一人の契約者。
男は自室で一人深いため息をついた。
割れたままの曇りガラスから、真冬の冷気が差し込んでくる。
彼は昔、不条理な事件に巻き込まれた被害者だった。
今では誰にも知られずに加害者になってしまっている。
毛むくじゃらの髪の毛をかいた。
今日の用事を思い出した。
テレビをつけたらニュースがやっている。
ここらでおこる不審火の犯人はいつまでもつからまらないままだ。
小さなアパートの屋上で、
古びて埃まみれのガラスのランプに火をともす。
入居者は一人、彼は人間離れしているから、その呼び方すら怪しい。
彼は明かりをみたが、
彼の美意識は、ここにはない。
意識すら、いまこの時間の世界と空間に周りのものと同様に存在しているわけではない。
朝五時、目がさめたから、意味もなくここに居座る、人々が彼のように早く目覚めるのを待っている。
彼の今日は休日だった。
砂嵐がうるさいテレビと、単なる付き合いでしかない人々の関係。
彼にはかつて好きだった人たちがいた。
いまでは恨みにも似た感情を抱く。
執着を捨てるためには必要だ。
彼は世のため人のため自分をすて、身内を捨て、新しい名前を持つことによって
過去と決別し、今日を生きていくことに決めた。
だから彼の過去を知るものは、ある老婆くらいのものだ、
翌日の朝もそこに寄った、
つまらない雑誌社の仕事を終えて、ジャンパーを羽織り、いつもの駅前のたばこやに向かうことにした。
仕事中一度も火が消えないたばこを、同僚は不信がらない。
これも悪魔の所業というやつだ。
だが歩きたばこもまずければ、あの駅前の店でたばこをすえば、
それまでに火をけさなければ、またおばあさんがヒステリックに叫ぶはずだ。
“私のそばでたばこを吸うんじゃないよ!”
どうやら別れた主人が相当のたばこ好きだったらしい。
それを思い出し、
彼はたばこの火を消した、それは触れずに意図して行える、火を使って何だってできる。
かつてある一家を殺害したあの殺人鬼に復讐もできる。
だが痛みに触れられるかと思い、痛覚を刺激して感覚が戻るかと思い、
そのまま人差し指と親指で高温の火を消した。
※危ないです。
(……ッ)
彼の両親や家族は、誰に殺されたか、世間が騒ぎたてた、連続殺人鬼だ。強盗だ。
だが世間は、そんなことを覚えていない。殺人鬼の彼のように狡猾でもないし、彼のように大義はないし
、彼のように孤立してはいない。
世間は、何と戦っているのだろう、本当の理不尽とは、心の奥底にすみつき常にこちらの動向を見つめている。
殺人鬼、彼には家族がいない。
家族のいない殺人鬼、相手は、この世にぬくもりを持つ人々にとって一番の恐怖だ。
彼は孤児らしい、生きている目的こそ、人を殺すことらしい、
ならばかつてぬくもりを感じ、それを知っていた、彼に奪われた自分がその命を絶ってやることが
何らかの定めかと思う。
もう、長い年月を経て、それは愛情のような義務感へと変異していた。
だから男は、悪魔と契約を交わしたのだった。
それは3年前のある日のこと。
「お前の一番大事なものをやろう。」
高校のトイレの中で、彼は割れたまま修理にもださない眼鏡で、その悪魔をみていた
同級生は、自分のことに関心がない、
それは彼自身がたくらんで、そう仕向けたものだ。
若者は嫌いだ、その未熟さが、無邪気さが。
悪魔は、殺人鬼の顔によく似た、彼が夢の中で夢想して、何度も何度も刃物でいためつけ
復習を果たしてきたその顔に似ていた。
そこそこ大きな邸宅で、たしかペットの犬がいた。弟もいたはずだ、
それらすべてを醜い記憶に捻じ曲げたあいつ。
ぼつぼつと独り言、あの店にはもう少しでつく。
男は、悪魔にある銘柄のたばこを渡した。
——契約の代償——
それ以来、その銘柄に触れることすらできない魔術にかかった。
これが、魔術の力を得た代償。
変わりに、望むところに、念じるだけで、目線を合わせ位置をイメージするだけで、ふれないまま自然発火させられる力をえた。
契約書通り。
だからというわけではない、
彼は依存症である。
コーヒーもすきだし、ヘビースモーカーでもある。
これはそのままなのに、
特定の銘柄を嫌いになる、その程度で、
彼は依存症のまま、超能力を手に入れてしまったらしい。
彼は、銘柄にこだわりがあるかと思いきや、たいしてそんなものはわからない。
あるのは、近くの駅まえの、老婆の経営するつぶれそうな店で買うことくらいだ。
そうしていつものその店の前にきた。
汚い看板が立っている。若かったカップルの写真が自慢げに飾ってある。
いまではいたずら書きや、たばこの燃え殻も一緒に飾られている。
若者の仕業だ。
老婆は笑う、若者のような無邪気な笑顔ではない、すべてをあきらめた虚構の真黒の瞳でこちらを見て笑う。
男は、その顔に自分の過去と未来をかさねる。
楽しいことは何もない、
ただ本当の孤独をしっている、あの殺人鬼を実の兄弟のように思い、いずれともに地獄へ落ちていくことを願っている。
そして幾度とおかしてきた完全犯罪。
悪人を裁くという快楽。
たばこどころか、ほかの食べ物、のみもの。
味覚に“差という差などほんの少しも一ミリも感じたりはしない。”
彼の感覚はバカになっていたのだ。
それは初めは恐怖だった、そしてそれはやがて好奇心に変わり、強大すぎるものを相手にしていると自覚したときのおびえは、
自分のすべての感覚を麻痺させてしまった、
殺人鬼は、何度も“追い打ち”を、暗殺をたくらんだ。
証拠を隠滅するために。
彼は指先でたばこの火をけしたためにやけどを負っているが、もはや、痛みも感じない。
一人の契約者。