生真面目な人々 序文

 ボクは生真面目な人が大嫌いだ。傲慢で、哀れで、救いがたくて、孤独だからだ。
生真面目な人は高く評価されそうだがそれは違う。人間の中で一番扱いにくく、一番向きあいにくく、一番愛しにくい手合いだ。
自分の正義を振りかざし、他人の忠告を全く聞かず、自分の殻に閉じこもり、他人と真の交わりを持とうともしない。ボクには彼らの回りに見えない壁が見える。その壁を壊すことは容易ではない。いや、壊すことなんて出来ない。彼らの無意識の意識で作られた壁だからだ。彼らは何かを恐れているからそんな壁が出来るのだ。「自分」を侵されてしまうことなのか、自分のプライドを踏みにじられることなのか、・・・。
 何も生み出す能力が無いくせにそれが出来ると喧伝する。理由はとても簡単だ。自分を持ってそうで、持ってないからだ。自分が権威と考えているものから借りているに過ぎない。それに全く気づいていない。自分のことは一番気づきにくいが、そのくらいのことを気づかないのは無能な証拠だ。権威にとても弱い彼ららしい。その権威に大きなはずれが会ったらどうするのか。権威が完璧などありえない。
 そのくせ、欲はとても強い。生真面目だけで能力が無くて欲が強いのは、もうどうしようもない。始末が悪い。彼らの欲は決して満たされることがない。満たされたと感じる感覚が決定的に鈍い。満たされたと感じてもそれを認めることがない。そして、満たされることのない欲のために自分を傷つけ、他人を巻き込む。そんなんだったら、能力があって、欲が強いけどだらしの無い人間のほうが遥にましだ。その人たちは自分のことをよく分かっているし、理解しよう、認識しようと努力してるからだ。
 一番タチが悪いのは、自分のことをこのような特徴を持った人間だという事を全く認識できていないところだ。真面目に生きれば必ず幸せになれると思い込んでいて、それを目指して生きているのだ。そう生きることが唯一の道だと信じ込んでいる。視野の狭い連中だ。この世にはさまざまな考え方がこれでもかと充満している。森羅万象の中で人間が分かっているのは、海の水に浮かんでいるたった一つの米粒ほども無いのにだ。いや、彼らはわかっている。自分は真面目にしか生きることが出来ないし、それ以外の方法で生きている人間がうらやましいのだ。嫉妬しているのだ、全体的に不真面目で押さえるべきところを押さえて生きている多くの人間を。
 結局、それらが原因で他人とすれ違い孤独になってゆく。孤独になったらよわっちい人間だ(ボクらもそれに含まれるが)、何にも出来ないで、自滅してゆく。人生なんてそういうもんだ。一瞬ですべてがひっくり返る。音を立てて崩れ去ってゆく。
 キリストは「真面目な兄と放蕩な弟とその父」の話をし、親鸞は「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」といった。ボクは宗教には頓珍漢だけど、これは善人や真面目な人だけがいい思いをしようとすることを戒めているに違いない。自分と違う人間をさげすむことはそのまま自分に返ってくる。善や真面目だけでは人間は生きられないということではないのか。
 ボクが出会った「生真面目な人々」は漏れなくそうなっていった。段々と生き辛くなっていった。生き方に問題があると考える彼らは行き方を変えようとして泥沼には待っていった。生き方を変えること自体無茶な発想だ。肩の力を抜くことさえ出来ないというのに。
ボクは最初彼らには怒りを覚えていたが、次第に哀れみを覚えるようになった。彼らを救おうとしたが、どうしようもなかった。自分を救うことが出来るのは結局自分自身だけだってことをボクに教えてくれたのは彼らだった。
 さて、ここからはボクが出会った傲慢で、哀れで、救いがたくて、孤独で、そして愛されなかった「生真面目な人々」を紹介していく事にしよう。
(2012年10月11日改変)

生真面目な人々 序文

生真面目な人々 序文

ボクは生真面目な人間が大嫌いです。傲慢で、哀れで、救いがたくて、孤独で、そして愛されないからです。

  • 小説
  • 掌編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-08

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