妖精飛蚊症B
妖精飛蚊症
五十万人に一人が発症する奇病。
それを知ったのは十二のときだった。
「しかし、そう取り立てて騒ぐ必要はありません」
医者は言った。
「昔は致死率100%なんて言われてましたけどね。ここ二十年近く、発症して亡くなった子どもはいません」
医者の話を聞きながらも、私は視界を飛び回る妖精が邪魔で払う。
「最近の子は実に現実的というか。ネットで情報は大量に手に入れられるわけです。下手すると我々よりも詳しいかもしれない。そんな中で、楽しいこどもの国、なんてもの信じる子どもはどこにもいないですよ」
幻覚らしい妖精がいくら手招きし、誘惑しても私には特別魅力的なものには思えなかった。
十二歳とはいえ、こどもの国なんて、アニメや物語の中にしか存在していないことは理解していた。
「お母さん、そんなに心配することはありません。二年程経てば症状もおさまりますから。昔は『妖精飛翔症』とかメルヘンな名前で呼ばれてましたけど、今は突発性の視神経疾患のひとつではないかと言われています。正式名は」
長く、専門的で聞き取れなかった。
「まあ、いわゆる通称ですね。『妖精飛蚊症』は。一応、目薬出しますね。しかし、一番はお母さんが元気なことですよ。ちゃんとお薬は飲んでらっしゃいますか」
馴染みの医者は、私の隣に座る母に言った。
二年前から、母は精神を患っていた。何が切っ掛けだったのかわからなかったが、医者いわく様々な要因がいくつも重なってしまったことが原因らしい。
その中のひとつが、子どもの私だった。
はっきりと言われてはいないが、そうなのだろうという確信があった。父が出ていったのは私のせいだと何度も聞かされていたからだ。母がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。
下を向いていつも暗い顔をしていた母だったが、病院の帰り、珍しく明るい笑顔で私の手を握った。
「何が見えるの?」
私は興味を持ってくれたのが嬉しくなって、いつもどこかへ連れて行こうと手招きしている妖精が見える、長く続く道の先にはなんだか明るい場所が見えて、楽しそうでキラキラしている。楽しく遊ぼうと誘ってくる。
そう答えた。
横断歩道の信号が赤になり立ち止まると、
「目の前に真っ赤な絨毯が敷かれていく」
見えるまま、答えた。
医者によると、これは存在していないらしい。幻覚に惑わされるほど幼い自覚はなかった。
赤信号では止まらなければいけない。
そう、十二の子どもですら知っている。
母は、私の手を離して赤い絨毯を駆けていった。
妖精飛蚊症B