花たちが咲うとき 番外編 三
花たちが咲(わら)うとき (番外編)
非人の章・一 ~逢愛傘~
「あーあ。参ったなぁ……」
少女は下駄箱が並ぶ先の出入り口に立ち尽くし、溜息をついた
今日一日の授業を終え、いざ帰ろうかと思った矢先先生に呼び止められてしまったのだ
お咎めなどではなかったのだが、そうこう話しているうちに友達は習い事があるからと先に帰ってしまい、今日に限って親の帰りが遅いと言う始末
そう言うわけで傘を忘れた少女は学校に閉じ込められてしまったと言うわけだ
廊下の先には生徒の姿はないが、雨のせいで外に出れなくなったであろう運動部の掛け声が遠くから微かに聞こえてくる
教室に戻っても少しヤンチャそうな男子たちが漫画を広げてだべっているだけだ。そんなところに一人入っていく度胸も無い
しかしこのまま玄関先に佇んでいても邪魔になるだけだ。隅に置かれた傘立てに幾つか傘が立てかけてあるのを視認しつつも、少女はそれに背を向けた
人の傘を勝手に持っていくのは、気が引ける
「パクられるのって、結構堪えるのよね……」
もう一度溜息をついて少女は玄関を後にした
雨の日は、まだ少し寒い
校舎をつなぐ一回の渡り廊下の窓から外を眺める
中庭に立っている時計を確認するが、親の仕事が終わるには後ニ時間ほど時間があるだろうか
暇だと肩を落としつつ、窓枠に両肘を置いて雨で煙る中庭を眺める
職員のおじさんが手入れしてくれている中庭は紫陽花が咲き誇り、木のベンチがしっとり濡れていて絵の様だった
もう一度時計の文字盤に視線を戻し、針が少しも動いていないことを確認して瞬きをした時
「……」
目が合った
いや、正確には目など見えなかったが、そこに誰か居たことが衝撃的すぎてそう思えたのだ
声を上げることも忘れ、視線をそらすこともできず、少女は中庭に立つ傘を差した人物を凝視し続ける
職員のおじさんが庭の手入れに来たのだろうか。こんな天気に?
それに職員にしては若い
少女の思考が素早く回転しているうちにも、中庭の男は少女に歩み寄ってくる
「え、あ。……え?」
気にしないほうがいいのか、自分に用があるのか。その場で数回足踏みをしつつ動けずにいた少女は、恐ろし半分興味半分で男の動向を伺っていた
二人の間を挟む窓ガラスが嫌に頼りなく思えるのはなぜだろう
ついに男は窓ガラスの前に立った
その時初めて少女は男の顔を見た
艶のある髪は濡れているようで、前髪が左目を覆っているが隠れていない右目からは優しい光が見える
冷たそうな唇がとても嬉しそうに弧を描いたのを見て、少女は不思議と恐怖心を削がれた
彼の口元が何事か囁く様に動いたが、窓ガラス越しのせいか聞き取れない
少女は窓ガラスに手を伸ばした
なぜだろう、そうしなければいけない気がしたのだ
狙いすましていたかの様に窓の鍵はかかっておらず、少女の華奢な指先が横に引けば窓はあっさり開いた
雨音が強くなる
冷たい風が少女の意識をより強く覚醒させつつも、夢見心地に頬を撫でた
「あ、あの……」
遠慮がちに震えた自身の声が、少女の頭の中で警鐘をかきたてた
危うさと、好奇心と。今ここで彼から逃げてはいけない様な使命感
彼は嬉しそうに瞳を細め、差していた傘を少女の前に差し出す仕草をした
「……え?」
彼はもう一度同じ動作を繰り返す
「貸して、くれるの……?」
彼は一層表情を晴れやかにして子供の様に頭を上下させる
少女が戸惑っているうちにも彼は窓から差したままの傘を渡そうとしてくる
廊下に雨粒が落ちるのを見て、少女は慌てて身を引いた
「ちょ、ちょっと待って、ください。玄関に行きましょう?」
少女の言葉に、彼は再び頷いたのだった
※※※
本当に、良いのだろうか?
少女の頭の中で数十回と唱え終えた言葉を、それでもまだ繰り返している
玄関で待ち合わせた後も意固地に傘を差し出してくる彼に負けて、少女は帰路についていた
しかしその隣には同じ傘の下、彼も一緒に歩いている
少女が傘を受け取った時、驚いたことに彼はそのまま雨下を歩き出そうとしたのだ
流石にそんなことは見過ごせなかった少女は、彼の傘に入れてもらう形で家まで歩くことになった
足元にやったまま動けない視線を、なんとか前方を確認するためにちらっと上げて偶然を装う様に彼の横顔を盗み見る
―― 悪い人には、見えないけど……
それでも少女のうちではあの言葉が繰り返されていた
「あ、あの。ありがとうございます……」
少女の絞り出す様な声に、彼は笑って頷いてくれる
「友達も先帰っちゃって、困っていたんです
でも、あの……。どうして中庭に……?」
聞いてはいけない様な気がしつつも勇気を振り絞って出した言葉は、しかし返されることはなかった
余りにも静かになったので少女が恐る恐る顔を上げると、彼の瞳とかち合った
少し驚いている様な瞳は一瞬のことで、すぐに笑顔で細まった瞼に被せられて見えなくなった
不覚にも心臓がドキリと高鳴った
「あ、あのっ。肩、濡れちゃってますよ!」
少女はその高鳴りを誤魔化す様に声を上げた
彼が持つ傘は少女の方に多く面積を取っており、彼の左肩は雨で濡れている
それでも彼は大丈夫という様に微笑むだけだ
それでもなんとか彼を傘に入れようと少し身を乗り出した時、ふと彼の濡れた左肩から下に違和感を見てパッと身を引いてしまった
今の今まで気がつかなかったのが不思議なくらい、彼の左袖は平べったく歩みに合わせて揺られていた
―― 腕が無い
心の中だけで呟いた言葉は、ずしんと落ちた
気にしないほうがいいのだろう。誰しも触れられたくないことはある
シンとなった周りの空気に、傘に雨が落ちる軽い音だけが頭上から聞こえてくる
別のことを考えよう。そう思い至ったのは良かったのだが、そのせいで少女の心臓が再び激しい鼓動を始めてしまった
今更ながら少女は自分の置かれた立場を再認識して狼狽えたのだ
―― というか、学校の男子ともこんな近くに立ったことない……
今にも少女の肩と彼の腕がぶつかってしまいそうな距離
―― しかもこれ、よく考えたら相合傘じゃん!
学校の人に見られたらどうしようっ……
別に見られて困ることもないのだが、何せ思春期真っ只中の少女にはそれはとても恥ずかしいことに思えた
狭い道を車が正面から走ってくることにも気づけない少女は、水溜りを踏む大きな音にハッと顔を上げた
トンとぶつかった肩に少女の心境は、たった今跳ね上げられた水溜りの様に荒立った
庇われたらしい
それを理解するので一杯一杯で、彼の胸板に耳を当てている様な状態なのに聞こえてくるのは少女自身の心臓の音だけで、やけに煩く感じて耳を塞いでしまいたかった
「あ、あの! ありがとうございますっ」
慌てて距離を取った少女に、彼は相変わらずの笑顔で答えたが少しだけ寂しそうに見えた
ようやく家の前について、少女は安堵の溜息を吐いた
別に苦痛だったわけではない
思ったより時間がかかった様な気がして疲れたとも感じるし、思ったよりも早く着いてしまって残念な様な気もしていた
「あ、あの。本当にありがとうございました。ここで大丈夫ですので……」
この時初めて少女は彼の残念そうな顔を見た
そんな顔をされたら少女の方まで離れ難くなってしまう
なぜだろう。少女はこの感覚に覚えがある様な気がして、どうしようもなく胸が騒いだ
「あ、あの。よかったらお茶でも……」
彼は首を横に振る
「じゃ、じゃあ。せめて、名前だけでも……
この辺りに住んでますか? また、会えますか……?」
彼は何かを堪える様に傘と一緒に俯いてしまう
そこで少女は少し首をかしげた
今まで傘の内側にいたので気がつかなかったが、彼が持つ傘は男性が持つにしては随分……――
その考えがまとまる前に彼が顔を上げたので、少女の思考は完全にストップした
それは短い今までの中で、一番優しい笑顔だった
彼の唇がゆっくりと開く
「支子」
支子は思わず肩を震わせて硬直してしまった
何故ならその声は少女の背後から聞こえてきた上に、男性のものではない聞き慣れた女性の声だったからだ
慌てて振り返れば玄関のドアを開けて母が立っていた
「お母さん!? 今日は遅いんじゃ……」
「少し早く上がれてね。さっき帰ってきたのよ」
「そ、そうなんだ……」
「それよりあんた、傘持って行かなかったでしょ? 迎えに行こうかと思ってたのよ
どうやって帰ってきたの?」
「あ、それが……」
すっかり蚊帳の外にしてしまった男性のことを思い出し、支子は玄関を振り返ったのだがそこには誰の姿もなかった
ただ一つ、傘が開いたまま落ちている
浅緑色の布地にレースの刺繍で白い花が描かれている
それを拾い上げた支子はやはり何かが胸をつっかえたのだが、その答えに先に行き着いたのは母の方だった
「あら、その傘懐かしい」
「え?」
「覚えてない? あんた学校で置き引きされたって泣いて帰ってきたのよ
同じ傘を探していろんなお店に行ったけど見つからなくてねぇ」
支子はポロリと何かつっかえていたものが落ちた様な感覚だった
思い出した。母には置き引きされたと言ったけれど、本当は当時いじめられていた子達に隠されたのだ
すごく気に入っていた傘だったから雨の中を必死に探したけれど見つからなかった
新しい傘を探したけれど、あの傘以上に気に入るものが見つからなくて、しばらくは母のを借りて雨を凌いでいたくらい
―― どうして忘れていたのだろう……
きっと今。あの時のことを思い出しても苦しくならないくらい、幸せだからだ
あの時は一人で、両親にも先生にも言えなくて、辛くて悲しくて。変なことかもしれないけど、あの時私と一緒に居てくれたのはあの傘だけだった
晴れの日も雨の日も必ず学校に持って行った
あの傘が無くなった時、自分の半身を失った様な気分だった
そういえば、今の大親友は雨の日に出会ったのだ
あの日は本当に傘を置き引きされて困っていた支子に、彼女が傘を差し出してくれた
「また、会えるかなぁ……」
母が不思議そうにしている
支子は色々話したいことを飲み込んで、必要最低限の言葉を返した
「ここまで送ってくれた人」
「あら、じゃあその傘その人の?」
「うん」
「そう。じゃあ今度会えたら返さなきゃね」
「うん……」
家の中に入っていく母の背中を確認して、支子はもう一度だけ外を振り返った
雨はまだ降っている
―― あの人は、無事に帰れただろうか
―― 雨に濡れてしまっていないだろうか
「支子ー。早く入んなさい」
「はーい」
玄関の扉を閉めるとき、もう一度だけ外に彼の姿を探した
どんどん細くなる外の景色に、ヒラヒラと蝶の様な白い何かが飛んでいた気がしたけれど気のせいだろう
雨の日に蝶は飛べないらしい
閉まったドアに今度こそ背を向けて、支子は玄関隅の傘立てにその傘を立てた
「……あ」
そうだ。彼が最初に口にした音なき言葉は
私の名ではなかっただろうかと ――
※※※
ヒラヒラ、フラフラと頼りなく雨の中を飛ぶ白いそれは、覚束ないながらも強い意志を持った様に進んで行く
やがて静かに舞い降りたそこは、枝の様な指先だった
「おかえり」
どこか間延びした声に僅かな笑みを含んで、男はその蝶に話しかけた
「じゃあ、約束だから」
そう言うと指先の蝶の羽をもう一方の手で摘み上げる
そのまま傍の少女の前に持っていった
少女は誰に言われるでもなく、目の前にそれが来ると大きく口を開けた
―― ぱくり
無表情に口を動かす少女を横目に見ていた男は、しばらくその様子を眺めていたが、やがて飽きた様に外の雨に視線を戻した
だいぶ弱くなってきた雨を見上げ、一つ溜息をこぼす
「そろそろ行こうか」
少女は返事の代わりに喉を一回上下させて立ち上がった
傍の子供用の黄色い傘をポンと開く
最近のこの子のお気に入りなのだ
「艸ちゃんもそろそろボクの傘を見つけた頃でしょ
お嬢に捕まる前に回収してトンズラしますか……」
誰に告げるわけでもなくこぼした言葉は、この雨よりも無意味に落ちて消えていった
雨の止んだ空に二つの円が開く
男の口元に浮かんだ笑みは、濃緋色の蛇腹傘に隠されて見えなくなった
花たちが咲うとき 番外編 三
※pixivではイラストつきで掲載しています。よろしければそちらもどうぞ※
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