淋しい男
淋しい男 』
平成二十六年二月のバンコクの空は綺麗に澄みわたり、そして、嫌という程、暑かった。
「バンコクの道路って、いつもこんなに混んでいるのですかねえ? ほら、すごい渋滞
で車がちっとも進まない」
「わし、今回で、五回目になるんじゃけど、いつもこんなんだわ。車がすいすいと流れ
ているところ、見たことないんだわ」
「あの割り込みと車間距離の無さ、黄色信号での突進、まるで、名古屋走りみたいです
ね」
「そう言われると、名古屋の人間としては困ってまうわ」
「だって、信号なんて、あって無きがごとしで、人は赤信号でも車がいなければ渡って
しまうし、車だって、黄色信号なんて完全無視といった具合で。名古屋走りの例えでよく
言われる、『黄色まだまだ、赤勝負』といったところですね」
そう言いながら、私は名古屋で実際に経験した、黄色信号での車のダッシュ、ウインカ
ーを出さずに割り込む常態的な割り込みと、割り込みを嫌うあまり、極端なまでに車間距
離を詰めようとする名古屋走りを思い出していた。
出張で車を走らせ、名古屋を抜ける時はいつも過度に緊張したものだった。
名古屋の道に慣れた人に運転を代わってもらったこともあるくらいだ。
「そう言うけんど、あんたんとこ、福島ではそんなことはないんかね」
「無い、ですねえ。まあ、運転する人にもよりますが、名古屋走りのような極端なマナ
ーの悪さはないですねえ」
その時、半袖の袖が少し引かれた。
「はねられてまうがね」
と言われ、前を見ると、バイクが疾走して来た。
そのバイクは速度を緩めもせず、私のすぐ脇をヒュンと走り抜けて行った。
後部座席に、人を乗せていた。
「名古屋走りより悪いがね。歩道を堂々とオートバイが走りよる。しかも、人を乗せよ
ってからに」
「バンコク名物の歩道を走るバイク・タクシーですね。車道を走るより、安全なことは
間違いない。何といっても、はねることはあっても、はねられることは無いのですから」
「自動車だって、ほんとは、歩道を走りたいと思っとらせるがね。自動車優先の国は、
ほんと、こわいわ」
アソークからプロンポンにかけてのスクンビック大通りの道は車で渋滞していた。
渋滞するあまり、車中での妊婦出産事故は後を絶たないと言われている。
警官に助産の教育を施せ、という論議が真面目にされているという噂もあるくらいだ。
しかし、それにしても、暑い国だ。
二月というのに、なんでこんなに暑すぎる!
ダウンジャケットを着て、厳寒の成田空港を発った私はタイのスワンナプーム国際空港に降り立った時、慌てて、そのダウンジャケットを脱ぎ、スーツケースに詰め込み、急いで半袖姿となった。
それでも、スーツケースを引きずりながら、タクシー・スタンドに着いて、乗車の順番を待っている間、噴き出してくる汗には悩まされた。
バンコクはいつでも暑い、ということは旅行案内書などの情報で事前には知っていたが、実際に滞在してみて、その思いは実感として強烈なものとなった。
少し歩くと、汗が額、首筋からふつふつと噴き出して来るのだ。
ハンカチを取り出して、汗を拭うのだが、きりがなく、ハンカチはやがて汗で濡れて、段々重くなって来る。
やがて、その重さにうんざりするようになってくる。
厳寒の日本を発って、まだ一週間にもならないが、還暦を過ぎた身にバンコクの暑さはこたえた。
冷房が効いているところに入ると、本当にほっとする。
泊まっているサービス・アパートホテルのレセプショニストの可愛い女の子もきれいな日本語で笑いながら言っていた。
バンコクには季節は二つしかありません、暑い季節とすごく暑い季節、という二つの季節しかありません、と。
どこかで聞いたような表現だと思った。
その瞬間、思い出して、私はニヤリとした。
それは、政治家を揶揄する言葉であった。
政治家は二つに分類されると云う。
悪い政治家と、とんでもなく悪い政治家の二つしか無いという分類だった。
そう言い切った後で、選挙であなたはどちらを選びますか、と続く。
また、選択肢を広げて、三つに分類されると云う揶揄もある。
悪い政治家、とんでもなく悪い政治家、そして、箸にも棒にも掛からぬ政治家、という分類である。
さて、選挙で清き一票、棄権は許されません。
あなたはどの政治家を選びますか。
日本は今、大雪で困っているよ、と私が言ったら、知っています、日本の四季をいつか味わってみたいです、日本は私の憧れの地なのです、私を連れて行って下さい、とも言っていた。
その言葉を聞いて、思わず、彼女の顔を見た。
悪戯(いたずら)っぽく、微笑んでいたが、真剣な顔でもあった。
還暦の男をからかう娘も、なかなか可愛いものだ。
年甲斐も無く、若いタイの女性に恋をしてしまう熟年の日本人男性も多いと言われる。
非難はできないな、と思った。
でも、私と並んで歩くこの男、この名古屋在住の男にはバンコクの暑さは何でもないらしく、速足(はやあし)で歩いていた。タフな男だ、と思った。
「カトちゃん、もう少し、加減して歩きませんか。汗を掻いてしょうがない」
私はとうとう音(ね)をあげて、加藤さんに提案した。
加藤さんは、ハンカチで汗をしきりに拭う私の様子を片目で見ながら、ニヤリと笑った。
「ナベちゃん、限界かね。日本で楽をしているから、そうなるんだわ。わしなんか、あんたより、三つ上だけんど、現役で働いているから、こんな暑さ、平気なんだがね。体なまっちゃ、人間、あかんよ。歩けなくなったら、人間、お終(しま)いだがね」
そう言いながらも、加藤さんは歩く足を少し緩(ゆる)めてくれた。
「赤信号でも、ほら、タイの人って、車が来ないと歩くでしょう。僕たちもついつられて歩いてしまう。こんな習慣がつくと、日本に帰っても、信号を無視して赤信号でも、車が来なければ、つい歩いて渡ってしまうことになりかねませんね」
「走っとらせる車にはねられて、死んでまうがね」
私たちは笑いながら、赤信号の道を大急ぎで渡った。
バンコクの歩道は物売りの屋台で溢れかえっていた。
立ちどまって、買い求める人も多く、歩道は常に混んでいた。
暑いのにネクタイをしているサラリーマン風、或いは、ハイヒールを履いたOL風といった男女も屋台の前に立ちどまり、いろいろと注文して買っていく光景が見られた。
肉とか練り物を炭火のコンロで焼いて売る店、搾りたてのオレンジ・ジュースを売る店、海賊版のCDを信じられないような安い値段で売る店、いろんな惣菜をビニール袋に詰めて売る店、宝くじを売る店などが歩道の両側にぎっしりと並び、賑わっていた。
特に、焼肉を売る店では、周囲に香(こう)ばしく美味(おい)しそうな匂いを漂わせていた。
脇を通る度に、一本買って食べたくなる衝動にいつも駆られた。
「カトちゃん、ああした、焼いて売っているもの、食べたことがありますか? 僕は、まだですが」
「ああ、何度も食べているがね。どえりゃあ、うみゃーよ」
「僕もそのうち、食べてみようかな。いい匂いがして、美味しそうだし。しっかり焼いているから、衛生面でも大丈夫でしょうから」
「あの、鶏肉の串刺しだって、十バーツぐらいなもんだがね」
「十バーツというと、日本円換算で三十円といったところか。しかし、まあ、安いものですねえ」
「日本人の目から見たら、そんなもんでも、ここ現地の人から見たら、どうだろう。百円程度の値打ちはあるかも知れんがね」
「日本と比べたら、大体、三分の一か四分の一といった物価かも知れませんね」
タイという国は、貧乏な日本人でも、自分は金持ちだと、つい錯覚させてしまう国だ。
三十バーツ(九十円程度)で、カオマンガイというチキンライスを美味しく食べさせる店もあるらしい。
繁華街にあり、店の雰囲気はごちゃごちゃとしているが、カオマンガイの味は抜群で、いつでも地元の人とか、噂を聞いて覗きに来た観光客で混んでいるという店だ。
カトちゃんお勧めの店で、バンコク滞在中、一度は行って食べてみようと思った。
彼、カトちゃんこと、加藤さんとは昨日のアユタヤ・ツアーで知り合った。
ツアーの集合場所はBTSと呼ばれる高架鉄道のアソーク駅近くにあるホテルのロビーで、そこに集合したアユタヤ・ツアー参加者は一台の小型バスに乗り込んで、ツアーに出発した。
ツアーは日本人でほぼ満員といった盛況で、私の隣に座ったのがカトちゃんだった。
大柄で顎が張り、眉毛の太い、いかつい顔をした熟年の男だった。
少しチョビ髭を生やしているが、その髭は半ば白かった。
アユタヤに着くまで、私たちは会話を交わさなかった。
恐ろしく無口な人だな、と私は思ったものだ。
普通は、おはようございます、或いは、今日は、といった程度の軽い挨拶を交わし、ついでに、どちらから来ました、といった会話を交わすものだが、無愛想に私の隣の席に腰を下ろしてきただけだった。
あまり感じの良くない男だな、と私は思った。
齢の頃は、私と同じ、六十は過ぎていると思われたが、がっちりとした体格の持ち主で、無表情に前方を眺めていた。
時々、バッグから擦り切れた黒い手帳を取り出し、小さな鉛筆で何やら書いていた。
この無口な男とこれから半日を黙って過ごすのか。
私は何となく憂鬱になっていた。
妻に先立たれた私は今、福島で、独りで住んでいる。
独りということは、日常的には誰とも話す機会が無いということだ。
話さない習慣が付いてしまうと、いざ話す場が訪れると、舌がもつれるものだ。
気ばかり焦って、うまく話せない。
仕方がないから、この頃は家の中で、独(ひと)り言(ごと)を大きな声で『呟く』ことにしている。
せめて、このツアーの時ぐらい、お喋(しゃべ)りになって、誰彼(だれかれ)ともなく話をしてみたい、と思っていたのだ。
しかし、無口な男と思ったのは、実に早計だった。
このツアーには、レストランでのランチ・サービスが付いていた。
「アユッタヤーにもうすぐ着きますが、手前で昼食を摂ることとします」
チェンマイ生まれの若い男のガイドが流暢な日本語で車窓の風景に見入っている私たちに告げた。
アユタヤという発音ではなく、アユッタヤーと発音していた。
アユタヤ遺跡の手前の大きな駐車場にバスが停車し、タイ人ガイドによって、私たち参加者はレストランに案内された。
そのレストランは三百人以上、収容できる大きなレストランで、ビュッフェスタイルのランチが既に準備されていた。
日本人観光客が多いと見えて、海苔巻とか稲荷寿司もあった。
私は皿にスパゲッティ、海苔巻、焼き肉、野菜、フルーツなど取って、指定されたテーブルに戻り、タイのシンハー・ビールを飲みながら食べた。
彼はバス同様、私の隣の席に就き、黙々と食べていた。
ふと、話しかける気になった。
普段は無口で他人にそう気楽に話しかける性質(たち)では無かったが、その時は、飲んだビールの心地よい酔いが私にそうさせたのかも知れない。
話しかけてみて、驚いた。
まるで、私が話しかけるのを待っていたかのように、彼は勢いよく話し始めた。
「タイには何回か、旅行されているのですか?」
男の返事は速かった。
「何回って、わし、今回が五回目だがね」
無愛想な顔が急に崩れ、私に人懐っこい笑顔を見せながら勢いよく喋り始めた。
話し出したら、止まらない男だった。
マシンガントークという言葉が私の脳裏を過ぎった。
「わし、タイが好きなんだわ。特に、バンコクがどえりゃあ好きで、毎年一回は来てまうんだがね」
男は名古屋の人だった。
名古屋弁丸出しの男に私は好感を抱いた。
名古屋には住んだことは無いが、隣県の岐阜にかつて私は七年ほど住んでいた。
勤務した会社の工場が岐阜にもあり、転勤族の私は新婚の妻と一緒に社宅で暮らした。
当然、名古屋にも足を伸ばし、名古屋城見物旁(かたがた)、繁華街の栄にも足を伸ばし、遊びに行く機会が多かった。
そして、住んでいたところが岐阜県の外れで愛知県に近いところだったので、名古屋弁にも慣れていた。
「時に、あんたはどこの人? 九州、かね」
「いえ、東北ですよ」
「あらっ、東北? それにしては、東北訛りが無いがね」
「少し、注意して話していますから」
名古屋弁丸出しで話す男が私には羨ましかった。
東北に生まれた者は郷里を離れて暮らすと、東北訛りを隠して暮らすものである。
それに比べ、名古屋は日本のほぼ真ん中で、何と言っても、織田信長とか豊臣秀吉が出たところだ。
昔は尾張弁、今は名古屋弁と言っているが、名古屋の人は訛りを気にせず、堂々と話す。東北出身者から見たら、羨ましい限りだ。
「そうかね、注意して話せば、訛りは無くなるものかね。でも、わし、あんばよう話せんがね。いつも通りで話すのがあんきなんだわ。で、東北のどこ?」
「福島です」
福島と聞いて、男は少し複雑な顔をした。
「福島かね。今、原発で大変なところだにゃあ」
「まあ、そうですね。でも、僕のところは、原発からは大分離れているところですから、避難とかいったことは幸い無かったですけどね」
「でも、わし、悪いけんど、福島の野菜は買わんことにしているんだわ」
「出荷されているものは安全ですよ。放射能の測定をして、大丈夫というデータが出たものしか出荷していませんから」
「それはそうだけんど、わし、買わんのよ。今、わし、家族のご飯を作っているんだけんど、野菜を買う時は、まず産地を確認し、福島のものは絶対買わんことにしているのよ。測定のデータだって、わし、信用しておらなんだに」
「家族のご飯を作っているのですか?」
「人から見たら、たわけた話らしいけんど。女房殿の様子が悪く、おうじょうこいてるんだわ」
男はビールを飲みながら、話を続けた。
「女房殿が鬱(うつ)でね、困っとるんだわ。料理はおろか、なーんも出来ず、家でころがっとるばかりでね。しょうがないから、わしがやっとるんだわ。そうかと言って、暇じゃないんだわ。わし、今、働いとるのよ。会社を定年になって、暫くはのーんびりと遊んでいたけんど、退職金が目減りして、遊んでばかりもいこまいと、少し前から働き始めたのよ」
男には息子が二人いるが、二人共三十はゆうに越え、四十近いというのに、まだ結婚せず、親と同居しているとのことだった。
「どうも、わしばかり、話していてもいかんがね。あんたんとこ、どんな具合か、話してちょ」
そう言いながら、彼は箸を、取り皿に載せた水っぽい海苔巻に伸ばした。
「僕の場合は、数年前に家内に死なれまして、今は気楽な男やもめですよ。娘が一人居ますが、公務員と結婚して、今は東京に住んでいます」
「奥さんに死なれてござったのか。まあ、何ともはや。けんど、娘さんは結婚してみえて、よかったなも。わしんとこ、四十近いというに、息子は結婚なんぞする気もなあでかんわ」
「今、働いていて、なおかつ、料理までしているというお話、なかなか大変ですね」
「わし、毎日、五時に起きているがね。ほんでもって、一時間ばかし、犬と散歩して、戻ってご飯を炊いているのよ」
「お弁当も作っているんですか?」
「弁当は別だがね。朝食は準備するけんど、弁当は別で、息子たちは勝手にわしが炊いたご飯を弁当に詰めて、おかずは自分で食べたいものを作ってござるがね。電子レンジでチーンと、まあ、便利な時代だわ」
私はこのように話す男の生活と今の自分の生活を比べてみた。
独りの暮らしというのは気楽なものだ。
朝は起きたい時に起き、夜は寝たい時に寝ればいい。
起きたら、まとめて炊いて、小分けにして冷凍庫に保管しておいたご飯を電子レンジでチンして、納豆か目玉焼きでもおかずにして食べればいい。
勿論、野菜は欠かさず摂るようにしている。
キャベツが好きで、毎朝、スライサーで千切りにして、胡麻のソースをかけて食べる。昼は昼で、近所の『ほっともっと』あたりで弁当を買って食べる。
夜は、スーパーで買ってきた惣菜を並べて、晩酌をしながら、食べる。
昔は結構、酒が強かったが、齢のせいか、酒量が落ちてきた。
今は精々、缶ビールを一缶飲んで、後は、日本酒を二合飲んで、お終(しま)いとしている。
知らず知らず、いつの間にか、ずぼらになったところもある。
風呂は最近、毎日は入らなくなった。
二日に一遍ほど入る、というのが習慣になってしまった。
毎日入ると、風呂掃除が面倒だ、というのが理由だった。
洗濯なんぞ、週に一回で済む。
この男と比べ、何と気楽な生活を俺はしているのだと、少しほろ苦い思いはしたものの、そう思った。
アユタヤ遺跡に着いた。
ここは、樹木の根に取り込まれた仏頭(ぶっとう)で有名な遺跡であるが、繁栄を誇った往時を偲(しの)ばせる仏塔、仏像も数多く、美しい佇(たたず)まいで旅情を誘うアユタヤ王朝の遺跡群である。
私は名古屋の男と連れ立って、ぶらぶらと歩いて見物した。
アユタヤは一昨年末の大洪水被害からすっかり立ち直っているように思えたが、ガイドの話では、観光客の数はまだ元には戻っていないということだった。
あの大洪水で、遺跡が大きな被害を受け、以前のような美観はまだ取り戻していない、という噂が根強くあるからだ、とガイドは溜息交じりで話していた。
原発同様、いわゆる風評被害に苦しんでいるのか、と思った。
遺跡では洪水の跡を見ることが出来た。
夜間照明用のライトがあり、地面から一メートル五十センチくらいの高さに設置されているが、そのライトのガラスの内側に洪水の水の跡が一筋の黒っぽい筋となって残っていた。ここまで、水が来たのです、とガイドがうんざりとした表情で話していた。
木の根に取り囲まれ、挟まった格好の有名な仏頭を観た。
写真を撮るのは自由だが、地上から五十センチほどの高さにある仏頭より高い位置で写真を撮ることは許されないというガイドの説明があった。
仏頭より低い位置で撮るのが礼儀だそうで、観光客はしゃがんで写真を撮ることとなる。
木の根にがっちりと挟まれ、仏頭は諦め顔をしているように私には思われた。
憂き世はしがらみが多い、これが人生だよ、と嘆き呟いているようにも思われた。
その他、二十メートルの高さを有する巨大な黄金大仏、全長三十メートルを誇る寝釈迦仏も観た。
右を下にして横たわっている寝釈迦仏の白いからだは首から下にかけて巨大な黄色の布で覆われていた。
黄金大仏の寺院の前には、小さな仏像があり、金箔がべたべたと貼られていた。
痛いところに金箔を貼れば、良くなるということなのか、全身に金箔が貼られていた。
もっとも、仏像の顔あたりは貼られた金箔が剥がれ落ちそうになっている個所もあり、少し不気味な様相を呈していた。
そう希望通りには、美しい顔にはならないよ、と皮肉めいて語りかけているような気分にも囚われた。
少し離れたところに、象に乗れるところがあり、観光客で賑わっていた。
黒い帽子を被り、赤い服を着た象使いが象の首に乗り、象の背中に設けられた荷台のような椅子にお客は二人掛けで乗る。
お客の頭上には日除けの赤い天蓋が設置されており、ゆらゆらと揺らめいていた。
十分間で一人、三百バーツ(千円程度)だそうだ。
降りる際、象使いに一人、二十バーツほどのチップを払う。
けっこう、いい商売しとるがね、と名古屋の男が呟いていた。
アユタヤ・ツアーが終わり、夕方頃、アソーク駅近くのホテルに着き、参加者はそこで流れ解散ということになった。
私たちは、と言えば、二人とも還暦を過ぎた男同士、気楽なものでどこかで夕食を一緒に食べよう、ということになった。
二人共、夕食には晩酌を欠かさないほうだった。
どこか、気軽に飲めるところはないか、という話になった。
私に思い当たる店があった。
「少し歩きますが、プロンポンの近くに日本風な感じの居酒屋がありますよ。良ければ、行ってみませんか?」
名古屋の男に異存は無かった。
行こまい、行こまい、ということになった。
私たちはぶらぶらと歩いて、その店に行った。
店はプロンポンのショッピング・モール、エンポリアム・ビルの近くにあった。
私が泊まっているアパート・ホテルの近くでもあり、傍を通る度、一度は入ってみたいな、と思っていた和風の飲み屋だった。
店先には、日本風な縄暖簾(のれん)もかかっていた。
まだ早い時間と見えて、客は私たち二人だけだった。
タイ人のウエイターが注文を取りに来た。
私たちはカウンターに腰を下ろし、シンハー・ビールを注文した。
「『とりあえず、ビール』。慣用句となっていますねえ。しかし、それにしても、タイのこのビールは美味しいですね」
「言わば、地ビールだがね。ビールはその地元で飲むのが一番だがね。日本でも、そうだがね。名古屋にも、金しゃちビールとか、いろんな地ビールがあって、どえりゃあ、うまいがね」
「ここから見る限りでは、板前もタイ人だし、タイ人ばかりでやっている店のような感じですねえ。日本人はいるのかなあ」
「だけんど、店の雰囲気、料理は完全に日本風だがね」
「タイの人って、商売があたると、店の切り盛りは従業員に任せ、自分は店に出ず、のんびりと暮らすらしいですよ。この店もそうなのですかねえ。奥で、日本人のオーナーがのんびりとお茶でも飲みながら、テレビを観ているとか」
ウエイターが『つきだし』として、イカの塩辛を持って来た。
「イカの塩辛にビールは合いませんね。このビールを飲んだら、日本酒にしますか?
日本でもお馴染みの黄桜がありますよ」
「きーざくら、の黄桜かね。カッパの黄桜、ね」
男が、きーざくら、と変な節回しで唄いながら、言った。
ウエイターを呼び、日本酒と焼き鳥を注文した。
店の前の看板に、寿司食べ放題、とあったので、寿司も注文したら、ランチメニューであり、この時間帯はやっておりません、すみません、という返事が返ってきた。
やがて、私たちは焼き鳥を肴(さかな)に日本酒を飲み始めた。
「わし、加藤」
「あっ、僕は渡辺と言います」
「渡辺さん、かね。そんなら、あんた、わしをカトちゃんと言って。わし、あんたをナベちゃんと言うから。そのほうがあんきでいいんだわ」
私は思わずニヤリとしてしまった。
カトちゃんと言えば、どうしても、ドリフターズの加藤茶を連想するが、私の隣でカウンターに凭(もた)れている男は大柄で屈強な、しかも、髭を生やした、いかつい顔をした男であり、加藤茶のイメージからは随分とかけ離れた男だった。
加藤茶より、昔、唐十郎の赤テントでならした麿(まろ)赤兒(あかじ)のほうだと思った。
それでも、こうして提案された以上は、相手の要望に応えなければならない。
「カトちゃん、明日はどうします? 僕はローズ・ガーデン・ツアーに参加するつもりでいますが、良ければ、明日もご一緒しませんか?」
「ほんとかや。わしもとりたてて、用事もありゃせんし、ほんなら行こまいか」
彼の返事を聞いて、私は携帯電話を取り出し、ツアー会社に電話をかけ、明日のツアーを予約した。
「予約が取れました。ツアー会社の担当者の話に依れば、明日のローズ・ガーデンツアーのガイドさんは女の人らしいですよ」
「で、何時に集合?」
「今日のホテルのロビーに、十一時だそうです。お金はその時にガイドさんに渡せばいいとか。一応、領収書も準備しておきますから、ということでした」
黄桜を呑みながら、加藤さんが呟いた。
「ナベちゃん。あんた、市川雷蔵という映画スターを知っとるけ」
「ええ、勿論、知っていますよ。随分と若くして、亡くなった俳優さんです」
「わしね、あの雷蔵さんの酒の呑み方が好きで、憧れたのよ」
私はどんな呑み方だったか、思い出そうとした。
「こういう風にね、盃を口元に持っていって、すいっと、呑むのよ。雷蔵の喉ぼとけって、けっこう大きくってね。その喉ぼとけが綺麗に上下して、酒が呑み込まれる様子が色っぽいのよ。あんな綺麗な、美しい酒の呑み方は雷蔵以外には見たことが無いんだわ」
そう言いながら、加藤さんは盃ならぬ、ぐい吞みを口元に運んだ。
本人は、すいっと、呑んだつもりであろうが、ぐい吞みでは盃のように、すいっと、とは行かず、ぐいっと、或いは、ぐびり、といった感じで呑んでいた。
彼はぐい飲みに注がれた酒をぐびりぐびりと飲みながら、しみじみとした口調で言った。
「定年で長年勤めた会社を辞めて、のんびりと暮らすつもりでいたんだけんど、そうもいかなくなってねえ。実は、退職金で株を買(こ)うたのよ。人に勧(すす)められてね。その株がこの間のリーマンショックでどえりゃあ安うなって。目減りなんてどころか、半分になってもうた。ほんで、また、わし、働きにでたのよ。その内、女房が変になってもうて。今度の仕事は・・・。名(めい)駅(えき)、知ってござるかや」
「ああ、勿論、名古屋駅のことでしょう」
「そうだがや。その名駅の自動販売機にいろんな飲み物を卸す会社に今、勤めているんだわ」
彼は疲れたような口調で話を続けた。
「今の仕事、かなりきついんだわ。前の会社は五千人ほどいる会社の工場で働いていたんだけんど、今の仕事よりは大分楽な仕事だったわ。今、仲間が十人ほどいるけんど、みんな、わしより若うござって、ほいだもんで、仕事、あまりきつくないんだわ。でも、齢のわしにはきつい仕事でかんわ」
「前の会社って、トヨタ系列の会社か何か?」
名古屋の会社と言えば、どうしても、トヨタを連想する。
しかし、彼の表情は曖昧だった。
私の問いかけには答えず、今の職場の話を続けた。
「今の職場の仲間に五十過ぎの独身の男がござっての。まあ、気楽な暮らしをしているんだわ。給料は決して良くは無いんだけんど、無欲かしらん、今に満足してござってね。その男のアパートに行ったことがあるんだけんど、綺麗に暮らしてござっての、ほら、昔から言う、男やもめには蛆(うじ)がわく、なんてことはちっとも感じられなかったに」
「おそらく、カトちゃんの息子さんも、そうなのでしょう。親元での気楽な暮らしも満更じゃあないのでしょうね。親元で暮らしている子供は一般的に婚期が遅れるという話もありますから」
「息子たちはそうでも、親としては少し困るがね。親としては、まあ、世間様並みに女房殿を貰うて、子供をこさえて、平凡に暮らしてもらうのが何よりだに」
「勤めに出ても、奥さんは大丈夫なのですか?」
「大丈夫じゃありゃあせんわ。留守の間、なんとか宜しく、と隣近所にいつも頼んでいるがね。留守の間、家を飛び出て、名鉄(めいてつ)に飛び込まれたら、かなわんがね。今度の旅行でも、近所の人にしっかり頼んでおるのよ」
加藤さんはぐい飲みの酒を飲み干しながら、呟くように言った。
「ほんとなら、旅行に行ける身分じゃあ無いんだけんど、一年に二回ほどは、こうして遊びに行かしてもらっているのよ。台湾とかこのバンコクにね。息抜き、にね。そんでもしないと、わし、ノイローゼになってしまうがや」
唄が流れていた。
バックグラウンド・ミュージックのつもりか、低い音量で艶歌が漂い流れていた。
美空ひばりの古い唄だった。
わたしゃ、みなしご、街道ぐらし、ながれながれの越後獅子。
このバンコクであてもなく漂流する邦人も多い、という話を聞く。
私が泊まっているこのプロンポン地区は日本人が多く居住する地区として有名である。日本人が経営する近くの喫茶店にコーヒーを飲みに行ったことがある。
店の前にベンチが置いてあり、二、三人の熟年の男たちが腰を下ろしていた。
談笑する風も無く、ただ座って、通りを眺めているだけだった。
店の中は冷房が効きすぎるほど効いて快適であったが、男たちは店に入ることもなく、外の暑いベンチにただ座っているだけだった。
唄を聴きながら、私は彼らのことを思っていた。
彼らはひょっとすると、このバンコクで漂流している人たち?
彼らは表情のない顔で雑踏を見ていたが、一様に悲し気で淋しそうな顔もしていた。
加藤さんと二時間ほど飲み、居酒屋を出たところで、私たちは別れた。
加藤さんは、アソーク駅の方に戻り、私はそのままプロンポン駅を少し歩いたところにあるサービスアパートメント・ホテルに帰った。
サービスアパートメント・ホテルは日本ではあまり馴染みが無いが、バカンスでの長期滞在が多い外国では結構普及しているホテルである。
簡単に言えば、自炊ができるキッチン付きで、ベッドメイキングも行なってくれるという形式のホテルである。
冷蔵庫は勿論、自動皿洗い機、電子レンジ、コーヒーメーカー、鍋・皿など料理道具も完備され、毎日のシーツ交換といった寝具交換サービスも付いている。
更に、今回泊まっている部屋には、洗濯・乾燥機もあり、糞暑いバンコクでも、煩わしい洗濯に悩まされることもなく、快適な滞在が約束されていた。
私はここ二年間の間に行なったハワイ滞在、パリ滞在でもこのサービスアパートメントタイプのホテルを選んでいた。
今回のバンコク滞在でも、インターネットで検索して、日本人に評判のいいサービスアパートメント・ホテルをいろいろと探して、ここに決めた。
レセプションで暇そうにしていた受付けの娘が綺麗な日本語で、お帰りなさい、と言
ってくれた。その挨拶に答えながら、私は磁気カードを取り出し、エレベーターに乗った。
そして、磁気カードをセンサーに当てて、部屋の階番号を押した。
磁気カードを使用して、エレベーターに乗り、部屋に入るというセキュリティー・システムがきちんと出来ているホテルだった。
磁気カードを使用するのは上昇する時だけで、降りる時は使わずに降りられた。
宿泊料金は少し高かったが、防犯的に見て、安心料だと思えば、安いものだ。
部屋で、携帯電話の着信を見たら、娘からメールが届いていた。
お父さん、元気?、に始まって、日本では、積雪の新記録が出ているよ、と続き、最後に、ジム・トンプソンのタイ・シルク製品を買えたら、お土産に欲しい、という甚だ調子のいい言葉で終わっていた。
私はベッド脇の机の椅子に腰をかけ、娘のメールに対する返事を送った。
タイ・シルクのお土産に関しては、期待していていいよ、と書いて送った。
娘の旦那にはネクタイ、娘にはスカーフあたりがいいのかな、と思った。
男親はどうしても、娘には甘いものだ。
一人娘だったから、尚更かなあと思った。
その後で、持参したノートパソコンを開いて、インターネットに繋ぎ、ヤフーの画面を暫く眺めた。
夫婦で海外旅行、という旅行会社の宣伝が掲載されていた。
夫婦で海外旅行、か。
ふと、妻のことを思った。
妻が死んで、もう五年になる。
定年になって、暇が出来たら、海外旅行をいっぱいしようと、よく話していた妻だった。
あなたは会社の海外出張でいろんな国に行くことが出来ていいけれど、あたしはまだ、どこにも行っていない、行きたくてむずむずしているの、とも言っていた。
生きている時は、それほど、仲がいい夫婦ではなかったが、突然、死なれてみると、さあ、困ったものだった。
どこに何があるか、さっぱり分からず、実印を探すのに半日かかったこともあった。
一人娘は既に嫁いでおり、ひとりぼっちの社宅に帰っても、夜、外出する気力も湧かず、暇つぶしに、ごろごろとテレビを見たり、或いは、本を読むという生活が漫然と続いた。
定年の少し前に、子会社への出向という人事の話もあり、出向すれば六十三か六十五歳くらいまで働くことも出来たが、どうにも、気力が湧かず、結局は、その話を断って、定年で退職することとした。
娘夫婦に子供でも出来れば、迷惑がられても、いく(・・)じい(・・)、として押しかけ、活躍しようか、と心の片隅で思い、思わず、ニヤリとした。
翌日、私と加藤さんはローズ・ガーデン・ツアーに参加した。
参加者は少なく、私たち二人と女の子のグループ四人だけだった。
若い女の子たちで、女子大生のように見えた。
この街で買ったものとか、食べたものを事細かに賑やかに話していた。
青パパイヤのサラダが特に気に入ったらしい。毎回、食べているという女の子もいた。
加藤さんと私は暫く、陽気におしゃべりをしているその女の子たちを眺めていた。
ふと、加藤さんと目が逢い、私と加藤さんは、悪戯(いたずら)を見つかった子供のように笑った。
加藤さんは息子さんたちの将来のお嫁さんのことを思っていたのかも知れない。
私は昔の娘の姿を彼女らに重ね合わせ、少し郷愁に耽っていた。
私たち六人のツアー参加者は、昨日のようなバスでは無く、十人ほど乗れるワゴン車に乗り込んだ。
ガイドはナンナーさんという三十絡みのタイ女性だった。
黒っぽいスーツとタイトスカートでピシッと決めていた。
ウエストのくびれと、形の良いお臀が強調されていた。
顔立ちはなかなか整っており、美人の範疇に入る女性であったが、化粧はかなりきつく、細面の顔の輪郭も手伝って、どことなく、狐を連想させる女性だった。
彼女は最初に自己紹介した。
「みなさん、はじめまして。わたしはナンナー、いいます。ほんじつはみなさまのガイド、いたします。どぞ、よろしく」
昨日のガイドと比べ、日本語はかなりたどたどしかったが、どことなく愛嬌が感じられた。ガイドは快活で、少し、能天気なくらい賑やかなほうが良い。
陰気なガイドに当たると、こちらまで、陰気で暗い旅行者になってしまう。
「わたしのにほんご、すこしおかしいですか? がっこうでならったこと、ありません。ぜんぶ、どくがく、です。おかしなところがありましたら、おしえてください。みなさまがわたしのにほんごのせんせいですから」
私は感心した。そして、独学で日本語を勉強したというこの女性ガイドに好意を抱いた。
加藤さんも私と同じ好意を抱いたに違いない。
横目で加藤さんの顔を見たら、ニコリと微笑んでいた。
「ほんじつは、おとこのひと、にめさまと、おんなのひと、よめさまをロース・ガーデンにごあんないします」
女の子たちが一様に笑った。
笑い声を聞いて、ナンナーさんが意外そうな顔をして、女の子たちの方を振り返った。
「おかしいです、か? わたしのにほんご、なにか、まちがえましたか?」
女の子の一人が笑いながら、ナンナーさんに言った。
「よめさま、じゃ無く、よんめいさま、でーす」
ナンナーさんが不思議そうな顔をした。
別な女の子が元気な声で言った。
「よめさま、では、お嫁さんと間違えます。私たち、まだ独身で、結婚してはいませーん」
女の子たちがまた笑った。
しかし、どうもナンナーさんには判らなかったみたいだ。
その後も、『よめさま』、『よめさま』と女の子たちのことを言い続け、その都度、女の子たちは可笑しがった。
ナンナーさんのお喋りと女の子たちの陽気な笑い声の中、私たちを乗せたワゴン車はローズ・ガーデンの駐車場に到着した。
途中、前日同様、観光客向けのレストランでランチを摂った。
私と加藤さんは相変わらず、シンハー・ビールを飲んだ。
訊けば、女の子たちは千葉の女の子で、いわゆる、卒業旅行としてこのバンコクに来たと言っていた。
二泊四日の弾丸ツアーで、価格は信じられないほど安かった、とも言っていた。
でも、それなりの不満はつきもので、何でも、昨晩泊まったホテルはバスタブが無く、シャワーだけの設備で、しかもお湯が全く出なかったらしい。
そんなら、今晩、わしのホテルにおいで、バスタブもあるし、お湯もでるよ、と加藤さんが言ったら、全員笑い転げていた。
「やだ、おじさん。それって、完璧なセクハラよ」
女の子の一人が笑いながら、言った。
「今夜、帰るのに、おじさんのところに寄る、そんな暇って無いわよ。ねえ、みんな」
今日はこれから、ローズ・ガーデン見物、免税店に立ち寄った後、スパに行って、綺麗になって、真夜中の便で日本に帰る、ということだった。
ローズ・ガーデンではお決まりの象に乗った後、タイ・カルチャー・ショーを見物した。
音楽、舞踊の他、ムエタイを見せるショーもあり、結構面白かった。
「わし、昨日のアユタヤ遺跡見物より、こちらのショーの方が面白くていいがね。ムエタイは何年か前に実際の試合を見物したことがあるけんど、試合の前に行う準備体操というか、試合前の儀式というか、あの踊りが何とも言えず、面白いんだわ」
特別にしつらえたリングの上では、ムエタイの選手が胸の前で両手の拳をぐるぐると回しながら、ワイクルーという踊りを観客に披露していた。
「これから、バンコクにかえりますが、おんなのひと、よめさまはめんぜいてんにたちよります。そこで、おんなのひとはぜんいんおります。おとこのひと、にめさまはそのままこのくるまにのって、あさのホテルまでかえります」
よめさま、と聞いて案の定、女の子たちは笑い声を立てた。
ナンナーさんはまた、不思議そうな顔をした。
女の子たちとキング・パワー・コンプレックスという大きな免税店で別れた私たちはアソークのホテルに戻った。
ワゴン車から降りた私たちに向かって、ナンナーさんが近づいて来た。
女の子たちが笑っていた意味がどうしても判らなかったらしい。
なぜですか、と真剣な顔で訊いてきた。
ふと、私は気紛(きまぎ)れを起こした。
私たちの夕食に付き合ってくれたら、教えてあげよう、と私はナンナーさんに提案した。
脇で、加藤さんがニヤニヤしていた。
真面目で実直そうな私の顔を見て、ナンナーさんはひとまず、安心したらしい。
昨晩、加藤さんと飲んだ店の名前を告げたら、彼女はその店を知っていた。
侘しい佇まいの店だったが、案外、有名な店だったらしい。
そこで、待ち合わせることとして、私たちは別れた。
「物価が安いから、わしのような貧乏人でも、タイに来ると金持ちのような気持ちになってまうんだわ。三十バーツとか四十バーツでご飯を食べてしまうと、大戸屋の二、三百バーツの定食セットがどえりゃあ高う感じでかんわ」
「昨日飲んだ店でも、二人合わせて、千円程度でした。安いことで有名な吉祥寺の焼き鳥屋『いせや』でも二人千円はきついですよ」
「さあて、ナンナーさんは来るかに?」
「さあ、どうでしょうか。来るか、来ないか。確率は二分の一といったところでしょう」
「それは、そうだわ。来る、来ない、二つに一つだもの」
私たちは笑いながら、プロンポンに向かって歩いた。
バンコクには路地が多い。
大きな路地はソイと呼ばれ、それぞれ番号が付いている。
そして、ソイとソイの間には小さな路地が無数にある。
小さな路地は得てして、袋小路になっており、両側には飲み屋、食堂、マッサージ店が軒を連ねている。
マッサージ店も沢山あるが、小さな路地にあるマッサージ店は明らかにいかがわしい風俗店のような趣を漂わせている。
ふと、そのような路地の奥を覗きこんだら、『ピンク・マッサージ』と書かれた日本語の看板が目に入った。堂々とした大きな看板だった。
いくら、日本人が多く住む地区と言っても、こう堂々と看板を掲げられたのでは、少し恥ずかしい、とその看板を見て思った。
今はまだ、人影は無いが、これから夜になれば、酔客が出入りする賑やかな路地になるのか、商売繁盛で結構なことだ、とも思いながら歩いた。
昨晩の店に着いた。
縄暖簾を潜(くぐ)って、中に入った。
客は相変わらず、私たち二人だけだった。
つきだしは昨晩同様、塩辛だった。
きーざくら、と、メロディー付きで加藤さんが注文した。
少しぬるめの燗で、お銚子が届いた。
昨夜同様、盃とかお猪口は無く、ぐい吞みが前に置かれた。
ちびちびとは呑まず、いっぱい、呑んでください、ということか。
塩辛をつまみにして、私たちは酒を飲み始めた。
「時に、ナベちゃん、再婚する気は無いんかね」
加藤さんが私のぐい吞みに酒をどぼどぼと注ぎながら、訊いてきた。
「ええ、今のところは全然」
そう言いながら、私の脳裏には或る女性の顔が浮かんできた。
初恋の幼馴染(おさななじみ)の女性の顔だった。
私は妻を亡くした後、会社を定年退職する前に、郷里にUターンするつもりで、実家に近いところに土地を買い、そこに小さな家を建てていた。
定年退職後、郷里に戻り、その家で今暮らしている。
サラリーマンだった頃は、転勤族ということで、親類付き合いはほとんど途絶えていたが、郷里に戻れば、冠婚葬祭に知らん顔は出来ない。
祝儀はほとんど無いが、不祝儀は結構多い。
或る時、親類の葬式に出かけた際、懐かしい顔に出会った。
中学生だった頃、仄(ほの)かに初恋の念を抱いた相手だった。
妹の同級生だった彼女は時々、家に遊びに来ていた。
そして、私より二つほど若い彼女には幸い、昔の面影はまだ残っていた。
葬式の後、精進上げに出た料理を食べながら、少し彼女と話す機会があった。
聞けば、数年前にご主人と死別したということだった。
配偶者に死別された者同士で屈託なく、お互いの顔を見ながら、昔の話に花が咲いた。
当時は、妹の友達であった彼女と私は話をしたことがほとんど無かった。
初恋で、女は大胆になるというが、男は逆で、臆病になる。
私は彼女に初恋を感じたが、彼女はそうでは無く、私は友達の単なるお兄さん程度の存在だったのだろう。
高校は男子校、女子校という違いもあって、私たちの仲は進展せず、いつしか、彼女は私の思い出だけの存在になっていった。
でも、精進上げの席上で親しく話す中で、時折、垣間見せる寂しげな彼女の表情を私は何となく愛(いと)しいものと見ていた。
彼女は私のグラスにビールを注ぎながら、言った。
「渡辺のお兄さん」
彼女は私のことをそのように呼んでいた。
「ねえ、覚えています? 朝の通学のこと」
「えっ、何でしょうか?」
「朝、通学の電車の中で、私たち、よく会いましたわねえ」
「ええ、いつも、同じ電車でしたから。ほとんど、毎朝」
「お兄さんは電車の中で、よく眠っていましたよねえ」
「眠っていた? そうですか。あまり、覚えていない」
「眠っていましたよ、よく。目を閉じて」
そう言いながら、彼女は当時を思い出したように笑った。
「お兄さんは、きちんと、膝に手をおいて、目を閉じていらして。私の友達が、そんなお兄さんの様子を見て、ほら、居眠(いねむ)り狂四郎さんよ、とよく言っていたものでした」
「居眠り狂四郎、ですか」
「あの頃、映画で、市川雷蔵さんの眠(ねむり)狂四郎シリーズが評判を取っていたでしょう。お兄さんの目を閉じた横顔が素敵でしたのよ」
私は何とも、答えようが無く、黙って彼女の顔を見詰めた。
「私たちの間で、お兄さんは評判が良かったんです。でも、お兄さんは私たち、女の子には冷たくて、近寄り難い存在でしたわ」
「僕が? 近寄り難い存在、だったなんて」
彼女は笑って、頷いていた。
私は思わず、言ってしまった。
「初恋をすると、女は大胆になり、男は臆病になる、という言葉があります。まあ、今だから言えますが、僕はあなたに臆病になっていたかも知れませんね。そう、確かに、僕はあなたに臆病だった」
彼女は私の思いがけない言葉に、目を見張った。
そして、私をじっと見詰めた。
「知りませんでした。でも、・・・、嬉しい」
と、彼女はそっと呟いた。
その時、妹が私たちのところに近づいてきて、私たちの会話はそこで途切れてしまった。
それ以後、いつしか私の心の中に、彼女はまた、住み始めたようだ。
「わしがあんたの立場だったら、淋しくてあかんがや。娘さんも遠くにいらっせるということだけんど、今はほんとに一人ぼっちでいらっせるがな。心細いこと、限りなしだがね。いくら、鬱でも、わし、今、女房がおるから何とか元気を出してるんだわ。女房がいなけりゃ、わし、この世に早うご無礼するがね」
加藤さんに注がれた酒を飲みながら、私は彼女と結婚するのもいいかな、と心の片隅で思った。それぞれ配偶者と死別した男と女が新たな人生を踏み始めるというのも悪くない。
今のままなら、私の場合は流行の言葉で言えば、孤独死の恐れだってある。
隣近所の付き合いだって、ほとんど無い。
あるのは、隣組の回覧板を回したり、回されたりする程度の付き合いだけだ。
くも膜下出血、或いは心筋梗塞といった突然死に見舞われたとしても、発見されるまで相当な時間がかかるだろう。
腐敗し、ミイラ化した私の遺体が発見されるという事態だって、十分考えられることだ。
一方、彼女も今は一人暮らしだそうだ。
将来、老老介護になるとしても、独りっきりよりは良い。独りっきりは淋し過ぎる。
全ては彼女次第だ、私に異存は無い、とも思った。
急に、心の中に澱(よど)んでいた闇が晴れていくのを感じた。
まるで、少年のようなときめきを俺は感じている、と思い、ニヤリとした。
「笑っとらせるがね。でも、わし、ほんとにそう思っとるのよ。まあ、可愛いげのない女房でも長年連れ添ってきたんだから、わし、そう思っているのよ」
「でも、カトちゃんの場合はいいですよ。何といっても、息子さんが二人、同居して生活を共にしているのですから」
「そうかに。そんなもんかに。なんか、とろくせえ感じもするけんど」
「僕なんか、娘夫婦は東京に居り、今は一人暮らしで、いざとなると、まあ、不安ですね。孤独死なんていう言葉がこの頃、実感として分かるようになっています」
「ニュースで、孤独死がこの頃話題になっているけんど、福島の原発避難民はどうなの。家が立ち入り禁止区域になっていて、帰りたくとも、帰れない状況にあるがね」
「原発避難民、ですか。まあ、こう言ったら、語弊があるかも知れませんが、彼らは二重の被害者なのです」
「それ、どういうこと?」
「原発の放射能から避難する。これが、第一の被害ですね」
加藤さんが興味深そうな目で私を見た。
「でも、避難した先で、あまり同情されない。これが、第二の被害なのです。同情されない被害者って、加藤さん、考えられますか?」
「同情されないって」
「避難した先の地元の人で、避難民に結構冷たい人も居るんですよ。避難してきた人は、原発でいろんな恩恵をこれまで受けてきたのだろう、いろんな施設を電力会社に建ててもらっているし、原発の交付金などで町の財政は相当潤っていたんだろう、住民税もさぞかし安かったんだろう、とかいろんなことを言われ、また、面と向かっては言われないまでも、そういう目で見られたりして。補償金貰って、パチンコばかりしている、といった目でも見られたりして。本当に、可哀そうです」
「ほんとかや。まるで、いい気味だ、天罰だ、と言わんばかりだがね。それじゃあ、避難民は辛くてあかんがね」
「勿論、ほとんどの人は避難された方に温かく接していますが、中には、居ますよ、冷たい人が。地震・津波の避難民は正当に同情されます。これって、当たり前ですよねえ。でも、地震・津波の避難民と違って、福島は、原発避難民という特殊な避難民も抱え、もがき苦しんでいるのですよ。中には、カトちゃんのように、福島の野菜、産物は絶対食べないという方もおられるし。言わば、踏んだり蹴ったり」
「わし、いかんかね」
「いかん、とまでは言いませんが、福島の人間としては、少し不愉快ですね」
「そうきゃあ。分かったなも。わし、謝る。許してちょ。これからは、福島の野菜、できるだけ、買うことにするわ」
戸を開けて、お客が入って来た。
外の熱風も一緒に入ってきた。
見ると、男女の二人連れだった。
日本人の男とタイ人の女性、よく見かけるアベックの構図であった。
日本人の男のほうに見覚えがあった。
泊まっているサービス・アパートで私と同じ階に泊まっている日本人の男だった。
ここ二日間ほど、ビュッフェ朝食の食堂で見かけていた男だった。
食堂では、ウエイターに部屋番号を訊かれ、彼は私と同じ階の部屋番号を告げていた。
ネクタイは締めておらず、半袖シャツだけのラフな格好をしているが、日本から出張に来ている会社員と思われる四十歳絡みの男だった。
食堂には日本の新聞が数誌置かれている。
彼は、いつも日経新聞を読みながら、無表情な顔で朝食を摂っていた。
その彼が、タイ人の若い女性と飲みに来ていた。
化粧はさほど濃くは無いが、明らかに玄人と判る女であった。
彼らは私たちとは少し離れた奥のテーブル席に腰を下ろした。
加藤さんも気付いたらしく、薄い笑いを唇の端に浮かべながら、小さく呟くような口調で言った。
「タイは男性天国と言われる所以(ゆえん)だがね。特に、日本人の男はもてるんだわ。金、あるしね。それに、女に優しい。紳士だし」
「中国人とか、韓国人はどうですかねえ」
「駄目、駄目。比率が違うがね。タイに進出している企業で日本はダントツだがや。タイ人の五、六倍の給料を貰って、しかも駐在員手当とか、出張手当もあるから、日本人はみんなどえりゃあ金持ちに見えるがね。タイ女性、ほおっておかんのよ」
「カトちゃんも、そういうことで、タイ旅行のリピーターになったのですかね」
「わし、わし、あかんのよ。この頃は元気が無(の)うて。あっちのほうは駄目。タイに来るのは、色気では無うて、食い気のほう。ここは、食い物が安く、しかも、美味しい。日系のラーメンも六十バーツとか八十バーツで食べられるし、日本では家族のために毎日ご飯を作っとるわしにとっては年に一回の息抜きだがね。ここでは、なーんもせんと、ただ、飯を食べたり、ムエタイを観たり、МBKにある東急脇のごちゃごちゃとした店で買い物をしたりして、五日間ほどのーんびりと過ごして帰るのよ。あんきな五日間だがね。でも、わしの生きがいともなっとるんだがね。一年に一遍の気晴らしだがね」
また、戸が開いた。
見ると、黒っぽいスーツを着たナンナーさんが店内を覗き込んでいた。
「ここよ、ここ。ナンナーさん、おいでんさい」
加藤さんが陽気な声でナンナーさんを呼んだ。
ナンナーさんはニコニコしながら、私たちのところに歩いて来た。
「わたし、きてしまいました。かいしゃのほうからは、おきゃくさんにさそわれても、いってはいけない、といわれていますけれど、わたし、きてしまいました。こちらにきたもくてきは、にほんごのべんきょうのためです。よろしく、おねがいします」
とは言っていたものの、ナンナーさんは結構な酒飲みだった。
最初から、日本のお酒、大好きと言って、日本酒を飲んだ。
加藤さんがナンナーさんのために、きーざくら、と唄うような口振りで注文した。
「にほんご、おしえてください。きょう、わたし、おんなのひとからわらわれました。どうして、わらわれた、のですか?」
「今日、ナンナーさんは、女の子の四人連れに、よめさま、よめさま、と言っていましたね」
「ええ、よめさま、いいました」
「よめ、という言葉をナンナーさんは、よにん、という意味で使ったのでしょう」
「ええ、そうです」
「ならば、よんめい、という言葉を使って、よんめいさま、と言うべきだったのですよ」
「よ、ん、め、い、さま、ですか」
「そうです。よんめいさま、です。ついでに言うと、私たちのことを、にめさま、と言ってましたね。にめさま、では無く、正確に言うならば、にめいさま、です」
「よめさま、ではだめ、ですか?」
「駄目です。よめさま、では、日本語の意味で、息子と結婚して家に来る女性を指す言葉になってしまいますから。嫁様、と聞いて、あの女の子たちは笑ったのですよ」
ナンナーさんは私の言葉を聞いてようやく納得したような顔をした。
「にほんご、むつかしいです。わたし、がっこうでべんきょうしたことがないので、そのようないみ、わかりませんでした。ありがと、ございます」
「しかし、それにしても、ナンナーさん、どうしてガイドになりなさったのかね」
加藤さんの問いかけに対するナンナーさんの答えは極めてストレートで明快だった。
「それは、おかねのため、です。ガイドのしごと、きゅうりょう、たかいです」
「それに、時には、チップも貰えるし」
思わず、口にした私の失言に彼女は敏感に反応した。
「でも、きょうのツアーでは、わたし、チップをもらえませんでした」
「ああ、そうだったっけ。では、ここで、チップ代わりにご馳走しますから、いっぱい、飲んで食べていって下さい」
日本酒を飲んで、ほろ酔い加減になったのか、元来お喋り好きと思われるナンナーさんはますます饒舌になっていった。
身振り、手振りも派手になっていった。
「わたしのだんなさん、すこしもはたらかない」
ナンナーさんは口を尖らせた。
「おや、ナンナーさんに旦那さんがいたのがや。ほんとかや。おや、まあ、それは残念」
加藤さんが興味深そうな顔をして言った。
「います。このとしで、だんなさん、いないタイのおんなはめずらしいです」
ナンナーさんは断定的な口調で言った。
「結婚しているのかや」
「いいえ、けっこんはしていません」
ナンナーさんは平然とした口調で言った。
「結婚しないで、旦那さんがいる、とは」
私が口を挟んだ。少し、意外に思ったからだ。若い娘ならともかく、結構いい齢をしたナンナーさんが結婚していない、というのはちょっと意外だった。
「これ、タイではあたりまえのこと。やくしょ、にいって、けっこんをとどけるひと、タイではほとんどいません」
興味津々といった私たちの顔を見ながら、ナンナーさんは笑いながら言った。
「けっこん、していなくても、いっしょにくらしていれば、タイではけっこんしているとかんがえられるのです。とどけ、などというものは、なくてもかまわないのです。まわりのひとがみとめれば、せいしきなふうふ、とかんがえられます」
「ほんとかや、それで、法律的にも正式な夫婦とみなされるのかね」
「そうです。タイ、とどけ、にはぜんぜんこだわりません。いっしょにくらして、ふうふとしてふるまっていれば、それでじゅうぶん、なのです」
「つまり、事実婚で構わないということか。カトちゃん、タイは気楽でいいですね。マイペンライ(オーケー)、マイペンライ、か」
私が言ったマイペンライという言葉を聞いて、ナンナーさんの口元から笑みがこぼれた。
「でも、わたしのだんなさん、はたらかないね。そのかわり、わたし、はたらく。いっしょけんめい、はたらいているのよ。どうしてだか、わかる?」
「わからない。教えてちょう。ナンナーちゃん」
加藤さんが少しおどけて言った。
麿赤児ばりのいかつい顔がほころんで、実に人懐っこい顔になった。
ナンナーさんは真剣な顔をして言った。
「むすこのためです。いま、わたしのむすこ、だいがくへしんがくすること、かんがえています。むすこ、わたしやだんなさんとちがって、あたま、いいです。わたし、むすこをなんとかして、だいがくにしんがくさせたい、とおもっています。それで、わたし、がんばってはたらいています」
タイの場合、大学を卒業するというのは、日本と違って、一族の名誉であるらしい。
卒業シーズンになると、卒業する息子、或いは娘を持つ家族は親戚挙げて一大フィーバーを展開する、という話を聞いたことがある。
親戚を呼べるだけ呼んで、飲めや歌えの大宴会を開き、徹底的にもてなし、来た客が酔いつぶれるまで飲ませるらしい。
酔いつぶれるまで飲ませないと、後から、ケチだ、常識が無い、と文句を言われるらしい。その結果、後に残るのは、多大な借金ばかり、という家族もあるらしいが、決して後悔なぞはしないらしい。
そして、卒業して政府の役人になれば、しめたもので、将来の出世は約束され、しかも、賄賂(わいろ)、いわゆる、『袖(そで)の下(した)』による財産作りも可能となる。
一族が繁栄するもととなるのだ。
今、目の前にいるナンナーさんもそんな甘い夢を見ているのかも知れない。
いや、夢では無く、約束された確実な薔薇色の将来なのだ。
そのために、彼女は頑張っているのだ。極めて、分かりやすい。
「ナンナーさん、あんた、アユタヤあたりの日系企業に勤める気はにゃあのかね。ガイドなんてとろくせえ仕事をやっているより、随分と稼ぎがいいがね」
ナンナーさんは加藤さんの言葉が判らなかったらしく、何と言っているのとばかり、私の顔を見た。
「ガイドの給料より、アユタヤの日本企業ならば、もっと給料が貰えるはず、と言っているのです」
「アユッタヤー。すこし、とおいね。でも、わたし、いまのガイドのしごと、すきよ。あさ、はやくないし、ゆうがたまでのしごと、だから、らくなしごと、よ」
奥のテーブル席のほうから、『お勘定』という声がした。
先ほどの日本人男性とタイ人女性が食事を終え、店を出ようとしていた。
やがて、二人は戸を静かに開けて、通りに出ていった。
男は片手を女の腰にまわしていた。
開けられた戸から、夜の雑踏の騒音がガアーと飛び込んできた。
出ていく二人を目でじいっと見送っていたナンナーさんが少し皮肉な口調で言った。
「どこかのマッサージのみせのおんなのひとね、あのむすめ。これから、よるのしごと、ですね」
「日本人ばかりじゃないがね。タイに来る外国の男はタイに極楽を求めて来るんだがに」
「そう言えば、外国人とタイ人女性のカップルを結構見ますね。年配の外国人男性が若いタイ人女性を連れて、歩いている姿、見飽きるほど」
「おじさんたちも、そんなこと、もとめているのですか?」
ナンナーさんの口調が少し尖っていた。
「そんなこと言われると、わしら、おうじょうこいてまうがね。わしら、おっさんたちは、こうして酒を飲んでいるのが一番だがね。女、抱くより、酒瓶を抱いて寝るほうがあんきだがね」
女、抱くより、酒瓶を抱くという言い回しが面白く、私はつい笑ってしまった。
「わたしのだんなさん、さけすき、おんなすき。わたし、よくけんかする」
「それでも、別れるつもりはないんじゃろ」
加藤さんがナンナーさんの目を覗き込むようにして訊いた。
「それは、ない。ない。わたし、だんなさん、すきだもの」
「悪い旦那のように、思われるけんど、どうして好きなんかに」
「わたしのだんなさん、かおがきれい。びなんし、です」
ナンナーさんは笑いながら言った。
「けっ、結局、これかに。男も女も、顔の良いのが一番だでね。初対面の印象で決まってまうわ」
加藤さんも納得したような、諦め顔で言った。
私たちは二時間ほど、その店で飲んで、その後、別れた。
ナンナーさんはBTSのプロンポン駅から電車に乗って帰る、と言っていた。
それを聞いて、わしもアソーク駅までひと駅だけんど、BTSの電車に乗るか、と言って、加藤さんはナンナーさんと連れ立って、プロンポン駅に向かって歩き始めた。
プロンポン駅の方角はネオンサインで明るく煌びやかに輝いていた。
暑い国の夜はまだまだ長い。
私は二人と別れ、雑踏の中を歩いて、アパート・ホテルに戻ろうとした。
焼き鳥ともつ煮込みを食べた後、しめとして、お茶漬けまで食べた私の胃袋はもういっぱいだよ、と告げていた。
少し、歩いてから、アパートの冷蔵庫にビールが無くなっていることを思い出した。
腹はいっぱいだが、ビールは別だ。
ビール無しでは、バンコクの日々は辛すぎる。
何をさしおいても、ビールだけは買わなきゃならない。
バンコク暮らしでは、ビールは必需品、必須品だ。
そこで、プロンポン駅近くのエンポリアムというショッピングモールのスーパーマーケットで缶ビールを何缶か買って帰ろうかと思い、二人を追いかけるような形になったが、プロンポン駅のほうに戻った。
前方に二人の姿が見えた。
お互いに凭れあいながら、何か、話しているような感じだった。
プロンポン駅は高架の駅で階段を上っていかなければならない。
プロンポン駅に繋がる、登りの階段を上がっていくものと思っていたが、二人はそのまま歩き続けた。
プロンポン駅には行かなくなったのか。
二人は、エンポリアムの前を通って、賑やかなアソークの繁華街に向かっていた。
まだまだ、暑い国の夜は長い。
私は口笛でも吹きたい思いで、二人の後ろ姿を見送った。
プロンポン駅を過ぎ、エンポリアムのショッピング・モールの方に歩きながら、私は思った。
加藤さんも、ナンナーさんもそれぞれが精一杯生きている。
加藤さんは、鬱の奥さんと四十近いのにまだ独身でいる二人の息子を抱えながら、懸命に働き、食事の世話までしている。
ナンナーさんは働きの悪い夫を抱えながらも、息子を大学に進学させたいと、日本語を独学で学び、日系旅行会社の社員として頑張っている。
私も頑張らなければならない。
いつまでも、だらだらと変化の無い暮らしに埋没していてはいけない。
人生、ひと山越えても、まだ、ふた山があるかも知れないぞ。
ロマンスだって、求めれば、得られるかも知れないじゃないか。
私の人生、これまでと、諦めて老け込むのはまだ早い。
この旅行を終えて、日本に帰ったら、勇気を奮って、彼女に電話をしてみるか。
その結果、振られたら、それはそれで、いいじゃないか。
幸運の女神には前髪しか無いという格言がある。
前髪を掴み損ねたら、もう、後が無いのだ。
後でうじうじと後悔するより、行動し、駄目なら駄目で、潔(いさぎよ)く玉砕する方が賢明だ。
風車の巨人に立ち向かうドン・キホーテのような心持ちがしてきた。
何だか、わくわくしてきた。
カトちゃん、ナンナーちゃん、俺もやるぜ、と思った。
その時、携帯電話がバイブレーション機能でメール着信を知らせた。
私はいつも、電話はサイレント・モード、メールだけをバイブレーション設定にして通知するようにしていた。
携帯電話を見たら、メールが届いていた。
電話も受電しましたという表示があった。
電話は妹からだった。
日本とバンコクの時差は二時間だ。
日本では今は夜も十時をとっくに過ぎているはずだ。
こんな夜中に電話をくれる?
少し、嫌な予感がした。
とりあえず、メールを開けてみた。
娘からのメールだった。
先ほど、叔母さんから電話があったというメールだった。
そのメールに依れば、叔母さん、つまり私の妹からの電話は、妹の同級生の突然の死を知らせる内容の電話だった。
・・・・・・。
初恋の彼女が死んだ。
心不全で突然亡くなった、ということを私に知らせて欲しい、何回も電話したけど通じなかった、という電話だったと、メールには書いてあった。
彼女が死んだ。
死んでしまった。
・・・・・・。
私は静かに携帯電話を閉じた。
カチッという無機質の音がやたら強く耳に残った。
私はエンポリアムに立ち寄らず、そのままアパートに帰ることとした。
小さな路地にさしかかり、ふと、路地の奥を見た。
『ピンク・マッサージ』というどぎつい色で書かれた看板を見た。
色とりどりのイルミネーションに包まれた路地の奥で、その看板は誘蛾灯(ゆうがとう)のように私を誘っているかのように見えた。
遊びなさい、遊んで、辛いことは忘れなさい、どうせ、この世は一度限りよ、楽しみなさい、見る前に跳んでみたらどう、跳んでみなさい、跳ぶのは今よ、さあ、と私を誘っているかのように見えた。
看板の下には、カラフルな服を着て、派手な化粧をした女が立って、私を見ていた。
私の足は、その路地のほうに向かおうとしていた。
しかし、その足は止まった。
闇の中で、光るものがあった。
何だろう、と思った。
私はじっと目を凝らして、その光るものを見詰めた。
光るものは二つ、あった。
金色に光っていた。
私は暫く、観た。
そして、正体が判った。
猫の眼だった。
黒猫が闇の中にうずくまり、私を見詰めていたのだ。
猫は私をじっと見詰めていた。
私も猫を見詰めた。
猫は相変わらず、私をじっと見詰めていた。
猫に見詰められている内に、私の心の中でたぎり、昂(たか)ぶっていたものが急速に萎(な)えていくのを感じた。
私は路地に入りかけた足を止め、踵(きびす)を返した。
看板の下に佇んでいた女が、立ち去ろうとする私を見て、興味を無くしたように、店の中に入っていく姿が私の眼の端に映った。
私はそのままゆっくりと歩いて、アパート・ホテルに戻った。
私の姿を見て、レセプショニストの女の娘(こ)が、柔らかな日本語で、今晩は、今日も暑かったでしょう、と言いながら、いつものように、エレベーターのボタンを押してくれた。
エレベーターに乗り込んで、部屋の階のボタンを押した。
しかし、何の反応も無かった。
おかしいと思い、レセプションの方を見た。
戸惑(とまど)っている私を見て、女の娘(こ)が、何かを押し当てるような仕草をしていた。
私はこのホテルのセキュリティー・システムをすっかり忘れていた。
ぼうっとしていた自分に気付き、私は苦笑いをして、ポケットから磁気カードのキーを取り出して、側壁のセンサーに押し当ててから、部屋の階番号を押した。
やがて、エレベーターは昇っていった。
エレベーターの扉が開いて、私は降りた。
その時、正面の部屋のドアが開いて、若い女が部屋から出て来た。
飲み屋で見かけた、タイ人の女性だった。
女は何気ない風で、足早に歩き、私が降りたばかりのエレベーターにすっと乗り込んだ。
私は部屋に入り、そのまま、ベッドに身を投げ出すようにして横たわった。
何とも言いようのない虚脱感が私を襲ってきた。
独り、という言葉が割れ鐘のように雑音混じりで、私の空っぽな心の中で幾度となく、鳴り響いた。
今も独り、これからも、独り。お前は独り、独り、ずっと独りだ。
路地で見た、あの猫。私を見詰めていた、あの猫。
亡き妻であり、娘であり、初恋の人であり、・・・、私、であった。
見られている。
何も、出来ない。
完
淋しい男