イエスタデイ セレナーデ

イエスタデイ セレナーデ

そこに在ったものは、それぞれにそれぞれの愛。ただ、それだけだった。

プロローグ -ある日の午後-

「雨、止みそうにもないですね」
聞き逃してしまいそうなくらいに小さな声だった。
「そうですね」
僕が相槌を打つように返すと、彼女は言葉を続けた。
「私、雨の日が嫌いになれないんです。何故だかわからないけど、とても懐かしい感じがして」
「懐かしい?」
「変、ですよね」
「そんなことはないですよ」
「本当ですか?」
「そういう気持ち、何となくだけどわかります」
「良かった」
彼女は安心したような微笑みを浮かべた。僕は彼女の思いを聞きながら、窓を滑るように流れていく雨の滴を見ていた。近くて遠い彼女の横顔が、視界の中でいつまでも揺れていた。
雨が街を濡らしていた。細かな雨は路上に幾つもの小さな窓を作っていた。その窓に映る灰色の空は、どれも雨粒が織り成す波紋で歪んでいた。
環状線は飛沫をあげて走り交う車が列を成していた。歩道はカラフルな雨傘が灰色の街並みを彩っていた。街は自然の光を失った代用に、昼間だというのに人工的に造られた明かりでライトアップされている。
僕はテーブルを挟み、彼女と向かい合うようにして座っていた。心は報われない喪失感と困惑の中にあった。彼女は肩下まで流れる髪を指先でなぞってみたり、缶ジュースを口に付けたりしながら、時折僕と目が合うとはにかむように微笑んで見せた。その度に僕も微笑んで返した。不器用に釣り上げられた僕の口元は、さぞかし滑稽に見えていたかもしれない。
言葉少ない緩やかな時間が流れていた。

scene.1

『里美です。明日、映画見に行かない? 時間は、……そうね、渋谷駅東口のバスターミナルにお昼の11時で。今夜は10時くらいまでなら起きてるから、都合が悪かったら連絡して? じゃあ明日ね』
仕事から帰宅して、留守番電話に残されていた里美からのメッセージを聞いた時には、既に夜中の12時を回っていた。
「都合を考えてくれるなら、数日前に言ってくれたらいいのに」
などと電話機に向けて言ってみたりする。もちろん、何か返事があるわけも無く。
言葉に出来ないやり切れなさが、溜め息となって体から抜けていった。
冷蔵庫から缶ビールを取り出し、喉の奥へと流し込んだ。冷えた缶を持つ指先の感覚が変わっていく。
窓の向こうには、アンバランスな街の灯りが点在していた。明日の約束に間に合う時間に起きられるかどうか……そんな気掛かりが胸をかすめた。
翌朝。案の定、僕は寝過ごしてしまった。
残暑厳しい9月中旬の土曜日。駅前に立ち尽くして僕を待つ彼女を見つけた時は、さすがに心が痛んだ。
歩道を覆う街路樹の影。道行く者にとっては、わずかなオアシスにも感じられる。時折、歩きながらハンカチで軽く汗を拭う彼女を見る度に、(待たせてごめん)と、心の中で呟いた。
「浩之君、もっと急いで」
「そんなに慌てなくても、映画館は逃げないよ」
彼女は僕の隣を歩きながら、軽く眉間にシワを寄せていた。
「寝過ごして、待ち合わせの時間に遅刻して、それでそのセリフなの?」
「遅れて悪かったと思ってるよ」
「本当に悪いと思ってるなら、もう少し急いでくれてもいいと思うんだけど?」
時計の針は11時30分を回っていた。彼女の予定通りなら、今頃は余裕で映画館の椅子にでも座っていたのだろう。
「残業続きで帰りは午前様。休みの朝くらいはゆっくりしたいと思ってるのは、里美知ってるよね?」
「知ってるわよ。毎日遅くまでお疲れ様」
「そうじゃなくて」
「何よ」
「それなら、せめて待ち合わせを遅めにするとか考えてくれてもいいと思うんだけど?」
「考えたわよ」
彼女は急ぐ足を少しだけ緩めると、そんなことか。とでも言ったようにあっさりと言葉を続けた。
「だから待ち合わせの時間を11時にしてあげたんじゃない。本当は10時って言いたかったのに」
それ以上、僕の口から出る言葉は無かった。勝ち誇った顔の彼女の隣で。
映画館には上映寸前に着くことが出来た。押し迫った時間もあり、ロビーには思ったほど人はいなかった。
「ポップコーンと飲み物買わない?」
チケットの半券を財布にしまいながら彼女は言った。
「里美」
「何?」
「飲み物はわかるけど、ポップコーンは止めといた方がいいんじゃないかな?」
「うるさくて回りに迷惑?」
「いや、そうじゃなくて……」僕はひと呼吸の間を開けて続けた。「きっとその半分も食べられないと思うよ? 里美、多分泣くから」
今日見る映画は悲恋的なラブストーリー。ジブリシリーズで目を潤ませる里美にとって、これ以上ない作品だった。
「泣くわけないじゃない!」
「そう?」
「そんな子供じゃありません」
「だといいけど」
精一杯な彼女の強がりに、僕は小さく笑った。彼女は頬を膨らまし、怒っているようだったけど。

約2時間後。
「素敵な映画だったね」
「うん」
「本当に、素敵な映画だった」
「うん」
館内には啜り泣く音が幾つも響いていた。愛する者が不幸な死を遂げ、そこから前向きに生きて行こうとする主人公の少年の姿に、感銘を受けたのだろう。
映画館を出ても、彼女はしばらく泣き止むことが出来ずにいた。僕の問いかけに、里美はただ端的な返事を返してくるだけだった。彼女の手には、ほとんど減っていないポップコーンがあった。そんな彼女が、とても愛らしく思えた。
「もう平気よ」
そう言った彼女の目は、それでもまだ赤く潤んでいた。
僕達はゆっくりとした歩調で、駅へと向かい歩き始めた。
途中、『喫茶店で何か飲んで行かない?』と言ったのは彼女の方だった。
「ねぇ、もし浩之君にとって大切な人が死んでしまったとしたら、浩之君はあんな風に前向きになれる?」
「あんな風っては、さっきの映画のこと?」
テーブルに置かれた2つのアイスティーを前にして、彼女は聞いてきた。
「どうだろう。そんな経験もないしね。里美は?」
「私は……」窓から入り込む陽射しは、晒した頬や手に程良い熱を与えていた。「前向きにはなれないかな。そんなに簡単じゃないでしょ? 人の心って」
「そうだね」
「でも、何だか憧れるな。この世にはもういないのに、何年も想われているなんて。あんなに愛されていた彼女が、ちょっと羨ましい」
「まるで、僕が君を軽く扱ってるみたいな言い方だね」
里美はうっすらと表情を曇らせながら、口元に小さく笑みを浮かべた。
溶け出した氷は紅茶の色素を薄めていき、カランと寂し気な音を鳴らした。

冷たい秋風が吹いていた。
風は街行く人達の足元で、帰路を辿る足音を消すように小さくまとまって吹いていた。高層ビルに四方を囲まれた風は、行き先を選べず、出口も見つけられず、必死にもがいているように見えた。それは閉じ込められたこの街への、ささやかな抵抗のようにも思えた。
耳を抜ける風の音は、息を殺した泣き声のように聴こえてきた。目に映るものは、全て風景でしかなかった。-無意識の呼吸- 何か言葉を当て填めるなら、そんな所だ。意識することなく視界に入り込み、視界から消えていく。人もビルも車も。僕にとってはどれも未完成なパズルの1ピースでしかなかった。この街は、人の姿で生きていくには、些か窮屈な場所なのかもしれない。
里美と別れた後、軽く食事をして電車を乗り継ぎ、マンションに着いた頃には11時を回っていた。濁った夜の空には、綺麗な三日月が昇っていた。
エレベーターで7階へ上がり、部屋のドアを開けると、手探りで灯りをつけた。音の無い部屋に、温もりを感じない光が広がった。冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出し、フタを開け、喉の奥へと流し込んだ。ホップの苦味が喉に心地良い刺激を与えた。
テレビを付けると、悲壮な面持ちでニュースが報道されていた。-妻子殺害容疑で夫逮捕- ブラウン管の隅には、そう表示されていた。そこには、もはや知識や教養など、得られるものは何一つなかった。
存在するのは、人の持つ尊厳の破壊。けれど、僕の脳裏をかすめたのは、変化ある日常への羨望という、非常識な道徳だった。

scene.2

騒々しく鳴り響く電子音が、1日の始まりを告げる。カーテンの隙間を通して零れる陽射しが、窓から床へとひと筋の線を描いていた。瞼を擦りながら体を起こし、カーテンを一気に開けた。空は晴天だった。
朝食はインスタントの熱い珈琲。1人暮らしの朝なんて、それ程優雅なものではない。疲れの癒えない体を引きずりながら身支度を整えた。左手に回した腕時計が7時30分を示す頃、紺色の上着に袖を通す。
玄関のドアを開けると、重々しい音が響いた。いつもの朝が始まった。
電車を乗り継ぎ、会社に着く頃には、既に体力の何分の1かは奪われている。無理矢理押し込まれた電車の中は、鼻につく不快な匂いが充満している。ひとつひとつは華やかな香水も、検証なく混ざり合うと鼻をつく異臭でしかない。朝のラッシュは、人体を形成する上で微塵も必要とはしない不快感を、鼻粘膜から脳へと送り込んでくる。慣れてしまえばどうともないことなのだが。
職場に着くと、既に何人かは顔を出していた。程度良く挨拶を交わしながら、書類に埋もれた自分の席へと着いた。
経済関連の専門校を卒業した僕は、それなりに大手と呼ばれる企業に就職した。7年も前のことだ。経済学を生かした配属。とはお世辞にも言えなかった。特に秀でた能力もない人間を、上手く起動させられるポジションなんてものは、そうそう存在しない。-営業一課 中部エリア担当- そんなミドルネームが付いた名刺を配られたのは、入社してから1ヶ月後のことだ。とは言え、就職難の先陣を切ったあの頃に、拾って貰えただけでも有り難い話だけど。
夕方も6時を過ぎると、職場の頭数は半分程度に減っていく。残っているのは外回りから帰ってきた営業マンか、その後に予定もなく世間話に花を咲かせる女子社員くらいなもの。僕はと言えば、一向に先の見えない書類作成に手を倦ねいていた。
「高梨さん、まだ帰らないんですか?」
女子社員の1人が声をかけてきた。
「幾つか書類作成が終わってないからね」
「高梨さん真面目だからなぁ」
「要領が悪いだけだよ」
「余り無理しないで下さいね。それじゃお先に失礼します」
「お疲れ様」
真面目などという堅苦しい戒律など持ってはいなかった。むしろ投げ出しても構わない程度。責任などというものを背負いこむつもりはない。学生に時間割や単元があるように、今やるべきことが目の前にあるだけのこと。ただそれだけだった。
仕事を終え、時計のネジを巻き戻すように部屋へと辿り着いた時には、10時を少し回っていた。秋の夜風と労働に晒された体は、まるで別人のように疲れていた。僕はシャワーを浴びた。疲れた体に打ち当たる熱い湯は、瞬時に疲れを癒やしていった。浴室を出て、濡れた髪をタオルで乾かしていると、電話が鳴った。
「俺だ。元気か?」
「ケン?」
電話は健二からだった。
「こんな時間に悪いな。寝てたか?」
「いや、さっき帰ってきたところだから」
「相変わらず仕事熱心だな」
僕は笑って返した。
「ま、忙しいのは何よりだな」
「そっちはどうなんだ? 順調なのか?」
「まぁ、ぼちぼちだな」
「ぼちぼちか」
「机上の構想通りにはいかないさ」
1年前、ケンは独立して輸入雑貨を扱う会社を設立した。それなりの人脈と採算があってのことだとは言っていたが、会社を存続させていく労力は並大抵ではないだろう。実際、ケンの声は疲れを隠しているようにも聞こえていた。
「なぁヒロ、久しぶりに飲まないか?」
「そうだな」
「今夜。ってのは急だから、明日でどうだ?」
「わかった。場所は?」
「青山のSIRIUSで。時間は、9時でいいか?」
「OK」
「じゃあ明日な」
ケンとの電話が終わり、気づけば日付は明日になっていた。今日という日が眠りに着く前に、世界は未来を刻み始めている。不可思議な現実の中、僕はゆっくりと深い眠りへ落ちていった。

scene.3

表参道で電車を降り、青山通りを渋谷方面へ。駅から10分も歩くと待ち合わせた店へと着いた。ケンと何度か来たことのある店だったので、ここまでの足取りは軽やかなものだった。店のドアを開けると、微かに耳に触れる程度のピアノの旋律が聴こえた。
「ヒロ!」
店のウェイターに待ち合わせのことを告げていると、店の奥から僕を呼ぶ声がした。声のする方へ視線を向けると、出迎えるようにケンがやってきた。
「なんだケン、もう来てたのか」
「早めに仕事を切り上げたからな」
「そうか」
「口うるさく監視する上司はいないし、その辺は自由なもんだよ」
「羨ましいね」
「そうか? 何ならお前も独立するか?」
「いや、僕には経営の能力なんか持ち合わせていないからね。止めておくよ」
そう答えると、「それが正解だな」とケンは笑って答えた。
「もう1人一緒なんだけど、構わないよな?」
「もう1人?」
ケンの後を追って席へと足を向けた。テーブル席には見覚えのない女性がいて、僕に気づくと軽く頭を下げた。薄いピンクのシャツに白のロングスカート。サラリと流れる真っ直ぐな髪先は腰の辺りで小さく揺れていた。
「彼女は石原美咲さん。俺の所から品物を購入してくれる画廊の職員さんだ」
「初めまして。石原と言います」
線の細い声だった。
「初めまして。高梨と言います」
「勝手に来てしまってすみません。お邪魔ではなかったですか?」
「いえ、邪魔だなんてとんでもない。何も聞かされてなかったので、少し驚いているだけですから」
視線はケンに向けていた。
「今日急に決まってな。ヒロに伝えるタイミングがなかったんだ」
「急に?」
「さっきも言ったけど彼女は仕事先の人で、昼間商談が終わった後に今夜ヒロと会う話をしてたんだ。それで、良かったら今夜一緒にって誘ったんだよ」
「良かったら、ね」
軽い疑いの眼差しでケンを見ながら、ケンの言葉を訂正するみたいに彼女に言った。
「強引にお誘いしたんじゃないですか? 余りのしつこさに仕方なく」
「おいヒロ、久しぶりだってのに随分な言い方だな」
「ケンがそんな風に優しく口説くとは思えないからな」
「だから口説いたんじゃないって」
視界の中の彼女は、口元に両手を当ててクスクスと小さく笑っていた。
「強引ではなかったですし、口説かれてもいないですよ」
「ほら見ろ。ヒロは俺を誤解しすぎなんだよ」
ケンは手の甲で軽く僕の胸をコツンと叩いた。
「でも、鈴木さんがそんな人だったなんて知りませんでした。今度からは気をつけないと」
彼女は小悪魔的な視線を投げながら笑ったままだった。そんな仕草に僕はつられて笑い、ケンは困ったようにこめかみを掻いた。
「ケン、僕たち再来年には30歳になるんだ。事はエレガントに運ばないとな」
そう言いながら、手の甲でケンの胸をコツンと叩いた。

それからの時間は、とても有意義なものだった。話題の大半はケンと僕との事だったけど、まるで卒業アルバムを捲るように僕たちは思い出の幾つかを語った。それでも、途中から湧き出た具現化出来ない彼女への違和感は拭えずにいた。場の空気が少し変わったのは、ケンが何杯目かのスコッチを頼んだ時だった。
「美咲ちゃんは彼氏作らないの?」
長い時間話をしていれば、必ず出てくるネタのひとつ。ケンがそれを口にしたのは、何ら不思議なことでもない。ただ、触れなければ良かったと思う話は誰にでもある。後にならなければその事にはなかなか気づけないのが、心理の難しいところだ。
「付き合ってる人がいないのは前に聞いてたから知ってるけど、好きな人くらいはいるんでしょ?」
「いえ、そんな人いませんよ」
「本当に?」
「男性と個人的に話す機会なんてないですし、そういった出会いもないですから」
「そうは言っても、ひとりって寂しいじゃない? なぁヒロ」
「僕に振るなよ。そう言うケンだってひとり者じゃないか」
人は寂しいから誰かを求めるのか。誰かがいれば寂しくないのか。どちらが正解なのだろう。
「それじゃあ、今までどんな人と付き合ってきたの?」
ケンの言葉に、彼女の体が一瞬硬直したように見えた。
「普通ですよ」
「その普通が聞きたいな」
「それは……」
彼女は返す言葉を決めかねているようだった。恐らく彼女の心の内には、表に出せない秘めたる何かがあるのだろう。もしそうだとするなら、これ以上は彼女の心には触れない方が得策だ。浄化出来ない思いの泉に落ちていく時程、切ないものはないから。
それに、思い出したくない過去があるのなら、それが単なる会話の過程であっても思い出したくはないものだろう。
「ケン、その辺にしておけよ。彼女困ってるじゃないか」
「困らせてるつもりはないさ。俺はただ一般論で聞いているだけ」
「一般論が必ずしも当てはまるとは限らないだろ? 今のケンは、彼女のプライバシーを強引に堀り出そうとしてる」
「そんなつもりはないんだけどな」
ケンも子供じゃない。さすがにそれ以上の詮索はしなかった。今以上に酒に呑まれていたら分からなかったけれど。
「今夜はもう終わりにしようか。明日も仕事はあることだし」
「そうだな。……少し飲み過ぎたかもしれん」
僕が話を変えると、「今夜は俺がおごる。せめてもの詫びだ」と言ってケンは席を立った。
「すみません。私、鈴木さんに悪いことしてしまったみたいで」
彼女は申し訳なさそうに俯いていた。
「石原さんが謝ることじゃないですよ。ケンは、確かに少し飲み過ぎたみたいだ。不愉快な思いをさせてしまったのなら謝ります。でも、ケンは良い奴ですから、悪くは思わないでくださいね」
「そんなこと。今夜は呼んでいただいて楽しかったです」
「それなら良かった。次にケンに会った時そう言ってやってください。今言っても、明日にはきっと忘れているでしょうから」
僕たちが笑っていると、会計を済ませたケンが戻ってきた。
「悪いなケン」
「たいしたことはないさ」
「さすが社長だな。そんなセリフ、僕にはとても言えないよ」
「茶化すなよ」
いつものケンがそこにはいた。もちろん、足元が多少は覚束なかったが。
「さて、帰るか」
ケンの言葉を合図に、僕たちは店の外へと出て行った。
外は相変わらず秋の夜風が吹いていた。店を出てすぐにタクシーを1台捕まえた。今夜が週末だったなら、こんな簡単には捕まらなかっただろう。車には、ケンと彼女が乗った。
「今夜は本当に楽しかったです。ありがとうございました」
「良ければ今度また」
「はい。是非」
彼女と少ない言葉を交わした。
「今日は悪かったな」
場の悪さを気にしたケンが小声で言った。
「それは彼女に言う言葉だろ。それより……」
「何だ?」
「送り狼にはなるなよ」
僕は笑って言った。
「今時送り狼って、死語だな」
ケンは笑っていた。
「ご心配なく、ちゃんと鈴木さんを自宅前までお送りしますから」
ケンの影から彼女は言った。
「だ、そうだ」
「らしいな」
僕とケンは笑った。店を出る前までに流れていた不穏な空気は、もうどこにも無かった。
「じゃあなヒロ」
「またな」
2人を乗せたタクシーが、やがて明けゆく夜の街へと静かに走り出して行った。僕は来た道を駅へと向かい、冷たい夜風に肩を窄めながらゆっくりと歩き始めた。

scene.4

例年よりも今年は寒いらしく、11月の終わりには東京にも初雪が降った。彼女と再び会ったのは、そんな厳しい冬風の吹く12月の初めだった。
「高梨さん、ロビーにお客様が見えてますよ」
「誰?」
「石原さんっていう女性の方です」
僕は驚いた。その名に心当たりのある女性は、僕の知る限りでは1人だけだったから。けれど、彼女が僕を訪ねてくるという説にはひとつだけ問題があった。彼女は、僕がここにいることを知らないはずだから。
「昼間にも1度お見えになりましたよ」
「何だ彼女か? 羨ましいな高梨」
「違いますよ」
居合わせた上司や同僚に冷やかされながらオフィスを出ると、急ぎ足でエレベーターに乗り1階へと降りて行った。
何も考えずに乗るエレベーターは、ほんの一瞬の間に目的の階に着いてしまう。それがどうだろう。これから起こる何かを考えながら乗っている今は、変に時間を意識してしまう。いつもより時間がかかっているんじゃないか? 突然電気がショートして、エレベーターが止まってしまわないだろうか? などといった具合に、普段では思わないことを思ったりして。もちろん、現実にはそんな不具合など起こるはずもなく、いつもと変わらない速度でロビーへと着いた。
エレベーターのドアが開くと同時に、彼女の姿を探した。ロビーには、スーツ姿のサラリーマンが多く目立っていたが、僕は彼女を難なく見つけることが出来た。彼女はビルの入り口付近に立っていて、じっと外を眺めていた。
「石原さん」
僕が声をかけると、彼女は驚いたように振り返り、僕と視線が合うと小さくお辞儀をした。
「お待たせしました」
「突然お伺いしてすみません」
「いえ。ケンと会った時以来ですから、2ヵ月ぶりくらいですね。お元気でしたか?」
「はい。高梨さんもお変わりなく?」
「えぇ。相変わらずこんな感じです。と言ってもわかりませんよね」
彼女はニコリと微笑んで、「お元気そうで何よりです」と言った。
「よくここがわかりましたね」
「先日、画廊に鈴木さんがお見えになりまして、その時に教えて頂きました」
「なるほど。そう言うことでしたか」
考えるまでもなかったのだ。僕と彼女には唯一の接点があったのだから。ケンという鍵が。
「それで、僕に何かご用でしたか?」
「実は、今月の末から展覧会を主催することになりまして、もし宜しければと招待券をお持ちしたんです」
「そうですか。でしたら、立ち話も何ですから向こうで」
そう言って、幾つか設けられているフリースペース席のひとつに彼女を案内した。
「すごいビルですね。こんな所にいると、ここが大都市東京だと改めて思い直してしまいます」
彼女は辺りを見回しては、溜め息混じりに言った。
「この辺り一帯は、高層ビル区画街の地域ですからね。人口密度なら他に類を見ないと思いますよ」
「そう思います。右を見ても左を見ても人だらけ。何だかビルの高さに目が眩むよりも先に、人に酔ってしまいそうです。変に緊張もしてしまいますし」
人の数だけなら東京駅あたりの方が遥かに多いけど、ここに集まる人の様相は皆、厳しさを纏った者ばかり。彼女が緊張と言う言葉を口にしたのも頷ける。
「僕は、ここを動物園だと思ってますよ」
「動物園?」
不可解な僕の言葉に、彼女は首を少し傾げた。
「他国籍に渡り人が出入りしますからね。例えばほら」
僕は胸元で小さく指差した。
「あそこの窓際にはライオンが」
「ライオン?」
彼女を振り返らせた先の窓際には、金色の長髪の男が窓の外を眺めながら仁王立ちしていた。
「あっちには馬が走ってる」
指を差し替えると、赤茶けた色の髪をした面長の顔の男が、必死な形相で出入口へと駈けていた。
「そうですね。動物園と言われれば確かに動物園だけど」
彼女は口元に手を当て、小さく笑っていた。
「でも、ライオンはともかく、馬って言うのは失礼じゃないかしら?」
「僕にしてみたら、最上級の誉め言葉ですよ。何せ、僕は彼のように速くは走れない」
「そんな理由が誉められる対象になってしまうのね。良かったわ凡人で」
「そんな、凡人だなんてとんでもない。君には君の素晴らしさがあるじゃないですか。そうだな、例えば……」
「止めて」少し困ったように彼女は静かに言った。「その先は言わないでください」
「どうして?」
「動物に喩えられるのは、余り嬉しいものではないわ」
「そうですか? それは残念」
僕が首を傾げて答えると、「高梨さんって、意外と意地悪なんですね」と彼女は言った。
「少しは緊張が解けましたか?」
僕の問いかけに彼女は少し俯き加減で何かを考えていたが、直ぐに向き直ると、「先ほどの言葉は訂正します。高梨さんは、優しい方なんですね」と言い直した。僕は自分が優しい人間だとは到底思わなかったが、彼女に言われたひと言は素直に嬉しかった。
「それで、展覧会でしたよね?」
「はい。こちらがご案内状なんですけど」
テーブルに置かれたフルカラーのチラシには、寄り添う2人の少女画が描かれていた。
「素敵な絵ですね」
「20世紀前半に活動したフランスの女性画家で、マリーローランサンの描いた作品展なんです。ご存知でしたか?」
「何かで見たことはあった気がしますけど」
紛れもなく、確かにどこかでは目にしていたことがある。けど、必要に迫られるわけでもないのだから完全に把握しているわけもない。
「来週から来年1月の末まで展示しているので、宜しければクリスマスにでも彼女といらっしゃってはいかがですか?」
思いもしない言葉が飛んできた。
「彼女なんていませんよ」
「そうなんですか?」
「さては、ケンが何か言ってましたか?」
「素敵な彼女がいらっしゃる風に聞いてましたから」
ケンが頭に浮かべて彼女に話したのは、恐らく里美のことだろう。けど、もしそうだとしたらやはり間違っている。里美とは、お互いに好意はあるかもしれないが、それでも友人の枠から飛び出しているわけではなかったから。
「友人ならいますよ。けど、特定の彼女と言うわけではないです」
「そうでしたか。すみません、勝手な思い込みをしてしまったみたいで」
彼女は、申し訳なさそうに目を伏せてしまった。
「クリスマスですか。予定もないですし、素敵な絵を眺めながらクリスマスを過ごすのもいいですね」
そう言って、テーブルに置かれていたチラシを手にした。彼女の表情に、ほんのりと明るさが戻った。
「チケットはお幾らですか?」
「ご招待券をお渡ししますので、幾らも頂きません」
「いいんですか?」
彼女は、持参した封筒の中からチケットを2枚取り出して僕に渡した。
「どなたかお連れの方がいらっしゃいましたら、是非その方と」
彼女からチケットを受け取ると、「必ず伺います」と僕は言った。僕たちの回りには、相変わらず忙しない足音が幾つも響いていた。

scene.5

彼女にチケットを手渡されてから4日後の夜、僕は里美の家へ電話をかけた。
「……もしもし」
「浩之です。遅くにごめん」
「浩之君?」
電話に出た里美の声は、とても眠そうな声をしていた。
「浩之君から電話してくるなんて珍しいわね」
「そうかな?」
「そうよ」
里美の口調は、少し意地悪に聞こえた。
「特に用があったわけじゃないんだ」
「そうなの?」
「迷惑だったかい?」
「全然」
僕はこの時、咄嗟に里美に嘘をついた。ガラステーブルの上には、あの日彼女から受け取った2枚のチケットが無造作に並べられていた。受話器を耳に当てたまま、それをじっと眺めていた。里美を誘おうとして電話をかけたはずなのに、肝心の言葉が何故か口を出てこなかった。
「里美」
「何?」
「さっきまで寝てたんだろ?」
「……わかる?」
「声が、ね」
「眠そうな声してる?」
「眠そうと言うよりも、酷く無愛想な声をしてる」
受話器越しに、里美の空笑いが聞こえた。
「女はね、25歳を過ぎると大変なのよ」
「里美、まだ26歳じゃないか」
「もう26歳よ」
「それで?」
「だからね、夜更かしと甘いものは大敵なのよ。わかる?」
そう言ったすぐ後で、微かな欠伸の声が聞こえた。以前、甘いものを食べるとすぐ体重に返ってくると聞かされたことを思い出した。里美は、お世辞にもスレンダーな体型ではなかった。だからと言って、決して太っているわけでもない。僕から見れば、里美の可愛らしさが引き出せる体型だと思えるのだけど。
「特に何かあったわけでもないから、もう切るよ」
「待って」
電話の向こうで瞼を擦りながら話してる姿を想像したら、いたたまれない気持ちになってしまった。僕が電話を切ろうとすると、里美は慌てたようにそれを制した。
「今年のクリスマスはどうするの?」
「クリスマス?」
僕はチケットを1枚手に取って、目の前でヒラヒラと泳がせてみた。
「何も考えてないけど」
「そうなんだ。私は仕事なんだけど、良かったら夜に食事でもしない?」
「いいね。そうしようか」
里美の声は、どこか弾んでいた。
「お店、予約を入れておいた方がいいわよね」
「そこまでしなくてもいいんじゃないかな」
「でもクリスマスよ? しかも今年は週末だもの。どこのお店も混み合うはずだわ」
「混んでて入れなければ、その時は僕の部屋で食事にすればいいよ」
里美は何かを考えたように間を空けてから言った。
「そう、ね。それじゃあクリスマスの夜、仕事が終わったら電話するわ」
「わかった」
「じゃあ、クリスマスに」
「おやすみ」
電話を切った後、何故里美にチケットの話をしなかったのかを考えていた。考えてはみたけれど、何ひとつ答えは出て来なかった。結果として、里美はその日仕事なのだから誘ってみたところで無駄骨になったのだけど。
『どなたかお連れの方がいらっしゃいましたら、是非その方と……』
あの日の彼女の言葉が、頭の中でリフレインしていた。

scene.6

CDデッキに組み込まれたJulia Fordhamの甘い歌声が、光射す部屋に流れていた。軽めの昼食を済ませた僕は、出かける為の身支度をしていた。壁掛けの時計は、午後の2時を曖昧に示している。ガラステーブルに置かれたグレーのカップには、半分程度の珈琲が注いであった。立ち上る白い湯気と共に、独特の渋い香りが部屋を染めていく。僕は、この瞬間が堪らなく好きだった。
やがて珈琲が底を尽きた頃、クローゼットからジャケットを取り出した。内ポケットに彼女から受け取ったチケットを入れると、年に1度訪れる特別な冬の休日へと出かけた。
見上げる空は遥か青く澄んでいた。空気は渇いていたけれど、不思議と風は吹いていなかった。踏みつけるアスファルトに、冬の代名詞である白い雪は、欠片さえも見当たらなかった。それでも、歩を進める度に凛とした冷たさが頬を刺した。

展覧会が開かれている場所へ辿り着いた時には、外気に晒した肌は異常なまでに冷たくなっていた。
入口のガラス扉を開け、室内へと足を踏み入れた思いの他、室温が高いとは感じなかった。むしろ、着ていたコートを脱ぐには、少し肌寒さを感じる位だった。更に足を進めると、受付らしきカウンターがあった。僕はジャケットからチケットを取り出し、にこやかに微笑みかける女性に渡した。
僕は小さく息を吐いた。視界には、幾つもの壁掛けられた絵画が広がっていた。それが主旨なのだから当然のことなのだけれど、ここまで大々的だと返って場違いに思えてきてしまう。元々、美的センスの欠片も持ってはいないのだから無理もない。僕は壁から一定の間隔を保ちながら、通路を歩いていった。
「高梨さん」
不意に背中から呼ぶ声がした。振り向くと、彼女が歩み寄ってきていた。隣には、見知らぬ女性が一緒だった。
「こんにちは」
「お1人ですか?」
「えぇ。生憎、誰も誘える人がいませんでした」
「そうですか」
僕が苦笑いしながら答えると、まるで何も聞かなかったように彼女は返事だけを返してきた。
彼女は洗練されたシックな服装をしていた。腰まであった長い髪も、上手くひとつにまとめ上げられていた。2度だけ見た彼女のイメージからは、程遠い装いだった。
「高梨さん、ご紹介しますね。私が勤める画廊のオーナーです」
彼女が白く細い手を隣に向けると、その女性は小さく頭を下げながら言った。
「滝口と申します。本日はお休みのところ足を運んで頂きありがとうございます」
「高梨です。こちらこそ、招待券を頂いてしまい申し訳ありません」
程度よく挨拶を交わした後、滝口と名乗ったその女性は彼女に何やら耳打ちをしていた。その瞬間、彼女が小さく微笑み返したのを、僕は見逃さなかった。
「高梨さん、もし宜しければ私がご一緒させて頂いても構いませんか?」
思わぬ申し入れだった。正直、この普段では味わえない堅苦しい雰囲気に、少々戸惑っていたところだった。
「仕事に差し支えなければ、是非お願いします」
僕の返答に、「行ってらっしゃい」と彼女を呈した滝口オーナーの声が聞こえた。
「では、行きましょうか」
馴染みのない空間の中を、彼女の歩幅を気に留めながら僕は足を進めた。

彼女の案内でひと通り見て回り終えた時、天井まで届く大型の窓から覗く外の景色は、うっすらとオレンジ色が差し掛かっていた。
「いかがでしたか」
彼女からの問いかけは、美的感覚の無い僕にとってはかなりの難題だ。
「パステルカラーの色彩が見事で、作者の思いが滲み出ている感のする作品ばかりで……」
良くも口が滑るものだと我ながら感心した。けれど、彼女の視線は決して暖かいものではなかった。有りがちな回答など、彼女が僕の口から求めているものでは決してなかったのだろう。
「高梨さん、本心ですか?」
彼女ではなくとも、見抜くのは容易かっただろう。僕は観念したように、思いの内を正直に話した。
「淡い色使いがとても綺麗で、そこに優しさを感じるとは思いました。けど」
「けど?」
「ひとつひとつの作品に感想を述べることは出来ません。そんなに深く美術に興味を持っているわけではないので」
高貴な品物を扱う者にとって、それぞれの良さを肯定されないのは侮辱にさえ値するのかもしれない。僕が作者なら、こういう美的価値のわからない者に、自分の作品を見てもらいたいとは望まないだろう。恐らく彼女も呆れているか、気落ちしているかに違いない。と、思っていたのだが、実際にはそんなことはなく、どこか落ち着いた様子で僕の言葉を聞き入れていた。
「付け加えて言うなら、僕は現実的な美しさよりも、裏側に隠された空間に目が向いてしまうんです」
「裏側の空間?」
例えるなら、太陽の光が降り注ぐ真夏。手を翳したくなる程の眩しさに包まれている君がいる。その瞬間、光は何色に輝いて見えている? と聞かれたら、果たして何と答えるだろうか。空や海は青い色をしている。でも水は限りなく透明に近い色をしているし、空気には色なんてついてはいない。では光の色は? 詰まるところ、目に見えるものは不完全な情報でしかないのだ。その裏側に潜む真理を知り、完全な情報には誰もしようとはしない。けれど、そんな理屈を幾ら話したところで、僕という人間がとても卑屈な性格だとしか伝わらないだろう。
「モナリザの微笑みという絵がありますよね?」
「ダ・ヴィンチの作品ですね」
「それです。あの絵の感想は? と聞かれたら、どう答えますか?」
彼女は目を閉じた。モナリザの絵を脳内に描き、その色彩を手繰り寄せているのだろう。そして彼女は、静かな口調で話始めた。
「凛々しい。と言うか、芯のある女性像を描いているように思います。けど、その柔らかな微笑みからは静かな癒やしが滲み出ているようにも感じます。同じ女性として、あんな風に気丈に振る舞えたらと思っています」
同じ女性として。そんな風に答えた彼女だけれど、彼女程凛々しく佇む女性を、僕はお目にかかったことはない。
「石原さんらしい答え方ですね。でも僕は」
ひと呼吸の間を空けて、僕は言葉を続けた。
「確かに美しい微笑みだとは思います。でも、それなら何故あんなにも寂しい目をしているんでしょう?」
「寂しい?」
「モナリザの口元を手で覆うと、決して微笑んでいるとは思えない程に寂しい目をしているように見えるんです」
「そんな風に見たことはなかったわ」
ひと頻りに僕が言い終えると、彼女は何かを考え込んだように顔を伏せた。わずかに覗く表情は、厳しさを纏っているように感じた。
モナリザの微笑みが、何故あんなにも美しく見えるのか。きっと、彼女だけが知っている悲しみがあるからなのかもしれない。人は、悲しみを知った分だけ優しくなれると言うから。
「すみません。何か余計なことを話してしまいましたね」
すっかり陽が陰った室内には、等間隔にライトが照らされていた。人工的に造られた光からは、温もりは感じなかった。
「そろそろ失礼します。ひと通り見せて頂きましたし」
「そうですか」
来た道を戻るように出入口へと足を進めた時、重々しい雰囲気の中で彼女が口を開いた。
「高梨さん、この後のご予定は?」
「この後ですか?」
「もしご迷惑でなければ、お食事でもいかがですか? 来て頂いたお礼もしたいですし」
頭の中に、里美の姿がよぎった。
「構いませんよ。食事には少し早いかもしれませんが」
「では少し待っていて頂けますか? 準備をしてきますので」
「外で待ってます」
彼女は小走りで室内へと戻っていった。
僕は会場を出ると、出来るだけ目に付きやすいような位置で彼女を待つことにした。辺りは大勢の人が行き交っていた。街路樹に飾られたイルミネーションが青白く輝き、どこからか聖なる歌声が聴こえてきた。それと同時に、里美からの電話に、どんな穴埋めをしようかと考えていた。

scene.7

「お待たせしました」
彼女が再び現れたのは、それから20分程してからだった。
「仕事の方は大丈夫なんですか?」と聞くと、彼女は控えめに笑いながら「大丈夫です」と答えた。
「どこへ行きましょうか?」
「私の知ってるお店で良ければ。西麻布にあるイタリア料理のお店なんですけど」
「いいですね。案内して頂けますか?」
彼女はニコリと微笑み、近くに止まっていたタクシーを捕まえた。乗務員に丁寧な口調で道案内をする彼女の隣で、僕は窓に流れる景色をぼんやりと眺めていた。
車は西麻布の雑踏を抜け、閑静な場所へと走り着いた。時間は間もなく6時になろうとしていた。
店内に顔を覗かせると、時間が少し早かったせいもあるのか、2人分の席はすぐに用意してもらえた。僕たちは手渡されたメニューを覗き込み、しばらくして近くに立つウェイターを呼んだ。彼女は魚貝類のクリーム和えサラダと、さやえんどうと生ハムのリゾットを頼み、僕はツナと豆のマリネとペスカトーレのパスタをそれぞれに選び、食前酒にカンパリ酒のグラスを2つオーダーした。
「素敵なお店ですね」
「お気に召して頂けましたか?」
「隠れ家的な趣が、何とも言えない雰囲気ですね」
「私、基本は人混みが苦手なんです。ですから、ちょっと足を運ぶ位の場所でお店を探してしまうんです」
確かに、彼女には賑わう繁華街はどこか不釣り合いな気がした。夏には虫の鳴き声が、冬には雪を踏みしめる音が窓越しに聞こえてくるような、そんな佇まいを見せる店が似合っているように思える。彼女という人柄が、そんな寂しげな連想をさせるのは、いったい何故なのだろう。きっと、僕には想像も覚束ない彼女の姿があるのだろう。決して触れることの無い彼女の姿が。
食前酒が運ばれてグラスを手にした時、不意に困ったように彼女は言った。
「こういう時、何て言ってグラスを合わせればいいのかしら?」
単なる知人。そう言ってしまえる程、僕たちは、確たる理由の無い不確かな関係だった。
「2度目の出会いの夜に。と言うのはいかがです?」
彼女は口元を優しく緩ませながら、「そうですね」と言ってグラスを差し出した。
「では、2度目の出会いの夜に」
僕たちはグラスを傾けて、瞬間的に縁を重ね合わせた。品のある透明な音が、僕たちを囲むように小さく鳴った。
テーブルの中心に置かれたキャンドルの炎が、店内の空気に触れる度に小さく揺らいでいた。

「美味しい」
食事が運ばれてきてから、彼女はスプーンの先端に乗せたリゾットを口に運んでは、至福の時を噛みしめるように言った。そんな様子を眺めながら、僕はフォークにパスタを絡めていた。
その間に交わした言葉は、音楽の趣味や休日の過ごし方といった、在り来たりな内容だった。とは言え、そのひとつひとつに彼女を造り出す背景があるのかと思うと、聞き流すことも出来なかった。
「聞いてもいいですか?」
在り来たりな雑談の延長。とは思えないような、畏まった言い回しで、彼女は聞いてきた。
「答えられる範囲なら」
僕がそう答えると、「難しいことではないですから」と彼女は言った。
「高梨さんって、普段からあんな感じなんですか?」
「あんな感じ?」
「さっき、モナリザの話をしましたよね? 女性画の作品に、口元を手で覆うなんて言った人を私は初めて見たから」
「そのことですか」
「いつもあんな風なんですか?」
自分が他人とどんな接触の仕方をしてるのかを問われても、恐らく即答出来る人は僅かなものだろう。
「高梨さんって、人付き合いは苦手な方でしょう」
僕が答えかねていると、彼女は悪戯な笑みでそう言った。図星だった。
「どうしてそう思います?」
「そうね。感、かな」
「女性の感は当たるらしいからね」
「勿論、確信もありますよ」
彼女が何を確信したのかはわからなかった。いずれにしても、自分の性格に的を得て話されるのは、余り面白いものではない。
「女性にとって、顔は美しさを表現する源です。その女性の口元を手で覆うなんて行為は、普通なら反感を買いますよ」
もっともな意見だ。だからこそ、僕は見えているものでも見えないフリをして相手と接触することにしていた。無意味な混乱を避ける為にも。
「そうでしょうね」
「結末の予測が出来ていながらそれをしないのは、嫌われたくてわざとしているのか、若しくは何か信念みたいなものがあってしないのか。もしも嫌われたくてしているのなら論外ですけど、信念があってと言うのなら、それは単に不器用なだけとしか言いようがないわ。他にやりようがあったかもしれないのに」
「確かに」
「私には、高梨さんが嫌われようとして言ってる風には思えなかった」
的確な洞察力だった。そこまで言い切られると、返す言葉さえ見つからない。けど、曖昧なままで僕を評価されるのも快いものではない。
「あなたの言う通りですよ。僕は嫌われようとしているわけでも、ましてや喧嘩をふっかけているわけでもない。結果として、そう思わせてしまっているのかもしれないけど、出来ることなら周りと上手く波長を合わせたいと思っているよ」
「それなら」
「何故見なくてもいいものに目を向けるのか?」
「立たずに済む波風を、わざと起こさなくてもいいのに」
「まったくです」
「やっぱり、不器用なんですね」
「そうらしいですね」
人は分かり合うことを心に望んでいる。けれど現実は少し違った思想にねじ曲がっていたりする。分かり合うことから、何故自分を分かってくれないのかと。真に理解し合えることなど、望むべくことではないのかもしれない。
「目に見えているものが全てだとは思いたくないんです」
「目に見えないものを信じろと言う方が難しくはないですか?」
「そうでしょうね」
分かりきっていたこと。こんな議論を繰り返しても行き着く先にあるのは、結局人は1人でしかないという事実だけ。
言葉が途切れたその時、僕はグラスに残ったカンパリ酒をひと息に喉の奥へと流し込んだ。その様子を見ていた彼女は、ウェイターからメニューを受け取り僕に手渡した。僕が新たにシャンパンを頼むと、「私も同じものを」と彼女も合わせて頼んだ。
「あなたも、1×1=1。この3つ並んだ1が、どれも同じ意味を持つと思っている1人なんですね」
「違うんですか?」
「違わないと思うよ。数字上はね」
彼女はしばらく考えたように首を傾げていた。
「例えば、縦横1cmの正方形の面積は1平方cmを意味する場合、この1平方cmの1は明らかに他の2つの1とは意味が違う。それから、1という数字を3つに分けようとすると、1÷3=0.333...。それを元に戻そうとして0.333...×3とすると答えは0.999...で、明らかに1にはならない。足らない0.000...1は、いったいどこに消えてしまったんでしょう?」
「まるで禅問答ですね」
「数の始まりである1という小さな数字でも、その影には複雑に絡み合った真理が幾つも存在しているんだ」
彼女は、ただ頷くばかりだった。
「目に見えないものに隠された真理を知ろうとすることが、本質的にものを知ることだと僕は思ってる」
話の途中で運ばれてきていたシャンパンが、グラスの中で小刻みに弾けていた。そして僕は、話の最後に言葉を付け足した。
「目に見えないものを信じることが難しいと言うなら、あなたは、誰かを想う気持ちや想われる気持ち。心という不確かなものを信じる事は出来ないですか?」
「それは……」
彼女は視線を僕から外し、手元のグラスに落とした。そのまま、それを上げることはしなかった。その時になって、ようやく僕の話の矛先が、彼女を無碍に追い詰めていることに気づいた。もちろん、そんなつもりはまるで無いのだけれど。
「すみません。話を変えましょう」
慌てて僕が切り出すと、彼女は少しだけ笑顔を見せてくれた。
「料理も冷めてしまいましたね。何か頼みましょうか」
ウェイターを呼び再度メニューを受け取ると、僕は牛サーロインの炭火焼きを頼み、彼女はイベリコ豚とモッツァレラのキャベツ包みをオーダーした。
空間に微妙なズレを感じていた。きっと彼女も同じ気持ちだろう。今さらに、彼女に言われた不器用という単語が、僕にへばりついているのを感じていた。いたたまれない感を拭えずに、僕はポケットから煙草を取り出して火を付けた。
「私……」
グラスを両手で包むように触れた彼女は、小さく声を震わせながら話し始めた。それは、彼女の心の領域へ、ゆっくりと僕を誘っていった。
「好きな人がいたんです。もう3年も前のことですけど」
初めて彼女に出会った日、不意にケンが口にした言葉を思い出した。その時は、彼女は何も答えようとはしなかった。今彼女は、閉じていた重い扉を静かに開いた。何故そうしたのか、僕にはわからなかったけれど。付けたばかりの煙草を灰皿にもみ消すと、タイミング。合わせたように、搾り出すような声で彼女は話を続けた。
「その時私は、翌年に卒業を控えたまだ学生でした。彼は私とは3歳離れていて……今の私と同じ歳ですね」
自分と同じ歳。そう言った彼女は、どこか嬉しそうにはにかんだ表情を見せた。
「スーツ姿の似合う人で、多分私の方が惹かれていく気持ちは強かったと思います」
「若い頃は、どういうわけか年上の異性を妙に意識してしまうものだから。憧れにも似た感情みたいに」
「憧れですか。私もそうだったのかな」
彼女が感慨深く思い込んだその時、テーブルには新たに頼んだ料理が運ばれてきた。そっと音を立てずに置かれた皿は、彼女の言葉を消さないように精一杯の気遣いをしているようだった。彼女は「美味しそう」と言いながら、器用にナイフとフォークを入れていった。
不意に彼女はクスッと笑って言った。
「私、彼と出会うまで、こうしてナイフやフォークしか使わないお店には来たことなかったんです。だから初めて彼にこんな風な食事に連れられた時、凄く緊張してしまって」
「ナイフを床に落とした。とか?」
僕が予想の中で口を挟むと、「わかります?」と恥ずかしそうに俯きながら言った。
「もう恥ずかしくて恥ずかしくて。頭が真っ白になったわ」
「そうだろうね」
「でも彼、その時にどうしたと思います?」
「わからないな。どうしたの?」
僕は質問に質問で返した。そうされることを、彼女が望んでいる気がして。
「彼、わざと自分のナイフを床に落としたんです」
僕にはその時の彼の心情が、わかるような気がした。わかった所で実行出来るかといったら、恐らくは出来ないだろう。毅然とした態度でその場を処理することは出来たかもしれないけど。
「そう言えば、2度目の食事の時に着ていたピンク色のワンピース、良く似合ってるって誉めてくれたわ。私、凄く背伸びをして着て行ったから覚えてるの」
そう言いながら、彼女は少女の恋心を絵に描いたようなうっとりとした表情を見せた。その時、彼女は気づいていたのだろうか。過去の思い出を語るということは、言葉通りそれは過去の産物であって、現在は時が動いていない証。僕に話を聞かせる度に、1歩ずつ確実に自分を追い込んでいくのだということに。
「本当に好きだったんですね」
ひとり言とも問いかけとも取れる僕の言葉に、彼女は微笑みで返してきた。
「何だか酔ってしまったみたい。しゃべり過ぎてしまったわ」
細い腕を抱きしめるように両腕を回した。アルコールに体を火照らせた彼女は、まるでキャンドルの炎のように艶めかしく揺らいでいた。
「そう言えば、高梨さんって浩之さんって言うんですね。この前会社へ伺うのに、鈴木さんに聞いて知ったの」
「ケンは健二だからケン。僕は浩之だからヒロ。いつの間にかそう呼ぶようになってた」
「とても仲がいいのね」
「腐れ縁かな」
取り留めのない話を彼女がしていることも、それがわざとしていることも僕にはわかっていた。そうすることで悲しみの世界に落ちてしまった心に、再び整理する時間を与えようとしているのだろう。
「鈴木さん、あなたといると気持ちがとても楽だって言ってたの」
「ケンがそんなことを? 僕はケンに何もしてはいないんだけどな」
「だからじゃないですか? 誰でもつい詮索してしまいそうなこともあなたは自分からは触れようとはしない。鈴木さんは、きっとあなたなら安心していられるんじゃないかしら」
彼女の瞳は潤んでいた。言葉の裏に隠された何かを僕は感じ取ることが出来たけど、僕はそれを口にはしなかった。
「高梨さんって、やっぱり優しい人ですね」
「買い被り過ぎだよ」
「また、お誘いしてもいいですか?」
「喜んで」
僕は近くのウェイターにペンと紙を用意してもらうと、部屋の電話番号を書き彼女に渡した。
店の勘定を払おうとポケットから財布を取り出すと、「今日は私がお誘いしたんですから」と言ってハンドバッグを持ち勘定を払いに行った。
先きに店の外に出ると、冷たい風が頬をかすめた。勘定を済ませて店を出て来た彼女は、「電話します」と僕の目を見つめながら静かな口調でそう言った。

scene.8

彼女と別れてから、僕は柔らかい街灯の明かりに照らされながら家路へと続く長い道のりを辿っていた。夜の厳しい冬風は、冷たくあしらうように僕の体温を奪っていった。至る所から奇声にも似た騒ぎ声が聞こえてくる。通りを隔てた店先には人だかりが出来ていて、クリスマスカラーに飾られたまま時を忘れて浮かれていた。僕の心は見えない何かに捕らわれたように、その中へと混じり合うことは出来なかった。
通りに面した銀行のデジタル時計は22時15分を示していた。体温同様に熱を奪われた心は、凛とした空気のように研ぎ澄まされていた。僕の頭の中は、彼女と交わした言葉だけが何度も繰り返されていた。それは激しくもなく温かいものでもなかった。
僕は通りを走るタクシーを捕まえた。車内は独特の鼻につく匂いがした。淡々と行き先を告げると、シートに深くもたれかかった。窓を流れていくネオンの明かりは、どこか彼女に似ている感じがした。暗い闇の中で様々な輝きを見せながらも、すべてを光の元に照らし出す太陽の陽射しにはかなわない。自分自身で輝くことの出来ないネオンは、彼という存在を無くした彼女そのものに思えた。
下北沢の繁華街で車を降りた僕は、再び夜空の下を歩き始めた。煌びやかにデコレーションされた住宅街の中を通り抜け、マンションの前に着いた頃には、物言えぬ疲れが襲ってきた。呼吸を続けることが酷く重荷に思えるほど、くたびれた体に嫌気がさしてきた。
部屋に入り電気を付け、ジャケットを脱ぎ捨てるとソファーにもたれかかった。力が抜けきった体をソファーに預けながら、頭の中ではまだ彼女のことを考えていた。彼女は何のために自分のことを僕に話したのか。そこに何を求めていたのか。結局、今はいない彼との思い出の中で、自分を悲しみの底へと落としていくだけでしかないのに。
しばらく考えているうちに、そんなことに思い悩んでいる自分がたまらなく可笑しくなってきた。僕は服を脱ぎ、熱いシャワーを浴びて、まだ少し残った酔いと疲れを癒やした。濡れた体にバスローブを羽織り窓の外を眺めた。けれど夜に輝く景色の中に、もう彼女を探すことは出来なかった。
僕は煙草に火を付けると、肺の奥へと煙を吸い込んだ。部屋の隅に置いてある空気清浄機がけたたましい音と共に動き出した。今夜に限ってはその音が、とても僕を苛つかせた。煙草をもみ消しベッドに寝ころんだ。目を閉じると、彼女のことをまた思い出した。
彼女が人の愛に対してどこか遠ざかっているような感じがするのは何故なのだろう。初めに感じた違和感は、今となってもまだ拭えずにいた。きっと、彼女について僕がどんなことを話しても、思いつく言葉の中に無理矢理当てはめた返事が返ってくるのかもしれない。自分のすべてをさらけ出さないために。
僕の目は冴えていた。いくら目を瞑っても眠ることが出来なかった。虚ろに、いくつもの思いが脳裏を巡っていた。そして急に里美を思い出し、電話機に目を向けた。留守番の録音機能に何かを告げる赤いランプが、規則的に点灯していた。
『里美です。今晩は。クリスマスの夜にどこ行ってるのかな? まぁ、いいわ。いつものことだもんね。また連絡するわ。……それじゃ、メリークリスマス』
録音は、里美からだった。かけ直してみようかとも思ってはみたけど、こんな時は、気持ちだけが空回りして取り留めもない会話にしかならないはずだし、反って里美に悪い気をさせてしまうはず。仕方なく僕は体を起こし、冷蔵庫から缶ビールを取り出して開けた。
それから何本目かのビールを飲み干して、ようやく眠りにつくことが出来た。

scene.9

慌ただしい年の瀬を過ぎ、短い冬休みが呆気なく終わった。僕の日常は年が明けても何ひとつ変わることなく、殴り書きのスケジュール帳に時を追われる有り様だった。時折、この日常という空間が、無性に居心地悪く感じることがある。それは例えば、渋滞した環状線から流れ出る排気ガスの焦げついた匂いだったり、朝の通勤ラッシュの車内に充満した体臭と化粧品の類の匂いに、吐き気を覚えたような感じに似ている。生きる為には必要不可欠な手段とはいえ、望んでもいない社会といった殺伐としたものに拘束されているのは、たまらなく嫌気がさしてくる。月に1度、30枚程度の紙幣を得た僕たちは気付くと今日という日を捧げている。それは、明日を手に入れる為の公約なのかもしれない。何故なら、僕たちは未来を手にする代償に命の蝋燭を削っているのだから。そうした哀れな日常を、僕はもう何年も過ごしている。……僕は、いつになったら素直になれるのだろう。

1月も終わりに差しかかった頃、僕はいつものように外回りから戻り、机に重なった書類を整理していた。窓際の机に座り早口で喋る上司。ドア一枚を隔てた会議室から響く声。耳に捉えた僕は、素知らぬ顔でペンを走らせている。そんな環境からようやく解放されたのは、午後も9時を回った頃だった。この時間ともなるとさすがにロビーには人の姿も数少なくしか見えなくなっていた。こういう時、酷く世界から取り残された気分になるのは何故だろう。
ビルを出ると、厳しい風が纏わりついてきた。僕はロングコートに首を窄めて歩き始めようとした。
「高梨さん」
突き刺さる風に乗って僕を呼ぶ声がした。僕は視線だけを向けた。そこには風に遊ばれる長い髪を手で押さえ、僕に向けて微笑む彼女の姿があった。
「石原さん?」
辺りは漆黒の闇に包まれていた。足元に広がる街灯の明かりは、ほんの少しだけ優しさの面影を含んでいた。そしてそれは、彼女の居場所を明確に伝えるたったひとつの方法だった。
「どうしたんですか?」
「あなたを待っていたの」
そう言った彼女の瞳は、今まで見た中で1番の寂しさを混じり合わせていた。そしてその言葉は、僕の心のどこかの部分を確実に削り取った。そして削り取られた場所からは、今までには種ほどにもなかった新たな感情が芽生え始めていた。
「いつからそこに?」
「ここは寂しい場所ね。夕焼けがまだ眩しかった時にはあんなに賑わいでいたのに、今ではこんなにも悲嘆に満ちているの。まるで、乗り手を失った公園のブランコみたい」
彼女が言ったことが事実なら、優に5時間は経過していることになる。僕の胸は否応なく高鳴っていた。
彼女は空を見上げた。街のネオンに消され、数えるほどの小さな星を散りばめた夜空が、高層ビルのわずかな隙間に輝いていた。
「どこか静かな場所に行きません? あなたと、話がしたいの」
僕は返す言葉に躊躇いを感じていた。どんな言葉も、彼女には届かないような気がして。
「青山に知ってるバーがあるけど、そこへ行きますか?」
「人のいない所がいいわ」
彼女の小さく響く声は夜風にかき消されそうだった。
「それなら、僕の部屋に来ますか? 少し散らかっているけど」
「いいんですか?」
「構わないですよ。とは言っても飲み物くらいしか用意は出来ないけど」
彼女は小刻みに首を横に振った。
(あなたと話がしたいだけだから……)
不思議と、そう言ってるような感じがした。そしてその声はとても弱々しく、泣いてる幼子のように震えた声だった。
「タクシーを捕まえましょう。その方が早いから」
「……ありがとう」
僕たちは少しだけ歩いて広い道に出ると、流していたタクシーを拾ってマンションへと向かった。路面とタイヤが点で重なる音だけが、一定の音域で車内に流れていた。
彼女は口を閉ざしていた。ただじっと車窓に流れる夜の景色を見つめていた。そんな彼女の心の在処を僕は少しだけ探そうとした。けれどそれが酷く無い物ねだりな感じがして、僕は直ぐに探すことを諦めた。
結局彼女は1度も口を開くことはなく、車はマンションの入口で止まった。エレベーターで7階へ上がり、寝た子を起こさないような慎重さで重々しい玄関のドアを開けた。
「狭い部屋だけど、どうぞ」
彼女はにこりと微笑んで、まるで裸体をさらけ出すようにそっとハイヒールを脱いだ。細い足首が艶めかしくとても綺麗だった。
「素敵なお部屋ね」
彼女はようやく口を開いた。
「そうですか? 1人でいると、無駄な空間に思えて寂しくなる時がありますけどね。でもここから見る夜景は、僕を孤独から救ってくれるような気がして好きなんです」
彼女は足音を立てずにスッと窓の側に立ち外を眺めた。
「綺麗。……だけど」
そっと窓に映る街の明かりに彼女は指先で触れた。
「やっぱり寂しい感じがするわ」
彼女は見下ろす夜の街に何を描き、何を期待しているのだろう。僕は彼女の心にそっと耳を傾けてみた。けれど、黙ったまま窓の向こうを見つめる彼女の背中から、何かを感じ取ることは出来なかった。
「お酒がいいですか? それとも珈琲か紅茶。何がいいですか?」
まるですきま風のようにさり気なく僕は言葉を置いた。
「それじゃあ、お酒を貰おうかしら。何があるの?」
「ビールにスコッチ、白と赤のワインなら」
彼女は振り返り、両腕に手を回し抱き寄せる仕草をしながら言った。
「ワインを頂いても?」
「赤と白なら?」
「赤でお願いします」
僕はボトルの封を開けてコルクを抜き、ガラステーブルに2つ並べたワイングラスに静かに注いだ。
僕がソファーに座ると、誘われるように彼女は隣に腰を下ろした。グラスを持った彼女の手は震えていた。内から迸る悲しみから必死に耐えているように見えた。
「乾杯」
彼女のグラスに僕は自分のグラスを軽く合わせた。ひと口分のワインを飲み、僕は煙草に火を付けて深く吸い込んだ。
「今夜は驚きました。まさか待っているとは思いもしていなかったからね。寒むくはなかったですか?」
僕は当たり障りなく言葉を紡いだ。けれどそれは、この空虚な時間の中で彼女に何かを言わせる為のようにわざとらしく彼女には聞こえたかもしれない。そして彼女は、囁くように語り始めた。
「私、自分がわからないの。あなたと食事をして、彼のことを思い出して、……彼を忘れていた事に気付いたの。ずっと忘れないって、あんなに泣いたのに」
瞳が輝きに揺れていた。部屋の明かりを受け入れた潤んだ瞳は、波間に揺れる夜の光のように神秘な美しさを含んでいた。
「あの頃は寂しさで潰れてしまいそうだった。私は、私を着飾ることで寂しさを誤魔化していたの。それで大切なことまで私は……」
涙に埋もれていくように泣き出した。止めどなく溢れ出る涙には、彼女の懺悔の念が込められていた。
「誰にだって、何も見えなくなってしまう時はあるよ。今がそんな時なんじゃないかな。誰もあなたを責めたりはしない。僕だって、毎日の自分を誤魔化しながら暮らしているんだから」
彼女を慰める為の言葉なんて、どこにも無いような気がした。僕に今出来ることは、泣き崩れている彼女を見つめていることだけ。彼女が抱える寂しさの理由はわからなかったが、聞き出した所で何かが救われるわけでもないことを僕は知っていた。悪戯に彼女の心をえぐる真似だけは避けたかった。傷つかないことや傷つけないことに夢中になっているうちに、人は傷みを忘れてしまう。けれどそれは、単に悲しみの理由を整理しているだけのことにしか過ぎず、傷みが消え去ってしまったわけではない。そして人は、明日が来ることを当然のように信じていく。
時間は瞬く間に過ぎていった。僕は灰皿に煙草をもみ消すと、空になったグラスに再びワインを注いだ。
鼓動が高鳴る。原色の絵の具が混ざり合うように、意識は何色何通りにも困惑していた。気付くと彼女は僕を見つめていた。壁掛け時計の針の音が、脈打つように胸に響いてくる。涙は憂いの言葉から滲み出し、シャープな顎のラインに沿ってゆっくりと流れていた。僕はグラスをテーブルに置いて彼女の頬に触れてみた。涙の通った筋が指先を濡らした。静かに彼女の髪に触れ肩をそっと抱き寄せると、彼女は眠りにつくようにしなやかに体の力を抜いて、僕に体を任せた。スカートの裾からは魅惑的な足首がスラリと露出していた。彼女は小さな呼吸の中で冷たい涙を流し続けていた。彼女の体を静かに抱え上げると、両手を首に回ししっかりとした強さで僕にしがみついた。寝室のベッドへと運び彼女を横たえ、じっと彼女の顔を見つめた。暗がりな部屋のベッドの中央で、僕はそっと唇を重ねた。彼女の細い腕は僕の体を包み込むように引き寄せた。この瞬間を瞼の裏に閉じ込めるように僕は目を閉じた。
意識の中には温もりと呼吸だけが緩やかに穏やかに続いていた。一定の感覚で彼女の口からは艶めかしい声が漏れ、その度に僕の理性は弾け飛びそうになった。彼女は思い浮かべてしまうもののひとつひとつを振り払うようにベッドの上を転がった。そして僕たちは闇の中に溶けていった。
時間の経過を無視するほど重なり合い、2人は温もりの先に続く光を求め合った。
「これで、いいのよね……」
光を失った部屋の中で、小指の先にも満たない輝きが言葉と共に彼女の頬を伝った。掠れた吐息は過去の幻影に問いかけるように呟く。まるで夕暮れの街並みに響く恋歌のように、切なく甘い旋律に乗せて。僕はそっと囁いた。
「もう、悲しまなくていいんだ」
彼女は優しい泣き顔で、静かに小さく微笑んだ。

scene.10

2人の衣服が無造作に床に散らばっていて、窓を透過する眩しい朝の光に照らされていた。肌に触れる温もりの中、いつもとは違う穏やかな目覚めだった。彼女は小さな寝息を立てながら眠りの中にあった。僕は彼女の髪を優しく撫でながら彼女の目覚めを待っていた。その寝顔には赤ん坊のような安らぎが満ちていた。
不意に僕は怖くなった。彼女が目覚めた時、確かに感じた2人の温もりが、一瞬で脆くも壊れてしまいそうに思えて。彼女の胸の内にある失望から彼女自身を解き放つ術を僕は知らない。僕の中に感じた安堵感が、一時のまやかしだったと彼女が我に返った時、彼女は僕に何を思い、僕は彼女に何を思うのか。僕はゆっくりとベッドを抜け出した。
部屋はタイマーの効いたエアコンが適度な室温を保っていたが、窓際に立つと外気との差で窓は白く曇っていた。
「雪か」
湿気に曇った窓越しに見える外の景色は、白の絵の具で塗装したように華やかな色を消し去っていた。いつの間にか降り出していた雪は、慌ただしく動き始めた朝を押し固めるように街に降り注いでいた。
時計の針は6時を曖昧に示している。僕は1日の始まりをぼんやりと眺めていた。
「雪、降ってるの?」
ベッドに横たわった彼女は、シーツを手繰り寄せ露わになった胸元を隠すように包み込みながら、静かな目覚めの中でじっと僕を見つめながら言った。
「起こしちゃった?」
「大丈夫」
乱れた長い髪を揺らしながら、彼女は小さく首を横に振った。視線を僕から外すことはなく。僕は彼女のように凝視することは出来なかった。彼女と僕との境界線は、容易に見てとれるほどまだはっきりとはしていなかったから。
僕がキッチンへと向かうと、彼女はシーツの端を引き擦りながら窓際に立った。
「真っ白ね」
ゆっくりと強さを増し始めた朝日を浴びる彼女は、逆行した光の中に吸い込まれていくように眩しさに包まれていた。
「遠い日の出来事を、すべてこの雪の下に埋めてしまえたら、私はどれだけ楽になれるのかしら」
肩に止まった粉雪を払い落とすように彼女は言った。それは、明らかに僕に向けられた言葉ではなかった。
「珈琲、淹れたから飲んで」
僕は聞こえないフリをしてガラステーブルの上に珈琲の入ったカップを2つ並べて置いた。そのひとつに口を付け、テレビのスイッチを入れると、ニュースキャスターが論じた報道についてコメンテーターが言葉を乗せていた。それは人に与えられた自由の権利さえも、報道の前には意味を無くしてしまうようなものだった。
「人って勝手よね。自分に降りかからないことなら平然と物が言えるのだから」
ソファーに座り珈琲を飲みながらブラウン管を見つめる僕の隣に彼女は座り、冷めた視線でそう言った。彼女はどこか苛立っているようだった。その言葉の行き先は、単に世論への反発という枠の中に囲われているものではないような気がした。
「誰だって、自分を守っていたいのさ。自分を犠牲にしてまで誰かを庇おうとする人はいない。仮にいたとしても、偽善者扱いされるのが落ちだ。みんな、自分に害が及ばない程度に賢く生きているんだよ」
「寂しい世の中ね」
彼女の寂しさを拭う為に僕に捧げられる何かがあったとして、その時僕は、言葉無くして捧げることが出来るだろうか。きっと、どこかに逃げ道を用意しながら、自分を良く見せようとするのではないだろうか。僕は、人として大事な何かを忘れてしまった気がする。
「ねぇ、もしも誰か1人を選ばなければならないとした時、過去に出会った人の誰かと、まだ見ぬ未来に出会うはずの誰か。浩之さんならいつの時の人を選ぶ?」
それは突然に僕を困惑に陥れた。過去に出会った誰かと、まだ見ぬ未来に出会う誰か。過去に出会った人なら、どんな人物像かは歴然としている。もしも修正が必要ならばやり直すことも出来るはず。けれど所詮は過去の出来事。また同じ過ちを繰り返さないという保証はない。それならば、まだ見ぬ未来に出会う人となら、過ちを犯さずにいられるのかもしれない。
「難しい質問だね。君はどうなの?」
「私は……」
彼女が次の空間に置いた言葉は、まるで彼女の悲しみのすべてを凝縮しているもののようだった。そして、いかに彼女の心が僕の想像を越えた位置に存在し、容易には辿り着けない境地であるのかを知らされることになった。
「過去に出会った人を選ぶわ」
「1度犯した過ちを、また繰り返す事になっても? それに、現実を考えてごらんよ。過去は、所詮過去でしかない。同じ時代には戻れないんだよ?」
「それなら」彼女は突き放すように僕を見つめた。「私は、過去の虜になって、すがりついて生きるわ」
彼女を動かしている力があるとすれば、それはきっと未来への希望という光ではないのだろう。彼女は今も、記憶の世界の住人として生きているのだ。深くて暗い水の底で現代から取り残されたシーラカンスが、ただ呼吸が閉塞するその時を待っているみたいに。
「シャワー、借りていいかしら」
僕の手にあったカップの中身が、丁度半分近く減った時だった。スッと立ち上がった彼女は柔らかな香りを仄めかせた。
「どうぞ。そこの扉の先が浴室だから」
「ありがとう」
腰を下ろしたまま指先で浴室の方を指すと、スルリと自身を包んでいたシーツを解き彼女は浴室へと向かった。露わになった彼女の後ろ姿は暗闇で見た時よりも更に白く、目を見開いてはいけないと思えるほどに美しかった。瞬間、昨夜のしなやかに動く彼女の姿が浮かんできて、僕は罪を犯した罪人のように悲痛に顔を歪めた。僕は彼女が落とした言葉の意味を知らずに彼女を抱いた。そんな僕を彼女は受け入れ、更に求めてきた。僕は今、小さな後悔の念に押し潰されそうになっていた。

20分ほどして彼女は戻ってきた。バスローブを羽織り、濡れた髪にタオルを当てながら。
「珈琲、淹れ直すよ」
冷めた彼女のカップと自分のカップを持ってキッチンへと向かった。
「素敵な曲ね」
部屋に流れる歌声に、彼女は波長を合わせた鼻歌でメロディーを重ねていた。
「Julia Fordhamっていうイギリスの女性シンガーだよ」
「そうなんだ」
その歌声は甘く優しい音色を奏でていた。
彼女はバックから小さなエナメルの入ったポーチを取り出した。中からベージュ色のコンパクトを出し開けると、小さな鏡を器用に動かしながら髪をとかし始めた。
「帰るのかい?」
「仕事があるもの」
「それにしても、随分と慌ただしいね」
「1度部屋へ戻らなきゃ。昨日と同じ格好という訳にはいかないでしょ?」
彼女は鏡の中の自分を見つめ、薄いピンク色の口紅を塗った。彼女の唇をみつめていると僕は吸い込まれるように衝動的な欲望にかられた。勿論、欲望のままに行動するほど僕は子供じゃない。そっと背中越しに彼女の肩に手を置くと、彼女は僕の手に手を重ねてきた。鏡ごしに小さく微笑みながら。
服を着終えると、テーブルにある湯気の立つカップに静かに口を付けた。
「美味しい」
カップの縁を軽く指先で拭き取る仕草は、まるで宮殿のテラスで朝のまどろみを堪能する貴婦人のようだった。
「インスタントも悪くないだろ?」
「そうね」
それから直ぐ、「もう行くわ」と言ってカップをテーブルに戻した。涙の理由も忘れてしまったように、明るい笑顔を見せて。
「夜電話してもいいかしら?」
ヒールを履いた彼女は、玄関のコンクリートをカツンと鳴らしながら向き直るとそう言った。僕はその彼女の言葉を愛惜しむように言った。
「待ってるよ」
彼女はにこりと笑みを返し、重いドアを開け、真っ白に光輝く雪の朝へと消えていった。
彼女が去った部屋に無音の時が刻まれていく。テーブルに並べられた2つの珈琲カップ。無造作に投げ出されたシーツ。確かに彼女がいた標が部屋の至る所に点在はしていたけれど、そのどれからも彼女の温もりは感じ取れず、ただ痕跡を残しているだけの代物に成り変わっていた。けれど部屋に立ち込める彼女の残り香が、彼女に対して芽生え始めた淡い感情を更に増幅させていった。それは必要に僕を縛りつけ、容易に彼女と過ごした時間を現実から切り離してはくれなかった。

その日は、ほとんどと言っていい程に仕事に集中はしていなかった。手帳に書き留めた商談内容も、後で読み返してみると散々な有り様で、新入社員の時のように回りが見て取れない瞬間を何度となく味わった。時折、沈黙した時間の中では決まって彼女のことを思い出した。移動の電車の中で化粧品類の匂いを嗅ぐと彼女の柔らかな香りを思い出し、すれ違うふとした女性の仕草に彼女を重ねてみたりもした。彼女の面影の前では、今日という日はまるで無意味なものであるように感じたのは、午後も9時を回り仕事から解放された時だった。
コンクリートを踏みしめ、見慣れた街並みを歩きながら家路を辿った。錆び付いたバス停。捻れたガードレール。点灯の覚束ない街路灯。普段ならただ見過ごしていた風景も、まるで名のある彫刻家が絞り出したオブジェのようにオリジナルな作品に思えた。
マンションに着きドアに鍵を差し込むと、彼女がいた暖かな部屋の温もりを瞬間的に思い出した。暗がりの部屋に明かりを灯すと、不意に彼女がいるような錯覚に陥った。僕の心は遊技具を前にした子供のようにはしゃいでいた。電話機には録音件はひとつもなかった。僕は彼女からの電話を待っていた。サンタクロースを信じて待っていた少年期のような心境で。
食器棚からグラスを取り出し、スコッチを注ぐとストレートで口にした。スコッチのアルコールの強さが、加速をつけて空っぽの胃の壁内を巡った。この自暴自棄にも等しい行為は、そこに自分の存在を確立するためのひとつの手段だとは言えるのだろうか。冷凍庫の扉を開けると、白く冷たい煙が部屋の空気と混ざり合った。閉じ込めた想いを吐き出したように口を開いた冷凍庫の中から、想いの欠片となった氷をひとつ掴みグラスの中に落とした。氷は瞬時に音を立ててひび割れ、ゆらりとグラスの中を泳ぎ始めた。
気づくと部屋から彼女の温もりは消え去っていた。
彼女を求める気持ち。それは次第に心の虚無感に変わっていった。僕はそれでも彼女の温もりを求め、彼女を抱いたベッドの上に顔を埋めた。仄かに残る彼女の香りは、時間の経過と共に薄れ始まった彼女の記憶を微かに留めておくことが出来た。けれどその夜、彼女から電話がかかって来ることはなかった。

scene.11

 部屋に広がる眩しい光の中で、僕はゆっくりと目を覚ました。朝の陽射しが無数の輝きを床に敷き詰めていた。眩しさに慣れない瞼をどうにか開きながら、僕はその様子をぼんやりと眺めていた。きっと頭の中では何かを考えてはいたのだろうけど、その何かを具現化して口にすることは出来なかった。ただ床を跳ね上げる朝日の眩しさの中に、彼女の零した涙の輝きを重ねていたということだけはわかっていた。
 どれくらいの時間が流れたのか、ふと時計を見ると6時30分を少しだけ回っていた。それは、今支度を始めなければ会社に遅刻をするという警告にも似た無言のサインだった。僕は物質の原理に逆らうように体を起こし、着ていた服を脱ぐとシャワーを浴びた。
 浴室から出るとインスタントの珈琲を淹れ、その日着ていくスーツを選んだ。白いシャツに袖を通しネクタイを結ぶと、僕は社会という基盤に組み込まれた電子部品のひとつに成り変わる。そこには、学生時代に描いた大人への憧れなんてものは全く無かった。ただ僕という部品が、何処かで欠陥品となり全体に狂いを生じないように注意深くその日をこなしていくだけ。そんな風にして、僕は仕事に追われる日々を淡々と過ごし続けていた。
 朝晩と激しい人波に押し流され、逃げ場を探すように駅の改札を抜ける。無表情で走り続ける電車に揺られ、窓を流れる景色の中に見覚えた標を見つけては今がどの辺りかと頭の中で呟く。そうして毎日似たような時間の経過を、いつもとは違う顔付きで行ったり来たりしては、また夜を越えていく。

 あれこれと思い悩んだ日々も、2週間が過ぎる頃には大分落ち着きを取り戻していた。それでも、どことなく惰性で毎日を過ごしているような感は拭いきれなかった。
 仕事から帰り冷蔵庫から取り出した2本目の缶ビールが空になった頃、電話が鳴った。心拍数が上がった。僕は不穏な心境で電話を取った。
「もしもし、里美です」
 電話は里美からだった。
「帰ってたのね?」
「少し前に帰ってきたところだよ」
「そうなの? お疲れ様」
「ありがとう」
「……疲れてるみたいね」
「そうかな?」
「声がね。そんな感じ」
 里美は相変わらず明るかった。僕は、電話の相手が彼女であることを望んでいたのだと思う。けれど掛けてきたのが里美であったことに、不思議と安堵感を得ていた。案外、このタイミングの良さを身に付けている女性に、世の男は落ちるのかもしれない。
「あのね、渡したいものがあるの。受け取って欲しいんだけど」
「渡したい物? 何だろう」
「秘密よ」
 受話器越しに里美の意地悪な笑みが浮かんだ。
「じゃあ、食事でもしないか?」
「嬉しい。……あ、でもまた暇な時でいいわ。疲れてるでしょ?」
「大丈夫だよ。明日はどう?」
「無理しなくていいのに」
「無理なんてしてないさ。それとも明日じゃ都合悪かった?」
「ううん。そんなことないわ」
「じゃあ明日で。場所は、渋谷にイタリア料理の美味しいお店があったよね? 名前は、確か……」
「タローチェ?」
「そうそう。時間は、20時位でどうかな?」
「本当に大丈夫なの?」
里美は心配そうな声で僕に尋ねた。
「もちろんさ。仕事はあるけど勝手に切り上げてくるから」
「……わかったわ。タローチェに20時ね」
「じゃあ明日」
「明日ね。おやすみなさい」
里美は心細い声で返事をして電話を切った。

scene.12

 その日も淡々と1日が過ぎて行った。僕は仕事を早めに切り上げると急ぎ足で会社を後にした。下手に会社に居座るとタイミングを逃してしまうからだ。
 店に着くと里美は外で僕を待っていた。厚手のコートを身に纏ってはいたが、寒さの中で震えているのが分かった。
「暦は春でも、夜はまだ冬ね」
 悴んだ声を振るわせながら里美は言った。
 店の中は程よい暖房が効いていた。ウェイターに案内され席に着くと、里美はメニューを広げながら目を輝かせていた。食前酒を勧められ、僕は白ワインを2つ頼んだ。
「元気だった?」
 テーブルを挟んだ空間に、当たり障りなく僕は言葉を置いた。
「それなりにね。浩之君は? 相変わらず忙しいの?」
「少しずつ楽にはなってきてるかな。とは言っても、机の上は未だに書類が山積みになっているけどね」
「程々にしないと、いつか体を壊すわよ」
「そうか。だから僕の上司はあんなに肥えて、毎昼得体の知れない薬を飲んでいるのか」少し何かを考えたような振る舞いで僕げ言うと、里美は、「浩之君、ちょっと酷すぎるわよ」と、頭に太った上司の姿を浮かべたのか、口から漏れる笑い声を手で押さえながら笑った。
 テーブルにグラスが運ばれてきて、僕たちは「乾杯」と言ってグラスを合わせた。グラスを口にした後、再びウェイターを呼んだ。僕はアニョロッティーニ黒トリュフ添えのパスタとフォアグラを詰めた鹿フィレ肉のステーキを選び、里美はホワイトアスパラのカルボナーラと仔羊のトリッパプーリア風をそれぞれにオーダーした。
「最近、夜はほとんど食べないの」
 そう口にした里美は、確かに以前よりスリムになったようだ。
「好きな人でも出来たのかい?」
「どうしてそう思うの?」
 僕の質問が唐突に予想し得なかったものだったのか、里美は目を丸くして聞いてきた。
「女性は恋をすると綺麗になるって言うじゃないか」
「あら? まるで今までの私が綺麗じゃなかったみたいな言い方ね。まぁ否定はしないけど」
「そういうつもりで言ったんじゃないよ」
「冗談よ」
 里美は意地悪く笑っていた。里美は素直な女性だ。気取りがなく、居心地の悪さなどまるで感じさせない。
「確かに少し痩せたかもしれないわ」
 腰に手を当て、スリムさを強調するように少し捩って見せた。
「でも残念ながら好きな人なんて見つかってないわ」
「里美は可愛いのにね」
「……浩之君、この歳の女を前にしてのその言葉は、嫌みに聞こえるわよ」
 僕が困った表情をすると、里美は勝ち誇ったように白い歯を見せた。
 料理が運ばれてきてから、僕たちは他愛もない話に酔いしれた。職場の人間関係。流行りの歌。最近手に入れたワイングラス。時折、フォークと皿の擦れ合う小さな金属音を立てながら、「美味しいわね」と里美は微笑んだ。それは閉店時間まで続いた。
 店を出た後、駅へと向かい歩きながら、途中街角の暗がりで僕は里美に口づけをした。何の抵抗もしなかった里美を、ホテルへと連れていった。里美を抱いた。里美と肌を重ねるのは、それが初めてだった。まるで引き離されるものにしがみつくように里美は懸命だった。僕はそんな里美の肌を優しく撫で、何度も口づけをした。荒れ狂う波に揉まれるように、僕たちは時を重ねた。

「心此処に在らずね」
 僕の腕を枕にしながら里美は言った。
「私ね、あなたのことが好きだったの。でもあなたはいつもどこかで自分を隠してた。多分、あなたには他にも気になる子がいたのかなって思って、電話もしなかったのよ。ねぇ、気づいてた?」
 里美は咳を切ったように言葉を並べ立てた。
「何となく、ね」
「嘘つき」
「嘘じゃないさ」
「いいけどね、別に。女の子はね、誰かを好きになると、どうしようもないくらいその人しか見えなくなっちゃうのよ」
「そんな風には、見えなかったよ」
「随分勝手ね。あなたに振り回されている間、私がどれだけ悩んだかわからないでしょ?」
「勝手って。それに、振り回してるつもりなんて……」
 僕は口を噤んだ。里美から僕へと向けられていた恋のシグナルを、気づいていながら素知らぬ振りをしていたのだから。
「ねぇ、浩之君って、本気で誰かを好きになったことがあるの?」
「……ごめん」
「謝らないでよ」
 顔を背けてしまった里美から離れるようにベッドを立った。僕は黙って服を身につけ始めた。
「怒ったの?」
「いや、明日も……もう今日だけど仕事だからね」
「そっか」
「里美は?」
「私は休みよ。今日はずっと部屋にいるつもりだから」
(連絡を待っているから)そう言っている里美の心が聞こえた気がした。そのいじらしさが可愛く思えた。
「ゆっくりお休み」
 里美の額に軽く口づけをした。
「浩之君」
 ドアに向かった僕を呼び止めた里美は、バスタオルを巻いた姿で僕の前に立った。「はい」と言って目の前に差し出したものは、綺麗なラッピングが施された小さな小包だった。
「何?」
「ほら、電話で渡したい物があるって」
 確かに里美はそう言っていた。僕はすっかり忘れていた。
「クリスマスに渡そうと思ってたんだけど、……渡せなかったから」
 里美の声は、寂しそうに響いていた。
「ありがとう。でも、僕は何も用意してないよ」
「いいの。私があげたいだけだから」
 包装紙を破らないようゆっくりと封を開けると、紙箱の中には茶色の手袋が入っていた。
「安物だし、あっという間に暖かくなっちゃいそうだけど」
「ありがとう、里美。使わせてもらうよ」
 僕は彼女を抱き寄せて、軽く口づけをした。里美は照れたように恥じらっていた。そして僕は、「おやすみ」と言って静かにホテルの部屋を出て行った。

scene.13

 翌日、僕は確実に睡眠不足だった。明確に理解しようとした業務のあれこれも、耳から脳へと辿り着く頃には頭の片隅でそれらは漠然とした捉えようのないものに変化していた。社会のリズムに適わない僕の思考は、まるで異国の地に着いた余所者顔で、何かにしがみつくように立ち尽くしているかのようだった。オフィス内の殺伐とした風景の中に木霊する電話の呼び鈴や商談に訪れる人の往来も、今の僕には暇を持て余した連中の笑い声程度にしか聞こえなかった。僕は生きる為の僅かな手段の中で、書類に目を通す振りをしながら時が過ぎて行くのをやり過ごしていた。
 排他的な社会の構造。それは僕を操り人形のように動かし続ける仕組み。日常や世間からはみ出してしまいそうな怯えの渦中に在っても、自意識の確立を促されることはない。そうして時間は過ぎていき、就業時間の終わりを告げるように回りが騒つき始めた頃になって、ようやく正常さを取り戻した僕は、体調の悪さを口実に定時で会社を退社した。
 僕はいつもの道をいつものように歩いて辿り、いつものように都会の喧騒の中で落胆と諦めに似た表情と幾つも擦れ違いながら部屋へと向かった。この街では、程度の差は有りながらも手にした財産に見合ったものを何かにすり替えながら、拭えない寂しさを埋めようと試みる。その度に、失った時間だけには2度と届かないことを痛感しているんだろう。
 途中のショッピングセンターへ軽く買い物に立ち寄り部屋に帰ると、僕は真っ先にシャワーを浴びた。湯気の立ち込める浴室の中で、シャワーに打たれ熱を帯びた体は少しずつ疲れを癒していった。
 浴室を出てバスローブを羽織ると、冷蔵庫から缶ビールを取り出し半分程喉の奥へと流し込んだ。程なくして、急激に巡る血流が脳を支配し始めた。意識が不意に消えてしまう前に、僕は里美の部屋に電話を掛けた。けれど里美は電話に出なかった。壁掛けの時計は20時20分辺りを示していた。後でまた電話を掛けることにして、残りのビールを一気に飲み干し僕はソファーにもたれ掛かった。

不意に、部屋に響く電話の音で僕は目を覚ました。いつの間にかソファーで寝てしまっていたようだ。うっすらとぼやける瞼を擦りながら時計を見ると、23時になろうとしていた。電話はきっと里美だと思い、特に身構えもせずに受話器を上げた。
「石原です」
受話器から聴こえた声は、忘れかけていた彼女の温もりを静かに甦らせた。
「遅くにごめんなさい」
 彼女の声は潤みを帯びていた。そこにどんな理由があるのかわからない僕は、さり気なく言葉を置いた。
「構わないよ。少しうたた寝していただけだから」
「そう、なのね……」
 受話器の向こうからは、行き交う車の音が無数に聞こえていた。彼女からの返事を待っていると、やがて彼女は冷めた声色で言った。
「これから浩之さんの部屋に行ってもいいかしら?」
「片付けていないから散らかっているけど、それでもいいなら」
「ありがとうございます。直ぐに行きます」
 そう言って電話を切った彼女の声は、いつになくやはり冷めた感じがした。僕はシャツに着替えると、彼女が来るまでのわずかな間に読みかけの本や空のグラスを片付け始めた。
 それから30分もかからずに、彼女は部屋に訪れた。彼女はどこか疲れているようだった。
「どうぞ」
 僕はいつもより少しだけ距離をおいたように彼女を部屋に招いた。彼女はハイヒールを脱ぐと綺麗に整えて玄関の端に揃え置いた。
「何か飲むかい?」
 彼女は首を横に振るだけで答えた。僕はキッチンへ向かいお湯を沸かした。
「ごめんなさい。ずっと連絡しないで」
「そんなこと気にはしてないよ。何か理由があったんだろうから」
 彼女は明らかに言葉を倦ねいていた。僕は遠い目で彼女の姿を視界に捉えていた。
「理由。……そうね。あなたのことを1度も思わなかったと言ったら嘘になるんだから、理由になるような説明がなければ可笑しいわよね」
「別に可笑しくはないさ。ただ、僕の知らない君の過ごした時間のことを、少しでも話してくれたらいいのにとは思うけれど」
 彼女は僕と目を合わせることはしなかったけれど、彼女なりに何か考えるように窓際に立ち外を見つめていた。
「どう話したらいいのかな。自分でも、この気持ちを言葉に置き換える方法がわからないの」
「君の気持ちを、そのまま話してくれればいいよ」
「私の気持ち?」
 僕は彼女の心の扉を開いてみたかった。それは好奇心から沸き上がったものではなく、そうすることで彼女を生成し続けるものを見極めることが出来ると思えたから。
「いつかあなたが言っていたことだけど、私も、毎日の色々な事を誤魔化しながら生きていた気がするの。大切なものを大切にしようと思っていたけれど、いったい何が大切な事なのかが分からなくなってしまって……挙げ句には妹と口喧嘩になる有り様。私は、ただ一生懸命幸せになろうとしただけなのに」
 彼女の瞳は、潤み始めていた。
「妹さんがいるんだね」
「ええ。4つ違いなの。……あの子、今年成人式だったわ」
「そうなんだ」
「色々な事がありすぎたのね。そんなに沢山の事をいっぺんに抱えられるはずもないのに」
 彼女はそこで話を止めた。視線は窓の外を流れる夜のどこかに向けられていた。僕は彼女の瞳の行方を探ってみた。けれど、まだ何か彼女はどこかで心を閉ざしているようで、本当の彼女を探し出すことは出来なかった。そして僕は、彼女にかける言葉を失った。
 彼女は急に微笑んで言った。
「でもあなたといると、時間が過ぎていくのがとても早く感じられるの」
 僕はその意味を探さずに視線を落として微笑み返した。
「……矛盾してるわね。あなたの事を考えてると言ったその割には連絡をしなかったりで。何だかとても矛盾しているわ」
「誰だってそうなんじゃないのかな? 僕だって、自分の事なんか何ひとつ分かってやしないよ」
「慰めならいらないの。そんな風にするから、私はあなたに甘えてしまうのよ」
「いいんだよ。人間そんなに簡単に心の苦しみに耐えられるものじゃない。それに君を慰めるつもりで言ったわけでもないんだから」
「それなら、私はどうしたらいいの?」
「僕には君が抱えているものが何なのか分からない。でも君の苦しみを少しくらいなら分かってあげる事は出来るかもしれない」
「どうして?」
「人を好きになる気持ちは、どんな柵の中に在ってもとても純粋であるはずだから」
「……私、あなたが好きよ」
 彼女の後ろに立った僕は、背中越しに彼女の体を両手で包み込んだ。彼女は僕に体を預けた。僕たちは唇を重ね合った後、部屋の明かりを消し静かに服を脱いだ。暗がりのシーツの上で、彼女はずっと僕の瞳を見つめていた。
 長い間口づけを続けた。そしてとても激しく抱きしめ合いながら、僕たちはひとつになった。
 不意に電話が鳴った。里美からのような気がした。けれど僕の意識は今、美咲ひとりに奪われていた。

scene.14

 美咲がこの部屋で暮らし始めてから数日が過ぎていた。その間、彼女は自分の家に戻ろうとはせず、身の回りに必要な物は全て真新しく購入してはこの部屋に運び入れていた。勿論、増えた1人分の荷物を仕舞い込む余分なスペースなどあるはずもなく、2人で過ごす最初の休日は家具屋を回ることで1日の大半を費やした。
少しずつ美咲と僕の見えない距離が縮まっているものだと思っていた。けれど、常に彼女は抱える何かを心の奥へと押し隠すようにしていた。僕に見せる笑顔にはどこか寂しさを纏っているように見えていたし、何気なく交わす会話のひとつひとつも言葉を選んでいるように見えていた。移りゆく季節の中で、雨風に晒され錆び付いたバス停が幾程かの人の往来をじっと眺めていたかのように、まるで彼女だけがその場所に佇んでいるようだった。
 僕は彼女の小さな言葉を、それこそ不意に落とした溜め息さえも抱きしめるように暮らした。過去の幻影に怯えないように。彼女の心が痛まないように。2人の暮らしが、このまま壊れてしまわないようにと。
 僕が仕事から帰ると、美咲は温かい夕食を準備して僕を出迎えてくれた。彼女は僕が夕食を終えると決まって不安そうな表情で「美味しかった?」と聞いてくる。その度に僕は微笑みながら頷いて、彼女の額にそっと口づけると、安心したように食器を片付け始める。実際、美咲の作る夕食は美味しかった。外食が多い僕にとって、彼女の用意した家庭料理はとても懐かしい味がして不思議と落ち着いていられた。
 ある休日に、僕たちはワイングラスを買いに出掛けた。
「せっかくのワインも、曇りがかったグラスでは美しくないわ」
 そう言いながら、グラスに注がれた白ワインを見つめていたのは、つい3日前のことだ。
 その日はデパートやら食器類のショップやらを見て回った。幾つか綺麗だと思えるグラスもあったが、美咲の中には既に決まった物があるらしく、他に目が暮れることはなかった。
「あったわ」
 何件目かにしてようやく見つけたグラスは、今まさに部屋で使っているものと全く同じ、安物のグラスだった。
「そこに在るものには、すべてに確かな意味があるのよ。私たちがあの部屋で、このグラスでワインを飲んだ事にもね」
 ショーケースに飾られたグラスを愛おしむような眼差しで彼女は眺めていた。その時、ほんの僅かでしかないかもしれないが、美咲が求めているものに触れたような気がした。彼女は、思い出を増やそうとしているのではなく、思い出を塗り変えようとしているのかもしれない。そう思うと、僕は彼女がそれを買うことを止めることは出来なかった。
(すべてに確かな意味か……)
 僕は街並みに溢れる人混みの中で、その日のことを思い返していた。冬の寒さが身を裂くような夜。美咲の隣には僕しかいないのに、彼女の瞳に僕は朧気にしか映っていなかった。少しだけ彼女は心の断片を僕に覗かせると、僕たちはグラスを傾け合い、遠く奏でるセレナーデのように少しずつ心を解き放ち始めた。
 そして、今。美咲は変わらずに時折遠くを見つめる目をしてみせるが、今ならばすぐに僕の胸の中でそっと瞳を閉じることが出来た。
 美咲は常に笑顔を絶やさなかった。僕と視線が合うと、まるで母親を見る幼子のように安心した表情を見せた。それでも彼女の笑顔の裏に、何か握り締めて離さないものがあるような気がしてならなかった。それは、僕と彼女との間に置かれたガラス版の壁のようなもので、彼女を透過して映したり、鏡のように自分を映したり、時には光の反射で何も見えなくさせたりと多角的に僕を倒錯させた。僕は、そんな彼女との距離が酷くもどかしくもあったが、どこかではそれが越えられない彼女との境界線なのだと諭す自分もいた。
 街並みはどこか春の匂いを含んでいた。僕は美咲の肩を抱き寄せ、彼女の歩調に合わせるようにゆっくりと歩いていた。春を迎えた東京の空も、夕暮れに吹き抜ける風はまだ身を裂くほどに冷たかった。道行く人々の視線は、冷たい空気に閉じ隠ったように混じり合うことはなかった。
「そろそろ帰りましょうか。夕食の支度もあるし」
「そうだね。今夜は僕も手伝うよ」
「それならお皿を洗ったりしてもらえると助かるわ」
「それは勿論だけど、僕には料理を作らせてはくれないの?」
「浩之さん料理なんて出来るの? いつもすっきりと片付いたキッチンだったから、てっきり料理は苦手なんだと思ってたわ」
 美咲の口から皮肉めいた冗談が飛び出してきた。いつ以来だろう。そんな風に和んだ会話を交わしたのは。
「君が知らないだけだよ。これでも結構な腕前のつもりなんだけど」
「そうなの? だったら今夜のシェフは浩之さんに替わってあげるわ」
 無機になった僕を茶化すように美咲は笑って見せた。
 僕は美咲が笑ってくれるのが嬉しかった。そして、怖かった。彼女の笑顔がいつ壊れて消えてしまうかと思うと。僕は祈るように暮らしていた。明日もすべてが上手くいくようにと。正しい生き方や愛し方なんて何ひとつ分かってはいなかったけど。それが傷みを和らげるためだけの笑顔や温もりだったとしても、僕はただひとつの事を信じてみようと思っていた。
「美咲、愛してるよ」
 僕は隣を並んで歩く彼女の耳元でそう囁いた。彼女は小さく頷いた。
「私もよ」
 そう小さく囁き返してから、彼女は僕の胸に顔を埋めた。2人を繋ぐ愛の理が、たとえ一時の慰めだったとしても。満たされない心が解決出来ない悲しみの下に互いを変えてしまうなら、今は僕に与えられた僕だけの役を演じていよう。いつか祝福の笑顔が来ることを待ちわびながら。
 街の雑踏と混み合う電車の息苦しさからようやく解き放たれ僕たちは部屋に戻った。鍵を開けドアを開くと、僕たちの暮らしがあった。
 美咲と暮らすようになってから、随分と部屋の景観が一変した。雑然とした独り暮らしの生活には無かった綺麗な生活の香りが漂い、まるで安らぎの形を繕おうとしているようだった。ガラステーブルには白いテーブルクロス。シックな銀色の置き時計。異国の夜景をモチーフにしたタペストリー。それらはすべて幸せの象徴として時の流れの中に佇んでいた。
 夕食が終わり、珈琲を飲みながらブラウン管から流れるニュースキャスターの声に耳を傾けていた。そんな時、美咲がぽつりと口を開いた。
「ねぇ、私がここにいて迷惑じゃない?」
 僕は驚いた。けれど直ぐに彼女の言葉を否定するように答えた。
「急にどうしたんだい? 勿論迷惑なんかじゃないよ。むしろ、君といると僕はとても幸せでいられるんだから」
「それならいいんだけど」
「君がこの暮らしに何か不満があるのなら、遠慮せずに言ってくれて構わないんだよ? もっとも、自分の部屋じゃないからってのはあるのかもしれないけど」
「何もないわ。私もあなたといると楽しいし。だけど……」
 彼女はそこでまた口を噤んだ。
「だけど?」
「……何でもないわ」
「僕との暮らしに疲れた?」
 美咲は怯えたように首を横に振った。
「違うの。私ね、あなたが私といて、私の事を煩わしく思っていないかちょっと心配だったの。それと……」
「それと?」
「私、今の生活本当に幸せなの。でもね、上手く言えないんだけど、あなたの負担にならないようにって思ってるの。ただそれだけよ。わかる?」
「そっか。……ごめん」
 美咲の肩に触れると、微かに震えているのがわかった。僕は心の弱さを分け合うように彼女の心の震えを感じ取っていた。どうして僕は彼女の気持ちが上手く掴めないのだろう。
「先に休むわ。出歩いて少し疲れちゃったみたい」
 そう言って、美咲はシーツの海に沈み込んでいくようにベッドに横たわっていった。彼女はその夜、風の止んだ波の上で漂うように静かな眠りに落ちていた。
 僕には美咲の心の何ひとつわからなかった。僕はウイスキーのボトルを開け、1人飲み始めた。締め切った窓に部屋の明かりが柔らかく反射して、外の景色を消し去っていた。僕はこの暮らしに立ち込める悲しみから目を背けるように、ウイスキーを一瓶飲み干した。
それから激しい寂しさと酔いの中、寝息を立てる彼女の横に寝た。
 翌朝。まだ深い眠りについたままの美咲を起こさないように静かにシャワーを浴び身支度を済ませ、会社へと出かけた。彼女は、僕が出て行くまで1度も目を覚まさなかった。

scene.15

 いつもと変わらない日常が過ぎていく。散乱したデスクの書類。不格好な愛想笑い。気付くと1日が終わろうとしていた。けれど僕の心には、いつになく寂しさが纏わり付いていた。僕は騒めきの途絶えない人混みの僅かな隙間に、自分の居場所を見出すように歩いていた。
 何に対してこんなにも僕は不安なのだろう。何故美咲のことを考えると酷い孤独感に苛まれるのだろう。平穏な幸せというありふれた安堵感は、今の僕からは欠如しているようだった。
「お帰りなさい」
 マンションの部屋に着いた僕を、美咲は笑顔で迎えてくれた。
「ただいま」
「どうかしたの? 何だか元気がないみたい」
 彼女の気遣いが、繕われた言葉にしか聞こえてこなかった。
「仕事疲れかな。多分ね」
「……やっぱり変よ」
 美咲は僕の言葉に重みの無さを見透かしたように呟いた。僕は上着をソファーに掛け、大きくため息をつきながらソファーの背にもたれ掛かった。
「何か飲む?」
 キッチンの奥から美咲の静かな声が聞こえてきた。
「そうだな。白ワインがあったはずなんだけど」
「あったわ」
「君も一緒に飲まないか?」
 僕がそう言うと、「じゃあ、昨日買ったグラスを出すわ」と、包装された箱を開け、真新しいグラスと白ワインをテーブルに運んできた。
 部屋には僕の知らない洋楽がCDデッキから流れていた。美咲が買ってきたのだろう。男性シンガーにしては甘い歌声が、悲壮感を漂わせたメロディーに乗せられていた。この部屋の中で、僕は胸が張り裂けそうな程の孤独に捕らわれているようだった。そんな僕の葛藤は、心の叫びとなって彼女に向けられた。
「君にとって、僕はいったい何なのかな」
 美咲は一瞬驚いたように僕を見た。それは、触れてはいけないものだったのかもしれない。きっと彼女は、その時初めて僕たちの間にある見えない壁に気付いたのだと思うから。
「どうしてそんな事を聞くの?」
「どうしてって、僕には君の心がまるで分からないんだ」
「私にだって、あなたが分からないわ」
「僕の何が分からないって?」
「あなたが私をどうしたいのかが分からないの。まるで私のすべてを囲おうとしているみたい」
「ただ分かり合いたいと思っているだけさ。そう思う事はいけないこと?」
「そうは言ってないじゃない」
「勝手だな」
「私は何も勝手な事なんかしてないわ」
「何も話さずにいる事は、勝手な事じゃないって言うのかい?」
「何も話してないつもりじゃない」
「それなら、君はいったい僕の影に何を見ているのさ」
「何、って……」
 美咲の口がピタリと止まった。言い合いに疲れたという類のものではなく、それはまだ彼女自身も気付いていなかった何かに、触れたような感じだった。
「上手くやっていければそれでいい。そんな風に思っていたのだとしたら、それは本当の恋愛とは違うよ」
「私は……」
「君は何かを隠し、それから目を背けているように見えるんだ。まるで僕という存在を、逃れる為の盾に使っているようにね」
 美咲は震えていた。こみ上げる涙や悲しみを堪えてと言うよりも、迫りくる何かへの怯えに似た感じだった。
「ごめんなさい。私……」
 人は誰にでも1度の過ちでさえ許せないものがある。そしてその過ちは、日々の暮らしの中に紛れて形を変えてはいくけれど、決して消えていくものではない。人を愛することもその1部なのかもしれない。愛は形を変える。そして時には罪にさえなるものだから。
 勝手なのは彼女? 悪いのは僕? それは2人の生き方が違っていたという事だからなのか?
『愛してるわ』
 美咲は確かにそう言った。でもそうは思えなかった。いったい何が彼女をそんなにも縛り付け、何が僕との距離を詰めさせないのか。僕は願った。本当の彼女を隠すものの存在を打ち明けてくれる事を。そして、朝日が昇るようにゆっくりと、彼女の愛が僕を満たしてくれる事を。2人にとって1番大切なものがいったい何なのか。今のままの彼女を理解しようとすること? この不確かな愛を深めること? 別れること? そのどれかを選んだとしても、僕たちは傷つくだけでしかないような気がする。彼女への想いを断ち切ってしまうことが唯一の答えだとしても、そうなることが現実になるには、僕にはまだ悪い夢を何度も見ることよりも苦しいことのように感じる。彼女の面影すら忘れ去ること。それほどの覚悟が容易には出来ないくらいに、僕は彼女に陶酔していた。
 ふと気付くと彼女は寝室へと姿を隠していた。僕はスコッチをガラス棚から取り出し、ストレートで飲んだ。何杯目かの後、気付くと僕はひんやりとした床にへばり付くように眠っていた。

 どれ位かして僕は目を覚ました。憂鬱な気持ちのまま体を起こした。ぼんやりとした目で時計を見ると午前4時を示していた。外は薄暗さの中に街の形がうっすらと映し出されていた。昇り始めた太陽の光が暗闇の背中を押しているようだった。
 部屋に彼女の姿は無かった。寝室にも浴室にも無かった。ただ、テーブルの上にメモの切れ端が置いてあった。

 
  あなたを愛しているわ。
  きっと…
          美咲


 メモを見守るように、側にはまだ封の切られていないワインボトルと、真新しいグラスが2つ並んでいた。それは、悲しすぎるほど切ない、僕の諦めになろうとしていた。

scene.16

 いつの間にか、僕はまた眠りに落ちていた。
 朝の陽射しに目覚めた体は酷く疲れていた。瞼は重く、眩しすぎる光の中では半分程も目を開けることは出来なかった。俯せの体を起こそうと試みても、重力に引き込まれた体は、すべての自由を拘束されように床に張り付けられ身動きをとることが出来なかった。僕は動くという本能が起こす動作を諦めて、しばらく目覚めの余韻に浸ることにした。
 僕は考えてみた。僕という存在がこの世界には存在していなくても、日々は何の支障を来すことなく過ぎていくのだとしたら、僕はいったい何の為に今この世界に存在しているのか。知らぬ間に机の下に落とされた輪ゴムやクリップのように、誰の目にも止まらず、やがて素知らぬ顔の掃除機で吸い上げられてしまう程度の価値しか見い出せないのだとしたら、僕はこの世界の酸素を無駄に消費し、闇雲に二酸化炭素をばら撒いているだけなのではないだろうか。僕は、生きているという事実さえ惰性でしかないのだと思えてきた。不意に寂しさが僕を纏った。それは、消えかけていた温もりを朧気に思い出させた。すると突然怖くなった。笑顔も喜びもない世界は、僕に安堵感を与えていたはずなのに、どういう訳か僕はそれを求め始めていた。
(誰か、誰か僕を見つけてくれ!)
(僕はまだ、誰かに必要とされていたいんだ!)
 そして僕は、涙の中でその名前を呼んだ。
「美咲……」

 しばらくして意識が覚醒した時、壁に掛けられた時計は7時を少しだけ過ぎていた。彼女がいない部屋は、いつかの雑然とした空間を取り戻したように静かだった。整理された食器。銀色の置き時計。2人の為だけに色を象っていたものが、今ではどれも統率を失い、それぞれに主張し分散していた。僕の心は、それらひとつひとつの間に窮屈に押し込まれているようだった。それから僕は、重力に逆らうように重い体を起こし支度を始めた。つまらない日常へと身を捧げる為に。

scene.17

 美咲の居ない暮らしは、ある日までの僕の生活環境を取り戻していた。気づけば季節は春の装いを脱ぎ、夏支度を始めていた。満開の桜も散り散りに、歩道の至る所には足踏みにされた花びらが砂にまみれて見る影を無くしていた。
 夕刻のビルの隙間に、太陽が揺らめきながら滑り落ちていく。オレンジ色の空は排気ガスに汚染され、どこか曇りがかっていた。帰宅の途中、通りに面した公園に立ち寄った。風に軋むブランコ。傾いたままのシーソー。人気のない公園は、ひっそりと佇んでいた。色褪せた木製のベンチに座ると、少しずつ体温が奪われていく感じがした。影のついた雲が、緩やかに流れていた。
 今、何故こんなにも寂しいのだろう。後どれ位この寂しさを乗り越えたなら、あの頃の優しさにまた出逢えるのだろう。特別多くを望んでいたわけじゃない。ありきたりな毎日の中でも、時折見える笑顔に触れていられたら、それで良かったんだ。
 人と人の出会いに制限はない。出会うということを避ける術を、人は手に入れてはいない。そして、人を自由に愛していく事も出来ない。愛は互いの気持ちを求め合う事から始まっていくものだから。強く抱きしめすぎれば脆くも壊れてしまうし、不意に目を反らしているとどこかに消えてしまう。そんな、とても儚いものだから。
(夢を、見ていたのか?)
 心の中で呟いた言葉の意味だけが、僕に優しく響いていた。

 マンションに着いた時には、既に陽は沈み、漆黒の闇が辺りを覆っていた。無機質なエレベーターは指定された7階で止まり、僕を降ろすと静かな眠りにつくようにドアを閉めた。部屋の鍵を取り出そうとポケットに手を入れながら歩みを進めていたその時、見慣れた姿が部屋のドアを背にして立っていた。
「ケン?」
「元気だったか?」
 ケンがマンションへ訪ねて来る事は珍しくはない。ただ、その表情はいつになく険しく、酷く疲れているようにも見えた。
「酷い顔だな、ヒロ」
「そっちこそ」
「飯、まだだろ?」
「あぁ」
「決まりだな」
 ケンは僕の肩をポンと叩き、先を歩き始め、エレベーターのボタンを押した。まるでこの時を予測していたようにドアは開き、僕たちを容易く飲み込んだ。静かな機械音だけが、足元から響いていた。

 マンションから少し歩き、大通りでタクシーを拾い、ケンは六本木へ行くように運転手に告げた。ケンに連れられてきたのは、奥床しさのあるイタリア料理の店だった。
 店内には中高年のサラリーマンやOL客が少しいるだけで、名前の分からないジャズ調の音楽が静かに流れていた。空いた席に案内されると、ケンはフルボトルで白ワインを選び、食事にパスタや肉料理をひと通り頼んだ。
「最近どうよ」
 不意にケンは切り出した。
「どうもないさ。何も変わらないよ」
「そうか」
 ケンの険しい表情は、店内の薄暗い照明の中に隠されていた。
「そっちこそ、どうなんだ?」
「まぁ、相変わらずだな」
 そう言って、ケンはポケットから煙草を取り出し火を点けた。そのタイミングを見計らったように、白ワインがテーブルに置かれた。ウェイターに注がれたワインは、音も無くグラスの中で揺れていた。風の無い海原の波間のようにゆったりと。
「なぁ、ヒロ。覚えてるか? 高校の時の委員長。名前、何て言ったかな?」
「……君島さん?」
「そうそう!」
「君島さんがどうかしたのか?」
「この前、銀座で偶然見かけてさ。俺のイメージでは、どっか人を寄せ付けないような感じだったんだけど」
 クラスの委員長の特性。ではないにしろ、一般的には真面目で優等生が当てはめられる役所。彼女もまた、そういうタイプに近い人種であったことは事実だ。
「とんでもなく綺麗になっててさ、声すらかけられなかった」
 ケンは苦笑しながら話した。
「そんなに?」
「驚いたよ。女って、どうしてあんなにも変わるかな。人を見る目がまるで無かったと言われたみたいだ」
 僕はグラスを口につけながら、当時の彼女を思い浮かべていた。ケンの言う事が想像出来ずに苦笑した。
 ひと通りの食事を終えた僕らは、食後にスコッチを2杯ウェイターに頼んだ。ほろ酔い気分の中、静かな口調でケンは話始めた。煙草を指にはめ、スコッチのグラスを揺らしながら。
「石原さん、随分と仕事休んでるらしいんだ」
 それは、記憶の断片に揺らいでいた、懐かしい響きだった。
「そうなんだ……」
「なぁヒロ。俺はお前の恋路に足を踏み入れるような野暮な真似はしない。ただ、誰にも悲しんでほしくはないって思ってるんだぜ」
 ケンの優しさが痛かった。
「誰だって、抱え込むにも限度ってものがあるだろ?」
「……そうだな」
「話してくれるか? お前たちに、何があったのか」
 僕はスーツの上着から煙草を取り出すと、火を点らせて肺の奥底へと吸い込んだ。そしてゆっくりと吐き出し、「そうだな」と返事をした。天井にぶら下がった黄色い電飾の光の中を、煙草の煙が行き場を無くして漂っていた。
 それから僕は、美咲との事を話始めた。ケンに紹介されたあの日から、恐らく全てが始まっていた事。展覧会後の食事で、急速に距離が縮まったであろう事。それでも、常に彼女には言い得ぬ影が見えていた事。そして、深い恋の淵に1人で佇んでいるという事。それらは、わずか半年足らずの僕たちの恋物語が、いかに愚かな時間の集合体であったかを明らかにするようなものでしかなかった。ケンは何も言わずにただ僕の話に耳を傾けていた。時折、新しく煙草に火を点けてみたり、グラスに残ったスコッチを揺らしてみたりするだけで。
 程なくして、ケンが口を挟んだ。
「難しいよな。人を愛するってさ」
 僕は何も答えなかった。いや、何の言葉も出てはこなかった。美咲との思い出を語る為に必要な言葉は、1世代前の雑誌の切り抜きのように、今となっては何の役にも立ちはしなかった。彼女を思い返す事に、僕は疲れきっていたんだろう。
「石原さんに、会いたいか?」
 それは、予想にもしなかった言葉だった。
「ケン?」
「今度の日曜日、空けられるか?」
 僕の頭の中は、ただ混乱していた。何を口にすれば適しているのか判断がつかなかった。僕は、「あぁ」と返事をする事で精一杯だった。
「詳しくは日曜日に」
 ケンはそう言って、わずかに残っていたスコッチを一気に飲み干した。

scene.18

 夜明け近くから降り始めた細かな雨は昼を過ぎても止む事はなく、広げられた傘は行き急ぐ人たちの視界を塞ぎ、濡れた路面は足枷となっていた。この頃は街のあちこちで道路の拡張工事が盛んに行われていた。特に裏通りに面する辺りはいつにない渋滞ばかりが目立っている。
 僕は駅改札口にいた。腕時計の針が約束の午前10時を示すのを待っていた。
 ケンは15分遅れてやって来て、肩に乗った雨粒を払いながら、「待ったか?」と言った。
「それ程でも」
「そうか」
 ケンは穏やかな表情をしていた。
「それで……」
 僕はかなりの警戒心を持ちながら、それでも逸る気持ちを押さえ込むようにしてケンに聞いた。
「どこへ行くんだ?」
「タクシー使うか。電車でのんびりってわけにもいかないだろ」
 駅を出てタクシーを捕まえると、ケンは運転手に行き先を告げた。それは、僕の予想を遥かに飛び越えた場所だった。
「都立療養所まで行って下さい」
 ケンは何も言わず、雨粒が走る窓越しに、ただ遠くを見つめていた。
(そこへ行けば、美咲に会えるのか?)
(美咲は何で療養所になんかにいるんだ?)
(そもそも、どうしてケンが美咲の居場所を知っているんだ?)
 疑問は尽きなかった。けれど、僕はケンに問いただそうとはしなかった。いや、出来なかったという方が正しいかもしれない。
 長い沈黙の時間が過ぎ、車は目的地の正面入り口で僕たちを降ろした。ケンは颯爽と入り口の自動ドアをくぐり抜け、あるべき場所へと向かった。僕は辺りを伺いつつ、病院特有の薬品の匂いに呼吸を掌握されながらケンの後を付いて歩いた。
 休診日でもある日曜日の病院。普段当たり前のように見せている慌ただしさは、1週間の疲れを癒やしているように影を潜めていた。最新型とはお世辞にも言えない、赤錆の目立つエレベーターに乗り、ケンは5階のボタンを押した。
「ヒロ」
 見上げた階数表示が3階から4階へと移動した時だった。
「ここにあるのは、全て現実だ」
 ケンは静かにそう言った。
「どういう……」
「石原さんが……いや、お前たちがどんな理想を描いていたのかは知らない。けどな」
 到着を示す高音域のブザーが鳴り、エレベーターは緩やかな振動を響かせながら止まった。
「これからお前が目にすることが、全ての答えだと思う」
「ケン?」
「多分、な」
 ドアが開き、エレベーターを降りると、酷く静まり返った白色の廊下が真っ直ぐに伸びていた。診察室や会計窓口がある1階とは違い、入院病棟であろうこの階は、休日のせいもあってか、あちらこちらの部屋から見舞い客の賑やかな声が聞こえてくる。ただそのどれも、笑顔の渇いた声に聞こえた。それぞれに抱える病の側では、無理もないかもしれないが。
 通路を中程まで進み、不意にケンは立ち止まった。
「ケン?」
 僕の呼びかけに、ケンはただ遠く通路の先を指差した。僕はその指の先に視線を向けた。
「……み、さき?」
 覚束ないの視界の中に捉えたのは、病衣を身に纏った美咲の姿だった。
「ケン、どういうことだ?」
 視線は、遠く美咲を捉えたままで、僕は言葉を続けた。
「何で美咲が、病衣なんて着てるんだ? いったい何があったって言うんだ」
「ヒロ」
 ケンは静かに口を開いた。
「石原さん、自殺しようとしたらしいんだ」
 ケンの口から出た言葉は、驚愕の事実だった。
「自殺って、何だよそれ」
「俺にも詳しいことはわからない。石原さんが余りに姿を見せないから、気になって画廊の滝口オーナーに聞いたんだ。そうしたら、ここへ運ばれたって教えてくれてな」
 僕の思考は、完全に混乱していた。意識とは反して足が1歩踏み出した時、ケンが僕の肩に手を置きそれを止めた。
「横断歩道の赤信号を無視して、走ってくる車の前に飛び込んだらしい。幸いにも、運転手のブレーキが間に合って大事には至らなかったそうだけど」
「なんで、そんなこと……」
「1度ここで石原さんの妹さんに会ってな、話を聞いたことがあったんだけど、前に付き合ってた彼氏が雨の日に事故で亡くなったんだそうだ。石原さんが車の前に飛び出した日も、今日みたいに雨が降っていたんだってさ」
 ケンの話を聞き、美咲と食事に出かけた時の話を思い出していた。あの夜、とても愛おしむように彼との思い出を語っていた。それは、もう2度と帰らない日々だからこそだったのだろう。そしてあの日の朝。
『過去の虜になって、すがりついて生きるわ』
 彼女が煌びやかな朝の空間に置いたその言葉の意味を、僕はこの時初めて理解出来た気がした。
「石原さん、今記憶がないらしいんだ」
「記憶?」
「恐らくは事故による一時的なものだろうってことだけど。妹さんが言うには、石原さん、今随分と幸せそうな顔をしているって話なんだ」
「幸せ……」
 ケンは無言で頷いて、それから言葉を続けた。
「彼氏が迎えに来てくれるのを、楽しみに待ってるんだって」
 僕の目から、ひと筋の涙が落ちた。それは、ずっと解けずにいた彼女の心に、ようやく触れることが出来た気がして。
「ヒロ。それでも彼女に会いたいか?」
 ケンの言いたいことは十分過ぎる程に分かった。今さら美咲に会っても、僕が何かをしようとすることなんて、何の意味も持たないのだということ。それでも……
「あぁ」
 僕は声を漏らすように返事をした。美咲に会わなければならないような気がした。何をするわけでもない。決して覗かせることのなかった彼女の本当の笑顔を、この目で見ることが出来るのなら。
「そうか。じゃあ、先に帰るな。落ち着いたら、連絡よこせよ」
 ケンはそう言って、来た道を戻るようにその場を去って行った。僕は振り返ることなく、ゆっくりと美咲の方へと歩を進めた。距離が縮まる度にはっきりとしてくる彼女の姿は、あの日に失った彼女の思い出を、少しずつ脳裏に蘇らせていた。

epilogue 〜ある雨の日の午後

「こんにちは」
 美咲の側まで近づくと、僕は割れたガラスの破片を指先で掴むように、そっと言葉を置いた。彼女は僕の方へ顔を向けると、優しく微笑みかけるように、「こんにちは」と返してきた。その表情は、今までに見たことのない、慎ましい微笑みだった。
「ここ、座ってもよろしいですか?」
 美咲と向かい合わせの席を指差し、僕は聞いた。彼女は、「どうぞ」と言って手を差し出した。白く、今にも折れてしまいそうな細い腕を病衣から覗かせて。
「雨、止みそうにもないですね」
 聞き逃してしまいそうなくらいに小さな声だった。
「そうですね」
 僕が相槌を打つように返すと、彼女は言葉を続けた。
「私、雨の日が嫌いになれないんです。何故だかわからないけど、とても懐かしい感じがして」
「懐かしい?」
「変、ですよね」
「そんなことはないですよ」
「本当ですか?」
「そういう気持ち、何となくだけどわかります」
「良かった」
 彼女は安心したような微笑みを浮かべた。僕は彼女の思いを聞きながら、窓を滑るように流れていく雨の滴を見ていた。
 雨が街を濡らしていた。細かな雨は路上に幾つもの小さな窓を作っていた。その窓に映る灰色の空は、どれも雨粒が織り成す波紋で歪んでいた。
 環状線は飛沫をあげて走り交う車が列を成していた。歩道はカラフルな雨傘が灰色の街並みを彩っていた。街は自然の光を失った代用に、昼間だというのに人工的に造られた明かりでライトアップされている。
僕はテーブルを挟み、彼女と向かい合うようにして静かに座っていた。けれど、心は報われない喪失感と困惑の中にあった。彼女は肩下まで流れる髪を指先でなぞってみたり、テーブルに置かれた缶ジュースを口に付けたりしながら、時折僕と目が合うとはにかむように微笑んで見せた。その度に僕も微笑んで返した。不器用に釣り上げられた僕の口元は、さぞかし滑稽に見えていたかもしれない。
 言葉少ない緩やかな時間が流れていた。近くて遠い彼女の横顔が、視界の中でいつまでも揺れていた。
「どなたかのお見舞いですか?」
 美咲は優しい音域で言葉を置いた。
「えぇ」
「そうですか」
「あなたは、どなたかを待っているんですか?」
 僕が返すようにそう聞くと、彼女はほんのりと頬を赤く染めて「はい」と返してきた。
「大切な人なんですね」
「えっ?」
 美咲は驚いたように僕を見た。
「随分と幸せそうに返事をされたので」
 彼女は、「分かります?」とはにかみながら言った。
「お付き合いをしてる人なんです。妹に、私がここにいることを伝えてはもらっているんですけど、彼、仕事が忙しい人だから。今日は来てくれるかなぁと待っているんですけど……」
 美咲は、窓を流れる雨水の線を人差し指でそっと触れた。
「この雨じゃ、今日も無理かしら」
 涙声にも聞こえてくる程に、彼女は愛おしくそう呟いた。
「この雨が止んだら……」
 美咲を見真似、窓を流れる雨水を指先で辿るように触れながら僕は言った。
「迎えに来てくれますよ」
 僕の視界の隅で、美咲は柔らかく微笑んでいた。

(完)

イエスタデイ セレナーデ

イエスタデイ セレナーデ

大人になると、純粋には人を愛することが出来なくなる。毎日の暮らしの中で、大切な何かを少しずつ失っていくから。 もう一度あの時に戻れるなら、僕は、きみが望む愛を探したい。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2018-01-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. プロローグ -ある日の午後-
  2. scene.1
  3. scene.2
  4. scene.3
  5. scene.4
  6. scene.5
  7. scene.6
  8. scene.7
  9. scene.8
  10. scene.9
  11. scene.10
  12. scene.11
  13. scene.12
  14. scene.13
  15. scene.14
  16. scene.15
  17. scene.16
  18. scene.17
  19. scene.18
  20. epilogue 〜ある雨の日の午後