脇道

脇道

 彼はただ生きていた。
 何かよいことや悪いことがあるわけでもなく、これといってとくに好きなものも嫌いなものもなく、起伏のない日常をただ生きていた。

 そんな彼の運命を変えたのは、ある日の帰り道だった。薄暗い曇り空の夕方、仕事場から自宅へ帰る途中、ふと思い立っていつもと違う道を通ってみた。とくに理由があったわけではなく、ただなんとなく脇道に入ったのだった。
 ただ淡々と家路を往くそんな彼の目が、あるところで止まった。
 道から少し外れた岩場の一角で、何か白いものが動いている。

 あれは何だろうか?

 ふしぎに思い近くに寄ってみると、白い小動物が一匹、岩の隙間にはまり込んで抜け出せなくなっているのだった。彼は岩をどけてその白い小動物を助けてやった。その小動物をかわいそうに思ったわけではなく、よいことをしようなどと考えたわけでもない。とくに何も考えず、ただなんとなく助けたのであった。
 彼はそのまま家に帰り、そのことはすっかり忘れていた。

 彼の家に一人の不思議な人物が訪ねてきたのは、その数日後のことだった。その人物は真っ白な服を着ており、男か女かよくわからないどちらにも見える人物だった。外見は若いように見えるが、老人のような雰囲気を漂わせていた。その白い人物は、あの日彼が助けた白い小動物で、助けてくれたお礼をしに来たのだと言った。そう語る白い人物の声はやはり男のようにも女のようにも、若者のようにも老人のようにも思えた。白い人物はその老若男女不明な声で、こう言った。
「あなたの望みを何でも一つだけ叶えましょう」
 しかし、彼は答えた。
「いや、私に望みや願いなどといったものはありません」
 すると、白い人物は驚いたようにこう言った。
「これはまた異なことをおっしゃる。あなたは今の暮らしに何か不満や不足はないのですか。一つぐらいはおありでしょう」
「いいえ、不満も不足もありません」
「ふうむ、あなたは今の生活に満足していらっしゃるというわけですな」
「いいえ、満足もしておりません。私にはこれといって不満も満足もないのです。そのようなことはとくに考えていません」
「何か欲しいものとかないのですか。もしくはその逆で、この世からなくしたいものや消したいものでもよいですが」
「どちらもないですね」
「これは参りましたね。私はこれまで、実に二百五十五人の人々の願い事をこのようにしてかなえてきました。あなたが二百五十六人目になりますが、こういうことは初めてです。
 これまでの人たちはみな、すぐに願い事をいくつも挙げられたものです。むしろその中から一つに絞るのが難しかった。たとえば、莫大な金銭と社会的な地位、そして大きな家がほしいと望んだ上に、さらに好きな人と結婚して幸せな家庭を築きたい…などといったものです」
「そうですか。どれも私には要らないものですね。お金や地位は今のままでとくに困っていることもないですし、一人で暮らすだけなので家もこれで充分で、大きい家などあっても維持が大変なだけです。結婚したいような人がいるわけでもなく、家庭など私には重荷なだけです」
「なるほど、そういえばある人などは、家族が重荷だからということで、家族を消してくれと望んだものでした。中には村を一つ丸ごと消した人もいました。もっとも、みんな後になって大いに後悔していましたが…」
「私には消したいものもありません。ただ、今ある中で最善を尽くすだけです」
「では、やりたいことならば何かあるのではないですか」
「とくにありません。私は何をやりたいかではなく、常に自分に何ができるかを意識しているのです。そのできることの内で、するべきことをする。ただそれだけです」
 それを聞くと、白い人物はしばらく黙って彼をじっと見ていたが、やがてたいそう感心した様子で、言った。
「これは驚いた。あなたは本当に何も望んでいないようだ。満足しているわけでも不満があるわけでもなく、邪念や雑念があるとかないとかいう以前に何もない。良くも悪くも全く何もないかのようだ。いや、何かがあるかないかという問題ですらないのでしょう。
 そういうことであれば、七日間待ちましょう。七日後にまた伺いますので、そのときまでに何を願うかお決めいただくことにしましょう」
 そう言い残して白い人物は煙のように姿を消した。

 その後七日間、彼はそのことをすっかり忘れていた。

 七日後、白い人物が再びやってきたとき、彼は急に思い出した。
「そうでしたね、今日が七日目でした」
「どうですか。何を願うか決まりましたか」
「いえ、実はすっかり忘れていました」
 白い人物はたいそう驚いて嘆息し、言った。
「いやはや、あなたは本当に不思議な人です。しかし、あなたの願いだけかなえないわけにはいきません。いや、むしろおそらくあなたのような人にほどこの権利はふさわしいと思うのです」
 彼が考え込んでいたのはほんの数秒だった。唐突に一つの閃きがあった。
「決めました」
「お聞かせください。何を願いますか」
「私に、永遠に全知全能の力を下さい」
 しばらく間があったあと、白い人物は静かに目を閉じ、おもむろに深く息を吸ってゆっくりと言った。
「わかりました。その願いをかなえましょう」
 そして左手をゆっくり上げ、彼の方に向けると、その指先がぼんやり光り、空気が動く。
 気づくと彼は、その意思の中に全てを掌握していた。
「これであなたは、永遠に全知全能の存在になりました。この世界の中の全ては、いや、この世界の外のことも皆あなたの思うままです。
 それでは、私はこれで失礼します」
 白い人物はそう言ってまた消えようとしたが、彼はちょっと待ってほしいと思った。すると、白い人物は消えずに止まった。
「あなたはこれからもまた、こうして誰かの願いをかなえるのですか」
 白い人物は苦笑して、言った。
「今のあなたは全てご存知のはずだ。私にお尋ねになるまでもないでしょう」
 確かにそうだった。白い人物がそうしようとしていることが、彼には自分のことのようによくわかった。そこで、彼は言った。
「大変申し訳ないのですが、あなたに消えていただくことはできますか」
「私に断る必要はありません。全てはあなたの思うままなのですから。しかし私は後悔していません。きっとあなたならばその力をうまく使えることでしょう。二百五十六人目にして私は最高の人の最高の願い事をかなえることができました。大いに満足しています」
「今ならわかります。これが満足ということなのですね。
 ありがとう。そして、さようなら」
 彼が願うと白い人物は消えた。

 さて、彼が改めて周囲に意識を向けると、この世界はなんと不完全なものかと思えた。そこで彼はこの世界を全て消した。
 彼が住んでいた町や国を含む全ての町や国、それだけでなく大地も海も天の万象も全てが一瞬で消滅した。
 世界中の生きとし生けるものも全て消滅した。

 住んでいた惑星が消え去り、後には宇宙が広がる。
 見渡すとはるか遠く、そこかしこに天体がまばらに散在していた。
 彼が願うとそれらの天体も全て消滅し、茫漠とした宇宙空間だけが残って、そこに時間だけが流れていた。
 さらにその時空を消滅させると、何もなくなった。

 光も闇も、時間も空間もないところに、ただ彼の意思だけが存在していた。

 彼は、自分に何ができるか、そしてその中で何をすべきかを考えた。いや、考えるまでもなかった。やることは決まっていた。
 彼は叫んだ。

「光、あれ!」

脇道

脇道

ある日の帰り道、彼は何気なくいつもと違う裏道に入った。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-30

CC BY-NC-SA
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