Fate/defective c.29
眩しくて、目を開けた。
するとそこは辺り一面の光の中で、上も、下も、右も左もわからない。ぬるい水の中にいるような中途半端な感覚がある。
右手を目の前まで持ってきて見る。
おかしいな、と思った。
僕の腕はこんなに細かっただろうか?
「ライダーさん」
急に、懐かしい声がした。
光の中を見渡す。僕を呼んだのは誰?
彼はすぐに見つかった。なんのことはない、すぐ目の前にいたのだ。白い肌が光と溶け合って、目が慣れないと見失いそうだけれど。
その顔にはとても見覚えがあった。琥珀色の瞳に、輝く銀髪。光の中で、その少年は微笑んだ。
僕も笑う。
「マスター!」
「ライダーさん。久しぶりですね」
「願いが叶ったんだ。生き返ったんだね!」
歓喜に満ちた僕の心とは裏腹に、マスターの顔は少し陰った。
「……マスター?」
「僕は生き返ってなんかいませんよ。僕の身体は、あなたに預けられましたから」
どういうことだろう?
僕は再び目の前に腕をかざしてみた。銀の鎧に身を包んだ、サーヴァントとしての僕の身なりがそのまま目に入る。……だが、それにしては違和感があった。
僕の腕はこんなに細かっただろうか?
「マスター。何を言ってるんだい?」
問いかけた僕の声に、少年は何も言わず、さびしそうに笑った。
「……融合のはずみで、記憶がごちゃごちゃになっているみたいですね。でも、いいんです。最後に友達とお話ができるだけで、嬉しいです」
「何を……」
そう口にした瞬間、ふっと辺りが暗転した。
その暗闇に目が慣れるのに、たいして時間はかからなかった。慌てることはない。頭上に広がるのは満天の星空で、辺りには砂浜と、さんざめく波の音が満ちている。なんだかものすごく懐かしい匂いがした。
忘れることはない。僕の生まれ故郷だ。目の前に広がる深く黒いエーゲ海、セリーポス島の海岸。母と二人で暮らした島。幻覚だとわかっていても、郷愁で胸が痛くなる。
ふと横を見ると、五体満足の姿で隣に立つ少年がいた。彼も満天の星空を見上げている。その視線を追って目を上げると、宝石をちりばめたような夜空の中に、一筋の流星がすっと流れて消えるのが見えた。
「……流れ星だ」
いつのまにか、涙が頬を伝っている。どうしてだろう。頭が働くことをやめたようで、何も考えられない。ただ、この少年と、流れ星を見た。それだけなのに、涙が溢れて止まらない。
温かくて小さな手が、僕の固くて冷たい手の中に滑り込んでくる。誰かと手をつなぐのは、本当に久しぶりだ。
「ペルセウスさん。約束、叶いましたね」
何のことだろう。わからない。どうしてだろう。大切なことを忘れている気がする。
少年は琥珀色の瞳で、僕の目をじっと見つめた。薄い唇が、音も無く開く。
「あなたは本当に強くて、幸福で、僕の憧れでした。……でも、僕のせいでこんなことになってしまった」
「恨まないでほしかったです。誰の事も嫌いにならないでほしかったです。僕の為に誰かを殺してしまうなんて、そんなことになってほしくなかった。
僕自身がつらいのは全然いいんです。でも、僕のせいで誰かが傷つくのは、つらい」
ペルセウスは首を振った。
「違う。君が辛く思う必要は無いよ。僕は君を生き返らせたくて、本当に幸せにしてあげたくて、――――だから僕は、周りを憎んだ。
憎くて、恨んで、だから殺した。君を救わなかった全てが、許せなくて仕方なかった。それは悪い事なのかな?」
少年は目を伏せる。ペルセウスは畳み掛ける。
「だって誰も君を助けなかった。そんな人間なら、死んで当然だろう? 君みたいに他人の幸福を願うこともできず、ただ自分のことだけを考えて生きていく人間に、どうして虐げられなきゃいけないんだい? そんなの、そんなの―――あまりにも理不尽じゃないか」
また、知らないうちに、涙が出てくる。こんなに涙もろかっただろうか、僕は。
波の音がほんの少しの時間繰り返され、その後に彼は微笑んだ。
「ありがとう、ペルセウスさん。あなたは本当に優しくて……いい人、ですね。……でも、僕は……」
言葉を続けようとした瞬間、ガツン、と空間に重い衝撃が走った。
「なんだ?」
満天の星空がガラスのドームのようにひび割れ、みしりと音を立てる。ガツン、とまた衝撃が走った。空間そのものが崩れ始めている。
「もう時間なんですよ、ペルセウスさん。……最後に、話せてよかった」
「マスター……」
彼の身体が、夜の闇にとけていく。その夜に、再び衝撃によって亀裂が入る。
「待って、杏路」
亀裂が水平線に到達した。
「どうして」
杏路の手が、指の隙間からすり抜けていく。
「行かないで!」
世界が砕けていく。
眩しくて、目を開けた。
ぬるい涙が両目から流れている。どうして泣いているんだろう。その冷えていく塩水を細い手で拭って、光の中に揺蕩った。
杏路は、何処に行ったんだろう。
◆
槍兵は全速力でマスターの元へ走った。
「――――――フッ」
ギリギリまで近づいて、アーノルドの背に毒槍を一突きする。
「……ランサーかぁ」
貫通して胸から飛び出した穂先を気にも留めない、間延びした声と共に、背後のランサーを振り返ったアーノルドの目は細められた。直後、口から血を吐き出す。
「なんだ。今回は崩れないのか」
「……少し疲れた。魔術回路と刻印の移植術式ってのは、相当な体力を消費するんだ」
ランサーは泥縄に縛られた御代佑と天陵那次をちらりと見やった。二人は昏睡しているのか、皮膚に赤色の痣を浮かび上がらせながら微動だにしない。
動揺を悟られないよう、ゆっくりと視線をアーノルドに戻す。
「また俺のマスターに変な魔術をかけやがって。懲りないねえ」
「変な……ね。前のは、ボクの渾身の混沌魔術だったのに」
胸に空いた大穴を見下ろしながら、アーノルドは歪に微笑んだ。
「ま、キミのマスターの魔術回路やらなんやら、一切合切貰っておいたから。もう用はないよ」
「魔術回路を……」
「そう。身体から無理矢理引きはがして、取り込む。ある魔術師から教わった術でね―――拒否反応も起こらない。君のマスターはもう魔術師として使い物にならないだろうよ」
ランサーは全身の毛が逆立つような気がした。逸る心臓を押さえつけるように、槍の柄を握る手に力が入る。
怒りを口にする代わりに、皮肉を叩きつける。
「ハッ、強気に出ようたってそうは行かないぜ? 堪えているようだが、もう毒が体に回って限界だろう。新しくしたらどうだ?」
ランサーの言葉に、アーノルドは少し眉間にしわを寄せた。
「不快だなあ。うるさいし、お前はちょっと、傲慢だよ」
―――――消えなよ。
その呟きと共に、ビーストから放たれた触手が常人にはまず捕えられない速度でランサーの心臓めがけて移動する。
「……ッ!」
槍を力づくで振り、触手を叩き落とそうとした。だがせいぜい狙いを逸らすのが精いっぱいだ。
肉塊が腹を貫いた。振りほどこうとしても、標本のように床に留められ、動くだけで傷から血が溢れてくる。
「―――――が、」
「何だい? まだ息をしているの? ……ならば、そこで見ていろ。ランサーのサーヴァント、お前が人類の再誕を祝うことを許そう! 君が、その瞬間までその双眸を開いていられるなら!」
アーノルドは身をひるがえし、その先に向かって手を差し伸べた。
「さあ。アリアナ・アッカーソン。私は貴方を迎えよう」
自身が作り上げた人類再誕の機構を背に、彼は慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
アリアナの黄金色の瞳が揺れる。
「……あたしは、正しい人間になれる?」
アーノルドの群青色が瞬く。
「もちろん。愚かな願いや、苦しい希望から自由になれる。永遠に、永久に――――」
アリアナの白い手が、差し出された血濡れの手に向かって伸びていく。
ランサーが遠くで何かを言うが、聞こえない。
二人の魔術師の傷も、見えない。
「…………ああ―――――――」
◆
「馬鹿な真似が過ぎるんじゃないの、アリアナ」
聖堂の奥の方から、凛とした声が響いた。
「……誰だ」
コツ、コツと硬い足音と共に、声の主が姿を現す。天井に空いた大きな穴の下まで到達したとき、降り注ぐ光がその姿を照らした。
薄い白衣の裾が揺れる。
「四季七種って言ったら、お前は分かるわけ?」
言いながら、彼女は不機嫌そうに顔をしかめた。令呪の刻まれた左手で髪をかきあげ、咥えていた煙草を瓦礫の中へ吐き捨てる。
「ナナ、クサ」
アリアナの掠れ声には眉一つ動かさず、彼女はすたすたと歩き、アーノルドとアリアナの横に立った。
そして、長くすらりとした形のいい脚を思いきりアーノルドの首へ叩き込む。
「いッ……」
うめき声をあげ崩れ落ちた泥の塊を踏みつけ、
「一体、これはどういうつもりだ?」
座り込んでいるアリアナを鋭い目つきで見下ろした。
「……何よ……」
あたしを責めるって言うの?
声のないアリアナの悲鳴に、七種はつまらなそうに首をかしげる。
「別に? どういうつもりで、エマから託された再臨もせず、この泥人形の手を取ろうとしたのか聞きたいだけだ」
「どういうつもりも何も……!」
あたしは、もう裏切られたくない、それだけだ。
「セイバーは、セイバーはあたしの両親を、前の聖杯戦争で殺していたわ! 『僕は裏切らない』って言ったのに、大嘘つきじゃない!」
七種の感情の無い目を必死に見上げながら、彼女は訴える。
「みんなそうだわ。帰ってくるって言ったのに。愛してあげると言ったのに。守ってくれると言ったのに! 期待したら、それだけ何かを失うわ。両親を、友人を、姓を、復讐を! 何もかもあたしの手から離れて、あたしの失望や絶望なんて何も知らずに、どこかへ行ってしまう……! あたしは、永遠に安堵できない!」
アリアナは頭を振った。それから自虐的な笑みを浮かべる。
「ええ、だから、待ち続けるしかないの。絶対に裏切らない、『本当に良い人』が現れるまで、あたしは何回も裏切られるしかないわ。その度に真面目に傷ついて、何度絶望しても、あたしの中の良心は、『この人は裏切らないだろう』って、何度でも期待するから―――――」
「それは違うね」
唐突な七種の言葉に、アリアナは目を見開いた。
「悪いが否定しよう。アリアナ、それは全然違う。根底からして、お前の価値観は間違っている」
「……なにを」
「『絶対に裏切らない人』なんか、この世にはいないんだから」
七種は静かに言う。
「裏切りません、という言葉が真実かどうかは、その人が死ぬまで分からない。死ぬまで一度もそいつがアリアナを裏切らなかったのなら、まあ、確かにそいつは『絶対に裏切らない、本当に良い人』なんだろう。
だがどうだ? それが分かった時には、そいつはもう死人さ。お前は死人に対して、『この人は裏切らなかったからいい人だ、信じよう』って思うのかい?」
「そ、それは」
「理解したか? お前が信じたいって言ってるのは、『架空の存在』なんだ。架空のものを信じるから、現実に裏切られる」
アリアナは目を泳がせ、小さい声で言った。
「……じゃあ、この世には信じられるものは何もないってことじゃない」
七種はしゃがみこんで、アリアナの金色の瞳と目を合わせる。
「いいや。いいかい、アリアナ、『人を信じる』ってことは、『この人なら裏切らないだろう』じゃない。
『この人になら裏切られてもいい』ってことなんだよ」
アリアナは泣き出しそうな顔をした。何かを言おうとした口元が震え、瞳が揺れる。
「……そんなの……分からない……だって、傷つくのは怖い。失望するのは、嫌だ……。おかしい、おかしいわ、その考えは」
「自分の期待から外れても許せる誰かのことを、心から信頼しているというのだと、私は思うが」
「……!」
右手に刻まれた令呪を見下ろす。
あたしは期待した。セイバーが、聖杯戦争を壊す報復への、力になると。でも事実は全然違って、セイバーは、とっくに嘘をついていた。
だから、全てが嘘なのだろうか? 自分の期待を外れたから?
人間が好きだと言った言葉。一緒に片づけた工房。屋上から足を滑らせたとき、守ってくれた。バーサーカーと戦い、アーチャーと撃ち合い、最後には―――
最後には、殺されそうになったあたしの代わりに消えた。
「君のセイバーを、君は許せるか?」
七種が問う。
あたしは答える。
「――――――わからない」
七種が眉をひそめる前に、続ける。
「わからない。何も信じられなかったから。今さら、誰かを信じるとか、許すとか、好きになるとか……わからないの」
「でも。それでも……アーノルドの告発より、あたしは、セイバーの行動を信じたいって、そう思うわ!」
七種は微笑んだ。アリアナは頷く。右手を前に差し出し、詠唱する。
「素に、銀と鉄―――――――――」
「そうはさせない」
ヒュ、という風を切る音と共に、細身の剣が眼前に飛んできた。
切っ先が煌めく。あ、と思った時には、もう心臓は狙い澄まされて――――
ズッ、と肉に鋼が刺さる音がした。
「ア、アリ、アナ――――」
目の前に、血に染まった白衣が見えた。
「七種!」
倒れこんだ彼女の身体を受け止める。アリアナの心臓めがけて飛んだ剣は、七種のみぞおちより下に刺さっていた。
「うそ、うそ、七種……!」
狼狽えるアリアナとは対照的に、七種は苦痛に顔をしかめながらも、まだ冷静だった。
「慌てるな。私は治癒魔術が得意なんだよ、知ってるだろ。それより、早く」
七種が睨み付ける視線の先には、再び姿を現したアーノルドがいる。
「させないぞ。おまえの、セイバーだけは、させせないからな……うらぎり者は……観客には……なれないい!!」
「違う……お前の言ってることは違う」
キイ、と、剣の刃が床を引っ掻く音がする。
アーノルドが握った剣が投げられるより先に、アリアナは右手を握りしめて叫んだ。
「―――――来い、セイバー!!」
Fate/defective c.29