二つの私論の補てん(4)

失敗は吉、後悔は善Part3

失敗は吉、後悔は善Part3(2017/07/27)

さて前章では、「失敗は吉、後悔は善」Part2と題して、前々章から引き続きこの私論のうち私的幸福論にあたる部分の総決算ともいえる論述を試みた
「面白い」とは「こうなればいいな」ということであり、ここはいくらか信仰が関わってくる部分ではあるが、「個」が「普遍」を獲得することでそこには「凪」が生まれる、「凪」については後述するが、人間が多くの失敗をする動物である以上、また幸福の獲得にはかなりの運不運が関係することからも、私たちは失敗をゼロにすることを目標にするのではなく、その失敗をどのように精神的に軟着陸させていくかについて考えた方が「これから生まれてくる人々のための~」につながっていくのではないかと思うのである
ここでこの私論において何度も登場した文言がまたも登場する

「効率性」、「多様性」の両方を同時に担保したもの以外、この21世紀においては価値を持ちえない

必ず生じる失敗を精神的に軟着陸させるは、「失敗は吉、後悔は善」を肯定する積極的な精神の運用によってのみ実現可能であり、それは結果的にせよ『「効率性」と「多様性」の両方を同時に担保する』を包含する
ここで少しだけ話が後戻りする
「距離感」Part2で論じた「ある地点」の話である、この「ある地点」とは自分が「何を好きで何をやりたいかがわかっている」場合にのみ到達可能な最優先の対象との距離感を上手に測るために認識することが必要ないわゆる精神の「落としどころ」のことであるが、ここに先ほど出てきた「軟着陸」を当てはめることもできる、つまり「ある地点」とは「軟着陸」のためのベスト・ポジションであると

すでに『想像力も、創造力も理性的に示される「ある地点」と主体が持つ理想とが見事にシンクロしたときにのみ本来有する力を最大限に発揮することができる』と書いたが、この「ある地点」がおおよそ確認できているのであればその主体はかなり高い確率で「幸福とは何か?」の結論に達することができると思う
「そこに一万人いたらそこには一万通りの幸福の形がある」のだから、大切なのは「課題を自分自身で見つけ故に答えも自分自身で見つけること」であることはこの前提であれば当然のことであるが、にもかかわらずこの21世紀初頭においてそのことに気付くことができる人々は若い人を中心に急激に減少していっているという印象が私にはある、おそらくそこには人が集団化したときにのみ見られるある現象が関係しているのではないかという気がする
それは自分の意思とは(まったく)関係なく、その集団によって決定されたこと(時にその過程はかなり曖昧)が自分の意思の結果であるとする錯覚
これはスマートフォンの普及による影響も大きいのだろうが、そこに前例があれば先輩たちが警鐘を鳴らすのだが、前例がなければ誰も警鐘を鳴らすことはなくただ「中毒症状」を起こした者(だが誰も気づかないので徐々に深みに嵌まっていく)だけが名前のない神経症を抱えながら成長していくことになる
だがこの辺りについてはこの章とはそれほど関係がないのでこれ以上は触れず次に進みたいと思う

さてここでの幸福についての考察はともすれば単なる自己満足に過ぎないものと諸君らの目には映っているのかもしれない、そのように考えるとここで信仰が出てくるのだが、ここではそのような批判を承知の上でしかしもう少し内省的な論考を進めていきたい
やはり上記した「ある地点」に私はこだわらずを得ない、言うまでもなく「軟着陸」は「安全で円滑な時の流れの獲得」につながるものであり、この私的幸福論においては重要なポジションを占めるものである、特にスマートフォンの普及によるそのブラウザから得られる情報が多種多様を極めるなか、もし「何を好きで何をやりたいか」が不明確なまま成長した場合には、彼は幸福のための必須条件のうちのいくつかをついに知らないままに大人になるかもしれない、そのように考えると僭越ながらこれらの考察は時代的にも上昇気流の一歩手前というプラスではないがマイナスでもないという微妙な立ち位置にあると言い切ることができるのかもしれない、なるほどここに述べられている論考のすべてを否定したとしても、外的情報量の多い少ないについては一切関係がないのだから、すべては30~40年前よりも多くそれぞれのそれら情報の受け手の判断に委ねられていると考えるべきであろう、だがここで一つだけ確認しておかなければならないのは「前例のない症例」の多発は前例がない故に深刻化してもついにその対症療法さえ見つからないまま、私たちは老いに突入していくかもしれないということだ、事実、認知症に関しては私たちはこうなることがまったく予期されていなかったわけではないのに、いまだにどう対処してよいかわからないままではないか
すでに自分が変わらなくても時代は変わると書いた、20世紀の方程式はもう通用しないのであれば私たちには新しい方程式が必要なはずなのだが……
情報過多は今に始まったことではないのに

さて話を戻そう
「自分が幸福であるかどうかは自分で決める」この当たり前の原則が『「効率性」は「多様性」を同時に担保するものだけが価値を持つ』時代においては避けられないものとなる、そしてこれは目に見えない分野においても同じことがいえるのである
そこで再び「ある地点」である、ここが軟着陸のためのベストポジションになるためには結果的にせよそこが「効率性」と「多様性」の両方の性質を備えている必要がある、そこでは自分にとって「都合のいいもの」と「都合の悪いもの」とが競合している、そしてここが重要なのだが選択肢が増えれば増えるほどきっと人は「都合のいいもの」をより優先させようとする、そしてそのことはしばしば上手くいき、さらに「都合のいいもの」を求める、しかし1970~80年代はそうではなかった、新しい文化の担い手は若者層であったというのは今と変わらないが、若者たちだけが共有できるスペース(無論仮想スペースも含む)が足りていなかったため、若者層も一定の「都合の悪いもの」を受け入れざるを得なかった、しかしそれ故に古典文学作品やクラシック音楽、またはエルヴィス・プレスリーなどのオールディーズなどに触れる機会もあった(地方ではNHK FM以外の音楽ソースはほとんどなかったのである)のである、このその時点においては「ほんとうは読みたくないもの」または「ほんとうは聴きたくないもの」に触れることがその後の人生設計において何らかの肯定的な役割を演じることもあるのだから、実は1970~80年代の若者の方が文化的には恵まれていたといえるのかもしれない(日常に隙間があった)、今ではi Tunes、You Tube、NETFLIXに、日本ではHuluにTVerと、スマートフォンさえあれば「聴きたいもの」、「読みたいもの」だけに接することができる、これは新しい時代のモードに合致しているので歓迎すべきことなのであるのだが、一歩間違えば、「多様性」のない「効率性」だけの単調な文化の繰り返しになる虞がある、ここでこの私論において何度も出てくるワード「予定調和」が再び出てくるのだが、ここで重要なのは最先端のツールというものはそれをうまく使いこなせる人とそうでない人とで10年後かなりの差が結果的にせよ生じるということが、この21世紀甚だしくなっていく可能性があるということだ、17歳になっても予定調和に甘んじている人と、「大人の期待=将来の自分」であることに疑問を感じ、そこから抜け出そうとする人とでは10年後にはかなり違う未来を歩んでいるだろうということは容易に想像できる、そして比較的高い確率で前者にはなく後者にはあると言えるのが「ある地点」=「軟着陸」のためのベストポジションである
これはこの2017年前後を変革期と捉えるのか、それとも安定期と捉えるのかで大きく意見の異なるところであろうが、何れにせよ、この章での論点は失敗と後悔にあるので、この部分が変わらなければ「ある地点」の重要性には変わりがないということにはなる

さてここでこの章の冒頭に登場した「凪」について述べなければならないだろう
これは結論を先に言えば、「人は真実に近づけば近づくほど怒りをその筆頭とする情念の動きから解放される」であるが、ここにはある種のからくりがある
私はすでに負の肯定という言葉を何度も使っているし、また怒りも「抗う」に通じるものであるため必ずしも否定しないと言明している、したがってここも「凪」を肯定するのだがそれは負の肯定や怒りまたは「抗う」を必ずしも否定するものではないということを予め承諾の上読み進んでいっていただきたい、読者諸君にとってはやや納得のいきにくいところではあろうが、つまり負をなかったことにして「凪」になるのではなく、負の存在を認めたうえで「凪」を得るということであるのだ
とりあえず先に進もう

おそらく私たちの心配事の有力なものの一つは、「この先こういう状態がずっと続くのではないか」と思うところにあるのではないかと私は考える、もしどんなに辛くても「この苦しみには終わりがある」ことが明確な場合には如何なるものであれその苦しみはその性格においてかなり変化するのではないかという気がする、では苦しい時にはそのように思えるようにすればよいのではないか

この苦しみには必ず終わりがある

だがここには一つだけ条件がある、その終わりは幸福感のあるものでなければならない
それが終わったとしても、残ったものが悲しみにあふれるものであれば意味がないのである
ここを確認したうえで次に進みたいと思う
私は思う、喜びとは温もりのことである、そして真実とは光のことであると
無論その両方が人生には必要なのだが、だがここには決定的な違いがある、「温もり」の対象はおおよそ人であるのに対して、「光」の対象は必ずしも人ではないということだ、そして前者よりも後者の方に明らかに多く含まれているのが普遍である、だから人類は宇宙の果てがどうなっているのかということや、人類の歴史といった果たして万人の幸福に必ず結びつくと言い切れるかどうかわからないことに多くの時間を費やすのである
私は思う、人はどのような人であれ実はその内面奥深くに一つの真実と呼べる核心のようなものを持っているのだと、だから人類は短期間に文明をここまで進歩させることができたのだと、そしてそのように考えることで、私たちが刻む一歩は如何なるものであれ成功は無論、失敗でさえもそこから何かを学ぶことで、つまり目には見えないものを運用させていくことでそれを人類の幸福につなげていくことができるのだと、歴史の醍醐味は敗者からも何かを学べるという点にあるとすでに述べたがこれはそれとも通じる部分である
この世に存在する普遍とは善と美の二つだけだが真実はこの両者に通じているものでなければならない、したがって人間の世界にのみ見られる現象ではあるが悪からは真実は生まれないのである、これは神に悪意はないという仮定からも導き出すことができる結論である
ではどうすれば人はその核心にある真実に辿り着くことができるのであろうか?
結論を先に言えば私たちの人生は短すぎて残念ながらその核心にある真実に辿り着くことはできない、またできたとしてもそれを証明することはできないということである
だがこう考えることはできる
証明することはできないが、仮の定義を行うことはできる
仮の定義とは?
例えばこの私論のすべてがそうである
そしてそこに辿り着くための最も合理的な方法のひとつが「凪」のなかにある

「凪」とは?
一つは不言実行、僅かな衝撃もそこでは障害となりうる
もう一つは遠くを見ること、真実とは六等星の光のようなものとすでに書いた
沈黙、そして認識
唯一の条件は諦めていないこと
「凪」は「なぜ?」から「にもかかわらずこれでよい」への精神の運用、きっとそれは僅かな隙間に隠された真実のための糸口になるようなものを見つけるための洞察
「凪」において「納得」は初めて肯定的な意味を得る、なぜならば真実とは善の世界においてのみ共有可能であるからだ
誰も知らない、誰も知らない、そして誰も知らない、にもかかわらず永遠不変の価値を持つもの、それが0.001のエネルギーで次の世代へと引き継がれていく、だからそこでは微かな衝撃も許されないのだ

話は急に変わるが先日日本が打ち上げた小惑星探査機「はやぶさ2」のニュースをテレビで見た、2019年頃帰還するようだが、この「はやぶさ2」が持ち帰る情報も微かな衝撃さえ許されないものとなるであろう、そこには科学技術の進歩のための実に重要な何かがあると予想されるからだ、また小惑星探査機「はやぶさ」を製作する上でも僅かな衝撃さえ許されない0.01グラムのオペレーションが繰り返されたことであろう、そういう意味では有言実行ではなく不言実行の方が夢の実現には近いのかもしれない


この「二つの私論の補てん」の前半はここで終了である、しばらく休憩を取ってくれ給え

「二つの私論」後半


凪(2017/07/29)

さてここから後半の始まりである
これはあくまでも補てんであるので前半のまとめは行わないが、前章については簡単に振り返っておこう
前章では「失敗は吉、後悔は善Part3」と題して、「人は真実に近づけば近づくほど怒りをその筆頭とする情念の動きから解放される」ということの証明の最初の部分を試みた、ここには「神」も「普遍」も「信仰」も「善」も実は色濃く漂っているのだが、それについては可能な限り最小限にとどめ、少なくとも「信仰」という言葉とは疎遠な状況にある人々にも理解可能なように表現には多くの心配りをした、例えば「軟着陸」などはキーワードとしては「信仰」とはおおよそ無関係であり、またこの私論に私的幸福論としての性格を読み取ることもできる以上、そこに「すべての苦しみには終わりがある」といった信仰の有無や宗派の違いなどはまったく関係がないと思われる表現が入るのはむしろ当然のことといえる、事実「喜びは長続きしない」という表現は時々耳にするのだから「苦しみもまたそうなのだ」というそれとは対極に来る表現があったとしてもそう不思議ではないと思う
確かに苦しみの多くを心の動きいかんによって自由にコントロールすることができるといった考えにはあまりにも一つの概念としては飛躍しすぎていて容易には賛同できないが、逆に言えば例えば「気合い」とか「根性」などといった言葉と真逆の性質を持つ概念を日常的な言葉をうまく用いることによって組み合わせることができればそこには新しい時代にこそふさわしい、少なくとも「真実」に昨日までよりは近いと思える何らかのテーゼを提示することはできるのではないかと思うのである
すでにこの世に無価値な存在などないと書いた、すべては故あって存在しているので、なくなってもよいと言い切れるものなど一つもない、確かに残念ながらここでは認識できる力よりも信じる力の方が勝っている、また「曇天の日には収穫が多い」ですでに「感じる力」が最も重要であると書いているので、もしそのように感じることができないという人が一定数いたとしてもそういう人たちを批判することは難しいが、しかし理想を語らせていただけるのであれば「信じる力」を必要とすることなく、つまり「感じる力」だけでこの世のすべてを「無意味に存在しているものは何一つない」と認識できるのであればそれはほんとうに素晴らしいことだと思う

少なくとも多弁ではない___________真実とは概ねそのようなものであるのかもしれない、「凪」は明らかに「沈黙」に似ている、そして神とは永遠の沈黙を貫くものである、以下「凪」についての論考を試みたいと思う

「凪」の中心に坐するものは「諦念」である、それもかなり強い諦念である、ここをまず確認したうえで先へ進もう
最初に私はこの「諦念」の定義を行わなければならないが、しかし私はこの「諦念」を「にもかかわらず理想を維持し続けることがそのための第一条件」などと断るつもりはない、諦念は諦念であり、それはとにもかくにも「諦めること」である、おそらくこの言葉がここで強調されなければならないというのは現実が信仰をキーワードとした場合の理想からは急激に離反しつつあるからだということは明確にしておく必要はあるであろう、すでに「真実」≒「凪」(「沈黙」)と述べているのだから、ここから一つの仮説を想定することは可能であろう
大切なのは心の状態をほぼ常に「凪」に保つことであり、「諦念」はそのための手段に過ぎない、この「凪」が単なる記憶の一ページに記載されているものから一つの体系づけられた認識へと発展し、精神の中央部において重要な役割を演じるようになるためには少なくとも半年から一年はかかる、またたそがれの扉を開けていない者や、年齢的にも若く、また大病などを患い生死の境をさまよった経験もない者は、ここの部分は容易に呑み込めない部分であろう、ここは宗教観を超えたいわゆる死生観のようなものが時に垣間見えるところであり、それ故に「生とは何か?」あるいは「死とは何か?」が一切の衝撃を排した世界であるからこそ見え隠れするある種の静謐な空間である、私はここにしばしば祈りのようなものを見るが、しかし不思議なことに怒りをその筆頭とする情念の存在を認めないわけではないにもかかわらずこの祈りはしばしば功を奏し、「凪」を維持した結果、見事現実が「軟着陸」を果たすことを私は数度経験している、無論、これは個別の経験であるのでここに普遍性を見出そうとするのはそう簡単なことではあるまいしまた適切でもあるまいが、だが何らかのヒントにはなるかもしれない、何れにせよ、幸福論とは日々生じるトラブルをうまく解決するための答えを示すものではなく、明らかに普遍性を持つ理想へ達するための人の数だけある入り口からのその進路の一番手前にあるものを可能な限り万人に共通する要素を用いて示そうとするものである、故に幸福論とは海図ではなく羅針盤である
では海図はどこにあるのか?
多分、海図はないか、または自分で作るものである、だから多くの経験が必要になるのであり、故に青春期の多感な時期に古典文学や映画そして旅などを、つまり必ずしも実益的ではないが確かに豊かな精神を育むものを知る必要があるのである、これらは時間的に余裕のある時でしか経験できないものであり、そういう意味では16~17歳くらいにどのような日々を送るかが実に重要になる、大学に入った後では実質3年間しかなく、正直な話、3年では短いのである

さて諦念は手段であると書いたが、ではともすれば目的ともなりかねない諦念を手段で留めるにはどうすればよいのだろうか?
おそらくその答えは、やはりこの言葉のなかにある

対象

万物は対象を求める、である
おそらく究極的にはこの対象として来るべきものは神の理想であるのだがここではそこまでは押し上げずに夢、または希望ということにしたい
右の皿には「夢または希望」が、左の皿には「諦念」が乗っている
ここは「曇天の日には収穫が多い」で述べた「捨てる」に近いニュアンスになるが、しかしここで「諦念」が手段足りえるための重要なワードが浮上してくることになる
それは「孤独」
決して「孤立」ではない、だが明確な目標を持つということはもしかしたらこの21世紀初頭、20世紀後半よりも相対的に見て難しくなってきているのではないかという気がする、そういう意味でもここでは論点を絞って幾つかの確認作業を行う必要がある
やはりここでは2001年のセプテンバー・イレヴンについて触れざるを得ない、あの事件は健全な人々をしてdiversityを阻害させるには十分すぎるほどの衝撃を持つものであった、果たして13~14歳くらいでセプテンバー・イレヴンを経験した子供たちはその後その精神の健全性を保つことができたのであろうか?
確かに未来とは不確実なものであるがそれをあそこまで象徴的に世界に見せつけた事件は過去なかった、そしてあの時13~14歳だった少年少女たちが今29~30歳になり「隠れトランプ」になった、それは排除の肯定、diversityの否定である、だが保守派の台頭とは社会的な意思決定の方法としてはトップダウンを選ぶということであり故に下からの改革は起こりにくくなることを意味している、上意はある意味絶対であり、逆らうことはできない、もし逆らえば彼は秩序を乱すものとして時に告発され監視の対象となる、そこでは13~14歳時、つまり感受性の強い時期に衝撃的な体験をした人たちだけが持つ共通体験が引き金となって「やむを得ない過剰防御」が時に地域的に常態化する、これは実に恐ろしいことだが、ここでは本来理想のための手段として成立しうるはずの諦念がまったく蔑ろにされ、理想ではなく「信じないぞ」と固く結びついた「諦めないぞ」が乱暴に時に民主主義の背後に回り込み、なぜか増長しつつある同調者たちとともに「他を排除する権利」もまた自由の一つの側面であるという極論を振りかざして、これまたなぜか時に議席を獲得したりする
まだ29~30歳くらいなので仕方ない面もあるのであろうが、そこでは自分の意思とは無関係に仮想空間で決められたことなのに、それがまるで自分の意思と合致していると錯覚した人々が正邪の区別がつかないまま集団化する、おそらくそれほどまでに13~14歳くらいで衝撃的な経験をすると容易には精神は正常化しない、ここにはSNSの持つ負の側面を垣間見ることができるが、言うまでもなくセプテンバー・イレヴンは人災であるので、憎悪がついに祈りに昇華することはないのかもしれない、きっと負の情念は何らかの理由で虐げられている人々を一つにする、または長年の闘病生活に疲れ果て人生に希望を見出すことができない人に何らかの動機を与えるかもしれない、それでなくとも13~14歳で衝撃的な経験をした少年少女をどう慰めるべきなのかは私にもよくわからない、19歳であれば現実を受け止めることができたのかもしれない、また8歳であればそれが何を意味するのか理解できなかったであろう、間違いなくそこでは「なぜ?」は「にもかかわらず、納得する」にはならず、人災ならではの「なぜ、私たちだけが?」が永遠にループし続けるだけなのであろう、2001年の8歳はこの2017年で24歳である、だが29~30歳はもはやその24歳とも話が合わないのであろう、「恐怖(負)に耐えられるほど精神的に成熟していない、にもかかわらずそれが何であるかは理解できる」多感であるとはつまりそういうことだが、不意に無神論者に陥ってしまいそうになるこの現実はこの先も相当に長い間彼らを自由にはしないであろう、だからこの21世紀初頭、保守反動派がその勢力を拡大しても彼らの理論に対抗するのは実は容易ではないのだ
単に直情的というわけではない、そこには信心深い者をも圧倒するだけの一貫性がある、なぜならば彼らの場合その負の情念は最も感受性の強い時期にその第一歩を印しているからだ、決して彼らは誰か山師によって洗脳されたわけではない
現実は悪化し、民主主義は劣化しつつある、だから理想を追うための孤独の甘受は日々難しいものになりつつある、孤独を忌み嫌うことがいつしか夢や目標を追うことの放棄につながり、過度に「共通」を意識した結果「予定調和」最優先の直線的な一本線の価値観のみを重視する人生観が社会的に幅を利かせることになる、これはdomesticの肯定でありdiversityの否定である
「異質なものを受け入れることを拒否する権利を私は有する」
だがテロリストによって運命の歯車を大きく狂わされた人々の中にはそのように考える人も当然の如くいるであろうし、またそのような人を批判すべき言葉を私は持たない、では今どうすれば私たちはこの劣化していく傾向を見せつつある民主主義社会のなかでそれでも尚「より良い」を追求できるのであろうか?
テロも原子力発電所の事故もいずれも人災だが、人災にはある共通点がある
それは「どうしてそれを防げなかったのか?」という思いだ
これは天災にはない思いだ、人災故にどうにかしていればこれは防げたのではないかと皆考える、そしてそれは以下のような思いに到る
あの時こうしていればよかった
そしてこうなる
では今こうしよう
問題はそこにおいて善意による斟酌があまり期待できないというところにある
防犯(監視)カメラの設置はその取られるべき対応の筆頭に来るものだが、2015年のパリ同時多発テロの実行犯がface bookを使ってその晩の宿泊先を探していたように、善意が裏切られる形で悲劇が生じた場合には、社会はきっとかなりの割合で寛容さを失う、特にテロの場合は悪意を強く感じられるために、「信じないぞ」はかなり高い確率で拡大解釈される恐れがある
すでに感受性豊かな時に「なぜ、私たちだけが?」という悲劇を経験した者の理論を覆すのは容易なことではないと書いたが、理想の喪失ならぬ理想の無価値化はこのような状況下において正の諦念ではなく負の諦念を少なくとも地域的醸成する、そして負の諦念が醸成するものとは「復讐」である
彼は何らかの負の代理人となる、すでに負の情念は何らかの理由で虐げられている人々を一つにすると書いた、そこでは究極的には発生源の不明なメッセージに扇動された人々が、時に単独でまた時に集団で「権利」を行使する、そしてそのような行為に到る人々の精神に決して見られないと思われるのが「凪」である、「凪」は正の諦念からしか生まれないのである
では正の諦念とは何か?
ここではすでに登場している言葉の援用によってもその説明は可能であろう
距離感

故に正の諦念は遠くを見る、負の諦念は近くを見る

では正の諦念が見る遠くとは、例えば時間で表すとどれくらいになるのか?
思い切って言えば200年くらいである、200年先とは星の明るさでいえば12等星よりも暗いであろう、したがって肉眼での確認は不可能である、そのためには何らかのフィルターを用いる必要がある
ではそのフィルターとは?
やはりここでは「信仰」が来ざるを得ない
信仰によって対象が明確化される、また信仰によって悪というものが自然界には存在しないことが認識される、そして三番目に負の情念の引き金となるのは100%人間の直接的、または間接的行為の結果であることが理解される、そして最後に正の諦念を知る者は真実が永遠の沈黙の中にのみあることを知る
だから200年先になるのである
無論200年先まで生きていられるはずがないので、ついに私たちは真実を知り得ないまま天国へと旅立つのであるが、だがだからこそこの200年先というのは恣意的ではなく実存的に価値を持ち得るものとなるのである
なぜか?
正の諦念を知る者にはそれに相応しい後継者が現れるからだ
もしその確率が90%くらいであったとしても誰も驚かないであろう、ここが正の諦念と負の諦念との最大の相違点であろう、テロリストの行為はある集団によって「承認」されても、「評価」はされない、なぜならば歴史がそれを否定するからだ、「善」も「美」も、そして「平和」も「繁栄」も承認されるものではなく評価されるものだ、だから慣習をただ踏襲するのではなく主体的にそれを判断し価値を決定させることが重要になるのだ、事実セプテンバー・イレヴンの余波から私たちは今なおまったく解放されていないではないか?
私たちはそこにある「是」と判断されるべきものを承認ではなく評価する必要がある、そうすることによってのみそれらの劣化を避けることができ、またそれを「より良い」に近づけていくことができるのである、甚だ僭越ながらこの21世紀初頭を「変革期」と捉えるのであればここに展開された論理は概ね現実における精神的需要とその方向性において矛盾はない、言うまでもなく20世紀の悲劇は繰り返されるべきではなくその認識は人類の隅々にまで行き渡っているはずである、ならば「踏襲」はもはや「より良い」にはつながっていかないのではないかという気がする
少し長くなったようだ、この続きは次の章で述べたい

凪Part2

凪Part2(2017/08/03)

前章では「凪」と題して、前々章から続いているこの私的幸福論の最も重要な部分を内省的そして社会的な考察を交えて、やや思い切った表現も挟みながら論述を試みた
凪は表である、そして諦念が裏である
つまり凪と諦念とは表裏一体である、だがそのように簡単に思えないのはそこに200年という膨大な時間が横たわっているからだ、理想は如何なるものであれ一代では達成できず、然るべき後継者が現れてこそ達成可能である、故に評価されるような行為を行う必要があるのである、なぜならば評価されない行為は歴史の荒波に耐えられないからである、無論予め後継者が現れることを期待することはできない、私たちはただ骨格を維持し主体的に善を基にした行為を粛々と行うだけである、そのためには心の状態を常に凪に近づけておく必要があるのだが、ここはたそがれの扉を開けていない人や、若く故に順調な人生を歩んでいる人には容易に理解されえないところのものであろうと書いた
だがこの「凪」はこの私論の私的幸福論の部分においては極めて重要なポイントになるので何卒そこをご理解の上読み進んでいっていただけると有り難い
ところで私たちはしばしば金言名句と呼ばれる言葉を耳にする、これらは一片の小冊子となって書店に時に並んでいるが、ここに登場するような言葉は実は実生活においては少なくともすぐには正の効果を出さない、なぜならば真に価値ある言葉とは一周か二周かして戻ってきた言葉の中にのみあるからだ、真理に近い言葉は即効性に乏しく、それどころか当初はこの言葉は私にとってはプラスにはならないと思えるものだ、そのような「とりあえず放っておこう」と無視された言葉が信じられないことに時に数年たってから戻ってきて、頭の隅に着座する
どうせすぐ消えるだろうと思うのだが、なかなか消えずにまた消えたとしてもなぜか数年後にまた戻ってくる、この21世紀を生きる人々はいわゆる即戦力を求め過ぎているように思える、望むものがすぐ手に入らないと気が済まない、ツールの発達は100%善であり、そこに疑問を差し挟む余地はない、だから私たちは安心して最新のモードに身を委ねることができる、そのように考えている人が少なくないように思う、だが私はこのような考え方では幸福という観点からは甚だ問題があると思う、ここにあるのは予定調和であり故にそこにある骨格はdiversityと一線を画すものだ、したがって「逆らう」や「抗う」は思考の観点からは排除され、時に「盲目的に従う」が一部の大人たち(先述した29~30歳の隠れトランプもここに入る)の賛同をも得てしばしば縦横無尽に「はき違えた自由」の権利を行使する、認識は常に現実の後塵を拝するものなので時に悲劇が生まれたとしても法はそれに追いつかない、故に私の場合明確な形を持つものではなく例えば「信仰」のように抽象的ではあるが一つの対象としては成立しうるものの方がより多くの普遍性を有することができるのだと考えるのだが、このような考えを持つ人々は明らかに減少傾向にあるようだ

「数えられるものの価値」と「数えられないものの価値」は拮抗していなければならない

だが人生は直線的に進行するという結果的にせよ格差を追認するような人々の数は増える一方であり、そこでは即効性のある言葉だけが信用を獲得し、一周、または二周して初めて価値を有するような言葉は排除される、だが「凪」はそのような「何度も無視されたにもかかわらず戻ってきた言葉」によって構成されているのである、蓋をすることで醜いものを見えなくするのではなく、フィルターを通すことで醜いものを浄化する、それが理想である、だが当然ろ過には一定の時間がかかる、この「一定の時間がかかる」というのが今どきの若者たちの気に障るようだ、「凪」は「漸進」であり、それは民主主義の進化に似ている、民主主義は時に49%の死に票が出ることを前提にしているので、当然「漸進」となる
だから「漸進」を否定する人は「独裁」の肯定に傾くのである

すでに「苦しみの多くを心の動きいかんによって自由にコントロールすることができるといった考えにはあまりにも一つの概念としては飛躍しすぎていて容易には賛同できない」と書いた、だが科学技術の発展は知能指数は高いがしかし多分に空想的な人々をさらに空想的にさせることには十分貢献しているようだ、
曰くこれまではできなかったがこれからはできるようになる
確かに人生百年の時代は目前だ、80歳のアーティストが日本武道館のステージに立ったとしてもやがて誰も騒がなくなるであろう、したがって空想的であることもやがて嘲笑の対象になることからは免れられるであろう、しかしこの言葉の原則が変化しない限りは僭越ながらここに書いてある言葉のすべてが時代の荒波に完全に削り取られてしまうことはない

それは幸福

「人間にとって(私にとって)、幸福とはなにか?」

私にとって「凪」はそのための糸口になるべき言葉である
同じことが繰り返され、繰り返され、そしてまた繰り返される、だが「凪」を知っていれば日々の多くの経験から最終的には幸福に辿り着くはずの「真実」のかけら(極めて薄っぺらなもの)が少しずつ沈殿していき、いつかオリジナルになる、しかしこれはきっと予定調和の繰り返しからは決して生まれて来ないものだ
セプテンバー・イレヴンはこの21世紀の前半の30~40年を規定する、そしてスマートフォンの登場によって決定的になった瞬間熱による高揚の肯定が飽くことなき予定調和の供給によって特に若者たちを喪失に対する過度の恐怖感から当分の間解放しないだろう、それはしばしば排除の肯定
私が幸福になれないのはあいつ(またはあいつら)のせいだ

すでに今を生きる人々にできることは前世代より引き継いだバトンを次の世代にその(引き継いだ時点での)価値を少なくとも劣化させることなく引き継がせることだけだと書いた、ここにはヒロイズムの否定があるが、だが混沌はヒーロー、少なくともそうなりたがる人を必要とするだろう、そこでは「得る」は極めて単純な意味でのみ理解され、ある重要な言葉が無価値化される

その言葉とは「喪失」

人類の歴史上今ほど人々が「失う」ことに対して恐怖心を抱いた時代はなかった、なぜならば文明の発達によって50歳を過ぎても若さを失わない人たちが現れ始めたからだ
いつまでも若く
だがそれは今や夢物語ではない、死ぬまで「失う」ことのない人生、人生百年の時代、老後の生活は一変する、車は自動運転になるので免許を返納する必要はない、テレワークによって自分の住みたい場所で仕事ができる、そして日常から生じる負の悪化や不都合(鍵の閉め忘れ、電気等の管理など)をAIが防いでくれる(IoTとも呼ばれているようだ)、ついに私たちはあらゆる日常の心配事から解放される、はずだが……

そう、ここには負の肯定がない
彼らは言う、すべての負は克服されなければならないのだ
だがそれは人生をより幸福にするのであろうか?
「凪」には負の肯定がある、だから「諦念」になるのだ、負(トラブル)が生じたとき私たちはどうすればよいのであろうか?
すぐに対処する
社会的にはそうだ
では個人的にはどうか?
きっとまずするべきことはこうだ

待つ

なぜ待つのか?
「凪」を維持する、または取り戻すためだ
なぜそうすべきなのか?
無論、例外的なケースもあるが、情念の発生源とはしばしば些末な事柄だからだ
それはどういうことか?
「自」は当然「他」を対象とするが、対象として崇高な理念をそこに据えれば、それ以外の「他」は相対的な価値しか持たなくなる、ここはすでに述べた骨格とも関連する部分であるが、個が自己完結できれば負の肯定が可能になりそれだけ幸福に近づきまた幸福状態の瓦解から逃れられる
もう少し詳しく説明すると?
「凪」を得た個は「諦念」を同時に知ることによって「得る」を柔軟に解釈するようになる、そこでは「喪失」がプラスのための重要なキーワードとなって個を「失う」ことの恐怖から解放する、そして最終的に個は失うことによって初めて見えてくるものの多さにようやく気付き、「老い」の後にのみ認識可能な領域に自律的に踏み込むことができる
「老い」の後にのみ認識可能な領域とは?
真実のことである

この章ではここまででよいであろう

喪失

喪失(2017/08/07)

さて前章では、「凪」Part2と題して、前々章からの続きを記した
前章での重要なことは真に重要な言葉は即効性を有するものではなく、それどころか脳裏に浮かぶたびに拒絶されたにもかかわらず何度も戻ってきた言葉の中にあるというくだりである、ここにあるのは「共通」ではなく「個別」であるが、おそらく「信仰」などの抽象的な概念をその共通の基盤にしない限りは、個々が任意のうちに重要な言葉をうまく選別しそして認識することで最終的には昨日よりも真実に近い、つまり「より良い」状態には近づけないのであろう、そういう意味ではこの「凪」は社会的な影響力を直ちに持ちうるものではないが、しかし時代的な背景が果たして多様性を十分担保できるものへと変化していくかどうかが不透明な現在、つまりdomesticな画一性、さらに言えば上意下達のトップダウン的な力の作用が過度に常態化した場合、そして社会の革新に必要な能力の相互作用化が停滞し、結果的にせよ守旧派が台頭しやすい環境が整えられるかもしれないということを一部想定した場合、「本来の自分」を発揮できなくとも維持するために、この「凪」は何らかのモチヴェーション的な役割を果たすかもしれない
この辺りは言うまでもなく現実のモードと連動しているため、その都度、そしてその環境における自分を取り巻く諸々の条件と逐一照らし合わせながら文字通り微調整を繰り返す必要があるが、一方で超高齢化社会における社会保障の問題も絡み、私たちには時に慣習に囚われない自由なそして個別な発想というものがこれからは求められてくるのかもしれない、30年前我が国日本で18歳の少年少女が老後の心配を口にすればそれは忽ち嘲笑の的となったであろう、だがこの2017年、そのようなことはなくなった、「長生きのリスク」は18歳でも十分理解可能なものであり、故に私たちは人生を俯瞰するだけでは足りず、そこに何らかの実践を伴った工夫が必要になるのであろう、だがそのためには青春期の感受性の強い時期において自分にしか通用のしない法則というものの発見にある程度成功している必要がある、これは言葉で言うほど簡単なことではない、私たちにとってそれほどまで慣習というものは生活の隅々にまで浸透しているものなのである
「自分を見失わないこと」
「自分が自分でいられる場所を見つけること」
だがこのような自分探しのためのヒントは年々先輩たちの口からは聞けなくなってきているようだ、すでにcreatorとproducerの力関係は少なくとも拮抗していなければならない、可能ならばcreatorの力の方が優位に立つべきだと書いたが、現実的な計算の苦手なcreatorの復権は容易ではあるまい、ツールの発達は「個性の活躍の場を増やす」以上に「工夫、カスタマイズの必要性の減少」につながってしまったようだ、そこにカスタマイズが存在しない以上、creatorたちの活躍の場はそれ以前よりも相対的に見て狭まる、情報の受け手はより敏感にアンテナを巡らせることよりも暫定的な共有スペースの確保に関心がいっているようだ、実はこれは1970年代以前より見られた傾向であるのでここで特筆すべきものは何もないのだが、だがdiversityが流行語になっているにもかかわらずというところにこの2017年の不可解さがある、入り口は明らかにより広がっているのに出口は対照的に狭くなっている、社会の個に対する要請はそれ自体がやや盲目的になってきているのかもしれない、これはきっと危険な兆候であるのだが、ここでそれに触れるにはやや時期尚早であるのかもしれない

任意の一個人の社会との接点が多様性を満たすものであると仮定できたとしてもその個がそこにある選択肢の選別ができない、少なくともその能力に欠けている場合、私たちの幸福の源泉はどこに求められるべきなのであろうか?
きっと必要なのはpilotではなくcaptainである、つまり縦横無尽にそこを駆け回ることのできるその分野の達人ではなく、海図なき海原をしかし星々の動きを読み解きながら着実にそして安全に航海を完遂できる精神的な安定性を持ったリーダーが必要なのである
つまりskillではなくmindである
だがそのためにはvisionが必要である、そのリーダーがどのような理念を持っているのか?
しかし現実を眺めてみると、どんな高速船をも巧みに操るスーパーパイロットの方が人気があるようだ、もともと海図はないか、または自分で作るものなのでまどろっこしい論理に説得力はないのであろう、だからこそそのハイスピード時においても自分を見失わないようにすることが大切なのだと私は思うのだが……
そろそろこの章の本題に入ろう

この章のタイトルは喪失である、すでにたそがれの扉については触れているがこの章で述べることはたそがれの扉を開けた人にこそ向けられるべきであろう
「喪失」この何とも悲劇的なそしてそれ故の叙情性をも帯同させているような言葉はしかし私のような五十代以降を生きる者にとっては実は希望の言葉となりうるものなのである
この世で最も取り戻すことの難しいものは何か?
言うまでもなく時間である
神は重さと長さとエネルギーを作ったが、時間はそのうちエネルギーに属するものである、故に一度失うともう取り戻すことができないのだ、ここでいう喪失とは第一に時間のことでありたそがれの扉を例にすれば失われたものとはつまり「若さ」のことである
「若さ」の喪失
これを悲劇と思わない人はほとんどいないであろう、私も客観的に見た場合「若さ」の喪失はやはり悲しいことだと思う、だが見方を変えれば「若さ」も含め喪失故にそれまでは決して見えてこなかったものが見えるようになるということは相当数あると思う
これはたそがれの扉を開けて初めて認識できる事柄である
すでに述べたように「老い」は突然やってくる、人生には数多くの扉があるが開ける前にそれが何の扉であるかがわかるケースはほとんどない、98%くらいの確率で扉は開けてみないとその先に何があるか想像すらできないものだ、しかしその一方で扉は思いもかけない風景を提供してくれることもある、これはきっと未知の価値とでも呼べるものだ、未知の価値はそこに待ち受けていたものをどのようにその主体が認識するかによってその価値が大きく左右される、悲劇だと感じればその未知の価値は悲劇性を帯び、いやここには未知の希望があると思えばその未知の価値はそのようになる、ここには諸君すでにお気付きのように「凪」以降のいわゆる「個の主体的なその対象に関する捉え方次第で概ね現実を上手にコントロールすることができる」がある、ここは論理的にそして理性的に理解されなければならないところであり、逆に言えば論理の飛躍が一部の個性によっては散見されかねないところなので十分注意されたい
ここでは個のエネルギーが下から上手く作用している必要がある、つまりボトムアップである、これは精神の運用の柔軟性を担保する役割を結果的にせよ担うものであり、すでに述べた「より速く」「より多く」から「より寛大に」「より慎重に」への望ましいと思われる意識の流れにも適合するものである
おそらくここで以下のような中間発表をすることは有益であろう

喪失は精神の解放である

無論ここは条件付きだが、あくまでも有神論的な立場から述べさせていただけるならば、喪失がもたらす悲劇で最終的に報われないものは何一つない、なぜならばそこには回復を信じる者だけが知ることのできる奇跡が存在すると考えられるからだ
奇跡は起こる、だがそう思いにくいのは喪失を知らないかまたは奇跡を時間に逆らうことで実現させようと考えているからだ、やや話が大きくなるが予め説明しておくべきであろう、喪失とはその対象が何であれ失われたものがそのまま消えていくものではないということを私たちに教えるために存在するものだ、決してそこに神の悪意はない、これは人生を曲線的なものだと解釈することによって容易に理解することができる、私たちは一周するたびに始点に近づく、そして回想する、何を回想するのか?
私たちが一人ではないということを回想するのだ
喪失が暗闇ならば奇跡は光である、なぜ喪失を知らない者が光の存在に気付くのか?
私たちを導くものは常に光である

喪失Part2

喪失Part2(2017/08/16)

さて前章では喪失と題してこの私論の私的幸福論の部分においては凪と同様最も重要な部分を書き連ねた
喪失とは「両方を知る」である
ここに実はこの私論の私的幸福論としての部分の最も核心的な部分がある
喪失が虚しいものではなくそれどころか「にもかかわらず希望を与えてくれるもの」として人生における最重要ファクターとして認識可能なのは、人生百年の時代において、そして人生=螺旋階段ではないという二つの前提において、比較の成り立たない世界における自分の人生を五十代以降に再認識する際にこの「喪失=両方を知る」が以下の二つの肯定的な要素を供給してくれるからである
① 人生をそれまで以上に客観的に眺める
② 過去における失ったものについての後悔からの解放
ここでは喪失が社会的に見て悲劇的な性格を帯びている場合は排除してあくまでも個人的な範囲内においてのみの事柄をその対象として考えるが、それでも尚この認識が個人の人生における様々な幸福に関連する複数の価値観においてその都度の決断、判断に間違いなく大きな影響力を持ちうるものであると私は考える
ここでは正と負または勝ちと負けが逆転しており、五十歳を迎えても尚人生の折り返し点にすぎないという新たな人生観においてはこの価値の逆転はそれでも若さの喪失を恐れるつまり老いから逃れようとする人生の現実の動きに反する行為や精神の運動に一つの区切りをつけることができるという点でも、僭越ながら一読の価値のあるものであろうと思う
ここでは「人生は曲線的に進む」が本来の柔軟性をうまく発揮して成功したが故の窮屈感を合理的に精神的に処理することを可能にしている、またYesでもNoでもないつまりウイン・ウインの関係がギヴ・アンド・テイクをそのちょうど中間で丸く収めてどちらについた側にも損がより多く出ないように調整する、ここでは距離感がその年齢と経験故にいい塩梅に保たれさらに凪を認識することで邪な欲望や無駄な打算をその都度対象に一部譲歩することで、一瞬の緊張感の後円満な結果を主体の理性に経験させる、そこでは諦念が諦めであるにもかかわらず決して消極的な意味のみで使われているわけではなく、むしろ未来志向型の性質を持つ精神の運用の一形態として継続的な役割を演じ続ける
ここでは諦念故の「割り切った考え」がしばしば登場することになるがそれは俯瞰してみた場合十分な合格点を自分に与えることにおおよそ成功するためにそれだけその主体は後悔と逡巡から解放される
確かに「失われる」が「にもかかわらず納得のいくもの」に変化するにはそれが強い悲劇性を帯びていないこと、そして他に協力を強制することなしにつまり個の範疇にそれが収まっていることが当初の条件になるが、ここには70%の条件の確保を最低条件としていた人生観がその逆つまり30%の条件の確保だけで満足できることになるためそこには以下のような状況が生じる

よりゼロに近づく(ゼロへの希求)

ここでこの私的幸福論はその冒頭近くにおいて散見された言葉が復活することになる

負の肯定

負とはマイナスのことである、つまり加えていくのではなく、削っていく
Fatではなくslimである
0から30くらいの間を往復する、私はすでに「引き際の美学」という言葉を使っている、ここにそれと似た言葉を当てはめることは可能であろうがここでは負の肯定をそのまま継続して使用したい
負の肯定の反意語は何か?
この私論においてそれは究極の善であるがここではもっとわかりやすい言葉を用いたい、無論様々な言葉が想起されるが最もわかりやすいものはセレブリティであろう
負の肯定とはセレブリティの否定
裏通りを歩む神の使者、私はすでにそう書いている、メインストリートを大股で闊歩する者に真実のかけらを見て取ることはできない、だからこそ私たちは都会の喧騒ではなく山村を下る清流のせせらぎに最終的な安らぎを年齢や性別にかかわらず感じ取るのである、人間の神経がこれ以上のスピードに耐えられないという飽和点に達したとき、少なくともその「次」の人々はその前世代とはまったく逆の方向へ進もうとするであろう、人生は曲線的に進むが故に一周した後の次の世代は上を目指すのを諦め横へ進もうとする、これは部分的な回帰の現象であるが、これは経験の産物というよりは知恵のそしてcreativeな精神の産物であるため、前世代には容易には理解されない選択であろう、だが時代はそのように進む、やがて現れるであろう21世紀版ビートルズやエリック・クラプトンはしかし先代とはまったく違ったメロディを奏でるであろう、ビートルズやエリック・クラプトンがプラス70だとしたら21世紀版の彼らはプラス30
だ、だが実際にはゼロにはなれないため、ゼロへ向かっての飽くなき挑戦を続けることになる
100を目指した20世紀の人々とは異なり、21世紀のリーダーたちは0を目指す、そこにはロールスロイスもビバリーヒルズもないが、しかし新しい価値観と普遍的な美がそこに存在するであろう、彼らはきっとグレートターンの先陣をいつか切る人々の模範となる、なぜならばグレートターンはすべての人類に共通に当てはまるものであると考えられるからだ、もしそうでないというのであれば貧富の格差は今後も拡大することはあれその逆はないということになる
21世紀のリーダーはフェラーリではなくテスラを選択する、ここにあるのはゼロへの希求であり、正と負の均衡状態の最もよくとれた最新かつ最善の精神の運用である、ここでは日本人の美徳がもし失われないままであればきっとこの21世紀の後半にも世界的な流行語となるであろう
それは「慎ましさ」である
この言葉はきっとアメリカ人にも理解可能なのであろうが、日本人ほどこの言葉がよく当てはまる国民はいない、それは「引き際の美学」とも相まって「より多く」そして「より速く」をその理念から排除する、今でも日曜日などに河原に敷かれたサイクリングロードをジョギングする人々を見かけるが、なぜ彼らは走っているのであろうか?
第一にダイエットを含む健康のためであろう
そして第二に理想の体型を維持または追及するためであろう
だが彼らの少なくとも一部はもう気付いているに違いない
「私は量を追加するために走っているのではない」
そう、量を追いかけることは幸福というものの神髄に反するのである
ここでまたバックストリートを歩む神の使者が出てくる、真実はNew Yorkの5番街にはない、もしそうならば真実を知ることができるのは世界のほんの一部の人たちだけということになってしまう、理想のためにはバックストリートが優先されるというのはそれは真実というものがそれだけ万人に開放されたものであり故に誰でもその心がけ次第でそれを知ることができるということである
ここでは「マイナス」が「プラス」を大きく上回っている(プラス70はマイナス30だが、プラス30はマイナス70だ)、そしてそのような精神の運用はただ慣習を踏襲する行為の連続からはおそらくかなり高い確率で生じ得ないものである
私はすでに善の獲得のためには一定の「抗う」が必要であると書いている、だから「コースを逸れる」は是であり、故に「豹変」も条件付きで許されるのである
久しぶりにこの表現が登場する
人は順風満帆時においては神を想わない
神を想わないとは普遍を知らないということだ
だがそれでは人々を分け隔てる見えない壁が消滅することはあるまい、戦争の時代は去った、では何の時代が到来するのか?
一言で言えばこうである
不平等の時代
ここでセレブリティが出てくる、私はすでにこう書いた
たとえ夢を叶えた者がその後継者たちに残せるものの一つに豪邸とフェラーリが含まれていたとしてもそこにはもっと精神的な、より上位に来るものと認識される何かが付随していなければならない、そうでなければ貧しい国や地域に暮らす子供たちはかなり早い時点でノーチャンスということになり、そのような地域に住む少年少女の生末が危ぶまれてしまうことにきっとなるであろう
またこうも書いた
セレブリティにとって「得る」の反意語は「失う」ではなく「与える」であると
僭越ながらそこに類稀な才能が眠っているのだとしても、不平等が今以上に進行していくことは格差の拡大ではなくテロの拡大にしかつながらないであろう、だからこの私論では帰郷がしばしば登場するのだ、幼いころの故郷での経験は一生変わることがない、大都会に出奔し功成り名を遂げた者であれば尚更のことかつての自分に思いを馳せるであろう
かつての自分、そう、夢を夢見ていたころの自分である
思い出していただきたい、その頃の自分を
間違いなく無一文であったはずだ、そして無一文であったからこそ夢は無限であったのだ
果たして叶えた夢は夢見た夢と同じであろうか?
ここで自信をもってYesと答えられる人は相当幸運な人であろう、夢は叶う、だが取引を知らない場合それはかなり遅れて叶うかまたは違う形で叶う、それは夢見たものと叶えたものは違うという意味ではなく、「払った代償の割には得たものが少ない」という意味である、逆に言えば多くを得た者は取引に応じた者である
そう、ここで重大な疑問が生じる
有力なProducerとの取引にさえ応じられない環境下にある少年少女たちのことである、だからゼロが出てくるのだ

ここで喪失を社会的な、いや世界的な規模で捉え直そうとするのであればこの言葉が出てこざるを得ない

庇護者

これはあくまでも精神的な意味である、物質的な意味であればすでに数多存在するproducerたちと何ら変わりがない、この2015~2017年とは実にテロの多い時代である、つい先日もスペイン、バルセロナでテロが発生した、この2017年においてテロとは不平等というものが一部の、場合によっては狂信的な人々によって極端に体系化され、その結果それを普遍的な意味を持つものと誤って解釈した敏感な若者たちが、若さゆえの使命感や義務感に駆られて、つまり貧富の格差こそが問題の核心なのにそれを宗教や民主主義をキーワードに無理に自分自身で納得しようと試みたために起きた悲劇のうち最も暴力的な性質を持つものの総称である
もうおわかりであろう、戦争の時代は終わり、今、不平等の時代の到来である
そして戦争回避のために私たち人類がその英知を結集して二十世紀において構築した平和のための理論モデルはこの不平等の時代には通用しない、不平等の時代には不平等の時代のための新しい理論モデルが必要になるのだ
ではそれは何か?
私はすでにそのための鍵になる言葉を記している
それについては次の章で述べよう

Minority's Power Part3

Minority’s Power Part3(2017/08/22)

さて前章では、喪失Part2と題して、喪失という観念なしではこの21世紀の大きな変革の時代において人はどのようになってしまうのであろうという観点からすでに喪失を経験している一人の人間の立場から私論を形成した、前章での論点は「プラスではなくマイナス」であり故に負の肯定となる、ここでは「人生とは渦巻き状に曲線的に進む、したがってゴールはてっぺんにではなく真ん中にある」が再登場して、実に象徴的な役割を果たしている
諸君すでにおわかりのように前章では20世紀的な価値観のほぼすべてが否定されており、だからこそ「戦争の時代の終わり」であり「不平等の時代の始まり」となる
個人的には戦争の時代よりも不平等の時代の方が明らかに恐ろしいという印象があるがおそらく日本人の99%は時代の変化にも、またそれがいかに恐ろしいかにも気付いておらず、さらにそのうちの80%は変化の予兆すら感じ取れていないであろう
ここで登場するキーワードは「受け皿」である
問題は世界中の敏感なさらに言えば聡明でありまた精神的にも金銭的にも自己完結している、つまり世界の知の先端を行く人々にしか理解されていない、つまり真に苦しい人々の訴えを受理してくれる機関なり団体なりが世界中のどこにも存在していないということである
「誰も私の悩みや苦しみを理解してくれない」
そしてこうなる

「私はこの世界で完全なるひとりぼっちだ」(ここでは彼を完全孤立者と呼ぶ)

ここでもう一つのキーワードが登場する

偽庇護者

この偽庇護者は完全孤立者の心の隙間に実に巧妙に入り込み、彼が素直で従順であることをいいことに、もっとも単純な悪意つまり憎悪を増幅させようと試みる、そこではすでに記したように論理のすり替えが行われているのであるが、あまりにも物質的に貧しい生活を送ってきたからであろうか、おそらく短時間で完全孤立者は偽庇護者の術中に嵌まる(このように考えないと現在のテロの頻発を理解することができない)
きっとこの精神状態は戦争よりも苦しい、戦争を終わらせることが難しいのはそこに戦争で利を得ている者が一定数存在しているからだ、だが完全孤立者の場合は違う、彼らの数が増えたとしても誰も利益を得ることはない、だから利(間違った利、反社会的な利である)に反発する人々が結果的にせよ厭戦的なモードを社会に生み出すのに対して、完全孤立者はいつまでたっても完全孤立者のままだ、どうやらこの2017年彼らの苦しみの「受け皿」となりうるような機関や団体は見当たらない、そして前章でのキーワードが再登場する

庇護者

すでに偽庇護者が登場しているのでこの庇護者は真庇護者と呼ばれるべきであろうか
だがここで真っ先に思いつくのは司祭と呼ばれるような宗教関係者の姿だが、それが間違いではないにせよ長期的な視点に立った場合にはもう一つの考え方もできる、無論テロの問題は待ったなしなので、宗教関係者の尽力もまた必要であることは言うまでもないことであるが
ここで私は個々人の心の在り方のようなものを取り上げたいと思う、私はすでに「曇天の日には収穫が多い」で相互扶助の必要性を自殺の防止に絡めて述べたが、ここでも一つのキーワードを提示したいと思う
それはソーシャル・ヘルパー(social helper)である
おそらくこれを実効性のある機関、団体とするためには、カリスマ性のある庇護者の登場を待たなければならないのであろうがしかし心の準備だけならすぐにでもできる、自らが一ソーシャル・ヘルパーとなって善の行為を行えばよいのである、無論それが直ちにテロの根絶につながることはない、だが私たちがそれを行えばきっと優れた後継者がその後に続くであろう、私たちの生理的善意はすでにそれをある程度証明しているのではなかろうか、東日本大震災の後も、いや今も尚私たちは彼らのために何かできることはないかと日々考えているではないか
僭越ながらこのソーシャル・ヘルパーという言葉を一思想家の他愛のない机上の空論と切り捨てることはできないと思う、きっとそこでは夢または目標が完全孤立者を絶望から救う、なぜならば夢または目標を持つことによって主体はそれだけ孤独に強くなるからだ、だが夢または目標を持つことさえできない現実の経済格差が彼らを悩ませている、彼らは食っていくだけで精一杯なのだ

もう一度庇護者に登場願おう、ここでいう庇護者とはひとつのサークルのその中心となる人のことである、そして彼は精神的な支柱となって完全孤立者たちを支える、おそらく物質的には庇護者にできることはほぼない、なぜならばそうなれば庇護者についていくことで利を得られる者と必ずしもそうではない者との間に争いが起きてしまう虞があるからだ、そういう意味ではイエス・キリストが「お金を貸してくれと言われたら財布ごと彼に渡せ」と言っているのは正しい、あくまでも庇護者は精神的に彼らを支える存在である
Minorityとは障害者たちだけのことではない、健常者も年齢を重ねればminorityに近くなる、だがここで重視しなければならないのはminorityの要素は私たち個々人の心の中にも存在するということである、私たちは心の中のmajorityをその都度優先させることで一定の利を得ることに成功している、だが21世紀とはminorityの時代であり、前章より述べているようにプラスとマイナスが逆転する時代である、無論ポピュリストのように時計の針を急激に逆に動かそうとする勢力は今後も絶えることはあるまい、動的な勢力が増えればそれに従って反動的な勢力も増えるのである、そこにあるのは限定された「利」の分捕り合戦
僅かでも上を行くものがそこにある利益のほとんどを独占する
だがこのような状況が今後も続くのであれば間違いなくテロはさらに頻発する、それを回避できるのは「マイナス、にもかかわらずそれに納得できる者」の持つ知恵とそれがストイックな形で伝播していくことである、だからfatではなくslimなのであるがここでは二通りのケースが考えられる
① 「マイナス、にもかかわらず納得できる者」自身が庇護者になること
② 然るべき庇護者が「マイナス、にもかかわらず納得できる者」を庇護すること
おそらくいずれのケースもそれが目に見える形で現出するまでには相当な時間がかかるであろう、また明確にではなくともどこかでポピュリストと偽庇護者との利害が一致して権力を持つ者までもが現状を看過して悲劇的な様相を結果的にせよさらに強めることにもなるかもしれない、きっとここは日本人の出番である、語れば語るほど利に聡い人々には上記した内容の実践は難しいと想像できる、だがその一方でこれまで述べてきた諸々のこの私的幸福論を構成するに必要な多くの要素は信仰を重要なキーワードの筆頭にあるものとして認識できなければ飲み込むことができないとも考えられるので、そのように考えると日本人でも難しいということになるのかもしれないが
私はすでに20世紀の祭典がオリンピックであり、21世紀の祭典がパラリンピックであると書いた、この両者は揃ってこそ意義があるのでありそこでは如何なる事情が生じたとしても理念こそが優先されるべきだ、だがおそらく有り余る富に恵まれた、世界人口を100とした場合0.0001%以下しかいない人々の積極的譲歩が実現されなければきっとパラリンピックは消滅し時計は逆に回る、残念ながらここでキャスティングボードを握っているのは日本人ではない、したがってここでの私の考察と提案は間違いなく海の藻屑となるが、100億ドルという数字の持つ異常さに気付こうともしない人々はやがて365台のフェラーリに囲まれる夢を見るようになるのであろう、人間は高等生物ではあるが同時に限界生物でもある、どのような過酷な現実をも乗り越えていくだけの強い意志を持つこともできるがしかし同時に甘い誘惑には抗えない動物でもあるのだ

ここでのキーワードは「霊」と「物」である
「霊」は人間の強さを「物」は人間の弱さを象徴している、私はすでに書いた
「霊」とは私たちの認識が偶然の結果(多くの場合それは偶然の結果であろう)、真実の扉に達するときに渡る最初の橋の役割を果たすものであると
そして「霊」とは「零」つまりゼロのことでもある、そしてゼロであるが故にそこには衝撃がなく、故に主体の精神は凪のなかを静かに進む、霊は確かに時に死霊であろうが、しかししばしば精霊でもある、「より速く」、「より多く」が飽和状態に達すれば人々はどのような行動をとり始めるのであろうか?
果たして精霊は都会の喧騒の中にいるのかそれとも小川のせせらぎの中にいるのか?
だがそれでもこの2017年、人々が真実の声に耳を傾けメインストリートからバックストリートに目を転ずるにはあまりにも時期尚早であろう、Donald Trumpはそういう意味でも「今」という時代を見事に体現している、反動的な勢力は無論、動的な勢力も現時点では彼に抗うことはできない、私は前書「行ったり来たり、そして次の人」でやがて頭としっぽが逆転する、なぜならば21世紀は「必要な時に、必要な量を、然るべき人に、然るべき報酬で」がすべてだ、だからNew YorkやLondonにもう住む必要はないのだと書いた、つまり自分が住みたいところに住めばいいということだが、グレートターンが起きその一部が、つまり最も知的な意味で先端を行く人々がゼロへの回帰を意識し始めた時に、きっと大都会の果たすべき役割は一応の終結を観る、そこからはそれぞれの時代で世界の中心は移っていくことになる、時にBoston、時にHouston、時にOsaka、時にRiga、また時にPraha
New YorkもLondonもあくまでも全体の一部である、時に主役の座を奪還するであろうがそれでもそれは一時的なものに過ぎない、そしてこうなる

誰でもどこでも時代の主役になれる

Louis VuittonはParisだが、やがて誰もそれに追随しなくなる、多くのブランドは生き残りまた新しいブランドが生まれるがもうParisである必要はない、自分の好きな場所がBest Placeだ
だがそうなるまでには膨大な時間が必要であり、また「受け皿」が庇護者を含む人々によって創設されることが必須となるがそのためには有り余る富に恵まれた者たちの積極的な譲歩が必要になるため、ここではfatの援助を受けなければslimの理想が実現しないという何ともいたたまれないジレンマを庇護者たちは抱えることになる
水と油の共同作業
きっと7000メートル級の山脈を踏破して行くにはそれもまた必要なのであろうがきっとこれはしばしば至る所で破綻を観るであろう、どうやらこの私論ではあまり対象とする範囲を拡大せずに個人の内側に焦点を絞って論考を試みる方がよさそうだ
ではとりあえず先へ進もう

流動性の確保

流動性の確保(2017/08/27)

さて前章ではMinority’s Power Part3と題して、かなりの大所高所からつまり「戦争の時代」から「不平等の時代」へと時代が移り変わる中、私たちは一体どのように世界そして未来というものを捉えていけばよいのであろうかということをminority’s powerを含む多くのキーワードを手掛かりに考察を試みた、結論としては、「マイナス、にもかかわらず納得できる者」たちはその知的水準の高さ及び清廉潔白さ故に精神的な意味での完全孤立者たちの救済に着手できるが残念ながらそれは完遂しないであろう、なぜならばそのためには「受け皿」が必要でありそれを整備するためには有り余る富をすでに手にした者たちの積極的譲歩を得なければならないからだ、だが所詮、fatとslimは水と油であり、一時的には功を奏するが、しかし長期的には至る所で破綻が生じるであろうと書いた、ここはやや慎重に筆を進めるべき部分であるがしかしそこにどのような発言があろうとも私たちがもしminorityの側に立つのであれば、いわゆるセレブリティと呼ばれる連中をあまり信用してはいけないのであろう、なぜならばそこにはどちらともとれる曖昧な領域が存在しそこでは反動的な勢力と動的な勢力の何れが政権を取ったとしても「利」のために結果的にせよほんとうは好ましくない現実がしかしそのまま看過されてしまうため、終わってみれば理想論を並べ立てるだけで完全孤立者を巡る環境はほとんど何も変わらなかったということになり故に彼らの希望は報われることがなく、その一部が再びテロリズムなどの極端な思想やそれを信奉する組織に走るであろうと思われるからだ
もし貧富の格差がこれほどまでに拡大していないのであれば、私たちは戦争の心配だけしていればよかったのである、だが貧富の格差は環境問題が現に存在するにもかかわらず改善される気配がない、この問題の解決はきっと恵まれた環境にいると思われる知的階級に属する人々の責務と言っても差し支えないのであろうが、一方でそのような動きがもし生じた場合それを牽制する動きが反動派の支援なしに社会の一部に発生することも十分に考えられるためこの辺りは現実の動きを見定めながら実に慎重に進んでいく他ない

私は思う、minorityこそ真実に通じる鍵を、つまり健常者が持っているものとは別のもう一方の鍵を持つ者、そして二つの鍵が揃って初めて社会はこうなる

完結

完結とは何か?
二つのものの統合
二つのものの統合とは何か?
メインストリートを歩いていることを恵まれていることだと感じない人とそういう人々に抵抗感を覚えている人々との和解の実現
それはどういうことか?
自分は恵まれているという認識がすでにある人々はminorityのために何かができる少なくともそのための心の準備の整った人、つまりソーシャル・ヘルパーの一員になれる資格を有する者である、そのような人々は事実上和解がすでに実現しているといってもよいので統合の対象には言うまでもなくなるが故にここで大きく扱う必要はない、問題はそのような認識にいまだ至っていない人々の方である、このような人々を皆fatの一言で一括りにすることはできないが、彼らを振り向かせることができるのであれば統合はそれだけ早まる
なぜ統合が必要なのか?
この2017年における最大の問題である環境問題と貧富の格差の問題を解決し、またテロの問題の解決にも一定の道筋をつけるためだ
もう少し詳細に説明してほしい
この世には二通りの人間がいる、通りの真ん中(その近辺も含む)を歩く人とそうでない人だ、前者の多くはそれを当然のことと受け止めている場合が多く、後者はそれとは逆である、したがってminority’s powerが社会によって認知されないと後者はいつまでたっても陽の当たる場所に出ることができずに、能力があったとしてもそれを発揮できず、したがって一部は前章でいう所の偽庇護者の甘言に惑わされてしまうことにもなりかねない、これはたいへんな悲劇であり、先進国に暮らす恵まれた環境にいると思われる知的階級に属する人々のある種の決断が待たれると思われる、それは「マイナス、にもかかわらず納得できる者」のうちのいずれかがそのための精神的支柱となることを敢えて買って出て、一つの流動的な動きを社会的に確保することが必要と思われる(ここはかなり難しい)、だが当然それを好ましく思わない抵抗勢力が様々な理由(彼らは移民や外国人に職を奪われるのではないかと危惧している)で妨害工作を行う、minorityには外国人も含まれるためまずナショナリストたちがその先陣を切るであろう
ここでは時代が定期的に行ったり来たりを繰り返しながらしかし結果的にせよ「より普遍」と思われる方向に進むのであろうが、だが一方で環境問題と貧富の格差問題は文字通り待ったなしであり「いずれ良い方に向かうであろう」では最悪の場合民主主義を軽視するさらに言えば独裁を肯定するしかし民衆からは多くの支持を集める私風の言葉を使えば「強いリーダーを自認する偽庇護者」が登場し、負の歴史が繰り返されることになる
ここはあまり話が拡大しないように気を付けなければならない所だが、もしこの2017年前後を時代の大きな転換期であるとの認識をすでに持っているのであればここで以下の言葉をキーワードとして示すことは可能であろう

ボトムアップ

これは直ちにminority’s powerとも連関しうるワードであり、それが理解できれば以下のキーワードも共有可能であろう

異端、またははみ出し者

すでにはみ出し者という言葉はこの私論で登場している、「多様性の尊重」を21世紀の最重要キーワードとするのであればはみ出し者(言うまでもなく彼はminorityである)にも一定の条件の下発言権が与えられなければならない
だがここではピラミッド型の中央集権的な体系とシステムがほぼ否定されている、では何が肯定されているのか?
制度ではないもの
それは何?
数値化することが不可能なもの
それは何?
最終的には個人の意思である

ここでは彼が「何を好きで何をやりたいか」が真に問われている、無論年齢が若い場合それをまだ明確に認識できていない人も多いのであろうがしかしある程度でよいのでそれが明確にわかっている必要がある
おそらく経済が頗る好調であれば自分が何を好きで何をやりたいかがよくわかっているが故に(?)はみ出し者となっている人には結果的にせよ存在可能なスペースが生まれたのであろうが、一定期間好景気が続かない限りはそのようなはみ出し者のための存在スペースは生まれないために、社会が彼らのために意図的に存在スペースを作ってあげる必要がある
なぜそこまでする必要があるのか?
彼らには独創性があるからだ
限界までの挑戦が次の人々のための新しい道の創造につながる
ここではスティーブ・ジョブズを例に出すにとどめるが常に陽の当たる場所をそのような者に相応しく歩いてきただけの人々にはきっと「次の人々のための新しい道の創造」は難しいであろう、なぜならばそういう人々は以下の二つの言葉を認識することができないからだ

「犠牲」と「捨てる」

私はすでに順風満帆時において人は神を想わないと何度も述べているが、順調であるとは若い日々に限って言えば実は必ずしも良いことではない、若い時こそむしろ多く躓き、転んだ方が良いのである、だがそれは「にもかかわらず失敗した」の結果でなければ意味がない(最初から諦めていたのでは意味がない)、だから自分が「何を好きで何をやりたいか」がある程度明確にわかっている必要があるのだ
青春期においてメインストリートの主役を一日でも経験するときっとそこからは離れることができなくなる、なぜならばそこが人生の基準になってしまうからだ、彼は神を想わない、そしてそれを不思議にも思わない、そして「負の肯定」を学ぶことのないまま彼はたそがれの扉を開ける、人生が順調であればあるほど彼は故郷から離れる、故に無一文だった頃の自分に思いを馳せることもない、もしそれができれば彼は自分が何をどれくらい喪失したかがわかるのだが、順調とは「片方しか知らない」ということだ、人生百年の時代がもう目前にまで迫っている今日、「片方しか知らない」彼は残りの五十年をどのように過ごすのであろうか?
きっとボトムアップは以下のことをある程度保証する

緩やかな降下

これは実は軟着陸のための重要な認識であり、これがないとハードランディングになる虞がある、無論事態が悪化していてもV字回復が望める状況にあるのであれば話はまた違ってくるのであるが、もしそうでないのであれば私たちは時代の要請というものを見誤ってはならない、これは社会的にももちろんだが個人的にもまたそうである、なぜminority’s powerが自己完結なのか?
それはminority’s powerの本質を認識することによって以下のことが実現するからだ

隅々にまで光が当たる

僭越ながらこれは特に障害者などを対象とした場合、これができているかどうかをその国の民度を測るひとつの指標とすることは可能であると思う、そしてこれはメインストリートの主役を一日でも務めた経験のある人には難しいと私は考える、一社会においてそれを実現させるためには人はまず手を汚さなければならない、そしてしばしば赦さなければならない、そして最後に連帯しなければならない、だが現実にはこの三条件を十分満たすためには前章で述べた「受け皿」が必要になる、そしてそのためにはある意味「負の肯定」の逆を行くセレブリティなどの積極的な譲歩を期待する必要もある、故にここでは社会を基準にした場合はその提言だけで終わってしまいそうである

「隅々にまで光が当たる」を明確に認識できるのであれば私たちは理想の中間線を知ることができる、そしてその理想の中間線を理解できればワーキングプアなどの人の問題を解決するその糸口を見つけることができる、人の問題は金や物の問題とは違いある意味一刻を争うものであるために少し早めにスタートを切る必要があるのだ、理想の中間線という言葉は私たちに「シェアリング」という言葉を想起させるが、だがこれは一方で順調な人生を進んでいた人々の一部に譲歩を迫ることにもなる、ましてAIが登場しつつあるこの2017年、気前良く振る舞うことは中間層にとってはともすれば「これまでの日常の崩壊」を意味する、これまで日本の中間層を支えてきたものは「終身雇用」「年功序列」そして「低い消費税率」の3つであった、この3つが保障されなければ間違いなく一部の人にとっては結婚も覚束ないであろう、だから私たちは今漆黒の闇の中を蝋燭一本の光だけで進もうとしている、風は弱くない、ではどうすればよいのか?

軟着陸(降下を受け入れる)

社会に関する考察はもうよいであろう、次の章ではもっと個人の内側に焦点を当てたい

流動性の確保Part2

流動性の確保Part2(2017/08/29)

さて前章では流動性の確保と題して、前々章から一転して個人の内側の問題に切り込んでいくはずであったのだが、前々章で扱ったテーマが大きすぎたために、流動性の確保についてはまったく触れることができなかった
しかし逆に言えばそれほどまでにminority’s powerの問題とは動的な勢力と反動的な勢力とが拮抗している今日、つまり「伸るか、反るか」の状態にある今日、少なくとも民主主義を肯定する人々にとっては重視しなければならない問題なのである、現時点では再生可能エネルギーの普及によって生まれる雇用の機会についてはまだ流動的だ、だからDonald Trumpアメリカ合衆国大統領はパリ協定からの離脱を表明したのである、雇用が確保されない以上、地球温暖化の問題を優先させるわけにはいかないというわけだ、だが雇用とはズバリ人の問題であり、人の問題は金や物の問題とは異なりしばしば急を要する、そういう意味ではDonald Trump氏の意見にも実は耳を傾けるべき余地はあるのである

さて流動性の確保であるが、ここでは社会的な要素も一部絡めながらしかし全体的には個人の内側に焦点を当てて論述を進めたい
諸君すでにおわかりのようにこの私論では時に民主主義や歴史の問題を交えながら、しかし一方では個人の内側に焦点を当て、つまり私的幸福論の立場から「人はいかに生きるべきか?」を論じてきた、つまりミクロとマクロの問題の間を行ったり来たりしながら論述を重ねてきたことになる
このことは当初からの想定通りなので私のなかでは一切の矛盾を孕んでいないのであるが、もしかしたら読者諸君の中にはこの行ったり来たりにある種の戸惑いを覚えていらっしゃる方もおられるかもしれない、この「流動性の確保」がそのような読者諸君の蟠りを解消することには直接的にはおそらくつながらないであろうが、しかしここで私がこの私論の全体の流れというものを以下のように説明することは可能であると思う

この私論は個人的な記憶と想像力の産物に過ぎないにもかかわらず、以下のキーワードを当てはめることでここまで読み進んできていただいた読者諸君の日常的な精神的な負荷のための一つの知的な意味での救済につながるかもしれない

それは「海図のかけら」

無論人生には海図もなければ羅針盤もない、ならば自分のオリジナルの海図と羅針盤を作ればよいのである、人生に海図や羅針盤がないというのはそれだけ万人共通の価値観というものはこの世には存在しないということを意味している、つまり人の数だけ人生に関する価値観が存在し、そこでは「これをすれば絶対に幸福になれる」という処方箋などないということである
だが私はすでにこう述べている
万物は対象を求める
ならば自分自身に対して以下のような問いを発することはきっと無意味ではあるまい

私の対象は何?

ここでは「信仰」は一切関係ない、故に多くの人にこの問いは当てはまるものでありまた時間もお金も一切関係なく今すぐにできることでもある、無論世界の一部には民主主義というものがまったく機能していない国や地域があり、また事実上戦争状態にあるため日々自らの命の危険を顧みながら生活している人々が間違いなく私が想像する以上いるために実はこの部分だけでもそれを試みることができるということはかなり幸福なことなのではあるが
対象とは如何なるものであれたとえ恣意的なものであったとしても個を導き得る存在である、ただそれが恣意的なものであったりまたは幾分かでも嘘偽りが混じっていたりした場合はそれだけそれは短命に終わるということである
私はすでに「喪失」の章で「個の主体的なその対象に関する捉え方次第で概ね現実を上手にコントロールすることができる」と書いた、これは無論すでにたそがれの扉を開けた人々を対象とした文言でありそうでない人にはこれは必ずしも当てはまらないのではないかと考えているが、若い諸君であったとしても対象を知ることでこれを部分的にではあるが実践することは可能であると思う、何度も述べていることだが感受性の強い時期つまり14歳から21歳までの間にある程度の自分探しを行っておく必要が「より良い」人生の実現のためには不可欠であると私は考えるが、しかしこの7~8年間はあっという間に過ぎ去る、あっという間である、だから実際にはこの期間に予定調和を時に離れて自分のオリジナルの世界を構築することは相当難しいのである、だから感受性はやや鈍るが22歳以降に自分のオリジナルの世界を「老い」の始まりをも踏まえて構築していくということも現実的に考えておく必要はあるのかもしれない、22歳にもなれば17際よりははるかに現実的なものの見方ができるようになっているはずである、また30代以降においても徐々に人生を客観的に見ることができるようになるため、つまり「人生なんてそんなもの」とそれ以前よりは頻繁に感じられるようになってくるため、対象を純粋に捉えることができた場合感情や情念の作用による干渉からそれだけ精神はより多くのフリーハンドを得る
ここでのキーワードは「遠くを見る」であろう
しばしば耳にもするこの言葉はしかし自分を見つめ直し迷いからの脱却を図ろうとするときには実に有効である、ここには暗闇の中星座を読み解きながら船を安全にそして確実に目的地まで航行させようとするcaptainのmindにつながりうる何かがある、すでに「曇天の日には収穫が多い」で「捨てる」を知らない人はたとえ夢を持ったとしても多くの夢を徒に追い求めるだけで結局何も得ることができないであろう、と書いたが、眩い光こそ迷いの原因なのである
だが暗闇を知ればそれだけ彼は慎重になり、またリスクが増す分多くの人の意見に耳を傾けるようになる、順調であるとは「片方しか知らない」ということだ、故に対象を見つけ、チャレンジし、当然のごとく何度か失敗し、そして初めて「両方を知る」になる、無論その喪失は「老い」を知る、つまり「若さの喪失」に比べればそれほど大きな負ではないため、最終的には意思の作用によるところが大きいのであるが、しかしこれはボトムアップ、下からの改革の重要性に気付くための一歩にはなりうるのである、トップダウンが必ず間違っているとは言い切れない、だが長続きするのは下からの改革だ、なぜならば下からの改革はすでに述べたある概念を肯定するからだ

緩やかな降下

ここには「老い」の概念がある、そして誰も「老い」からは逃れることはできない、ただそれを遅らせることができるだけだ、対象を見つける→チャレンジと失敗を繰り返すことにより両方を知る→(その都度)遠くを見る→ボトムアップ→たそがれの扉を開ける→緩やかに降下していく、この一連の動きは「より良い」人生の実現に適う、そしてこの一連の流れの前半部分は20代でも理解できるはずだ、ならばここで全体の流れを大まかに捉えておくことは間違いなくその後の人生に役立つ、事実30歳を過ぎたら日常は猛スピードで駆け抜け始める、1年などあっという間である、だから夢は持てるうちに持っておいた方がよい、無一文なのに幸福な気分に浸れるなど30歳を過ぎたらほとんどないのである(僅か数パーセントに過ぎないであろう)

ここでもう少し内省的な問題に焦点を当てよう、流動性の確保である
私はすでに「待て、まだ次がある」を精神の情念に対する、または理性の不安に対する優位を決定づけるための知恵の言葉の一つとして挙げているが、この流動性の確保もそれに類するものである
流動性の確保とはつまり「ストック」ではなく「フロウ」であるということである、すでに蓄積された何かよりも流動していく値をより重視するということである、ここで分かりやすい例として挙げられるのが「川」である、そう水が流れている川である、都市は世界中どこでも川の流域に築かれている、なぜか?
都市を建設する場合に川が重要な役割を果たすからだ
ではなぜ川が重要な役割を果たすのか?
それは川が流れているからだ
それはどういうことか?
水は滞留すれば腐る、だが川では水が流れているために水は滞留することがなく故に川の水は腐らない、私たちはそれを当たり前のものと解釈しているが水が絶えず流れている川の流域に人類が古来都市を建設してきたということは実は人間の精神にとってこそ重要な意味を持つ、人類が有史以来蓄えを軽視してきたとはおおよそ考えられない、だが実際には食料や水を蓄えるということはつい最近まで容易ではなかった、だがそのことが産業革命前を生きる人々の間ではプラスに働いたのである、つまり「ストック」が容易でなかった時代においてはセレブリティが一市民の中において生まれるということはほぼ考えられなかった、セレブリティとは皇帝であり、王であり、貴族であり、いずれにせよ市民の範疇を大きく逸脱したところにのみ存在するものであった、だがだからこそ市民は「フロウ」の中で次から次へと時間や情報を「今」から「次」に流しながら、重要な精神的価値の合意の形成に向かって結果的にせよ邁進することができたのである
なぜそれができたのか?
そこには不安があったからだ
ではなぜ人は蓄えをするのか?
そうすることによって少しでも日常の不安を解消しようとするからだ、事実宝くじで6億円当たった人はその6億円はストックするかもしれないがもう蓄えそのものには無頓着になるであろう、だがこの将来への不安こそが新しい価値の創造には不可欠なのである、なぜならばすべての人々は必ずしも「自分が何を好きで何をやりたいか」がわかっていないからだ、それがわかっていれば夢の実現のための努力が将来への不安を上回るがそうでなければ人々は不安の解消のためにこそ切磋琢磨するということになる、確かに1948年にアメリカで起こったゴールドラッシュのように一獲千金を狙う人々はきっと今も後を絶たないのであろうが、だがもし人間の持つ可能性というものを信じるのであれば、私たちはすでに多額なストックを抱えるセレブリティではなく、「夢の実現」にせよ「将来の不安の解消」にせよ、フロウの中で必死にもがいている人々をこそ支持するべきである、もしかしたら彼らの多くは結局ストックという点では最終的にはそれを目指していたにもかかわらず失敗に終わるかもしれない、だが彼らの生きざまつまり結果ではなく過程が「次」の人々の精神的な支柱を果たすべき何かにつながるかもしれない、ついに彼らは日本武道館でのライヴを果たすことができなかった(または一度しかできなかった)、だがそういうグループこそが実は「次」の人々からは「目指すべき対象としての価値を有するもの」としてきっと長く語り継がれていくのである(外国のロックバンドでいえば例えば初期のポリスやトーキングヘッズがそうであった)、「ストック」とは概ね商業的な成功の結果である、だが「フロウ」には商業は必ずしも関係ない、ここでは厳密にはあくまでも「ストック」を目指した人々とそうとは言い切れない人々とを分類して定義するべきなのであろうが、後者を玄人受けする人々と一括りにすることはもしかしたらある程度可能なのかもしれない、ただここは実はminority’s powerに通じるところでもあり、容易には譲歩できない箇所でもある
この玄人受けする人々、つまり私風に言わせれば「理」を常に「利」に優先させてきた人々は、この2020年代以降のminority’s powerの時代において結果的にせよ「庇護者」になりうる、またはそのような人を誕生させるその原動力になりうる人々ではないかと思う、そう、あくまでもこれは精神的な意味であり物質的にはセレブリティによる自発的な積極的譲歩を待つ必要があり故にminority’s powerの実現には相当な時間を要することになるのであるが、この精神的な部分が多くの人々のよって共有されるより前に、きっと先行していくに違いないであろう一つの社会的ムーヴメントがしかしその一方で経済格差の問題や環境問題が今後著しく悪化した場合、突然社会の表舞台に躍り出て脚光を浴びるということになるかもしれない、すでに川がそれを証明している、きっと今でも新しい都市は河川を無視しては成り立たないのではなかろうか

すべては流れていく
ならばそれは良いことなのだ
事実私たちは天国に何を持っていけるというのだろう?だがこのあたりは熟考して判断することが求められる、なぜならばきっと以下のように判断する人も現れるに違いないからだ

この世には善も悪もないただ現実があるのみだ、だからただ今そこにある現実を素直に受け入れて生きていけばよいのだ

このような考えは一見望ましい考えのように思えるが実はそうではない、なぜならばここには「次」への配慮がまったく感じられないからだ、私たちはただそこにある現実を無批判に受け入れるのではなく、「慣習を踏襲することのみを美徳とする」という考えから脱した「次」を考えた一段階ステップアップした新しい価値観をここで提示する必要がある、それは上記した二つの問題がある以上しばしば引き際の美学とも衝突するであろう、したがって「すべては流れていく」を是とするには「変化を受け入れる」がその筆頭の条件になっていなければならないのだ、だがきっとこのあたりは特に「信仰」から距離を置いている若者たちには混同して受け取られているに違いない、なるほど善を認めてもそこにはかなり高い確率で報酬(reward)がない、あっても所詮自己満足程度にすぎないかもしれない、虚しさを経験するよりは、今そこにある法則を是として前例に倣った慣行の繰り返しを選択する方が理に適っているのではなかろうか、そう考える若者が増えたとしてもそこに論理的な反駁を試みることは容易ではないかもしれない
きっとそのような若者たちは以下のように考えるのであろう
「フロウ」は一定の「ストック」を生み出さない限り意味を持たない、財産は相続税の適用によりその多くが天引きされるが、それを考慮したとしても「霊」的なものに多くの価値を見出そうと努めることはそれを理解してくれる「次」の人々がそこに現れるという保証がない限り挑戦する価値はない

そう、この2017年現在ではここまでが精一杯である、私はビートルズが偉大だったのは彼らがストックよりもフロウを選択していたからだと考えている、そしてロックアーティストの社会的地位が著しく低かった1960年代前半において、彼らがラヴソングにこだわり続けた、つまり彼らなりの普遍を探し求め続けたことの意義は大きいと考えるが、彼らが残したストックはすべての大人たちの予想を覆すのに十分すぎるものであったことも事実だ、きっとストックへの期待がフロウの価値を上回り続ける限りにおいて、第二のビートルズは誕生せず故に成功例の正確な踏襲だけが続いていくものと思われる、「フロウ」は普遍に通じ得るが「ストック」は慣例の踏襲に過ぎない、時は水のように流れてこそ鬱を癒すのだが、富の蓄積に成功した者の譲歩がない限りminority’s powerを引き出すための、その精神的支柱となりうる庇護者の登場は受け皿がないが故に実現しないのであろう
だが、このままでは経済格差の拡大故のテロ頻発の時代は終わらないのではなかろうか?

そろそろ次の章へ進もう

曲線と直線、そして色彩

曲線と直線、そして色彩(2017/09/03)

前章では流動性の確保Part2と題して、前々章ではまったく述べられなかった個人の内側に焦点を当てた新しい時代における私たちの選択肢についてリスクを可能な限り抑えたうえでのリターンの確保について述べるつもりでいたがやはり尻切れトンボになってしまったようだ
いくらそこに庇護者が現れたとしても富の蓄積に成功した人々の積極的譲歩による「受け皿」の設置が生まれない限りは社会的なムーヴメントはそれが起きたとしても結局は一時的なものに終わるであろうと考えられるからだ、ここは芸術を生業としている人々には容易に理解されるところのものであろう、きっとこの21世紀初頭、1999年までに確実に結果を残すことのできた幾通りかの形式と、優れた技術を兼ね備えたクリエイターたちによって生産され消費し尽くされた言葉と旋律とリズムと映像とデザインと風景がついに行き場を失って、それらを20世紀の方程式をこそよく知る頭脳明晰なプロデューサーたちによってメーカーに都合がよい形で再生産され過去を知らない若い世代がそれを「最新のモード」と錯覚するという現象が繰り返されているのであろう、そこにあるのは慣例の踏襲を励行することを旨とする大人たちによる明確な意志を持たない群衆(その多くは22歳以下の若者たち)の商業的芸術への組み入れであり、原点回帰を忘れた、つまり最も優先させるべきものであるはずの自由を取引の材料に使ってしまった悲しきアーティストたちの実は影を引きずったままの光の中の乱舞であろう
ここでのキーワードは”naked”
私たちはいつしかそこに「覆い」がなければそれを不自然と捉えるようになってしまったようだ、「ありのまま」とは工夫がないということではなく、「本来の自分を見失わない」ということだ、ここでは「循環」が二つのものとほぼ無縁のままその果たすべき役割を果たしている
その二つとは「拡大」と「衝撃」である
この二つはスマートフォンを例にとると容易に理解されるのであるが、下手をすれば「時代遅れ」を揶揄されかねないこの2007年以降の批判ゼロの激流はしかし確実に「拡大」と「衝撃」を手にし続けている、いつか「抗う」若者が一定数現れて”naked”の価値の確認と実践を試みるようになるまではこの激流は収まることはないのであろうが、それまでにはかなりの時間を要するであろう
“naked”状態において頼りのなるのは自分の感性だけである、この”naked”を実際に味わってみたい人はビートルズのBBC Live(CD2枚組)を聴かれるとよいであろう、ロックンロールがあれほどまでの輝きを放つことができたのはそこに”naked”があったからだが、しかし同時にロックンロールがカネになるとは当時の大人たちがまったく考えていなかったがために、当時の若者たちもそれだけ自由に演奏できたのである
“naked”は自然のままの河川であり、「覆い」は河岸工事の行き届いた河川である、前者は美しいが時に暴れ川になる、後者は管理されているが故に氾濫することもないがしかしどこにでもある風景を私たちは見せられることになる、だがそれでも流れないよりは良いのであろう、なるほど「拡大」を受け入れているにもかかわらずハイリターンの望めない社会の中で私たちに与えられた選択肢というのはやはり限られているのであろう、そのように考えると”naked”を感じることが稀になった現在、「流動性」を確保しようと試みること自体限定的になってきているのかもしれない

ではこの章のタイトル、「曲線と直線、そして色彩」である
私は思う、私はすでに人生は渦巻き状に曲線的に進行すると書いたが、その前提で行けば人類のライフスタイルは産業革命以降急速に多様性を秘めた複雑なものに変化してきているのではないかと
かつて生活の中にはおおよそ曲線と色彩しかなかった、曲線とは人生のことでありまた人間自身のことでもある、そして色彩とは自然のことであり花々のことでもある、では直線とは何か?
それは経済のことでありまた都市のことである
つまりこの21世紀とは史上もっとも合理的にこの三者が共存していかなければならない時代なのではないかと
確かに直線は古来より人間のそばにあった、槍などの武器がそうである、今でも大砲、小銃、戦闘機にミサイルと武器は直線的に設計されているものが多いように思える、それは昔からそうなのであろう、だが直線がこれほどまでに生活の中に入ってきたのはつい最近であろう、河川も本来は曲線だが氾濫を防ぐため河岸工事が進み、幾分かではあるが直線的な景観へと姿を変えつつあるようだ、そしてこの人類の生活の中に一定の直線的なものを取り込んでいくことから私たちは「便利」をキーワードにする以上どうやら離れることはできないようだ、ならば私たちはこの直線的なものと上手に付き合っていくことを学ぶべきなのではなかろうか?

ハートのマークは曲線でできている、また心の形と聞いて直線を思い浮かべる人は正直少ないであろう、人間が曲線であると考えられるのであれば、人生の価値観における曲線的な思考の優位は動かないにしても、他の二つ直線と色彩をどのように生活の中で扱っていくべきなのか?
それについてこの章では考えていきたい
まず色彩である、日本の場合色彩は同時に四季彩でもあろうかと思うが、これは食を考えれば容易に分かるようにそれは旨いかどうかだけで判断されるべきものではないように思える、それは幕の内弁当一つとってもそこには一定の彩が重要になるのではなかろうか?
食の次は衣服である、これも色彩を無視しては成り立たない世界であろう、ここは冠婚葬祭を例にとるとわかりやすいかもしれない、やはり黒は厳粛な色であり礼服として用いられるのは当然ということになるのであろう、そして色合いが薄くなるにつれてカジュアル度が増すという印象である
衣の次は住のはずであるが、我が国日本の場合あまりカラフルな住宅や建造物というのは見たことがない、赤茶色の屋根瓦や水色や黄色、または緑色の壁などがもっとあってもよいのではないかと思うが、特にオフィスビルの場合おおよそ似たような外観であり色使いである、それはロビーに入っても同じで、エレヴェーターホールに有名な絵のレプリカが架けられていたとしてもそれ以外は地味であり西欧の教会のステンドグラスのようなデザインがそこで見られることは稀ではないだろうか?
おそらく色彩とは文化のことであり、文化とは横軸に時間を、縦軸に色彩を、そしてオリジナリティや深い精神性を奥行きに携えているものなのであろう、文化とは人間のみが紡ぎうるものであるのだからそれが三次元的であるのは至極もっともということになるのであろう
そして色彩とはまた余裕のことではないかとも私は思う
これは花々を例にとるとわかりやすいのではなかろうか、それらは実に堂々とそして一切の誇張を伴わずに咲いている、それ故にたとえ一輪でもそこにはそれを見る者に訴える何か主張のようなものがあるようにも思える
そういえば相撲にも花道というのがあるが、これは元来力士が花を手に持って入場したことに由来している、無論この慣習は古来神事の一環として行われていた厄払いのための奉納相撲にその起源が求められるべきなのであろうが、それを別にしてもこれは彼らの化粧回しも含め歴史上の日本のもののふ(士)というものの厳粛さと同時に精神の余裕の表れなのではないかとも思う
そういう意味では太平洋戦争時の日本軍にはこの花にあたるものが欠けていたようにも思える、やはり彼らには余裕が欠けていたのか?
余裕のないものは単色である、さらに言えば革命も単色に見える、私はすでに革命とは不信の最終形のことだと書いたが、歴史上の革命家たちがカラフルな衣服を身に着けていたとはあまり考えられないように思える、彼らの多くは軍服を着用しており色彩に無頓着ではなかったにせよ、おしゃれにはあまり気を使ってなかったようにも思える
歴史上の人物でも例えば坂本龍馬は革靴を履いていたようだ、侍が革靴、しかしこれは当時としては最先端を行く装いだったのであろう(革靴の方が丈夫でまた歩きやすかったはずだ)、色彩と同様おしゃれもまた余裕の表れなのか?

曲線、色彩ときて最後は直線である
ここでやはり直線とは大都市をこそ表徴するものであろうと言い切ることはおおよそ可能なのではなかろうか、それほどまでに都市というものはそれが大規模なものになればなるほど直線的になるという印象がある、さて諸君、またここで頭の中に黒板を用意していただきたい、そして想像上のコンパスで真ん中に少し小さい円を描いていただきたい、それが円Aである、つぎにその円Aと同心で円Aより少し半径の大きい円、つまり円Bを描いていただきたい、同様に円C、円Dをそれぞれ円B、円Cの外側に描いていただきたい、つまり最も小さい円Aを含め同心円状に四つの円が黒板に描かれていることになる
この四つの円の共通の中心がつまり大都会の中心であり、そこから外側に広がっていくにつれ大都会から離れていくということになる、したがって大都会に暮らしている人々はほとんど円Aに暮らしていることになり、B、Cと円が拡大していくにつれ都会度は減じていくことになる
私がここで問題にしたいのはそれぞれの円の面積である、四つの円のうち最も大きな面積を有するのはどの円であろうか?
そう、円Dである、
では最も小さな円であるのはどれであろうか?
円Aである
そして私は曲線とは人間自身であると書いた、またこうも書いた、人生のゴールはてっぺんではなく真ん中にあると、そのように考えると、上記した四つの円を以下のように並べ替えることができる

円D>円C>円B>円A(a)

つまり円Dが最も望ましいということになる
なぜこのようになるのか?
人生のゴールが真ん中にあるのであれば私たちは自分の周囲を見渡すことから始めなければならない、そのためにはそこにある程度の隙間、空間というものが確保されていなければならないのだ、ではそれがなければどうなるのか?
人は上を見るようになる
だが私は思う、それでは幸福の最大の天敵「比較」の犠牲者に自ら進んでなろうとするようなものであると
もし人生が螺旋階段のようなものであるならば、つまり同じところをぐるぐると回っているように見えながらも実際には少しずつ上へあがっているのだという考え方をとるのであれば、それは一見望ましいように思えるが、この考え方だとてっぺんに行ける人を除いてあとはすべて「比較」の犠牲者となる、なぜならば「上へ行く」ことをそもそも肯定しているのだから
当然の如くそこには序列が生じる、それは昇進が順調にいっている間は悲劇をもたらさないがそれが止まった途端に、彼は「比較」の犠牲者となる、だがこの世で一定の発言権を有しているのはてっぺんに到達したかまたは今もなお上昇中の人たちだけなので、私たちはこの厳然たる事実が持つ負の側面にどうしても気づくことができない、この考えはminority’s power(people’s powerの後継者)が21世紀において世の中をより良い方向へ持っていくための最重要要素の一つであるという仮説を立てたときにおそらくかなり高い確率で外すことのできないものであり、故にdiversityが重要になるのであるという考え方にもまったくもって反する
したがっていつまでも気づくことができない私たちはdiversityを都合がいい時だけスローガンとして多用するだけの、つまり「唱えるだけで実践しない」人々のままであり続け、結局何も変わらないという現実だけが続いていくことになる
私はすでに、強者(upperの人々)と弱者(lowerの人々)が対峙したときそこにその仲介者ともなりうるような精神的なリーダーが現れないと、結局議論参加者たちによってそこに生まれる曖昧などちらともとれるグレーゾーンに含まれているに違いない現実の問題の最も肝心な部分を「そのまま維持する」で決着されてしまいかねないと書いた
そういう意味では円Cや円Dに属している人々の中から庇護者になりうる精神的リーダーが現れ、テロに走りかねない完全孤立者たちの精神的退避スペースの確保に成功するという形がこの21世紀最も望ましい未来の姿なのであるとここで言い切ることも不可能ではないように思う
ただここで一部譲歩しなければならないのはこの章で書いたことは青春期を生きる若者たちには当てはまらないということだ、青春期を生きる者たちの限界までの挑戦が新しい価値の創造につながりそれがこれから生まれてくる人々のための道を作ることになる、したがって青春期を生きる者たちだけは「上を見る
権利」を有していることになる
ここは正確に言えば彼らのうち「挑戦した、にもかかわらず失敗した」人々こそが「両方を知る」が故に「次」の人々にとっての精神的リーダーになるうる人々であるということになるのであるが、ここではそこまで突き詰めないでよいであろう
また上記した四つの円の対比は経済のパイ(その市場における需要と供給を表す数値の合計)が上昇し、拡大し続けているときにはその逆になる

つまり円D<円C<円B<円A(b)となる

したがってかつての日本はこの(b)であったということになる、幾つかの大都市が経済、文化その両方の発信地であり、また発進地でもあったであろう、そこからまるでピラミッドの上に注がれた水がだんだんと下へと流れていくようにして地方へと物も情報もほぼ例外をそこに作ることなく行き渡っていたのだ
それはある意味中央集権的でありしかしそれ故に日本人皆が同じ情報を共有できるという精神的な意味での一体感を維持することができた幸運な時代であったのであろう、だが今時代は変わりつつある、そう、多様性の時代が始まったのだ、もし今後再びパイの上昇と拡大が期待できる時代に戻ることができるのであればまた事態は変わるのであろうが、そうでなければ私たちはこの「多様性の尊重」こそ時代の要請と受け止めて、パイが減少し続けていくかもしれない社会の中で新たな価値観の醸成に取り組まなければならないのであろうが、この章ではここまででよいであろう

マイナスからのスタート

マイナスからのスタート(2017/09/14)

さて前章では、「曲線と直線、そして色彩」と題して前々章で拡大しすぎた論点の軌道修正を図るつもりで諸々のことを述べた、つまり曲線である人間と直線である都市、そして色彩である自然の三者の最も望ましい融合こそがこの21世紀に求められるべき20世紀との最大の相違点なのではないかということである
前章の(a)を見れば直ちに理解できるように、中心点から最も遠い円Dが最優先されるべき場所となっている、つまり頭の中の黒板を見ればこれまた直ちに理解できるように円Dが最も多くの面積を持つのである、ではなぜ20世紀は円Aが最も優先されていたのか?
答えは皆が上ばかり見ていたからだということになる
無論このように言うことは可能であろう、我が国日本では1960年代から1992年ごろまではどのような経歴を持つ人であれ上昇(豊かさ)をその人生に期待することができたので皆が皆上を見るということは実はそれほど不自然なことではなかったのである、と
「宝くじ、当選確率これまでの3倍、しかも当選金額同じ」と銘打たれれば宝くじを買う人の数は間違いなく増えるであろう、20世紀後半の日本はそのような時代の中にあったのである
だが今時代は変革期へと突入した、上を見ることは経済的にも理念的にももはや時代にそぐわないものとなった、故に面積、空間が必要になるのである
すでにインタラクティヴの重要性については述べた、一方通行ではなく双方向通行、だからminority’s powerになるのであるが、僭越ながらこのことは個の持つ想像力と創造力の有効活用という意味でもこの21世紀どうしても外せないものとなるのであろう、経済のパイが縮小しまた環境問題が発生するため、私たちはこの21世紀可能な限り曖昧な部分をなくし最も合理的と考えられる選択をし続けなければならない、このような表現を記すことをどうかお許しいただきたい、かつては百歩譲って「幸福になりたければ勝ち組に入りなさい」の言を受け入れることができたのであるが、どうやら私たちはその勝ち組に譲歩しすぎたようだ、minorityには末席しか与えられず結局はmajorityが決定権のほぼすべてを手中にしたまま決定事項の90%の帰趨を決する
そして現時点ではdiversityは単なる標語のようなものでしかない
だが変化の兆しはある、つい先日開かれた車いすバスケットボールの世界大会「第一回 三菱電機 World challenge cup 2017」のようにminorityの活躍の場は確実に増えつつある、日本代表は三位に終わったがテレビの中継を見ていて観衆の多さに驚かれた方もいらっしゃったのではなかろうか、そういう意味では2020年の東京オリンピック、パラリンピックは前回1964年のものとは違う意味で多くのメモリーを私たちに残してくれるのではなかろうか

さてこの章のタイトル「マイナスからのスタート」であるが、これはminority’s powerを正確に理解する上でもその一つのきっかけを与えてくれる文言である
私たちは日頃から何かを始める時または何かを再開するときには必ずと言っていいほど以下のような言葉を口にする

ゼロからのスタート

無論この言葉を頭から否定するつもりはないがこの21世紀を20世紀以前と明確に区別するのであれば、これとは別の考え方をするのも一興ではないかと思う
このように考えてみてはどうだろうか?
確かに物事はゼロからスタートする、しかしそれを始める時にそのように考えるのではなく一旦後ろへ引いてスタート地点であるゼロを足元にではなく前方に捉えるように心がける、そしてスタートするための準備を整えようと試みるのである
もしゼロからスタートするのであれば初日において何かの成果を出す必要があるであろう、つまり0から1へ、または0から0.1へ、というように
だがマイナスからスタートするのであれば最初の数日はプラスになる必要はない、ゼロまでの数日間は準備期間として認識されるはずなので、いきなり無理をすることはなく故にいきなり失敗するリスクも小さい、またゼロを前方に据えるとは必然的にスタートのその瞬間をゼロからスタートする場合よりも客観的に捉えられるため、より余裕をもってその瞬間を迎えることができることになる、ここでは「待つ」故に主体性が損なわれることなく、したがってスタートするその瞬間をも「自分で決める」ことができるということになる
すでに諸君おわかりのように、ここではまたもや予定調和が否定されている、数値化された目標をクリアすることが、またはその瞬間、瞬間の期待値を最大にすることが目的である場合にはマイナスからのスタートを実践することはできない、この辺りは実に微妙なところであるので諸君も注意して読み進んでいってもらいたい
「待つ」は「流れる」を確保する
また「待つ」は「曲線」を担保する
川とはおおよそ曲線である、そして川とは都市の形成に不可欠なものであるが故に曲線、直線、そして色彩のすべての条件を満たす、そしておそらくゼロをある程度の距離をもって前方に眺めることができれば、それだけ私たちは「比較」から解放される、だからminority’s powerになるのである
きっとmajorityが見ているのは川ではなく運河であろう、運河には川にしばしば見受けられる不規則性がない、川は常識的には考えられないほど時に蛇行しているが運河はそのようなことはない、そして運河とはおおよそ都市にのみ存在するものだ
マイナスからのスタートとは曲線、つまり「待つ」であり、しかし同時に直線、つまり「秩序」であり、そして最後に色彩、つまり「余裕」である
これを諸々のことに援用することも不可能ではあるまい、「先手必勝」だが実は人生に勝ち負けはない、またあるとしてもそれは「自分を生き切った」人にこそその評価は与えられると考えるべきであろう
ここには「信仰」はないが「オリジナル」がある
また「成功」の確率は低いが、「道徳」の萌芽はおそらくある

私はすでにヒューマニズムとは「見つめる」ことであると書いたが、ここにはかなり高い確率でその「見つめる」がある、愛するが故に「それをしない」、また善を奉じるが故に「それをする」、ヒューマニズムとはその中間にあって弾力性のある判断のもとそのどちらを選択するかを理性的に模索する、ここでは経験がまったく関係ないと言い切ることはできないが、おそらくここで必要なのは経験と同時にやはり理想を諦めないでいることができているか否かであろう、そういう意味でも14歳から21歳までの感受性豊かな時期にある程度自分探しをやっておく必要がある、「自分が何を好きで何をやりたいか」をある程度明確に認識できている若者がまったく理想に目覚めないとはやはり考えにくいことではなかろうか
ゼロを前方に据えることで、現在地、スタート地点、目標地点の3つが一本の線で結ばれることになる、これは選択肢がゼロからスタートする時よりも増えることを意味しており、それは未来における主体の持つ自由な裁量権の増大を一定の割合で担保する
ここまで書いてきて私は思う、マイナスからゼロまでの距離、空間とは2次元的なものを3次元化するうえで実は必須条件であり欠かすことのできないものなのではないかと、ここでは平面的なものが立体的なものに変わっている、そして夢や目標とはつまり3次元的であると

ここでまた川に話が戻る
川は蛇行しているのになぜ流れているのか?
それはそこに調和があるからだ
何と調和しているのか?
自然と調和している
だが時に氾濫するが?
それはこのように考えることができる、そうなることで循環が成立しているのだと、おそらく循環とは曲線のことである
しかし治水は重要ではないのか?
おそらくこういうことであろう、利便性の追求が結果的にせよそこに比較を成立させているとき、人は自然ではなく都市の方を見る、治水が都市に住む人々の利便性の向上を主眼としている限り、きっとどこかで辻褄合わせをする必要があるのであろうと、そういう意味でも地方に暮らす人々(中央との比較でいえば明らかにmajorityではなくminority)の発言権がより確保される必要がある
Majorityとminorityの格差はいろいろな意味できっと我が国日本でも史上最も広がっているであろう、ここを経ずに結果だけを論ずるのはまったくもって建設的ではない、人生が曲線的であるならば都市もまた一定の割合で曲線的であるべきだ、また都市における直線的な部分と曲線的な部分とが拮抗すれば、その都市への人口の流入が減る代わりに人、物、情報の分散による多極化が実現する、多極化とはつまりインタラクティヴ、一方通行の逆である、そして一方通行ではないということは少なくともそれが循環の過程にあるということである
それが夢や目標とどのような関係があるのか?
一方通行とは2次元的だが、双方向通行とは3次元的である
それはどういうことか?
人、物、情報で都市が満たされているときには足りないものがないが故に工夫の必要性が相対的に見て弱まる、しかし双方向通行になれば人、物、情報の「行ったり来たり」が生まれ、それは循環を生む、循環は曲線であるが故に直線よりもはるかに3次元的である、それは川と運河を見比べたときの心象とも合致する
また都市に人、物、情報が溢れているときにマイナスの因子をプラスの因子に優先させることはきっと難しい、夢または目標の達成のためにはどこかで弾力性のある判断を取り入れる必要が生じるため理性は縦か横かではなくもう一つつまり奥行き言い換えれば「その裏側」を時に模索する必要がある、人生で重要なのは結果ではなく過程であるため、ここは実はminority’s powerとも精神的には相通ずる部分があり、また「機会の平等はしかし結果の平等を必ずしも意味しない」が故に単純にYesまたはNoでは割り切れない部分があってもよいはずである
地方から中央へという人の流れがあるならば幸福をキーワードにした場合、それとは逆の流れがあってもいいはずであり、しかしここは2次元的な判断を常にそのための基準としている人々には容易に理解されえぬところであろう

二つの私論の補てん(4)

二つの私論の補てん(4)

  • 随筆・エッセイ
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-15

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  1. 失敗は吉、後悔は善Part3
  2. 凪Part2
  3. 喪失
  4. 喪失Part2
  5. Minority's Power Part3
  6. 流動性の確保
  7. 流動性の確保Part2
  8. 曲線と直線、そして色彩
  9. マイナスからのスタート