Weathered Stone

Weathered Stone

原案シナリオ ひではる(文芸サークルPEN-吟)
TRPGシステム『retar』ルールPDF配布場所>> http://www.ne.jp/asahi/sure/ra/


   1

 怒りか、それとも焦燥感か。
 胸の奥底で、何かがチリチリ音を立てながら燃えている。傾斜がついた梯子を駆け上がり、格子戸を跳ね上げ甲板に出ると、そこは戦場だった。
 甲板に突き立てられた手槍がまず目に付いた。特に感慨はない。死体は見飽きるほど慣れている。半歩先で空を仰ぎ絶命している船員に、いくらかの貸しがあったことを思い出しただけで、却って頭が冴えてゆく。
 敵の船を確認すると、再び感情が動き出し舌打ちをした。すでに嘴がかけられていた。陸を版図とする帝国は海の守りを、海賊と廻船を区別しない土豪や海洋都市国家の船に付託することが多い。が、それは直参を持たないという意味ではない。奴らは、月のない夜を狙って夜襲、それも船上で地上戦をやらかす。嘴と名付けられた橋を相手の船に落とし、その上を堂々かつ、整然と隊列を組んで突撃をする。
 今夜の月は影を作るほど明るい。
 内通者か、居眠りか、いくつかの単語が今となっては無意味に頭を巡るが、それは長い時間ではなかった。まだ、橋を落とした段階で奴らは船に乗り込んではいない。
 神という奴はまだ俺を見捨ててはいない。強くそう思う。
 怒号と駆け回る船員の向こう側にいる切り込み隊長に、「おう!」と声をかける。
 十一の時から共に、クソまみれの船底から這い上がってきた男だ。こちらに気が付けば、目だけで意図を酌み交わすことができる。
 切り込み隊長が脅しつけ、それに部下たちが合わせて初年兵たちを地獄へと追い立てはじめた。
 甲高い笛の音と共に、帝国兵が動き始める。盾を前に三列横隊で一糸乱れることなく進む姿は、鋼の鎧を身にまとった一つの生物めいてさえ見える。
 二つの船の間に架けられた橋の上で、初年兵と進軍を始めた帝国兵が激突した。
 ヤケクソになって切りかかる者もいるが、盾で阻まれ、鋭い突きを打ち込まれ、草よりもあっけなく刈り取られてしまう。盾でいなし、体勢が崩れれば剣を突き立て、再び盾で身を守る。その動作を帝国兵が繰り返す度に、初年兵は打ち倒され、帝国兵は前進してくる。
 六人目の哀れな初年兵に剣を振るおうとした帝国兵の兜のスリットに、ナイフが吸い込まれた。
 確かな手応えと、昏い達成感に胸が躍るのを抑えつけながら、続けて二本のナイフを投じる。


「……」
 ねっとりと、まとわりつくような汗、苛烈な日差しの熱を肌に感じた。マークは御者台の上で眠りに落ちたこと、疲れがとれていないこと、夢を見ていたことを同時に思いながらも、なおも瞼を開けられないでいた。
 口元で念じるような声を一つついて、やっと瞼を開ける。何気なく見やった右手は、夢の中で見たそれと比べ若くはない。
(やっと起きたのかい?)
 そう読みとれる文字が、空中に、それも光る煙としか表現できないもので流されてきて、流れるに従って形を崩してゆく。
 荷馬車の御者台のすぐ脇を歩く魔術師アルドのものだ。この男、型破りだ。マークの人生で見てきた魔術師と呼ばれる連中は、船長に次いで船上で権力を振るう、小心者の気質を傲慢で包み込んだ風の司か、降りもしない雨乞いや、ちっとも暖かくならない春の招来に、高い金ばかりせびる。声ばかりがでかい雨の司。たまに流れてくる冒険者の中にいる青瓢箪くらいなものだ。それでも十分魔術師と出会っている方だが、アルドは魔術師と呼ぶにも風変わりなものだった。猛禽めいた眼光鋭い目元だけを残し布で覆い。一見すると砂漠の民のようないで立ちをしている。自らの口で言葉を発することがない。言葉の代わりに、空中に文字が書ける魔法の羽ペンで筆談を行う。この姿と態度を見て、いかにも魔術師らしいと、雨の司しか知らない村人は思ったようだが、マークを含め、彼が魔法を使っているところを実際に目にしたことはない。
 彼が型破りなのは、その腰に下げているスリングにある。スリングの使いもさることながら、女子供を半月の訓練で、いっぱしの投石隊に仕上げてみせた。教練、今は街道護衛。能力に見合う報酬が払われるわけでもないのに、この地に居残り続ける最古参の冒険者だ。
 アルドの筆に「ああ」とだけマークは答え、視線をマークの隣で今し方の彼のように居眠りしている荷主の老人、次に、馬を引いている甥のクーガーへと向けた。
 背負った両手剣が短く見えるような、村の力自慢としては十分な背中をこの暑さの中でも鎧代わりの毛皮でくるんでいた。この甥の扱いに一瞬迷いが生じた。が、それは一瞬のことだ。
(気がついているよね?)
 判断を促すアルドの書き文字が、マークの目の前をよぎって消えていく。
「ヘンケンとタリムは(荷馬車の)後ろか?」
(そうだね)
 下手な追跡だと、マークは思った。
 大陸における版図の終点、樹海の岬の名で知られたロザへと続く街道が、南に向かって一直線に延びていた。わずか三年前まで、丸まると肥えた牛たちが草を食んでいた街道の両側は、放棄され、人の肩ほどにもなる草に没している。今、その草が不自然に揺れている。
「追い込みは三匹。行く手に罠を張っているのは三匹か四匹といったところか」
 馬車の音に混じる、草をかき分け踏みしだく音から当たりがついた。
(どこに罠を張っていると思う?)
「この先の、あの木だ。山桃の木がある。枝の張り方が木を登るのに丁度いい塩梅だ。村のガキどもの遊び場だった」
 クソ。
 マークは一瞬、山桃の木に登り遊んでいる子供たちの姿が見えてしまったことに、毒づく。
(木の上から矢を射かけてくる。と見るわけか)
「矢はクーガーに引きつけさせる。アルド全部打ち落としてくれ」
(それは、危険ではないか?)
「腰の据わっていない矢など当たらんさ。仮に食らっても、顔にさえ当たらなければ、タリムの魔法でどうにかなる」無意識に、舌打ちしていた。「いたぞ。街道に張り出した枝の上だ。一匹見える」
(まだ、矢で射るにも、石で落とすにも距離があるね。後二匹は幹の裏かな)
「もう少しだけ近づこう」
(二人には知らせないでいいのかい?)
「タリムはどうだかは知らないが、ヘンケンは逆に合図を待っていることだろうよ。あと何歩で届く?」
(あと十歩かな。十五歩なら確実に石が届く。逆に、奴らの弓でも矢が届くよ)
「ああ、わかった」一瞥した荷主の老人は、未だマークの隣で船をこいでいた。「俺は、じいさんと馬を守る。クーガー馬を止めろ」
 馬を引いていたクーガーが振り返った。顔つきはとっくに成人した男の顔であるはずなのに、その目は力なげな子供のように見えた。
「いいか? クーガー。あの山桃の木に走れ。お前が子供らと遊んだ木だ。そこにこそ泥どもがいる。奴らを地面に叩き落とせ。絶対に矢に当たるなよ。ヘンケンとタリムは草むらの三匹を頼む」
 マークの声に、甥はすぐには動かず何か言いたげな顔をした。
「行け、とっとと行け!」
 そう促されて、やっと、場違いにも思える雄叫びをあげながら走り出す。
 マークたちの声に、眠りこけていた老人がにわかに目覚め声をあげた。
「じぃさん目覚めたか?」
「ちと、手荒いな」
 御者台に立って、追っ手が姿を現したのを確認しながら、
「そう言うな、じぃさん。こいつらのおかげで山賊はいなくなったんだ」
 表では軽口をたたきながら、マークは苦い感情をかみ砕くような歯ぎしりをした。
 小鬼と呼ばれる人間型生物がいる。
 遠目には腕が妙に長めの頭でっかちな子供に見えるだろうか。もっとも、その姿がはっきりすると人間ではあり得ないことがわかる。頭髪の乏しい頭に、蜘蛛の巣のように赤く毛細血管の浮き出た大きな耳、ナイフで突いて開けたような鼻、乱雑な黄ばんだ歯がのぞく口。なによりも、大きく開かれた瞳に不気味に動く砂時計を倒したような瞳孔、そこに知能を感じさせることが、嫌悪感や怖気を呼ぶ。腕や腹に楕円に線を引いた意匠の入れ墨を施し、骨や枝を加工したアクセサリで身を飾り、粗末な刃物や槍、時には弓を使う。
 三年ほど前のことだ。三世代に近い開墾によって豊かな牧場と畑になっていたこの近隣の村々に、前触れもなく小鬼が侵入してきた。未踏域である樹海の奥地に小鬼が湧く壷があると噂されるほど、大量かつ途切れなく、木々の奥、闇の中から現れ、略奪を続けた。
 小競り合いから、双方百を越える合戦まで、幾度も剣と刃を交え。骸骨を三つ首に下げた宗教指導者と、熊の皮を被り体格に秀でた戦闘指導者を殺害し、小鬼の死体で山を築くほど殺してもなお、放棄された農場や耕作地を取り戻せてはいない。小鬼は、一時ほどでないにしろ、今も樹海の奥から絶えず現れ続ける。その生態は不明な点が多く、本拠地も不明。言語は持つが、知性が低く、粗野で、概念そのものが異なる異種族との間に、正確な情報を聞き出すことも、交渉する余地もない。畑や牧場から追われた者たちは、いつしか小鬼の被害の少なかったロザの農場で使われるか、交易に訪れる商人たちの護衛で糊口を凌いでいた。
 マークはそうした故郷を失った者の一人であった。
 クーガーは、背負っていた剣を引き抜き、叫びながら山桃の木を目指している。大きく張り出した枝の上で弓を構える個体の姿が、前触れもなく視界から消えた。心なしか、飼い葉桶を叩くような音が聞こえたような気がした。
 スリング使い、アルドの投じた石が命中したのだ。マークのすぐ横で、次の石を投石布にくるみ回転させている。こんな妙技を見たことがある。アルドがスリングを使い高く弧を描くように飛ばした石を、次弾で弾いて見せた。彼の言う魔術師とは案外、このようなスリングの技に名付いたものなのかもしれない。
 視線を再び荷馬車を追ってきた個体に向ける。
 ヘンケンの剣は、帝国兵そのものだ。堅守と速攻。敵の攻撃は盾で弾かれ、隙を見せれば剣で突かれる。迂闊に近寄れば、盾でいなされ、剣の一閃を食らう。予め決められた動作を繰り返すかのように、盾で守り、剣を突き立て、二体の小鬼を瞬く間に死体へと変える。二十代にかかるくらいの外見には不似合いな、古ぼけた装備を身にまとっているが、あえて言えば、市で仕立てたような帝国の武装は、伊達ではない。彼は、小鬼との間に開かれた最大の合戦前に、徴募に応じてここへ流れついた、もはや古株といってもいい冒険者だ。
 二日前から雇われているタリムは、両手鎚矛を獲物とする。僧学校出の僧兵が切り覚えするとこうなるのだろう。型は無駄にきれいだが、相手を打ち倒す無駄を省き、しっかり刈り取る。最後は容赦なく、柄を長く持ち直して、鎚を振り下ろす。
 冒険者たちにとって、小鬼は切り負けすることが難しいという。今、見せられたことが、そのままの答えだ。マークはガキの時分、熊の解体に居合わせたことがある。熊の毛皮と脂肪は、手渡された手斧で裁つのでさえ根気を要した。その下の筋肉や骨の話ではない。人で言えば皮膚に当たる部分での話だ。猟師の男が笑いながら語ったのは、熊たちは繁殖の季節となると、その強固な皮と毛に松ヤニを塗りつけて、守りを固めることを怠らないのだという。その皮膚の下の筋肉や骨の堅牢さに至っては言うまでもないだろう。その熊を一流の冒険者は片手剣で一つで屠る。剣の切れ味が優れているからではない。その剣を村の力自慢に持たせたところで、浅く傷を負わせるのがせいぜいだ。力でだけでは、人の胴ほどもある腕を飛ばし、返す剣で首を落とすような真似はできやしない。
 残念ながら、マークは冒険者ではない。その素養はあったかもしれないがそれは過去の話だ。甥のクーガーも、村の力自慢の領域からでるものではない。小鬼との命のやりとりは、冒険者たちのように一方的とはならないのだ。
 視線をクーガーの方に向ける。石蹴りでふざけて横飛びを繰り返しているようにも見えた。
「何やっているんだ」
(矢の狙いを避けているのでしょ? 一生懸命)
「スリングでやれないか?」
(クーガーが邪魔で無理だ。前に出たいフォローを)
 軽く舌打ちをすると、
「いや、アルドここを頼む。ヘンケン、タリム。もう済んだだろうが警戒だけはしてくれ」
 二人の返事を待たず。マークは遠目には右に左におかしなステップを踏んでいるようにしか見えないクーガーに向かって駆け出した。


  2

 クーガーは、木切れを握り直すと声をあげ、打ちかかっていく。
 ヘンケンは涼しい顔でそれを軽くいなし、そのまま流れるような動作で太股を木剣で叩く。
 クーガーの口から獣めいた悲鳴が漏れ出て木切れを落とすが、歯ぎしりし、唸るような声を挙げ、木切れを拾い上げると再び構え直す。
 強烈な日差しと、屋内では逃げ場所のない熱気を同時に避けられる場所。酒樽亭の店先の階段に座り込んで、マークはタリムと二人、その様子を眺めていた。
「あれ、痛くないですか?」
 タリムは口にしたワインのカップを床に置いた。嘲り笑ったように見えたのは、マークが彼に抱く印象がそうさせたものか、実際に嘲笑したものかすぐには見分けが付かなかった。
「痛くなければ覚えない。歩けなくなりそうだったら、治療してやってくれ」
 タリムの隣に座わるマークは、つまらなそうな顔のまま、カップを仰いだ。
「おいくらで」
「クーガーが払う」
「それは参りましたね。まともに人の話を聞いてくれそうにありませんから」
「俺たちが思っている以上に、あいつはあいつなりに理解している」
 床においていた酒壷からワインをカップに注ぐ。
「息子さんでしたっけ」
 マークとクーガーはそう言われるだけ歳が離れていたから、特段おかしな質問ではない。
「いや。義姉の子だ。血のつながりはない」
「まるで、実の息子に対する態度のように思えましたよ。でもクーガーというのは変ですね」
「字だ」
「なるほど。そう言えば、あなたの名前も変だ」
 マークは何も答えず。タリムは続けた。
「このあたりの入植者たちは、名前だけ聞くと中西部の村にでも迷い込んだ錯覚を覚えます。それゆえ、あなたの名前もマーカスとかマルクスとなるのが通りでしょう」
「俺は北の出身だ」
「ほぉ。三十年前の吸血鬼の悲劇ですか」
 マークは沸々と怒りがこみ上げるのを感じるのと同時に、どこか冴えている自分を感じた。
 マークの言葉に嘘はなく、彼は漠然と北と呼ばれる地方の農民の家に生まれ落ちた。
 寒々とした気候はどこの家も裕福にしてくれはしなかったが、少なくともマークの家族は、自分も含めて誰一人売られることもなく、育つことができた。父からは頑健な力強い骨格としぶとさを、母から物覚えの良さを引き継いだ。
 八歳を迎えた年に異変が起こった。その年の終わり、雪のない冬を生まれて初めて経験した。その後に訪れた春を忘れた夏は、長く、暑かった。麦がまずダメになった。種をまいても芽吹かず、かろうじて芽吹いた残りも、穂をつける前に、みな葉に黒い星を付けて立ち枯れた。それでも例年になく芋と豆がよく育ったので、大人たちは口々に天候や全く当てにならない雨の司に、悪態や呪詛の言葉を吐きながらも、生きていけないということはなかった。悩まされたのは林に住む獣たちだ。増えすぎたのだ。秋になれば木の実がたくさん落ちて落ち着くと、古老たちは話していたが、それを待つことができないほど山から下りてきて、昼間から、人目もはばからず荒らすようになった。
 マークはそのときのことを、投石で一日に十羽以上のウサギを捕ったことを子供らしい誇らしさと共に記憶している。
 異常気象は翌年も続いた。そこに至って現れたのは、人の顔ほどの大きさほどにも成長する巨大な蚊と、それらがもたらす病魔であった。
 蚊は繋がれた家畜を襲い。女子供を襲う。実際に見たわけでもないのに、渡りガラスよりも大きな蚊が飛来し、人を刺すのを本当に見たかのように記憶している。
 生まれ故郷の農村を離れ、港町にたどり着いた日の記憶はひどく曖昧だ。が、村を出る最後の晩か、その前か、うるさく煩わしかった弟や妹たち、優しかった母親が、近所の老人たちの死体と共に積み重ねられ、火を放たれところを眺めていた記憶は、歳を重ねても夢の中にまで現れて、マークにとって、一生忘れることのできないものの一つとなった。一年弱、幼い少年にとっては、ほぼ一生とも言える時間。港町のスラムで暮らし、泥水をすすって生きた。
 当時、マークには想像すらできないことだったが、帝国との戦端が開かれたことによって、船乗りが一人でも多く必要とされた。少年は、少将と呼ばれていた土豪の人足狩りに捕まり軍船に無理矢理乗せられた。狩られたウサギ、そのままに船底へと押し込められたのだ。飯にこそありつけたが、そこでの扱いは物以下だった。船を漕がされ、敵船に襲いかかる際には生きた盾にされた。マークは生き延びることだけを考え、消耗品から船に欠かせない部品となるのに、その聡明さと体の強さが役に立った。毎日一食は食わされる生きたままぶつ切りされたウミヘビに、ライムを絞りつけたもの。王の飯と呼ばれるゲテモノ喰いにも早くに慣れた。船の上でのつまらない仕事を怒声を浴びる前にこなし。ある戦いの中、ウサギ狩りの要領でナイフを投げつけ、使い物になると認められた。
 認められた少年は、当時乗っていた船の力関係から、数字すら満足に読めないくせに地図読みの下で働かされた。地図読みの老人は癇癪持ちですら辟易とするような男で、常に手にしていた棒で頭の形が変えられてしまう前に、盗み取るように文字と数字を覚えた。努力、これを努力と呼ぶのだろうか。半年経たずして、もの扱いではなく名前で少年を呼ぶ者が現れ、三年過ぎない内に、マークをその名前で呼ぶ者の方が多くなった。十五になった歳に一人前として認められ、軍船の一つに地図読みとして就いた。だが、船乗りとしての特性やそこで応酬される暴力が性に合っていたわけではない。船底に押し込まれたとき、いや、村を追われるように出て、スラムに流れ着いたときと同じ、生き残ることに懸命だったのだ。
 反射的に手を回してくるのは読めていたので、腕で払う、たとえ男の首であれ、長い労働で培った握力は、へし折ることを可能にするだろう。だが、現実には、タリムの首をへし折ることはおろか、喉を潰すこともしなかった。ただ喉仏に親指を当て首を掴んでいる。
「おまえには俺の過去を詮索する自由はある。だが、俺にはそれを辞めさせる自由がある。嗅ぎ回るのも自由だが、度が過ぎた自由は目障りだ。わかるか?」
 タリムは目を針のように細め、
「怖い、怖い」
 とあざ笑うかのように笑った。自分の状況を飲み込めていないわけではない。ましてや、マークを挑発しているわけでもない。あくまでこれがこの男の自然体のように思えた。
「おまえの信じる神は、どうかしている」
 マークは解放してやる。
「信じる神? 私は他人の言うところの神など信じておりません」
 そのタリムの言葉にマークは合点が行った。
 試練に負けた者、棄信と呼ばれる厄介者がいる。この男もそういう手合いなのだろう。中には自分が神だと言い出す狂人までいるが、神々はそうした者たちでさえ、一端与えた力を奪うようなことはしない。神というものが人間の考える人間に都合がいいだけの存在ではないという証拠だと、かつて捕虜にした僧侶が話していたことを思い出した。
「せいぜい、おまえだけの真実を探すがいい。迷惑になるようだったら、容赦はしない」
「そうさせていただきます」
 タリムは再び笑うような顔になった。
 マークは視線を感じて、クーガーの顔を見る。叔父と新入り冒険者との間に諍いが生じたと思ったのだろう。普段は間抜けもいいところだが、昔から、こういうことにはめっぽう嗅覚が利いた。
「安心しろ。ちょっとした悪ふざけだ。それより、稽古を続けさせてもらえ」
 そう言って、酒樽亭の中で飲み直そうと立ち上がったところで、「マークの旦那ぁ」と物見櫓から声がかけられた。
 三年前まで、物見櫓はおろか防柵や堀など巡らせてもいなかった街道筋の一軒宿屋は、今や、急ぎではない行商人相手の宿屋と共に、街道護衛の詰め所を兼ね。名実ともにちょっとした出城といえた。
「どうした」
 櫓の小者に声をかける。
「人が一人やってきます」
「それがどうした」
「いや、それがパラクナから直で来る小径の方でして」
 小者が言葉を濁す意味に合点が行った。港町パラクナに揚がった荷は、通常、それがたとえ急ぎの荷であってもリッテンボーグを経由して、南北を通る街道を使ってロザへと至る。パラクナから直で行く道がないこともないが、一度雨が降ればすべてが沼と化す、その寂しい道を行き交う者は希だ。しかも一人というのが気になった。
 門の方へ歩き出したマークの背に、タリムが「働き者ですね」と声をかけた。それは、皮肉の類でも、ましてやマークの気を和らげようとかけたものでもないことだけはわかる。井桁の隙間から、小柄な男が一人走ってくるのが見えた。皮で補強された服と日に灼けた肌を見て、一目で船乗りもしくはそれに類するとわかるが、随分と若い、その顔つきがわかるようになると、子供のように思えた。
「どうした?」
 マークから声をかける。
「あんたがマーク……さんか?」
 その声も若い。まだ十五にも達していないような少年だ。
「ああ、だからどうした」
「この先の街道で、うちの旦那の荷馬車が立ち往生しちまったんだ。あんたの名前を出せば、この砦で人が借りられると聞いて」
 礼儀を一から教えないとダメか? そんなことを一瞬思ったが不毛なことだとあきらめた。
 こいつは行商人の徒弟だ。新入りなのだろう、見かけない顔に、主人が思い当たらない。
「おまえの主人は誰だ」
「それより早く、人をつれて来てください。大変なんです」
「だまれ。お前の主人は誰だと聞いている」
 ことさら怒気を含ませたつもりはなかったが、徒弟は首を縮めた。
「い、イザークさんです。万商いの」
 語尾は消えかけた。
「イザークの仕事なら、前金の話からだと伝えろ。まだ、俺たちは先月したことを忘れてないぞ」
 イザークは金に汚い男だ。金に綺麗な商人というものを聞いたことがないから、商人としては優秀なのかも知れなかったが、口約束だけは出来ない類いの男だ。
「いや、でも、人足を出してもらわないと」
「だから金次第だと言っている」
 金銭交渉をするなと言いつかっているのだろう。もしかすると、自分の名前を出さずにマーク一党を連れてくるよう、言われているのかもしれなかった。マークは別段、この少年を気の毒がる義理はない。
「叔父さん」
 背中にかけられたクーガーの声に、ため息をついた。
 甥はバカが付くお人好しだ。それを忘れたことはなかった。しかも、駄々をこねると厄介この上ない。
 クーガーに視線を向ける。
「困ったときは互い様さ」
 妙に明るい女の声で、そう声をかけられたような気がして、舌打ちした。
 あいつは、ありがたい言葉を、たくさんこいつの空っぽの頭に言い聞かせていた。なのに、俺はこいつを農夫として一人前にするのは諦めている。
 たまの善行も悪くはないか、と心の内で諦めるように呟いて、腹を決めた。
 マークが呼ぼうと視線を向けると、ヘンケンの方から声がかけられた。
「立ち往生の次第では、夜になるかもしれない。私とアルドも装備を調えて同行しよう」
「ありがたい。だが、いいのか? 奴さん、亡者が服着て歩いているようなものだ。いろいろケチ付けられ、ただ働きになるぞ」
「クーガーが駄々をこねるよりはマシだ」
 ヘンケンは表情を動かさないまま肩をすかす。
「すまないな」クーガーに向き直り、「おい、クーガー、おまえはスコップを指と同じ数だけ、取ってこい。あと剣も忘れるな。夜になると盗人どもが勢いづく。運が良かったな、小僧」
「へ、へい」
 少年は、マークから視線を逸らすように頷いた。


 ロザの主要産品の一つはスパイスである。多島海において同様のスパイスが大量生産されるようになって久しいが、ロザの地名がそのままスパイスの名前として流通するほどの品質を保ち続けたため、いまや、スパイスのロザは、遠く帝国まで旅をするという。そのロザの食料庫は、かつてリッテンボーグから延びる街道に点在した集落や村であった。今は、リッテンボーグがその大半を担ったが、一部、嗜好品となると多島海のものがそれに置き換わった。
 かねてより、スパイスを効率よく海外へ運ぶためにも、また、不足する嗜好品他を得るためにも、リッテンボーグを経由せず直接、港町パラクナへと延びる、この道を整備するのが最良と誰もが考えた。が、誰もその考えを現実に移すことはできなかった。パラクナから延びる道は、そのほとんどを、細長く延びたカバの林の中を進む。そうした林は、夏の、目も開けられないほどの夕立を浴びると、瞬く間に沼と化す。一度沼になった林は、水が引くまで数日の時間を要した。
 そういう背景がある道を、マークたちは黙々と進んだ。
 緩やかに登る丘を登りはじめたところで、マークの耳が、猿たちが自分のテリトリーを誇示する声とは全く違う、甲高い音を拾った。
「小僧。一つ確認しておく。ここから近いな?」
 マークは先頭に立たせていた徒弟の背に声をかける。
「あ、はい。この丘を下ってもう一つ小さな登りを登った先です」
(どうかしましたか?)
 そう文字が流れてくる。
「この先で、戦っている連中がいる」
「小鬼? それとも山賊か何かですか?」
 タリムがいやに悠長な声を上げる。
「そのつもりで急ぐぞ。小僧、お前はここら辺りで隠れてろ。一時間経って俺たちが戻らなかったら、酒樽亭に助けを求めてくれ。いいな?」
 ヘンケンの顔を一瞥し、「クーガー走るぞ」と背中を叩いてから、駆け出した。
「無駄じゃないですか」
 タリムのそのつぶやきをイザークの徒弟だけが聞いていた。
 徒弟の小僧が言うとおり、小さなピークを登ったその先に、緩すぎる地面に車輪を取られ、荷崩れでも起こしたのか。荷馬車が横倒しになっているのが見えた。
 すでに決着は付いた様子で、二人の男がひざまずかされ、三人の男たちがなにやら要求を突きつけているように見えた。
「ほら言ったじゃないですか。無駄だと」
 そのタリムの声をことさらに無視したつもりはなかったが、マークはとっさに声が出なかった。
「先生」
 と声を上げたのは、クーガーだ。
 ひざまずかされている二人は、イザークと彼が雇った港町の用心棒だろう。赤銅色に日焼けした二の腕も逞しい男が、魔術師の捕虜のように、頭の後ろで手を組まされ小さく座らされている。
 問題は、襲撃をかけた男達の中に、見知った顔があった。
 恵まれた体というべきだろう。生まれたときから、剣を振るい、地を駆けるためだけに体を与えられたような大男。ダイモスがいた。
「おや、珍しいお客さんだな」
 ダイモスも気がついたらしく、酒場で懐かしい友人と出会ったかのような笑みを浮かべた。
「ダイモス。これはどういうことだ」
 マークの声も表情も苦くなる。
「マークの旦那も久しいな。クーガーは相変わらず馬鹿で元気そうだ。アルドもいるのか? 懐かしいな一年ぶりか?」
 一年前、ここを去るときとまったく変わらない。優れた体と、軽口と無駄口、酒と不貞不貞しさで出来上がっているような男だ。およそ危機感というものを感じない。今もまるで、久しくあった仲間との再会を懐かしむ様子すらある。
「茶化すな」
「旦那、見てわからないか?」
「わからん。だから聞いている」
「取立にわざわざ来てやった、と言えばわかるだろう」
「お前は何をしているのかわかっているのか」
「何って、これくらいしないと、コイツが銅の小片だって払わないことくらい。旦那もわかってるだろ?」
「ふざけるな! お前の働き分は、しっかり払っただろう」
 マーク達のやりとりを聞いていたイザークが声を上げ、ダイモスの子分に殴り倒され黙った。
 クーガーが、前に出ようとするのをマークは腕を引いてやめさせた。
「おいおい、あんまり乱暴はするな。俺は乱暴が嫌いなんだ」
 相変わらず口が減らない奴だ。
 マークは、そう心の内でつぶやきながら、イザークとその用心棒が無傷であることを確認した。
「二人は知り合いですか?」
 間抜けともいえるタリムの声に、先ほど絞めなかったことを一瞬悔やんだが。
「ダイモスは、村人に教練を施した豪腕だ」
「ほぉ」
 タリムは明らかに場違いな感嘆の声を上げた。
「ああ、あれはただの真似事だ。それに、マークあんたがやれと言ったからやったんだぞ。そうじゃなかったら、そんな面倒なことはしない」
「ダイモスいい加減にしろ。これは見逃すことはできないぞ」
「いいや、見逃してくれ。この悪党の口なら、ここで封じてしまえばいいんだ。あんたたちはここで何も見なかった何も聞かなかった。それですべてが済む」
 そういうわけには行くまい。
 マークは、いつからか渇いてしまった口の中を湿らすように、口の中、舌を動かした。
「見逃すことはできない」
 危険を冒す必要はない。わずかな稼ぎを掠め取るような商人の命と、自分たちの命を天秤に掛ける必要さえないことはわかっている。
 頭でわかっていても、それを見逃すことができないのは、マーク自身の矜持であり、クーガーに対する叔父としての義務だ。
 小鬼に殺されたクーガーの母親は、この木偶の坊が正しく生きることを常に説いていた。それがあって、この甥は弱い者の味方であろうと言葉ではなく態度で示す。そのクーガーを一人前の農夫ではなく、剣を持たせ闘争の世界に置こうとしているのだ。示さなければならない義がある。
「頭かてぇな。おい今日何日だ」
 子分の一人が「大潮だ」と答える。
「そうか。大潮に僧侶を殺すのはまずいな。縁起が悪い。あんた、見てるだけにしてくれないか。あんたが手を出さない限り絶対にこっちからは手を出さね」
 ダイモスはまるで古くからの知り合いのように、タリムに語りかける。
「タリム。俺が死んでも、ダイモスが死んでも、この場にいる者の傷は必ず治してくれ」
「つまり、働かない分は、治癒魔法で返せと?」
「そうだ」
「まぁ、私に損な話ではないですからいいですよ。この人強そうだし、殺されるのはごめんですしねぇ」
「さすが旦那だ。話がわかる。こんなところで燻ってるのが惜しいくらいだ」
「ヘンケン、ダイモスは俺がやる。そちらのがたいがいいのを頼む」
「わかった」
 ヘンケンはゆっくり剣を抜き放つと、体を覆うように盾を構え、その上に置くように剣を構える。
「おい、お前、帝国兵のやり口はわかってるな?」
 ダイモスはマークが指名した男の顔を見た。
 レートを決める。
 そういう言葉が実際にあるわけではないが、漠然と、冒険者や海の男、暴力を馴らす者たちの間には、殺すまでやる、片腕で勘弁してやる、片目をえぐる程度で許すなどの暴力のレートというものがあった。口に出してレートを細々と決めるわけではないが、不思議と定まったレートを超える応酬は行わないものだ。
 今、そのレート定めていることを自覚した。
「クーガー! 先生の連れだろうと容赦するな。その男を小鬼のように叩き潰せ」
 クーガーが動揺に揺れる目を向けてきた。
「お前の母さんに、今の自分の正しさを示すのだ」
 死んだ者をダシにするようで唾棄したくなるが、クーガーが覚悟を決めて動かなければ話にならない。
「クーガー。攻撃するときは動き回らなきゃダメだぞ。動きを止めたら前みたいに殴っちまうぞ。おい、奴はまだ人間を斬ったことがない。バカ力だけだ」
 ダイモスらしい軽口は、クーガーの中で押さえていた最後の閂をはずしたらしい。彼はスコップをその場に棄てると、背中の両手剣を引き抜いた。
 人を斬ったことがない。それは素人と同義だ。素人と、荒事でならし、人に刃物を突き立てることに躊躇いのない玄人では、もって生まれた体の差など軽く無為にする。クーガーの方が上背でも筋力でも勝っていたが、圧倒的な不利といえた。初陣のとき、合戦のとき、幾つもあった正念場のうちの一つが来ようとしている。マークは、もしもを考えてしまうが、その無意味さに頭を振る。後戻りなどできない。
「アルド師、お前は見てな。スリングを振り回せば、生き残れる確率はサイコロのピンゾロと同じだ」
 ダイモスはさりげなく釘を差す。
「俺が死体になってしまったら、ロザの義弟に伝えてくれ」
 マークはダイモスに顔を向けたままアルドに言い放つ。
 アルドが宙に文字を書くそぶりをしたようだがマークはそれを見なかった。視線をダイモスから逸らさないようにしながら、周囲の状況を確かめていく。全体がぬかるんでいた。靴底に泥がこびり付いて足がいつもより重い。それは、向こうも同じ条件だったが、向こうは単純な力で押し切ることができる以上、こちらの分が悪い。向こうは一流の上、もって生まれた体も上だ。
 ヘンケンとクーガーがそれぞれの場所を求めて動き出す。
「マークの旦那とやり合うのは、初めてかな。海賊剣法なんて、どこで仕込んできたんだ?」
 マークは、ダイモスの言う、海賊剣法、左手を真っ正面に付き出し、ひざを軽く曲げ、剣を腰だめに構えた。
 左手は、相手との距離を測り、自分の距離を攪乱し、揺れる船上での戦いのバランスをとり、最後は自分の身を直接守るものだ。
 ガキの時分から見様見真似の斬り覚え。ダイモスには無意味であっても、これ以外の剣をマークは知らない。
 以前、樹海で小鬼狩りを行っている際、熊に出会った。前足を地につけた状態でさえ、マークの背に迫る大物だ。立ち上がれば倍を越える。ダイモスは臆した様子もなく、一撃で人間の首など吹き飛ばす爪を軽いステップで避け、逆に人間の胴のような腕を切り落とし、アルドのスリングで膝を砕かれ下がってきた首へ、一刀を叩き込み、切断した。
 そうした剣を使うダイモスは、マークの左手を落とし、返す刀で首を刎ねることくらい訳もなく行うだろう。
 老いというものを感じて、死に向かって歩んでいることを自覚しないわけではないが、その歩みが急加速して行くのを感じずにはいられなかった。だが勝ち目がないわけではない。ヘンケンとクーガーが子分たちを倒しさえすれば、ダイモスは退かざるを得ない。ヘンケンとダイモスを戦わせて、堅守によって時間稼ぎするのではなく、ダイモスが負けるはずがないと思いこんでいるマークがそれを行うことによってのみ、それを為すことができる。
「行くぞ。ダイモス」
「来いよ」
 そのダイモスの声が棒で何かを連打する音に消された。クーガーがダイモスの子分に、容赦ない撃剣を加えているのだろう。だが、ダイモスの言うように動き回らなければ、酒樽亭前でやっていたヘンケンとの稽古のように、軽くいなされ先に致命的な一撃を食らうことになる。素人の力任せは玄人には全く通用しないものだ。だが、クーガーに割いている余裕はもうない。すべては始まっているのだ。
 マークのつま先が泥をかき分けるように動く。二歩で間合いに飛び込める。
 二人の間に予期せぬことが起きた。マークは二歩目を踏み出すことができなかった。
 丘を一つ超えて走って来たことが災いしたのか、ぬかるみが特に深い場所をたまたま踏み抜いてしまったのか。マークの踵が滑り、マークの眼前を二度剣光が過ぎていった。本来、マークの左腕と右手のあったであろう空間を、剣が嘗めるように過ぎていった。
 しりもちを付いてから前に転がるようにして、マークは剣を振るった。逃げではなく、攻めに転じたのは、海兵時代培った勘がさせたものだ。手にする片手剣に確かな手応えを感じた。
「お前、魔術師だったのか」
 ダイモスがここに来て初めて余裕のない声を上げていた。
 振り返ると、アルドが、
(そうだよ。私は魔術師さ)
 と宙に文字を綴った。
 不運とも僥倖ともいえるマークのスリップと、アルドの何らかの魔法が、マークの両腕を救った。ダイモスの剣は、何らかの魔法を食らったがために、マークを追いきれなかったのだ。そして、マークの勘がダイモスの太股を切り裂いていた。
 状況を確かめる。
「そこまでだ。俺たちの勝ちだ!」
 なおも、一心不乱に両手剣を振るうクーガーを、一喝してやめさせた。それによって、クーガーの単純な力に押し切られて、盾でその身をかばいながら喉の奥で小さく悲鳴を上げていた子分の命が救われた。ヘンケンはすでに勝負が付き、ダイモスの命を狙って動き始めたところだった。ヘンケンに斬られた子分は手首を押さえ小さくなっている。
「ダイモスお前の負けだ。縄につけ。タリム、けが人を治療してやれ」
「いいのですか? また暴れるかもしれませんよ」
「暴れる必要はない。コイツ等は金で雇われダイモスに言われてやっただけだ。わずかな罰金か、せいぜい一週間、港造営で働かされるだけで済む。ここで暴れて人殺ししようものなら、お尋ね者になる上、捕まれば確実にガレー船送りだ。イザークと護衛が無傷だろ。最初から、その辺のことは考えている。
 縛らせてもらうぞ」
 座り込んだダイモスの後ろに回って手を結んだ。
 ダイモスの動きが止まる。マークは口の奥で含むような声を立てた。
「お前は、俺たちの村のために命を張って働いてくれた。クーガーが万一にも死なないように気をつけてもくれた。今度の大潮は夜中だ。一斉に船が満月に向かって沖に出る。そうなったら最後、どの船に乗ったか調べようもない」
 マークは、初めからダイモスを殺すつもりも、官憲に突き出すつもりもなかったのだ。
「一緒にいかねーか?」
 ダイモスが口元でつぶやいていた。
「俺はここでやるべきことがある」
 ダイモスは「そうか」とだけ答えた。
 転倒した荷馬車の車軸は、運よく折れていなかった。小僧を呼びにやって、ダイモスの子分たちの力まで借りてどうにか起こすと、崩れ落ちた荷を、イザークの悲鳴を無視して荷馬車にどんどん投げ入れていった。
 クーガーが地面に落ちた洋なしのような果物を拾い上げ、イザークが、それをものすごい形相と悲鳴を上げて取り上げたとき。
「あの、みなさん。ダイモスとか言う男いませんよ」
 とタリムが声を上げた。
 その騒ぎを背に、少し離れた場所でマークは終わったとばかり一服付けていた。
(逃がして良かったんですか?)
 マークの横で、アルドも覆面を解いてキセルをくわえながら、一筆書いた。
「命を張ってくれた男だ。これで奴との間に貸し借りはなしだ」
(そういうことですか)
 書き付けた文字であるにも関わらず、どこか楽しげな笑み混じりに思えた。
「魔法を使うとは知らなかったぞ」
(魔術師ですから。ただ、消耗の割に人一人倒すこともできません)
「スリングの技を鍛える方がマシという訳か」
 アルドは紫煙を吐き出し、遠い目をしながら、
(人には向き不向きがありますよ)
 と書き付ける。
「なぜ、お前等は落ち着いてキセルをふかしているんだ」
 イザークの声が飛んできた。
「どうしたイザーク」
 マークは火皿の中身を剣の柄に叩いて捨てて、吸い口から勢い良く吹いた。
「どうしただと。ダイモスの奴が逃げたんだ。まさかあんた」
 肩を怒らせながらイザークが歩いてきた。
「おい、何を言いたいのか知らないが。イザーク、あんた助かったんじゃないのか?」
「それはどういう意味だ」
「あいつは、村人に剣を教えた男だ。いわはば師だ。ロザにも奴に剣を教わった奴はかなりいる。そのダイモスとあんたの間で諍いがあったと聞いたら、どう思うか? 血気に逸るのは若者の性だ」
「お、脅す気か」
 イザークの歩みが止まった。それはたじろぐと言うよりも、さらなる怒りを爆発させる前触れのようなものだ。
「落ち着け。俺はこう考えている。お前は、そうやって俺にケチを付けて、俺たちが助けてやったことも、馬車を立て直したことも、荷物を積み直したことも全部チャラにしてしまうじゃないかと」
 イザークは忌々しさをだけを表す唸り声を上げて、
「金ならくれてやる。忌々しい」
 懐から出した袋の中から硬貨を掴むと、マークの顔目がけて投げつけてきた。
 マークは舌打ちした。硬貨は二枚取れただけで、残りは顔や体に当たって落ちた。十年前なら全部とは言わないが、もう何枚かは手で取れたはずだ。
 もっと、若ければ、ダイモスの誘いに乗ったのだろうか?
 その疑問はすぐに「ありえない」という言葉で打ち消された。


   3

 朝、目覚め覚醒するに従って、何か予感めいたものを覚え、胸の奥がざわついた。若い頃、嵐に直撃する前の晩などに、よくこうなったのを覚えている。
 あの夜、帝国海軍の襲撃を受けて、船が沈められた日も、ちょうどこんな風ではなかったのか?
 マークは毎朝そうするように、揚げパン、ベーコンとタマネギのスープといった朝食を口に運びながら、この心の奥のひっかかりについて思案していた。
 マークは今日も街道護衛につく。十時前後にロザからリッテンボーグへと向かうスパイス満載の荷馬車が、この酒樽亭の前を通る。それらを護衛する手はずだ。
 現状に、不満はある。ロザの村会は、ロザ側の酒樽亭と、リッテンボーグ近くの酒杯亭との間にのみ注力して、後は、合戦以降小鬼の目撃例がないことを口実に、商人たちに護衛を付けようとはしなかった。さらに、マークはことあるごとに、街道の東に広がる樹海、その内部に点在する、小鬼たちの橋頭堡となるような洞窟や岩の隙間などの巡視の必要性を説いていたが、全く受け入れられることはなかった。
 金がない。適切な人員がいない。と言うのではあれば、納得はできるはずもないが、まだ説得力を持ち得た。小鬼を下手に刺激したくはないという理由を聞かされたとき、マークは怒ることすら忘れた。呆れたのではない。小鬼の居住を認めるのと同義にすら受け取れて、怒りが振り切れてしまったのだ。
 イザークが、村会に訴えてやると息巻いていたのも、マークと村会との険悪さを知ってのことだ。そのイザークは昨晩、この宿に泊まらずそのままロザへと南下して行った。
 この胸騒ぎは、イザークの身を心配してのことか? そう独りごちしてみるが答えは出ない。
 イザークには、護衛が一人だけだが、確実にクーガーよりも腕の立つ男がいた。たとえ小鬼に襲われたとしても切り抜けられるだろう。マークは自覚しなかったが、村会と同様に酒樽亭以南には、数で押されるほどの小鬼が出没しない、つまり危険はないという頭があった。
「マークの旦那ちょっと来てくれ」
「ん?」
 戸口から顔を出した酒場の主に呼ばれ、顔を上げた。
「パラクナから早馬が来ている」
 その言葉をかみしめる前に、体が前へと動いていた。
 胸甲と剣で武装した二人の兵士がいた。見た目、貴族出身というわけでもなさそうだが、何か香のようなものを強く焚きしめているらしく、香った。
 兵士の一人がマークを認めると、
「おまえがこの周辺をまとめている者か?」
「それはわからないが、マークだ。義弟が村会の一人だ」
 兵士は互いに目配せすると、
「マーク殿、禁止されている果物をパラクナに持ち込んだ者がいる。総督はパラクナでの調査と同時に、近隣に警告を出された。禁止された果物の即刻、火による廃棄だ。持ち込んだ者の捕縛には懸賞金も出されている」
 警告? 廃棄だと?
「詳しく話してはもらえないか。いくらでも労は惜しまないが、話が見えないことには、こちらとしても動けない」
「わかった。パッションフルーツというものは知っているか?」
 マークに心当たりはなかった。
(性欲を増すという果物です。王命によって禁止されたものですね。なんでも寄生虫が病魔の固まりだとか)
 兵士達は、アルドの煙に目を見張ったようだが、冒険者と見ると納得したらしく、口を開いた。
「その通りだ。果物自体に害はないのだが、果物につく寄生虫が病魔をもたらす。すでに、病魔が原因の熱病に患った者が数名出ている。一番厄介なことは、蚊がこの病魔に感染すると、その個体が媒介するだけでなく、その卵まで病魔を媒介する蚊になることだ」
 マークは苦い顔になった。
「果物の廃棄だけではなく、すでに病魔が蚊に感染していると仮定して、蚊を発生させない仕組みと、蚊を退治し、寄せ付けないための対策がいるということか」
「そういうことだ」
「あれのことじゃないですかね?」
 兵士とマークの視線が、声を発したタリムへと向いた。
「ほら、昨日我々が救ったパラクナから来た商人、えっと名前は」
「イザークだ」
 マークはいらつきを隠そうとはしなかった。
「そう、その彼の馬車に、彼の荷物を投げ入れている際に、こぼれ出た果物がありました。それをたまたまクーガーが拾い上げたら、烈火のごとく怒っていましたよ。まさか食われるわけないと私は思いましたがね」
 血の気が引いた。
「イザークは、昨晩ロザへ向かっている。マスター俺に馬を貸してくれ」
 朝から感じていた胸騒ぎのことが頭を過ぎり、鎧を着ていないことに舌打ちしたが、やむを得ない。袖口に、虫除けの精油のきつい臭いがついていることだけを確認すると、
「俺がロザまで案内する。ヘンケン、クーガーを頼む。追ってくるなら武装を整えてくれ。今さらだが、精油を付けるのを忘れるな。タリムは蚊が出ないように、飼い葉桶の端の残り水まで、残り水はすべて全部棄てろ。ボンフラがわくような水はすべてだ。井戸は消毒して蓋だ」
「わかりました。大変なことになりましたね」
 どこか人事めいた声に、
「ああ、大変だぞ。しっかり働いてくれ」
 マークも事務的に答える。
「わかりました。防疫を考えてみましょう」
「あてにしているぞ。タリム」
 マークは小者があわてて引いてきた馬に乗ると、兵士たちと共にロザまでの道を急いだ。
 本来、剣は鞍に対して横向きに差し、すぐに抜けるような形では帯びなかったが、いつでも抜けるよう、胸騒ぎに従うことにした。
 胸騒ぎは、数キロを走らない内に現実となって現れた。
 子供が街道の真ん中で生き絶えていた。
 馬から下りて遺骸に近づき、一瞬、病魔の危険が過ぎったが、手や腕は体を抱き起こしていた。思った通りの顔がそこにはあった。イザークの徒弟の少年だ。死体を見るのは慣れていたはずなのに、顔が歪むのを感じる。何度もそうしてきたように、手は自然と虚空を見つめる目を閉じさせていた。
「見覚えは」
「イザークの徒弟だ。赤筋にやられている」
 マークは、徒弟の腕を顎で示す。逃げながら両腕で自分の身をかばったのだろう。腕や手に太い針で刺されたような穴がいくつもあった。
「赤筋?」
「この近辺での呼び名だ。リッテンボーグの魔術師はロックケイブモスキートと呼んでいた」
「蚊? 蚊が人間を殺すのか?」
「ああ、人の頭よりもでかいが……」
 そう答えながら、目は徒弟の死体に張り付いたかのように離れなくなっていた。
 不意に、叫び出したい衝動に駆られ、素直にそれに従った。
 これではなかったのか?
 子供の頃、故郷を追われることになったのは、これではなかったのか?
 同じような死体を俺は何度も見ている。
 マークの脳裏を、親しい故郷の人々が腕や背に穴をあけながら死んでいる姿が過ぎっていく。
 叫ぶだけ叫んで、声が続かなくなり、自分はもう冷静だと心の中で言い聞かせる。
 荒い息をつきながら、
「取り乱してすまない」
 兵士の方を向いた。
「構わない。うちの倅が、これくらいの歳だ」
「……死体は、後に任せて、先を急ごう」
 声を絞り出すように出すと、少年を寝かせるように置き、神の祈りの言葉を呟くと、馬にまたがった。
 馬を進めると、行く手にうっすらと煙が立ち登っているのが見えた。さらに寄せると、馬が暴れたらしく横倒しになった荷馬車の腹が見えてきた。
 蚊を恐れ、たき火を焚いたのか? 荷馬車が倒れたとき、ランプから荷に燃え移ったのか? 判断が付かない。
 だく足で遠巻きに歩かせると、手近の荷物を焼いて蚊よけにしたのだろう。護衛が、くすぶり続ける白くなった灰の近くで、剣を片手にうつ伏せのまま動かなくなっているのが見えた。しかし、イザークの死体が見当たらない。
 荷馬車の周りに、イザーク本人の死体が見あたらないのは、なぜだ?
 まさか……。
 そこまで考えて、マークは馬を下りた。
「静かに」
 耳があの嫌らしい羽音を拾っていた。
 小鬼とも四つ足の生き物と違う。感情も知性も微塵も感じさせない複眼が目に飛び込むと同時に、ナイフを投げていた。
 狙いは違わず、街道脇の草むらから飛び上がり、こちらに向かって来たロックケイブモスキートを打ち落とす。
「でかい。マーク殿、あれがロックケイブモスキートという奴か」
「ああ、農家の天敵だ」
「こういう風に人を襲うものなのか?」
「いや、牛や丸まる肥えた豚を狙うが、死ぬまで血を吸い尽くすようなことはないし、まして人間は襲わない。まともな家の人間なら、寄せ付けないように精油を襟や袖に塗っているもんだ」
「では、準備をしている人間には無害か」
「俺は今朝、袖に精油を付けることを忘れなかった。あんた方だって匂うくらいの香を焚きしめているだろ」
「まさか。何が起きている」
「わからん。ただ確かなのは、あの草むらの中にイザークの死体があるはずだ。精油をたっぷりかけているだろうよ」
 マークが行こうとしないので、兵士の若い方が剣を引き抜いて歩いていく。
「ありました。四十くらいの男が死んでます」
「奴は、イザークは、赤筋に襲われたとき、徒弟に助けを呼べとでも言って、酒樽亭に走らせた。自分は精油をありったけかぶり、護衛にまだ生きていたランプの火を使って火を起こさせたんだ。赤筋は、早く動くものと熱いものを狙う。元々、樹海の動物を相手にしていた習性だろうな。森の動物と同じでたき火なんか恐れはしない。奴はそうした習性を知っていたんだろうよ。精油を振りかぶって、じっとしていれば自分だけは襲われない。さもなければ、ケチが服を着て歩いている男が、荷物を燃やさせるわけがない」
「徒弟と、用心棒を囮にしたのか?」
「本人がくたばっちまっているんじゃ。もう聞き出しようがない。
 それよりも、まずはパッションフルーツだ。ここで回収なり破棄が終わる頃には、詳しい奴が追いついてくるはずだ。ひとつ確認しておきたいんだが、今のパラクナの総督の名は、確か……」
「グリンドール伯だ。それが何の関係がある」
 その名を聞いた瞬間、舌打ちしそうになった。
「なぜ、ここまで賢明なのか合点が行った。北の出身の方だな」
「そうだ。なぜそれを?」
「北でグリンドールの名を知らないものはいない」
 かつて少将と呼ばれていた貴族もその名を持っていた。因縁を感じずにいられない。愚かな総督や、愚かな官僚たちであったら、病魔の蔓延は防げなかっただろう。並の総督であってもどうか。
 神というのが本当に人間のためになるものだとしたら、どうやらまだ見捨てられたわけではない。そうマークは思った。


   4

「ははは、大きくなったな」
 マークは子供の脇の下に手を入れると、高く持ち上げた。
「うん、叔父さんの腰よりも高くなったよ。顎の髭だってさわれるよ」
「お前の父ちゃんは背が高いから、兄ちゃんたちみたいに叔父さん越されちまうな」
 マークの義弟は、場合によってはリッテンボーグからロザに至るまでの農場、その三分の一を所有していたはずだった。長兄が逝去したとき、すでに彼は、ロザ村会で発言権を持つ八家の一つ、アーガイルの家に婿養子で入っていたため、この難を逃れた。
「義兄さん、来ていたのか」
 義弟は二十代後半、マークの息子といっても差し支えのない。だが、自ら鋤を振るわずに過ごす豊かな生活は、腹に肉を貯めさせる。印象は、マークとそう歳が離れては見えなかった。全体的な線の細さと眉間に神経質そうな縦じわを別にして、父親にだいぶ似てきた。
 義父は使い物になると見込めば、前歴を問うようなまねはしなかった。
 乗る船を沈められ、酒樽にしがみつきながら生き残ったマークは、もう二度と船に乗らないことだけを誓い。各地を彷徨った。農場は人を欲していて、働き口がないわけでもなかったが、冬になれば追い出されるのが落ちだ。ときには、物乞いをするようなこともあった。その日の糧を得るためにケチな盗みにも手を染めた。一年ほどの放浪の果て、ある街の寂れた酒場で聞いた、冬がなく、すべて季節で作物が実り、獲れるという南方の樹海の岬ロザの噂に、マークはロザへ向かうことを決心した。
 最初、農場の小者頭は、粗末な生活の末やつれた、青年とは言い難い外見を見て笑ったが、粉袋を持ち上げることは、樽を肩に担いで、たわみ揺れる渡り板をわたるよりも楽なことだった。軽口を軽口で返すのか、洒落にして返すのか、その辺の機微を理解していたことも良い方に働いて、ロザまで半日と迫った村で働き口を見つけた。
 流れ者でしかなかったマークは、その日の粥のため懸命に働いた。海兵で馴らしたものだが、マークの父親がくれた体は、木々を倒し、地を拓き、耕すためのものであったようだ。本人自身、殺し殺されするよりも農家の方が性に合っていた。何よりも、つまらない小者でありながら、人として扱われることが驚きであり、素直にうれしかった。
 雑用をこなしていくうちに、人の上に立って働いていた目には、作業全体の効率の悪さが目に付いてきた。彼は、主人の息子や小者頭をはじめとする昔からの使用人の手柄にする形で、いろいろな方策を与えた。よは、船上での人員配置や、数字の問題、多島海やほかの地域のやり方を持ち込んだだけであったが、青年とはもう呼べない歳も重なって、年かさの知恵者として重宝がられた。
 この頃のマークは、単純に、体が動かなくなったら死ねばいい、そう考えていた。この地について三度目の夏を向かえ、体が発する熱すら疎ましく思える暑い日。幼いクーガーを連れて、老主人の娘、ケイトが出戻ってくるまでは。
 ケイトは、老主人には似ず、カワウソかビーバーのような愛嬌と容姿を持つ女だった。どちらが先に惚れたかは無意味だ。少なくとも先に手を出したのはマークの方だ。昼間のとりとめのないやりとりで意気が合うことはわかっていたが、体の相性も悪くなかった。ナイフ投げを学んでいたときのように、肌を重ねるごとに深まっていく感覚すら覚えた。二十は若返ったように、昼は仕事に打ち込み、夜は人目を潜んで快楽に溺れた。無論、そのことはおくびにも出さなかった。
 そういう日々の中で、マークは生まれて初めて所帯を持ちたいと願うようになっていた。女の父親が持っている農場を欲したわけではない。ただ、一人の女が欲しかった。それはただの小者が、安酒飲んで描いた夢物語ではなくなりつつあった。
 農場に入ってわずか数年であったが、マークは仕事ぶりと数字の強さを買われ、妻を持たない身であったが、農場を一つ任されるようになっていた。船を沈められてから失ったものを、一つずつ取り戻しつつあったのだ。流れ着いた頃とは見違える男盛りの姿に、後家や行き遅れを幾度となく紹介されたが、すげなく断り続け、一方、ケイトとの逢瀬はけして外に漏らすへまだけはしなかった。
 この地に来て七年が経ち、老主人の初孫が成人し、後妻に生ませた次男が八家の娘を娶り入り婿となった。ついに時機が来たとマークは考えていた。
 そのことを少年の熱っぽさでケイトに語り、この頃には、頭がいっこうに良くならなかったクーガーを、実の息子のように扱っていた。
 何をどこで誤ったのか、マークは、いらぬ深酒をしたときにそう自問することがある。
 その前年の夏至祭で、髪上げを終えた少女の存在を、マークはそれまで目の端にも入れなかった。一言、二言会話を交わした記憶しかない。老主人の大事な末娘。老主人の後妻に似た野薔薇のような美しい容姿は、マークには何も響かなかった。たとえ顔を合わせても、そのことを数歩歩いた後には忘れる程度でしかなかったはずだ。
 晩秋最後を彩る祭りの夜、逢瀬を重ねていた粉挽きの風車小屋で待っていたのは、ケイトではなく、その少女であった。にも関わらず、マークは抱いてしまった。酒で焦点が合わなくとも、気がついていないはずはなかった。もはや、人生の初夏は遥かに遠く、夏である青年時代でさえ通り過ぎて久しくなっていた。にも関わらず、マークは自分自身に負けた。
 マークは、事実を知った老主人の怒り狂った手斧の餌食にはならず。ケイトを連れ出して逃げ出すこともできず。何もなければいい、あれは夢だったと、そのときまで、自分に都合のいい考えと独り言に浸っていた。
 ある晩、老主人から酒が振る舞われ、その中でマークの肩に手が置かれた。戸惑うマークは、老主人から翌夏には自分が父親になることが告げられた。
 老主人はマークが思っている以上に、その仕事っぷりに惚れ込んでいたのだ。彼が望めば娘を差し出すのも悪くないと思えるほどに。晩年、末娘の頼みを聞かされたときには心臓が止まりかけたと、得意げに吹聴するのが癖になった老人は、自分の長男よりも年上の男に、未婚の末娘を嫁がせることを許可した。
 それでもマークは、虫も殺さぬ顔をした少女が、ある不義から父親のいない子を身ごもり、自分を罠にかけたのではないのか? という考えから抜け出せないでいた。
 自分の父親や、叔父たちのような鼻をした我が子と対面させられたとき。自分が、自分の不始末の責任もとれず。かといって、この暮らしを捨て逃げる気力すらない。老いた何かに成り下がってしまったことを自覚した。
 マークは、持参金としてもたらされた農場から、数年で老主人の持つ全農場の半分に匹敵する稼ぎを出した。長男一家が流行病で相次いついで亡くなると、その農場の実務も引き取り稼ぎを増やし続けた。元々、口数の多い男ではなかったが、結婚してよりさらに口数が減った。十年にわたって大農場を経営し、稼ぎを増やし続けた。
 結婚当初、新婦の父以外誰もこの婚礼を祝福はしなかった。老も、焼きが回った。流れ者に娘を手込めにされちまうとは、そんな、もはや陰口にもならない言葉を口にする者が大半だったが、一方、マークの農場で働くものは、例え小者であっても陰口を叩かずマークにつき従った。
 厄介ごとに対する対処、人の使い方、報い方、制裁。すべては海賊風だったが、使用人たちは、人より毎晩一杯多くラム酒が呑めること、ボスはボロを着て一切贅沢をしなかったこと、使用人に厳しく辛く当たっても、当の家族には救いの手を差し伸べたことなど。金払いがいい裕福な農場が多いこの地にあって、マークが経営する農場での働き口を求める者が少なくなかったことが、使用人たちの支持につながった。
 小鬼侵入後。マークは十分な賄賂をもってリッテンボーグの騎士隊を連れ帰り。冒険者を雇い。ロザの村会を説き伏せ、農地奪還の戦いに身を賭してゆく。その過程で一度でもなじった者は後悔した。老の目に狂いはなかったと。
 その老主人は合戦で傷を負い末期の床に就いた。その最期にマークを呼び、遺された者と、農場を強く望んだ。
「パパだ」
 末息子に、太股を抱きしめられた義弟は、老主人が末娘に甘かったように、甘い言葉で末息子に出ていくよう促し、マークはそれを優しい叔父さんの顔で見送った。その姿が見えなくなると、マークはその顔を元に戻した。
「一つ頼みがある」
「洞穴の巡視の件は無理だ。エルヴィンを中心に非戦派をひっくり返すことはもうできない。俺自身、もう無理だと思う」
「何が無理だ」と感情的に言い掛けて、「その話ではない。今朝パラクナから早馬があった」
「ん?」
 明らかに義弟の興味が向いた。
「パラクナで病魔が流行っている。そいつらは蚊を媒介にして増えていく。おそらく正午にも緊急の召集がかかるだろう」
「蚊? まずいな。今年の赤筋どもが出はじめたと聞いている」
 八家に婿入りしただけあって、頭の回転の早さにはマークも舌を巻く。
「そうだ。そこで相談だ。洞窟巡視は無理でも、病魔を媒介する赤筋どもが卵を産みつけそうな場所を探って、駆除するために樹海に入る」
「義兄さん、それは詭弁だ」
 意図はすぐに読まれる。
「話はここからだ。なぜ、ここにそんな病魔が持ち込まれたのかまではわからん。だが、長老は、お前が赤筋駆除のために冒険者を募ることを反対はしない」
 義弟であっても、交渉カードとして使った以上は、知っている情報をすべて話すことはできない。長老と呼ばれるこの街の重鎮がパッションフルーツを求めたことは、イザークの顧客であることと、その効能から気がついていた。最初は、無関係を決め込もうとしたが、愛人に生ませたばかりの五人目の娘をダシに、賛成も反対もしないことを取り付けた。
「根回し済み……でも、エルヴィンは」
「それをどうにかするのが、お前の役目だ」
「しかし、まだ被害も出ていないのに」
「万屋のイザークが赤筋どもに襲われて死んだ」
「まさか」
「パラクナの兵士と俺が証人だ。酒樽亭から夕方に発ったあいつは、馬で三十分もしない場所で、赤筋どもに血を抜かれて生き絶えていた」
 義弟はマークを見つめたまま息をのんだ。
「魔術師の話では、病魔を食らった赤筋どもが凶暴化している……らしい。詳しくはわからないそうだ。ただわかっていることは、精油を樽でかぶったようなイザークは死に、袖口に精油を塗っている俺にも果敢に飛んで来やがった」
 言葉が消化できるまで待って、そこから言葉を続けた。
「北の吸血鬼の悲劇というのを知っているか?」
「血を吸う魔物が暴れて、北が壊滅した話とだけ」
 マークの素性に、見当がついていないわけではなかったらしい。その言葉にはいたわりの情が滲んでいた。
「違う。魔物じゃない。蚊だ。赤筋のような巨大蚊が大量発生して全滅したんだ」
 義弟はつばを飲み込んだ。
「この街と街道中心に、赤筋どもの駆除を行う」
「義兄さん」
 大声を立てた。それは、どうしようもない流れに抗う声のように聞こえた。だから、マークは「何だ」と言葉を促した。
「義兄さん。姉さんは帰ってこないよ。坊だって戻ってきやしない」
「……どういうことだ」
 期せずして、言葉は腹の底から漏れ出たうめき声のようになった。
「兄さんがしたいのは、殺された姉さんや倅のために、小鬼を一匹残らず根絶やしにする。そんな復讐をしたいだけなんじゃないか」
 爆炎のごとき炎で燃え上がろうとしていたものが、復讐という単語一つで、一気に冷めた。
 違う。
 そうじゃない。
 そんなんじゃない。
 俺が復讐したいのは、妻と子を奪った小鬼じゃない。
 俺が復讐したいのは、この世界だ。
 俺の家族を奪い。故郷を奪い。家だったはずの船を奪い。実の息子のように信頼してくれた人や、俺が愛した女、俺を愛した女を奪い取ったそのすべてだ。
「小鬼へ復讐もしたいさ」その声が震えていた。咳払いをして続ける。「他に、思いつく手だてがない。イザークが殺された。同じく、酒樽亭に助けを求めるように死んでいたイザークの徒弟は、俺の倅が生きていれば同じ歳だ。お前の倅とも同じだ。いい奴も悪い奴も、これ以上死んでいいはずがない」
 目を見開くようにして、義弟はマークの目を見ていた。マークはその目を避けなかった。


   5

 翌日、マークたちは朝から樹海に入り込んでいた。
 高く伸びた木々に阻まれ、日の光は射し込まなかったが、湿気と緑の臭いと、地にこもった熱に囲まれた森は、中に入り込んだ者に容赦はしない。袖口ばかりでなく、ブーツにもしっかり精油をかけていたにもかかわらず、這い上がろうとした蛭を見つけうんざりとさせられ。風通しが悪いため、朝早い時間だというのに汗が滲んだ。
 マークたちの他にも四つ、ダイモスとアルドが訓練し、合戦で生き延びた村人と、冒険者との混成パーティーが樹海に入り込んでいた。目標は、小鬼の元ねぐらだ。
 赤筋は、その卵を水中ではなく、湿気の保たれた岩場に産みつけることが知られていた。ゆえに、放棄された小鬼の住処が一番厄介だったのだ。
 合戦前、小鬼も人間も互いの領域を荒らし回り、ダイモスを中心とするパーティーが樹海内の根城とも言うべき、小鬼のねぐらの位置を詳細に調べ上げていた。一つのパーティーにつき三カ所が割り当てられ、小鬼がいる住処は見逃し、(小鬼もロックケイブモスキートを嫌った)放棄された住処だけをねらう取り決めになっていた。
「もうすぐですけど、小鬼がいた場合。素直に無視する気はないんですよね?」
 タリムがマークを試すような物言いをした。もっとも、そういう意図はなかったのかもしれない。
「それはどうかな」
 マークは暑さに、にじみ出た汗を布で拭った。
「ダイモスというのは多芸ですね」
「ん?」
 マークはタリムの言葉の意味をはかりかねた。
「地図ですよ。地図。小鬼たちの住処の地図をちゃんと残してあるなんて」
 ダイモスのパーティーは小鬼のねぐらの場所だけではなく、その見取り図まで作成していた。ダイモスが一人ですべてをやったと勘違いしているのだろう。
「地図を作ったのは、ダイモスとコンビを組んでいた魔術師のものだ」
「この間はいなかったですが……」
 片手を小さく上げて、くだらない話しを切り上げることにした。なおも声を上げようとしたタリムをヘンケンが肩を叩いて黙らせる。
 それは前触れもなく流れてきた。あの嫌らしい羽音が微かに鳥の鳴き声と混じっていた。
「あいつ等は声になんか反応しませんよ」
「遠くを飛んでいるんだ。静かに」
 こいつの屁理屈を聞かされる度に首をへし折らなかったことを後悔するのだろうか? マークは、愚にもつかないことを考えるのをすぐに止めて、夜闇と波の音に紛れて進んでくる突撃艦を、船員総出で探し出した時のことを思った。あのときは、音だけで、どの方角から、どの程度の早さで進ん来るかまで、まるで鳥にでもなったかのように、空から見下ろした感覚でわかった。今はとてもその域にはないが、周囲を見回し、耳に意識を集中した。その行為は、目のはしに動きを捉えて報われる。
「赤筋がいる。あそこだ。随分とろい奴だ」クーガーの顔を一瞥すると、「追うぞ」と短く言い放った。
 どこかでたらふく血を吸ったのだろう。赤筋の名が示すように、膨らんだ紡錘形の腹部に赤い縦筋を幾条も走らせていた。それは単に模様ではなく、透明な部分が透けて犠牲者の血で満たされた腹の中身が見えているのだ。血を吸い過ぎた蚊と同じように機敏さとはほど遠く、低く、その飛行は人の歩く早さほどもない。
 その赤筋は地を這うように、目標の一つだった小鬼のねぐらがある小さな小山の頂上まで飛び続けて、いきなり姿を消した。
「俺とクーガーで様子を見てくる。お前たちはここで待機してくれ」
 アルドが宙に文字を書き始める。
(この巣には、今、小鬼たちがいる可能性が高い)
「気がついたか」
(奴らが使う水瓶の破片が)
 ひざまずいて赤茶色の破片を拾う。
 その破片には気がつかなかったが、マークは、肉のこびり付いた骨の破片。小鬼の食い残しをここに至る少し前に見つけていた。
「様子を確かめるだけだ。三十分だけ時間をくれ」
(もう少し短くは出来ませんか?)
「入り口も偵察して来たい」
 アルドは何かを書こうとして、首を横に振り、「どうぞ」とジェスチャーで示した。
「行ってくる」
「一人で行った方が確実でしょうに」
 タリムのつぶやきをマークは聞き逃さなかった。
「すべてを俺がやるわけにはいかない。おい、クーガー行くぞ。ぼさっとしているな」
 マークは周囲を警戒しながら、小山を登った。記憶をなぞるように赤筋が通っていった道をたどり、消えた辺りを調べた。
 なるほどと思った。
 低灌木の間に、人が通るには小さすぎる穴があいていた。崩れたのだろうか。水の流れた跡が残っている。ウサギの掘った穴にも見えたが、ゴツゴツした岩の壁面を持つ穴が、それこそ地の底まで続いているかのようだった。
「クーガー。この意味が分かるか?」
 クーガーは頷いただけだった。
「言ってみろ」
「この穴の中に入っていった」
「よし、そういうことだ。少し、口を閉じていていてくれ、中の音を聞きたい」
 耳を澄ますと、心の持ちようがそうさせたのか、事実なのか、その中間くらいで、羽音が聞こえたような気がした。
「叔父さん、聞こえた?」
 その言葉に首を横に振り、
「おまえはどうだ」
 クーガーは首を傾げた。
「枝を静かに集めるんだ。ナイフでひこばえを落とせ。この穴をふさがなきゃならない。あと紐結びがちゃんと出来るようになったか見てやる」
 二人で適当な枝をナイフで切り出し、それらをクーガーに紐で編ませ結ぶのを見ていた。できあがった簾を岩で押さえつけ、速成の蓋をした。これ自体は何日も持つものではない。中で退治した際に逃げるのを防ぐためだ。無論、他にも抜け道がある可能性が思い浮かばないわけではなかったが、何もしないよりはマシと考えた。
 マークはそのまま来た道を戻らず。アルドに予告した通り、記憶にある小鬼のねぐらの入り口をクーガーと共に偵察した後、戻った。
(長い三十分でしたよ)
 その文字に出迎えられた。
「すまなかった。盗人どもの偵察もしてきた。この洞窟、確かに巣くってやがる。赤筋は、小山の頂上にあいた穴から出入りしているらしい。この洞窟の奥に水がたまる場所があったはずだ。おそらくそこに雨水が流れこんでいる」
 アルドは羊皮紙を広げ、
(ここですね)洞窟内の地図を指さし、(一番奥の小鬼たちの祭壇の近くに、いつも、水が貯まっていましたね。染み出たわき水だと思っていましたが)
「どうやら雨水だったらしい」
(生育条件は満たせますね。天井にあいていた穴から堂々出入りしていたわけですか)
「ああ、だが、穴はそこだけとは限るまい。次に、盗人だが、見張りが二体いた」
(洞窟入ってすぐに、ここに詰め所がありましたね。最大六体程度?)
「そうだ」
「二人ともそれだけわかっているならさっさと行きましょうよ。どうせ私が止めても行くんでしょ?」
 マークとアルドは軽く顔を見合わせ、
「ああ、そうだとも」
 そうマークはタリムに答えた。
 マークたちは細心の注意を払いながら木々の間を移動し、やがて、鼻に森の匂いともいうべきものが強く濃く、肌には温度が下がった事を告げる冷涼な風が感じられた。距離を置いて、木々の間、灌木の先に、小鬼が見えてくる。目を細めると、木をとがらせただけの槍で武装しているのが見てとれた。
「矢でしとめよう」
 マークは、アルドの顔を一瞥した。
(ここからでは狙いにくい左側を受け持ちましょう。少し移動します)
「では、俺の口笛が合図で……クーガー何ぼさっとしている。お前の弓で手前の奴を射ぬくんだ。仕損じたら一気に間合いを詰めて倒す。いいな」
「わかった叔父さん」
 本当にわかっているのか? そう問いただしたくなったが、やめた。クーガーの力は馬鹿には出来ない。弓は強く、マークが使えば矢筒の半分も使わないうちに、腕が張って、もう半分は、的にすら当てるのが難しいだろう。その力を生かすためにも、これは必要なことだった。
「よし、アルド頼む」
 アルドは頷くと、腰からスリング布を手にして茂みの中を進んでいった。
「その作戦で仕損じると、中からあふれ出てきませんか?」
「あの洞窟は、地図や見た目でよりも奥が深い。詰め所からの増援さえ押し切れば、後続がくるまでには時間がかかる。うまくやれば連携するまえに、正面から叩くことも可能だ」
「砦として全く意味がないですね。小鬼は何を考えているんだろう。全く意味がない」
「奴らの意図などわかるか。まだだクーガー、矢を射るには早い。落ち着いて深呼吸しろ」
 つがえた矢をおろしてクーガーは深呼吸した。
「マーク。あなたがやった方がいいのでは?」
 タリムが人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべたように見えたが、それを無視して、移動したアルドがこちらを見て頷くのを確認した。
「俺が全部やるわけにはいかない。よし、クーガー落ち着いて手前の奴を狙え。一、二、三」
 マークの手がクーガーの肩に置かれ、張り詰めた弦にかかった指が外れ、矢が放たれるのと、口笛は同時。
 矢は小鬼の首をえぐったが、アルドが狙うはずであった左手奥の首だった。わずかに遅れて、石が飛来し、首がえぐられ倒れていく小鬼の頭が寸前まであった場所を通り過ぎて、岩壁を叩いた。
「くっそ、クーガーちゃんと狙え」
 そう言ったときには、マークは駆けだしていた。
 運がマークたちを助けていた。全く無傷の小鬼は、突然同族を襲った不幸に何が起きたのかわからず茫然自失となっていた。
 だから、嫌悪感が増す。
 言葉が通じず。本拠地も持たず。精神的構造が全く異なった異種族であるはずなのに、小鬼は、人間のようなそぶりを時折見せる。
 マークの手が返され、投擲したナイフは、小鬼のとっさにかばった腕に当たった。
 走り込んだ勢いと全体重を腰に乗せ、ナイフの投擲で無防備になった小鬼の腹をめがけ剣で当たっていく。切っ先が背中を突き抜け切っ先がすぐ後ろの岩壁で音を立てた。足で踏みつけて剣を引き抜き、背を壁に寄せる。
 暗く口を開けた洞窟は沈黙したままだ。
 全員その場に揃っていることを確認すると、火種から、松明に火を移し、盾を構えたヘンケンを先頭に整然と、闇の中、洞窟へ入り込んでいく。


 洞窟内にヘンケンの盾で防げない斬撃はなく、ヘンケンの剣を防げる者はいなかった。集団のリーダーらしき個体でさえ、数合切り結ばないうちに、鋭い突きを胸板で受け止め果てた。冒険者にとって、本当に斬り負けすることの方が難しいようだ。ヘンケンが四体、マークが二体、他はそれぞれ、一体ずつ倒している。
 海兵を乗せた船で、これだけの人数が一方的に斬り殺されれば、勝負はついたといってもいい。こうも一方的だと再起すら望めないだろう。けれども、小鬼たちは退く気配を一向に見せない。早ければ、一月も経たないうちにこの洞窟も再建されてしまう。
 これはどういうことだと、マークは今さらながらに唸りたくなった。
 ある者は、樹海の奥に小鬼が湧く壷があると言い。
 ある者は、我々が薪にした枝の数だけ小鬼になる呪いだと言い。
 ある者は、奴らは死んだように見せかけて死なない不死の魔物だと言う。
 情報が不足していた。調査が必要だったが、それを行う力がなかった。樹海は、どれほどの広がりを持った森なのかさえわかっていない。どのような動物が住んでいるのかは言うに及ばずだ。その未知の森で小鬼は出没自在の存在といえる。力及ばずとも数が解決する。小鬼に斬り負けしなくとも、体力や気力がつきればその粗末な刃にかかる。森は人の住む場所ではないのだ。
 ただ、わかっていることは、奴らは樹海の東側から現れる。その出城とも言うべき住処は、冒険者さえ雇えば、言葉通り、正面から襲撃をかけても、塩辛い汗と獣の臭いのする洞窟を空にするのに、さほど時間はかからない。
 やがて洞窟の奥に扉が見えてきた。切った枝を利用した閂がされているのが見えた。意図は分かる。
「どうやら、盗人どもも、赤筋は御免被るらしい。この奥が広間になっている。水も貯まっているはずだ」
「あっけないものですね。なぜロザの村会は、そんなに樹海での小鬼狩りを嫌うのでしょうね」
 タリムは本当に不思議そうに言った。
 そのタリムの言葉が呼び水となったように、マークの口から言葉が漏れた。
「合戦では、冒険者の負傷者は少なかったが、志願した若者が死んだ。それも大勢だ。老人をはじめ、責任ある者達が戦うことを恐れるのには十分な理由だ」
「でも、あなたは戦うし、戦うことを強いているわけですよね」
「強いる?」
「ええ。現に、今四つのパーティーがこうして戦っているはずですよ」
 忌々しげにため息をつくと、無視してもよかったはずだが、マークは言葉を続けた。
「祖父母が切り拓いた土地を取り戻したい願う若者達に、俺ができることはこれくらいしかなかった。今は、石の下で眠る者達に、してやれることはこれくらいしかない」
「それは本心ですか?」
 本格的なため息をついて、舌打ちをした。
「お前に本心を明かさなければいけない理由はないし、お前に、これが俺の本心ではないと否定することもできない」
 そう言葉にしたが、マークにとってそれは本心に近い想いだった。
 マークは自分の使用人に十分すぎる金品を与えて暇を出したが、ほとんどの者が、鋤を槍に持ち替えて戦列に加わった。多くの若者たちがいた。
 村が奪還できない理由の一つは、もう、そこを耕しそこで牛を飼う若者たちがいないことだ。
 タリムは全く感銘を受けた様子もなく、
「なるほど、本心を明かす必要は全くない。たしかに、そうですね」
 と答えた。
「首を捻っておけば良かった。行くぞ」
 タリムのそれがうつったのか、マークは自嘲にもとれる笑みを浮かべて、ヘンケンに顎で閂のはずされた扉を蹴破るように指示をした。
 扉が蹴破られると、マークはためらわず手にしていた松明を投げ入れた。
 松明が床の上を回転しながら滑っていく。その炎の揺らめきに見覚えのある水たまりのある広い空間が見て取れた。闇の中で、ロックケイブモスキートたちの羽や足が光で反射し、宙でダンスをしているようにも見える。
「まさに巣だ」
 ヘンケンのそのつぶやきが合図のように、ロックケイブモスキート達が飛来してくる。
「広がれ。背合わせして隙を見せるな」
 赤筋をナイフでしとめたのは、昨日が初めてではなかったが、焦りを感じた。
 自分や、ヘンケン達は自分の身は自分で守れる。クーガーはどうだろうか。数は十匹を越える。やれるか?
「クーガー、落ち着いて剣を振れ、当ててけ」
 背合わせの甥に声をかける。だが、返事がない。
 背中を預けることで、甥が少なくとも無駄な動きをしていないことだけはわかるだけだ。
 ヘンケンはさすがだ。単独ですでに二匹のロックケイブモスキートを落としていた。背後にも目があるように、盾で強かに打ち据える。
 タリムは重たい鎚矛を無理には振り回さず、最小限の動きで効率よく牽制している。その背後のアルドはスリングを振り回し、サップと呼ばれる鈍器のような使い方をしていた。皆、自分の戦い方を心得ている。
 横薙から縦へ振るった剣が当たり、一匹をしとめる。
「クーガー大丈夫か。無駄な動きはするな。寄せ付けなければどうにかなる」
 舞い上がって宙で方向を変えようとした一匹を投げナイフでしとめる。
 いける。
 そんな手応えを感じた。
 ヘンケンは五匹目を落とし、アルドも二匹目を叩いた。
「叔父さん」
 歓喜の声。
 まずい。
 そう声を上げたのか、そう思ったのか、マーク本人にもわからなかった。見えているはずがないのに、クーガーの頭めがけて飛来した一匹に合わせて体が動く。
 ナイフを投じていた。次の瞬間、腹に熱を感じる。
「叔父さん」
 叫ぶなクーガー。そう呟いていた。
 義弟は、こいつの面倒を見てくれるだろうか。
 あいつは、優しい木偶の坊に剣を持たせた俺を許してくれるだろうか?
 問いかけの中で、マークは悟った。
 ……俺は復讐を果たしたかったんじゃない。
 これを求めていたんだ。
 死に場所を探していたんだ。
 とりとめないことや、やり残したことが幾つも頭の中を巡るが、水が指の間からこぼれるように、消えていく。
 クーガーに正しく生きることを説きながら、逢瀬に溺れることを嫌っていた。結婚を素直に祝福してくれた。
 何か親父らしいことは出来たのだろうか?
 妻は、どこまで知っていたのだろうか?

 マークは夢の中でいつもそうであるように、焦燥感に身を焦がしながら、傾斜がついた梯子を駆け上がり、格子戸を跳ね上げた。
 そこは、血が沸々となる殺しの野ではなく、豊かな牧場だった。肥えた牛達が草を吸い上げるかのように食んでいる。その向こう、ロザへと続く街道を挟んだ向こうの牧場に、手を振り自分を呼ぶ子供と、女性の姿が見えた。
 マークも手を挙げ、妻と息子の名を呼ぼうとしたその瞬間。

「ほら、大丈夫でしょ。そう易々死ぬたまじゃないですよ」
 タリムの顔が見えた。
 漂う臭いと、背中の感触から、どうやら時間は少しも経過していないようだった。
「叔父さん」
 真っ赤に泣きはらした顔のクーガーが覆い被さってきた。
「生きているのか?」
 声は思ったよりもずっとしっかりとしていた。どこも痛みはない。
「死んじゃいないですよ。もっとも、病魔に関しては保証できませんがね」
「上等だな」
「もしも、仮にここであなたが死んでたら、私もクーガーに絞め殺されて、お供させられてましたよ」
 何かを言おうと思い、それが無為の中に消え、笑いがこぼれた。
「どうしたんですか?」
 それには何も答えず、笑わずにはいられない気分だった。
「いったい、これは? 急に笑って」
「当ててみろよ」
 マークはクーガーの手を「ああ、大丈夫だ」と断って立ち上がり「心配をかけた」とヘンケンとアルドに声をかけた。
(どうします?)
「問題がなければ、次の洞窟だ。最低、二つは今日のうちに片づけたい」
「ねぇ、教えてくださいよ。なぜ今笑ったんですか?」
「ああ? さあな」
 そう答えながら、マークは妻と子を思った。
 誰もが泣いて生まれてくる。でも、笑いながら死ねる奴は本当にごくわずかだ。
 俺はどうやら、その、ごくわずかになれるようだ。

                         了

Weathered Stone

イラストレーション 影守俊也「FORBIDDEN RESORT」
初出16年冬コミ。
Special Thanks
ひではる
織倉宗
影守俊也
久道進
義忠

Weathered Stone

小鬼の侵攻に怯える村を護る自警団。それを率いる男の絶望と再生の物語

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2018-01-01

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著作権法内での利用のみを許可します。

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