IRIS CODA
1.Anfang
始まりの刻、遠き星の、その更に遥かより神は来れり。
神は己の体を七つに分けて土地を産んだ。そして火を、鉄を、水を産み、最後には七色に輝くその魂を以って、人を創った。
我々の生けるこの世界は、神―――「イリス」より賜りしものなり。
イリスは今も、地と、空と、我らの魂を通し、この七色の美しき理想郷を見つめている。
IRIS CODA
朝、スマートフォンから鳴り響く規則的な目覚ましの音で目が覚める。
緋色は小さく身じろぎをして、目を閉じたままスマートフォンに触れた。指を画面上で滑らせてアラームを止めたあと、ゆっくりと半身を起こして目を開く。
上半身から滑り落ちた毛布は太ももの上に溜まって、障子の隙間から零れる朝日を受け止めている。手に掛かる細い朝日にも、僅かばかりではあるが温度を感じた。つい最近までの朝冷えが嘘のようだ。
朝日の温もりに春の訪れを改めて感じながら、のそのそと布団から這い出る。数歩這った後に立ち上がって障子を左右へ押しやれば、眩しい光が部屋いっぱいに差し込んだ。遠くからは小鳥の囀りが聞こえる。
いつもと同じ、静かで優しい朝だった。
手早く学校指定の制服に着替え、食卓へ続く長い廊下へ出る。眼前に広がる庭には植えられた草木が茂っており、受け止めた朝露を葉の上で輝かせていた。住んでいるのが父と自分の二人だけということもあってか、屋敷の中はいっそ恐ろしいほどの静謐に満ちている。足音を響かせるのさえ忍びないほどの静寂の中を歩き、たどり着いた食卓の扉をくぐって朝食の準備を始めた。
トースターに差し込んだ食パンが焼きあがるのを待つ間に、ドリップ式のコーヒーメーカーに豆を入れ、冷蔵庫からサラダとジャムを取り出してテーブルへ置く。 同じテーブルに置かれていたリモコンを手に取って何の気なしにテレビの電源を入れれば、アナウンサーが近頃話題になっている事件に語っていた。
『本日未明、アクエリアスにて遺体が発見されました。遺体は同エリアの専門学校に勤めていた23歳男性。死亡時刻などについては現在調査中ですが、今月2日、12日に発見された遺体と同じく全身の血を抜かれた状態だったとのこと。今年、同じ状況の遺体が発見されるのはこれで30件目となりました。警察は連続殺人事件との見方を強めて―――』
極めて無感情に語られる残酷な内容を、緋色はどこか遠くの世界の出来事のように感じていた。
人の死が語られる傍らで、朝食を食べて、学校へ行って、夜に眠る。自身のあずかり知らぬところで誰かの命が失われても、自分の世界は変わらず回っていく。世間ではこの事件についてやれ宗教思想が、とか、警察は何をしているんだとか、国家の陰謀が、と好き勝手に語っているが、その中の誰もが死した人達に心から同情してはいないのだろう。少なくとも、自分だけは巻き込まれたくないと、そう思っているはずだ。自分は……どうだろうか。
そんなことを考えながらぼんやりとテレビを見つめていると、コーヒーの香ばしく深い香りが鼻をくすぐるのと同時に、トースターから小気味よい焼き上がりの合図が聞こえた。こういうニュースを見ると、どうも余計な考え事をしてしまっていけない。緋色はテレビから目線を外し、再び朝食の支度を始めた。
☆
海上理想国家「イリスコーダ」。 海の上に浮かぶ、孤高の楽園。七色の理想郷。
理想郷の名の通り、あらゆる技術・文化が人智の及ぶ限界まで発展した七つの都市で成り立っている。
人が再現出来る、限界の『美』を追い続ける橙色のエリア「アプリコット」。
芸術家たちが己の腕を以って競い合う黄色のエリア「ジョン・ブリアン」。
イリスコーダに電脳と鉄の恩恵をもたらした緑色のエリア「シュヴァルツヴァルド」。
紡がれてきた叡智を求める者たちが集う水色のエリア「アクエリアス」。
人と海とが調和し、海と人が共に暮らす、潮風の香る青色のエリア「紺碧」。
訪れた者がみな、ただ一言『極楽』と称する紫のエリア「至極」。
そして、それら六つの街を統括する中心大都市。文明が赤く燃えるエリア「ヴァーミリオン」。
それぞれの都市であらゆる文化が発展しており、その文化を他エリアへと分け与え、時には受け取り、著しい文明の発展を遂げてきた。
緋色が住まうのはヴァーミリオンの居住区だ。今は朝食を終え、同エリアにある高等学校に向かうため、地下リニアに乗っている。
中央都市ということもあり、朝は特に大勢の人がリニアに乗るが、それでも車内には人が十分に座れるだけのスペースがあり、快適そのものだ。地下の薄暗い風景を払拭するのが目的だとかで、窓には爽やかな森林の風景が映し出されている。
耳を澄まさなければ聞こえないような電動機の駆動音に意識を傾けながら、緋色は自身の指先を見つめていた。
真っ白な指先の先端には、真っ赤な血液の色が透けた爪が艶を帯びている。周りをちらと見渡せば、緑、黄色、水色、ピンク。リニアの中はカラフルな瞳と爪を持つ人々が沢山いる。
そう、真白の肌に、多種多様の血液の色。この理想郷に住まう人々の最大の特徴だ。
イリスコーダに生まれる人々は全て、七つのエリアと同じか、それに近しい血の色をを持っている。それ故「七色の理想郷」と謳われているのだ。
血の色が一人ひとり違う理由だとか、血の色による個体能力の変動率などは現在でも明らかになっておらず、特定の機関で調査されている最中だ。
発展と栄華を極めた、謎多き神秘の国。まさに理想郷と呼ばれて然るべき場所だ。
そんな、犯罪のつけ入る隙など無かったはずの「理想郷」イリスコーダに、今陰りが落ちている。誰とも知らぬ者の手によって、いたずらに人の命が奪われ続けている。いつ自分や、自分の周りの人間に降りかかるかもしれない災厄が身近にあると思った時、ふと父のことを思い出した。
私の誕生と同時に、最愛の人を亡くした父。たった一人で、私のことをここまで育ててくれた。意見が合わないことだって、困らせてしまうことだってあったが、何よりも大切に思う肉親の一人だ。もし父に不幸が降りかかるようなことがあれば、その時は自らの身を挺してでも救いたい。
まあ、なによりも不幸が降りかからないことが一番だが。そこまで考えて、緋色は小さなため息をついて目を閉じた。
最寄りのステーションで降りれば、学校はすぐ傍だ。 同じリニアに乗っていたのであろう多くの生徒たちが、学校へ向けて人の波を作っている。波に乗って学校へ辿り着けば、全長3mはあろうかという巨大な校門が口を開けて生徒たちを迎え入れている。全校千五百人規模のマンモス高校ということを踏まえて見れば、納得の大きさだろう。
緋色の教室は西棟三階、AからJまで続く教室のAクラス。勉学特化の特進クラスだ。
三年生になって、得意な科目ごとにクラスが分けられた。緋色はそこまで勉学が好きというわけでも、将来の明確なビジョンがあるわけでもなかったが、とにかく父に報いたい一心で必死に勉強して、Aクラスの一席を勝ち取った。Aクラスの授業の進行速度は猛烈で、春だというのに気を抜けば置いて行かれそうな情報量が白いスクリーンに所狭しと連ねられる。春になって新しく知り合ったクラスメイト(2,3人だが)と授業や教師の愚痴を言い合える程度に仲良くなったのがせめてもの救いだ。
とはいえ、あんなニュースを見た日だ。今日くらいは当たり前に授業を受けられることに感謝しようと意気込んで教室に入る。クラスメイトと何度か挨拶を交わし席につけば、学生としての一日が始まった。
☆
一日の授業が終わり、ぐったりとした面持ちで緋色は東棟一階の廊下を歩いていた。
前言撤回だ、ただでさえ他の授業で逼迫しているというのに、あんな尋常でない量の課題を課した倫理の教師を私は今後一生許さん、と恨み言を頭の中で唱えながら、日直日誌を職員室へ届けに向かっている最中だ。
窓から茜色が差し込む廊下には、外から聞こえる部活動の音や声がわずかに反響している。今から帰るところなのであろう女子生徒たちが、待ってよ、早く、と声を掛け合いながら楽しそうに校門へ向かって走っているのが見えた。名こそ知らないが、何度か姿を見たことがある同級生のようだ。先導して走っている眼帯の少女は特に、類まれなる身体能力と、これまた類まれなる頭の悪さで教師も手を焼いている美しき問題児……とか、なんとか言われていたような。
心の底から楽しそうな笑顔で、級友と道を駆け下りていく眼帯の少女を見て、私にも或いはあんな風に笑いながら誰かと笑って帰る未来があったのかもしれない、と緋色は一人思う。
私を産んだ母が、生きていれば……
「鮮名、なにボーッと突っ立ってんだ」
ハッとして振り返れば、そこには白衣姿の男が立っていた。
「縹先生……」
後ろから声をかけてきたのは、馴染みのある人物だった。
縹 海澄。ボサボサの黒髪に、眠たげな瞳。いつも目の下に隈を浮かべており、不養生を絵にかいたような男だが、これでも養護教諭だ。縹はくすんだ青い爪で手入れされていない頭を掻きながら、こちらへ近づいてきた。
「何してんだ、こんなところで」
「職員室へ日誌を届けに行くところだ。先生は……」
「俺は仕事終わりの一服だよ」
不健康、と放てば、短くうるせーと返事が返ってくる。縹はまた数歩近づいてきて、緋色が見つめる先へ視線を向けた。
「ああ、暮羽か。お前の同級生だったな。知ってんのか?」
「いえ、知り合いでは……。彼女は、暮羽と言うのか」
「ん。お前と一緒でよく保健室に遊びに来るけど、まーお前と違って問題児だぜ。この前なんか大事にとっといたアイス食われちまった」
縹のごちた内容から浮かんだ情景に、ふと笑みを零す。あんなに溌溂とした笑顔を見せる子だ。冷蔵庫で冷やされていた高級アイスも無邪気に、幸せそうに頬張ったのだろう。
そう。本来、傷病を手当てするはずの保健室は、目の前にいる不真面目な養護教諭によって快適な憩いの場と化している。
気に入った生徒は好きなだけ読書や課題に使わせてもらえるというトンデモ空間だ。かくいう緋色も、テスト期間などに訪れては勉学の場として活用している者の一人である。
「あんまり好き勝手してると教頭先生に怒られるぞ」
「俺ぁ可愛い生徒たちの方が快く過ごせる空間を大事にしたいから、あのハゲにだって立ち向かうぜ?」
「自分が快適に過ごしたいだけだろう」
まあな。とふんぞり返る教師の風上にも置けない男を見ていると、呆れるやらおかしいやらだが、同時に心が和らぐのを感じる。
この男は適当なようでいて、本当に生徒のことをよく考えている。特に、私のような特殊な家庭事情の生徒については一層気をかけているようだ。
だらしないふりをして生徒の緊張を解いて、同じ目線で接してくる。無理のないように、少しずつストレスを取り除くのがとても上手いのだ。
いつも面倒くさそうにしているが、根は聡明で温かい心の持ち主であることを、私は知っている。
「そういや今度授業早く終わる日あるよな。甘いもん買っといてやるから、ちょっと勉強していけ。特別にこの縹様が見てやるよ」
ほら、今だってそうだ。
私の担任あたりが話したのだろう、縹は私の父の帰りが遅いことを知っている。それ故、退屈でないように、家に一人にならないようにと保健室へ誘っているのだ。
あまりにも遠回りな優しさが面白くてたまらない。緋色は穏やかに微笑んで、涼し気にこう返す。
「仕方ないから、行ってやらんこともない」
目の前で変な顔になっている男に、では、と短く告げて、緋色は再び職員室に向かって歩み始めた。
そういえば、甘いものを買うと言っていたが、甘さ控えめの物がいいと伝えるのを忘れていた。今度、保健室を訪れる前に出会うことがあれば伝えよう。
数日後を思い浮かべて職員室へ向かう緋色の足取りは軽やかだった。
☆
縹との、廊下での対話から数日後。今日は授業が早く終わる日だ。
無意識に楽しい気持ちが漏れていたようで、クラスメイトが遠慮がちに、どうしたのと声をかけてきたが、何故だか非常に怯えた様子だった。
緋色は楽しいつもりだったのだが、どうやら相当厳めしい表情をしていたようで、怒ったものと勘違いしたらしい。なんでもない、と仏頂面で返せば、向こうもこれ以上の詮索は危険とでも思ったのか、黙って席へ戻っていく。元来より誤解されやすいタイプではあったが、こうも露骨に怯えられると若干心にくるものがある。
気を引き締めなければ。 緋色は短く咳払いをして、次の授業を受け持っている教師の到着を待った。
昼休み。
今日は購買で軽く昼食を済ませたため、休み時間がいつもより多く余ってしまった。どうせならば食後の運動がてら、保健室にでも寄ってちゃんと甘いものを買っているかどうか確認してやろう。 そうと決まれば、だ。緋色は颯爽と教室の扉をくぐった。
昼時は、外も廊下も生徒で溢れている。すれ違う時に聞こえてくるのは、今日の運勢であったり、午後の授業が如何に気だるいかについて語るものであったりと様々だ。
平和で、穏やかな、そこにあって然るべき日常。
きっと保健室にもこの穏やかな空気が充満しており、中心にはあの不真面目な養護教諭が鎮座していることだろう。辿り着いた保健室の周りには人はおらず、遠くから生徒の喧騒が聞こえるのみだ。
スライド式のドアに手をかけ、今まさにドアを開こうとしたその瞬間、内側からものすごい勢いでドアが開いた。
中から出てきたのは件の養護教諭、縹だが、いつもと様子が全く違う。
「どうしたんだ、先生」
「ぅおっ、ああ、鮮名か。丁度よかった。悪い、今日の勉強会はキャンセルだ。急用入った。まだ校内放送入ってねーけど、じきお前たちにもすぐ下校するよう指示が入る。教室に戻れ」
「……何があったんだ」
「細かいことは後日担任から連絡がある!いいから、教室に……」
「よくない!」
突然声を荒げた緋色に、縹は目を見開く。日ごろから冷静沈着が板についている彼女がここまで声を張っているのを見たのは初めてだったからだ。しかしながら、彼女が何に憤っているのか見当もつかなかった。聡明な彼女のことだ、まさか勉強会がキャンセルになったことで怒っているわけでもあるまいと、縹は無言の待機を以って彼女の言葉の続きを促した。
「……いきなり、怒鳴ってすまない。だが、いつも世話になっているから、私だって先生の役に立ちたい。役に立つことが無理でも、せめて先生をそこまで焦らせているのは一体何なのか教えてほしい。少しでも、出来ることがあればやりたいんだ」
余りにも真っ直ぐな彼女の感情の発露に、縹は思わず半歩退く。冷静沈着、と今の今まで思っていたが、もしかしたらこの学校の誰よりも情熱を内に秘めた人物なのかもしれない。 ともあれ、彼女をここまで自分に肩入れさせてしまった原因は間違いなく自分自身にあることを縹は理解していた。自分のためを思ってここまで熱くなってくれる優しい生徒を、これ以上突き放すのはあまりにも酷だ。
縹は短くため息をついた後、静かに、そして早口で緋色に告げた。
「いいか、これはお前を信頼しているから伝えるんだ。周知があるまで絶対に漏らすな。……例の連続殺人事件、お前も知っているだろう。今日、新たな被害者が出た。奇跡的に命に別状はないようだが、」
「襲われたのは、この学校の生徒。お前の同級生……暮羽ゆりねだ」
―――――平和で、穏やかな、そこにあって然るべき日常。
当たり前にそこにあると信じて疑わなかったものは、あまりにも唐突に崩れ去る。
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