長編『イデアリストの呼応』三章
三章『ストゥーピッドは迷走する』
※stupid:訳……「まぬけ」
語源はラテン語「意識をなくした」の意
1
「かんぱーい!」
二人の成人男女が豪快に満杯のビールジョッキーを打ち合わせ、ビールを呷った。
「なぁにが乾杯だよオイ……」
切辻練吾はそんな二人を呆れ顔で見ていた。今、練吾は阿礼優亜、マリィ、タマキと、そして謎の女の五人で焼肉チェーン店でテーブルを囲んでいた。今は午後六時。ちょうど混雑する時間帯なので、店中ガヤガヤと騒々しい。
練吾の隣にタマキが座り、焼肉テーブルを挟んだ向かい側に謎の女を真ん中にして、マリィと謎の女が座っている。
「そこの未成年組! 今日は『デルタ・レスキュー』結成記念日だよ! 盛り上がらなくてどーするのさ!」
タマキは練吾、優亜、マリィをすばやく指さしながら言った。
「そーよぉ!」謎の女が大きく頷く。「まあ正直ぃ、あたしは優亜といれればチーム結成なんかどーだっていいんだけどぉ。優亜ラブ! それ以外ゴミ! 害虫! キョーミなし!」
ハイテンションな女は隣の優亜を軽く抱く。戸惑う優亜は「ち、ちょっと雫さん……」と顔を赤らめた。
「あ、空気読んで自己紹介しまーす!」女は手を垂直に上げる。「あたしは人形寺(にんぎょうじ)雫(しずく)。キミたちと同じイデアリストで、優亜といるために仕方なーくタマキの誘いに乗って『デルタ・レスキュー』に参加しましたー! 以上!」
人形寺雫はその名前の通り人形みたいな風貌をしていた。顔は濃い化粧で白く、長い付けまつ毛と、唇に引かれた青いルージュ。服装もゴシック風で統一されており、派手に膨らんだ黒いフリルスカートを履いている。何よりも特徴的なのが海のように青いロングヘアーで、毛先にピンク色の水玉模様が細かく塗されている。
外見は内面を映す鏡と言われるから、こいつはきっと内面も変態的なんだろう、と練吾は察した。
できればこんなコテコテ変態ファッションの女とは関わりたくないが、これもマリィに近づくためだ。そのためなら、『デルタ・レスキュー』などというふざけたチームに参加するなんて安いものだ。
「そもそもなんだ。最初からこれを計画していたのか? マリィのことも既に知っていたのか?」
練吾は問う。タマキは待ってましたとばかりにニヤリ。
「まあね。いわば『デルタ・レスキュー』は僕達の夢なのさ。ねえ雫?」
「そうだよ」雫はうなずく。「夢を叶えるために、あたしらは集まったの」
「そのために、僕は練吾くんとマリィちゃんにイデアリストになるよう導いて、雫は優亜ちゃんを誘ったんだ。で、今夜みんなを招集しようと、まずマリィちゃんのいる教会に行ってみたらびっくり! みんな揃ってたってわけさ」
「仕組まれてたのかよ……」練吾はうんざりする。「ところで夢ってなんなんだ」
「もちろん世界平和さ! まずは第一ステップとして、この東京を愛で満たさなきゃならない。そのためにデルタ・レスキューを結成するのだ」
「はあ? 愛?」寝ぼけた戯言を吐くタマキに、練吾は顔をゆがめる。「何いってんだ? ふざけんな。真面目にやれ」
「まあおいおい理解できるって」タマキは生肉が盛られた皿を取る。「とりま、食べよ食べよ! 鮮度が無くなっちまうぜ」
「だいたいなんだよ。あ? 焼肉屋で乾杯って、ラフすぎねーか?」
カルピスが注がれたグラスを片手に、練吾はタマキに不満をぶつけた。正直、他人と顔を突き合わせて食事をするのは嫌いなのだ。落ち着かない。
「だってしょーがないじゃん。神父さんに追い出されちゃったしさあ」
タマキは答えながら、生肉をテーブル中央に据え付けられた金網に乗せて焼き始める。
ジュー、といい匂いがして、練吾は思わず口元が緩んでしまう。
「いやまあ、それなら構わないが……」練吾は焼かれる肉を凝視する。
約一時間前――教会に入るやタマキが大声を張り上げたところ、タイミング悪く神父が買い物から戻ってきてしまい、「神聖なる主の御許で無礼な!」と一喝されて追い出されてしまったのだ。
一方マリィは、後から優亜に電話で呼び出され、この焼肉屋で合流した。さすがに修道院服で外出するのは目立つからだろう――マリィはロングTシャツとジーパンに着替えている。神聖な印象が強い彼女には、ラフな格好は似合わない、と練吾は思った。
「具体的によ、デルタ・レスキューってのは、何すんだ? あ、それ!」
狙っていた焼き肉をひょいっと雫に奪われ、練吾は彼女を睨みつける。
「基本的には、キミたちがやってることを、今まで通りやるだけさ。ただし、協力しながらやってほしい」タマキは喋りながら次々と生肉を金網上に投下する。「キミたちの能力はご存知の通り、それぞれ全く異なる。でも分析してみれば、はっきりした共通点が浮かび上がるんだ」
「なるほど、理に適ってるわね。はい優亜、あーん」雫は肉をタレにつけて、それを無理矢理、優亜の口に入れる。「あたしら四人の共通点――それは、ターゲットが主に犯罪者か、その被害者であること」
「あっ、あふぃよぉ」と優亜は涙目で口をもごもごさせる。
「あたしの能力は『感情代理(フォーパペッツ)』」雫は真顔で話し始める。「それは犯罪者たり得る異常人格者の感情を矯正し、空気が読めるまともな人間へ変える『更正』の魔法よ。今はお披露目できないけれど、とてもアメイジングな能力なの。それとキミたちの能力をプラスすれば、『裁き』と『更生』、『救済』が集中的かつ効率良く行えるってわけよん」
「うむ、ご名答だよ雫くん」タマキは腕を組んでうんうん頷く。「キミたちはそれぞれ持つ固有の力を発揮して、犯罪者への罰と更生――練吾くんと雫の担当だね。そして被害者の救済――こっちは優亜ちゃんとマリィちゃんが連携して行うんだ。理想的なチームプレイだと思わないかい?」
練吾は焼かれる肉の存在を忘れてタマキの言葉を吟味する。
「それぞれの足りない部分を補うっつーことか」
練吾はレイプ被害者の死体や、悲しい顔などを思い出す。だがこの三人と組めば、その悲劇を防げるかもしれない。
マリィの高速移動で被害者を救出し、練吾が犯罪者をブチのめす。その後で優亜が被害者の心をケアし、雫が『感情代理(フォーパペッツ)』とやらで犯罪者を更生させる。なるほど、確かにこの連係プレイは非常に効率的かもしれない。
しかし――
「オレの『理想切断』は、被害者がヤられた後じゃなきゃ発動しないぜ」
練吾はタマキを睨みつける。それではまったく意味がないじゃないか。ただ犯罪者を殴りつけるだけじゃイデア・エフェクトは発生しない。模倣者は増えないし、強姦や殺人に対する抑止力が生まれない。
「わたしの『理想救出(アルビノクロウ)』は被害者が暴行され終えた後では発動しません」反論するようにマリィは口を開いた。「わたしの奇跡は、現在進行形で望まない肉体的苦痛を受ける被害者にのみ有効なのです。既に解放されている状態では、発動しません」
水を差されたと感じ、練吾はマリィを睨む。
マリィも毅然とした態度で練吾の視線を受け止め、そのまま睨み合う形となった。
「け、ケンカはやめよーよ、ね?」優亜が焦って場を取り繕うとする。「ウチはみんなとチーム組むの、とっても賛成ですっ。練吾くんもマリィちゃんも雫さんも、ウチには欠けてるすごく魅力的な力がありますし」
「そうよね~。優亜、いいこと言う~! さすがあたしだけの大天使! 飼いたいわ~」少し酔っているのか、雫が高い声を上げる。この二人は以前からの知り合いなのだろう。じゃなきゃこんなトチ狂った絡み方はできない。
「でも、ウチは、その……」優亜は口ごもり、そわそわする。「練吾くんは少しやりすぎなんじゃないかな。いくら犯人が悪いことをしたからって、手足をダメにしちゃうのは……。それに練吾くん自身が、そのことで苦しんでるみたいで……」
「はいはい、ご忠告どーも。勝手に言ってろ」
練吾はうんざりして頭の後ろで両腕を組む。その手の偽善者めいた意見など、ハナっから聞く耳など持っていない。ネット掲示板でよく見る『血のカマイタチ』を非難するつまらないコメントと一緒だ。
「おいこら切辻練吾! 大天使の言葉を受け流すな!」
雫がわめき立てて、練吾の口の中に焼きたての肉を突っ込む。
「あづっ! なんてことしやがるヒステリー女! 外道が!」
女は二人以上集まると中立性を失い、絶対的な正義が自分たち側にあると思い込む傾向にある――練吾は何とか熱い肉を飲み込み、長い溜め息を吐いた。
「まーまー、そこんとこはさあ」タマキが両手を軽く広げ、おどけたポーズを取る。「実際、やってみなきゃわかんないよ。ま、出だしは上手くいかなくても、やってく中でやり方を調整していけばいいし。単独でやるより、この方が効率的だって理解してるでしょ? それに――いろいろ口実になるでしょ?」
口実。タマキの最後の言葉が暗に示すところは、それぞれがこのメンバーにお目当ての人物がいる、ということだ――と練吾は理解した。
オレはマリィを、マリィはオレを、雫は優亜を。優亜は……例外で、おそらく純粋にチームプレイに期待しているのだろう。
今はこうした機会でなければ、マリィに近づくことができない。とりあえず今は形だけでも、チームに参加した方がいい。
タマキの言葉を深く吟味しているのか、全員が押し黙る。
「さーさ! 少年少女よ! 肉食べるよ肉! おなか空いたでしょ~! どんどん食って体力付けてくれ! 我らが理想の世界平和の為に!」
タマキはテーブル上にある全ての肉を、どさーっと豪快に熱い金網へ投下した。
2
優亜が帰宅したのは夜九時ごろ。あらかじめ親には友人と食事することを伝えていたので、夜遅くても怒られることはなかった。心配はしていたようだったが。
自室に入って一人になると、一日の疲れが押し寄せてくる。緊張の糸が切れたのだろう。そうだ、今日は緊張のしっぱなしだった。でも、悪くない一日だった……。
これから毎日とはいえないまでも、練吾と顔を合わせて会話することができるのだ。彼のことを考えると心が不思議と弾む。
しかしこの嬉しさは、それだけではない、と頭を振る。マリィや雫とチームを組んで、平和な社会を目指すことができるのだ。上手くいけば、この東京という孤独な人々がひしめく街は大きく変貌し、誰もが互いを思いやることのできる理想郷が形成されていくことだろう。
ウチが夢見る世界へと、より早く近づくことができる……。
鼻歌混じりでバスルームへ。ぽんぽん衣類を脱ぎ捨てて、裸体を湯船へ沈ませる。
「練吾くんにも理解してほしいな……。人を思いやることの暖かさ……」
ぬるま湯の心地良さに表情を緩ませて、優亜は脳内に練吾のイメージを思い描いた。
ふと、別れ際にタマキに耳元で囁かれたことを思い出す。
「ストーカー。狙われてるよ優亜ちゃん。気をつけて」
その後、タマキから写メ付きメールが届いた。学生服を着たストーカーの横顔が写っていた。しかし見覚えなどない。
きっと体目当ての男が街中で偶然自分を見かけて、コソコソ後を付けていたのだろう。それを目ざとくタマキは見つけたのだ。
「たぶんその人、魔が差しただけだと思うなあ。前にもそういうことあったけど、ついてきたの一度きりで何も無かったし。忘れよ忘れよ!」
んー、と背伸びをして、また練吾の顔を思い出してにやけた。
3
マリィは祭壇に据えられた巨大な十字架の前で跪き、両手を組み目を閉じる。
月明かりがステンドグラス越しに仄かに差し込んでいた。マリィの白髪がカラフルに照らされる。あまりにもおぼろげなシルエット。そこには月光の引力に吸い込まれていきそうな、危うい虚しさがあった。
「マリィ。そろそろ体を休めては?」背後からゆったりとした黒い法衣を纏う大男が近づいてくる。「先日に受けた創傷もまだ癒えていないのですから」
「この受傷はわたしの意思によるもので、この祈りもわたしの意思によるもの。この二つはわたしにとって同じ価値で在り得るのですよ。伊豆倉(いずくら)神父」
祈りを中断させずに、マリィは答えた。
「受傷も己の意思と考えるのですか……」伊豆倉は肯定的な笑みを浮かべる。「それが神への祈りにどう繋がるとお考えなのですか? 『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』(ヨハネ福音書十五章十三節)、とありますが」
「正しきお言葉です……。しかしながら、わたしの受傷の意味するところはそこにはありません。『一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます』(ヨハネ福音書十二章二四節)」
伊豆倉は何も答えずに微笑み、マリィの隣で跪き、神に祈りを捧げる。
「産まれたものはやがて死ぬ――それは自明の理です」マリィは語る。「長命であれ短命であれ、誰しもが隣にひっそりたたずむ死の世界へ、移り行くことには変わりありません。わたしは、この体が死に結びついていることを自覚しています。わたしは恐れません。この死に近づく自己犠牲の精神が、人々の心に良き影響を与え、美しい実が結ばれていくからです。わたしに奇跡の力を授けて亡くなられた了子さんも、きっとそのような思想の持ち主だったことでしょう」
「しかしそのような生き方を続ければ、マリィ、あなたの命はそう長くはないのでは?」
「ええ、おっしゃる通り……。しかし命とは、どれだけ長く生きたか、ではなく、死に到達するまでに何を遺せたか――そこに価値があると思うのです」
「それがあなたの正しき道であれば」伊豆倉は身長二メートルはある体躯を縮ませ、両手の祈りに力を集中する。「努々おこたらぬよう、主と共に見守りましょう……」
「ありがとうございます。伊豆倉神父」
マリィは目を開き、晴れ晴れとした表情で、ステンドグラスを背に屹立する十字架を見上げた。
初めてタマキと出会った日のことを思い出す。あれは、了子からデュナミスを授かってから翌日のことだった。彼はこの教会に訪れ、パイプオルガン演奏をしているマリィを見ては、どこか救われた表情をした。いや、正確にはマリィの首にある十字架のネックレスに対して、ある種の救いを感じていたのだろう。
まるで一人ぼっちの孤児が、母性的な存在にすがるような目をしていた。
彼はそんな頼りない情動を押し隠すように、淡々とデュナミスのことや、イデアリストの存在についてマリィに説明した。
「『理想救出』のイデアエフェクトの範囲はおよそ半径二十キロメートル。世界中を救済するのであれば、あちこち飛んで回らなきゃいけない。でも一度だけのエフェクトでは、どれだけ『手負いの翼』を信奉しているファンであっても、おいそれとは模倣者へ成長しない。要は日進月歩。地道にコツコツ局所的に活動していかなきゃ、上手く理想は伝播していかない。あと、それと……」
タマキは悲しそうな表情をのぞかせる。
「あの人は……了子は、最後になんて言ってた?」
「ええと……。『タマキくん、キミは一人じゃないよ』、と言い残されました」
「ああ、そうか。ぼくは一人じゃない、か……」
するとタマキは、ちょうど胸の心臓がある部分を撫でて、目を閉じた。
「マリィちゃん。ちょっと、お祈りさせてもらってもいいかな? ぼくは信者でもないし、信心深くはないんだけど……とにかく今は祈りたい気分なんだ」
「ええ、もちろんです」
タマキは了子のために祈りを捧げた。マリィも両手を組み合わせて、改めて『手負いの翼』として弱者たちを救済することを誓った。
了子さんのためにも、自分のためにも――。
虐げられし弱者を解放し、幸福なる自由を与えていかねばならない。
4
翌日の夕方、バイトが終わる頃に練吾はバイト仲間の女子大生――小笠原に話しかけられた。
「ねー切辻くん。『優しい掌』っていう都市伝説ヒーロー、知ってる~?」
レジでぼんやりとしていた練吾は、面倒くさげに「いえ」と答えた。
「心が傷付いている女性に、緑色に光る手で触れて、心を癒すんだって。憧れるよね~」
「へえ、そいつぁすげえっすね」
練吾は内心、驚いた。それはおそらく阿礼優亜の『理解診療(セントポーリア)』の仕業だろう。
「うんうん! わたしもね、『優しい掌』を見習って、誰か困ってる人がいたら、支えてあげたいって思うの。ね、練吾くんも『血のカマイタチ』に憧れてるんでしょ?」
小笠原は練吾の赤い髪を見ながら指摘してきた。
「たまたま、赤い髪と緑の革ジャンがダブってただけっすよ。たまたま」
十七時。定時になると練吾はタイムカードを押して私服に着替え、コンビニを出た。ケータイのメールを確認すると、タマキから一通届いていた。
『十八時に新宿駅東口交番前に集合! アジトである人形寺雫の豪邸へ行くよ!』
溜め息を吐き、練吾は簡単に返信メールを作成する。
『悪いが急用だ。行けそうに無い』送信。
どうせ行ったところで、無意味なミーティングが待ってるだけだろう。オレが興味あるのは、赤い刀を振るって強姦殺人犯を狩ることだけだ。そんな井戸端会議には用など無い。
「今日は、渋谷のラブホ街でもうろついてみるか……」
革ジャンのポケットに手を突っ込み、練吾はJR線に繋がる改札口へ向かった。
ほぼ満員の山手線に乗り込むと、派手な服を着込んだ集団が車内で屯していた。
いわゆるコスプレイヤーである。目障りだ、と練吾は思う。よく見ると、逆立てた赤い髪に緑の派手なジャケットを着た者や、露出した肌に包帯を巻き、白いウィッグを被る者などが目についた。
ふーん、こいつらも一応、模倣者なのか。練吾は興味無さげに彼らを観察していると、その中の一人の少女がこちらにウィンクを飛ばしてきた。そいつは『血のカマイタチ』のコスプレをしており、練吾も仲間だと思われたのだろう。
一緒にされてたまるか! こちとら遊びでやってんじゃねえぞ!
練吾は中指を立てた。ファッキュー。
原宿駅に着くと、コスプレ集団はぞろぞろと降車していった。車内が空いたと思うのも束の間、新たな乗客がどっと押し寄せてきた。
その時――剣型のネックレスが赤く輝き出し、『理想切断(ケルベロス)』が発動可能となった。
「マジかよ、満員電車だぜ!?」
そのまま電車のドアは閉まり、車体が動き出す。満員のせいで身動きが取れない。
しかし――やるしかない。むしろチャンス。敵は満員電車にいる限り、逃げることはおろか、自由に動けないのだから。
――自動行動、開始!
ターゲットは先頭車両にいる。練吾は、まるで針に糸を通すかのような動きで、密集する人と人の間を掠めながら走り行く。
「なんだ? 猫か?」「きゃっ! なに? 痴漢?」「突風が電車に?」
ざわめく乗客たちを尻目に、最小限のスピードで練吾は車両間を次々と移動していった。ちょっとした振動で右へ左へ人々が傾くその瞬間を狙い、わずかに生じた間隙を突き抜ける。
その調子で先頭車両へ進む。そして――練吾は一番端で携帯メールを打つターゲットの背後に忽然と立ち、その肩に手をぽん、と置いた。
「よう、外道」周囲に聞こえないよう、小声で話しかける。
びくっとその小さい身体を震わせる。少年だった。とても幼い――小学高学年くらいの少年だった。四時間前に、クラスメイトの女子を自室に誘い込んで、欲望のままにレイプした、男子小学生だ。泣き叫ぶ女子を無理矢理犯した小学生だ。そう、デュナミスが教えてくる。
まさか、こんな子供が――? 激しく動揺した練吾は青ざめ、呼吸が苦しくなった。
「選べ……」苦渋の表情で練吾は囁く。「自首するか……もう二度とたてない身体にされるか……特別だ、よぉく考えて選べよ……」
ぶるぶると震える男子小学生は、口を開いた。
「おっ、オレ、なんもやってないし……。ホント、なんもやってないし……知らないし」
練吾は、怒りとも悲しみとも判別がつかない感情が湧くのを感じた。
なぜ、こんな子供が? いや、子供だろうがおっさんだろうが関係ねえ。しかし、本当に奪っていいのか……? こんな小さいガキの未来を? オレが?
不意に過去の記憶が蘇る――ピアノに乗り上がった白い肉体に、腰を打ち付ける男。そしてそれを目撃する十一歳の少年――。
なんで、なんでこんな子供が、犯罪者側なんだ? なんで……。
動け、動け――オレの右手、赤い刀……。自動行動だ! 早くしろ!
こいつはもう選んでいるんだ! 二度とたてない身体になることを!
自動行動――練吾の右手は常人には感知できないスピードで、赤い刀を躍らせた。
未発達の手足と性器の感覚を失ったショックで気絶した少年を、周囲にバレないように練吾はそっと抱きかかえた。
渋谷に到着すると客がぞろぞろと吐き出された。練吾は空いた席にぐったりした少年の身体を座らせ、電車から降りる。
くそったれが! 練吾は血が滲むほど奥歯を噛み締めた。
「なんで、なんで……。なぜ、あんな子供が……」
ハチ公前広場へ行き、適当にベンチに座って練吾はうつむいた。待ち合わせに使われるこのスポットには、多様な年齢層の人間がごちゃまぜに密集しており、常にガヤガヤと騒がしい。練吾は喧騒の中、殻に閉じこもるように沈黙する。
「き、君……ひょっとして……」
話しかけられ、練吾は渋面のまま顔を上げる。
「あんたは、あん時のタクシー……」
数日前、阿礼優亜が誘拐された時、協力してくれたタクシー運転手が傍に立っていた。元来、臆病そうな顔をしていたが、今はそれに輪をかけてオドオドとしている。
「いったいどうした……身体、震えてるぜ」憂鬱な練吾は、低音で喋る。
「や、や、やっちゃったんです……わ、わたしは……」運転手の足がガタガタ震える。
「隣すわりな」面倒なヤツだな、と練吾はぼんやり思う。
「む、む、娘を……わたしの娘を……」運転手は座ろうとしない。「レイプした男の手足と、股間を……金属バットで……潰して……しまったのです」
練吾は急速に頭が冷え込むのを感じた。
「おっさん、あんた……まさか、イデア・エフェクトに――」
イデア・エフェクト――タマキが言っていた言葉。強姦魔や殺人犯をブチのめしたいと密かに思っている人間を覚醒させるための呼び鈴。『理想切断(ケルベロス)』を発動することで、そのエフェクトは半径約二十キロメートルの範囲まで放射状に広がっていく――。
この運転手は、そのイデア・エフェクトに感化されてしまったのだろうか。
「どうしましょう……本当に、どうしましょう……」運転手はボロボロと涙をこぼす。「まるで何かに取り憑かれたように、一心不乱に、手足をグチャグチャにしたんです……この細腕にあんな凶悪な力が出せるなんて……。わたしは……わたしはいったい……」
「とりあえず隣すわれよ……なあ……」
「わたしは、ただ、娘のために……娘のために……! しかしそれで、娘は本当に報われるのでしょうか? こんなわたしを許してくれるでしょうか? 父と認めてくれるでしょうか?」
「おっさん……!」練吾は苦しげな声を出す。「オレのせいだと……言いたいのか……?」
「わたしは、なんてことを……おお……なんてことを……」
髪の薄い頭を抱えてうずくまる運転手を見下ろし、練吾は立ち上がった。
「オレのせいだって言いたいのかよ! ああ!?」急に大声を張り上げた練吾に、周りの視線が集中する。「選んだのはあんただぜ! 中途半端な心のままやっちまうからそうなるんだ! やるなら覚悟を決めてからやれ!」
さめざめと泣き出した運転手を放置して、練吾はずんずん街を歩いていく。
――中途半端な心のままでやっちまったのは、オレの方だ! くそ!
人気の無い路地裏に入り、怒りのままに練吾はビル壁を殴りつける。拳の皮膚が破けて血が滲む。痛みなど感じない。もう一発殴る。
白髪のマリィと母親の顔が、連続して脳裏を過ぎる。
「クソッ! クソッ! クソッ!」
血染めの拳を何度も壁に殴りつける。骨が折れてもいい。手が千切れ飛んでもいい。
ケータイの着信音が鳴り響いた。それで少しばかり冷静さを取り戻した練吾は、ディスプレイに表示される名前を見る。阿礼優亜だ。そういえば昨日、ケータイを持たないマリィ以外の全員で、連絡先を交換をしたな、と練吾は思い出す。
壁に背中をつけ、ずるずると座り込んで音が鳴り止むまでディスプレイを見つめる。それからまた着信音が響く。
「しつこいな……」練吾は携帯を耳に当てた。「どうした……レイプ犯か殺人犯でも見つかったのか?」
「ううん、そうじゃないけど……」緊張した声音である。「今ね、雫さんの家で食事することになって、みんなでたくさん料理したんだ。もしよければ練吾くんもどうかなあって」
「料理だと? のん気だな」
通話を切ろうとしたその時、優亜の同情するような声が聞こえた。
「練吾くん、泣いてるの……? とても悲しそうな声をしてる……」
――この女はまったく、余計な……!
「るっせえ! オレにかまうんじゃねえ!」
思わず言い放って通話を切る。すると、またすぐに着信音が響くが、無視した。
「キメえんだよ、くそ……」
吐き捨てるように言い放ち、目元に少し浮かんだ涙を拭ってから、練吾は携帯でネット掲示板にアクセスする。
自分の行動が正しいものなのだと確認するために、『血のカマイタチ』に関するスレッドを開いた。最近『血のカマイタチ』のコスプレが流行っているだの、都市伝説ヒーローのファンたちでオフ会を開くだの、つまらないコメントが大半を埋めている。
しかし、あるコメントを目に留めた練吾は顔を歪めた。
『みんな知ってるか? 手足を動かなくされた強姦魔たちって、自殺するやつが多いって』
『え、ソースあんの? 気になる』
『知り合いの警察から聞いただけ。生きる希望無くしてだいたい自殺を選ぶらしい』
『まー確かに、ダルマにされた上、アレちょん切られたらフツー死にたくなるわな』
『じゃあ血のカマイタチって、人殺しってことになるんじゃね?』
――人殺しだと? オレが、人殺し……?
5
その夜。八王子市内にある閑静な住宅街の一角で、マリィは『理想救出(アルビノクロウ)』を発動させた。
――自動行動、開始!
エメラルドグリーンの輝きを放つ十字架を胸に、夜空へ跳躍。
背中から発現した両翼もデュナミス同様に輝き、大きく羽ばたいて月光の粒子を散らす。
電柱から出っ張っている腕金を蹴って更に飛翔。
民家の屋根へ飛び移り、助走を付けてまたハイジャンプ。
紺色の修道服をはためかせながらビルの屋上から屋上へとびゅんびゅん高速移動する小さなシルエットは、無関係の者が見ても疲労からくる幻覚かUFOの類としか思えないことだろう。
マリィはおよそ三十階建ての高層ビルの屋上に降り立ち、端へ歩み寄っては地上を俯瞰する。
チンピラ風情の四人の男に暴行されているサラリーマンがいた。
「今、参ります……!」
両手を組み合わせてダイブ。天国行きを夢見る幸福な自殺者のように。
落下。翼を躍らせてさらに加速。そのまま地面と激突すればミンチ状態になるだろう。
地面と接触する五メートル上で、翼は鋭く風を切り急ブレーキ。ちょうどチンピラたちとサラリーマンの真上だったため、その風圧で転んだ者が複数いた。
「痛かったでしょう……」マリィは鼻血を出すサラリーマンの手を取った。彼はきょとん、とする。「もう大丈夫。安全な場所へ行きましょう」
「て、てめええ! 一体なんなんだあああ!」
非現実的な少女の出現に脅威を感じたのか、チンピラの一人がナイフを取り出して迫ってきた。彼にはマリィの翼は見えていない。見えるのは、イデアリストもしくは対象者に限られている。
「暴れないでくださいね」
マリィはサラリーマンの痩せた背中に抱きつく。「跳びますよ」
「待てやコラアアアア!」
飛翔する寸前にチンピラが投げつけたナイフが、マリィの太ももを切り裂く。鮮血が散る。
マリィは僅かに顔を歪め、眉根を寄せてチンピラを睨んだ――が、すぐに微笑んだ。ナイフがサラリーマンに当たっていないことに安堵したからだ。
翼を大きく羽ばたかせ、マリィは男を抱えて飛翔する。
来た時と同じように屋上から屋上へと飛び移っていき、人の出入りが少ないマイナーな駅の近くにある路地裏に降り立つと、マリィは男を放した。それと同時に『理想救出』は解除され、翼も夢だったかのように消失する。
ここは男を救出した場所から、優に三キロは離れている。
「ここまでくれば大丈夫でしょう」
マリィは微笑んで男に無地の白いハンカチを差し出した。彼の鼻血がまだ止まっていないからだ。
「えっと……ありがとう」
男は状況がまったく把握できず、自身の鼻血さえ忘れ、なぜハンカチを貰ったのかも分からないようだった。
「これであなたは解放され、自由を得たのです」マリィは両手を組み合わせる。「これからは自由を侵害されることなく、実り豊かな生活を送れますように」
「あ、えと、うん……さっきのチンピラは親父狩りの類だから、もう大丈夫だと思うけど……うわっ、鼻血っ」口の中に血が入り込み、気付いた男は鼻にハンカチをやる。「君、何者なんだい? 緑色の大きな翼で空飛んでるし……これ、僕の夢なのかなあ。仕事で疲れてるのかなあ、ははは……」
「どうか、あなたの人生が、限りない幸福で満たされますように……」
そう言い残して、マリィはその場を立ち去った。
背後から「いてっ! あれえ、夢じゃない」と男の声が聞こえる。頬をつねったりしたのだろう。
マリィは家路につく。ここから自宅まで約五.三キロ。徒歩で一時間くらい。マリィは上空から地上を俯瞰する機会が多いため、漠然とではあるが都内の地図がいつしか脳内に形成されていた。だから初めて歩く道でも、自宅への経路ぐらいは分かる。
――気分が優れない。胸がざわめく。ドス黒い風が体内で荒れ狂う。
人気の無い道に差し掛かったマリィは、ぐにゃり、と顔を引きつらせた。
嫌悪感を覚えたのだ――救出した男の血を見た時、足をナイフで切られた時。マリィは加害者のチンピラに対して、強烈な憎悪を感じていた。
「いつもならこんな邪な気持ちにならないのに。切辻練吾さん……、あなたを見てからわたしは……」
胸をきつく押さえてマリィは前屈みになり、歯を食い縛った。感情が暴れてる! 炎のように。不可思議な感情。体の中が蹂躙されている。
――切り刻んでやる! 抉り取ってやる! 噛み千切ってやる!
この口が――聖歌を愛し、聖書を嗜むこの口が、今、醜悪な言葉を吐き出したがっている!
――いけません! いけません! マリィ! 気を静めなさい!
自らを叱咤し、マリィは太ももの傷口に爪をきつく立てた。止まりかけていた血が、再び赤く糸を引いて流れる。
激痛に足がぶるぶると震えるが、黒い感情を追いやるにはまだ足りない。五日前に受けた創傷にも、包帯越しに爪を食い込ませる。塞がっていた傷が開き、どろりと血がにじみ出てくる。
ふー! ふー! とネコの威嚇のように息を荒らげ、マリィは電柱に寄りかかって座り込んだ。
やがて気分が落ち着き、冷静さを取り戻したマリィは、血に染まった両手の中指を目の高さまで持ち上げ、ぼんやりと見つめた。血が滴り、掌に伝う。
ハンカチはさっき、あの人に渡してしまった。拭うものが無い。伊豆倉神父から貰った修道服はなるべく汚したくない。
その指をくわえて舐め取り、血の味を確かめる。鉄の味。からだの中で流れるいのちの味。
こうして血を外側へ出すことは、いのちを削り落とすということなのだろうか? ならば本望。この生命は、捕らわれし人に自由をもたらすために存在している。
弱者の自由を奪おうとする不届き者に、どれだけ切り刻まれようとも構わない。むしろそれは望むこと。神聖な気持ちで快く受け入れるべきなのだ。
――しかし、なぜあんなにも禍々しい感情が渦巻いたのだろう?
「切辻練吾さん……。あなたは一体……なぜこんなにもわたしを狂わせるのですか……?」
――十字架のネックレスが発光する。マリィはその緑色の輝きを握り締め、一瞬のためらいもなく、次なる救出へと行動を開始する――。
6
練吾は頼りなげな歩調で、静まり返った夜のオフィス街を徘徊していた。
全てが否定された気分だ。行いはすべて裏目に出て、不幸な人々を生み出すことにしか繋がらない。強姦殺人者たちの手足を奪うと、彼らは自殺を選び、そして『血のカマイタチ』の模倣者たちは罪悪感で心を潰してしまう。
オレは間違っているのか――?
「マリィ――お前と出会うまでのオレは、こんなヘタレじゃなかった」練吾は虚ろな目で月を見上げる。「オレは何よりも自分の行動を信じていた。この理想をがむしゃらに追うことが、このクソッタレな世の中を正しい方向へ進ませるんだと信じていた。なのに今はなんだ? なぜ、オレはこんなにも弱っている? なぜ、レイプ魔をブチのめすことに罪意識を感じている? なぜだ?」
練吾は無意識のうちに、マリィが住んでいる八王子の教会へ向かっていた。
彼女に会って何かがはっきり解決するとは期待していない。ただ、自分がヘタれた原因が彼女にあることは確かなのだ。些細なヒントでも探り出したい。
とぼとぼと歩いていると、また剣型のネックレスが赤く輝きだした。
「んだよ……メンドくせえな。目ぇチカチカすんだよ」
胸の内側が熱い。自然と闘志が湧き立ち、デュナミスが練吾に自動行動の選択を促してくる。『理想切断』というヤツは、使用者の気分などお構いなしに能力発動を催促するんだな。
気が進まない練吾は、能力を発動することなく、ポケットに手を突っ込んでターゲットがいる方向へと歩いて向かった。
デュナミスから伝わる情報によると、ターゲットは三十分前に二十代ほどの男性警察官を銃器で撃ち殺したらしい。
次の角を右へ曲がれば、ターゲットがそこにいる。どんなヤクザが待ち構えているんだか。
コンビニへでも出かけるような無警戒さで角を曲がると、そこには長身の少女がビル壁に寄りかかって肉まんを頬張っていた。黒いシャツにジーパンといった軽装で、長い髪を後ろでまとめて縛っている。格好は適当に繕っているが、顔は面長で彫りが深く、足も長いのでモデルの仕事でもやっていそうだ。
練吾は無表情でモデル然とした彼女の目の前を通り過ぎる。このまま帰ってやろうか、と練吾は考えた。どうにも乗り気ではない。
すると、彼女に呼び止められた。
「ねえ、そのネックレス、なんでピカピカ光ってるの? 変身しちゃうの?」
練吾は彼女のハスキーボイスを無視して歩いていく。
「ボクにもね、その赤い光出せるよ」
練吾は彼女に振り向いた。こいつは何を言っている? まさかこいつもイデアリスト!?
「こいつはな……」練吾はネックレスを握る。「拾い物なんだ。割と気に入っててね。パクっちまおうかと思っている。あんたも同じもんを持ってるのかい? なあ見せてくれよ、ノッポ女」
「あんたさあ……『正義の人』だよね?」少女は壁から背を離し、口元に笑みを浮かべた。
「はあ? 何いってんだ、あんた」
練吾は眉を吊り上げると、彼女は笑ったまま睨んできた。
「『正義の人』かって訊いてんだよ……答えてほしいな。ボクはね、しらばっくれるヤツが大嫌いなんだ」
「正義だなんて――ハッ。オレはオレ自身がスカッとすることしかやらねえ主義だぜ」練吾は毅然として言う。「にしても、この辺りはどうも焦げ臭いな……まるでピストルでもぶっ放した後みたいだ。なああんた、なんで火薬臭いのか、心当たりないか?」
「面白い訊き方だなあ、それ……」
少女はくくく、と肩を震わせて笑った――
直後――その長い足が鞭のようにしなり、練吾の顔面を狙う。
練吾はとっさに身を屈めてかわし、足払いを仕掛ける。
少女は片足で高くジャンプし、蹴り上げていた方の足を振り下ろす。
スナップの効いた踵落としを喰らう瞬間、練吾は『理想切断』を発動させた。
自動行動によって身を瞬時に後ろへ反らし、ギリギリ回避。
その勢いのままバック転を四回やって距離を確保した。
手には赤い刀。戦闘体勢は整った。
後はヤツの手足を切断するだけ――なんて容易くて虚しい作業なのだろう、と練吾は思う。こんなお手軽な作業があの少女の未来を奪い、最悪、死を選ばせることになるのだから。しかし能力を発動した以上、責任を持たねばならない。これは自分が選んだことなのだ。せめて罰を下す時ぐらいは悩みたくない。
覚悟を決めた練吾は、自動行動に心身を委ねた。
両足を前後に大きく広げて体勢を低くし、突進の準備を整える。
対して少女は、余裕の笑みを浮かべたまま直立不動の姿勢を保っている。
ぴん、と張り詰めた空気。両者は共に動かず……。遠くから響く救急車のサイレン音と、風に運ばれてくるビニール袋だけが時間の動きを演出している。
突然、近くの街灯が激しく点滅する。その明暗が二人の間で完結していた無音の空間を壊した。
――ダッシュ! 瞬時に肉薄。
斬る! 刀が彼女の右腕に触れようとした刹那、脇腹に強い衝撃。
体勢がぐらりと崩れ、練吾は反射的に受身を取り、すぐに顔を上げて少女を視界に収める。
いったい、何が起こった? 脇腹がズキズキ痛む。
少女の右手には大剣が握られていた。練吾の剣より太く、彼女の背丈ほどの長さを誇っているが、同様に赤く輝く代物である。オモチャには見えない。本物の殺意が、そこから痛いほど感じられる。
その大剣の柄で脇腹を突かれたのだと、練吾は理解した。
「ボクの能力の名はストゥーピッド。『正義の人』と対峙したときに発動する無敵の力さ」
「ピストルはどうした?」練吾は相手を警戒しつつ立ち上がる。「知ってるぜ……あんた、サツを撃ち殺しただろ? 凶器は剣だけじゃねえはずだ」
「ふん。ボクの能力は鏡だよ。敵の武器を映し出す鏡さ。ただし、より強力な代物になっているけどね。敵がさっきのサツみたいにピストルを持ってりゃマシンガンになるし、刀を持っていれば大剣になる」少女は剣の先を練吾に向ける。「ボクに絶対的勝利を。貴様に絶対的敗北を。能力を発動した時、その法則が確定されるんだ。素晴らしいだろう? 激戦の末に待つ勝利のために、ボクにはあんたを少しばかり上回る程度の力が付加される」
「オレを上回る、か……」
練吾はくくく、と全身を震わせて、嬉々として笑う。
「ははははははははははは!」
練吾はずい、と近づく。敵の大剣の切っ先が鼻にギリギリ触れる手前まで。
「マジ最高だぜ、外道ノッポ女! それだよ、今のオレが求めてんのはそれだ! オレは最近、気が滅入って仕方なかったんだ。非力なヤツばっか相手にしてたからよぉ。たまにはバカ強えヤツを相手にしなきゃ、心がカビちまう」練吾も刀の切っ先を少女に向ける。「てめーなら、どれだけ痛めつけてもブッ壊しても、悩むこたねーだろう。むしろ最高にスカッとするだろうなあ。会えて良かったぜ!」
想定外の反応だったのか、少女は怪訝な顔をした。
「あんたさあ、ひょっとして自分が負けるはず無いって思ってる?」
「勝ち負けなんざどーだっていいんだよ。オレはなあ、このクソみてえな気分を晴らせるんなら、どーだっていいんだ」練吾は好戦的に目をギラギラ輝かせる。
「さあ、ゴチャゴチャこだわらずに楽しもうぜ……」
自動行動、開始!
練吾は刀を逆袈裟切りに振り上げ、大剣を撥ね上げた――どうやら、この大剣は赤い刀と同じような存在らしく、接触可能だ。イデアリスト同士であれば、お互いに発現した武器で打ち合うことができるのだろう。
懐に飛び込んだ練吾は、のけぞった少女の足に向けて刀を薙ぐ。
しかし少女は一時的に大剣を消失させ、バック宙で飛翔。それをかわす。
見上げると、その長身のシルエットは点滅する街灯の上に立っていた。
「おいで、『正義の人』……」ヤツは手を差し伸べてくる。
「うおおお!」
練吾は雄叫びを上げながら跳躍し、斬りかかる。
上方へ横一文字の一閃。
少女はまたジャンプしてかわし、更なる高みへと移動する――四階建てビルの屋上へと。
練吾は彼女を追って街灯を蹴って跳躍し、屋上へ降り立つ。
「ボクね、広いところ大好き。バーっと派手にカッコよく戦えるから!」
上機嫌な少女は大剣を夜空へぶんぶん振り回しながら言った。練吾との距離は五メートルほど。
「ねえ! ドキドキするぐらいほぼ互角の勝負しよ! 勝者はもう決定済みだけどね!」
「オレのことだろ? 勝者って」練吾は笑みを漏らす。
刹那、巨大な刃が迫りくる。
練吾は刀で迎え打ち、至近距離での凄絶な剣戟にゾクゾクと身を震わせた。
互いに必殺の赤い閃光を無数に繰り出し、いずれも弾き合う。
一秒の間に十近い数の攻撃を交わし合うが、武器は決して壊れることなく、肉体も崩れることは無い。イデアリストによって発現された武器と、向上された身体能力、そして自動行動は、使用者にその目的に特化した強力無比な力を提供する。
しかし――敵の能力は、『相手の力を上回る』ことだ。
笑いながら剣戟に没頭していた練吾の表情も、次第に険しさの色を浮かべていった。
スピードもパワーも、僅かに――ほんの僅かにこちらが劣っている。このままでは、負ける――!
「くそっ!」
瞬時に身をかがめて敵の袈裟切りをかわし、バックステップで攻撃が届かない程度に距離を置こうとする。
しかし――。
「逃がさないってばぁ!」
少女のスピードの方が速い。高く掲げられた大剣。それが今、地面と垂直に振り下ろされようとしている。
世界がスローモーションに動く。脳内麻薬が過剰分泌しているせいだろう。
もどかしい――世界はこんなにもノロマなのに、身体が動かないだなんて。そして、腕が上がらない。いくら身体能力が向上しているといっても、さすがに限界が来たのだろうか。ピクリとも動かない。
――死んでたまるかくそったれ! 動け、オレの腕! こいつの手足をぶった切るんだ! このままじゃアジの開きみてえにされちまう! 動いてくれ!
大剣がメインの視界の隅に、小さなシルエットが映る。
緑色の翼が見える。超高速で接近してくる。そいつは大剣よりも速い。このスローモーションの世界でも、段違いに速い。
そいつはそのまま練吾の脇腹に、頭からタックルしてきた。
タックルした小柄な人間と練吾は、一緒に床を激しく転がっていき、屋上の端を囲う小壁にぶつかって止まった。
「跳びますよ練吾さん!」
その切羽詰ったソプラノボイスに聞き覚えがあった。マリィだ。
頭を小壁に強打した練吾の意識は、ブラックアウト寸前で事態を把握できない。マリィに腰をしっかり抱きかかえられ、浮遊している感覚が何となく伝わってきた。
「マリィ……お前……なぜ、ここに……」
その呟きを最後に、意識はすべて闇に呑み込まれた――。
7
長身の少女は、驚愕の表情のまま屋上で立ち尽くしていた。
間違いない。あの人は――
「ハルカ……生きてたんだね……よかった……」
一筋の涙を流し、少女は二人が消えていった先を見つめ続けた。
8
泥の中にいるようだ。光はなく、絶望的なまでに暗黒。どうにか手足を動かそうとするも、身体がずっしりと重くて、指をほんの数ミリ動かすことしかできない。
なぜ重いのか、分かった。無数の男たちが自分に噛み付いてぶら下がっているからだ。全員、手足が無かった。よく見ると、ほとんど知っている顔だった。今まで裁いてきた男の顔。
「ヨクモ……ヨクモ……コンナ風ニシテクレタナア……」
おぞましさが全身を駆け抜け、叫ぼうとしたが声が出ない。喉も噛み付かれていたからだ。
「許サナイ……絶対ニ……」
嫌な感じだ。嫌な感じ。しかしこれは夢なのだろう、と練吾は気付き始める。
気付いてしまえば何てことは無い。夢なんて所詮、現実という光の前では無力なハリボテだ。早く覚めてくれ!
ゆっくり目が開く。丸めたタオルが目元に乗っており、光がそれを透過して伝わってくる。
練吾はタオルを取ろうと右手を動かそうとするが、夢の中の時と同様、ずっしりと重くて手が上がらない。鈍い痛みもある。ノッポ女と戦っている最中、この右手で刀を握っていたことを思い出した。重度の筋肉痛に縛り付けられているのだ。
左手は比較的重くはなく、容易にタオルを取ることができた。
ぼんやりと寝ながら横に顔を向けると、テーブルの上に大量のお菓子が積まれているのが見え、その向こうに誰かの青い後頭部と大きなテレビ画面が見えた。画面は五五インチほどのサイズで、格闘ゲームのバトルが展開されている。左側のキャラが派手なビーム攻撃をくらって倒れ、「ユー、ルーズ」という音声が流れた。
「うぎゃあああああ! 負けたあああああ!」
そのプレイヤーである青い長髪の女――人形寺雫は、あぐらを掻いて座りながら大げさな声を上げ、コントローラをぶん投げて背中を反らし、背後のテーブルに後頭部をゴン! とぶつけた。
――なんだこのバカは? 非常にうるさい。頭がキンキンいてえ。
「ぢぐじょー……」雫はそのままこちらを見た。「お、起きたの? おはよ~」
「うるせえんだよ……ここはどこだ」
重い上半身を何とか起こし、練吾は溜め息を吐きながら頭を振った。自分はソファに寝かされ、毛布をかけられている。革ジャンが脱がされているだけで、服はそのままだ。
「マリィちゃんが運んできた」雫は後頭部をテーブルに付けた変な体勢のまま答える。「で、この優しいお姉さんが手当てしてあげたのです。感謝しなさい」
「ここはあんたの家なのか?」
「うん。人形寺邸よん。無駄に広くて空いてる部屋多いから、我らデルタ・レスキューのアジトにしてるってわけ」
「マリィはどこにいる?」
「キミを置いてすぐ帰ったよ。あ、レンレン、その辺にあるチロルチョコ、お姉さんの可愛いお口にシュートだぁ! あーん」
「その呼び方やめろ、イラつく。……マリィは何か言ってなかったか?」
「べっつにぃ、なんにも」雫は残念な顔をして起き上がり、テーブル上にあるチロルチョコをつまんで食べる。「ただ、マリィちゃんものすっごく疲れた顔してたよ。肉体的疲労って感じじゃなくて、心の根っこからやつれてるって感じ。ね、何があったの?」
雫は腰に手を当てて上半身を曲げ、寝ている練吾に顔を近づけてくる。
香水の甘い匂い。彼女のピンクの斑点が塗された青いロングヘアや、華美なゴシックファッションを見てると目がチカチカしてくる。口もうるさいし、格好もなんかうるさい。なるほど、つまり存在自体がうるさいのだ。
「今、何時だ……?」
「ホント、キミは自分勝手……空気読みなさいよぅ」雫は呆れた顔をする。「朝の九時半ダヨー」
「寝過ぎちまったな……」
練吾は十一時からのバイトを思い出し、仕方なく立ち上がろうとする――が、床に足をついた途端、力が入らずドタっと転げ落ちてしまう。その衝撃でテーブル上のお菓子がバラバラ落ちた。
「なんだよ起きて早々、賑やかなだなぁ。まさかウケ狙っちゃってる系?」
うまい棒を頬張りながら雫は腰に手を当て、つまらなそうに言った。
「クソッ、あのノッポ女め……」
練吾は、筋肉痛の原因となったあの女イデアリストを恨んだ。
「ノッポ女? 誰それ」
「イデアリストだ」苛立たしげに練吾は答える。「ヤツは、『正義の人』とかいうのを無差別に殺し回っている。とんでもねえ外道だ」
「ほえー」雫は少し驚いたのか、間抜けな声を出す。「イデアリストにはそんなのもいるんだあ。怖いわー」
「たしか……能力名はストゥーピッドとか言ってたな。相手よりも強力な力を得て、絶対的な勝利を獲得する能力、だそうだ。実際、オレの『理想切断』よりヤツのパワーの方が上だった。くそったれ」
「ふうん。凶悪で強敵……ね。なるほどなるほど」雫はなぜか、にやりと笑う。「ま、その謎のイデアリストについては、みんな揃ってから話し合いましょ。あ、練吾、ソファに座ったら? そんな面白い体勢になってないでさあ」
転んだ拍子にズボンが少しずり下がり、トランクスが半分露出していることに気付いて練吾は赤面した。
「練吾くん、大丈夫!?」
ドアが開くと阿礼優亜が飛び込んできた。私服姿である。そういえば今日は土曜日であることを練吾は思い出した。世間では休日なのだ。
「ああ」ソファに座る練吾は短く答える。
「雫さんから聞いたよ。まともに立てないぐらいボロボロだって……大丈夫? 怪我は?」
「ただの筋肉痛だ。おい人形寺雫、大げさだぞ」
「なにさ、事実じゃんか」雫はにこにこして優亜に近づく。「ごめんね~。こんな汗臭い男がいる部屋で。うへえばっちいばっちい。臭いが移っちゃう前に二人でどっか行こっか?」
雫は優亜の肩に両手を置き、顔を近づける。
「殺すぞ!」練吾は雫の後頭部にお菓子を投げつける。
すると雫はやかましい貴婦人を演じるように、手を自分の頬に当てた。
「きゃあ! 嫌だわこんなオイタしちゃって……まともにしつけられてない証拠だわ!」
「失せろよてめー! 不愉快だ、すっこんでろ!」
「あーれー」
雫はくるくる回りながらドアから出て行った。
「ったく、オレはあの手のふざけた馬鹿は嫌いなんだよ。得体が知れねえ」
舌打ちをし、練吾は左手を後頭部に回してソファにくつろぐ。
「練吾くん、怪我したの?」
恐る恐る、といった感じで優亜は訊いてくる。
「だから筋肉痛」練吾はつっけんどんに答える。
「雫さんから聞いたよ。なんでも、悪いイデアリストが現れたって」
「大したヤツじゃねえよ。明日にでもオレの手でケリつけてやる」
「練吾くん、その……」
「あん?」
「隣、座っていいかな?」
「ん? ああ」
なぜか顔を赤らめる優亜は、ギクシャクした動作で練吾の傍に座った。
「ねえ、練吾くん」
「いちいち名前を呼ばんでいい。ここにはオレとあんたしかいねえ」
「あ、うん。そうだね。二人きり、だもんね。あ、ウチ何言ってるんだろ」
「で、なんだよ、何を言おうとした?」練吾はうんざりする。
「えっとね、その……練吾くんは、ウチらと一緒にいた方がいいと思うんだ」
「ふーん。なんで」
「悪いイデアリストのこともそうだけど……昨日、練吾くん泣いてたから」
「気のせいだ」練吾は頭をバリバリ掻く。
「気のせいじゃないよ。練吾くん。ウチの顔を見て」
ずい、と優亜の顔が近づく。目が大きく、反射的に心臓が高鳴る。
「なんだよ急に」
「ほら、泣いた跡がある。目、少し腫れてるよ」
「んなわけ――!」
思わず立ち上がるが、強烈な痛みが走って転んでしまう。なんて間抜けなんだ、と練吾は顔をしかめた。
「れ、練吾くん……」心配そうな優亜の声が聞こえる。
「うぐぐ……寄るな。大したことはない」
「あわわわ……。その、下着、少し見えてる……よ」
9
ドアの隙間から二人を観察する人形寺雫はククク、と笑う。
パンツどころか半ケツを晒す一発芸を披露する練吾と、顔を真っ赤にする優亜。そのミスマッチ具合が面白い。そのまま優亜に嫌われてしまえ。けけけ。
――しっかしまあ、直情的で空気読めないあの少年も、さぞかし頭ん中じゃいろんなこと考えて、悩んでるんだろうね。タマキ、本当にあんたの思い通り上手くいくのかしら? まあ、あたしはあたしで、適当にやらせてもらうけど。
「雫お嬢様、来客でございます」
執事の五条(ごじょう)が近づいてきて、頭を下げながらそう伝えてきた。
「来客って、白い髪の可愛い女の子? ほら、昨日ご飯食べにきた」
「さようでございます」
「じゃ、この部屋まで案内してよ。ああ五条、お前は部屋に入らないで。お茶もいらない」
人形寺邸は一般的に見れば、豪邸と呼ぶにふさわしい規模とクオリティを誇っていた。総床面積はおよそ四百坪で、家族や使用人たちが使う部屋の他に、バー、ビリヤード場、トレーニングルーム、パーティルームなどが構えられている。いずれも常に最新式かつ高品質の道具が揃えられ、掃除も完璧に行き届いているため、実に快適だ。
しかし、かなり複雑な間取りとなっているため、まだ一度しか訪れていないマリィが、一人でここまで辿り着くことは困難だろう。
「かしこまりました」
余計なことを言わずに去る初老の執事の後姿を見ながら、雫はにやりと笑う。
「何だかケンカっぱやい野良猫を二匹、家にあがり込ませるような心境だわね。どうなることやら。神のみぞ知る」
五条と一緒に来たマリィを見て、雫は思わず顔が緩んでしまう。やっぱり可愛い。もしかして、天国からお引越ししてきたのかしら。
「いらっしゃい、マリィちゃん。神父様のお手伝いは大丈夫なの?」
ゆったりとした修道服を纏うマリィは、天使の微笑みを浮かべる。
「ええ。伊豆倉神父はわたしの使命をよく理解されていますので。二つ返事でお休みをいただけました」
マリィはハイトーンで可愛らしいアニメ声で答えた。
昨日の夕食に招いた時に聞いたところによると、マリィは修道院に所属しているわけではなく、伊豆倉神父の仕事を手伝う日々を送っているらしい。マリィ曰く、修道院で修行の毎日を送るよりも大切な使命があるから、とのことだ。学校にも通っていないので、世間的には無職といえよう。着ている修道服は伊豆倉から個人的にプレゼントされたもので、教会から支給された正式のものではないという。つまりコスプレなのだろう。
「練吾さんのご容態は、いかがでしょう?」
「あー、もう元気だよ。半ケツ出してはしゃいでるし」
「はんけつ? それはハンカチのことですか?」
「あー……そうそう。ネイティブアメリカンはハンカチをハンケツって発音するの。アイ・ウォント・ユア・ハンケツって(嘘)」
この純粋な瞳の持ち主に下品な概念を与えちゃいかんな、と雫は思い、咳払いを一つ。
「ささっ、とりあえず中に」
ドアを開けてそう促すと、マリィが小さく深呼吸するのが分かった。やはり緊張しているようだ。
「無理しなくていいよ」雫は優しく言う。
「いえ、大丈夫です」キッとマリィは表情を引き締める。「行きましょう」
――まったくこの子は。もう少し鈍感になれないのかね。
雫はそんなことを思いながら、マリィを連れて部屋に入った。
先ほどまで半ケツ出していた練吾は、ソファに座って腕を組んでいる。不機嫌そうな顔だ。その隣に座る優亜はマリィを見て目を輝かせた。
「あっ、マリィちゃん! 待ってたよ!」
「こんにちは、優亜さん」マリィは丁寧におじぎをする。顔を上げる。「練吾さん」
練吾を呼ぶ声には、穏やかではない硬質な何かが含まれているようだった。
練吾は興味関心ゼロといったように、彼女を見ずに片手を軽く上げると、また腕を組んで目を固くつぶって黙ってしまった。
まあまあこの唐変木は! マリィちゃんの気も知らないで! 雫はムッとした。
マリィはテーブルに近づき、絨毯の上に正座した。
「お体の具合はいかがでしょうか? 昨日は大変ハードな戦いを繰り広げていましたが」
ハードな戦いを繰り広げる、とマリィは言った。やや物騒な言葉。ちょっぴりマリィちゃんらしくないかも、と雫は感じた。やはり切辻練吾を目の前にして、心に僅かな変調をきたしているのだろうか。
「大したことねえよ」練吾は素っ気なく言い、マリィを見る。
「それは何より……安心しました」マリィは険しい目付きで練吾と視線を合わせる。
「まったく……余計なことをしてくれたな」練吾は怯んだかのように目を逸らす。余計なこと――救い出されたことについてだろう。
「それは大変失礼しました」
――奇妙だな。
雫は、この二人のたどたどしいやり取りに違和感を覚えた。
会話内容が、あまりに機械的すぎる。どちらも互いに伝えたいこと、問い詰めたいことがあるに違いない。しかし、無理に自分のキャラを維持しようとして、中身の無い言葉が出てしまっているようだ。
「ねえ練吾くん。そんな言い方、ひどいと思うよ……」
優亜が小声で練吾を諫めようとするが、彼は無視する。
――優亜を無視するんじゃない! この半ケツ野郎!
優亜に心酔している雫は、反射的に練吾を怒鳴りたくなったが、奥歯を噛んで我慢した。この場で練吾とマリィの奇妙な様子を見守るためだ。
「まったくお前ら……ずいぶん暇なんだな……。なんだ? デルタ・ナントカの主な活動は、この部屋でチロルチョコとうまい棒食って時間潰すことか? 性に合わねえ。歩けるまで回復したら、すぐ出て行くぜ」
練吾は異様なまでにトゲトゲしい言葉を使っている。
「タマキさんが言っていたことを忘れたのですか? 練吾さん」マリィは厳しい口調になる。「わたし達のそれぞれ異なる能力を結集することで、より効率的に人々を救うことが可能になるのですよ。この部屋での団欒は、絆を深めるための大事な時間なのです」
「クソ食らえだ……」練吾はマリィの強い視線から逃げるように、顔を横へ向ける。「オレは一人でいい。足手まといになるんだよアンタらは。戦う能力のない連中とつるむ程、オレは暇人じゃねえんだ」
「戦う、ですか……そうですか……」
場の空気が凍りつくのを感じた。マリィはうつむき、声に抑揚が無くなる。
今、彼女の隠れた人格が露わになろうとしている――雫はそう直感した。
「練吾さん。なぜあなたは、戦うことや暴力を行使することばかり選ぶのです。なぜ傷付けることを好むのですか」
「犯罪の抑止のためだ」練吾は蒼白の顔を冷や汗で濡らしていた。「レイプしたり人殺したりしたら、手足と股間が潰されちゃいますよ、という警告を世界に発信するんだ。そのためにオレは戦っている」
「あなた、理解しているのですか? 手足の機能を失った人の苦しみを……」
マリィの問いに、練吾は激しく動揺して目を大きく開いた。が、すぐに不敵な笑みを作った。
「なあ、平和ボケした信者さんよ……。聞き分けの無いバカを、どうやったらお利口さんにできるのか、知っているか?」
「……あなたは、どうお考えなのです?」
「恐怖を与えるんだよ」顔を冷や汗まみれにしながら練吾は断言した。「親に叩かれる恐怖があるからガキは悪さをしない。教師に叱られていい学校に行けなくなるから生徒は真面目ぶる。窃盗を働いたら前科が付いてまともな人生送れなくなるから善良ぶる。世の中のお利口な人間はな、みんな何かしらの恐怖に基づいて行動しているんだ。恐怖が解消されるためなら、民衆は何だってするぜ。いざ悪党に殺されかければ、肉親の命さえ差し出して命乞いをするだろう! わかるか? 恐怖が無ければ、人間はお利口にはならない! だからオレは、外道どもの身体を潰して、世間に向けてプレゼンしてるのさ。さあ皆さんご覧のとおり、殺人やレイプしたらインポダルマになっちゃいますよってな!」
練吾は一気にまくし立て、ぜーぜーと呼吸を荒らげた。
「……はあ、そうなのですか?」
マリィはゆらりと立ち上がり、失望したように冷ややかに言う。
「なんだよ……その目は……」練吾は怯える。
「練吾さん、あなたは間違っています。決定的に」ぴしゃり、とマリィは断言する。「なぜですか? 練吾さん……なぜ恐怖で人を支配しようとするのです?」
「じゃなきゃ民衆は善良にならない。平和にならねえんだよ」
「なぜ……人間が本来持つ優しさを信じることができないのですか?」
「信じる? 信じるだと? はっ」練吾は鼻で笑ってみせる。「何考えてんのか分からねえ他人を! 信じるだと!? 平和ボケも大概にしろ、信者さんよ!」
マリィはキッ、と練吾を視線で突き刺す。
「だから恐怖を振り撒くというのですか!? あなたがしていることは悪魔の所業そのものです!」切り裂くようなハイピッチボイスでマリィは怒鳴る。「それはただ人々を脅しているにすぎません! 愚か者のすることです!」
「随分と言ってくれるな……」練吾は立ち上がってマリィを指さす。「どっちが愚かだよ、え? 信者風情が! てめえは自分の手を汚さずに、ただ絡まれて困ってるヤツをひょいと救い出すだけで、外道にはなんの罰も下さない偽善者じゃねえか! 野放しにした外道はなぁ、罰が降りかからないことをいいことに図に乗って、雪ダルマ式に犯罪を繰り返していくんだぜ!」
「いかなる人にも、良心はあります! 美しい心を持っています! 悪行を働いてしまう人は、一時的にそれを忘れているだけです! しかし暴力や恐怖では、彼らから良心を引き出すことなんて断じてできません!」
「口先だけのバカ野郎だなテメエは! じゃあどうやって引き出すんだ!」
「信じるのです」言葉に重みをつけるように、マリィはゆっくりと言う。「かたくなに彼らの心を信じ、本来持つ優しさに気付くまで祈り続けるのです」
「はあ!? 何を言ってる、てめえは……?」
「わたしは神を信じ、心から敬愛しています」マリィは語り出す。「しかし妄信しているわけではありません。イエスが石をパンに変え、水をワインに変えたことは創作であると捉えています。信仰というのは、それは真実だ、と想いつつも、確証の無いものごとを受け入れる寛容な意思を指すのです。わたしは聖書に書かれていることは、確証の無い文書であることを理解しています。しかしそれは、決してわたしの信仰の妨げにはなりません。聖書は人にとって最も大事な良心や、愛することの美しさを教えてくれるから、わたしは甘受し、信じることができるのです」
そしてマリィは、強い意思のこもった目で練吾を貫く。
「聖書は人の心の美しさを説いたもの。そしてこのわたしも確証の無い人の心の美しさを信じ、教え説いていきたいのです」
「見ず知らずの強姦殺人犯の心さえ、美しいとぬかすのかよ?」
震える声で練吾は、怯えながらも反抗する。
「心は本来、純粋で優しいものなのです」マリィは毅然と言う。「ただ、人生の過程で誰もが心に壁を作っていくから、その純粋さが見えづらくなっているだけで……。だから心の壁の向こうの純粋さを、見つめる努力が大事なのです」
「くっ、ははははははは」練吾は乾いた笑いを上げながらよろめく。「くだらねえぜマリィ……オレはお前を絶対に認めねえ。なあ、そういうあんたは、オレの中に純粋な心を見ることができるのか? この悪魔の心が見えるのか?」
「……え…………?」
練吾の問いに、マリィは表情を失う。魂がするりと抜けたように。
時間が止まってしまったようだった。
ふらり、とマリィがよろける。
「切辻……練吾さん……あなたは、いったい……」
絶望したようにマリィは両手で頭をぐしゃっと抱える。
「ああ、なんてこと? なんてことでしょう! ああ……。わたしは、わたしは……! あなたの心を信じることができません!」
「…………は?」
虚を突かれたように、練吾は口を開けたまま硬直する。
「わたしは……あなたを理解することが、見つめることが恐ろしい……! こんなに懐かしいのに、なぜ怖いの? なぜ……? なぜ……? ああ……」
顔面蒼白でふらふらと視線をさまよわせるマリィを見かねて、雫は傍観者でいることをやめて駆け寄った。
「マリィちゃん! しっかりして!」
その華奢で儚げな体躯を抱きとめて、雫はマリィを空いているソファに座らせた。
「ありがとう、ございます雫さん……。大丈夫です。少し休めば、回復しますので」
「待ってて。なにか甘くてあったかい飲み物持ってくるから」
室内にあるキッチンへ向かい、カップにココアパウダーを入れてポッドでお湯を注ぐ。そうしているうちに、優亜と練吾の声が聞こえた。
「大丈夫? 練吾くん」
「あ、ああ、だい……じょうぶ……だ」
何やら練吾は、瀕死状態といった風である。おそらく――マリィの言葉がそのまま自分に返ってきたのだろう。
『こんなに懐かしいのに、なぜ怖いの?』
この二人は、互いに自分にとって重要な存在だと認識しているのに、その本質を見つめることを限りなく恐れている。本質に到達してしまえば、自分の心が破滅してしまうのだと予感しているのだろうか。
雫はもう一つホットココアを作りながら、長い息を吐いた。
テーブルにココアを置きながら、雫は練吾とマリィのうつむき加減な顔を窺う。どちらも青白く、生気がまるで感じられない。
優亜がカップを手に取り、「はいココア。飲んで。落ち着くよ」と練吾の手元へ運ぶ。その様子がなんだか夫妻じみており、非常に極めて気に食わなくて、舌打ちしてしまうが、雫はとりあえずマリィの隣に座り、カップを渡す。
「ありがとうございます、雫さん」
マリィは弱々しく答えて、小さな口でココアを啜る。
それから十秒ほど室内を重苦しい沈黙が支配していたが、沈黙が苦手な雫は立ち上がり、無理に明るい声を出した。
「さっ、くよくよウジ虫ムードじゃ前へ進めないぞ諸君! デルタ・レスキューはまだ揺籃期であり赤子同然! 何事も最初が肝心なのだ! まずは大局を見渡し行動の指針を取り決める必要があるのだ!」
雫は両手を望遠鏡の形にして目を当てて、海軍長官のように声を張り上げた。
練吾やマリィはココアに目を落としており、雫を見る者は作り笑いをしている優亜だけだ。
「よってっ! 活動の初期段階として世間情勢を取り入れ、分析せねばならない! というわけでテレビを見ようなのだ! しかと開眼し世界をチェキ~ット!」
ただ勢いに任せて喋りながら、雫はテレビのスイッチを入れた。
するとニュース番組が映し出され、無表情のキャスターが淡々と報道を読み上げている。ナイスタイミングだ。内容ペラッペラなバラエティ番組よりも、古今東西の情報を汲みいれたニュース番組の方が、興味を引き寄せやすい。
練吾やマリィも、少しでいいからニュースに注意を向けて気を紛らわして欲しい。
「――にて発見された警察官の遺体には無数の銃創があり、凶器はマシンガンのような銃器であると推測されます。えー、たった今、先ほどお伝えした『渋谷UHJ銀行強盗事件』の続報が入りました」キャスターは若干焦った様子である。「えー、五分前に突然現場に乱入した一人の少女により、銃を所持した犯人の人質となっていた二人の従業員は無事救出され、その隙に機動捜査隊員が犯人を現行犯逮捕したとのことです」
キャスターは眉根を寄せる。
「乱入した勇気ある少女はその際、犯人が発砲した二発の銃弾を頭部と胸部に受けて……死亡が確認されました。なお、元人質の証言によると、少女は乱入した際に『私は手負いの翼だ』と叫び、犯人を恐れずに人質を縛り付けていたロープをカッターナイフで切って逃がした、とのことです。続きまして――」
――あーもう、このキャスター、一言多いよ。でも……これは、いい機会かもしれない。マリィちゃんに罪を明確に自覚させるには、丁度いいイベントかもしれない。
雫はマリィをじっくり観察する。
『手負いの翼』とは、マリィがモデルの都市伝説ヒーローだ。
純粋にヒーローに憧れる少女が命と引き換えに人質を救出した、であるならなんとか美談にできるだろうが、マリィのイデア・エフェクトの効果で罪無き少女を死に追いやった、と解釈すれば、とても後味の悪いものとなる。
ゴトッ、と背後で何かが落ちた音がした。
振り向くと絨毯の上でカップが転がり、こぼれたココアが広範囲に染み広がっていた。マリィがカップを落としたのだ。
「マリィちゃん……」
雫はバツの悪い顔をした。かけるべき言葉が見つからない。
マリィはテレビを凝視したまま、無表情で固まっていた。
「……わたし……の…………せい………?」ぶつぶつとマリィはつぶやく。「一粒の麦はもし死ねば、豊かな実を結びます。一粒の麦はもし死ねば、豊かな実を結びます。一粒の麦はもし死ねば、豊かな実を結びます。一粒の麦は――」
長編『イデアリストの呼応』三章