シュタバイの伝説

シュタバイの伝説

『 シュタバイの伝説 』

 これから、私がお話しするのはメキシコのお話です。
 メキシコは日本からは随分と遠い国です。
 皆さんにはあまり馴染みのない国だと思います。
 メキシコには昔、たくさんの部族がおりました。
 メシーカ(アステカ)族、マヤ族、サポテカ族、ミシュテカ族、その他にもたくさんの部族がおり、それぞれが国をつくり、独自の文明をつくっておりました。
 メシーカ族は自分たちがつくったアステカ帝国がスペイン人のエルナン・コルテスとその軍隊に滅ぼされてから、テスココ湖に建設したアステカ帝国の首都ティノチティトラン、現在のメキシコの首都メキシコシティがある盆地ですが、そこを離れ、メキシコの各地に分散して落ちのびて行きました。
 別の伝えに依れば、その前にもメシーカ族は何世紀にも渡ってメキシコ各地に出没していたというお話もあります。
 アステカ帝国滅亡後、亡国の流浪の民となったメシーカ族の一部はユカタン半島にまで落ちのびて来ました。
 けれども、ユカタン半島には昔からマヤ族が住んでおり、新しく侵入して来たメシーカ族との間に、闘いが絶え間なく起こりました。
 このお話は、その頃のユカタン・マヤの少女のお話です。
 
 メキシコの南東部で、北に突き出した半島があります。
メキシコ湾とカリブ海の間にあるこの大きな半島こそ、この物語の舞台となるユカタン半島です。
ユカタン半島の『ユカタン』という名前。
日本人の耳には、何となく、愛嬌のある響きを持つ名前です。
皆さんの中にも、由香とかいう名前を持つ友達を小さい頃は、ゆかちゃん、と言えず、ゆかたん、と呼んでいたことがある人がいるかも知れませんね。
まあ、それはともかく、このユカタンという名前にはいろいろと由来があるようです。
先住民族であるマヤの人々が自分たちの地域をユカタンと呼んでいたということではなさそうです。
おそらくは、違った名前で呼んでいたことでしょうが、メキシコを含めて、ほとんどの場合、地域の名前を付けるのはその地域に新しく入って来た外来者です。
ユカタンの場合もそうであり、新しく入って来たスペイン人が、ここはどこか?、と現地のマヤの人に訊いたところ、マヤの人はスペイン語を全然理解出来ませんでしたので、わたしはあなたの言っていることが分からない、というようなことをマヤ語で話したらしいのです。
その言葉が、ユカタン、という響きに聞こえたのでしょうね。
てっきり、この地域はユカタンという名前で呼ばれているとそのスペイン人は勘違いして、それを記録者に命じ、そこの地名として記録させてしまったというのが、どうもユカタンという名前の由来であり、真相のようです。
ユカタンという地域は、マヤの人々の間では、鹿と雉がたくさん居るところ、と呼ばれていたという話もあります。

 マヤに関しても、少しお話をしてみたいと思います。
マヤという言葉に関しても、いろいろと諸説があり、実際にマヤの人たちが自分たちの部族をマヤと呼んでいたかどうか、実は分かっておりません。
これも、スペイン人の命名によるものと考えられます。
実際、私たち日本人に関しても、日本という言葉、或いは、大和民族という言葉を昔の古代人が使っていたかどうか、となりますと、これに関しては、そのような言葉は使っていなかったという方が真実です。
いずれも、新しい言葉であり、古代の人は外来の人に、お前たちは誰かと尋ねられたら、おそらく、自分たちの住んでいる地域を代表する名前を挙げて、何々というところに住んでいる者、というふうに答えるのが普通かと思います。
その名前が、ヤマトであれば、ヤマトに住む者、と答え、いつのまにか、そこの人々はヤマト人と通称されるようになっていったことでしょう。
話が少し脱線してしまいました。
元のマヤの話に戻ります。
マヤ、という言葉は私たちの耳にはユカタンという言葉同様、柔らかく響いて来る言葉です。
神秘的で謎に満ちたイメージを与え、その国は平和な楽園であったかのようなイメージも与えます。
しかし、これらのイメージはマヤ文明に対する研究が進むほど、修正されつつあるのが現状です。
当初は生贄などの野蛮な信仰儀式は無かったように考えられた時もありましたが、その後の研究で、アステカ文明同様、生贄という残酷な儀式はマヤの社会にもあったことが判明しております。
ただ、アステカ族(メシーカ族)が帝国としての組織をつくり、強大なアステカ帝国をつくったようには、マヤ族は帝国をつくらず、都市国家のまま、メキシコ南部を含む中米に分散していたことは事実であり、規模的に見れば、アステカ帝国ほど激烈な生贄の儀式は行ってはいなかったと考えられています。
ヨーロッパで言えば、アステカ帝国はローマ帝国、マヤの都市国家はギリシァの都市国家を連想させます。
また、マヤ文明には多くの特色があり、今でも私たちに壮大なロマンを感じさせます。
二十進法で数を数え、ゼロという概念も世界に先駆けて確立しておりましたし、天文観察に基づく精緻な暦の創出と、その暦による農業の管理も瞠目すべき特徴です。
その他、四万種とも言われるマヤ文字を持っていたことも特筆すべき特徴で、おどろおどろしくも複雑怪奇な絵文字は、神官しか判読出来なかった『神聖文字』とも別称されています。
このマヤ文字に関しては、現在では八割以上が解読されているという話もあり、今後の解読による新しい人類学及び考古学的発見もあろうかと私は楽しみにしております。

 マヤ族はずっと古代から続いている部族ですから、数々の神話、民話、伝説を持っておりますが、その中でも、シュタバイという妖怪の話は有名で、ユカタンの地域ではよく耳にします。

 その妖怪はセイバという大きな樹に棲む妖怪で、人前に出る時は、若く美しい女の姿をして現れるということです。
夜、セイバの巨木の下を旅人が通ると、どこからか女の声がして、その人を呼び止めるのだそうです。
甘く優しい声で旅人を呼び止め、次に、絶世の美女がセイバの木陰から現れるのだそうです。
そして、突然の美女出現に対して警戒している旅人を上手に誘惑するのだそうです。
旅人を誘い、セイバの樹の後ろにある自分の家に連れ込みます。
翌日、旅人はセイバの樹の下で発見されます。
胸を鋭い爪で切り裂かれた無残な死体で発見されるのだそうです。
一夜の恋の代償が無残な死であったのです。
 何とも、恐ろしい伝説です。
 シュタバイの話はユカタン半島のメリダという街に住んでいた頃、私はいろんな人から聞きました。
 いろんな人と言っても、全て男性でしたが、その都度、私はその人に訊きました。
 居る、と言うけれど、遭ったことはあるのかい、と。
 彼らの答えはいつも、決まっていました。
 まだ、無いんだ、遭っていれば、今ここには居ないよ。

 前にも申しましたが、マヤ族は帝国をつくらず、数多くの都市国家として存在していたためか、アステカ帝国のように、首都陥落、即滅亡という形では征服されませんでした。
マヤの征服に関しては、かなり長期間の年月がかかったという歴史的事実があります。
また、アステカ帝国は帝国組織として近隣の部族に専制的な権力を持って対峙していたためか、近隣の部族の恨みを買っていて、スペイン人が征服行動を起こした時、近隣の部族はこぞってスペイン人の味方をして、連合軍を結成し、アステカ帝国軍と戦ったそうです。
いわば、スペイン人征服者軍と組んだ反アステカ部族の統一連合軍とアステカ帝国軍は戦うという最悪の状況になってしまったわけです。
 これは、今でも通用するお話かも知れませんね。

 スペイン人の兵士は鋼鉄の甲冑に身を固め、スペインから連れて来た馬に乗って闘いました。
当時のメキシコに馬という動物はおりませんでした。
それで、馬を見たことが無い先住民にとって、この騎士の姿は巨大な馬と合体して、獰猛な怪物のように見えたことでしょう。
まるで、四足の巨大な怪物のように見えたことでしょう。
また、騎士が携えている剣と斧付きの槍は鋼鉄製であり、アステカ軍の武器である棍棒、投槍は黒曜石の鋭い刃が付いているとは言え、所詮は石であり、鋼鉄の甲冑に身を固めたスペイン人兵士の敵ではありませんでした。
他、アステカ戦士を驚かせた兵器としては、発明されたばかりの鉄砲があります。
これも、恐ろしい武器として圧倒的な威力を振るいました。
弾の威力は勿論、発射時の轟音は先住民の肝を潰すのに十分な威力を発揮したのです。

 それでも、アステカ帝国の戦士はとても勇敢に戦いました。
首都のティノチティトランをスペイン・反アステカ部族連合軍に完全に包囲され、全面的な攻撃を受けても、三ヶ月もの間、強靭な抵抗を示し、よく闘いました。
アステカ戦士の中で最も勇猛な戦士は、『ジャガーの戦士』、『鷲の戦士』と呼ばれ、それぞれジャガーの毛皮、鷲の頭飾りを被って闘いました。
言わば、エリート戦士とでも言うのでしょうか、立派な屋敷に集団で居住し、日夜武技の訓練を怠りませんでした。
近隣の部族にとって、『ジャガーの戦士』、『鷲の戦士』といった戦士軍はアステカ帝国を象徴する勇猛果敢な戦士軍として恐れられると共に、尊敬されてもいたのです。

 でも、アステカ帝国の戦士がよく闘ったにも拘わらず、首都ティノチティトランの陥落と共に、アステカ帝国は滅び、生き残った人々はそれぞれ新しい安住の地を求めて、長年住み慣れた故郷であるメキシコ盆地を捨て、流浪の民となりました。
アステカ戦士も例外では無く、他の部族による落ち武者狩りの執拗な追跡を逃れ、メキシコの広大な土地をさまよい歩くこととなったのです。
南に落ちのびていった者の中には、メキシコ盆地から遥か南のユカタン半島にまで落ちのびていった者もおりました。
集団で落ちのびていった者はその地域では外来の侵略者ともなったのです。
外敵の侵入も無く、油断している部落を集団で襲い、家畜を奪い、穀物などの食糧を強奪し、果ては、その地の支配者となる者もあったことでしょう。

 ユカタン半島で流浪するアステカ帝国の残党、主体はメシーカ族ですが、そのメシーカ族の攻撃の対象となったマヤ族はアステカ帝国のような強大な統一帝国をつくらず、規模としては小さな都市国家群を構成しておりました。
アステカ帝国とマヤの都市国家群を比べますと、ヨーロッパでそれぞれが繁栄した時代としては異なりますが、あたかも、ローマ帝国とギリシァの都市国家群を連想させます。
マヤもかつては、都市国家の中で突出して強大となった巨大都市国家を自分たちの盟主と仰ぎ、団結して一つのマヤ連合国として成立していた時代もありましたが、この物語の頃は、マヤ族は繁栄の絶頂期をとうに過ぎ、既に衰退期に差しかかっており、盟主となるべき強大な都市国家も無く、小規模都市国家が広大なユカタン半島に点在しているという状況にありました。
メシーカ族の残党にしてみれば、この状況は侵入に好都合と言えるものでした。

 当時のマヤの都市国家は五階級の階層で構成されておりました。
即ち、王族・貴族、神官、戦士、平民、奴隷という五階級の人で構成されておりました。
小さな部落では、祭儀を司(つかさど)る神官が首長となり、戦士、平民を支配しておりました。
神官は世襲であり、天文の知識と絵文字の知識を独占しておりました。

 ユカタンの或る都市国家の、或る小さな部落のお話を始めます。
水を吸収しやすい石灰岩の地層に覆われているユカタン半島には川が無く、人々は洞窟の地底湖或いは表面が陥没して地上にポッカリと口を開けた水甕のような、絶壁に囲まれた沼から水を汲み出して、生活をしておりました。
周りは全て亜熱帯の鬱蒼とした密林に囲まれ、人々は首長の指導に従って、計画的に密林を焼き、焼畑農耕で細々と暮らしておりました。
貧しい暮らしでしたが、平和に暮らしておりました。
部落の首長の名前はツクムバラムと言い、名門の貴族であり、神官も兼ねておりましたが、平和に慣れ、メシーカ族の動きに関してはほとんど関心を持ちませんでした。
彼はカカオの豆を石臼ですり潰し、水とアシオテという赤い木の実を混ぜて泡立てて飲むという、当時としては極めて贅沢なことをして喜ぶといった、極めて平凡な人物でした。
また、ツクムバラムの妻であるイシュチェルも、関心と言えば、貴重な翡翠(ひすい)を集め、自分の身を飾り、人に見せびらかすことでした。
異民族の襲来、或いはマヤ同士の都市国家の間での戦争もこのところずっと無く、周囲と隔絶した密林の中で人々は眠るような平和に浸っていたのです。
部落の中央の広場には赤く塗られた階段状のピラミッドが高く聳えたっており、ツクムバラムは毎日決まった時刻にピラミッドに昇り、マヤの神々への感謝の祈りを捧げておりました。
ピラミッドの上に立つと、朝は緑の地平線から元気な太陽が昇り、夕には太陽が荘厳に沈んでいく光景が眺められました。
時折、色とりどりの羽根をした鳥が鋭く鳴いて、果てしなく青い空を飛んで行きました。

 その部落に、同じ年齢の少女が二人おりました。
二人とも、美しい娘でしたが、同じように家族を小さい頃に無くし、独りきりで住んでおりました。
マヤ族は父系社会で、娘の結婚は父が決めるという慣わしがあり、父がいない娘は結婚からはほど遠い存在とされ、生涯を独身で過ごすということもよくありました。
美しさにおいては、どちらの娘も遜色はありませんでしたが、性格は正反対でした。
一人は控えめな性格でいつも口元に微笑を絶やさない娘でしたが、もう一人の娘は勝気な性格でいつも唇を固く閉ざしているような娘でした。

 控えめな性格の方の娘はシュタバイという名前でしたが、村人からは『シュケバン』というひどい名前で呼ばれておりました。
『シュケバン』という名前は、『売春婦』、『淫らな女』或いは『尻軽女』という意味のひどい名前です。
とてもひどい名前で、シュタバイは呼ばれておりました。

 口さがない村人はシュタバイのことをこのように話しておりました。
「あたしゃ、あの娘が見ず知らずの旅人を自分の家に泊めるのをこの眼で何回も見たよ」
農婦イシュクマネが興奮して言うと、夫のホルポルも口汚くシュタバイを罵って言うのです。
「ほんとに、あの娘は色気違いだ。旅人をとっかえひっかえ、家に連れ込む娘だ」
猟師のコチャンも夫婦に同調してこのようにシュタバイを罵るのです。
「あの娘は村の恥だ。旅人を泊める度、旅人から何か貰って、持ち物が増えていくんだ。とっとと、村を出て行って貰いたいものだよ」

 一方、勝気な性格の方の娘はウツコレルという名前の娘で、この娘の方は村人から尊敬され、敬愛されておりました。

 神官のナチンが言っていました。
「ウツコレルは本当に感心な娘だ。自分から、神殿の香炉係を志願するなんて。生涯、結婚せず、純潔を守るつもりなのだ。なかなか、出来ないことだよ」
戦士のホルカッブはウツコレルを愛しておりましたが、純潔を第一とする香炉係となったウツコレルを尊敬して言いました。
「男に媚を売るシュタバイと違って、ウツコレルの立派さを見ろ。あの娘は村の誇りだ」

 このように、二人の娘に対する村人の評価は極端に偏っておりました。
実際は、シュタバイは心が優しすぎる娘であり、ウツコレルは利己的で心の冷たい娘でした。
 シュタバイは森に棲む動物たちが傷付いて苦しんでいるのを見掛けると、優しく介抱してやる娘でもありました。
鹿が猟師のコチャンが放った矢で傷付いた時など、コチャンに見つからないように、その鹿
を自分の家に匿(かくま)い、傷口に薬草を塗り、介抱して治してやりました。
鹿ばかりではなく、猿も雉も金剛インコも、シュタバイは分け隔て無く、傷付き、病気にな
った動物を愛情深く治るまで介抱する娘でした。

 そもそも、『売春婦』とか『淫らな女』と悪口を言われるようになったのも、旅人に対するシュタバイの親切を心無い村人が誤解した結果でした。
部落には、旅をして商いをする行商人がたくさん来ました。
塩の行商人もおりましたし、頭飾りとして貴重なケツァル鳥の美しい羽根を売り歩く行商人もおりました。
その他、マヤでは貴重な石とされた翡翠売りもおりましたし、武器の刃となる黒曜石(こくようせき)を売って歩く商人もおりました。
当時、夜の旅はとても危険でした。
夜の森には恐ろしいジャガーもおりましたし、毒蛇も徘徊していました。
でも、シュタバイの部落にはそれらの行商人を泊める宿も無く、夕方頃に着いた行商人は泊めてくれるところも無く、困っておりました。
それらの行商人の難儀を見るにつけ、シュタバイの心は痛み、ついには、自分の家で良ければ、ということで行商人たちを泊めることとしたのです。

 しかし、このことは、シュタバイの思いとは別に、村人には完全に誤解されてしまう行いでありました。
 結婚している女にあっては貞潔、貞操、そして結婚前の乙女にあっては純潔であることが何よりも女の美徳とされるマヤの社会にあっては、シュタバイの行為はふしだらでタブーとされる行為でしかありませんでした。

 シュタバイが泊めた旅人は部落を廻って商いをする行商人がほとんどでした。
部落を廻り、その土地の特産品を買って、都市の市場で目星をつけた物と交換し、その品物を持って、必要とする部落に行って、また欲しい物と交換するといった物々交換が主体でした。
例えば、翡翠商人のウイニクの場合は、ユカタン半島のマヤパンという都市で、翡翠を塩に換え、その塩を持って、また翡翠の産地に戻り、塩を翡翠に換え、その翡翠をまたマヤパンに持って行って、塩に換えるといった物々交換の交渉により、徐々に元手を増やし、売買によって得た差額を自分と家族の生活費に当てていたのです。
当時、ユカタン半島の海辺では良質の塩が採れ、海から遠く離れた内陸の土地では塩は大変貴重な物でした。
商人たちは泊めてくれるお礼に何かあげようとシュタバイに言うのですが、シュタバイは受け取りませんでした。
「いいんです。おじさん。差し上げる食事もこのように粗末な物しかございませんし、泊まって戴く部屋といっても、昔に亡くなった親の古い部屋ですから。お礼なんて、ほんとにいいんです。その代わり、お願いがあります。おじさんたち、商人の方はいろんな地域を廻っていらっしゃるでしょうから、何か珍しいお話を知っていることでしょう。お礼として、私に何か珍しいお話でも聴かせて下さいな。」
こう言って、シュタバイはにっこりと微笑んで、お礼をしようという言葉に対しては、か細い手をひらひらと振って断るばかりでした。
でも、商人たちの中には、ウイニクのように、当時、黄金よりも貴重とされた翡翠を一個、嫌がるシュタバイの手に無理矢理握らせて別れを告げる商人もおりました。
塩商人ならば、やはり貴重な塩を一握り置いて行く者もおりました。

 「ウイニクおじさん、こんな物しか無いんです。ごめんなさい」
シュタバイは翡翠商人のウイニクに言いながら、とうもろこしを煮てすり潰して、お粥状にしたスープを皿に盛って出しました。
「シュタバイ、そんなことは無い。立派なご馳走だよ。ほんとにありがとう」
 ウイニクはゆっくりと食事をしました。
 「腹の皮が突っ張ると、目の皮がたるむと言うからな。さあて、眠くならない内にシュタバイとの約束を果たさなきゃね。以前、ここに来た時は、確か、ボロンカルの滅亡のお話をしたね。今回は、水の妖精、ニクテ・ハーとヨホアの王子カネックのお話をしてあげよう」
 ウイニクはゆったりとタバコを燻らしながら、話しました。
 「昔々のこと。我々マヤ民族が漸く集落をつくり、集団で住み始めた頃のことだ。ヨホアという湖に咲くお花畑でニクテ・ハーは生まれた。ニクテ・ハーというのは水の神様の娘で、水の妖精なのだ。湖の底から湧き出てくる泡と半透明の水の雫から生まれ、ポチャポチャと音を立てながら、湖面を滑るように歩く。ニクテ・ハーは春の太陽で焼けるような大地から蒸し暑い蒸気が発散する四月に生まれた」
 シュタバイは目を輝かせて、ウイニクの口元を見詰めていました。
 「さて、或る日のこと。ニクテ・ハーが誕生した時、ヨホアの王子、カネックは湖の岸辺で釣りをしていた。そして、うっとりするような華麗な美しさを持った女が湖面から颯爽と立ち上がり、高らかな声を上げるのを目撃した。その澄んだ声は湖面を滑るように流れ、山々に木霊したということだ。カネックは驚き、恐怖に囚われ、釣竿を投げ捨て、部落に走って帰り、部落の長老に今見てきたことを告げた。カネックの話を黙って聴いていた長老は、彼が話し終えるのを待って、厳かに言った」
 ウイニクは一息入れて、タバコを吸い、白い煙を長く空中に吐き出しました。
「『カネック様。それは、水の神様の娘で、ニクテ・ハーという水の妖精ですじゃ。すぐ、帰って来られたのは賢明なご判断でした。ニクテ・ハーに近づいてはなりませんのじゃ。近づこうものなら、ニクテ・ハーの父である水の神様の怒りを買って、とんでもないことになりますから。また、ニクテ・ハーは我々には何の悪さも致しません。それどころか、ニクテ・ハーが生まれ、人の前に姿を現わしたということは喜ばしいことなのです。その年の豊作を約束するものですから。ニクテ・ハーのすることはただ、湖を勝手気儘に歩き、水鳥を驚かして喜ぶだけじゃから。カネック様、ニクテ・ハーに近づいてはなりませぬぞ』。でも、長老のこの戒めの言葉はカネックの耳には届かなかった」
 ウイニクは真剣に聴き入っているシュタバイの可愛らしい顔を見ながら、話を続けました。
 「カネックはニクテ・ハーのことを忘れることが出来なかった。もう一度、あの美しい姿を見たいと思った。それで、カネックはカヌーを漕いで、毎日湖に出たということだ。一方、ニクテ・ハーも毎日のように、カネックの前に姿を現わした。でも、ちらりと彼に視線を走らせるだけで、湖面を飛ぶ蝶の後を追い駆けるなぞして、彼の前から逃げてしまうのだ。或る日、とうとう、カネックは長老から言われた言葉を忘れ、いつものように現れたニクテ・ハーに声をかけてしまった。『君が好きなんだ、ニクテ・ハー。君に心を奪われてしまったんだ。お願いだから、僕の言うことを聞いておくれ。どうか、僕から逃げないでおくれよ』」
 ウイニクはマンゴーに唐辛子の粉をかけて旨そうに一口食べて、喉を潤しました。
 「このマンゴーは熟していてとても美味しいよ。・・・、さて、お話を続けよう。カネックの言葉を聞いて、ニクテ・ハーはほんの少しの間、立ち止まった。そして、滝の水のように心地よい、澄んだ声でカネックに答えた。『あなたが望むように、私があなたを愛するなどということは到底出来ないわ。ただ、私に会うことは出来るのよ。これまで通り、私を見るだけなら。でも、今のように、私に声をかけたり、近づいて来てはいけないわ。また、私を両手で抱き締めてつかまえようとしても駄目よ。私から離れてちょうだい。さもないと、あなたは死ぬことになるわ。抱き締めたあなたの溜息は私を溶かし、父の罰で、あなたの部落は洪水で滅びることになるから』こう言って、ニクテ・ハーは湖面を滑って消えて行った」
 カネックが可愛そう、とシュタバイが呟きました。
 ウイニクは微笑みながら、話を続けました。
 「しかし、ニクテ・ハーの忠告にもかかわらず、カネックの想いは日に日に強くなってきた。そして、或る日の午後のこと。カネックはニクテ・ハーをこの腕でつかまえようと決意して、湖にカヌーを浮かべ、いつもニクテ・ハーが現われるところに漕いできた。ニクテ・ハーがいつものようにカネックの近くに現われた時のことだ。カネックは叫んだ。『僕は君をさらいに来た。もうこれ以上は我慢出来ないんだ』そう言うなり、カネックはニクテ・ハーをつかまえようと湖に飛び込んだ。しかし、ニクテ・ハーはその瞬間、一筋の靄となって、空中に消え失せてしまった。カネックは飛び込んだものの、泳ぎを知らなかった。夢中でもがいているところに、一本の丸太が流れて来た。カネックは両手でその丸太にしがみつき、丸太の上に乗ろうとした瞬間、丸太は生命を得たかのように、激しく身を震わせ、カネックを払い落として、水の中に沈んでいった。カネックも水の中に沈んでいった」
 ウイニクがシュタバイを見ると、シュタバイは少し涙ぐんでいました。
 「岸辺には釣りをしていたヨホアの人がたくさん居た。皆、この光景を見ていた。つまり、哀れな王子、カネックの死の証人となったのだ。湖で起こったこの悲劇の知らせが部落にもたらされた時、『カネック王子は丸太だと思ったのだろうが、実は藻に覆われた巨大なイグアナだったのではなかろうか』と言う者もおった。しかし、部落の長老が重々しい言葉で語ったことは、このようなことであった。『いや、それは違う。この悲劇は水の神様がニクテ・ハーに触れようとした者に与えたもうた罰だったのだ。さあ、皆で、神の怒りを鎮めるために湖に行って、お祈りをしよう。さもないと、神の怒りは更に続き、我々の部落は洪水によって滅ぼされてしまうことになる』ヨホアの部落の人々はカネックの死を嘆きつつ、湖に行き、祭壇をつくって水の神に祈りを捧げたということだ。」
 そして、ウイニクは微笑を湛えた表情でシュタバイに言いました。
 「この世の者ではない者に恋をしたらいけないよ、という教訓かな。しかし、死の罰を与えられたカネックが不幸せだったとは必ずしも言えないね。案外、幸せだったかも知れないねぇ。自分の心を偽らず、恋に殉ずるのも人だよ」
 ウイニクがこの話を終えた頃には、紅く空を染めていた夕日も西に沈み、部屋は闇に包まれておりました。
 少し、涼しい風が吹き始めておりました。

 アー・クレルという塩の商人もおりました。
 シュタバイはとうもろこしの粒を石臼でひいて粉にしてから、水を加えて捏ね、餃子の皮のように平たくして半焼きしたものを食事としてアー・クレルに出しました。
 アー・クレルはその半焼きの皮にアグアカテ(アボカード)を載せ、唐辛子をまぶし、くるくると巻いて食べました。
 「おいしかった。さあて、と。食事のお礼に何を話そうかな。娘さんだから、美しい話が良かろう。それでは、悲しい恋の物語の始まり、始まり」
 アー・クレルは少しおどけて言いました。
 「これは、マヤのお話では無く、ここからずっと西の方にあるオアハカのサポテカ族のお話だよ。永遠の恋を成就させたサポテカの王子と太陽神の娘との悲しい恋の物語だ。昔々、オアハカ湖の周辺に、盛大に繁栄した強大な国があった。サポテカ族の国だった。その国の戦士は厳格な規律の下、近隣の国との数多くの戦争に勝ち抜き、益々勢いを増していった。他国から恐れられると共に、尊敬もされていた国であった。その国の王には年老いてから生まれた王子が一人居た。王は当然この王子を可愛がったが、後継ぎとして大事に育てると共に、文武の道でも厳しく育てた。王子は容姿端麗で、踊りも上手、且つ武芸にも秀でた立派な王子に育った。しかし、国があまりにも強大になると、王の眼が届かず、いつしか反乱の芽は育っていくものだ」
 アー・クレルは一息入れて、シュタバイが出したメロンを美味しそうに食べました。
 「或る日、戦士軍も巻き込んだ重臣たちの反乱が起こった。王は自分の不徳の致すところと嘆き悲しむばかりで、反乱鎮圧の有効な手立ては何一つ打てなかった。反乱は益々拡大し、国全体の内乱にまで発展しそうな勢いになった。王子は反乱に対する断固たる闘いを決意した。王子の軍と反乱軍との間に激烈な戦いが繰り広げられた。始めは、戦士軍の主流を味方にした反乱軍の方が優勢であったが、王子と王子の親衛隊が勇猛果敢に戦う中で、徐々に王子側が優勢になっていった。或る時、反乱軍が油断している時に王子は夜襲をかけ、戦士軍の主だった者を討ち果たした。それから、形勢は完全に逆転し、結局は王子側の全面的な勝利に終わった。王は正式に王子を王位継承者に指名し、王子が国家の実質的な指導者となった」
 王子が勝ったということを聴いて、シュタバイは安心したのか、唇をほころばせました。
 「と、なると、王子をほっておけないのが国中の娘たちだ。国中の娘という娘は全てこの勇敢で、容姿端麗、且つ踊りも上手な王子に憧れを持った。卑しい身分の娘から、高い身分のお姫様まで、全ての娘たちが王子に恋心を持ったのだ。でも、王子はどのような誘惑にも乗ることは無く、且つどんなに美しく魅力的な娘であったにせよ、女には一切無関心という素振りを見せていた。天上の星の世界にも、地上のこの勇敢でハンサムな王子の評判は届き、星の世界で一番美しい娘がこのサポテカの王位継承者に激しい恋心を抱くようになった。そして、あろうことか、この娘は王子のその人となりを実際に知るために、地上に下りることを決意したのであった。この輝く星娘は朝まで待って、彼女の姉妹たちが寝静まる頃を見計らって、美しい人間の娘の姿になって、地上に下りて行った」
 シュタバイはキラキラと眼を輝かせながら、アー・クレルの話の続きを待った。
 「そして、或る日の午後。王子は狩りに出かけた帰り道で、一人の百姓娘に遇った。娘の身なりは百姓娘であったが、全身は何となく輝いて見えた。王子は不審に思い、近づき、その娘の顔を覗きこんだ。その瞬間、王子はその娘のあまりの美しさに目を見張り、一目で心を奪われてしまった。思わず、その娘に話しかけた。『お前の名前は何て言うの?』王子の問いに娘が答えた。『オヤマル』、と。王子は少し、娘と話してから、宮殿に帰った。翌日も、狩りの帰り道でその娘に会った。そして、若い二人は恋に落ちた。王子は娘に求婚し、娘も躊躇うこと無く、王子の求婚を受けた。王子はとても喜び、娘を連れて宮殿に帰るや否や、父である王や大臣、重臣たちに娘を引き合わせた。王も娘のあまりの美しさに驚き、即座に息子の願いを受け入れ、大臣に盛大な結婚式を挙げる準備をせよ、と命じた」
 シュタバイもにこにこしながら、アー・クレルの話に聴き入っておりました。
 「一方、星の世界では、大騒ぎをしていた。何しろ、一番美しい娘が居なくなってしまったのだから。父である太陽神も大いに嘆き悲しみ、娘の行方を徹底的に追跡せよ、と星たちに命じた。天上の世界は隈なく、捜索されたが、どこにも娘が居る気配は無かった。天上に居ないとすれば、もしかすると、地上に下りたのかも知れないということになり、急遽会議が開かれ、地上を捜索する者の人選が始まった。丁度、その頃、噂のサポテカの王子が不思議な謎の娘と結婚するという知らせがこの天上の世界にも入ってきた。よもやと思い、鳥たちにその娘の顔形を調べさせると、それはまさしく失踪した娘の顔形と一致したのである。太陽神の王女である星娘があろうことか、人間と結婚するのだ。事態の重大さを前にして、父である太陽神は星たちをまた集め、協議したということだ。そして、会議の結果、人間との結婚は許されるものでは無い、それは天上の世界を冒涜するものだ、この結婚を避けるために、このまま王子と結婚するようであれば、星娘の残りの生涯は人では無く、か細い花に姿を変えられて終わることになる、ということをあの娘に知らせよ、という結論になった」
 シュタバイは眉をひそめ、悲しげな顔になりました。
 「そして、明日はいよいよ結婚式という前夜のこと。オヤマルが幸せな気分で寝床に入っていた時、一陣のそよ風が窓からさっと入って来た。オヤマルが胸騒ぎを感じ、寝床から起き上がってみると、寝台の傍に彼女の姉の一人が悲しげな顔をして立っていたのである。そして、オヤマルに父の言葉を伝えた。人間との結婚は許されない、どうしても結婚をするのであれば、オヤマルは花に姿を変えられてしまう、という恐ろしい言葉を伝えたのだ。一陣の風と共に、姉が去っていった。オヤマルは泣きに泣いたということだ。でも、太陽神の怒りを恐れる心よりも、王子への愛が勝った。二人の結婚式は盛大に催された。オヤマルは戦士の衣装を纏った凛凛しい王子の傍らで、きらびやかな婚礼衣装を身に纏い、光り輝いていた。これ以上は無い、素敵なカップルだと、婚礼に参列した者は全てそのように思った」
 シュタバイは固唾(かたず)を呑んで聴き入っておりました。
 「翌朝のこと。王子が目を覚ましてみると、傍らにいた筈の花嫁が居なかった。王子は必死になって、宮殿の中、宮殿の外を探したが、花嫁を発見することは無かった。数日が過ぎ、王子は愛する人の謎の失踪を悲しみ、食事を摂ることも無く、ただひたすら泣くばかりだった。花嫁の寝台に座り、さめざめと泣いていると、一陣の風が窓から入り、天上の精霊が現われた。驚く王子に、花嫁の本当の出自、太陽神の娘であることをその精霊は厳かに告げました。そして、掟に背いた娘には罰が下されたことも告げたのである。娘は姿を花に変えられて、今オアハカ湖の岸辺でピンク色の花となって風に揺れている、と。この予想だにしない恐ろしい打ち明け話を聴いて、王子の心はさらに深い絶望の淵に追いやられた。王子は絶望のあまり、部屋に閉じこもり、食を絶って死ぬことを決意した。王子の様子を見ていた精霊は天上の世界に戻り、太陽神の足元にひざまずき、王子を愛する花嫁のところに行かしてあげて欲しい、と懇願したということだ」
 アー・クレルが見ると、シュタバイの顔はいつしか涙で濡れておりました。
 「翌日のこと。王子の侍者は宮殿のどこにも王子の姿が無いということに気付いた。皆、必死になって王子の行方を探した。国中、隈なく探したが、しかし、王子は跡形も無く、消え失せていた。この伝説は、オアハカ湖の岸辺に咲くピンク色の花の傍らに、いつの間にか、ほっそりとした茎を持つ紅い花が新たに咲いていた、という言葉で締めくくられている。その二つの花は、お互いの花弁に触れ合いながら、そよ風に揺れて咲いていた、ということだ。今でも、咲いているということだよ」
 アー・クレルのお話は終わりました。
 いつの間にか、夜になり、銀色に輝く月が窓から顔を覗かせておりました。
 風も無く、ねっとりとした暑い夜になりそうな或る夜のお話でした。

 カルアックはケツァルという鳥の羽根を売り歩く商人でした。
 ケツァルという鳥は、マヤ地域で言えば、南のはずれの密林に棲むとても美しい鳥でその羽根は貴族とか神官、戦士が被る頭飾りの羽根としてとても珍重されておりました。
アステカ帝国の王もこの羽根でこしらえた見事な頭飾りを被って儀式に臨みました。
また、ケツァルは人に捕らわれるとすぐに死んでしまうと云われている鳥で、ケツァルの狩猟人はケツァルを捕まえると、必要な羽根だけを抜いて、その後は、その身をまた元の密林に放してあげるということを狩猟の原則としておりました。
 シュタバイは食事の後、果物をカルアックに勧めました。
 シュタバイの住んでいる地域では、マンゴー、メロン、西瓜、パパイヤといった果物はふんだんに採れていたのです。
 「シュタバイさん。わしはあまりお話が得意ではないのじゃ。でも、お前さんは一生懸命聴いてくれそうだから、わしの知っている話の中で、とびっきりのお話をしてあげよう」
 シュタバイはとても嬉しそうに微笑んで、カルアックのお話を待ちました。
 「昔々、コパンがマヤの都市国家の盟主であった頃。コパンに輝くように美しい娘がおった。シュタバイさんみたいに可愛く美しい娘じゃった。ああ、何もそれほど、恥ずかしがることは無い。シュタバイさんは本当に美しい娘じゃから。その娘は、あたかもエメラルドと見間違えるほどの綺麗な緑の眼をしておった。娘は高い身分の貴族の娘であり、神に捧げる聖なる香炉の世話をするよう命じられておった。そうそう、今この部落では、ウツコレルという娘が香炉の係をしているとか。香炉の係は大事なお役目じゃよ。あ、また、脱線してしもうたわい。さあ、元に戻してお話を続けようかな。香炉の中では、薫り高いコパルの樹脂が焚かれておった。その煙は偉大なる太陽神であるキニク・アフを讃える儀式を崇めたてまつるものであった。この娘が近隣の都市国家の王子を愛してしまったことで、信仰奉仕で最も大切とされた貞操と純潔の誓いを破ってしまった、というお話なのじゃよ」
 カルアックの話はあちこちと脱線しましたが、シュタバイはじっと静かに聴いておりました。
 「今もそうじゃが、信仰の道に入った娘は、触れることが出来ない存在となり、その役目が済むまでは純潔を守らなければならないという掟があったのじゃ。その掟は実に厳しい掟で、頭の片隅にでもこれっぽっちも性的な思いを抱いてはならず、たとえ、心の中といえども、不道徳な感情を抱いてはならぬ、とされていたのじゃ。まして、香炉係という神聖な役目を果たす乙女は男に愛情を持ってはならなかったのじゃ。そして、太古の昔からの掟では、神に選ばれた乙女の純潔を汚した者には、太陽神の怒りということで、金色に塗られた矢で心臓を射られ、死ぬという刑が課せられていたのじゃ。また、禁じられた愛の相手となった女には神を冒涜した者として、社会的身分を全て剥奪され、『未亡人の家』に生涯閉じ込められるという刑が待っていたのじゃ。さて、その王子は大広場で行われた『新しい火』を燃やす儀式の時に、その娘を見た。娘は青いチュニカを着て、翡翠を吊り下げた、海の貝の首飾りをしておった。娘の美しい顔は火に照らされて、まるで太陽の光で輝いているように見えたということじゃ。コパルが焚かれた香炉を揺らしながら歩く娘はこの世の者とは思われぬ美しさに満ちておった。王子はあまりの美しさに茫然として娘を見ておった。『新しい火』の儀式が滞り無く終わり、人々がばらばらと帰って行った時、王子は火のように燃え盛った思いを告げるため、周りの目も気にせず、その娘に近づいて行った。そして、このように愛を告げたのじゃった」
ここで、カルアックは口調を変え、若者らしい口調を真似て話した。
そのおどけた感じに、シュタバイがにっこりと微笑んだ。
「『お前を初めて見た時から、僕の愛は狂ったように燃え上がっている。もう、他の女なんか愛せない。お前こそ、今日から僕の人生で一生を通して僕を満たす女だ。僕と一緒に来て欲しい。この地を去り、どこかに僕たちの部落をつくろう。そこで、僕たちは子孫をつくり、新しい家系を打ち立てるのだ』このように王子から言われ、娘も恐ろしい罰を忘れ、一目で、王子を愛してしまったのじゃ。愛は盲目。愛ゆえに、人は悲劇の鎖を解き放ってしまうものだ。娘は王子に言った。『私もあなたを愛しています。アー・キン・マイに太陽神への奉仕を放棄してもよいか、許しを請うことにしましょう。そうすれば、私たちは目出度く結婚出来ます。彼にお願いをしに、これから二人で行きましょう』」
シュタバイは心配そうな顔をして、カルアックの話の続きを待った。
「しかし、その願いが聞き届けられることはなかった。いくつかの例外はあったものの、香炉に対する奉仕の役だけは別格じゃった。例外は認められなかったのじゃ。若い二人は、お互いを諦められずに、掟に逆らって、リオ・アマリージョ(黄色い川)の岸辺にある洞窟の中で秘かに逢瀬を重ねたのじゃった。しかし、或る日、二人は一緒に居るところを発見され、捕らえられてしまった。王子は前に述べた矢による死刑を執行されたのじゃ。そして、純潔を失った娘は掟破りの恥ずべき女として、誰一人として会えないようなところに幽閉されてしまったのじゃ。一年が過ぎた頃じゃった。その日、娘は独りきりでおったが、胸に光り輝く虫がとまっているのに気付いた。それは見慣れぬ虫じゃった。娘はその虫を手に取って、悲しそうにその虫に訊ねたのじゃった。『マー・シェク、お前は誰なの?』すると、その見慣れぬ虫は清らかな声で答えたのじゃった。『元気そうだね。安心したよ。怖がってはいけない。僕だよ。僕はこんな格好になって、永遠にお前と一緒に居るためにここに来たんだ。もう、誰も僕たち二人を引き裂くことは出来ないんだ。僕のことは心配しないでいいんだ。僕は食べないし、飲むこともしない。こうして、いつもお前の傍に居るよ』」
カルアックは話し終わり、深い溜息を吐きました。
シュタバイはカルアックから少し顔を背けました。
どうも、泣いているように思えました。
 マー・シェクはコガネムシのことで、今でもマヤの娘たちはコガネムシを永遠の愛のシンボルとして大事にしているそうです。

 ナコンはカカオ豆を売り歩く商人でした。
 カカオ豆は当時、お金としての役割も果たすほど、貴重な産物でありました。
 この部落では首長のツクムバラムの好物がカカオの飲み物ということで、ナコンにとってはツクムバラムが大のお得意さまでありました。
 時々は、このようにしてカカオの飲み物を作るのだよ、と実際に飲み物を作り、シュタバイにもご馳走してくれました。
 砂糖を加えて飲むというのは征服者のスペイン人が始めた飲み方であり、当時は、砂糖は加えず、粉末にしたカカオに水と少しの木の実を加え、泡立てて飲むという飲み方でしたから、味はいまいちだったと思いますが、お金の役割も果たしたものを単なる飲み物として飲んでしまうというのはとても贅沢なことだったのでしょう。
 シュタバイが出してくれた、粗末ではあるものの、心がこもった食事を済ませてから、ナコンは蜂蜜から作られたお酒をちびりちびりと飲みながら、話を始めました。
 「シュタバイはウシュマルにはこれまで行ったことがあるかい? 無いのかい。でも、小人が造ったとされるピラミッドの話は聞いたことがあるんだろう。ある、のかい。そりゃあ、そうだろうなぁ、あまりにも有名な伝説だからね。じゃあ、その話はやめといて、今回はウシュマルの石の女の話をしようか」
 シュタバイも簡単に食事の後片付けを済ませておいて、ナコンの前に座りました。
 少し、蒸し暑い夜でした。
 「マヤの古い都市であるウシュマルには一人の女を石に変えたという驚くべき伝説が伝わっている。或る午後のこと。サーシル・エークという美しい娘が居た。ユカタン半島で一番美しいと言われる漆黒の眼を持つ若い娘であった。サーシル・エークはセイバの樹に凭れ、ユカタンの美しい風景を眺めていた。白いウイピル(マヤの貫頭衣)を着て、シジュウカラのように美しい黒髪と対照をなす小さな紅い花を一本手に持っていた。時々、サーシル・エークの眼は北に向けられた。今日、ウシュマルに繋がるこの道を通るはずの恋人を待っていたのだった。その恋人のことを想う度、サーシル・エークの胸は高鳴るのだった。どうして、こんなに遅いの、とサーシル・エークは甘い声で恋人に囁くように呟いた。天は私を罰しているのかしら?、私の部族から見たら、敵の部族であるあの人を愛してしまったことに対して、天は私を罰しているのかしら?、待ち焦がれている私をこんなに待たせるなんて、本当にひどいわ、と思い、サーシル・エークの美しい漆黒の目から涙が褐色の頬を伝って流れ落ちた。手から、持っていた紅い花も足元に落としてしまうほどだった」
 ナコンは少し酔っており、その分、口調は滑らかに、話は続きました。
 「すぐに、その花を拾い上げ、心の安らぎを得るかのように、しっかりとその花を胸に抱き締めた。カカルテカトゥル、と彼女は恋人の名前を呟いた。その若者はユカタン半島の東部の部族に属し、サーシル・エークの部族とは敵対関係にある部族の若者であった。今日、サーシル・エークに会うためにこの道を通るはずだったのだ。しかし、いくら待ってもカカルテカトゥルは来なかった。その内、突然あたりが暗くなった。昼だというのに、突然暗くなっていった。サーシル・エークには夜の闇が時を早めて訪れたのかと思われた。闇の中に、一人の男の姿が浮かび上がった。それは、部族の首長で、サーシル・エークの父親であった」
 シュタバイは息を呑み込み、緊張してナコンの話を待ちました。
 「サーシル・エークは嫌な予感に襲われた。父は暫くの間、サーシル・エークをじっと見詰めていたが、やがて意を決したかのように、深い沈黙を破って、彼女に言った。『愛する娘よ。私の肉の一部よ。お前は自分の不運を嘆き、孤独の中に自分自身を見出すがよい。わしは、お前が敵の部族の一人を愛していることを知っているのだ。それは決して許されない愛なのだ。ユカタンの美しい花、と呼ばれた我が娘よ。お前は守るべき純潔を冒涜すると共に、部族の名誉も汚した。今、お前は罰を受けなければならないのだ』父のこの言葉を聞いて、サーシル・エークは悲しみのあまり、救いを求め、叫んだ。自分自身のためばかりでは無く、お腹に宿した新しい生命のためでもあった。しかし、父は彼女の言葉に耳を貸そうともせず、冷ややかに告げたのだった。『不幸なその生命もまた死ななければならない。それは、二つの部族の不幸な果実、二人の敵同士から生まれた不幸な胎児であり、生きることは許されないのだ』その冷酷な言葉を聞いて、サーシル・エークは絶望のあまり、気を失って、その場に倒れ伏した」
 シュタバイは両手で自分の胸を抱くようにしました。
 少し、震えていたのかも知れません。
 「やがて、部族の偉大な神官が現われ、気を失ったサーシル・エークを抱きかかえ、神殿の西にある洞窟に運んでいった。そして、娘の下半身を、このような恐ろしい言葉と共に、地面に埋めた。『娘よ。部族にとって悪となったお前は我々の神によって石に変えられるのだ。来たるべき時代が来るまで、罰としてお前は石に変えられて存在し続けるのだ。お前は悪い手本となり、部族の敵を愛する娘たちは、お前のように呪われ、その報いが死であることを知ることとなるだろう』その後、ウシュマルの神殿の床に石となって半身を埋め込まれている美しい娘が居る、という伝説が残されることとなった。毎晩、その石から、かなえられなかった愛を悲しむ深い溜息が洩れ出てくるということだ」
 ナコンは語り終え、また蜂蜜酒をぐびりと飲みました。
 蒸し暑い夜が少し涼しくなったように、シュタバイには思われました。
 近くのセイバの樹の葉がざわざわと揺れました。
 風が吹いてきたようです。

 クックは黒曜石を売り歩く商人でした。
 黒曜石というのは硬く鋭い割れ口を持つ石で、武器の刃としてメキシコではよく利用されました。
 ナイフにもなりましたし、棍棒の先にも刃を付けて強力な武器にもしましたし、矢の鏃としても役立つものでありました。
 「娘さん。大分、家の中も暗くなってきたねぇ。私はここに、油を少し持っているから、お話をする間だけ、灯りを点けてあげよう。油は何と言っても貴重品だからねぇ」
 クックはこう言って、小さな皿に油を注ぎ、芯を浸して、火を灯しました。
 家の中が明るくなり、シュタバイの顔を照らし出しました。
 この娘は本当に美しいが、この娘の良いところは自分の美しさを誇らないところだ、とクックは思いました。
 こういう娘は幸せにならなければならない、ともクックは思いました。
 「マヤのヤマラという部落に伝わる物語を話してあげよう。比較的新しい話だよ。ヤマラという部落はもう滅びてしまっているんだが、かつては桃源郷であり、その名前は我々マヤ族にとっては香り高く郷愁を誘う名前だね。そのヤマラには、跪いて天空の大きな星に向かって弓を引いて矢を放つ逞しい戦士の伝説が残っているんだ。さて、お話を始めるよ」
 クックが天に向かって矢を放つ戦士の悲しいお話を語り始めました。
「ヤマラは周囲を渓谷に囲まれた高い山の頂にあり、人々は鬱蒼とした深い森に住んでおりました。働き者が多く、人々は深い信仰心を持って慎ましく暮らしておりました。その頃は未だ、髭を生やした人々(スペイン人)が自分たちの先祖伝来の地を踏むといういかがわしい予言にも煩わされることも無く、ヤマラの人々は静かに暮らしておりました。その部落にはイシュタブという十七歳の美しい娘がおりました」
 クックさん、西瓜をどうぞ、というシュタバイの声にクックは少し話をやめ、西瓜で喉を潤しました。
 「娘の父は部落の首長でたいそう思い遣り深い人物として知られていました。また、娘は近隣の部落の何人もの貴族の子弟から求婚されていました。彼女の美しさは、あたかもククルカン神から隠れるようにしながらも、厳かな輝きを失わない明けの明星に例えられるほどでした。そして、彼女の切れ長で深みのある栗色の大きな眼は、あたかも樫の木の葉の囁きを聞きながらゆったりと流れていく河の淀みのような神秘的な深みをいつも湛えておりました。彼女の小さめの口は最も純粋な血のように紅く、白い歯は濡れた唇の後ろで覗かせる乙女の真珠の首飾りのようでありました。成人の儀式も済み、腰には結婚出来ることを示すと共に、純潔を示す腰紐を締めておりました」
 この西瓜は美味しいね、と言いながらクックはまた西瓜に手を伸ばしました。
 「その若い娘、イシュタブは『ヤマラの花』と言われ、求婚者はたくさんおりましたが、娘の父は、毎年夏になって収穫が済んだ後を狙って、その収穫物を略奪するために襲って来るメシーカ族に対抗するための同盟を結ぶこととし、そのために、娘を同盟の相手である有力な都市テンコアの首長に嫁がせることに決めていました。でも、娘には愛する恋人がおりました」
 シュタバイが少し眩しそうな表情をしました。
 「イシュタブはホルカンという容姿端麗の若者を愛しておりました。勿論、ホルカンも誰よりもイシュタブを愛しておりました。ホルカンは部族の戦士の長でありました。若い二人はツォルキンの祭りで知り合いました。イシュタブはその祭りの儀式に他の同年齢の娘と一緒に加わっておりました。ホルカンは焚き火に照らされて輝く顔を惜しみなく見せて華麗に踊るイシュタブにすっかり心を奪われてしまいました。香炉の中ではコパル樹脂の玉が燃え、薫り高い煙を発散させておりました。しかし、コパル樹脂といえども、野に咲く花と薔薇の樹の皮のエッセンスを一身に浴びたイシュタブの褐色の肌から発散する芳しい香りには到底及びませんでした。厳かで且つ神聖に行われた儀式の後で、ホルカンはイシュタブに結婚を申し込みました。イシュタブもホルカンを一目見た時から好きになっておりました。しかし、娘は父の命令でテンコアの首長に嫁ぐこととなっており、マヤでは父の命令は絶対ですから、逆らうことは出来ませんでした」
 灯りが風に揺れ、シュタバイの顔に陰影をつけました。
 シュタバイの顔が少し悲しげに見えました。
 「二人には悶々とした日々が続きました。そんな或る日のことです。何人かの斥候がぞっとするような知らせをヤマラの部落にもたらし、人々を恐怖の坩堝に落し入れました。メシーカ族がヤマラを襲うべく、鷲の羽根飾りを被った戦士を先頭に、接近しつつあるという知らせでした。イシュタブの父はテンコアの首長に伝令を出して知らせると共に、ホルカンを呼び、可能な限り大勢の戦士を集め、防衛軍を組織するよう命じました。また、年若と婦女子には安全な場所に避難するよう命じました。別れに際して、イシュタブは涙ながらにホルカンに告げました。『ククルカンの神があなたをお守りしますように。そして、メシーカ族を見事打ち負かし、無事に帰還出来ますように。さもなければ、私は天に召され、天の暗闇の中で永遠にあなたを照らす星となりましょう』こうして、ホルカンは出陣して行きました。でも、メシーカ軍の行軍は予想よりも早く、テンコアの軍隊が到着する前にヤマラに押し寄せて来ました。そして、ヤマラ防衛軍より圧倒的に優勢なメシーカ軍はあっという間に、防衛軍をウルア川のほとりで壊滅させてしまいました。その結果、ヤマラへのメシーカ軍の進軍はたやすいものとなり、ヤマラの都市はほとんど抵抗することなく陥落してしまいました」
 灯りに照らされたシュタバイは泣き顔になっておりました。
 「年若と婦女子も含め、ヤマラの人々はメシーカ族の残虐な手に委ねられました。イシュタブと彼女に従った娘たちはメシーカ軍の容赦ない残虐な陵辱にさらされました。それは、あたかも嵐にさらされた花と同じような運命を辿りました。ほとんどの人々が殺されました。一方、ウルア川の敗残兵を集め、軍を建て直したホルカンがヤマラに戻って来た時はあまりにも遅く、ヤマラの地は死体が散乱する焼け野原となっておりました。ホルカンの悲しみはいかばかりであったことか!」
 クックがふとシュタバイを見やると、シュタバイは静かに涙を拭いておりました。
 「ホルカンはイシュタブを失った悲しみと、メシーカ軍に完敗したという恥ずかしさのあまり、気が狂ってしまいました。そして、夜になると、天に向かって顔を上げて、優しく瞬くかのように天高く輝いている星をじっと見詰めていました。既に発狂しているホルカンはその一番輝いている星が愛するイシュタブの輝く魂であると思い込みました。その日から、ホルカンは毎晩矢をたくさん持って、山の頂に登り、天空で一番輝く星に向かって、弓を引き絞り、一本、また一本と矢を射始めたのです」
 シュタバイは眼を閉じて、クックの話に聴き入っておりました。
 でも、シュタバイの長い睫毛の端には涙が溢れそうになっておりました。
 「時々、矢が天空に向かって放たれるや否や、流れ星がさっと空を横切って流れていくこともありました。気が狂っているホルカンには、放った矢が星に当たったものと思われ、元気づけられました。ヤマラの人々は口々に言いました。『勇者ホルカンは星を射落としているのだ』。そして、在る夜のことです。山の頂に立ったホルカンがいつものように弓を引き絞り、矢を放った瞬間、流れ星が地上に落ちて来ました。ホルカンはやっと自分の願いがかなったものと思いました。愛するイシュタブが地上に帰って来た、と信じたのです。その流れ星はホルカンが立っている頂の遥か下を流れる川の静かな深みに落ちて行きました。ホルカンはそれを捕らえようと思い、躊躇うこと無く、頂から水面に向かって身を投じました。しかし、川は浅かったので、ホルカンの頭は川底の岩に当たって砕けました。愛する人を地上に戻すため、星に向かって矢を射る戦士の姿はヤマラの人々の胸に焼き付けられ、繰り返し語られ、ヤマラの伝説となったのです」
 クックは静かに語り終えました。
 皿の油も燃え尽きそうになっておりました。
 窓から、星が見えました。
 あの一番輝いている星がイシュタブの星かも知れない、とシュタバイは思いました。

 シュタバイは旅の商人からお礼として貰った物は全て衣類とか食べ物に交換し、それを自分のものとはせず、貧しい人々にあげてしまう娘でありました。
 しかも、その善行を自分の部落では無く、遠い部落に行って行うのでありました。
 シュタバイはとても謙虚な娘でしたから、自分の部落の中でそのような善行を行うということはおそらく自分の気持ちがすすまなかったのでしょう。
 自分の部落の者に対して行う時は、夜、人に見られないようにして、家の窓からそっと衣類とか食べ物を入れるのでした。
 でも、シュタバイが善行を施すために、よその部落に行っている時は、村に居ないのは、よその部落に行って、また恥ずかしい淫らなことをしているものと村人は思っていたのでした。
 そして、シュケバンと面と向かって汚い言葉を村人から投げつけられても、シュタバイは静かにただ微笑しているだけでした。
 あえて、抗弁もせず、黙っているシュタバイを見て、村人は一層疑念を深め、嘲って、シュケバンは村の恥さらしだと言いふらすのでありました。

 一方、ウツコレルは病人とか貧しい人々が嫌いで、心から嫌悪しておりました。
 病気になるのも、貧しいのも、全てその人のせいだと思っていたのです。
 自業自得なのよ、気の毒に思う必要はないわ、と思っておりました。
 しかし、村人の前ではそのような感情は一切出さず、神に仕える巫女として敬虔で善良な娘を装っておりました。
 シュタバイのことも、村人が本気になって調べる気になれば、すぐ真相は判った筈ですが、当初から色眼鏡で見ている人は真実を見ようとはしないものです。
 これは、ウツコレルに対しても同じことが言えました。
 見かけばかり、貞淑さを装ってはいましたが、外面如菩薩、内面如夜叉というのがウツコレルの真実の姿でありました。
 しかし、村人は、ウツコレルはシュタバイとは異なり、自らの青春を捨て、ひたすら神に仕えようとする感心な娘であると高く評価していたのです。

 シュタバイは天涯孤独の身で一人きりで暮らしておりましたが、友達がおりました。
ハグアルと呼んでいる友達でした。
その友達は普段は人目につかぬよう、シュタバイの家の天井に隠れておりました。
でも、シュタバイの身に何か危険が迫ると、天井から降りて来て、敵を撃退してくれました。
時々は、シュタバイを軽々とその背中に乗せ、夜の闇の中を疾走することもありました。
体長はニメートルくらいある、大きな雄のジャガーがシュタバイの友達でした。

 そのジャガーは赤ん坊の頃、シュタバイに助けられました。
或る時、シュタバイが森の中を歩いていた時、悲しげに鳴く動物の声を聞きました。
その鳴き声の方に歩いて行きますと、そこに小さなジャガーの赤ん坊がいたのです。
見ると、傍らには矢を腹に受けて、横たわって死んでいる母ジャガーがいました。
 シュタバイはそのジャガーの赤ん坊を家に抱えて戻り、とうもろこしのお粥を作って、育てました。
 その赤ん坊がハグアルなのです。

 ハグアルはシュタバイの守護神となりました。
シュタバイは宿が無くて困っている旅人を自分の家に泊めましたが、中には、シュタバイが一人きりで住んでいることを知り、シュタバイに乱暴を働こうとする邪悪な男もおりました。
その時、ハグアルが天井からするすると降りて来て、その男を家の外に追い出すのでした。
でも、中には、黒曜石のナイフを取り出して、ハグアルにかかって来る者もおりました。
その時は、ハグアルは一撃の下、前足でその男の胸を引き裂いてしまうのです。
死骸は、ハグアルが咥えて、近くのセイバの樹の下に捨てられることとなりました。

 さて、その部落にはとても奇妙な話も伝わっておりました。
 部落のはずれには小さな小高い丘があり、丘の上には奇妙な物が立っておりました。
キリスト教でよく見かける十字架です。
十字架自体は長い年月により半ば朽ちかけておりましたが、紛れも無く十字架そのものの形をしておりました。
でも、その十字架の由来に関しては、村の古老も詳しいところは知っておりませんでした。
何でも、昔々、随分と昔のこと、髭を生やした白い男が村にやって来て、病気の治療法、建物の造り方、料理の作り方など、いろいろと暮らしに役立つ知識を村人に与えたとの言い伝えを話す程度しか知りませんでした。
そして、その十字架はその男の墓に立てられたということだそうです。
村人はその男を古いマヤの伝説の王、ククルカンの再来と信じており、その墓を神聖なものとして崇めておりました。
アメリカはコロンブスによって発見されたとされてはおりますが、コロンブスよりもずっと昔、キリスト教の宣教師か伝道士がこのユカタンの地を踏んでいたのかも知れません。 
その名残として、十字架の墓が残されたのかも知れません。
シュタバイも村人と一緒に、彼が亡くなったとされる命日にはお参りをして感謝を捧げておりました。
アメリカはコロンブスばかりでは無く、何度も『発見』されていたのかも知れませんね。

 さて、平和に満ちた日々が過ぎていく中で、不吉な噂が部落に流れ、人々を恐怖のどん底に落としました。
凶暴なメシーカ族が近くの部落を襲撃し、部落の財産を略奪すると共に、生贄となる人もさらっていったという噂がもたらされたのです。
 しかし、部落の首長、ツクムバラムは何ら警戒することも無く、カカオの飲み物を味わって舌鼓を打ち鳴らすばかりでありました。

 そのような噂が流れていた或る日のこと。
シュタバイはハグアルと共に、森の中を歩き、木の実を採っておりました。
随分と歩き、夕方になったので、そろそろ帰ろうと思った矢先のことです。
どこからか、人の声が聞こえて来ました。
聞きなれない言葉だったので、恐る恐る近寄って、樹の陰から見ると、そこに居たのはメシーカ族の戦士でした。
大きな体格をした『鷲の戦士』が中央に居て、彼を囲むように二十人ばかりのアステカ戦士が座って食事をしておりました。

 シュタバイは慌てて、その場を立ち去ろうとしました。
 木の枝を踏んで、音を立ててしまいました。
 音に気付いたメシーカの戦士が弓を構え、シュタバイが潜んでいる方向目掛けて矢を放ちました。
 矢はシュタバイの肩に刺さりました。
 『鷲の戦士』は立ち上がり、大声で言いました。
 「誰だ。そこで、立ち聞きした者は。姿を見せい」
 シュタバイがすっくと立ち上がり、『鷲の戦士』に向かって叫びました。
 「私はマヤの部落に住む者よ。あなた方の話は全て聞いたわ。これから、部落に帰って、あなた方のことを全て話すつもりよ」
 「おやおや、気丈な娘であることよ。ここから、無事に帰れるとでも思っているのか」
 すると、その時、ハグアルがのっそりとその巨大な姿を現わし、シュタバイに寄り添いました。
 『鷲の戦士』を始め、アステカ戦士も大きなジャガーの出現には度肝を抜かれたようで一瞬たじろぎました。
 シュタバイは肩口に受けた矢疵の痛みに呻きながらも気丈にアステカ戦士に言いました。「私の部落には、このような勇敢で大きなジャガーが二十頭も居るのよ。それでも、襲うな
ら、襲えばいいわ。お前たちの全てがジャガーの鋭い牙と爪の餌食になるのよ」
そう言いながら、シュタバイはハグアルの背中にゆっくりと乗りました。
それを見て、アステカ戦士は弓を構え、シュタバイに矢を放とうとしました。
「よせ。この娘に矢を放つな。こんな勇敢な娘を殺せば、我々はアステカの神、ウィツロポチトリの神に軽蔑されてしまう。この娘はこのまま帰らせてやろう。」
『鷲の戦士』が厳かな口調で皆に命じました。
シュタバイを背中に乗せ、ハグアルは悠然とその場を離れ、部落に向かいました。
『鷲の戦士』はその姿を見送りながら、部下の戦士に言いました。
「あの娘の部落を攻撃するのは中止としよう。あの娘の勇気と気高さに免じて、我々はこのまま引き揚げることとする。あんな大きなジャガーと闘う気にはならない」

 矢にはおそらく毒が塗られていたのでしょう。
シュタバイの体は冷たくなり、痺れてきました。
疾走するハグアルの背中でシュタバイの意識は段々もうろうと薄れてきたのです。
心臓も段々と鼓動が弱くなってきました。
もう、私は駄目、死んでしまう、部落の人にメシーカ族の襲来を知らせずに死ぬのは残念、けれど、もう駄目、村人のみなさん、私をお許し下さい、・・・。

こうして、シュタバイは駆けて行くハグアルの背中で息を引き取り、その短い一生を終えました。
シュタバイの家に着き、ハグアルは死んだシュタバイを寝台に安置しました。
それから、家の外に出て、森に向かって吼えました。
それは、聞いたことも無いような悲しげな咆哮でありました。
シュタバイの突然の死を悼むハグアルの悲しみに満ちた咆哮でした。
この咆哮は一晩中続き、何事かと、村人を不安がらせたということです。

 こうして、心の優しい娘、シュタバイは死にました。
 でも、シュタバイの死は無駄ではありませんでした。
 メシーカ族はシュタバイの部落を襲うことは止めて、西の方のメキシコ湾沿岸の部落を襲撃することとしました。
 しかし、メシーカ族襲来の知らせを既に受けていたその沿岸の部落は、シュタバイの部落とは異なり、斥候を要所要所に配置したりして、油断無く警戒しておりました。
 そして、メシーカ族の攻撃に頑強に耐え抜き、見事撃退したのです。
 『鷲の戦士』はぼろぼろになった鷲の被り物を脱ぎ捨て、深々と溜息を吐きながら、部下の戦士に語りかけました。
 「今回の敗北は、あの娘に矢を放った報いかも知れぬ。ジャガーを友とした、あの娘はマヤの神々の聖なる娘であったのかも知れぬ」
 このように言って、とぼとぼとユカタン半島を去ったとのことです。
 『鷲の戦士』と彼の部下のその後に関しては何の言い伝えも残されておらず、分かっておりません。
 深い絶望と虚無の心を持って、彼らは深い密林の中に消えて行きました。

 翌朝、村には薫り高い芳香が漂いました。
それは、これまで誰も嗅いだことの無いような良い香りでした。
村人は訝り、その香りがどこから漂って来るのか探しました。
その香りの方向に、シュタバイの家がありました。
 村人は良い香りにつられ、シュタバイの家に行きました。
驚いたことに居ないとばかり思っていたシュタバイの死骸がありました。
そして、その香りはシュタバイの死体から出ていました。
そして、更に驚いたことには、シュタバイの周りには森の動物たちと鳥たちがたくさん居りました。
まるで、死んだ王女様を悼むかのように、みな静かにシュタバイの周りを囲んでおりました。
ジャガーもいましたし、鹿も猿もおりました。
雉も金剛インコもおりました。

 村人は自分たちの村があやうくアステカ戦士の攻撃目標となったことも知らず、シュタバイの死を悲しみもせず、口々に言いました。
「森の中で誰かの毒矢に当たって死ぬなんて。シュタバイは罰があたったのだ。村でおとなしく畑でも耕していれば良いものを、男を連れ込んで、ちゃらちゃらと遊んでいるから、このような死に遇うのだ。自業自得とは、このようなことを言うのだ」
誰も、シュタバイの死を悼みもせず、シュタバイは天罰にあたったものと思っていたのです。

 ウツコレルはシュタバイの死骸に向かって、毒づきました。
「シュケバンのような色気違いの女がこのような良い香りを出すなんて、私は信じないわ。これは、きっと、悪魔の仕業よ。悪魔が私たちを誑(たぶら)かしているのよ。でも無ければ、こんな良い香りがシュケバンから出る筈は無いわ」
そして、更にウツコレルは言葉を続けました。
「シュケバンのような堕落した女でもこんな良い香りを出すのなら、私はもっと良い香りを出す筈よ。みんな、覚えておいてね。私が死んだら、このシュケバンよりずっと良い香りを出すことを」

 翌日、シュタバイの亡骸は村のはずれの墓地に埋葬されました。
でも、埋葬に参列した村人はほんの僅かでした。
それも、心からシュタバイの死を悼むのではなく、お義理で参列するといった感じだったのです。

 シュタバイが埋葬されて数日が経ちました。
部落にはどこからか良い香りが漂って来ました。
その香りは今まで嗅いだことの無いような良い香りでした。
シュケバンの死体から香って来た香りと似ている、と誰かが思い出したように言いました。
もしかすると、と思い、村人はシュタバイのお墓に行ってみました。
すると、驚いたことに、シュタバイのお墓は村人の誰も見たことが無い花に埋もれていました。
香りはその花から出ていました。
その花はシュタベントゥンと名付けられました。
香り高い花で、薬効成分にも満ちた花で現在、ユカタン半島名物のお酒にもなっています。

 ウツコレルの心はいつも嫉妬心が渦巻いていました。
 表面は清浄無垢な乙女を気取っていても、心の中は猜疑心に溢れ、人を信用せず、自分のことばかりを考える冷たい女でした。
 でも、人には知られぬよう、上手にうわべを飾っていました。
 村人もそれを見抜けず、ウツコレルの貞潔さを誉めそやすばかりでした。

 ウツコレルはシュタバイの死後、十年ほど生きました。
しかし、或る日、毒蛇に噛まれて死んでいるウツコレルが発見されました。
村人は全員、悲嘆にくれて、ウツコレルの死を悼み、泣きました。
村人の中には、シュタバイの死体に向かって毒づいたウツコレルの言葉を思い出す者もおりました。
きっと、ウツコレルはあのシュケバンよりずっと良い香りを出すに違いない。
でも、その期待は裏切られました。
シュタバイの死骸は死後もまるで生きているかのように美しい姿をしたままで、良い香りを長く発散させていたのと比べ、ウツコレルの死骸はすぐに腐り始め、物凄い腐臭を発しました。
葬儀には村人全員が参列しましたが、ウツコレルの死骸が発する悪臭にはみんな閉口し、鼻をつまんで我慢せざるを得ませんでした。
鼻を開けて呼吸しようものなら、吐き気を催し、朝食べた食物を全て吐き出しかねないような凄い悪臭でした。

 ウツコレルの墓にも見たことの無いような植物が発芽し、育ちました。
但し、棘だらけのサボテンで吐き気を催すような耐え難い悪臭を常に発しておりました。
このサボテンにはツァカムという名前が付けられました。

 しかし、時が経つにつれて、いつしか、この清純な乙女シュタバイはマヤの女妖怪伝説の主人公になってしまいました。

 セイバの樹の下には、旅人を色仕掛けで誘惑し、精気を吸い取った後、鋭い爪で胸を引き裂き、むごたらしく殺してしまうというシュタバイという名の絶世の美女の姿をした女妖怪が棲むという伝説が出来てしまいました。
 そして、その娘はジャガーの背中に乗り、森の中を疾走して行くのです。

 伝説は全ての真実を告げるわけではありません。
 真実の一部を告げるだけなのです。
 いつの間にか、シュタバイはセイバの樹に棲む美しい女の妖怪という伝説の主人公になってしまいました。
 今でも、マヤの人々は、夜になってセイバの巨木の下を通る時は、シュタバイが出てきやしないかと、びくびくしながら急ぎ足で通り過ぎるそうです。

 初めから色眼鏡で見てしまい、真実の姿を見ようとしない人は多いものです。
 けれども、いつかは真実の姿が現われて、人々は覚醒することとなります。
 真実とはそういうものです。
いつかは外に顕われることになります。

 社会的な成功という面で見たら、その葬儀に際して、村人が全員参列したウツコレルは成功者、勝ち組と言うことができ、村人が数人お情けで参列したばかりであったシュタバイは失敗者、負け組と云う判断になるでしょう。
しかし、死後、シュタベントゥンという香り高い花に身を変えたシュタバイと、ツァカムという吐き気を催すような悪臭を放つ棘だらけのサボテンと身を変えたウツコレルとでは、言いようも無いほど、大きな隔たりがあります。
見かけには全く気にせず、自分の志を高く持って生きたシュタバイと、本心を上手に隠し、見せ掛けの体裁ばかりを気にして生きたウツコレルと、二人を比べて、読者の皆さんはどちらを良しとしますか?
でも、こんな問いかけに答えること自体に嫌気がさし、きっと、シュタバイなら悲しげに顔を俯(うつむ)けるかも知れませんね。
シュタバイの眼から見たら、勝ち組・負け組に分類し、勝ち組を目指す現代の社会的風潮はおそらく顔を背けたくなるような醜い社会でありましょうから。

そのようなことを思いながら、私はこの遠い国の物語を終えることとします。

シュタベントゥンは今でもユカタンの地でひっそりと美しく咲いております。
 皆さんも、ユカタンの地を訪れることがありましたら、シュタベントゥンの花を探して下さい。
 きっと、シュタバイのように、可憐に美しく咲いていることと思います。


シュタバイの伝説

シュタバイの伝説

メキシコ、ユカタン半島が物語の舞台。マヤに伝わるシュタバイという女の妖怪を主人公にしている。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-17

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