奇夢の欠片
ジェラディエンの蜜
柔らかくも濃厚な味わい。芳醇な薫りが鼻腔と口のなかに広がり、それらが体の隅々にまで悦ばせうるにふさわしい……。
それが世界三代ブルーチーズの一つである。古くは中世から伝統のあるそのチーズは、いくつかのチーズ職人が集まり造られはじめたものである。
昼の光りにテラスは照らされ、石のテーブルにも影を落とす。
飾られた純白のカサブランカ、赤ワインのグラスやボトル、バケットのパン、新鮮な果物に、豆スープのボウル、ラム肉のソテー、そして銀ポットの上のブルーチーズ。緑の草地は白樺の先の草原にまで続き、風が吹き抜ける。向こうにいる羊の放牧地となっている。
アドニー・マーチンの休日のこのひとときが一番に心を落ち着かせる瞬間である。妻はヴィーガンで、魚・肉を口にしない完全なるベジタリアンだ。チーズも肉も食べないのでマーチンはこの時間をたった一人で過すのだった。その関係で妻はミルクの入ったチョコレートも食べず、純度の高い苦いチョコレートを好み、それによく合う赤ワインで昼下がりを過すのだった。
「マーチンさん」
彼は開け放たれた扉窓から呼ばれて振り返った。
「ああ、来たか」
向こうの屋敷の青年、トリマンが微笑んでやってきて、握手を交わした。
「君も食べるかい」
「あいにく昼は済ませてきましたので」
「チーズだけでもどうかな」
トリマンは肩をすくめ微笑んだだけだったので、マーチンも笑顔で肩をすくめてから、またパンにチーズを塗って口に放り、その味わいが舌に広がる内に赤ワインを傾けた。
「ああ。最高だ」
ラム肉を続けて食べ、トリマンを見る。
「それで、今日はどうしたんだい」
「ええ。実はマーチンさんに紹介したいものをお持ちしたんです。是非ともご賞味いただきたくてね」
トリマンは小さな壷をテーブルに置いた。
「それは?」
「はい。これはね……」
その蓋を開けると、マーチンに見せた。
「蜂蜜ですよ」
「おお、蜂蜜か! それは丁度いい。ブルーチーズと共にパンにつけられるじゃないか」
トリマンは微笑んだまま頷いた。
「まずは蜂蜜だけで頂いてみようかな」
「ええ。どうぞ」
壷についているスプーンでそれを掬い、パンにつけて口に運んだ。
「ああ、これはなんと薫り高いことか」
多少硬質な蜂蜜は、色も深い琥珀である。味も舌に刺激を与えるほどの甘さと薫りで、言うに言われぬものだ。口の中から鼻に抜ける薫りさえも全て逃さずに体の中へ戻し留めたいというのに、それは感嘆のため息とともにどうしても漏れてしまうのだ。
「蜂蜜だから白ワインでも合いそうだと思ったが、この濃厚さは赤のワインこそが合う」
「ええ」
「サミールにも味あわせてやりたいが、彼女はやはりヴィーガンだからね。蜜蜂の栄養を奪い取っているからと可哀想に思い蜂蜜を口にしない。私だけが味わうのも申し訳ない気がするが」
「彼女には美しい花をお持ちしたので」
「それは喜ぶことだろう。彼女は花が好きだからな。この美しいカサブランカも君が持ってきてくれた花だったね」
「ええ」
「美しいものだ」
マーチンはその花びらを愛で、パンに濃厚な蜂蜜を滴らせた。
あまりに美味しいので、パンを全て蜂蜜をつけて食べていた。
「ああ、これはいいものを頂いた。この蜂蜜は一体どこの? 秘蔵物なのではないのかい。今まで見たことが無い、味わったことの無いものだよ」
「<ジェラディエンの蜜>――それが、この蜂蜜の名称です」
トリマンが妖しく微笑んだままに、ふらりとテーブルに倒れたマーチンを見た。
マーチンは意識が揺らぐ内に、感覚があっちに、こっちに、まるで乱反射する光りのように飛び回った。
子供の頃に持ち出した綺麗なスプーンに太陽の光りを当てて、あっちにこっちに光りを跳ね返したことを思い出す。それは巨木にあいた穴のなか落ち葉の上で寝転がって、小さく開いた穴から差し込む太陽に、木の内部の暗い壁に光りを走らせて遊んでいた少年時代。時に白く丸い光りの絵は、その端に赤や青の彩りを縁取ったものだ。
マーチンは、そんな光りになった感覚で暗がりを流れているようだった。その視線の先、空間にはまるでランプがそこかしこに浮いているかのように、点々と灯っている。それに目を凝らすと、一気に体が引き寄せられてそのランプのなかの一つへと近付いていくのだ。近付くごとに、それはランプのような小さなものなどでは無く、どんどんと巨大になっていく暖色に照らされる大理石の扉なのだと知った。闇に浮かぶその扉は、近寄りがたいものを与えるというのに否応がなしに導かれ、そして両扉のレリーフさえもはっきりとしてくる。それが、険しい顔をした悪魔のレリーフなのだと。それがまるでマーチンを食おうと口を開け耳を劈く咆哮と共に牙を剝き、マーチンは叫んで腕で庇った。
どさっと地面に落ち、マーチンは荒く息を上げながら汗だくになって見回した。そこは暗がりで、そして、眉間を険しく寄せるととある方向を見た。闇に咲くのは、純白のカサブランカだった。それに近づいて行き、自然に鼻を近づけると薫りが包み込むようだった。満足げにマーチンは目を開いた。
「!」
だが、途端にそのカサブランカの生えるすぐ地面を見て短く叫び、後ずさった。それは、花の茎を囲うように横たわる死体だった。美しい少女の……。
マーチンは目を見開き、白く浮かぶ死体と、純白のカサブランカの花を見た。
「あ、あ……、」
あの記憶が蘇る。馬車で向かった先だった。一人でいた時だった。妻はその時旅行に出ていた。馬車は林を抜け、眩しい光りをダイヤの粒がネックレスになったように輝く湖の横に差し掛かった。その時に、目を奪う光景があったのだ。
それは、美しい乙女。白い肌に、長い金髪。くびれた腰元と肉付きのいい太もも。齢は二十歳前後だろうか、その少女が長い髪を、水を両手で跳ねさせていた。何もまとわないその若々しい美しさが心を掴んだ。まるで、湖水の妖精のままの姿。
マーチンは馬車を停めさせていた。そして、林道から茂みと木々を越え、湖へ来た。乙女は驚き髪で体を隠し、マーチンを見た。
マーチンは手首を掴み、そして逃げようとした少女は暴れ、マーチンが湖に入り水飛沫が激しく上がった。
気付くと、湖面に金髪を広げ、虚ろな瞳の乙女が天を見ていた。マーチンは動揺して自分のしたことに慌て、湖面から引き上げた。
「おい、君」
頬を叩いても、柔らかな胸部に耳を押し付けても、口許に耳を近づけても静かな骸となっていた。
マーチンは首をふるふる力なく振って、足をもつれさせてその場に崩れ座った。
馬車の御者が現われると、驚いて息が止まりそうになった。マーチンは御者を見て、立ち上がってそこまで行った。その後は、少女はそのまま湖に沈められた。
悪魔のようなことをしでかしたマーチンは、それでからは夢に現われるその少女の虚ろな瞳をかき消したいがためにいろいろと調べるようになった。すると、夢を見られるチーズというのを見つけた。それを食べて眠ると、夢を見られるというのだ。マーチンはそれにすがるようになっていた。少女の夢をみないようになるのなら、と、それを食べ続けた。そして一年が経っていた。寝る前だけでは無く、昼にも食べるようになっていた。まどろみの転寝にも少女の瞳は現われなくなった。
マーチンは、そんな過去の罪が夢となって蘇ったので、カサブランカの前に膝を付いて崩れた。腕を抱えて地面に額をつける。逆さのこめかみから嫌な汗がにじんで落ちる――。
マーチンはざっざっという音と共に目を覚ました。
「………?」
湿った土の匂いがする。柔らかい場所に転がっているようだった。動かない。
彼は目を開け、辺りを見回すと夜だった。
そして、辺りは暗がりに浮かぶ、純白のカサブランカのたくさん植え込まれた場所だったのだ。
「ここ、は……」
マーチンはびくっとして、すぐそこの青年を見た。青年、トリマンは白いシャツの腕をまくり、スコップで土を掘っている。
「トリマン」
ずっと掘り続けていたが、トリマンは無表情でマーチンを見た。その周りに、蜜蜂が飛んでいる。カサブランカにも停まり、脚に黄色い花粉をつけ飛んでいる。
「ここは」
トリマンは何も言わず、再び掘り始めた。
大きな穴が空くと、逃げられない手枷と足枷のマーチンの所まで来ると、彼を引っ張って行った。手枷と足枷も腰の辺りで鎖で拘束されていた。
「一体、」
トリマンは無言のまま穴にマーチンを落とした。マーチンは穴のなかの横を見て、叫んだ。白骨がそこにはあり、穴の周りは茎だとかが土に縦に植えられ、その骨の肋骨には球根と根が絡まっていたのだ。
マーチンが声も出せずにいるままに、土が上から降ってくる。
「トリマン、」
「僕らは幸せだったんです」
ざっざっと、どんどん土が入ってくる。穴の淵に、トリマンと、そしてカサブランカが闇に純白に浮かんで囲っている。
「プロポーズしたのも、あの湖だった。初めてキスをしたのも。そして……死体を発見した湖も」
マーチンは動けないままに暴れていたのを、動きを止めた。白骨はすでにマーチンが落ちたときに位置が崩れた。
トリマンはスコップを一度立て、微笑んだ。口元だけが。そしてマーチンに言った。
「僕の憎しみと、彼女の無念と血で育った花は美しいでしょう。のうのうと味わう死の花の蜂蜜は、美味しかったですか」
マーチンは声を失ったようにトリマンをただただ見上げた。
穴にトリマンは何かを投げつけた。それは、マーチンの紋章の入ったカフスだった。あの時、湖畔に落としたものだ。
トリマンがざっざっと土をかぶせていく。全てが埋まっていく。マーチンが見えなくなって行った。
トリマンはその埋まった場所を見て、そして球根を植え始めた。蜜蜂が飛び交う。カサブランカが、乱暴なほどに薫る……。
カサブランカの化身のように、トリマンの横に乙女の姿が浮かんでは微笑み消えていった。
雨霧に薫り充ちて
時期はずれなのに、横なぶる雨が全身に打ちつける荒れた天候の道すがら、灰色に霧けぶる先にぼんやりと灯りを見つけた。
目をすぼめてみると、そこにあるのは大きな佇まいの屋形の影。そこに提灯か行灯が灯っていたのである。
「雨宿りをさせてはもらえぬだろうか」
男は薬箱を背負い、村から村に渡り歩く薬屋である。笠も蓑も酷く濡れ、既に脚絆にまで雨は染み込んでいた。肩から降りる長い髪もまるで雨樋のような役目になっている。
眼球や瞼を叩く激しい雨に視界が役に立たなくなりそうだったので、これ以上はたまらないと思い、男は水を跳ねさせ急いで灯りの灯る軒下まで走る。
近付くにつれ、その屋形の屋根が随分深く作りこまれ、上下を縄で固定された行灯が雨風に晒されないようになっていたと分かった。
「これはありがたい」
男は一度、手を合わせ拝んで感謝し、雨宿りをさせてもらうことにした。
雨に屋根がまるで大鼓のような音を立てるが、その低い音こそが屋根の丈夫さを物語り、男を一安心させる。
雨に煙る一帯は木々の黒い影が不気味に揺れ、今は濃い霧に埋もれて遠くの山々は見えない。ここまで届く風が頬をなおもなぶる。これは一晩中降り続きそうだ。
男は軒下を見回すことにした。随分と立派なもので、良く見れば観音扉が閂で閉ざされた門扉だと気付く。そして、行灯の反対側の扉横には飾りが吊るされていた。
「ああ、ここは酒蔵か」
それは酒の仕上がった時期に店先に出される丸い茶色の飾りで、名前は男には分からない。
「はて、しかし、今の時期に挙げられる飾りだろうか?」
男は小首を傾げ、それをしばらくは見ていた。
「お客様だろうか」
男は振り返った。そこには二十五は行くだろう妙齢の美しい女がいた。この雨音に気配がかき消されていたのだろう、男は咳払いをした。
女の垂れ髪や着物も湿ってはおらず、番傘を今しがた開こうとする仕草も、紅を挿した唇も、この景色に華を添えて色香がある。
「このお屋形の奥方でございますか。この天候に、雨宿りを拝借いたしまして」
女はしばらく男を見上げていたが、開きかけの傘を戻し行灯横の小さな木扉に促した。
「さあ、お体も冷えましょう。屋形のなかで過されなさい。雨に濡れて悪い風に当たれば酷かろう」
どこか掠れた癖を持つ女の声が雨音と共に、男の耳には自棄にしっくりと響く。
扉が開けられ、女に続き男も背を低く潜り抜けた。すると、屋根のある通路が庭を左右に構えて屋敷まで続いている。右肩の庭の奥には、蔵のようなものが霞んで見える。
「ここは酒蔵なのですか」
女の白皙の頬が一瞬、花のようにほころんだ。共に、その瞳も光りを宿す。
「冷えた体にはうちの酒がよく合いましょうね」
女の背を見ながら通路を行く。鮮やかに染め抜かれた友禅の背に、品のある帯。そして風にそよとするのみの黒の御髪。つい惹き付けられるものだ。自身が柘植櫛屋ならば、よろこんで女の髪を梳きたがったのではないだろうか。
庭の池はだばだばと激しい雨を打ちつけ、鯉や亀などは居るのかも不明だ。
座敷へ招かれると、そこには女によく似た女が他に五名ほど。しんなりとした仕草で並び座ると、畳に額をつけ男を出迎えた。
「いらっしゃいまし」
「さあさあ、こちらを一杯どうぞ」
酒が杯に注がれ、鼻腔をす、と通る甘ったるく重みのある薫り。そして、透明なその色味はなかなかの美酒の予感だ。
男が微笑み、「では、お言葉に甘えさせていただきます」と杯を傾けた。それは薫りとは反して芯のある喉越しで、いくらでもいけそうなものである……。
男はいつのまにか、何杯も、何杯も呷っていた。日本酒の味ではない、とおぼろげに思いながらも。
目を覚ますと、そこは暗がりだった。動こうとするとぎしぎしと音が鳴り、腕と胸部が痛い。足もつかない。
「何」
見下ろすと、そこは巨大な酒樽が並んだ酒蔵だった。そこの梁から吊るされていたのだ。男は一瞬暴れたが、すぐに無駄と悟り、下手に縄が切れては逆にこの高さは危ないと判断した。
「あれは」
その樽には、酒の材料には見かけたことの無い何か、白い植物が敷き詰められている。この辺りの山で採れる何かだろうか?
気付くと、ここには甘いあの薫りが狂おしいほどに充満していた。あの酒の薫りが。
「!」
そして、発見してしまった。その白い花か何かに埋もれた、細く綺麗な白い足。
ギイイ
男は蔵の出口を見た。蝋燭を持った女が微笑みやってきて、男を見る。
「さあ、どんな味に仕上がるだろう」
立てかけられた薙刀を女が手にした。
「暴れたらいけないよ。酒に血が混じっちゃ、まずくなるからね」
女が柱の高いところに縛り付けた縄を切ると、男は地面にどさっと落ちた。一度唸ってから目を開け女を見上げた。一気にその胴に突っ込み女は転がり、男は走った。
「お待ち!!」
引き戸を体当たりして破り、蔵から出た。すると、そこは深い霧に包まれていた。方向性を見失い、背後を振り返っても何も分からない。あのむせかえる花の薫りがする。
男はあまりの凶暴な薫りに意識を混濁させ、その場に倒れた。
目覚めた男は、瞼を透かす眩しさに眉根を寄せ、目を開いた。植物がきらきらと光っている。朝露、なのだろう。顔に降りかかる長い黒髪を顔を振りどかし、顔を上げると、朝陽が差し込む花畑だった。
周りは木々に囲まれている。ただただ、白い花が咲き乱れた森のどこか。
「おかしいな」
男は体をしっかり起こし、その森のなかの花畑を見回した。昨夜の雨に着物は依然濡れたまま、縄などには縛られては居なかった。
「何かに化かされたのだろうか……」
朝はまだ、あの狂おしい花は薫らずに、ただただ清廉とした花弁を咲かせてる。太陽の陽を透かしながらも。
だが男は気付かなかった。その白い花畑に紛れて、白骨の足が斜めに埋もれていることは。
花女(はなめ)屋形の女は女主人以外、誰もが違う色の着物を召している。群青、紅、撫子色、黄色、白、萌黄、水色、藤色という風に。
それぞれが、夜花女(よばなめ)、紅花女(くれないはなめ)、撫子花女(なだなめ)、黄花女(おうかめ)、白花女(びゃっかめ)、萌花女(もっかめ)、水花女(すいかめ)、藤花女(ふじかめ)と名づけられている。
「水花女」
酒蔵の桶の白い脚は動かず、白い花弁に埋もれている。既にこの代の白花女は男に飛び出され、失敗に終わってしまう恐れがある。
水色の花の酒樽の上の闇にぼうっと水色の明りが灯る。薫りから生まれたばかりの水花女が象られた。すると、それが乙女となって樽の横に降りたち女主人である鮮やかな着物の夢花女(ゆめはなめ)を見上げた。
「白花女は男に逃げられたけれど、お前はその若さで連れ戻しておいで」
若い水花女は静かに頷き、水色の絹の着物を纏い酒蔵を出た。
霧の晴れたなか、花の薫りを漂わせる水花女は森を歩く。花畑に男が倒れている。まだ目覚めておらず、朝露に濡れている。あれを連れ帰らなければ次の白花女は完成しない。縄になっている花の蔓を解いてやると、いきなり黒い着物の背が動いたので水花女は隠れた。
男が起き上がり、辺りを見回す。妖魔にでも化かされたような顔をしている。それに変わりは無いが。彼女は静かに歩いていく。
男は一瞬驚き、水花女を見た。それは十五ほどの乙女で、空色のような召し物が白い花畑に浮かぶようにいた。きらきらと光る花弁に飾られて、その柔らかな頬までも瑞々しい。
「ここはどこかねえ」
水花女は辺りを見回し言い、男の前までやってきた。
「迷子かい」
「ここがどこか分からないの」
男は乙女から森を見回した。男にもこの花畑は初めての場所だが、ここを抜けてもとの村へ戻れば場所は分かる。どこから来たのだろうかと探りを入れることにした。
「お嬢ちゃんは何て言うのだい」
「あたし、あたしはお花」
「お花ちゃんかい。俺は千薬屋功之助というものだ。お前さん、見たところ旅の者ではないな」
水花女は頷き、功之助は今になって、商売道具である薬箱をあのあやかしの屋形に置いてきたことに気がついた。最悪笠と蓑は村で手に入れるとしても、困ったことになった。彼はここにあの屋敷があったとばかりに膝をついて何かを探し始めている。
水花女は背を向け、しゃがんで花を摘み始めた。男を振り返ると、参ったという風にうなだれていた。水花女はそこまで行くと、男の耳に花を一輪かけた。薫りが漂い、男は水花女、お花を見上げた。
「ふふ」
水花女は走って行き、男は慌てて追いかける。
あの白骨の足はそのまま、がらりと形を崩して花に隠れた。
森を抜けると川があり、岩伝いに向こうへ行ける。その川を藤色の花弁が流れていったことは男の目には映らなかった。水花女だけはそれを目で追った。岩場で出来た水の溜まった場所でくるくる回っている。川の上流へ向け歩いていく。
高い場所に出ると、眼下に小さな村を見つけた。そこへ向けて降りていくことになった。
姿を変えたあの花女屋形は、だんだんと男が近付いてくるうちにも霧を流れさせ始める。水花女は功之助の着物の裾を掴みつつ霧を歩いた。
「ああ、良かった。一時は霧でどうなるかと思ったが村に着いたらしい」
目の前に現われたのは、壷がたくさん軒下に並んだ家屋だった。軒下には、乾燥した何かが吊るされているのだが霧で影となって何かまでは分からない。しかし、それは水色の花を吊るしたものだった。水花女は走っていき、戸を叩いた。
「道に迷ってしまいました」
戸を叩く。功之助もそこまで来る。
「お入りなされ」
しゃがれた声が聞こえ、水花女は戸を引いた。衝立があり、その向こうに布団が見える。
「このような風で申し訳のうございます。体が悪くてね……」
咳がこほこほと響く。断りを入れ、二人はその家屋へお邪魔した。
「おもてなしも出来ませんで」
「いいえ。お構いなくお願いします」
「この辺りは霧がひどうございますから……」
布団をすっぽり被り、顔が見えない。咳で背が揺れていた。水花女がその横まで行くと、顔を覗き込んだ。それは藤花女だった。手拭いで顔を覆い、背を向けている。
「して、この森に一軒、不可思議なお屋敷がございませんか。酒蔵のある屋敷なのだが」
「酒蔵でございますか……私はこの村から出たことの無いものですから」
「失礼でなければ、あなたのご病状をお聞きできれば、それにあった薬も用意できるかもしれないのだが」
「まあ。薬屋さんですの」
「はい」
藤花女は水花女と視線を合わせた。あの激しい雨で匂いが掻き消えていたのだろう。薬を扱う者の手は薬剤の匂いが染み付いている。となれば、酒に加えるわけにはいかぬではないか。どうしたものか。藤花女は酒宴で見られた顔を見せるわけにもいかずに、項垂れる垂れ髪と手拭いで顔を隠しながらも起き上がった。
「起き上がって大丈夫なのですか」
「ええ、少しなら」
藤花女は白い襦袢の上に黒い羽織を掛けると、袖で顔を覆いゆらりと立ち上がった。
閉ざされたはずの戸のある男の背後から、霧がじわじわと流れ込んでくる。功之助は気付かずに見上げていたが、ひんやりとしてふと背後を振り返った。
「……霧」
その途端、功之助は動けなくなってしまった。視線だけで動かなくなった手足を見る。すると、その手首や足首に頑丈な藤の蔓枝が絡まっている。
「なんだと」
搾り出した声で言うと、頬に何かがふわっと触れた。視線を横に向けると、それは藤の花房だった。甘い薫りが漂う。いつの間にか、そこかしこに高低の藤の花が咲き乱れ、囲っている。霧の流れいずる間に間に。その霧に乗せて花が薫った。
「薬屋ならば……逆に役に立つやもしれませぬ」
女の声に首をぎこちなく動かすと、そこにはあの美しい女の一人が立っていた。垂れ髪を肩に垂らし、あの藤色の着物の裾を長引かせ、足元まで長い黒い羽織を羽織り。彼女が足袋の足で歩いてくると、藤の花房は風を含んだように揺れ動くので、まるで彼女自身が蝶のようである。藤の花房の向こうにお花が見え隠れし、あの鮮やかな水色の着物姿で螺旋を描く藤の幹に座っては花房を見上げ指を沿え愛でていた。ああ、あの水色は……確かに、女のなかにいた着物だ。お花、水花女が微笑し功之助を見て、藤の花房が揺れ飾る。
いつの間にやら、この場所はあの村の家屋ではない、屋形に変わっていた。
瞬きをした功之助は、ずらりと並び座る女を見た。皆、静かに畳に額をつけている。
「せんやくやこうのすけ殿にお頼みもうしたい事がございます」
「な、なんだ」
あの一番初めに屋敷に招きいれ、酒蔵で功之助を酒漬けにしようとした美女が顔を上げ、功之助を見た。
「我々は花の薫りの妖女にございます。半人半花であるために、抽出された薫りから生まれる我々は交配とあらば花の力だけでは無いのです。もしも果たせぬのであればその年の花女は死してしまう。花畑の白骨のように朽ちてしまうだけ」
「白骨……? あの樽の白い足はまさか」
「あれは二年前の花女の姿。今年こそは生まなければならないのです。白花女は三年花なのです。しかし、男がそう簡単に近付くことはない。旅人を霧に迷わせる他は無いがそれもあなたのように逃げられるのでは」
「殺されるんじゃ逃げて当然だ」
「……はい?」
花女は驚き皆顔を見合わせ、小首を傾げて功之助を見た。
「我々は殺しはいたしません。花との交配も済めば。花は確かに交配の後は枯れるものですが、我々は半人半花であり、完全な花ではないのです。死ぬことなどは無いのです」
「だが、なぜ逃げる」
「なかには、中毒になる花もございますから……その噂からなのでしょう。男は女に狂い、正気を失う。そして一年咲きの花女に惚れた男は一年後に愛を失い、絶望し自らが命を絶つのです。あなたは知らぬと見えますが、妖花女の話は辺りの村では知られたこと」
功之助はその話を聴き、いずれ霧のように薫りとともに消えてしまうらしい花女を見た。誰もが儚げな美貌や、芯の通った顔立ちをしている。それでは、多年草の百合は長く居続けるのだろうか? お花は、お花は何年居るというのだろうか。可憐な顔立ちを見つめ、功之助は悲しくなって一度瞼を閉ざした。
「では、何をしろと?」
「男方に中毒となる花の解毒薬を煎じてもらいたく思うのです。我らはその花であり、自らの薬効しか持ってはおりません」
「なるほど」
功之助は唸り、水花女が持ってきたものを見た。それは功之助の薬箱だった。
「よく村の者が襲ってこないな」
「我々の作る花酒があるからです。我々の生きるための手段であり、村のものはこぞって花酒を愛するのですから」
「それでは、まずは中毒性のある花から教えていただかなければなるまい。白の花は、早急に必要なのか」
「はい」
功之助は初めて見たあの花を出した。それはお花が耳に挿したもので、袂に入れたものだ。
「その花には根っこに中毒性があるのです。もしもあなたにそれに揺るがぬ精神がおありなら」
あの甘い薫りに巻かれ、そして美酒にも酔ったのだ。あの白い脚。魅惑の。それは脳裏にありありと浮かんだ。惑わされぬ自信などは無かった。だが解毒剤を作るなど簡単に出来るはずが無い。
「花に詳しい者……」
考えあぐね、記憶を探る。功之助とは違う専門の薬剤に詳しい男の顔が、浮かんだ。
「一人、花に詳しい者を知っている。一度都に戻れば連れて来れる」
女が首をゆっくりと横に振った。
「こちらへはお帰りにならないおつもりでしょう」
功之助は花女一人一人の目を見た。誰もが功之助を見ている。唇を閉ざして。静かにただ、見つめている。
「心配するでない。必ずや、連れ帰ってくる」
花女は皆、その言葉に深く畳に額を着けた。その姿はまるで、花がこうべを垂れる姿のようで。
白い……
モノトーンの無機質な部屋は、感受の全てを平坦なものから底はかとなく低くさせるかのようだった。
寒々しいコンクリートの打ち離しの壁に、錆びた釘が射された杭に、黒い束の糸がまるで幾何学な図形を描くように掛けられ、まるで水墨画か習字で書かれた流麗な文字のようだ。
その糸に、細い銀の鎖で所々に蝶のオブジェやアルミの星が吊るされ、壁と床の間際には少女が一人、崩れ横たわっていた。まるで生まれたての山羊のように脚を放り投げ、手の甲に頬を乗せているが、白いボブヘアの髪で目元は隠れて見えない。白い唇も、純白の肌も、何もかもが色素の抜けた少女は呼吸だけは深かった。
その身体に寄り添うように、何かが丸まっていた。それは動いて、顔を上げると白の飼いウサギだった。赤い目であたりを見ると、ピンク色の鼻をひくつかせてから跳ねて少女の口元まで来る。匂いをかいでいる。しばらくして、少女はごろんと身体を上に寝返ると、微かにあけられた唇から青い花弁が見えた。それは少女がこほっと咳き込むと、青の生花が唇から溢れ出してウサギは首をかしげて見上げている。
白い睫毛が髪から漏れて、そして薄い瞼があけられると同じような赤い目が光った。彼女の透き通る赤い目と、鮮やかな青の花弁は白い肌と髪を彩り、そしてツッとこめかみまで涙が流れた。
また目を閉じ、顔が傾くと目元が隠れ、漏れていた花弁は止んだ。
黒い糸に飾られる下には白と青。それが彩って、今だただウサギが跳ねている。
その壁と反対側には、天井から純白の繭が張られていた。巨大な繭は鼓動をしている。ゆっくり、収縮を繰り返す。そして、まるで蚕のように楕円の丸だ。だがそれが少女には蚕の繭なのかは分からなかった。少女も一週間前に生れ落ちたばかりで、前の記憶は無かったのだから。ただただこの空間の高いドーム天井から吊る下がる巨大な金の鳥篭のなかで目覚めた少女は、その鳥篭から出て、はしごを伝って下まで来ると、左右にある林檎かオレンジの実だけを食べて生きている。ドーム天井とコンクリートの壁間際の白い蛍光灯が明りの根源以外では、朝も夜も分からない。
少女は、ぴきぴきという音に目をひらいた。
「………」
白い手腕を立てて、繭を見る。その巨大な繭が、動いた。
「ああ、生まれるのだわ」
少女はつぶやき、繭は内側から破れ始めた。
長い時間をかけて、なんとも純白の巨大な蛾が這い出て、大きな黒い瞳でどこかを見る。それはやはり蚕だった。蚕は、少女に気付くことも無くその場に停まっていた。
何故蚕のことは知っているのだろうか? 少女は自分で不思議に思い、立ち上がると蚕の所まで歩いて行った。そして見上げると、今までドーム天井で上から鳥篭がぶら下がっていたはずの所は桑の葉が生い茂っていた。それはどんどんと生い茂って蚕のところまで来て、林檎とオレンジの木にも覆いかぶさる。その樹木の下に生えていた柔らかな草をウサギはいつの間にか食べに行っていた。
蚕が桑を食べ始めた。少女はただただ見上げていた。ふと、気付くとお腹をさすっていた。視線を落とすと、腹部だけが硝子張りになっている。まるで人形だったかのように、腹部は透けて、手を当てた背中も硝子張りで、そしてただ丸硝子の嵌るお腹には青い花弁が詰まっているのだ。
口をあけると、再び青い花弁が薫りをともなってあふれて床に舞い落ちる。白い足元に、青い花弁が舞い落ちる。
「ああ、そうだ。私は……」
彼女は顔を上げて桑の天井を見た。その桑の天井には蚕が乗り、むしゃむしゃと可愛い顔をしてお食事をする。その桑の葉の間からゆっくりと鎖で大きな鳥篭が下りてきて、少女の目の前で扉がひらいた。
少女はそのなかに入り、そして床に丸くなって目を閉じる。すると、少女の背中から見える丸硝子は、内側で青い花弁が渦巻いて、その中心に宇宙銀河が巡る。宇宙に青い花弁が回り、彼女の身体を青い花の薫りで包む。安らかな眠りへ誘うように。鳥篭の格子先には純白の巨大な蚕蛾。むしゃむしゃ、むしゃむしゃ葉を食べ続けて、少女は眠りの淵に。
次第に、四方の壁は消えて行きその先に宇宙が広がる。空間が回る。蚕は食べる。林檎とオレンジの木は育ち、ウサギは草を食む。少女は眠り、宇宙に回転する。くるくる、くるくる。
目を覚ますと鳥篭の床に金の螺旋階段があった。少女は見上げ、昇っていく。鳥篭の格子は次第に螺旋階段を囲う格子になり、宇宙をどんどん昇って行く。
星に包まれて、宇宙は闇では無い。
螺旋階段の先に、月が到着地点のようだった。その月に近付くごとに月の白銀の粒子の砂まで手に取るように細やかに、そして宇宙の風にでも舞っているかのようだった。月に到着した少女は、そこに佇む女性を見た。それは、月の女神だろうか。ただただ静かな青い瞳をして、月の色の白い長い髪が床に、宇宙に棚引いている。彼女はとても背が高く、銀の月の飾りが天辺についたスティックを構え、白い薄手の長衣を纏い、胸元に大きな銀の装飾板を下げている。それには鏡が嵌り、少女を映していた。
少女はその女神の胸元の鏡を見ていた。少女の背には、青い鳥の羽根が生えていた。腹部はすでに元の通りの肌に戻っていた。青い鳥の羽根は小さく、そしてあたたかかった。その背後には宇宙の星が広がっている。
少女は美しい女神を見上げた。女神はスティックを掲げ、そして両手で回転させた。月が廻り影が激しく走り少女に眠気を及ぼさせてくる。
どこからか、クリスタルの音色が響く。とても心地の良い旋律に、少女は微笑んで眠りに誘われる。
柔らかな感触に目を覚まし、純白のペガサスに乗っているのだと気付く。ペガサスは宇宙を滑空し、螺旋階段の周りを旋回しながら地上へと戻っていき蚕のいる場所へと舞い戻り、床に少女をそっと降ろした。
少女は手を振り、ペガサスは優しい目元で少女を見ると、羽根を広げて再び宇宙へと飛び立った。遠くに、月が見える。そして、ふと見下ろすと少女の足元には青い花が咲き乱れていた。それは風に花弁が舞って、宇宙の星を彩る。ペガサスは心地よさ気に舞い飛んでいる。
少女は小さな背中の青い羽根を動かし、ずっとはばたくペガサスを見ていた。
奇夢の欠片