天使がいた丘

第一話   サンドイッチと罵倒語

第一話   サンドイッチと罵倒語



「だからね私は思う訳」
そう言って、詩好子(うたこ)さんは唇を舐めた。
「やっぱりね、この世の中は全部繋がっているって事よ。意味の無い事なんて起こりゃしないし、結果には必ず原因があるはずなの。何か理不尽な事や嫌な事が起こった時にも、その内容によってはきっと何かを暗示していたりいつの間にか私達を縛っていたりするものなんだわ」
そう一息で言いきって、詩好子さんは大きな口を開けサンドイッチにかぶりつく。男の僕から見ても豪快な食べ方だ。隣で小さく小さく口を開けながらゆっくり咀嚼している自分とは大違いである。
「私たちが普段知覚出来てる事なんて本当は全然少なくて、見落としてる事の方が多いんだから何があってもその行動には何らかの理由があるはずなのよ、そう思うでしょ?」
僕はただただ感心してその早口に理解して追いつくのに必死だったので、ちょっと困ったが、とりあえず「そうだね」という事を伝えるためコクコクと頷いておく。
 あ、また下にぼろぼろ零してる。食べてる時には話しちゃだめだって前言ったのに。もったいないなあ。
「世の中の出来事の殆どの事を自分に関係ねぇって言う奴が時々居るけど、こんな資源の少ない島国で世界の出来事が関係してなかったら今頃こんな国消滅してるわよ、ばっかじゃないの誰のおかげで飯食えてると思ってんのよ遠くの国の農家さんとかに謝りなさいよ全くさあ」
 くっちゃくっちゃ言っちゃ駄目だってことも、前教えたんだけどなあ。
そんなんじゃせっかくの綺麗な顔なのに、一気に相手に幻滅されちゃうよ。ああほらまた零してる。ティッシュあったかな、口の周りパンくずだらけになっちゃてるし。お尻のポケットに入れておいたかな?
「要するにこの世の中、狭い世間に狭い付き合い。何だかんだ国際感覚だのジェンダーだの英語教育だのを熱心にする前に、目の前の人や物を大切にしなさいって事よ、それこそがこれからの日本、いえ世界を平和にするための第一―ひゃうッ!!」
 ああ、もう口の周りこんなにして。マスタードが髭になって何かの仮装みたいになっちゃってるじゃないか。―うん。よし、取れた取れた。
「あ!ああああああんたねえ!い、いきなり何してんのよ、こ、殺されたいの!?」
僕はケータイを打って伝えた(、、、、、、、、、、、)。
『あんまり汚れてたもんだからつい。あと、食べながら喋らない方がいいよ。目の前の人に失礼、でしょ。解った?』
「―…ごめんなさい」
口をとがらせてながらもそう謝る詩好子さん。なんだかんだ言って素直なんだよなあこの人は。
僕は可笑しくて思わず笑う。
詩好子さんは拗ねるように茶色のバスケットに入ってサランラップで包まれていたサンドイッチを、べりびりと剥がし、さっきよりも大きな口を開けてバクリと噛みつく。
 もっしゃもっしゃと口を動かして、詩好子さんはそれを一気に半分くらいまで食べてしまった。
 僕は麦茶を保冷ビンから紙コップに注いで、詩好子さんに渡す。軽く睨みつけながらも素直に受け取り、サンドイッチを一気に麦茶で流し込むと、ふうっと息を吐いてどさっと仰向けに寝転がる。あー、またお腹出して。いくら夏になってきてるっていったって、夜はまだ冷えるんだから。風邪引かないといいけど。
 僕は詩好子さんがまた後で食べるだろうと半分になったサンドイッチを剥がしたラップでもう一度包み、自分の食べかけをゆっくりゆっくり咀嚼する。
詩好子さんはこちらをチラリと見て、「女みたいにゆっくり食べる男は嫌われるわよ」と言ってくる。さっきのジェンダー発言を地で行く彼女に僕は流石は詩好子さんだなあと再び感心する。
思っていたような反応が得られなかった事に詩好子さんは悔しそうな顔をしつつ、黙って視線を上に向け直す。
僕も黙って顔を上に上げる。
満点の星空。バケツ一杯の光る砂を思いっきりぶちまけたかのような輝くそこに、申し訳なさげに視界の隅で輝く月。
僕達が座っている虹色のレジャーシートが時折風ではためく。
背丈が短い草が緑色の絨毯のようになっているここは、風と一緒に葉擦の音が涼しさを運ぶ。
僕達は黙って空を見ている。
僕達が出会ったこの場所で、秘密の友達として、二人で。


                ☆


趣味があることは、人生に充実感を与えるから良い事だよと、おばあちゃんはよく言う。
そんなおばあちゃん自身、絵や編み物や写真が好きでよく描いたり編んだり撮ったりしているから僕もよく解る。人生に趣味は大事な事だ。
おばあちゃんに触発されたかどうかは解らないけど、僕は昔から絵が好きだし、本好きだった母さんの影響で読書も好きだ。
でも何より僕は、綺麗な星空を見るのが、一番の趣味と言えるかもしれない。
天体望遠鏡を担いで遠くまで見に行くほどではない。
けれど、夜に窓の外から見える星を眺めていると、つい時間が経つのを忘れてしまう。
おばあちゃんはぼうっと部屋の窓から星空を眺めている僕を見つけては、初恋の人を思い出すらしい。
星が好きな人で、夜になるといつも見ていたと。
『おじいちゃんに聞かれるんじゃない?空にいるんだから』と僕はケータイのメール画面を見せてからかうと、くすりと笑って「おじいちゃんは心が広いから大丈夫よ」と平然と言う。
僕は色恋にはさっぱりだけど、おじいちゃんがいたらあんまりいい気分じゃなさそうだなあ、と今はあの空の何処かで光っているかもしれないおじいちゃんに同情した。会った事はないけれど。初恋は別腹なんだってさ、おじいちゃん。
そんな僕は暖かくなってくると、星を見に、よく行く場所がある。

僕の家から自転車で二十分くらいの所にある山。
ここ奈々津(ななつ)荷(に)町に古くからあるもので、大体この町にある小学校なら一度は遠足に使うような、ありふれた標高の低い山である。
名前はあるのだろうが、だれも本当の名で呼ぶことは無く、普通に奈々津荷山と呼ばれている。頂上付近に広い丘が広がっており、そこで持ってきたお弁当やお菓子を食べる行事を、奈々津荷の人間なら小学三年生で誰もが経験する。
皆に親しまれているという面ではとても良いところだ。僕も好きである。でも、あまりにもメジャーになりすぎて意外と夜にも人がいたりする所が難点だった。
僕は一人でゆっくりと星を眺めたいのだが、そういう人たちは友達同士で集まったりバーベキューをしたりしているのでとても騒がしく、とてもではないが楽しめない。それにその、仲のいい男の人と女の人が、その、あれ、ううんと、そう、身体を合わせていたりするので、そういう時は更にいる訳にはいかない。というか居れない。
そこを見つけた時も、正にそんな所に偶然出くわした後の事だった。

押し殺した男女のくぐもった声が聴こえた瞬間、即座に回れ右をし肩と腰をすぼめて寂しく木で舗装された帰り道を下っていた時だった。
階段の中ほどあたりに、左へと獣道のような、普通の道ではない道を偶然見つけたのだ。それは解りにくかったが、確かに何処かに続いている様に見える。
僕は先には何か獣が出るかもしれないという恐怖と共に、もしかしたら星が綺麗に見渡せるいい場所もあるのではないかとの期待も少ししてしまい、興味半分腰引け半分で、その道へと入って行ったのだった。しかしいざ入ってみると、草は生えているものの、意外と踏み固められている回数が多いらしく、そんなに危険な道ではなさそうである事が解った。誰かが昔使っていたようで、かなり前には普通の道だったのかもしれない、と、僕は歩きながら考えていた。
背の低めな草木を踏み分けて進む。持ってきていたライトを点けて前を照らしながら慎重に歩を進めると、いきなり視界が開け、見た事も無いような星空が僕を迎え入れた。感嘆のため息が口から漏れる。
視界を遮るような邪魔な木々は一本も無く、大きくは無いものの平らで短めの草がほぼ均一に揃っている地面はまるで天然の芝のよう。球体のような〝そり〟すら感じるような、一面の星空がそこにはあった。
半円状の広場のようなこの場所は、縁が少し急斜である事さえ除けば、正に僕だけの個人用天体観賞スペースとして作られているかのような文句の付けようがない、正しく素晴らしい場所だった。
さっそく真ん中あたりまで行って寝っ転がってみる。
―すごい。
一面に広がるのは濃い黒の海の中に散らばる金の砂たち。
ちかちかと光るわけでもないのに、妙に心を引き付けて離さない光点の集合体。
プラネタリウムよりももっと現実的に胸に迫ってくるのに、プラネタリウムのような作り物にすら見える美しい光景。
僕はその日から、この場所で星を見るようになった。
僕のための、僕だけの特別な場所として。


暖かくなってくると、僕は自分で適当に作ったサンドイッチ三つとその日の気分に合わせた飲み物を保温ビンに入れて持っていき、レジャーシートを広げてそこでサンドイッチを食べながら、空を何をするでもなく見続ける。
星空というものは可笑しなもので、じっと見続けているとまるで自分がこの世にいる存在では無いような、僕が今感じている現実が実は本物では無く作り物で、本当の僕は違う何処かにいるんじゃないのか、あの空の向こう側に、僕と同じように感じているもう一人のこっちにいるべき本当の僕が、僕と同じ事を考えてこの空を見ているんじゃないか、そんな空想すら浮かんできてしまう。
後ろ頭に手を置いて寝っ転がって、この世のものでは無いような幻想的な夜空を眺めていると、馬鹿馬鹿しい想像も全部ひっくるめて愛しく感じられる。
僕はそんな風に空を見ているのがたまらなく愛しく、そして大切な時間になっていたのだった。

その日も、僕はいつもと同じように日が暮れる頃、買っておいた食パンを軽くトーストしてハムとチーズとレタス、それにおばあちゃんが作ってくれていたハンバーグの残りを切って挟んだサンドイッチを五つ(・・)作って持って行った。僕は自他ともに認める小食男なのだが、その日おばあちゃんは「肉が多く余ったから、悪いけど食べておくれ」と言って僕の許容量の限界を超えてハンバーグを作ったのだ。いつも買っている精肉店のサービスだったらしく断りきれなかった所に、僕との血の繋がりを感じさせる。
今夜はおばあちゃんから「また長く見て行くんだろうから多めに作っていくといいよ」と言われたため、ハンバーグを使い切って五個作った。去年の今頃、一時ごろまで帰って来なかった事を覚えられているあたり、僕もまだまだ子供だという事らしい。少し恥ずかしくなってそそくさと家を出た。おばあちゃんのいたずらっ子を見るような眼は優しげで少し悔しいものがある。
奈々津荷山まで自転車を漕ぎ、薄暗い山道の入り口に着く。六月の後半の梅雨明けの空は、最後のあがきとばかりに山の向こう側を真っ赤に染め、迎え来る藍色と混じり合いながら薄紫色の調和を図っている。うっすらと月がその色を帯び始め、雲も少ない今日は星が良く見えそうだった。半袖の自分の二の腕から漂う、少し強めの虫除けスプレーの匂いが、僕のこれからの幸せな時間の到来を告げているようだった。
山道の入り口の道路を挟んだ向かい側には登山者のための大きめの駐車スペースがある。
バスがよく出入りするため大型の駐車場所が二つ、その脇に一般車の停める所が十個程。僕はその少し古ぼけたコンクリートの方へと自転車を滑らせると、車を止める場所の何分の一かと思われる程小さな自転車置き場へとママチャリを停め鍵をかけた。停まっているのは他には盗難車と思われる横倒しになって古びて錆びついたものが一台と、やたらと高そうな輝く赤いママチャリ。しかもよく見るとライトの中には真中に赤いLEDが取り付けられており、点けるとどうなるかを想像して、世の中には面白い事を考える人がいるものだなあと感心した。
一緒に走ったら少し恥ずかしいかもだろうけど。
入り口の所には看板が掲げられており、その錆び具合からもこの登山道の古さが解る。
僕は茶色のバスケットを片手に持ち、もう一方の手で携帯ライトで前を照らしながら奈々津荷山に入った。
かさりかさりと葉や土を踏む音と共に、僕は丸い木で舗装された階段を上がって行く。慣れたもので殆ど躓いたり怪我したりするという事もなく、登り始めて10分くらい経ったとき、いつも行く僕の専用スペースへの横道に逸れた。
少し違和感を覚えて、僕はその道をライトで照らす。なんだろう。何かがいつもと違っている。あえて言うならば、道が踏まれなくてもいい所まで踏まれた様な、踏み固められたところ以外にも誤って踏んでしまって、道が大きくなったような、そんな感じがした。
僕は僕以外の誰かが来ていたのだろうかと想像し、それが昼間であることを願った。夜のあそこはまだ僕だけの場所であってほしい。僕が一人でそこでゆっくりと星を見れるそんな場所であってほしい、そう思った。
行くにつれ道はどんどん広がり、この歩き方は男の人だったのかなあと想像した。
一幅一幅が大きく、間隔が広いし、何やら乱雑に邪魔な草木を払いのけて行ったような跡がある。シャーロック・ホームズならばたちまちこの人物がどんな人間であるのか解るのかもしれないが、僕は周りから『穏やかなる鈍(ナマクラ)』の通り名の通り、切れ味鋭い彼のような推理力など期待できるはずも無い。
とりあえず、あまり繊細な性格では無い事は確かだった。

ライトを照らしていた時、ぷつりとその光が遠く遠くの方へと伸びた。木々や遮るものが無くなったために光が急に伸びたように感じられる。いつもの特別スペースへと着いたのだ。
僕はとりあえず辺りを照らしてみる。人がいないか確かめたかったのだ。
もしさっきの人が怖い人で、夜にここに来るのが趣味になってしまった人ならば、僕はここに来るのを諦めなければならない。僕はケンカは弱いし、口ゲンカも出来ない(、、、、、、、、、)。
そうなってしまったらとても悲しい。僕はこれから静かにこんな綺麗な星が見れなくなるし、それは僕の一部分が無くなってしまうと思うほどの、辛い事だ。
そう思って少し空へ向けていた視線を前に戻し、そのままその方向にライトを照らしてみた。
心臓が止まった。
そこには、僕の方から見て頭を左に、足を右をして、髪の長めの女性がうつぶせに倒れている。顔は向こうの方へ向いていて解らないが、体つきからみてそんなに歳をとっている訳でもなさそうだ。その女性が僕が光を当てた事にすら全くの無反応だったことで僕の心は更にパニックになり、その場に持っていたバスケットを放り出して全力疾走で駆け寄った。傍に言ってしゃがみこんで最初は弱く、反応が無いと解ると強く揺らした。
くそ、僕じゃなければ(、、、、、、、)、こんなに悩むことなんてないのに(、、、、、、、、、、、、、、、)!!どうしたら、ケータイ持っていても、電話が使えなければ何の意味も無いじゃないか!おばあちゃんにメールして救急車を呼ぶしか―
そう思い立ち僕はすぐにケータイを開いて文字を打とうとした。そしてちょうどその時、その女性が唸り声を上げて頭を僕の方へと向けた。
―綺麗、だ。
場違いにも僕はそんな感想を抱き、一瞬我を忘れる。
小さな顔。つり気味だけど大きな瞳。高くはないけど歪みなくスッと通った鼻梁。少し薄めの唇。そして短めの眉がまるで昔のお姫様みたいな印象を与えている。
苦しげに顔をしかめながら、しかし時折解るその整った顔立ちに、状況を忘れて僕は見とれてしまっていた。
「ううん…」と彼女は再び苦しそうに声を上げた。
ハッとして意識を呼び戻すと、僕は大丈夫!?という意思を込めて、再び強く揺すった。速く、速くメールを送らなきゃ!
僕が再びケータイ画面に目を落とした時―
「―………腹減っ、て……もう、だめ……し、死ぬわ…」
僕は彼女を見た。 
手に持ったケータイ画面が、光点の少ないこの場所で、やたらと場違いな明るい液晶を光らせている。
『おばあちゃん!!!今すぐ奈々津荷山に救急車をよんで!場所は―』で止まっているその画面が、やけに空しく、光り輝いていたのだった。

僕はとりあえず彼女の命に別状は無い事に安堵して、ケータイをしまってもう一度強く揺さぶってみる。「んうゥ…」と何だか色っぽい声だなあと思いながら揺さぶってみると、微かに身じろぎしうっすらと目を開ける。
そのまま彼女は僕の方へと目を向け、最初の一言を告げた。
「身体が欲しいならよそを当たりなさいこの短小野郎とっとと失せろ」
僕は人間同士の付き合い方が上手いとは決して言えない。
むしろ苦手だと自分では思っているくらいだ。
それでも、初対面で、身体目的で、そのええと僕のを勝手に短い、と言われるような経験は、16年間生きて来て流石に無かった。
善意がここまで報われない事も初めてだった。
ちなみに今の彼女の状況を見て、身体が目的の人間はよほど神経が図太いか、かなりおかしい人間じゃないかなあと思ったけれど、何だか彼女に伝えてもすべてが逆効果な気がしたので、そっと心の中だけで呟くだけにしておいた。
でも確かに、彼女の顔色があまり良くない事も事実。
僕はこの場所に入ったあたりで投げ捨ててしまったバスケットの所までライトで照らして戻ると、バスケットの中身を見てサンドイッチが無事な事を確認する。
そして、また彼女の所に走っていって、持ってきていた小さ目の保温ビンと一緒に彼女の前にまた屈んだ。
薄眼を開けていた彼女はその匂いにぴくんッと身体を跳ねさせて、僕の顔など全く見もせず、そのバスケットの中を(見えてはいないだろうけど)、凝視していた。
僕が、おそるおそるバスケットの金属の留め具を外してサンドイッチを見せると、彼女はガバッと跳ね起きて僕にいやバスケットに覆い被さる様にしてその中身、サンドイッチを奪い取る。三角形では無く普通に真中で二つに切ったそれらが、茶色のバスケットの中でいつもより多い量のためぎゅうぎゅうと詰め込まれている。彼女はラップされたそれを大根か何かの様に二つ、アフレコで『よいしょおッ』と掛け声をつけたくなるような振りで引き抜き、べりいッとラップを剥がすとばくりと三分の二くらいを綺麗な桜色をした小さ目の口を、豪快に開けつつ噛みつく。
唖然としながらそれを只見ている僕の前で、彼女はその口に入った物を十回ほど噛んだだけで喉の奥へとごくんと押し込み、三分の一残った物をぽいと口に放り込み、それももっぐもっぐと噛んで飲み込む。二つ目をびりびり破いて口に入れた所で、ああ絶対こうなるなとの予感がしたので、前もって保冷ビンから麦茶を容器に入れておく。
予想通り、胸をどんどんと拳で叩いて青くなった彼女が、もう一方の手を地面の草に置いて蹲るのを見てさりげなくそれを鼻先に持っていく。奪い取る様にしてそれを一気に飲み干し、詰まっていたパンとチーズとレタスとハンバーグを胃にへと押し込んでいく。
その手に持った容器を僕の前に置き、再び僕の眼の前にあるバスケットから三つ目が消えて、同じように三分の二が一口で消え、三分の一が二口で消え、その間に僕が淹れておいた麦茶の容器で流し込み、これを二回繰り返した。
バスケットの中には何にも無くなった空の底と、剥がされ捨てられたサランラップの死骸が横たわっている。僕は今まさに最後のハンバーグサンドイッチを咀嚼し終わらんとする彼女に、どう言葉を伝えればいいかを悩んでいた。
嘘だ。
実際は、ものすごい速度で無くなっていったその五つのサンドイッチが、この細めに見えるこの身体に一体どのようにして収まったのかを観察しているのが楽しくなってきたのと、その険しい顔がだんだんと、大好きなおもちゃで遊ぶ子供のようにあどけなく幸せそうな顔になっていったのがなんだか作った者として幸せな気持ちになっていき、つい何も考えずにずっと見つめてしまっていた。
そして彼女の喉がごくりと上下し、最後のサンドイッチは彼女の胃に沈み、そして消えていった。その時、初めて彼女は僕の方を見た。口の周りに一杯パンかすとハンバーグソースを付けながら。
「あんた誰?」
あれだけ食べておいて作った人に「あんた誰」と聞くのにはびっくりしたが、そのきょとんとした顔に何故か怒る気にはなれず、僕は曖昧な笑みを浮かべて困るだけだった。そもそも、今の僕にはすぐに返事など出来ないのだから(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)。
その無言ぶりに耐えられなくなったのか、彼女は次第に苛立ち、焦り始めていき、そこに不気味さも付け加えていった様だった。
無理も無い。今は明かりなど真上に少し雲に隠れている月くらいだし、そもそも彼女は見も知らぬ他人から何の確認もせずに持っていたものを全部食べてしまったのだ。
何か入っていたなどとは流石に考えはしないだろうが、それでも不安になるのには充分な材料ではある。
僕はそんな彼女を安心させようと、ちょっと急いでケータイを取り出してメール画面を出して文字を打つ。
でもそれが良くなかった。
いきなり会話もせずメールを打ち始めた人間に、只でさえ不信感を持った人間がどうなるのか、僕は、そこまで考えが及ばなかった。
すうっと息を吸い込んだかと思うと、彼女はその肺活量の限界に挑むかのように最大級の言葉の奔流を吐き出し始める。
「ちょっと!あんた私の話聴いてんの!?ちゃんとこっち向きなさいよ人が話しかけてんのにメール打ってんじゃないわよこのド腐れ男!川に流して捨てるわよ逆桃太郎にされたいのアンタ!?人と話をする時は人の眼を見てしなさいって習わなかった!?習わなかったんなら今私が教えてあげるからこっち向きなさいよね大体人が話しかけてんのに会話もしようともしないってどういう料簡よ!人としての最低限のマナーってもんがあるでしょうそれを無視してまでこっちの気を逆立てようってんなら相手になるわよそんでこのサンドイッチは何なのよ美ん味いじゃないのよどうもありがとう!!」
僕は目を大きく見開いて彼女を見る。色々言いたいことは言っていた気がするけれど、ちゃんと最後にはお礼を言ってくるあたり何だかいい人かもという気もしてくる。何よりその物凄い言葉達の速度に圧倒されていて、よく噛まずに喋れるなあ、そんなに喋れて羨ましいなあとすら考えていた。
僕のその驚きの顔が更に彼女を不安にさせたのかもしれない。
彼女はだんだんとその顔が怯えに変わっていったのを見て、慌ててメール画面に文字を打ち込む。
僕の方からじりじりとお尻から草を押しつぶして得体の知らない僕から遠ざかろうとする。本当に危ない奴と二人きりになってしまったと後悔しているのが、細々とした月明かりの元でもありありと解った。
それでも彼女は勇敢にも僕に対して罵声を浴びせ続ける。
「だ、だいたい、ねえ、人には声帯ってもんがあるでしょうよ、それを使わずに非言語コミュニケーションだけで人生渡っていけると思ってんの?私はね、そうやってケータイ使いながら相手の話とか適当に聞く奴とかってのが一番嫌いなのよ、今流行のケータイ依存ってやつなのアンタ、人とまともに喋る事も出来ないの?悔しかったらなんか言ってみなさいよ、こ、こ、この、臆病者……」
こんな誤解されたまま逃げられてしまうのはとても切ない、悲しい、というか悔しい。それに僕には今の言葉(・・・・)が、とても重くのしかかってきていた。例えそう思われても仕方がないとしても、好きでメールをこんな時にカチカチ打っているわけでは無い事を証明したかった。―よし終わった。
僕はとりあえず、この暗い中でライトを除けば唯一の光源であるケータイのメール画面の文面を、今では心底怯えてすぐにでも逃げ出そうとしている彼女に向かって、差し出す。
 
『ごめんね。無視してたわけじゃないんだ。ただ、君に伝えるためには(、、、、、、、、、)、こうやるしか今(、、、、、、、)は方法が無くってさ(、、、、、、、、、)。身体は大丈夫?さっき食べたヤツには変なものとかは入ってないから安心してくれていいよ。美味しく食べてもらったみたいで良かったし。』

彼女は少しその文面を見て、怪訝そうな顔をした後、すとんと、自分が何を言っていたのかを思い出してしまったらしい。
一瞬で青ざめてしまったその顔は、自分がとてつもない失敗をしてしまった時にしてしまう顔で、もう取り返しのつかない事なのも動揺と衝撃と共に同時に感じている様だった。
「あ、あんたまさか、口が…言葉が(、、、)、喋れないの(、、、、、)………?」
僕はその時どんな顔をしていたのか解らない。苦笑いだったのか、愛想笑いだったのか、はたまた苦虫を噛み潰した様な渋い顔だったのか。
でも、その顔がいいとは決して取られないような顔をしていたのは事実の様だ。
見る見るうちに、彼女のその膨らんだ風船に似た尊大な態度がしぼんでいき、身体も前傾になって、下手な体育座りみたいになりながら、小刻みに震えはじめる。
「ご、ごめんなさい、わ、わた何てこと言って、て、わたし、さいてい、さいて、さいてい、だ…、ホント、ゴメン、ゴメン、ゴメンなさい……」
この子はいい娘だなあと場違いにもそう思った。
口で罵倒を流れるように吐きだすくせに、悪いと思えばちゃんとこうやって心から反省してくれる。
確かに言われた事に何も感じなかったと言えば嘘になる。
でも、こうして自分の言葉を自分で悪いと思ってくれたのが分かって、謝ってくれるこの娘はいい人だな、とも思ってしまう。
でもここで更に『気にしないで』とでもメールで打ったら、この娘はもっと傷ついてしまうだろう。
僕はまたメール画面を、泣いているらしい彼女に向かって差し出した。
『ねえ、ここで何してるの?いい場所だよね、ここ。君、来るのは初めて?』
そう書かれたメール画面を体育座りで膝の間に埋めていた顔を上げて見た。目は真っ赤になってまるで兎のようだったが、ちゃんとそのメールの文面を見て、素直に話始める。
「えと…、うん。ちょっとイライラする事多くって……、家にいんのもどっかのファミレス入んのも、っていうより人とあんまり会いたくなくってさ……一人でゆっくりしたかったんだけど、良い所が思いつかなくて…。そしたらたまたま山の上に広場があったと思って疲れそうだけど登ってみっかって行ったのよ。……そしたらその男と女が端っこの木の所で、その…ヤッてるじゃない、アオ、アオカン?って言うんだっけ。そしたら居れるわけないじゃない。だから、しかたなく道降りて行ったら、何だかうっすらと明るい月明かりが道みたいに伸びてて、階段の脇の方にある目立たない獣道みたいなのがあるのが分かったの。その月明かりがちょうどよく照らしてくれてたから、ちょっと怖かったけど行ってみようと思ったのよ。そしたら、これ(、、)でしょ?」
そう言って、彼女は上を見上げながらため息をつく。
今日も変わらずに空には美しい星が輝いている。
彼女は何故か眩しそうな眼をしながら空を見ていた。だけど僕にはその気持ちが、よく解った。
「そんでね、ここは最高だわって思っちゃって、ごろんてここに寝っ転がりながらずっと空を見てたの。気持ち良くて、嫌なこと全部忘れちゃうくらいに良い気分になれたから…でも気付いたの。昼から何も食べてない(、、、、、、、、、、)って事に…気付けば腹が減りすぎて立てなくなっちゃってさ。…どうしようかと思ってた所にちょうどよくアンタが来てくれたって訳なのよ。美味しかったし、本当に助かったわ。ありがとう、おかげで餓死せず明日の朝日が拝めるわ」
僕に視線を戻しながら、彼女はそう言って笑った。
僕は照れながらも、星空と微かに浮かぶその微かな月の光の中で、穏やかに微笑む彼女のその顔から、目が離せなくなってしまっていた。
この世の物とは思えないような。
とても幻想的で、蠱惑的で、それでいて惹きつけられるような魅力的な顔。
正に天から来たのではないか、と思える程に、彼女は綺麗だった。
その姿は背景と相まって、彼女の整った顔立ちに神秘的な雰囲気すら醸し出させている。
「ここはいい所ね、本当に、…でも先客がいたみたい。残念」
そう言って、寂しそうに立ち上がる彼女。僕はついその姿を見た時に、その顔がまた泣き出しそうになっている事に気付く。
「サンドイッチ、ほんとに美味しかった。なんかあれね、誰かのきちんと作ったものを食べるっていいもんね。久しぶりに実感した。あんなデカいの五個も持ってくるなんて随分と大食漢だとは思うけど。細い割に喰うのね。でも食いすぎには注意した方がいいわよ、将来は解んないんだからさ」
そう言って、ゆっくりと、僕の脇を通り過ぎようとする。そうゆっくりと、名残惜しそうに時折空を見上げながら。
無意識に、僕は手首を掴んだ。
一瞬、彼女は不思議そうに僕が掴んだ左手首を見ていたが、何の様かと僕の手を振り払わずに待っていてくれた。慌てて僕は片手でメールを打つ。ああもどかしい。くそ、間違えた、…よし、出来た。
今度は怖がらず、そのまま彼女は僕が打ち終わるのを待っていてくれる。そして書き終った文面を、静かにそっと、彼女に差出した。

『せっかくのこんな空なんだから、もう少し一緒に見て行かない?僕も長い事ここに居ると、一人で退屈するんだ。僕は話せないけど聴くことは出来るんだよ。難聴では無いからね、その点は安心して。あ、でももし嫌なら、全然構わないんだけど……』
顔が真っ赤になったのがこんな夜で良かったと思った。こんな顔を昼間見られたら、絶対誤解される。いや、誤解では無いかもしれないんだけど。
彼女は、じっと文面と僕の顔を交互に見比べる。何か品定めされている鮮魚の気持ちが少し解ったかもしれない。キツかった。今度スーパーに行くときはちゃんと真摯に、活きのいいものだけじゃなくてちょっと不細工なのも選んであげよう。食べる事を考えると少し違う気もするけど。……何考えてんだろう僕。
しばらく彼女は僕の顔をさっきよりじいいい~っと見つめてきて、いきなり、はあっ、とため息なのか笑いなのか解らない息を吐いた。言う。
「ナンパにもなってないけど、まあいいわ。一応合格にしておいてあげる。そんじゃ、麦茶もう一杯ちょうだい。話まくったら喉渇いてきたわ」
僕の真ん前に胡坐をかいて座る彼女。ニカリと笑ったその顔にはさっきのような色っぽさは無かったけれど、とても見る人をスッキリさせるような良い顔だった。
言われた通り、フタ兼容器のカップにもう一度冷たい麦茶を注いで渡す。彼女はごっごっごっと喉を鳴らして美味しそうに飲み込む。ぷふあァーっと言って空に向かって言う。
「この一杯のために生きてるゥッ!!」
ビール飲んでも焼酎飲んでもカルピス飲んでもサイダー飲んでもコーラを飲んでも同じことを言いそうだよなあこの人と思わず苦笑する。そんな僕を見て面白くなさそうに「何よ」と唇をとがらせて彼女が言った。
「何飲んでも同じ事言いそうとか思ったんじゃないの」
エスパーっているんだなあと僕はまた感心した。
「そう言えば」
もう一回注いであげた麦茶を受けとりながら、彼女は言った。
「アンタ、名前なんていうのよ?」
小首をかしげる彼女に、素直に可愛いと思ってしまう。
僕はカチカチとケータイを打って、見せる。
『―帽子谷夏彦(ぼうしやなつひこ)、って言うんだ。文字だと漢字も一緒に見せられるから、こういう時には便利だよね』
彼女はしげしげとそれを眺め、「ポジティブシンキングなのはいい事よ」と嫌味でも何でも無く、おそらく本心からそう言った。聞き取り方によれば皮肉にも捉えられる言葉なのに、彼女がいうと純粋に褒めたと思える。こういう所もいいなあと僕はまた感心する。
「帽子谷、ね…珍しい名字ね、よく言われない?」
僕は肯定のサインとしてコクコクと頷く。
よく言われるどころか毎回言われたりする。日本中に探してもいるか居ないかだと僕も思っているくらいだから、まあ当然と言えば当然かもしれない。
僕はメールを打つ必要も無いので、手のひらを上にして、彼女を指した。「君は?」の意味である。もちろん伝わって、「ああ私?」と自分を人差し指で指す。コクコクと頷く僕。
「天(あま)河(かわ)。天空の天に河童の河。名前は読む詩の詩に好きっていう字に子供の子で詩好子(うたこ)。―天河詩好子よ」
『よろしく、天河さん』メールを見せて僕は笑った。
手をひらひら振って、「詩好子でいいわよ別に」と苦笑いする。
『じゃあ詩好子さん。よろしくね。』
「ええ、よろしくね。夏彦」
にこりと笑って彼女も僕を下の名前で呼んでくれる。
「ところで夏彦、あんた何でこんな所に来てんのよ?天体観測?」
『ただの星好きだよ。知識も何にもない、只の星好き』
「ふうん。変なやつね」
『君も人の事は言えないと思うけど……』
見せたら、凄い顔で睨まれてしまった。

こうして僕たちはここで出会った。
それから夜になると、僕たちはここで会って話をした。
趣味はいいもの。
一つのきれいな花が咲いたとなれば、尚更。



                ★



 僕が喋れなくなったのは10歳の時だ。
 でも僕は、その瞬間の事を、よく覚えてはいない。
 と、いうのもベットで唸っていた時になったと思われるので、気が付けばなっていた、というしかないからである。
 10歳といえば、子供が少しずつ大人への仲間入りをはたしていくときでもある。
僕は、当時の自分のことを、少しませた勘違い馬鹿だったと今では思っている。
 父さんと母さんの嘘も何となく解るようになって、欲しく無くても「親が喜ぶから」という理由で好みでは無い服を喜んでもらうとか、そういった、自分ではよく気の付く子供だと勘違いしている、今になって思うと顔から火がでそうな程恥ずかしい子供だった。
 父さんと母さんが、僕は大好きだった。
 大人の事情というものがあったとしてもそれは仕方のない事だと思っていたし、「良い子」でいる事に窮屈感を覚えながらもちゃんと愛情は貰っていたと思うし。
 教育ママとパパといった感が無くも無い家庭では、よくある事じゃないかと思うし、僕自身もそう思っていたから稽古事を習わされたり、好きでもない事をさせられたり、テストで少しでも駄目な点を取ると凄く怒鳴られたりするような事も、とりあえず適当に上手く流していくという事を覚えたのも、子供の頃の自分なりの処世術いや生きて行く上での必死の知恵だったのだと今は思う。
 そんな僕は父さんと母さんにますます良い子だという印象を与え、僕は家庭の中で自分の位置づけというものを自然に理解した。
 人が何を求めているかを察知する。それが僕の子供時代の特徴。
 僕にとってそれが幸せかどうかは関係ない。
 人から見たらとても疲れた子供でもあったのだろうし、事実僕は無意識のうちに疲れを溜めていたのだろう。
 学校では「良い子」でいる事への苛立ちから、よく喧嘩をするようになった。
 身体同士の殴り合いなどというある意味健康的なもので無く、言葉で相手を挑発して、口ゲンカして相手を叩きのめすというような、いわゆる『凄く嫌な奴』である。
 あの頃に戻って僕が一言言えるとしたら、「何もいいことないからそろそろ良い子止めなよ」だろう。
 最低な自分を受け入れるのは難しい。
それに僕は当時何をそんなにイライラしていたのすら解らなかったのだから、ますますそのあやふやさにイライラしてまた喧嘩をふっかけていくという、正に悪循環。
 僕の周りに友達なんてものはいやしなかった。居るわけが無かった。いじめは無かった。いじめすら無かったと言った方が正解かもしれなかった。
 僕をあの時のまま放っておいたら、どんな人間になっていたかと思う時がある。
 考えたくも無い事だと思って意識を思考を停止させる。
 結果は解りきってるくらい簡単なことだったから。
  
 
僕に転機が訪れたのはちょうどその頃の事だった。
 両親が死んだ。
交通事故であっけなく。
何の言葉も僕に残さず、二人で仲良く、あっという間に、僕の傍から消え去って行った。
 とても雨の強い日だった。
僕はその時風邪をひいていて、ベットで横になりながら頭に冷えピタを張って、ごほごほ言いながら学校を休めた事を実は喜んでいた。僕には誰も、話しかけてはくれなくなっていたから。
身体がだるく、何をする気も起きなかったけど、電話が喧しくぷるる、ぷるるると騒ぎ出したので仕方なく痛む節々に耐えながら玄関の前まで行って、受話器を取る。
『帽子谷夏樹(なつき)さんのお宅でしょうか?』
と低い声で喋りはじめたその声に、僕は両親ならいません、伝言なら伝えておきますがどのようなご用件でしょうかと、完璧な受け答えで返す。そこがまた生意気で嫌な子供だったなと思う。変に頭の回転がいい所が特に。
その時、受話器の向こうで一瞬、そうとても重い感情を抑え込むようにして相手の方が言いよどんだ事を、僕は一生忘れない。そこにどんな葛藤があったのか僕は知る由も無い。
でも、彼ははっきりとした口調で、僕に告げた。
『帽子谷夏彦君、だね』
「…はい」
『君のお父さん、お母さん、帽子谷夏樹(なつき)さんと秋子(あきこ)さんが乗った車が先程、雨でスリップした対向車が進路上で曲がり激突してね』
「…―は、い………?」
『ご両親ともすぐに救急車に運ばれたんだが……その場で、死亡が確認された』
「何をおっしゃってるのか、よく解らないのですが……」
『ご両親が…亡くなったんだ、夏彦君』
「……………は、あ?」
「―もうすぐ署の人間が君を迎えにいく、悪いが準備をしておいてくれるかな。辛いと思うが大丈夫、私たちがついている、心配しなくていい、私の名前は―」
 
―ごとん。と。

 僕はその場で倒れ、意識を失った。
頭から鈍い音が聞こえたと思ったけど、そんな事は一瞬で消え、僕は暗い闇の中に溶けて行く。僕の意識は、どんどんずぶずぶと、どろりとした沼の底に沈んでいく。
 熱でうなされたのか何なのか、僕には解らなかったが、何かの羽音がした。それはだんだんと遠ざかったようにも、近づいたようにも思えた。
 それが何だったのかは、今でも良く解らない。


 それからの事を、僕はよく覚えていない。
 元からひいていた風邪が更にこじれて、僕の身体は三日ほど高熱にさらされ続けた。
 治った時、僕は病室のベットに寝かされていた。
 何かの薬剤の匂いと左腕に刺さった針から点滴の雫がぽたり、ぽたりと落ちて来ていて、他に患者さんの姿が見えない事からどうやら個室にいるようであることは解った。
 まだ身体がだるかったがどうして僕がここにいるのか、どうしてこんなことになっているのかの頭のもやが晴れて行くと同時に、より鮮明となって事実として蘇ってくる。
 僕は頭が爆発しそうになりながら、もう何も考えずに行動していた。
刺さった針を引き抜き、ピンク色の患者服をはためかせながらドアを開けて飛び出す。
ふらつきながらも懸命に走り、目についた、こちらに向かっている女の看護師さんを捕まえて、叫んだ。「僕の父さんと母さんはどうなったんですか!死んだって本当なんですか!」、と。
 
 きょとんとされた。

 ただ黙って、不思議そうに僕を見つめただけだった。
 僕の声は、誰かが吸い取ってしまったように、出てこなかった。

声を出そうとしてもぱくぱくと声帯で何の変換もされずに、ただ音がひゅー、ひゅーと鳴るだけ。
僕が金魚の様に口を開け閉めしている事に、最初は不思議がっているように見えたその看護師さんも次第に僕のその異変に気付いたのか、まだ背の低かった僕と目線を合わせるように急いでしゃがみ、僕の眼を見て肩に手を置きて焦ったように僕に尋ねてくる。
「君、どうしたの!?声が出ないの、大丈夫!?」
僕はその焦ったような声を聴いてしまって、ますます自分に何が起きてしまったのか解らずパニックになってしまう。
出ない、出ない、声が出ない!
何で、どうして、僕の身体に何が起こってるの?
解らない、怖い、怖い、怖い、怖い!!誰か!
誰か、助けて!
 しまいには僕は我を忘れて泣き出してしまった。
でも、それでも大声で泣きわめいたつもりなのに、声は一向に僕の口からは出て来てくれない。たださっきよりも強くしゅー、しゅー、と音が漏れ出てくるだけ。
看護師さんは急いで携帯で僕の主治医らしい先生を調べて、連絡してくれる。
飛んできた先生に僕は涙で一杯になった瞳を向けながらも、あのいつものような相手を傷つけ痛めつける流れるような言葉は出て来なかった。
ただ、空気を欲する魚の様に、腹話術師が居なくなってしまった腹話術の人形のように、ただ勝手に口だけが動いて、音が出ない。
僕は言葉を失った時を、よく覚えてない。
消しゴムで消された鉛筆の絵の様に、目が覚めたらいつの間にか消えていた。
失った絶望だけが、僕に油性のペンで書いた落書きの様に、残っていた。


先生は脳に異常があるわけでは無いので、おそらく熱と疲労に両親の死というショックが重なり、言葉を発する事に障害が出来てしまったようだと言った。
理由はどうでもよかった。
ただ、僕はこれからずっと喋れないのだ、という事が、僕の両肩に大きくのしかかった。
食事も睡眠もろくに取らず、僕は目に見えて痩せていき、両親の葬儀も出ず、僕はただ病室でぼうっと外を見る事が多くなった。

そんな日々が一週間ほど続いたある時、僕は眠れずに病室のベットからぼんやりと空を見た。その時、僕はその空に、
―眼が、離れなかった。

空はまるで一枚の絵画のようで。
星々が煌めき、煌々とその姿を僕の視界に焼き付けている。
二つの大きな星が特に煌めきながら輝き、光の帯がそれを更に引き立たせる。
七月七日の天の川だった。
その時いた病院と、病室が少し標高の高い所にあったせいか少し淡く弱かったものの、天の河はしっかりと見え、僕はそんな光景にただ震えていた。
気付けば、涙がこぼれていた。
僕は手を合わせて頭を下げていた。
声が、どうか僕の声が。
また、僕の声が戻ってきますように。返ってきますように。
そう祈って僕は眠った。
まだ、その願いは聞き届けられてない。
でも僕の人生が本当に変わったのは、きっとあの時からだ。
そのことは、胸を張って言える事だと、僕は思っている。


おばあちゃんが来たのは、それから三日後のことだった。
父さんとあまり仲が良くなかったらしく、僕は小さい頃に何度か会った事があるだけで殆ど覚えて無かったけど、すぐにその新しいおばあちゃんが好きになった。
僕が声を出せないと知ってからも、「人は色々な事が出来なくても、ちゃんと色々な事が出来るから人なんだよ。だから気にする事なんて全然ないさ。出来る事を大事にして、その出来る事で、人の役に立てばいいんだ夏彦。そしてそういう事を気にする男の子になっちゃいけない。そしてお前みたいな人を馬鹿にするような人間にだけはなっちゃいけない。そのまんまで生きな夏彦。お前はまだたくさんの事が出来るんだからね」
そう言って、僕を優しく抱きしめてくれた。
その時初めて、僕は人に抱きしめられるというのは、温かい事なんだという事を知った。

おばあちゃんは不思議な人だった。
鋭いと思った所があったと思ったらいつも些細な事でポカをし、結局失敗するという事がよくあった。そしてそういう時にも、「人は失敗する事から学ぶんだからいろいろ失敗していいんだよ、お前も気にせずどんどん失敗してきな」と笑って言ったりして、今までずっと父さんと母さんから失敗したら怒られていた僕にとっては、衝撃的な事だった。おばあちゃんはそれまでの僕を根本から覆していく、まさにヒーローだった。
その日、食卓には真っ黒になった焼き鮭が乗った。


焦げに発がん性物質があると聞いたのは、ずっと後の事だった。


                ☆


学校という所は、基本勉学を学ぶところであることは、疑い様の無い事実だと思う。
そして学校という所は、基本的に学生が行く場所であり、僕も例外にもれず学校に通い、学校で勉強し、学校で昼食を食べ、学校でトイレに行く。全ての生活の実践の場は僕達学生にとって学校であり、学生にとって学校はいわゆる一つの社会。村と考えてもいいんじゃないかなあと僕は思う。
学校とは学ぶ場である。だが、遊ぶところでもある。
今、僕の眼の前では喧騒と雑談に花が咲き、もうすぐ始まる下校時間に皆のテンションが否応なしに上がっているのを見る。僕は窓際の席で肘をつきながら、ぼけえっと外を見ていた。ああ、人生はかくも儚いものなのか。こうやっている間でも僕は成長し続け、そして年老いて行くのだろう。成長する事には異論はないけれど、今それを実行してしまうのは真っ暗な世界で一人ぼっちになり、見回りの用務員さんに肩を叩かれ苦笑いされながら街灯の元で一人寂しく帰り、想像を絶する恐怖を味わい、そして適当に相槌を打って流すおばあちゃんの作ったカレーライスを食べるのだ。
要するに眠い。溶けてしまいそうな程に、眠い。
今の気温と温かさは反則である事が僕には一番の苦痛である。皆も酷い。起こしてくれればいいのに。気を利かせて揺さぶってくれるくらいでいいのに。
そんな事を思いながらうつらうつら船を漕ぎ始めてしまった僕の方へ、夕日は優しく照らしてくれる。放課後前のホームルームまでの短い時間。皆はこれから訪れる学校社会からの解放と高校生という有り余ったエネルギーを消費する生産的な活動のため、つまりは部活動というものへの準備と期待を込めて同じ部活の仲間と「今日の練習はキツくなりそうだ」とかいう話をしている。
僕にも部活はあるのでこんな風に寝てしまっていたら、それこそ遅れてしまうし部長や部員に迷惑が―掛からないのというのがちょっと無い事からも適当な部活だという事がいえるけれど、それども部活は部活だ。
僕の中の真面目な部分がきちんとしなさいきちんと!(おばあちゃんに似た声なのはだっ謎だけれど)と言っているので、何とか船頭が僕を乗せた船をぎいこぎいこと睡魔の国へと連れ去ることに必死で抵抗していた。そこでいつも会う詩好子さんに似た人からいつも速く戻りな夏彦。アンタもいつもいつも言わせるんじゃないよ、夢の世界でもぼんやりしてるんだから、しゃきっとしなしゃきっと!と文句を言われる。ごめんなさい。僕の妄想の中のおばあちゃん。いつも世話役ごくろうさまです。
船はいつも通り引き返し、僕は現実の世界に引き戻される。ちょうど僕が眼をさました時に、右肩を控えめにとんとんと指先で叩かれる。
僕はその主を探すため、首をねじって後ろに向け、その人を見た。そして学校で欠かせないA4ノートを横に二つくっつけたくらいのホワイトボードにペンでキュッキュッと文字を書き、相手に見せる。
『おはよう、木洩日(こもれび)さん。眠い時には寝た方が成長が促進されるっていうけど、僕はまだ部活に行くという使命があるから寝てないよ?寝てないったら寝てないんだからねッ』
「何でツンデレ風なのかは訊かないけど…もうホームルーム始まるよ?そろそろ起こさないとまた君放課後どころか深夜の学校に一人で取り残される事になるんだから。用務員さんが『ヤツは大物になる』って逆に感心したくらいの人物なんだからさ君は」
両手を腰に当てて、木洩日さん、木洩日詩織(しおり)さんは僕を見下ろしながら言ってきた。
僕は悔しくなってその事実を噛み締めた。用務員さんが用務員室で奢ってくれた鮭お握りは美味しかったけど、そういう問題では無い。
『そもそも、皆が今の木洩日さんみたいに僕を軽く揺さぶってくれたら良かったんだよ。そうしたら僕は帰り道に知らない女の人にずっと追いかけられて逆痴漢されそうになる事も無かったのに』キュッキュッと文字を走らせて見せると、木洩れ日さんのショートカットの綺麗な直毛がサラサラ流れて動く。女性の髪の毛というものは男とは全然違うものなんだなあと僕が思っていると、木洩日さんはやれやれといった風に首を振り、また更にサラサラと音がするかのように髪も揺れた。
「君は人畜無害を地で行っている人間だからね…その人にとっては正に渡りに船だったんだろうね…襲いやすいという意味で」
『洒落にすらならないよ!第一僕声が出せないんだから尚更僕の貞操は滅亡の危機だったよ!女の人が男の視線だけで嫌な理由が良く解ったよ!』
「そうだね、君はそれを学習したんだ…成果はあったんじゃないか」
『一生望みたくない成果だよ!』
僕は慣れたものでより素早くホワイトボードに文字を書いていく。
木洩日さんは苦笑をして、
「まあ起こさなかったのは悪いと思ってるよ。でもその寝顔がまるで天使みたいな喜びと慈愛に満ちた顔だったから、起こすのも忍びなくなっちゃってね、何だか見入っちゃ…じゃないその顔をそのままにしておきたい…でも無くって起こすのが可哀そうになったんだよ。他の皆もそうだったみたいで、皆君を見てから教室を出る時少し幸せそうな顔をしていたよ。流石〝奈々津荷校の聖職者〟だね。ああ、ちなみに私の待ち受けはその時の君の寝顔―わッ、わッ、そんな顔真っ赤にして奪い取ろうとしないでくれよ!ケータイ壊れる!」
『壊してやるそんなケータイ!』
片手で薄いグリーンの木洩日さんのケータイを狙い、良くも無い運動神経を総動員して腕を振るいつつ右手で文字を書いて見せるという、ちょっと凄いかもしれない芸当をしながら僕が抗議していると、がらがらと教室のドアが開いて担任の柏原(かしわばら)先生が入ってきた。僕達はそこで争うのを止め、皆も騒がしい教室から一転、徐々に授業中のような静寂の世界に戻って行く。…まあこの五分後にはさっきよりも大きな騒音が起こる訳だけど…。
柏原先生はちょっと僕達の前、黒板の教壇の前に立ちながら、少し低めなその身長で少女のような綺麗なソプラノで話始める。
「えー、今日は、特に連絡事項等はありませんがー、皆さん気をつけて帰って下さいねー、今は男性も遅い帰宅の際は気をつけないと駄目ですよー、先日、そういった趣味の人に追い(、、、、、、、、、、、、)かけられた子(、、、、、、)も居ますのでー」
教室中からくすくすくすくすと笑い声が漏れるのを、僕は真っ赤になった顔を隠し、机に突っ伏して見せないようにする事で耐えていた。この先生酷いと真剣に思った。もう公開凌辱に近いような気もした。でも、僕はこの先生だって悪気があるわけじゃないんだし許してあげなよと自分に言い聞かせた。無駄に終わりそうだったけど。天然は時に正義であり、悪魔である。
後ろを見れば、二つ後ろの席で木洩日さんが僕と同じように机に突っ伏していた。
肩を震わせながら。
子供の頃から何かと世話とか面倒とか、声が出せない僕をずっと支えてくれた木洩日さんではあるけれど、その姿に僕は自分の両手が震えるのを隠すことが出来なかった。
怖かったんだからね本当に!自分の股間を触られた時の気持ち悪さと言ったら、僕はもう全身に虫が這い回ったくらいに気持ち悪かったんだからね!君は警官の娘だから強くて心配ないかもしれないけど、僕は貧弱を絵に描いたような人間なんだよ!抵抗なんてカバンを振り回してぶつけることくらいしか出来ないんだよ!!
恨みを込めて木洩日さんを見る。まだ肩を震わせている。僕もまだ肩を震わせている。


木洩日さんは僕がお世話になった警察官の木洩日大志(たいし)さんの一人娘である。
僕が初めて会ったのは、僕がまだ経過を見るために入院していた頃。
おばあちゃんに出会った時と大体同じぐらいだった。
前々から弟が欲しいと言っていた彼女は僕が色々と口がきけなくなったことで起きた不都合や難点などをきちんと丁寧に教えたり諭したりしてくれ、僕を精神的な面で救ってくれたと言っても過言では無い。ただおばあちゃんとはあまり会いたがらなくて、おばあちゃんも木洩日さんには最初から積極的に会おうとはしなかった。木洩日さんはおばあちゃんの事を嫌っているわけではなさそうだけど、少し距離を置いているように見えた。
―訳を訊くと、「ジュースを思いっきり頭にこぼされた」と言っていた。おばあちゃん……
そして、僕と同じ中学だけでは無く、高校生になってまで僕の相手をしてくれている木洩日さんには頭が上がらないのは事実だ。しかも今年で六年ずっと同じクラス。腐れ縁過ぎてお互いに苦笑を交わす毎日なのだ。
このホワイトボードも木洩日さんからのアイディアで、これなら授業で当てられても書けば相手に伝える事が出来る。会話もできるしメールよりずっと速い。
おかげで、僕の文字を書くスピードは中々速い方だと自分では思えるくらいなった。役に立っているかは微妙だけれど。
出会ってから小学生までは、僕は木洩日さんの事を下の名前で『詩織ちゃん』と書いていた。だが、中学生になってからは何となく気恥ずかしく、名字の『木洩日さん』と書くようになった。
木洩日さんは何となく寂しそうな、でもホッとしたような顔をしていた事を思いだす。
中学生は、色々何かと大変なのだ。
中学生の時には、僕はもう、他人と無暗に喧嘩をしたり、傷つけたりする事も無くなっていた。
僕を小学校の小さい頃から知っている人は、僕が誰だか顔は知っていても記憶の中の以前の僕と一致せず、よく「本当にお前あの帽子谷か?」と訊かれる事も多い。喋れなくなったという事も大きいのだろうけど、それ以上に僕が意味の無い見栄や良い子をおばあちゃんの教育(?)で消し去ってしまった事が、一番の原因なのだろう。
あれだけ鋭いくせに失敗ばかりしていて、しかも悪びれずに僕に刈りすぎた枝を更に切って無くしてしまえと言うような人と日々生活を送っていれば、自然とそうなるのも無理はない。
僕は中学生になってからはだんだんと良いとは言えないまでも、周りと不和を起こすほど人間関係をひどくするような事も無くなったし、僕がホワイトボードを持っている事も、喋れない事も、さして問題にはならなかったのは幸運だった。木洩日さんが毎回自然にフォローしてくれたり先生なども協力してくれたから。
僕は自然に笑えるようになったし、皆の最初のぎこちなさもやがて薄れ、僕はクラスの一員としていてもいいと思えるようになっていった。
僕は教室も悪くないもんなんだな、と思えるようになっていた。

そんな回想を終え、まだ肩を震わせている(いい加減長すぎると思う)木洩日さんをホームルームが終わっていたので、お礼にこの思い出のホワイトボードで思いっきり殴ってあげた。相手が木洩日さんだからできるこの行為、プライスレス。


僕は教室の外に出て校舎の窓から外を見る。夕日になりかかっている太陽と、グラウンドへと勢いよく走って行く青い野球帽を被った球児たちを見て、それから吹奏楽部の練習前の調子ハズレの音を聴く。周りには軽く茶に染めた女子高生たちが談笑しがら通りすぎ、僕を追い抜いた男子たちは何やら鉄道についての話をしていた。僕は歯噛みした。
天文部が、あればなあ。
奈々津荷高校には天文部が無い。
無くても全然不思議ではないから当たり前といえば当たり前なのだけど、こんなにいい星が見えるこの町で天文部が無いのはいかがなものか。全くこれだから部活というものは困る。…いや、誰に対して文句を言っているのかは自分でもよく解らないけども。敢えて言うなら天体望遠鏡とかを家に持っている子とか…。
そんな事を思いつつ夕日が差し込み赤色に燃えているような廊下を歩く。
しばらくして階段を降り、渡し廊下を通って古い木造のギシギシいう部活棟に入る。
色々なものが雑然と置かれている所をゆっくりと歩いた。脇には段ボールに積み込まれたマンガの資料とおぼしき背景に使われたようなプリントアウトした風景が溢れていたり何に使うのかも解らないファンシーというよりちょっと猟奇的な雰囲気を持っている笑顔のクマのぬいぐるみの頭があったり。吹奏楽部が使わなくなったと思われる金色のラッパの先っぽのようなものや鉄道模型部のゴミらしきニッパーで取られた後のパーツが付けられていたプラスチックもいくつか落ちている。
全部左手側にある部室の扉では人の気配がし、歩きながらなんとなく聴いていると写真部からは「1年C組の木洩日さんに被写体をお願いしよう!あのボーイッシュな感じで微笑まれたら僕は何枚ででも、指がつるまで撮りつづけることが出来る!!」とか不穏な事を言っていた。殴り込みに行こうかなと何故か関係の無い僕が思ってしまう。…何故だろう、幼馴染の危機だからか?よく解らない。
そんなこんなで部室の前まできてしまって、僕ははあっとため息をついた。
この学校はとりあえず全員の生徒が何処かの部室に入っていなければならない。
つまり、天文部が無い僕も、必然的に何処かの部活には入らなくてはならないのだ。
基本、少し緩めの校則の奈々津荷高校だけど、僕は決まりだから守らなくてはいけないというより好きでは無くてもどこかの部活に入った方が人間関係が潤うんじゃないかなと思ってしまったのだ。
そんな風に能天気に考えるから、皆から皮肉られて〝奈々津荷の聖職者〟なんて呼ばれてしまう。いつか絶対に返上してやるぞ。…いつになるかは解らないけども。

ドアの所に銀色のプレートが鈍く輝いている。
大体何処の部活も、自分たちの部活を示すためドアには部活名が書かれたプレートを貼っているのだが、その殆どが新しかったり、もしくはすぐ取換えられるように剥がしやすいものになっているのが普通だ。
しかし奈々津荷高では昔からある伝統的な部、例えば野球部やサッカー部、ラグビー部に茶道部など歴史の長いものにはプレートが打ちつけられていて変わる事も無く、そのドアに居続けるものが普通になっている。
この僕の前にあるドアのプレートもその一つで、目の高さより少し上の所にあるプレートは少し錆びて読みにくくなっているものの確かに打ち付けてある物。
名前を『奈々津荷歴史研究部』。
奈々津荷高でもマイナー中のマイナー。
しかし歴史だけは古くなんと創立以来からあるというから驚く意外に無い。
入っていく人間がいるだけでも不思議だけど、それよりもここに入るイコール『変人』というレッテルを張られる程に、この部は一種異様な雰囲気を持っていて、この部室棟に与えなくてもいい余計なプレッシャーを与えている。
僕はひとつため息をついて、ドアノブに手をかけた。
…ちなみに僕の他の部員はさっき僕がはり倒した木洩日さんも入っている。
僕が入ると言ったら何故か急に彼女も「面白そうだから私も入るよ」と言って、入部を決定。あっさりと僕とおなじ部活になった。
彼女はこれで中学の時から僕と同じ部活である。心配してくれてる半分幼馴染がいる気安さ半分といった所なのだろう。嬉しいような恥ずかしいような照れくさいようなちょっと困る。僕はもう16で高校1年なのだけどなあ。…受験勉強の時にも星を見に言っておばあちゃんに呆れられたような性格ではあるんだけど。
そんな木洩日さんだが今日はさっき僕が思いっきり殴った影響で頭が痛いと半泣きになっており、僕はそんな彼女を放ってきたのである。この気心が知れてる感。プライスレス。
まあ、そんなのはもちろん理由なわけが無く、ちょっと行く所があるからと言われて木洩日さんは軽く手を振りながら僕と別れたのだった。何でもようやく時が来たと言っていたので何が?と訊いたら「スーパーの創業祭」との答えが返ってきた、ご苦労様です。
僕は部室を開けて、部屋の中へと入る。少しかび臭いが不潔では無い室内。年季の入った黒に近い書棚が両脇の壁にずらりと並んでいて、その前には整理箱がいくつも置いてある、番号が振られていたり『重要捨てるな!』と油性ペンで大きく丸で囲まれながら書いてあったり、宇宙人の模型の様なものが四隅に立ててあったりする。混沌といってもいい空間である。壁には奈々津荷町の地図が張られ、所々に赤丸や青丸が付いているし、何故か『レッド・ツェッペリン』や映画『タクシードライバー』のポスターが色あせつつも張られており逆にそれが存在感を増して壁のクリーム色を覆い隠している。
その他大小様々な何に使ったのか解らないような小道具のような物が脇に固められていたり、真正面の窓がある壁にはアンティーク調の食器淹れとお茶道具、洋食器があり(無駄に高そうだよなあといつも思っている)。部屋の中心には安めの長机が四つロの字を書いてくっつけられており、その上にはお菓子類が散乱していたりする。そしてその真ん前には人がいた。
―むしゃむしゃとそのお菓子を口一杯ほお袋一杯にハムスターの様にシマリスの様に食べている人が。
「おっそいわよー、帽子谷くん。遅すぎて私の胃はそろそろ限界を迎えようとしていたわよ」
むっしゃむっしゃと口を動かしつつくちゃくちゃという音を立てないという凄いんだか凄くないんだか解らない技術を使って話す女の人。
「お菓子はね、心の栄養剤なの。でもね、栄養は取りすぎると心が幸せになりすぎて逆に現実が見えなくなるの。怖いわね。怖いわお菓子というものは、一種の麻薬ね。そうは思わない?」
思わないですアハハ。
とも言えないのが僕という人間なので、キュッキュッとホワイトボードに『特に僕は〝じゃがりこん〟を食べていると幸せになります』と書いて見せた。
「相変わらず話が解るわね帽子谷君」びりっと〝ポテイトチイップスコンソメ特大〟を開けると、ざあっと手で五枚ほど掴んで口に放り込む。解る振りをしているだけなんだけどなというため息は心でしておいた。
―『浮世ノ世輝夜(うきのよのかぐや)』先輩。
ポニーテイルにしている少し茶色の入ったクセのある髪。目が大きくぱっちりとしていて、鼻が少し高めで高身長の、スタイルよし、強気な視線と常時人を小ばかにした笑みは好みが分かれる所だろうけど顔も綺麗でよし、といった美人さんなのだが、何というか人として駄目というか、興味がある事には物凄い知識と洞察力と勘が働くものの、それ以外、つまり自分に関係なかったり興味が無かったりすることについては全くといっていい程使えない、それが浮世ノ世先輩である。
『でも先輩、お菓子は持ち込み禁止ですよ。部室が汚れるのは他の人たちにも迷惑ですし、何より僕達が気持ちよく部屋を使っていくためにはやっぱり清潔な方がいいと思います』
文字が書けなくなったので、裏側がマグネットになっててボードについてるボード消しで書き直し、
『だから、そろそろ片付けましょう?』と見せた。
「私、部屋は汚れてた方が気持ちが落ち着くんだけどな―」
『―先輩?』
僕が書いてにっこり笑うと、先輩は憮然として机の上の空箱たちを両手でかき集め、机の隅にあるゴミ箱にどさっと捨てた。
ゴミ箱に『捨てるな危険!』との落書きがされていて、じゃあ何処に捨てればいいんだと首を傾げたい。
しかも無駄に字が綺麗だ。
書いたのは浮世ノ世先輩なので、どうでもいいスペックがあることにはもう慣れたが宝の持ち腐れではないかなあと本当に思う。
お菓子のカスだらけになった室内を、僕は壁に立てかけられているやたらと柄の長い、魔女っ娘が使うような箒(先は竹箒では無く普通に柔らかいので意外と使いやすい)で集めて捨てる。
先輩はこっそりと最後に残った未開封の〝カレエムーチョ〟を取り出そうとして、僕の笑顔を見て止める。先輩の将来が僕、凄く不安です。
そうやって箒を動かしていると、先輩は頬杖をついてこっちをじっと見ていた。
僕が視線を感じるとすいっと視線を外し、はあっとため息をついた。
意味が解らず僕が頭に「?」を乱舞させていると、先輩はぐてえっと机に潰れて、ぽつりと言う。
「帽子谷くん。君はこのシチュエーションに何も感じないのかい?」
コクリと頷く。え、いや何が?
僕が知るわけないんじゃないかなあと思っていると、先輩は口をとがらせ、薄く染めた茶髪を、正確には頭で結んだポニーテイルを揺らして、首を振る。
「密室で男女が二人きりって…」
『僕用事を思い出したのでかえりま』
「まーちたまえよぉー、ぼーしやくぅんー…」
書きかけの文字のままドアへとダッシュしようとした所に、先輩がブレザーの首根っこを掴んで押しとめる。僕は構わず逃げようと前へ行って、―後ろで先輩が転んだ。
慌てて振り返り、何も考えず僕は傍へ近寄った。
怪我はないかまじまじと足や身体を見て確認する。うん大丈夫、何ともなっていない。

と思ったら覆い被さられた。

「―――――!!!!」
正に『声にならない叫び』をあげて、僕は上に乗っかって何やら嬉しそうににやにやしている先輩に、目だけで抗議した。首を振られて抗議は一瞬で却下された。ええ!?
「―…敵に情けをかけまくり。敵に塩を送りすぎ。塩分過多でそのうち私は高血圧になってしまうよ帽子谷君」
意味解らないよ何言ってんのこの人!わーん!!離せー!!
「ま、それが君のいい所でもあるんだけどね、ねぇ、〝奈々津荷の聖職者〟さん?」
またそれかよ!
もう僕には悪い意味にしか聞こえないんだけど!! 
「むう全く。私に欲情しろとまでは言わないが、共に神秘を探求するものとして少しくらいは私に興味を持て。自分では意外といいスタイルをしていると思っているんだぞ」
お菓子を食べなくなったらもっと良くなるんじゃないかなあと心で呟く。
「という訳で、私に愛の言葉を一つ書いてもらおうか。はいボード」
手渡されたボードに、僕は三秒にも満たない速度で書き終る。
『ダイエットしてください。』
「よし死ね」先輩が本気で拳を握りしめたのを見て、僕は慌てて書き直す。
『良い匂いがしました。間近に顔があってどきっとしました。身体が柔らかかったです。また今度お願いします』
半分、本気で書いた。
…こうでもしないと聞いてくれそうにないから先輩は…。
書いている内容は変態で間違いないけれど、背に腹は代えられない時もある!
予想通り先輩は満足そうに唇を一瞬舐め、離れてくれた。僕もほっとしてボードを持ったまま立ち上がる。
がちゃりとドアが開いた。
僕と同じ一年生、写(しゃ)楽(らく)理(ことわり)さんが冷たい眼のまま僕らをいや、僕のボードを見た。
静かに、「おじゃましました」、と言って出て行く。
僕ら二人はシンクロナイズトスイミング並みの一致さで彼女を追いかけた。

ここは、『奈々津荷歴史研究部』またの名を『奈々津荷神秘調査部』。
奈々津荷にまつわる伝承や伝説、そのことに関わった人物の調査研究。
何かと不思議な事が起こりやすいこの町で、古くからある歴史ある部だ。
奈々津荷の歴史を丹念に調べ上げるその熱意と姿勢は、高校生同士の発表大会などでも非常に高く評価されている。
実体がこんなものと知っても辞めなかった僕は確かに聖人かもしれなかった。

第二話   僕と僕の周りの変人達

「で、そんな事になった訳ですか」
写楽さんが正座している僕と先輩の前で仁王立ちし、その小柄な身体を倍くらいに見せて圧倒的なオーラで僕達を見下ろしていた。
写(しゃ)楽(らく)理(ことわり)さん。
僕と同じ一年生で成績優秀態度良好性格真面目。
口数は少ないけど、時々見せる眼鏡の奥の笑顔が可愛らしい女の子だ。
別の意味で頼りになる時もある浮世ノ世先輩とは違って、全般的に頼りにできる部員さん。
基本僕達には厳しいけど、間違った事は言わないしでしゃばったりもしない。
部長のようないわばカリスマ的な存在では無いけれど、僕たちが活動するにあたって必要な書類とか文書とか、データの管理とか、彼女が居なくなってしまったら僕たちは正しく船頭を失った船のように右往左往して何事も上手くいかなくなるだろう。優秀な秘書さんなんてドラマの中でしか見たことないけど、きっといたら彼女のような存在の人なんだろうと思う。そしてつまり、実質的、精神的な面で彼女は僕達よりも上位の存在であり、つまりは、
「『ごめんなさい』」
頭が、上がらない。
どころか、床から離れられないくらい、その実力差は大きいのだ。
ていうか僕が一緒に正座させられている理由が解らないよ!僕は何も悪い事をしていないよ写楽さん!信じてー!!
僕が寂しそうに彼女を見上げると写楽さんも「うっ」と唸って僕から一歩下がる。
コホンと咳をし、
「ま、まあ今回は、といよりいつもですが帽子谷君は完全に犠牲者の様なので許しましょう」
そっぽを向きながらもそう言ってくれる写楽さん。よかった!流石は部の最後の良心!
僕はいそいそとボードを持ち上げて立ち上がる。キュッキュッと『ありがとう。信じてくれて』と書いて見せた。
「…犬…豆芝みたい……撫でたいな……」 
意味が解らない事を言っていたけれど。
「じゃあ私も―」
「そのまま部長は二十分間正座です。足を伸ばしたら十分のペナルティです。ああ、あと異論反論は認めません。抗議も認めません。私たちは今度調べる予定の『七夕伝説』について話し合うので邪魔をしないように。お菓子のゴミは私が見られないように捨てておきますが、今度やったらその上に石を置きますのでそのつもりで」
「うわあああーん!!!」
―怖い。写楽さん超怖い。
僕はがたがた震えながら、泣きながら正座を壁に向かってやっている先輩に、少しだけ同情してしまった。
僕、先輩、木洩日さん、写楽さん。
先輩が部長で、僕が書記。木洩日さんが会計で写楽さんが副部長。これが『奈々津荷神秘調査部』のメンバーだ。僕の書記はまあ妥当として、木洩日さんの会計も適任だし写楽さんが副部長なのもはまりすぎて怖い位だ。
部長が先輩なのは賛否両論の所ではあるんだけれども。
『ところで写楽さん、僕達が次にする研究テーマの『七夕伝説』って何?普通に僕達が知っている七夕とは違うのかな?』
僕がそう尋ねながら長椅子の前に座ると、少し間隔を置いて写楽さんも眼鏡を少し右手で押し上げから、「そうですね」と言って座った。
「『七夕伝説』というのは一言で言ってしまうと天使の話です」
僕は首を傾げる。はて。七夕とは確かに違う話であるとは思ったが、よりにもよって全く関係がなさそうな西洋の天使の話だとは。僕は疑問をそのまま書いて写楽さんに尋ねてみる。
『西洋のお話ってこと?それがここにまで伝わったとかなのかな?』
「いえ、というより、随分昔の話と言っていいでしょうね。この伝説は、昔愛し合った男と女が結局結ばれることなく、互いを求め合いながらも別れてしまう悲恋の物語ではあるのですが、それは〝天の羽衣〟の流れも汲んでいるようで女は実は空の住人で、最後には天と地をまたぐことは出来ずともお互いを愛し合うというものらしいです。更にそれに相手の女性は羽を持つ天使だ、というものが最近、といっても昔ではありますが付いたと思われ、それが七月七日、天を星の橋がかかる時二人は再び会う事が出来、少しの間だけ結ばれてまた女は空へと去っていく、という話のようです」
はーあ、なるほどなあ。話は似ているけれど、確かに大分七夕とは違うようだ。それで天使の話、か。
『そうなると、僕たちはそこから更に何かを研究するって事になるよね。じゃあ何をすればいいんだろう?』
「本当にあなたのような人がこの部に入ってくれて幸運でした…。あそこで泣いている人は牽引力はあるけど常識を母親の胎内に忘れて来ているような人ですから……。そういう質問をされると逆に嬉しくなってしまいますね……」
そういって力なく笑う写楽さん。苦労しているなあ…。何気に物凄い毒を吐いてたけど。それを聞いて更に先輩が泣いちゃってるけど。
「これは部長が自分で調べたものです。まあこの人にとっては造作も無い事なのでしょうが、どうやらこの話の舞台になった所が奈々津荷にはあるようなので。それを探し出し、夏の発表大会に向けて調べようというのが第一の理由でしょうね。まあもう一つの理由(わけ)の方が部長にとっては濃厚だと私は思っていますが…」
『?他に何かあるの?』
「…その伝説にあやかって、思い人と二人でその場所に行き願い事をすると、恋は成就し願いが叶うと言われています。一時期話題になり、町おこしとしても提案されたのですが提案者に小さな不幸が重なったり町自体がそんなに乗り気にならなかったのも加わり結局取りやめになってしまったようです。ブームが去るのも一瞬だったようですしね」
『へー、なんだか縁結びの神様みたいだからやればよかったのにねぇ。相変わらず不思議な町だねここは。七福神の弁天様が祀(まつ)ってある神社は縁切りの場所って聞いたことあるけど、ホントに伝説は色々だなあ』
そこまでキュッキュッと書いてはたと気付く。
『―あれ!?先輩って好きな人居るの!?僕知らなかったんだけど!!』
「…あの人も報われませんね……出会って日が浅いですがああ見えて思いっきりそっち方面が苦手なのは解りましたが……」
『ちょっと困った人だけど、面倒見は良いし実は優しいし、綺麗だし、言ってみれば案外大丈夫だと思うんだけどなあ』
「ホントに報われませんね……」
部長は正座しながらちらりとこちらを振り向いていた。
何故か少し顔が赤かった。そして何故か写楽さんが少し怖い顔をしていた。
何故なのか僕にはさっぱりだった。
『じゃあ、その場所を僕達で調べるって事でいいんだよね?』
「ええ。そのための詳しい資料は図書館やネットで調べておきますし、お世話になっている郷土歴史研究家の先生にもアポを取っておきたいと思います。時間があまり無いので、急がないといけませんから。私も前回の『黄泉がえり伝承』の時と同じようにもう二日連続徹夜とかはしたくありませんし」
『黄泉がえり伝承』というのは僕達が最初に手掛けた奈々津荷に古くから伝わる伝承の事だ。
一度死んだ魂が一回だけその願いを果たすために現世に帰ってこれ、願いを果たしたらまた黄泉へと帰る、というちょっとありふれた感のある伝承なのだが、調べてみると結構面白い事例が多く、中にはその亡くなった人と会話し、そのおかげでガンが早期に見つかり助かったというものまであった。
三年が一人も入っていなかったため、必然的に先輩が新しく部長になってテンションが上がって僕達をその行動力で引っ張っていってくれたのだが、研究発表日までにパワポが出来るのが危なかったり原稿や資料も終わって無かったりと、四人で死に物狂いで徹夜でやって当日全員ランナーズハイのような状態になって乗り切ったという苦いような楽しかったような形容しがたい思い出だった。
その中でも一番労力を割いてくれたのが写楽さんで、皆のフォローをしつつ、原稿を書きつつ先輩の尻を叩くという敏腕編集者(僕はどういうものかはよく知らないけれどそういうイメージ)のように僕らをまとめていってくれた。
今の先輩と彼女の立ち位置も、自然と言えば自然と言えた。
『じゃあ、今日はもう帰っていいのかな?何かやっておく事があれば何でもやるよ?』
ボードを見せると、クスリと写楽さんが笑って、
「本当にあなたが入ってくれてよかったです」
と言った。
やっぱり可愛い笑顔だ、と僕は思った。
「じゃあ、部長を慰めて来て下さい。私では多分もう効果が無いので。反省もしたでしょうから、帽子谷君が言ってきてあげて下さい。それでもう今日は帰っても大丈夫です」
この人と一緒になる人はきっと成功するんだろうなぁと思った。
帰り道、僕の家の方角になにやら険しい顔をして、木洩日さんが歩いてきた。
買い物袋を持っていなかったのでどうしたのか訊いてみると、「創業祭は明日だった」
との返事が返ってきた。
ご苦労様です。


                 ★


「伝説ねえ、そんなもんもこの現代日本にもちゃんと根付いてるもんなのね。ちょっと感心したわ。おとぎ話っちゃおとぎ話だけど、そんな変化球気味な話聞いたこと無いし。そういえば結構この町って不思議な言い伝えとかあるわねそういえば」
詩好子さんはサンドイッチを頬張りながらそんな事を言った。
まあ僕としてもこの話はなかなか変わっていると思うし、何より僕がこれから調べる物なのに詩好子さんが興味を持ってくれるのはちょっと嬉しい。
暗闇の中。僕と詩好子さんはいつもの場所で二人でサンドイッチを仲良く食べていた。最近僕の作るサンドイッチの量が増えたので、おばあちゃんは「仲良く食べるんだよ」と意味深と言うか正にズバリと確信をついている事を言ってきて、顔が真っ赤になっているのが解った僕ににやりと笑った。僕の方を見ずにぽつりとはっきりと「我が孫ながらよく食うようになったわ」と言われて更に僕は顔が赤くなった。そういうんじゃないんだよ!勘違いだよおばあちゃん!!
とは言えない僕だったのだが。


詩好子さんは僕が淹れたお茶をごくごく飲みほすと、何でもないように空を見上げる。
今日も空が綺麗だ。雲が無い日を選んで会っているので会う時は必ず満天の星空だ。一面の空の銀世界。雪の様に白く、または黄金の様にも輝く星達はいつ来ても心が落ち着くし癒される。僕も黙って空を見る。〝七夕伝説〟もこれならうなずけるというものだ。むしろ無い方がおかしいとさえ言えるかもしれない。
「変なもんねー、何か。愛車の『赤い彗星(、、、、)』に乗ってる時くらいに気分が高揚してくるのに、同時に凄く寂しい気持ちにもなる。何なのかしらねこれは」
詩好子さんは上を見ながら笑っていた。
その言葉通りに優しそうに。そして、寂しそうに。
僕はその顔を見ながら暗闇のなかでも目が慣れているためはっきりと見える詩好子さんの横顔を見て、何故か胸がぎゅっと掴まれたかのような錯覚におちいった。
何だか、怖いような、辛いような、艶めかしいような、よく解らない言葉が喉まで出かかって止まる。詩好子さんの顔はそんな僕を戸惑わせる、何かがあった。

「人って、なんで生きるのかしらね」

唐突に、詩好子さんはそう言った。
僕はまだ空を見上げたまま、よく見ると少し潤んでいる瞳をした彼女を見つめる。
「だってそうじゃない?確かに生きている事に感謝しなきゃ駄目だとか、生きている以上は生きなきゃ駄目だとか色々言う人はいるけどさ、そんな事が辛くて辛くて生きる事から逃げ出したいと思ってる人もいるわけじゃない?そんな人に、『お前はまだいい方だ。世の中にはもっと辛い人がいっぱいいるんだぞ』とか言われても、パッと視界が開けるなんてありえないじゃない。そんな事を言われ続けて、そして、そう思っちゃってるんだからさ」
僕はその詩好子さんの顔が一人ぼっちで泣いている小さな女の子に見えた。
辛い事から眼をそむけずに、そのせいで誰にも助けを求められずに一人で泣いている小さな女の子。そんな風に。
「生きるって、五月蠅いし、面倒臭いわ。本当に」
そう言ってから僕の方を見て笑う。その笑顔を見て僕は叫び出したくなる。
そんな泣きそうな顔で笑ったりするなよ、と。
僕は思わずケータイのメール画面に、長い文章を打った。ちょっと待ってて、と前置きしてから。僕はこの娘に、どうしても言いたいことがある。言わなければならない事がある。
しばらくカチカチという音だけがこの星空の下で響く。彼女はまた星を見ていた。そのまま消えてしまうかのような、儚さで。
僕はようやく打ち終わり、とんとんと肩を叩いて詩好子さんにそのメール画面を見せた。

『人生に意味なんて無い』

僕のその最初の言葉に詩好子さんは素直に驚いた顔をした。すぐに続きを見る。
『僕達が生きている意味を考えるのは仕方がない事だと思う。
でも、それが〝無意味〟って事は、逆に疑っちゃいけない事だとは思わない?死にたいって考える人がいるのは自然だし、死にたいって思う事だっても生きていればもちろんあると思う、でもその前に生きるって事は、最終的には全く意味が無い事なんじゃないかって僕は思う。僕達が生きている事に意味があるのなら、僕たちは何かをやり遂げなければならなかったり、辛い事にも耐える必要がある。でも、そうじゃない人はじゃあ生きている意味がないのかって事になるかって言うと、僕たちは幸せになりたくて生きてるんだからそんなのあるわけが無いでしょ?でも結局全員間違いなく死んじゃうんだから、『生きる』って事の意味って本当はないんだよ。勝手に僕達が思ってるだけ。そうじゃなくってさ、〝生きるってことに意味はない〟んだから、〝自分で生きている意味を作っていく事、そ意味があるって思い込むことが大事なんじゃないかって僕は思うんだ。そう思ったほうがずっといいと思う。何かを信じたり、何かを愛したりさ、そんな事に意味は無いんだ(、、、、、、、、、、、、)け(、)れど(、、)、でも愛したいって思うから。友達でいたいって思うから、無意識にでもそう思い込もうとして意味を作ろうと思うから、作りあげて生きて行くから、辛い事にも意味が与えられるんじゃないかなって。死にたいほどの事が起きても、僕は生きる意味を作って思いこんでいくべきなんだと思う。働いて食べて寝るだけの人生に意味を与えようともがくのが、すっごく大切な事だと思うんだよ。辛い事から逃げるとか死にたいのにとかそんなの関係なくて、そうやって辛い事にも意味を作り出そうとする方が、ずっと前を向いていけるじゃない。それが生きる事の『意味(かんちがい)』なんじゃないのかな。だからそんな悲しい事言わないで。ね?詩好子さん』

詩好子さんは、泣いていた。
ぽろぽろぽろぽろと雫が芝生に似た草に落ち、露になり光る。
僕はこの人が好きだ。
このくしゃくしゃに笑って泣く綺麗な人の傍にずっと居たい。初めてそう思った。



                ☆



詩好子さんはそれから僕の持っていたティッシュでチーンと鼻をかんで涙も拭くと、バツが悪そうにそっぽを向いて「ティッシュありがと」と言った。その顔が暗い中でもよく解る。可笑しい。
詩好子さんがレジャーシートをじっと見て、それから僕に「あんたって変なヤツね」と彼女にしては言葉短めに言うと、照れているのか怒ったように僕を見ながら「あとメール長いのよ、読むの大変だったわ。…そのメール後で私に送りなさいよ。アンタの恥ずかしい黒歴史って事で取っといてあげるわ」とも言った。
また思わず笑ってしまう。本当に嘘の下手な人だなあ、可愛いなあこの人。
「何笑ってんの股潰すわよ」
訂正、怖い人でした。
心底怯えて股間を両手で隠した僕に、詩好子さんはふっと笑って僕の眼を見て話始めた。
「私もアンタみたいになれたらいいのにね…」
そう切り出し、続けた。

「父さんと上手くいってないのよ、私」

いつもの流れるような語り口調でなくぽつり、ぽつりと小石を軽く放っていくように静かに淡々と語る。
僕はこの話はきちんと聞かなければ駄目だと思って、知らず知らずの内に姿勢を正していた。いつもよりも幾分真剣な顔で。幾分というのは真面目に聴きすぎていると思うと意外と人は話しづらい時があると思っているからだ。特に、詩好子さんのような人にとっては。
「―父さんは母さんが大好きでさあ。父さんも、ああじいちゃんも星が好きなんだけどね、母さんの星を勝手に決めて、星空の下で『いつまでも僕の傍で、輝く星でいてほしい』ってプロポーズしたらしいわよ。くさすぎて逆に笑えるわ」
くすくすと笑うその顔から、心の底から父親の事が嫌いなわけでは無いのだな、と僕は感じた。嫌いな父親のプロポーズ話で、こうは微笑めないだろうから。
「でも母さん、私が小さい時に死んじゃってさ」
その言葉の軽さとは裏腹に、とてつもない重さがそこにはあった。
「ばあちゃんも凄く若い時に死んじゃったらしいから、そういう家系なのかもしれないけどね。で、そこからはちょっと話が重くなるんだけど、私と母さんって、そっくり(・・・・)らしいのよね。顔とか体つきとかが」
今度は、自嘲気味に暗い顔でそう言い、静かに笑う詩好子さん。
僕は思わずその手に触れ、抱きしめたくなったけれど、ぐっと拳を握って我慢した。そういう関係では無いし、それが今出来る資格も僕には無い。
「最初は良かったのよ。父さんも会社を経営してて、母さんの名前を取って『MIKOTO』っていうんだけどさ、そっちに没頭して忘れようとしたみたい。そのおかげかどうかは解らないけど結構有名な会社になったわ。小さかった頃は私も溺愛とも言っていい程大事にされたわ」
少し驚いた。『MIKTO』と言えばここいらではウニクロやシーユーよりも安くて、センスがいいと評判の大型衣料量販店だ。全国ではメジャーでは無いかもしれないが、服を見にいくイコール『MIKOTO』、と奈々津荷の住民なら思うしそうする。それが詩好子さんの父親が経営する店だとは。知らなかった。
「そのくらい母さんが好きだった父さんが、大きくなって母さんに似てくる私を見てどう思うと思う?」
僕は押し黙るしかなかった。元々喋れはしないが、それでも。それは、なんというか、あまりにも。
「酔って「尊(みこと)に似るな!この偽物が!!」って言われた時は、本当に死のうかと思ったわ」
力なく笑う詩好子さんに瞳にはまたじんわりと涙が溜まっていく。
「父さんの気持ちも解るの。もし、私に好きな人が出来て、その人が死んじゃって、その人との子供が大きくなって好きな人に瓜二つになったら、きっと極限までその子を愛するか…それとも憎むかの、どちらかだもの」
詩好子さんはぐいっと袖で涙をぬぐう。僕は何も言えず、書けず、ただ詩好子さんを抱きしめたいと思った。
例えそれが、僕の役割では、無かったとしても。
「母さんがいてくれたらなあ…私も父さんともっと上手くやれてたのかなあ…どうなのかなあ…わかんないけど、今より幸せだったかなあ…」
空を見て呟いて、詩好子さんは頬から一筋何かを流した。
流れ星に似ているそれが、願いを叶えてくれたらいい。
でも星は変わりなく、ただ無言で光り続ける。


                  ★


「神秘というものはお金では買えないモノなのだよ、解るね帽子谷君」
『いえ、とりあえずお金で買えなければ買わなければいいだけの話だと思います』
「やってくれるね」
『お断りします』
「この薄情者め!」
『今の僕には何よりの褒め言葉です』
「んーいいねえ、この景色。気持ッちいい~、でも、ここが〝当たり〟とは限らないんだよね、写楽さん」
「ええ、とりあえずのポイント、という事ですね。と、いう訳なので、部長、きちんと皆をまとめてください。何帽子谷君に押し付けようとしているんですか。真面目にやらないのならば帰ってもらいますよ?」
「だ、だって私がお菓子を買いに行ってくれないかって言っても帽子谷君が行ってくれないから…」
『僕にお金払わせようとしといてよく言えますねそんなセリフ。大体、僕はレジが苦手なんですよ。ボードに書くのも手間だし、待たせるから後ろの人達にも悪いし。自分で行って自分で買ってきてください。そんな事してると好きな人に嫌われちゃいますよ』
『よ』のあたりで先輩はコンビニまで全速力で駆けて行く。僕が突然の先輩の行為に驚きを隠せずにいると、写楽さんと木洩日さんが互いに苦笑していた。
「可愛いですね」
「どっちもどっちだけどね」
あははははと二人で笑い合っているが、僕には謎以外の何物でもなかった。
とりあえず僕はそんな二人を無視して先輩がコンビニから出てくるまで、少し周りを見回した。
奈々津荷町でも田舎の方。遠くでは鳥がぴゅーいと鳴いていて、空にその羽音まで聞こえてきそうな程逞しい翼をはためかせている。僕らの後方のコンビニも個人経営でやっている店の様で、コンビニらしくなく八時には店を閉めると書いてある。コンビニの八時とか、かなりかき入れ時な気がするけど、こんな所ではその時間には通る人もいないのだろう。僕はそんな風に田んぼとトラクターの音が響く風景を眺めては~と息を吐いた。まだこんな所が奈々津荷にも残っていたのだなあと感心しつつ。
僕達は電車で奈々津荷の端である『幟(のぼり)区』に来ていた。
面積は広い奈々津荷でも田舎の田舎。農道やニワトリの鳴き声が響くここは、なんとも言えない落ち着く空気を僕達に運んできている。
「夏彦君。ここは君にはぴったりの場所だよ」
僕は首をわざとらしく傾げてどういう意味?とジェスチャーすると、木洩日さんは、
「ここら辺の農家の人たちに飼われてそうじゃない。『犬』として」
ボードをフルスウィーング。ボクサーのごとく華麗にスゥウェーで避ける木洩日ィさーん。
―ちッ、今のは確実に決めたと思ったのに!相変わらずいい勘してやがる!!
僕達がボードで遊んでいる間、(僕は本気だが)脇で写楽さんが「確かに…」とか呟いていて詳しく理由を聞こうかと思ったが、知りたくも無い事実を知りそうなので悪いがスルーした。
『で、ここがその〝七夕伝説〟の場所かもしれない所と、この近くに住んでいるその伝説に詳しい近藤さんって人がいるところなわけか。確かに雰囲気は江戸時代って感じがするよね。…もちろんいい意味でね』
肩で息をつきながら、荒い呼吸のまま僕はボードに書いて写楽さんに見せる。 
木洩日さんはまるで人間では無いかのような天才的な勘で変幻自在の僕の『ジークンボード』を避けつつ、しかも相手の思考を読んでいるかの如くに僕に近づいてくるので、まさにバケモノを相手にしている様だった。
昔からケンカしても全く歯が立たなかった僕としては悔しいというより既に諦めの境地である。強い女の子は好きですか?僕は微妙です。
「そうですね、これからそれと思わしきポイントまで行ってみて、それから近藤氏の自宅に向かいましょう。二時にアポを取っているので、それまではポイントでそれらしいかどうか調べましょう。まあ実(み)は無いでしょうが、写真を撮っておけばそれも立派な発表資料には使えますし」
僕はもう先輩は写楽さんに部長職を譲るべきではないかと思います。
先輩、写楽さんは先輩より先輩らしいです。既に後輩の気分です僕の方は。
そう思っていたら、ちょうどその先輩がこの世の終わりのような顔をしてがっくりとうなだれながら帰ってきた。慌てて僕がどうしたのか尋ねたら、 
「カレエ、ムーチョが、無かった、よ……」
『あ、じゃがりこんは買ってくれたんですね、僕の分ですか?』
手に持っていたビニール袋を眺めてから書いて、僕が笑う。
「あ、いやその…、あ、あれだ。普段頑張ってくれている後輩に、ちょっとサービスでもしてやろうかなと思ってね、ま、まあ、喜んでくれて、何より、何よりだ、うん」
何故か真っ赤になって俯き喜ぶ先輩。いつもこうなら可愛いんだけどなあこの人は。
じゃがりこんごときで大袈裟な、とは思ったけど。そんな僕達を見て他の二人はまた笑っていた。
「―ホント、可愛いですね」
「―ホント、可愛いな」
何故かその顔に僕は、ぶるりと震えたのだった。


その、星が良く見えるというポイントの丘について一通り調べ終わると、気付けばもう一時になろうかという時間になっていた。
話によると、その伝説の場所は『星が見える見晴らしのいい丘』ということらしいが、僕達が行った所はどうにもそんな神秘的な感じは受けなかったし、そうとも思えないような、正直、ちょっとしょぼい感じの場所だった。
それは他の三人にしてみても同じだったようで、直ぐに調査とは名ばかりの遊びに僕たちは興じはじめた。写楽さんだけは真面目に持ってきていたデジタルカメラで周りを撮っていたけれど、「一緒に鬼ごっこしよう!」と僕達がいうと、呆れながらも付き合ってくれて、久しぶりに太陽が輝く中童心に帰ってめいいっぱい遊んだ。
ちなみに木洩日さんは一回も捕まらず、僕と写楽さんはあっさりと捕まって動けず木に触りながら待っていたのだが、殆ど先輩と木洩日さんのドッグファイトになっていた。だが相手の思考を読んでいるかの如く逃げる木洩日さんと、野生の獣じみた運動神経で追いかける先輩の対決は、見ていて正直超面白かった。勝手に手に汗握って応援していた。いけ、そこだ、ああ惜しい!いいぞそこそこ!
木に片手を付き、もう一方の手で写楽さんの手をつい強く握って捕まっていたのだが、真っ赤になった写楽さんが「あう、あう、あううううう」と唸っているのが不思議と言えば不思議だった。



僕は歴史研究家という人たちはどことなく、知的なものだというイメージを持っていた。
知的と言わないまでも、どことなく落ち着いた風貌、物腰、でも自分の好きな事を話し始めると紳士的ではあるものの止まらない、勝手にそんな人物像を思い描いていた。
最後はあっていた。だけど、僕はこんなノリのいい人が何で奈々津荷の歴史研究をしているんだろうかと首をひねらずにはいられなかった。
名前を近藤(こんどう)正道(まさみち)さん。彼は今年六十を過ぎようかという還暦を迎えた人物だったのだが、そんな肉体的衰えなど微塵も感じさせない、妙にハイテンションなおじいさ、いやおじさんだった。
僕達は近藤さんのその妙な迫力に完全に飲まれてしまい、しょっぱなから僕達の中だけでちょっと気まずい思いをしていたのだが、先輩だけはいつものおバカモードから一転、冷静で真剣味溢れる印象すらうける態度で近藤さんの脱線しまくるマシンガントークに上手く合いの手をいれ、僕達にもその〝七夕伝説〟の詳しい内容を聞き出してくれた。
僕は速記まではいかないものの、いつも自分のボードに書いている成果か先輩と近藤さんの言っている内容を適度に省き、必要だと思われるところは適度に盛ったりしながらノートに文字を書き込んでいく。
やがて近藤さんは、満を持してこう切り出したのだった。
「―今まで話したのは歴史ある奈々津荷の中でも有名な話だったんだよねっ。ああ、そうだそうだ君たちは七夕伝説について調べていたんだろ?君たちはさ!その奈々津荷の七夕伝説は嘘っぽい、ちょっと変わっただけのよくある話だと思ってる?いやー、思ってる顔だなそれは、解るけどね!!でも、僕からしてみるとそれこそ違うしこの伝説の興味深い事をよく知らないからだよ、君たちは勘違いしてるんだよねェ!!」
「―では、どういう風に違うとお思いなのでしょうか、近藤さん」
先輩が、普段見せないような堂々とかつ自然に相手の警戒を緩めるような柔らかな表情を作りつつ尋ねる。先輩、やっぱり先輩が部長で良かったと思います。僕はこのハイテンションに既について行けてません。おそらく愛想笑いをしている僕の隣とその隣にいる木洩日さんと写楽さんも含めて。
「奈々津荷ってのはね、昔から伝説の類が多い場所なんだっ。伝説の中には眉唾ものとしか思えないようなものもあるけど、実際にその伝説を体験したって人も多い。僕はそんな人たちに話を聴いて回ったんだけど、やっぱり不思議な体験をしている人の話はとても多くて興味深いっ。そしてなんといっても、その聞いた話の中で〝七夕伝説〟が一番僕はこの町では強く心に残っているんだよ。時々、本当にそれが事実としか思えないような話すらあったからね」
「例えばどんなものでしょうか?」
「〝七夕伝説〟が愛する二人で願い事をすると叶えてくれるって話は、もちろん知っているよねっ?」
「ええ」
「その愛する二人―、絶対に言わないでくれって言われてるから名前は言えないんだけど、その二人は互いをとても好きあっていたのにご両親の反対にあってね、仕方なく別れる事になってしまったんだ。そこでその場所で願いを叶えてほしいと星空の下願ったら、実際二人の間にあった障害、互いの両親が急に心変わりしてしまって了解をもらい、なんと無事に結婚したらしいんだよ。無事幸せになったとね。まあ、残念な事に現実は辛いもので、その相手側の女性はすぐに亡くなってしまったらしいんだけどね、でもそれも悲恋の物語としてこの〝七夕伝説〟と見事に符合すると思わないかい!?僕は案外そういった偶然にしか思えない事でも、この奈々津荷ならあっても不思議じゃないような気がするんだっ!今もその場所を必死になって探しているんだけどね、これがまた中々見つからない。文献などで解っている事は『見晴らしのいい丘』、という事だけだから探すのは手間じゃないはずなんだがねぇ、どうにもこうにもそれらしい所が見つからないんだよ。その話を聴いた時も「僕だけの秘密ですから」と言って絶対に教えてはくれなかったし。二人っきりになれて、星が良く見え、邪魔が入らない。そして何よりそんなロマンチックなシチュエーションに浸れそうな静かな場所、そんな所があればとっくの昔に見つけていてもいいはずなんだがねぇ…昔それで町おこししようとした時も結局見つからずじまいだったんだ、全く残念な事だよ」
高いテンションのままそう言う近藤さんの話を、僕達は愛想笑いから真剣な態度に変えつつ集中して話を聴く。流石はと言っては失礼だがこんな人でも歴史研究家。好きな物を語るときの情熱は知らず知らずに人を惹きつける。でも僕は何度も相づちを打ちながら頭の中では別の事を考えていた。星空。プロポーズ。叶う。悲恋。そして丘。
僕は近藤さんの話を聴きながら、もしかしたら奈々津荷の七夕伝説の場所は、あそこではないのかという思いを強くしていった。

僕と詩好子さんが二人で会っていつも星空を眺めている、あの奈々津荷山の僕達の丘では、と。


僕達はそれから電車に乗って僕達が住んでいる地区にまで戻ってそこで解散となった。
僕はしばらく考えごとをしていたせいかぼんやりとしていて、電車が止まった事にも気づかずに木洩日さんに「着いたよ帽子谷くん」と肩を叩かれてようやくそれを知るありさまだった。
当然それは先輩と写楽さんにも伝わっていたらしく、「大丈夫なのかい帽子谷君?」「疲れてしまいましたか、帽子谷君?」とまるで小さな孫をあやすかのような態度をとられてしまい、苦笑した。そんなに顔に出やすい方なのかなあ、僕。
そんな不安げな三人ににこりと笑いかけながら『何でもありません。心配ないので、大丈夫ですよ』とボードに書いて見せた。僕が想像した通りなら、丘のことは言わない方がいいだろう。
言ってしまったらもう詩好子さんには会えない、そんな気がしていたから。

第三話   秘密

「夏彦君、君は知るべきだよ。世の中はね、そんなに甘くは無いんだってことを」
僕は言いたいことが山ほどあったものの、それをいちいち書くのが面倒臭いということと、僕自身怒りすぎていて口に、いや書けもしていなかったので、じっと黙っていた。言われるだけ言われて腹が立たない程、僕は人間が出来ていない。 
「なあに言ってるんだい『奈々津荷の聖職者』のくせして」
だからなんで君は僕の言いたいことが解るの!?君本当にエスパーなんじゃないの!? 
「いやあそれほどでもははは」ほめてないよ!
全く、と僕は思いつつこの怒りを伝えられない事に、ストレスは正直マックスハートだ。プリでキュアキュアである。
「君が〝恋〟とはねえ。いやはや、やっぱり人生、長く生きてみないとわからんもんだね」
あと、君は僕と同じ16歳だ。…僕の記憶が間違ってなければだけど。
だがそんな事が書けない程、僕は恥ずかしさで顔から火が出そうだった。
僕が人生において、誰かを異性として好きになったりしたことなど、中学生の時ですらなかったのだから。
第一、喋れない僕が恋なんて絶対出来ないと思っていたのも心の底ではあったのだけど。そのせいもあって僕の恋愛経験値はほぼゼロに近い、近いというのはちょっと見栄を張っただけで実際はゼロである。なので、僕は今のこの気持ちにどう対処していいのか解らずに、自分自身の心の動揺にただ手をこまねいて見ているしか出来なかったのだ。
大体こんな人に相談したのが間違いだったのだ。もっと有意義な人、と言ってもいくら年上とはいえ先輩は論外だし、一番頼りにしていた写楽さんにいたっては話した(書いた)瞬間この世の終わりのような顔をされ、「ちょっと疲れたので帰ります」と言って部室から出て行ってしまう始末。悲しい。でも大丈夫なのかな写楽さん。 
以前さりげなくクラスの友人たちに相談した時も、何故かにやにや笑って真面目に笑って聴いてはもらえなかったし。
なんだよ皆してさ!
僕に好きな人が出来たらそんなに可笑しいの!?そうかよ笑えよ笑ってろよ僕は一人ででもやってみせるぞうわーん助けて木洩もーん!!
そんなこんなで泣く泣く最も相談したくない相手、木洩日詩織(こもれびしおり)閣下にご助力頂こうと僕は頭を下げた。返ってきた言葉は「…ようやくか」と何処か遠くを見つめるような優しげな視線だった。
別名、生暖かい視線とも言う。
まるで思春期の男の子の部屋に隠してある秘宝を、掃除機をかけている時に発見して、その趣味がちょっと微笑ましい感じの嗜好(、、、、、、、、、、)だったりした時の笑い。
別名、見下げ果てし微笑とも言う。
木洩日さんは、僕の事を馬鹿にするときは必ず『名前』で呼ぶ。
それは特に意識している事では無いのかもしれないけれど、僕には実はそれがちょっとだけ嬉しかったりする。僕に遠慮していない時だと解るからだ。
だから僕もそんな時は遠慮なく反撃に出るのだが、必ずといっていい程僕の対戦カードには黒丸がつく。むしろ黒丸しかない。端っこに白一個ついていれば、オセロなら大逆転間違いなしなくらい盤面は真っ黒だ。
そんな彼女が僕を名前で呼んだ。
馬鹿にされた。
嫌味言われた。
泣きそうになった。
嬉しくない黒丸がまた一つ増えた。 
散々馬鹿にされ皮肉を言われ、からかわれ続けた後に、燃え尽きて僕がうなだれると、木洩日さんは少し寂しそうに「…そろそろだとは思ってたけど、やっぱりこうなっちゃうのか…」と優しく笑う。
僕にはそれがどういう意味なのは解らなかった。けれどぼくには、その顔がとても辛く、そしてまた痛ましく映ってしまった。
「何やってるんだかなあ私は…私らしくなかったなあ、こんな気持ちになっちゃってるなんてなあ……」
散々僕の心を傷つけたくせに、更に僕の胸をざっくりと刃物で切り付けるかのように木洩日さんはその何かを諦めたかのような微笑みのまま僕を見つめ、そして僕を更に苛立たせていった。
その態度あたりから、さっきまでのおちゃらけた雰囲気は僕達には全く無くなってきていて、二人して赤く染まった放課後の部室で黙っている。
空が燃えている。まるでこの世の終わりの様に。
僕達はそこから炎を浴びて、真っ赤に染まる。窓に背を向けている木洩日さんの顔がだんだんと見えなくなってくる。逆に僕の顔は木洩日さんには良く見えていることだろうが、僕が今どんな顔をしているのか、自分では解らない。でもきっといい顔はしていない事だろうと思った。
今、部室には二人だけ。
部長はコンビニでお菓子の新商品が出たというから買いに行くと言って、一瞬だけ部室に顔を覗かせた後すっ飛んで行ってしまったし、写楽さんはさっき言った通り青い顔で帰ってしまったきりだったので、僕は結局最後に入ってきた木洩日さんに不承不承相談していたのだ。
結果、こんなにも気まずい空気になってしまっていたが。
僕はそんな空気を払拭したいとも思いつつも、どうしてこうなってしまったのかを訊くことが出来なかった。木洩日さんは何とも無かったかのように逆光の中でんーと伸びをしながら僕を見ずに立ちあがる。僕もつられて立ち上がる。校内でチャイムの音が響く。
下校時間がいつの間にか迫って来ていた。


僕達は並んで歩きながら黙っている。
木洩日さんはふうっと息を吐いてから、僕の方を見て話し始める。
「で、どうするつもりなの?その天河さんって娘にするのかな、純情ボーイの帽子谷君は?いつ告白する訳?」
もう木洩日さんはいつも通りのその屈託のない笑顔で、僕をからかってきていた。
ようやくいつもと同じになったとすぐに僕もそのテンションに乗っかろうと思ったのだが、よく考えると乗っかったら乗っかったで僕自身の恥ずかしい話題にシフトしていく訳だから、凄くためらうものがあった。でもしょうがないと苦笑してボードにペンで書き込む。  
ふと、このボードも随分古くなったと思った。
夕日にさらされて赤く輝く白い表面は何度も書いては消し、書いては消ししているのでお世辞にも綺麗とは言えない。しかしこのボードが僕の声の代わりに声になってくれている僕の〝喉〟なのだ。僕の気持ちを人に伝えてくれているものなのだ。
これがなかったら、僕はとても今のように人とコミュニケーションするような事は出来なかったろう。人と意思を疎通し笑いあったりふざけあったり泣きあったり怒ったりも出来なかったろう。僕はこんなにも人といる事を幸せには思わなかったろう。
そしてそのかけがえの無いボードを僕に与えてくれたのは、他でもない僕の隣でさっきまであんな顔をしていたこの木洩日さんなのだ。
何を迷う事がある。
僕はキュッキュッと書いて、彼女に見せる。
『僕、詩織ちゃんに会えて(、、、、、、、、、)、本当に良かったよ(、、、、、、、、)』、と。
―木洩日さん、いや詩織ちゃん(、、、、、)は面食らってそのボードを見た。そして、くしゃりと顔を歪めて、バッ、バッ、っと何かを振り払うかのようにその頭を揺らして震える声で精いっぱい強がって言った。
「―私の質問に全く答えていないのではないかね、帽子谷君?」
僕も泣きそうになりながら、また書いて、見せた。
『告白の前にもう一度、詩好子さんには笑って欲しいと思ってね』
そこでペンが止まり、また書き足す。
『心の底からもう一度』


               ★


家へ帰ると、おばあちゃんが夕飯の支度をしつつ、居間から流れるテレビの音を聴いていた。歌謡曲と最新ポップスのコラボ番組だったと思う。以前僕のおばあちゃんが好きだというので、懐メロが聴きたいならとHDレコーダーに入れておいたものをおばあちゃんはCD代わりにして家事しながらよく流す。
僕に言われなくても自分で勝手に使いこなしているあたり、今時のお年寄りは頭も体も元気だよなあと思わず笑う。
歌に合わせてハミングしているおばあちゃんは、とんとんとんと包丁を鳴らしながら僕に背を向けたまま「おかえり夏彦」と言った。相変わらず鋭い。
僕はこつこつと机に軽く拳を当て、呼ぶ。僕とおばあちゃんの間で自然発生した合図である。 
 振り向いたおばあちゃんはどことなく暗い顔をしていた。僕が『どうしたの?』と書いて見せると、「ちょっとまた黒く(、、)しちゃってねぇ…」と言って舌を出した。それが理由かはどうかは解らなかったから、僕の方も深くは追及しない。今日は何が出て来ても驚かないぞ、と覚悟は決めたが。僕は腕時計を見ながら、今何時か確かめた。午後六時ちょっと前。今日は詩好子さんにもメールを送っておいたので、また一緒に星が見れるはずである。問題は、どうやったら詩好子さんを元気づけられるか、という事だ。僕のすっからかんな頭には、全くといっていい程いい案が浮かんでこない。全くもって駄目な頭の持ち主である。
 そういえば、と僕はおばあちゃんから中学入学のお祝いに貰ってからずっと使っている時計を見る。
デザインが中々凝っていて、太陽と月と星が時間によって出たり入ったりくるくる変わるという一体どこで見つけたのかは解らないがお洒落なものだ。男が付けても女が付けても様になる僕のお気に入りである。しかも後ろには『コングラチレイション・ナツヒコ・フロム・グランドマザー』と英字で彫ってすらある。着けていたくなるのも無理はない、自分は決してババコンでは無いのだと言い聞かせる。
僕はこんなにいい物を選んでくれるくらいセンスがいいおばあちゃんなら、女の人が何を貰ったら嬉しいのかすぐに解るのではないか、訊いてみようと思った。
僕には荷が重すぎる話なのだが、おばあちゃんの様な老獪(・・)な人がその底力を発揮してくれば僕にもマシな選択が出来るかもしれない。しかし、別に付き合っている訳でもない男に何か貰うという事も、逆に相手に負担をかけるような物では無いかと思い、正直気が引けている自分もいた。そこら辺の事も含めて僕は老獪(・・)なおばあちゃんの意見を―
「―誰が『老獪(ろうかい)』だって?えぇ、夏彦よ」
だから僕の周りにはエスパーしかいないの!?勝手に人の思考を読むなよ頼むから!!
僕は頭を抱えて唸ると、からからとおばあちゃんは笑う。
「なんだい、色気づいてきたと思ったら、遂に何かやろうってかい、ええ?」
ふきんで手を拭きながらそのまま僕の方へやってくる。 
僕はもうどうにでもなれと思って、
『好きな人が出来たんだけど、どうしたら喜んでもらえるのか解らない。しかも付き合ってもいないのに物を送っても迷惑じゃないのかも解らない、どうしたらいいのか』
と、思った事をそのまま書いてみた。
おばあちゃんはテレビのついている居間に料理を運んでいる。僕は小食だし、しかも後で詩好子さんとサンドイッチを作って食べるので二人分で一人前位の料理しかないが、僕も一緒に盛られた皿を運ぶ。互いにちゃぶ台に腰を下ろすと、おばあちゃんは「そうだね…」と少し寂しそうに呟くと、「お前がもうそんな歳になっちまった事も驚きだけど、私もそんだけ長くここに居るんだねえ、道理で天井が煤けて見える訳だ」と苦笑する。
僕はご飯茶碗に小もりになったごはんを口に運ぶと、噛みながらボードに書いて見せた。
『煤けているのは元からでしょ?』
「こういう時、食べものの音を立てずに相手と会話できるのはマナー的には楽チンだわね」と以前、おばあちゃんがなんの皮肉でも無くそう言ってきた時には驚いたが、それが素直な感想だと思えるのはおばあちゃんの人徳だろうか。遠まわしな嫌味を言わない真っ直ぐな所は詩好子さんに少し似ている。だから魅かれたのかなとおばあちゃんを見ながら、詩好子さんを脳裏に思い浮かべる。「どういう意味よ!?」と怒られた。ごめんなさい。
「―まぁ確かに、何とも思ってない男友達に物送られたら重いって思うかもしれないけどねぇ…でも夏彦、その娘は天気のいい時には毎回会って話をするんだろ?」
僕はコクリと素直に頷く。大体週に三~四回は会えているとは思う。
もうすぐ夏休みだから、出会って一か月くらいか。会うのはあそこだけでだけど、僕の方はそれで十分満足だった。
しかし、一か月と言うのは告白云々の前に確かにペースとしては色々早いような気もする。
僕が(時期尚早かな)、と思い何かすることはやめにして、もう少し様子を見てからの方がいいかなと思っていると、おばあちゃんは静かに、
「夏彦」
と呼びかけた。僕が俯かせていた顔を上げるとおばあちゃんは、
「女はね、好きでもない相手と一緒にそう何度も綺麗な景色を見ていたいとは思わないよ」
からかうように言ってくるのは木洩日さんとも似ているよなぁと思いながら僕は『そうかな?』と書いた。
「女が、しかも暗くて誰も来ないような所で、そんなにあっけらかんと普通に色々な話をするなんて、普通はありえないさ。恋愛感情までいっちまってるって言うのはちょっと先走りしすぎかもしれないけどね、『一緒にいても安心な良い奴』くらいには絶対思われてるよ。第一、泣き顔を見せてもまた会おうと思ってるなんて、結構自信持ってもいいんじゃないかい?やるじゃないか」
僕はそんなものだろうかと思ったが、確かに詩好子さんは僕と一緒にいる時には楽しそうにしてくれているし、それに時折どきっとするくらい無防備な所もある。
詩好子さん自身は気付いていないかもしれないが、そのあのええと僕だってオトコなわけで、そういう風に笑ったり見つめられたりすると、ちょっと自制心的な面で困る事もあるというか…。まあただの天然という事かもしれないけれど。「言ってくれるじゃないよあんたァア!!」ごめんなさいッ!
僕が脳内詩好子さんに説教されてうんうん唸っていると、おばあちゃんは僕に向かって、こう言った。
「その娘も、アンタと同じで星が好きなんだろ?」
僕がばっとおばあちゃんを見て、コクコク頷く。
「だったら、こういうのはどうだい?」
そう言ったおばあちゃんの顔は、やっぱり老獪のそれで間違いなかった。
僕はその提案を飲むことにし、さっそく明日準備する事にした。
焦げた鰤(ぶり)も軽くスルーする事にした。


                 ☆


次の日。
僕は少し遠くにあるショッピングセンターに足運んで例のものを買いこみ、早速家に帰って作り始めた。おばあちゃんが「お前は昔からそういうモノが得意だったね」と苦笑するのを横目に、僕はそれを丁寧にまとめてラッピングし、その完成品のチェックをしてからふうっと息を吐いて造り上げた達成感で胸を溢れさせた。
僕はおばあちゃんの姿がいつの間にか見えない事に気付き、和式の畳の部屋に行った。すると、おばあちゃんは仏壇の前に座って鐘をちーんと鳴らしていた。
おじいちゃんの写真は飾られておらず、ただそこには誰かの戒名が書かれた位牌が置いてあるだけ。お祖母ちゃん曰く「見てると辛くなるから」と言っていたから、よほどおじいちゃんの事が好きだったんだろうな、と勝手に推測する。おばあちゃんは仏壇の前の座布団に座りながら静かに手を合わせた。僕の事にも気づかないくらい集中していて、何か大切な事を考えているのが解る。そうか。もうすぐ命日か。しばらく放っておいてあげようと静かにドアを閉める。
静かに故人を悼んでいる人間に気の利いた事を言える程、僕は賢くない。
昔を懐かしむ事も出来ず、昔に魅かれもしない僕には、尚更。
その出来上がったものを持って僕は出かける準備をしていたのだけど、僕は少し違和感を感じる。なにがどう違うかはよく解らなかったが。
日が暮れ始めていた。僕はそうっと台所に立ち、いつもの様にサンドイッチをバスケットへぎゅうぎゅうと詰めて入れる。今日は暑いが、あの山の丘は結構涼しい。薄手の夏用パーカーをTシャツの上から羽織り、僕は作ったものが壊れないように丁寧に自転車の籠の中入れてまたがっていつもの山に向かう。相変わらず駐車場には赤い自転車(赤い彗星)がドカンと真ん中に鎮座していて、僕はそれを横にそっとずらし、脇に置いてからその隣に自分の自転車を置いた。
山の方は日が長くなったせいかまだ明るいまま世界を照らしている。
山を登っていると、いつもの道がなんだか違う風景に見えて来る。何故だろうと思って考えていると、僕自身が凄く緊張しているという理由に思い至った。僕が女性に物を送るのはこれが初めてなのだという事も手伝っているのだろう。―もちろん、木洩日さんはカウントにいれてません。少し足早に彼女が待つ丘を目指した。
そんな中でも僕は気になる異性に対しこんなものをどうやって渡していいか解らず、実行するのは止めてまだいつもの友達関係のままでいた方がいいかもしれない、傷つくよりもそっちの方が楽かもしれないとぐるぐる何度も考えた。でも、それは違う気もした。
自分で自分を裏切っちゃいけない時というものが、人生の節々では必ず起こるのだろう。そんな時に、逃げ出してしまってばかりいたらその場は良くてもきっと後で後悔する。後悔は悪い事じゃない。でも後悔をしないように行動した方が大事なのではないかとも思うから。
僕は更に早足になって緊張を隠しきれずに黙々と歩き、そして、いつも通りに着いた。
詩好子さんにメールを送り、着いたことを報告する。
…しかし一向に返事がこない。
おかしい。いつもは即レスしてくるのが普通だから、十分、二十分待っても返信が来ないのはどうしたのかと感じるのはせっかちだからでは無いと思いたい。
三十分たっても来なかったので、僕はもう一度送ってみる。ちょっと心配になった。何かあったのだろうか。
僕がカチカチとすっかり暗くなった周りで唯一の光源を主張するケータイにメールを打ち、送信する。また十分待った。来ない。諦めて帰ろうかなと思っていた所で、ようやく返信がきた。
―『死にたい』、と、一言だけ。

僕は夢中で山の階段を駆け降り、自転車置き場に残されている赤いママチャリを見た。隣にあって捨てられていたおんぼろ自転車が何か強い力でぶん投げられたかのように遠くに転がっている。嫌な予感が頭の中で最大級のアラームを鳴らす。僕はケータイに登録された詩好子さんの住所の所まで、大急ぎで自転車で風を切って漕ぐ。僕は周りの景色をびゅんびゅんすっ飛ばしながら息が切れる限界までペダルを漕ぎ、足が悲鳴を上げても構わずに走り続けた。
着いたとき、もうそこは午後九時過ぎ。荒く息を吐き、そして吸って心臓を落ちつかせる。
大きな家だった。豪邸というほどではないけれど、それでも十分に大きく、クリーム色を基調としつつも赤や黒を所々要所要所に使い全体を締めている。流石服飾店経営、センスがいい。その前には立派な門があり、奥の庭には綺麗に刈り取られ整地された芝が風でそよりと揺れる。
僕は思いっきりインターホンを押そうとして、声が出せない僕には無意味だと気付き、近所迷惑だと思いつつもガンガンとその門扉を叩く。暗かったいくつかの部屋の窓に明かりがつくのが見える。
奥にある玄関から一人の初老の男性が出て来て、僕を見つけるとそのまま早足でこちらへと向かってくる。
「―申し訳ありませんが、どちら様でしょうか。呼びかけならばそこのインターフォンをお使い下さい。あまり音をお立てになると周りの皆さまのご迷惑になりますので」
僕は申し訳ないと思い、素直に頭を下げた。顔を上げ、ジェスチャーで喉を押さえてから両手でバツをつくると、相手の男性もすぐに申し訳なさそうでいてそして同情する視線を僕に向けてきた。慣れてはいるけどやっぱりあまり気持ちのいいものではない。
「大変申し訳ありませんでした。それで、どのようなご用件でしょうか?」
僕がメールを打ち始めた理由もすぐにわかってくれた様だし、門の向こう側にあるらしいボタンを押して僕のちょうど真上にあった電灯を点けてくれるなど、機転が利いて気配り出来る人だなとこんな時だというのに感心する。 
僕は急いでさっき見たメールの内容と僕が彼女の友人であることを伝えると、さあっと顔を青ざめて、「どうぞこちらへ」と門を開けてくれ、一緒に走って玄関に入り、階段を一気に駆け上がって詩好子さんの部屋の前まで来た。
始めて家に入るのがこういう理由なんて最悪すぎるぞ神様!!と思わずじわりと涙が出て来る。
僕は詩好子さんの部屋の前まで来ると、こんこんと軽めにノックした。中からもぞりと衣擦れの音がする。小さく「誰……?」との声も聞こえた。
僕が話せない事がこんなに悔しいと思った事は無い。
この薄い木の扉の向こうに、詩好子さんがいる。それは唯の扉で、壊そうと思えばハンマーでも持ってくれば簡単に突入できる事だろう。でもこの扉は僕と詩好子さんの間に流れる川なのだ。こんなに薄い板一枚に、僕たちは互いを知る事も出来ずに立ち尽くすしか出来ない。僕からは呼びかけられない。詩好子さんからは呼びかけない。ずっと、ずっとずっとずっと、目には見えない遠い距離がここにはある。どうしても越えられないそんな壁が。
その様子を隣で案内してくれた初老のおじいさんは、「帽子谷さまが来てくださいました、お嬢様」と言ってくれた。
僕はこの人が今流行の執事と言う奴なのかと場違いにも思った。執事服は着ていないけど、確かにその態度はまるで紳士のようなオーラを纏っている。僕の前に本物の執事がいる、不思議な感じだった。
「何で来た、このお節介。早く帰れよ」
氷の様に冷たい声音だった。誰の心にも棘を埋めるような、痛く、憎たらしい棘。
でも、何で、なんでそんなに、
「早く…帰れよ………」
泣きそうな声、してんだよ。
なんでそんな苦しそうに君はしてんだよ!
「メールの事?あんなの只の言葉のあやよ。何本気にしてんの、いい人ぶるのもいい加減にしなさいよ、あんたアタシの何なのよ、…うざい。うざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいうざいんだよクソ虫ィッ!!!!!!いいから帰れ、この声なし(、、、)野郎!!」
「詩好子さまッ!!!」
「黙ってろ佐久間(さくま)!お前なんかに話してない!!いいから帰れとっとと帰れ!!―二度と私に顔を、見せんなッ!!」

僕は呆然として扉から離れる。何だか足元がふわふわする。頭がぼんやりする。僕はなんだか変になってしまった。僕が僕自身を強く馬鹿にする声が聞こえてくる。笑っているように感じる。佐久間と呼ばれた人の声が遠くから反響している。
「帽子谷さま、大変申し訳ありませんでした!どうぞこちらへ!少しお休みなさってください肩をお貸しします!どうかしっかりしてください!!」何だい何だい僕は今そんなに情けない状態になっているのかい。ははは笑える笑える笑えるよなあホント笑える。「帽子谷、さま……」
―ホントに笑えるよ。涙が止まらないんだから。


                 ☆


僕の前には湯気の立っている紅茶が僕の顔を歪んで映す。
湯気は僕の顔に当たり、視界を遮られて何をするでも無くただぼんやりそれを見つめる。
僕の正面には先程の初老の男性が沈痛な面持ちで僕の前のソファーに座っている。
そして僕の事を気遣いながら、ゆっくりと僕に話しかける。
僕は視線をカップからようやく離し、その人に移しながら、話を聴かせてほしいという事を態度で示す。男性は「自己紹介が遅れました」と言って僕を見て、
「わたくし、この天河家でお世話になっております管理人の佐久間と申します。この家の使用人と考えて頂いて結構です」
と言って僕に微笑んだ。六十代を少し越したあたりだとは思うが、若々しく伸びたその背筋を見ると、五十代前半といっても充分通用する、礼儀正しい本物の執事の様に感じられた。
僕はしばらくじっとしていたが、佐久間さんが僕の前にペンとコピー用紙を束で持ってきてくれたのでお言葉に甘えてそれを使って尋ねた。
『―一体、詩好子さんに何があったんですか?』
数秒、佐久間さんは険しい顔を作り、そして僕の方を見て、こう言った。
「…帽子谷様は、詩好子様と詩好子様のお父様、つまりこの家の主の天(あま)河(かわ)優(ゆう)星(せい)様についての御関係はご存知でしょうか?」
『はい』
「―…そうですか…、詩好子様にも、ようやくそんな話が出来るご友人が出来たのですね……喜ばしい事です、本当に……」
感慨深げに微笑むその瞳にはじわりと涙が浮かんでいた。
詩好子さんがどれだけこの人に愛されているのかを肌で感じた僕は、同時に彼女が今まで辛い事をずっと一人で抱え込んできたということを、如実に物語っていた。
僕は続きを促した。佐久間さんはぐっと親指と一指し指で目頭をぬぐうと、すっと背筋を伸ばし再び話し始める。
「瓜二つなのです本当に。詩好子さまと、お母様の―尊(みこと)さまは。生まれ変わりではないかと私ですら、思ってしまうほどに」
少し間があって「まあ性格は全くの正反対ですが」と苦笑した。僕はその言葉に少し癒される。きっとおっとりした優しい人だったのだろう。
「ちょうど今くらいの歳だったらしいのです」佐久間さんは悲しげにそう呟いた。
「お二人が、出会われたのは」
 

                ★


何処にでもある、普通の恋だった。
何処にでもいる高校生の男は父親と二人暮らし。
祖父母、母は彼が幼い頃既にこの世から去っており、残された二人の男は慣れない家事をしつつ喧嘩もしつつ、しかしたった二人の家族として力を合わせて生きていた。

何処にでもいる高校生の女は父と祖母と三人暮らし。
大人しく温厚な性格とその容姿から男性たちの注目の的だったが、そのせいもあってか同級生の女子グループから眼を付けられいじめの対象になっていた。
ある時彼女は学校からの帰り道、嫌がらせをうけて泣いた赤い眼をごまかすため、一人になれる場所を探していた。ふと見上げれば奈々津荷山が自分を見下ろしている。
何の気なしに登ってみて、久しぶりに味わう木々の香りに包まれ、少女は幸せになった。
そんな時偶然、彼女は正規の道では無い獣道が階段の横に続いているのを見つける。
興味半分で入ってみる。元来好奇心は強い方だった。
彼女は、そこがまるで天然のプラネタリウムになっているような星空を見つける。
辺りは静寂に包まれている。
こんな素晴らしい場所があったなんて、来てみて良かったと思った。
そこでかさりと、後ろで音がした。彼女は振り向いた。
一人の学生服を着た他校の男子が立っている。手にはビニール袋に入ったコンビニの弁当。
家計を助けるため、少年は学校が終わってからはずっとバイトの毎日。
そのせいか学生気分が抜けてしまった少年は、同級生とあまり上手く馴染めていなかった。
少年は天体望遠鏡を持つくらい星が好きな父の影響で星が好きだった。
彼の秘密の休憩場所。それが此処だった。
二人は、こうして出会った。
それから六年後。大学を卒業した彼は父の小さな服屋を継いだ。
星空が満開の花たちの様に輝き、空には天の川がかかり美しすぎる景色とこの世で一番好きな女性の前で彼はこう言う。両親の反対の中、二人は誓い合う。
「いつまでも、僕の傍の輝く星でいてくれ」
二人は夫婦になった。反対していた両親もその時から祝福の言葉を並べ始めていた。
彼は店を彼女の名に変え、念願だった子宝にも恵まれた。
詩を愛する女性のように優しく育ってほしい。そう思って彼女は我が子に名前を付けた。
男は幸せだった。
三年後、あっけなく女は死んだ。
男の人生が仕事だけになった瞬間だった。


「当時私はこの町で職を探していました。しかし四十を超えた男に就職口などあるわけ無く、ほぼホームレスのような状態でしてた。そんな所を救っていただいたのが優星さまだったのです、まだ小さな服屋、しかもご結婚したばかりという状態で私などのために職を与えてくださいました。先代の流蔵(りゅうぞう)様も身内同然のように接してくださいましたし、人生のどん底にいた私の今があるのは流蔵さま、優星さま、そして尊さま、そして詩好子お嬢様のおかげだと断言できます。ですから、この話を聞いたのはおそらく私一人でしょう。もう他の人には絶対言わないと誓ったと仰っていましたから」
僕は俯いて何も言えなくなっていた。
優星さんの気持ちは痛いほど解る。大好きな人がいなくなってしまう事の辛さ、怖さは失ってみないと解らない。失ってはじめて、解ることだからだ。上手く息が吸えなくなってしまうような痛み、苦しさ。愛しいものは空気だ。普通に息している時は気付けない。いなくなって、苦しくなってはじめて、ああ幸せだったんだって気付くんだ。こうやって声も出せなくなってしまった、僕の様に。
優星さんの気持ちはいかほどのものだったのだろう。
一番愛していた人が一番愛さなくてはいけない人の顔になってしまったら。
僕だったら耐えられるだろうか。
一番優しくしたい相手に優しく出来ない辛さを。
自分に何の理由も無く疎まれてしまう詩好子さんの気持ちは、どれほどのものか。
―互いに大切にしたいと願っているはずの二人の辛さは、そうやってずっとすれ違ってきたのか。
詩好子さんのから聴いた話だけでは分からなかった。こうやって、父である優星さんの気持ちを知ってしまった後では、なんとも救いが無い話なのだとしか言えない。
そんな事を思うこと自体が傲慢だと分かっているのに。分かっているはずなのに。
そんな僕を優しく佐久間さんが見つめていた。
「お嬢様もいい方とご友人になられた……あなたが詩好子様のお友達、いえ…それ以上なのかもしれませんが…わたくしは本当に詩好子様の相手があなたで良かったと、心の底から思います」
僕は少し涙で濡れた頬をぐいっとぬぐうと、素早く『じゃあ、今の詩好子さんのあの状態の理由はなんなのでしょうか』と書いた。字が震えてしまって汚かった。
「―会ってしまったのですらしいのですよその場所で。そこでおそらくあなたをお待ちしていた、詩好子様と」
ペンが、落ちた。
その場所って。つまり。じゃあ。僕達のいた所は。やっぱり。あそこに壊れた自転車が吹っ飛んでいたのも。
「明日は七月七日です。お二人の…ご結婚なされた日なのですよ。明日の事もあって、久しぶりに行って来られたのでしょう。雨が降るかもしれないと仰っておりましたから、その前にという事で…結果、その思い出の場所に、詩好子様がいらっしゃった。後は、想像するしかないのですが、おそらく……」最悪、だ。
先輩たちと調べた『天使がいる丘』はやはり近藤さんの言ったとおり、僕達が会って星を観ていたあそこだったのだ。そして近藤さんが聴いた証言もおそらく優星さんのもの。
想像した。思い出の場所。無くした最愛の人の事を思い返しながら歩いていく。二人だけの秘密の場所。自分たちだけの汚れない特別な場所。そこにいる詩好子さん。自分の最愛の人と瓜二つの顔を持つ自分の娘。愛した人では無いが愛した顔を持つ少女。それが星を観ている。誰かを、いや、僕を、待ちながら。
何を優星さんは思ったろう。「尊!」とでも叫んだのだろうか。泣いたのだろうか。そして詩好子さんはどう思っただろう。「何でここにアンタが来るのよ!」とでも叫んだのだろうか。―叫んでしまったのだろうか。
想像するのはここまでにした。いや、ここまでにしておきたかった。これ以上考えるのが、それからどうなってしまったを考えるのが、痛かった。まるで、自分が小汚くなってしまったようにすら感じてしまうほど、それは心がぐしゃぐしゃになる光景だった。もう抑える事すら出来ない震えと共に曲がった文字で、僕は尋ねる。
『二人はどうやって帰ったんでしょうか…、車か何かで一緒に……』
 せめて最後の一線だけは超えないでいてほしい。せめて、車に同乗するくらいには壊れずに。そう願っていた僕の気持ちは神様には全く伝わらない。
「―…いえ、お互いにお一人でお帰りになられました。優星さまは先程から自室でずっとお酒をお飲みになられております…今はお休みになられているようですが……随分と荒れていらっしゃいました……一言だけ、『詩好子には構うな。放っておけ』、と言い残して……」
『詩好子さんは……』
「手に擦り傷がいくつか……何かを固いものを投げつけたかのような感じでした……ひびなどは入っておられないようでしたので安心しましたが…歩いてお帰りになったようです。大好きな〝赤い彗星〟を何処かに置いて来られるとは余程の事があったのではと、心配しておりましたが…」
『そうですか』
そう書く手が震える。何処にもぶつけられない怒りというものはどうすればいいのか。誰も悪くない事に一体第三者が、何を言えるのか。
 僕はもう一度だけ詩好子さんの部屋の前まで行かせてもらいドアの下に、手紙を書いて滑らせる。これが駄目ならもう駄目だ。チャンスはもうこれきりだ。
僕はもう君の事なんかまったく信じていないよ。でも、あの病院の窓から見た景色が僕を救ってくれたように、今の詩好子さんを少しでも元気に出来るのなら。

―僕は何度だって君に、頭を下げ続けるよ。

 天使(きみ)がいる丘なら、もう一度僕に信じさせてくれよ。もう一度彼女を、笑わせてくれよ。
 僕に力を、貸してくれよ。
 
詩好子さんにあげるためだった〝プレゼント〟を持ち、僕は天河家を出た。
 佐久間さんが黙って深く腰を折る。
 僕も黙って頭を下げながら、自転車に乗る。空を見る。
 星はその姿を隠しもせずに見せている。

第四話   天使がいた丘

家に帰るとおばあちゃんは何故か妙にハイテンションに僕を迎えてくれた。おそらく僕がまだ見ぬ彼女といい感じになったと喜んでいたのだろう。しかしすぐに僕の顔を見るとどうなったかを察し一瞬その顔を曇らせる。でも変わらずおばあちゃんは僕に「なんか美味いもんでも作ってやろうかね」とそのカラ元気のようなテンションのまま僕をちゃぶ台に座らせ、気付けば僕の好物がこれでもかこれでもかと並べられていく。
あのさ、満漢全席じゃないのこれ。
突然のごちそうにいきなり僕は王様か何かになった気分だった。
途中でやけになったのではないかと思われる程のその贅沢っぷりに、僕は思わず首を傾げる。何か此処までするものがあっただろうかと。
はたと気付く。―そうか。
 明日はおばあちゃんの、結婚記念日じゃないか。
 さっきの事で頭がいっぱいな僕はそんな事にすら考えが及んでいなかった。
僕は恥ずかしくなって反省する。きっとおばあちゃんのハイテンションはそこから来ていたのだ。
この料理は、儀式だ。一番大切な人を思い出す悲しみを埋めるための、儀式。
僕はおばあちゃんの顔を見れず、おばあちゃんがちゃぶ台の向かいに座るのを待って、一緒にご飯を食べ始める。
終始おばあちゃんは上機嫌で、それがどういう気持ちからであるのか解っているというのに、駄目だと分かっているというのに、静かに、だが確実にだんだん腹へと怒りが溜まっていく。今はそんな気分では無いのにわざわざ僕の小さかったころの事を話し出したり、今までの笑える思い出話で一人で笑ったり。―おじいちゃんを懐かしむような、話をしたり。
おばあちゃんと全くと言っていい程交流の無かった、しかもおじいちゃんの顔さえ知らない少年時代。
そんな僕が、おばあちゃんで変った、変われた。僕は自由に生きていく事の意味を知ったし、障害はその人を潰してしまうだけじゃない事も、それが自分に新しい生き方を与えてくれるものだと教えてくれたのも、おばあちゃんだった。
でも、今はそんなおばあちゃんの話を聴いていたい気分じゃなかった。
ほとんどのご飯を食べずに、僕はボードに『ごちそうさま』と書いて立ち上がり、使った食器を洗い場へ持っていこうとする。呼び止められた。
「―夏彦」
僕は、静かに、しかしはっきりと拒絶の視線でおばあちゃんを見る。おばあちゃんの横には僕が今日送るはずだったプレゼントが英字新聞調のラッピングに包まれたまま置かれてた。鋭いおばあちゃんが何があったか解らないなんて事は絶対ない。僕が知る限りエスパーと断定していい木洩日さんと、同レベルの勘の持ち主なのだから。
放っておくという事を、珍しくおばあちゃんはしなかった。
ゆっくりと一言だけ言う。
「諦めんじゃないよ」
僕はぐっと唇を噛む。今日は涙腺が緩いらしい。どうやらしっかり結んでおかないと駄目のようだ。 
「強く抱きしめて、離すんじゃない。好きならとことん追いかけな。解ったか夏彦。―頑張りな」
駆け足で僕は自室への階段を駆けあがる。
ばたん!と強く部屋のドアを閉めて、そのままずるずるともたれ落ちていく。涙腺の許容度はとっくの昔に超えていた。
エスパーは嫌いだ。
お節介で優しくて大好きなエスパーは、特に。


                 ★


翌日。
僕はいつもと同じように登校していた。
僕の二つ後ろの席の木洩日さんが僕に軽く手を振っていた。僕はぎこちなくも手を振りかえす。席に座る時、胸を針で刺されたような痛みが襲った。が、無理矢理それを抑え込んで前を向く。木洩日さんは笑っていた。
今にも泣き出しそうな顔をして。
 
チャイムが鳴って、授業が始まる。僕に指名が下る。僕はボードで答える。心なしかボードが叫んでいるように存在が薄くなって見える。
僕はその日何と書いたのか、全く思い出せなかった。


放課後、僕と木洩日さんは部室へと一緒に向かう。
木洩日さんはいつもと変わらない陽気さではしゃいでいるように見える。でも無理をしているのが僕には丸わかりだった。そして僕はそれに気付かぬふりしていつもの様に怒った演技でボードで叩こうとする。木洩日さんは相も変わらずいつものエスパーぶりで華麗にそれを避ける。そんな超能力者に、今の心は絶対読まれてほしくなかった。僕がボードを下ろすと、木洩日さんは静かに微笑んで「行こう」と言って先に廊下を歩いていく。
僕の歩幅より随分短いはずなのに僕は彼女に一向に追い付くことが出来ない。僕は黙ってその背中を見ている。だが自分からその距離を縮めようとは思えなかった。


部室に着くと、そこには先輩と写楽さんが既に来ていて、顔を合わせて俯いていたが僕達が来ると同時にぱっと離れ笑顔を向ける。
先輩は何やら今まで泣き腫らしていたような目をしていたが、僕達に笑いかけると大きな声で「じゃあ次の丘の調査を始めるための検討会を行うぞ!!」と叫んだ。隣の写楽さんも小さな声で「おー!」と腕を上げて笑っている。写楽さんが先輩のノリについていく所なんて初めて見た僕が驚きを隠せずにいると、写楽さんも悪戯っぽく笑って僕を見る。 
小さく「今日だけは同志ですから」と、彼女が呟いたような気がした。
意味が解らない僕が後ろの木洩日さんに振り向くと、彼女は少し頬を緩めてテンションの高めな二人を見ていた。
その微笑みに更に僕は首を傾げたのだった。

検討会で、僕はその日いくつもの候補の丘を上げた。
だけど、本当の天使の丘の事は絶対に上げなかった。

木洩日さんはただ笑って、それを見ていた。



 チャイムが鳴り響き、僕たちは部室を出た。
 木洩日さんと校門を出て、僕は木洩日さんにボードで書いて訊いた。
『気付いたんでしょ。―僕が、本当の丘の事を知ってるって』
 少し間が空いて、木洩日さんは「うん」と言って僕を見る。「とっくの昔から」
僕は続けてこう書く。
『何で、黙ってたの?』
 木洩日さんはぷっと笑っておかしそうに身体を揺らして言った。
「ただでさえ辛いのに、更に傷口に塩を塗り込むような真似、出来る訳ないじゃない」
 それが何の事を指しているのかは解らなかった。ただ、僕には解らない、部の中で彼女たちだけの約束事みたいなものがあったらしいのは、おぼろげながらも解る。
 「その丘で、その娘と会ってたんだ?」 
木洩日さんはそう言って、静かに僕を見つめる。
僕はもうこの人に隠し事はしたくなかった。だから、正直に書いた。
『うん、天気のいい日限定だけどね』
木洩日さんはくすっとして、
 「十分すぎるさ。私もその方が良かったし」
意味深に笑って僕をつっついた。その意味が解ったから顔が熱くなる。今更だけれど可愛いな、と思う。今更そんな事に気付く僕にはふさわしくないな、とも。
『木洩日さん』
書いていた僕の手をそっと握って、彼女は僕の書く動作を止めた。木洩日さんが僕に近づく。
「―名前で呼んで」
…―え?
「もう一回、最後に、私を名前で呼んでくれない?」
木洩日さんに夕日が当たる。その瞳が鈍く輝く。僕はそれに吸い込まれそうな錯覚に襲われ、ごくりと喉を鳴らす。鼓動が速くなる。
「駄目、かな…」
僕は、ゆっくりとボードに文字を書いた。大きく、大きく、大きく、画面、一杯に使って。たった二文字を、ゆっくりと書いて、見せる。

『詩織』、と。

唇が温かい。
そう、思った瞬間、僕のまつ毛には木洩日さんの長めのまつ毛が乗っていた。
木洩日さんの白い肌が僕にくっつき、汗ばんだ肌と僕の肌が吸いあう。
眼を閉じて伏せられたまつ毛には雫が乗っている。僕の胸に制服の上からでも解る柔らかな二つの膨らみが押し付けられ、そこから伝わってくる鼓動の速さすら感じられる。
僕の中で何かが弾けた。そう思った瞬間には木洩日さんは僕から離れていた。
「最後だったからね。つい、調子に乗っちゃったよ」
べっと舌を出して僕にあっけんべーをする木洩日さん。
僕の胸は熱くなりすぎて倒れるんじゃないかと思うほどなのに、それと同じくらい冷めている自分もいた。自分自身を最低だと声を響かせ叫んでいた。  
「さよなら『夏彦(なつひこ)』君」
そう言って、彼女は走って行く。
遠くなっていく。どんどんどんどん。もう会えなくなるように感じる程。
僕はただそこに、立ち尽くした。
夜が、始まろうとしていた。


             ★


 夜七時。僕は自室でじっとしてベットの上でケータイを見つめていた。
 不思議なものだ、と思った。
 こんな小さな機械の中に、僕たちは言葉を言い、書き、そして相手と繋がる。
 それは僕達の中で既に当たり前のものとして、ごく普通に受け入れられているけれど、以前にはそんな事は空想の産物ですらなかった。出来っこない、不可能だとすら思われていた。
遠くにいる人と人が気持ちを伝え合う方法は、ずっと前には手紙くらいしかなかった。それがどういう事か、今ではこうしてほんの数秒もあれば相手に気持ちを送る事が出来る世の中になってしまった。なんという〝進歩〟だろうか。
 でも、そんな二十一世紀に生きる僕がこうやって、ただ身じろぎもせずに想いを伝えたい相手からの返事をじっと待っているなんて、なんとも滑稽な話ではないか。
結局、想いを「送る」速度は進歩しても「届く」速度は人間がこの世に生まれてから全く変わってなんかいやしないのだ。
いつだって人は誰かに何か想いを伝えたいと思ってあくせくあがくけれど、いつだってそれがちゃんと相手の心に届くかどうかは解らないのだ。
一瞬で伝わる時もあれば何十年たってようやく届く事だってあるだろうし、それは心が通じ合っていようといまいときっとずっと変わらない事なんだと思う。
そんな僕達に出来る事と言えば、ただ伝える努力を諦めない、という事だけではないだろうか。
いつかは届くと信じて、その気持ちを忘れずにいる事ではないか。
僕は隣に置いてあるプレゼントを見る。信じよう。ただ、信じよう。
僕の気持ちが詩好子さんに『届く』ことを。
心の距離を縮める魔法なんて、僕達はきっとずっと、持てはしないのだから。
だから。

ぶるるるる、とケータイが震える。

飛びついて。開けて。見る。『メールが来ています』。『天河詩好子』。急いで読む。
『もう着いたんだけど。早く来なさいよ。あんたの家(、、、、、)、遠いのよ全く(・・・・・・)』
僕は階段を転げ落ちん勢いで降りた。
おばあちゃんが下で手招きして笑っている。僕も笑う。
いつだって、人は信じる事で生きている。
心や距離が遠い相手に届くと信じて生きている。
例えどんな小さな波紋でも、いつか伝わると信じて生きている。
僕は今、生きている。


おばあちゃんは詩好子さんに会って目を潤ませた。僕はそこまで信用が無いのかなあと笑っておばあちゃんを見る。おばあちゃんはこほんとバツが悪そうにワザとらしい咳でそれをごまかし、
「―可愛い子じゃないか夏彦。それに安心したよ。アンタが好きになったのがこの娘でさ。―ずっと待ってたんだよ?全くアンタが手紙で『僕にもう一回だけあの丘で会ってくれないか、絶対渡したいものがあるんだ』―なーんてまるで最後の別れみたいな事書いたりするから」
「うええッ!?あ、あのッ、私は別に心配なんてしてませッ…って!それに何でその事を知ってるんですかッ!?アレ誰にも見せてないはずなんですけど!ちゃんと大事に机の奥にしまって!って…ってあッ…す、すいませんッ…ただ、私は昨日は夏彦君にかなり失礼な事をしてしまったので、そのお詫びにと思って自宅まで来させていただいただけなんです、いえあの確かに夏彦君はお世話になってますし、私もその、た、楽しい時間を過ごさせてもらっていますから心配していないなんて事は無くは無いんですけど、そう言う事でも無くもないというかそうでは無くええとああ違う、ええといえでも、なんというかその、あの、えう、あい、あの、どの、この、その、とのあの………えう、えうう………」
僕では無く、僕の家族には流石の詩好子さんでも強くは出れないのか。
否定したい。けれど本人の前でははっきりとは言えない。それに、友達の家族に出来るだけ失礼はしたくない。そんな動揺がはっきりと見てわかる。
しどろもどろという状況を描けと言われて今の詩好子さんを描けば、僕なら満点をつけてあげるだろう。本当に可愛い人だなあこの人は。
「『可愛いな』だってさ。良かったねぇ、詩好子ちゃん❤」
あ、あとおばあちゃんの事は諦めた方がいいよ。その人、モノホンのエスパーだから。 

そう思いつつ、真っ赤になって更に何を言っているのか解らなくなっている詩好子さんと、何か含みのある笑顔でそんな僕と詩好子さんを見るおばあちゃんを、少し生温い視線で見たのだった。


                ☆

 
「びっくりしたわよ、私の考えてる事みんなばれるんだもん、驚かない方が無理ってもんよね、それにしてもかっこいいおばあちゃんねー、すらっとして背筋も伸びてて、素敵だったー、何か気が合いそうだったし。アンタもいい人と暮らしてんのね、何となくアンタがそうなったのも解る気がする」
詩好子さんが上機嫌で僕の横で自転車を走らせる。僕は自転車を漕ぎながらだと相手に意思疎通する事が出来ないのでただ黙って肯定の首振りをするだけだった。
それにしても、ちょっとこれは恥ずかしい。
今僕達は奈々津荷山へ二人並んでゆっくり自転車を漕いで向かっている途中だ。僕の隣には奈々津荷山に置かれっぱなしだった詩好子さんの『赤い彗星』がライトを点けながら走っているのだが、その真ん中に赤LEDが埋め込まれており、シャアザ○の目の部分(?)の様に明かりの中で赤い光点が中心で輝いている。
一緒に走っていて少し、いや、かなり恥ずかしい。ガンダムが好きな人なら嬉しいかもしれないけれど、僕は殆ど見た事が無いので困った。どうやら詩好子さんは先に奈々津荷山によってここまで来たらしい。僕の住所は結構解りにくく、町の中でも存在自体がおぼろげな所なので、着くのが大変だったと詩好子さんは言った。そして着いた後もずっと僕にメールを送るかどうかで悩み、ずっと外で、待っていてくれたらしかった。おばあちゃんは僕達が出て行くとき、大きく手を振ってくれた。さよなら、と言ったあと、僕に「ずっと大事にするんだよ」と耳打ちして僕の顔を真っ赤させたのは永遠に忘れない。覚えてろよおばあちゃん。
僕達はそんな風に一方的に詩好子さんが話し、僕が相づちをうつといういつもの会話で自然さを装って走っていたが、少し詩好子さんが黙ったと思ったら僕をチラリと見て、小さくこう言った。
「―本当に、ごめんね」
すぐにその意味が解ったから、僕は曖昧に笑ってごまかした。
確かに、僕にとって辛い事を沢山言われたけど、こうしてまた僕に会ってくれただけで嬉しかったし、それより詩好子さんがどれ程の勇気を振り絞ってここまで来てくれたのかも、ちゃんと解っていたから。
何でも無いように話す声がさっきからずっと震えていることは、いかに鈍い僕でも気付いていたし。
僕は黙って前を向いた。ピースサインを詩好子さんに向けながら。
ちょっと吹き出して、しばらく詩好子さんは目じりの雫をぬぐう。
「やっぱりアンタって―」変な奴、と来るかと思っていた僕にこう言った。
「凄い奴よね」
そう言って前を向く詩好子さんの横顔は、今まで見た中で一番綺麗だった。


奈々津荷山に来てみると、空には星がもう瞬いていた。ゆらゆらと浮かぶ雲に、星が邪魔だ邪魔だと叫んでいるかのように輝いている。空気は澄み、僕たちは懐中電灯であたりを照らしながら前へと進んだ。僕はいつもの獣道に入り、詩好子さんは後ろからついてくる。僕が片手に電灯、片手にラッピングされたプレゼントを持っているのを見て、詩好子さんが「それが手紙で言ってた渡したいものってやつ?」と訊いてきた。
僕が振り返ってにこりと笑いながら頷く。
「アンタ女の子に送って喜ばれる物なんか買えたの?」
からかうように言ってきた。
うん、自信は正直全くないよ。
とりあえず曖昧に手を振って僕はごまかした。
懐中電灯の光は突然伸び、広い空間、いつもの丘に着く。
僕達は今日バスケットとシートを持ってこなかったので、そのまま下の草にどさっと倒れた。
空を見上げて、二人で声を無くす。(元々僕はでないのだけれど)

そこには先程までの雲など何処にも無く、ただ一面の星空とその中でも特に輝く二つの星、アルタイル、ベガがその存在を主張していて、その間には星屑が帯の様に広がっていた。
僕達はその光景に何かを感じていた。
僕は声が出なくなってこの空に願いを託した六年前の今日の日の事を。
詩好子さんはきっと、昨日の辛い体験の事を。
僕達は横で寝っ転がりながら、じっと動かずに空を見ていた。
「あんたさあ」
詩好子さんが呟くように僕に訊く。
「奈々津荷の七夕伝説って信じる?」
僕は驚きを隠そうと精一杯無表情を装ったつもりだったが、バレバレだったらしく、
「あんたって解りやすいわよねえ」と笑う。いや違う、僕の周りがエスパーだらけなだけだ、…多分。
「父さんが来たことは聞いてるんでしょ」
よっと、と言いながら上半身を起き上がらせる詩好子さん。
僕も身体を起こして詩好子さんと目線を合わせた。
「―…私はさ、父さんの事、まだきっと好きなのよ。可愛がってもらった覚えはあまりないけど、その気持ちの裏側を知っちゃってる分だけ、母さんはそれくらい愛されてたんだなって思えるし。生きていてずっと喧嘩ばかりしちゃってる夫婦よりは子供にとってみると意外と幸せな事なのかもしれないしね」
すいっと、彼女は一等星、織姫星のベガを見つめた。
「もしこの世に意味が無いとしたら、あの世に行ってみないと解らない、か。母さんがもしかしたら今でも私を、他の誰かでもいいんだけど見守ってくれているのかもしれないのなら、もう一度だけでいいから父さんに、母さんに会わせてあげてくんないかなあって願ってるわ。幽霊でもなんでもいいんだけど、私なんかの事より、そんなに大事にしてくれてた父さんの方に一度だけでも行ってやってくんないかなって」
ふうっと、息を吐き、
「そうしたらちょっとは昔みたいに少しでもいいから話せるようになるかもしれないって、邪な気持ちもあるんだけどね」
と苦笑いして詩好子さんはアルタイル、夏彦星を見つめる。
カチカチとメールを打って、見せる。
『絶対いつか解ってくれる時が来るよ、詩好子さん』
詩好子さんは画面を見て何も言わない。気休めはよしてくれとばかりにひらひら手を振るだけだ。僕は悲しくなった。そんな顔はしてほしくないとこの前願ったばかりなのに。 
僕は無力だ。人の心を動かす事は簡単な事では無いと、こんな時に実感させられる。
僕は立ち上がり、またメールを書いて見せる。

『願い事してみない?』

詩好子さんはきょとんとして僕を見る。もう一度メールを打つ。
『僕じゃ相手にはなれないかもしれないけどさ』緊張しながら見せる。
ぽかんとして僕を見つめた後、あはははははははは!と爆笑されてしまった。
「アンタってやっぱ変な奴だわ」
くるっと反動をつけて詩好子さんは立ち上がり、僕に手を差し伸べる。
「何願うか言っちゃ駄目よ」
コクリと頷き僕もその手を握る。空を見上げて僕たちは願った。

―どうか、詩好子さんのお父さんに、尊さんを会わせてあげてください。
 幽霊でも、幻でも、何でもいいです。お父さんに、優星さんに、
 二人を、会わせてあげてください。僕の隣のこの人のためにも。天使さん。

僕が願い終わり、目を開けると、詩好子さんはまだ目をつぶっていた。僕はその顔をじっと見つめる。この人と、ずっと一緒にいれたらな。
詩好子さんが願い終わる。僕らは顔を合わせてくすりと笑う。
「なにお願いしたのよ」
『内緒』
「けちね」
『お互い様でしょ?』

僕はそっと手を離して、詩好子さんにプレゼントを拾って渡した。
詩好子さんが、ちょっと緊張気味に包み紙を開いて中身を取り出す。
「?」
そのまま顔中一杯に〝?〟が広がる。
「ええと、これって…」
シルクハットだった。黒くて、もさもさして、イギリス紳士がステッキと一緒に持っているような、ちょっと滑稽なもの。
彼女は戸惑ったようにそれを見て、「こんなもん渡すために呼んだ訳?」
とちょっとがっかりしてしまっていた。解りやすく肩を落として。
僕はポケットに入れておいたスイッチを、押す。
――ぱっ、と。
シルクハットが輝いた。裏側から開いた穴。そこから電飾の頭を出し、文字を浮かび上がらせる。その光の点同士が浮かばせたのは、―質問。詩好子さんへの、クイズだ。


〝Girl love of poetry, as beautiful as the Milkyway?〟
(詩(・)を愛(・)する少女(・・)は、天の河(・・・)より美しいか?)


ぽかんと光る文字を目で追う詩好子さん。僕はその顔に畳みかけるようにボタンを押す。ぽちんと。
ピンポーン!と、やや間抜けな音が響き、ハットの頭からガチャンと丸型のスティックが飛び出す。
―〝YES!〟と電球文字が輝きながら浮かぶ。
しばらくして詩好子さんは我に返り。

爆笑、した。

暫く地面に手をつきどんどんと手の腹で揺れる草を叩き続ける。
なかなか止まない笑いに、心の底から笑って欲しかったとは思っていたが、こういう反応だと急激に恥ずかしさがこみ上げきて、叫び出したくなるのを必死に堪えた。恥ずかしい穴があったら入りたい!!おばあちゃん、全然だめじゃんあなたに期待した僕が馬鹿だった!!
そんなのが十分ほど続いてようやく笑いが治まる頃には、僕は体育座りながら草をむしっていた。いいさ、僕にはどうせロマンチックは似合わないさ。自嘲しながら僕は暗い笑みを浮かべた。いいさいいさ、笑えよちくしょうこんちくしょうめ!
ぶちぶちと草を抜いていると、「夏彦」と呼ばれる。無視。僕は今貝になっておりますので反応できませんよすいませんねへへへ。
僕の眼の前に屈んで、目線を合わせる詩好子さん。僕はくるりと回転してそっぽを向く。首をつかまれ、ごきん、と無理矢理彼女の方に回される。痛い!
がちん、と歯と歯がぶつかる音がした。互いに痛かったと思うが、そんな思いは一瞬で消え去り。
僕は詩好子さんの唇の柔らかさに驚いた。
じっと黙って僕たちは唇を押し付け合っている。しばらくして、おずおずと僕が舌を彼女の唇を割り入っていくと、戸惑いながらも詩好子さんもそれを受け入れ、僕に舌を絡めてくる。
最初の内はぎこちながった舌同士は滑らかに動く蛇の様に柔軟に動き、互いの唾液を飲みあい吸いあった。僕はそのまま詩好子さんを押し倒して唇を重力と共に更に押し付ける。
息が息を飲み込んでいく。二つの赤い蛇が絡み合う。粘膜をなぞり合って時折息継ぎがしたいというようにむずがる詩好子さんを無視してその呼吸音すら吸い上げる。
僕達は草の流れる音と共に抱き合い互いの頭を掻き交ぜあう。
女性独特の高い声がする。髪から草とシャンプーの香りがして、僕は強く抱き締める。もう離さない、そう思いながら。
―びりッ、と。
舌に、喉に強烈なしびれが僕に起こる。思わず顔をしかめ、唇を離す。詩好子さんが少し蕩けたような顔のままぼんやりと唇を袖でぬぐい、「どうしたの?」と心配してくれる。でも僕はそれに応じる事が出来なかった。
僕は喉を押さえ、何かが込み上げてくるのを感じている。熱い!何か熱いものが痺れと共に僕に、迫ってくる!襲ってくる!!
身体を曲げて、僕は喉と舌の痛みに必死に耐える。堪える。
―暫くして痛みは波が引くように消えて行き、僕はようやく上半身を起こすことが出来るようになった。
大丈夫、みたいだな…
さっきからずっと背中をさすってくれていた詩好子さんはしきりに大丈夫?大丈夫!?と訊いてきてくれたのが、僕には何よりも嬉しい。そして言った。


「―うん、ゴメンねもう大丈夫。心配かけちゃったけどなんだか急に喉が痛くなっちゃってさ、でももう治まったから―」


時間が止まった。
詩好子さんがそのつり気味の眼を人間の出来る限界まで見開き、口を震わせる。
僕は意味が解らず首を傾げて―
絶叫が僕の隣から轟いた。僕はまだ意味がよく呑み込めずにその詩好子さんのはしゃぎっぷりを見ている。詩好子さんは言う。
「伝説は本物よ!!」何が?
「祈ったの!!」何を?
「伝説が!」だから何が?

「〝アンタの声が(、、、、、、)、戻りますように(、、、、、、、)〟、って私願ったのよ!!!」

わあぎゃあ言っている詩好子さんの言っている意味と、騒いでいる意味が僕の軽い頭にも浸透していくと僕も、
「―喋れてる、僕……」と遅い気付きの声を上げた。
詩好子さんは手を握ってぶんぶん振る。「あんた今喋れてる、喋れてるよ夏彦!」いつの間にか僕は涙が溢れて止まらなかった。止められなかった。僕は、僕は、僕は、今、話せている!喋っている!詩好子さんと自分の口で、声で、僕は喋ってるんだ!!
もう一回強く引き寄せて詩好子さんに強引に口づけする。もう歯の音はしない。その代りに幸せの感情とともに唇の吸いあう音が風と共に響く。詩好子さんも泣きながら僕を抱きしめ続ける。唇を離し、言いたいことを言う決意を固める。「―詩好子さん」詩好子さんもゆっくり離れ僕を見て言う。「はい」思いっきり息を、吸い込む。一言一言の重さを、心地よく感じながら。


「僕の傍でいつまでも輝く星でいてください、―…ずっと」 


詩好子さんは声を詰まらせながらコクリと頷き「―はい」と言う。
「約束するわ。アンタの傍で、邪魔だって言われたって光り続けてやる。要らないって言われたってずっと隣に居座る。だから覚悟しといてよ、〝アルタイル(・・・・・)〟さん」
僕はベガ(・・)と笑い合った。
声が出せるという事はこんなに素晴らしいことなのか。
好きな人に大切な言葉を届ける事はこんなに素敵なことなのか。
僕はこんなに幸せで、いいんだろうか。
もう一度、僕達が唇を合わせようとした時―
ぶうううん、ぶうううううん、と詩好子さんのケータイに電話が来た。
ちょっと戸惑ったようだが詩好子さんは無視する。でも、僕は「出なよ」と〝自分の声〟で伝えた。あせる事なんてない。もう僕たちは、同じ口で、同じ言葉で、同じ気持ちを伝えあえるのだから。
着信を見た詩好子さんは何やら険しい顔になって、しばらく出るかどうか悩んでいたようだったけど、観念したのか通話ボタンを押すと耳に押し当てる。
「もしもしどうしたの?―パパ」
僕は一瞬にして緊張感を取り戻した。詩好子さんのお父さん。恐らくここでの伝説を体験したもう一人の人。
僕はどうしようかと思って詩好子さんを見た。が、詩好子さんは「大丈夫」と片手でジェスチャーして僕に落ち着くように言う。大丈夫だろうかと思って様子を窺うが、どうにも不思議な感じがした。二人に流れている、いやここにはいないわけだが詩好子さんと詩好子さんのお父さんの会話が何となく穏やかで、そしてどちらの声も震えているように聞こえたから。しばらくして通話を終えた詩好子さんが僕の方を振り返ってこちらを見た。
詩好子さんは、笑いながら泣いていた。音も無くすうーっと雫が流れては落ちている。
一体何があったのか僕は慌てて近づき詩好子さんに訊く。
「何があったの!?」
詩好子さんは泣きながら「アンタって本当に馬鹿ね」と言った。馬鹿?何が。


「お父さんの前に、母さんが出たってさ」


僕は幻聴でも聞いたのではないかと思い、もう一度尋ねる。
「僕、今度は耳がおかしくなったみたいなんだけど」
「父さんが家でお酒飲んで寝てたらね、母さんが部屋のソファーで座ってたんだって。それでびっくりして思わず「尊ッ!」って呼びかけたら、『あらあら優星さん、飲み過ぎは身体に毒ですよ。もっと身体を労わってあげないと駄目です』って言って、机の上の酒ビン全部棚に片付けちゃったんだって。しかも順番全部間違えて。小っちゃい頃聞いた通りの人だったみたい」
こんな時なのに軽く吹き出してしまう。本当に佐久間さんの言っていた通りだったらしい。詩好子さんも軽く苦笑しながら、
「それでね、その事で間違いなく尊だって父さんは確信したんだって。で、「僕を憎みにきたのか」って言ったらしいのよ。…私を、ずっと傷つけてきたことにね…そしたら母さん苦笑してこう言ったんだって。『私ほどあなたに愛される資格のある人間は居ないですから、それは仕方ないですねぇ』って。私は殆ど覚えてないけど、すっかり好きになっちゃった。母さんの子供で良かったって思った。だって、父さんの一番好きな人は、ちゃん(・・・)と父さんを一番に独占したいほど愛してくれてたんだもの(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)」
詩好子さんと正反対って言ってたけど、あれは間違いだね佐久間さん。少なくとも、芯の部分、根っこの部分は瓜二つだ、尊さんと、詩好子さんは。
「ずっと言いたかった事を父さんが母さんに訊いたらしいの。「―幸せに出来なくてごめん」、って。そしたら母さん笑って、『だったら詩好子を幸せにしてあげたらいいじゃないですか』って言ったって。『―詩好子は私達の、宝物なんですから』って」
詩好子さんはぼろぼろ泣いて僕の胸のシャツに顔をうずめた。僕は何も言えずその背中を撫でる。詩好子さんは嗚咽をこらえながら僕に言う。

「『私と詩好子は違う人間なんです。勘違いされちゃ困りますよ』って言って―消えたんだって」

僕は必死に上を向いて熱くなった鼻の奥をごまかしていた。僕と詩好子さんにのしかかっていた目に見えない重石が、そっと取り除かれたような気持になる。
上には満天の星空。
ベガとアルタイルは輝きを抑えずに微笑みかけている。
―意外と洒落てるだろう天使のやつも、そう言うように。
僕達の上には星が降る。
僕達の目に見えない軌跡を描いて、少しの奇跡を振りまきながら。

最終話   さよならよりも大切な

「さて、と」
詩好子さんは僕を見て、笑顔でからかう。
「―さっきの続き、する?」
「そりゃ、いいけど…いや、やっぱ駄目、駄目だよ」
「え!?な、なんでよ!私じゃ不満って訳!?」
「いや、そうじゃなくて…」
「じゃ何よ!」
「持ってないもの…」
「何を」
「…これ、僕が言うべき言葉じゃない気がするよ…」
「だから何だって訊いてんのよ!」
「コン、…ええと…」
「へ?」
「だ・か・らぁ!僕は持ってないんだよコンドーム!そういう事はちゃんとしないと駄目でしょ!?ね!!」 
「……あ。そっか…それもそうねゴメンなさい、言いにくいわよねそれは」
「…いや、解ってくれればいいんだけど」
「モテなかったのね」
「そっちじゃない!」
会話というものは何て恥ずかしいんだろうと思うのと同時に、僕は喋れるという事の最高の爽快感を味わっていた。
六年間、全く話せなかった事を忘れてしまうくらいに喋り続けたい。ずっと喋って笑って怒って泣いてみたい。今日一日、明日の朝まで途切れることなく声を出していても構わない、僕はそう思ってさえいた。
「…じゃあ夏彦、最後にもう一回だけキスしてよ」 
「………えええ」
「どっちにしても駄目なんじゃないアンタ!この小心も―」
すっ、と近づき一気に口づける。
舌を入れるのはもうさっきやったのでお互い慣れてしまっている。
僕たちはしばらく互いの舌の温度を味わった後、名残惜しげにそっとゆっくり唇を剥がして離れた。
「アンタって…意外と大胆よね」
「大胆にさせる相手が出来たからね」
「だからといって浮気は許さないわよ」
「…そんな度胸が欲しいよ僕は」 
「やめて、嫌だそんな事されるのホントに…」
その不安と拗ねを混ぜたような顔が可愛くて、また軽く触れるくらいの口づけをする。
詩好子さんは真っ赤になって笑う。
「ホントに大胆」僕も赤くなって詩好子さんが見れなくなる。
「アンタに幼馴染何ていたら(・・・・・・・・・・・・)、私絶対嫉妬してたわね(・・・・・・・・・・)」
「残念、夢の中でさえ僕はずっと一人暮らしだよ(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)」
「アンタの家、一人で暮らすにはちょっとデカすぎるんじゃない(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)?」
「もう慣れっこだよ。自炊も掃除も洗濯も」
「じゃあこれからは私がやってあげる」
「丁重に断るね」
「何で出来ないと思ってんの!?」
「―…違うの?」
「卵かけごはんなら作れるわ!」
「作れない人を逆に見てみたいなあ…」
「これからは毎日寂しく一人で生きている(・・・・・・・・・・・)アンタの家に行って家事してやるわ!だからありがたく思いなさいよね!」
「はいはい、それはどうもありがとうございます」
そう言ってごまかしたてはおいたが、僕は内心で歓声を上げていた。
僕の家に人がいる(・・・・・・・・)。それだけで(・・・・・)、もう充分すぎるくらい幸せな事ではないか(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)と思ったか(・・・・・)ら(・)。そしてその相手が一番好きな人ならば尚更だ。
「そろそろ帰ろうか」
僕はもう今日の日付が変わりそうな事を時計で確認して、詩好子さんにそう提案した。流石に女の子をこんな時間まで引き留めておくのは不味いと思ったのだ。詩好子さんは名残惜しそうだったが父さんとの関係が少し前進した事もあったのか、素直に「そうね」と言って身体に着いた草や土をはたいて伸びをした。
「じゃあ行こっか、夏彦。明日の朝から迎えに行くから。―ゲームでしか知らない幼(・・・・・・・・・・・)馴染を(・・・)疑似体験させてあげるわ(・・・・・・・・・・・)よ(・)」
「それは最高だね」
詩好子さんはウインクして僕の手を握って歩き出す。僕も苦笑しながら歩き出す。

―ぽろりと、涙がこぼれた。

詩好子さんが驚いて僕を見る。顔を近づけて慌てて僕に訊いてくる。
「どうしたの夏彦!やっぱどっか変なとこでもあるんじゃないでしょうね!?大丈夫!?」
「―…え?あ、ああうん大丈夫、全然平気。…不思議だね、なんか勝手に出て来ちゃってさ…ゴミでも入ったのかな?」
ごしごしと瞼を擦る。
涙はもう、出なかった。



                ★×☆



「ただいまー…って言っても誰もいないんだけどね…。まあ、こういうのは気分の問題だし、言う事が大事なんだうん」
僕は玄関のカギを取り出して回し、暗い玄関に入る。
「あー、今日も何か残り物でテキトーに作ろうかなあ。もう面倒臭いからコンビニ弁当って手もあったけどお金もったいないし…それに今日は大事な記念日だしな…僕の声が出せるようになった大切な…ゆっくり二人で詩好子さんと電話でもしたいけど…無理かな…」
僕はずっと喋れなかった事を取り戻すかのように独り言を続けている。口からは壊れた蛇口の様に言葉が流れ続け、僕の中に溜まり淀んでいた感情を全て出し切ろうとしているかのようだった。僕はしんとして寂しくもある確かに広すぎる木造の日本家屋の二階、自分の部屋に行く。僕はドアを開けて部屋に入ると、ふうっと言ってベットに飛び込む。枕に顔をうずめながら唇に残った詩好子さんの感触に思わず頬が緩み顔が赤くなった。―したかったな、確かに。
いやらしい気持ちだけでなく、なんというか純粋に詩好子さんの肌に肌で触れてみたかった。詩好子さんの声が聴きたかったし、詩好子さんと一緒になりたかった。身体だけじゃなく、もしあるのだとすれば心みたいなものも。それは性欲から来ているだけなのか、それとも詩好子さんの存在を自分に染み込ませたいという欲求からきているのか。どちらにしても同じモノなのかもしれないが、よくは解らなかった。
時計を外して枕の脇に置く。中学の時に自分(・・)で買った物で、星と月と太陽が時刻によって変わるという少し変わったものだ。センスの無さを自覚している僕にしてはなかなかいい感度の買い物だったなと自画自賛していたりする。裏面の銀色が輝いて僕の眼に光る。
その時、―文字が、見えた。

『コングラチレイション(・・・・・・・・・・)・ナツヒコ(・・・・)・フロム(・・・)・グランドマザー(・・・・・・・)』

頭がショートしたような感覚が僕を襲う。
がばッ、と、起き上がり、ドアに突進して開ける。
階段を降り、部屋という部屋を開ける。
確実に近所迷惑になっていると自覚しているが、そんなことは構っていられない。ばあんッばあんッと扉やドアを開けて全ての部屋を見たが、何もない。何で、何で何もないん(・・・・・)だ(・)!
ふと、居間にあった僕がずっと使っていたホワイトボード(・・・・・・・・・・・・・・・)に目が留まる。
そうか。そういうことだったのか。僕は今まで、今まで、『夢』を見ていたのか。

『おばあちゃんと暮らし、大切な幼馴染がいるという、夢のような、日々』を。

書いてある文字に崩れ落ちる。額を畳に擦りつける。
「何でもっと早く言わないんだよ(・・・・・・・・・・・・・・)…」
僕はどんどんと拳を畳に叩きつける。
「僕がいつ、そんな事頼んだよ馬鹿野郎オオオオオオオオッ!!!!」

絶叫した。泣きながら。彼女がずっと与えてくれていた時間の長さの分を、まとめて吐き出すかのように。
おばあちゃんとしてずっと一緒にいてくれた事に(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、言葉にならない感情を込めて(・・・・・・・・・・・・・)。
昨日消し忘れたホワイトボード。
そこには、僕の汚い文字で、板面一杯に、たった二文字、書かれていた。

―『詩織(・・)』。

泣き続けながら、嘘つきでうかつな天使が、僕の中でずっと笑いかけていた。
喋れるようになった僕の中で、喋れない程の大きな喪失と感謝と憎しみと愛を、夕日の中に消えていった唇の温かさと共に感じながら。

その日僕は二つの大きな物を得て、そして二つの大きな物を失う。
得たのは詩好子さんと声。
失ったのは木洩日さんとおばあちゃんの一人(・・)。
一番言いたかったさよならよりも大切なありがとうを、言わせてもくれないまま。

「君は『天使』って柄じゃないだろ…木漏日さん………」

大きな羽音が聴こえてくる。
それは遠ざかっていくようで、同時に凄く近い場所で旋回している気もした。
ボードが消える。もう恐らく時計も消えているだろう。
うかつな彼女の残滓は消えていき、全ては白紙になっていく。何も無かった事になっていく。でも僕は絶対忘れてなんてやらない。やるものか。

優しくて。
お節介で。
不器用で。
そして、僕の人生を救ってくれた優しい天使だけは、絶対に。
その時、ひらりと一枚の大きな羽が落ちてきた。
僕はそれを手に取って蹲った。
「忘れてなんかやるもんかよ」
一枚の白い羽を抱きしめて、思い切り声を出して、
僕は泣いた。

               
★×☆


かんかんかんと、下の階で母さんがフライパンにおたまをぶつけながら私に呼びかけた。かんかんかん、「早く起きなさい詩(し)織(おり)ー、学校遅刻するわよーこら聞いてんのー」かんかんかんかん。解ったよ、解ったって。すぐに起きるか…ぐすー、すー、すかーむにゃむにゃ。がん、がんがんがんがん!「うるっさぁッ!」気付けば部屋に勝手に母さんは侵入しており、私の耳元でフライパンとお玉のハーモニーを響かせていた。私は涙目になって噛みつく。「いくらなんでもやりすぎでしょうよ!目覚ましの何十倍も不快だわそれ!」「つまりは目覚ましの何十倍の効果があるという事よ、父さんは仕事でずっと缶詰なんだから、色々サポートしてあげないといけないのよ私は」そう言って腰に手を当てるお母さん。私より先にパコパコキーボードに向かって文字を打っている父さんの心配をするあたり、未だラブラブっぷりが伝わってきて正直食傷気味だ。朝から胃もたれしそう。…まあ、仲が悪い夫婦よりはましな方か。私には男女の機微は未だに謎の領域だからなんとも言えないが。
「今日は父さんと母さんは出かけてくるからね、夕飯は自分で勝手に冷蔵庫の中のものでも何でも食べていいわよ」
「店屋物でも?」
「特別よ」
「うし!」私は思わず拳を握りしめる。これで久しぶりに大好きなピザを思うままに堪能できる。母さんに似て大食漢な私はその事に一気にテンションを上げた。父さんと母さんの結婚記念日、プライスレス!
「佐久間も来るかもしれないから、その時は一緒に食べてあげなさい。アンタ、ひ孫みたいに思われてるんだから」
佐久間さんは母さんの実家に住み込みで働いている使用人さんだ。八十を超えても穏やかな老紳士と言った感じの人で私の友人の執事マニアには垂涎ものの人物らしい。私にとってはおじいちゃんに仕えるもう一人のおじいちゃんといった感じで大好きだ。「じゃ頼んだわよ」 
そう言って母さんは苦笑しつつ下に降りる。
私も大きく伸びをしてからベットから降りた。
快晴である。雲は欠片も見られず、私の視界を青一色に染め抜いていく。
顔を洗い制服に着替え、朝食をとり、カバンを手に持ってローファーのつま先を入れながら玄関を出る。眩しい。今日は熱くなりそう。
七月七日。
父さんと母さん―『帽子谷夏彦』と『帽子谷詩好子』が結ばれた日は、何故か胸がざわつく。何かが私の中で動いている。どくんどくんと脈を打つ。まるで父さんが書く甘い恋愛小説の様に。―…ま、嫌いじゃないんだけどね実は。
日差しの中、私は汗をハンカチで軽く拭きつつ父さんの事を考えていた。
父さんはいつも今日だけは絶対に私に会おうとしない。
その事に涙が出そうになるのはどうしてなのだろうと、いつも私は不思議に思っている。


授業が終わり、私は早速お気に入りの場所に向かう事にした。
奈々津荷山の中にある、獣道によく似た正規の道では無い獣道。
その先にある丘というのが私の夕方の過ごす場所である。
芝のような短い丈の緑の草が一面に広がるここは、誰にも邪魔されずに一人で楽しむには恰好の場所。寝っ転がりながら、ここに来るといつも安らぎと同時に形容しがたい寂しさにも襲われたりする。まるで、自分の背中には片方だけしか翼がついておらず、もう一方の翼が何処かで私を探して旋回しているような、そんな空想にも浸ってしまう。
恋愛小説家の父の影響がこんな所にも出ているなあと一人で笑った。

さて、暗くなり始めてきた。そろそろ帰って家に佐久間さんを呼んでピザを食べる事にしよう。私が星がだんだん見えてきた空を見上げながらそう思っていると、
―かさりと。
後ろで誰かが此処にやってくる音がする。誰だろうと入り口を見ると、そこには私の所の制服では無いブレザーを着た男子が立っていた。
「何してるんだい?」と彼は訊いてきた。手にはバスケットと水筒を持っていて、こちらにゆっくりやってくる。笑顔がデフォルトのような所はどことなく父さんに似ている。あの人、いつも笑っているイメージしか私には無いのだ。
「いや?特に何をするでもなくぼーっとしているだけよ。ここはプライベートスペースのつもりだったんだけど、他にも人がいたのね。邪魔してゴメンなさい」
「いやいや。僕の方こそ何かじゃましてしまってゴメンね」
その時、くうーっと私のほうから何か音がした。私は流石に気まずくなって黙ってしまったが、彼は笑って「よかったら一緒に食べない?ちょっと多めに作りすぎちゃってたんだ」
「え、でも…」私これからピザなんで!と言おうとした瞬間パカリと開いたその中身に目を奪われた。
実に見事な出来栄えのクラブサンドが五つ。
思わず喉が鳴る。
私がその全ての視線をバスケットに注いでいると、青年は水筒から麦茶を出して手渡してきた。私は無意識に受け取り、「食べよう」と言った彼の言葉に引き寄せられたかのようにその三角形のクラブサンドを一つ頬張る。
「あ、美味し…」
「それは何より」
彼が笑って言うのを見て、私は言葉に出来ない気持ちが身体に渦巻いているのが解った。
それが何なのかはよく表現できないが、私に欠けている物をようやく見つけた、そんな感じがした。
食べ終わり間近。私はまだ彼の名前を訊いていない事に気付いた。
パンくずを舐め取ってから、尋ねる。
「そういえば、アナタの名前、訊いてなかったわ。ごめんなさい、何て名前なの?」
「僕?僕の名前は―」そう一端区切って、続ける。

「―木洩日(こもれび)空人(そらひと)、真上にある空に人で空人だよ」
「被る帽子に谷で帽子谷、読む詩に織物の織で詩(し)織(おり)。―帽子(ぼうし)谷(や)詩(し)織(おり)よ」

「警察官のじいちゃんが空が大好きでね、だったら航空自衛隊入ればよかったのに、っていっつも思ってたよ」
「男の子だね」とくすくす二人で笑う。木洩日さんはふと空を見てぽつりと言った。
「この山の本当の名前って知ってる?」
 「…奈々津荷山じゃないの?」木洩日さんは首を振って言った。

「〝空結山(そらむすびやま)〟って言うんだって。空と地上の人を結ぶ山(・・・・・・・・・・)って意味なんだって(・・・・・・・・・)さ(・)」

私も一緒に空を見た。もうそこには天の川に挟まれたベガとアルタイルが美しく光り輝き始め、私たちの出会いと始まりを、優しく祝福しているかの様。 
私と彼の物語が始まる。
この丘で、私たちだけの大切で秘密な物語が。 

羽の音が聴こえた。
それはすぐ傍に舞い降りたかのように私は感じた。
空に住む誰かと私達を、その翼で力強く結びつけるように。

天使がいた丘

天使がいた丘

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-09-06

Copyrighted
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  1. 第一話   サンドイッチと罵倒語
  2. 第二話   僕と僕の周りの変人達
  3. 第三話   秘密
  4. 第四話   天使がいた丘
  5. 最終話   さよならよりも大切な