霊を体験した男


勉が、私立N高の二年生になったある夏の時だった。
学校の前に、サクラ、ケヤキ、ブナ……などが生い茂る、よく整備された公園があった。その公園の中ある遊歩道を十分程歩くと、市立図書館があった。図書館は、壁面が茶色で威風堂々として、たたずんでいたのだ。学校の図書室では、目ぼしい本は全て読んでしまっていた。
そこで、学校にはないハイレベルな本を求めて、初めてそこに行った日だった。司書の吉田さんと出会ったのは……。
熱心に殆ど毎日通ったのは、二回り位歳が離れている四十代の吉田さんと仲良しになったせいだろう。吉田さんは、まるで牛乳瓶の底のような分厚いレンズをはめた眼鏡かけていた。実際、そんなに分厚いと重たいのだろう、何度も、何度もずり落ちる眼鏡を、人差し指で押し上げていた。初めて市立図書館に来たので、彼はウロウロしていた。その時、優しく声をかけてくれたのが、吉田さんである。現在に至るまで母や祖母以外、勉を可愛がってくれた唯一の人だろう。
彼は、少し控えめな小さい声で恐る恐る尋ねた。
「西洋哲学を早く身に付けたいのですが、どんな本を読めば良いのですか?」
そう吉田さんに相談すると、大粒の汗を体中から噴出させて、本棚を三十分程走り回ってくださった。ビール樽のように太った体を、重そうに左右に緩慢に振りながら……。リノリュームの床が、きしむ音さえ聞こえた。
顔ばかりか、着ている洋服さえ汗染みに占領されていたのだ。
吉田さんは、勉の目を見ながら優しい声で言った。
「こんな本はどうかしら? でも、難しいかな? 貴男が希望するのはこんな本しかないのよ。ごめんなさいね!」
数冊の本を選んで渡してくれた。
「どうも、ありがとう!」
にっこりとほほえんで、直ぐに閲覧室で夢中になって読みふけった。読めば読む程、西洋哲学の奥深さを知ったのだった。
吉田さんが薦めてくださった、国内外の哲学者の作品を必死で読んだ。かなりの読書量であった。だから、寝る間も惜しんで、ていねいに、しかも、頭が麻痺しそうになる限界まで読んだ。大学院で学ぶレベルの書物さえ読破したのだ。
哲学を勉強した濃密な時間は、無上の喜びを勉に与えたのだ。
(鼻もちならない天才ぶった野郎だ!)
そのように皆から思われているのは、彼自身でも十二分に承知していた。

墨汁を刷毛で隙間なく塗ったような、雪を降らそうとたくらんでいる雲が空一面を占領していて、寒風が暴れまわっている凍えそうな日だった。
勉は、しきりに髪の乱れを直そうと、鼈甲≪べっこう≫の櫛をせわしなく使って、髪を整えようと無駄な努力をしていた時だった。
勉が校門を出た所で待っていたのは、髪を吹きすさぶ風に任せている深刻な顔をした吉田さんだった。髪の毛が乱れているのを、全く気にする様子はなかった。一種異様な姿をしていた。
更に、眉間に幾筋も深いシワを寄せているのだ。普段の吉田さんとは、別人のような暗い雰囲気を周囲に漂わせていた。
蔦≪つた≫が我が物顔で伸びて壁全体を覆っている、喫茶店へと勉を誘った。そこは、とても陰気で小さな喫茶店だった。何か重大な話があるような、深刻な顔をした吉田さん。そんな吉田さんの顔を勉が見たのは、この時が初めてであった。
勉は、生まれて初めて喫茶店に入るので、心臓が口から飛び出す程にドギマギしていた。
落ち着きなくキョロキョロと周囲を見回す。
店内は、寒い位にヒンヤリとエアコンが効いている。この寒さは、エアコンのせいばかりでない。この店に漂う冷気も作用しているように思えるのだ。
吉田さんは、薄暗くて陰気な四人掛けの椅子に彼を誘導し、差し向かいで座った。
店内は外見と同じく、いやそれ以上に老朽化していた。身震いするような不潔さをさらけ出しているのだ。多分、オープン以来一度も改装していないだろう、と勉には思えた。
おぞましい不潔さを無視しようとしたものの、彼は何度も全身が打ち震えたのだ。体がこわばる程、凄く緊張していたのも確かだろう。勉は、椅子に張った布が所々ほころびているのを、目敏く見つけた。
(この不潔さは、喫茶店には全くふさわしくない! なぜ、こんな店に誘ったのだろう?)
彼だけでなく誰でも抱く第一印象は、不潔感だろう。こんな店に、女性の客は決して入ってこない。店の前を歩くのでさえ、嫌悪感で全身に鳥肌が立つに違いない。それ程、店外にも悪臭が漂う不潔そのものの店だ。考えられない位の不潔さが原因だろう、彼の喉にヒリヒリとした痛みが走った。本来なら、この時間帯には、帰社する前の営業マンで賑わっている筈なのに……。
しかし、お客は勉と吉田の二人だけだった。カウンターをも含めて、四十四席もあるにもかかわらず……。
汚れてシワだらけの灰色のカーペットには、何かが蠢≪うごめ≫いているのが、彼の目に入った。
(何がいるのだろう?)
目をこらして観察した彼は、気持ち悪くて思わず大きな悲鳴を出した。
「ギヤーアアアアアアアァァアアアアアアアアアアアアァァアアアアア……」
薄暗い中を、ゴキブリが触覚を動かして辺り構わず、ゾロゾロ這い回っている。体長が、約七十ミリメートルもある大型マダガスカルオオゴキブリだ。おびただしい数の大きなゴキブリを目にして、胃液が逆流して吐きそうになった。同時に、悪寒が背筋を走ったのだ。こんな状態は彼の想像をはるかに上回っている、おぞましさだった。
でも、吉田さんの手前、無理して平然としているように、勉は演じた。
薄暗い照明に、背後から照らされた吉田さんは、まるで【悪霊】に憑かれたような恐ろしい形相をして、彼に言った。
「遠慮しないで、何でも、注文していいのよ。そうねぇ……チョコレートパフェはどうかしら?ここのは、とびきり美味しいわ! 私は、いつものをお願いね。……ママ、ママ、聞こえたかしら?」
煤で汚れた厨房から、白毛混じりで年齢不詳の老女が緩慢に近づいてきた。老女は、体を右に傾け、ガバガバの運動靴を履いているので、歩くたびに数センチは積っていると思われる床の埃を舞い上げるのだ。しかも、今にも倒れそうなヨロヨロとした足取りだ。老女は、原形を留めない程に歪んだトレイに、水の入ったコップを載せている。目の前にある、汚れている木製テーブルは、古色蒼然としていて、傷まみれだ。
耳が痛くなる程の音を立てて、所々黒ずんで欠けたガラスコップを四杯置いた。
かつては、薄水色だっただろうコップ半分ほどの水が、黒ずんだ木製テーブルの上だけでなく
床にも飛び散った。しかし、老女は、そ知らぬ顔をしている。片方の眼だけが、ガラス玉をはめ込んだような虚ろな光を不気味に放っている。勉は、その眼を見て心臓の動悸が強くなり息苦しく感じたのだ。しかも、老女の体から発する臭いは、ヘドロ以上の悪臭である。彼は、思わずたまたま持っていたハンカチで鼻と口をふさいだが、吉田さんは平然としている。舞いあがった埃が、彼の眼を襲ったので、瞬きと涙で防戦していた。
老女は、押し黙ったままトレイを左脇に挟んだ。そして、クルリと素早く向きを変え、厨房の方へ帰って行く。何やら念仏をブツブツと唱えながら……。彼は、老女の痩せて貧相な後ろ姿をボンヤリと見ていた。が、突如、不可解な疑問が脳裏に浮かんだ。
(なぜ、二人しか座っていないのに、コップを四つも置いていったのだろう? 氷が浮いていない生温い水だけが入ったコップを……)
 だが、瞬きをした瞬間、勉には見えたのだ。吉田さんの隣に、両目が胸元まで落ち体が半分以上溶け出した異様な姿の人間が、座っている。皮膚が溶けて赤い筋肉組織が露出し、かすかに骨すら見えている。勉の隣には、すでに骨だけになっていて、クモの巣に覆われた骸骨が座っている。二人とも美味しそうに生温い水を一気に飲み干し、満足げに椅子の背にもたれているのだ。
気味が悪いが、無視することにした。
(二人の死人は、何の目的があってここに座っているのだろう?)
……勉の思考は、ここで唐突にさえぎられた。吉田さんのなせる超能力だろうか? 彼女は、右側が少し上に歪んでいる口を動かさないで、勉の脳に直接響く【言葉】で語った。勉と同じような超能力を使った。自分の想念を他者の頭脳に進入する超能力が、吉田さんには備わっているらしい。
(きっと、吉田さんは、自在にテレパシーを使える超能力の持ち主に違いない。同時に、勉にもテレパシーを「言葉」として認知出来る超能力を持っているのを再確認したのだ)
「私にも、貴女と同じ男の子がいたわ。仕事を終え、買い物を済ませて家に帰ってきた。でも、家の中は真っ暗で何も見えない。この時間には息子が奥の部屋で宿題をしている筈なのに……。嫌な予感が胸をよぎったわ。手探りで、やっと探し当てたキッチンの蛍光灯をつけた。
その瞬間、義雄≪よしお≫の姿が、強烈な印象を伴って目に飛び込んできたわ!
四畳半と奥の六畳の間を仕切っている鴨居に――ああああぁぁぁぁ……何ということなの! 義雄の首には、太いロープが食い込んでいる。殆ど風はない筈なのに、ブラブラと揺れている。義雄を見上げて、わなわなとその場に座り込んでしまった。
涙でかすんだ目を凝らして、再度見上げた。既に乾燥して綿のような鼻水が、かすかな風になびいている。口からは長い舌を出し、真下には大量の屎尿が広がっていたわ。息子を降ろしてから、慌てて救急車を呼んだけれど、既に心肺停止で手遅れだったの。その後の事は、全然覚えていないの。         
気が付けば、病院の地下にある霊安室で、息子に縋って泣きじゃくっていた。
胸騒ぎがして、私一人家に帰り、息子が大事にしまっている玩具の宝石箱を捜した。
ようやく、私宛にしたためた遺書らしい紙切れを見つけた。読んでいるうちに、止めどなく大粒の涙が溢れ出したわ。大袈裟でなくて、畳には小さな涙の池ができた。
随分前からいじめにあっていたなんて! 私は、少しも知らなかった。母と息子の二人だけなのに、親として失格だったわ!
(貴男を、いじめていたのは一体誰なの! 私が復讐をしてあげるわ! 絶対に呪い殺してみせる!)
ブラブラと鴨居で揺れている「霊」になった義雄の蒼い口から、怨嗟≪えんさ≫の言葉が私の脳に轟いた。
「クラス委員長の園田君、隣の席にいた本田君。だけど、一番悔しいのは幼馴染だった鈴木君だった。あんなに仲良しだったのに! いじめる側に立つなんて! 俺をかばったりしたら、今度は自分がいじめの対象になる。だから俺を無視した! 母さん。頼むから皆に復讐してくれ……!」
私は、楽しそうに笑っている、義雄の黒いリボンがかけられた遺影に向かって、必ず呪い殺してやる、と誓ったわ! 

翌日、小学五年生の担任の先生に会って、さり気なく尋ねた。
「昨夜亡くなった吉田義雄の母親です。今晩お通夜を執り行います。ぜひ、同じクラスの皆さんに、あらかじめご挨拶しておきたいと存じます。無理なお願いでしょうが、いつでも結構です。お名前と顔をお教え願えれば幸いです』
『じゃあ、六時限目にホームルームを致しますので、その時はいかがでしょう?』
 私は、先生に深々と頭を下げて、感謝する振りをした。
『誠にありがとうございます。ご面倒をお掛け致しますが、先生、よろしくお願い致します』
 こちらの思惑通り、義雄をいじめていた同級生の顔と名前を、頭に叩き込めた。
棺桶の中に寝ているような息子に報告を済ませると、クラス委員長の園田、本田、鈴木を呪った。三人を模したわら人形を作り、五寸釘で何度も何度も柱に打ち込んだのよ。思わず、笑みがもれたわ。ヒステリックな笑みだった。
『イッヒ、ヒッヒ、ヒッヒ、ヒッヒ、ヒッヒ、イッヒ、ヒ、ヒ、ヒ、ヒ……』
私の思惑通り、三人はお通夜にはこなかった。いや、来る事が不可能だったのだ。
お通夜にこられた先生に伺うと、学校から帰った後に三人は直ぐ自宅の鴨居で、首を吊って自殺したらしい。私の呪いが成功したのだ。ニヤーと勝ち誇った笑いが、今にもこぼれそうになった。だから、ハンカチで口元を押さえ、目には大粒の涙を流してごまかしたわ。
当夜八時から始まる、お通夜式の前に葬儀会社の人達がきてくださった。葬儀会社の人が湯灌≪ゆかん≫後、綺麗に死化粧をした義雄は、まるで眠っているようだった。
『義雄、朝よ! 早く起きて、すぐに朝食を済ませて学校に行きなさいね』
と、思わず言いそうになったわ。親戚だけでなく、息子も私もお友達が少なくて、寂しいお通夜と告別式だった。遺影を胸にしっかり抱きしめて、霊柩車の助手席に乗ったの。でも、後ろの小さい棺桶ばかりに、私の意識はひきつけられていたわ。
友引の翌日のためだろうかしら? 霊柩車と親族を乗せたマイクロバスが、次々と斎場に入ってきた。まるで、戦場のように慌ただしかった。斎場専属のお坊さんが『南無阿弥陀仏……』と読経し、係りの人が、窯に棺桶を入れた。蓋を閉め、ガスで棺桶もろとも息子の遺体に火がついたらしい。
その時だった。
『ギイ、アアアアァァァァアアアアアアアギイ、アアアアァァァァアアアアアアア……』
窯の中から、断末魔の悲鳴が確かに私には聞こえた。私の幻聴ではなくて、間違いなくこの耳で聞いたのよ。一連の出来事は、『脳が私に見せた単なる悪夢であって欲しい』と繰り返し、繰り返し願ったわ。リアリティーがあるからといって、今、体験している『現実』が、真実の『現実』だとは断言できないわ。『現実』だと、脳が思い込んでいるだけかも知れない。『息子がなくなった悪夢』から目覚めるかもしれない。でも、悪夢から目覚めると、やはりそれも悪夢だと認識し……。私は、永遠にその『悪夢』から、現実へ覚醒しないかもしれない恐怖に、全身が硬直して小刻みに震えた。
私の単なる悪夢であって欲しかった。でも、悲しいけれど、息子はあの世に旅立ってしまったようだわ。
『お気を落とさないでね。……義雄ちゃんは、天国で天使と楽しく白い雲に乗って遊んでいるわよ!』
おざなりのお悔やみを済ませた、数人しかいない親戚。皆は、結婚式にでも出席しているかのようだった。何の遠慮もなく、むしろイソイソとしていた。お膳の料理をムシャクシャといやらしい音を立てて頬張っており、瓶ビールも浴びる程飲んでいた。
私は、お膳を目の前にしても、お箸を使う気がおきなかったわ。食欲のない私は、芝生を敷きつめた屋外に出て、空を見上げた。
すると、幾つもの煙突から、黒っぽい灰色の煙が立ち昇って行くのよ。煙は、霧雨の空に拡散して徐々に消えて無くなった。
『あの煙の一筋が息子だわ。とうとう、肉体は一条の煙と化して、天に上って行しまった!』
そう思うと、悲しさが津波のように私を襲い、止めどなく涙が溢れ出したわ。
窯に棺桶が入れられてから約二時間後、斎場の係員からていねいな説明を受けた。
喪主の私は、窯から出された骨を真っ白な陶器の骨壺に喉仏……などを入れた。その後、親戚が残りの骨を、無造作に骨壺に押し込んだ。
それを見ても不思議な位に、怒りどころか、何の感慨すらも湧かなかった。親戚の人が言うように、けがれを知らない義雄の魂は、真っ白な綿雲に乗って、天使達と仲良く遊んでいるはずだわ。
親戚の人達は、私の家でまだ宴会をしたそうな顔をしていたが、片づけをしていないから、と言って婉曲に断った。だって、無遠慮な人達ばかりだもの!
家に帰った私は、寒々しい空気に全身包まれた。やはり、息子がいない心の寂しさで、私に凍るような冷気を感じさせたのだろう。両親の位牌をおまつりしている、仏壇の前に、骨壺を安置し心安らかに天国で暮らしてね、と拝んだ。
突然、私は、空腹を感じて、テーブルに、今朝のおかずと冷えきったお茶碗半分のご飯を置いた。喪服を普段着に着替えるのももどかしく、急いで食事を平らげた。それでも、少しも空腹は満たされなかった。何気なく陶器で出来た骨壺をガラー、ガラー、ガラー、ガラー……と鳴らせた。空腹に耐え切れず、美味しそうな骨を四つばかり口に含んだ。すると、今まで味わった料理を、はるかに凌駕≪りょうが≫する無上の味が、ふんわりと口中に広がったわ。筆舌に尽くし難い程の美味だ。病み付きになりそう……いえ、病み付きになってしまったの。
その日以来、夜毎、車のトランクに必要な物を載せた。懐中電灯、先の尖った剣スコ、先が平らな角スコ、軍手……など。
カーナビを頼りに墓地を探し、土葬しているお墓を見つけ出すと、死体を掘り出すの。ウジが大量に発生し、あらゆる所に這っている溶けかけの遺体が、入っている棺桶。既に、ミイラ化している遺体や骨だけになっている遺体の入った棺桶。
私は、それらの棺桶を夜の静けさを乱さずに解体し、更に、まだ肉が付いている遺体は、登山ナイフを使って骨だけにして、美味しくいただき餓えを満たしているのよ。だけど、お寺にあるお墓は、二つの意味でダメなの。一つは、お寺の関係者がいて、発見されるかもしれない危険があるから。もう一つは、骨壺を出すのに凄く時間と骨が折れるからなの。
だって、息子の骨なんかでは、一日たりとも満足できなかったもの。……貴男には分かるでしょう、私の苦悩を」
文章で書けば長いけれど、ほんの一瞬だった。……勉の脳に、石原さんの言葉が飛び込んできたのは。気味の悪い話であるが、真面目な石原さんが嘘をついているなんて! そんなことは、とても信じられない。きっと、きっと、精神に異常を来しているに違いない。精神病者は、自分が精神を病んでいるのを自覚出来ないからこそ、精神病者だ。勉に話すよりも、心療内科あるいは精神科のお医者さんに語るべき内容だと思う。
先程の奇怪な老女が、チョコレートパフェを、今度は静かに勉の前に置いた。
アイスクリーム、ホイップクリーム、チョコレートソース等が、細長いグラスの中に入っている。上には見栄え良くメロンとバナナを載せているのだ。石原さんの前には、陶器で出来た黒い特大マグカップを置いた。特大マグカップの中には、並々と注がれた独特の臭いがする液体が入っている。コールタールらしきドロリとした液体だ。勉の鼻腔≪びくう≫を、強烈な匂いが襲った。吉田さんは、さも誇らしげに言った。
「さあ、遠慮しないで召し上がってね。……とっても、素晴らしいお味だわよ!」
「それでは、遠慮なく、いただきマウス!」
ゾロゾロと集まってきた例の大きなゴキブリ達を、勉は、運動靴が汚れてしまうのを覚悟で、力を込めて踏み潰した。
店内の様子を見る振りをして、眼の隅で吉田さんがとる行動を、つぶさに観察した。
吉田さんは右手でコールタールを掻き混ぜた。そして、おもむろに、猛烈な悪臭が鼻をつく、既に半分以上ミイラ化しているドブネズミの尻尾を、高々と持ち上げた。ドブネズミの頭から順に、さも美味しそうにグシャグシャと、身震いするような音を立てて頬張った。歯も、唇の周りも真っ黒にして……。
勉の前にあるチョコレートパフェのチョコレートに、フォークを突き刺した。すると、ジヤージヤージヤージヤー……と耳障りな音がする。小型のチャバネゴキブリの群れが、器から逃げ出したのだ。メロンに見えたのは、大きな蛾のさなぎだ。さなぎは、無数の短い足でノロノロと逃げ出した。バナナは、得体の知れない生き物達だ。それらが、羽を出して羽ばたき薄暗いランプシェードに跳びついた。何年、いや何十年もの間、溜まっていただろう大量の埃を、頭上に撒き散らしたのだ。ホイップクリームの中には、大量のウジ虫どもが、ゾロゾロとうごめいている。     なぜかだか分からないが、もう、吐き気がしなくなった。

だが、勉の恐怖と怒りは頂点に達していたのだった。
無造作に、マガジンラックに置かれていた埃まみれの雑誌をつかんで、何度も何度も繰り返し、力を込めてテーブルの上を叩いた。勉の行動を無視して、吉田さんは、さも美味しそうに二匹目のドブネズミを齧≪かじ≫っている。
ドブネズミは、頭蓋骨を割られて脳味噌を垂らしている。ドブネズミの空洞になった、目と鼻を、無数のウジ虫が出入りしている。吉田さんは、よだれを垂らしながら、耳まで裂けた口を大きく開けた。黒い歯茎と歯を見せて、ケケケケ……と笑って、嬉々として食べている。ビー玉のように変に緑色に光輝く眼で、彼を見つめながら……。
やっと、吉田さんは二匹のドブネズミを食べ終わったようだ。
「ママ、いつもの美味しいデザート、お願いね!」
すると、老女は小さなハンマーと、何かが入ったガラス瓶を運んできた。中で何かがゴソゴソうごめいている。それらは、昆虫やクモ、ワラジムシ……などの陸にいる節足動物を食べている生きの良いヤモリ達だ。吉田さんは、テーブルに載せられた薄茶色のガラス瓶を、大きなハンマーで何度も何度も何度も叩く。当然、中にいる、数十匹のヤモリ達も、原形を留めない程に千切れて、周囲に体液が飛び散った。歯も唇の周りも真っ黒にした吉田さんは、貴重な物をすくうように両手で掻き集めて、せっせと口に運んでいるのだ。
吉田さんの両手には、無数の細かなガラスが突き刺さっている。だのに、全く意に介していないようだ。バリバリバリバリとガラスが砕ける音と、ヤモリを骨ごとかみ砕く音が聞こえる。
またしても、勉の胃から嘔吐が喉までこみ上げてきた。
既に、我慢の限界を超えていた勉は、強い力で抱き付き阻止しょうとするママを、何とか振り払い、ドアに向かって必死で走り出した。
やっと、取手を手前に引こうとした時だった。
四、五人の男達が入って来て、表情一つ変えずに彼を突き飛ばした。彼等は、老婆に向かって全員揃って最敬礼をし、異口同音に同じ品を弱々しく注文したのだ。
「ママ、美味しい、いつもの品をお願い致します。……湯気が出ているのを頼みますよ!」
尻もちをついた時、勉は何気なく天井を見た。そこには、頭部、胸部と尾部を大きく反らしている幼虫が、ウジャウジャいる。シャチホコのようなポーズをとっている、シャヤチホコガの幼虫だろう。それらが、数百匹も群れてモゾモゾと天井を這っている。彼は、ズボンの汚れを払いながら、ヨロヨロと立ち上がった。
そんな彼を見て、男達はヘラヘラと弱々しく笑いながら、全員が力なく拍手をした。男達は、第二次世界大戦時の帝国陸軍にいた軍人達のようだ。
彼等が被っている兜≪かぶと≫は、銃弾が貫通し、砲弾のかけらがあたった跡で穴だらけでデコボコだ。着ている軍服も所々穴が開き、泥に汚れてボロボロになっている。見えている裸足には、泥がベットリと付着している。細菌やウイルスに感染しているのだろうか? 特に痩せ細った一人は、穴だらけのズボンから、水っぽい下痢を床に垂れ流して、苦しげな顔で前屈みに歩いている。
ヨロヨロと歩く軍人の頬がこけて泥だらけの顔には、狂気に支配された虚ろな眼があった。
彼は、とても気味が悪くて、真っ青になった自分の顔を感じる。
軍人達は、カエル、ネズミ、ミミズ、植物なのか動物なのか区別出来ない物をくわえている。一人の軍人は、毛深い男の足らしき物体をくわえているのだ。
狂わしくて、おぞましい身の毛もよだつ奇怪な光景だ。
隙を見計らって一切後ろを振り向かず、勉は、喫茶店から脱兎の如く一目散に逃げ出した。
今度は、脱出に成功した。
喫茶店を飛び出すと、上空には抜けるような真っ青な空があり、ムクムクと大きく発達した入道雲が幾つも浮かんでいる。白っぽい太陽が、ジリジリと、容赦なくアスファルトを焦がしている。遠慮なく真夏の太陽の熱気と湿気が、じっとりとまとわりついてくる。とにかく、喫茶店から一歩でも遠くへ逃げようとして、無我夢中で走った。
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
息をはずませながら走って行くと、うるさい蝉しぐれに満たされている古びた公園に、辿り着いた。太陽の位置は、ほぼ真上にある。暑さのせいと昼時なのだろうか? 公園には誰もいなかった。長い間、水飲み場を独占して喉を潤し、頭にも水の恵みをお裾分けした。ようやく冷静さを取り戻すと、日陰になった木製の椅子に座った。頭上には藤棚があり、青い葉を幾重にも茂らせている。まだ、勉の息はずんでいるのだ。
芭蕉の句に、「くたびれて宿かるころや藤の花」とある。その句の通り、勉は、心身ともにくたびれていた。藤は、四月~五月に、淡い紫色または白色の花を、房状に垂れ下げて咲く。
しかし、真夏の今は葉が青々と茂っている。四本の太い藤の樹が、約、縦四メートル、横九メートルの藤棚を形成している。彼は、ボンヤリと何も考えないで、木製のテーブルと対になった椅子にもたれて一息ついていた。
忌まわしい喫茶店での出来事が、勉の脳の端から端までグル、グル、グル、グル……と駆け巡る。そして、幾多の疑問の渦に巻き込まれたのだ。
学校を出たのは、確か、寒風が吹きすさぶ真冬だったのに、今は、身を焦がすような真夏だ。勝気な性格だが、「虫」と聞くだけで、全身寒気がして卒倒しそうになる。だのに、卒倒もしないでウジ虫等を退治できた。見るからに、恐ろしい人達に囲まれていたのに、あまり気にもならず、堂々としていた事。生きている人が二人しかいないのに、四つのコップ運ばれてきたのは、どうしてだろう? ママと呼ばれていた陰気な老婆にも、彼と同様に、醜い怨霊がはっきりと見えていたのだろうか? ――体が、半分以上溶け出した異様な姿をした死人。もう既に骨だけになって、クモの巣に覆われていた骸骨が―― 
TV等の映像でしか観た事がない軍人を、帝国陸軍兵だと、どうして分かったのだろう? 
あの様子から察すると、護衛艦に護られて自分達を迎えに来る輸送船が着岸する海岸に向かって、最前線の戦場から撤退中だったに違いない。
【当時の大本営発表では、『撤退中』とは言わず、『転進中』と呼んでいたが】 
煙が立ち上る程に、こんがりと焼いた人肉を注文するのを、予め知っていたのだろう? 
第一、古ぼけて得体が知れない喫茶店の正体は、一体、何なのだろうか? ――学校の理科室に、ぶら下がっている骸骨の模型に、皮を張り付けたようなママ。そう呼ばれていた奇怪な白髪の老婆の正体は?――
更に、どうして、吉田さんは息子さんの自殺を事細かに、勉に話したのだろう? 挙句の果てに、なぜ、おぞましい姿を現したのだろうか? それは、勉が見た単なる「奇怪な夢」だったのだろうか? つまり、彼の単なる錯覚にしか過ぎなかったのだろうか? 今となっては、真相を知るのが恐ろしい気がしていた。頭には、無数の疑問符が渦巻いていた。
でも、勉は、出来るだけ何も考えずにボンヤリしていたかった。

勉のパーマをかけ肩まで伸ばしている濡らした黒髪が、半分程乾いた頃だった。
背中に、まるで鋭い矢の先が突き刺さったようなとても痛い視線を、勉は感じた。
それは、多くの人々の視線だった。恐る恐る振り向くと、陽炎≪かげろう≫の中に、軍服を着た人、国民服を着た人、着物を着た婦人、モンペ姿をしている女性、子供……が大勢いたのだ。              全員が防空頭巾を被っている。
先程味わった恐怖が再来し、こんなにも暑いのに両足は音を立てて震えている。心臓の鼓動がドクン、ドクン、ドクン、ドクン……と大きくなるのを、感じた。
「お、お、俺に、何の恨みがあるワケ! そ、そ、そんな恐ろしい形相をして!」
 歯をガチガチ鳴らしながらも、大きな声を出し精一杯怒鳴った。しかし、皆は微動もせずに、恨めしそうな表情を顔に貼り付けたまま、無言だ。
「黙っていないで、何とか言ったらどうだ! 俺が、あなた達に何をしたって言うのだ? もうこれ以上、俺を怖がらせないでくれ!」 
すると、恰幅の良い一人の軍人が、宙に浮いてスーと目前に近づいてきた。良く見ると、腰から下は千切れてなくなり、胴から鮮血がポタリ、ポタリ、ポタリ、ポタリ……と、したたっている。
真夏なのに、真冬のような寒気が勉の全身を包み込んだ。
戦争等で突然に死んだ人は、自分が死んだ事実を素直に受け入れる事が出来ない、と良く聞くが……。
「私達の魂を行くべき所に先導して下さい。お願い致します。後生ですから!」
そのセリフが、キーンと痛烈に頭に響き渡った。
「でも、おかど違いだ。俺には、あんた達を、黄泉の国に導ける修行なんか積んでない! まだ高校生の俺よりも、今までどうして……霊能力を身につけた大人に訴えなかったのかい?」
 寂しそうな顔をして、ささやくような小さな声で、彼に語りかけてきた。
「何度も、何度も、頼んだのですが無視されたのです。多分、私達の霊を感じられなかったのでしょう。あるいは、私達の霊が見えても、気味悪がって逃げて行った人も多くいました。自縛霊なのでここから移動出来ないのです。この公園で成仏出来ないまま、さまよっているのです!」
事情を知り、可哀想に思った彼は優しく尋ねた。
「ここで何があったのですか?」
すると、肘から先を失くし乳飲み子を背負った、首から上のない母親が、ツツー前にやってきた。首の付け根から、血飛沫≪ちしぶき≫を空高く噴出させながら……。彼女には口がないために、想念を勉の脳に直接訴えかけてきたのだ。
「貴女の純粋な祈りで、私達を行くべき所へ送って下さい。お願い致します。ここは、空襲時の避難場所で多くの防空壕があり、私達はここにあった防空壕に入っていました。でも、B29の爆撃で防空壕が全て破壊されて、一人残らず爆死したのです!」
勉は、経典の代表的な般若心経を心から唱え、皆さんの冥福を真剣に祈った。繰り返し、繰り返集した場所までやって来た。いまさら、学校に行く気もしないので、家に帰った。し……。
真摯≪しんし≫な祈りが通じたのだろうか? 公園から皆揃って姿を消していた。
我に帰ると、全身に気だるさと清々しさが溢れていた。

                  
                -完―

霊を体験した男

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勉が校門を出た所で待っていたのは、髪を吹きすさぶ風に任せている深刻な顔をした司書の吉田さんだった。髪の毛が乱れているのを、全く気にする様子はなかった。一種異様な姿をしていた。 更に、眉間に幾筋も深いシワを寄せているのだ。普段の吉田さんとは、別人のような暗い雰囲気を周囲に漂わせていた。 蔦≪つた≫が我が物顔で伸びて壁全体を覆っている、喫茶店へと勉を誘った。そこは、とても陰気で小さな喫茶店だった。何か重大な話があるような、深刻な顔をした吉田さん。そんな吉田さんの顔を勉が見たのは、この時が初めてであった。 この後、彼が経験するおぞましくも恐怖に満ちた体験とは?

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  • 短編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-22

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