陽だまりの蜜柑と象

初春特有の柔らかな日差しが降り注ぎ、真っ白な壁やシーツや母の寝間着やらを眩しいほどに照らしていた。時計もなく、部屋にさして奥行きもないこの空間は、まるで内側を白塗りにした四角の箱の中にでもいるようで、不思議とすぐに穏やかな気持ちになれた。あれほど焦っていた自分が嘘のようだった。
私が部屋に入ると、母はこちらを向いた。頬はほんのり上気して、照れたように笑う顔は一年前にこの病院に来た頃より寧ろ若々しかった。私が軽く挨拶をすると、母は上半身を起き上がらせてそれに答えた。
「よく来てくれたね、何年ぶりかしら?」
ちょうど一年くらいかな、と答えながら私は近くにあった椅子に腰掛ける。
私は母に最近の様子を聞いてみた。
「ええ、そうねえ。特にはないけどね、そういえば手持ちの小説も読み飽きたわ。」
私は手持ちのリュックサックからいつも持ち歩いている夏目漱石傑作集を渡した。母はそれを母はそれを嬉しそうに受け取りつつ、身を乗り出して私の足元に目線を移した。そう言えば、と私は足元のビニール袋を持ち上げた。お隣さんから大量の蜜柑を貰ったので、それを少しばかりもって来たのだった。袋の口から爽やかな柑橘の香りが鼻を抜ける。
食べる?と聞くと、母は勿論と答えた。
「最近おかゆばかり食べていたからね。助かるわー。そこの冷蔵庫に入れといてよ。」
私はそれを備え付けの小さな冷蔵庫に押し込んだ。その途中、誰かが見舞いの時に持ってきたであろうバナナが腐りかけてで隅に追いやられていたことを、私は気がつかないふりをした。
暫く病院食の話をしていると、ふと、母は、
「あんた仕事うまくいってる?恋人はいないの?」
と聞いて来た。まあまあだよ、と私は答えた。最近上司は煩いし、恋人は半年前に別れていた。
母はケラケラと愉快そうに笑った。
「まあまあって、あんたは昔からそう言えば済むと思って。まぁ、元気そうだからいいかー。」
私は背筋に冷たい風を感じた。
お母さんは元気なの?、と、危うく口からついて出そうになった言葉を私はギリギリ飲み込んだ。かわりに次に出すべき言葉を見失ってしまった。母はそんな私に気がついたのか、急に笑うのをやめて、無言でテレビをつけた。よく分からないことで笑う芸能人の甲高い声が、余計な程部屋にこもる。
私はコーヒーを買ってくると言って病室を出た。扉をぴったりと閉めたのを確認して深くため息をつく。病院の廊下の空気は冷たく、私の体を包んでなぜた。背中から先程の病室の温かさが伝わってくるような気さえした。
私はもう母が気がついていることを知っていた。
前の手術の経過を見るための入院だという私の嘘に気がついている。体はいい方向に向かっているからチューブはもういらないという私の嘘に気がついている。3日前の発作は只の熱痙攣だという嘘に気がついている。
母が、今日明日が山だということに気がついている。


「あんたは昔から考えていることが全部顔にでるからね。」
母がふとそんなことを言うので、私は飲みかけのコーヒーでむせてしまった。母は蜜柑の皮を丁寧にむいている。そのむき方には何か見覚えがあって、私は一気に懐かしみを感じた。テレビはつけっぱなしである。
「覚えているかい?あんたが昔、こうやって蜜柑の皮をむくのをお父さんに怒られたこと。あの時、前に私があんたの作った蜜柑の皮の象をすごいすごいって褒めたから、また作ってくれたんだろう?でもあの日はなぜかうまくいかなくって、家にあった大量の蜜柑をボロボロにしてまで作ってたもんだから、お父さんは食べ物を大切にしないやつだって叱ったんだよ。でもあんたも意固地だから、私のためだとか言わないし、ぐしゃぐしゃになった蜜柑は苦しそうに全部食べてたじゃないか。成功したやつを私に見せたかったんじゃないかな。お父さんは体が黄色になるぞって呆れてたけど、私はとても嬉しかった。あんたの嘘が私のためだって痛いほど分かっていたから。でも、私はありがとうが言えなかった。嘘をつくことは真面目なあんたからしたらきっといいことではないから、あんたが私を責めるんじゃないかって思ってしまったのさ。お母さんのせいで、僕は嘘をつくことになってしまったじゃないか、って。それはなんだか悲しいし、それならあんたの優しい部分だけを独り占めしちゃおうって思ったのさ。まるっと、あんたのいじらしいところだけ掻い摘んでしまおうって。ずるいかい?今更気が付いたのかいあんたは。
もしかして私のそう言うところって、あんたによく似てしまったのかもね。
はい、象さんのできあがり。」
母の掌には蜜柑の皮で作られたオレンジ色の象が乗っていた。それを母から受け取ると懐かしい感触と母の手の熱がじんわりと伝わって来た。母を見上げると、やっぱり照れたように笑っていた。


母の最後は本当に呆気なかった。
私が下の階にコーヒーの缶を捨てに行ってる間に、母の心臓は動くのをやめた。
人がガチャガチャ音を立てながら忙しなく行き来するのを尻目に見ながら、病室の前で呆然としている私を見かねた看護師がベットの隣まで引きずっていった。
事の近くに寄れば寄るほど、その有様がはっきりとするなんて、そんなどうしようもなく当たり前のことを、私はその時初めて知ったような気がした。
心臓マッサージをする男の医者の真剣な表情が恐ろしくて、思わず下を向くとそこには母の上半身があった。
私は驚いた。母の体はまさに骨と皮だけで、その肌さえ薄黒く見ていられないほどだった。叫び出しそうになる口をおさえて母の顔を見た瞬間、私は遂にあっ、と声を出してしまった。母の顔は見たこともないほどに頬がこけ、肌も腹同様薄黒く、つい先ほどまでの母とは全く違った。母の枕のカバーには綺麗な肌色と赤色が滲んでいて、それがファンデーションと口紅だとわかるのに一秒もかからなかった。
これ程までに死を纏っていた母を、私は知らなかった。
私は縋るように冷たくなった母の手を握った。
もう一時、くださいと祈った。ちゃんとはっきり面と向かって本当のことを言えるから、あなたの苦しみも聞けるから、こんなことで感謝しないでくれ、と。
何度も待ってと呼びかけた。全てを無視して母の耳めがけて呼びかけた。医師がご臨終ですと告げてもなお呼びかけた。その頃には私の声は、唯の息になっていた。


母のいなくなったベットに向かい合って、私は椅子に腰掛けていた。窓越しに入り込む月の光はあまりにも弱々しく、誰からも温められなかった寒々しい空気が部屋に立ち込め、小さな蛍光灯が私を辛うじて白く照らしていた。
看護師から、母は日常的に朝早く起きて濃い化粧をしていたことを聞いた。いつも寝間着の下にTシャツを数枚重ねて着膨れしていたことも、もうおかゆをほとんど口にしていなかったことも。
ふと、ベットの隣の背の低い本棚の上に、母の作った蜜柑の象がいた。隣には、むかれたままの蜜柑があった。私は象の方を手に取ると、手持ちのペンでそいつに目を書いてやった。それを掌に乗せて蛍光灯の光にかざすと、優しいオレンジ色に、温かくて眩しい世界が、確かにそこにはあった。
私はむき出しの蜜柑を食べ終えると、冷蔵庫の中から蜜柑の袋を引っ張り出して病室を出た。腐りかけのバナナもちゃんと持っていった。

陽だまりの蜜柑と象

陽だまりの蜜柑と象

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-07

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