窓から入って来る幽霊

空間を長方形に切り取ったガラス窓から入ってくる、太ってぶよぶよの弱い太陽の光と、鼻腔≪びくう≫に忍び込んで、生乾きのワカメを連想させるようなツンと刺激する潮の香が、部屋を覆っていた。
夕闇が、音もなく忍び寄って来ていたのだ。
全身をなめ尽くすような視線が、山下 勉≪やました つとむ≫を無理やり目覚めさせた。
彼は、もう薄暗くなった窓に向かって、二階全体を揺るがすような大声で、一人言を吐いた。
「何だか、嫌悪感を押し付けてくるような、重くて憂鬱な気分だなぁ。しかも、長い間、誰かにジーッと見詰められているような気がする。まだ、夢を見ているのかなぁ? 俺は!」
 刻一刻と太陽の灰色っぽいオレンジ色が、彼の部屋全体を占領してくる。
「ああああああぁぁぁぁ、ふああああああああぁぁぁぁ……」
勉は、顎が外れる程の大欠伸≪おおあくび≫をし、頭を何度も何度も左右に振り、奇怪な夢の記憶を追い払おうとした。だが、それは無駄な行為に終わった。悪夢の残さいが、彼の脳から去らなかったからだ。今度は、排気ガスが薄く汚した天井に向かって、家が壊れんばかりの大声で喚いた。
「馬鹿野郎―。卒論の大馬鹿! 馬にけられて死んじまえ! クソッタレ! アホタレ!」
 めちゃくちゃな言葉を並べ立てて、今までにたまりにたまったウップンを、ほんの少しだけ減少させた。
ここは二階だからガラス窓を開けているので、いつの間にか天井だけでなく、畳まで排気ガスがその勢力を徐々に拡大させている。だから、勉はウップンばらしの代償に、排気ガスを大量に吸い込んでしまったのだ。急に喉がいがらっぽくなり、二、三回大きな咳をしたので、天井の隅で陣取っていた小さな蜘蛛を、またもや驚かせた。
今度は、天井に向かって思いっきり喚いた。
「また、書きかけの卒業論文の夢かよー。原稿に足が生えているように、いくら逃げても凄いスピードで、モタモタと逃げている俺を追いかけてくる。いい加減にして欲しいよ、ったく! でも、いくら大声でぼやいても、今までの経験からして、悪夢が、記憶から消えてなくならないのは、俺自身よく心得ているが……。コンチクショウ。バカタレ。気味の悪い夢が、肌にまだまとわりついているようだ。クソー、体から悪夢が抜けないぞー。昨晩も徹夜で『経済学方法論とその確率的合理性』という卒業論文に挑戦していたが、ペンは遅々として進まないし、おまけに金縛りにも苦しめられた。……ったく、俺は踏んだり蹴ったりの目にあわされた!」
 普通の人間の肺活量では、こんなにも長いセリフを大声で喚く事なんて、とても不可能だ。
 そう――勉は、常人ではないのだ。恐らく、外見上では誰も区別なぞ出来ないだろうが。
今度は、積もり積もったストレスを、窓と反対側に大声で吐き捨てる。そこは緑のモルタルの壁だ。
その時だった。このアパートに四年ほどしか住んでいないのに……モルタルにヒビが入っている箇所を見つけ、彼は、ほんの一瞬だけ思った。
「アホタレ大家に、文句を言ってやろう!」
それ程に、勉は、細かな事に気がつく神経質タイプだ。しかし、その時、筋骨隆々のたくましい、まだ三十歳代の大家の姿が脳裏に浮かんだ。腕力で戦っても、勝ち目がないのを自覚していた彼は、自分の意気地なさを、心の中でうまく正当化したのだ。
(俺は、無駄な争いはしない主義だ! 誰よりも、平和を愛している人間だ! ここで、引き下がるのが、真の男だろう! うん、そうだ、そうに、間違いない!) 
金縛りには、閉眼型と開眼型の二種類があるが、勉は閉眼型である。だから、目を固く閉じているのに悪霊……などが見える。
彼はとても恐怖に敏感である、端的に言えば、極度の怖がりだ。重いストレスを、背負い込むと、幼い頃から、必ず金縛りに苦しんできたのだった。
昨晩、徹夜して論文を書いていた筈だったが、机上にはヨダレが作ったとおぼしき小さな池があった。つまり、短い時間だろうと思われるが、深淵な眠りの世界に落ちていたのだ。
机上には、参考にして卒論を書いていた九冊の繰り返し何度も何度も読んで、ボロボロになった本が開かれている。彼は、多量の雨で多くの河川から流入し満杯になったダムが決壊し、まるで洪水のように襲って来た悪夢に溺れていたのだ。
今回の悪夢は、これまで経験した事がない程の熾烈≪しれつ≫極まる恐怖を伴っていた。下着を絞ると、グッショリと氷のように冷たくなった汗が落ちた。バスタオルで、全身をていねいに拭き、風邪をひかないよう慌てて下着まで変えた。
花が咲き乱れる初夏にはまだまだ遠く、今はやっと冬を脱した三月初旬だ。三寒四温の季節だから、寒い日もあれば暖かい日もあるのは、当然だろう。
昨夜か今朝かは定かでないが、勉がタップリと味わった悪夢は……。

勉は、二階の六畳間で寝ていた。
ガラス窓の方に、顔を向けていたのだろう。
窓外に、くすんだ着物姿をした若くて髪の長い半透明の女性が、彼に背を向けて浮かんでいて、まるで蚊が鳴いているような消え入りそうな声を、直接、彼の脳に入れてきたのだ。
「寒いから中に入れて下さいませ! 後生ですから、お願い致します! どうか……私を温かそうな貴方様のお部屋に……」
艶っぽさがあるのに、何となく虫唾≪むしず≫が走る、おぞましい嫌悪感を抱かせる、くぐもった低い声で、繰り返し訴えてくる。まるで喉を抑えつけられているような、何ともイヤーナ声だ。胃が跳ね上ったような不快感を、勉は覚えたばかりでなく、彼女の声を聞いた刹那、意識が凍りついてしまった。
しばらくして正常な意識を取り戻すと、彼はあれこれと考えた。
(夢は殆んど毎日見るが、今回は今まで見た事がない程の不快な夢だ。
夢では、視覚だけではなく、聴覚、嗅覚等が、何らかの刺激を感じるらしい。
リアル過ぎるが、正真正銘の夢には違いないだろう。彼女は外にいるから寒いのだ。訴えが現実だとすると、外は相当に寒いようだ。
やや、突然、冷たい空気が喉に流れ込んできたぞ。おかしい! 室内にいる俺の全身を、真冬のような冷気が覆うなんて……。まして、ここは二階だから、どんな方法で彼女は、窓の外に浮かんでいられるのだろうか? ハシゴかキャタツでも使わない限り、人間では窓外に留まっていられない。霊なら、そんなものは不要だが!)
そんな疑問の解答を模索している、まさにその時だ。
閉め切った窓から、まるでクジャクの羽根のように美しいストレートヘヤーを、腰まで垂らしている女性が、後ろ姿だけを部屋に入れてきた。すると突然、生ゴミに似た腐臭が、彼の周囲にネットリと漂ってきたのだ。口の中には、錆びた鉄の味が忍び込み、ぺ、ぺ、ぺ、ぺ……と何度もツバを吐き出したが、そのむせるような複雑で奇妙な味は、口の中に残ったままだ。
でも、Hな期待で、彼の心臓はバク、バク、バク、バク……して、今にも破裂しそうだった。女性に興味を持っている点では、世の男性に劣らない。いや、むしろ、性欲では異常な部類の男性に属するだろう。
不覚にも、彼はヨダレを大量にこぼした。
(きっと美人に違いない。何とか出来ないかなぁ)
ほんのわずかな時間だが、性欲に起因する様々な願望が、勉の頭の中を全て占領した。

一般的には、友達あるいは先輩に連れられて、芸妓屋、遊女屋が集まっている花街≪かがい、はなまち≫に行き、所謂≪いわゆる≫「筆おろし」をするものだが、大人になった勉には、誰一人としてそのような人はいなかったので、自ら何度も当時はまだ違法ではなかった明石にある赤線にかよったのだ。勿論、国鉄(今のJR)を利用して、神戸市兵庫区福原町にあった遊廓にも、何度か足を運んだ。
福原の遊廓は、明治元年に現在の神戸駅付近で開設したが、明治五年、鉄道敷設により現在地の旧湊川右岸の福原町に移転した。最盛期には、貸座敷が百六軒、娼妓九百三人いたが、神戸大空襲で焼失し、戦後、赤線に移行した。
ところが、千九百五十八年の売春防止法で、遊廓は廃止された。現在では、ソープランド等の性風俗店がひしめく歓楽街になっている。

さて、ここで話を巻き戻そう。
(でも、いくらなんでも相手が幽霊じゃなぁ。さすがの俺でも、やっぱりご遠慮願うよ!)
 そう思った途端、彼は、またしても全身が凍えるような寒気に襲われ、しばらくして、全身がブルブルと震え出し、最悪の気分に陥ったのだ。……強烈な吐き気すら催して畳にゲロ、ゲロ、ゲロ、ゲロ……と音を立てて吐いてしまった。
数十分後、やっと体調と理性を取り戻した勉は、普通の人間が体の半分を窓に通すなんて不可能な技だ、と思った。が、理性は次第に痺れたように働かなくなってきて、思考停止状態に陥ってしまったのだ。またしても、急に悪寒が背筋を走り、冷気が体中を襲う。同時に、猛烈な死臭で、更に一層の強い吐き気さえ込み上げてくる。腐った卵のような悪臭が、直接、彼女から勉めがけて漂ってきたからだ。鼻の中に、腐った液と体液が混ざり合ったような死臭が、無理やり入り込んでくる。腐敗した匂いを伴う臭さで、胃は冷たく縮み、鼻から脳へと痺れたような奇妙な感覚が伝わり、体中から冷たい汗が噴き出すのを、勉は感じた。
彼女は、周囲に負のオーラを漂わせていたのだ。

まさにその時だった。
彼女が、ガラス窓から全身を侵入させ、身の毛も逆立つ正面を勉に向けたのは! 
部屋中に、凄まじいまでの怨念と破壊と混沌が、その女性全体から漂っているのを、勉は敏感に察知した。何もない空間に浮かんでいるその姿を間近で見て、ギヤーという悲鳴を出したかったが、全身の筋肉を動かせなくされている為に、声すらも出せない状態だ。彼女は、とてもこの世のものとも思えぬような凄絶さに満ち溢れており、その顔には鬼相がうかがえる。
彼女の全身は糜爛≪びらん≫しいて、ミイラになる一歩手前だ。その証拠に、死亡して数週間経過したような血や膿≪うみ≫の匂いを、辺り一面に発散させているのだ。
その口元には、何とも表現出来ないような、ぞっと身震いさせる、薄暗い笑みを張り付けている。椿をモチーフにした、高級な結城紬≪ゆうきつむぎ≫の着物は、腐ってボロボロになっている。彼女の前髪は、殆んど抜け落ちていて、目は、腫れて真っ赤に爛≪ただ≫れている。
彼女は、あたかも、田宮伊右衛門≪たみやいえもん≫が士官するため、毒を盛らせた、「お岩さん」のようだ。――鶴屋南北≪つるやなんぼく≫の描いた「四谷怪談」で有名なお岩さん、そのものだ――
腐った肉片が、顔に所々にへばりついている。土のような色に変色した骨も、あちこち現れている。眼窩≪がんか≫からは、血走った両眼玉が飛び出し、既に腐っており、しかも、ヒビ割れて口まで垂れ下がっている。そのいまわしい両眼玉が、恨めしそうに勉を睨んでいる。鼻には、肉はなく二つの空洞があるだけだ。何か淡い肌色をしたコメ粒程の大きさをした虫が、盛んに出入りしている。何と、それらは、おびただしい数のウジ虫どもだ。両耳は本来の位置に辛うじてあるが、紫に変色していて所々欠けている。唇には、パープルの口紅をしているようだ。いや、違う。口も腐ってただれているから、そう見えただけだ。更に、唇からは、四つに別れた真っ赤な舌が、絶えずチロチロと素早く出入りしている。まるで蛇の舌のような動きだ。喉からは、不気味な声さえ聞こえる。
体中の産毛≪うぶげ≫が立って、再び悪寒が勉を襲った。
そして、黄色に変色した骨だけの両手で、頭を鷲掴≪わしづかみ≫にされ、吸血鬼のように尖った歯で、頭を何度も何度も齧≪かじ≫られた。彼女の口から、どす黒い血が溢れ出して、ポタリ、ポタリ、ポタリ、ポタリ……と音さえ立ている。
「痛い!痛い! もうこれ以上、お、お、俺を苦しめないでくれ! だ、誰か、誰か、誰か助けてー!」

ガリ、ガリ、ガリ、ガリ……と、齧られている硬質な音が、この世に響き渡った。
つまり、勉は彼女によって黄泉の国に連れていかれたのだ。

              ―完―

窓から入って来る幽霊

窓から入って来る幽霊

黄色に変色した骨だけの両手で、頭を鷲掴≪わしづかみ≫にされ、吸血鬼のように尖った歯で、頭を何度も何度も齧≪かじ≫られた。彼女の口から、どす黒い血が溢れ出して、ポタリ、ポタリ、ポタリ、ポタリ……と音さえ立ている。 「痛い!痛い! もうこれ以上、お、お、俺を苦しめないでくれ! だ、誰か、誰か、誰か助けてー!」 ガリ、ガリ、ガリ、ガリ……と、齧られている硬質な音が、この世に響き渡った。

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-23

Copyrighted
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