根拠のない不安。
※フィクションです。
いまから遠い未来の、パラレル世界の話。
巷には、人間以外のものが多くあふれ、人間は人間以外のものに同族の人間以上に関心を持っている。
そんな中、SNSに端を発して、起こりうる様々な不幸と、SNS依存の関係を研究した本が、
その年話題となった。
それは、すべてが人々の無知と無関心によって、強者にコントロールされ、滑られた結果の
当たり前の結末を記したもの。
SNSに集まる人とはある種の、ガス抜きを求めているような有象無象の集団かもしれない、
仮面を外した途端、人の本性が現れる。
人々はあきらめたふりをして、今日もどこかの誰かのせいにする、自分だけ生き延びるために。
日常の不安や不満、ありもしない欲求のありかとその根拠、暇つぶしのはずが見返りばかり求める。
それが責任を追及されないネット空間で匿名であり続けるということ。
SNSの巨悪と銘打たれたその本のテーマとは、
それら“隔離された仮想現実”は、VRやSRのような仮想現実、代替現実。
あるいは、AIやアンドロイドのような友人性を持ち合わせることはできず。
“互いに批判しあいつつも肯定しあうような奇妙な依存関係によってなりたつ檻のようなもの”
としてなじみのない幅広い年代層の読者に向けて解説、紹介している。
著者は、心理学者。
エーポンという人、人物。
例えばこういう議論があった。
下記は、匿名と匿名同士のアカウントの話し合いのひとつのやりとり、ダイアローグ的なやり取りの抜粋と分析。
この著者はこのやり取りを巨大な虚構と名付けた、便宜上のものだ。
彼らは対話はしない、だが互いに何かのキャラクターになりきりダイアローグ的に対話をしたふりをする。
人々は派閥とキャラクターを各々に持っている、
それが匿名の中での、名前の代わりになる。
どちらが正しいか?それらは、どちらかが数がおおくて、どちらかが屈服したか、その客観的判断だ。
“こうしたほうがいい。”
この時のテーマは、このSNSについての疑問や提案だった、それは運営自信が提案をもとめた。
経営する側にとって、意見や、本来そういったものはいくらあっても構わないものだ、
だが、回答ややりとりは、そんなものではなかった。
キャラクター同士が対立しあい、皮肉しあい、罵倒しあった。
片方はそれにあきれて、疲れて、対話をやめた。
それにつられて一方もやめる。
こうなったとき取り残されるのは、新しい可能性、
この双方がもめなければ、もう少しさきに新しいテーマが提示された可能性がある。
最後に片方がこの話を持ち出した。
「こんなんだから、いつまでたってもロボットに先を越されたままなのさ、
労働や、アイデアや、融和性、人間関係、愛情、もはやすべては置いてけぼりだ」
そういったとたん彼めがけて有象無象の別のグループや、やり取りを見ていた人々の集団がよってたかって集まってきて非難した。
「あきらめるのか」
「お前は何をやったんだ」
「ここをこうすればいいのにな!!」
文脈もくそもない。
そのはずなのだ、人々は、本来口に出さないことをインターネットで発言して、
それはつまり、口にだすまでもないような些細な話をしたときに
だれかが、その倫理だの根拠だの、正当性だの、本人の文脈だのを
横着して、本来の意味を受け入れずに、人格否定や個人攻撃によって、自分のものとしてしまえる。
それが大勢になって、少数のものを押しのける。
きっとそうして、この文化は衰退していったのだと思う。
文章はこう締めくくられている。
“現実は現実を排除しないが、仮想現実は現実を排除できる、つまりだれかにとって、あるいは集団にとって
都合のいい空間やその強制力を、公的な要素もなく他方を侵害できるようになったとき、
その仮想現実自体の価値が大幅に損なわれる、その空間には、自らの理想に近く、自らが心地がよいものたちしか集まらず、残らないようになる。
斬新なものは生まれず、それらの排他的集団の巣窟になる。”
事実、昨今では人々の趣味や需要は、インターネット上の仮想現実やSNSではなく、
AI,VR、SR、それらのおもちゃが人々の退屈をサポートしていて、
それらが“実体験”となりつつある。
人と人とがかかわりあう必然性がほとんど、説得力に乏しいものとなっている。
そう、ありとあらゆる不快を排除して、ある多数派がその流れを描いた結果である。
根拠のない不安。