水の館

衣川優曇


 リエンが瞳を閉じたとき、遠くで強く扉が閉まる音がした。気がつけば、手の力が抜けていて、ものすごい音をたて抱えるほどの花瓶が床に落ちた。
 ジャリ。黒い廊下の床に散らばったガラスが足の下で音をたてる。
 リエンは固まって、大きく目を見開いたままつぶやいた。
「行ってしまったのですね――。もう、戻ってこないのですね」
 冷たい心を壊す、あるいは失うことができるのなら、ずっと憧れていた、ほころぶ花のような喜びを手にすることができるのだろうか。
「それはただ、死を意味するというのに」
 リエンは足元を見下ろし、傷ついて変色した花びらや水をそのままに、またいで屋敷の中を見て回った。
 すべてがそのままだった。大きな池のある庭、魚の泳ぐ居間、知恵そのもののような父上の書斎、海を飾ったような青い廊下の天井、生活感のない調理場も。窓から見える景色は、光を受けてガラス細工のように清らかに見えた。これほど美しい景色も、ここでは珍しくない。それはリエンたちと屋敷の威光によるものだった。
 しかし、ついにリエンは一人になってしまった。一人、また一人と同族が屋敷を出ていき、長らく二人で暮らしてきた父上も、ついに死にに行ってしまった。
 父上が出ていくことはわかっていた。だからリエンは瞳を閉じた。けれど襲うショックは、冷たい心にもしっかりと傷をつけた。
「愛していなければ、僕たちはこの景色を守らない。けれど、僕の心に、愛と人が言うものがあるわけじゃない。そして、こんなのはいつまでも耐えきれるわけじゃない。僕たちだって、辛いことは辛いんだ」
 透明な涙がほおを流れ落ちる。まるでただの水滴のように無心な涙が、後から後から床にこぼれ落ちる。父上がぽつりと灯してくれていた、心の中の小さな温もりの炎も今、かき消された。
 その涙が止まったとき、館は薄霧のように漂うかすかな闇に包まれていた。世界のはざまの夜。世界と世界の間にあるここは、漆黒の夜を知らない。昼と夜のちがいもつかない。リエンは、屋敷の玄関ホールにある時計にしたがって行動していた。
 それぞれの世界からもれ出す光と闇の、どちらが勝つかは、このはざまの気まぐれに過ぎない。ある時はどちらかに染まってみたり、ある時は雲を流す大空のように毅然としていたりする。
リエンはふらふらと青い天井の下を歩いて自分の部屋に行き、涙の色にも見えるアイシーブルーの寝台に横になった。
 翌日、目が覚めると、リエンは屋敷をめぐる水の流れを見て回った。池に浮いた枯れ草を熊手で取りのぞいていると、遠くかすんだ道の先に、こちらへ歩いてくる旅人の姿が現れた。水の館を頼って、謁見を望むはざまの旅人だ。
 一刻(約三十分)後、リエンは大木のように大きな珊瑚の亡きがらと、光を散らす水のシャンデリアのある客間で、旅人と向かい合って座っていた。アルニラムの世界から来た旅人は言った。
「わしはアルタイルの世界へ行きたいのだが、水の館様の手をお貸しいただけませぬか。どうもわしはあの世界に弾かれてしまうようで、なかなか中に入れませなんだ」
 リエンは旅人を見つめると、言った。
「あなたはもとの世界を出るとき、どうやって出てきたのですか?」
 旅人は小さくうなり、ぽりぽりと頬をかくと言った。
「その、腕を入れられるほどの裂け目を見つけたんで、それを押し広げて出てきたんだ。裏技があったのでな」
「なるほど」と、リエンは肘かけに置いた自分の手に目を落とした。「それでは、あなたはアルニラムの世界を出る資格を得ていないことになります。まず世界を出る資格のない者が、べつの世界に入れるはずがありません」
「そこをなんとか。水の館様のご威光はよく聞きおよんでおります。遠くからこのお館を目にしたとき、わしは神のおそばに寄るような気がしましたんで」
 旅人はすがるように両手を擦り合わせたが、リエンに静かに見つめられると、なぜだか体の力がぬけてしまうような気がした。
「どこからか借りてきた知識に力は宿りません。一時的なずる賢いやり方で、はざまに出たあなたは旅人ではなく霊のようなものです。アルタイルの世界に入りたいのなら、ご自身で努力して入られることです」
 そうじゃなきゃ、困るのはあなたなのだから。
 すべてを言わずに、リエンは客間を去った。旅人のあっ、と詰まる声を背に、らせん階段を上って最上階の大窓の前に立つ。
迫りくるような白い孤独を感じていた。遠くを見渡すと、はざまの「無」の中に白い石で敷かれた道がずっと続いている。眼下の庭に目を落とすと、水草や水木、つゆ草やかきつばた、睡蓮の半透明な姿が目に入った。
(僕も水にのみ込まれて、何もかもわからなくなってしまうんだろうか)
 そう思ったリエンはふと気がついて、そうじゃない、と笑った。最初からリエンは水に染まっている。水に染まらない自分なんて知らない。
 そうしてぼーっとしていると、ふと鮮やかな色が目に飛び込んできて、リエンははっとした。桜色、桃色、緋色(火の色)に真紅。菫や山吹のような色もある。白い道に沿って、屋敷から流れ出した川に、ぷかぷかと花が流れていく。
(綺麗……)
 生気にあふれた色が目に染みて、目を見はってそれを見ていたリエンは、一瞬の後、急いで階段を駆け下りていった。
 屋敷を飛び出し、庭をぬけて高欄の間を出ると、一人の女の子が、楽しそうにニコニコしながら花を眺めていた。女の子はかごの中から山吹の花をとり出すと、また水に浮かべようとする。リエンはその手をつかんで止めさせた。
「こら、何してるの」
 女の子は目をぱちくりする。その目を見てリエンは、確信犯だな、と思った。
「何してるの?」
 リエンがもう一度尋ねると、女の子は唇をとがらせて言った。
「だってー、このお庭は綺麗だけど寂しすぎるんだもん。お花はあるけどみんな冷たい色をしてて、水はたくさん流れてるけど、水も冷たいものでしょ? ここのお館にずっといたら、心が冷たくなって死んじゃうだろうなって思ったから、ご主人様のために温かいお花を摘んできたんだよ」
「きみはどこから来たの?」
「アダラ。乙女の世界だよ。お父様が使節としてスピカの世界に行っているから、待ってるの。あたしの家は、アダラの世界の唯一の番人なんだよ。それは世の中のみんなには内緒なんだけどね。このお花も、家のお庭から摘んできたんだから」
 女の子は得意そうにかごの中と、ゆっくりと流れていく花を示した。リエンは流れていく花のひとつをすくい取って、女の子に向き直った。
「でも、よく考えて。ここに流したら川は汚れてしまうでしょう? このお館は、いつでも綺麗に保たなきゃいけない。ケガレたら、このお館は潰れてしまうし、はざまの世界も守れないんだよ」
 すると女の子は、水の館の青い壁を見上げた。
「でも、ご主人様は喜んでいるはずだよ。ぜったい喜んでる! たまにはいいと思うけどな」「……ご主人様は僕だから」
 リエンが言うと、女の子はまじまじとリエンを見つめた。
「えっ? でもあなたはあたしと同じくらいじゃない」
「そうだけど、僕なの。花が綺麗だからって流したら、一番大事なものを失ってしまうでしょう。気持ちはうれしいけど、それは僕のためにならないんだよ」
 女の子は山吹の花を手のひらに乗せ、リエンに見せるようにしながら言った。
「でも、あなたは寂しいんでしょう?」
「寂しいとか、寂しくないとかは関係ない」
 リエンはむっつりと言うと、かごを拾って女の子に持たせた。
「とにかく、きみは悪いことをしているとわかってるんでしょう。アダラの番人の子なら、それくらいわかるよね? 家に帰って、お父様とこのことを考えなさい。それと、はざまの世界をむやみにうろうろしないこと。わかったら、流した花を拾ってさっさと帰りなさい」
 リエンが軽く女の子の背をおすと、女の子はリエンをひと睨みし、前に向き直って大股で花を拾いながら帰っていった。
 リエンがほっと息を吐こうとしたとき、背中のすぐそばから声がした。
「強がっちゃって。かわいそうな子だね。どれほど聡明でも、心が冷たくちゃねえ……」
 先ほどのアルニラムから来た旅人だった。そのまま去っていく旅人の背を、リエンはじっと睨んだ。心の中にめらめらと怒りの炎が燃えていた。

 希望があるから人は生きている、と言う人がいた。逆に言えば、希望がなければ人は生きられない、と。けれど希望以外のものが人を生かすことだってある。
 怒り、成しとげてやろうという心意気、誇り。それらがすべて暗い色をしていても、冷たい心に宿れば力となる。リエンも同じだった。未来なんて見えないし、知らないけれど、その信じているものを捨てることなんてできなかった。
 数日後、アルタイルの世界から魔法をかけられた無人馬車がやってきた。それはまだ父上がいたころ、はざまの世界で迷子になった旅人を助けたお礼だった。たくさんの野菜(とうもろこしや芋、人参、アスパラガス、トマト)や、桃などの果物、ぶどう酒やビール、小麦粉、パン、アルタイル特有のお菓子が山ほど。それらを一人で、骨を折ってリエンが下ろすと、空っぽになった馬車はひとりでにカラカラと戻っていった。
「あっ、待って……!」
 リエンは手を伸ばして声を上げたが、馬車はふり返りもせずに行ってしまった。
(お礼の手紙を一筆したためようと思ったのに……)
 父上もそうしていたし、この屋敷はお礼の品で成り立っている。それぞれの世界の宗主から、はざまを守るお礼として、毎年、宝石や装飾品、金貨などのお礼が届く。それ以外にも、何かしら旅人を手助けしたとき、今日のようにお礼をいただくこともあった。「でもあの潔く、どこか無骨な感じは、アルタイルらしいかな」
 リエンの顔に少しだけ笑みがうかんだ。しばらくはこれで生活ができる。一人では買い出しのため、屋敷を開けることもできないのだ。
 玄関先に山積みになった食料を、こんどは食料庫まで運ばなくてはならないことに気がつくと、ため息がもれたが、考えていても仕方がない。リエンはすぐにその作業に取りかかった。
 最後の袋を運び終えると、リエンは汗をぬぐって呟いた。
「ふう、やっと終わった。少し休もうかな」
 そう言った自分の声は、倉庫の壁に吸い込まれていく。リエンはちらりと苦笑いをした。「ひとりごとが多くなった気がする」
 しかし、ついこの前までも、父上との会話はあっただろうか。
(僕も父上も、ひどく無口になっていた。話さなくても、父上が感じていることはなんとなくわかるけど、わからないこともある)
 そう考えていると、リエンの足は自然と父上の書斎にむかっていた。
 扉を開けると、細かな埃が舞い上がった。紙の匂いと古い木の匂いがする。木の匂いは黒光りした机と椅子によるものだ。窓以外の全面にならぶ本棚は、聖堂の壁のように静かで重々しいが、父上はこの本の壁によって、水から守られていたのだろうか?
 リエンは木の椅子に座ると、背表紙の題名もろくに読まないまま、ひとつの本を引き出して夜になるまで読みふけった。そこにははざまの世界を挟んだ四つの世界の大まかな歴史が記されていた。
 そうしているうちに、ふと頭の奥から、いつかの父上の言葉がよみがえってきた。
『リエン。水はすべてをのみ込み、流すものだ。逆に言えば、水ほど清らかで、柔らかいのに強いものはない。私たちが何かを誇りに思うとき、私たちはそのものを心の奥底から思っている。これはあたりまえだな? ……しかし、私たちが水の館を誇りに思うとき、私たちは前後もわからなくなり、何も見えなくなる。私たちの心は水にのみ込まれ、人間らしい思いすべてを水に流されてしまうからだ』
 リエンは顔を上げ、本をぱたりと閉じた。
 そうだ、父上はそうおっしゃっていた――。魚の泳ぐ居間をそうじして、水を入れかえた後、お茶を飲みながらテラスで休憩していたとき。淡く染まった銀や翡翠色のうろこをした魚はうれしそうに泳いでいたけれど、父上はそれに背をむけ、はざまの白い霞の遠くをじっと見つめていた。
 リエンは本を棚に戻し、書斎を見まわした。この部屋に日記がないことは知っている。(魚のように、生きられたらいいのに)
 水の清らかさを保ったまま、スイスイと泳げたら……。

 スピカの世界の冬によって、はざまは一部が冷気に包まれていた。水の館にも気まぐれに冬が来た。リエンは屋敷のまわりや、そこかしこにとつぜん現れた氷の塊を削って、たくさんのオブジェをつくった。父上と暮らしていたころもそうしていた。冬が来れば必ずする、ひとつの儀式のようなものだった。
 氷の森と化した庭の、小道の奥の玄関ポーチで、リエンはひっそりと腰かけてそれらを眺めていた。炎のような形に、唐草や木の実のうき出した文様、輪っかがいくつも組み合わさった形に、シルエットのおかしな翼の大きな鳥、魔法陣のような模様。リエンがつくるものは、はっきりとした実体のないものが多い。
 半年ほど前、冬が来たときは、リエンの装飾的なオブジェの中心に、父上のつくった氷の剣が立っていた。それは人の笑い声の中で孤高を貫こうとする人のように、切っ先は鋭いが、遠くから見ると不格好だった。
 微妙な顔で剣を見上げるリエンの反対側で、父上も同じように微妙な顔で困ったようにたたずんでいた。
『わかっている。わかっているが、これをつくりたかったんだ』
 父上は一言も口をきかなかったが、そんな声が聞こえた。
(そうですか。つくりたかったなら仕方がないですね)
 リエンは心の中でその声に答えていた。
(その剣が、父上自身を殺す剣でもね……)
 リエンは苦しみを紛らわすように声に出して呟いた。
「――剣は地に突き刺さり、流されないもの。盾のむこうのものを貫き、壊すことができるもの――」
 太古の呪文の中に、こんな意味をもつ言葉があった。破壊と、犠牲をかえりみない意志をもたらす呪文だ。
「父上も、しょせんは人間だったということか。己の情に打ち勝つことができなかった、僕よりも弱い人間」
 リエンの肚の中で、どろどろとした魔物が顔を出した。そう思うことでしか、今を乗り切る方法を見つけられなかった。
 それからリエンは余った氷で聖人をつくると、その名前も、属する宗教もない、空っぽな聖人を適当に据え、最後に庭のまん中で冬の女神の名前を口にした。
「白姫様、ここにお宿りください」
 これでスピカから来た冬の女神の吐息が消えるまで、この屋敷は氷によってよく守られるだろう。
 冬が終わる前に、リエンは四つの世界の扉の方まで、はざまを見て回ることにした。扉は四つの世界がそれぞれ管理しているはずだが、出入りの少ない世界では、はざまの側から点検すると小さな隙間が空いていたり、汚れていたりする。ほかにもなかなか行けないはざまの隅の浄化をしなければならなかった。
 こればかりは怠るわけにいかない。パンと果物、アルタイルのお菓子など少量の食料を持ち、ゆったりしたマントを羽織って旅支度をすると、リエンは屋敷を出た。庭を抜けるときに氷の玉をひとつ削り取って、持っていた荷物に入れた。
 白い道をずっと歩いていても、景色は変わらない。一日、黙々と歩いていくと、やがてスピカの世界の扉が見えてきた。リエンは道の端に座り、パンと果物を齧ると、腕を組んでうつらうつらとした。
 眠りの中で砂利を踏みしめる足音が聞こえた。やがて声が聞こえる。
「おーい、おーい」
 ぱっと目を開けたリエンは、自分ががっしりとした大きな手に揺さぶられていることに気がついた。日に焼けた勇ましい男の顔が目に入る。
「おっ、気がつかれましたか? 起こしてしまって申し訳ない。ひとつ、尋ねたいことがありまして」
 リエンは身じろぎをし、目をこすると、男に向き直った。
「何でしょうか?」
「あなたはもしや、水の館のお人ではありませんか?」
「はい。そうですが」
 リエンはぼんやりと男を見つめた。
「やはり! そうだったか。おれはルーシャーと申します。以前、アルニラムから水の館をお頼りし、スピカへと移住させてもらった者です。覚えておられるかな……、おれはアルニラムの怪獣とよばれていた男なんだが」
「怪獣……」
 寝ぼけているのか、呟いただけのリエンに男は言葉を続けた。 
「見ての通り大男だし、無骨なものでね。アルニラムの優男や、訳のわからぬことを言う哲学者のようにはなれなかったんだ。アルニラムには男らしい男もいるが、その者らと違い、おれは花を愛でたかった。ただひとつのことを求める前に、おれは草木や花々のすべてを育ててみ、愛してみたかった。人間、神に与えられた場所には学ぶものや、意味があると思うが、アルニラムの扉を見つけたとき、おれはなぜかそこを通ることができた。この真っ白い場所に出て、水の館にお通ししてもらえたとき、ご主人様は言った。『扉を通してもらえたのなら、あなたにはあなたの真実が宿っているのだろう』 とな。その言葉はおれに衝撃を与えた。考えなしの愚かな人間と言われてきたおれに、真実が宿っているとは……! 水の館様のおかげで、おれは今スピカで、毎日畑で汗を流し、花や野菜を育てて楽しく生きている。おれは常々、水の館様への恩返しは何がいいかと考えていた。この度、ようやくそれが決まったので、これから水の館へ向かうところだったのだ」
 リエンはその話を聞いているうちに、だんだんと記憶がよみがえってきて、うなづいていた。
「覚えてますよ。暑い夏の終わるころでしたね。あなたの大きな笑い声が好きでした」
すると大男は、白い歯を見せてにかっと笑った。
「おれもだ。あなたはご主人様の近くに控えて、話を聞いていただろう? ご主人の相談相手にもなっていた。その利発そうだが優しい顔を、よく覚えていたよ」 
 リエンは嬉しくなって、同じように笑顔で男を見上げた。男の熱のこもった声とあふれ出すような生気が眩しかった。しかしリエンはふと、言わなければならないことに気がついて、表情を改めた。
「あの、いま水の館にはだれもいないんです。僕も用事があるので、まだ戻るわけにはいかなくて」
「そうなのか。ご主人様はどうしたんだい?」
「亡くなったんです」
 大男は息を呑み、大きな手で口元を押さえた。
「だが、まだ若かったではないですか」
「死にに行ってしまったんです。直接聞いたわけではないですが、もう耐えられなかったのでしょう」
「何に……?」
「水の館を守ることに、です。みんな、それで出ていきましたから」
 それを聞いて、「残念です」 と大男は頭を垂れ、長らく手を合わせていた。大男が顔を上げたとき、その頬にだらだらと涙が流れているのを見て、リエンは驚いた。
「父上のために、悲しんでくれてありがとうございます」
 リエンが言うと、大男はいいえ、と首をふり、マントに隠れていたリエンの手を探し出すと、ぎゅっと大きな手の中に包んだ。
「抱きしめてもいいですか」
 大男の言葉に、リエンはぎょっとした。
「えっ?」
「抱きしめてもいいですか。あなたはまだ小さいのに、よく頑張っていますね」
 リエンは苦笑いをすると、じりじりと後退し、ついには立ち上がってしまった。
 水に満たされ無心なリエンの心に、人を思う心はなかった。そして、人の温もりを受けとる場所もなかった。苦しみさえ流してくれるのは、水の良いところだとリエンは思っていた。
「大丈夫です。寂しくありません。水の館は僕そのものですから。一週間ほど経ったら、僕は戻ります。スピカの扉の近くで出会えてよかったです。しばらくスピカの世界でお待ちになってください」
 大男は眉毛を下げてリエンを見つめた。
「そうか。おれなんかが何かしても、ケガしてしまうだけだもんな。何か力になれることがあったら、言ってくれよ」
 それからリエンは、大男と一緒にスピカの扉まで行った。貝殻の内側のように、さまざまな淡い色が混ざり合った光の扉の下に、乾燥した藁がいくつもはみ出していた。
 リエンは眉をしかめて言った。
「厩の仕切りのように無造作だ」
「この先は畑に繋がってますからね。だが、この扉を見つけた者も鍵がかかっていると思っているようですよ。もちろん、大抵の者はまず見つけられないが」
「そうでしょうね。しかし、心を鬼にしなくては」
 そう言って唇を引き結んだリエンの頭を、大男は優しくポンポンと叩いた。
「それならおれが鬼になるよ」
 それから二人はスピカの扉を開け、藁を押し込んで扉の近くには土だけがあるようにした。スピカはいま冬なので、名前の由来になっている黄金色の麦の穂は見えなかったが、リエンは枯れ草のなびくわびしげな景色のむこうから、冷たく味わいに満ちた風がやってくるのを感じて息を吸いこんだ。
 大地に眠る植物の種や、冬ごもりする動物、寒空の下でささやかに生きる木々の、たしかな生の匂いがした。その匂いは深くリエンの感覚に刻まれた。
(この一瞬でご飯一万杯はいける。いや、いけなくてはならない)
一年に一回、四つの世界のどれかで見るか見ないかのこの一瞬を大切に、リエンはいつも改めて水の館を愛そうとしていた。
 大男と別れを告げ、スピカの扉が閉まると、リエンはほっとして息を吐いた。
(あんなふうに優しくされたとき、どんなふうに心を保ったらいいんだろう)
染まってはならない心は、さらに冷たく固く、冬の大地のように静かな悲鳴を上げていた。
(けれど僕の心は水だ。水は柔らかく強いものなんだ)

 スピカ、アダラ、アルニラムと廻ってきて、アルタイルの扉まで来た。アルタイルの重く光る扉は銅に似て、古びているが丈夫そうだった。
 扉の確認が終わると、リエンは氷の玉を布から取り出した。初夏の空気が漂うアルニラムの扉の前で、溶け出してしまったので手に持っていたのだ。リエンははざまの世界に向き直った。氷を持った手を掲げ、それを投げようとしたとき、ふと背後から光がもれ出した。扉が開いたのだ。
 リエンがふり返ると、さんさんと降りそそぐ日の光の中から大きな人影が出てきた。最初は逆光でよく見えなかったが、その人の後ろで扉が閉まると、希望に輝く目と目が合った。リエンはその目を見て、やっかいな旅人が来たかもしれない、と思った。
 いかさまではない旅人の目に、思い上がりを感じさせるほど明るい瞳は見たことがなかった。みんな、多少なりとも真っすぐで暗く、透き通った光をもっている。それは、ものごとのほんとうの姿を見極める目だ。
(それにしても、なんてケガレの多い、汚れた旅人だろう)
砂に汚れたれんが色の上着の下には、高級な布地でできたシャツと、宝石の付いた刺繍のベストを着ているのがわかったが、リエンの目には別のものが映っていた。。
「おや、あなたはどなたでしょうか?」とその人は言った。「私はこれから、人のいない白い道を歩いていかなければならないと聞いていたのですが。まさか入ってすぐ、白い世界をゆくお仲間に出会えるとは!」
 リエンは答えた。
「僕は水の館の主です」
「水の館……! うわさに聞く水の館の。幸先がいい。私は幸運だ」
「あなたはどちらへ行かれるのですか?」
 リエンが尋ねると、その人は改めてリエンをしっかりと見た。
「水の館だよ。私の目的地は水の館だ。そこで主とお話をするつもりだったのだよ。まさか入ってすぐ出会えるとは思わなかったが」
 リエンはそれを聞いて不思議に思った。はざまの世界へ、水の館を目指して入ってくるものといえば、お礼の品を運ぶ馬車か、はざまを通行する資格をもった特殊郵便配達員しかいない。
「あなたは、アルタイルからの使者なのですか?」
 リエンの言葉に、相手はうなづいた。
「はい。挨拶が遅れました。私はアルタイル王の側近、××様の小姓、ダミアンでございます。お願いしたきことがありまして、はざまに繋がる扉を開く情報を買い集め、はざまの旅人を一人雇い、はるばるここまでやってきました」
「そうなんですね。どうして通ることができたんでしょうか?」
 無礼も恐れずに尋ねるリエンに、ダミアンの眉が片方ぴくりと動いたが、ダミアンは答えた。
「旅人に扉を開けてもらい、ある城に仕える子の力を借りました」
「力……。そうですか。その力とは、どんな力でしょうか?」
「さあ。そこまでは私もわからないですね。小生意気な子でね、王の側近と領主の命令だというのに、噛み付いたり引っかいたりして、苦労しました」
 ふう、とダミアンは息を吐いて、わざとらしく額をぬぐう。
(はざまの決まりを壊してしまう力があるなんて……。これはちゃんと突き止めて、対処しないといけないかもしれない)
 眉をひそめて考えかけたリエンを邪魔するように、ダミアンが言った。
「さて、水の館に案内してもらえるかな」
「ああ、そうですね」
リエンはそううなづいてから、困ったようにダミアンを見た。
「あの、ご無礼は承知なのですが、この辺りで話を聞くことはできませんか?」
「どういうことだね?」
「すみませんが、あなたを館に迎え入れることはできないんです。それに、水の館はここから一日歩いたところにあります。ここでお話を聞けたら、僕は助かります」
「私を迎え入れることができないとは、どういうことだ?」
 むっとして言ったダミアンに、リエンはしばらく口ごもった。しかし仕方がない、とひとつ息を吐く。言うべきことを言わなければならない。
「あなたはケガレの塊なんです。凝り固まった心、金、アルタイルの俗習と常識、純愛と見せかけた奥さんへの偏った愛。それらがすべて悪いとは言いません。しかし、はざまの世界は水のようにすべてを満たすため、それらを許していませんし、その心を消してしまいます」
「なんだと……」
 怒りに染まるダミアンの目から、リエンは目をそらすまいとした。
「あなたは自分のことを何だと思っていますか。それらの凝り固まった心を失ったとき、あなたには何が残りますか? 考えてみてください。そこに自分の信念や真実が残らないとき、はざまの旅人は空っぽになって、死ぬのです。資格がないというのはそういうこと。あなた一人を入れたことで、水の館を大そうじするはめにもなりたくありません」
 リエンが言い終わったとき、ダミアンの顔は真っ赤になっていた。ふるふるとその拳が震え、あっという間に、リエンは殴り飛ばされていた。
「ふざけるな! 軟弱者が、口ばっかり達者に動かしやがって!」
 リエンは横ざまに倒れ、目がくらむような痛みにがく然とした。ぐるりと頭がまわって、意識が妙にはっきりとする。だれかに殴られたのなんて、初めてだった。
「何も知らない小僧が。ひと昔前には、もっと大らかで栄えた世界だったことを知らないのか! 清いが優しい世界だった。おまえや先代がしたように、冷たい世界ではなかった」
リエンは呆然としたままダミアンを見た。
「はざまがですか……?」
「そうだ」
 リエンの顔を複雑な色がよぎる。
(知らなかった……)
 リエンはうつむいて、苦しみをのみ込もうとした。心の中で水を流すように。水が流れてきて、苦しみを消してくれる。そうしている間、涙が一筋流れ落ちたが、ダミアンにばれないように静かにぬぐった。
(僕は言いすぎた。いつもなら、こんなヘマはしないのに)
「すみません」
 そう言って立ち上がったとき、リエンの顔は冷たいほど落ち着いていた。
「まあ、私も悪かった」
 ダミアンはもごもごと罰が悪そうに言った。
「しかし、やっぱりあなたを水の館に入れることはできません。帰って、資格のある方をこちらへ送っていただけますか」
 ダミアンはまだ言うか、というような顔をした。
「私は諦めませんよ。これは私の役目です。短い間の滞在なら大丈夫でしょうし、ケガレを失って死ぬというのなら、私はどこまでもケガレた悪魔のような人間でいてやりますよ。私には役目を遂げる、という信念もありますからね」
「それははざまでは通用しませんよ」
 リエンは冷ややかに呟き、転がっていた氷の玉を拾った。傷が付いて、だいぶいびつになってしまったが、殴られたときになんとか庇ったおかげで割れてはいなかった。
「とりあえず、一度戻っていただけますか。これから浄化をしないといけないので」
「それは無理だな。資格のない私が戻るには、大変な用意がいるのだ。入るときもまたしかり。申し合わせてあるのは一回だけだからな」
 リエンはため息を吐いた。ここで言い返してもまた殴られるだけだ。
「では、もうこれ以上薄くなれないというほど薄くなって、扉にへばりついていてください。息もしないで、存在しないでください」
 リエンの言いように、なんだそれ、と言いながらも、ダミアンは扉の近くで静かにしていてくれるようだった。リエンは意識を集中し、先ほどやったように氷を持った手を掲げた。そしてそれを投げた。
 下に落ちた氷の玉は砕け散り、その瞬間、全方向から水が流れ出し、辺り一面が小川のようになった。さまざまな方向の流れが、押し合ったり、交わったりして踊るように流れている。やがて細かい水滴がぽつぽつと列をつくって上っていくと、それがまた落ちてきて流れの中に落ちた。
 そして水は、はざまの中心である水の館の方向へ、すべてがざあーっと吸いこまれていった。
「すばらしい」
 そう言いながら、ダミアンがパチパチと拍手をしていた。
「すばらしいものを見せてもらいました」
「気がすみましたか? それなら僕は帰るので」
 そうして背をむけると、さっさと歩き出したリエンの後を、ダミアンは案内してくれるんだろう?、などと言いながらついてきた。それから一日ほどの旅は、リエンにとって、かつてないほど憂鬱な旅になった。
 ダミアンは「ついてこないでください」と何度言ってもついてくるし、「ここで話を聞きます」と立ち止まってみても、一向に話をしない。
(こういうとき、父上ならどうするだろう)
 仮眠のため道端で横になったとき、リエンはうんざりして考えた。思い浮かぶ策としては、まず水の館まで行かないということだ。けれどいま、屋敷を管理するのはリエンしかいない。
(放っておけば、うんざりして帰ると思うけど、こんなに頑固な人だもん。さ迷ってのたれ死にしそうだな。王様の側近の小姓を死なしたら問題になりそうだ)
 ダミアンは今、リエンの横であぐらをかき、こくりこくりと船を漕いでいる。リエンは初めて会ったときからずっと、ベルトによってその身に下がっている剣が気になっていた。青黒い青銅の剣で、草や木の実、蛇の姿が刻まれ、その奥に守られるように人影が見える。細かく美しい彫刻だ。その剣から、どうしても禍々しい嫌な思いを抱いてしまう。
(ダミアンさん一人なら、どうしてもと言うし、浄化してクラゲのように骨抜きになった後、屋敷に入れてあげるけどさ)
 リエンはイライラしている自分に戸惑っていた。どうして心が乱れるのだろう。それを考えたくなくて、強くまぶたを閉じた。

結局、アルタイルからの使者は最後までついてきてしまった。氷の森を抜け、ポーチまで来ると、リエンはくるりと後ろに向き直った。今は夜明けだ。白い霞ににじみ出した、どこかの世界の朝日の光が、聖人の像とそのまわりのオブジェを淡く染め、高欄をやさしく撫でている。
「ダミアンさん、この庭でお話しませんか? 少し寒いですが、今日はどこからか日の光が漂ってきています。気持ちがいいですよ」
 ダミアンは辺りを見まわしながら言った。
「どうしてこれほど温かいのに氷が溶けないんだ?」
「白姫の吐息を氷にこめてあるからです。いま椅子を持ってきますから、少し待っていてくださいね」
 そうして大扉を開け、屋敷に入ると、リエンは食堂から椅子を引き出した。そして一階の奥まったところにある使用人部屋(リエンの記憶では、だれかにここが使われていたことはない)に入ると、机の上に無造作に放り出された薬瓶と薬草と、ガーゼの中から湿布をつくった。ここに来るまでの間中、殴られたところがずっとジンジンと痛んでいたのだ。
 近くにちょうどよく手鏡があったので覗いてみると、左目の下に赤黒い痣ができ、腫れていた。軽く手を触れただけで痛みが走る。リエンは湿布を貼ると、食堂のほうへ戻った。
 玄関まで椅子を運んできたとき、リエンはきょろきょろしながら大扉を入ってくるダミアンの姿を目にした。ぎょっとして椅子をその場に置くと、リエンは駆け寄ってダミアンを押し戻した。
「入らないでください!」
「どうしてだね? ほら、私が入ったって、何も問題はないぞ」
「あなたにはわからないだけです。庭で待っていてくださいと言ったのに!」
 大の大人を押し返すのはとても大変だ。全身で押して、ようやくダミアンの体が大扉のむこうへ出た。しかしその瞬間、リエンはたやすく振りほどかれ、またまたダミアンと押し合いになった。大きく力強い手は、すぐに暴れ回るリエンの手をつかんでしまう。
「入、ら、な、い、で、ください……!」
 リエンは息を切らしながら言い、大扉に挟まれそうになりながらダミアンと相撲をとった。
(もう、噛み付いてやろうか)
 リエンは何とか勝つ方法はないか、と体と一緒に頭をも働かせた。普通に勝負をしたら、どう考えても負けてしまう。しかしこんなときに使える水の力というのもなく……。
(僕はいつも水の館のために働き、身も心も捧げているのに、どうして水の館は僕に何も返してくれないんだ)
 そう思うと、浮かび上がってくるのは水ではなく怒りの炎だ。
勝負はついた。うなだれてダミアンの体に手をついたまま、リエンは勝敗を確認しようとはしなかったが、見事、ダミアンは大扉の外に出ていた。しかし、顔を上げたリエンは泣いていた。
 泣きたくないのに、涙が止まらない。思いどおりにならない自分が悔しくて、歯を食いしばった。ダミアンの手が緩み、その手がリエンの肩をさすってから離れた。その手だけは優しかった。
 拍子抜けしたようにダミアンは言う。
「なんだ、子どもらしいところもあるんじゃないか」
 そして睨みつけるリエンに微笑みかけると、その口が、とどめを刺すように言った。
「没落した王族に何ができるっていうんだ? この城は、はざまの王の墓。そして、君たち一族の誇りが横たわる墓だ。しばらく頭を冷やすんだな。私は庭でゆっくり待つことにするよ」
 そして大扉はゆっくりと閉まった。リエンは力なく扉の錠を下ろすと、廊下に崩れ落ち、涙を流しながら放心していた。
(父上を、踏み倒して、僕が永遠に主になろうと思ったのに……。やっぱり僕にも無理なのかな)
 心に灯った赤い火は、水で流してしまわなければならないのだろうか――。

 城の隅にあって、常に水が入っては出ていく浴室の滝にリエンはあたっていた。いつもこうして、心も体も水に清めてもらう。けれど一刻後、浴室から出てきたリエンの内にはまだ赤い火が宿っていた。
 リエンの足は、ついぞ入ることのなかった大広間へとむかっていた。きしむ扉を開けると、眠りの成分のような埃の匂いがした。窓がないので薄暗く、すべてが茶色く煙っているように見える。両側の壁には絵画やタペストリーが飾られていた。
 リエンは恐る恐る、奥へと進んでいった。奥に見えるのは水晶の玉座だ。しかしその玉座の背後の凹んだ壁に、迫りくるような静けさをもった彫像が立っていた。あれは水の館を建てた初代の王だろうか、とリエンは思った。そして玉座の両側の壁にこちらをむいて立っているのは、王の忠臣と息子だ。
 リエンは玉座の前までくると、初代の王を眺めた。その眉と目は戦士のように引き締まっているが、面もちは優しく、切なげだ。そしてとても清らかなのに、すべてを包みこむような大らかな雰囲気があった。
 リエンはその像に深々と頭を下げた。ほんとうなら、その像にすがりついて泣きたかった。この人なら、僕を受け入れ、諭し、導いてくれるだろうと思ったからだ。
(あなたがそばにいてくださったら、どんなにいいだろう)
 そうしてもう一度頭を上げたとき、リエンはふと、すらりと伸びる燭台に気がついてはっとした。燭台には蝋燭が立っている。手を触れてみると、木の皮がはがれるようにボロボロと蝋がはがれた。
「この大広間が使われていたころは、火が使われていたんだ」
 リエンは驚いて呟いた。
「でも、消えてしまわないのかな……?」
 しばらく燭台を見つめて考えていたリエンは、目を開かれたように顔を上げた。

 翌日、窓から庭をのぞくと、ダミアンはまだそこにいた。氷の炎に身をもたせ掛け、携帯食らしい干物をしゃぶっている。リエンはダミアンを屋敷に引き入れた。
 大広間には蝋燭が灯され、ぼんやりと明るかった。リエンは波のように白い刺繍が施された、群青色の服を着て、水晶の玉座に座っていた。一段下がった向かいに椅子が置かれ、ダミアンはそこに座っている。その顔には、「仕方がないから、子どものお遊びに付き合ってやる」と書いてあった。
「それで、私にお願いしたいこととは何なのですか」
 リエンが尋ねると、ダミアンは荒々しくベルトから青銅の剣を外し、二人の間に置いた。
「用件とは、とても簡単なものだ。この剣を浄化してもらいたい」
 リエンは剣に目を落とし、それからダミアンを見た。やっぱりその剣だ、とリエンは思った。
「なるほど。それでその剣は、どういう由来のものなのですか?」
「この剣は、私の主人の××家が葬られた、ある丘に刺さっていたものだ。しかし葬られたのはだいぶ昔で、××家にはその丘に葬られた者の名簿しか残っていない。しかしいつからか、巷でこのようなうわさが囁かれるようになった。この剣の謎を解いた者には財宝が手に入る、と。中には言葉を大きくして、億万長者になれると言う者もいた。しかしそれを真にうけて剣を取りに行った者は、ことごとく不幸な目に遭ったという。仕事中、梯子から落ちてけがをした者、馬車に轢かれて死んだ者、毎日頭のうえに鳥のフンが落ちてくる者、奥さんと大げんかし、家族がバラバラになった者、猫になってしまった者。程度はさまざまだが、みんな呪われている。しかも剣を取りに行った者は、だれ一人として剣を取ってこないのだ。剣に触れたら気分が悪くなったと言う者もいたし、丘に行ったときの記憶がないと言う者もいたらしい。そのため、次第にうわさは形を変え、この剣の呪いを解いた者には財宝が手に入る、と囁かれるようになった」
 そこで一息置くと、ダミアンは身を乗り出して言った。
「そして、その呪いを解いた者がいたのだ」
 それを聞いて静かにうなづいただけのリエンに、ダミアンはにやりと笑った。
「だれだと思うか? ……はざまの王だ。三代目のはざまの王が、アルタイル王からこの話を聞いて、あるとき丘から剣を引っこ抜いて、××家に持ってきた。しかし剣は財宝の在りかを教えてはくれなかった。調べてみればそれは××家の宝ではなく、ある哲学者の宝だということがわかった。エリナイトという者だ。私の主人は××家として、この剣の謎を解きたいと思い、長らく頭を悩ませておられたが、私は主人に提案したのだ。だれも手にすることのできなかった剣を手にしたのは、はざまの王だ。まずこの剣をはざまの主に委ねて、浄化をしてもらってはどうか、と。この剣には呪いがかかっていた。何かを解かなければならないと私は思うのだ。そのため、浄化とともにこの剣の謎を解いてもらいたい。もちろん、お礼は弾む。アルタイルとの友好を深めるためにも、引き受けてくれないか」
 リエンは一瞬、こう思った。
(友好? どの口が言うんだ)
 しかし、ダミアンのこのありえないほどのしつこさは才能なのかもしれない。変わった人もいるものだ。断るつもりは、ダミアンを引き入れたときからなかった。リエンは剣を見つめた。
「この剣には、まだ呪いがかかってますね。はざまの王が浄化して、人が手に持つ分には問題がなくなりました。けれど根本的なところは何も解決していないようです。僕に任せてください。二週間ほどで何とかしてみます。そのときにまた水の館にいらしてください。それでいいですか?」
 リエンがダミアンを見つめると、ダミアンはうなづいた。
「では、頼みました。その、手荒なまねをして悪かった」
「いいえ」
 そうしてダミアンは水の館を去った。ようやくいつもの静かな生活が戻ってきて、リエンは安心した。もしかしたら、自分で思っているよりも孤独に慣れてしまっているのかもしれない。まだ大きな仕事が残っているし、水の館は浄化を待っている。しかしその夜は、アイシーブルーの寝台でぐっすりと眠ることができた。

 リエンは庭で、剣を前に悩んでいた。いま剣は、屋敷を囲う川に浸してある。スピカから来た冬は去っていこうとしていた。薄い氷は殻のように川をまとい、見ているうちに、ゆっくりと水の中に消えていこうとしている。
 ここ数日、呪いを解く方法を考える間、こうして川の中に浸しておいたのだ。しかし見たところ、大きな変化は見られなかった。
 リエンはまず、父上の書斎の本を読みあさってみた。けれどピンとくるものはなかった。そもそも父上の書斎にある本というのは、消えてしまいそうな心を留めてくれるものばかりだ。歴史や英雄伝説、科学、語学などが大半で、神話や詩集や、古い物語は少ない。その少ない本をリエンはすべて幼いころに読み切ってしまっていた。
 あとは、リエンの部屋に一冊だけある本。それは太古の文字と呪文を記した本で、何度も読み返したため、内容はすべて覚えてしまっている。これは幼いころに物置で、ねずみの穴を隠すために使われていたのを発見した本だ。それ以来、リエンの片腕のようになっている。
 しかしリエンは、この剣には呪文は弱すぎるだろうと思っていた。実際、『解毒』という呪文を唱えてみたが、剣に変化は見られなかった。金属の中に言葉が入るのはとても難しいのだ。
(いま、僕は水の館にいて、僕にできることは限られている。探偵のように事実を集め、頭を働かせることだけが謎を解く方法じゃない)
 リエンの頭に、こんななぞなぞが思いうかんだ。
『エリナイトという哲学者が、なぜか××家の墓を利用して財宝を隠した。世界の真実を求める哲学者の知恵はどこから来るのでしょう?』
 リエンは考える人の像のようにじっと考えた。しかしすぐに、その顔に笑みがうかんだ。 
(そんなの簡単だ。それは哲学者自身。そして、その謎を解くのは僕自身だ)
 リエンは川から剣を取り出すと、じっと見つめた。不安がちらりとその顔をよぎる。(この剣の中に入って、僕は無事でいられるかな……)
 謎が解ければ、自然と呪いを解く方法もわかるはず。リエンにあるのは水の力と、リエン自身という知恵だ。力を試そう、とリエンは強く思った。
(これを解決したら、僕ははざまの王族の一人だと思える気がするんだ)
 リエンは両手のうえに剣を乗せ、強く目をつぶった。その瞬間、リエンの体はがくんと揺さぶられ、リエンの頭は衝撃に真っ白になった。

 再び目を開けとき、リエンは青白い顔で頼りなく立っていた。何が起きたのかは、リエン本人にしかわからなかった。屋敷の青い壁が小さくゆらゆらと揺れ、白くかすむ。山のうえのように空気が薄く感じられ、リエンは息を切らしながら川から屋敷へと戻った。
 それからリエンが覚えているのは、解き明かした剣の謎だけだ。リエンは片時も離さず剣を持ち歩き、はざまと水の館を守る役目を忘れてしまった。
 リエンの中には魔女が現れていた。男好きでずる賢い魔女だ。彼女は幼いころは天使のように愛らしかったが、大人になるにつれ、どんどん目がぎらぎらし、口はどんどん大きくなり、いたるところが毒々しく、顔つきはどんどん契約した悪魔に似てきた。それでもまだ彼女は美しかったが、心の芯から優しい男や、芯のしっかりとした男は、けっして彼女に恋に落ちないのだった。魔女はやがて、魔法によって清らかな女の人に姿を変え、ある青年を落としにかかる。
 剣は獣のような魔女の怒りに深く染められていて、その思いを感じ、水によって鎮めている間、リエンは壁を殴り、ソファを壊し、クッションを引き裂いていた。
 次にやってきたのは明るさと熱。日に焼けた青年が、大口を開けて笑ったり、泣いたりしている。毎日、汗を流して畑仕事をし、ご飯をよく食べ、冒険にもよく出る青年。うわさに聞いた大蛇をその目で見るために、旅に出た先で魔女に出会う。
 リエンはその青年のせいで体が熱くなり、心が切なくなった。泣きながら、感じたこともない恋の味を噛みしめた。
「好きだ、好きだ、好きだ、好きだ――」
 ずっとそう呟いていた。
 最後は、優しげな青年だ。しかし、これがどれほど厄介だったことか。その青年の訴えるような声が何回も耳に響いた。
「やめてくれ、目を覚ましてくれ、あれは魔女だ」
「どうしてわからない?」
 リエンは泣きながら剣を構えた。その瞬間、弟の姿が現れて、リエンはその心臓に剣を突き立てた。生暖かく、ぬるりとした感触が手を伝う。血だ。 リエンが幻を振り払おうとすると、リエンの代わりに青年が剣をもっていた。弟の血を浴びて、悲しげに暗い目でリエンを見る。
「ごめんね、でもこれがおまえのためなんだ」
 黒い雲に、心を染められた気がした。優しげなその色が、真綿のようにふわふわした心が、殺されていく。もう何も見えなかった。目の前のものすべてが黒く汚れているから、綺麗な色なんて忘れてしまった……。けがばかりしているから、体が痛い。血液がドクドクして、生きているのだと知る。行かなくちゃ。僕はあの奈落に呼ばれている……。

 リエンは、息苦しさで我に返った。ぜいぜいと呼吸をしながら、ふと足元を見ると、居間を泳いでいた魚が血を流して死んでいた。リエンが気に入っていた、翡翠色の魚と淡い珊瑚色の魚だ。そして銀色の魚が剣の先に突き刺さっていた。
 リエンは剣を放り出し、信じられない思いでそれらを見た。しばらく目の前のことを受け入れられなかった。魚だけじゃない、屋敷はなんて荒れようだろう。居間の水は見たことがないほど濁っているし、廊下も刀傷がたくさん付いている。むこうの部屋から、壊れた椅子が転がり出ている。
 しかし、いまはただ、戻ってこれたことに安心した。
(あと少しで戻れなくなるところだった)
 そう思うと、冷や汗が流れた。
 リエンはそれから丸一日、眠り続けた。疲れ切っていて夢も見なかった。ようやく目を覚まして、リエンは起き上がって屋敷を見て回ったが、壊れたものを直したり、部屋を整えたり、汚れた水を替えたりする気にはなれなかった。
(体中が痛い……)
(なぜ僕は、屋敷を守らなくてはならないんだろう)
 リエンは廊下に放り出されたままの剣を拾うと、浴室へ持っていって洗った。浴室の滝はまだ澄んでいるが、このままリエンが何もしなければ、すぐに汚れてしまうだろう。
 剣の謎は解けた。あとは見てきたことをまとめ合わせて、財宝の在りかをこの剣に教えてもらうだけだ。
 けれどリエンはそれからも、あの青年を襲った黒い雲からなかなか逃れることができなかった。ともすれば、憎い、憎い、と女と男の声が呟いているのが聞こえる。
 大広間へ行って、はざまの王の姿を眺めていても、なぜかその顔が憎らしく思えてくる。
『おまえはそんなふうにはなれない』
『なにすました顔をしてるんだ』
 二つの声が言った。
 ふと気がつくと、リエンは父上の書斎で、古い机に何度も剣を突き立てていた。
「父上、どうして僕を捨てたんですか……どうして僕を置いて、簡単に行ってしまったんですか……?」
 食事をとるのも忘れ、寝ようとしても怖い夢ばかり見てしまう。突然、喉がカラカラに乾いていることに気づき、リエンはコップに水を注ぎ、それを一口飲んだ。その瞬間、あまりの不味さにコップを取り落としてしまった。コップの割れた大きな音で、リエンは我に返った。
 床にこぼれた水は、沼の水のように濁っている。
(僕は、取り返しのつかないほど水の館をケガしてしまった)
 罪悪感で、目の前が真っ暗になった。はざまの王様、僕はあなたのようになりたいと思ったのに……。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 もうどうしたらいいのかわからなかった。体の内に渦巻く憎しみは、自分のものとは思えない。リエンは何度も、僕のものじゃない、と自分に言い聞かせようとしていた。それなのにあの青年と同じように、目の前のものすべてが黒く汚されて見える。
(もう、すべてを終わらせよう。僕が壊れれば、水の館もはざまも壊れる。水の館が壊れれば、はざまも僕も死ぬ。どちらが先でも同じだ。これで僕は楽になれる)
 それに父上と違って、僕は最後まで水の館とともに生きたんだ。許してもらえなくても、僕自身は自分を許すよ……。
 リエンはふらふらと玄関の大扉へとむかった。全身でもたれるように扉を開くと、すべてが終わる瞬間を待とうと思った。リエンにはもうわかっていた。
(僕より屋敷が先だったか)
 しかしその瞬間、リエンの視界は真っ暗になった。
「リエン様?」
 戸惑った声が言った。リエンは大きな体に抱きしめられていた。柔らかい温もりがじわじわと伝わってきて、リエンの冷たい心に染み込んでいく。汗と土の匂いと、風とお日様の匂いがした。
「ルーシャーさん」
 リエンは呟いた。大男は眉を下げ、辛そうに、瞳を揺らしてリエンを見下ろしている。
「何があったんですか? どうしてお館はこんなに荒れ放題で、あなたはこんなに傷だらけなんです?」
 リエンは重たい口を、なんとか動かして言った。
「ルーシャーさん、逃げてください。屋敷が……」
「屋敷が何ですか?」
「もっとあっちに。崩れます!」
 そうしてルーシャーを押した瞬間、屋敷が大きくきしむ音がした。リエンは屋敷をふり返った。ピシリ、ピシリと、骨組みが壊れる音がする。一階がぐにゃりと歪むと、それからはあっという間だった。轟音を響かせながら、ケーキが崩れるように屋敷が崩れ落ちる。
 呆然と見つめるリエンを引っ張るのは、こんどはルーシャーの役目だった。もうもうと立つ煙の中、ルーシャーに引っ張られて高欄の外まで出ると、リエンはそこで倒れこんだ。もう体を動かす気力もないし、動かす理由もなかった。細かな石屑とガラス、そして汚れた水が身に降りかかってくる。
(はざまが壊れるのには、どれくらいかかるだろう)
「ルーシャーさん、逃げてください。はざまの世界が壊れる前に……」
 リエンは何とかそう言って、また顔を伏せた。このまま、死んでしまうつもりだった。「リエン様、何を言ってるんです。あなたにだって、逃げる権利はあります」
 リエンはそう言われても顔を上げなかったが、ルーシャーは何度も何度も、リエンの名を呼ぶ。リエンは仕方なく、もう一度、こんがりと焼けたミートパイのような顔を見た。
「もう終わりなんです、ルーシャーさん。僕は、最後までこの館とともにいたい。逃げたくない。僕はまだ、水の館を、はざまの王を敬愛しています。だからどうか、そのたくましい手で僕を担いでいくなんていうことはしないでください」
「おれはあなたを息子にする。それでもだめかい?」
「僕は、水に染まらない僕を……」
 そう言うと、リエンはがっくりと頭を落とし、動かなくなった。

 ルーシャーはしばらくリエンにしがみつき、涙を流していた。毎日スピカで花を愛でているのに、いまは手向ける花もないことが悲しかった。それから手を合わせ、立ち上がったときだった。
「おやおや、一足遅かったか」
 拍子抜けするほど呑気な声が聞こえて、ルーシャーは驚いて白い道のほうをふり返った。杖をついた老人がこちらへ歩いてくる。老人は倒れているリエンのそばまで来ると、くるりとリエンを仰向けにした。
「おお、まだ生きておる。よかった、よかった」
 ルーシャーは驚いて近くに寄った。
「しかし、息をしていませんよ?」
「お主、水の館の一族は長く息を止めていられることを知らんのか? 一刻は余裕だと言うぞ。ほれ、心臓はちゃんと動いておる」
 そう言ってお爺さんはリエンの手首を掴んでみせたので、ルーシャーも同じようにしてみた。心臓の脈が微かに伝わってきた。
「なんだ、生きていたんですね。おれはこの子を見捨ててしまうところでした」
「見捨てるも何も、この子は行こうとしないだろ。この子は水に染まっている己しか知らないんだからな。しかし館は壊れたが、はざまもこの子も無事とは、ほんにこの子もよくやったなあ」
 それからお爺さんはリエンを抱き起こし、ぴしゃりとその額を叩いた。
「ほれ、起きなさい。ほれ」
 お爺さんは何度もリエンの額を叩く。なかなか起きないので、そうとう参っていたのだな、と呟いたそのとき、リエンはゆっくりと目を開いた。その目はぼんやりとお爺さんを見つめる。
「あなたは……?」
「わしのことは後だ。しっかりせい。はざまは壊れておらん。お主も死んではおらんぞ」
 リエンはまだ信じられない様子だ。
「水は巡るものだ。巡ってまた清らかになる。何者も水を壊すことはできぬし、水の形を変えることもできぬ。もう一度、作り直せばよい。こんなケガレなど、すぐ洗い流せるわ」
 その言葉に力を得たようで、リエンはゆっくりと起き上がって、改めてお爺さんを見た。
「どうして、僕は生きているんですか?」
 そう尋ねたリエンを、お爺さんはじっと見つめた。
「わからぬか? お主が王になったからだ」
「僕が、王に……?」
「お主の中に、水ではない芯ができた。真実が宿った。王の誇りが時をへてここに宿り、水を支配できるようになったのだ」
 リエンの目から、にわかに涙があふれ出した。
「けれど僕は、水に負けました。館を守ることができませんでした」
「負けて、勝つ。そんな勝ち方もあるのだ」お爺さんは優しく言った。「これは、お主だからできたことだからな」
 そうしてお爺さんはふう、と息を吐くと、ふと表情を変えた。
「それにしても、だれだ? わしの墓に剣を刺した者は。××家のものはぽんこつだな」「あなたの墓? そうだ、剣。剣は……」
 リエンがはっとして崩れた屋敷のほうをふり返ると、お爺さんは片手を振って声を上げた。
「いい、いい。あんなものはいらん。まったくふざけおって。エリナイトはわしなのじゃ。わしはこう見えて二五○年生きておってな。百歳になった頃に、山中に移り住み、わしを頼ってくる者からも逃れようとして、××家に葬式と墓を頼んだのだ。それなのに××家はすっかりそれを忘れおって。空の墓があるからと、呪われた青年を埋葬したのだ。そして管理のずさんなあの家は、青年の名前しか記録を残さなかったわけだ。最初から財宝など存在せぬ。それでも、あやつらにはそれで納得してもらわなくてはならん。文句は言わせぬぞ」
 リエンは顔を明るくしてお爺さんを見た。
「それならあなたは、哲学者というより仙人のような方だったんですね」
「そうだ。生前は哲学者として知られていたが、それは世の中に合わせておったのだ。仙人と名乗ると面倒だからのう」
「だけどどうして、あなたはここへ?」
「わしはしばらく剣をアンテナとして使っておったのだが、お主を助けに行こうと思ってな。それにはざまの世界は、わしにぴったりじゃないか。わしはこれからここに住み、お主を手助けするつもりだったのじゃ」
「ほんとうですか?」
 リエンは身を乗り出して言った。願ってもない幸運だった。
(僕はこれからも、一人で頑張らなくてはいけないんだと思っていたのに)
「ぜひ、よろしくお願いします」
 そうして嬉しそうにお爺さんの手を握ったリエンに、お爺さんは声を上げて笑った。「お主はしばらく休みを取って、思う存分遊んだらいい。××家とダミアンのようなぽんこつもいるが、アルタイルの世界はおすすめだぞ。王族より民衆がしっかりしておってな、お主のように優秀な子もいる。ダミアンに噛み付いた子なんか、お主と馬が合いそうだな。大きな図書館もあるし、緑もいっぱいだ。はざまの王は水の奴隷にはならぬぞ。お主が留守の間はわしが番をするから、心配するな」
 リエンは嬉しくて、また涙が出てしまいそうだった。
「リエン様、ぜひスピカにも来てくださいよ。おれの育てた花も見てもらいたいな」
 ルーシャーが言った。
 それから三人は、瓦礫を探って、毛布と食べ物を見つけ出した。しばらく外で過ごすためだ。一階の部分は屋根の破片が被さったりして、なかなか見つけられなかったが、根気よく上のものを取り除いていくと、探していたものが少しずつ出てきた。
 リエンは大広間のあったところへ行って、煉瓦や柱を取り除いてみた。すると、水晶の塊が見つかった。リエンはそれを抱えると、近くをもう少し探してみた。はざまの王の像の頭部が見つかった。しかしひびが入っていた。
(仕方ないか……)
 リエンは諦めると、庭のほうへ降りていって、魚たちの墓をつくった。水晶の塊はその墓標とした。
 冬が去ったため、はざまはいま特に季節もなく、外でも過ごしやすい気温になっていた。三人は花見でもするように、敷物代わりのカーテンのうえに座り、よく食べ、よく喋り、よく眠った。大人二人は、リエンが飲まないため、まだ手つかずだったたっぷりの酒樽を開けていた。
 リエンとエリナイトは、屋敷の浄化も少しずつ進めた。瓦礫のそうじと屋敷の再建は、お礼代わりに××家にやってもらうことにした。お爺さんがそうすると決めたのだ。
 それから三日後、ダミアンがやって来た。白い霞のなかにその姿が現れると、あちらからも屋敷の様子が見えたのだろう。驚いたように歩みが止まり、やがていぶかしげに目をすぼめてダミアンはやってきた。ダミアンはまず、怒りの形相のエリナイトに迎えられ、みっちりとお説教をくらった。
 それから倒れた柱から彼を見下ろすように座ったリエンに、彼は呪いの真実を伝えられ、財宝さえ見つからないのに、屋敷の再建という仕事を背負い込まされることになった。ダミアンはがっくりと肩を落として、主人に報告し、大工を呼ぶためにアルタイルへ帰って行った。
 リエンがダミアンに伝えた呪いの真実とは、こういうものだった。
「あの墓に葬られているのは、ある裕福な農家の双子の兄で、あの剣の持ち主でもありました。僕にはその方の名前まではわかりませんが、あなたの仕えている家には記録が残っていますよね。――それは双子の兄弟が十七歳のころでした。兄は心優しい青年で、弟は明るく冒険好きな青年でした。弟は旅先で、美しく清らかな女のふりをした魔女に出会い、恋に落ちます。魔女は初めから青年を手玉に取り、その魂を食べるつもりでした。情熱的な恋に落ちている魂のほうがおいしいのです。内面はともかく、魔女には魔法がかかっていますから、青年の両親も魔女の魅力にはやられてしまいます。二人は結婚しますが、双子の兄は女を魔女だと気づいていて、弟に何度も忠告をしていました。しかし恋にとらわれた弟には、どんな言葉も届きません。いつしか弟は、魔女のために何でもするようになり、ついには家を乗っ取るために両親を殺そうとしました。兄は見ていられなくなり、弟をあの剣で刺し殺しました。『おまえのためなんだ』、そのとき兄は、弟にそう言っていました。そして兄は、それから魔女に呪われるようになるのです。心優しい青年は、別人のように暗くなり、仕事も放り出すようになりました。災厄ばかり降りかかるので、いつもけがをしているのです。最後は気が狂って、痛ましい最期をとげました。あの剣には魔女と兄、両方の呪いがかかっていました。けれど、まだ呪いは完全には解けていません」
 そう話し終えると、リエンはダミアンに尋ねた。
「あの剣に刻まれていた模様を覚えていますか? 蛇や草の模様のなかに、人型がありました。あの剣は二対になっていて、双子の兄弟のそれぞれが持っていたのです。瓦礫をとり除くときに、どうかあの剣を見つけ、もう一方の剣をアルタイルで探し出して、二つを一緒にしていただけませんか? そうすることで呪いは完全に解け、二人の供養となると思います」

 新しい水の館には、リエンの意見がたくさん入れられた。といっても、リエンにはあまりこだわりというものがなかったので、前の屋敷を参考に、水のたくさん通る屋敷が作られた。青い壁は変わらないまま、魚の泳ぐ部屋ももちろん造った。そして、屋敷の端には温室も設けられた。
 リエンはアルタイルからの働き手を手伝いながら、手配するもののメモをつくった。椅子や机、ベッドはもちろん、エリナイト爺さんのための安楽イスもほしい。
(装飾品と植物の種、水草は僕が旅に出て見てこよう。あと、はざまの王の像をつくってもらう彫刻家も見つけないと)
 水の館がある程度完成すると、リエンは旅に出る準備をした。アルタイルの世界へ行くのだ。リエンは初めて、心が踊るという感覚を味わっていた。夢に見るばかりだったさまざまな色が、手を振りながら近づいてくるようだ。
(僕は外に出て、いろんな色を知り、ここにまた戻ってきて、この白い世界と水の館をほんとうに愛することができると思うんだ)
 がらんどうな屋敷のぴかぴかの大扉の前で、エリナイト爺さんとルーシャーと、遊びに来ていたアダラの番人の女の子が、リエンの出立を見送ってくれた。
 リエンは笑顔で手を振りながら、白い道を歩み出した。

水の館

水の館

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