シューティング・ハート ~彼は誰時(カワタレトキ)~Ⅲ

1.


「よう、雛鳥。元気そうだな。万里子はどこだ」
 咲久耶市の東南、保照里区にある天光寺高校の香取省吾は、二浦克己と柱谷龍市を従えて現れた。
 鷹千穂学園高等部の専門棟三階の端、日差しのよく入る明るい部屋に、ベーゼンドルファーとピンクを基調としたロココ調ソファが置かれている。
 鳥井雛子は、お茶の用意の手を止めて、笑顔で挨拶を返す。
「香取様、お久しぶりにございます。万里子様は今、体育館へ行かれました。今日も、バスケット部に差し入れだそうです」
 いつもの長ソファの中央に座りながら、香取は思案顔を見せた。その後ろに二浦が控え、数歩離れて柱谷がソファの横に立った。
「バスケ部・・・か」
「はい。でも、すぐ戻って来られると思います。お待ち願えますか」
 増えた人数を考えながら、雛鳥が焼き菓子を数えながら答えると、
「そうだな。しかし、俺も忙しいのでね」
 香取は意地悪くニヤリと笑った。
「二浦、お前ちょっと体育館まで万里子を呼びに行って来いや」
「はい?」
 香取の後ろで、二浦が固まる。
 即座に柱谷が香取の横から身を乗り出した。
「総長、俺が行きますよ。二浦はここで総長の番をしてろよ」
 明るくはっきりとした口調が、多少騒々しい。
 香取が制するような流し目で、腕を組む。
「柱谷、お前が行くと寄り道ばかりで、万里子を呼んで来るどころか、片っ端から女生徒に声をかけて迷惑だ。大人しくそこにいろ」
 立て板に水式でサラリと言い、今度は後ろを振り返って二浦を見た。
「二浦、行って来い」
 雛鳥が手を止めて香取を窺う。
 二浦はその意図を察しながら、総長の命令に従った。


 まったく、ミエミエなんだよな、総長は・・・。
 心の中でため息をつきながらサロンを出た二浦は、気まずそうに頬をかき、廊下をすれ違う鷹千穂生徒に軽く会釈を返しながら進む。
「他校の校内は歩きずれぇぞ」
 漆黒の学ランは、濃茶の制服の鷹千穂の中では、目立つ。
 香取の後ろを歩いている時はそれほど気にもしないが、すれ違う生徒が好奇の目で見つめて去る。
 もちろん他校生だからということもあるだろうが、二浦の容姿も加味されるだろう。
 決して突出して美形という訳ではなく、また香取を筆頭に大柄な猛者揃いの中にあっては、どちらかと言えば小柄で細身である。
 だが、スッキリとした立ち姿だ。姿勢が良く、程よく筋肉がつき、学ランと革靴はよく手入れされており、清潔感がある。
 特筆すべきはその目元かもしれない。
 額にかからないように前髪をセットしているため、くっきりと引かれた眉と黒目がちな瞳が際立つ。それが厳しいものではなく、柔らかく優しいものに見えるのは、彼の性格からくるものだろう。
 咲久耶市の南東、保照里区を拠点に番長連合などというものを統べる香取省吾の側にあって、手足となって動く者達の中では、二浦は物静かで目立たない。だが、その存在は重宝がられている。
 香取も、こうして他校へ出向く時などは、二浦を同行させることが多かった。
 二浦は専門棟を出ると、体育館の方角へ向かう林の小道を目指す。
 体育館までは、豊かに繁る林を抜ける。幾つかある小道の中、一番近い小道を選んだ。
 その道は、少し鬱蒼としている。木漏れ日が心地よく、反面あまり人気はない。
 足元に繁る草木を見ながら、二浦は歩を進めた。
 先程の香取の笑いを思い出すと、ため息しか出ない。
 本当は俺が、愛美を見つける『偶然』を狙ってるんだよな。おせっかいな人だ。
 成瀬愛美の名前は、時折、香取省吾の口から出る。
 玄幽会に捕らわれていた時の愛美の話を、香取はよく周囲にしていた。香取自身、特に気に入っているようだ。
 二浦にとって、初めてだった。
 女の子が心配してくれたことも、女の子の心配をしたことも――。
 しかし残ったのは、片想いという言葉だけだ。
「そう簡単に『偶然』が落ちてりゃ、苦労しないんだけどな」
 林の中の小道をその先の体育館に向かって進みながら、ふと木立の向こう側を見ると、『偶然』が落ちていた。
 体育館の手前、林が終わる間際の陽が差し込む場所で、成瀬愛美が何やら思案げに木の上を見つめている。
 相変わらず一生懸命な横顔を、二浦はしばらく黙って見つめていた。
 何度か手を伸ばし、時に跳ぼうとしているが、間尺に合わないらしい。見ると、高い場所の枝に、タオルが引っ掛かっている。
「あれか」
 確かに、愛美の背丈では、まったくかすりもしないだろう。女子の中でも小さな方だ。
 二浦が背伸びをしても難しいだろうか。二浦も、愛美と並べば相応の身長差があるが、突出して背は高くない。
 暫し、その光景を眺めながら、二浦は思案した。


「香取様、まさか二浦様に、介三郎様と愛美様の仲を裂かせるようなことをお考えなのですか」
 二浦が出て行った後、香取の様子を黙って見ていた雛鳥が、咎めるように言った。
 珍しく表情が険しい。
 呼吸器に疾患がある為、声量は抑え気味だが、そんな中にも芯のような強さはある。
 香取に向かっても、決して怯むことはない。
 香取はその表情を正面に受けて、悠然とソファに背を預けた。
「俺はそんなこと、思ってもねぇぞ」
「しかし――」
 重ねて反論しようとする雛鳥を軽く手の平で制し、香取は傍で唖然としている柱谷を見た。
「お前、ちょっと何処か行って来い」
 言われて、柱谷は目を丸くする。
「え、どうしたんですか、総長。さっき行くなって言ったじゃないですか――」
 慌てて前のめりになると、出すぎた頭を大きな手で押さえられた。
「お前も、たまには気を利かせるということを覚えろ。行け」
 柱谷は、生返事で肩をすくめると、そそくさとサロンを出た。
 背後で扉が閉まる音を確かめて、香取の表情が微かに憂いを帯びる。
「まぁ、聞け。雛鳥。俺は愛美が可愛い。平凡な女だが、どんな悪意にでも正面から向かっていくエネルギーを持っている。万里子や『魔女』が大切にしている速水の傍にいる理由がわかる」
 玄幽会に囚われた際、愛美が決して屈しなかったことを、香取は見ていた。
「二浦もまた、真っ正直で我欲に囚われない男だ。そんな二浦が、初めて欲しいと思った女だ」
「・・・」
「もし、速水介三郎が堅気なら文句は言わねぇ。だが今のところ、どうなるかわからないだろう。そういうところが速水にはあるんだ。愛美に影の世界は似合わねぇんだ。二浦と同じで・・・な」
 香取がどれほど愛美を可愛がっているかは、雛鳥にも分かっている。
 だが・・・。
 雛鳥は、どうしても黙ってはいられなかった。
「しかし」
 なおも言いかけた表情を見て、香取が驚いたように眉根を上げた。
「どうした、雛鳥。お前はいつから、そんなにギスギスした女になったんだ」
 香取の知っている雛鳥は、決して弱くはないが、これほど余裕のない表情を見せることはなかった。
「俺はな、雛鳥。俺の言っていることを、何もかもそのまま受け入れろと言っている訳じゃない。二浦と愛美がそれぞれ考えることだ」
 誤解がないようにと、念を押すように付け加えた香取が、何かを感じ取るように雛鳥を見た。
「だが、俺の知っている雛鳥は、他人の気持ちを縛るような女じゃなかったぞ」
「そんな――」
「それとも、誰か、縛りたい奴でもできたのか」
 香取の一言で、雛鳥が表情を凍らせた。
 思わぬ反応に言い過ぎたと思ったのか、香取も言葉を切り、神妙な面持ちで腕を組み、瞑想でもするかのように目を閉じた。

2.


「どうして、二浦さんがここにいるの」
 いきなり身体が浮いて驚いた愛美は、自分の視線よりも下にある笑顔に驚き、二浦の右肩に乗っていることにまた驚いた。
「これなら、届くだろ」
 二浦は笑って、愛美を見上げた。
 細身といっても、さすがに腕に覚えがあるだけのことはある。難なく愛美を肩に乗せて、ふらつくことはない。
「私、重いんですけど」
 視界の高さと浮遊感に戸惑いながらそう呟く愛美に、枝にかかるタオルを示した。
「軽いよ、充分。それより早くタオルを取れよ」
「え、でも」
「俺が手を伸ばしても無理そうだったからさ、これなら届くだろ。大丈夫、落っことしゃしないから」
 満面笑顔でそう言われ、愛美は顔を赤らめながら手を伸ばしてタオルを取った。
 それを確認し、怖がらせないようにゆっくりと身体をかがめ、大事そうに愛美を地面に下ろす。
 林の中の鳥のさえずりが、やけに大きく聞こえた。
 間近に見下ろす愛美の恥ずかしそうな顔を見て、二浦が照れ臭そうに一歩身体を引いた。
「いきなり触れて、悪かったよ。困ってるようだったから、つい手が出ちまった。速水なら、難無く届くんだろうけどな」
 二浦から見てもかなり高い位置にある間延びした顔を思い出しながらそう言うと、愛美はタオルを握りしめたまま笑顔で顔を上げた。
 まだ頬は赤く、眩しそうに二浦を見上げる。
「ううん、助かったもの。ありがとう」
「速水は、元気?」
「うん、部活と生徒会で忙しくしてる。もうすぐ文化祭だから、その準備もあるし」
「そっか、じゃ、愛美も忙しいね」
 愛美は、生徒会書記だ。
「そうでもないわ。二浦さんは、何か変わったことあった?」
 真っ直ぐ見つめられ、そう問われて、一瞬まったく別の言葉を言おうとして、――二浦は苦笑して俯いた。
「ないよ」


 言葉が見当たらず、ただ向かい合って俯き合っている二人に、体育館の扉が開く音が聞こえた。
 汗をかいた顔をタオルで拭きながら、介三郎が体育館から出て来た。中々戻らない愛美が気になって出てきたというところか。
 二浦の姿を見て破顔し、大きなストライドで近づいた。
「あれ、二浦さんじゃないですか。香取さんと一緒ですか」
「やぁ、速水。元気そうだな」
 見上げる高さのひょろ長い介三郎を見上げて、二浦も笑って答える。
 ありきたりの挨拶と、愛美が何故手間取っていたのかの説明が終わってすぐ、介三郎が二浦を見た。
「二浦さんは、何か知りませんか」
 珍しく押しの強い口調で迫るように、介三郎は言った。
 何事か予測もつかず、二浦が次の言葉を待つと、少し焦った表情を見せる。
「二浦さんは、聖蘭の四番の人がどうなったか知っていますか」
 そう聞いて、二浦は目を見開いて介三郎を見た。
「どうして、そいつのことが気になるんだ、速水」
 言葉を選ぶようにゆっくりと問い返しながら、二浦は介三郎の様子を逃さず見つめた。
 介三郎の言う『聖蘭の四番』は、先日の練習試合の相手の主将だ。
 試合は鷹千穂学園の勝ちで終わったが、単純な練習試合ではなかった。
 二浦も香取の指示で、その場にいた。そして、介三郎の聞きたい答えを、二浦は持っている。
 介三郎は、あの試合以来気になっていた。
「試合の最後、何か怪我をしているようだったので、それが気になって――」
 綾や万里子に訊いてはみた。だが、答えは返らなかった。
 二浦は少し躊躇した。
 自分の知っていることを話しても良いのかどうか、即座には判断できなかった。
 有り体に言って良いものかどうか、難しいところだ。
 介三郎が万里子や『魔女』に繋がっていることは、二浦も知っている。だが、それがどういう意味を持っているのか、二浦は測りかねた。
「もう終わったことだろ、速水。知る必要はないと思うけど・・・」
「でも、試合をやった奴が怪我をしたら心配しますよ。普通は」
 至極当然の表情で、介三郎は二浦を見る。
 暫し逃げ口上を考えたが、このまま自分が無視しても、おそらくこの青年は誰か別の人間に問うのではないか。それがもし、危険を呼び込むことになれば・・・。
 傍で聞いている愛美も、答えを待っている表情だ。いつも介三郎から聞かされているのかもしれない。
 何が起こったのか、を。
 二浦は言葉を選びながら、敢えて厳しい表情で答えた。
「阿久津は、バスケができない足になっているらしいよ」
「え・・・。そんな大怪我だったんですか」
「怪我の内容までは知らない。ただ、足の怪我が原因で、歩くこともままならない状態だって聞いている」
「何故・・・」
 尚も聞き返す介三郎を、二浦は困ったように首を横に振って答えた。
「速水、あまり気にしない方がいいぞ」
「・・・・・・」
「試合をして分かっただろ。聖蘭はカタギの学校じゃない。貴妃が牛耳り、汚い仕事を好む不破公とも繋がりのある学校なんだ。深入りするもんじゃない」
 黙って聞いている介三郎を見上げ、その傍の愛美に視線を移し、言い含めるようにそう言うと、おもむろに二人に背を向けた。
「じゃあな」
「え、もう行っちゃうの」
 愛美の言葉に、笑って片手を上げる。
「総長が待ちくたびれてるよ。俺、マドンナを呼びに来たんだ」
 見たところ、体育館に万里子はいないようだ。
「マドンナなら、もういないわよ。サロンへ戻るって言ってたけど――」
 どこかですれ違ったのだろうか。
「ありがとう。愛美、またな。速水も・・・」
 林の中に消えていく背中を見送って、二人は暫く無言で立ち尽くしていた。
 愛美の手には、タオルが握りしめられたままだ。
 不意に、介三郎が呟く。
「あ・・・、そういえば・・・」
「何?」
 遥か高みにある間延びした顔を見上げると、介三郎は遠ざかる二浦の背中を見つめたままゆっくりと口を開いた。
「二浦さんって、成瀬のこと『イツミ』って呼ぶんだ」
 いまさら――。
 冷たい流し目で見てしまう。
「香取さんも、『愛美』って呼ぶけど」
「・・・・・・」
「介三郎くんも、呼べば?」
 ごく自然に続けると、明らかに動揺したような顔が、真っ赤に変化してあとずさった。
 鷹沢綾を『綾』と呼ぶのだからなんてことないだろう――というような、単純な話ではないようだ。
 結局、介三郎は呼べなかった。
 いくじなし。


「遅かったな、二浦。愛美に会えたのか」
 サロンに戻って第一声が、それだ。
 二浦が大きくため息をついて見せる。
「総長、探しにいったのは、マドンナですよ。途中で迷子になっただけでした。あしからず」
 万里子とは、どうやら何処かですれ違ったらしい。
 先に戻っていた万里子に一礼して、二浦は香取の背後に控えた。
 雛鳥は少し離れた場所の椅子に座り、俯いていた。
 香取が万里子と他愛のない話をしているのをぼんやりと聞き流しながら、二浦は心の中で総長に悪態をついた。
 たとえ『偶然』が落ちていても、どうしようもないんですよ。総長。現実を見せ付けられるだけだ。
 彼女の傍にいるのは、俺じゃない。
 それならば、自分の心を変えちまえばいいのに・・・、何故かな、彼女が変わるのを待っている自分を見つける。
「あきらめわりぃヤツ・・・」
「――何か言ったか、二浦」
 顔だけ振り向いて問う香取に、苦笑いを見せて、二浦はまた直立不動で沈黙した。

3.


 香取に追い出され、所在無げに専門棟を出て、教室棟を横目に中央館までの間、柱谷龍市は鼻歌交じりに歩いた。
 香取が危惧した通り、すれ違う女生徒すべてに愛想を振りまいている。
 香取よりは細身だが同様の上背があり、肩幅は広くシャツの上からでも鍛えられているのがわかる。鋼のような手足は長く、日に焼けた肌が健康的な印象だ。長めの学ランの前を開け、ズボンは引き締まった腰に十分タックを取り、足首にかけては細く絞ったこだわりのシルエット。革靴は先が尖り、手入れが行き届いている。
「へぇ、もうすぐ文化祭があるのか。他校生でも来ていいのかな」
 中央館のガラス窓に貼られたポスターを仁王立ちで眺めていた柱谷は、ガラス窓に映った自分の姿に気付いて、学ランの襟元を小気味よくはたいた。
「来ても大丈夫ですよ」
 後ろから姿を覗き込むように声をかけたのは、写真部一年生の椎名優紀だ。いつものように一眼レフカメラを肩から下げている。
「その日は、一般の方にも開放されますので。歓迎します」
「あれ、あんた、確かバスケの試合の時いたよな。そんな感じでカメラ持って――」
 椎名優紀は、柱谷のことを覚えてはいないようだが、その学生服から香取省吾と同じ天光寺高校の者であることはすぐにわかった。
「学ラン、撮ってもいいですか」
 既にカメラを構え、撮る気満々である。一見引っ込み思案なタイプに見える椎名だが、カメラを持つと変身する。
 柱谷は、前をはだけている学ランをバサバサとはためかせて何かを確認すると、
「学ランだけか? 俺の顔や、長い手足は撮ってくんねぇのかよ」
 と、大袈裟に嘆いてみせる。
 少し大きな声に、椎名は一瞬たじろいだが、すぐに笑って返した。
「もちろん、手足も顔も込みです」
「いいね、その切返し。好みだなぁ。名前と連絡先教えてくれるかな」
 満面笑顔でポケットから携帯電話を取り出そうとして、柱谷は止まった。
 椎名の背後に、一人の女子生徒が突然現れて、冷ややかな雰囲気を全身に纏っていたからだ。
「何をしている」
 長い栗色の髪を真っすぐ腰まで伸ばした、長身の細身。
 柱谷は、目を見開いてその姿を見つめた。
 同じように眼鏡をかけているが、陽光の下であることと制服により多少姿は違って見える。直近では、バスケの練習試合の折、貴妃の配下の者を止めた時、一瞬垣間見た。
 だが柱谷の脳裏には、それ以前玄幽会に囚われていた時、廃屋の中、ただ一人助けに現れた長い髪の女が浮かぶ。
「お、あんた・・・、あの時の・・・」
 破顔一笑して親しげに声をかけようとした柱谷の動きが、一瞬で引いた。
 それほどに、鷹沢綾の反応は冷たかった。
 二人を交互に見つめ、気を遣って椎名が綾を仰ぎ見る。
「お知り合いですか、生徒会長」
「いや、会ったことはないはずだ。誰かと間違えているのだろう」
 有無を言わさぬ答えに、柱谷は反応できずにいたが、それも一瞬で流し、
「そういうことか。じゃ、俺の勘違いということで」
 と、さっさと切り替えて、明るく綾に近づいた。
「俺は、柱谷龍市って言うんだ。香取総長の右腕ってところかな」
「・・・」
「りゅういちくんって、呼んでくれていいぜ。あんたのことは、どう呼べばいい?」
「・・・『生徒会長』かな」
「彼女の瞳も奇麗だが、あんたもいい瞳を持ってるな。眼鏡を通してもわかる」
 繁々と見つめられ、綾は俯きがちに一歩引くと、何かを確認するように眺め、苦笑した。
「介三郎と同じ類か・・・」
「?」
 言われた意味がわからず、目を丸くして続きを待つと、綾は困ったように細めた流し目で肩をすくめた。
「いや、顔を覗き込まれるのは好きではないのでな。遠慮してもらいたい」
「あぁ、そりゃ悪い。女の子が好きなもんで」
 あっけらかんと答える柱谷に、もう笑うしかない。
「それで、こんな所でどうしている」
「ちょいと席を外しとけって、総長に言われたんですがね」
 特に用があるわけではない上に、『いつまで』とは言われなかった。そろそろ戻ってもいい頃だろうが・・・。
「今度は、帰り道がわからないかもしれないかなぁ」
 いきなり間延びした口調で、柱谷は天を仰ぐ。
 綾が流し目をくれる。
「なんだ、それは」
「いやぁ、誰か案内してくださる方はおられませんかねぇ」
 柱谷は物ともしない。大袈裟に周囲を見回す役者ぶりだ。
 椎名が間に入って二人を交互に見た。
「私、一緒にいきましょうか」
「お、優しいな。あんた、やっぱり好みだなぁ。名前は――」
「駄目だ」
 にべも無い。
「えっと・・・、生徒会長さん、他校生には優しくしないと・・・」
「万里子の所だろう。しかも校内だぞ。迷子になる程の広さではない」
「だから、覚えてないんですよねぇ。誰かいないかなぁ、迷子に優しい生徒さんって――」
 白々しい演技が続き、結局――綾が音を上げた。
「まったく、手のかかるヤツだ」


「総長、戻りました。ついでにナンパしてきました」
 威勢よく帰ってきた柱谷が、後に続いて入ってきた綾を示して格好つける。
 綾は迷惑そうに反論した。
「いや、ここまで戻れないと言うから、ついてきたまでだが・・・」
「総長、生徒会長さんだそうですよ」
 柱谷は挫けない。
 香取が苦笑しながら、視線を綾に向けて、申し訳なさそうに肩をすくめた。
「柱谷、お前の悪癖を褒める日が来ようとはな――」
「存分に褒めてくださいよ、総長」
 香取に催促しながら、その後ろに控える二浦に自慢げに親指を立てて見せた。
 先に戻っていた真行寺万里子は、クスクスと笑いながら成り行きを眺めていた。
 綾はしばらく香取の視線を無言で受け止めていたが、おもむろに目を閉じて踵を返した。
「では、私は失礼する――」
「いや、生徒会長なら一緒に話を聞いてくれ。もしかすると、色々係わることがあるかもしれん」
 柱谷の喧騒を制するように右手で彼の頭を押さえ、左手で空いている席を示す。
「万里子に確認することもあって、ここまで来た。おそらく生徒会長さんも、聞いておいた方がいいと思っている」
 綾は微動だにせず香取を見つめて思案したが、香取は促すように正面からその視線を受け止めた。
「頼む」

4.


 綾は敢えて示された席には座らず、いつもの窓辺に向かう。
 部屋の隅に控えていた雛鳥が、綾の分のお茶を用意しようと立ち上がるが、それを制して窓辺に寄り掛かり、立ったまま腕を組んで香取の言葉を待った。
 万里子が見計らって、香取を促す。
「確かめたいこと・・・ですか。香取」
 含みのある呟きが、口元に当てた細い指先の間から漏れる。
 窓辺に寄り掛かり、綾は無表情を作った。
 万里子を正面に見つめ、香取は反応を確かめるようにゆっくりと口を開いた。
「万里子、ここへ玄武帝が来たというのは、本当か」
「ええ、本当ですわ。もうご存知なのね」
 万里子の答えは清々しい。
「何のために」
「さぁ、特に何も聞きませんでしたわ」
 軽く綾と視線を合わせ、万里子は悠然と答える。
 その無言のやり取りを確認しながら、香取は続けた。
「万里子、玄幽会の動きがおかしいことは、耳に入っているか」
 香取の言う状況が測りかね、万里子が怪訝な表情を向ける。
 それを苦笑で受け止めて、香取は腕を組んで背もたれに寄り掛かった。
「玄武帝は、咲久耶を統括することを諦めてはいないようだ」
「どういうことですか。いつかの侵攻のようなことを行っているのですか」
 香取を捕らえ、愛美と雛鳥を巻き込んだ一件は、ほんの数ヵ月前だ。
 だが、先日鷹千穂を訪れた男の様子からは、そのような兆しは見えず、また報告も上がっていない。
 綾を振り返ったが、彼女も初耳という顔だ。
 香取は、やっと興味を示した二人に満足した。
「これまでとは違う、力を使わない方法で、咲久耶に勢力を広げている。早晩、貴妃も不破公も頭から押さえつけられる形となるだろう。あそこの軍師は上手く立ち回っているようだ」
「咲久耶市内に、玄幽会の拠点が幾つかあるのは聞いています。玄武帝は、貴方の領域を侵しているのですか」
「いや、丁寧に避けて動いている。だから、尚更気味が悪いと言えるな」
「何か、意味が・・・あるのでしょうね」
「意味か・・・」
 香取は、万里子の表情に浮かぶ曖昧な微笑の意味を測りかねた。
 無言で控えている二浦と柱谷は、万里子と綾の反応を見極める。
「玄武帝が鷹千穂へ来たことを聞いた頃、天光寺高校やウチの傘下の高校に、探りを入れているヤツがいると報告があった。どうも掴みどころのないヤツでな、俺を探っているようだった」
「それは、何だと考えているの。香取」
「何かな。目的は、俺自身ではなく、おそらくは『魔女』について――というところかな。だが、俺を探っても何も出てこないだろう。俺は『魔女』と接点はない」
 おもむろに上げた視線で綾を見て、すぐに香取は万里子に視線を戻す。
「万里子は、誰かに黙って探らせるほどの隙は、持っていないだろう」
 揶揄するように投げかけると、嫣然と笑う万里子が優雅に足を組み替えて、秘め事でも呟くように口元を細い指で隠した。
「えぇ、そうね。隙がないと思ったのか、正面から来ましたわよ、一人」
 満面に笑顔を湛える万里子に、柱谷の間抜けな顔が前のめりになる。
「はぁ?」
 惚けた声に、部屋の隅にいた雛鳥が驚いて顔を上げ、香取もまた万里子を凝視した。
「どういうことだ、万里子」
 探られるのを放っておくくらいであれば、なるほどと思うが――。
「正面からとは、どういうことだ」
「可愛い方でしたわよ、子犬のようで。玄武帝にしては、気の利いた御遣いでした」
「玄武帝――?」
 問い返したのは、綾だ。
 万里子は身体を傾げて綾に向き、穏やかな微笑を見せて続けた。
「本人は、一応隠しているようでしたけど――」
 その者は、咲久耶市北区の武道の誉れ高い八須賀高校だと言っていた。
 玄幽会との関わりがある。
「藤也さんに玄幽会を調べていただいた時、その名がありましたわ。玄武館高校とは古くから交流があるとかで、玄幽会の咲久耶市内の拠点の一つだそうです」
「いつ会った」
「玄武帝がこちらへ出向いて来られた数日後だったかしら。ちゃんと、うちの屋敷の前で待ち伏せしていましたわよ」
「真行寺の屋敷の前――というのは、怖いもの知らずというヤツか・・・」
「この学園はおそらく無理だと思ったのでしょう。警備が普通ではありませんもの」
「真行寺邸も、警備では劣らぬだろう。しかも飛水が黙っていない」
「ですから、正面から来ましたわ。可愛いでしょ」
 可愛いのか。
 綾が眉をひそめる。
 怪訝な表情を浮かべて会話を傍観している二浦と柱谷を尻目に、呆れて肩をすくめる香取が先を促した。
「で、その可愛い子犬は、どうした」
「インタビューがしたいというので受けました」
「何を探りに来たのだ」
「さぁ、どうでも良さそうな質問を並べていましたわね。貴方の事は訊かれましたわ、香取。どういう経緯でわたくしと知り合ったのか・・・とか」
「ふむ・・・、それで」
「貴妃と常磐井のことも訊いていましたわね。あの二人を、どう思っているか・・・」
 その時の事でも思い出しているのか、万里子は吹き出し気味に笑って声を震わせた。
「あの不細工な男の話が、そんなに面白かったのか、万里子」
 意外な表情で綾が万里子を見ると、一層小気味よく笑顔が返ってくる。
「あら、貴女もあの男を不細工と言ってくださるのね、綾。気持ち良いこと。御遣いの彼も、同じように言ってましたわ。その悪態の小気味いいことと言ったら」
 珍しく笑いこける万里子を、一同が唖然と見つめる。
「そんなに笑えることなのか、万里子」
 唖然を通り越して心配そうに見つめる綾に、目尻の涙を指ですくいながら返す。
「貴妃と常磐井の事は、ボロクソでしたわ。あれだけ言ってくださると、胸がスッとするわね。玄武帝も面白い子を側に置いていること」
「先日、玄武帝と直接会っているだろう。どうして別の御遣いが来るのだ。やはり何か交渉ごとでも預かって来ていたのか」
「どうもそうではないようよ、綾。もちろん、玄武帝がこの学園に来た事は知っていましたし、わたくしもこの学園も、貴妃や常磐井とはまったく関わりない事は、重ねて説明しました」
「それで、何が目的だったのだ」
 身を乗り出して問う香取に、万里子はまだ笑いが治まらないようだ。
「それは聞きましたわ。わたくしのことを『美しい美しい』と褒め称えてくださいましたわ」
 香取が呆れる。
「万里子、お前が美しいのは俺だってわかる。問題は、そいつの目的だろう」
「せっかちね、香取。でも、その中に答えがあるのよ」
「どの中だ」
 憮然として、またソファに深く沈んだ香取に、万里子が大きく息をついて姿勢を正し、真っ直ぐ見返した。
「その者は、かねてより貴妃と呼ばれる小山内園美や、不破公と呼ばれる常磐井を『醜い』と思っていたようですね。だから直接わたくしに会って、『確かめたかった』と繰り返していましたわ」
「何を、確かめるんだ」
「わたくしが、『何者か』ですわ」
 一瞬、間が空いた。
「香取、貴方は玄武帝がお嫌い?」
 突然、問い返されて、香取は一瞬間が空いた。
「好きにはなれんよ。えらい目にあったからな」
 質問の意味は分からないが、目を丸くして思っているそのままを答える。
 万里子がその言葉に納得して、続けた。
「そうね。では、常磐井や貴妃は?」
「御免こうむるよ。ありゃ、人間じゃねえ」
 正直な感想だ。
 先日の鷹千穂学園と、貴妃のいる聖蘭学園とのバスケの練習試合一つとっても、常軌を逸していた。
 その感情を汲み取るようにゆっくりと頷くと、試すように香取を見つめた。
「そこまで言うのね。では、玄武帝が二人と反目したら?」
 思わぬ質問に、香取の思考が止まる。
「――どうなる」
 奇妙な静寂に、二浦と柱谷が聞き耳を立てる。
 綾もまた、窓辺から背を離し、次の言葉を待った。
「少なくとも巻き込まれるわ、鷹千穂はね」

5.


 万里子の意味深な言葉に、香取が眉をひそめる。
「――どういうことだ」
「彼が教えてくれましたわ。どうやら『魔女』を探しているようよ、貴妃は。しかも、鷹千穂に『魔女』がいると、目星をつけているようだということ。それから少し『おかしい』――と」
「おかしい?」
 問うたのは、綾だ。
「えぇ、貴妃とは別の『何か』がいると言っていました。何か聞いていませんか、綾」
 だが、綾は答えを持っていないようだ。
「あの・・・」
 右手を上げて発言権を主張する柱谷が、神妙な顔で問う。
「それなんですが、マドンナ。もしかして『高級車』に乗ってる『女』ですか」
「あら、やはり『おかしい』ことがあるのですか」
「と言っても、その不審な車の報告があったのは、一時期でして――」
 柱谷の説明では、その『高級車』の『女』は、一般生徒の噂話の中に出て来たものを集約させて報告が上がって来たという。姿をはっきりと見た訳ではないようだ。
 しかも、極限られた時期だった。その後、現れてはいないという。
「貴妃や不破公に関係していると言うんですか?」
 柱谷の問いに、万里子がため息をついた。
「それが、よくわからないのです」
 結局、その『子犬』も、その『何か』については、はっきりと正体が分かっている訳ではないようだった。
「動いているのは、玄幽会だけではない・・・という事は、はっきりしているということですか」
 二浦が考え込むように呟いた。
 暫し、誰もが思案した。
 表面に見える曖昧な現象が、いったい何に繋がるのだろう。
 香取は腕組みをして神妙な顔を見せた。
「貴妃と不破公については、懸念がある」
 今、玄武帝が部下に命じて敷いている布陣により、押さえつけられて、黙っている二人ではない。
「貴妃は己が学園内で思い通りの戯言が出来れば、それで満足する女だが、だからと言って、押さえつけられて黙っているような女じゃない。ま、元より万里子の存在は気に食わないだろうがな。不破公に至っては、隣市にある不破第一高校に所属しながら、虎視眈々と咲久耶を狙っている」
「何故、あの常磐井は咲久耶を欲しがるんだ」
 綾の問いに、香取が答える。
「豊かだからだ」
「豊か?」
「咲久耶は人口も経済も開けている。学生も多い。不破公としては、咲久耶は格好の狩り場なのだよ。人も・・・、金も・・・」
「・・・・・・」
「咲久耶東南部、東部、そして鷹千穂のあるこの南部の一部については、ほぼこちらが把握できている。だが、玄幽会の拠点から南――、咲久耶北部、中部については、玄幽会の勢力が大きく広がってきている。もし、玄武帝が不破公と同類であるならば、咲久耶のほぼ半分がそっくり盗られることになる」
 香取の口調は重い。
 現状、香取が勢力を広げたとしても、玄幽会の抑えている領域を凌駕することは難しい。今の領域を維持し、強化することが急務だ。
「一方で、玄武帝が本気で不破公と敵対するのであれば、玄幽会の傘下に入っていることで、不破公や貴妃に対する抑止力にはなるかもしれませんよね」
 柱谷は、些か楽観的に口を挟んだ。
 香取が何か気づいたように顔を上げ、万里子を見た。
「万里子、玄武帝は、お前に敵対する者なのか味方なのか。本気で、貴妃や不破公とやり合う気なのか」
「親しい間柄とは、言えませんわね。ただ、わたくしに刃を向けるとは思えませんわ」
「そう言い切るのは、お前が美しいからか」
「そうであれば、事は簡単ですわね」
 いたずらっぽい微笑が返ってきて、香取は半ば呆れる。
 万里子は、玄幽会が決して万里子のいる鷹千穂学園を害さないと確信しているようだ。
「――俺の心配は、杞憂ということか・・・」
 些か憤慨して見せる香取に、謝るような視線を返しながら、
「そんなことありませんわ。香取、心配されて嫌な方はいないでしょ」
 コロコロと笑い声を漏らし、万里子は香取に答える。
 心の中で、綾を思い遣りながら――。
「もし、玄武帝がわたくしに刃を向けるなら、その時はお相手せねばなりませんわね。香取、もし、玄武帝が貴方に刃を向けた時はどうなさるの」
「そうなれば、実力で守るだけだろう。約束したからな」
 最後の言葉は、窓辺からこちらを見つめる綾に向けられた。
 それを流し目で見やり、万里子が意地悪く問うた。
「香取が、わたくしに刃を向けることはあるのかしら」
「なんだと?」
「鷹千穂が、貴方の連合傘下に入った覚えはありませんもの。もしかすると、力尽くで押さえつけられるのかしら」
 満面の笑顔を向けられ、香取は呆れた顔で天を仰いだ。
「お前を押さえつけられるヤツがいるとは思わんよ。そんな不毛なことを考えるほど、俺は暇ではないよ」
「では、もし、私に何かあったら?」
「もちろん、助けるさ。当たり前だろう」
 わざわざ聞くなと言わんばかりの香取の口調に、万里子がまた声を出して笑う。
「貴方のそういう真っ直ぐな物言いは、大好きですよ」
「・・・、寧々を連れて来なくて良かったよ。何を言われるか、わかったものじゃない」
 照れた顔を素っ気無い素振りで隠し、香取は凝った肩をほぐすように身体を揺らしてぼやいた後、また窓辺に寄り掛かって傍観している綾を見た。
「出来る限りのことをするつもりでいる。ただ、生徒会長さんにも、知っておいてもらいたい」
「――雲をつかむような話だな。一般生徒に、何かができるとは思えないが――」
「貴妃と不破公の二人は、元々意気投合しているわけではない。玄幽会もはっきりとしない。守りたいものがあるなら、尚のこと用心しろ――ということだ」
「・・・どういう意味だ」
「俺は、『魔女』は『魔女』のために動かないと思っているからだ」
 香取の言わんとすることが今一つ飲み込めず、綾は固く腕を組んで香取を見返すしかなかった。
 二浦が途切れた会話に割って入った。
「一つ、よろしいでしょうか」
 万里子と綾に確認を取って続ける。
「先程、速水には詳しい話を避けましたが――」
「なんだ、二浦。愛美に会えたのか」
 香取が口を挟む。
 一瞬、顔を赤らめた二浦が、
「総長、速水とは話しましたが」
 と、強い口調で念を押すように繰り返し、平静を装って香取の茶々を遮る。
「先日のバスケの試合の終盤、聖蘭の阿久津という選手が足に怪我をしました」
 阿久津が歩けなくなっていることは介三郎に話したが、その理由までは伝えなかった。
「あれは紛れもなく銃弾による傷でした。正規の医者には診せなかったようです。速水には、深入りしないようにと伝えましたが、納得できていない様子だったので、一応お耳に――」


 正門まで見送りに出た雛鳥が、強張った表情で礼をする。
 香取との会話の後は、言葉を失ったように黙って部屋の隅に控えていた。
 二人の側近の前を歩いていた香取が、突然踵を返して、驚いて見上げる雛鳥の前に立った。
「すまなかったな、雛鳥」
 詫びるように首を垂れる香取は、優しい眼差しでその細く白い面立ちを見つめた。
 雛鳥は、ただ見上げるだけだ。何かを言い返そうとしているが、音にならない。
 言えば、言葉と同時に涙が出そうだ。
 何故、これほどまでに苦しいのか、雛鳥には分からなかった。
 香取が小さく首を振って、大きな手で一度だけ雛鳥の頭を撫でた。
「身体に気を付けるんだぞ。いいな」
 低く優しい声で、呟くように言うのが精一杯だった。

6.


「どうしました、綾」
 綾と二人きりになったサロンで、万里子は窓辺を見やりながら立ち上がる。
「いや、何も・・・」
 綾の答えは素っ気無い。
 その窓からは、林を挟んで体育館、その向こうの高台にグラウンドのフェンスが見える。そこから視線を外すと、大きな屋根が見えた。
 鷹千穂学園幼稚舎の建物だ。
「姫様がどうかされたのですか」
 綾の傍に立ち、同じ方向へ視線をやり、万里子が問う。
 そこから幼稚舎の様子は分からない。
「いや・・・、なんでもない」
「介三郎さんの心配ですか」
 二浦が言っていた事が気になるのか。
 綾は、苦笑して万里子を見た。
「あいつが困った奴なのは、今に始まったことではない」
「・・・そうですわね」
 万里子も同様に口元をほころばせる。
 バスケで鍛えているとは言え、特殊な訓練を受けている訳でなく、また喧嘩が好きな訳ではないあの間の抜けた丈高い青年は、何故か無用に巻き込まれたがる所がある。
 この二人の友人に問題があるのか、単純に性質なのかは疑問である。
 綾は視線を部屋の隅に戻し、雛鳥が座っていた場所を示した。
「雛鳥は、体調が悪いのか。顔色が優れない様子だったが」
「身体は問題ないでしょう。何か、思うところがあるのでしょうね」
 万里子がサロンに戻って来た時の雛鳥と香取の様子を思い出し、視線を落とす。
 雛鳥の変化に、万里子は気づいていた。だがそれを綾に伝えようとは思わない。おそらく言ったところで、どうなるものでもない。
 万里子は話題を変えた。
「玄武帝は、貴女に何を?」
 先日、善知鳥景甫がこの学園に現れた時のことを、敢えて万里子は綾としていなかった。
 答えが返るまでには、少し時間がかかった。
「万里子が言っていたようなことだ」
「――では、鷹千穂は巻き込まれると?」
「元々、『魔女』は貴妃の気に入らないことをしている。あいつはそう言っていた」
 万里子にも身に覚えがある。
 はっきりと、貴妃と反目しているのは事実だ。
「玄武帝の動きの真意はわかりませんが――」
「いや、はっきりしている」
 景甫は言った。『玄幽会を動かす』と。
「あいつは、どう転んでも動けるように、今、地盤を固めているのだ・・・」
「どうするの、綾」
「学生の縄張り争いの為に、『影』がいるのではないのでな」
 困った顔をして見せる綾に、万里子が納得するようにうなずいた。
「・・・そうね」
「もちろん、攻撃されれば相手をすることになるのだろう。『魔女』が――」
「まぁ、そうしてご自分一人で何もかも背負うのでしょう。少しはわたくしを当てにしてくださいませんか」
 万里子が大袈裟な口調で不満を言う。
 綾は片方の眉を上げて、咎めるような顔を見せた。
「そうしてまた、飛水に呆れられるのか。いつになったら大人しくなるのかと、またぼやかれるぞ」
「綾、わたくしのことは言えないでしょ、本当に。困った方ね・・・」
 気の置けない者同士の会話が、笑いを誘う。
 それからはひとしきり、最近、真行寺一家の若頭がハマっている趣味の話で盛り上がった。


 玄武館高校の寮は三棟ある。
 寮全体の監督総長である渋谷宜和は、今日も門限までに戻れない生徒の申請書を眺めて思案した。
 理由ははっきりしているが、如何せんこう続いては他の寮生の目もある。
「どうかされましたか」
 風呂上がりの濡れた長い髪を拭きながら、佐久間涼が声をかける。
「これは、宰相。遅いのですね。玄武帝と一緒ですか」
「いえ、景甫様はこれからです。軍師どの、何か?」
 渋谷が手に持っている書類を気遣う。
「いえ、たいしたことではないのですよ、宰相。ただ・・・玄武帝に聞かれますと具合が悪いかと・・・」
 そう答えながら、少し屈んで佐久間の耳元に近づき、手に持つ書類の名前を見せながら、周囲に聞こえない小さな小さな声で囁いた。
「実は・・・」


 姫君は、明日の遠足を楽しみに、早々に眠ってしまった。
 蛍と桜、そして綾は、鷹沢邸の地階にある訓練室にいた。
 天井も高く、広いスペースである。壁際に器具が置かれており、木刀や槍などの武具も揃っていた。
「香取様のお話は、それ程に深刻なものだったのですか。お嬢様」
 と、蛍は自分の両手の平の見えない何かを丹念に確認しながらも、綾を気遣った。
 いつにも増して口数の少ない主は、ベンチに座り、父親に渡されたものを見つめている。黒く歪な形のそれは、綾の右手に馴染んだ。これを使わなければ良いが――と、父は言った。
 使わずに済むなら――。
 綾は、顔を上げて蛍に笑って見せた。
「いや、介三郎にライバルがいるらしいことは分かった」
「まぁ」
「いいんじゃないですか。その方が、緊張感があって」
 蛍は驚きの表情を向け、桜は新しい籠手を両腕に嵌めて、その軽さと強度を確認しながら返す。
「緊張感・・・か。介三郎がライバルの存在に気付けばいいが・・・」
 神妙な顔つきの綾に、動きを止めて目をぱちくりとさせ、桜が呆れる。
「そこからですか」
「お嬢様、それではあまりに介三郎さんがぼんやり者のようではありませんか。お可哀そうですよ。桜も――」
 半ば否めない様子ながら、蛍が一応たしなめる。
 桜が不貞腐れた顔を見せて、うそぶく。
「それならもう少し、成瀬さんとの関係が進展しても良さそうですけどね」
もどかしいったらありゃしないと続けて、桜は綾の様子に気付いた。
 軽口も一瞬で、また黙ってしまった主を気遣った。
「お嬢様?」
「やはり、何か気がかりなことでもあるのですか?」
 俯いたまま微動だにしない綾に、蛍もまた心配そうに声を掛ける。
 ようやく顔を上げて、綾が苦笑した。
「すまない。何でもないのだ。ただ――、落ち着かないだけだろう」
 姫君のことが気になるのだろうか。
 どう声をかけて良いか分からず、蛍が無言で見つめていると、桜が屈託のない笑顔で景気よく蛍の背中をポンと叩く。
「大丈夫です。お守りします」
 桜の揺るぎない低音が、広い室内に響いた。背中を押されて、蛍の表情が晴れる。
 二人を交互に見つめ、桜は仁王立ちの姿勢で拳を握った。
「任せてください、お嬢様。お一人ではありませんので」
 色々な意味を込めて、桜は満面の笑みを向ける。
「本当に、お前は頼もしいな」
 綾が噴き出し、蛍が微笑む。
 意味するところをくみ取ってもらえたことが嬉しいように、桜は腕まくりをして籠手を一回コツンと鳴らすと、数歩下がって構えた。
「では、お手合わせ願います。お二人とも」
 その日は、いつもより長い時間、軽快な音が訓練室に響いた。


                             ――Ⅳへ――

シューティング・ハート ~彼は誰時(カワタレトキ)~Ⅲ

シューティング・ハート ~彼は誰時(カワタレトキ)~Ⅲ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-20

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著作権法内での利用のみを許可します。

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