世界の終わり

 赤い夕日が歩く恋人たちの背で静かに燃える。彼らの表情はみな笑顔で、今日を惜しむように橋を渡る。
 人の流れに逆らうように私は島へ向かった。寒さからコートのポケットに手を突っ込んで考える。今日が世界の終わりと誰か知っているのか。町の装飾が忙しくクリスマスから正月へ移る。無駄なことだ。ただ、明日が来ることを盲信している彼らが愛おしかった。今日は大潮だ。海は知っているのかもしれない。いつもより波が強く橋にぶつかる。ここがこんなに荒いのだから、日本海はもっと大きく悲鳴を上げているだろうか。新潟で出会った知人の顔を思い出す。
 バッグからぬいぐるみが飛び出している子どもが私を見つめた。睫毛が揃って上を向いて、天を志す者であることを暗示していた。君は知っているのだね、と心の中で話しかける。子どもは笑い、私に手を振った。お土産が入った紙袋を重そうに持つ母親は、自分の子どもが見知らぬ男性に気を抜かして立ち止っているのを叱った。名残惜しそうに子どもは母親と帰宅していった。母親がお土産を買うときの子どもの気持ちを想像して、私は切なさを感じた。
 神の光がまさに目の前にある。ここにいる多くの人はなにも感じないのだろうか。今日の太陽がいつもよりも沈黙して、清らかに光を我々に注いでいた。そして日没の時間が近付いている。終焉の瞬間は数十分後である。私の心身が一瞬も逃さぬように集中して解放していた。
 この日が来ることに気付いたのはつい1週間前であった。朝、目が覚めたとき歯を磨くよりも前にカレンダーへ向かって12月25日に赤い丸を書いていた。何者かに体を乗っ取られた。私は何らかの偉大なる意思によって動かされていたと察した。そして、私はその赤い印の意味するところを理解した。ああ、終わるのだ、そう思った。1999年のノストラダムスの大予言を少しも信じていなかった私が、あっさり世界の終わりを受け入れた。
 それから今日までどのように過ごしたか。何もしていない。いつもと同じように働いた。貯金もそのままで私は特別なことはなにもしなかった。
 私は常に虚無感を抱いて生きてきた。人間は100年足らずで寿命が来る。環境についていけない動物は絶滅する。気候が変化すれば時代は変わる。地球は滅ぶ。星は燃え尽きる。私が為せるものなど何もなく、人間が作り出した文明など何一つ意味がない。生きるための最低限の金を稼ぎ、生きるための最低限の人間と付き合い、ひとりで細々と暮らしてきた。欲のない日々が何も不都合が存在していなかった。明日、世界が終ってもどうでもよかった。
 ……どうでもよかったのだ。だが、私は世界の終わる日を知ってしまった。だから最期の場所をこの島に選んだ。24日の夜に突如思い出したのだ。この島に遥か昔、修学旅行で遊びに来たことがあった。記憶から消えていた光景が目の前に浮かぶ。友人らが疲弊困憊で機嫌悪そうに歩く後ろで見た。海に沈んでいく夕日の姿。美しいものも醜いものも区別が付かなかった少年の頃の私が決して目を離すことができなかった。あんな経験は初めてだった。その感動を誰にも離さず写真も撮らず自分の思い出として大切にしていた。それなのに、私は今日まで忘れていた。太陽の光が私の頬まで熱く燃やす。それを海が優しく冷まそうと波立つ。あの日の私は彼らだけが私を知っているのだと思った。
 島の海岸まで歩いてきた。途中で民家の軒先に寝っ転がる猫が私の目の前まで歩いて座り込んだ。憐れみの目をしていた。猫もこんな表情ができるのかと驚く。奴も知っているのかもしれない。私は仲間を慰めるように手を振って別れを告げた。
 やはり今日は潮が満ちている。石がごろごろ転がる中で、座ってその瞬間を待とうと思ったのだがこれでは海水に浸かってしまう。死んだ魚が図々しく寝そべっている横に腰を下ろすが、足先まで波が来るので心許ない。あと少しで世界が終るのに自分の靴が海水に浸かるのを恐れている私を見てウミネコが鳴いた。そうだねと小さく返事をすると、ウミネコはまた鳴いた。
 覚悟を決めて座り込み、夕日を眺める。美しかった。私の瞳から一粒の涙が流れ出る。雲ひとつない空にゆっくりと夕日が傾く。終わりがこんなに美しく、悲しいとは。そう、悲しかった。私は「悲しい」と思う自分自身の感情に少し笑った。感傷的になっている私がまるで失恋をした乙女のようだ。海を眺めたりして、ああ、おかしい。
 「あはは、あははは!」
 私は声を出して笑った。涙は依然と流れ続ける。頬を伝い、ズボンに落ちた。夕日は静かに落ち続ける。海を信じて落ちる。水平線が赤く光る。生きる全てのものへ愛を届けるように輝く。
 孤独な人生だった。だが、ずっと太陽は私を見ていた。私は彼に呼ばれたのだ。無意味な世界の中で唯一光輝くものを最後に見つけることができた。気付くことができた。私の人生は幸福だった。
 もうおしまいだ。空が暗い。日が消えかけている。先ほどまでうるさいほどに波が荒れていた海が落ち着き払っている。
 私はありがとうと呟いて目を閉じた。

世界の終わり

世界の終わり

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-26

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