ドッグフード

小さい生き物は好きになれなかった。正確に言えば、小さいという事に嫌悪感を抱いていたのだ。元々小さい体格と、発達しきらなかった少女の体は、思春期で増幅する劣等感に食い尽くされてしまった。初めて特別な間柄になった男にも、薄いクチビルや小さな乳房、何も背負えなさそうな狭い肩が愛しいと言われた。私にとってそれは仕方なくファミリーレストランで食事を済ませる様な、惰性と保険に満ちた呪文にしか聞こえなかった。

「飼っている犬が子供を産んでさ、今最後の一匹の引き取り手を捜してるんだ」
友人の飼い犬が野良犬との間に子供を産んでしまったらしい。犬、別に好きじゃない。どうしたって弱くて、ペットでしかなくて、従順で。友人は不 思議と笑っているけれど、予想だにしていない事態に違いない様で、まさか孕んでいたとはなぁ…、と呟きながら頭を掻いていた。その姿がとても頼りなく見え て、私は思わず、引き取るよ、と口にしてしまっていた。しきりにありがとうと言いながら頭を下げる友人が、帰り際に不思議な話を聞かせてくれた。

「うちの犬、セオラって言うんだけど、あいつさ、人の言葉が解るんだよね。変な事言ってると思うだろ?でも俺は信じてる。例えば彼女に振られたな んて話をこいつにすると、近寄ってきてほっぺを舐めるんだ。まるで『可哀想ね、私が慰めてあげるわ』って言ってるみたいな顔をしてさ。忙しくて構ってやれ なくてごめんなって言うと、少し離れた場所からじとっとした顔で見てきたり。いや顔なんて特に変わってないのにそう見えるんだよ、本当に。」

私は子犬にモネと名付けた。賢い犬の子供だからきっと賢い子犬でしょう。もしかしたらこの子も人の言葉が解るかもしれない。自分の不幸な境遇を知っているかもしれない。そう思うと、私はこの子犬に優しく出来る気がした。

モネはガムシロップが大好きで、私がコーヒーを飲む時には必ず物欲しそうな顔で待っている。だから私は、余計にガムシロップを持ってモネの元へ行き、そしてこう言う。
「私の可愛いモネ、このガムシロップは私の血で、いつかあなたの体をいっぱいにするわ。そしたらあなたは人間になってベッドの中で私を暖めるの。」
いつも私の話を、おとなしく聞いていた。賢い犬。


この一年で、いくつガムシロップをあげただろうか。
その日も物欲しそうなモネにガムシロップをあげて、私はベッドに入った。明日は休みだけど、特に予定は無い。いつから休みに予定が無くなったかって考える。たぶん、モネの血が半分くらいガムシロップになった頃。

思い出す事が多すぎて眠れずに真っ暗な部屋に埋もれていると、突然ベッドに何かが入ってきた。いつも通りモネがもぐりこんできたな、と手を伸ばすとさらさらの肌に指が当たった。

「?」
「やっと。」
何かが呟いた。
「モネ?」
「そう。やっと同じ体温になれた。」
モネを名乗る青年は私の首に触れながら暖かい体を寄せる。
「不思議。どうして?」
「ガムシロップは私の血だって言ってた。少しずつ僕の体にその甘ったるい血が注がれて、いっぱいになって、犬の血が無くなる。そして僕は人間になったんだ。」
「でも私の血じゃない。」
「そう、だからこの姿でご主人様のそばに居られ…。」
「ちょ、ちょっと待って。ご主人様って言うの、変ね。私、ご主人様らしい事なんて何もしてないし。」
「ご主人様だよ、いつも僕にガムシロップをくれる。」
ふわふわの髪が頬に当たってくすぐったい。
「いつだってご主人様の話は聞こえていたから、今、僕には全て解る。ご主人様の辛い事も楽しい事も、僕にして欲しい事も。」
「ソレはなんだか、とても愉しい話ね。」
「そう、愉しい話。僕は賢い犬だから、して欲しい事は全てしてあげるよ。僕はご主人様の為に生きてるからね。」
「んー……別に今は無いかな、とっても暖かいし。」

私はなぜか、犬を名乗るこの青年に騙されている気がしていた。それでも尚その暖かさに身を委ねて心地よさを感じてしまう私は、情けない生き物だろうか。

そんな気持ちに気付かず、ふーんと言いたげな顔をしながら彼はシーツの中で丸まっていく。そして少しおどけた様子で口を開けた。
「なら良かった、あ、でも一つだけ僕の言いたい事を言っていいかな?あんな男忘れたほうが良いよ、短気で浮気性で嘘吐きでどうしようもないあの男。沢山騙されたり裏切られたりしてた。今度会ったら僕が噛み付いてやる。」
賢い犬。
「そうね、噛み付いて欲しいくらいね。」
それは私にだろうか、あの男にだろうか。
ふふっと笑うと彼は、私の頭を包み込んでまた体温を移してくる。
「そうそう、明日予定が無いなら、僕と遠い所まで散歩をしよう。明日になれば僕は犬の姿だからただの犬の散歩だけど、ご主人様の話は聞こえるから、人間同士の散歩みたいなもんさ。周りから見たら犬の散歩で、僕らにとっては人間同士の散歩って事。どう、面白いでしょ?」
「ふふ、愉しそうね。」
彼もまたふふっと笑って優しく私の髪を撫でた。
「そういう事だから今日はもう寝ようよ。寝坊しちゃうよ…………あ、そう、最後にもう一つだけいいかな………もうあの男の為に泣くの、やめなよ。」
彼はそう言って私の顔を覗き込む。私は何も応えずに、彼の腕に身を任せる。そして静かに瞼を閉じた。

翌朝目が覚めるとそこに彼は居なかった。そしてモネも消えていた。慌てて部屋中探して、近所中走り回ったけれど見つからなかった。残ったのはモ ネの匂いと、モネが昨日舐めたガムシロップの容器だけだった。私は一通り泣いた後、モネを、彼を探してシーツの中にもぐる。私の為に生きているって言った 癖に。ベッドはまた寂しくなった。

モネが居なくなって半年、たまたま仕事からの帰り道にモネを譲ってくれた友人とばったり会って、私達はそのままファーストフード店へ行った。

「久しぶり、いやー本当にあの時は引き取ってくれてありがとね、助かったよ。もう1年半くらい経つかー…お蔭様って言うのも変だけどセオラもまだ元気してるよ。で、確か名前は………そうそう、モネだっけ?良い子してるかい?」
「ごめんなさい。半年前にいなくなっちゃった。本当に突然。」
友人は、驚いた拍子にポテトを喉に詰まらせてしまった様だった。
「…っ、うそ?マジで?なんでまた…そんなやんちゃだったの?」
「いや、逆よ。凄く賢かった。困らせる事も無いし、いつもおとなしかったし。でもね、きっと賢すぎたのかな、私が本当に何を求めてたのか解ってたんだと思う。だから出て行ったのかな」
友人は少し首をかしげながらコーラを一口飲んだ。
「あぁ…ちょっと変な話だけど、なんとなく言いたい事解るよ。セオラも犬なのに全て解ってるような目で見てくる時があってさ、それに昔言葉が解るかもって話したでしょ?それもあって、たまに犬のフリした人間みたいな感じがするよ。モネもそんな感じだったのかな。」
「そうね、でももしかしたら人間のフリした犬だったのかも。」
「ははは、人間のフリか、そうか、そっちか!ハハ、なんにせよ、犬って奴は意外と色々見えてるもんなんだろうな、俺達が思ってる以上に。」

その後少しだけ世間話をして、彼はバイトの夜勤だからと言って去って行った。
「あいつ、モネ、たぶん元気してるよ、もしかしたら親切な人の所で幸せに暮らしてるかも。」
そうかもしれない、と思いながら家へ帰る道を歩く。

もう一人のベッドで寝る事が普通になってしまった。人間のフリをした犬が居たのはだいぶ前の話だ。
ふと思い立った私はささやかな儀式を始める為にガムシロップを沢山入れたコーヒーを作った。このガムシロップはモネの血で、私の体を少しずつ満たしていく。いっぱいになったら、私は犬になるのだ。そして鼻を利かせてモネに会いに行く。
甘いコーヒーを全部飲み干した後、なんだ、結局踊っているのは私じゃないか、と気付いて、泣いた。私はいつもそうだ、バカみたいに踊って、誰かの為に泣く。モネが消えた時よりも涙が出てきて、フローリングに小さな水溜りが沢山出来ていく。
ねえ、今、今、して欲しい事がある。ねえモネ、今あなたは誰の為に生きてる?

ドッグフード

ドッグフード

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-08

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