リタ(仮題)
一章 「僕らの潔白はまだ終わっていない」前編
疎らな拍手のような雨が続く。室内に吹き込む湿気った風の黴臭さにゴドーは不愉快そうに鼻を擦る。
無遠慮に屋根や窓を叩く風雨に、ルイスは両親の面影を見ていた。過剰な干渉や叱咤は彼には日常だった。
小高い丘に建てられた木造アパートの自室からは、街の隅々までを見渡す事が出来、中でも街の北側にある大きな駅の外観が、ルイスは好きだった。黒緑の鉄の骨組みに被さる黄白色の屋根の下に、赤や青の列車が敷き詰められるように停車している。沿線には花畑のような黄色や緑の線が伸び、それもひとつの車両に見える。その色の編成に子供の頃に遊んだ玩具の木琴を思い出した。
日焼けし、傷んだ紙のにおいが、ルイスの鼻先を掠めた。見ると、机の上に開かれた分厚い単行本の頁を、濡れた風が、盗人の手付きのように静かに捲り上げている。頁の所々に茶色い染みが出来、それは恐らく父の指紋だった。物語が展開する程、指紋は濃く残っている。
ルイスは机に収まる椅子を引き出し、座面に盛り上がる湿った土を掬い、机に置いた植木鉢の中へ落としていく。鉢は、表面の微かな凹凸に室内の冷気を溜め、その締まった空気が、土を柔く受け止める。掌に残る細かな土も払って入れる。ルイスの指紋が薄く浮き出ている。
部屋は先程よりずっと暗さを増していた。風船のように、時間経過で膨らむ暗がりが蔓延っていく。電気の供給が停止している為、室内の明度は天候に左右される。この雨では生憎だ。空の電球は埃を被り、その無数の塵の中に黒い虫が密集して死んでいる。ルイスはそれを拭き取る事はしない。
「ウスユキソウだね」
ゴドーの声は殺風景な室内に幾分、過度に反響した。生活感の失せた部屋全体が、彼の声を澱みなく広げる事に努める意志を持ったように感じられた。彼の視線と言葉は、ルイスの手に取ったグラスの中で、凛と音を鳴らして咲いた花に向けられている。ルイスはこの花が既に名前のある花だとは考えていなかった。
ゴドーは僅かに口角を上げた。不意に怯んだルイスへの如何にもな配慮だった。彼は幼い顔付きだが、年寄りのように知識が豊富だった。出会ってまだ数日だが、ルイスは彼を旧い友人のように感じていた。
「ごめん、もうすぐだから」
ルイスは鉢の土を窪ませ、真っ直ぐに水から上げた花を、出来る限り丁寧に優しく穴へと下ろした。根に土を被せている時、両親との記憶が間断なく押し寄せた。それは二人の走馬灯であるのだろう、とルイスが確信したのは、自分の知らない記憶が彩度を持って流れ出したからだった。ルイスは二人に、具合はどう、と尋ねたが 何の返答もなく、ひとつの鉢に収まり、時折、風に揺れるだけだった。
ゴドーは取っ手に手を掛けた。グッと下へと抑え込み、身体を押し当てながら扉を開ける。雲は先程よりは速く流れてはいくが、風雨は未だ続きそうだ。振り向くとルイスも背後を覗いている。彼の視線の先には、両親がいる。机の上の鉢に行儀良く収まり、既に部屋の風景に馴染み出している。当然と言えば、当然だが。
ゴドーはまた口元を緩める。
「大丈夫だ。君のした事はとても正しい。二人はここで何にも侵される事なくいられる筈だ。だって――」
ルイスは振り向かない。だがゴドーの声の一切は風雨に攫われず、自分の中へ落ちている。
「――だって、命は二度、死ぬ事はないから。まるで生き続けるように、ずっと居るよ」
ゴドーはゆっくり扉を閉めた。二人の頬に生温い風と細かな雨粒が当たる。木々の葉擦れ音と耳元で唸る風が交差し、自然の喝采に聞こえる。太陽は曇天の向うで僅かに存在を仄めかすだけで、今日は恐らく見られないだろう。
「酷いな」とゴドーは横切る雨粒の鋭さを見て、言う。真っ直ぐに打たれる釘のように、彼は酷いものを酷いと言う。嵐もたじろぐようだった。ルイスの胸中には、室内の天井や壁に染み入った思い出が、帰路のように流れ込んでいた。此処にはルイスと両親以外に誰もいなかった。
「そうかな」とルイスは生返事をした。
ゴドーはゆっくり扉を閉める。風雨に背を押され、二人は煽られながら階段を降りていく。
ルイスはアパートの外壁が白い事を初めて知った。
リタ(仮題)