白色のチリトリが見つかりませんでした
スクランブルエッグを食べた時だった。モグラたたきに没頭した時だった。鉛筆の先を眺めていた時だった。プールサイドでグランドの砂ぼこりを見つめていた時だった。時計の針が十五時三十分を指した時だった。僕が被害妄想を思い巡らす一種の孤独感。それは孤独の海の上で孤独の小舟の上で晴天の空をぼうっと見ている孤独感であり、数学の授業中に座る席こそが孤独の舵を取るのは退屈で難儀な時間で一人の時だった。
「それで君は行くんだろうか? 今日の部活?」
僕に対して投げられた質問にハッとした。自動販売機のボタンを押す女生徒を何となしに見ていた時だったからだ。それで少し考えた後に答えた。
「確か今日の夜。武道場に集合して夜の校内の風景を撮るんだっけ?」
僕がこう言うと眼鏡をかけた真面目そうな男子生徒は「その通りだよ。たまには良いもんだろ何時も明るい時に写真を撮っているんだ。暗い時に撮る写真も味が出ていい作品が出ると思うんだ」
「しかし、僕はカメラを持っていないんだ。なんせ一昨日に漸くこの部活に入部したからね。最後の授業も終わった事だしそこら辺の電気屋に行って適当なカメラでも買おうかと思っていたんだ。それでカメラを買ってから武道場に行ってもいいかな? 全然間に合うだろ?」
僕の言葉に眼鏡をかけた男子生徒は少し困った顔をして「うん。間に合うとは思うんだけどね。まぁ、ボクの希望としては君はまだカメラは買わなくていいんだ」
「僕はまだカメラを買わなくていいだって?」
「すまない。語弊に感じてしまったかな。今日は別にカメラは持つ必要はないと思うんだ。君はね」
「どうして?」僕は首を傾けて聞いた。
「なんとなくかな。分からないけど、なんとなくなんだ。今日の夜、武道場に居る君がカメラを持つ姿が全く想像できないから」
その言葉を聞いて僕はため息を吐いた。『世界で一番カレーを素晴らしく写す部』はやはり変わっていた。勿論ではあるが僕はこの部活に進んで入部したわけではない。或る友人たちとの罰ゲームでこの部活に入るはめになったのだ。まぁ数週間だけ辛抱して退部届を叩きつけてやろうとは思ってはいる。それで僕は答えた。
「了解、それで何時に集合なの?」
「十九時ね」
眼鏡をかけた男子生徒はそう述べると教室を出て行った。さてと、僕は彼が言った時間までどんな風にして時間を潰すか考え始めた。それで武道場に行く事にした。とりわけ意味はないと思うが武道場には今まで足をのばした事はなかったし、武道場が体育館の横に或る事は聞いていた。もしかすると体育館の横にはなくて美術室の奥の扉の向こうに武道場があるかもしれないと適当に思ってみた。当たり前だがそんな事はない。それで武道場に向かった。黒板の頭上に或る時計の時刻は十七時過ぎを指していた。
体育館の横には鉄筋コンクリート造の一階建ての武道場があった。引違のドアは少し開いており中に誰かが居る事を思わせた。僕の知らない人か、知っている人であろう何者かが先に武道場に来ているのであろう。きっとそいつは物凄く暇な奴なんだろうなと思いながらも扉をスライドさせた。乾燥した埃とカビている畳の臭いが薄っすらと漂う。黒い陶磁器のタイルの玄関にフランスパンに似せた色のローファーが綺麗に揃えられ、つま先を僕の方向に向いていた。サイズからすると女生徒らしかった。僕は取りあえず靴を脱いで上り框を踏み越えてその先に或るもう一つの引き違い戸をスライドさせて中に入った。戸は錆びた声でダルそうに鳴いた。最近、ワックスを塗られたばかりのフローリングの先に畳が敷かれていた。敷かれている畳の上に大の字で一人の女生徒が偉そうに寝ている。寝ているかは分からないが、その光景は何ともだらしない姿であった。
「何、勝手に入ってきてんのよ? あんた『世界で一番カレーを素晴らしく写す部』の奴らの一味?」
女生徒はむくりと起きて頭をぼさぼさと掻きながらメンドクサソウな声で言った。まるで僕が何時、この武道場に現れるか知っているようかの早い反応での質問だった。
「一味かどうかは分からないけど最近、確かにその部活に入部した。でもまぁ、今日あたりで辞めようかなとは思っているんだ。僕はカレーよりもシチューが好きだし、今から食べるご飯を写真で写すこともあまり好きじゃないんだ」
僕はそう言い、入って奥の左側にある卓球台に進んでその台の上に腰を降ろした。
「ふぅん。そんな事どうでもいいけどね。あんたが入っている部活を辞めるか辞めないかなんて事、私には関係のない事だしね」女生徒はそう言うと立ち上がった。肩までかかる程度の髪がゆらりと動いた。と、ここで女生徒は黄色い卓球ボールを僕にめがけて思い切り投げた。サウスポーであった。女生徒の思いがけない行動に僕は反応ができずにオデコの真ん中に当たった。「パコン」と軽い音が鳴って「コン、コン、コン」フローリングの上に転がった。
「見事なオーバースローだと思うし、見事なバックスピンだと思う。でも、君がこの黄色いタマを僕に投げつけた意味は全く理解ができない。僕が『世界で一番カレーを素晴らしく写す部』を辞めるって言うから怒っているのかい? それともカレーよりもシチューが好きって言うから怒っているのかい?」
「どっちでもない。ただこのボールをあんたの綺麗なオデコに投げつけみたかったの。多分だけどあんたのオデコって叩いたら綺麗な音が出そうだと思ったの私」
「君は酷い奴だ。そんな理由で僕の頭に向かって投げたって言うのかい?」
「そうよ。それだけよ」
ついでに女生徒は悲しそうな顔でため息を吐いた。
「私、卓球部なのよね。だけど部員は私だけ、みんな辞めちゃった」女生徒は畳の上に座り込んだ。
「君が同じ部員にボールを投げつけるからかい?」
「違うわ。ボールを投げつけたのはあんたが初めて。みんな凄く仲が良くて卓球に熱中してた」
「でもある日みんな『世界で一番カレーを素晴らしく写す部』に入部したの。部長も副部長も一番仲が良かった後輩も。みんなよ、みんな。残ったのは私だけ、仲が良かった後輩に聞かれたわ「先輩もどうですか?」ってね。でも私、断ったの。私の家にインド人の留学生が居て毎日カレーが出てくるの。インド人がカレーを作るんじゃないわ。私の母が作るの。インド人はカレー以外食べないって勝手に解釈してるの。それで私は留学生のインド人と毎日、近くのすし屋に行ってネギトロ丼を食べるてるわけ」
「なるほど」
「その所為で私は毎日イメトレよ。イメージトレーニング。さっきみたいに畳の上に大の字で寝っ転がって見えない敵と戦っているの」女生徒はそう言いポケットからティッシュを取り出して鼻をかんだ。
「しかし、君。もうそろそろ、この武道場に『世界で一番カレーを素晴らしく写す部』の部員がやってくるぞ。おそらく、その中に君の昔の卓球部員が居る筈だ。何となくだが居づらくないかね?」
「え? 此処に奴らがやってくるの?」
「今日の十九時にやってくるぞ。聞いてない?」
僕がそう言うと女生徒はため息を吐いた。その後小さな声で「居づらい。凄く居づらい」と述べて女生徒は再び鼻をかんで言った。女生徒は苦々しい表情を作って僕に質問をした。
「そう言えばあんたカメラ持ってるの?」
「いや持っていない」
「持っていないのにどうやって写真を撮るのよ」
「知らないよ。眼鏡をかけた変な奴にカメラは必要ないって言われたんだ」
「確かに変な事を言うわね。って言うかカレーを写す部活なのに武道場にくる必要なくない? 絶対必要ないわよね?」
女生徒は睨んで僕を見た。
「武道場に集合して夜の景色を撮るとか何んとか言っていたぞ。謎だけど」
「そもそも部活名から謎よ」
「卓球部に一人で残っている君も僕からすると謎めいているけどね」
僕は女生徒を見て言うと彼女は軽く笑って武道場から去って行った。その後、僕は卓球台に転がり瞼を閉じた。
あっという間に時間は過ぎていた。
僕は目を覚ますとパッと卓球台から身を起こした。十九時になり武道場に結構な人数が集合していた。適当に学生たちは座っているが畳の上に身長が低い女生徒がスピーカーを持って何やら話をしている。まるで演説だ。その隣に昼間、僕の教室に来ていた眼鏡をかけた変な奴が立っている。
「ええ。今回のタイトルは『世界で一番チリトリを素晴らしく写す』事です。何故、夜の校舎にこの様に集まっているかと思われますか? まぁ個人的に夜の校舎と言うのはドキドキすると言うかワクワクすると言うかボク個人の話ですが結論から言うと愉しいわけでして……。例えば、例えばですが世界はネジを巻いてその反動で歯車が動いているとします。さざ波をたてる歯車、信号機を点滅させる歯車、隕石と隕石が衝突する歯車、タンポポの種が風にさらわれる歯車、それでその歯車を回転させるスタートにあるネジは誰が回しているのか? まさかインパクトで一晩中ネジを回し続けている訳ではないでしょう? おそらくですがそのネジ何てものを捉える事など私たちには一生無理でしょう。でもその生じた事柄を切り取って考える事は出来ると思います。それで今日は校舎の至る場所にチリトリを置いてきました。皆さんはこのチリトリを探して写してもらいたいと思っています。なぁに。難しい事は一つもありません。ただカメラで写せばいいだけなのですから……」
僕はため息を吐いた。電波要素が強い写真部に罰ゲームとは言え入部してしまった事に対してである。それで何やら燃える様に学生たちはカメラを持って武道場を出ていくのだ。僕も続いて外に出ようとした。勿論ではあるが、そのまま帰ろうと思ってである。
「そこのお前」
どうも僕に対して言われたらしい。目の前に演説の様に話していた身長の低い女生徒が居た。
「僕ですかい?」
「ああ、お前だ。何故、お前はカメラを持っていない? 確か最近、この部に入る事を承認されたはずだっただろ?」
それで僕は答えた。「いやね。その隣にいる彼に言われたんです。今日、カメラは必要ないってね。どうも君にはカメラを持つことは似合わないって」
「それは本当かね? 甘口くん?」
「はいその通りです」
甘口くん。と言われた眼鏡は答えた。
「なら、お前が言う実に伸びしろがり、才能が著しく評価できる人物とはコイツの事か?」
「はいその通りです」
甘口くんは再び答えた。その言葉を聞いて身長の低い女生徒は何やら考える様に指を顎につけて「ふむ。甘口くんが言うなら面白い。しかし、カメラがないとは何も写せないであろう?」
身長の低い女生徒はビニールテープでぐるぐる巻きにされたカメラを僕に渡した。
「これをお前にたくそう。このカメラはボクがチューニングした素晴らしいカメラだ。このカメラで思う存分に写すといい」
僕は困惑して口をモグモグとさせた後に「え? あ、はい……」と言った。
「そうだな……。お前は白いチリトリを探して写すんだな。ボクのカンからするとそれが一番の正解だ」
「マジですか?」そうした後武道場を出た。当たり前ではあるが、このまま家に帰宅しようと思った。寄り道をせずに。
体育館を抜けて砂利道を歩いていると黄色いタマが僕のオデコに衝突した。僕の脳みそが空っぽなのか、それともボールの空っぽの音なのか、難しいがそんな音が今日で二回目ではあるが聞けた。
「やあ、やあ、またあったな少年」
「一人卓球部員の鼻炎女か」
「鼻炎じゃないわ。風邪気味なだけだわ」
さっき武道場であった女生徒がニヤニヤと笑って近づいてくる。
「勘弁してほしいナ。僕はもう帰りたいんだ。どうも今日は変な奴に会う」
「そんな日があるのも今のうちだけ。大人になると本当に変な奴にしか出会えなくなってノイローゼになる。これは一つの予防接種だと思うのが正解よ」
「で、君は僕が出てくるのを待っていたわけかい?」
「確かに私はあんたが出てくるのを待っていたわ。卓球部にはなくて『世界で一番カレーを素晴らしく写す部』にはある何かをね」
「そんな事を知っても何も反映できんぞ。この部活。頭が悪い」
「でもこの部活が創立して学生の八割がこの部活に入部し始めているの。何かおかしいと思わない?」
「八割だって? それは初耳だ」
「って言う事は、僕と僕の友だちは二割になるのか? まるでこっちの方が頭のオカシイ連中みたいじゃないか」
僕がそう言うと女生徒は「で、あんたは何を写して来いって言われたわけ?」
そう聞かれて僕は少し考えた後に「何だったけ? 確か、白いチリトリを探して写して来いとか言われた」
「チリトリを写す? カレーじゃなくて?」
「チリトリだって」
「チリトリねぇ……」
僕と女生徒はチリトリを探して校舎を歩いた。おそらくではるが夜の校舎でチリトリをカメラで収める為にうろつく学生などこの世界に一体何人いるだろうか? もしかするとこの先、何億年先にも一人もいないのではないか? 僕たちは校舎の中に入り廊下を進んだ。それでガラス戸を開いて中庭に入った。芝生がくるぶしまで伸びている。青いベンチが二つ並んで置かれている。そのベンチの正面に細長い木が一本だけが生えていた。
「ねぇ、白いチリトリどころか、チリトリ一つも何処にもないじゃない。あんた、私に嘘ついてるんじゃない?」
「嘘だって? 僕がこんなどうでもいい嘘を吐くとでも思うかい。どうせ嘘を吐くならもっとましな言葉で述べるさ」
「例えば?」
「ママチャリを漕ぐ猿を撮るとか」
「他には?」
「タイム・マシンで出てくる大きな蟹を撮るとか」
「つまんない。他には?」
「怪人二十面相が化けてる青銅の魔人を撮るとか」
「それはあんたが個人的に撮りたいものでしょ? あとそんな例え私以外の女生徒に行ったらドン引きされるわね」
「僕個人として見ず知らずの男子生徒に卓球のタマを投げてくる奴の方がドン引きだと思うがね」
「ばかねえ。他の人には投げない。ちゃんと人を選んで投げているもの」
女生徒はポケットからティシュを取り出して鼻をかんだ。
「鼻をかむときに目を閉じるのは何故?」
「癖よ。癖。鼻をかんだ後に火星にでも居たら面白くない?」
「面白くないよ。僕は酸素がないと生きることが出来ない霊長類だからね。多分だけどすぐに死んじゃうね」
「あんた現実的に。さっきまでは現実的じゃない適当な事を言っていたのに」
「なら現実的な事を一つ。チリトリが見つからない。なぁ。そろそろ見つけて写真を撮って僕は帰りたんだ。こんな校舎の中庭に居たって何の進展もない」
「そうね」
「だろ?」
「でも私、一つだけ気づいたわ」
「気づいただって?」
「見てよ」
彼女はそう言うとガラス戸に指を向けた。
「ガキがかけられているの」
僕はその言葉を聞いて非常にめんどくさく感じた。ため息も出たし、さっさと家に帰れば良かったとも思った。
「それで僕と君は明日の朝までこの中庭から出られないと? と言うよりも明らかに悪意のある行為だよね。鍵を閉めた奴」
「でも明るいわ。真夜中だって言うのに」女生徒は僕に言った。
僕は空を見上げた丸い月が白く光っている。それの効果であろう。廻りに或るはずの星は全く見えないでいた。
「月がこんなに明るいと思わなかった。それに君は何処か楽しそうに見える。まるでこの結末を知っているかのようで」
「うん。そうね。私は知っているわ。別に知っているかと言われて答える必要もないと思うけど」
「きっかけを作りたかった。昔々ある処にって物語が始まる様に序文が必要だったの。あんたは男子生徒でどの部活にも所属しないつまらない男子生徒。私は何処にも居る女生徒で卓球部に所属している可愛い女の子」
「可愛いか?」
「私は演じなければならなかった」
「スルーですかい」
「ネジを巻くことを理解している人物が存在しているって知られたら結構厄介じゃない?」
僕は満月を見上げて頭を掻いた。それでテープでぐるぐる巻かれたカメラを手に持って目の前にいる女生徒に向けた。
「白色のチリトリが見つかりませんでした」
白色のチリトリが見つかりませんでした