別れの文

「とてもわがままである」
学校より指定されている、黄色の帽子、
あれのつばを真ん中で折ってしまうような少年であった。まだ、この世の陰湿な部屋を知らない無垢な少年であったのだ。
そんな少年は、小学3年の春、
「とてもわがままである」
と文の締めに書かれた通信簿を受け取っていた。

昨年の1月、いよいよ実の父が家に帰らなくなり、
唯一の兄が上京した。頻繁にヒステリーを起こす母と共に、私は日々を暮らすようになった。
勉学とアルバイト、2人分の家事をこなしている。不自由はなかった。

ある朝、寒気のせいで、乾いているのか、濡れているかわからない、外に干された服を取り込んでいる頃、母が目を覚ましてきた。

「髪が伸びたのね」
と、母がいう。少し体が冷えた。
曖昧に相槌を打って、そんなことを言う母の、肩幅の狭い服を畳む。母は、私の髪の長さを、いつも見ていたというのか、まさか。

確かに、髪は伸びきっていた。
ぼさっとしたまま、不器用に後ろで髪を結んでいる。浮浪者じゃないか、と数少ない友人の言葉を、実は少し引きずっているのだ。

母は、鏡の前で髪をといている。
2人分のコーヒーを淹れ終えると、
私の顔を一度だけ、見て、
「お母さんは、あなたにもっと綺麗に育ってほしかった。そうね、教会でソプラノを歌う少年みたいに。」
と呟く。
もうコーヒーを飲んでいる。
薄暗いこのリビングが、地獄のそれに思え、纏う臭いで、とたんに吐き気を起こす。

ああ、母は失望の言葉を、毎朝のコーヒーのよりも簡単に、この日常の一瞬に、吐き捨てるのだ。

いつもふたつ洗う、白いコップを、
その朝、ひとつしか洗わなかった。


その頃、私はある女と連絡を交わしていた。
名は知っていたが、苗字は知らない。
この女とは、顔を合わしたことがなかった。
お互い、学生なのか、働いているのか、年齢や生まれも知らなかった。それがよかった。
会おうとは言っていたが、それは口約束よりふわふわしたものであり、どちらも本気にはしてなかったのだろう。

しかし、今朝の災い、白いコップを洗い場に置き去りにした朝、いやそれを理由にするわけではないが、ひとつの要因となり、今夜会えないか と、連絡を取ってしまう。
快い返事で、その夜、会うことになる。

乱雑な人混みがある駅で落ち合い、
初めて顔を合わせる。私は金を満足に持っていないので、その街で、最も安い酒が飲める店に入る。
そこに情けなさなど、感じなかった。
この女は、私の何も知らない。世間の目を恐れ、真下を向いて歩き過ごす私からすれば、この女の目は、世間ではないのだ。

世間とは、私に道徳的、非破壊的な生活を送れと、そういう思想を強要してくるものだ。
これは漠然としているために恐ろしいのではなく、
人それぞれ、結局誰か、特定の目を恐れて、誰かの理想から外れた生活を送ることを恐れている。
「世間とは個人である」あの過去の文豪の言葉にそうあるように、
私にとって世間とは、教師であり、友人であり、
私を好いてくれる女であり、
最も、あの母であるのだ。

身の上を知らない二人の会話など、それこそ意味はなく、その場限りの話題で、ただ酒を飲み、世間から逃れよう逃れよう、としていた。
一方、女もただ純粋に楽しい、ような顔をしていたと思う。それに応えるよう酒を煽る手は、止まる気配はない。

いつしか、すっかり表情が緩み、いやしく口角があがった顔で、その女のすぐ隣に座るほどだった。
ただ無償の逃避が出来ている、心地よい湯に浸かっているような。あの、だらけた姿のまま、君と夜を過ごせていたら。


私はひとつ、どうにも理解しがたい、書記のしようがない、わずらい物を抱えています。
孤独感と夜の暗さに、身を滅ぼす恐怖心がある。
その二つは、相まって、さらに、店の外に出ると、冬の寒さがある、きっと私の意思ではなく、それ意外の何かの所為にしたいのだろうが、どうもこれらに、恐れ慄いて、負けてしまう。


そのわずらい物の端っこを、
それも酔いにより、どこで覚えたか、継ぎ接ぎの言葉と共に、女に見せるのだ。
「朝まで一緒にいたい」
街の喧騒が遠く聞こえるまで、
手を絡ませて、歩いた。

ひどく閉鎖的、機械的な明かりしか感じられない、
うざったいほどピンクの原色を貼り付けた部屋に流れ着く。
相変わらずの陰湿な雰囲気に、酒の残り香さえ、溶かされる。
乱雑に荷物を置く。
女は私のコートをかけてくれる。
私はタバコを吸う。
隣に座ってくる。
「その匂い、好き」
という君の横顔を見た。

まさか。
あの悲哀にも似た切なさを、感じてしまった。
世間の目をしていない君の目は、私と同じ、世間の目にいつも怯え、そして束の間の夜、その目から逃れている目をしていた。
残酷、この女だけは という卑劣な感情を持ちあわせていたのは事実だが、
いや、例えばこの女の目が、世間であれば、ただ私の泣き寝入りで終いだ、それは慣れっこなのだ。
しかし、世間の目から完全に逃れられず、一瞬の夜、その暗さに紛れている目をしている。

それは街のガラスにふと映し出される私の目であり、
私の煙に透けて見えるこの女の目である。

すっかり頭を抱えてしまい、
女が話す言葉に、曖昧で軽率な相槌をうつのみだった。
帰りたくなってしまう。いつだってそうなのだ。
「ひとりは寂しい」と言ったのは私なのに、
「ひとりにしてくれ」なんて半狂乱で叫ぶのも私なのだ。このふたつの間に、私は自問自答を繰り返し続け、自暴自棄にたどり着く。
その背景を知らないわけだから、相手方には、情緒に異変が起きているようにしか見られないのだ。
いや、まさにその通りなのだ。

自暴自棄にたどり着くと、もう思考が止まる。
そして、ただのわがままに成り果てるのだ。

結局、自分のことしか考えられず、
自分のわずらい物を通してしか、
他人と接する事が、できない。
孤独を嫌って、それを好んでもらって、
そのあと、最悪の状況で、
孤独を渇望する。
憂鬱の底を、自ら浅く決めて、
そこにひとり、落ち着いている。
この自己嫌悪こそ、
とても、わがままである、理由だ。


この女はきっと、まだ夜の暗さに紛れられている と、思い込んでいる。私の目を見ても、世間に怯えたり、この夜を疑ったりしない。
きっと、ふたり同じ思いで、この夜を過ごしていると思い込んでいる。
それでいい、君はそれでいいのだ。
しかし、私は、今にも泣き出しそうなのだ。
その思い込みを、壊さぬよう、
愛し合うなんて言葉には、ほど遠い、義務感に追われて、触れた。

翌朝、先に目が覚めた。上半身を起こすと、吐き気が襲ってくる。眠ったとしても、何も変わらず、昨夜の陰湿な気分は、そっくりそのまま、ここにある。

女は、昨夜、私に 首元につけさせた赤いあざを触って、満足そうな顔をしている。
「もうひとつ、ここにつけてほしい」
首の下あたりを指差す。
私は無言で、命令に従うのだが、
やはり、これは理解に悩む。

なぜ、この幻覚か夢かも、ただ、漂っていて、得体の知れない一夜を、形に残してしまうのか。
ますます吐き気が襲ってくる。
私とこの女の間に、信じがたいほどの温度差が生まれてしまって、私が触れるだけで火傷してしまい、この女が、私に触れるだけで、冷えすぎてしまう。
君が何かを話すたび、差が広がり、曖昧な相槌までの間に、あの自己嫌悪が倍速で全身をつたう。

次に何を言うのか、恐れている時、
「また会いたい」
私のコートを、ハンガーから下ろし、手渡してくると同時に、そう言った。

ああ、ピンクの原色が、地獄の色。
女の目が、世間の目になった、
私を好いている女の目、

一夜に隠れるふたりには、
次の約束など、必要ないのだ。


外に出ると、朝の寒気が私を半殺しにする。
もう、ぼろぼろの体で、私を引きずって歩く。
あの乱雑な駅に入ると、人工的な暖かさで、
2度と会わないと思う私、
女は、「また」と何度も言う、
温度差は両端を極めた。

2度と会うつもりはないのに、
「また」に曖昧な返事をしてしまう。
別れ際に、手を振ってしまう。
これが私の、最大のわがままなのだ。
別れでさえ、わがままなのだ。

後ろ姿が、世間に消えていく。


今夜、君への、この別れの文を書き終えた。
今朝、白いコップはふたつ洗って、
あの時と同じ銘柄のタバコを吸った。

別れの文

別れの文

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-23

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