遊戯担当部長の恐怖体験
山下 育夫≪やました いくお≫は、某一流流通企業の関連会社の部長職にある。
遊具施設担当なので、頻繁に日本国中を視察旅行していて、今回は沖縄に決まった。伊丹空港は、兵庫県伊丹市と大阪府豊中市及び池田市にまたがる、国内線が発着する空港である。彼は、着替え等を二週間分、自慢のサムソナイト製旅行カバンに詰め込み、阪急電鉄淡路駅から伊丹空港に近い蛍池駅で降車した。
売上高約一千億円、店舗数は直営店約四百店で、世界百カ国以上に展開しているサムソナイト社
製の旅行カバンを転がして、沖縄に向かうジャンボジェットの窓際席に腰を落ち着け、薄暗い雲間からグリーンぽい海を垣間見た時には、もう夕暮れが迫ってきていた。
ギリシャ神話によると、神に対する侮辱を罰する神ネメシスは、他人を愛せないナルキッソスに、自分だけを愛するようにした結果、水面中の美少年(自分自身)に一目で恋におち、水から離れることができなくなり、やがて痩せ細って死んでしまう。
これが、ナルシスト(ナルシシズム)という言葉の語源だが、彼の遺伝子にも組み込まれているに違いない。
他人から見れば、
(自己顕示欲の塊ではないのか?)
と、自分自身を分析している。
六月初旬の那覇市は湿度も高く、できるなら泳いでみたい気になるほどだ。半袖シャツにネクタイを絞めたダブルの背広姿では、とても蒸して暑い。
国際通り近くに用意してくれたホテルに着くと、直ぐにシャワーを浴び、ベッドに大の字になって、沖縄担当のエリア長に携帯をかけ、今到着した旨を連絡した。
さらに、今晩打ち合わせする料理屋の場所と時間を確認し、それが終わると、正座して専務に四件業務連絡をし、すでに申請済みではあったが、明日からの大雑把な予定を報告した。
ホウレンソウ(報告、連絡、相談)は、サラリーマンの基本中の基本だからである。
当夜八時に、待ち合わせた店に行くと、沖縄担当エリア長以下二十九名の部下達は、緊張の面持ちをし、全員勢揃いして、上座を開けてすでに着席していた。
軽く明日から行う視察予定を確認し、皆が丁寧に応対してくれたお陰で、深夜まで、酒宴は盛り上がった。それにしても、沖縄の人の歌や踊り好きと、上戸には、宴会馴れしている彼も舌を巻いてしまった。沖縄視察は、初めてであったためだろうか、阪神地区に住んでいる彼には、見るからに熱帯魚のような原色、青や赤の色鮮やかな魚には、とうとう最後まで箸を付けられなかった。
彼は、三十八歳で遊技施設会社に出向し、営業企画担当本部長の要職を拝命した。全店の視察、指導並びに、各種営業企画立案と実施に数値責任を持ち、北は北海道から南は沖縄まで、日本全国が担当である。本社では、次長以下四十九名の部下を使って、仕事を精一杯こなしており、他人に打ち開けられない、身に降りかかる強烈なストレスに、押し潰されそうになることも、数知れない。そのせいか、少しノイローゼ気味であったのだろう、最近同じようなデジャブを、何度となく経験している。さらに悪い事に、毎日ではないが、記憶がほんの五~十分間、全く飛んでしまう症状が出るようになった。
短時間の記憶喪失だ。一過性全健忘に違いない。
――健康だった人が、突然、前向性健忘をおこし、新しいことを、まったく覚えられなくなるものである。自分の周囲の状況を把握できなくなるため、混乱して同じ質問を繰り返す。通常、二十四時間以内に回復し、積極的な治療は不要なことが多い。ストレスの多い人に起こりやすく、側頭葉の血流低下が、関与しているとみられている――
昼食を知らせるチャイムを聞いたかと思えば、地下従業員食堂で部下達と一緒に食事をしながら、仕事の話に熱中している自分に気付く。が、その間の記憶は一切無く、戸惑うことが良くある。最近、特に、多くなって来ているような気がしてならない。
昔、京都で、二DKのアパートを借りて、大学までをバスで通学していた。バスの中で、皆が悪口を言っているのではないかという、被害妄想に苦しめられ、とても耐えられずに、途中で降りてしまったことが多くなって、精神科を受診したことがあった。国立K大に合格しようとして、無理な勉強をした後遺症であって、特に薬は必要ない、という精神科医の診断結果だった。
「肉体を働かせて、頭脳の働きとのバランスに心掛ければ、完治しますよ!」
アッサリ断言された。
確かに、肉体労働のアルバイトを四カ月ほどしていると、完治した経験を大学一回生の初め経験したことがあった。
心療内科、さらに、精神科を受診しようかと思い悩んだが、もしも会社に知られれば,降格になることは、火を見るより明らかであるので、長い間、躊躇≪ちゅうちょ≫していた。気分転換が、本来の目的にもかかわらず、理由を無理に捏造≪ねつぞう≫して、専務経由社長宛てに、沖縄視察の稟議書を回して承認されたのだ。沖縄の地を踏めたのは本当に幸運であり、これでストレスを発散出来、加えて英気を養えると考えたのだ。
沖縄本島南端の糸満市から、北は名護市東北端の国頭村に至るまで、行動範囲は広い。
既存店舗の視察、指導と、入居可能で遊技施設の無いアウトレットモールに最適な場所があるかどうかを選定する事が、彼に課せられた目的である。
エリア長の錆びが目につく乗り心地の最悪な車で移動を始めた。
しかし、糸満市のスーパーマーケット屋上にある遊技場で店長を伴い視察している時、微かな頭痛を伴って、例の忌まわしい既視感に襲われた。
それは――屋上に設置している金網の柵、更には鉄条網を素早く乗り越えて、ダブルの背広を金網に残して真っ白な半袖シャツに、赤黒い血を滲ませ、中年男性が真っ逆さまに落ちる瞬間を、またも見てしまった。柵のこちら側には、きっちり揃えた良く磨かれている右側の革靴には、白い封筒から遺言を記したらしいホテルに置いてある便箋が、わずかに見えのだ――
四~五秒後には、ドスッという鈍い音すら耳にしたが、エリア長、店責任者の顔には何の変化も現れない。
蒸し蒸しする去年【六月十日夕方六時半】本社の窓を背に執務していた彼は、なぜか気になり窓外を見ると、真っ逆さまに落ちる男性を一瞬見てしまった。
各フロアーの窓は、人が出られるほどには開かないので、屋上から落ちたに違いない。
慌てて付近にいる人々に知らせたが、誰一人として見た者はいないらしく、仕方なく部下数名を連れて、落ちたであろう駐車場を隈なく探したが、倒れて血を流している人間はどこにもいなかった。幻視だと納得するのに、一時間以上要したのは,余りにもリアリティーを彼に感じさせたからだろう。
デジャブは、約七割の人が経験するらしいが、側頭葉癲癇、統合失調症発病初期に体感するらしい症状でもあると言われている。
もしそうだとすれば、彼は、回復が困難な病気に罹患しているのだろうか?
彼が、幼稚園児の時、家から見える神戸沖のやや丸みがある水平線に太陽が落ちるが、ジューとも音がしない事に、大いに疑問を抱いた。海にはまってしまった太陽が、なぜ、次の朝には空に上がって来られるのだろうか?
母に尋ねたが納得できなかったので、その夜なかなか寝付けなかった。
翌日、園長先生に尋ねると、気軽に教えて下さった。
「太陽がとても遠くから地球の周りを回っているからなのよ!」
ところが、コペルニクスの天動説を理解できても、今でも心の底からは信じられないでいる。
なぜ、全く同じ時刻、全く同じ内容のデジャブを体験するのかは、彼には大いなる謎でもあった。地球から百四十七億光年離れているビッグバン時の宇宙の果ては、どうなっているだろう?
いくら思考しても、現代の宇宙物理学、宇宙工学等を駆使して専門家が、絶えず研究に励んでいるにもかかわらず,詰る所、循環論に帰結している。
そのように何ら解析ができないように、彼を悩ませるデジャブの真相を探っても、やはり循環論に陥るだけだろう。
しかも、最近、
「ある事をしなければならない」
という強迫観念に苛まれているのだ。深刻な鬱状態に陥ったのかもしれない。
沖縄の青い空、澄んだエメラルドグリーンの海、清々しい潮騒に囲まれれば、きっと、変なデジャブも見なくて済むだろう、と彼は踏んだ。
しかし、そんな甘い考えは、脆くも崩れ去ったのだ。
沖縄に来て九日目、早朝から大きな鉛で強打され続けられているような、強烈な頭痛に苦しめられていた。そこで、注意書きを無視して、強い市販薬の二時間毎に飲み続けたが、全く治まらない。それどころか、一層酷くなったようで、薬を飲み過ぎたせいか、午後には朦朧≪もうろう≫としてきた。
鬱病に対しては、抗うつ薬の有効性が臨床的、科学的に実証されているが、薬効は必ずしも即効的ではなく、効果が明確に現れるには、一~三週間の継続的服用が必要である。
不眠が強い場合は、睡眠導入剤と抗うつ薬を併用することも多く、またカルバマゼピンやベンゾジアゼピン系もしばしば用いられている事実は知っているが、心療内科医に自分の症状を訴えられない今の立場に苦しめられている。
休職して治療に専念した方が、今の彼にとっては正解なのだろうか?
(関係者には、身体の調子が優れないので今日一日休む連絡はしておいた)
統合失調症も併発しているせいだろう、現実と非現実の境目が曖昧になっている。身体と心の乖離状態が続き,あたかも身体から魂がどこかへ離れて行ってしまったような、嫌な気分に陥っている。陰鬱な気分に覆われている彼は、いつの間にか、仕事から受け続ける過度のストレス、何かにつけ馬鹿にしている妻や、娘二人がとる態度に対する、日頃から鬱積≪うっせき≫した苛立ちに怒りをたぎらせた。挙句の果て、この世を呪う数々の罵詈雑言≪ばりぞうごん≫を、大声で叫んでいる自分に気付いた。もう午後四時過ぎである。
パニック症候群に、頭脳をほとんど占領されてはいたが、まだ理性(?)を残している一部の脳は、まだ働いている。ホテルの窓に顔を付けて見詰める太陽は、数時間後には沖縄の海にはまって、ジューという大音響、蒸気、煙を、星空に向かって高々と上げ、明日の朝は決して訪れないことを確信した。
そこで、彼はホテルにある便箋に、この世に存在する事象全てに対する呪詛に満ちた文章を、備え付けてあるボールペンではなく、自慢のモンブランを使って書き連ね、持参した真っ白な封筒に忍ばせ、靴を綺麗に磨いて近隣にある大型スーパーに向かった。
屋上に並んでいる遊技施設を、懐かしく思いながら、誰も見ていない隙を狙って、金網の柵を素早く乗り越えたが、ダブルの背広を金網に引っ掛けてしまい、更に上半身が鉄条網に引っかかり、真っ白い半袖シャツに、血を滲ませながら、真っ逆さまに落ちる時に、自分に対する褒美に買った金色に輝くカレンダー付ロレックス見ると、正に【六月一〇日六時半】を指している。
彼が、何度も体感したデジャブとは、自分の未来に起こる出来事の予兆であったことを、やっと理解できた瞬間、彼の体と意識は……。
――完――
遊戯担当部長の恐怖体験