、会社を救いたいという一途な思いに心を打たれたが、どうしても自分を導いてくれた海野や、共に働く仲間たちを裏切るような真似は出来ず、諒太は霧谷の申し出を丁重に断ったのだ。
結局、霧谷は諒太を説得することは出来なかった。
諒太にとって霧谷と顔を合わせたのはこの一度だけであるが、霧谷が熱く語ったエンジニアとしての夢は心の片隅に残っていた。

TARPはその後、業績が回復することはなく赤字が続いた。銀行からの融資もこれ以上見込めなくなった時、買収を持ちかけてきたのが台北東海公司だったのだ。この時、TARPの海外への技術力流出を懸念した政府からの呼びかけにより、日本の企業連合でTARPを救済しようという動きが水面下で行われたが、結局話が折り合うことはなく、成長の鈍化が顕著な先の見えない日本の電子機器製造業にあって、資金提供して冒険をするような経営者は現れなかったのである。
唯一台北東海公司を除いては…


「真田さん、私は今、台北東海公司の電子機器製造部で旧TARP事業をまとめる統括責任者として働いています」

「そうでしたか…」

「私は長年勤めたTARPの名を残したい…それだけを願ってここまで頑張ってきたつもりです。
でも、それは間違いだと気づきました。台北東海公司に買収され、確かにTARPの名は残りました。でも社名は残っても、今のTARPはまるで別のものに成り果ててしまいました。
買収されてもTARPは残る。名前さえ残ればまたいつかやり直すことが出来る。自分にそう言い聞かせてやってきたつもりです。
でも、それは、私自身の保身のためだったのかもしれません。彼等の目指すものづくりはこれまでのTARPのものづくり精神とはかけ離れたものでした」

「えっ?どういうことですか?」

「企業として絶対にやってはならない製品データの改ざんを彼等は行っているのです。私はそれを知る立場にありながら、何もする事が出来なかった。TARPの看板が残るなら不正を見て見ぬ振りをしても致し方ないことなんだと自分に都合よく言い聞かせていました。でも、私とてエンジニアの端くれです。先程の真田さんのお話しを聞いて自分が恥ずかしくなりました。これをあなたに託したい」

霧谷は上着の内ポケットから手帳を取り出すとペンで何かを書き始めた。そして記入した紙を一枚破ると諒太に差し出した。

「それは?」

「台北東海公司の子会社に陸進という電池メーカーがあります。陸進が製造したスマホの電池パックは、チャオミーと云う中国のスマホメーカーが採用し、大量に市場に出回っています。ところが、その陸進が製造した電池パックに使用されている、リチウム素子は発火の可能性がある粗悪な原料で作られているのです。そのことを呂威社長は知りながら、コストが安く、大量生産ができて会社に利益をもたらすという理由だけで、製造検査データを改ざんし、各地で起こっている発火事故を隠蔽しているのです…
ここに書いたのは、台北東海公司でも限られた者にしか与えられていない本社サーバにアクセスするためのキーです。これが私のIDとパスワードです。ここに入れば、呂威社長が陸進にデータ改ざんを指示をしたメールの履歴と、真実の検査データの記録を閲覧することが可能です。
私がこのことを知る事が出来たのは、私自身が呂威社長の命令で間に入って動いていたからなんです。
どうかこの事実を真田さんの手で明るみに出してください」

「そんな事をすれば霧谷さん、あなたの立場が…」

霧谷は首を横に振った。

「彼等が欲しかったのは、ものづくりをする会社でも、その技術力でもなかった。TARPというブライドイメージだけだったんです。
今後TARPも陸進と同じ道を歩むのは火を見るより明らかです。会社の信頼を落とすくらいなら…いや、それだけじゃない…不良品を送り出して利用者を騙すくらいなら…
そんな会社この世の中にない方がマシなんです!
私、真田さんの先程の言葉で目が覚めたんです。自分たちが造った製品に欠陥があるのを知りながらものづくりを続けるなんてエンジニアとしてのプライドが許さないってことに…
老い先短い私にもまだ誇りがあるんです。
真田さん、私は今でもTARPを愛しているんですよ…
私は生涯エンジニアでいるつもりです。私の望みは世の中の人のために役立つ良い製品を造りたい。ただそれだけです。エンジニアだったあなたになら、私のこの気持ち分かって貰えると信じています。だからこれをあなたに託したい」

霧谷はメモ紙を諒太の手に強引に握らせるとニコリと笑った。

「霧谷さん…」

霧谷は諒太に一礼すると何とも晴れやかな表情で本社ビルに戻っていった。
こと台北東海公司においては、内部告発者には厳しい処断が下されるだろう。霧谷はそれを承知で思いを諒太に託したのだ。

諒太は霧谷の背中を見送ると力強く頷きメモをポケットにしまった。



迷うものはもう何もない…
諒太は台北の街に一人駆け出した。

海へ向かって…

台北市の中心を全力で走る。
歩道を行き交う人がその勢いに驚いて道をあける。
路上でタクシーを捕まえたほうが早く辿りつけるのはわかっている。
だが、この時の諒太にはタクシーを待つ時間すらもどかしかったのだ。
理屈ではない。
体のうちから湧き上がる熱いものが諒太を突き動かした。

(あの時、何もできずに君を見捨ててしまった俺がこんな事を言う資格はないのかもしれない…
でも、どんなに滑稽だって思われたっていい…
今になって虫が良すぎると蔑んでくれたって構わない…
軽蔑も甘んじて受ける…
でも、もし最後にたった一つだけ望みを叶えてくれるのなら…
チーリン…待っていてほしい…

君に伝えたいことがあるんだ)

諒太は走った…
淡水河の川沿いを…
このまま下流へ向かえば海に出る…

息を切らして諒太は走った。
人混みに行手を遮られても…
何かにぶつかっても…
何かに躓いても…
転びそうになりながらも…
ただ前だけを向いて…

海に向かって…

ひたすらに…

海へ…海へ…



「チーフ、あれから随分時間経ちますけど、あのふたりは一体何を待ってるんすかね?」

陽と江江は物陰に隠れながらチーリンと男の様子を伺ったが、今のところ何の動きもない。
猿顔の男はそわそわとせわしなく立ったり座ったりしているし、チーリンは何かを祈るかのように海に顔を向けたままだ。

この少し前、陽と江江の車は二人の乗ったタクシーの後を追い、この港にたどり着いた。何隻かの漁船が係留されている午後の静かな漁港には、他にひと気はなく、海鳥の鳴き声が聞こえるだけだ。距離を取りつつ物陰に隠れるこちらに二人が気づいた様子はない。陽と江江は息を潜め二人の観察を続けた。依然、あの二人の関係性はわからないままだ。


風に乗って潮の香りがしてくる…
昨夜は一睡もしていない。幾つもの激闘を乗り越え、いま諒太は走る。
もう諒太の体力は限界に近い。このまま止まってしまったらその瞬間に体がバラバラになりそうだ。倒れ込んだらきっともう二度と立ち上がれない。
いま諒太を突き動かすのは「信じる思い」それだけだった。



船を桟橋にロープで係留するための金属製のビットに腰をかけていた竜男が不意に立ち上がった。
息を切らせながら実に20キロの距離を走破した諒太は竜男の待つ漁港に走り込んだ。

ハア…ハア…ハア…ハア…
「竜男…すまん、遅くなった…」

「必ず戻るっていうお前の言葉信じていたぞ諒太!
俺も…彼女もな…」

竜男はほっとしたように安堵し息を吐くと諒太に目配せをした。
肩で息をする諒太の前に現れたのは積んである漁具の陰からゆっくりと歩み出た真っ白なウェディングドレスを纏ったチーリンの姿であった。

「チーリン⁈」

諒太さん…

吐息にも似たチーリンの音にならない声…

夢じゃないんだよね…

時の流れの中、儚い想いを胸に抱き、あの日から彷徨っていたふたつの魂は導かれるように今ここに再会した。
再会を果たしたふたりは時が止まったかのように言葉もなく互いを見つめ合った…

口に手を添え、震える声でチーリンは囁くように言葉を絞り出した。

「来てくれたの…?
私のために…来てくれたの…?
海を越えて…」

「ああ…
必ずもう一度会えると信じていた…
竜男に託した俺のメッセージ…
届いたんだね…?」

チーリンは頷いた。
白いサテングローブをしたチーリンの手のひらには小さなガラス玉が光っていた。

「諒太さん…前に島の展望台で、瓶の外に出たガラス玉の気持ちがわからないって言ったのを覚えている?
私には分かる…このガラス玉の気持ちが…」

今、チーリンが手にするのは諒太が子供の頃、瓶を破って取り出し、それからずっと手放さずに持っていたあのラムネ瓶の中のガラス玉である。

「ガラス玉はこう言っている…
狭い瓶の中から出してくれてありがとうって…
諒太さんが瓶を割ってくれたからこそ瓶の中では決して知ることのできなかった広い世界を目にすることができたのだもの…
これまで諒太さんと辛いことも嬉しいこともいつも近くで一緒に過ごすことが出来て嬉しかったって…
長い時間ずっと大切に持っていてくれてありがとうって…

そして…自由にしてくれてありがとうって…
諒太さんにとってこのガラス玉はきっとどんな高価な宝石よりも価値がある…」

チーリンは瞳を潤ませながら諒太にガラス玉を差し出した。

「それは君が持っていてくれないか?チーリン…」

「でも…これは諒太さんの宝物なんじゃ?…」

「前に君は俺に出会って変わったって言ってくれたよね?

わかったんだ…チーリン。
俺も同じなんだ…
君が俺を変えてくれた…
君が居てくれたから俺はここまでくることができたんだ…
これまで君が俺にかけてくれた言葉が…
君が俺のために流してくれた涙が…
君が俺に向けてくれた眩しいほどの笑顔が…
君が俺に差し伸べてくれたあたたかい手が…
そして…君が俺にくれた全ての温もりが…

君は真っ暗な海に灯る灯台の灯火ように俺を導いてくれていたんだよ…
君と過ごした何気ない日々が…
君と二人で過ごした何気ない生活が忘れていたあたたかな心の温もりを思い出させてくれた…
君が目の前からいなくなって、俺は全てが止まってしまった。
君だけがいなくなった世界…

そのとき…はじめて気づいたんだ…
チーリン…君は俺にとってかけがえのない人だってことに…」

「諒太さん…」

「君が俺の宝物なんだよチーリン」

え…?
チーリンの瞳から真珠のような大粒の涙がぽたりと落ちた。

「諒太さん…
私を…
私を諒太さんのお嫁さんにしてください…」

「チーリン…俺は何も財産も持っていないし、人に自慢出来るものなんて何一つ無いただのデクノボーだよ?」

「それは違う…」
チーリンは涙で頰を濡らしながら首を横に振った。

「あなたは世界中の誰にも負けないものを持っている」

「うん?」

「誰よりも天を敬い、人を愛する慈愛のこころ…その優しいこころの源泉は、たくさん辛いことを乗り越えて…どんな人よりも人のこころの痛みがわかる人だから…
諒太さん、あなたは人として一番大切なものを持っているのよ…
人を思いやることができる優しい気持ちを持っている…
私はそんな諒太さんを好きになった…
この気持ちに嘘はない…

だから…だから…
まくとぅそうけーなんくるないさ…」
チーリンは頰に涙を流しながら震える声でそう言うと微笑んだ。

「まくとぅそうけーなんくるないさ… か…
ああ…そうだな…
ふたりでならきっと…未来を紡いでいける」
諒太はチーリンに優しく微笑んだ。

「諒太さん!」
チーリンは諒太の胸に飛び込んだ。
諒太はチーリンを正面から受け止めしっかりと抱きしめた。
チーリンのとまらない熱い涙は諒太の胸を濡らした。

「チーリン…もう泣かないで…これからはずっと一緒だよ。誓うよ…これからどんな災難や苦難があろうと俺が一生君を守るから…」

諒太はチーリンの頰に流れ落ちる涙を指で拭った。

「諒太さん…愛を信じさせてくれてありがとう…ずっとあなたの側にいさせて…」

向かい合う透き通るほどのふたりの瞳には自らの顔が写った。
優しく微笑みながら見つめ合う二人には出会ってからの光景が走馬灯のように蘇っていた。


「スクープだ!」
陽は物陰から立ち上がると首にかけていたカメラを構えた。
次の瞬間、江江の手が陽のカメラレンズを押さえていた。

「ちょっとチーフ!何するんすか⁈」

「あなたには見えないの?
あの光景が…私は今まであんなに美しいキスシーンを見たことはないわ」

あ…

「ホントだ…」
陽は思わずカメラを下ろした。

唇を重ねる諒太とチーリンの頭上からは、雲の間からスポットライトのような光が差し込んでいた。
それは、まるでシルクのカーテンのようなやわらかな光臨が二人を優しく包み込み、チーリンの純白のウエディングドレスを煌めかせていた。背後に見える海面には波光がキラキラと輝いていた。
世界中のどんな高名な監督であっても、このような空から天使が舞い降りてきたような幻想的なシーンを再現することは不可能であろう…
それは、邪なものなど存在出来ぬ純真無垢なふたりだけの世界であった。生まれも育ちも違うふたりが、美波間島という名も知れぬ孤島で出会い、これまで決して交わることのない生き方をしてきたもの同士がまるで導かれるように同じ時間を刻んでいる。偶然と呼ぶにはあまりに浅はかであろう。この瞬間の温もりを求めて時間と空間を超えて強く引きあったと解釈するほうが自然なことなのかもしれない。


「さあ帰ろう!美波間島へ!」
竜男が明後日の方向を向いたまま照れで顔を赤らめながら声をあげた。

「ああ!帰ろう」
諒太は爽やかに笑った。

竜男は虹天丸に軽々と飛び乗ると次に乗船するチーリンに手を貸した。すると諒太は何を思ったか一人、船とは反対の方向へ進み出した。

「あ…チーフ、こっちのこと、とっくにバレちゃっていたみたいっすね」

諒太は小走りで江江と陽の前に来るとポケットからメモを取り出し江江に差し出した。

「これは?」
江江は尋ねた。

「これはある勇気のある台北東海公司の社員から渡されたものです」

「どういうことです?」

「このメモにはアクセス権限を有する一部の社員にしか発行されないメインサーバーへ入る為のIDとパスワードが記載されています。
これまで台北東海公司が行なってきた表にはでなかった不正とデータ改ざんの記録が閲覧できるはずです。これを貴方たちに託します」

「真田さん、何故これを私に?
これをあなた自身が暴けばあなたへの世間の誤解は解け、そればかりか英雄にもなれるのよ?」

「江江さん…俺は芋を作るただの蒼氓です。英雄になる事なんか望んじゃいない。これは台湾の人が自ら解決すべきことだと思うんです。
俺は、台湾の人々の良心を信じています」
諒太は力強く頷くとメモを江江に手渡し一礼するとその場を離れた。

「真田さん何て言ったんですチーフ?」
江江は陽に諒太の言葉を説明した。

「英雄になることなんか興味がないか…
いかにも真田さんらしいなぁ…
俺、なんか感動しちゃいました。
それから…志玲のいちファンとしてこういう結果になって本当に良かったと思います」
ぽつりと呟く陽の目は潤んでいた。

「えっ?」

「蔡志玲が愛した人が真田さんで…」

「そうね…」

「あーあ、俺にも良い人どこかにいねーかなー」

「フフッ…」


白い航跡を残し虹天丸は湾内を出て大海原へと出航していく。その様子を江江と陽は船が水平線の彼方に見えなくなるまでいつまでも見つめていた。

海上は嘘のように穏やかで、午前の波頭はどこかへ消えていた。
追ってくる船もなく、どこを見ても見渡すばかりの海原に黒潮の流れに乗った虹天丸は単調なエンジン音を残し順調に帆を進めた。
通り過ぎる海風はどこまでも爽やかで、刻一刻と変わる空の色は傾きかける陽の光に黄金色に輝いていた。

甲板に一人立つ諒太は潮風が髪を乱すのも気にせず、目を細め遥か水平線の先を見つめていた。

ありがとう…俺の行く末を案じてそこからずっと見守ってくれていたんだな…お前たち。
限りある命を精一杯燃やして強く生きるよ。お前たちの分まで。
俺はお前たちのことを絶対に忘れない…お前たちと出逢えて本当に良かった…

諒太が見据える遥か水平線の彼方には津波で犠牲になったかつての同僚たちの姿があった。

絵美…愛…
お前たちのおかげで俺はいま命を繋いでいるんだよ…
あの日からずっと俺はお前たちと一緒に死んでいたのならどんなに楽だったろうと思っていた。お前たちのいない世界に一人生き残って何の意味があるのかと。
人が生きるってことは辛いことや苦しいことが多い。ときに孤独や悲しみや絶望におそわれることだってある。だけど、生きていれば楽しい事も喜びもある。感動することも出来る。新たな出会いも人との巡り合いも生きていればこそだもんな。
生きていなきゃ出来ないことがたくさんあるってわかったんだ。
生きているって本当に素晴らしいって思う…
俺は今、それを実感しているんだ。
あの日の津波で、お前たちを助けられなかったことを俺はずっと後悔していた。けれど、それは違うのかもしれない…もしかしてお前たちが身を呈して俺を助けてくれたんじゃないのか?…生きろと。あの時、俺が助かる要因となったこの左肩を貫いたあの一本の木の枝はお前たちの想いだったんじゃなかったのか?
今はそう思えてならないんだ…

諒太は左肩の傷跡をさすった。

絵美…愛…
ずっと一緒にいることは出来なかったけど、俺は幸せだったよ…その幸せをくれたのもお前たちなんだ。
長い旅路のうち少しの時間だったかもしれないけど、お前たちと一緒に歩めたこと。同じ方向をみて進めたこと。あたたかい家庭を持てたこと。俺は幸せだった…
俺にはまだ旅の続きが残っている。ずっと立ち止まっていたけど、どうやらまたこの先の道を歩く準備が出来たみたいだ。
俺はもう悲しまないよ。
いつかまたその時が来て、お前たちと再会するときに胸を張って『悔いの無い幸せな人生だった!』って伝えたいから…
俺はもう大丈夫。

さようなら…絵美
さようなら…愛

また会うその日まで…

諒太の瞳には愛と絵美の姿が映っていた。
絵美も絵美の胸に抱かれる愛もかつての同僚たちもみな諒太の幸せを祝福するように優しい笑みを浮かべていた。

みんな…ありがとう…


「どうしたの諒太さん?何か見えるの?」
遠く海を見ながら微笑む諒太に船室から甲板に出てきたチーリンが声をかけた。

「ううん…何でもないよチーリン」
諒太はチーリンに優しく微笑みかけるとチーリンの肩を引き寄せた。

「見て…諒太さん…空が海に溶けていく…」

凪のまるで鏡面のような海には、夕焼け空が逆さに映し出され、水平線の空と海の境界がなくなったようにひとつに溶け合っていた。
間も無く黄昏時を迎えようとする東シナ海の夕陽は、空一面に浮かぶ雲の群れをオレンジ色に染め上げ、神秘的な光彩を放っていた。もし、この奇跡のような光景を俯瞰で見ることが出来るのなら、それは、広大な宇宙の光り輝く星雲の中を進む一隻の宇宙船のように見えるだろう。

順調に航行する虹天丸の船体を赤く染め、現実のものとは思えぬ紅いベゴニアの花のような真っ赤な燐光を発する太陽は揺らめくようにその裾野を広げ水平線に没しようとしていた。


そして…
斜光は水平線の先に小さな島を赤く浮かび上がらせた。

「見ろ!美波間島が見えてきたぞ!」
船室から竜男の大きな声が聞こえた。虹天丸は竜男の巧みな操船によって遂にその船首の先に陸地を捉えた。


「お父さん!船が見える!おじちゃんたちが帰ってきた!」
金城浩司の娘真奈美が海を指差した。
「おかえり…諒太くん」
穏やかに微笑む浩司は真奈美の手を取りながら優しい声で言った。その横にはすやすや眠る大絆を胸に抱き笑顔を見せる妻の亜矢子がいる。

「本当だ!俺にも見えるぜ!」
呉屋亜久里が大きな声をあげた。
「あんたぁー帰ってきたよー!」
妻のとし子が亜久里の腕に飛びついた。

「諒太よぅ…お前ぇ…よくやったなぁ」
源一は涙を流しながらぐちゃぐちゃになった顔を腕で拭いた。
隣に立つ鐘子が子供をあやすように源一をなだめた。
海に向かって拝むように頭を下げるのは石垣島から帰ってきた清子オバーだ。傍らには清子を送り届けるため同行した息子の信之の姿も見える。
分校の教師、又吉翔と島袋千夏も新婚らしく仲睦まじい姿で笑顔で手を振っている。
国吉商店の国吉節子は義母絹の遺影を胸に抱きながら涙ぐんでいる。
居酒屋海人の平仲夫婦も穏やかな表情で海に顔を向けている。
牧場を営む津嘉山も大きく手を振っていた。

「真田さーん!」
アントニーなどは大漁旗を手に埠頭を元気よく走り回っていた。
民宿さんご荘の比嘉や、役場で働く砂川、宮里、我那覇の姿もある。
竜男からの無線を受け取り、連絡が回ったほとんどの島民がこの埠頭に集まっていた。

「お帰りなさい。諒太さん…」
呟く瞳の横にはしっかりと拓巳が傍に寄り添っていた。

「竜ちゃんお帰り。諒太さん、チーリンさんも…」
唯と手を繋ぎ海を正面にするのは、竜男の妻千鶴であった。


虹天丸が島に近づくにつれ、諒太にも埠頭に集まった一人一人の島民の顔が見えるのであった。


俺には帰る場所がある…

それが俺のふるさと…
美波間島…

そして…愛する人が側にいる…
こんな幸せなことはない…


諒太はチーリンと一緒に舷側から身を乗りだすと万感の思いで大きく手を振った。

「みんなー!ただいまー!」


水平線に沈もうとする夕日が島をそして海を真っ赤に染めあげていた…

36 最終章 夢の渚

「チーフ!ちょっとこれ見てください!」
陽はパソコンのモニターを指差した。

「これ…私たちが追っていた陸進の電池発火事件のものじゃないの⁈」

モニターには台北東海公司の子会社陸進が製造したリチウム電池の製造データが表示されている。

「急いでキャップを呼んで来て!」

「了解っす!」

直ぐに陽に呼ばれたキャップの王は腹の贅肉を揺すりながら小走りで江江の前に現れた。

「どうした?」

「キャップ、これ見てください。真田さんから託されたメモでログインする事が出来た台北東海公司のデータファイルに入っていた陸進が製造したリチウム電池の評価データです。kiritaniという人物のアドレスを介してやり取りが行われています。ここを見てください」
江江はマウスを動かし、ある部分をポインターで円を描くように指し示した。

「48%だと…何だこの数字は⁈」
王は表示されている数値を前に目を疑った。

「半分にも満たないではないか…」
王が驚いたのは、Excelで作られた表に表示されているデータの数値であった。陸進が製造した電池パックの検査性能数値は、市場に出荷しても問題ないとされる安全基準を大きく下回っていて、到底合格判定が受けられる代物ではないということを示していた。

「こんな数値じゃ、電池に負荷がかかって発火するなんてことは中学生でもわかることっすよ」

「こんな粗悪品が世界中に出回っているというのか…」

「キャップ、これも見て下さい」
江江はメールの送受信画面に切り変えた。

陸進側からの送信メールは、現在供給されている材料では、不純物が多く、これ以上性能を上げることは技術的に不可能であり、検査機関へ提出する性能データも合格安全基準に達せず検査に通らないという製造メーカーとして切実な訴えであった。
それに対し、呂威社長からの返信メールには、現状のまま大量生産ラインにのせるようにとの指示があり、検査機関に提出する性能データについてはこちらで何とかするという生々しいやりとりが残されていた。

「こいつら人の命を何とも思ってねぇのかよ…」
陽は怒りで歯を食いしばった。

「江江、アクセスがシャットダウンされる前に直ちにこのデータを証拠として残すのだ。記事にするぞ!
いよいよ我々のターンだ!」
キャップの王は江江と陽の肩を叩いた。



「お父さんのほうから誘ってくれるなんて今日が初めてだね」

「そうだったかな…」

「きっとお母さんも喜んでくれていると思うよ。お父さん…」

台北市郊外にある山腹の丘陵地帯には張り付く様に無数の墓が並んでいる。

妻の墓前に花を供えると尹は娘の春鈴と並んで手を合わせた。

「春鈴…お父さん暫くうちに帰ることが出来くなりそうなんだ」

「どこか行くのお父さん?」

「うん…お父さん、人としてとても恥ずべきことをしてしまったんだ…自分のやったことに対して責任は取らなければならない。お父さんこのことをずっとお前とお母さんに謝りたかった…今日までそれを言い出せずに時ばかり経ってしまってな…」

「そう…それでお墓参りに誘ってくれたんだね。でもなんか今日のお父さんの顔…昔に戻ったみたい…」

「えっ?」

「私が子供のころ、お父さんもっと元気だったし、生き生きと仕事していた…でも、お母さんが居なくなってからずっとお父さん暗く沈んでいたし、いつも疲れた感じで私見ていて辛かったの…でも、今日のお父さんとても良い顔してる…」

「春鈴…お父さん、気付かないうちに大切なものを無くして長いことずっと探していたんだ…
そんな時、一人の日本の青年が無くしてしまったお父さんの大切なものの在り処を教えてくれたんだ…

その大切なものが見つかってお父さんようやく肩の荷がおりた気がしたんだ…
亡くなったお母さんやお前にはこれまでずいぶん苦労をかけてしまったね…お父さん、暫く帰ってこれないけど、春鈴、お前にはこれからも胸を張って強く生きていってほしい」

「私、待つよ…お父さんが帰ってくるまで…いつまでだって…」

「春鈴…」

「だって私、お父さんの娘だもの」

「ありがとう春鈴…」
尹の目には光るものがあった。

尹は娘の春鈴と別れると、その道すがら、街のインターネットカフェに立ち寄った。時間にして僅か10分ほどの事である。
尹は一通りの作業を終わらせると、大きなため息を一つ吐いた。
電源を切り暗くなったパソコンのモニターには肩の力が抜けて、穏やかな笑みを浮かべる自分の顔が反射して映っていた。
尹はUSBメモリをパソコンから抜き取ると、意を決っしたように立ち上がった。そしてその足で警察署へと入っていった…

それからある内部告発動画がネット上の動画サイトに上がった。
この動画は次々に拡散され、台湾のみならず、中国、日本でも拡散され瞬く間に世界中に広がっていった。
それは尹が警察に出頭する前にネットに拡散したものである。
そこには、音声と共に呂威と諒太の姿がハッキリと映し出されていた。動画は拡散される間に音声には一般視聴者によりご丁寧に中国語と英語の字幕が入れられていた。
社会が騒然となる中、台北東海公司広報部はこれは何者かが自社を貶めるために捏造した悪質なFake動画だと強弁した。一部の台北東海公司びいきの人たちはこの主張を信じたが、江江はこの好機を逃さず彼等が行ったデータ改ざんを記事にして決定的な追い討ちをかけた。
このスキャンダルは新聞でもトップ記事として一面を飾った。
いかに台北東海公司の力でも、これだけ大きくなってしまった不祥事を隠ぺいすることは最早不可能であった。

そこから予想外のことが起き始めた。ロビーで諒太の話を聞いた本社社員や、動画を見た台北東海公司とその子会社の社員たちが一斉に反抗の狼煙を上げ始めたのだ。行動を起こしたのは、強大な組織相手にたった一人で立ち向かう諒太の姿に勇気を得たこれまで呂威に虐げられていた一般社員たちである。彼等もまた内部告発を動画にアップし、自らが知る台北東海公司の不正を世間に公開した。
そして、その動画投稿した人たち全てのハンドルネームの末尾には「PRIDE」
と記されていた。

取り調べにより、尹が供述した内容と提出された証拠をもとに台北東海公司による美波間島リゾートホテル開発に関わる贈賄が明らかとなった。これをきっかけに台北東海公司本社には検察の捜索が入った。更にこれと時を同じくして傘下子会社の陸進や、台湾通電にも捜査のメスが入る事となった。江江によって記事となった陸進による検査データ偽装疑惑は、社内パソコン内のデータばかりか地方にある電池生産工場にも大規模な捜査が入り、電池製造に関わる原料や素材、納入伝票などの書類、更に完成品が証拠品として押収された。

もう一つの台北東海公司傘下、大手広告代理店台湾通電への捜索のきっかけは、動画を見た劉宇童と名乗る女性の一本の通報から始まった。劉は異常ともいえる台湾通電の過酷な労働実体を訴えるとともに、以前同じ部署で働いていた同僚の女性の死亡原因についても異議を訴え出たのだ。
過去、江江がキー局を辞める原因となったこの案件であるが、当時、会社の過重労働が娘の死亡の引き金になったのではないのかという遺族の訴えも虚しく、女性の死因は病死と片づけられていた。
劉は、それは真実ではなく、同僚の死亡原因は会社側が違法に長時間労働を強いた過重労働が原因であると主張した。同社系列捜査の一連の流れから、この通報を重く見た当局は、台湾通電への家宅捜査を指示し朝一番、物々しい雰囲気の中、捜査員によるガサが入った。
通報した劉宇童も亡くなった女性と仲が良かっただけに、このことを人に言えなかったことをずっと悔やみ悩んでいた。人になど喋れば話は揉み消され、自分がリストラの憂き目に会うことは必定であり、あの動画を見るまではどうしても怖くて声を上げることが出なかったと言うのである。

その後、押収された資料の中に深夜、早朝と時間を問わず出退勤する死亡した女性が映る防犯カメラの映像記録が見つかった。また、上司のパソコンの履歴にも女性や他の社員に長時間労働を強いることを証明するような文書記録が幾つも発見された。
この捜索により、台湾通電の常軌を逸した労働体系が明らかとなった。呂威が行った企業買収の結果、リストラを強要され、残った社員にかかる仕事量と重圧は立場が弱い者にシワ寄せが生じる形となってしまっていたのだ。この報告を受け、亡くなった女性の両親は台湾通電を提訴した。その後裁判を経て、女性の労災認定と和解金を勝ち取ることに成功し、労働基準法違反の容疑で関係者が逮捕された。これにより、もう帰ることのない女性の名誉は回復した。

一方、陸進で押収された電池製造に関わる数々の物証をもとに第三者機関の専門家による徹底した調査が行われていた。
連日に及ぶ検証試験でも過去、陸進が検査機関に提出した書面に記載されていた数値に達することは一度もなく、この結果をもって陸進が製造した電池は安全基準に達していないことが証明された。粗悪な部材を使用していることを知りながら製造に携わった技術者は身柄が拘束され、それを主導した幹部は極めて悪質と判断され逮捕起訴された。
現在、市場に出回っている該当するスマートフォンを使用しているユーザーには直ちに使用を中止するよう通達が出された。加えて発火の恐れのある当該電池の新規販売、流通は一切禁止された。今後、陸進には莫大なリコール費用が発生することになるが、この先、親会社の支援が見込めないなか、陸進の体力が持つかどうか今の段階では誰にも分からなかった。

その親会社である台北東海公司だが、捜査の結果、数々の不正が露見していた。特に呂威のボディーガードを務めていた三人には、真田諒太に対する殺人未遂と、密出国、地上げに関わる暴行、強迫、その他多くの不法行為に関与した容疑がかけられ、様々な事件に呂威の手先となって実行的に犯罪に関わった容疑者として指名手配された。
あの日、諒太に返り討ちにあった三人は、社長室を出た後、病院で怪我の治療をしてから市内に潜伏し身を隠していた。しかし近隣住民から不審者として通報され、ついに警察に身柄を確保され逮捕された。
三人は取調官の追及に際し一貫して黙秘を通していたが、減刑を餌に取調官が司法取引を持ちかけると一転して供述を始めた。実刑が免れないのなら少しでも刑は軽く済んだ方が良いに決まっている。第一彼等は初めから台北東海公司に忠誠心など持ってはいない。あくまで呂威に高給で雇われ金で動いていただけのことであって、大事なのは自分自身の保身なのである。
聴取が進むとリーダーのニックの口から重大な事実が語られた。
それは、美波間島リゾートホテル開発計画に関連して波平村長の失踪に自分たちが関わっているという驚くべきものであった。

呂威は島の開発に障害となっている村長・波平の排除をニックらに命じた。そこで、三人にとって不案内な日本・沖縄において、土地勘のある地元那覇市に拠点を置く反社会組織に金銭の支払いで波平の拉致・殺害・死体遺棄まで実行するよう話を持ちかけたのだ。
ところがこの計画に齟齬が生じた。
反社会組織構成員の手によって何一つ足を残さずホテルから波平を拉致するところまでは成功した。だが、いざ波平の殺害という段階になって組織は突如、報酬金の上乗せを要求してきたのだ。同時にこの要求に応えなければ、監禁し生存している波平の画像を世間に公開すると脅迫をかけてきたのである。
彼等もまた犯罪組織として修羅場をくぐり抜けてきた海千山千の奸物であったのだ。

しかし、結果的にこのことが幸運を呼ぶ…

台湾当局はニックの供述をもとに外務省を通じ沖縄県警に捜査依頼の協力をかけた。沖縄県警は慎重に内偵捜査を進め、遂に那覇市内に波平を監禁しているとみられる反社会組織が所有するマンションの所在を突き止めたのである。暁の時間、竜男がかつて所属した機動隊を中心とした捜査員たちは完全防備の上、一斉に当該マンションと組織事務所に強行突入した。
構成員たちの反抗は殆どなく、瞬く間に機動隊により組織事務所は制圧され、マンションの一室には波平が監禁状態で拘束されているのが発見された。
波平に怪我はなく、若干の脱水症状と、長い拘束による疲労が見られたが、数日の入院と警察による聴取を経て美波間島に帰還出来る運びとなった。波平の拉致監禁に関与した構成員と、指示をした組長は逮捕され、一連の美波間村村長失踪事件に終止符が打たれることとなった。
後日、組長の供述から、吊り上げた殺害報酬の話がまとまりさえすれば直ちに波平を殺害する予定であったということが判明した。

那覇地検もようやく重い腰をあげ、美波間島リゾートホテル開発計画に関わる収賄に関連して捜査が始まった。台湾当局から提供された尹が提出した証拠資料と以前、竜男が持ち込んだ宜保の通帳の写真をもとに現在、村長代理を務める宜保の自宅に家宅捜査が入り、通帳やパソコン、携帯電話などが押収された。宜保は受託収賄の容疑で身柄は確保され、取調べで尹から提出された500万円の振り込み履歴の証拠と自らの通帳を突き付けられると観念したようにその場で全てを自供し逮捕された。波平の拉致に際して波平の当日の行動予定を台北東海公司側に事前に漏らしたのも宜保であることが分かった。

他にも台北東海公司が依頼し、地盤調査会社から申請された美波間島リゾートホテル建設予定地の地盤調査結果にも数値に虚偽があることが判明した。
このまま工事が進行し、ホテルが完成していた場合、この地盤の耐久性と強度では最悪の場合、将来建物が沈下崩壊する可能性があることが判ったのである。人命を軽視し利益を第一とするこの不正にも呂威の指示があったことが後の調べで明らかとなった。
真相が解明されたことにより、台北東海公司による美波間島リゾートホテル建設は事実上立ち消えとなり、運び込まれた建設重機や建設資材は海岸から撤去され、南浜にはもとの静けさが戻った。

こののち、体力が回復した波平は村長職に復帰し、これから未来に渡って美波間島の自然と景観を守り抜くことを村民に誓った。


「離せ!私は何も知らない!全て陳が仕組んだ事だ!」

二人の警察官に腕を取られパトカーに乗せられる台北東海公司黄芸能部長は大声で喚いた。

チーリンが所属する台北東海公司子会社の芸能事務所社長の陳もまた別の場所で身柄が拘束された。

「違う、僕は黄部長の命令で動いていただけです!僕は関与していない!」

「詳しいお話は署でお聞きします」

二人が連行された理由は、未成年者に対する淫交と斡旋の容疑である。
これより前、親に付き添われた李卿は警察署に相談に行っていた。
李卿は黄から受けた数多のセクハラ行為に悩み続け、ついに親に打ち明けたのだ。地方から女優を夢みて芸能界に入った17歳の少女の未来を大人のエゴと欲望で踏みにじったこの二人への警察の取調べは厳しく、卑怯な言い訳と、醜いなすり合いをしてきた二人にはこれ以上言い逃れが出来ない証拠が突き付けられた。
黄はその後、更に重い強制性交等罪の容疑でも起訴された。
陳もまた、事務所社長という立場を利用して新人女優たちにいわれのない要求を押し付け、拒むことが出来ない状況を作り出した数々のパワハラ容疑と、未成年の少女を誑かし、自らの利得のため不法に斡旋した疑いで黄の共犯者として起訴となった。いたいけな少女の夢を食い物にしたこの二人の鬼畜のような振る舞いに対し、社会からは轟々たる非難が集中した。
今後この二人には重い罰が科せらることになるだろう…

一連の捜査により浮かび上がった呂威が主導した台北東海公司の多くの事件は政界、経済界、芸能界までも巻き込む一大スキャンダルとして社会に衝撃を与えた。
呂威の社長室での発言と、企業経営の考え方は、下で働く社員と顧客の信頼を大きく裏切るもので、動画を見た人たちの感情は台北東海公司と呂威から大きく乖離していった。無論、投資家の動きも早かった。不祥事発覚により台北東海公司株には最早価値なしと判断すると売り注文が殺到し、連日ストップ安がかかるほど株価は暴落した。彼等にとって企業経営などというものより、株の売却益と配当金にしか興味はない。台北東海公司が今後どうなろうと手痛い損失を出す前に今を売り抜けることしか頭になかったのだ。呂威が信頼を寄せた彼等だが、田んぼの稲穂を食い尽くし、餌を求めて別の場所へ移動するイナゴの大群のような彼等にはその逆はなかったのである。

結局、株価暴落を続けた衰退著しい台北東海公司を救済しようと関心を示す者など誰一人として出てこなかった。投資家による投資が引き上げられると資金が枯渇した台北東海公司にはもう買収した子会社の支援など出来る体力は残っていなかった。
ファンドである台北東海公司自体、何も生産しないし、何も創造しない。何かを作り出すのはあくまで子会社なのである。
信用がなくなった企業ほど脆いものはない。信用を得るためには長い年月がかかるのに、社会の信用を無くすのは一瞬であった。
後は子会社の経営に興味を示した企業に子会社を売却して少しでも社内を整理するほか道は残っていなかった。

チーリンが所属する芸能事務所も売却されることが決まった。
売りに出された芸能事務所を買収したのは、なんと黄により追放されたあの徐前社長であった。徐はかねてより付き合いのあったハリウッドのプロダクションから支援を受けて事務所を買い戻すことに成功したのだ。社長に返り咲いた徐は老体に鞭を打ち、米国に習って弱い立場に置かれることの多い俳優の地位と権利を守ることを目的とした俳優の組合制度を構築することに尽力した。
その後、徐は会長に退き、後任には張花妹が新社長に就任した。

TARPもまた台北東海公司から切り離され売却されることが決定した。
これに同じ轍を踏んではならないと日本企業が買収に名乗りを上げた。SOMYを筆頭にPanasomic、
常陸電機、四菱電機の経営者が企業連合を設立し、TARPを日本に戻そうと動いたのだ。そして新生TARPの社長には今回起訴されることのなかったTARPを誰よりも知る霧谷才三が満場一致で選ばれた。この買収劇の裏ではSOMY取締役に就任したばかりの海野がTARPの高い技術力と技術者を守ろうと中心的に動いたという。

尹はその後、多くの地上げ行為に関わった容疑と美波間島リゾートホテル開発に関わる贈賄の容疑で裁判にかけられ有罪となった。
しかし、呂威の命令には逆らえない状況であった事、地上げに際し実際に不法行為を行なったのは呂威のボディーガードである事、贈賄に関して罪を認めて自ら出頭し反省していることが情状され、執行猶予のついた判決がくだされた。
裁判官に深く頭を下げ、裁判所を出た尹は感無量の表情で娘が待つ家へと帰って行った…


そして最後に残った呂威の処遇であるが、聴取の際、呂威は「光が…光が見える」などと焦点が合わない目で意味不明なことを喚いては勝手に取調室の中を歩き回るなど、とてもまともな会話が出来る状態ではなかった。その後、精神鑑定が行われ、到底刑事責任が問える状態ではないと判断され、精神病院への移送が決まった。
絶頂を極めた呂威の栄光は意外な形で幕が閉じたのである。
TOPを失った台北東海公司はその後管財人が入り、会社更生法を申請した。この時の記者会見には殆ど人が集まらず淋しいものだったという。
これにより多くの失業者が出たが、志を同じくする熱い思いを持った者たちが再度結集し、社会に必要とされる新たな会社を設立すべく奮闘しているという。

隆盛を誇った台北東海公司は事実上ここに消滅した。
一人の日本人が開けた小さな穴は瞬く間に広がりを見せ、世界を揺るがす事態へと発展したのだった。

その後、玉山通信は江江と陽が美波間島で取材した内容と、一つのコラムを記事にして大々的に発信した。
そこには真田諒太という人間の真の姿と、ひととなりが掲載され、美波間島という孤島の厳しい自然の中で朴訥に生きる一人の男の生き様が紹介された。
そして江江が執筆を担当したコラムにはスポンサーに忖度して真実から目を背け、古い考えから抜け出そうとしないオールドメディアの姿勢を痛烈に批判する記事が載った。
ジャーナリストとしての誇りを捨て、自分たちの都合で偏向報道を垂れ流し、平気でねつ造まで行い、ペンの暴力で個人を攻撃することを是認するような現在の報道の風潮を厳しく糾弾したのだ。

これまでチーリンを誑かす悪の権化として真田諒太を見ていた人々の悪感情はマスコミによりでっち上げられた作り話によってもたらされていたことが明らかとなり、ようやく人々はマスコミに騙されていたことに気がついた。何より社長室での映像を誰がどう見てもチーリンを救い出すために闘っているのは真田諒太なのである。
諒太を悪者扱いし、呂威を英雄視していた人々の感情は180度変わった。それから人々の怒りの矛先はこのような偽りの報道を行ったマスコミや週刊誌各社に向かった。窓口には連日数百件にも及ぶ苦情の電話やmail、投書が後を絶たず回線はパンク状態となった。

その後、玉山通信には真実の報道を知りたいという層からの購読申し込みが殺到し、会社は急成長していった。
江江は、報道部を統括する報道部長に昇格し、責任者としての役割を果たしながら、自らもジャーナリストとして真実を追いかけるため、日夜全国を駆け回る日々を送った。
陽はというと、生き甲斐の競馬で万馬券を的中し、一時は大金を手にしたが、新入社員の後輩たちに奢り回った挙句、一週間でもとのスッカラカンに戻ったという噂だ。
今でも江江の片腕となり、カメラマンとして江江を支えている。


一人の日本人の男性が海を越え、国境を超えて一人の女性を救うために命を懸けて闘った。この事は紛れもない事実であり、このストーリーに接した台湾の人々の胸には清々しいほどの感動が残った。
台湾当局も今回の台湾における真田諒太の功績と人々の感情を鑑みて、諒太と竜男の密入国の一件を不問とした。

諒太と共に海を渡ったチーリンは自ら保有する財産を全て処分し、基金を立ち上げた。
「財團法人臺北市志玲慈善基金會」
と名付けられたこの基金の目的は、親を亡くしたり、ネグレクトを受けてまともな医療や教育を受けられない子供たちに普通の子供たちと同じように育ってほしいと願いを込めて設立されたもので、親が居ても小児がんで闘病中の子供たちや、家が貧しくて食べる物に事欠く子供たちのための救済にも援助される事となっている。この基金設立にはチーリンの慈善の心に共感した人々から多くの支援が集まった。それは同じ芸能界のみならず、国を問わず財界や一般人からの賛同を呼び、その輪の広がりはやがて大きなムーブメントとなっていった。
その後、チーリンは基金の運営を事務所社長となった張花妹に引き継いでもらい、すべての活動から身を引いた。

それから最後の投稿と記された一本のSNSがアップされた。

この度、わたくし蔡志玲は結婚いたしました。
お相手は、真田諒太さんです。
美波間島と云う美しい島で私たちは出逢いました。時間を重ねるごとに二人の絆が芽生え、その気持ちはいつしか愛情に発展していきました。
転んだり、ぶつかったり、迷ったり、遠回りしたり……
彼とは様々な時を共にしてきました。
頑張って愛を信じていれば、必ず愛は舞い降りてくるんだと思いました。
出逢ったきっかけは偶然だったかも知れませんが、今では彼との出逢いは必然ではなかったのかと思えるのです。 

どんな時も彼の島の仲間を大切にする姿と、いつも真面目に仕事に取り組む姿に私は心を打たれました。
真田諒太さんは、これまで私を何度も助けてくれました。でも、その優しさは私に対してだけではありません。すべての人に平等に慈愛をもって接してくれます。彼はとても辛い思いをしました。でも、辛い思いをしたからこそ人の心の痛みと悲しみが自分のことのように分かるようになったのだと思います。私は本当の人の優しさとは何かということを彼から教えてもらいました。

そんな彼と側で過ごすうちに私は次第に彼に心が惹かれていることに気がつきました。
私たちは縁があって結婚することになりましたが、これからも共に未来と人生の起伏に向き合い、強く二人で力を合わせて歩んでいきたいと思います。

ファンの皆様、関係者の皆様には心から感謝を申し上げると共に、愛を信じていれば、誰でも必ず幸せを掴むことが出来るということをお伝えしたいのです。

私は今日をもって女優を辞め、一人の女性にもどります。
これからは真田諒太さんの伴侶として、側で彼を支えていきたいのです。
どうか私のわがままをお許しください。


文章は最後、故郷台湾に向けられていた。

それから、これまで私を応援してくださった台湾の皆様、本当にありがとうございました。
皆様がこれまで私にたくさんの愛を与えてくださったからこそ、今日という日があります。
私は台湾が大好きです。
そして台湾の皆様のことが大好きです。

これからの二人を暖かく見守って頂ければ幸いです。

愛する人と共に人生を歩んでいける…
こんな幸せなことはありません。
どうか皆様にもひさしく朝日のような愛がふりそそぎますように… 
私はこの場所から皆様の幸せを願っています…

チーリンのSNSには一枚の写真が添付されていた。
眺めの良い展望台から撮ったと見られるその写真には、抜けるような快晴の青空と、その下には広大な真っ青な海が写り、水平線の遥か先には台湾の山々がハッキリと写っていた。

チーリンの芸能界引退の報に一部のファンの間からは引退を惜しむ声があがったが、二人の結婚を祝福する声の方が圧倒的に多く寄せられた。
昨今の風潮と逆行するような同じ芸能界のイケメン俳優でも、IT長者でも、実業家でも、一流のスポーツ選手でもなく、小さな島で芋を作る一介の農家へ嫁いだチーリンの決断に台湾のみならず世界中の人々は驚きを隠せなかった。誰もが女優というステイタスを捨ててまで、身一つで愛する人の元へ一人渡ったチーリンの純愛を貫き通したその姿に胸を熱くした。

それからも一部の週刊誌が二人の姿を写真におさめようと試みたが、
「どうして二人を静かにしておいてやれないのか⁈」
という苦情が出版社に殺到し、週刊誌の不買運動にまで発展した。
その後、人々からソッポを向かれたその週刊誌は遂に廃刊にまで追い込まれた。


        ー東京・蒲田ー

「良かったね…
りょーたん、チーリンちゃん…」

キャバクラ「Heaven」の控え室では、「忍」ことみうが休憩していた。みうはマスカラが落ちるのも気にせず、瞳に涙を浮かべながら手にしていた二人の結婚の一報を知らせるスポーツ新聞をゆっくりとテーブルに置いた。

「忍さんご指名のお客様ですよー」
やる気の無さそうなボーイが控え室のドアを開いた。

「えっ⁈私に指名?」

珍しいこともあるものだと思いながらホールに出て行ったみうは驚きの声を上げた。

「えー⁈あなた達また来てくれたんだぁ!ちょー嬉しいんだけどぉ!」

みうは二人の客の腕にしがみついた。

「な、なんかハマっちゃいました」

紳々と竜々は顔を赤くした。



赤々と燃え上がる炎に竜男は顔を赤く染めていた…


諒太たちが台湾から美波間島に帰ってから間も無く、勝男オジーはもう一度潮風にあたりたいと瞳に訴えた。

風の穏やかな昼下がり、オジーは瞳に車椅子を押してもらい、海が見える場所までやってきた。
車椅子に座るオジーは目の前に広がる海から吹きこむ潮風を全身に浴び、深く息を吸い込むと何とも心地良さそうな顔で優しく微笑んだ。

オジーはゆっくりまぶたを閉じると、それは静かな囁くような声で海に向かって…

「あらーぐふがらっさ…」
(どうもありがとうございました…)

とたった一言、弱々しく言葉を発した。

それを最期にオジーの目は二度と開かれることはなかった。後ろの瞳が気づかぬほどに勝男オジーは静かにそして安らかに旅立っていった…


源一と金城浩司の手によって虹天丸の機関部は取り外され、その後、漁港から竜男の船によって曳航された虹天丸は、夕闇迫る東浜の砂浜の上に打ち上げられた。
虹天丸の周りには、竜男、瞳の兄妹、源一、金城、拓巳ら美波間島の漁師と隣の与那国島の漁師の多くが集まっていた。役目を終えた虹天丸には白い船体に夕日が赤くあたり、静かにその時を待っていた…

「本当にいいのか竜男?」

源一は念を推すように竜男に聞いた。

「ああ…いいんだ…オジーが居なくなった今、このまま虹天丸が朽ちていく姿を見るのは忍びないんだ…」

「そうか…分かったよ…
なら、俺たちにも手伝わせてくれ」

与那国の漁師たちもオジーの伝説の船の最期を目蓋に焼き付かせるため率先して竜男を手伝った。
船にはガソリンが撒かれ、最後のその瞬間を待つだけとなった。

源一と金城はこの船でオジーによって鍛えられ一人前の漁師となった。
また、父母のかわりに竜男と瞳はオジーによって育てられた。その生きる糧となり、オジーの相棒として共に海で闘ってきたのがこの虹天丸なのである…

竜男はこみあげる思いを抑え、火のついたマッチを放った。
メラメラと燃え上がる炎を前に瞳は拓巳の胸で涙を流した。

「ありがとう…虹天丸…
オジーを頼む…」
竜男は目頭を熱くし頭を下げた。

高く立ち昇った赤い火炎は夜の帳の降りた浜辺を遠くまで照らしだした…


       ー台東縣某所ー

 「文先生、その後どんな状態なのでしょう?」

白衣を着た医師を前に江江は質問をぶつけた。

「はい…何とお答えしたらよろしいのか…」

ここは台北市から遠く離れた台東縣の人里離れた山の中にある精神病院である。江江は台北から何時間もかけて一人きりでこの場所を訪れていた。静かな山の中にあるこの病院には現在二十人を超える患者が入院しているが、面会に訪れる者は皆無に等しい。

「江江さん…よろしかったら会っていってあげてください」

「よろしいのですか?」

「ええ、心配はいりません。全く攻撃性は見受けられません。ただ、妄想性が強く、意思疎通に多少の難があるだけです」

長い廊下を歩いて鍵がかけられたドアを幾つかくぐり、遊戯室とプレートが掲げられている部屋に江江は案内された。
部屋の中では数人の患者が思い思いに絵を描いたり、TVアニメを観たり、積木で遊んだりしている。積木で遊ぶ患者などは、何かを組み立てては崩し同じ動作を飽きもせずに繰り返していた。

「呂威くん、お客様だよ」
医師の文は部屋の奥に向かってその名前を呼んだ。
すると一人の男が走り寄ってくると江江の目の前でピタリと止まった。

「ママーお帰りー。今日は遅かったね」

えっ?
思わず江江は隣に立つ医師の文に顔を向けた。文は江江に視線を逸らさず首を縦に振った。

「ママー!このヒコーキ先生に貰ったんだ!カッコいいでしょう?」

ブーン!
呂威は玩具のプロペラ飛行機を手にしながら嬉しそうな顔をして走り去っていった。
あのギラギラした目はどこかに消え、今の呂威はまるで子供のような純真な顔に戻っていた。

「彼にとって現在(今)が一番幸せな時なのかもしれません…」

ポツリと文は呟いた。
江江は走り去る呂威の背中を茫然と見つめた…


         ー三年後ー

雲ひとつない青い空からは、やわらかな陽が燦燦と降り注ぎ、美波間ブルーと呼ばれる広大な青い海からは透き通った穏やかな波が渚に寄せていた。
白く美しい砂浜には穏やかな波が打ち寄せ、波打ち際に開いた小指ほどの小さな穴からは、小さなコメツキガニが顔を出し、驚いたように飛び出していった。
歓声を上げながら、麦わら帽子を被った小さな女の子は柔らかな砂に足を取られながら、よちよちとした足どりで素早く動き回るコメツキガニを追いかけている。

「美波〜 帰るわよ〜」

美波間島からその名をとった『ミナミ』と呼ばれたまだ2歳にもならない女の子は無邪気な表情をして母親の元へ駆け寄ってきた。
優しく微笑む母親の胸元には、ネックレスに加工されたガラス玉が陽の光に反射して輝いてる。

「みなみ、もっと、かにさんとあそびたい〜」

「またいつでも来れるでしょ?
お家に帰ろ?美波」

「どうしておうちにかえるの?」

「家族の大切な場所だからよ」

「たいせつなばしょ〜?」

「そう…ママとパパが初めて出逢った場所…
そして美波が産まれた大切な場所…」

「ふぅーん。わかったぁ!」

「あなた、帰りましょ?」

「ああ…そうだなチーリン。皆んなで一緒に家に帰ろう…」

諒太は優しく微笑んだ。

「パパ〜、ママ〜、てをつなごう?」
美波はふたりの間に入ると甘えた声で両親の手を取って笑顔で二人を見上げた。

美波間島の海は何事もなかったように穏やかな表情で三人を優しく見守るかのように静かな波音をたてている…

手を繋いで歩き始めた三人の前には広大なエメラルドグリーンの海が広がっていた。


そして…

白く美しい渚の砂の上には家族三人の足あとが続いた…

どこまでも…
どこまでも…


                夢の渚(了) 

夢の渚

夢の渚

台湾の世界的人気女優 蔡志玲(サイ チーリン)はあることがきっかけで芸能界から姿を消す。 逃避行の末辿りついたのは日本最西端の島 与那国島から程近い「美波間島」という孤島であった。 チーリンはそこで震災で妻子を亡くした真田諒太と出会う。 島で暮らす個性豊かな人々との触れ合いの中チーリンは人が人間らしく生きるということはどういうことか気づく。厳しい孤島の環境の中で人間が生きるということ、そして人生の終わりに行き着く先…絆…友情…親子の愛…男と女の真実の愛… そして島に迫る大きな黒い力。 チーリンと諒太に立ちはだかる試練… 二人の恋の行方はどうなってしまうのか? 美しい海を舞台に繰り広げられる長編恋愛小説

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 1 陽射
  2. 2 追想
  3. 3 懇篤
  4. 4 憂愁
  5. 5 海人
  6. 6 ラムネ瓶の中のガラス玉
  7. 7 イーハトーヴの耀き
  8. 8 赤いハイビスカス
  9. 9 青空と白球と…
  10. 10 黄金色の汗
  11. 11 狂飆
  12. 12 嵐のあと
  13. 13 真夏の夜の花火
  14. 14 黒い陰謀
  15. 15 遠き旅路
  16. 16 傘
  17. 17 与那国島の仁星
  18. 18 胎動
  19. 19 遥かなるニライカナイ
  20. 20 素顔のままで
  21. 21 亡失の海
  22. 22 選ばれし者
  23. 23 暁の南十字星
  24. 24 偽りの海峡
  25. 25 訣別の空
  26. 26 約束の場所
  27. 27 月光
  28. 28 明日へかける虹
  29. 29 廻天の海
  30. 30 遠謀
  31. 31 紅(くれない)の咆哮
  32. 32 SACRED
  33. 33 蛇と龍
  34. 34 光と影
  35. 35 Golden Smile 〜誓いの海〜
  36. 36 最終章 夢の渚