私が失いかけたモノ

まどろ

私が失いかけたモノ

私は母が大嫌いだ。殺したいほど。

高校から帰る途中、商店街はいつものように賑わいでいた。野菜のおばさんも、魚のおじさんも、一人二人の客と井戸端会議中だ。私には誰一人として目もくれない。挨拶もしない。7歩後ろを歩く私と同い年くらいの子には挨拶をするくせに。
そんな商店街を抜けて少し歩いた場所に、私の住むアパートがある。錆び付いたボロボロの階段を登り、右から3番目の部屋が私の家だ。通学カバンからクマのキーホルダーのついた鍵を取り出し、鍵穴にさして開けた。
「ただいま」
静かな部屋に私の小さな声が小さくこだました。もちろん返してくれる人はいない。人は、いるんだけど。リビングの真ん中に置かれたソファーで、母が寝ながらテレビを見ていた。壁の薄いこのアパートで苦情が出ないようにと、音を下げてみている。リビングに入ってもそれがうっすらと聞こえるだけで、私にはあまり聞こえない。母にとっても私に取ってもテレビというのはあまり必要なものではない。お互いがなるべく干渉しないように一時的に設けられたものに過ぎない。私はそう認識している。リビングを通り自分の部屋に入ろうとしたとき、後ろから舌打ちがした。いつものように聞かされる音を無視して扉を閉めた。カバンを落とし、ベッドに倒れこむ。今日も1日疲れた。授業であったこと、数少ない友達とのうわべ会話、休み時間に読んだ本、全ての内容を忘れて頭の中を真っ白にする。数分そうして、落としたカバンを拾い上げて中からノートと筆箱を取り出し勉強を始めた。何で人は勉強をしなくてはならないのか。それは比較するためだ。勉強の先にはテストがあり、それを受けることで私たちは数字をもらう。感情面での評価が難しい人間社会では、このとった数字に全てがあると言ってもいい。高ければ高いほど優秀。そう信じ込ませる作業こそが義務教育である。私はそう考えている。だからこそ私はひたすら勉強をする。将来何に使うのであろう分数の計算。興味のないサイエンス。使うことのない外国語。今があることを学ぶ歴史。無駄な知識を脳にひたすら詰め込んだ。
1時間ほど勉強をして小腹が空いたのでコンビニに行くことにした。カバンから小銭入れを取り出して、施錠された扉を開けた。ちらっとソファを見たが母の姿はなく、耳をすますとキッチンから包丁で何かを切る音が聞こえた。母もお腹が空いたのだろう。その姿を一瞬だけ目にうつし、私は家を出た。
夕暮れ時の商店街はさっきよりも静かになっていた。一部のお店はすでにシャッターを下ろしている。いずれは全ての店がこうなる。その姿を想像すると、少し悲しくなった。商店街を抜け、ビルの立ち並ぶ綺麗な歩道を歩く。完全な都会になるまであと1年半。この町もすっかり街に変わった。私が小学校に上がった頃から工事が始まってから8年半。長いようで短い日だった。移り変わりを徐々に見てきた分、感動はそんなにないけど。
考えながら歩いて5分。信号を二つ抜けた先にあるコンビニに着いた。
「いらっしゃいませー」
適当な挨拶が適当な店員から適当に発せられて可笑しくなった。なんて安直なんだろう。もう少しぐらいギャップがあったらおもしろいのに。毎度のことだけど、それがいい。ぶれない彼は素敵だ。
店内を回りながら、小さなオレンジのカゴにおにぎりとお茶を入れた。このまま買い物を終わってもいいんだけど、買い物の醍醐味は暇つぶしだ。買わない商品を見ながら歩く。お菓子、お酒、猫の餌、シャンプー、靴下、雑誌、イヤホン。コンビニも案外いろいろと揃ってるもんだ。多分もう何年も触られてないんだろう。名前もわからない一部商品は埃をかぶっていたり、色落ちしていたりで、すでに商品としての価値を無くしていた。なんで廃棄しないんだろう。よく店員さんがこの辺の棚を整理しているとこをみるのになぁ。
「珍しいところ見てますね。何かお探しですか?」
横から声がした。目線だけ移すと、笑顔の店員さんがいた。コンビニなのに話しかけてくるとか気持ち悪っ。
「…なんでこの商品はずっとここにあるんですか?」
とりあえず色落ちした商品を指差して言った。すると店員は笑顔のままその商品を手に取り、言った。
「君には教えてもいいかな」そこで区切って咳払いをした。
「こいつらはもうここにいるだけなんですよ。掃除の時も動かさないし、品出しもしないし、もし動くことがあるとすればこの店が閉まるか、奇跡的に売れるかのどちらかです。もう、見放されたんです」
「じゃあ、ただの飾りというわけですか」
「そうなります」
きっぱりと店員は言った。さっきと変わらない笑顔で。気持ち悪っ。

「ありがとうございましたー」
適当な店員の適当な挨拶で店を出た私は、笑顔が煩い店員との話を反芻していた。
“もう見放されたんです”
その一節だけが妙に心に残っている。そっか。君たちもそうなのか。
「ねぇ、ちょっといい?」
後ろから声がした。おっとりした男性の声。振り返るといかにも柔らかそうな草食男子がいた。
「何ですか?」
「さっきのコンビニでの会話を聞いてたんだ。それで君に興味を持って、声かけちゃった」
へらへらと笑いながら男は言った。見た感じ同い年くらいだろうか。学生服をきているが、やけに長いくるくるパーマが気になる。今日は気持ちの悪いやつに遭遇しやすい日らしい。
「じゃあ、コンビニからつけてきたわけ?」
「あ、いや、それは…」
「変態はお断りなんだけど。まだ何かある?」
睨みつけて言った。すると男はどもりながらキョロキョロして、困ったなぁという顔をした。
「何もないなら行くね」
そう言って前を向いて歩いた。後ろから男の声がすることはなかった。

家の前にたどり着くなり、入りたくなくなった。とても美味しそうな匂いがするからだ。自慢じゃないが、母は料理がすごく上手くて、小さい時に食べていたハンバーグとか、炒め物の味は今でも鮮明に思い出せるほど美味しかった。しかし今は違う。もう母が私に向けて料理をすることはない。
玄関を素早く開け、早足で自室へと向かう。
「おい」
あと二歩。そこで呼び止められてしまった。止まってしまった以上振り返るしかない。
「なに?」
「ほら、見てごらん。久しぶりにね、青椒肉絲(チンジャオロース)を作ったの。おいしそうでしょ?」
さっきの声とは一変。歌うように母は言った。
「うん。すごく」
「お腹すいたでしょ?一緒に食べる?」
ニヒルな笑みを浮かべながら言った。
「…うん。たべた…」
「あるわけないだろ!おまえの分なんて作ってねぇよ!匂いすらかぐな!クソが!」
『食べたい』と言おうとした手前、狂い散らした表情で言って、目を見開いたまま美味しそうに物を口に運んだ。私はそれを無視して自室へと逃げ込み乱暴に施錠した。母の笑い声が扉をつたって私の耳を汚染する。
左手は拳を握り、右手に持っていたコンビニ袋をベッドに投げた。呼吸も少し荒くなり、胸の鼓動も普段の倍ほどのペースで脈を打つ。
この感情には何と名前をつけよう。怒りでもあり、憎しみでもある。辞書を引いてやっと、しっくりくる2文字を見つけた。
『憎悪』
地球上からなくしてしまいたいほどその存在を憎むこと。まさにこれだ。

最初はこうじゃなかった。こうじゃなかったんだ。きっかけは…何だろう。思い当たりとすれば二つあって、私が幼稚園を卒園したのと、父の単身赴任が決まったことだろうか。6歳から7歳にかけて母は変わった。最初は些細な変化だった。かまってくれる回数が減ったとか、軽く頭を小突かれるようになったとか、無視することがあったりとか、それ以前に母の雰囲気がいつもの感じと違ったから鮮明に覚えている。
なにがきっかけなのか、どれがきっかけなのかは正直のところ私にもわからない。確かなことは、母は1人でおかしくなったのではなく、私と父が必ず関係しているということだ。
「あんたなんて産まなきゃよかった…」
今にも切れそうな糸のようなか細い声が扉越しにうっすらと聞こえた。普通の人なら絶対に聞こえないだろう。テレビの音や工事の音でかき消されるはずの声だ。しかしながらその声は途切れる寸前でしっかりと私の耳に入り込み、鼓膜を揺らした。一瞬だけ時間が止まったんじゃないかと思えるありえない沈黙が数秒あるいは数分続いた。その沈黙に耐えられなかったのか、聞き慣れたはずのその言葉がずっと脳の奥でこだまし続け、次第に私の意識を奪っていった。

綺麗な花畑の中で目が覚めた。十中八九夢の中だけど、普段見る夢とはまた違った現実感があった。動かそうと思った部位を動かせる。呼吸を確認できる。自分が誰なのかわかる。手の形や足の形は普段の私のものだ。
「ああああああああああああああ!!」
大きく息を吸い込み叫んだ。きっといままでの人生で一番でかい声を出した。その叫びは花畑にこだまして、4回繰り返したのちに消えた。
私はおもしろくなって花畑を駆けだした。どこまでも続く花畑を裸足でかけていく。今まで味わったことのない自由がそこにはあった。好きなときに好きなだけ駆け回って、花を摘みたいだけ摘みとって、花輪、指輪、足輪、様々なアイテムで私の体を花で飾る。あー、何て素敵なことだろう。毎日がこんなに素敵だとしたら、いよいよ私も平和ボケしてずっとへらへら笑うだけの幸福論者になるに違いない。
無限の温もりをくれるお日様を全身に浴びながら私は寝そべった。目を閉じると、暖かい記憶が脳を巡った。
幼い日の私だ。3人は休日によく遊園地に出向いた。もう何回も乗った乗り物に乗りに行くんだ。観覧車、メリーゴーランド、ジェットコースター、エアー遊具、お化け屋敷。
3人は遊園地を駆け回って全てに遊具を乗り回した後、中にあるレストランで1ヶ月に1回の贅沢をするんだ。家族3人で6500円もする高級な肉を食べるんだ。分厚いのにほろほろ崩れる柔らかい肉に、私の好きなデミグラスソースやチーズのかかったスペシャルソース。これをたわいのない会話で笑い合いながら家族3人でゆっくりと食べる。

『幸せだったよね。あの時は』

ノイズのかかった嗄れた声が両耳のすぐ近くで聞こえて飛び起きた。
呼吸は荒く、全身がびしょびしょになるほど汗をかいていて、着ていた洋服が張り付いていた。
「はぁ…はぁ…」
私は呼吸を整えながら額の汗を腕で拭った。時計に目をやると午前1時44分と表示されていて、後7秒で45分になろうとしているところだった。決して悪夢を見たわけではないのに、ここまで魘されていたとは。気分転換も兼ねて水分補給をしようと自室の戸を開けると、数センチ進んだ先で何かにあたり止まった。何回か押したり引いたりしていると、扉から声がした。
「いたいよ…はぁ…ミカ…いたいよぉぉ…。親指がぁ…はぁはぁ…いだいよぉ…」
母の声だ。一瞬にして全身から血の気が引き、寸前で意識をつなぎとめたが、大きく後退して尻餅をついてしまった。自分の歯がガチガチと音を立てる。次第に震えは腕、足と伝染して全身が大きく震えた。
ゆっくりと、扉が開く。
まるでホラー映画でも見ているかのような気持ちだ。自然と涙がこぼれ落ち、呼吸の回数が多くなる。
ゆっくりと歩きながら親指から血を流す母が入ってきた。
「いだいよぉ…あ、あ、あ…」
長い髪に隠れて、母の表情が見えない。それがまたなおさら怖い。しかし、怖さの片隅でもう一つの感情がこそっとこっちを覗いていた。
『何を怖がってるの?この人はいま足を怪我して痛がってるんだよぉ?追い打ちをかけない何てことはないよね?』
それはさっき夢で聞いた嗄れ声に似ていた。
『最初に言っておくけど、(わたし)の中にいる私は、甘っちょろい憎悪じゃないからね』
すぐ横から声がして、振り向くとそこには真っ黒な闇に大きな目をかいただけの化け物がいた。しかしその化け物はわたしの中である(ぞうお)であるとすぐにわかった。
『ほら…ほら…ママが来るよ!もしもここで自分を変えたいなら、わたしの手に触れて?』
真っ黒い手がわたしに向かって伸びてきた。前方からはお母さんらしき何かが。真横には真っ黒い化け物が。もう私の脳は冷静に物事を考えられる物ではなくなっていた。気がつけば、化け物の手に己が手を重ねていた。
『あはははははは。上出来』
顔を上げると母がすぐ近くまで来ていた。カタカタと足を震わせ、まだ、痛いよ痛いよと喚いていた。
「お母さん…」
私は一瞬悲しそうな顔を母に向け、次の瞬間には目を見開き、拳を強く握って、母の足をぶっ潰していた。
「ぎゃあああああああああ!!イタイイタイイタイ!!!!」
『あははははははは』
母の痛み叫ぶ声と私と憎悪(わたし)の笑い声が狭い部屋に響いた。
『あはははは、は、あ!?い、いいい、いい、いた!い、い、い、い、いい、い、い…』
脳みそが焼けただれるような痛みが頭を一直線に駆け抜けた。
「はぁ…はぁ…」
『あーあ。分離しちゃったね。せっかく気持ちいい時間が続いたのに。また会いましょ?夢の世界で』

ぱちっと目が覚めた。わたしはすぐに体の感覚を確認した。手を握ったり開いたりして、足の感覚、心臓の音を確かめて、深呼吸した。どうやら夢の中で夢を見ていたみたいだ。夢の中で感じた現実よりも、こっちの現実の方がより濃く感じた。夢では感じることのない生きているという感覚。ふぅっと胸をなでおろす。やはりわたしの見ていたのは恐ろしい悪夢だった。

翌朝。学校に行くための支度をして家を出た。わたしが家を出る時間帯にはまだお店は開いてないから、完全なシャッター通りになる。朝は何かと不思議だ。この風景が本来あるべき姿に見える。でも昨日みたいに夕方にこの場所を見ると少し悲しくなってしまう。
シャッター通りを抜けて街に出ると、一気に都会らしくなる。車が数台通る。駅のシャッターが開く。ビルの前に大量のゴミが捨てられている。昨晩の残骸だろうか。いろんな色で汚れた発泡スチロール、酒瓶、生ゴミ。それにカラスたちが群がっている。なんとも都会らしい。大自然で育った田舎の子たちはこの風景を知らない。夢や希望を抱いてここに来れば大体の子たちは都会の汚れた空気に汚染されていくんだろうなって思う。高校生が何言ってるんだって思うでしょ?でも近くで見てればなんでもわかるの。もしもここが夢や希望に溢れてたら、駅前にダンボールで作られた棺桶みたいな箱の中で生活してる人はいないんだ。
「や、やぁ」
考え事をしながら歩いていると、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。しかも最近聞いたばかりで、心当たりもある最悪な声。
「おはようストーカーさん。そろそろ警察呼びますか?それともここで叫んでいいですか?」
「まぁまぁ、そんなこと言わずにとりあえずこれを受け取ってほしい」
クルクル天パ男は一冊の本を渡してきた。
──『ガラクタバッカノクニ』 著 微睡坊主──
「…何これ」
「昨日のコンビニの一件、僕も気になってたんだ。でも君みたいに店員に声をかけられることもないし、聞くことだって恥ずかしくてできない。なのに君はすごいなって思ったんだ。是非友達になりたい!ってね」
クルクル天パ男は笑った。
「てか、僕に見覚えない?覚えてないですか?いつも同じ電車に乗ってるし、制服だって見覚えがあるはずなんだけど…」
そうだ。昨日は気づかなかったけど、確かにこの天パ──ではなく、制服の方に見覚えがあった。これはうちの高校の制服だ。
「いや、てかいつからストーカーしてんだよ」
「ストーカーはしてないって。ただたまに見かけるから気になってただけで…。コンビニだって偶然だよ?」
子犬のような顔でクルクル天パはいった。その目に嘘の気配はない。
「まぁ…別に悪い奴じゃなさそうだし、通報は許してあげる。あと本も借りとくね」
そう言って本を受け取ると、クル天は嬉しそうに笑って「じゃあ、また」と、スキップでホームまで向かった。今時あんなあからさまな奴がいるのかと思ってわたしは笑った。受け取った本を鞄にしまい、私も切符を買って電車へと向かった。

電車に乗ると、定位置が空いていることを確認してそこに座った。なぜかは分からないけど、どんなに混んでいようがこの席は空いている。まるで誰かが座っているみたいに。
この場所は正面にみえるガラス窓からの景色が最高にいい。混んでいる時は見えないが、ギリギリ混む前の朝のこの時間帯は、日が昇る瞬間が見れる。
山と山の隙間から半分だけ顔を出す太陽は、夕焼けみたいな色をしていて、今が夕方なんじゃないかと錯覚するほど美しい。
一通り景色を楽しんだ私は、天パからもらった本を取り出し、パラパラとめくった。なんで受け取ってしまったんだろうと少し後悔している。これを受け取ったが故に、あと何回かは天パに合わないといけないじゃんか。同じ電車に乗ることもあるって言ってたし、もしもばったり会ったら感想とか、どこまで読んだ?とか聞かれるに違いない。嫌だなぁ…。そう思いながら本を読んだ。

学校に着くのはいつも最後くらいだ。私より遅くくる奴はあんまりいない。なんたって私はこの場所が嫌いだから。一番遅く来て、一番早く帰る。それが私の流儀。めちゃくちゃ早く来るやつとか、部活もしてないのに遅くまで残ってる奴らの気がしれない。まぁ、それぞれに目的はあるんだろうけどね。早く来る奴は勉強とか?遅くまでいる奴らは何かとリア充してるんだろう。
前までは確かに憧れだった。みんなと友達になって、いろんな恋をして、友達と秘密を共有して、運動会ではアンカーを走って、文化祭ではヒロイン役をする。けどその夢は叶わなかった。仲良くなろうにもみんなの流行がわからなかった。思春期の頃はとにかく新しいものを身につけてくる人や、物珍しいものを持ってくる人が一番人気だった。親の事情でテレビや雑誌で情報を仕入れられなかった私が目立つことはなかった。
結局はそれなりに金があって、それなりに幸せな家庭を持つ明るい奴らが輝く場所がここ学校だ。それに気付いてからは気持ち的に楽になった。休み時間は日を浴びながら読書をして、昼食を静かに食べて、消えるように学校から帰る。それが私のライフスタイルになった。1年、2年と、呼吸をするように切り替わっていく日常だったけど、その中で起こる些細な変化や、同級生たちを客観視することによって生まれた謎の感情は、私の生活を限りなく苦のないものへと変えてくれた。
そんな生活をしてもうじき5年になる。
何も辛いことなんてないけど、楽しいこともほとんどなくなった。些細な変化の回数も月に1回あるかないかに変わった。今はただただ生きる意味を探す作業。あるいは──
「あれ?まさかこんなところで。偶然ですね」
私が学校で唯一息抜きできる時間である昼休みを奪おうとする声が後ろから聞こえた。吹奏楽部の教室の裏手にある誰も使っていない廃倉庫。昨年までヤバめの先輩たちが秘密基地として使っていた場所だ。今は誰も使わなくなったので私が使用させてもらっている。
「偶然というのは無理がありますね。ここはもう誰も立ち寄らなくなった廃倉庫です」
「だから僕もびっくりしてるよ。まさか人がいて、それも君だなんて」
クル天は目を細めて笑った。
「そんな顔で睨まないでよ。本当に偶然だって。今かくれ鬼をやってるんだ」
小声で言いながら、入り口にかかっている布から外を慎重に見張っている。
「それより何でこんなところに?」
「…別に。いいでしょ?どこにいたって」
「いいけど…ここ汚すぎない?よく座ってられるね」
「馬鹿だね。ただで座るわけないでしょ?この跳び箱だけ綺麗にしたの」
「あ、じゃあ隣いい?」
「絶対にやだ」
「だよね」
クル天はまた笑った。しばらく無言の時間が続く。クル天は時折外を見たり私をチラ見したりしていた。
「…僕が貸した本、読んでくれてる?」
でた。予想していた会話だ。
「ちょっとだけね。まだ最初の何ページかしか読んでないけど」
「おー!読んでくれたんだ!」
私の冷めた態度とは裏腹に、クル天はすこぶるテンションが高い。むしろ今あがった。そんな姿にちょっとだけ頬が緩んでしまった。
「…おもしろい人だね。ただ本を読んだってだけでそこまでテンション上がるんだ」
「うん!だって友達に、本のことについて語り合える奴がいないからさ。新しい友達ができて嬉しい」
よっしゃとガッツポーズをするそぶりを見せながらクル天は言った。
友達──。
「だ友達になるとか言ってないけどね」
「いいよ。これからゆっくり友達になろう!」
「絶対やだ」
私はその日、久しぶりにちょっとだけ笑った。

放課後。終礼が終わって1分もしないうちに私は帰路を歩いていた。学校を抜けると大通りがあって、右も左もコンクリートとビルの群れ。見慣れた風景だ。学生やちょっとヤンチャな人たちにとっては整いすぎたこの空間。カラオケ、ダーツバー、ラブホテル、飲食店、パチンコ、珍しい雑貨を売るお店、濃ゆいクリームの匂いが漂う謎の店。いろんな顔がいろんな悪いことをしている。当人たちにその気はないと思う。自分のしたいことをしているにすぎないんだろうし。でも世間一般的に見れば、大抵の行為は不純だ。でも私たち学生目線で見たその世界は、異様なまでに刺激的で華やかな世界なんだ。もっとも、私はそんな風に思ったことないけど。だからあんまり若い時代を楽しめないのかもしれない。精神的にはもう40代な気分だ。
「ねぇねぇ、ちょっと時間ある?カラオケ行かない?」
私の横に張り付きながら男が言った。よくあるナンパだ。
「いい制服だね。どこの学生?」
金髪に黒のタンクトップをきたチャラチャラした男はみんなこういう。
こいつらは手当たり次第に声をかけては、ついてきた女の子を食らう。…違うね。食らうというのは食われる側が被害者の場合の表現だ。ついていく女の子はそういうのあり気でついていくから、お互い求め合うといったほうがいいかな。
そうして彼らは自分を汚していく。
「ねぇ、海見に行かない?」
後ろから聞き覚えのある声がした。助かったと思った反面、少しイラっとした。
「無視しないでよ〜。僕たちはもう友達でしょ?」
「友達になった覚えはないけど」
「最初からそうやって振り返ってよ」
私が振り返ったのと同時に、チャラ男は舌打ちをして人に紛れて消えた。
「やっぱりナンパされるよね。それだけ可愛かったら」
クル天が笑いながら言った。
「うざ。それもナンパじゃん」
「ち、違うよ」
「あははっ」
しまった。笑ってしまった。
「え?今笑った?」
あーあ。めんどくさい。
「笑うわけないじゃん」
「あははって言ってなかった?」
「愛想笑いって知ってる?」
少し睨んで言った。
「え?でもそれって笑いの一種でしょ?」
「は?」
あははっと私と同じようにクル天は笑った。それがなんだか悔しかった。

それから歩いて30分。クル天はずっと付いてきた。まぁ、別に悪い気はしない。ちょこちょこ話し相手にもなってくれるし、一応、何というか、顔見知りにもなったわけだし、付いてくるぐらいはもういいと思った。
駅に着いてからもなんだかんだでずっと喋っていた。いつの間にかそんな時間が楽しかったりもした。いつも定位置に座っている電車も、気がつけば立って話していた。
「いやぁ、いろんな話が聞けて良かったよ!やっぱり声かけて良かった」
そんな事を笑顔で言ってくる。くそ。
「いろんな子にそういう感じで近づいてるんでしょ?」
「そうならいいんだけどねぇ…。あいにくコミュ障でさ、仲良くなったら色々話せるんだけど、そもそも仲良くなれないんだ」
「なんで?」
「自分から話しかけるのが極端に苦手だから」
嘘くさいな。これだから男は嫌いなんだ。それにコミュ症の意味を履き違えてる。
「目つきが悪いなぁ。嘘だと思ってるでしょ。まぁいいけどさ」
見透かしているようで見透かしてないその顔も嫌い。…でも。
「こんな顔普通の人にはしないよ」
「え?どういう事?」
「は?友達でしょ?もう」
私がそういうと、クル天は子供のようにはしゃいでいた。こういうところも嫌い…嫌いなはずだ。
「じゃあ今日からどんどん話しかけて行くからね」
「程々にしてね。じゃないと通報しちゃうかも」
「友達を通報するの?」
「私、通報するの好きなんだ」
「それ、やめたほうがいいよ」
2人で笑った。しょうもない。
「じゃ、また明日ね」
クル天が笑顔で言った。
「うん」
クル天の背中が遠くなっていく。それが何だか…なんだろうな。うん。なんだろうなだった。

駅を降りて、商店街を抜けて、無事に家に着いた。久しぶりに男から声をかけられたのと、クル天と仲良くなってしまった事を除けば、普通の1日だった。
1日を反芻しながら錆びた階段を上がり、カバンから鍵を取り出して、ゆっくりと玄関を開けた。
室内の気配を慎重に探る。音や匂い、雰囲気。この要素だけで、母の所在がはっきりと分かる。
私は玄関を機嫌よく開けて、ルンルンと家の中に入った。恐らくだが、早く仕事場に行ったんだろう。母の気配は感じなかった。
自分の部屋までこんなに爽快に行けたのは久しぶりだ。いつもなら神経を張り詰めているが、今日はだるんだるんだった。

家事やお風呂を済ませて、ベッドに寝転んだ。お風呂でもそうだったが、1日溜め込んだ何かがすうっと抜けていった。しばらく何も考えずに天井を見つめて、クル天から借りた本を読み始めた。
“ガラクタバッカノクニ”
短編集だ。いろんな人の日常が、リアルに描写されている。その中でも、芸能界で生きた偉人の言葉が気に入った。

『なんか、世の中のバカがどうこうとか、アホがどうこうとか、それを見て笑ってる連中もいれば、批判している連中もいれば、加勢している連中もいる。世の中、楽しそうで何よりだ。僕は酒でも飲ませてもらうよ。その全体像を肴にね。染み入るよ。酒はこういうのを肴に呑むんだ』

まだお酒のことなんて分からないけど、この人はきっと世の中に対して諦め過ぎている。あるいは、あまり人間に興味がない、現実味を忘れてしまっている。そんな印象を受けた。
かく言う私がそうなんだ。クラスではしゃいでる男子も、グループに分かれて行動している女子も、行事も、日常も、まるで興味がない。
ただ本当に心臓が動いているだけの毎日。それだけ。

確かに考えてみれば不思議だ。惰性で生きている割には、死ぬたくない。心から生きたいと思っている。
「何を糧に生きているの?」と聞かれたら、すぐには答えられない。
……うん、いや違うな。違うよ。うんうん。違う。クル天なんて最近までストーカーだった変態だし。うん。
でも、いい本を貸してもらった。明日お礼を言おう。
『明日連絡先聞いたほうがいいんじゃない?』
後ろから声がした。咄嗟に振り返ると、姿見に映る私が、頬杖をついてこちらを見ていた。
『びっくりした?』
何も返せない。蛇に睨まれた蛙のように固まっていると、鏡の私は笑った。
『もう。驚き過ぎ。普段鏡に映っている姿が、ちょっと違う動きしているだけでしょ?』
首を傾げて『こっちに来て?』と言った。
その声を聞いた瞬間、体の自由を奪われた。力の入らなくなった体は、操り人形のように、鏡の方へと導かれた。
『この前は離れちゃったねぇ…寂しかったでしょう?苦しかったでしょう?そして……気持ちよかったでしょ?』
耳に入る声は、カラオケのように鼓膜に響き、私の意識を朦朧とさせた。
『心地いいでしょ…?どうする?』
どうしよう。悩んでしまう自分がいた。
『私と入れ替わっちゃう?』
入れ替わったら楽しい?
『きっと楽しいよっ』
じゃあ…いや、でも。
『何を迷ってるの?』
………わからない。
『あ、あ、あ、ああ、あああらま。残念』
鏡の中の私が、ノイズのようなものに覆われて消えた。
切れた息を整える数分で、鏡はいつもの私を取り戻していた。

昨日の憎悪(わたし)だ。全てのマイナス要素に、殺意と憎しみが絶妙に絡んだとんでもない感情。黒、黒、黒、何もかも取り込んでしまうほどの闇。
本当は、身を任せてもいいんじゃないかと思う。いっその事何が起こっても全部憎悪(わたし)のせいにして、本当の私はどこか遠いところに逃げてしまえば楽なんじゃないか。
じゃあなんで前回も今回も私に戻ったのか。それがいまいちよく分からなかった。

久しぶりの安息のせいで、やたらと眠い。本を読んでいるのか寝ているのか分からなくなってしまった。今日はここ前にしておこう。しおりを挟んで机の上に置いた。
ベッドで横になるとすぐに睡魔が襲って来て、私を夢の中に(いざな)った。
『待ってたよ』
どす黒い憎悪(わたし)が言った。数回あって慣れてしまったのか、これが夢だからかは分からないが、禍々しい雰囲気の憎悪(わたし)を怖いとは思わなかった。
『あれ?もう怖くない?』
「うん。だいぶ慣れたみたい」
なんなら話す余裕すらある。
『良かった。あくまでも憎悪(わたし)は貴方だし、貴方は憎悪(わたし)でもあるんだから、仲良くしないとね』
前回同様、真っ黒い顔面に目のようなものが付いているだけで、表情は読めないけど、なんとなく笑っている印象を受けた。
「そうだね」
『そうだよ!さ、そこで話そ?』
私の後ろを指差して憎悪が言った。振り向くと、真っ白いテーブルクロスが敷かれたまん丸の机に、背景とほとんど同化している黒い椅子が2つ。テーブルの上にはテレビで見たことのある高級料理と、赤紫色の液体が入っているワイングラスが置いてあった。
「すごい…!こんなの初めて見た!」
恥ずかしかったが子供のように喜んでしまった。理想的すぎる光景だったんだ。仕方がない。私には一生縁がないと思っていた世界がそこにあったんだ。
『いいでしょ?さ、掛けて』
憎悪が手を振ると、椅子が少しだけ後ろに下がった。
腰掛けて改めて憎悪と向かい合った。
『じゃあ、食べよっか』
「え?夢の中で食べれるの??」
『夢の中では食べられないって誰が言ってたの?』
確かにそうだ。誰が言ったんだろう。
それから静かな食事が始まった。食べ方の分からない高級料理を、ナイフとフォークを使って食べる。もちろんそれはあってはいない食べ方で、私の想像でナイフとフォークを使い、私の想像で味が決まる。
『美味しいね』
憎悪が静かに言った。
「うん」
私も静かに答えた。

それから私たちはいろんな景色を見て回った。どれもこれも想像だ。私が見る景色は
チープな理想郷ばかり。憎悪が見せるのは、残酷ではあるけど、私が望む光景そのものだった。
ガラクタバッカノクニに似ている。
『そうでしょ?似てるでしょー?あの本にはね、私も感動したの。本当にガラクタばかり。でもその中に射す光や、闇の中を走る闇。素敵よね。何もかも浮き彫りにさせてあるのがいい』
確かにと私も思った。さすがはもう1人の憎悪(わたし)
『ねぇ、1つ提案があるんだけど、いい?』
「何?」
『私を表に出してよ』
そう言うと思った。
『きっと楽しくなるよ?』
正直、悩む。
『世界が変わるよ?』
まるで宗教の勧誘みたいだ。
『今日みたいな日がずっと続く。約束する』
そのフレーズは反則だなぁ。正直揺らいじゃうよ。
「確かに今を変えたいよ?でも、私は私で変え」
『変えられないよ!!(あんた)じゃ変えられない!!憎悪(わたし)が変えてあげるから!…だから……ね?』
憎悪(わたし)()が私に触れた。形を自在に変化させる氷に掴まれたみたいだ。その冷たさが私からゆっくりと体温を奪っていき、母が私に残した残酷な記憶の断片が脳内上映された。
あぁ。辛い。消えたい。死にたい。我慢していた私の本音が口からダラダラ零れ落ちていく。このまま落ちたい。身を任せたい。でも──。
『…!』
私が手を握り返すと、憎悪(わたし)は一瞬驚いたようだった。
「私は私で変える。きっと憎悪(あなた)も大事なんだけど、できれば見守っていて」
私がそう言うと、触れていた()が消えた。目の前にいた憎悪(わたし)もいつの間にか消えていた。

翌朝、私が家を出る時間になっても、母は帰ってこなかった。本当にスッキリとした気持ちで家を出たのはいつぶりだろうか。こんな日が続けばいいのにと一瞬考えたが、やめた。憎悪(わたし)の思う壺だ。

駅に着くと、すでにクル天が立っていた。
「おはよう!」
朝からこんなに元気なのは羨ましい。私はぐっすり寝たはずなのに、疲れたままだった。
「なんか元気ないね?」
「ないかな?」
「うーん、なんとなくそんな気がする。夜更かしした?」
夜更かし。と言うよりは、夢がリアルすぎて寝た実感が湧かないのかもしれない。
「たぶんそれだと思う」
「あらら…。夜更かしは良くないよ?肌荒れるらしいし」
「女子かよ」
私が言うと、クル天は笑った。それに吊られるように私の口角も少しだけ上がった。

いつもとは少し違う電車の中。私の指定席が珍しく空いている。私が座っていないせいだ。そして人数が多い。そして自然と近い。クル天と。くそ。
「…なんか狭いね」
なんでお前が少し照れてんだよ。耳赤すぎ。無理。
「そう?いつもと変わらないけど」
「そう…かな。あ、あそこ空いてるけど今日は座らなくていいの?」
「うん。今日はなんか気分じゃ……は??今、あそこの席座らなくていいのって言ったの?」
私が睨みをきかせて言うと、クル天はしまったという顔をした。
「えっと、違うよ?前回も話したじゃん。ずっと君を見てただけだって」
なんでちょっと動揺しながら照れてんだよ。なんかその、あからさまに好意を見せんなよ。こっちまで少し照れるでしょうが。
「あっそ。もういいけどね。あんたがストーカーなのはもう慣れたし。それに昨日から、肩書き上は、友達兼ストーカーだしね」
「あ、まだストーカーの部分が拭いきれてなかったのか」
「拭いきれてるわけないじゃん。事実だし」
「だから違うんだってば」
ふと、これから会うたびにこんな会話をするのかなと思った。そして1つの感情を抱いた。それが分かった瞬間、私は悔しいと思った。今の私は、これからの日々を楽しみにしているようだった。
そう思った瞬間に差し込んできた朝日が、私を照らした。
長い夜がやっと開けた。そんな気がした。
「あれ!?あ、え、どうしたの!?僕何か悪いこと言っちゃった??」
満員電車に気を使って小さく慌てるクル天。気がつけば右の頬を涙が伝っていた。
「何でもないよ」と言ってはみたが、何もないわけがない私は、感情を整えながら笑った。

学校についてもクル天のことばかり考えてた。授業もどこか上の空。窓際の席で青空を眺めていた。普段から友達のいない私は、誰からも話しかけられないし、私からも用がなければ話しかけることはない。ただし例外はある。
「みーちゃん最近どうした!ずっと黄昏気味じゃない??」
太陽みたいな笑顔でそう言うのは、クラスメイトの蔵前明華(くらまえめいか)さん。このクラスで唯一私に話しかけてくる変わり者だ。
「黄昏気味ってなんですか?」
「そのままだよそのまま。黄昏てそうで、黄昏てない。みたいな」
「ちょっとよく分からないですね…」
「お、今日はツッコミまでくれるんだね」
「いや、つっこんでないですけど…」
「今のそれもツッコミだね!」
「会話です」
「おー、今日は会話が続くね!本当にいいことあったでしょ?」
「…別に」
「ほー。なるほど。恋だな」
明華さんの目がぎらりと光った気がした。私を罠にかけようとしている。しかしその手には乗らない。
「出来たらいいんですけどね」
いつもの感じで淡々と返した。
「それに、もしも私が恋をしてるとしても、明華さんには言いませんよ」
そう言いいつつ席を立って、教室からの離脱を図る。明華さんは何かを言いかけたがそれをグッと飲み込んで「分かった。またね」と笑顔で言った。変わり者め。

教室を抜け出して、いつもの廃倉庫に向かう道中、私の胸には1つの言葉といくつかの意見がつっかえていた。
『恋だな』
絶対に違う。自信がある。私はおそらくだけど、人を好きになれない。と言うか、なり方を知らない。とうの昔に忘れてしまったか、まだ身についていないはずだ。漫画や本で知った恋は、心臓が早く脈打つらしい。クル天に対して、私の鼓動が早くなったことは……ない。はず。あったとしても、おそらくは緊張だ。あと恐怖。元はストーカーだし。
だからきっと恋なんかじゃない。違う違う違う。
「うわー…。そのなんか…大丈夫?」
気がつくと、目の前にクル天がいた。と言うよりも、私が廃倉庫についていた。
「……そこ、私の指定席なんだけど」
「あはは…そうだったね。ごめんごめん」
そう言いながら跳び箱から退いた。
「それよりどうしたの?なんか機嫌悪くない??」
「別に?普通だけど」
そう言って、クル天の座っていた場所に座った。ほんのり暖かくてちょっと気持ち悪かった。
「本当に?ならいいんだけどさ」
「それよりも、なんで今日もここにいるの?」
「え?だから、隠れ鬼だよ」
「それは昨日でしょ?毎日やってんの?」
「うん!毎日やってる!」
うわ。嘘のない本気の返事だ。男子ってほんといつまでたっても子供。
「でもここに隠れてるだけじゃ面白くないでしょ?」
「そうなんだけどさ、汗かきたくないんだよね」
「え?」
「だってただでさえ暑いのに、こんな中走り回ったら5時間目が始まる前に死んじゃうでしょ?」
シャツ出ししたワイシャツをパタパタしながらクル天が言った。
「それにほら、ここだったら絶対に見つからないし、日陰で湿っぽくて涼しいじゃん?」
「じゃあ鬼ごっこしないでさ、扇風機が回ってる電子機械室か、クーラーが付いてる図書室に行けばよくない?」
「あぁ…違うんだよ。……朝霞(あさか)さんは分かってない」
私のネームプレートを見ながら申し訳なさそうに名前を言った。そういえば私たちはお互いの名前を知らないままだった。クル天の胸に目をやるが、ネームプレートはなかった。
「話変わるけどさ、名前なんていうの?」
「あ、そうだね…。上だけでいい?」
「え?なんで?」
「変わったキラキラネームだから恥ずかしくてさ」
「女かよ」
本当になよなよしい奴。その後も渋りに渋ってやっと聞けた。
「久住はそのままで、名前は天に日って書いて、久住天日(くずみあさひ)って読むんだ」
なるほどと納得した後、私は思わず吹き出してしまった。そして口を滑らせてしまう。
「ほんとにクル天じゃん」
「?」
なにそれって感じのクル天だったけど、私はそのまま「なんでもない」と誤魔化した。

そのまま適当に喋っていたら昼休みが終わった。結局クル天が外に出ることはなかった。
「じゃあまた明日」
「明日はくんな」

話している最中も、私は恋とは何かを考えていた。
確かにクル天といると楽しい。そして落ち着く。どこか現実を忘れることもできる。素直になったもんだ。ほんの数日でクル天は、私の中の数少ない友達の1人になった。数少ないというのも語弊がある。よく考えれば考えるほど、私には友達がいない。きっと。

5.6時間目の総合を寝て過ごし、今日の学業は終わった。
放課後、門の前にクル天がいた。それを見つけた瞬間、とっさに身を隠してしまった。教室をでる寸前、蔵前さんの声が聞こえたからだ。
ただこの状況で蔵前さんと鉢合わせでもしたら、下駄箱のから校門を眺めてる変人だと思われてしまう。そう思っている間にも、蔵前さんとクラスメイトが話しながら降りてきているのが分かる。
見つかる寸前、私は秘策を思いつく。
「あれ?みーちゃん。こんなところで本読んでるの?」
「あ、うん。どうしてもこのページまでは読んでおきたくて」
そう、私は鞄から本を取り出したのだ。これもこれで場所的には変人だが、覗き魔よりはマシだ。
「本当に珍しいね。いつもめちゃくちゃ早く帰るのに」
うわ。気づかれてたのか。死にたい。
「ま、まぁね。でもあと少しで読み終わるかな」
私がそういうと、蔵前さんの顔がパァッと笑顔になった。
「そうなんだ!じゃあさ、一緒に帰ろうよ!」
は?っと、口に出してしまいそうだった。
「え、あ、えっと」
「いいよね!駅までは多分一緒だし、帰ろ!」
そう言いながら笑顔を咲かせた。こうなるともう断ろうにも断れない。横にいる蔵前さんの友達も、どっちでもいいみたいだ。
「あ、いたいた。朝霞さん、今日も一緒に帰ろうよ」
めんどくさいなと思った矢先、さらにめんどくさい展開になった。私の顔は歪み、蔵前さんはニヤリとし、クル天はあっけらかんとしていた。

それからなんだかんだで4人で帰ることになった。もちろん気分は最悪。蔵前さんからは終始いじられていたし、クル天はそれを楽しんでいて、なおかつ照れていた。唯一無反応だったのはもう1人の友達の方で、クラスメイトの秋葉日和(あきばひより)さんだけ。校門から駅までずっとスマホの画面を眺めていた。さりげなく覗いてみると、スマホゲームをしていた。399というレベル的な部分を見る限り、相当やり込んでいるんだろうと思った。
「じゃ、私たちは電車乗らないからここまでね!高校生なんだから、ちゃんとするもんするんだよー」
ホームで投げる言葉じゃないんだよなぁ。あー、死にたい。
「だからそういう関係じゃないって」
「まぁいいや、じゃあね!また明日!」
「ま、またね」
手を振りながら、蔵前さんたちは歩いていった。去り際、秋葉さんも小さく手を振っていた。それがなぜか嬉しかった。
「ねぇねぇ、さっき何をつけるだのなんだの言ってたの??」
蔵前さんたちの姿が小さくなりかけたとき、クル天が話しかけてきた。キレそうになったけど、怒りよりも疲れの方が優ってしまった。
「…ネットで調べて」
「あれ?死にかけてる?」
「うん。ほぼ死んでる」
「どうしたの?」
どうしたもこうしたもねぇだろ。
「慣れてないの。こういう…賑やかなの」
「え?意外だね」
「は?」
「いや、朝霞さんはこういう賑やかな人だと思ってたよ」
何を言ってるんだこいつは。
「何を根拠にそんなこと言ってんの?」
「うーん…なんだろうね。分かんないけど、何となく」
クル天はそう言って笑った。そんな笑顔ができたら、もう少し人生は楽しいのかもしれない。そんなことをふと思った。そしてため息をついた。

1分遅れで来た電車に揺られる道中も、クル天は楽しそうに話をしていた。そう感じているだけかもしれないけど、私と話している時のクル天は本当に楽しそうだ。闇を一切感じない。透明というよりは、白。どこまでも白。光みたいに眩しい白。受け答えをしながらずっと考えて、1つの結論に至った。

『私はきっと、こんな風にはなれない』

「今日もありがとう」
改札前でクル天が言った。
「何が?」
「一緒に帰ってくれて」
「ううん。こちらこそ」
「また明日!」
「うん。また明日」
手を振りながら離れていくクル天を見送って、私も帰路についた。

帰り際の商店街が今日はやけに賑やかだなと感じた。お店の前の立て看板と、店の前で立ち話をしている人たちの口から聞こえたワードで、今日が何で賑やかなのかはすぐにわかった。
どうやら今日は“母の日”らしい。
何か買って帰ろうかなって少し考えた。ただ、私が母に何かをあげたとしても、喜ぶことはない。だから毎年何もあげない。だけどあとからぐちぐち言われる。何でくれないのとか。今まで誰が世話してやってたと思ってんの?とか。
だけど今日は気分が良かった。だから、料理を作ってあげることにした。別に食べてもらわなくていい。それぐらいの勢いで作ろう。
何を作ろうかと悩んだので、商店街の立て看板に書いてあったカレーを作ることにした。八百屋でジャガイモ、人参、玉ねぎを。お肉屋さんで牛肉を買った。カレー粉は家にあった気がする…いや、無いか。迷ったから結局買った。
18時に家に帰り着き、母が帰ってくるであろう21時すぎにできるように調整して作った。その間にお風呂、課題を終わらせて、久しぶりに座ったリビングの机の上で母を待った。
ガチャッ。扉が開いた。母の帰りだ。玄関を歩く足音がでかい。力強く床を踏みしめ、早歩き気味でリビングの扉を開けた。
「何この匂い…」
母は目を閉じて匂いを嗅いでいた。
「おかえり。…今日、母の日でしょ?カレー作ったんだけど…食べる?」
「え?いいの?」
「いいよ。お母さんのために作ったんだ」
言い切った。心に何かが(つっ)かえていたが、今は気にしない。
「母の日だから作ってくれたの?」
「うん。いつも何も渡せて無いから」
いい子に。
「それで料理を?」
「うん」
いい子にいい子に。
しばしの沈黙が流れる。母の表情が見れない。怖い。ここからどんな展開になるかはわからないけど、まずは動かなきゃ。
「じゃあ、よそっとくから色々支度して来て?」
母は「うん」と頷いて、風呂場に向かった。
脈拍が早い。暑くもないのにほんのり汗をかいている。母と喋るのがこんなに難しいとは。
風呂場から戻った母は机の上に置かれたカレーを見て「うわー…」と言った
それは喜びの「うわー…」だ。数年ぶりに母が喜んでいるのかと思うと何だか私も嬉しかった。
「食べてもいいの?」
母が言った。
「美味しいかどうか分からないけど…。食べて」
「じゃあ、頂くわね」
いただきますと手を合わせ、スプーンを口に運んだ。
数回咀嚼(そしゃく)して、飲み込む。
「………………」
黙り込む。静寂。外の音が何かしらなっているはずなのに、何も聞こえない。私の心臓の音でかき消されている。何か言うべきか。私からアクションを起こすべきなのか。考える。
「悔しいけど、うまいわね」
母はそう言って、普通に食べ始めた。
「よかった」
そう言って、私も普通に食べ始める。しかし心の中は異常なまでに疲労していた。せっかくのカレーなのに、何の味もしない。その後も、最善の注意を払いながらカレーを食べた。数分後、母の皿が空になり、数秒遅れで私の皿も空になった。
「ご馳走さま。ありがとうね」
母は笑顔でそう言って、皿を自分でキッチンまで運んだ。
…それが普通のはずなのに、私は違和感を感じられずにはいられなかった。この母の普通さこそが異常だ。意味がわからない。私の思い描いた構図と違う。テーブルに出されたカレーを冷蔵庫に投げつけて、それを私に拭かせる。最悪ここまでは描いていたのに、全くそうはならなかった。
食器を洗い、残ったカレーを冷蔵庫にしまってから、母が帰って来てから最初に向かった風呂場に向かった。洗濯機の中の服、鏡、お風呂、何かないかと探してみるが特に何もない。意味がわからない。今日の母はいつも以上に異常だ。
「何してるの?」
脱衣所の真ん中に立ち竦んでいた私に母が声をかけた。
「ヘアゴム無くしちゃって」
「嘘?あんたそんなの付けてなかったじゃん」
「今日は珍しく料理したから使ったの」
「それがここにあるのはなんで?」
母が笑う。その感情のない笑顔にゾッとした。
「母親が子供の嘘を見抜けないと思ってるの?」
ゆっくりと母が歩き出す。それに合わせて私も後ずさりする。
「言いなさいよ。何を思っているの?何を探しているの?ねぇ?黙ってないでほら、言ってごらん」
壁に追いやられた。目と鼻の先に母の顔がある。
「な、何でもないよ」
そう言った瞬間、母の拳が私の鳩尾(みぞおち)にめり込んでいた。広がっていく痛みが苦しさに変わり、足の力が抜けて尻餅をついた。
「嘘をつく子供に育てた覚えないけど?」
言葉とともに容赦ない顔面蹴り。頭の奥で「パキッ」と乾いた音がなり、口の中に生臭い液体が溜まり始めた。
「ねぇ、何を探してたの?何をそわそわしてたの?」
何かを喋らないといけないが、溜まっていく液体をその辺に吐くわけにはいかない。これはおそらく血。その辺に吐けば間違いなく追撃が来る。
「…そこの洗面台に吐きなさい」
笑いを堪えるように母は言った。少しぐらつく頭で立ち上がり、壁を伝って洗面台に吐き出した。予想の3倍ほど血が溜まっていた。一気に赤くなった洗面台と、饐えた血液の匂いに吐き気がした。
「…………あ………け………な……」
母が何かをしゃべっているけど、水の中にいるみたいにぼやぼやと聞こえるばかりで上手く聞き取れなかった。大量の血を見たことによって貧血を起こしたのかもしれない。
『あらら…すごいきつそうだね』
頭の中に憎悪(わたし)の声が響いた。その声だけは嫌に鮮明だった。
『いいよ、ほら。変わろうよ。もう楽になっちゃおうよ』
見えない手が脳内で差し出される。その間に、母から太ももを蹴られた。痛みはない。ただただ意識が遠のいていく。
『ほら、早く!このままじゃ死んじゃうよ』
見えなかった手が徐々にその姿をあらわす。ドロドロの黒い靄を纏った白い手が差し出されている。まるでアニメみたいだと思った。
私の手がその手に向けて伸びていく。あと数cmのところで、私の手がその手を弾いた。
「なんで?!何でなの!!」
憎悪(わたし)の叫び声が頭に木霊(こだま)して徐々に引いていく。
そのまま私の意識も遠のき、頭が一気に重くなった。

『ねぇ、何してるの?さっき私の手を取っていればこんなことにはならなかったのに』
憎悪(わたし)が後ろで騒いでいる。わたしはそれに背を向けて、体育座りをしていた。
「こんなことって?」
シンプルに思った。これは憎悪にとって望んでいなかった事。私は私で選んだんだ。
『…ねぇ、こっちを向いて話を聞いて』
嫌だ。見たくない。もう何もかもが嫌。
「もうやめてよ。私に構わないで。憎悪(あなた)の力を借りずとも、私は大丈夫」
そう言って、暗闇から白銀に輝くナイフを取り出した。
「私は1人でやり遂げてみせる」

意識が現実に戻ると、真っ暗な空間にいた。おそらくまだ脱衣所。気を失って倒れている状態だ。ゆっくりと体を起こすと、左頰に痛みが走った。舌でゆっくり触診すると、ボコボコに腫れ上がっていてその中心には穴があいているように思えた。嫌にヌルヌルするする地面は私の血液だろうか。少しずつ目が慣れてきて、鏡に近づくと自分の顔が映った。乾いた血のせいだろうか。顔面の半分を火傷しているように見えた。異常に見開かれた目は、昔見た犯罪者の顔によく似ていた。
しばらく鏡の中の自分を観察したあと、時間を確認した。
2時11分。母はおそらく寝ている。目を閉じて耳をすますと、秒針の音と、母のいびきが聞こえた。
足音を立てないようにゆっくりとキッチンに向かい、棚から包丁を取り出した。
『取り返しのつかないことになるよ』
憎悪(わたし)の声が聞こえる。
「いいよ別に。何も失うことがない」
『ほんと?』
「うん」
ソファの前に立つ。窓から差し込む月明かりと静けさが心地いい。
『…やめときなって』
「あれ?へんなの。憎悪(あなた)はこのシーンを望んでたんじゃないの?」
黙り込む憎悪(わたし)
「何を今更恐れてるの?何でわたしを止めようとするの?」
『………』
「ねぇ、黙ってないで教えてよ」
『今のあなたにはちゃんと失うモノがあるでしょ?』
嫌に優しい声だった。その声の意味を考える前に、頭にクル天の声が響いた。
『また明日!』
あぁ。ここで母を殺してしまったら、私はもう、クル天には会えない。いつのまにかそれが随分と心残りになってしまったみたいだ。
『あなたはもう一人じゃないだよ』
「なんで…どうしてそんな優しい声をかけるの?あなたは憎悪(ぞうお)でしょ?私の憎しみでしょ?なのに…」
『憎しみだよ。負の塊だよ。それでも変わらない、(あなた)だから』
その声と共に、憎悪は消えた。私はいつのまにか、膝から崩れ泣いていた。母を起こさぬように声と嗚咽を殺しながら。

朝、いつもと変わらぬ朝。相変わらず頬がいたい。少し出血してしまったらしく、枕に少しだけ付いていた。耳をすますが母の気配は感じない。ベッドから起き上がると、体の節々も痛かった。
いつも通り朝の支度をする。鏡で顔の状態を確認したが、酷いもんだった。学校でいじられるのを懸念して、マスクをしたが……。似合わない。これはこれでいじられそうだと思った。

いつもより早めに駅についた。いつもクル天が立っている場所に立って、深呼吸をした。
数分後、クル天が髪をいじりながら走ってきた。
「おはよう」
私から声をかけてあげた。
「あれ?!今日は早いんだね?あれ?マスク?」
「うん。メイクがうまくいかなくて」
「あれ?普段ってメイクしてたっけ?」
「してないよ。ごめんね。嘘。ちょっと色々あってさ」
「…口内炎とか?」
お、それは都合がいい。
「そういうことにしとこ」

改札を抜けて、いつもの電車に乗って、いつも通りあいている席に座った。
「隣いい?」
クル天が私の返事を待たずに隣に座った。
「いいって言ってないけど」
「何となくいい気がしてさ」
うざ。
「何で毎回ここの席に?」
「いったじゃん。ここから見える景色が好きだって」
「いやいや、そんな話ししてないよ。昨日の朝同じ話したら、すごい怒ったじゃん」
「…あー、そうだった。いや、怒ったというか、通報したくなっただけだよ」
言いながら心の中で笑ってしまった。
「またそんなこと言ってる。通報グセ直しなって」
「あはは、そうだね」
また不意に笑ってしまった。だけどもう、クル天はそれをいじったりはしない。
そう思ったタイミングで、朝日が照らす。

もしかするとこの朝日は、浴びることのできなかった朝日かもしれない。

「あれ?また泣いてる。大丈夫?」
気がつけば、また涙が流れていた。右目からではなく、両目から。
「うん。何とか大丈夫だった」
なにそれっと、クル天は言った。顔に光が当たっていて、視認できないほど光っていた。なんだこいつ。
「いつかでいいからさ…」
そのままの調子で、クル天は言った。
「話せる日が来たら、朝霞さんの話を聞かせてよ」
堪えた。かなり堪えたけど、ダメだった。
「……ぶっ。あはははは……はーっ、本当におもしろいなぁ…」
ここが電車だということを忘れるぐらい笑ってしまった。
視線を一気に集めてしまったが、気にすることなく私は言った。
「これからもずっと、面白いクル天でいてね」
パッと笑った私の顔見て、顔を赤らめるクル天。
これからはきっと大丈夫。そう思って出た私の笑顔は、想定していた倍の倍輝いていた。

私が失いかけたモノ

私が失いかけたモノ

「あれ、最近私、いつ笑ったっけ」

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