追憶

『 追憶 』

 届いた年賀状の中に、彼からの手紙は無かった。
 それは不思議なことだった。

こんなことは今まで無かった。
 僕は彼にクリスマスカードを出し、彼から新年を祝うグリーティングカードを受け取る。
 これが、彼と僕とのいつもの年中行事であり、約束事だった。
しかし、一月七日が過ぎても、彼からの手紙は届かなかった。
僕は少し落ち着かない気分を味わった。
来ないという事実がいぶかしかった。
 それは、あってはならない奇妙な出来事だった。

 僕は昨年十二月の初めにクリスマスカードを書いて、彼に出した。
確かに、出した。
住所も間違えていない。
出す前に、いつも二回は住所を確認する。
それは、例年通りの僕の行事だった。
そして、彼からは新年を祝うグリーティングカードの入った手紙を受け取る。
三十年続いた僕たちの関係であり、習慣だった。

 彼の名前はフィリップ。
アメリカ人だ。
いや、アメリカ人という言いかたは間違いだ。
そんな言いかたならば、カナダ人も、メキシコ人も、ブラジル人もアメリカ人となってしまう。
正確に言えば、米国人だ。
しかし、僕と仲間たちは彼をフィリップとは呼ばずに、フェリーペと呼んだ。
フィリップはスペイン語ではフェリーペとなる。
そのように呼んでほしいというのが、彼の要望だった。

郷愁。
英語ではノスタルジー、スペイン語では、ノスタルヒアと云う。
人には耳にするたび、郷愁をそそられる言葉がある。
僕にもある。
メリダ、という言葉だ。
メリダ。
僕と仲間たちが十ヶ月、暮した街。
メキシコの街だ。
白壁の家が多い。
別名、『シューダ・ブランカ(白き街)』と呼ばれ、かつては、マヤパンと呼ばれたマヤの都市国家だった。
アステカ帝国を滅ぼしたスペイン軍に頑強に立ち向かい、なかなか陥落しなかったマヤの誇り高い末裔たちが住む街だ。
自分たちをメキシコ人とは呼ばず、今でも住んでいる土地、ユカタンをそのまま想起させる『ユカテコ(ユカタン人)』と呼ぶ。
しかし、夏の気候は最悪だ。
『蒸し暑い』、という言葉がぴったりと合致する。
その上、『すごく』という修飾語もよく似合う。
メキシコ南部のユカタン半島の東部にある、この街の夏はとにかく蒸し暑い。
夏は雨季で、日に一度、夕方になるとスコールが来る。
降りかたは半端じゃない。
十メートル先が見えなくなる。
ひどい時は、五メートルという視界も保証できない。
あっという間に、道は洪水の川となり、エンジンに水が入りやすいアメ車は走れず、立ち往生することとなる。
走れる車はフォルクスワーゲンと日本のダットサンだけだ。
エンストを起こすアメ車を尻目に、スコールに負けず、水を蹴飛ばしながら快調に走っていく我がダットサンを見て、僕たち日本人はニンマリする。
どうだ、日本の車は!、アメ車なんかに負けるものか、と思わず喝采したくなる。
外国に居ると、人は愛国者になる。

そのメリダの郊外にある国際空港に初めて降り立ったのは、千九百七十八年、昭和で言えば昭和五十三年、今から三十二年前の七月二十日のことだ。
僕は二十八歳と十一ヶ月の『若者』だった。
飛行機のタラップを降りた僕たちを凄い蒸し暑さがいきなり襲った。
蒸し暑さに襲撃された僕たちは大いに戸惑った。
僕の眼鏡は完璧に曇り、視界はゼロとなった。
ハンカチで何度拭いてもすぐ曇る。
お手上げだった。
誰かが叫ぶように、言った。
「とんでもないところだ、このまま、メキシコシティにユーターンしようぜ」
その声を聞いて、皆笑ったが、それは全員の本音であった。
笑った仲間は十五人居た。
日本の大学を休学して留学してきた学生が十人、社会人研修生が五人という構成だった。
僕は会社から派遣されて来た社会人研修生だった。
社会人研修生は皆、勤務先から十ヶ月という研修期間を与えられて、ここへ来た。
ホームステイ先のメキシコ人家族から温かく迎えられたその夜から、メリダでの僕たちの暮らしが始まった。

七月末、僕たちは指定された時間に、ユカタン州立大学の人類学科校舎に集まった。
夏季休暇に入っており、学生の姿はほとんど無かったが、僕たちに対する留学・研修オリエンテーションがあり、その後引き続いて、社会人研修生に対してはスペイン語の特別レッスンも行なわれた。
スペイン語に関しては、日本で外務省主催の初級の導入講座があったが、僕たち社会人研修生の語学力は貧弱そのものだった。
全員が学卒だったが、スペイン語に馴染みがある者は誰も居なかった。
僕たち社会人研修生の他、十名ほどの大学生グループもこのメリダのユカタン州立大学には配属されていた。
彼らは日本の大学ではスペイン語科の現役の学生であり、外務省が行なう留学生の試験を合格して来ていたが、僕たちは自分の意志ではなく、皆勤務先の業務命令でここに来た者ばかりだ。
学生は流暢に話すことができたが、僕たちは全然話せなかった。
英語で何とかなるはずだ、と初めは、たかをくくっていた。
が、それはとんでもない誤りであることがすぐ判った。
米国の隣にあるこの国は、実は語学的には隣国とは随分と遠いところに居ることが判った。
メリダに着いた僕たち社会人研修生は、翌日、ホームステイ先から『ソカロ』と呼ばれる街の中心にある広場に集まった。
ソカロには決まって荘厳なカテドラル(カトリック寺院)がある。
広場の木陰のベンチに座って、僕たちは、足下に来て僕たちをつぶらな眼で見上げるリスを、茫然と見ていた。
死ぬほど、暑かった。
木陰に座っていても、額にはとめどなく汗が滲み出た。
「こうして座っていても、しょうがない。昼飯にしよう」
うんざりした口調で誰かが言った。
ビールでも飲みながら、食事をしようということになり、近くのレストランに入った。
メニューが置かれてあった。
スペイン語の下に英語が書かれてあった。
小柄で精悍な浅黒い顔立ちをしたウエイターがやって来た。
僕たちは英語で注文した。
しかし、通じなかった。
英語に堪能な者が注文したが、全然通じなかった。
僕たちは一人ずつ、メニューを指差しながら注文せざるを得なかった。
これでは、飯も食えない。
情けなかった。
ステーキを注文したはずなのに、薄っぺらな焼肉しか来ない。
スペイン語、とにかく勉強しようや、と僕たちは薄い肉を頬張りながら、心からそう決心した。

スペイン語の授業の後、僕たちは校舎の片隅にあるプールサイドの芝生に寝そべり、空を見ていた。
これから、どうなることやら、僕たちは不安だった。
仲間の学生たちは既にメキシコ人の学生たちと屈託なく会話を交わし、談笑していた。
しかし、言葉が話せない僕たち社会人研修生はまるで『壁の花』だった。
メキシコ人学生たちも敬遠して、僕たちには寄って来ない。
雲一つなく、綺麗に晴れわたったユカタンの青空を見ながら、僕たちの心は暗く憂鬱だった。
「ビエン・ベニード・ア・ユカタン(ユカタンへ、ようこそ))
声がした。
空の上の方から、快活な声が聞こえて来た。
見ると、一人の男が微笑みながら立っていた。
青い眼をしていた。
青い空から降臨した天使のように見えた。
しかし、その天使はTシャツを着て、擦り切れたジーパンを穿いていた。
英語を話す若者だった。
その男がフェリーペだった。
起き上った僕たちに、彼は自己紹介した。
聞き取り易い速度で英語を話した。
名前はフィリップ・ルース、この人類学教室の博士課程の学生、米国からこの街に来て三年になる、マヤ文明に関する研究をしている、故郷はノース・カロライナ州の小さな町、この学科の事務所の二階の部屋を借りて暮らしている、家賃がタダなのがありがたい、といったようなことを話した。
僕たちは、この小柄で少し禿げ上がった額をしている米国人に好意を感じた。
フィリップ、と僕たちが言うと、ここはスペイン語の国だ、スペイン語風にフェリーペと呼んでくれ、と彼は言った。
そして、フェリーペは僕たちの友達になった。

僕たち。
五人居た。
コンピュータ・プログラマーの『ヒロ』、二十七歳のヒョロッと背の高い若者だった。
酔うと、眼鏡を外し、ホラ、僕って、あのゲゲゲの鬼太郎に出てくる『ねずみ男』に似ているでしょう、と腰を妖しくくねらせながら踊り、陽気に話す男だった。
重電メーカーに勤務している技術者の『テツ』、二十六歳の痩せた若者だった。
メリダに着いてから、口髭を生やし、ギターを抱えて唄う姿はアイ・ジョージとそっくりの男だった。
キャリア公務員の『シン』、二十五歳と一番若かったが、いつも髪を七・三にきちんと分けている、見るからに優等生の若者だった。
日本人離れした見事な英語を話す男だった。
洋酒メーカーに勤務している営業マンの『ノブ』、二十七歳の背が高い若者だった。
興奮して夢中になると、関西弁が飛び出す賑やかな男だった。
そして、材料メーカーの技術者の僕。
結婚しているのは僕だけで、後は二十五歳から二十七歳までの青年で全員独身だった。

「去年、交換留学生の中に、女子学生が三人居てね」
フェリーペが前年の日本人留学生に関して話をしたことがある。
十名の内、女子学生が三人おり、中に、東大から来た女の子も居た、と言う。
その女の子は人類学を専攻している女の子で、こちらに居る間、自分とノビオ・ノビアの関係になった、と自慢げに語っていた。
ノビオ・ノビアの関係と言えば、『恋人同士』という意味だ。
「ちょっと、信じられないよなあ」
『ヒロ』が眼を丸くしながら言った。
僕たちはその話に興味を持った。
で、それから、どうした、と訊いてみた。
僕たちは興味津々だった。
今年の六月頃までは文通をしていたが、いつの間にか、手紙が来なくなった、と答えた。
少し、悲しそうな顔をした。
その答えを聞いて、『シン』が妙に悟りきった顔で、右手で黒縁の眼鏡をずり上げながら、英語で言った。
日本には、『会うは別れの始め』とか『去る者、日々に疎し』という諺がある、と。
その諺を聞いて、フェリーペは両手を広げ、肩を竦めた。
何やら、スペイン語で呟いた。
当時の僕たちの語学力では、その呟きの意味は理解できなかったが、その後判った。
教授を始め、多くのメキシコ人が同じ仕草で呟くシーンに何度か遭遇したからだ。
「アスィ・エス・ラ・ビーダ」と彼は呟いたのだ。
『これが人生だ』とか『人生って、こんなものさ』という意味だ。

『シン』は小学生の頃、米国に居た。
父親の仕事の関係で、五年ほど居たらしい。
そのため、英語を自由自在に話すことができた。
しかし、いいことばかりではない。
彼の話に依れば、帰国してから日本語には苦労したらしい。
「小学生で習うべき、易しい漢字も全然書けなかったんです」
簡単な漢字も書けず、いろいろと恥をかいた、ということだ。
しかし、神奈川の名門高校を経て、現役で東大の法学部に入り、官僚となった。
司法試験も受けましたが、そちらは駄目でした、と言っていた。
そして、今回、所属省庁が日墨交換研修制度に基づいてメキシコ人研修生を受け入れた関係で、指名されてここに来た、と話していた。
よほど、暇そうに見えたんだろう、と僕たちから冷やかされた。
先輩が作成する文書のコピーをやらされているよりはましです、と言っていた。
本省に、女の子の事務員は少なく、キャリアと言えども、後輩は先輩官僚の下働きをせざるを得ない、清書、コピーのサービスは当たり前なんです、とも言っていた。
僕を含め、他の四人も同じ事情、つまり交換研修生という形でここに来た。
メリダには、学生が十人、僕たち社会人研修生が五人配属され、計十五人のグループで来た。
他、メキシコシティ、グアダラハラ、グアナフアト、プエブラ、ベラクルスといったところに交換留学研修の仲間が派遣されており、総数は百人を越えていた。
現在は大分縮小しているという話だが、メキシコ大統領の肝煎りで始められたこの研修プログラムは、当時は二国間の交換留学としては最大規模の交換留学研修制度だった。

研修といっても、仕事関係の研修は何も無かった。
日本に来るメキシコ人はそれぞれの希望に応じて企業に配属され、実地研修を受けたが、メキシコに派遣された日本人は大部分、一般大学の聴講生といった扱いを受けたのである。
気楽な身分であった。
メキシコに来る前、本社の人事部に挨拶に行った僕に対して、担当者は言った。
「十ヶ月間、体を壊さず、スペイン語を十分学んで帰って来い」
少し羨ましそうな顔をしていた。
その顔は、十ヶ月のロング・バケーションだよ、楽しみな、と言っていた。
僕たちには、日本の給料の他、メキシコ政府から奨学金も支給されていた。
僕は結婚していたが、独身の四人にとって、金もあり、時間もあり、しかも自由な異国での暮らしだ。
気の赴くまま、気儘な暮らしを満喫し、一度しか無い青春を謳歌するのが当たり前と言えただろう。

『ノブ』が仲間から金を集め、中古のダットサンを安く買うまで、僕たちはフェリーペの車に乗って、いろいろなところに行った。
車はシボレーのフルサイズド・カーで六人が結構楽に乗れた。
車は持っていたが、フェリーペは貧乏学生だった。
いつも、缶詰と豆ばかり食っていた。
それで、車に乗せてもらう代わりに、外出の時は、食事代とガソリン代は僕たちが割り勘でもつこととした。
フェリーペはスペイン語に堪能であり、僕たちは英語を使わず、極力スペイン語で会話するようにした。
フェリーペは親切な、いい先生だった。
判らない言い回しに関しては、『シン』がフェリーペの英語の説明を日本語に翻訳した。
ホームステイ先での日常的な会話、大学での僕たち社会人研修生のためのスペイン語特別講座、フェリーペとの会話を通して、僕たちのスペイン語はみるみる上達していった。
皆、ホームステイ先の部屋の机に向かい、大学受験並みに必死に勉強した。
『ヒロ』はこんなに勉強したのは高校以来だと真剣な顔をして話していた。
彼は結構凝り性で、メリダの本屋をまわり、外国人向けのスペイン語読本を何冊か買って、勉強していた。
僕も、日本から持ってきた和西辞典を一日十ページ、最低でも読むこととし、二ヶ月で完読した。
今でも、その辞書を持っているが、赤ボールペンの傍線でどのページも赤く染まっている。
しかし、今捲ってみると、ほとんどが見たことのない新しい単語のように見えてしまう。
三十年という時の長さを感じてしまうのだ。
とにかく、僕たちは必死にスペイン語を勉強した。
一ヶ月も経たない内に、レストランで料理を注文する際、言葉が通じなくて困る、という事態は無くなった。
時々は、カマレロ(ウエイター)をからかうまでに、僕たちの語学力は順調に上達していった。
よく学び、よく遊ぶ、ということがそのまま実践できるような環境だった。
「来年の春、日本に帰る頃には新聞だって読めるようになっているぜ、ほんとに」
『ヒロ』がそんな調子のいいことを言っていた。

八月、暑く、最高気温は四十度近い猛暑日が続いた。
スコールが去り、少し涼しくなる夕方、僕たちはプールサイドにある野外バスケットボールのコートで、フェリーペとバスケットボールをして遊んだ。
フェリーペは当時三十歳で少し腹は出ていたが、機敏な動きをするスポーツマンだった。
汗をかいた後は、プールに飛び込んで体を冷やした。
その後は、事務所二階のフェリーペの部屋でビールを飲みながら雑談して過ごした。
「ブリッジはできるかい?」
フェリーペはブリッジというトランプ競技の達人でブリッジをやりたがったが、僕たちの中でできる者は居らず、フェリーペは残念そうな顔をしていた。
「じゃ、ポーカーでもしようか。ポーカーなら、できるんだろう」
結局、トランプ競技としては、ポーカーをして遊んだ。

一枚の写真がある。
平泳ぎで泳いでいる僕がプールの中で顔を上げている写真だ。
写したのは、確かフェリーペだった。
なかなかよく撮れている写真で、僕のお気に入りだ。
カメラはNIKONの一眼レフだ。
このカメラを見たホームステイ先のご主人は、倍で買うから売ってくれとしつこく言ってきたが、僕は売らなかった。
とにかく、あの当時、NIKONの人気は絶大だった。
その写真はアルミの額縁に納められて、僕の机の上に今も置かれている。
しかし、見るたびに、がっかりすることがある。
写真の僕は、髪の毛が豊富な若者だ。
この髪の毛は一体、どこに消えてしまったのだろうか。

八月末、僕たちはフェリーペの車で、カリブ海に行った。
メリダからは四時間ほどで行けた。
道は限りなく一直線で、高速バスを追い抜きながら快調に走った。
今はメキシコ随一の国際リゾート地となっているカンクンは、当時はまだ、ホテルが数軒建設中といった程度で観光地としては全く整備されていなかった。
僕たちはカンクンを素通りし、近くの港から遊覧船に乗り、コスメル、イスラ・ムヘーレスといったカリブ海の島に渡り、磯で熱帯魚と戯れながら二日ほど遊んだ。
沖縄の海もいいが、このカリブ海はまた格別だなあ、とパナマ帽をあみだに被った『テツ』が言った。
「沖縄の海も綺麗だけど、ここの方がずっと綺麗かも知れない」
フェリーペが同意した。
日本に行ったことがあるのか、と訊いた。
少し、間を置いてフェリーペが言った。
軍隊に居た頃、沖縄には二回ほど行っている、と言った。
ベトナム戦争の頃か、と重ねて訊いた。
フェリーペの顔が少し曇った。
そして、そうだ、と言ったきり、フェリーペは黙りこくった。
僕たちはフェリーペの軍隊時代に興味を持ちいろいろと訊きたかったが、フェリーペの顔を見て断念した。
言いたくない、という顔をしていた。
その後、フェリーペの口から兵役に関する話は出なかった。
そして、僕たちも訊かなかった。

カリブ海。
昼はエメラルドグリーンに輝くカリブの海は、夕方になると、虹色のメキシカン・オパールの海になる。
僕たちは浜辺に腰を下ろし、虹色に煌めきながら暮れていく海と壮麗な日没を観た。
誰も無言で海を眺めていた。
言葉は必要なかった。

『ヒロ』が中耳炎を起こし、一週間ほど寝込んだことがある。
カリブ海から帰った直後だった。
帰ってくる車の中では、『ヒロ』は元気だった。
『テカテ』という名の缶ビールを二缶ほど開けていた。
スィエリート・リンドを唄いながら、ご機嫌だった。
「また、いつか、カリブに行きましょう。今度は、女の子を誘ってね」
ご機嫌だったが、家に着いた夜から高熱を発した。
翌朝、ホームステイ先のセニョーラ(奥さん)から僕に電話が入った。
僕たちは放課後、『ヒロ』を見舞った。
『ヒロ』は真っ赤な顔をして苦しそうに唸っていた。
医者の見立てでは、中耳炎だという。
カリブ海で泳いだせいか、と僕たちは思った。
幸い、内耳炎には至らず、『ヒロ』は一週間後に学校に出て来た。
早速、快気祝いを学校近くの中華レストランで開いた。
『ヒロ』は用心のためか、酒を控え、食欲を満たすほうに専念した。
『ヒロ』は体力回復とばかり、僕たちがびっくりするくらい、よく食べた。
肉に、チレ・アバネロ(ハバネロ、タバスコ)をたっぷりとかけて食べていた。
器用に箸を使いながら、フェリーペが冗談を言った。
「『ヒロ』は耳でカリブのチレ・アバネロを食べたんだろう」
『ヒロ』を除く全員がまず笑い出し、ついで、しょうがなく『ヒロ』も、ひでえなあ、と言いながら笑った。

九月、まだ暑く、スコールも毎日のように襲来する。
言葉にも慣れ、余裕ができた僕たちは放課後の遊びを模索するようになった。
よく学び、よく遊び、を実践しようというのが当時の僕たち全員のスローガンだった。
麻雀はどうだろうか、ということになった。
五人で遊ぶには適した遊びと言えた。
ただ、メリダという田舎の街に麻雀牌なぞ売る店は無かった。
しかし、メキシコシティに行けば、欲しいものは何でも手に入るということは分かっており、丁度良い機会が訪れた。
『ノブ』の会社は従業員に面倒見の良い会社で、いろいろと便宜を図ってくれる会社だった。
『ノブ』は会社から二ヶ月に一度はメキシコシティの営業所に来て、研修状況を報告するよう、義務付けられていた。
これは、メリダのような地方の田舎の都市に配属された研修生にはありがたい制度だった。
旅費とか宿泊費は当然会社持ちであり、メリダに無いものの買出しには、絶好の機会となった。
「シティで麻雀牌と、カリフォルニア米を買ってきますよ。春菊とか豆腐もあれば買ってきますから、女子学生を呼んでスキヤキパーティーでも豪勢にパァーとやりましょう」
『ノブ』がメキシコシティに行って麻雀牌を買って来た。
金は皆で出し合った。
しかし、麻雀をする場所がない。
ホームステイ先でうるさい麻雀をするのは気が引ける。
どこか、いい場所がないか、みんなで考えた。
「気兼ねなく、麻雀ができる、そんな場所がないかなあ」
いい場所があった。
フェリーペを巻き込み、フェリーペの部屋で麻雀をすることとした。
しかし、麻雀の遊びかたを外国人に教えるのは難しい。
でも、適任者が居た。
「僕に任せてください。ただ、僕は点数の数えかたができませんから、どなたか教えてください」
英語の達人、『シン』が居た。
『シン』が英語で麻雀の遊びかたをフェリーペに教えた。
ブリッジの達人だったフェリーペは複雑なゲームが好きだった。
そして、麻雀というゲームにすっかり夢中になった。
好きこそ、ものの上手なれ、という言葉は実に的を得ている。
『シン』の説明をノートにメモしながら勉強したフェリーペはなかなかの打ち手となった。
スペイン語の授業の後、教室のドアを開けると、フェリーペが微笑みながら、揉み手をして立っている、そんな日々が続いた。

九月中旬、フェリーペの車で、マヤの遺跡を見物した。
カバー遺跡、ウシュマル遺跡とチチェンイッツァ遺跡と僕たちはメリダ近くのマヤ遺跡を片っ端から廻った。
考古学者の卵であるフェリーペの説明は楽しかった。
「日本の神道も多神教だけれど、マヤも劣らず、多神教だよ」
マヤの宗教は多神教で、実に多くの神々がいる、と彼は話した。
自殺の神も居る、と言う。
嘘だろう、と僕たちは思ったが、本当に居た。
『イシュタブ』という名のこの女神は、首をくくった縊死の姿で描かれている。
半ば腐乱した姿で描かれるこの女神は、自殺した者を天国に導く女神なのだ。
死後は天国に行ける、これは何にもましてありがたいことだ。
しかし、天国に行ける死者はマヤの場合、限定されている。
王を含む貴族、神官、他の部族との闘いで戦死した者、生贄となって神に捧げられた者、お産で死んだ産婦、そして、自殺した者だけなのだ。
寿命を全うし、老衰で死んだ者、病気で死んだ者や、戦争以外の怪我で死んだ者は、死んでも天国には行けない。
一度、地下に落ちて、地下の世界で厳しく苛酷な修行を積まない限り、天国には行けないとされている。
自殺を奨励しているのか、と訊くと、フェリーペは笑って言った。
「そうだよ、そうとしか思えない」

マヤにはいろいろと謎が多い。
今、『二〇十二年』が取沙汰されている。
マヤの長期暦は五千二百年を周期としており、丁度その満期が二千十二年の十二月二十一日から二十三日にあたるらしい。
満期は即ち、人類の終わりを意味するとか、地球滅亡とか喧伝され、地殻変動による人類滅亡の映画まで作られている。
僕たちが居た頃は、今から三十二年も前のことだが、そのような話題は一切聞いたことがなかった。
第一、マヤの絵文字(神聖文字と呼ばれている文字)すらあまり解読されてはいなかった。
解読された文字は一割とも、せいぜい二割とも云っていた時代だ。
今は、もう既に七割か八割は解読されていると云う。
解読されるにつれて、理解不足故の謎は段々少なくなっていくも
のだ。
マヤ文明の突然の終焉、つまり、マヤ都市国家の急激な衰退すら、現在では謎では無く、長期間続いた大旱魃であったという説が気候変動を示すデータを添えて科学的に提示されている。
長期暦が満期となっても、それは、『終わり』ではなく、『始まり』と見たほうがいい。
しかし、『終わりの始まり』であってはならない。
地球温暖化に伴う地球的規模の環境破壊という最悪事態、『地球の終わりの始まり』であってはならないのだ。
『地球共同体の叡智の始まり』であって欲しい。

マヤには予言の書と呼ばれる書物がある。
『チラム・バラムの書』と呼ばれている書物だ。
別名、『豹の予言書』とも云われる。
その中に、スペイン人による征服を予言したとされる詩もある。

食べよ、食べるがいい。汝にはパンもある。
飲め、飲むがいい。汝には水もある。
あの日、汝はこの土地を手に入れたのである。
あの日、大地は輝かしい光に満ちていた。
あの日、雲が湧きあがった。
あの日、山がおこった。
あの日、一人の強者がこの地を襲った。
あの日、すべてのものが廃墟と化した。
あの日、しなやかな木の葉は散っていった。
あの日、死者の眼は閉ざされた。
あの日、木には三つの死体がかけられていた。
あの日、老人も幼児もその木に吊るされた。
あの日、戦いの旗が高く掲げられた。
そして、彼らは森の奥深く散り散りになっていったのである。
(マイケル・D・コウ著、『マヤ』より 寺田和夫・加藤泰建訳)

この詩は、平和に暮らしていたマヤの地をスペイン人征服者が襲い、殺戮がなされ、マヤ人が住み慣れた土地を捨て、密林の奥深く隠れていく様を予言していると一般的には解釈されている。
果たして、そうか。
それだけの意味ならば、それは過去に起こったことであり、未来には適用されないはずだ。
しかし、地球温暖化に伴う大規模自然災害が平和を謳歌している人々を襲う、その予言であっても何ら不思議は感じない時代、と現代はなってしまっている。

マヤ文明古典期とされるウシュマルの遺跡は美しい。
チチェンイッツァ遺跡もいいが、僕はウシュマル遺跡のほうが好きだった。
ウシュマル遺跡では、カルメンとバルタサルに会った。
『魔法使いのピラミッド』を過ぎて少し行ったところに、バルタサルのテントがあった。
テントと言っても、大きなテントだ。
日本では運動会の時、休憩場所に建てられるような大きなテントだ。
フェリーペに案内されて僕たちが行くと、テントの中でバルタサルが笑って立っていた。
「ウシュマル遺跡にようこそ。イグアナも君たちを歓迎しているよ」
バルタサルの言うように、ウシュマル遺跡ではイグアナをよく見かけた。
鶏肉みたいな味がすると云われていたが、滞在中、食べる機会は無かった。
バルタサルはフェリーペと同じ博士課程の学生で、その時はウシュマル遺跡に寝泊まりして発掘調査に当たっていた。
テントの中のテーブルには発掘採取された石塊が分類整理されていた。
バルタサルはユダヤ系の血を引くメキシコ人だった。
聡明な顔立ちをした、このバルタサルは将来立派な考古学者になる、とフェリーペは言っていた。
やがて、カルメンもリュックサックを背負って現われた。
カルメンはスペイン系の血を引く綺麗な女子学生だった。
色は白く、ほとんど白人の顔をしていた。
大学院生の彼女は留学した日本人学生に対して、マヤ考古学の講義を担当していた。
講義の内容もそれなりに面白いが、冷房の効かない教室で少し紅潮し、汗を掻きながら熱心に講義をする彼女は妙に官能的で色っぽく、つい見惚れてしまうと僕たちに話す日本人学生も居た。
フェリーペもカルメンが好きだった。
フェリーペは彼女に対する愛情を努めて隠そうとしていたが、誰の目にもフェリーペの愛情は明らかだった。
この時も、彼女がにっこりと微笑みながら現われると、フェリーペは背筋を伸ばし、彼女を迎えた。
それは、あたかも女王を迎える騎士のような感じを僕たちに与えた。
フェリーペは彼女にぞっこん惚れているなあ、見たかよ、フェリーペのあの態度、まるで思い姫に仕える騎士というか従者だぜ、と帰りの車の中で、『ヒロ』が日本語で呟いた。
えっ、今なんて言った?、とフェリーペが運転しながら、スペイン語で訊いた。
フェリーペという名前が出たので、彼は自分のことが話題にされていると思ったのだ。
『テツ』が気を利かせて言った。
フェリーペとの今夜の夕食は何にしようか、と話していただけだよ、と。
口髭が似合う彼が言うと、嘘でも本当らしく聞こえたものだった。

カルメンにはノビオ(恋人)が居た。
アレハンドロという同じ修士課程に学ぶ同級生だった。
メリダの人間には珍しく、大柄でがっしりとした体格をしていた。
しかし、今日の感じでは、カルメンの気持ちはバルタサルに移りつつあるようだった。
バルタサルと話す時の彼女の顔は輝いていた。
そう、僕には思われた。
アレハンドロは押し出しの良い男だが、どこか知性に欠けているような、妙に軽いところがあった。
一方、バルタサルは全身これ知性の塊りといった男だ。
カルメンはその知性に惚れたのかも知れない、と僕は思った。
バルタサルとカルメンに別れを告げ、僕たちはウシュマル遺跡を後にした。
何気なく後ろを振り返ったら、フェリーペが俯き加減に歩いていた。
夕焼けの空の下で、フェリーペの顔は少し寂しげに僕には見えた。

十月になった。
雨季の季節は去った。
この街はこれから四月までの半年、一番良い季節を迎える。
日本には明確な四季があるが、ここには秋と冬がない。
あるのは、夏と春だけだ。
十月になり、春を迎えた僕たちは旅に出た。
車で片道、十時間は越える旅だ。
「パレンケに行こうぜ。フェリーペを誘ってさ」
誰かが言い出したのがきっかけだった。
パレンケ!
マヤの至宝と言われる遺跡だ。
食料品を一杯買い込み、フェリーペの車のトランクに詰め込んで、僕たちのパレンケへの旅は始まった。
道はとにかく真っ直ぐで、一直線に造られている。
不思議なことが起こった。
快適な速度で走る車の前方に、急に海が見えた。
「おかしいな、こんなところに海があるなんて」
『ノブ』がコロナ・ビールを飲みながら、素っ頓狂な声を挙げた。
確かに、前方に見えるのは海だ。
太陽に照らされて、煌めく海が見える。
キラキラと輝いている。
どうやら、船も通っているらしい。
「フェリーペ!、道は大丈夫かい、間違っていないかい?」
「カンペチェに行く道を通っているんじゃないのかい?」
間違っていないよ、と言いながら、フェリーペはニヤニヤと笑っていた。
その内、妙なことに気付いた。
車は猛スピードで走っており、見えている風景に近づいているはずなのに、一向に遠くに見えるだけなのだ。
『テツ』が確信ありげな口調で言った。
「判ったぞ、これは蜃気楼だ」
「フェリーペ、これはミラージュかい?」
と、『シン』が言い、フェリーペが頷いた。
スペイン語では、エスペヒッスモと言うんだ、とフェリーペが僕たちに言った。
僕たちは、噂に聞いていた蜃気楼をじっと見ていたが、その内にいつの間にか、見えていた海は姿を消した。
車は快調に、内陸の密林に向って走っていた。

パレンケに着いた。
平原の中に遺跡の建物が散在するウシュマル遺跡、チチェンイッツァ遺跡と比べ、鬱蒼と繁った小高い丘に抱きかかえられるように存在するこのパレンケ遺跡は一層神秘的な印象を与える。
『碑銘の神殿ピラミッド』に登り、地下の階段を下りて、宇宙船を運転しているように見える石盤レリーフを観た。
僕たちはフェリーペの説明を聴きながら、パレンケ遺跡を歩いた。
ここ高温多湿なユカタン地方では、一旦放棄された畑は十年で密林に化すと云われている。
ユカタンには本来、小高い丘などというものはなく、あちらこちらに見える小高い丘は全て樹木に覆われた神殿ピラミッドであると断定してもよい、と彼は話していた。
密林は全てを覆い尽くす。
緑一色、ここでは緑は決して優しい色ではなく、野蛮で暴力的ですらある。
『宮殿の塔』と呼ばれる高い塔に登り、濃密な緑に囲まれた周囲の密林を見渡した僕は、『緑』の恐怖をひしひしと感じた。
パレンケ遺跡見物を終え、帰路に着いた僕たちは緑の地平線に沈む壮大な日没を観た。
途中、車の故障で二時間ほど道草を食ったものの、僕たちは和気藹々とメリダに帰った。
残った食料品は全てフェリーペの食料品となり、フェリーペの部屋の冷蔵庫に保管された。
当分、フェリーペが痩せることはないだろう。

十一月。
「プログレッソに行く途中に、ゴルフ場があるんだ。ちょっと、やってみないか」
遊び好きな男、『ノブ』が言い出した。
僕たちは新しい刺激を求めていた。
そして、この月は僕たちにとって、ゴルフの月となった。
『ノブ』が買った車で僕たちは、メリダ郊外のゴルフ場に行き、週に三日はコースを廻った。
授業が済んだ後、僕たちは急いでそのゴルフ場に行き、一ラウンド廻るのが日課となった。
『ノブ』と『テツ』はゴルフ経験者だったが、『シン』、『ヒロ』そして僕はゴルフの経験がなく、ここで初めてクラブを握った。
僕たちは夢中になった。
ゴルフ用の手袋がメリダ市内では見つからず、車の運転用手袋を買って、代用品として左手に嵌めてプレーした。
フェリーペは一、二回ほど僕たちに付き合ったが、その内、同行しなくなった。
いくら何でも、遊び過ぎだろうとフェリーペは思っていたのかも知れない。
博士論文を仕上げる、それが僕たちの誘いを断るフエリーペの理由だった。
僕たちは千円ほど払って、そこのメンバーとなり、貸しクラブと靴を借りてプレイした。
キャディとしては少年が僕たちに付き、ゴルフバッグを担いだ。
十二、三歳の少年に重いバッグを担がせる。
僕たちは嫌だった。
「あんな小さな子供に、バッグを担がせて、ゴルフはできないよ」
『テツ』がパナマ帽を手に持って、扇ぎながら言った。
バッグは自分たちで担ぐと倶楽部の支配人に言ったが、規則だと言われてしまった。
少年の稼ぎを奪ってもしょうがない、と僕たちは割り切らざるを得なかった。
或る時、グリーンに上がった少年が、ビボラと叫んで、吃驚したような顔をした。
指さす方向を見ると、蝮のような蛇がカップのすぐ傍で白い腹を見せて死んでいた。
プレイが終わり、千円ほどのプレイ費を払った後、ゴルフ倶楽部のレストランで夕食を摂ることも僕たちの習慣となった。
メキシコはビールが美味い国だ。
いつの間にか、僕たちは飲むビールの銘柄も決めていた。
『ノブ』と『シン』はコロナ、『テツ』はドス・エキス、『ヒロ』はネグラ・モデーロ、そして、僕はボエミアというビールに決めていた。
それぞれ、タコスを二、三個ほどつまみ、軽めの夕食とした。
『ビボラ』。
後で、辞書で調べてみたら、『毒蛇』と記載されていた。

十一月の末、いわゆる『空白の一日、江川事件』を新聞で知った。
学校に行くと、『テツ』が日本の新聞を広げて、怒っていた。
「冗談じゃないよ。こんなことは許されないことだよ」
巨人と江川がずるいことをした、と怒っているのだ。
『ヒロ』が同調して非難する中で、僕は秘かに江川に好意を寄せている自分に気が付いた。
無意識だったが、僕は江川の弁護をしていた。
理由がある。
五年前の夏の甲子園。
僕は大学院修士課程二年の夏季休暇で、旅をしていた。
食堂で昼食を取り、ふと見上げたら、壁掛けのテレビが甲子園の試合を中継していた。
画面には、作新学院と銚子商の試合が映っていた。
〇対〇という緊迫した試合展開の中で、延長戦に入って行った。
怪物と呼ばれた江川と、後日プロに入った土屋との速球投手同士の投げ合いだった。
かなり、雨が降っていた。
その日の江川は明らかに調子が悪かった。
十一回のサヨナラのピンチを辛くも凌いだ江川は十二回裏もピンチを迎えていた。
場面は一死満塁でツー・スリーとなった。
次に投げる球がボールとなった瞬間、江川の夏は終る。
僕は思わず、テレビの画面に見入った。
投げる直前、江川は内野手全員をマウンドに集め、何やら皆に告げていた。
投げる球のコースと守備位置を確認したのかも知れない、とその時は思った。
内野手全員が元の位置に戻り、江川は振りかぶって、投げた。
渾身の速球は、しかし、高目に外れ、その瞬間、サヨナラ押し出し四球となり、作新学院の夏は二回戦で終わった。
江川の怪物振りに好意を抱いていた僕は、何とも言えない、落胆と失望を味わった。
怪物が怪物でなくなった瞬間を見たように、がっかりした。
しかし、あの時、江川は集まった内野手全員に何を言ったのであろうか。
それが、僕の関心事となった。
後で、判った。
江川はあの時、投げたい球を思いっきり投げる、それでいいか、と仲間に語り、仲間は、思いっきり投げろ、お前のおかげでここまで来れたのだから、と励ましたそうだ。
素敵な話だ。
そのやりとりを知った瞬間、僕は江川とその仲間たちがとても好きになった。

妻がこちらに来ることとなった。
来年の一月に来て、メリダで暮らし、四月に一緒に帰ることとした。
当時、一ドルは二百十円という為替レートだった。
変動相場制に移行して一年足らずで、二百九十円から八十円も高い円高となっていた。
但し、航空運賃はそれほど安くはならず、成田・メキシコシティまでの日本航空の往復運賃は二十五、六万円という高額運賃だった。
僕の当時の給料よりはるかに高額だった。
二十万円という給料を貰う身分になりたいと思っていた頃の話だ。
メリダから妻に初めての国際電話を入れた。
当時は、国際電話に関しては、一般の公衆電話からは無理で、電話会社のオフィスに行って、通話を申し込まなければならなかった。
五ヶ月ぶりに聞く妻の声は結構明るかった。
僕は安心して、メキシコシティへの迎えとか、メリダでの暮らしぶりとか、いろんなことを話した。
最後に、妻から何かリクエストがあれば、持っていくよ、と言われた。
日本のポップスが聴きたかった。
よしだたくろう、とか、井上陽水のカセットテープは持参してきたが、聞き飽きていた。
女の子のグループのカセットテープが欲しかった。
僕は妻に、その年の春に解散したキャンディーズのテープを持参するよう頼んだ。
僕のリクエストを聞いて、電話口で笑う妻の顔が容易に想像できた。
国際電話の料金は一万円を越えていた。
財布を取り出し、金を支払う僕の前で、受付の女の子が目を丸くしていた。
当時の一万円という金額はメキシコ人の一週間分の給料に匹敵する金額だったのだ。

十二月になった。
フェリーペとの別れは突然来た。
『突然』という言葉は『別れ』によく似合う。
僕たちは、サンタ・ルシア教会近くのバル(酒場)で飲んでいた。
流しのバンドが来て、ムードたっぷりにユカタン地方のカンシオン(唄)を何曲か歌って去っていった。
メキシコの歌は全て『愛』の歌だ。
恋人同士の愛、夫婦としての愛、初恋、失恋、報われざる愛、恋敵への嫉妬、恋人を失った男の悲哀、人生における愛の在るべき姿、とにかく愛の歌しか無い。
それらの愛の歌をユカタンの流しは流麗なメロディーにのせて、極力甘い声で唄う。
テキーラにレモンを絞り、グラスの縁に塩を付けたマルガリータというカクテルを僕は好んで飲んだ。
マルガリータで少し酔い、陶然とした心に、ユカタンのカンシオンは少し悲しげな顔をして、いつもこっそりと忍び込んでくるのだ。
酒場には女性も結構来る。
この酒場は女性客に一輪の薔薇を贈る。
薔薇は赤い薔薇で、一輪で十分だ。
妻が来たら、一度はここに連れてきてやろう、と僕は思っていた。
店のマスターから一輪の薔薇を貰い、ニッコリと微笑む妻。
その想像は悪くなかった。
フェリーペが何か言った。
珍しく、真剣な顔をしていた。
僕たちはグラスを置き、フェリーペを見詰めた。
改まった顔をしてフェリーペは、クリスマス前に米国に帰国する、と僕たちに告げた。

いよいよ、明日帰国するという日に、僕たちはフェリーペを囲んで麻雀をした。
送別麻雀だった。
六人の場合、半チャン勝負で三位と四位が抜けるというのが僕たちのいつものルールだったが、その時は、フェリーペは順位に関わりなく、不動のレギュラーとなった。
僕たち五人は半チャン毎にテラ銭ということでお金を封筒に入れた。
誰が言い出したわけでもないし、事前に決めたわけでもないが、フェリーペのリーチには誰もおりず、「強気」、「強気」と言いながら、危険牌を切り続けた。
昼から始め、終ったのは夜の九時近かった。
点数を数えたら、フェリーペが圧倒的に勝った。
僕が代表して、「勝者は全てを独占する」と言いながら、テラ銭が入った封筒をフェリーペに渡した。
フェリーペは渡された封筒を受け取りながら、暫く黙っていた。
その沈黙は彼の『思い』だったのだろう。
やがて、少しかすれた声で、感謝の言葉を言った。
青い眼が潤んでいた。
その後、僕たちはフェリーペを連れ出し、夜の街に出た。
フェリーペが珍しく酔い、僕たちもかなり酔っ払った。

翌日、朝早く、フェリーペは僕たちに別れを告げ、去って行った。
ハグ、というのであろうか、僕たちは照れもせず、フェリーペと抱き合った。
フェリーペには使っていた麻雀セットを贈った。
僕はハグの後、フェリーペに、「アディオス、アミーゴ(さらば、友よ)」と言った。
車から別れの手を振りながら去るフェリーペを僕たちは見えなくなるまで見送った。
僕はもう一度、「アディオス、アミーゴ・ミオ」と心の中で呟いた。
車が見えなくなってから、僕たちは門から校舎に入り、廊下の椅子に腰を下ろした。
皆、何だか気が抜けたような顔をしていた。
『テツ』が呟いた。
「五ヶ月の付き合いだったか、フェリーペが居て、良かった、本当に良かったね」
『テツ』の言葉はその時の僕たち全ての思いを代弁していた。

フェリーペとは社会人研修生五人組としての思い出の他、僕だけの個人的な思い出もある。
メキシコはスペイン同様、カトリックの国で、カトリックならではの風習も残されている。
その一つに、コンパードレ、コンマードレという風習がある。
代父、代母と訳されている。
洗礼式の立会人という意味で使われる言葉らしい。
その後は親戚付き合いとなり、いろんなお祝いに招待されることとなる。
詳しい経緯は知らないが、フェリーペは人類学科の学生同士で学生結婚した夫婦の子供のコンパードレとなっていた。
九月中旬の頃だった。
夏季休暇が終わり、新学期が始まる九月には盛大に祝われるメキシコの記念日がある。
スペインから独立した独立記念日である。
学校もこの前後は休日となる。
ユカタン大学も例外では無く、記念日の九月十六日を挟んで四、五日程度、特別休日となった。
休日で喜ぶのは洋の東西を問わない。
休日前の二、三日は人類学科の校舎も何となく軽やかな空気が漂っていた。
社会人研修生たちもこの休日を利用して、多くは旅に出た。
僕もこの休日を利用して、バスでカンペチェという港町に遊びに行くこととした。
初めての一人旅だった。
カンペチェはユカタン州の隣の州、カンペチェ州の州都であり、メキシコ湾を臨む港町であった。
海賊から殖民都市を防衛する要塞も数多く残されており、歴史遺産に富む古都である。
港町に生まれ育ったせいか、僕は昔から何となく、港を持つ街にノスタルジーを感じていた。
カンペチェに行き、港町の風情を味わい、できれば一泊して、のんびりと市内見物をしてからメリダに戻るつもりでいた。
バス・ターミナルに着き、歩いて中心街に行き、その晩の宿泊のホテルを探そうとした。
しかし、全然、見つからなかった。
十数軒廻ったが、どこも満員ということでにべも無く断られた。
後で知ったことだが、独立記念日に飛び込みでホテルを見つけようとする行為はクレージーな行為であったらしい。
カンペチェのような州都では、独立記念日は盛大に祝賀され、周辺からの見物客でごった返し、信じられないような賑わいを見せるものらしい。
そう言われてみれば、メリダからのバスもほぼ満員であったし、中心街も大勢の人で混雑していた。
僕は一通り、観光の名所を見物して、夕方のバスでメリダに帰った。
翌日の午後、誰か友達でも居ないかと、学校に行ってみた。
学校は閑散としており、用務員のフアンが暇そうな仕草で校舎周辺を箒で掃いているだけだった。
フアンはいい話し相手だった。
若い頃は、キャバレーの用心棒をしていたという話もあり、ごつい体をしていた。
フアンと雑談していたら、フェリーペが現われた。
いつものTシャツでは無く、珍しく、ジャケットを着ていた。
「そんな服を着て、どこに行くつもりだい?」
僕の怪訝そうな問いに、これから、コンパードレとして子供の誕生日のパーティーに行くんだ、都合が良ければ、一緒に来ないか、と彼に誘われた。
マヤの典型的な部落も見ることができるよ、という彼の誘いに乗って、僕も同行することとした。
メリダから車で一時間といったところに、訪問する目的地、マヤの集落があった。
コスモスが群生する野原にその集落はあった。
笑顔で迎える家族に、僕は、誕生日を迎える一歳の赤ん坊にと、日本から持ってきた紙風船と折り紙のセットをプレゼントした。
この紙風船と折り紙のセットは日本を出国する時に、妻が渡してくれたもので、僕はいつも鞄のポケットに入れておいたものだった。
思わぬところで役に立つものだと思った。
折り紙で僕は折鶴を折って、若い夫婦にあげた。
器用な手つきで折っていく様子を彼らは驚嘆の眼差しで見ていた。
その後で、紙風船を膨らまし、コスモスが一面に咲き乱れる庭でポンポンと叩きながら、空中に浮かばせて赤ん坊に見せてやった。
赤、白、ピンクと咲き誇るコスモスの庭の中で、赤、白、黄、青でカラフルに彩色された紙風船が雲ひとつ無い青空にふわりふわりと浮かんでいた。
赤ん坊はどこの国でも同じだ。
小さな拳を握り締めて、キャッ、キャッと喜んで、その紙風船を見詰めていた。
若い父親の両親も僕たちを歓待してくれた。
ウイピルというマヤの民族衣装を着た母親がタコスを作って、僕たちに食べさせてくれた。
タコスの皮をトルティーリャと言い、とうもろこしの粉を石灰水で溶いて団子とし、その団子を掌で叩いて円状に平たく延ばし、一枚ずつ焼いて作る。
焼き立てのトルティーリャの皮に肉、野菜を入れて、最後に辛いチリ・ソースをまぶして、くるりと筒状に丸めて食べるのがタコスという料理だ。
無条件に美味しかった。
二時間ほど過ごしてから、僕たちはメリダに戻った。
ふと、とうもろこしのトルティーリャはフェリーペの苦手だったことを思い出した。
彼はほとんど食べていなかったのである。
彼を誘って、小麦粉のトルティーリャ・タコスもあるレストランに行き、その日の夕食とした。
案の定、フェリーペは旺盛な食欲を示した。
それが、フェリーペに個人的に奢った最初の食事となった。
あの赤ん坊も元気で育っていれば、もう三十歳は過ぎている。
時は人を待たず、こっそりと過ぎていくものだ。

一月、僕はメキシコシティの国際空港で妻を迎えた。
半年ぶりの再会だった。
メキシコシティには一週間ほど滞在し、謎に包まれた遺跡と謂われるテオティワカン遺跡も見物してから、メリダに帰った。
ホームステイ先を出て、学校の近くにアパートを借りて、妻と暮らすこととした。
「夫婦水入らずの生活に、俺たちが入る隙間は無いだろう」
仲間たちとは何となく疎遠になった。
しかし、時々はサンタ・ルシア教会近くの酒場で飲み会を持った。
その都度、同席した妻は店の主人から薔薇の花を一輪貰い、嬉しそうにしていた。
仲間たちは相変わらず、以前のような濃密な関係を維持していたようだが、以前のように頻繁に、僕を誘うことはなくなった。
僕は妻を連れて、いろんなところを旅行して廻った。
僕と妻も、今から思えば、かなり濃密な時間を過ごしていたのだろう。

二月、三月はあっという間に過ぎ去った。
学校での授業は無く、僕は妻を連れて、メキシコ国内を旅行ばかりして過ごした。
ひと月の半分は旅行していたと思う。
旅というものは無形の財産みたいなもので、僕と妻はたくさんの共通の思い出を持つことができた。
今でも時々思い出しながら、妻と話す時がある。
嫌な思い出もあったはずだが、そんなことは綺麗さっぱり忘れてしまい、楽しく懐かしい思い出しか残っていない。
思い出というものはそんなものかも知れない。
辛い思い出は全て風化し、消え去っていくものだ。

四月になり、メキシコシティで日墨研修留学生の解散式がメキシコ政府主催で行われた。
「僕たちも解散式をやりましょう」
学生たちと計画して、メリダグループの解散式をシティの日本料理店で開いた。
僕は妻も連れて行った。
十六人のお別れ会となった。
その後、僕たちは思い思いに日本に帰国した。

『ノブ』は日本に帰って、暫く本社に勤務してから、自分から志願してスペインに赴任し、直営のレストランの店長見習を三年経験した。
その後、またメキシコに赴任し、今度はメキシコシティにある直営レストランの店長になって数年を過ごした。
今は、関連会社の販売部長となっている。
 数年前、メキシコ大使館で開かれたメキシコ関係の講義を聴きに行ったら、『ノブ』が来ていた。
 講義が終わり、大使館の好意で出された酒を飲みながら彼と話をしていたら、UFOの話になった。
 「僕は、何度もUFOを目撃しているんです」
 『ノブ』はメキシコで数回見ていると言った。
カリブ海を臨むホテルの部屋の窓から見たと言う。
勘違いだろう、と僕が言うと、彼はむきになって、見たと言い張る。
『ノブ』ばかりではなく、そう言えば昔も、留学生仲間からUFOを見たという話は何回か聞いたことがある。
メキシコはUFO目撃で有名な国で、UFOの基地があるとも言われている。
ロマンティックな話だが信じられない、本当かな?

『シン』は本省に勤務し、課長補佐となったところで、地方都市の郵便局長として赴任した。
その後の動静は知らなかったが、この間たまたまインターネットで氏名検索を行ったところ、所属官庁を局長で退職して、関連財団法人の専務理事に天下っていた。
官僚はしっかりと天下るものだ、と思った。
ふと、『アスィ・エス・ラ・ビーダ』という言葉が懐かしく蘇って来た。
メリダに来て、ひと月ほど経って、『シン』は変身した。
「眼鏡をやめて、コンタクトにしました」
それまで、黒縁の野暮ったい眼鏡をかけていたが、いつの間にか、サングラスのような、茶色の少しグラデーションのかかった眼鏡を常時かけるようになった。
なかなか似合い、とてもキャリア官僚には見えなくなった。
と同時に、かなり遊び人にもなっていった。
でも、それはメキシコに滞在していた間のことで、研修生仲間の同窓会が十年振りに開かれ、出席した彼は元の黒縁のいかつい眼鏡の官僚に戻っていた。
地方の郵便局長から本省に戻り、部下数百人から、部下二人という境遇に戻りましたよ、と笑っていた。

パナマ帽をあみだに被り、口髭を生やしていた『テツ』は日本に戻って、少ししてから会社を辞め、メキシコに戻って行った。
メリダのノビア(恋人)と結婚するためだったと、風の噂に聞いた。
フィエスタ(パーティー)で知り合った可愛らしい女の子だった。
『ヒロ』から聞いた話がある。
メキシコにはセレナータと呼ばれる麗しくも優雅な風習がある。
今でも、メキシコシティ北部のグアナフアトという街には残っているらしいが、恋人の家の窓辺でギターを奏でながら、甘い恋の唄を歌うという行為だ。
歌に自信が無い者はグループを雇って、演奏させるらしい。
実際、グアナフアトでは、グアナフアト大学の学生がバイト気分で引き受けるという話も聞いている。
このセレナータという求愛の儀式にはルールがある。
その恋を受け入れる時は、部屋のカーテンが開けられ、恋しい女がその姿を現わす。
受け入れられない時は、部屋のカーテンは閉まったままで、失恋した男はギターを抱えて静かに去らねばならない。
メキシコシティのような大都会ではこの風習は途絶えたものの、メリダのような田舎町では未だ残っているのだ、という話をフィエスタの時、ユカタン大学の学生から聞いたことがある。
スペインの植民地だった昔、スペイン本国から伝わった求愛の儀式である。
しかし、僕はメリダに居た間、夜は、結構夜更けまでぶらついていたが、このセレナータの光景にはついぞお目にかかったことは無かった。
僕たちをからかったジョークだろうと思っていた。
それが、『ヒロ』の話だと、『テツ』が実践したらしい。
『テツ』はギターを弾きながら、井上陽水をなかなかいい声で歌っていた。
彼の美声はフィエスタではかなりもてた。
その『テツ』がフィエスタで知り合った女子学生の家の窓辺でギターを奏でながら、唄ったというのだ。
『テツ』はシャイな男で、いつも静かに微笑んでいるような、どちらかと言えば、内気な男だ。
その男が、一世一代の勇気を奮って、愛を打ち明けたというのだ。
なかなか、カーテンは開けられなかったと云う。
それは、そうだろう。
彼女はカーテンの後ろで聞きながら、この日本人の奇妙な行為を悪い冗談だと思っていたらしい。
しかし、いつまでも止めない。
『テツ』の唄は止めどなく続いた。
もう、止めて帰って欲しいと彼女は思っていた。
その内、ギターが少し乱れ、唄う声が段々乱れてきた。
どうも、唄いながら、泣いているらしい。
彼女も段々切なくなった。
やがて、カーテンがさっと開けられ、窓辺に彼女の姿が現われた。
彼女も泣いていた、と『ヒロ』はしんみりとした口調で言った。
その後も、いろいろとあったが、『テツ』は努力して、親は勿論、親戚も認めるノビオとなっていった。
ノビオとなるのは結構な出費を伴う。
彼女とのデートも二人きりのデートとはならない。
『テツ』の彼女には少し下の妹が居た。
この妹が毎回、ニコニコしながら、デートに付いてきたのだ。
『テツ』はデートの度、映画代、お茶代、食事代、全て三人分払うこととなった。
これが、メリダでは当たり前のことであった。
日本に帰ってから、『テツ』は会社を辞め、メリダに戻った。
彼女と結婚し、職を求めて、メキシコシティに行った、というまでは研修生仲間から聞いた。

『ヒロ』にはその後、留学研修生の同窓会で一度だけ会った。
その時は、明日米国出張だと張り切っていた。
但し、管理職登用試験を直前に控え、憂鬱だよ、とも話していた。
「落ちたら、一年間待つこととなるんです。一年。一年ですよ。長い待ち時間です。ああ、憂鬱だ。本当に、憂鬱だ」
『ヒロ』の会社は学卒、高卒を問わず、平等な条件で管理職登用試験実施に踏み切った、時代の最先端を行く会社だった。
その後、『ヒロ』には会っていない。

『メキシコ罵り病』というものがある。
メキシコに滞在している日本人は日本人同士になると、必ずメキシコを罵る。
時間を守らない、約束は全て適当だ、事務処理が遅い、貧富の差があり過ぎる、英語が下手だ、サムタイムス(時々)をローマ字読みにソメティメスと言う大学生も居る、女が強過ぎる、領土を半分米国に奪われているのに米国に隷従している情けない国だ、などと罵る。
しかし、メキシコを離れ、日本に帰って来ると、滞在日数が長ければ長い人ほど、メキシコを懐かしく思い、かつて暮らした数々の思い出を大事にする。
留学生同士の集まりで、このことが話題になることがある。
皆、懐かしそうな顔をして、この事実を肯定する。
そんな時の表情は同じだ。
皆、少し遠くを見るような目つきになるのだ。
中には、眼を潤ませる者だっている。
「何のかんの、言ったって、僕にとって、メキシコは第二の祖国です。そう、思っているんです、僕は」

フェリーペにはクリスマスカードを出し続けた。
僕にとっては、年に一度の行事となった。
そして、彼からは年賀状代わりのグリーティングカードが毎年届いた。
カードには、必ず近況が書いてあった。
郷里近くの町の小学校のスペイン語教師となったこと、臨時の教師であるが、その内、正規の教師になれるかも知れないこと、麻雀も時々は日本人の友達を誘ってしていること、ブリッジに関してはランクアップを目指して大会に出ていること、ブリッジ仲間のガールフレンドができたこと、その内、彼女と結婚するかも知れないこと、などが実に判読しづらい肉筆のスペイン語で書いてあった。
せめて、タイプライターで書いてくれよ、と思いながら僕は一字一字判読していった。
フエリーペの字を真似て、アルファベットの対照表を作成して整理したこともあったが、それでも、完璧に読めたとは自信が持てなかった。
そんな僕の苦渋する様子を見て、妻は、フェリーペさんからの手紙、どんなことが書いてあったの、と無邪気に訊いて来て、僕を少し苛立たせた。

僕は日本に帰ってから、何ヶ所か、会社の事業所を転勤し、五十歳を過ぎてから漸く本社勤務となり、部長職を経験した後、少し早めに退職した。
退職前に、実家の勧めで土地を見つけておいた、郷里の町に小さな家を建て、今はメキシコ同様、妻と二人だけで暮らしている。
子供たちは既に全員独立してそれぞれの生計を営んでいる。
会社生活ではあまりいい思い出はない。
技術者として入社したつもりであったが、メキシコから帰ってからは、管理技術畑一本だった。
日本経済が全体的に右肩上がりに推移する時代の中で、僕は団塊世代の一員として、会社という組織の歯車として働いた。
妻からは、子育てには協力しなかったと今でも言われている。
団塊の世代は競争の世代でもある。
小さな歯車のままでいることは嫌だった。
小さな歯車から少しずつ大きな歯車になっていったような気はするが、果たしてどうであったろうか。
今となって振り返れば、可もなく、不可もない会社生活だったように思われる。
辞めた当初は、やれやれようやく自由な時間を手に入れることができたと解放感を味わっていたが、この頃になって、何だか淋しくなってきた。
このまま、徐々に老いて死んでいくのか。
そう思うと、何だかがっかりしてしまうのだ。
『空虚感』と名付けても良さそうなものがこっそりと僕の心の中に忍び込んできたようだ。
少し厄介だ、と思った。

この三十年の間で、メキシコには二回ほど旅行で行った。
カンクン一週間、メキシコシティ周辺十日間という旅行を二回行なった。
五年前のカンクン旅行の時は、バスでメリダにも寄ってみた。
しかし、昔のメリダはもう無かった。
ソカロから見る風景はさほど変わってはいなかったが、人が変わっていた。
皆、昔より忙しそうに見えた。
話し振りも少し速くなっているように思えた。
まるで、メキシコシティの人間が話すように、早口で話をしているように思われた。
昔のような、ゆったりとした物言いは失われているように思えた。
街も観光地化していた。
土産を売る店がやたら多くなっていた。
学校には行かなかった。
地図には昔通りの位置にあったが、僕は行かなかった。
行けば、失望するのに決まっている。
昔のままで残っているはずがない。
これ以上、失望するのは嫌だ。
校舎の脇に立っていたあのセイバの巨木も切り倒されていることだろう。
あの当時も大きくなり過ぎて、いつか倒れるのではないかと心配する声をあったほどだ。
「セイバには恐い伝説があるんだ」
このセイバの樹には、シュタバイという女の妖怪が棲んでいる、と語った掃除人のフアンも生きていれば、もう八十歳を越えているはずだ。
シュタバイはマヤの妖怪で、夜、セイバの樹の下を通る旅人の前に、絶世の美女として現われる。
旅人を誘惑して、一夜を共にする。
翌日、旅人は喉を無慚に喰いちぎられた姿でセイバの樹の下で発見される。
一夜の快楽の代償を己が命で支払うのだ。
そのシュタバイに出会ったことがあるかい、と僕はフアンに或る時訊いてみた。
フアンはニヤリとしながら、僕に言った。
会っていれば、今ここに居ないさ、と。
僕は妻とソカロのベンチに腰を下して、暫く周囲を行き交う人々をぼんやりと眺めた。
その時、僕は五十五歳になっていた。
目の前のカテドラルも何だか色褪せて見えていた。
来なければ良かった、と思った。
ノスタルジーはそのままの姿で残しておいたほうがいい。
現実は風化するが、心の中にあるノスタルジーは決して風化することはない。
現実はノスタルジーを破壊し、台無しにする。
現実はノスタルジーに浸る人に決して優しくはないのだ。
失望したくなければ、思い出の地は再訪しないほうが良い。

その後、フェリーペと再会することはなかったが、電話で彼の声を聞いたことはある。
十五年ほど前の米国出張の時だ。
彼はノース・カロライナ州のワシントンという小さな町に住んでいたが、近くのバージニア州の或る都市に仕事で出張する機会があった。
ホテルの名前と泊まる日時を彼に手紙で知らせておいた。
会うのは難しいにしても、電話なら、という軽い気持ちだった。
ホテルに着いて、夕食後、部屋で寛いでいたら、電話がかかってきた。
出張している同僚からの連絡かなと思いながら、受話器を取った。
聞こえてきたのは、スペイン語だった。
「オラ、ケ・タル(おお、元気かい)?」
こんな話しかたをするのは、一人しか居ない。
懐かしい声を聞きながら、鼻の奥がツーンとした。
どんなことを話したのか。
覚えていない。
覚えているのは、メリダの仲間たちの住所を知っていれば教えて欲しいという彼の頼みだけだ。
その当時、僕は『ノブ』とだけ、年賀状の遣り取りをしていた。
『ノブ』の住所を後で知らせる、と僕は約束した。
そう言えば、一つだけ記憶していることがある。
結婚はしたのか、と僕は訊いたのだった。
余計なことだった。
言った瞬間、僕は後悔した。
まだ、していない、相変わらず独身さ、いつまでも独身さ、とフェリーペは明るい口調で話してくれた。
何だか、救われたような気がした。
電話を切った後、僕は暫くベッドに横になり、僕たちのメリダでの暮らしを想った。
あの頃が僕の『旬』だったのか。
ふと、若い頃に最高傑作を描いてしまった西洋の画家の話を思い出した。
その画家はその後、その絵を凌ぐ絵は結局描けなかったと云う。
若い頃に最高傑作を描いてしまった、その画家のその後の人生はどのような人生だったのか。
幸せであったとは、とても言えないだろう。
僕にとって、二十八歳から二十九歳にかけて経験したメリダでの十ヶ月の暮らしは何だったのか。
考えてみるまでも無い。
極めて、はっきりしている。
『最高』だった。

去年の手紙には、もう六十歳も過ぎたことであるし、教師の契約もそろそろ切れるかも知れない、子供に教えることは楽しいし、もっと続けたいと思う、しかし、今年の契約が無ければ、郷里に帰り、老いた父と暮らすつもりだ、と書いてあった。
フェリーペは僕より三歳上だった。
急に、六十歳という年齢を身近に感じたものだ。

「あなた、エアーメイルが届いているわよ」
二月の半ばになって、一通の英語の手紙が届いた。
フェリーペからか、と一瞬思ったが、知らない差出人からの手紙だった。
何だか、嫌な予感がした。
僕はその手紙を開けた。
フェリーペの弟の娘からの手紙だった。
綺麗な字で書かれていた。
判読不能に近いフェリーペの字とは異なり、英語で書かれたその手紙の内容は読み取りやすかった。
しかし、読み取りづらい方が僕には良かった。
読めなければ、なお良かった。
読み取りやすかった分、内容は過酷な速度で伝わる。
それは、フェリーペの死を告げる手紙だった。
彼の姪は書いていた。
伯父はクリスマスの翌日、車を運転していて、郊外のハイウェイで街路樹にぶつかって死んだ。
警察の調べでは、ブレーキを踏んだ形跡がない。
車はかなりのスピードのまま、街路樹に衝突している。
心臓病という持病もあったことから、運転中、急激な心臓発作に襲われ、ハンドル操作ミスにより、衝突したのではないかという警察の見解もある、とのことだった。
彼の部屋の机の中には、僕からのクリスマスカードが三十通ほどあり、また、室内の小さなクリスマスツリーには僕からのクリスマスカードが大事そうに吊り下げられてあったとも書いてあった。

僕はその手紙を持ったまま、庭に出た。
寒い風が吹いていた。
三十年という歳月は、三十通のクリスマスカードとなる。
フェリーペは僕の手紙を全て机に保管していた。
しかし、僕は違った。
彼からの手紙はいつの間にか分散し、手許にあるのは十通ばかりでしかなかった。
数日前に降った雪が樅の木にまだ少し残っていた。
今日は風が強い。
雪がひと固まり、風に吹かれて地面に落ちた。
ふと、僕の心の中で何かが切れた。
小さな音を立てて、何かが切れて落ちた。
切れて落ちたものは何だったのだろう。
多分、会社を退職した今、心の中に忍び込む空虚感と共に、過去のノスタルジーに浸ろうとする自分という存在、ノスタルジーにしがみつこうとする自分という存在であったかも知れない。
青春のアルカディアを懐かしみ、甘い感傷に浸ろうとする自分、であったかも知れない。
ノスタルジーには、人がつきまとう。
その人がいなくなった時、ノスタルジーはそのまま辛い思い出となってしまう。
メリダという異郷で暮らした黄金の日々。
一層遠くなってしまった、と思った。
しかし、僕はこれからも生きていく。
『アスィ・エス・ラ・ビーダ』、と呟きながら、人生を味わって行こう。
一度しか無い、人生だもの。
思い出。
特に、フェリーペとの思い出。
封印しよう。
フェリーペにはもう一度、サヨナラを言わなければならない。
メリダを去っていく彼に言った言葉をもう一度。
アディオス、アミーゴ!
アディオス、アミーゴ・ミオ!

さよなら、僕の友達。

追憶

追憶

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-09

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