女王椿
お母さんがもうすぐ死ぬというのでその年末近い時期に、私は親戚の家にしばらくあずけられることになった。
その家と私の関係はよく判らないが、お父さんの縁らしい。老夫婦と若い女の人の3人暮らしで、とにかく広大な庭があった。
家屋そのものはそうでもなかった。公園に住んでいるみたいだと私は思って、よく、夜寝付けないと木に囲まれた東屋の一つの長椅子に毛布を持って行って横になった。眼を上にやると星がぎっしりときらめいていた。そしてそれらを統べるように月が浮かぶ日もあった。時々三毛猫がそばに来た。朝ごはんを女の人が呼びに来るまで眠りもせずに眺めた。
お母さんが死んでしまうと私は一人になってしまうなあ、と考えたらどうしても眠れないし、ごはんものどを通らない。叱られてしまうかと最初は思ったが、老夫婦はいたわるでもないが薄いものやわらかな表情でほとんど口を開くでもなく放っといてくれたし、女の人も低いけど歌の上手そうな声音で話しかけてくれた。
「美靴(みか)ちゃんは幾つ?11歳?私は17歳で、高校に行ってるのよ。…両親はいないの。3人で家族よ。お父さんはお元気?そう、お仕事で海外が多いのね」
お父さんはそれどころか毎年クリスマスにしか現れない。そして宝石を呉れる。お父さんではなくサンタクロースと呼びたいくらいだが外向けにはカイガイシュッチョウと言い続けてきて、母もずっとそういっているが、隣町が海外なのかと私は去年気が付いた。
今年はこんなだし、きっと宝石はもらえないだろう。もっとも毎回宝石はお母さんがすぐに銀行の金庫に入れてしまうので、貰っている実感はなかったが。
私はなんとなく、両親がいないという彼女に親近感を覚えた。学校に行ってもそんな人や私みたいな欠けた家の人はいなかったからだ。
ある日の午後、雪が今にも落ちそうな乳色の空の下、所在なく庭をぐるぐる歩いていると、笹藪がしばらく続く。焼き杉の門が付いた茶室の前に高い椿の樹が茂っていて、硬いつぼみが、クリスマスツリーの電球が点る前のようにふんだんについているが開花はまだだ。
そこで女の人の後姿を見た。今日は高校の制服だろう。殆ど黒に近い紺のセーラー服を着ている。細い体に、同色のカーディガンを羽織り、膝丈のスカートは細かいプリーツ、小さな猫のような面差しが斜めに見え、顎先ほどの黒髪のおかっぱが鋭角の影。なんだかその人を初めて見るような気がして足を咄嗟に止め、笹の陰から自分の姿が出ないような位置に収まった。
女の人はじっと何かを見ていた。
茶室の低い躙り口が開いている。薄い灰色の闇。
そこから一匹の三毛猫がやがて顔を出した。七三分けの前髪のように黒い毛が目の上にある。女の人が少しかがむとするっと猫はその腕を上り、胸に収まったのかこちらからは三角の耳が片方肩の上に見えるだけだ。
少し猫が力を入れすぎたのか、もとからぶかついていたようなカーディガンが片袖ずりおちた。セーラー服は半袖で、雪のような二の腕が露わになった。雪?その雪面の、脂肪がほんの僅か弾むような所に、大ぶりの赤い花びらが貼りついている。1枚だけじゃない、5、6枚ほど。最も大きいのはそうだ椿の花のものほどもあろうか?ほかは少し小さい。
綺麗な人だけど、欠点はあるんだな。
私は自分の額の黒子を指で撫でた。直径3mmほど。一寸だけ盛り上がっていて周囲より敏感な気がする。大きくなったらお父さんに病院を探してもらうよう頼んでみようねえ、眼に近いから難しいなんてばあやは言ってたけど、いい医者が居たら。お母さんはほぼ毎日、私の髪を梳きながら言ったのだ。細い指に余るような獣毛のぶらしの銀の背とセットになって覚えている残念そうな声音。もう過去になった、12月はじめから入院して無菌室の中のお母さんはもう言わないだろう。
女の人は寒そうに素早くカーディガンを直した。猫は降りて、また躙り口に素早く消えていった。それから、彼女は足早に家の方へ砂利を黒い革靴で踏み去っていった。
私は笹の陰から出て、躙り口をのぞいた。暗い。明かりはどこかにあるだろう、眼を細めると明り取りの小窓が布がかかっているのが、眼が馴れだんだん見えてきた。屈んで這い込み、四つん這いで上り口に手を掛けると冷たい木の感触だ。猫が傍で鳴いた。膝で2つもいざると明り取りはすぐだった。
すぐのはずなのにスカートの裾を引っ張られて横ざまに畳に倒れた。
猫!
ずいぶん大きい猫!
と錯覚したが人間が居たのだ。覆いかぶさられて私は怖れる前に腰から下に力を失った。
「椿」
荒い息を吐きつつその人間は私の耳近くに声を吹き込んだ。男だ。椿がどうしたというのか、外の木が。
男の腕は金具のように手首を押さえつけ、脚は男の脚が体重をかけており、動けない。
「ゆるしてくれるんだね僕を」
何のことかわからず、人違いだ、かんべんしてほしい、とそこでようやく困惑が沸く。何やら生ぬるい液体が額に落ちる、唾か汗だろうかやけににおった。それから全身もお風呂に入ってないようなにおいだ。不快!
男の太い指が顎に触れる。右腕がわずかに自由になったので、腕を少し伸ばすと、良かった、銅製のような感触の香炉を見つけた。
「椿?」
もっと右腕が緩んだ。私はそれを摑むと男の背中に振り下ろした。尖った装飾のようなところが背骨に当たるようにして。
人間とも思えない声で男は跳ね起き、私はあわてて体を起こした。足がふらつき、畳がぶわぶわするが、窓の布に手が届いた。
新しい変な匂い。部屋が明るくなった。赤い液体を背中から流した男が横たわっている。震えている。
大人にしては小柄だ。もしかしたら自分とそれほど変わらないのかもしれない。栗色のかった髪には波がある。それに、学生服である。
顔を私の方に向けた。青ざめた顔の、犬を思わせる目が見えた。中学生くらいだと思った。衝撃から我に返ったらしく、怒りを含んだ色の目だった。立ち上がり、腕がこちらに伸ばされようとした。私は壁に追い詰められる。
「ミカちゃん!」
外から声がして、女の人が屈んで入ってきた。
入れ違いに三毛猫が外に飛び出していった。
「椿、ぼくは…」
「ミカちゃんに何をしたの、あなた」
静かに女の人は言った。怒りに眼が光っている。
「間違ったんだ、まさかほかのだれかがここに来るなんて」
「おだまりなさい、私に付きまとって、これ以上の迷惑は許さないわ。出ていって!」
「でも」
もう女の人は何も言わない。男、いや少年は脚を引きずりながら外へ出ていった。
「ミカちゃん、怪我が」
リブニットのセーターが破れている。なんという力だったのだろう。腕の皮膚が出ていて、そこに傷があることに気が付いたら痛み始めた。
「ごめんなさい、中等部の子なの。手紙をもらって、返事しなかったら家にまで来るようになって。警察にも相談したのに、今日もこんなところにいるなんて」
彼女は私の肩を抱いて支えようとした。
「ああ、熱がある」
私は気が遠くなり、彼女、椿の胸に額をうずめた。細身なのにお母さんよりふくよかなのに驚いた。甘いにおいが制服からしていて、やがて頭いっぱいにその匂いが広がった。
私は3日3晩寝こんだ。この家に来て初めてぐっすり眠ったともいえるが、悪夢も観た。大きな猫の夢。食欲は元から無かったが、いっさい受け付られなくなり、何も食べていないのに下痢が続いた。
横になっていると、椿が額のタオルを交換に来た。
「ごめんなさい、預かっている子をこんな病気にして、あなたのお父さんに叱られちゃった」
なぜ叱られるんだろうと不思議だった。お父さんは年に1回しか来ない人だから私のことなどかまわないだろうに。
熱が下がり、下痢が止まった頃、それまでおばあさんの清拭だったのが入浴してよいことになった。
一人では心配とのことで椿が浴室に付き添った。
小さな子供でもあるまいし、そこまでしなくてもいいのに、と迷惑な反面、茶室で助けてくれたことで私は椿に親しみを強くしていたので、妙に意識してしまっていたのだ。
部屋に作り付けの広い檜の浴槽はまるで旅館のようだった。そこに椿は入浴剤を溶かした。色は真紅で、まるで椿の花のようだった。珍しそうに眺める私に椿は、椿の香料と色素の入ったものだと説明した。椿の制服から香る匂いはこれだったと思い当った。そうだ、あの茶室の外の椿はもう咲いたかな、と気がかりになった。
椿は何かオイルで私の頭をマッサージした後、念入りに髪を洗い、仕上げに別のペーストを塗り立て、3分おいて流した。匂いは入浴剤と同じだ。そのあとから浴室内の私の短い男の子のような髪が、にわかに椿と同じような黒髪に鋭角の艶を持ったように思った。
自分と椿は、身長のほど、痩せ型であることは共通点と思っていたのに、服を脱ぐと全く違う生き物であることが判った。全身が特別な布のような光を帯びていたし、最もはなはだしい違いといえば、紡錘型の乳房が、支えも無しに張りつめている。こんなところも椿の、蕾と同じなんだな、と私は目を反らした。
「どうしたのミカちゃん」
並んで湯に浸かりながら椿は微笑んだ。
私は首を振った。私もいつかこんな姿になるんだろうか?
「傷が沁みるのね」
白い指が私の腕の傷に触れてきた。大分乾いていたはずなのに痛みに腕が震えた。手当してもらったのに、癒えてない自分が妙に恥ずかしかった。
「ごめんね」
湯の中で椿の腕が動き、二の腕が透けてあの赤痣が見えた。
花びらのような、しかし今は一つしか見えない。乳房の先端も同じ色だ。なんという綺麗な体なんだろう。また熱が出たようにぼうっとしてきた。湯に温まってきたのだ。
もう一回椿は私の傷に触れた。囁くように尋ねる。
「今度は痛くないかな」
少しだけ響いたものの、私は少し無理をした。うなずいた。視界のすみで湯の中に赤い花びらがもう一つ浮かんだ。もう一回触れられたら、今度はむず痒い感じしかしなかった。さらに花びらが増える、もう一回。今度は、初めて感じるようなむしろ甘い感覚だ。なぜこんなことをするのか…と気づいたときには、椿の腕は赤痣に覆われていた。大輪の椿がいくつも開花したような。
ひゅっと私の喉が鳴った。
「長風呂になってしまったわね。ごめんなさいね。顔が赤いわ」
白い頬にすっかり血の気を昇らせた椿も湯あたりしたように目が蕩けている。
洗い場で油分の多い椿の匂いのペーストを、椿は手に取り、座らせた私の体にどこでも例外なく擦り付けた。ひとつの例外もなく。私は何度ものどをひゅっと鳴らし、時には恐怖心さえ抱き、鳥肌が立つ一瞬もあったが、やがてその粟立ちが融けたら魔法のように私の肌までが椿の肌の光り方に近くなっているのである。
私はすっかり混乱した。なぜ、なぜこんなことをする、無理やりに今までかぶってた皮でも剥がれて料理にでもされているようだ。私は別のものに今変身させられようとしている。
くまなく終わったときには足が立たない状態で、荒い息を椿の乳房に浴びせながら縋りつくようなことになり、恥ずかしさで消えたいくらいだった。
水気を取って浴衣を着せかけられた体を、誰かが抱えてシーツの交換された布団まで運んでくれたことはうっすら覚えている。女の腕ではなく、おそらくおじいさんだ。それもまた恥ずかしく、身の置き所なくからだをくねらせて私は寝入った。
目が覚めても私の身は消えてはいなかった。悔しさが沸いた。いくら椿でも。
自分が秘めていたことを、侵害された気持ちになっていた。
ふと傷が気になって浴衣を肩肌ぬぐ。乾いていたのがさらにふさがって、薄赤い縦の筋になっている。なぞろうとしてためらう。こんなところで、ひとりで。おじいさんとおばあさんが来るかもしれないのに。いや椿が…。体は少し重かったが空腹を感じた。障子の明るさでは、もう日がかなり高そうだった。
四つん這いになって、襖を開けて廊下に出ようとする。襖は固く開かない。手から力が抜けているのか。
出窓にも寄って開こうとする。開かないが、ふと気配を感じて振り向くと音も立てなかったのか、襖の前に椿とおばあさんがいた。卵がゆを運んできている。
私はもくもくと口に運んだ。
「まあ食欲が出たみたいね」
私はそれだけで赤面した。
健康になろうとする体がうとましかった。
早く夜にならないか、もうこの病室から出て、また月と星に取り囲まれて、猫と眠りたかった。
そして、冬休みが明けたら学校にも行けるし...
その前にお母さんが死んだら...
お母さん?
考えがまとまらない。実の母親の顔が浮かばず、目の前にいる椿の顔を脳裏にも浮かべてしまう。
「まあおでこに汗かいてるわ」
椿は私の額を布で拭う。黒子に白い指が触れ、震えを押しとどめる。
「まだまだ本調子じゃないのよね」
おばあさんはいつのまにか盆を下げていなくなっている。
どこにいったのか、と他人に苛立つ。
「心配そうな顔しないで。私たち他人じゃないもの。たよりにしてもいいのよ」
汗がさらに噴き出て、今は障子が開いて磨いたような青空が見えているのを私は見上げた。
夜が来て、私は今夜も浴室に手を引かれて、擦られて洗われ流され、浸かり、触れられて塗られた。私は少し泣いた。涙は椿の指で拭われた。その時頬に乳房の先が触れ、開花直前の蕾のように膨らんでいるのが唇に当たった。椿は腕以外にも赤痣を隠していることを、涙で霞む視界に見た。気が付いたら布団の中で昼間だった。夜中に目覚ることはなかったのだ。そしてまたかゆを食べ、なぜかまだ体力は回復せず襖も障子も自分の手で開けることができなかった。その夜は浴室で塗られているときに失禁した。椿に黒子の過敏を発見されたからだ。やはりとても恥ずかしかったが、椿は丁寧に流し、丁寧に洗った。毎日私の体は変わった。何も椿のような乳房が生えたわけでもなかったが、そんな夜が7夜も続いたある日、決定的なことが起こった。
白木のすのこに赤いしずくが滴った。椿の赤痣そっくりの。
自分か椿のどちらかがけがをしたのだと思ったが椿は私を祝福した。そして浴衣を着せかける前に、意識のもうろうとする私を誰か、おそらくおじいさんによりかからせ、脚を開かせて絹とゴムで作られた下穿き状のものを両足首に通し、その底に当たるところに淡紅色の細長い布を敷いた。そしてゴムの部分を私の骨盤の両側にひっかけた。
下腹の重さが翌朝からあり、入浴は無理だと思ったが、湯舟に浸かることだけを椿は促した。私の額の黒子を撫でながら、隣に座っている。
椿に近くなっているのだろう。布で保護されるときに気づいたが、灰色の薄い苔のようなものが、椿の黒々とした艷と同じ箇所に生えていてこすっても取れない。胸の形もわずかに変わった。
変えられてしまったのか。
私は椿の白い顔を見る時、塗られることを頭に置いていることを気づく。何かをねだろうとしている。
ねだることはいやしいことよ。
お母さんがいつか、クリスマス前に云った言葉を思い出す。
宝石などいらない。私は、今、椿の指だけがほしい、卑しい人間になった。
朝起きたら、かゆとともに宝石箱が、去年と同じようなデザインでもたらされた。
クリスマスだったのだ。
やがて布の保護も解けて、再び夜ごとの入浴時間が保護前と同じ内容で繰り返され、私は喉から短い悲鳴さえ漏らしながら、自分の指も椿に絡めるようになってしまった。ものほしげに。
元旦にお母さんの死の知らせが届いた。
それからは、お父さんの差し向けた車で安置室、お父さんもいないばあやと私を入れて数人での通夜と告別式、火葬場と巡り、最終的に用意されていた寺の小さな墓に納骨を済ませたころに私は学校に戻った。
椿の家に行ってから、ふさがったように声の出なかった喉が、学校に行ったらすっかり冬休み前と同じように自由に回り始めた。
夢でも見ていたのかな?
と友達とふざけるときのような口調で思ったが、通学鞄の底には紙製のナプキンが常備され、引き取られたお父さんのお城のように広い家の離れで、「ばあや」と呼ぶようにと言われた中年女性に下着各種支給され、部屋に作りつけられた浴室の鏡で自分の裸体を見ては、夢ではなかったのかもと思いなおす。私は恥ずかしい黒子を隠すために髪を伸ばし始めた。市販のものであの浴室で使われたものに近い物を試すが、とうとう一致はしなかった。
椿一家については、誰に聞くこともできないまま。相変わらずクリスマスに宝石が来て、私はお母さんから引き継いだ金庫に宝石を貯めた。お父さんのすすめる中高一貫校でおとなしく過ごし、適当な大学に通って、卒業するとアパートを借りて楽な仕事を飽きては転々とした。平凡に生きるうちにあの冬の記憶の異常さが甦ることにはなるが。
私が26歳になったときの1月、お父さんの葬儀の日に一部の謎がとけた。
なんと椿のおばあさんが参列者の中にいたのである。
「お久しぶりですね!その節はお世話になりました」
快活に話す私に、おばあさんは一瞬とまどっている様子だったが、1分ほどして少し頬を崩した。
「美靴お嬢様ですね。たいへん綺麗におなりになって、わかりませんでした」
「私、男の子みたいだったですものね。あのう、椿さんはお元気ですか…?」
おばあさんは少し探るような目になる。
「ええ、椿さん…?...美靴お嬢様、失礼ですがいま何歳でいらっしゃいます?私共の家に滞在されていたのは、おいくつの時でしたっけ…?26歳で、11歳の時...?ああ…」
おばあさんは息を少しついて、言葉を探すようにゆっくりと云った。
「あの方、眉子さんは、もう18歳の時に亡くなられたんですよ」
「まゆ...?」
「出産のときに不都合がありましてね」
「出産...ご結婚が早かったんですね...?眉子さんって、お名前だったんでしたっけ?私子供でしたから記憶が混乱してたみたいですね、お恥ずかしい」
「いえいえ、ご無理もありませんよ」
「今もあの時のお住まいにいらっしゃるのですか?お庭が見事でしたよね」
「いえ私は、別のお屋敷に勤めております」
「え?椿...眉子さんとは...おじいさんは…」
そこまで話した時、しゃべりすぎたという顔をおばあさんはしたので私は口を噤んだ。そして、低い声で、意を決したように、一方で悪戯っぽい、どこかとても女性的な若やいだような目で私の目をのぞき込みながら、早口で云った。
「あのお庭のお屋敷は、今もありますよ。眉子さんの家族さんが住んでいて、たしか医院をなさっているはずです」
問い返す間もなくおばあさんは葬儀場の黒い服の人波に小柄な体を消した。
私は呆気に取られて立ち尽くした。
そこに肩を叩く人がいた。今日は何という日だろう。
「ミカさんですね。すぐわかりました」
カーディガンを羽織ったセーラー服姿の椿が立っていた。鋭角のおかっぱ頭。但し記憶より若返っている。
「このあとおひまでしたら、私の家に寄られませんか」
首筋の産毛が逆立つ。
「あの...あなたは」
「私は椿ですよ。初めまして、でも父からあなたの話はよく聞いてます。大丈夫ですか?顔色がお悪いわ」
タクシーで30分ほど乗る距離の、辺鄙な場所にあの屋敷は確かに今もあった。
私は来てよかったのだろうか、なぜ、またあの夢幻のような、あえて言えばよくない記憶をたどろうとするのか。
「母は私を産むときに亡くなったんですよ」
門を開きながら椿は言った。
濃い緑の匂い。公園のような広い庭。記憶が呼び覚まされる、葉擦れの音。夕暮れが迫り、星が紺色の空に無数にさざめくばかりに光り始めている。
門を入って右手に、新しいコンクリートの建物を見た。
小児産婦人科の看板が明かりをともしている。
そのわきに、椿の大木がそびえている。あの椿だ、豪奢に花をつけている。まるで美しい女性のように。
そして鼓動が高鳴った。その腰高の幹の足許というべきところに、赤い花びらが丸く一面に散り敷いている。辺り一帯、あの記憶の浴室と同じ匂い。
「誰もいない時の早産で、助けも呼べず、出血多量で」
「まあ...あなた、よくご無事で」
「一夜明けてまだ学生だった父が発見して、私だけは助けることが出来ました。その後、父は医師を目指して、10年前にこの医院を開業しました」
「まあ...」
「こちらへどうぞ」
見覚えのある玄関、窓、縁側。鼓動が激しく鳴る。
三毛猫が一匹横切って息をのむ。
「祥真さん、ただいま」
客間のソファに男性が一人座っているのに声をかける椿。するとこの人が眉子の夫だろうか。
それにしては若い印象だ。平均より小柄か、栗色の波打つ髪、丸い良く光る眼。
「あっ-」
「お久しぶりです、ミカさん」
私の脚はすくんだ。
茶室に潜んでいたあの少年ではないか。大人になってぎこちなく笑っている。
「ええ...あなたとあの人が結婚してたなんて」
思わず鋭い声が出た。
「今でも背中がうずくときがあるんですよ」
祥真はしゃあしゃあと云った。
険悪な雰囲気になったことを遮るように、紅茶を運んできた椿が笑い声を立てた。
「昔話はよしなさいよ祥真さん」
椿は父親を名前で呼ぶのか、と不思議に思ったところで、私はまた驚いた。
祥真の膝にこともなげに椿が座ったのである。
「お気にしないで、ミカさん。この人は私の椅子なんだもの」
その声は、かつて浴室で私をなぶった眉子、いや、椿の声そのものだった。
「ね、そうでしょ」
爪を立てて膝をつねる。
「ここが痛いんだものね」
父親の背中に細い腕を回し、わたしが祥真に傷を負わせた箇所にも爪を這わせる。
祥真は脂汗を鼻の頭に滲ませた。その眼の光は蕩け始めている。こんなものは見てはいけないはずだ。あわてて言った。
「椿さん、あなた、お父さんになんてことを」
「表向きはね。でも祥真は恋焦がれた年上の椿の君に指一本触れたことは無かったのよ。では私は、誰の娘なんでしょうね。あなたのお父さん、たくさん愛人がいらした。庶子が山積みにいるって、今日のお葬式でも実感したでしょう。黙ってしまったわね。おねえさま。寂しいわね、死んでしまったわねえお父さん」
私は泣きだしていた。
「寂しくなんかない...あんなめったに会ったことのない人...」
「でしょう?誰が誰の子かなんて重要じゃないわ」
眼がくらんだ。
「祥真、この人何か月くらいかな」
「3カ月は過ぎていると思う」
「ねえ、この人は堕胎が上手いの。祥真はお産よりそちらが才能があるの。それを知ったとき、なんて素敵な椅子が私の父に名乗りを上げてくれたんだろうって思った。あんな看板だけど、遠方から評判を聞きつけてたくさんの女の人達が救いを求めに毎日来る。手際よく処理しているわ。私もゆくゆくはこの人の技術をついで、子供なんか診ない、堕胎専門のお医者になるのよ。その意味では父と思っているの。ミカさん、そんなに子供なんてがんばって産むことないわ。まるで動物じゃないの。繁殖なんてほかのひとたちにやらせればいいのよ。私のお母さんみたいな目にも遭わなくて済むの」
椿の指が私の巻いた髪に触れた。カーディガンがずれて、二の腕に椿の花びらのような赤痣が興奮の様子で浮かび上がっている。
悪魔に私は今囚われている。悪魔のように途切れることのない命を持つ、椿という女王。
学校生活にもどって、ほどなく、まだ小学生だった私はやたらと付け回されるようになった。追ってくる男は常に数人いた。ミカちゃんはもてるなあ、と友達は冷やかしたが、笑い事ではなく、あまりいい気分ではなかった。それなのに、私は逃げ切れず、誰にも相談できず、断り切れないまま並行して複数人とつきあい、体を許した。ずっと椿の指がほしかったのに、ほど遠い男たちに。それは平凡な生活の裏で繰り返してきたことだ。父と同じ淫蕩な血、さらに椿によって無理やりこじあけられた蕾の深奥から漂うあの匂いがそうさせていた。椿が変える前に、戻れるわけがなかったのだ。私はさかんに日夜花びらを散らす者になった。
それにしても私は孕んでいたのか。それは今ここで指摘されるまで気が付かなかった。誰の子なのかは不明だ。
「お風呂を用意するわ、明日は予約時間にちょうど空きがあるの。まかせてね」
髪から移動した指が私の黒子を探り当てる。私は吐息をつく。甘い痺れが全身に伝わる。私は今、塗られ始め、散らされる。
終り
女王椿
添付画像の椿の樹にまみえたときに私はこの話を懐胎しました。
続編あります。まだ書いていないけど。