竜宮城に行った男

古代ギリシャの季節を司る女神ペルセポネが、蒸し熱い夏にもそろそろ飽いたので、命ある生物≪いきもの≫達にとって、涼風が舞うすがすがしい気持ちになる初秋にしょうと、優しさを込めて徐々に季節を移ろわせ始めた頃だった。

相当老朽化している養護施設の前で、美形だが生活苦でやつれきった二十歳前後の女性が、キョロキョロと落ち着かない様子で、付近に誰もいない瞬間を狙っていた。彼女は、花柄ワンピースに、安物の香水をほのかに漂わせていた。ミミズが這ったような汚い字で、連綿と泣き言を書き連ねた手紙を、ヨレヨレになった幼児服にある小さな胸ポケットに無造作に詰め込んで、色褪せ薄汚れたバスタオルで包んだ我が子を、地面に置き足早に逃げるようにして立ち去った。
真っ赤な顔で、ギャア、ギャア……と泣き叫ぶ幼児を発見した六十歳代の施設長は、半分義務感からだろうか? 渋々、その子を施設に収容せざるをえなかった。
火のついたように大声で泣き喚いていたのは、私であった。天才は、母体から離れた直後からの記憶を有しているらしいが、私は一歳頃からのできごとしか記憶にない。悔しいが、そういう点では、少し劣っているのかも知れない。
当時、私は二歳ほどであり、母にSの性癖があったのか、細い縄で雁字搦≪がんじがらめ≫にされていた。私は身動き一つできず、大声でワンワン泣けば、きっと、誰かが助けてくれるに違いないとの思惑と知恵が、もうすでに備わっていたのだろうか?
母親に捨てられた悲しみは、どんよりした黒い雲に埋め尽くされた暗い空が、落とす憂鬱とともに、PTSDを私の心の奥底に植え付けたのだった。今でも、この光景がデフォルメされた悪夢で目覚める時がある。下着を絞れば、悲しみの染み込んだ大量の冷や汗が、滴り落ちそうなほど魘≪うな≫されていたのだ。
私が収容された施設の長は、神聖ローマ帝国神学者でルーテル教会の創始者であるマルチン・ルターを、心底信奉していた。施設長は、頭の天辺から足のつま先に至るまで、ガチガチのプロテスタントを標榜していた。土色でウリのように細長い顔をした施設長は、陰鬱な根暗のオーラを周囲一面に漂わせていた。常に、薄い胸板の前で両の掌を丸めて、子供でも分かるわざとらしい作り笑顔をしていた。施設長は、貧相で痩せて眼だけが大きく、【死に神】がするだろうと思える仕草で、四四名の一歳から十八歳までの、親と世間から捨てられイジケてる私達に向かって、
「必ずや、君達には、バラ色に光輝く将来がくるから、絶対に悲観しないようにしなさい!」
と、いつも、切々と感情を込めて説いていた。
だが、その風貌と説教には、真実味に欠けていると言う事実を、全く自覚していない、哀れなオジサンにしか見えなかったのは、私だけではなかったろう。
滑り台に上がれば、空気が清澄な時だと、淡路島の家々がまるで手に取れるように一望できるのは、私にとって大いなる救いだった。明石海峡を航行する船舶が、まるで玩具のように見える。それらの船の船長になって、操船している気分になることも度々あった。さらに、深い青色に染まった海と緑の淡路島と、澄明なライトブルーの青空が見せるコントラストに、心を癒された。
後で知ったのであるが、当時、全国で養護施設は約六百あり、在所児は約三万人であった。
子供達の約六割は、親はいるが、養育不可能のケースが占めており、最近では、虐待が原因で親から離されて、入所している子供も増加している。

それから一年後、三歳の頃だった。
私を文字通り、目に入れても痛さを感じないほど、可愛がってくれた三十四歳になる保育士さんがいた。当時では、とっくに結婚していても当然だと思える年齢だ。彼女は、黒縁メガネをかけていて、顔中ソバカスだらけで、どちらかと言うと不美人だった。結婚で得られる幸せより働き甲斐を選択し、信条にしていたのかもしれない。いずれにせよ、今流に表現すれば、明らかに「負け組」に属していた。骨に皮が辛うじてへばり付いているかのように、ギスギスに痩せ、誰が見ても神経質そうな池田さんという女性だ。人間というのは、何て残酷な生き物だろう。あれほど可愛がり、膝に載せてくれて夢心地にさせて下さった彼女を、酷評するなんて!
そんな彼女が、私にありとあらゆるジャンルの世界中の童話を、面白おかしく読んでくれた。まるで、母親が愛しい息子に、童話を読み聞かせるように……。
すでに、私は、ひらがな、カタカナ、さらには小学三年生程度の漢字を、自由に読み書きできた。が、まるで知らない風を装って、彼女が読み聞かせて下さった童話の世界で、自分を主人公になぞらえて、物語に熱心に思いを馳せていた。私自身、その時ばかりは、母親に甘えているような優しさに包まれている気分に浸っていたのは、確かであった。
池田さんは、数多く日本の童話も読み聞かせて下さった。
中でも特に、室町時代の「御伽草子」に登場する【浦島太郎】の話を聞いた時だった。
雷に打たれたような強烈な衝撃が、私を襲った。氷塊を背筋に入れられたような、ゾク、ゾクするほどの好奇心を、私は幼いながら覚えたのだ。
その物語から、強烈に漂う至福を伴った印象は、成人しても脳の大半を占拠していた。
まるで天から生れながらに付与されていて、私自信が背負った宿命ででもあるかのような願望。
私が抱いた唯一の願望――それは、実際に乙姫様に会うことだった。
どんな艱難辛苦に遭遇しても、必ず乗り越えて竜宮城にたどり着き、乙姫様に会い、幾重にも漆を塗り重ねた朱色に輝く玉手箱を持って帰りたいと、当時から切望し続けていた。
たとえ、七百年後の未来にタイムスリップしても、玉手箱を絶対開けない妙な自信があった。精神病の一種であるパラノイア(偏執狂)が、幼少期より今に至るまで、私に宿っているせいかも知れない。想像と憶測をはるかに超えた、連綿と祖先よりもたらされた遺伝子に刷り込まれたDNAが、私に及ぼす影響なのだろう。それは、疑問を差し挟む余地のない真実に違いない。

毎週日曜日の十時、私達全員と当然先生方も、強制的に施設内の礼拝堂で集められた。そこで、施設長の欠伸≪あくび≫が出るほど長たらしい説教を聞かされた後、「讃美歌」を唱和させられたのだ。手垢で黄土色に汚れ、しかもボロボロになった聖書を持ち、ルターに心酔している施設長のお気に入りの一節に、百十二番「もろびとこぞりて」があった。が、【シュハキマセリ】というくだりが、長い間、幼い私を狂おしいほど悩ませたのだ。
諸人≪もろびと≫こぞりて 迎えまつれ
久しく待ちにし 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり
悪魔のひとやを 打ち砕きて
捕虜≪とりこ≫をはなつと 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり
この世の闇路≪やみじ≫を 照らしたもう
妙なる光の 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり
萎≪しぼ≫める心の 花を咲かせ
恵みの露≪つゆ≫置く 主は来ませり
主は来ませり 主は、主は来ませり
平和の君なる 御子を迎え
救いの主とぞ 誉め称えよ
誉め称えよ 誉め、誉め称えよ
(シュワキちゃんがマセていることが、なぜ、讃美歌で歌われているだろうか?)
 先生に尋ねるのも気恥ずかしくて、頭の中で何度も何度も反芻≪はんすう≫して答えを見出そうとした。でも、その努力は報われなかった。しかし、六歳の時、【シュハキマセリ】は、「主は来ませり」であり、主の再来により地上にもたらされる、喜びと愛を歌っているのだと判明した。
その時、小躍りして、大喜びの雄叫びを実際に上げてしまったのは、他人には異常な行為に見えたに違いない。普段は、気難しい顔で考えごとをいたかと思えば、奇声を上げ走り回るので、躁鬱病≪そううつびょう≫に罹患している、と皆に思われていた。良く言えば、「並外れた個性のある幼児」悪く言えば、「些細なことすら忘れられない偏屈な幼児」だった。悲しいかな、その性向は、今でも変わっていない。
小学校に上がると、IQテストは、ずば抜けて高く、私を良く知る人々からは「精神異常者と紙一重の神童」だ、と言われていた。そんな私は、唯ひたすら勉学に励み、竜宮城に行けるだけの十分な資金と休暇を、手に入れる方法だけを、自分なりに、あれこれと模索し続けていたのである。
なんぶん、税金と篤志家の寄付の世話になっている身分では、進学率で勝る私学には、当然入学できず、小、中、高と公立に通学していた。常に学年でトップの成績を修めていたから、奨学金のお世話になり、国立大学K大経済学部に現役で無事合格できた。当然、高校を卒業した十八歳になれば、特別な例外を除き、児童養護施設を出て、いやでも自立しなければならなかったのだが……。

施設を出た大学の四年間、民家の二階にある四畳半で下宿生活を送った。その民家は、京都駅から地下鉄烏丸≪からすません≫今出川で下車して、東方向の百万遍にあった。二階には、もう一間六畳の部屋があったが、誰も下宿していなかった。一階は、六畳二間、四畳半、リビング十帖、キッチン、六帖位の浴室があった。その家には、古来より伝わる手法を用いながら、決して古典の模倣に終わることなく、構成や色彩等に、現代感覚を大胆に取り入れた斬新な庭園があった。池には大きな錦鯉が、悠々と水中散歩を楽しんでいた。その鯉に定時に餌をあげるのは、大家さんご夫妻には、楽しみであったのだろう。私も、庭を散歩しながら、錦鯉の泳ぐ風情に癒された一人であった。近所の方々も、素晴らしい庭園を満喫されていたのだ。
当然、私は近くの銭湯に通っていたが、改造のため四日休みだったので、仕方なく少し遠い銭湯に行くことになった。ツッカケを靴箱に入れ、ガラガラと『男湯』と暖簾が掛かった引き戸を開けると、透き通った鈴を鳴らすような声に私の心臓は、いっきに活動の頂点に達した。
「おいでやす―」
番台には、黒髪が美しくて前髪を眉の上で揃え、その下には大きな魅力ある瞳があり、鼻筋も通っていて、スレンダーな体つきだが、胸もそれなりに膨らんでいる、二十歳代に思える美人が座っていた。まだうぶな私は、今にも心臓が口から飛び出すほどドギマギしながら、衣服を脱いで富士山が壁面に大きく描かれた浴槽に入った。だが、胸の高鳴りは、おさまらなかった。体を拭いて、服を着ようとしたが、恥ずかしさで心臓がドキ、ドキと音をたてた。帰る時も鈴を鳴らすような澄んだ声で、
「またおいでやすー」
と言われたが、その銭湯には恥ずかしくて、それ以来一度も行けなかった。昼間の四時頃なのに、高齢者ばかりでなく、三十~四十歳代の男性も多かった。それほど、男性を惹きつける魅力を彼女は、生れながらにして身に付けていたのだろう。

年老いた大家さんご夫妻には、何かと親切にしていただいたので、社会人になってから、盆暮れに柔らかそうな品物を欠かさずお贈りした。でも、相次いで亡くなられ、東京に転勤している息子さんが、喪主を務められたご葬儀には、精一杯のご香典を渡し、心からご冥福をお祈りした。
下宿していた民家の南には京都御所があった。近くには、加茂川と高野川が合流した鴨川があり、夜はペアーでいっぱいだった。恋人がいない私は、昼間土手で寝そべって、真っ青な空に流れていく綿飴のような雲と一体化した。ぼんやり文学書の活字を追って、優雅な時間も過ごした。
だけど、ほとんどの日は、食品スーパーで日用品課のアルバイトにはげんでいた。さらに、週五日、夕方から二軒のお宅で、K大志望高校生の家庭教師をしていた。春、夏、冬の休み期間中は、重労働だが日当が良い引っ越し作業に精を出しながらも、全ての科目で優を獲得した。
ゼミの教授から、
「君ほどの才能があるなら、経済学研究科に進めば、将来、教授の椅子は約束されるよ!」
何度も薦められた。大学院に残るのは、私にとって時間の浪費でしかなかった。そこで、経済的理由を盾にして、丁重にお断りした。他人には、話せない,否、話したくない、例の目的があったからだ。それがなければ、大学院に残って経済学を深く研究し、将来は博士号を獲得して、大学または大学院で教鞭を執りたかったのは、偽らざる本音であった。
ミクロ経済分析の射程を、非市場的な行動を含む幅広い人間行動と相互作用にまで拡大した業績を讃えて、千九百九十二年、ノーベル経済学賞を獲得し、シカゴ大学で教鞭を執っていたゲリー・S・ベッカー氏を研究したかったのだが……。
バイトに励んだために、卒業時には二百万円を超す預金さえできたが、このお金も社会人になってすぐに研究費でなくなった。
三回生の春過ぎから、有名IT企業にターゲットを絞り込み、会社訪問を始めて、筆記試験、面接の結果、四社から内定通知をいただいた。仕手株バブル(九十年代半ば兼松日産農林等)、ITバブル(光通信等)、新興市場バブル……など、何度となく株式市場はバブルを膨らませ、崩壊した中を耐え抜いた企業だった。財務諸表、株価の推移等を見極め、三十四歳で退職する私にとって、金銭面でBESTの一社を選択して入社した。
当然だが、私は、サラリーマンとして優秀であり、退職の「た」の字すら、おくびにも出さなかった。仕事一筋のワーカーホリックとして、いつも喜色満面で、上司から与えられた仕事を、卒なくこなすばかりでなく、自ら進んで様々な有益な提案をして実行し、十分な成果を導いた。ある意味では、会社を背負って立つ人間であり、今日の会社の好業績を導いたと自負しても、誰も異を唱えないだろう。

自分で言うのもはばかれるが、私は、身長百八十四センチメートル、体重七十キログラム、誰もが羨むスラリとした筋肉質のチョーイケメンである。
幾多の合コンや女性が出すフェロモンの誘惑にも、一切興味を示すことなく、東京本社近くに借りている一LDKで、深夜遅くまで、浦島太郎、乙姫、竜宮城に関する文献、資料等に没頭した。それらに止まらず、人文科学、哲学、宗教学、歴史学、社会科学、人類学、考古学、自然科学、物理学、化学、生物学、宇宙科学、地球化学……などの書籍を読み漁り、必要と思われる箇所は、ていねいにノートに書き記した。読書だけに頼らず、ありったけの脳を駆使して、緻密で綿密な計画を練りに練ったのだ。 
休日には、大規模書店や神田の古本街を、血眼になって、目的の書籍や資料を捜し歩くことが、ストレス解消法あり、楽しみでもあった。
 本来、私の性格は、社交的、協調的であり竹馬の友、同級生、社会に出てからは、多くの尊敬に値する先輩や同僚に恵まれた。でも、あえて親友を作らなかった。心配をかけたくはなかったからだ。故に、恋人はなおさらだ。本当は、人として、胸中を何でも吐露できる親友、真の異性を渇望していたが、積年の願望がその存在に勝ったのである。
寂しいと言えば、胸が張り裂けるほどに寂しい時もあったが……。

二十九歳の時、種々研究してきた結果、ついに私はある結論に到達した。
それは想念、言い換えれば脳の中で竜宮城等を創り出して、自らが浦島太郎になり、伝説の彼が経験したであろう事柄を、追体験する、あるいは彼に先駆けて実体験することだ。
アインシュタイン博士が、ニュートン力学とマクスウェルの方程式を基礎とし、「質量、長さ、空間、時間等の概念は、観測者の慣性系で規定される相対的な事象であり、光速度のみ不変である」という特殊相対性理論を、千九百五年に発表していた。特に、私はこの論文に大きな影響を受け,基礎数学、高等数学、ユークリッド、非ユークリッド幾何学を学んだ。さらに、彼は、加速度運動と重力を加え、リーマン幾何学を使って、重力場での時空の歪みを説いた一般相対性理論を、千九百十五~千九百十六年に著している。帰結として、光速を超えない限り、過去のある時点には到達出来ないことを、改めて確認しただけであった。
徒労と絶望感に打ちひしがれそうな私に、新たな一筋の光明を与えてくれたのは 、ホーキング博士があらわした論文であった。
彼は「時間順序保護仮説」の中で、
「タイムトラベルが可能なのは、場のエネルギーが無限大でなければならない」
と提唱している。しかし、同時に、
「宇宙全体の割合では、質量のある物質はわずか四%で、残りの九十六%をダークマターとダークエネルギーが占めている」
と主張していることを知り、ダークエネルギーを、私が生まれながら身につけている超能力を、何とかして融合できないものかと、数年かけて研究をしたのである。
千八百九十五年にH・G・ウェルズが著した「タイムマシン」の中で使用した機械装置を、製作するのでない。私自身がタイムトラベルを行い、時間の流れの中で、過去・現在・未来を自由に移動できる方策を見つけたかった。
H・G・ウェルズは、イギリスの著作家であり、小説家として、フランスの小説家ジュール・ヴェルヌとともに「SFの父」と呼ばれ、SF的題材を数多く生み出した。タイムマシンをはじめ、蛸型の火星人、透明人間等が有名であり、その他にも、動物を知性化した「モロー博士の島」、テロの道具としての細菌を題材にした「盗まれた細菌」、反重力を扱った「月世界最初の人間」……などがある。彼等の著作に我も忘れて没頭したのは、幼稚園の頃だった。

結論として、インドヨーガの修行を積んだ僧が、チャクラで宇宙エネルギーを受け入れている事実に、私は着目したのだ。ヨーガの開祖は、ゴーラクシャ・ナータとされる。紀元後十世紀~十三世紀頃には、「ハタ・ヨーガ」と「ゴーラクシャ・シャタカ」という教典が書かれている。
「悟りに至るための補助的技法として、霊性修行に取り入れるなら、非常に有効だ」
そう主張した伝統的ヨーガを、私は信頼し、その教えを全面的に取り入れることにしたのだ。
来る日も来る日も、宇宙のエネルギーとつながる場所である第七チャクラの開化に努めた。
遂に、ダークエネルギーを身内に取り込むのに、成功したのだ。会社勤めで得たサラリーは、ほとんど研究費に消えてしまった。しかし、念願の成就の方が、私に占めるウエイトは、遥かに大きかった。壁に掛けた温度計が二度を示す真冬なのに、頭脳の働きをさらに活発化するため、暖房もかけていかった。一LDKの部屋で、奇声を発しながら、両隣の住人に壁を激しくドンドンと叩かれるまで、夜中にもかかわらず、成功した歓喜に酔い全身裸で踊っていた。キリマンジャロ山のエン・カイ神を信じていた勇敢で気位の高いマサイ族。彼等の収穫の踊りを真似た激しくて大袈裟な上下運動を、繰り返していた。
自分で言うのもおこがましいが、几帳面過ぎる性格の私は、直属の上司である営業部長に、最近流行っているメールで済ますことはせず、墨字で書いた辞表を提出すると,あっけにとられた表情を一瞬見せて、
「なぜ優秀な課長が、唐突にそのような心情に至ったのか?」
と何度も執拗に尋ねられた。
「諸般の事情で、止む無く、親戚の会社を手伝うことになったからです」
と心苦しい嘘をつかざるを得なかった。その後、後任者と円滑に引き継ぐことが目的で、約一月間会社に通ったが、幾度となく営業部長はじめ専務、常務、社長に至るまで、温情温まる遺留の言葉を掛けられ、少し気の毒だとは思いはしたものの、私が長年培ってきた夢を諦めさせるには至らなかったのである。

「さて、いよいよ、この時代ともお別れだなあー」
と小さくつぶやいた時、幼い頃から今日に至るまでの楽しいことばかりが、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。薄汚れたグレイのカーペットに、涙で小さな池を作ってしまった。それを見れば見るほど、涙線に異常をきたしたのか、止めどなく涙が溢れ出し、池はさらに大きくなった。その涙は、寂しさと嬉しさの入り混じった複雑な産物であった。まだ弱々しい初春の朝日が、小さな池も、すでにシミになっている所を照らすまで、同じ姿勢でいる自分に気付くほど、長い時間、この時代に別れを惜しんでいた。
時空連続帯を破って過去に遡行する実験は、当然、何度も何度も試行錯誤を繰り返しながら行っていたが、本格的に時間遡行するのは初めてだった。不安と期待に溢れる世界に、今踏み出そうとしている私の毛孔という毛孔から、冷や汗が吹きだした。小粒に輝く初春の太陽を、閉じ込めた水晶玉のようだ。虹色にきらめく時空の渦の中を、顕在意識が過去に向かって飛行を始めた。私は、あたかも、桃源郷にいるような高揚感に包まれた。
時間遡行の際に、気をつけなければならないことは、地球が、恒星である太陽の周りを楕円形に公転している事実だ。その速度は、約三十キロメートル/秒だ。また、太陽が銀河系の中心の周りを回る公転速度は、約二百二十キロメートル/秒だ。それらを計算していなければ、宇宙空間に放り出されることになり、即、死に結びつくことである。
しかし、ハッブル宇宙望遠鏡等の人工衛星から得られている観測結果から判断して、百三十七億年前に始まったビッグバン時より、今なお加速膨張し続けている宇宙全体からすれば、数十年程度は無視できる時間単位であろう、と考えた。そのような数十年単位で、過去に遡及すれば安全の範囲内だろう。徐々に目的の時代に近付くのがBESTであり、いきなり彼、浦島太郎の時代に到達するのは、危険極まりないと判断した。
従って、手始めに、四十~五十年前の世界に時間遡行することにしたが、残念ながら、細かな時代と場所を特定する術は、まだ体得出来ていなかった。だが、大まかな西暦と場所はわかる。それを可能にしたのは、何年も精魂込めて創りあげた、薄いダイバーウォッチに近い形状の複雑なT・P(時・場所の略)装置である。

自分が元々存在していない空間に、自分の体積分が突如出現した場合には、外爆発が起きるだろうから、体積、質量を持たない状態で現れる必要がある。
しかしながら、小さなものには、適用されないだろう、と思える。つまり、裸になりT・P(時・場所の略)装置だけをして、過去にタイムトラベルするのが、賢明な方法だ。
最初に,質量がない状態で実体化したところは、国鉄(現在のJR)兵庫駅の上空約五十メートルの空間である。いましも、機関車が漆黒の煙を風になびかせながら、西にノロノロと向かおうとしているところであり、次は恐らく須磨に停車するのであろう。
素っ裸で半透明になった自分を見るのは、というより、半透明になった自分しか見えないのは、何とも表現できないほど、吐き気を催すイヤーナ気分である。だが、この時代の世界では、私はアウトサイダーである。いや、異邦人ですらない。この時代に存在を許されていないのだから。
この時代に、一切関わりを持てない存在であることは十分認識している。が、薄茶けたホームで次にくる、石炭を燃料にし、水を蒸気にして動力を得るSLか、木の床が油臭い省線電車を待つ人々に、思わず、大声で自分の存在を知らせたい衝動に駆られた。たとえ、そうしても、誰も気付く訳もないことは、火を見るより明らかではあるが、小さな叫び声をあげた私は、奇妙なノスタルジーに惑わされているのかもしれない。昭和三十年~四十年頃のTV映像か、書物でしか知らない世界だというのに……。
英国産業革命時代、ジョージ・スチーブンソンが最初に蒸気機関車を制作したと、勘違いしている人が多い。彼は、公共鉄道で走行する最初の「ロコモーション号」を、さらに「ロケット号」で蒸気機関車の基本設計を確立しただけである。千八百四年、リチャード・トレビシックが鉄道史上初めて、蒸気機関車を走行させたのだ。

さて【歴史は、一直線に過去・現在・未来へと進む】ものであると、私は認識している。
あらゆる選択肢が存在し、あらゆる世界を創り出すという多元的世界論――ある有機物の集合が、Aを選択すれば、Aの帰結としての世界が現出する、パラレルワールド――を堅く否定している一人である。だから、いかなる理由が存在しようとも、【歴史にその痕跡を残してはいけない】と、固く信じている。
ところで、賢明な皆さんは、重大な矛盾に気付かれただろう。
そもそも、浦島太郎が七百年後の未来に実体化すれば、彼の体積に相当する空間が弾き飛ばされることになり、当然玉手箱を抱えた彼はイクスプロージョン(外爆発)により、跡形もなくなるはずである。
同時に、竜宮城より帰ってき彼が、村は様変わりし、挙句、先祖を祀る墓石に刻まれた両親と自分の名を見て、玉手箱を開けた時にその時代から一瞬にして消えた。だから、彼の体積に相当する大気が入り込めば、核融合爆発以上のインプロージョン(内爆発)が起きる。従って、物語は完成せず,後世に伝承されないのではないのか? 
特殊相対性理論でアインシュタインが唱えた、エネルギー(E) = 質量(m)×光速度(c)の 二乗、「物理法則は、すべての慣性系で同一である」という特殊相対性原理から考察した場合。
彼の質量=体重がたとえ五十キログラムであっても、原子爆弾いや水素爆弾を数千個以上も爆発した威力である。約六千五百万年前、中生代と新生代の境目に、直径約十キロメートルの隕石が、メキシコユカタン半島に衝突した。その衝撃により、恐竜やアンモナイトは絶滅したとされる。これは、生命誕生以来、何度か発生した大量絶滅の最新事件であるが、恐らく、それ以上のパワーがあるだろう。
この疑問を解明することも、命を賭した冒険の主な命題ではある。

さて、話を兵庫駅上空にふわふわ浮かぶ私に戻すと、何とかして上下前後に思い通り移動できないものかと、様々に試行錯誤をした結果、少しずつではあるが、どうにかコツを掴めるようになってきた。北方向の六甲山系に向かって移動すると、何分か後、行く手に、パンタグラフを架線に時々シヨートさせながら、ノロノロと進む緑色の路面電車と、停留所、軌道が見えてきた。薬局(店)の前にある停留所で、路面電車を待っている若い女性二人がいる。パーマをかけて、お揃いのロングの花柄ワンピーを着ている姿さえ、手に取るように見えた。全く同じような顔をしていたから、多分、双子だろう。
恐らく、神戸新開地に通じる商店街からであろう、パーシーフエイス楽団が奏でる「夏の日の恋」が聞こえてきた。音が割れていて、ザー、ザーと微かに雑音が混じる当時のラジオに、しばし、オールデイズの好きな私は聴き惚れた。
だが、長居は無用だ。先を急いでいるので、一挙に、明治時代まで移動した。もう辺りは闇に包まれていたが、眼下には煉瓦造二階建ての瀟洒≪しょうしゃ≫な洋館が、ぼんやり見えた。近づくと、二階で洋装した男女が、ビリヤードに興じており、横ではワインを飲みながら談笑している数人の姿を、窓越しに窺えた。
(あぁ、これが噂の中国詩経「鹿鳴の詩」に起源を持つ、来客を手厚く歓待する意味を表す言葉で、中井櫻洲が名付けた鹿鳴館だな)
以前調べたところによると、鹿鳴館は、三年を要して千八百八十三年(明治十六年)七月に落成した。設計にたずさわったのは、ジョサイア・コンドルであり、施工は大倉喜八郎と堀川利尚との共同出資で設立した組織である土木用達組だ。舞踏会にはあまり興味なぞないが、三島由紀夫氏が文学座に籍を置いていた時に、杉村春子のために書き下ろした戯曲「鹿鳴館」に感銘を受けた記憶があったので、二十分ほど見いっていた。
今までのわずかな経験でも、過去にタイムトラベルできる場所と時を特定できる能力を、ある程度身に付けることができたのは、大いなる収穫であった。今後の時間遡行が、ますます楽しみになってきた。
 明治時代にタイムトラベルしたのなら、実際に顔を見てみたい人達は大勢いた。以下のような人々である。
明治三十七年に日露戦争が始まると、第三軍司令官として旅順要塞の攻略を指揮したが、この時、二人の息子を戦いで失った。そして、名高い「山川草木転荒涼・十里風腥新戦場・征馬不前人不語・金州城外立斜陽」の詩を残し、終生敬愛した明治天皇の死に殉じ、妻静子とともに、東京赤坂にある私邸で自刃した、私が尊敬する人物である乃木希典≪のぎ まれすけ≫。初代内閣総理大臣で千九百九年、ハルピンで韓国人に暗殺された伊藤博文。廃藩置県を推進した岩倉具視、明治維新で、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される大久保利通。造幣頭、大蔵大輔(大臣)などを歴任した井上馨。私財をなげうってまで自由民権運動に身を捧げた板垣退助。
山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれ、大日本帝国陸海軍大元帥の天皇が、最高司令官として全権を統帥した海軍大輔≪かいぐんだいすけ≫を立派にこなし、亡くなる時に「コレデオシマイ 」と言った、ユーモアのセンスを持っていた勝 海舟。
そんな人達とひと目で良いからお会いしたかったが、時間的余裕がないので割愛した。
江戸末期から明治の初めにかけてはやった、多分、オッチョコチョイ節だと思われる歌が、どこかの料理屋より聞こえてきた。男のさびがきいた声で、
「猫じゃ、猫じゃとおっしいますが、猫が、猫が杖ついて絞りの浴衣でくるものか、オッチョコチョイノチョイ」
と、歌うのをとぎれとぎれに聴いただけにして、江戸時代までタイムトラベルした。

千七百三年十二月十四日、厳しい冷え込みが周囲を静寂にしている、満月のほぼ快晴の吉良屋敷上空約二十メートルにやってきた。赤穂浪士遺臣である大石内蔵助良雄以下赤穂浪士、四十七士の活躍をこの目で見たかったのである。曾我兄弟の仇討ち、伊賀越えの仇討ちと並んで「日本三大仇討ち」に数えられる。
吉良屋敷(現在の本所松坂町公園)に討ち入り、主君が殺害しようとして失敗した吉良上野介を、家人や警護の者もろとも殺害した一部始終を、私は、瞬き一つしないで最後まで見届けた。
鮮血が飛び散り、敵味方入り乱れ、鬼の形相で槍や刀を振り回す姿は、目をそらしたくなるほどであり、まさに地獄絵図だ。しかし、彼らの仇討の行く末を思うと、TVで観ているような気軽さはなく、むしろ、暗澹≪あんたん≫とした思いに駆られた。切腹なぞとても、とてもできないヤワーイ自分に、この時だけは、劣等感が重く覆いかぶさった。武士だったとは言え、果たして、これほどまでに一途になれるのだろうか?
(この時に、雪が降っていたというのは、『仮名手本忠臣蔵』の脚色である)
しかし、主君の仇打ちに加わらずに、刀を鍬に持ち替えて、細君、家来達の行く末を案じ、家を守った赤穂藩士こそ、勇気ある行動だと、称賛すべきではないだろうか? 卑怯者と馬鹿にされ続けた生涯を生き抜いた彼等こそが、私には、真の武士道精神を体現したと思うが、どうであろうか? 
暗いできごとを忘れようとして、千七百六年に跳んだ。
昼間のせいだろう、どこからか、三味線の音色とともに、新浄瑠璃や長唄が聞こえてきた。でも、音曲≪おんぎょく≫には興味はなく、尾形光琳作「紅白梅図屏風」、俵屋宗達作「風神雷神図」、「蓮池水禽図」、菱川師宣≪ひしかわもろのぶ≫作「見返り美人図」、「歌舞伎図屏風」、住吉具慶作「洛中洛外図巻」……などの名画を、心当たりを捜したが、全然お目にかかれなかった。どこに収蔵しているのだろう? 
仕方なく、うろうろ、江戸の町を浮かんでいた。すると、店先に多くの版画らしき絵があり、着物姿の若集や、かんざしを挿した女性が、黄色い声を出しながら群がっていた。繊細で優麗な描線を特徴とし、様々な姿態、表情をした女性美を追求した、美人画の大家である歌麿の作品だった。絵の心得も少しはある私は、傍で鑑賞させてもらったが、賞賛の域を遥かに超越した、素晴らしいできだ。思わず,感嘆の声が出てしまった。たとえ、大声で賛辞しても、誰一人、この時代に生存している人達の耳に届きはしないが……。
(誰にも、私のいることを知られないのも、少しわびしくなってきた)
元禄文化は、十七世紀終わり頃から十八世紀初頭にかけて、元禄時代(千六百八十八~千七百七年)を中心として、主に上方を中心に発展した文化で、江戸にまで拡散し、庶民的な面が色濃く現れているのが、その特色である。だが、その文化を担っていた層は、必ずしも町人ばかりでなく、武士階級の者も多い。

 元禄時代より更に、時代を過去に遡ることにした。
江戸時代の初期だろうか、定かな年号までは把握できないが、木戸が随所にあり、女性の姿がまばらで少ない。京都や大阪と違って、当時は発展途上の町であり、商人や職人の多くは単身で地方から出てきていた。成功すれば、郷里の妻子を呼ぼうとしたためであったのだろう。生活習慣が異なるために、喧嘩は絶えることがなく、治安状態も悪くて盗賊が多く横行し、富裕な商家から千両箱を運び去ると、口封じと証拠を隠滅するために、家人を殺すばかりでなく放火したのである。そう「火事と喧嘩は江戸の華」なのだ。
 猿と狸爺を中学校の社会の教科書でしか見ていなかった。だから、実際の顔を間近で対面しようとした。しかし、江戸城天守閣の上空にやってきて丸一日過ごしたが、豊臣秀吉、徳川家康のご尊顔は拝せなかった。
千五百九十年、江戸城は、豊臣秀吉の小田原攻めの際に開城したが、駿府(静岡)から転居した権大納言である徳川家康が、千五百九十年八月三十日に公式に入城し、居城とした。
仕方なく、天下分け目の戦いで知られる、千六百年十月二十一日に勃発した関ヶ原の戦いを、観戦することにした。これは、周知の通り、美濃国不破郡関ヶ原を主戦場とした野戦で、徳川家康の覇権を決定付けた戦いである。
私は、TV,映画に出てくるような、本格的に武術と学問を身に付け、刀を自由自在に使いこなせる偉い侍を見たくはなかった。戦に加わった大勢の人は、普段は農業に携わっているのだ。そういう人々に、視点を置いてみたかったのである。
そこで、ある一人の村人に密着した。手柄を立てれば、生活も必ずや良くなるだろうと言う甘い考えで、家法の甲冑≪かっちゅう≫を家族に協力してもらって着用し、勇ましい武将に変身した気持ちになって、戦に加わったようだ。が、敵味方入り混じった殺戮≪さつりく≫の現場を体感すると、彼は、歯の根も合わないほど恐ろしくなったのだろう。敵軍に背を向け、戦場から慌てて逃げようとした。
その刹那、背中に熱い激痛が走ったらしく、胸に装着していたが、ほとんど錆びてもろくなった鎧を突き抜けて、先が尖って血がベットリ付いた青竹を、カーと見開いた目で見た。ガクッと前向きに倒れ様に、今まで生きてきた中でも楽しい事ばかりが、走馬灯の如くつむった瞼に映ったようだ。まるで、東大寺の木像の弥勒如来像のように、柔和で優しい笑顔でほほえみ、無様にも、泥水に土下座をしている恰好で、絶命していた。
残酷だ、残酷過ぎる。戦にどんな大義名分があろうとも、私は、反対の立場をこれから先も堅持して行きたいと、改めて意識させる悲しいできごとであった。

 次に、タイムトラベルしたのは、戦国時代の千五百八十二年七月一日だ。
日本史上において最重要事件の一つで、天下人に最も近かった織田信長を、家臣であった明智光秀が、兵を一万三千率いて襲い、結果的に信長を自刃させた、京都山城国本能寺の変である。真っ赤に燃え上がったお寺には、半実体の身であっても暑くて近づけないが、ここからでも、信長の無念はひしひしと伝わってきた。光秀軍の中には、明智秀満、斎藤利三の姿も見えた。
現在でも定説はなく、光秀の恨みや野望が原因だとする説、光秀以外の首謀者がいたとする説もあり、日本史上において大きな謎でもある。しかし、黒幕は秀吉だと思うが、どうであろうか?
その根拠は、本能寺の変を機に秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていることだ。物証に欠くため学説としては定着していないが、「最終的に、最大の利益を手にした人物を疑え」という推理のセオリーに基づく考えだ。

 薄らと雪化粧をした写実的絵画のような、まだ建築して間がない金閣寺の前にある池、上空約二十メートルへやってきた。
池に映る、かすかに揺らぐ鹿苑寺金閣には、感動と宗教心を掻き立てられる。
ルネサンス以降の美術が、現実を有りのまま表現することを目指してきた、広義の写実主義と呼べる美しさだ。義満が、伝統的な寝殿造と禅宗仏殿を融合して建造させた、北山文化を代表する建築である。義政が建てた慈照寺銀閣は、禅宗仏殿に書院造を合わせた建築であり、慈照寺内東求堂は四畳半の座敷で、初期書院造と言われ、和風建築の原型になっている。が、鹿苑寺金閣ほど魅力はなく、魂を揺さぶられないのは、私だけであろうか? 
絵画では、筆のタッチが見事で、何度も何度も美術館に足を運び鑑賞した、私が惚れ込んだ雪舟が水墨画を完成させ、狩野元信が水墨画と大和絵の技法を融合させ、後に狩野派と呼ばれた。狩野永徳が渾身≪こんしん≫の魂を込めて描いた「唐獅子図」は、今にも二頭の獅子が出てきて暴れだしそうな迫力に、圧倒される名画だ。狩野派は、日本絵画史上最大の画派であり、この時代から江戸時代末期まで、画壇の中心にあった専門画家集団である。
室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その子孫は、織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍……などに絵師として仕えた。あらゆるジャンルの絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。

 今までいた室町時代から、いきなり鎌倉時代に進んでしまった。
私の能力が、一時的に狂ったらしい。半透明の思惟が、異常に巻き込まれたらしいのだ。めまいすら覚えた。でも、折角、鎌倉時代にやってきたのだから、この時代を楽しまなければという思いも捨てがたい。鎌倉文化は、私が愛する文化の一つである。特徴は、武士や庶民の新しい文化が以前からあった貴族文化と拮抗し、文化の二元性にあり、作風は、一般に素朴で質実である。
勅撰集には、新古今和歌集が有名で、随筆 では、徒然草、方丈記。軍記物語では、平家物語、保元物語、平治物語、源平盛衰記。
説話集 では、宇治拾遺物語、十訓抄、古今著聞集。……など数え上げれば、それこそ「夜になってしまう」
平安時代までの難解で、大衆に対して布教が禁じられていた仏教を変革する運動として、鎌倉新仏教の宗派が興隆した。鎌倉新仏教として代表的なのは、法然が説く浄土宗、親鸞が説く浄土真宗、栄西が説く臨済宗、道元が説く曹洞宗、日蓮が説く日蓮宗等だ。
どうしてもすっきりしないのは、弟子・唯円が、親鸞の教えを記録した書である「歎異抄」にある一文である。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という文章だ。
 これは、浄土真宗の教義の中で、重要な意味を持つ思想で、悪人正機説として良く知られている。つまり、仏が救済するのは、「悪人」なのである。どうして、普通の人間である善人より、悪行をして、反省し、悔いている悪人が救われるのか、私には理解しがたい。まだまだ、精神修行が足りないのかなぁ。
ともあれ、私の意識は、再度、室町時代を目指しタイムトラベルを続け、やっと目的の時代らしき空間にたどり着いた。いかにして浦島太郎に会い、彼に同化して竜宮城に行くかが、最大の課題であり、私に課せられた頭脳の試練でもある。当時、海亀が多く産卵に集まる丹後の細かな場所は、当然諸資料を解読し、頭脳に刻み込んではいるが……。

ここでもう一度、伝説のおさらいをすれば,何らかのヒントを見つけることが、可能かもしれないと考え、雑念を払拭し純粋な瞑想に入ることにした。御伽草子以降、中世の伝説では、漁師をして両親を養っていた二十四,五歳の浦島太郎が、大きな亀を釣り上げた。彼は、「亀は万年生きるのに、この恩を忘れじ」と言って、海に逃がしてやる。すると、幾日かの後、女人が舟で彼を迎えにきて、姫が礼をしたい旨を伝え、ともに宮殿に行き、ここで三年にわたり豪華極まりない歓待を受ける。
でも、両親のことが心配になり「故郷へ帰りたいと」言うと、乙姫様からお土産にと玉手箱をいただき、元の浜に返してもらった。だが、村はすでに消滅しており,近くをさすらった彼が目にしたもの、それは両親と彼自身の墓であり、大いに落胆した彼は、「開けてはいけませぬ」と何度も言われた玉手箱を開けると、美しい鶴に変身し大空高く、飛び去る。
この時代に、アクアラングの装備があるはずもない。まして、突然、太郎が魚類のように、エラ呼吸を会得できたとは、信じ難い。
この伝説を信じるなら、鎌倉幕府の世から室町、戦国を経て、安土桃山時代に至る長い歴史における一時点を、特定せねばならぬという難題に、突き当たってしまう。
熟考を重ねた末、一つの結論に達した。それは、私が考え抜いた自身勝手で、はかない一縷≪いちる≫の希望だろう。そうかもしれないが、行動する価値は十分あるはずだ。
つまり、比較的平穏な室町時代の浜辺で、浦島太郎と同じような慈悲溢れる行いを、亀にするのはどうであろうか? 半透明な私を、果たして亀の脳に認識できるのかは、大きな賭けではあるだろうが……。
だが、一か八か試みることにし、丹後地方の浜風と砂から守る松林がある民家の近くにひそんだ。誰の姿も見当たらない。砂浜に乗り上げてある小舟の陰で、眼を皿にして亀を探した。その日は夕闇が月に照らされて,青白くなって遠くまで見渡せた。時間が経過して、代わって朝日が真っ青な地平線に顔をだすまで粘ったが、徒労に終わった。
だが、諦めることなく、同じ行為を二ヶ月ほど辛抱した、ある満月の夜だった。産卵の大仕事で、砂浜に上陸してきた亀の一群を見つけた。さり気なく近づくと、百個ほど産卵した後、砂を掛けてもと通りの状態にしようとして、もがき苦しんでいる雌亀を見つけた。さらに、近寄って見ると、後ろ足から多量の鮮血を滴らせていて、かなり深い傷を負っているらしい。私は、思わず憐憫≪れんびん≫の情に駆られた。果たして、思念だけの私が、治療できるかどうか全く自信はなかったが、念を集中し超能力を使ってパワーを送ると、徐々に傷は癒え、雌亀は安心した様子で、海に帰って行ったのである。
私が行った行動には、一片の打算すらなかった。
純粋に雌亀を助けたかっただけである。

その後一月ほど、そこの砂浜で、竹や棒切れで亀をいじめる子供達が現れないか、首を長くして待っていた。しかし、残念ながら、そのような子供達は現れなかった。私は、肩を落として溜息ばかりついていた。
しかし、突然、誰もいない黄昏の浜から、薄茶色をした亀が、私の前までやって来て、
「どうぞ私の後からいらして下さい。女王様が、ぜひともお礼をしたく申されておりますので!」と透き通る声が、脳に直接聞こえた。理由は全く分からないが、この時には、私は半透明でな
く実存していたのだ。私が実在すれば、歴史に干渉することになって、未来を変更することにな
る。だが、竜宮城に到達できれば、私にとって、未来が変わってしまうのは、どうでも良かった
のだ。
私は、何の疑いもなく、まるで軽い催眠術にかけられたような気分になって、海面が二つに割れ
た道を、大量の汗を吹き出させ、ハアハア言いながら走って二、三十キロメートルほど行った。すると、前方に、緑の木々に覆われた島らしきものが、ぼんやりと視界に入った。
これは、エジプトで奴隷としてしいたげられていたユダヤ人を、モーセが率いて脱出し、軍が追いかけてくるが、奇跡が起こって二つに海が割れ、モーセと一行は向こう岸へ着くが、追ってきた軍隊は、海が元に戻って呑み込まれる「出エジプト記」と酷似している。私が、シナイ山で、神が山上に現れ、十戒を受け、さらに神はヘブライ人と契約を交わしたモーセになったような気さえした。
モーセに示された十戒とは、
1.  主が唯一の神であること
2. 偶像を作ってはならないこと
3. 神の名を徒らに取り上げてはならないこと
4. 安息日を守ること
5. 父母を敬うこと
6. 殺人をしてはいけないこと
7. 姦淫をしてはいけないこと
8. 盗んではいけないこと
9. 偽証してはいけないこと
10. 隣人の家をむさぼってはいけないこと 
である。
(沖縄に伝わる話に少しだけ、似ているなあ)
と、思いつつ、島の開けた場所に着くと、琉球王朝時代に存在したような、赤を多用した派手な竜宮城らしいレンガ造りの建物に案内された。中に入ると、僅かばかりの革製胸当てをして、チョービキニで腰を隠し、美しく日焼けをしている、見事に整列した大勢の若い美女達に、盛大な拍手を持って迎えられた。
気恥ずかしい思いがしたが、ギリシャ神話に登場する、狩猟の女神アルテミスを信仰し、女性達だけで生活するアマゾネスの国にきたような、錯覚に陥った。馬を飼い慣らし、弓術を得意とする女性のみで構成された狩猟民族であり、騎馬民族に間違いない。南アメリカのアマゾン川流域に、女性だけの部族がいたという伝説があることから、そう名付けられた。
ドンドンと高鳴る胸を感じながら、恐る恐る美女達に近づくと、弓矢を持ったとりわけ美しい女性が馬から降りて、私の手に口づけをした。それが合図であったのだろう。何千、何万もいる女性の口から、聞いたこともない叫びとも、雄叫びとも分からない、多分、ギリシャ語の合唱が、長い間、響き渡った。
雰囲気から察すると、どうやら、私は大いに歓迎されていて、これから先もこの桃源郷に長く滞在できそうである。私の手に口づけをした女性は、この国を治める女王で、アフロヂーテと名乗った。どこかで聞いた名だった。ギリシャ神話に出てくる神の名を、アから順に頭の中で思い出してみた。アイテール、アスクレーピオス、アプロディーテー、アポローン、アルテミス、アレース、アテーナー、ウーラノス、エーオース、エロース、エレボス、オネイロス……など。
そうか、アプロディーテーをもじった名なのか? 
ともあれ、早速、女王に手を引かれて高い門の中へと案内され、カラフルなペルシャ絨毯を敷いている大広間にやってきた。一段高い五十帖位の場所には、虎の皮を一面に敷き詰めていた。夜光貝やアワビの真珠質部分を砥石で磨き、貝の部分が青や白に美しく光る螺鈿細工≪らでんざいく≫できたテーブルに……中央には酒、調理されたばかりで湯気がうっすら立ち上っている牛肉、魚類や色とりどりの果物が、綺麗に盛り付けられていた。中央には、一頭の雄ライオンの皮で覆われた、豪華な肘掛椅子が置かれていた。
この島に案内してくれた亀は、流暢な日本語を話したので、てっきり日本語が通じるだろうと思ったが、英語しか通じない。私が知っている古代ギリシャ語を話すが全く通ぜず、この島も英語圏らしい。なぜ、日本にこんな島が存在するのだろう?
黙って暫く考えたが、結論は出ないので諦めた。人間、諦めも肝心な場合だってある。

礼儀なのか、女王は片膝を折り、私に座るよう丁重に勧めた。
私の右横に女王が座り、左横には彼女の娘が座ったが、子細に観察しても、同じ年齢にしか見えない。ここは、謎ばかりだ。質問が山ほどあったが、来た早々なので失礼かなと思い、黙ってぼんやりとしていた。
すると、目の前に、三十名ほどのターキッシュ・ベリーダンサー達が現れ、肌を露わにした衣装で、腰より高い位置で留められたベルトに、脚を完全に露出させるようなスリットが入ったスカートを、身にまとっていて、ハイヒールとプラットフォーム・シューズ(厚底靴)を履いている。
その踊りは官能的であり、妖艶さが、辺りの空気をショッキングピンクに染め上げた。私は、充分過ぎるほど、目の保養をさせてもらった。

一週間ほど、そんな生活に甘んじてきたが、私の頭脳一杯に多くの疑問が噴出しだし、矢も盾もたまらず解答を求め出した。
生まれながらの旺盛な知識欲が、飽食を凌いだのである。
女王に質問を次々に投げかけたが、回答は明確で納得できることばかりである。以下は、私と女王との問答である。
「この時代に、皆さんはどのようにして、きたのですか?」
と、尋ねると、女王は遠くを見る目つきになって、
「空間で、見る見る大きく成長した緑に輝く渦巻が、私達を含め大地もろとも、時代と、場所を移動させたの。多分、異次元にタイムスリップしたのよ。だから、今ある生活スタイルの全ては昔のままよ」
「でも、タイムスリップの知識は、貴女がいた時代にはなかった、はずですが?」
にっこりと笑いながら優しく、女王は言った。
「吉水様、ご覧になったかどうか存じませんが、ここでは、未来に、アメリカで飛躍的に開発されるはずのネットワークが存在します。二十三世紀のハイテクですわ。ここには、エリートを育てる養成学校があります。未来と交信可能ですわ。貴方様がいらした時代では、宇宙からの微弱な電波だと、思われているようですが……」
「なるほど。で、この島の大きさはどれぐらいですか? しかも、誰にも見つからない訳は?」
「一般の人々には、この島は存在していないのよ。つまり、空想の中だけの存在。五次元に存在するの。縦、横、高さ、時間の四次元時空連続体より一次元多い世界なの!」
「単純な質問なのですが、どうして若い美女達ばかりなのですか? 貴女を筆頭に!」
すると、女王は少し歩いて、風光明美な山で滔々と岩をかみながら、流れ落ちる滝へと導き、滝壺の水をひとすくい、私の口に含ませた。
飲んでみると、途端に、体中が活性化され若返ったようで、自信と体力が満ち溢れてきた。
「これが、秘密を解くカギよ。ウフフフ」
笑った声は、まるで鈴を鳴らしたかのように、私の心に沁み渡った。
さらに、大きな疑問を口に出した。
「私は、思念だけの存在なのに、ここでは、このように肉体を得られるのは、納得ができないのですが?」
「貴方には疑問だらけでしようね。出来るだけお答えするわ。ここでは、思惟が実存に先立つの。
つまり、肉体は思いの後に形作られるの。貴方様が肉体を望んだ結果なのよ!」
私は、女王の的確な答えに、関心ばかりしていた。
目前に置かれたご馳走に舌鼓を打ちながら、色鮮やかな花で編まれたレイをしたダンサー達が、ヒョウタンや、イリイリと呼ばれる石のカスタネットや、竹を使ったカラーアウと呼ばれる棒で、リズムをとったりするフラダンスを、時々鑑賞した。
私は、怖々、最大の疑問を投げかける決心をした。
「ここはどこですか? 私が住んでいた地球とは、どのような位置関係にあるのでしょうか?」
女王は、一瞬悲しそうな眼をして私を見つめ、次のような衝撃的事実を述べた。
「貴方様は、歴史は一直線に経過しているから、歴史に関わらないようアウトサイダーとして、思惟だけで、貴方様の世界の室町時代に、ここにこられたと、おっしゃいましたわね。でも、この世界とは全く異なっているの。貴方様は、宇宙物理学に精通していると、お伺いしましたので、よくお分かりだと思いますが。
この宇宙は、正物質つまり陽子や電子などで構成されていますが、反陽子や電子等の反物質も存在しています。物質の不均衡は、今を去る百三十七億年前のビッグバンで、正物質と反物質が、ほぼ同数出現したのよ。それらの間に、微妙なゆらぎがあり、正物質の方がわずかに多かった。だから、現在の宇宙は、全て正物質で構成されている、そう貴方は信じておられるようです。
でも、ビッグバンで、様々な宇宙が、泡のように生まれたの。その一つがこの世界よ。この世界は、全て反物質で構成されています。貴方様が住んでいらした世界とは、根本から異なった世界なの。思惟だけで、時間遡及されたこの世界は、貴方様の世界に酷似した一種のパラレルワールドなの。どの瞬間で、歴史を変えようとされても、貴方様が暮らしていらした世界には、一切影響しないわ!」
「ということは、この世界でどのような行動をとろうとも、元いた世界に変化はないし、無事に私が、地球に帰ることが可能ですね?」
「もちろんですわ。どうぞご心配なさらないで、存分にお楽しみ下さいませ!」
「でも、どうして、私をここに招いたのですか? ここの広さは? 文明の程度は、どれぐらい進んでいますか? 先日、滝を見せていただいたのですが、科学の進歩はどれぐらいでしょうか? 皆様は、何歳まで生を全うし、そのよって立つ哲学は?」
と、納得できない疑問を、矢継ぎ早に投げかけた。
「質問が沢山おありなのですね。知的好奇心に溢れておられる、お顔をされていらっしゃるわ。まだまだ、ご質問がおありでしょうけれど、取りあえず、今までのご質問にお答えします。まだ、ご案内しておりませんが、異次元の動向を計測しています。言葉が悪いかもしれませんが、お気になさらないでね。私達は、様々な知的生命体を捜し続けています。その時に、貴方様の思念を発見し、皆で検討した結果、ここに誘導したのでございます。この世界の広さですが、三次元的には、カリフォルニア州と同じ面積です。でも、五次元的には、無限の広がりを持っています。私達が、開発しています宇宙電磁波探査装置でも、果ては観測できないの。当然、貴方様の世界でいうビッグバン以前の宇宙を、研究しております。私達の生命は、ある意味では永遠ですわ。細胞から遺伝子を取り出し、すでに、全てのDNAは解析済みで、百年毎に、高度な遺伝子組み換えを行い、永久≪とわ≫の生を獲得しています。最後のご質問ですが、私達が拠り所にしています、思想、哲学に触れます。貴方様の世界で比較的近い思想は、ヘレニズム時代に成立した、禁欲的な思想と態度を旨としたストア派でしょう。自分達が、善い生き方である、と考えた生き方を実践するの。堕落は澄んだ心まで、宇宙の底知れない奈落に陥れますわ。ソクラテスが言ったとされる、『ただ生きるのではなく、より善く、生きる』のです。また、私達の世界では、主知主義を遵守していますから、『徳即ち知』なの。要約すれば、このような思想の上に、私達は生を享受しています!」
私の疑問は、この説明で全てが氷解した。

この世界にも階層があったが、インドのようなカースト制ではなく、女王を頂点とした三層構造であり、テクニーク、キャッスル・ブリーディングが、下の層であるらしい。
テクニークは、最先端科学技術を駆使し、未だ解き明かされていない、宇宙等を研究解明することが使命であり、嬉々として、約八千人が携わっている。エネルギーは、無限に存在する空気中の水素と酸素からの化学反応を使い、エナジー蔵に貯蔵している。
キャッスル・ブリーディングは、その名の通り、食に資する、牛、馬、豚、鶏……などを育成している。牧畜と四百種あまりの魚や魚介類の養殖を営んでいる。野菜類等の食料は、天候に左右されない有機工場生産方式を採用している。公害なんて、お目にかかりたくても、ここには存在しないのだ。
当然、彼女達一万五千人が、料理も作る。皆の眼は、生き生きしている。職としてではなく、趣味の世界をそこに見出しており、不満はないのだ。
まさに、竜宮城を遥かにしのぐ、ユートピアそのものである。竜宮城を目指したちっぽけな自分に、気恥ずかしさを大いに感じた。後の何年間かは、美女達に囲まれ、この世界を探検して、様々な収穫を手に入れた。私は、無我夢中で知識を吸収し、心から、ここの生活を楽しんだ。肉体が存在するにもかかわらず、私を苦しめていた性的欲求が生じないのは、この世界にいるせいだろう。
 しかし、持って生まれた人としての性≪さが≫は、悲しく、はかない。美しく日焼けした若い美女達の、身にあまるほど、光栄な歓待を受けた桃源郷以上の異界に、しばし年月の経過を忘れていた。積年の思いを遂げた幸福感と達成感に、酔い痴れていたのだ。
人間固有の宿命であろうか? 幸福の絶頂に長くいればいるほど、飽きも早く訪れたのだった。幸福と飽が入れ替わるのは、時間の問題であった。
私も、この呪縛から逃れることは、到底できなかったのだ。二十一世紀にいた、実存の自分に帰りたい願望が、日を追う毎に膨れ上がった。筆舌に尽くし難いほどの美貌の持ち主。柔和な人柄の首長である女王に、どうしても、その旨を伝えざるをえなかった。
彼女は、真珠のように輝きと気品ある、大粒の涙を流した。衣装で拭いもせず、落ちるに任せ、まるで、可愛い宝石の塊を床に転がしたような、小さくて、はかない湖を創り出すほど、悲しんだ。もしも演技であるなら、また、現代にいれば、きっと、四回の最多受賞者キャサリン・ヘプバーンをもしのぐアカデミー主演女優賞を獲得しているだろう。
お土産にと、おずおずと、彼女が差し出したのは――狩野永徳の唐獅子図のような力強いタッチで、獅子が二頭描かれた漆塗りされた箱であり、「開けぬほうが貴方様の失望を招かないでしょう」と、意味深な言葉とともに手渡された。そう、玉手箱(?)である。
四ケタの数字を合わせるカギが付いていたので、尋ねると、
「当然、四四四四ですわ!」
と、いう返事が即座に返ってきた。

全員に惜しまれつつ異界を後にし、二十一世紀に向かって浮遊を続けながらも、玉手箱を開けたい欲求は増すばかりだ。
江戸時代の上空らしく、眼下には、禿(かむろ、花魁の世話をする少女)、番頭新造(花魁のマネージャー)を連れて、引手茶屋まで練り歩いている、三年以上訓練を要したであろう八の字で優雅に歩く花魁≪おいらん≫道中を見ながら、辛抱の限界に来た自分を、あれこれ理屈を並べて正当化しながら、半実体である玉手箱を、とうとう開けてしまった。
その中には、ギリシャ語で「汝何も知らぬことを知れ」と、ソクラテスの言葉を書いていた。
(実際は、弟子プラトーが後世に伝え残した)
なぜか、時代遅れの白い粘土版とともに、四角いスクリーンのような、手鏡が入っている。
約、縦二十センチメートル、横五十センチメートルの変な形の手鏡だ。細かく観察したが、何も異常は見つからなかった。
透明に近い思念の私が、同じく透明の手鏡に映らない現象は、至極当然ではあろう。

四十~五十年ごとに、何度も何度も未来へと進みながら、やっと、退職届を書いている、一LDKに実在している自分自身を見た時、一体化できれば、ホット胸をなでおろすだろうという思いと、自分自身から離脱して、過去で様々な経験をしてきた私の記憶が、果たして保たれるのかという危惧に、十分ほど逡巡していた。
意を決し、自分と一体化することにし、恐る恐る実行してみると、意外にも、アッサリと元の自分に帰ることができたのだ。私には、記憶を二重に持つことになったが、左手には、あの玉手箱が、即自存在――サルトルにとって即自存在とは物それ自体――として、存在を許されていたので、早速ふたを開け、中にある奇妙な手鏡を覗いた瞬間、嘔吐を催し、狭いバスルーム兼トイレに慌てて駆け込んだ。
サルトルは、ノーベル賞受賞者のアルベルト・シュバイツァーの叔父に引き取られ、学問的探究心を刺激された。後に、ボーボワールを事実上の妻にし、実存哲学者として活躍したサルトルが、千九百三十八年に上梓した「嘔吐」における主人公ロカンタンが、確か、木の根を見た時と同じ光景ではないだろうか? 
十歳の時、神戸の元町商店街にある書店二階の原書コーナーに足繁く通った。本当は、彼の「存在と無」を読みたかったのだ。が、只読みの身では、余りにも分厚過ぎるため「嘔吐」を読んだ。当然、大学に入ると直ぐに「存在と無」を読み、とても感動した。同時期に、サルトルが説いた実存哲学に影響を与えた、フッサールを始め、幾多の著者の書物を貪り読んだ。

話を玉手箱に戻すと、今まで気付かなかったが、持ち手の部分に小さいキーボードがある。
鏡の真ん中には、「パスワード?」の表示が出ており、まるでミニノートパソコンである。心当たりの名詞、浦島太郎、女王、パラレルワールド、反物質、ビッグバン、竜宮城等の文字を、ひらがな、全角、半角カタカナ、全角、半角英数、言葉の並び替え等、いろいろと試みたが、拒否された。ダメ元だと思いつつも、ヨシズミ オガワ、と私の氏名を入力すると、画面に使用許諾の欄が現れ、イエスをクリックした。すると、何かのアプリケーションのダウンロード、インストールが始まった。画面には、まるで血のような深紅の帯が四本、往来し出した。数分後には、鏡面が液晶パネルに変わり、映像の乱れとかすかな雑音が聴こえた後、明瞭な映像と音声が流れ出した。
私は,めまいと脳震盪≪のうしんとう≫を起こしそうになるほどのショックに、全身が打ち震え、嗚咽≪おえつ≫しそうになった。信じられない、いや、信じたくない事実を知ってしまったのだ。
お世辞にも、美人とは言えない二十~二十五歳の女性が、無造作にタオルに包み、汚れて毛羽立ったロープで動かぬように縛り上げた、垢にまみれた二歳ぐらいの幼児を、まるで品物のように小脇に抱えている。
彼女は、私の良く見慣れた門をくぐり、三和土≪たたき≫で、先に穴が開いた埃まみれの長靴を脱いだ。大根も逃げ出すような、太くて毛深い脚を素足のままで、狭い六畳ほどの部屋に、誰からも案内もなく中に入る。施設長に、ボサボサの頭で軽く会釈をすると、以前から打ち合わせをしていたらしく、親しそうに二言、三言話し、直ぐにだらしなく座った。
垢で薄汚れた幼児を差し出すと、施設長は、彼には全く似合わない、パリ・コレでオートクチュールを手掛け、マイアミでゲイに射殺されたジャンニ・ヴェルサーチが、デザインした黒い小形ポーチのチャックを開ける。そして、素早く幼児の口から、何やら薄いオレンジ色の物体(?)を取り出し、ヴェルサーチマークをチラつかせながら、大事そうにしまい込んだ。
私の母らしき女性が、
「この子の魂と引き換えに、わたしの人生は薔薇色に輝くのね」
と、四度も繰り返し、死に神に念を押すかのように、独り言をつぶやいた。
ここで、映像と音は消えたばかりか、ミニノートパソコン自体も、跡形すらなく雲散霧消して、私を慌てさせた。もっと、続きを見たかったからである。しばらく、胸の動悸は治まらなかったが、沈着冷静な自分を取り戻して考えると、もしも、液晶画面が真実を映しているなら、ここにいる私は、存在していないか、あるいは、偽の自分なのだろうか? つまり、二歳の時から、はかない夢の世界を――本当の世界と思って、暮らしてきただけに過ぎないのだろうか?
異次元にいた女王が、どんなに言おうとも、揺るがない私の歴史観に従えば、過去のある時点で消滅した事象は、永久に復元出来ない。何か異変が起きそうな気配が、私の全身を包んだ。
思い返せば、二歳以降、神童として生きてきた順風満帆過ぎる半生は、私には身に余る光栄である。何らの頓挫も経験しない生は、虚像の世界を生きる骸≪むくろ≫に違いないだろう。徐々に薄れゆく意識を何とか、覚醒させながら考えたのは、
「何の目的があって,様々な経験をさせたのであろうか? 今後の私は、天国に召されるのか? あるいは、地獄へと堕ちてゆくのか? はたまた、宇宙の塵,あるいは、分子、原子、電子、核へと分解され、永遠に宇宙を彷徨し続ける運命なのだろうか?」
と、言う疑問である。この答えを知るのは、私が今まで信仰してきた神様ではない。
巨大で稲妻の如き輝きを放つ鋭利な大鎌を持ち、ボロボロの薄汚れたローブを着て、白骨化している、施設長を装った死に神に違いないだろう……。



――完――

  

竜宮城に行った男

竜宮城に行った男

私の母らしき女性が、 「この子の魂と引き換えに、わたしの人生は薔薇色に輝くのね」 と、四度も繰り返し、死に神に念を押すかのように、独り言をつぶやいた。 ここで、映像と音は消えたばかりか、ミニノートパソコン自体も、跡形すらなく雲散霧消して、私を慌てさせた。もっと、続きを見たかったからである。しばらく、胸の動悸は治まらなかったが、沈着冷静な自分を取り戻して考えると、もしも、液晶画面が真実を映しているなら、ここにいる私は、存在していないか、あるいは、偽の自分なのだろうか? つまり、二歳の時から、はかない夢の世界を――本当の世界と思って、暮らしてきただけに過ぎないのだろうか? 異次元にいた女王が、どんなに言おうとも、揺るがない私の歴史観に従えば、過去のある時点で消滅した事象は、永久に復元出来ない。何か異変が起きそうな気配が、私の全身を包んだ。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
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  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-22

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