夜景の綺麗なこの街で

港町Y市を舞台にした話を適当にまとめたいと思っています

過ぎたるは猶及ばざるが如し

 彼女は眠ったままだった。もう昼の十二時なのに。そのふかふかのベッドに埋もれる表情から、いい夢を見ていることがわかる。でも、寝返りを打っているようだから、もうすぐ起きるのかもしれない。電気ケトルに水を入れて彼女を待つ。

少しして、彼女は目を開けた。そうして時計を確認してから、もう一度眠ろうと頑張って――結局あきらめてのそりと起き上がった。
そのあとすぐにコートを着込んだ、部屋の中だっていうのに。まったくだらしない。もこもこになった彼女がのどが渇いたと主張するので、紅茶をいれてあげた。その癖、全然手を付けなかったけれど。
それから駅前のパン屋「メルヒェン」の食パンをカリっとトーストして、バターを塗って差し出す。ここはライ麦パンが有名なのに、彼女は柔らかいのがいいのだという。あまり噛まなくていいから。彼女は子ネズミのように頬を膨らませて、さっさとそれをおなかに収めてしまった。そうしてからやっと、もう冷めきった紅茶をゆっくり空にする。

そのあと顔を洗って、歯を磨いて。そのあとコートを椅子の背にかけて。あろうことか、もう一度ベッドに潜り込んだ。仕方がないので僕は一段階照明を暗くして、自分の昼ご飯を作ることにする。

彼女が眠り続けるようになってから、どれほどたったっけ。夏祭りの日に帰ってきて以来だから、半年ほどか。そんなことを考えながら、先ほどのパンで手際よくレタス・チーズ・ハムを挟んでいく。彼女はああして、日中も半分以上寝て過ごす。今日は無理だったけど、あのまま三時ぐらいまで食事をとらないこともある。次に、ごま油をひいて葱と叉焼を炒めていく。炒まったら卵、ご飯を投入。コートを羽織らないと、体温が下がって目が覚めてしまうらしい。だから、あのコートはずっとあそこにかかっている。フェデリーニはアルデンテで鍋から上げたら、ベーコンを炒めたフライパンに移して粉チーズとオリーブオイルで仕上げ。つまり、彼女は眠たいんじゃなくて、眠りたいんだろう。その証拠に、彼女は今もベッドの中で、必死に羊を数えているはずである。オーブンからアツアツの器を取り出せば、今日の昼ごはんは終了だ。

温かいうちにパスタを食べたら、そのまま炒飯を飲み込む。そうして軽く手洗いで吐いてから、サプリメントを飲み、うがいをしてグラタンを食べた。最後にサンドイッチを胃に収めて、下剤を三錠。本当は明日に残すつもりだったご飯も結局食べてしまった。彼女に見つからないように、直ぐに食器を片付けなくてはならないけれど、気持ちが悪くて立ち上がれない。

眠る彼女を見ながら、このままでいいのかと自分に問う。外では幼稚園児がはしゃぐ声に混じって、選挙カーのアナウンスが鳴り響いていた。遮光カーテンと言われて買ったが、防音カーテンでは無いようだった。「あなたの暮らしを良くします」。今の暮らしで十分だと言ったら、その政治家はすぐに返事ができるだろうか。説教するのか、支持者稼ぎに肯定して見せるのか。急に何かこみ上げてきて、また吐いた。涙を一緒に零しながら、明日は彼女と外食でもしようかとふと思った。

心的外傷

 ゆらりゆらりと、水草が揺れている。それは果たして本物なのかそれともイミテーションなのか、別に買うつもりもないぼくには関係のないことだった。水は嫌いである。ぬるりぬるりと、得体のしれない感覚を残し腐っていくそれが途方もなく嫌いである。なのになぜこんな海に近い町に住んでいるのかと訊かれたら、便利だからと言うほかない。
彼女から汗が滴るのをぼくは見ていた。長細いそのラケットをなんだか巧みに操りながら、飛んだり跳ねたりする彼女を無意味にずっと眺めていた。対して強くもないチームは誰の興味もひかないのだろう、観客はほとんどいない。親族でもプレイヤーでもなんでもないぼくがその場にいるのは異質であって、そうして実際異分子として見られていた。観客席は来賓の為に用意されていたからぼくは二階の通路の端に追いやられる。観客などいないのだから観客席も空席ばかりなのにそれでも誰もぼくを座らせてはくれないようだった。
水槽に一匹だけの熱帯魚は悠々と泳ぎ続けている。
「なんで空気が読めないのかな」
きんきんとした声が喫茶店に響いた。女子大生らしかった。短すぎるワンピースからは屈めばきっと下着が見えてしまうことだろう。見せられる側は可愛そうだと思った。興味もない女の恥部を布一枚越しに見せつけられる文明人の気にもなってほしかった。向かいの男は何やら弁明しているようだったが突然立ちあがって奇声をあげた。ああああああああああああと、語彙の欠片もない叫びはその癖音量が足りなく女には聞こえていない。
 ほとんど空になったアイスコーヒーのグラスには水滴がびっしりとついている。外は青空だった。ここもだめだ。月の光が悪いように見えて、案外太陽が昇るから発狂者が出るに違いなかった。

愛情

 薬局でボトル入りの愛情を買った。保険適用外で十割負担のそれは十二錠で万を超える。手帳の交付を受ければ三割負担で済むけれど、誰にも愛されてないことを国に認めて貰いに行くのも馬鹿らしい。そう考える人間は多いらしく、売上の割に手帳持ちは少ないと聞いた。金で愛情を買っていても、誰かには愛されていると虚勢を張りたい者ばかりなのだろう。いやむしろそのように体裁を気にするからこそ隠れて愛情など買いに来るのかもしれない。

 愛情は温かくも冷たくもなく、甘くも苦くもない。ただ無味常温のそれは飲み込もうとしても異物を嚥下していると感じるだけだ。別に患部もないしどう摂取したって構わない。血管から流そうと吸収率が変わる性質のものでもないため経口摂取が推奨されている。要は愛情を取り込んだ、その実感を得る為だけに僕らはそれを買っているのだった。
 味のないそれをがりがりと噛み砕きながら、僕は愛情の製造過程を妄想する。対象を必要としない有償の愛はどうやって作られるのだろう。工場の奥深く、十字にかけられたキリストがチューブに繋がれている。そこからとろりとろりと垂れ流された無償の愛に圧力をかけまして、乾燥機で水分を飛ばしたものがこちらです。どうやらそれっぽいな、と思ったところでキリストはもうとっくに死んだのだった。奥歯で細かく粉砕された愛情は、大した高揚感もなく胃の中に落ちていく。

「まだ愛情を買っているのか」
高校時代の友人は風俗通いを始めたという。どうせ金を払うなら有機栽培の愛情を。オーガニック思考な彼はそんな風に健全に笑っている。僕は僕が受け取ると想定されてない愛情が欲しいんだよ、地下牢の中にも届く愛情が。そんなことを冗談めかして言ってもきっと彼にはわかるまい。僕の視線を受けてきらきらと笑える彼にはわからない。
 固体感しかない愛情を口の中で転がすと、徐々に小さくなるのがわかる。唾液に溶け込んだ愛情はもはやどれくらいの濃度なのかもわからない。それを徐々に飲み下しながら、僕は世界の愛情の総量について考える。注がれる愛情は全てが伝わることなく、空気中へと拡散していく。ならばエントロピーが増大していつかは世界中がぬるい愛で満たされるのだろうか。だけれど器用な人間は、何もないところから愛情を受け取ってしまえるからいつまでたっても大気中の愛情濃度は上がらない。製薬会社では僕ら不器用人に代わって器用な機械が漂う愛情を濾しとって丸めて固めている、そんな光景を思ってみた。愛情の化学式は瓶には書かれていないけれども。

 僕が僕でも僕じゃなくても平等に与えられる愛情は、純度百パーセントで僕の心を支えてくれる。僕が僕だと決めるのは愛情を与える側の裁量だ。僕だから与えられる愛は僕じゃなくなったら与えられないのだから信じられない。
 製作者不明の愛は、正体不明の僕の体に今日もまた吸収された。

夜景の綺麗なこの街で

夜景の綺麗なこの街で

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-20

CC BY-NC-ND
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  1. 過ぎたるは猶及ばざるが如し
  2. 心的外傷
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