長編『イデアリストの呼応』四章

四章 フォーパペッツは問われている


※for Puppets:訳……あやつり人形たちのために

   1
「きりーつ! 礼!」
 四時間目の授業が終了し、阿礼優亜はざわめく昼休みの教室の中、席に着いたままぼんやりと黒板を見ていた。
 見えるのはチョークで書かれた白い数式の羅列。しかし頭の中では別の光景が広がっている。
 一昨日、人形寺雫の家で練吾とマリィが互いの思想をぶつけ合ったこと。そして、マリィが自分の影響で少女を結果的に死なせてしまったことを知り、ショックで気絶したこと。
 優亜は無意識に溜め息を吐く。
 それから気絶したマリィは寝室のベッドへ運ばれた。彼女を運んだのは意外にも練吾だった。何も言わず、お姫様だっこで。それから数分間、練吾は眠り姫をじっと見守った後に、雫の家から出て行った。
 ショックを受けたマリィに対して同情すると同時に――羨ましい、と優亜は感じた。
 練吾は何を考えていたのだろう。何を思いながらマリィを見ていたのだろう。
 練吾とマリィが、決して楽観視できない何らかの悲痛な事情で結ばれていることは、あの激しい舌戦から感じ取れる。だからそんな、好きだとか嫌いだとか、そういう恋愛マンガ的な次元でマリィを見ているわけではないのだろう。
 でも練吾はマリィを見つめ続けていることは確か。たぶん彼にとって、マリィは世界上で唯一気にかけている人物なのだ。何度「マリィ」と口にしたのだろう。
「ウチ、まだ一回も名前呼んでもらったことないのに……」
 ぽつりと呟くと、後からポンと肩を叩かれた。
「なぁにぼんやりしてんだ~! 一緒にご飯食べよっ」
 振り向くとクラスメイトの紗江子がにこにこ笑っている。太陽のように明るい女の子だ。
「うん、食べよ食べよ」
 憂鬱な心境を悟られないように、優亜は笑顔で返した。
 紗江子に誘われるままに机を並べ、三人の友達と手作り弁当を食べながら、いつも通り他愛無い世間話をする。そこでも優亜はどこか上の空で、会話に混じれずにいた。
「今日の優亜、なんか変だよ? ねえ、マジ何があったのさ」
 ついに指摘され、優亜は顔を真っ赤にして「な、なんでもないよ!」と両手を振った。
「あやしい~」
 三人の友達に凝視され、優亜は「あはは」と作り笑いをする。
「にしてもさあ、今は教室から出て行ったけど……窓際の一番後ろに座ってる男子、最近ちょっと気味悪くない?」
 紗江子が新しい話題が投入したので、優亜もとりあえず三人の話に耳を傾けてみる。
「え、そう? てか誰だっけ? うーん、顔も名前も思い出せないなあ」
「あ、わたしも全然思い出せないや。存在感がまったく無い感じだよね」
「酷いこと言うね~。まあ、あたしも思い出せないんだけどさ~、なんか、目付きがいやらしいっていうか、そんな印象が漠然とあるわけ」
「何それ、すっごいテキト~」
「だってさ~」紗江子はちらり、と優亜を見る。「優亜を見る目が、ねっとりしてるんだよね。さっきだって、教室出るとき、ねっとりと優亜を見てたし」
「あははは! そりゃ仕方ないよ! だって優亜ってさあ、可愛いしぃ、プラスぅ~」
 三人の視線が優亜の豊満なバストに集まる。
「えっ? ええっ?」優亜は思わず両手で胸元を隠した。「きっ、気のせいだよそんな……あはは……。あ、ちょっとお手洗い行ってくるね」

    2
「ああ、阿礼さん……綺麗だなあ」
 安形雅紀は女神のような微笑を湛えてトイレへ向かう優亜を見て、呟いた。
 すると、背後から「山口ぃ、何変なこと言ってたんだキメェなあ」とか「う、うるせっ! てめえにはこのピュアリティは理解できねえ!」などと野卑な声が聞こえた。
「ずーっと見ていたいなあ」
 雅紀が言うと、また背後で「だから変なこと言うな山口ぃ!」という声がした。
「抱き締めることができたら、死んだっていい」
 背後から「じゃあさっさと死ねよ山口ぃ!」と声がする。
 もちろん、雅紀に向けられた言葉ではない。モブである山口に向けられた言葉だ。この学校内には――いや、この世界には、自分に興味を持つ人間など一人もいない。
 ただ、阿礼優亜という女神を除いて――。
 彼女は運命の人なのだ。オレに自由を与え、生きる希望を与えてくれた。
 だからオレと彼女は――一緒に幸せになる運命が決定付けられている。

    3
 トイレの個室で、優亜は蓋が閉まったままの便座をイス代わりにして座り、ケータイでネットに接続し、『優しい掌』を検索する。二十三件の検索結果が出た。昨日より二件増えている。
 一件目のページにアクセスし、都市伝説ヒーロー掲示板を閲覧する。『優しい掌』のスレッドはまだ一つしかないが、既に約三百ものコメントが投稿されており、優亜は手応えを感じた。
 自分がイデアリストとして人々を癒すことは、この世界にとても良い影響を及ぼし、次々と模倣者を生み出すことに繋がるのだ。コメントの大半は「すげえグラマー体型で優しい顔してた。チェンジなし!」といった『優しい掌』の目撃証言に関することがほとんどだが、「私も『優しい掌』を見習って、いろんな人に優しくしていきたいなあ」といった模倣の意思を仄めかすコメントもあった。
 こうしてじわじわと、少しずつだけど確実に、世界中の人々が理解し合って優しくなっていけばいいなあ、と優亜は胸がじんわり温かくなる。
「うん。がんばらなきゃ。がんばれウチ」
 そのほかに『血のカマイタチ』や『手負いの翼』の掲示板にもアクセスしてみる。切辻練吾とマリィの別名たるこの二つのヒーローは最近、人気を博しており、それぞれのスレッドは十個近くも立っている。やはり行うことのインパクトが強いためだろう。
 強姦殺人犯に容赦の無い裁きを下す『血のカマイタチ』。
 悪しき者から弱者を救出する『手負いの翼』。
 相反する両者が取る行動はとても極端で、かつ手加減を知らない無謀さがある。だから平凡な日常を生きる人々の憧れとなったり、畏怖の対象となるのだろう。
 そうして良くも悪くも注目されて、賞賛と批判をたくさん浴びて、ごく少数の人間が深く共感して模倣する。
 一昨日、自分の命と引き換えに銀行強盗から人質を救い出した少女も、そのひとりだ。今日の朝の報道番組ではこの事件を話題に挙げて、各業界で有名なコメンテーター達が熱く議論していた。
 都市伝説ヒーローという架空の存在はなぜ生まれたか? そしてそれは、われわれが生活する社会において、悪影響を及ぼすに過ぎない障害なのではないか? などといったテーマで各々が自論を主張するが、肯定と否定の言動がいたずらに空を舞うだけで、結局話はまとまらずに議論は終了した。
 まとまらないのも当たり前だ、と優亜は思う。
 世間というものはだいたい、異質で革命的な存在をかたくなに排除したがる。そもそも、そういう性質そのものが『世間』なのだろう。百パーセント安全で無害なものじゃなければ、容易に世間の仲間入りなんてできやしない。
 その点では、『優しい掌』は容易に仲間入りできるだろう。でも賛否両論があまりに激しい『血のカマイタチ』と『手負いの翼』は難しい。人々を本当に正しき方向へ導くには、それ相応の犠牲が伴う、ということを世間は認めたがらない。
 世間が求めるのはいつだってノーリスクローリターン。人畜無害だけれど、ありきたりで小さな仕事をする人間が求められている。
 度を越えてハイリスクな異端は排除しなければいけない。徹底的に。それが世間。
「確かに練吾くんもマリィちゃんも、やりすぎなところがあるかも。だけど、正しいことだと思うし……うーん、難しいなあ」
 もしも。
 もしも――『血のカマイタチ』のようなハイリスクな存在が世間一般に認めてもらえる状況があるとすれば――それは――
 ふと、脳裏に不可思議なイメージが浮かんだ――強敵を打ち倒して勝利の勝鬨を上げる戦士と、それに群がり歓声を上げる民衆達。しかし、それが意味するところがイマイチつかめない。
「うにゃ、それはなんだろう?」頭を傾げる優亜。
 ぼんやりスレッドのコメントを流し読みしていると、メール着信を伝えるバイブが鳴った。人形寺雫からだ。
『お昼中ごみ~ん! デルタレスキュー初の仕事ができちゃった! キャハ。一応メールしとくね! なななんと、橋本市内にて幼稚園児の男の子を誘拐した男が逃走中! んで、マリィちゃんが単独で追跡中で、あたしと半ケツ変態練吾は車で急行中。救出後、少年のアフターケアとして優亜にも協力してほしいな♥』

   4
「生ぬるい運転すんな人形寺! おい! すっとばせ!」
 ミニクーパーの助手席に座る切辻練吾は、愛用の金属バットを片手に運転手である人形寺雫に怒号を飛ばす。
「あーうっさい! 無理いうなこの赤ザル! あんたはたった今、あたしの車に乗せたくない奴ベストスリーに入ったわ!」
 前方を走る車両のどれかが法定速度を遵守しているせいで、その後方の車は数珠繋ぎとなってノロノロと進む羽目になっている。
「だいたいさ~、この人口過密都市の国道でさ~、カーチェイスなんてできるかっつーの」
 雫はクラクションを無駄にけたたましく鳴らす。
「ったく。ホントにマリィのヤツは、被害者を救出しに行動してんのか? あんな脳内お花畑信者は信用できねえ。さっさと飛ばせ!」
 練吾はダッシュボードにどっかりと足を乗せ、舌打ちをする。
「こら赤ザル! 人の車でその態度はなんだ! 殺すぞ!」
「うるせー! じゃあとっとと追いついてみせろ! オレはイラついてんだ!」
「はあ!? なめてんのかガキ! じゃあ降りて走れえ!」
 雫は助手席の窓を強制的に全開にし、練吾の頭を掴んで、ぐいっとと外へ押し出た。左ハンドルの車のため、助手席が対向車線側になっている。風を顔面に受け止めながら、前方からトラックが高速で急接近してくるのを見た。死ぬ。自分は死ぬ。
「バッカ野郎! 死ぬ! マジで……!」対向車線のトラックと擦れ違う瞬間に練吾は頭を戻す。「死ぬところだったぞオイ!」
 すると、雫はケータイを片手に誰かと通話していた。その着信が無ければ死んでいたかもしれない、と練吾はゾッとした。
「え、もう被害者を救出したの? うんうん。え、発信機を取り付けた? ホントに? いやいや……うん。すぐに向かう」
 電話を切り、雫はにやり、と笑みを浮かべた。
「なんだ? マリィからか?」
 練吾はぶすっとしつつ、おとなしくシートに座る。
「いやはや、まさかマリィちゃんが、ねえ……どーんな心境の変化かしらぁ? ふっふーん♪」言いながら雫はカーナビをタッチし、マリィが加害者の車に取り付けた発信機の位置を表示させる。「まさか犯人への裁きを望むだなんて。あの子ね、こう言ってたわ――『犯人を懲らしめてください』だって」
「ふん。あの信者さんは、自分の手を汚そうとしないんだ」
「いいんじゃないのぉ? それでさ。何はともあれ首尾は上々♪」
 鼻歌まじりに雫は言う。まったく女というヤツは、勝手にキレ出しては勝手に機嫌が直るな、と練吾は思った。
 ふう、と雫は肩の力を抜いて、口端を上げる。
「あとはゆっくりのんびり、発信機(コイツ)を追っかけるだけ。今頃、マリィが優亜を呼んで、被害者の心のケアに当たってるでしょ。だからあたしらは安心して、野郎をブチのめすことができるってわけよん」
「やれやれ」
 長い息を吐いて練吾は金属バットを抱えながら腕を組み、目を瞑る。
 自分はどこか安堵しているようだ。それはたぶん、幼稚園児の男の子が加害者に強姦や殺害されないうちに救出されたことに対して、だ。もちろん、『理想切断』で強姦犯罪者に裁きを下せないことには不満があるが。
 ――オレは逃げているんだろうか? この人間社会の住人に『血のカマイタチ』の模倣をさせ、人間社会から犯罪意識を根っこから消すことがオレの理想のはずだ。なぜ、『理想切断』が発動できないことに安堵している――?
「悔しがってるのかホッとしてるのか――」雫が心を見透かしたように喋り出し、練吾はどきり、とする。「あんた自身、自分の感情が理解できずにいるようね」
「何をバカな――!」
「どっちつかずの二つの想いがあるなら、どっちとも心ん中に大事にしまいつつ、まずは目の前のやるべきことをコツコツやっていきな。そのうちスッキリできるヒントがひょんなタイミングで出てくるもんさ。ぐるぐる考え込んでも、迷う一方だぜ。まずは行動第一なり」雫は得意げに語るが、練吾には今ひとつ理解できない。「二十三歳のお姉さんの言葉さ。とっとき」
「……二十三歳? 俺より七つも年増だったのか、あんた」
「って、そこぉ!? そこに反応するぅ!?」雫はアクセルを豪快に踏んで、顔を練吾に向ける。「年増だとぉ? もっぺん言ってみろ! おいてめえ!」
 猛烈な重力が前方からかかり、練吾は思わず怯む。
「だぁー! バカ! 前見ろ前!」
「二十三の女の子ったら、ちょうど美味しい時期じゃねえか! 女で一番魅力が染み出る年頃なんだよ! お前ロリコンか!?」
「わかった! わかったから前見ろ長老!」
「長老だってぇー!?」
 雫は怒りに任せたハンドル捌きで高速移動中の車を転がしていく。十台、二十台と前方車両をぐんぐん追い抜いていく。ああ、途方も無い非現実感。
――情緒不安定すぎる! こいつ多重人格者か!?

 道岡康夫はオフィス街にある有料駐車場に車を止めて、外に出て冷や汗まみれの身体を陽光の下に晒した。
 駐車場内の車はまばらで、康夫以外の人は見当たらない。
 康夫はきょろきょろと辺りに敵がいないか見渡した後、さっきからぶるぶると震えが止まらない指でタバコを挟んで火を付けた。思い切り煙を吸い上げて吐き出す。痛快なニコチンが頭を幾らかクールにした。
「なんだったんだよぉ、さっきのは! 車のドア、ちゃんと施錠してたのに……なんで女の子が飛んできてドアを開けてきたんだよぉぉ。しかも俺の金づるを奪いやがって……許せねえ。俺が何したっていうんだよ! くそったれが!」
 やり場の無い怒りが噴出する度に、紫煙で肺を満たして平常心を取り戻す。
 勤務先の社長の一人息子を誘拐、監禁して莫大な身代金を要求する予定が、これでパーだ。いったい俺が何をしたんだ? 康夫は駐車している見知らぬ誰かのポルシェを蹴った。俺よりいい車に乗りやがってふざけるなよ。
 社長の息子を車に押し込んで、山奥にある使われていないボロ小屋に向かっている途中、突然、車内に強風が吹き荒れたのだ。確かに冷房は入れていたが、そんな生易しい風ではない。巨人用のデカいうちわで豪快に扇がれたような、そんな不条理な突風。
 それに突風の向きは、後部座席のドア側に吹いていた気がする。そしてそのドアがいきなり開け放たれて、白髪の少女が瞬時に社長の息子を浚って、どこかへ消えてしまった。まさか、風圧でキーロックが解除されたとでもいうのか?
「そんなふざけたことがあるかボケがぁ!」
 次は誰かのベンツを蹴ってやった。
 ふと、白髪の少女が去り際に見せた顔を思い出し、康夫はゾクっと寒気がする。
 極めて冷酷な表情だった――目は限界まで見開かれ、口元に覗く歯はギリギリと食い縛られていた。
あれは人を躊躇なく殺したり、残忍な方法でじわじわと人を死に追いやることのできる狂気が無ければできない表情なんじゃないか、と康夫は思った。そうだ、冷や汗の原因はあの少女の狂気的な顔だったのだ。
 ――突如、一台のミニクーパーが駐車場に滑り込んでくる。
 それはスピードを落とさず、ドリフトしながらダイナミックな音を立ててスピンし、バック駐車を決めた。しかし車体は綺麗に白線内に収まっている。
 ぽかん、と康夫は口を開けて見ていると、中から派手な格好をした一組の男女が出てきた。どう見ても普通ではない。
 運転席から出てきた女の方は、アニメキャラのようなカラフルな長髪と、黒いゴシックファッション。片手を腰に当てる彼女の表情は、眉が寄っている。すこぶる機嫌が悪いようだ。
 男の方は真っ赤に染め上げた髪に、緑色の革ジャン。長身であり、百八十センチは優に超えているだろう。その手には赤い金属バット。バットは取っ手の辺りから先の方まで凹んだ痕が無数にあり、とても野球を目的に使用されているとは思えない。怖い。
 そのワケの分からない二人が、こちらにゆっくりと歩いてくる。
 近づいてくる? 思わず背後を見るが誰もいない。自分を目的にしていることは明らか。
 赤髪の男はバットの先をわざと地面に当てて、ガリガリとひきづってくる。
「く、くるなあ! お、おお俺が何したっていうんだよぉ!」
 康夫はせめてもの抵抗として、吸っていたタバコの先を彼らに向ける。
 女が青いルージュが引かれた唇を動かす。
「小さな男の子を誘拐した。そう仲間から聞いてるけど?」
 仲間? 靖男は咄嗟に社長の息子をさらった白髪の少女を連想した。
「だから何だってんだよ、おい……。別にいいじゃねえか」靖男は理不尽だ、と感じた。理不尽すぎる。俺がいったい何をした?「俺が何したってんだよぉ! おい、なんでそんな厳しい目で俺を見る? ただ金持ちからちょびっとおこぼれを貰おうとしてるだけじゃねえか! 四十すぎて年収二五〇万ちょっとの俺が、ちょっといい思いするだけじゃねえか! どこが悪いんだ? 社員を捨て駒としか見ていないクソ社長の肥えた腹から、ちょいっと小金をいただくことに、なんの悪がある!?」
「なあ、人形寺」男が低身長の靖男を、高圧的に見下ろす。「この外道の言語、通訳できるか?」
「さあ? とりあえず殴っちゃえば? 使う言語が違うんじゃあ、話し合いは無駄だもの」女はさらりと言う。「気絶以上死亡未満。それでよろしく」
「難しい注文だな。これ、久しぶりなんだぜ」
 男は金属バットを振り上げる。理不尽だ。なんで、俺がこんな目に……。
「てめええええ! このド悪魔が! 犯罪者が! そんなことしてタダで済むと思う――」
 言葉の途中で頭に鈍い衝撃が走り、世界が暗転した――。

   5
「妙だな、こいつ……。犯罪者っつう自覚がまるで無かったぞ」
 練吾は倒れた男をバットで突く。反応は無い。気絶したようだ。
「たまーにいるんだよ。こーゆー分別の無い人格破綻者が。自分は何も悪くない。悪いのはいつだって社会の方なんだって……。頭の中はいつも自分のことばかりで、他人の気持ちを想像することのできないカワイそうな連中がいるのよ」
 同情したような、どこか湿り気のある声で雫は言う。
「なんだ、ずいぶんと感傷的だな」
 皮肉った顔を雫に向けると、練吾は少し驚いた。彼女は本当に、悲しそうな顔をしていたからだ。静かで緊張した目――今にも涙が流れてもおかしくないような。
「さて、条件は揃ったわ」雫はポケットから小さなフランス人形を取り出した。少年の形をした人形だ。「今から『感情代理(フォーパペッツ)』を発動する。この人でなしを、一般的な人間に変えるために」
手のひらサイズのフランス人形を気絶した男の頭に置くと、小さなそれは青く輝き出して動き出した。
 するとフランス人形の両手から無数の細い糸がシュルシュル飛び出し、男の身体に巻き付いていく。精密機器から伸びる無数のコードが、本体に接続されていくように。
「これでこいつは、しばらく『感情代理』の操り人形として生活することになる」
 雫は眉をひそめて言った。
「は? 具体的に説明してくれ。何してんだ?」練吾は首を傾げる。
「こいつをこの一帯で、最も協調意識が高い人格者にしているのよ」雫はしゃがみ込んで人形を撫でた。「この人形、つまりあたしのデュナミスは、例えるならコンピュータのモデムのようなモノ。半径一キロメートル以内にいる全ての人間の人格データをダウンロードし、まとめて平均化した人格を作り上げて、この対象者にインストールすることができる。取り外し可能だから、人格矯正ギプスと言ったところね。元の人格が、平均的な人格に矯正されると人形は離れ、あたしのところに戻ってくるようになっている。もちろん、あたしの任意でいつでも取り外し可能よ」
「半径一キロメートル以内の……平均的な人格をインストールする? どういうことだ」
「つまり人形を取り付かせている限り、対象者は周囲の人々に対して最も都合の良い反応しかできなくなるってことよ――元の人格を抑圧して、ね。人形が取り付いている以上、元々の人格は無きに等しくなるわ」
「おいおい、それじゃあこいつは、操られてるみてえじゃねえか」
 冷たいものが背筋に走り、練吾は唾を飲み込んだ。
「社会で生きる人間なんてだいたい操り人形みたいなものよ」雫はどこか自嘲めいた笑みを浮かべる。「コミュニティに属している以上、空気読んで、周囲の人々と気を合わせなきゃあ安穏と生活することなんてできないわ。何気ない世間話だって、相手が興味ある話題を選ばなければ、変人とみなされて無視される。ちょっと違うところがあれば、気味悪がられて排斥される。それはとても悲しくて寂しいことよ。だから普通の人は、とことん周囲に気に入られるように振舞って体面を保とうとする。自分が見えない操り糸に縛られてるのに気付いていないのは、ただその状況に慣れ切っているだけ。コミュニティを維持するためには、皆が皆、糸を繋げ合って、操り合わなければならない。そうしてびっしり密集した操り糸はネットになり、簡単には抜け出せなくなる」
「そんなもんか? 考え過ぎだろ」練吾は退屈げにあくびする。
「そんなもんよ。あんたみたいな空気読めない人間にはわからんでしょうけど」
 雫は青い長髪を手で軽く払い、憂えげな目をこちらに寄越す。
「密集した操り糸のネットの中はすごく窮屈。でも、窮屈なのは安全である証拠よ。あたしはすべての社会不適合者をその安全な領域へ引き込んで、窮屈なまともな生活をさせてあげたいと思ってる。みんな、平均的で普遍的な幸せを共有してほしいの。それが正しい一般的な人間の生き方ってもんでしょう?」
「くだらねえ。眠くなってきた」
 戯言だ、と練吾は思う。少なくとも自分自身には関係の無い話だ。
「切辻練吾。あなたも、『感情代理』のターゲットになる条件を満たしているのよ」
「なんだと?」
「『感情代理』の発動条件は、目の前に気絶した社会不適合者がいること。あんた、あたしの前でちょっと居眠りでもしたら、すぐにでも人形を取り付かせることができるわ」
 雫が冷ややかな口調で言い終えると、練吾は反射的に彼女の胸倉を掴んだ。
「ナメた口きいてんじゃねえぞ、人形寺。オレ自身、イカれてることは自覚済みだ。だがな、オレを協調性しか取り柄の無い骨抜きにしようってんならなあ、そんときはてめえ……」
「今すぐにはやらないわよ」雫はなぜか、微笑んだ。「あんたの能力は、あんた自身の心を破滅に追いやる諸刃の剣だからさ……。もしあんたの心が壊れた時には、この優しいお姉さんがどーにかしてあげるって……そういう話よ」
 居たたまれなさを感じた練吾は、雫を突き飛ばすように手を離した。
「誰の心が壊れるだって? オレは、平気だからな! これからもどんどん強姦殺人者を地獄に落としてやる! オレはマジで何ともねえんだ!」
「分かったよ」子供をあやすような態度で雫は微笑む。「なんかいつも限界だね、キミは」
「チッ、その態度がムカつくん――!」
 言葉の途中で雫のケータイが鳴った。彼女はポケットからそれを取り出して耳に当てる。
「あ、マリィちゃん? 今どこぉ? うんうん。え、被害者が泣き止まないの? あはは……りょーかい。すぐ行くよ」
 ケータイをポケットに仕舞い、雫はミニクーパーへ戻っていく。
「次はなんだよ」練吾はうんざりしながら彼女を追う。

    6
 学校から抜け出してきた優亜は、マリィから送信された位置図を頼りに、彼女と救出された少年を探していた。デルタ・レスキュー活動のためだ。学校よりもずっと大事。
電車を降りてから、かれこれ三十分は走っている。三日前に買ったばかりの固いローファーを履いているので走りにくい。ぜえぜえと息を切らしながら、靴擦れしないことを祈った。
 マリィは橋本市内のベッドタウンから少し外れた河川敷きにいるのだという。その情報を授業中にメールで受け取った直後、優亜はすぐさま行動した。「お腹がすごく痛いんですぅ」と言いながら保健室に行くフリをして学校を飛び出したのだ。
 無断下校したことに罪悪感はそれほどない。練吾やマリィなんて、学校にも通わず寸暇を惜しんで理想を追っているのだ。無断下校ごときで躊躇していては、イデアリストなんて務まらない。
「ええっとぉ、ぜえ、はあ、ここ、だよねぇ。マリィちゃん、どこぉ?」
 河川敷へ降りていって、川に平行して伸びる歩道に立ち、左右を見渡す。
 すると、五十メートルくらい離れた架橋下で、マリィが幼稚園児の男の子を慰めているのが見えた。
「あ、マリィちゃーん! 遅くなってごめんねー!」
 大きく手を振りながら近づくと、修道院服を纏うマリィはとても困った顔でこちらを見る。
「優亜さん……すみません。わたしでは、その……慰めることができなくて」
 優亜は以前、マリィに助けられた時、急にキスされたことを思い出した。
 ――マリィちゃんはすごく優しいけど、自分の気持ちが強すぎるから、相手の気持ちと調和するだけの心の余裕が無いのかも。なら、ウチがその辺カバーしなきゃ。
 優亜はできるだけ頼もしい笑顔をマリィに見せて、一つ頷いた。ここから先はウチに任せろ、という合図のつもりである。
 橋を支える柱に寄りかかって静かに泣いている男の子に、静かに歩み寄ってしゃがみ込んだ。まだ恐怖の抜け切らない表情をしている。可愛そうな男の子。
「こわかったね。もう、心配しないで」
 指輪がエメラルドグリーンの輝きを放ち始めた。その手でそっと男の子の頬を撫でる。
 同調。見知らぬ男に脅され、車に押し込まれた恐怖。心の傷を感じる。
 深く、深く理解する。己の心そのものが、対象者のそれと同一化していく。
 今、その心の痛みは男の子のものだけではない。優亜のものでもあるのだ――。
 男の子は溢れ出した涙をそのままに、優亜に抱きつく。彼の頭をやさしく撫でて、優亜はそのまま目をつむる。そのままじっと、男の子が泣き止み眠りにつくまで。
「優亜さん……なぜ、あなたはそんなにも……」振り返るとマリィが、気落ちしたような表情でうつむいていた。「わたしにはわからない……まるで心に傷を持つ人の気持ちがわからないのです」
「マリィちゃん」優亜は優しく言う。「きっと気持ちが強すぎるんだよ。なんていうかもっと、リラックスして何も考えない自然な感じで接すればいいと思うよ」
「ダメなんです」マリィは頭を抱える。「この中で、悪魔がざわめいている以上……自然な気持ちでいるだなんて……わたしは……いったい……」
「マリィちゃん……」
 ふと、マコちゃんを連想する。身近にいるはずなのに、なんで理解できないんだろう。
 優亜はマリィの心でざわめく過去の悲劇を理解して癒したい、と思う。しかし――理解するための過去自体、本人が思い出せないというのだ。
 ただ、練吾の存在が深く関係していることは確かだ。それは練吾の方も同じこと。
 お互いがお互いの過去の不明瞭な悲劇を呼び起こして、心を蝕んでいる。
 それはとてもつらいことだと思った。
 ――なのにウチは、練吾くんに見つめられるマリィちゃんに嫉妬ばかりしていた。バカだバカだ。ウチには……二人にしてあげられることは何もないの?

   7
「――と、いうことがありましたとさっ。ちなみに男の子は無事、おうちに帰しました」
 雫は黄緑色の甘いカクテルを片手に、テーブルを挟んでいる相手に微笑みかけた。
「そりゃあ大変だったねぇ。ま、何はともあれ、デルタレスキュー初仕事。お疲れさん」
 タマキは唇の片方を吊り上げて言った。貼り付けられたような表情。人形みたいだ。
 雫とタマキは照度を抑えた薄暗いバーで、テーブル席でアルコールを嗜んでいた。時間はまだ十八時で、客は二人以外にはいない。
「練吾とマリィちゃん……超不安定って感じ。まったく……。優亜も元気ないしぃ」
 グチをこぼすように言い、雫は両手の指を組んで背伸びをした。
「ああそうそう。練吾くんとマリィちゃんは、あの後どうなの? やたら凄い口ゲンカしたって聞いたけどさ」タマキはビールを飲んだ。
「うーんとね。たとえるなら、大喧嘩したばかりの気まずい夫婦か、もしくは、ずっと一緒にいた幼馴染みの告白を断った後、みたいな関係?」
「ははは。分かりづらいよ」
「要するに、お互い、近くにいることには抵抗はなさそうだけど、決して顔を合わせないし話もしない。そんな感じ」
「ふーん。互いに出方をうかがってるってわけか」
「というより、観察しているって感じかしらね」
「観察?」
「きっと、自分の類似性を相手に見出そうとしているのよ。ゆっくりと、静かに」
「まるでカメレオン科同士の抗争のように?」
「は? なにそれ」
「カメレオンが争い合うときはね、ぜんぜん動かないんだ。で、お互い体色を目まぐるしく変化させる。それがカメレオンの戦いってやつらしい。負けたら地味な色になって敗北宣言をするのさ」
「ぎゃっははははは! やめてよ~! 練吾とマリィちゃんがカメレオンになってるとこ想像しちゃったじゃないの!」
「よく笑うねえ。雫ってホント想像力豊か。こんなんで笑うの雫ぐらいだよ~」
「まあカメレオンはともかくとして……そうね、そんな感じなのかも。相手の色に、自分を重ね合わせようとしてる……。そんな静かで繊細な争いなのかもね」
「うん。そうだね」
「ねえタマキ」
 雫は長い足を組み、小首を傾げる。
「あの二人、そろそろ限界だよ。あんな状態のまま過去の自分自身と直面なんてしたら、どうなるか……」
「今は、待つしかないさ」
「了子がいたらなあ。了子がいれば、もっと上手くあの子たちが過去と向き合えるよう導いてくれるんだろーけど」
「……あの人は誰よりも世界が愛に包まれることを望んでいた」タマキの表情が陰る。「あの人の肉体は確かにこの世にはいない。でも、その理想は決して死なないよ。あの人の『理想救出』を授かったマリィちゃんや、僕らにしっかり引き継がれているからね。彼女がいなくても、僕は上手くやってるつもりだよ」
「……いっそのこと、はやく教えちゃえば? 早かれ遅かれ知ることになるんだし」
「ねえ雫。個人的で繊細な秘密っていうのはね――第三者にそれを指摘されたら、その途端に個人的なものではなくなって、意味を失って壊れてしまうんだ。初めから終わりまで、個人的なものでなくちゃダメなんだ。わかるよね? 僕はね、練吾くんとマリィちゃんの繊細な秘密をゆっくり育てて表に出していきたい。だから……」
「分かったよ。信じてみる。もうとやかく言わない。ちなみにそれ、了子の言葉?」
「うん、まあね。あの人らしい教訓だよ。僕たち大人は、優しく見守ってるだけでいいのさ。本当にいざという時にだけ、助けてあげればいい」
「いざという時、かあ。なんだか思い出すなあ……」
「何をだい?」
「あたしの家に、ボロボロなあんたを担ぎこんできた了子の必死な顔だよ。彼女は『お願い! この人を救ってあげて! 心を取り戻させて!』って叫んでいた。まるで、初対面のあんた一人が救われなかったら、世界が崩壊するんだと言わんばかりに。ものすごい気迫だった。あの時、あたしは問われた気がした――了子がいつも語っている理想を許容すべきか否か――。あたしはOKした。彼女が描く理想世界の実現を、一緒に目指してあげることに決めたのよ」
「そんなことがあったんだあ。ぼくは、覚えてないなあ」苦笑するタマキ。
「了子、後でこう言ってたよ。『あの日、冷たい雨が降ってたわ。冬だったかな? みんな吐く息が白かった。でもタマキくんの髪だけ赤かったね。駅前で濡れたダンボールを広げてホームレスをしていたタマキくんは、首にあの赤い剣のネックレスを引っ掛けてた。もう何日も食べていないようで、すべてに絶望し切った顔をしてた』って」
「そうだった、かもしれないね」
「あんたは疲れ果てて、心がすっかり燃え尽きていたわね。ただの強姦犯罪者を狩るだけのマシンと化していた。近くに対象者がいれば、『理想切断』を発動し、自動行動でくたびれた体を酷使させ、裁きを行い――そしてまたボロ雑巾のようなホームレスに戻る。そんな毎日を送っていた」言葉を切り、雫はタマキの頭をぽんと叩く。「もしも、練吾が同じような状態になりかけた時――迷わず『感情代理』で人格を矯正するわよ。キミにしたように、ね。それこそが、いざという時でしょ?」
「うん。まあ、そういうことかな。でも、大丈夫だと思うよ」
「なんで?」
「あの時、ぼくは孤独だったからね……。最初からあの人や雫が傍にいれば、あそこまで壊れることは無かっただろう。でも、練吾くんやマリィちゃんは孤独じゃない。優亜ちゃんや僕らがいる。そうでしょ? だから大丈夫さ」
 そう言うと、タマキは立ち上がった。
「え、タマキ、どっか行っちゃうの? 探偵の仕事?」
「いいや、個人的な仕事。練吾くんを襲った『ストゥーピッド』というイデアリストについて、調べなきゃね」
「ああ、そんなのもいたねえ」
「そんなのって……凶悪な無差別殺人者だよ。心配じゃないのかい?」
「そりゃ心配だけどさあ。足取りが掴めない以上、気にしててもしょうがないなあって」
「ちょっとは警戒してよ。雫も練吾くんの仲間ってだけで、マークされてるかもしれないよ?」
「そのときはそのとき!」
「まったく……社会秩序を守るイデアリストが、そんな適当な態度でいいのかい? こうしてる間にも、犠牲者が出てるかもしれないのに」
「……確かにあたしは、人間社会を守り、繁栄させることが目的のイデアリストよ。むしろ、あたし自身が社会そのものなのだと錯覚するぐらい、その使命感は篤い。でもね、あたしは細々とした局所的な救済よりも、全体的な救済を選んでいきたいの。いつだって最大多数の最大幸福があたしのポリシーだから」雫は微笑む。「ヤツは練吾の『ウィナー・エフェクト』の発動因子になり得るわ。敵が凶悪であればあるほど、ウィナー・エフェクトが社会に与える効果は爆発的よ。そのためなら少しの殺人やレイプくらい、目をつぶったっていい」
「ウィナー・エフェクト、か」タマキは呆れる。「こないだ言ってたね。イデア・エフェクトの強化版だったっけ? そんなのアテにするのはやめようよ」
「わかってるよ。でも、ひょっとしたら了子の理想の成就が早まるかもしれないでしょ? ヤツを懲らしめるのは、練吾たちが成長してからでも遅くはないんじゃない? 今は適当に泳がせといてさ」
「理想はゆっくり着実に成就させていけばいいんだよ。そんな一発逆転な奇跡に頼らないでさ。あの手の殺人狂は早いとこ手を打たなきゃダメだ。利用価値なんてない。目をつぶることなんてできないよ」
 タマキは溜め息を吐いた。
「ねえ、タマキ。あんた、あたしを恨んでない?」
「何? 突然。藪から棒だなぁ」
 タマキはおどけた調子だが、雫は真面目だった。自分はどうも、『感情代理』を発動した日は、いつにも増して感情が不安定だな、と雫は思う。
「あんたに『感情代理』を施したことよ。壊れた心は治ったようだけど、本来の人格の大半は失われたでしょ。そのことで、あたしを恨んでないかなあって」
「いやいやいやいや! 何を言う!」本気で驚いたようで、タマキは甲高い声を出す。「感謝してるよ、本当に。あの時、雫に出会わなかったら、ぼくはきっと無差別殺人犯になっていたよ。それに……」
 タマキは胸に手を当てる。ちょうど心臓がある部分を。
「ここに、あの人の人格もインストールされているんでしょ? 嬉しいんだよ僕は」
「そうね……。そう言ってくれると……少しは救われるわ」
 胸が少しだけ温かくなる。でも、まだ足りなかった。もっと、救われたい。
 多くの人間の人格を壊した自分の罪を、正当化してほしい。

 新宿の繁華街を適当に歩きながらケータイを開く。すると、優亜からの着信が一件、履歴にあった。ずっとバッグに入れていたので気付かなかった。その着信から二時間も経っている。
 慌てて優亜の番号をコールする。何があったのだろう? 心臓がバクバク暴れる。何か、悪い出来事に巻き込まれてるんじゃ……。
「優亜!? 大丈夫?」
 繋がった途端、思わず雫は大声を上げてしまう。
「雫さん……ウチ、どうしたらいいか、分からなくなっちゃって」
 頼りなげなか細い声が聞こえる。優亜のこんな切ない声を聞くのは初めてだ。
「今、どこにいるの!? すぐ行く。そっち行くから!」
 雫は不安になると同時に、すごく嬉しかった。優亜に必要とされることなんて初めてだ。
 何とか居場所を聞き出し、携帯をポケットに仕舞うと、雫は全速力で駆け出した。「邪魔! どけ! マザファッカ!」いろんな人にぶつかったが、謝らずに駅へ直行する。
 ――待ってて優亜! 人類史上いちばんやさしい天使! あたしに優亜の心、支えさせて! つーか支えられんのあたしだけ!

   8
 優亜は人気の無い公園のベンチに座り、夜空を見上げていた。自分の内側に広がる不安の闇よりは、まばらな星の瞬く夜空を見ている方がいい。
 しん、と静まり返った空間。時折、遠くから車の走行音が聞こえるだけの、孤独な時間。
「マコちゃん、ウチって無力かな」
 ぽつりと呟く。身近の仲間さえ癒すことができない。なんて無力。
「優亜! 大丈夫!?」
 声のする方へ向く。一瞬、誰だかわからなかった。視界が潤んでいるせいだ。
 ああ、自分はまた泣いている。
「ごめんなさい、雫さん……こんな時間に……」
「いいんだよ別に。まだ七時だし……。それにあたし、優亜のためなら太陽系の果てまですっ飛んで行くよ。シュー!って」
 隣に雫が座り、星空を見上げる。
「いい場所だね、ここ。うん、気に入った。そして一番のお気に入りが、隣にいる。あはは」雫は笑う。「そしてそして、お気に入りのケーキ屋さんのシュークリームがここにある。シュー! まったくお気に入り尽くしな夜だぜ」
 がさっ、と紙袋が膝の上に乗る。雫の顔を見ると、少し照れたように微笑んでいた。
「さ、お食べ。甘いものは辛いことをごまかしてくれる」
「あり……がとう……」
 涙がぽたぽたと紙袋に落ちる。
「あらあら。しょっぱくなるよう」雫は優しく紙袋を取り上げ、中から一つ取り出す。それから優亜の頬に伝わる涙をさり気なく、すぅっ、と舌先で舐め取った。「ほら、こんなにしょっぱいよ」
「うん……」
 ソフトボールサイズのシュークリームを両手で受け取り、かじってみる。とても甘くて美味しい。涙が止まった気がする。クリームに心の痛みを溶かされたみたいだ。かじる度に、心の苦しい部分がごまかされていく。
「ねえ、雫さん」何とかしゃべれる。大丈夫だ。
「なあに?」
「ウチはもう、身近な大切な人を失いたくないよ……」
「……マコちゃんのことが、マリィちゃんや練吾と重なってしまう……のかい?」
 雫には以前、マコちゃんの件について話したことがあった。彼女にはどこか、悩みを打ち明けたくなる求心力がある。親身に相談に乗ってくれる普遍的な優しさがあるのだ。
「うん、たぶん……。怖いの。理解してあげなきゃ……また、どこか消えていってしまいそうで」
 心が痛い。シュークリームの甘さで中和させようとする。 
「優亜……」雫は困った顔をする。「今はまだ、マリィちゃんと練吾は混乱してるだけだよ。突然、過去のトラウマが出てきたから冷静さを欠いてるだけで……。今は待つしかないと思う。それに大丈夫。あの二人はそう簡単に消えちゃうタマじゃないぜ。あれだけ高貴な理想を掲げちゃう空気読めない二人なんだ。戦車に轢かれようが東京タワーで刺されようが、這ってでもこの世にしがみついて理想を追うに決まってる」
「うん……ありがと。そうだよね。そんなタマじゃないよね。練吾くんとマリィちゃんは」ほんの少しだけ心が軽くなる。「雫さん。癒させて」
「え? なっ、なんでいきなり? この流れで?」雫、お手上げのポーズ。
「雫さん、すごく傷付いてるもん。感じ取れるよ。ねえ癒させて。……ウチ、閉じこもってたみたい。ダメだね、こんなんじゃ……ウチにできることをしなきゃ」
 優亜は右手を雫の手の甲に添える。温かい。何だか嬉しい気分になってきた。そうだ、こんな不完全な自分を必要としてる人がいるのだ。今、できることをしなきゃ。
「でも、悪いよ、今日は……。でも……いいの?」
「うん、いいよ。もう大丈夫」優亜は目元を拭って笑う。「雫さん。ウチに癒させて」
「そんなこと言われたら、あたし、あたし……。それじゃあ……」
 雫は体を傾け、優亜の肩に頭を乗せる。急にしおらしくなった彼女の青い髪を、優亜はそっと撫でた。仄かなシャンプーの甘い香り。その匂いはきっと、雫の心の内側から出ているのだろう。だから彼女は優しいのだろう、と思う。
「あたしはまた、ひとりの人間の人格を奪っちゃった」雫は甘えるような声で喋り始める。「いくら犯罪者だからって、社会のためだからって……産まれてから時間かけていろいろ経験して作った人格を壊しちゃダメだよ……だってそれって、ある意味殺すことだから。社会的に許されない行為なんだ。あたしは……それをいとも簡単に実行した。とても大きな罪を、また作っちゃった」
 既に雫に対しては何十回も『理解心療』を使用しており、またいずれも類似した心の痛みであったため、今回も例外ではなかった。だからすんなり彼女の苦しみに感情移入することができる。
 左手の小指に嵌められたエメラルド・リングが緑色に輝き、雫を包み込むように輝度を増し、癒していく――。
「ありがとう、優亜。ありがとう――」
 エメラルドの光に守られながら、雫は優亜の胸元に顔を埋め、抱きついてくる。本当の雫は、とても優しくてかわいい女性なのだ、と優亜は思う。何度も優しく頭を撫でてあげる。
「お礼を言うのは、ウチの方だよ」
「えっ?」
「無くしかけてた自信を、こうして取り戻せたんだから。ありがとう、雫さん」
「いいのに、そんな……あたしなんて……」さらにぎゅっと抱きつく雫。
 優亜は夜空を見上げる。先ほどのような静かで孤独な空ではない。あの星々がすべて人の心のように思う。あの中に苦しんでいる心がたくさんあるはず。自分のような存在を求めている。しかし――まずは身近な人達を理解しなければ。すべてはそれからだ。
「雫さん。教えて欲しいことがあるんだけど、いいかな?」
「うん。なに? なんでもおしえる」
「練吾くんの住所、教えてほしいんだけれど」
「へ……れんご?」
 優亜の顔を見上げた雫は、笑顔のままピシリと凍りついた。

   9
 身体がずっしりと重い。錆びた鉄の鎧でも着ているようだ。精神的に参っているせいだろう。
 練吾はよろよろとおぼつかない足取りで自宅へ向かっていた。
 墓地に面する歩道を進み、小規模の団地を抜けて、噴水のある公園を抜けていく。
 デルタレスキューでの仕事を終え、雫に自宅のアパートまで車で送られた後も、練吾は外出して街中を歩き回っていた。するとビンゴ。ネックレスが赤く輝き出し、悪しき強姦魔を見つけ出して手足とイチモツを不能にしてやった。
 手足を不能にされた体。人生の楽しみを奪われた心。また罪が増えてしまった。
「案の定ってやつだな。この心労は……」
 うじゃうじゃ……もぞ……もぞ……
 不意に、ぞわっと総毛立った。背後に無数の気配を感じた。自分が今まで裁いてきた者達が、芋虫のように地面を這っている気がした。
 いや、そんなもの、いるはずが無い。あり得ないあり得ない。
 しかし振り返る気にもならなかった。実際に背後に、うじゃうじゃとそいつらがいるのだ。……いる気がするのだ。
 その感覚は今に始まったことではない。精神的に疲れている時や、気を抜いた時に、必ずそいつらは背後や物陰から姿を現してくる。
 ――末期だな、と練吾は額に手を当てる。このままオレは、正気を保ったまま犯罪者を裁いていけるだろうか?
 ストゥーピッドのことを思う。彼女が現れてくれれば、どんなに気が楽か。罪悪感なしで思う存分に『理想切断』を振舞える相手は、今のところヤツだけだ。
 彼女はゲーム感覚で凶悪犯罪を楽しむ純粋な悪だ。良心のかけらもない。
 狩り甲斐があるヤツだった。次は負けねえ。練吾はネックレスを握り締める。早く芋虫どもを蹴散らして追ってこい。オレはここにいるぞ。
「…………くん」
 声がした。後ろからだ。芋虫の誰かがしゃべったのだろうか?
「練吾くん」
 聞き知った声だ。それが阿礼優亜の声だと分かるのに、五秒ほどかかった。
「ねえ、練吾……くん?」
 前方にくるっと回りこんで現れたのは、まさしく阿礼優亜だった。手足の無い犯罪者ではない。なぜここに?
「……今は気分が悪い」練吾は本音を言った。「話なら、また今度だ」
「すごく具合悪そうだよ? 顔、真っ青……。汗もすごいし」
 心配そうに聞いてくるが、今の練吾にはウザったいだけだ。早く狭い部屋に閉じこもって全てを遮断したい。
「寝れば治る」
 実際その通りだろう、と思いながら優亜の横を早足で通り過ぎる。
 すると、左手を両手で強く握られた。小さな手。簡単に振りほどける。しかし、
「練吾くん、お願い。ウチに練吾くんのこと、教えて欲しい」
 すがるように懇願する優亜はどこか必死で、練吾はたじろいだ。
「お願いします」優亜は続ける。「ちょっとだけでいいから、理解させて」
「放せ! 気味が悪いな」
 バッ、と優亜の両手を振りほどいて歩行を再開した途端、今度は右手を掴まれた。
「おい! いい加減に……!」
 振り向いて左手を振り上げ、殴りつける素振りをすると、優亜は両目に涙を溜めていた。
「罪悪感で心が潰れそうなんだよね? 練吾くん……」
 しかし、その潤んだ目は練吾を捉えて放さない。マリィを連想させる堅く真摯な視線。思わず怯んでしまうが、何とか大声を張り上げる。
「お前には関係ないだろう!」
「関係なくなんかない……」ボロボロと涙をこぼす優亜。「ウチは、世界中の人の傷付いた心を癒したい。だから、練吾くんとマリィちゃんのことも助けてあげたい。もう二度と……大切な人を……もう、ウチは……」
 練吾は自分の表情が引きつるのを感じる。この阿礼優亜も、自分やマリィと同じような境遇にいるのだと思った。同じだ。イデアリストとして前に進めずにいる。大きな壁を前にして、乗り越えられずにいる。
 自分自身の苦悩から目を逸らすように、優亜を視界から外す。
 ――あれ?
 周囲を見渡しても手足の無い芋虫男はどこにもいなかった。この静か過ぎる公園の広場には、いつの間にか邪悪なものは無くなっていた。
 さあ、と涼しい風が通り抜けた。
 爽やかに聞こえる葉擦れの音。静かに灯る街灯。クリアな夜風。綺麗な星空。そして月。
 暖かい。左手から伝わる優亜の両手。優しい人の体温。彼女は泣いている。
 ――いいよなあ、泣けて。もしオレがそんな風に泣いて脆い精神を晒したら、すぐに芋虫どもに取りつかれて精神崩壊しちまうに違いない。オレは壊れるわけにはいかねえんだ。
 優亜の温もりが心地良く思う。この空間には、最近常に感じていた芋虫男の気配が無く、彼女の泣き顔だけがある。それが唯一の現実だった。
 泣いている優亜を慰めてやりたい、と思う自分の気持ちこそが、現実だった――。
 練吾は、はっとする。
 今の自分には、犯罪者どもを芋虫にしたことによる罪悪感が、綺麗に消えている……?
「ごめんね、練吾くん……今のウチはたぶん、練吾くんを受け入れたいんじゃなくて、きっと……ウチの気持ちを一方的に――」
「泣くな、阿礼」
 練吾は優亜の頭に手を乗せた。
「え、練吾……くん?」優亜は濡れた目を丸くした。
「十分、癒せているぜ。インチキくせえデュナミスの力なんか無くてもよ」
 練吾は、僅かだが、笑みを浮かべた。優亜の目から涙が止まる。
「本当に……?」
「ああ、お前のおかげでなんだかさっぱりした気分になった。ありがとよ。だから気にすんな。お前はよくやってくれているぜ。これからもよろしくな」
 練吾はできるだけ爽やかな笑みをつくった。
 すると、十メートルくらい離れた電柱から、人形寺雫の特徴的な長髪が心霊写真のようにはみ出ているのが見えて、練吾は苦笑した。
「さあ、お迎えが来てるようだぜ。夜も遅い。帰った帰った」
 優亜の身体をくるりと反転させて背中をどん、と押してやる。
「え? え? ええ?」
 何のことか分からず疑問符を連射する優亜に背を向けて、練吾は歩きながら手を振ってやる。
「あ、その……練吾くん、ありがとう! ウチ、がんばってみるね!」
 先ほどとは打って変わった快活な声を聞き、練吾はどこか、満たされたような気分になった。なんだろうか? この気持ちは。犯罪者を狩ることでしか満たされないはずのこの心が、なぜ、こんなことで満たされるのだろう?
 不思議だ。自分の何かが大きく変化している。この感情が懐かしく感じられる。
「マリィ。お前もオレみたいに、変化しているのか?」
 ぼそりと呟く。雫の部屋で舌戦を繰り広げてから、マリィとは視線を一度も合わせていない。しかし同じ空間にいることは苦ではなかった。彼女が傍にいることは当然なのだと感じるほどに。
 自分はマリィとは正反対の性格だと思っていたが、実はよく似ているのかもしれない……。だから傍にいるのが当たり前だと思えるのかもしれない。
 ――なぜだろうか。腕が阿礼のぬくもりに包まれてから、なぜか全てをポジティブに捉えられる。
 マリィと言葉を交わしてみたい、と思った。この不思議と満たされた感情を懐かしく思うことについて、何か分かるかもしれない。
 もぞもぞ……ぴち……ぴち……ぴ……もぞもぞ……
 芋虫男の気配がする。背後からだ。またかよ、と練吾は顔をしかめた。
「どうも癒しの効果は長続きしないみたいだなあ、阿礼」

   10
 シャワーを浴び終えたマリィは、何ヶ所か塞がっていない創傷部に新しい包帯を巻き、パジャマに着替え、リビングに向かった。今夜も伊豆倉神父の帰りが遅い。教会以外にも、教会系列の保育所などを掛け持ちしているので、こまごまとした仕事に追われているのだろうか。
 できれば自分も夜遅くまで神父のお手伝いがしたいのだけれど、マリィの傷を気遣ってか、それを許してくれない。この広いマンションの部屋で一人でいるよりは、一緒にいたいのに。
 伊豆倉神父は職業柄、結婚していないし実子もいない。マリィは彼の養子なのである。養子縁組をしてから五年間、神父の帰りを夜遅くまで待つ日々を送っているが、どうも慣れない。孤独な夜はマリィにとって何よりも恐ろしいもので、カーテンさえ開きたくない。
 特に最近は――練吾と出会ってからは、そういう傾向が強くなっている。夜の暗い窓から、ぬっと見知らぬ人間が入ってきて、捕まえられてしまうのではないか……そんな想像をしては、マリィは思わずテーブル上の果物ナイフを握る。
「おとうさん……まだかなあ」
 果物ナイフとアイスピックを両手に、ソファに座る。カチカチと歯が鳴る。
 ふと、今日の昼間に少年を誘拐した男の顔を思い出し、マリィはアイスピックをシュッと前に突き出す。それは男の喉を貫き、男は血を噴きながら仰向けに倒れる。いい気味。
 いい気味!
「ふ……ふふふ、ふふふふふ……くかかかかかかかかかか……」
 自らの乾いた笑い声に気付き、はっとする。そして反射的に、指先をナイフで軽く傷付ける。じわり、とした痛みと共に血が流れる。赤い液体が流れるだけ、その分冷静になれる。
「また、やってしまいました……」マリィは血の滴る指をくわえる。「悪い癖です……気をつけなければ……」
 自分はどんどん異常になっていく。練吾と出会ってから、加速度的に精神が黒い悪魔に支配されていく。
 十字架のネックレスを握り締めて目をつぶり、神への祈りを心で囁く。
 主よ。どうか私の心をお守りください。どうか、わたしを清らかなままのマリィでいさせてください。
 すると、ピンポーンとチャイムが鳴り、身を飛び上がらせて玄関へと駆けていく。玄関モニターを見てみると、法衣を纏った伊豆倉の巨躯があった。いつもの光景。
 ガチャガチャと四つあるロックを外してドアを開ける。
「おかえりなさい、おとうさん!」
 笑顔を咲かせて彼の手を握って引っ張る。ここは教会ではなく、家の中なのだ。神父と信徒ではなく、父と娘なのだ。激務で家にいる時間は少ないのだから、たくさん甘えておきたい。
「ははは。こらこらマリィ。転んでしまいますよ」
 伊豆倉はいつも優しい。父なる笑顔を絶やさずに接してくれる。それはいついかなる時でも、神の守護を受けている証なのだろう。神を信じる者は、人を信じる力を持つ者だ、と彼は言っていた。きっと、人を疑わない強さがあるから、いつも笑顔でいることができるのだろう。
「だって、とっても嬉しいんですもの」
 靴を脱いだ伊豆倉を案内するように、マリィはリビングまで彼の手を引いていった。
「ご飯とお風呂、どちらにしますか?」
「いつもながらすみませんね。それではご飯にしましょうか。マリィはもう食べましたか?」
「はいっ。食べました」食欲が無いので、本当は食べていない。
「おや……」伊豆倉がソファの上にあるアイスピックと果物ナイフを見つけた。
「あっ」しまった。片付けるのを忘れていた。「それは、その……」
 伊豆倉が手を上げたのを気配で感じ、思わず目をぎゅっと閉じる。しかし、頭に乗せられた手は柔らかくて、優しかった。
「ひとりぼっちは、寂しかったでしょう? マリィ。いつも遅くなって本当にごめんなさい」伊豆倉は少し悲しげな表情をしていた。
「ごめんなさい、わたしは……」ぽろぽろと涙がこぼれる。安心感と罪悪感が混ざった複雑な感情だった。「汚れています……こんな凶器を持たないと、安心できないだなんて……」
「いいえこれは私の非なのです、マリィ。一人ぼっちにさせてしまってすみません。そうだ、明日から貴女がよければ、夕方からの仕事にお付き合い願いたい。傍にいてくれるだけでいいのです」
「いいの……ですか?」泣きながら上目遣いで父を見上げる。
「ええ、もちろん。貴女は私の娘なのですよ。娘の心を守る義務は父親に当然あります」
「ありがとうございます、おとうさん」
 マリィは伊豆倉に抱きついた。小柄なマリィは、法衣に上半身を埋めて目を閉じる。背中に大きな手が添えられる。至福の時間。この時間がずっと続けばいいのに。
「おとうさん」
「なんですか? 愛しい娘よ」
「今夜は一緒に寝たいのです。それでそれで、聖書を読んでほしいのです」
「ええ、承知しました」伊豆倉がにっこり微笑むのが感じられる。「イエスが奴隷たちにパンやワインを振舞って祝福した場面をお話しましょうか」
「わあ、私の大好きなすばらしい場面。すっごく楽しみです!」
 ぐりぐり、と法衣に額を擦りつけて、マリィは精一杯甘えた。明日また、伊豆倉はたくさんの人々に祝福を与えるだろう。だから今のうちに、たくさん独り占めしなければ。

   11
 ストゥーピッドと呼ばれる長身の少女は、高層ビルの屋上から望遠鏡で、マリィがいるマンションの一室に神父が入っていくのを眺めていた。
「やぁっと見つけたと思ったのに……なんだ。ふうん。家族ごっこしてるわけねぇ」
 残念そうに言い捨てて、彼女は不愉快そうに歯噛みする。
「気に食わない……本当のハルカは、あんなんじゃないよ……ハルカ……」

長編『イデアリストの呼応』四章

長編『イデアリストの呼応』四章

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-27

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