奇妙な食事を好む家族

勉は、どんなレポートであっても、原稿用紙には、必ず、大学一回生から愛用し続けているモンブランの万年筆を使って書く。それが、彼の流儀であり、自分自身の性分にマッチしていると信じている。モンブラン万年筆は、アルプス最高峰モンブランのいただきを覆う雪をイメージした、白い星型のマーク(「ホワイトスター」)が付くことで有名である。代表的製品であるマイスターシュテュックのペン先には、モンブラン山の標高である「4810」が刻まれている。
ここ数カ月間、卒業論文と格闘をしているが、勉には、その事が重くのしかかっていた。
案外、彼はストレスに弱い性格だ。だから、ストレス解消に、彼が勝手に恨んでいるにせよ、何も罪を犯していない人達を殺し続けている、とも言えよう。
(いっそ二階の窓から原稿用紙を投げ捨てたら、すっきりするに違いない。クソー、それも出来
ない小心な俺だ。大学進学を選択した責任は誰あろう、この俺だ。今更、卒業論文を放棄するのは、俺の現実逃避以外の何ものでもないか? ……まあ、ここらで、少し気分転換をしよう!) 
勉は、百八十四センチメートルの長身を気だるく動かし、押入れを開けて、多くの釣竿からリールを既にセットしてある一.八メートルの短竿を取り出し、重い足取りで一階に下りた。

一階には、いつものように、七十九歳になる祖母がまるでカエルのような姿勢で、今にも、その中に入って行き、文句を言いたそうな真剣さでテレビを観ている。TVには、衆議院予算委員会の国会中継が写し出されている。
勉は一切政治関係に興味はなかったが、祖母は死ぬほど好きである。常日頃から、彼は、祖母にあれこれと政治談議を聞かされ、いい加減ウンザリしていた。だから、勉に、今の総理大臣を含む全閣僚を言え、と言うのは、勉に鳥のように空を自由自在に滑空せよ、と命ずるに等しい。
勉は、肩のコリをほぐそうと、首を何度も回しながら祖母に告げた。
「前の田んぼで、カエルを釣ってくるから! イボカエルばかりだけどね。行ってくるよ。楽しみにしていて!」
「あぁー」
生返事が返って来る程、祖母は、衆議院予算委員会の質疑応答にのめりこんでいる。
勉を目の中に入れても痛くない程に可愛がってくれるが、少し偏屈な祖母の邪魔をしないように、静かにドアを開け、ゲロ、ゲロ、ゲロ、ゲロ……とカエルがやかましく合唱している田へ、足早で向かった。家の前と言って良い位の近さに、小さな田んぼがある。日本で食用蛙と言えばヒキガエルだが、沼地で夜中でないと数多く捕獲できない。残念ながら、勉は、それ程までの熱意を持ち合わせていない。
一号の糸を巻いたリールを使い、モドリがある一号針に、丸くした綿をギジエサにする。次々と薄茶のイボガエルを釣り、腰にぶら下げた丈夫な厚めのビニール袋に入れる。半時間程で、二十匹以上釣れたのでアパート「桜荘」の南端の家に帰ってきた。
(敷地内にも周辺にも一本の桜の木さえないのに、「桜荘」と名づけた家主は、一体、何を考えてこんなネーミングにしたのだろう? いくら頭をひねっても、とても理解できないなぁー)
 頭の片隅で、そうボンヤリと考えた。
だが、「桜荘」の成り立ちには、特別な興味も何もない。それよりも、イボガエルの方が大事だった。嬉しさに溢れた薄笑いを浮かべて、鮮度が落ちないように急いでアパートに帰った。
そして、祖母と自分用に、早速、イボガエルの調理を始めたのだ。
「活け造りにしようかなぁ? おばあちゃん、それで良いだろう? それにしても美味しそうだなぁ! 頬がヒクヒクして、痙攣が止まらないよ! ワハハハハ、ワハハハハ、ワハハハハ、ワハハハハ……」
狭いキッチンで歌うように叫び、二十九万円もつぎ込んで買った、自慢の刺身包丁を取り出した。和食料理を専門に調理する板長が、使用する包丁を使うのだ。
刃物の本場である堺の「水焼本焼」≪みずやきほんやき≫は、鋼のみを鍛え上げて作った包丁だ。鋼の塊を叩き、鍛えながら包丁の形にしてゆく伝統的な製法だ。一切妥協を許さず造り上げられた、数少ない本物の本焼包丁であり、熟練した職人が一本ずつ造っているから、とても高価である。しかも、銀色に輝く刃に自分の銘が彫られているのも、勉には誇らしく、自慢したくなるのも無理からぬ一品だ。
カエルの調理方法は、とても簡単で、かすかに震えているカエルを、鍋に入れて炊くだけだ。たまに恨めしそうなカエルの眼と出会うと、残酷にも、千枚通しで眼を突き刺して、
(見えない方が幸せだろう?)
と、いつも思っている。そんな時、良い行いをした善人になったような気分になる。
【価値観が、明らかにまともな人と異なっている! これを知れば、動物愛護団体等に属している方は卒倒するに違いない。まともな人ならば、誰でも似たような気分に襲われるだろう!】
ピクピクと不規則に動きまだ生きているカエルを、勉は大胆に調理する。本来の使い方は圧力鍋であるティファールを、単に煮込み用の鍋として使い、味付けはウスターソースと塩だけだ。出来上がれば、勉と祖母は、手当たり次第に銀製のフォークで口に運ぶ。鶏≪にわとり≫のササミに似た味を楽しむのだ。口から足が出てバタバタさせていても、そのまま無理やり口に押し込む。小さいカエルなので、軽いおやつにしかならないが、食後、勉と祖母は、しばらくの間、食の余韻と至福に浸るのだ。
その後、勉は足取りも軽やかに、再度卒論に挑戦するため、資料に埋もれた二階のデスクに戻った。

 勉、祖母と母の家族は、現代の日本人が口にしない「ゲテモノ」を嬉々として食べる。
良く言えば「珍味」を好んで食べると言うべきか? 
満腹でもそれらを想像するだけで、脳内にドーパミンが充満するのだ。(周囲の環境に適応して、学習しながら、生活するすべを会得していくが、ドーパミンは、学習の強化因子として働いている)
例えば――夜中、小学校で盗んでくるウサギ――昔の日本では、普通に食べていたし、フランスでは今でも食べている。暗闇が迫る頃、巣から飛び出し獲物を捕えるコウモリも、そのまま生で食べる。そして美食の行き着く先は【カニバリズム】だと、勉は思っている。人間が人間の肉を食べる、誠におぞましい行為だ。第二次大戦中、南方諸島での話らしいが、日本軍の一部には死んだ同僚達を食べた。勉は、まだ人肉を味わってはいない。が、それも時間の問題かも知れない。
数時間後、
「ただいま!」
元気な母、良子≪よしこ≫の声が二階にまで響く。母は四十四歳で誕生日が、祖母と同じ四月四日である。勉も四月四日に、この世に生を受けた。つまり、三人とも同じ誕生日である。
毎年その日になると、祖母、シングルマザーの良子、勉を含めても三人だけだが、それなりに盛大な「誕生会」を催す。それは、昔から山下家の恒例行事になっている。
父がいないのも苦にならず、むしろ歓迎だと勉は思っている。それ程までに父を嫌っていた。でも、そんな父でも他界した後、心にポッカリと穴が空いたように感じた。勉にとって、父が自分の心に占める割合は、想像していたよりも大きかった証拠だ。
彼が、小学四年生の夏の出来事だった。父は交通事故であの世に行ったまま、いまだに帰ってこない。つまり、死亡したのだ。
会社のライトバンで、阪神高速道路神戸線を走行している時、後続車に追突された。父は、軽くブレーキを踏んで停車し、ハザードランプを点灯し後続車の運転手の所へ行こうとした時だった。脇見運転の二十八キロリットルのガソリンを満載したトレーラー型タンクローリーが、後続車に追突した。父はライトバンと後続車の二トントラックに、挟まれたのだ。
頭蓋骨は粉々になり、脳味噌が辺り一面に飛び散ったのだ。血にまみれた肉片が、道路のあちこちにへばりついた。充血し半分つぶれた両眼が、入道雲を見つめているかのようにアスファルトに付着した。父は、一瞬の苦しみさえ感じなかっただろう。後になって、それが父にとっての「唯一の救い」だ、と勉には思えた。
(専用のバケツで、バラバラの肉片や骨を収集した人には、心からの敬意を表したい!)
そう彼は思った。なぜならば、気弱な彼には、とうてい出来ない作業だからだ。想像するだけで、彼自身バラバラになりそうだった。意気地なんて、これポッチも持ち合わせていないのだ。
警察から父の死を知らされても、揺れに似ためまいを少し感じただけだった。父を気の毒だという感傷など、少しも持てなかった。と言うのも、頑固一徹の父を、勉は、心の底から嫌悪していたからだった。
父の実兄は、第二次大戦時に海軍に志願兵として入隊し、零戦≪ゼロセン≫のパイロットになった。零戦は、大戦初期には優れた航続距離、重武装、格闘性能を誇っていたのだ。それ故、当時の連合国パイロットから、「ゼロファイター」の名で恐れられていた。ところが、大戦中期以降、アメリカ陸海軍が対零戦戦法を確立させ、コルセアやヘルキャット……などの新鋭戦闘機を大量投入した。それが原因となって零戦は劣勢となったのだ。
終戦に近い千九百四十五年七月下旬、父の実兄は、特攻隊員に志願して片道燃料のオンボロ機で飛び立った。だが、駆逐艦の対空射撃で被弾した愛機が、海面に墜落したのだ。悲願だった敵艦船への体当たりを果たせなかった。しかし、「同期の桜」であった矢野中尉は、敵艦に見事に体当たりして、敵艦に甚大≪じんだい≫な被害を与える事ができた。
勉の父は、赤紙がくる年齢には達していなかったので、戦争には行っていない。しかし、兄を心から尊敬していて、海軍魂≪かいぐんだましい≫を金科玉条≪きんかぎょくじょう≫にしていた兄の精神を、勉の父は受け継ぐ決心をした。現在なら、虐待だと訴えられるようなスパルタ式教育を、勉は受けた。頬がはれ、歯から血が出る程、ゲンコツで叩かれただけでなく、赤くはれ上がる程、むき出しのお尻を、竹刀≪しない≫で力一杯叩かれもした。父の容赦のない厳格な躾に、常に恐れていた。勉は、ひ弱だったせいもあり、どうしても父を愛せなかったのだ。
母は、職場の同僚から、何度も何度も生命保険を勧められていて、事故の二年前に仕方なく加入していた。父が勤めていた会社、加害者の運送会社、毎月欠かさず保険料を支払っていた保険会社……などから、多くの金額が母名義である口座に振り込まれた。だから、盛大な「誕生会」を催せると、勉は勘違いをしていた。実際には、母が勉の将来に備えて、その全額を銀行に預金していたのだった。
勉の家では、母一人が家計を背負っている。母は、高校卒業以来、他の人々以上に血のにじむ努力し続けてきた。母が数々出して来た成果を、社長が認め、従業員数三百名足らずの中小企業ではあるが、現在では課長職を務めている。母は、部下を三十名程使って、次々に新しい企画を立案し実現にまでこぎつけている。だからこそ、世間一般の課長よりも、多くの給与を得ているのだ。

 勉の家では、家計消費支出に占める飲食費の割合であるエンゲル係数は、極めて低い。
それには、勉が貢献しているのが大きな要因と言えよう。とは言うものの、敢えて、彼が意図しているのではないが……。
殺菌効果があり、細胞を活性化するイチョウのまな板を使い、エサを何度も繰り返し与えて、飼いならして捕まえた三匹の野良猫を、刃渡り三十八センチの良く研いだ牛刀で三等分する。
本職が使用する最高級牛刀であり、カーボンバナジウタングステンが、その材質だ。
そして、伊万里焼きの柿右衛門作≪かきえもんさく≫である高価な大皿に、まだ血が出ている猫の身を、見栄え良く盛るのだ。勿論、内蔵も骨も捨てずに大皿に添える。
三人が、それぞれマイナイフとマイフォークを持ち寄り、ガツガツと音を響かせて、いただくのだ。さすがに毛はのどに引っかかるので、毛玉にして伊万里焼のツボに吐き出す。
伊万里焼は、佐賀県有田町を中心とする、佐賀県および長崎県で生産された高級磁器である。
勉は、伊万里焼に魅せられ、今は亡き十四代 酒井田 柿右衛門≪さかいだ かきえもん≫氏にお会いした事があった。偶然、九州の観光名所が掲載された雑誌を、立ち読みして知ったのだ。
有田を中心とする佐賀県および長崎県で生産された磁器であり、積み出し港が伊万里≪いまり≫であったことから、消費地では、「伊万里焼」と呼ばれるのだ。
勉は、ツボ等に朱色が施されているのが、すこぶる気に入り、製造所を見学してみたい誘惑に勝てなかった。そこで、直接電話をすると、五十歳代位の温厚そうな執事の方が、受話器をとられた。
「関西の国立K大の経済学部に、籍をおいています山下 勉と申します。経済学説史を専攻しております。国産磁器の製造が、有田で始まったのを知りました。誠にご無理を申しますが、製造現場を、見学させていただきたいのですが!」
「そのような理由であれば、先生と相談させていただきます。今は、展覧会を控えております。それが終了次第、ご返事を差し上げてもよろしいでしょうか?」
 勉は、大いに恐縮していたから、電話機に向かって何度も何度も頭を下げたのだった。
「いえ、こちらからまた連絡を差し上げます。あぁあの……誠にお手数をおかけ致しますが、展覧会のパンフレットを、お送り願えませんでしょうか? こちらから、往復封筒を送らせていただきますので」
「あぁ、いいですよ」
と、快い返事をいただいた。
電話を終えると、一気に全身汗まみれになったのは、すこぶる緊張していたせいだろう。
数ヵ月後、勉は、愛車であるブリティッシュレーシンググリーンのソブリン仕様のジャガーを運転して、主に高速道路を走って佐賀県に行き、十四代、酒井田 柿右衛門氏にお会いできた。
勉が通された部屋には、多くの作品が展示されていたが、残念ながら、その価値を判断出来る素養を積んではいなかった。神妙な態度で二十分程、話を聞かせていただいたが、殆ど彼の理解の範囲を超えていた。だから、残念ながら、何も彼の頭には残っていない。
事前に、もっともっと伊万里焼を勉強してから、お会いすべきだった、と後悔したが、後の祭りだった。
執事さんにお願いして、製造現場である木造二階建ての別棟を、案内していただいた。別棟の二階に上がると、入口にタイムカードが、ずらっと並んでいる。まるで、中小企業のようだった。
あまりの現実感に、勉はがくぜんとした。もっと夢のある職場を、彼は想像していたからだ。
そこでは、数十人が絵皿やツボ……などに、焼きあがった白っぽい陶器に、下絵を描いたり、絵付けをしている。そこで働いているのは、見た目には普通のオジサン、オバサンであり、背中を丸めて黙々と作業をしている。
一通り作業を見せていただいたが、勉は、あまり興味をそそられなかった。黙々として、同じ作業を繰り返すのは、彼の性分に合わないからでもある。
ところが、作業場の下の一階には、廃棄された無数の茶碗やツボのかけらがあった。多分、失敗作だろう。打ち捨てられた茶碗やツボの上で、ユラユラと漂う多くの霊に、勉は圧倒され、恐怖心さえもいだいた。失敗した作品に込められた、従業員達の生霊≪いきりょう≫、死霊がたむろしていたのだ。それだけではなく、茶碗やツボ等、無機物の霊も混在している。
その一角だけ、気味の悪いまだらな霧がかかっているようだった。霊達は、その場から動けないのだろう。まさに地縛霊だ。それらの霊を感じた勉は、急に悪寒に襲われ、しかも全身に冷たい脂汗も流れ出した。
そこで、不動尊をあがめる念仏を心静かに唱えた。
「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク……」 
少なくとも、勉の乱れた心に平静が訪れたが、それらの霊に打ち勝つ自信はない。
ここから立ち去る以外に身を守る方はないと思い、一刻でも早く逃げ出したかった。
柿右衛門さんのお姿を探したが、お見受けしなかったので、仕方なく、執事さんにていねいにご挨拶をして早々に帰った。
要するに、勉は、あまりにも多くの霊に恐れて、尻尾を巻いて退散したのだった。

自宅に帰って来た勉は、ホーと安堵をついたのだ。
彼は、いつもの平穏な生活に戻った。
夜中であるにもかかわらず、大型の野良犬四頭を安価な牛肉でおびき寄せて、照明がない暗闇の中で約二時間も要して、やっと槍で仕留めた。草原の貴族と呼ばれるマサイ族が、狩りに使用する槍を模した、お粗末な自家製の槍を数本使った。
(マサイの人々から見れば、軽蔑に値する技量とお粗末な槍には違いないだろうが……。
マサイ族は、一夫多妻制である。牛(財産)を多く持つ男は、何人も妻をめとる事が出来るが、牛を持っていない男は、結婚も恋愛も難しい。またマサイ族の文化では、成人男性は、猛獣退治や牛の放牧以外の労働をしないのだ。戦いのみが男性の仕事で、武器以外の道具を持ち運ぶ事すら恥としている)
さて、翌晩は犬が鍋料理の主役になった。暑い夏程、体中に汗をかく熱い料理は体に良い。いつも母の帰りは遅かったから、食事を用意するのは彼と祖母のつとめだった。
勉の家庭生活全般を貫く基礎理念は次のような考え方だ。
祇園精舎の鐘の声
 諸行無常の響きあり
 沙羅双樹の花の色
 盛者必衰の理をあらわす
 おごれる人も久しからず
 ただ春の夜の夢のごとし
 たけき者もついには滅びぬ
現代語に訳すと次のようになる。
「祇園精舎の鐘の音には、永遠に続くものは、何もないと言っているような響きがある。まんじゅしゃげの花の色は、栄えたものは、必ず滅びるという法則を表している。権力を持った者も、長くその権力を持ち続ける事はできない。それは、春の夜の夢のようだ。強い力を振るった者も、結局は滅びる。それは風の前にあるチリと同じである」
現在、地球は海に覆われ、しかも、自然も豊かであるが、巨大隕石の衝突、大陸移動に伴う火山活動や気候変動……などによって、人類絶滅の可能性を否定はできない。タカが鳥の頂点に立つように、今は、人類が全生命の最上位にある。いかなる命を奪っても、人間の細胞に栄養を供給するのは、正当化されるのだ。但し、感謝の念を忘れずに。人類はその栄華を、永遠に享受できない。いつかは分からないが、必ずや滅ぶだろう。
そのように、勉は確信している。
このような考えを、家庭生活の基礎理念にしている。勉の家では、夕食の前後に三人で唱和している。
「宇宙を統括される聖なる【美】よ、いただきます!」
「我々の銀河を創造された【ビッグ・バン】よ、ごちそうさま!」
――ビッグ・バンにより、この宇宙の初めに爆発し膨張して、今我々が知る宇宙になった。宇宙最初期の超高温度・超高密度の状態である――
この【祈り】を最初に口にするのは家長である。父が亡くなった翌日から、勉の役目になり、母と祖母がワンテンポ遅らせて唱和する。それは、いつからか、小川家のならわしになっていた。勉が、宇宙に興味を抱いたのは、父が死亡した翌日で、母が言った言葉がきっかけだった。
「お父さんは、夜空に輝く星になったのよ!」 
勉は、何かにつけて、心の底から父を嫌っていた。しかし、意識下に深く埋もれていた心では、父を愛していたようだ。日毎、父のいない寂しさが増してきたからだった。
父が亡くなったその晩に、早速、夜空を見上げた。でも、どの星が父だろうか? 小学四年生の勉には分らなかった。そんな単純な理由で、宇宙理論を勉強し出したのだった。宇宙工学、惑星科学、天文学、宇宙生物学……などである。それらを出来るだけ理解しょうと、学校の近くにある図書館に通い、何千冊もの本を読んで頭に叩き込むように努力した。宇宙物理学は、勿論の事、純粋数学、アインシュタインの特殊相対性理論、一般相対性理論、超弦理論≪ちょうげんりろん≫に至るまで幅広く研究した。
特に、勉は【ニュートリノ】に魅せられた。
特殊相対性理論に反し、光速より速い【ニュートリノ】の存在を信じている。
【ニュートリノ】の存在が実証されたなら……全く新しい物理学を、人類は生み出さねばならないだろう。
勉は物理学等に興味があった。ゆえに、理科系の学部を志望するのが自然だが、敢えて経済学部を選んだのには、理由がある。
彼は、こう考えたのだ。
(希望を叶えられるという仮定だが……。往復渡航費用、生活費、授業料……などを、全額支給してもらえるフルブライト奨学金を利用したい。勿論、試験のハードルは高いが、飛び越える自信はある。ニューヨーク州にあるコロンビア大学に入学し、量子力学を研究するのだ。この大学から、世界最多のノーベル賞学者が出ている。だが、家には金銭的余裕はない。もうこれ以上、母に家計の重荷を背負わせたくないから、俺は普通に大学を卒業し、賃金の高い一流会社のサラリーマンになり祖母や母を養うべきだ!)
 この考えの底流には、資産家へのねたみがドロドロと濁った渦を巻いている。
当時の勉は、どこまでそれを自覚していたのだろうか?

勉は、社交的で朗らかな性格だ、と自分を評価している。
だが、周囲の人達には敬遠されていた。
家庭での食生活は、幼い頃から他人には話していないのに……。保育園で「まともな昼食」を喜んで人一倍食べた。言ってみれば、【食の両刀使い】だ。それは、今でも同じだ。
もっと根本的に、皆から嫌われる原因があった。それは、大きなアザだ。彼が生まれ落ちた瞬間から、顔にあって主張し続ける十円玉大のアザ。そのアザが、成人した今でも右頬に居座っているのだ。顔にあれば、普通のアザでさえコンプレックスを、人の心の奥に植え付けるものだ。
ところが、彼のアザは異常であり、見る者に恐怖心さえ抱かせる。朝起きる毎に、その位置を変えているのだから……。どす黒いアザが、目と口の間を移動しているのだ。ある朝には唇の真上に、またある朝には眉毛の横にある。しかも、毎朝移動しているアザには、二~三センチの毛が、数十本直立している。それを勉は、笑顔でごまかしている積りだ。
しかし、他人にすれば、彼の表情には不気味さと底知れぬ悪意が、漂っているように見えるのだ。こればかりは、四六時中隠しきれない。常に、他人の前では、萎縮してしまうのを克服しょうとしているが、毎日続けることは非常に難しい。
そこまで継続する強い意志を持ち続ける事は、どんなに努力しても彼には無理だった。彼ならずともそんな芸当は、不可能に近いだろう! 
見苦しい黒いアザのせいだろうか? イジメにあったことはないが、心を許せる友達もいない。
小学二年生の時だけ大勢の友達ができた。そう――【幽霊屋敷】を探検したその年だけで、それ以外の時には、どうしても友達を作れない。今でも、その事を不思議に思っている。

勉には、明確に区別できる二人の人格が存在しているのだ。
それらの天と地ほど異なる人格が、彼の行動を支配するのだ。ある時は、人形≪ひとがた≫を使って、人を苦みのどん底に沈める。ひどい時には殺害も平気でし、まるで気にも留めない。またある時は、比類なき人情家にもなる。
これは、解離性同一性障害であり、自分が他人とは相当変った性格の持ち主だと、本人も自覚はしている。解離性同一性障害は、多重人格といわれている。しかしながら、一人に複数の人格が宿ったわけではない。まるで独立した人格のように見えるが、それはその人が持っている一部分だ。一般には、交代人格と呼ぶ。しかし、それぞれが、その人格の一部なのだという理解が、重要である。交代人格は、その人が生き伸びる為に、必要があるからこそ生まれてきたのだ。
全ての交代人格は、何らかの役割がある。その事を勉は良く理解しているし、自分の意志でどちらの人格にも簡単になれる。
そんな事をするのはとても無理だ、と精神科医は主張している。だが、勉には易しい事であるのは、ある種の不気味な超能力を身に付けているからだった。
また、幼い頃より、勉のIQはずば抜けて高かった。が、IQの高さだけで、友達を作ることは出来ないのも当然だろう。まして、IQの高さだけで、世間をうまく渡って行くのは困難だ。そうだから、生涯にわたって、勉は孤独に押しつぶされそうな日々を送ってきたのだった。
彼にとって、孤独は何よりも恐ろしい天罰だと言えるだろう。

「チュウ、チュウ、チュウ、チュウ、チュウ、チュウ、チュウ、チュウ……」
勉が大事に飼っている、かなりの数のネズミ達がうるさく鳴いている。
ネズミ達の殺されそうだと訴えているような悲鳴が、突然、彼の耳に飛び込んできた。
勉は、室内の空気を入れ替えようとして、窓を開けていた。ところが、窓を閉るのを忘れてしまって、一階で祖母と話し込んでいたのだ。彼は、慌てて二階へ上り、四匹の猫を見つけた。
その猫達を殺害しようと思って、窓を閉め直ぐにドアも閉めた。だが、捕まえた猫は二匹だけで、残りの二匹は一階の勝手口から逃走したようだ。
これまで、大事に、大事に育てて来たネズミの内の十四匹は、鮮血にまみれて死んでいた。
大切な家族を亡くしたような気分が勉を襲い、大粒の涙を流し絶叫した。
「わああああああああぁぁぁぁわああああああああぁぁぁぁわああああああああぁぁぁぁ……」
勉は、声の続く限りの悲鳴をアパート中に響き渡らせた。
粘着シートを使い、つかまえた子供のオス・メス二匹ネズミを、精一杯愛情込めて世話をして増やしたのだ。だからこそ、勉にとっては、他人の想像を絶する悲しみだったのだ。
 祖母に、長い間、なぐさめられてやっと泣き止んだ。それ程に、彼の苦悩は、深い、深い漆黒に染まった闇に沈んでいたのだ。恐らく、常人の理解を遥かに超えた苦悩だ、と言えよう。
オス・メス二匹から始めたネズミの繁殖は、現在、四百匹以上に繁殖している。
オリの中には、チーズの女王カマンベールチーズ、水、硬式ボールを入れている。硬式ボールを入れている理由、それは――ネズミ達は、硬い物を齧≪かじ≫らないと、伸びた前歯が口をふさいでしまうので、食べ物を口に出来ずに餓死するからだ。
そんなに勉が、愛情込めて世話をしている訳は……。
ネズミの食性を徹底的に調べて、可愛がって育てているのは、ネズミ達を更に太らせて、残虐にも【生きたまま食べる】為だったのだ。
気の弱い人ならば、想像するだけで気が狂いかねない残酷さだ。


勉は、自身の事を一般の人々とは全く異なって、ある意味様々な超能力を未来に向かって獲得出来る素質、否、先祖から連綿と受け継がれて来た優れたDNA配列を持つ、人類の歴史をも覆す事を可能に出来る【ミュータント】だと、信じて疑わないのだ。
ところが、勉の潜在意識には、自分自身が死亡すれば、間違いなく地獄に落ちていくだろう、と、恐れの魂が存在している。それを忘れようとして、残虐な行為をし続けているのは否めないのだ。だからこそ、時々だが、まるで空気が薄くて気圧が低いチョモランマ(エベレスト)の頂きから滑落してしまったように、深い奈落の地獄へ落ちて苦しむ悪夢を見るのだ。その悪夢は、寸分違わずいつも同一である。レム睡眠とは、いわゆる浅い眠りの事でレムとは急速眼球運動の事であり、目がキョロキョロと動く急速眼球運動のある睡眠である。レム睡眠中は、体は休んでいるが、脳は覚醒の状態に近く、一般的に夢はこの時間に見ているのだ。
勉が見るその悪夢の内容は……。
地獄で苦しさにあえぐ自分自身だった。

                    ―完―

                   

奇妙な食事を好む家族

奇妙な食事を好む家族

勉は、自身の事を一般の人々とは全く異なって、ある意味様々な超能力を未来に向かって獲得出来る素質、否、先祖から連綿と受け継がれて来た優れたDNA配列を持つ、人類の歴史をも覆す事を可能に出来る【ミュータント】だと、信じて疑わないのだ。 ところが、勉の潜在意識には、自分自身が死亡すれば、間違いなく地獄に落ちていくだろう、と、恐れの魂が存在している。それを忘れようとして、残虐な行為をし続けているのは否めないのだ。

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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