少女

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第一章 千鶴と小夜

 学び舎の日本庭園。千鶴は芝生に膝を付き、白磁に青い絵付けのされた睡蓮鉢に手を当てた。
 鋭く白い睡蓮の花びらの下に、赤い金魚が泳いでいる。
 丁寧なセーラー服のプリーツスカートから伸びる白い腿に、芝生から蟻が登って皮膚をくすぐるが、その瞳は金魚の動きにとらわれていた。
 千鶴の切り揃えられた前髪から覗く瞳は水面に反射する陽に跳ね返り、眩そうに細められている。おかっぱが輪郭を囲う頬はほんのりと紅く、唇などは血みたように光っていた。日を浴びてもなお白く眩しい項からは、制服に焚き染めたお香が薫る。
 この金魚は一生この鉢のなかで、柔らかな緑の藻に包まれ、そして睡蓮の茎や葉の下に隠れながら生きるのだ。見上げる水面の先の、青い空を透かすあの松葉の庇のもと。
 時々、天を小鳥が横切り鳴き声を響かせて、この小さな鉢の際にも反響することだろう。雨の日には雫が睡蓮の花びらや葉を鼓に打たせ、雨が止み水面が凪ぎを見せるまでは鉢の奥に潜んでいる金魚。
 千鶴は髪を耳に掛け、セーラーの袖を捲り上げ、病的なほど真っ白な腕を伸ばした。
「千鶴ちゃん、金魚を見ているの?」
 学友がやってくると、千鶴は頷いて腕を下ろした。
「こんな狭いんじゃ、切ないでしょうから」
 学友の少女小夜は千鶴の手を握って停めた。
「千鶴ちゃん。そんなことしたら、金魚は生きてけないわ」
 小首を傾げる千鶴の柔らかな手を握ったまま、繊細な二重の瞳を見る。いつでも千鶴は、感情の無い目をしている。
「向こうの池のが、広くていいわ」
 鯉が泳ぐ池には、岩の上に甲羅干しをする亀がいたり、アメンボが滑っていた。
「池に行ったら、きっと亀に食べられちゃうわよ」
 千鶴はじっと鉢の金魚を見つめた。小夜には金魚がさも安心しきって心地よさげに泳いで思える。だが千鶴には、やはり囚われた檻の小魚に見える。
 鉢の水藻は光りを受けふんわりとそよぎ、白い小花を水中で咲かせている。
 金魚も鮮やかな水藻に影を落としながら眩しい赤に光り、影に入ると蓮葉の緑に染まる。その睡蓮の茎には気泡がいくつもまとわり付いて、金魚がそっと胴で撫でると、ゆらゆらと水面へあがっては気泡は今度は際にまとわり付いた。
「小夜ちゃんは、この学び舎にずっと閉じ込められてるのと、お外へ運ばれていくのはどっちがいい?」
 虚ろな瞳で千鶴が問いかけてくる。広く美しい日本庭園、木で出来た赴きある校舎、寮のある別棟。そして、高い高い白の塀。
 二人は、ここの生徒は、誰一人として外の世界を知らなかった。
 美しい少女たちが閉じ込められ、小鳥のような声で歌い、暇しのぎにバイオリンやピアノの演奏をし、一日に三度のお祈りをする。千鶴も小夜も十五歳、物心もつけばこの学び舎にいて、ここが全ての世界だった。
 そして夜になれば、唯一一日のうちに大きく変わる天体の移り変わりを見上げた。満天の星を見上げ、眠りの淵へと落ちてゆくまでを過す星月夜。時に木々の囁きが外の世界への誘いの言葉にも聞こえ、眠れない夜にさせてくる。
 そんな時、あの鉢の金魚も外の世界を望みながら夢を見るのかしらと思う。あの水面に眩しい星屑をちりばめて、睡蓮の花を夜の神秘の群青に染められて、金魚は葉陰に眠っていながらも。
 千鶴の知る外は、変わり行く空が全て。流れ星の降る夜も、星座のきらめく夜も、雪が窓から見える木の葉と空を飾る風景も、朝陽がそれらを射す朝も、鈍色の空も、黄金の夕焼けも。
 そのなかには誰かの顔が浮かぶわけでもなく、星には宇宙が想起された。
「それじゃあ、私たちも鉢から外に出たら、恐い人間に浚われてしまうの?」
 千鶴は金魚のいる水面を、白い指で撫でた。波紋が斜めに走り、金魚が反応してせわしなく泳いだ。
 千鶴が髪をさらつかせ天を仰いだ。青い空に雲が流れすのが松葉の先に見える。他には誰もいない。千鶴が水面に滑らせたような大きな手も、この塀に閉ざされた天空には現われない。
「小夜は、ずっとここにいるのが安心だわ。先生方がお外は危険だというじゃない。ね。ほら、校舎に戻りましょう?」
 小夜が千鶴の肩を持ち、立たせた。だが小夜はいきなりのことで、二つの長いおさげを揺らしプリーツが広がり芝生に倒れた。
 千鶴がいきなり小夜を拒んで手を払ったからだ。
「千鶴ちゃん」
 千鶴が髪を翻し、向こうへ走って行った。
「待って!」
 小夜は立ち上がって追いかける。講堂とお祈り館の間を走って行き、迷路のように立ち並ぶ木々を越え、草地を走る。瓦屋根が天辺を飾る遥か高い漆喰塀の前に来た。本来、ここまでは来てはいけない決まりになっている。立ち並ぶ木々を越えてはいけないのだ。
 実に多くの木々が植え込まれる敷地内だが、塀の周りにだけは木々は植えられていない。そこを伝って塀の外に出ることが無いように。二階建ての寮や校舎よりも高い塀。
 それを見上げ、千鶴が諦めたものと小夜は安堵した。だが、鳥がその塀を越えて羽ばたいていく。千鶴は薄い目蓋を閉じ、開いて塀を見上げると、ゆっくりと指で漆喰塀をなぞりながら歩いていった。
 小夜もその後ろを着いていく。
「何をやっているんだ」
 硬い声が響き、小夜はぎくりとして咄嗟に振り向いた。
 そこには、普段少女たちの前に現われることは無い塀の監視人である黒人の大男が立っていた。
 小夜も、そして千鶴も異性という種類を見たのは初めてだ。理事も校長も、そして先生や医務も女性ばかりだからだ。
 ずいぶんと背が高く、そして恐い面持ちと見た目をした人だと思った。声がまるでホルンのように低くて、肌も黒い。そして、目元には黒い硬質のアイマスクを嵌めていた。
 世界に男というものがあり、女以外のものがある事自体をしらない二人は、ただただ言葉も無くし見上げていた。
「塀から離れろ。でなければ、理事長の前に連れて行く。その背を鞭打たれたく無いのならば戻れ」
 男が首をしゃくって二人の少女を見るが、おかっぱの少女だけは頷かずに、ただただ透明な瞳で見上げてくる。
「あなたが私たちを守っているお祈りの神なのですか」
「神?」
 男は眉を寄せ千鶴を見て、そしていきなり大声で笑った。二人はびくっとして男を見た。
「本当にここの鳥篭の小鳥は何も知らないんだな」
 男は一度辺りを見回すと、腰にくくりつけた鞭から手を離し二人を見た。
「来い。どうせ二十歳にもなればどの少女もここからは姿を消すんだ」
「本当に?」
 そういえば、常に校舎は一定の人員だけで保たれている。講堂に集う人数も五十人だった。三歳から十九歳までの少女が二人ずつ生徒が三十二名と、先生方。少女のその後のことなど、先生方が教える方針は無く、新しく入り、古きは見なくなることが極普通の理とされていた。
 男は黒い上下のスーツと黒のタートルネックの装いだ。それはまるで杉や檜の幹やその化身かと思うほどに黒一色で、そんな人も学び舎にはいなかった。少女たちはセーラー服、綺麗な先生方は上品なロングスカートの装いをしている。
 二人は男に着いて行く。塀の際の芝生に、レリーフの施された四角い鉄板がはめ込まれていた。それに鎖をつなぎ、皮手袋のガッシリした手で横の重々しいハンドルを回すと、重い鉄の板が引き上げられていった。
 そこには地下へもぐっていく階段があった。少女は顔を見合わせた。
 男が手招きし、千鶴がなんの疑いや躊躇も無くついて行こうとするのを、小夜が手を引っ張って引き止めた。
「千鶴ちゃん」
「行きましょう? 小宇宙の外が見られるのよ」
 千鶴が再び小夜の手を払い、降りていってしまう。小夜も走って追いかけ、鈍い音を再び響かせて閉ざされていく背後の鉄板を振り返った。青い空が、細くなって鉄板に閉ざされ、体に響いていた音もなりを潜めた。
 ランプの光りが揺れる通路は、あのお仕置き部屋への廊下に似ていた。そこへはマナーを守れなかった場合などに座敷へ二日間閉じ込められて躾をされる。
 不安になって小夜は千鶴の手を握りながら付いていく。暗い間口の所に差し掛かると、男が立ち止まった。
 鍵を開けて扉を開けると、個室のようだった。
 そこには三人程の人間がいた。背の高い金髪の白人が二人と、もう片方の黒人が一人。本を読んだり、紅茶を飲んだり、会話をしている。
 三人は二人の美しい少女を見ると、監視人仲間の男を見た。
「また塀に近付いたのか」
 金髪の男がテーブルに本を置き二人の所まで来ると、連れてきた男に言った。
「彼の所へ連れて行くつもりか」
「午後からは自由に放し飼いにされているからな」
 相槌が打たれる。
 千鶴は四人の見たことの無い綺麗な人、学び舎の皆とは違った物を有する者たちを観察していた。顔立ちが深く整い色の違う肌や髪や瞳をして、木のように大きく太陽のように強い眼差しをした不思議な美しい存在だ。確かに少女たちも先生方も美しいのだが、目の前の者には言葉の思いつかない物がある。
「こっちだ。お嬢さんたち」
 奥の扉に促され、二人は歩いていく。紅茶カップを手にした男と、その男と会話をしていた男がじっと鋭い目で少女二人を見ていた。
 扉を越えて歩いていくと、小さな何かに入らされ、そのソファに座った。車など見たことが無い二人はここが何かは分からない。
 助手席に初め会った黒人の男。運転席に本を読んでいた金髪の白人が乗り込み、暗い通路を走らせて行く。動き出したので流石に千鶴も咄嗟に小夜の手首を握り、窓や車内、二人の男の後頭部を見た。過去には恐がって叫ぶ少女もいたので、助手席の男が振り返った。
「安心しろ」
「はい」
 不安げに応え、背もたれに落ち着いた。しばらくランプで琥珀に染まる暗い通路を走らせると、だんだんと坂を登って行き前方に蔦が垂れ幕になった出口が見えてきた。その先は緑の氾濫する眩しさで、どんどん近付いてくる。
 森に車両が出ると、二人は振り返った。すでにその出口は蔦に隠れて見えない。
「これはトンネルなのね。童話で見たけれど、こんなにはらはらするものなのね」
「そうね……」
 すぐに、森を走るより速いことに酔って小夜は口を押さえた。千鶴も慣れなくて速く行過ぎる木々の風景から目を閉じた。がたんがたんと時々揺れ動いて、それが少女二人を車酔いさせた。
 敷地内も木々が多いが、森は初めての二人はそれを実感できる余裕も無いほどに顔を白くさせ始めている。バックミラーを見てそのことに運転手の男が気づき、ゆっくり走らせた。これでも30キロで走らせてきたのだが辛いのだろう。紅く熟れた少女の唇も白く血の気が引き、目元もさらに虚ろになっている。これで外の世界に出ようと興味を持つというのだから、囲われた深窓のお嬢様たちは恐いものを知らないのだ。
 ゆっくりになったので、まだ気分は優れなかったが千鶴は背後を振り返った。
 今まで見たことも無い程にたくさんの木々が生えているこの場所の遠く向こうに、黒い塀がどこまでも続いていた。それは、あの学び舎の高い塀である。内側は白漆喰だが、外側は森に溶け込むように黒漆喰で塗り固められていた。あの上方の灰色の瓦屋根だけは同じだった。それも、やがて木々に紛れて見えなくなっていく。
 あの小宇宙から、天の外へ出られたのだ、と、顔を前に戻しながら千鶴は思った。ここにはもう、見えない硝子の天板で閉ざされたような塀のなかの世界や限られた天は無く、どこまでも広がる天がある。木々の屋根の遥か上に見える空も、あの囚われの箱から見上げる空とはどこか違って見えた。
「何故、親切に宇宙へ連れ出してくれたの」
 千鶴が問いかけると、運転手の男が眉を寄せてバックミラーの美少女を見た。おかっぱの少女は感情の死んだような目だったが、森を背景に光りが宿って思える。
「宇宙、か」
「変わってるのは皆同じさ」
 庭で神なのかと問われた助手席の男が言い、運転手の男は「そうだな」と頷いてから千鶴に言った。
「親切からなんかじゃ無い」
 それからは黙りきり、小夜はすでに真っ青で座席に凭れ千鶴の手を弱く握り、千鶴もこれ以上問いかけることは無く、窓の外を見つめた。時々、鹿が番で車を見たり、狐が羊歯の間を飛び跳ねたり、若い狼が岩の上から見てきたりして森の奥へ走って行った。それらの動物を少女たちは図鑑で見たことがあり、千鶴が小夜に教えてあげようと彼女を見るごとに、小夜は目を閉じて真っ白いハンカチで口元を押さえて辛そうなので、再び窓の外を見るにとどまった。蔦の這う太い木の幹をリスが登っていったりもする森に、千鶴は楽しさを見出した。いろいろな鳥の鳴き声が響き、姿は見えなくてもいろいろな生き物がいるのだと知った。秋に聞こえる高い鳴き声も、月夜の遠吠えも学び舎には聞こえていたが、それが森の動物たちの鳴き声だと先生たちは教えることはなく、少女たちはその声が聞こえることは世界の日常の一部だと認識していた。
 森を行くと、しばらくして明るい色合いの木々になってきた。針葉樹の森から広葉樹の森へ来たのだ。小鳥が黄緑の葉枝から晴れた空に飛び立つ姿も見え、ようやく小夜も目を開けて森を見始めた。
 しばらく行くと、その路の先に巨大な鉄門を構えた西洋の屋敷が近付いてきた。その門扉は車両が近付くと自動的に開く。
 門を越えると、白い道のサイドにコニファーが並び、そして黄緑の芝生が広がっている。そして見事な花園が左右にはあった。前方の屋敷は図鑑で見た西洋の美術館のようで、思った以上に巨大で二人は見上げたら車の天井で見えなくなったので顔を戻した。
 ファサードに停車して、二人の男が少女たちに出るように促した。
 ここはどこなのかと聞くようなことはせず、二人は付いていった。
 背後を振り返ると、こんなに広い場所を見たことが無くて小夜は心持ち興奮していた。目の前にする西洋の建物の壮麗さも驚いている。千鶴は辺りを見回していたが、声を掛けられて振り返った。
 大きな観音扉が開けられ、二人の同じ格好をした女性が現われた。それは屋敷の使用人で、その二人の間にもう一人の男が立っていた。どうやら、人間には知らないだけで二種類がいるらしいことを千鶴は思った。校長先生のように年齢が明らかに上の人がいて、また学び舎の皆とは違う種類の、どちらかと言えば彼女たちを連れてきた二人の男寄りの見た目をした、それは年嵩の紳士だった。
 紳士は何も言わず、背を向け歩いていった。彼らもその背についていく。
「君たちのように外界に興味を持つ者は時々現われる。十七年をあの場所に閉じ込められてはそれは不思議に思う者も出てくるだろう」
 絵画も女性や風景や動物、静物画や建物のものなどは置いてあるのだが、この屋敷に飾られた絵画には、図鑑や絵で見るようなシャンデリアも飾られ、翼を広げたような大きな階段もあり、美しい中庭には噴水もあった。そして、男の肖像画や神話の神々や精霊の絵画も。
「やはりここは世界が違うのね。あなた方のような見た目の、私たちとはどこかが違う姿の絵が飾られているわ」
 千鶴が言うと、小夜が言った。
「見て。あれは薔薇よ。私が好きな花だわ」
 小夜が小走りで回廊から太い柱に囲まれた中庭へ行くと、図鑑やルドゥーテの絵や絵画でしか見たことが無く、憧れを抱いていた薔薇が咲き乱れる場所までやって来た。すると、なんとも甘やかな薫りが彼女の鼻腔を充たし、彼女は失神寸前に幸せを感じてふらついた。咄嗟に黒人の男が駆けつけ支え、小夜が潤んだ瞳で壁に倒れたのかと思い見上げて男を見つめ、黒人はその美しい少女に瞬きを繰り返すと咳払いしてしっかりと立たせた。
 千鶴がここまで歩いてくると、薔薇を見回して、一つ一つ名前を言っていく。
「なんて美しいのかしら」
 白い頬に陽を透かして二人の少女はまるで庭に降り立った蝶のようで、それは誰もが時間が止まって見惚れるほどのものだった。絵画の一片を見ているようで。
 紳士は彼女らを絵画に納めたくなった。理事長に言えばいくらでも少女たちを貸し出せる身分でもあった。どうせ時が来れば伯爵や侯爵の所へ連れて行かれる籠のなかの少女。見目麗しく、芸に、マナーに、芸術知識に明るく、彼らの飼う小鳥となる。養子では無く、社交に出すわけでも無く、蝶よ花よと囲うための動く美術品だった。
 若い美しさのある少女の時代には箱から出されることはなく、大切に囲われ続ける。少女たち自身で美術の時間に描き出す学友たちの肖像画は、やはりどれも愛らしくも麗しかった。
 中庭から彼らは再び屋敷を歩いていく。
 階段を上がり、大きな室内に来ると、どこもかしこも作りや家具が上品で美しいので、 少女は見惚れていた。
 千鶴はふと、窓際の円卓に置かれた硝子の器を見た。
 無言でそこへと歩いていく。近付くごとに、やはりそれは……。
「……金魚」
 虚ろな声で、千鶴は言った。
 黄緑の藻が揺れる硝子の器に、金魚がゆらゆらと泳いでいる。
 こんなに広い屋敷のなかでしても、金魚はこんなに狭い器に囚われ、それ以上を動くことも出来なくて泳いでいた。それを不思議に思うことも無く、学び舎の少女たちのように、小夜のように、ただ生きる。図鑑で見る違う世界を学ぶように、硝子の向こうの屋敷の世界を見て泳いで、それでもやはり囚われたままなのだ。
 千鶴は暗い目元で紳士を見た。窓辺から差し込む陽で、円卓と硝子の器に泳ぐ金魚も、揺れる藻も、千鶴の影も長く床に伸びていた。それは繊細であって、金魚の器は影のなかでも光っていた。そして、千鶴の瞳は影と同じく光りは射さずに、今にも飛び立ってしまいたい鶴のように、じっと見つめてきている。そんな、いつしか華麗に飛び立つだろう姿が重なるかのようだった。
「泣いているのかい」
 千鶴の瞳からぽろりと涙が落ち、小夜がそこまで歩いて共に金魚鉢を見つめた。
「私たちは囚われた金魚のまま、この屋敷でも、時期が来ても、結局は変わらないの?」
「それは君たちが引き取られた先でなければ分からないことだ」
「なぜ?」
 髪を揺らして首を傾げ千鶴が尋ね、紳士はしばらくは応えなかったが言った。
「それがこの世界の作りだからだよ」
「金魚の運命と同じ世界」
 千鶴が囁き、袖もまくらずにいきなり両手で鉢の金魚を掬い上げた。さらさらと水がきらめき落ち、金魚がぴちぴちと白い手の上で暴れて、小夜は驚いてそれを見た。
「………」
 すぐに千鶴は水に金魚を返してあげて、混乱した金魚はしばらく水藻の激しく揺れるなかで泳ぎ回っては、次第に落ち着きを取り戻して泳ぎ始めた。
「金魚はここがいいのね。小夜もそう」
 水の滴る手をだらんと下げて千鶴は言い、金魚を悲しい目で見つめた。
「驚かせてしまってごめんね。金魚さん。もう、大丈夫だわ」
 硝子の器に手を添え、雫が流れていく。手を下げて紳士を見た。二人を連れてきた男たちのことも見た。
「私は金魚でなく、翼をもった鳥になりたいわ」
「君らは鳥だよ。外に出れば、恋も出来ることだろう」
「こい?」
「君らのまだ知らない感情さ」
 紳士は言い、金魚の先の窓から見える風景を見た。
 金魚がこの世界を自分の世界だと思うことは、宇宙を知らない花を伝う蟻や、麦を育てて生きる農夫や、音楽世界だけに生きる作曲家と同じで、自分の世界だけが世界になる。金魚鉢を透かして見る木々や庭の風景もすでに宇宙であり、行くことのない、それが出来ない場所なのだ。

 小夜は時々、塀の辺りを歩くようになっていた。
「あ……」
 監視のために歩くあの黒人、ポールを見つけると、木々の後ろに来てから頬を染めてそっと顔を覗かせた。
「ポールさん」
 当の本人はまた生徒たちがふらふらと蝶や子山羊のように塀に近付いてこないように塀の際を歩き見張っている。基本的に、塀に近付くこと自体を許されておらず、彼女たちが生活している範囲と塀までの間には木々が密集して立ち並んでいたり、建物に隠れて見えない場所が多い。
 ポールの細く編みこまれた襟足の長い髪を項で縛った、高いところにある小さな後頭部を見ていた小夜は、自分が昨夜、月光を頼りに認めた文を手にしたまま佇んでいた。
「小夜」
 小夜は驚き、千鶴を見た。
「千鶴ちゃん」
 彼女が横に来ると、木々の向こうを歩くポールを見た。あの時のように黒い上下のジャケットとパンツに、今日はグレーの詰襟シャツを着ている。ここからでは判別に難しいが、やはりアイマスクは嵌めているのだろう。
「他にも、見たことのない<男の人>が二人、塀の周りを歩いているのを見るわ」
「そうなの?」
 <男の人>という言葉は、屋敷を訪れた際に紳士が二人の絵画を描きたいと言い、その時に現われた少年が言った名称だった。少年と言っても、それは紳士の十七歳の息子であるが綺麗な顔立ちをしているので、服装がスカートを履いていないだけで千鶴も小夜も同じ種類だと思っていたのだが。その少年が<男の人>と<女の人>の観点が存在することを二人に教えたのだった。
 この学び舎の監視人は六名体制で行っている。三人が休んでいる間は三人が監視をしていた。なので、あの地下の部屋にいた三人は休憩中で、彼らで一組となり二組でローテーションを組まれている。
「あの男の人たちはどこから来たのかしら」
「ポールさんに聞いてみることは出来ないものね。あなた、何故ずっとポールさんを見ているの?」
 小夜は文を両手にしたまま、首をかしげてうつむいた。いつもおさげにしている髪を、今日は上部だけリボンでまとめて下ろしている。
「分からないの。ポールさんを見たくて、来てしまうの」
 休憩していた三人は夜の見張り役なので、昼に見かけることは無い。
 千鶴も小夜も恋というものは知らないので、木々の向こうのポールを見た。
「……?」
 動物かは分からないが、気配、視線を感じてポールは辺りを見回した。
「………」
 茂みの向こうに、少女が二人佇んでいた。刈り込まれた純白の躑躅の大きな茂みから。ポールは心なしか、それがあの小夜だと分かって落ちつかなげに顔を反らした。戻ってきてからは小夜が夜の闇に浮かんで仕方がない。離れた場所に恋人はいるが会えるわけでも無く、美しい蝶を遠目から時々見かけるだけの生活だ。気にならないというのも無理な話でもある。あの冷静な目元をした少女千鶴もいて、やはり感情の無い目で見てきていた。
 ポールはあの二人が塀に近付かないことは分かっているので、歩いていった。小夜はポールが行ってしまったので、落ち込んでうつむいた。
 夜、小夜は一人で静かに寮を抜け出した。
 見回りの先生たちが寝静まる時刻は知っていた。千鶴が昔言っていた。一時になれば、絶対に先生たちは眠りについているからと。いつもあの子は何をするか分からない所があるから、何度か夜に抜け出したことがあっても不思議とは思わなかったし、冒険できない性格の小夜はその話をいつも驚き紛れに聞くだけだった。
 しかし、こうやって自分が抜け出すだなんて。
 小夜は庭に出てくると、細い月が池に映るのを見た。木々は影となり、その横に立つと細やかな星屑の天体が圧巻の荘厳さを広げている。
 小夜が塀の方へ歩いていこうと池の横を歩いていたら、岩に影を見つけて立ち止まった。
「………」
 それは黒い服なので闇に紛れていたが、その目だけが白く浮かんでいた。誰かが岩に座って池を見つめている。
「!」
 ポールは咄嗟に夜に箱を抜け出した少女を見た。
「ポールさん?」
 小夜が囁き、そこまで歩いていった。岩の所まで来ると、そこに座るポールに視線を落とした。ポールは小夜を見上げ、彼女が満天の星を背景に潤んだ瞳をしているので、再び心が落ちつかなげに視線を落として池を見た。
「会いたくなります。何故かは分からないけれど、ポールさんを見つけたときは、とてもうれしいの。笑顔が止まなくて、心が温かくなるの」
「幻想だ」
「幻想? それは御伽噺よ」
 あまり分からない小夜は間隔を開けたところにある、二周り小さな岩に腰を下ろして池に映る星を見つめた。星座も判別できないほど数多の星を。流れ星もきらめき映りこむほど鮮明だ。
 ポールはまとめられた項の髪に手を当て、今更ながらアイマスクを嵌めていないので目元を押さえて目を閉じた。硬く高い鼻筋は夜風で冷たく、頬と掌は燃えるように熱かった。暗いので小夜にはポールの素顔は分かってはいないが、肌が白い小夜の透き通る肌は夜にも浮き上がり、その頬が染まっていることさえ見て取れた。
「千鶴ちゃんが、私の言っている感情が何なのかが分からないけれど、興味があるというの。あの子はいつでも研究することが好きだから、花の種類と名前や薫りの成分まで事細かに調べて、私のことも穴が開くほどじっと見つめてくるの」
「変わり者だな」
「分からないわ」
 美しい横顔が池を見つめ、今日は下ろされている長い黒髪が輪郭や細い腕を飾っている。小夜が顔を上げると、ポールを見た。
「どの文献を見ても、私と同じ、似たような感情は<中毒>とか<気に入り>とか<好き>と出てくるの」
 <好き>と小夜が口に出した言葉にポールは岩に添えた手が震えた。
「私、可愛い動物も好きだし、薔薇も好きだし、星も好きよ。薔薇の薫りを初めて知ったときの、あの倒れそうなほどめまぐるしい感情が体のなかを熱くして、仕方がないの。無くては落ち着かないものを中毒だと言うのよ。祈りを捧げるときも、心は落ち着かなくなってしまった」
 小夜が立ち上がり、ポールの所に来ると同じ岩に座って見上げた。
「寒いわ」
 手に手を当ててジャケットにこめかみをつけ、目を閉じた。警戒心というものが無いから、学友にすることと同じように寄り添って目を閉じる。そういう仲の良い少女たちの姿は普通に見てきた。寒ければ寄り添い、悲しければ抱き合って共に泣く美しい少女たち。ポールはジャケットを脱いでいたいけなお嬢様が風邪を引いて寝込まないように肩にかけてやった。肩に腕を回すことはしなかった。そんなことをしたらきっと小夜は叫んで、寮からあの鬼の理事長が飛び出し、背を思っきし鞭払ってくるだろう。
 小夜は、千鶴に抱きつくのとは全く違う感情に動けずにいた。小夜は困惑して見上げた。夜空のほうが明るくて、小夜はポールの目だけが白く浮くのが恐くて首に美しい手腕を回した。
「アイマスクをしていないと、まるであの絵画に似ているのね。屋敷の人が教えてくれたわ。あれはルシフェルという悪魔を描いたものなのだって」
 その絵画は道楽で屋敷主人がポールをモデルに描いたものだから、似て当たり前だった。黒人の自分が何故白人の宗教のルシフェル、しかも堕天使を割り当てられなければならないのかと不満だったのだが。
「私たちと違う体をしていたわ。ルシフェルっていう人は不思議なのね」
 今更ながら、黒衣のヴェールを腰に巻いただけの姿でモデルをしたことに落ち着かなくなって「さあな」とだけ言って、結局まだ震えている小夜の背に腕を回して狭い背を温めた。
 人間に黒い羽根は生えていないし、肌も白く描かれたので、ポール自身には結びつくとは思えないのだが。
「芸術って不思議ね。あんなに美しい物を描けるのだもの。目の前に現われたら私、気を失ってしまうわ。お風呂で見る千鶴や皆の姿とは全く違って、まるで不思議の国のアリスの木みたい」
「例えがよく分からない」
 塀は高く厳重に囲われているのに、個人の壁の無さにポールは理性を保つには精神力に頼り、この内のガードの無さこそが外に出たあとの貴族の色に何色にも染められやすい可愛い愛玩女にされるためのプログラムでもあるので、その透明にして純粋な毒牙がこちらに向けられることへの弊害については苦情を申し立てたかったが、普段は滅多に千鶴のように塀に興味を示す、外界を意識する少女もいなければ、ましてや小夜のようにこうやって接触してくる少女もいない。自身がガードを下げているからに違いないのだ。少女を見たとなれば姿を見られる前に去らなければならず、接触など言語道断なのだから。第一、夜に出歩くこと自体が小夜を忘れられずに眠ってもいられないことが原因だった。
 精神力も体力も訓練されてここへ来る彼らもここへ閉じ込められる貴族や名士の末女や双子の片割れの子たちと同様に名のある家柄の末子から選ばれる、しっかりした血統の者だ。普通に自身も近場の恋をしたいと思う。
「小夜嬢」
「はい」
 もしも、自分の役目が終わる時期になり小夜を迎えることが許されるならと思う。だがこの箱庭の小鳥たちを欲する者は多い。引き取られたあとはどう扱われるかは分からない。現在二十二の年齢だが、あと五年監視人としてこの甘い檻に閉じ込められることになるのは、ポールたちも同様だった。
「夜は出歩くな。理事長に報告す」
 小夜はポールの口を閉ざした。肩からジャケットが落ちて小夜の髪が黒い頬になめらかに触れ髪からやはり薔薇が甘く薫った。寄り添うより更に。
 バッと離れて走って行ってしまった小夜の、純白の花の間を妖精のような背が小さくなって行くのを、ただ呆然と眺めることしかできなかった。十代の小僧のようにしばらくふいの情熱に引き寄せられたままの乙女の口付けに硬直して、しばらくしてから息をつき項に手を当てた。冷たい夜風が頬や手の甲を冷まそうとするが、森の野生動物の声がまるで愛を啼くかのようで気持ちを高揚とさせた。静かにジャケットを拾い立ち上がり腕にかけ歩いていった。
 監視役の眠る部屋に戻ると、余計に眠れなくてブランデーをグラスに注いで一気に煽った。
「どうした」
 物音に目を覚ました一人がポールを見た。彼はスペイン人の男で、もう一人はフィンランド人だ。昼に休憩していた三人は、スイス人、ロシア人、イギリス系の黒人だ。
「最近夜は落ち着かないな。恋人に会いに行きたくなったか」
「ああ」
「それも一ヶ月後か」
 もう一人も声に起きて、枕に肘を立てて言った。
「一ヶ月に一度は祈りのために乙女たちが屋内に完全に一週間を閉じ篭ってくれるから助かるよ」
 その時、一組の内の一人ずつがローテーションで一週間の休暇をもらえる。みんな屋内に閉じこもって祈りを捧げるとはいえ、緊急で何かが起きて男手がいないのは困るし、その期間は庭の手入れの人間が入るので、万が一学び舎の生徒と鉢合わせないためにもやはり監視をしなければならない。だから三ヶ月に一度、ポールは恋人に会いに行ける。それも一ヶ月後ではあるのだが、小夜の温もりが離れない。脳裏にも透き通る小夜の声が美しく響き渡り、鼻腔にはあれから小夜が理事長に頼み取り寄せた薫り高い薔薇のシャンプーが薫り、肌の柔らかさはまるでなめらかな生クリームやマシュマロや……、とにかく普段男やポールが言葉にもしないような名称が当てはまり、そして張りのある黒人のダイナミックな恋人のグラマラスさとも全く違う底なしの綿具合は衝撃だった。まるで白躑躅の蜜を吸う蝶のような少女。それが小夜の印象だった。
 恋人のレイアも美女だ。それは間違い無い。
 ロケットの写真を見る。美しい。そして可憐な小夜が浮かんだ。考えないようにしていたあの唇の触れた温度も、触れたと初めは気づかないほどの柔らかさも、グラスをもう一杯煽って塗り替えた。
「もう寝る。申し訳ないな。眠りを妨げた」
 ライトを消しシーツを引き上げ、目を閉じた。ブランデー二杯ぐらいではどうにもならない。それでも無理やり眠りの糸を丁寧に掴むように意識を遠ざけさせた。
 夢も池のような凪ぎを見せればいいと、思いながら。

第二章 千鶴と百合

 千鶴は庭の陶器のベンチに座り、女神の美術書を見ていた。花に囲まれ、その黒のおかっぱの横顔を石楠花が彩る。
 金魚の砦からは逃れられそうも無いと知ってからは、千鶴は金魚の睡蓮鉢を見つめることはしなくなった。そんな心など持たずにこの世界が全てで、外の世界がある事さえ知らずに生きる他の少女たちが、笑顔で睡蓮鉢を見て語り合ったり、鯉に餌をあげる姿にも目を向けずにいた。
「え? 本当?」
 二つ年が上の少女の声に、千鶴は美術書の女神の逸話を読んでいた瞳を滑らせながら、聞くでもなく耳に入るままにした。彼女の背後の合歓の木から、淡いネムの花が枝垂れている。
「貴女、塀で幽霊を見たの?」
「とても驚いたわ。ネックレスをなくしてしまって、色々なところを探していたの。草むらにもないし、絶対に鞠をついていたときに落としたものだから、藤棚のあるあの辺りからどこかに行ったのだと思ったから」
「それで?」
「そうしたら、顔が真っ白で、髪が生成り色で、恐ろしいほど背が大きくて、草葉色の目をした美しい幽霊がひゅっと現われて、聞いたことも無い、そうね、嵐の夜の風のような低い声で何かを言ったの。スペイン語でも、フランス語でも、ドイツ語でも、英語でも、イタリア語でも、ポルトガル語でも無かった。私、驚いてしまってその場に腰を抜かしてしまったわ。まさか、お昼に幽霊を見るのだもの」
「貴女、怪談を読むから幻や白昼夢を見たのよ」
「本当よ? もう塀には恐くて近づけない。絵に描いたっていい」
「けれど、幽霊が出ただなんて先生に知られたらまた世迷いごとを言ったお叱りを受けるわ」
「秘密で今度、描いてあげる。本当に、まるで木の精霊みたいだったの。ああ、もしかしたら精霊だったのかもしれないわ。あんなに髪が短い人は初めて見たけれど……」
 千鶴は美術書を閉じ、立ち上がり歩いていった。塀の周りを歩くと見かける男の人の特徴で、その通り、藤の棚のある辺りを任されている人だと分かっていた。
 ネックレスが探せない先輩が可哀想なので、千鶴は探しに行くことにする。きっと相手側が声を掛けてくることは無いだろう。塀に近付きさえしなければ、相手側は姿を消すのだから。
 千鶴が木々の間を歩いていくと、空を見上げた。太陽に光る間なら探しやすい。物陰に隠れていたら多少は面倒なのだが。先輩が首元にしているネックレスはよく知っている。それはここの少女誰もが必ず一つは身につけている装飾品だが、指環やピアス、ネックレスやイヤリング、ブレスレットなどのことで、少女たちの一族の証として別れ際に持たせるものだった。それがあればもしも成人し迎え入れられた先で同族の人間だと見分けさせることが出来る。装飾品の理由は少女たちは知らされることは無いが、大切なものだから肌身離さず持ち続けることを言われている。
 スミレが光り、千鶴は膝を付き指でスミレに触れた。その花にネックレスが絡まり光っていた。それは、美しかった。まるで地球の申し子である花を本来彩るために生み出されたかのような。そして、そのスミレの花はあの先輩の印象のままにささやかで、愛らしい。千鶴はそのスミレを見つめ、指で撫でた。黄金の蜘蛛の糸に、先輩が絡まるかのようだった。先輩が大きなスミレを胸に抱き、震えているような幻想。恍惚と、千鶴の瞳は光り口元は微笑していた。それを指に絡めネックレスは彼女の白魚の手指にさらりと流れ、千鶴は歩いていった。
 その背に気づいた木々の先の監視人は、少女たちに干渉してはならないので静かにその場を去った。叫ばれた少女でも無かったからだ。というか、叫ばれたのにはショックを受けたのだが、日本の少女がどんなにシャイで奥ゆかしい性質かはよく叩き込まれているので、致し方も無かったのかもしれない。白人とは違い、背も高いわけではなく、ましては女性しか見たことが無いのだから。彼の場合は少女と鉢合わせることがあっても、意思疎通をしない為に母国語のフィンランド語を話すようにしているので、語学を流暢に扱う生徒たちといえども、何を言っているのかも分からなかったことだろう。正体不明の者が何を言っているのかも分からないとなれば、塀に近寄ることも無くなる。
「百合先輩」
「まあ、千鶴ちゃん」
 少女百合は一人だった。彼女の同級の学友は現在ここにはいなかった。
「これは、先輩のネックレスなのではとおもい、持って参りました。スミレの花と共にありましたよ」
「まあ! とても有り難いわ、千鶴ちゃん。ありがとう」
 百合は千鶴を抱き寄せ、その髪を撫でた。
「とても困っていたの」
 千鶴は腰まで長くカールした百合の黒髪を見つめ、手を添えてから優しくその髪を撫でた。背と共に。
「可哀想な先輩……とても不安だったのでしょうね。私が癒してさしあげたい。先輩の心はスミレの花のようにささやかで、震える小鳥のような心なのだもの」
 外の世界のように、金魚の鉢の世界だと知ってもきっとショックも受けないのでしょうね。可愛らしい先輩。そのスミレの花びらにいつしか涙を落とし揺らして悲しむときは来るのかしら。
 百合の名を冠しながらにスミレの心を持つ先輩が、とても愛しくて千鶴は頬にキスを寄せた。百合も千鶴の頬にキスを寄せ、もう一度抱き合うと離れた。
「それでは、御機嫌よう」
 千鶴は憂いげに微笑み、歩いていった。合歓の花に囲まれた百合は、千鶴がつけてくれたネックレスを見つめ、微笑んだ。
 何も知らない先輩。その方が幸せなのかもしれない。外を望みもせずに、与えられた運命を全うし、何に憂うことも無いのなら。
 悠久から続く花のそのままに季節に委ねる身の美しさ。
 千鶴は空を見上げた。淡い水色の空は、空に金魚の幻影が泳ぐようだった。空想だけはいつでも自由にはばたく。広い天空を金魚は泳ぎ、自分の体も鳥のように羽ばたいている。自然を謳歌する風のように。

 寮の二階窓際。レースカーテンは風を含み柔らかく揺れ、窓辺の美しい千鶴の髪を揺らした。彼女はビードロをビビ、ビビ、と吹き鳴らす。その紅い唇に細い管がさされ滑らかな光りを受ける。その姿は蝶が花の蜜を吸うかのようだ。
 欅の木にはカッコウが鳴き、ビードロの音と交わるようだ。ソプラノ歌手とバリトン歌手が出会ったときのように。
「ああ、もの寂しいビロードの音色。カッコウは、美しい声で私を誘うのね」
 白い頬に影と陽が揺れる。彼女は膝に下げ、カッコウが羽ばたく姿に自身の姿を重ねる。
 日曜日。学び舎の無い日は誰もが朝から着物を着付け、過す決まりとなっている。その着物の膝元に、ビードロの透明な色付きの影が降りる。この背にもしも鳥の羽根が生えても、飛び立つことは出来るかしら、と思う。それならば、夜空の星に包まれてみたい。森に同等に差す月光は柔らかな羽根の一枚一枚を照らし、大空を謳歌する喜びの姿を月の光りに染め上げてくれるのだ。
 千鶴がもしも翼を手に入れたら、誰もがこぞってこの塀から外の世界で一斉に飛び立ちたがるだろうか。もしも、自由など不確かなものだと知っていても。二十歳を過ぎても金魚は金魚のまま、ただ鑑賞されるためだけに生かされるだけ。絵画に収められ、目で愛でられ、籠に入れられる人生だと。ただ、場所を変えて見る世界が変わるだけなのだ。それだとしたら、どんな世界に行くか分からないのでは、この美しい学び舎にいたほうが安心すると判断し、誰もがこの巣へと戻ってくるのかもしれない。そこで羽根を休め、その羽根は透明な光りに紛れて塀のなかで安堵とする。けれど、それさえも許されはしない。二十歳にもなれば、この学び舎にはいられはしない。先生方から感じる、確実にやってくる年齢の変化や老いというものを甘く受け止めながらも、どこかで生きるのだ。では、美しい鑑賞の乙女は、年を老いたらどうなるのだろう? 校長先生の美しくも刻まれたお顔の皺。思慮深さを放つ瞳。銀に輝く一糸乱れぬ髪。隙の無い立ち居振る舞い。そのようになれば、年相応の方々がそれを美として老いを崇めてくれるのかもしれない。
 十五の人生でも、長い時を経た往年の人々を敬う心が、千鶴に多少の生きる希望を与えてくれた。老いても生きる目標となったから。
「………」
 どこからか、声の高い手毬歌。
 千鶴が静かに視線を落とすと、ぽん、ぽん、と十歳の後輩たちが鞠をついていた。鮮やかな着物姿。所々の金糸が太陽に光り、笑顔は光り鞠を上手についていた。百合先輩は見当たらず。
 もしも、共に翼を背に受けるなら、百合先輩とともになら、群青色の羽根でも、すみれ色の翼でも、純白の翼でも、手に入れて空を舞いたい。怖がる百合先輩の柔らかな手をとって、不安がるのなら抱き寄せて、あの長い長い黒髪を夜に靡かせはばたく姿をこの目に焼き付けたい。望むならば爪弾き謡い、そしてあの繊細なネックレスで繋いで、もう離さない。潤んだ瞳も、その撫子のように染まる頬も唇も千鶴だけのもの。スミレの花のように小さく震える心と、ささやかな星のように光る唇は。
 小夜は、ポールさんと共にいたい、と言っていた。見つめているだけで充たされるのだと。
 千鶴は百合を探し、視線を移動させていた。これが小夜の言う気持ちなのだろうか。
 千鶴は向こうからやってくる百合を見つける。百合は後輩の二人に声をかけ、共に手毬歌で遊び始めた。まるで彼女らの声がハーモニーのようだ。
 カッコウの声も加わり、千鶴はそっとビードロを鳴らした。

 千鶴は草地に座り、そこに群生する百合の薫りに包まれていた。黒揚羽蝶が周りを飛び交い、彼女を、そして木々を彩る。眩しいほどに光るその白百合は、頭(こうべ)を垂れて花粉とともに、雌蕊の柱頭から蜜を滴らせんばかりだった。あまりに陽が花びらを透かすので、蜜を吸ったり、花粉を集める昆虫の影までも、まるで夜に見る蛍袋のように透かしている。
 千鶴が百合の花を何本も手に携え、集めていく。静かな目蓋が光るほどの白皙の肌は、百合の方が淡い色味を持つほどである。茎を腕にそっと抱え、集められる百合の花々が千鶴の顔を彩る。
 それを見つめ、千鶴は微笑んだ。まるでもたれかかり、見上げてくる百合先輩のよう。あの身を預けて微笑んでくるかのよう。
 彼女は自室に戻り、静かにドアを閉ざした。草履を揃え足袋を床にすらせ歩き、置き畳の上に座ると蒔絵の施された漆台に敷かれた錦に、百合の花を置いた。それは置かれた鏡台に映り、千鶴を飾る。
 千鶴はそれを見つめ、そして鋏を取り出し、百合の頭を三つほど切ると、丸い大振りの角盥(つのだらい)の水に百合を浮かべた。それがくるくると回転して、その淵に手を添える千鶴を映す。
 千鶴はその横に座り、そして錦の上の百合を、台に腕を添えて見つめた。麗しい瞳で。香炉から立ち上る薫り。それはどこか千鶴を酔わせる。千鶴の薫りの研究論文から百合でお香を練りあげたものだ。
 千鶴はそっと美しい伏せ目で百合に顔を近づけ、俯くようなその百合の雌蕊へと、そっと舌を近づけた。つ、と雌蕊の柱頭の光沢を受ける蜜が赤い舌に触れる。千鶴は顔を戻し体を上げ、百合の花束を片手に掴んで立ち上がった。それを掲げて髪を揺らし見上げる千鶴の頬に、目蓋に、唇に花粉と蜜が触れる。薫りが細い筋の通った鼻腔を侵食し、冷たく蜜は頬に線を描く。
「百合先輩のよう」
 それは百合先輩の涙。そして唇。
 その百合を抱え込み、千鶴は微笑みうなだれた。妖し気に、微笑して。
 その花を腕を伸ばし水に沈めていく。百合の花が水に浸り、そして、千鶴は水を滴らせて見下ろした。その項を、陽が照らす。
 この心は、なんというものなのだろうか。小夜に思うでも違う。それは友情。先生方に思うでも違う。あれは尊敬。男性方に思うでも違う。不可解なもの。百合先輩に感じるのは、そう。胸の奥から花を可愛がるのと同じように、その花を摘んでいきたくなるような。頬ずりをして、薫りを全てかぎきり、その花粉や蜜さえ自分のものに、その花弁さえ食みたくなるほどに狂おしい。ああ。それだ。狂おしいのだ。
 百合先輩のあの青い血管の浮く白い喉元。閉ざせば瞳の動きさえ見えると思われる薄氷いのような瞼。震える睫毛に口付けをしたい。これは花に感じる愛と同じ。愛とは花なのだろうか。
 千鶴は足袋を落とし、着物からすらりと白い脚を出した。百合の浸かる盆の水は白い脛を掌で光らせる。この感覚は何なのだろう? そのひんやりとする冷たさが、その水の滴りが、その滴る流れの触れる感覚がまるで百合先輩の唇のよう。
 ふっと、千鶴の目に彼女の脛に唇を寄せる百合先輩の美しい幻影が霞んだ。あの長い髪を畳にうねらせ、そろりと細い首を伸ばし、項の飲み込まれる着物の背を倒して赤い唇で口付けるその姿に。色づく瞼が開かれて、夜空を照る月のような瞳で見つめてくる。
 千鶴は微笑んだ。その幻影は昼下がりの陽に透かされて、畳に千鶴の影だけ落とす。

 百合の柱頭から採れる透明な蜜のようなものを、小さく絵付けのされた器に入れていると、小夜がやってきて肩越しにそれを見つめる。
「今年も百合の練り香水を作るの? 千鶴ちゃん」
「これはね……」
 小夜が千鶴を見つめるその目を見て、小さじに掬ったその透明な蜜を小夜の白い頬につけた。
「百合を潤すものなのよ」
「そうなの?」
 千鶴はその蜜のついた小夜の頬に口付けを寄せ、小さじを置いた。
 また千鶴が科学的に、いつものように薔薇の薫りを記号と数字で表した難しい羅列などのように名前を言う。
「今年は、香水をつくるの。薔薇と百合の薫りの香水」
「薔薇の香水も?」
「薔薇を取り寄せるのよ」
 千鶴の部屋には香水のエジプトで使われていた骨董の蒸留器がある。
「とても楽しみ」
 小夜がにっこり微笑み、千鶴も微笑んだ。
 小夜は、変わった、と思った。千鶴の微笑みが。その美しい少女の見せる笑顔がどこか大人びて、小夜の知らない人にする。千鶴は百合の花を丁寧に扱いながら並べていた。
「理事長先生にお願いするの?」
 千鶴が小さく首を横に振り、小夜を見た。
「あの人たちに」
 小夜の反応を見て、やはり自身も百合先輩に感じるものは、小夜の言っていたそれだと分かった。これが千鶴の百合先輩に対する恋なのだ。小夜がしている恋と同じ。百合の香水は百合先輩のままの透明度で作り上げて、そして彼女に纏わせたい。千鶴はアルコールランプを設置しながら言った。
「私も恋を見つけたの」
「誰に?」
 小夜は、千鶴の横顔を見つめて不安がよぎった。
「百合先輩よ。安心して。私は彼女のしおらしさがたまらなく愛おしいの」
 フレスコグラスに蒸留水と百合の花。すっと、火をランプに灯すとそれが揺れた。小さな灯は千鶴の瞳を光らせた。そして悟らせる。千鶴はどこか、あの背徳の美を纏う絵画に似て思えるのだと。ルシフェルという、妖し気な魅惑の雰囲気を。そして、小夜は百合と似ていると自分で思った。ルシフェルのような闇の静寂と、相反する無垢な存在。
 小夜が眩暈を覚えて台に手を置き、千鶴がその手に手を添えた。
「分かったわ。分かったの。幼い頃に見たあの風景の意味が。それは欅の木漏れ日が揺れる日だった。お祈り館の影で上級生の先輩方二人がひっそり隠れて口付けを交わしていたの。とても美しくて、二人とも涙を流していた。あれが、愛だったのね」
 千鶴が言い、手を離し、蒸留器を見る。
「こうやって、花の芳しさを閉じ込められて、そして私は百合先輩を硝子の器にしまって置けたならその美しさを私だけが、薫りの無くなるまで、枯れてしまうまで愛でるのよ。可愛らしい、お可哀想な百合先輩を」
 千鶴の手に蒸留器の繊細な陰が重なり、百合を手に入れたがっている。
 千鶴は虚ろに硝子のフラスコを見つめた。
 百合の薫りは蒸気に熱せられ、立ち消えたようなのだ。
「弱いものなのね……百合先輩のよう」
 儚くも蒸気と共に空気に溶け込んでしまった薫りはもう戻ることは無いのか、ただただ変色した花弁がまるで年月を経たミイラの表面のような色をして、何層にも重なっている。既にあの可憐な姿さえも剥奪されてしまった、哀れな姿にさせてしまった花弁。千鶴は真っ白い指でそれを触れると掌に乗せる。
「百合先輩も、いずれこのように朽ちてしまう。それは、年月だけが原因なのではないわ。近寄るものによっては、美しさが奪われてしまう。私はそんなことしないように、百合先輩の美しさを活かして差し上げたい」
 千鶴の涙の雫の伝う頬へと、その花弁を寄せてはおかっぱの髪が揺れた。
「ごめんなさいね。百合の花さん。まさか、あなたこんなに薫りがどこかへ行ってしまうのだなんて」

 これから教室がある。移動で、皆が寮の部屋から廊下に行き来する。千鶴は誰もが廊下に並ぶのを、百合の姿を認めた。
 百合はそれぞれのドアに嵌められたステンドグラスに横顔が彩られ、静かに顔俯け睫毛を伏せていた。微かに開けられた唇は無垢で、何にも染まらない項は着物に飲み込まれる。鮮やかな色合いの着物も一体となっていた。
 これより、茶道のために茶室へ向かう。静かに歩いていく内にも、様々なステンドグラスは百合を彩った。時に野薔薇。時に山百合。時に梔子。そして椿。桔梗。桜。菖蒲。石楠花に、牡丹。様々が。今まで、こんなにしっかりと見つめたことは無かった。前の女生徒の黒髪を結う紫色の大きなリボンだけを見つめて歩いてきた。
 ふと、百合は後輩である千鶴の視線に気付いて、そっと微笑んだ。千鶴は花が咲くように眩暈を起こし、うつらとしてから、しっかりと佇まいを正した。柱オルゴールのある角を皆が曲がっていき、美しい帯の背が隠れ現れる足袋と共に歩いていく。
 そして、そのオルゴールの横に残ったのは、百合と彼女の着物の袂をそっと掴む千鶴だけとなった。
「千鶴ちゃん」
 百合は微笑み、首をそっと傾げた。今は、彼女の着物の併せからはあの時のネックレスは見えない。千鶴は妖艶に、微笑んでいた。
 彼女は横のドアに入って行った。
「先輩」
 千鶴は百合の肩にそっと首をうなだれた。彼女のおかっぱが傾く。さらさらと、揺れる。百合の背に流れる長い髪を真っ白い指が撫でた。
 百合は千鶴が顔を上げたので、その顔を見つめた。まるで日本画のように美しい顔立ちをした千鶴。繊細な、だけれど、瞳は静かに妖しく光っていた。
「私、百合先輩のために香水を作っているの。だから、もしも出来たのならつけてくださらない」
「まあ。素敵だわ。とてもいいお話」
 千鶴が微笑し、放れて行った。そして、袂から小さな器を出した。
「これはそれまでにそのことを忘れないための練り香水。どうか、持ってらしてください」
「忘れはしないわ。可愛い後輩のことよ」
「うれしい」
 千鶴はただただ、窓を背にする百合を見つめた。その頬の柔らかささえも手に取りたい。そっと手を伸ばして、頬に手を触れた。その手を見て百合は微笑み千鶴を見る。陽に透ける髪の輪郭にまで指を通しながらその髪を見つめて言った。
「百合先輩からいただいた柘植櫛、そろそろ椿油に漬けたくて。共に漬けても?」
「ええ。いいわよ。私の椿油を今度千鶴ちゃんの部屋へもって行くわね。一緒に漬けましょう?」
 千鶴は頷き、そっと百合の真っ白い頬にキスを寄せ、瞳を光らせ微笑みドアから出て行った。百合はその場に佇んだまま、視野に千鶴の魅惑の瞳が浮かんでは残るようだった。
 小夜は美術室にやってくると、ドアの前で立ち止まった。
 千鶴。セーラー服の背を向け、椅子に座り、キャンバスに筆を走らせている。それは、百合先輩だった。
 声を掛けようと思ったけれど、小夜はその場の空気に動かずに見つめていた。
 西日が差し込む陽光で、美術室は黄金に染まっている。それを受けて千鶴の黒いおかっぱもつやめいている。時々、パレットを見る彼女の横顔も染まっては、影に入る目元の瞳だけが瑪瑙のように光った。その潤う唇も。
 窓の外はきらきらと光り、木々も影となっている。雲さえも輝いて、今に陽が沈んでいく。
「千鶴ちゃん」
 彼女は振り返り、暗がりの室内の奥、ドアの所にいる小夜を見た。
「もう五時よ。そろそろ、食道へ向かいましょう」
「ええ」
 彼女は頷き、再びキャンバスを見た。夕日が馴染む百合先輩の姿。とてもいじらしく微笑んでいる。
 最近は、壁の外への憧れは薄れてきていた。百合先輩と、過せる時間が分かってしまったから。二十歳を越えた先の世界で、百合先輩と一緒にいられるのかが分からない。それならば、限られた時を過せるのではないだろうか。だから一時一時を、閉じ込めるように感じ取りたかった。千鶴はここにいて、そして百合先輩もここにいる。そんな尊さがありがたいことなのだ。
 暗くなり始めた美術室を後にし、二人は厚い色硝子に電灯の光る廊下を歩いていく。

少女

少女

高い漆喰塀に閉ざされた学び舎で生きる美しい少女たち。外界を知らない十五の千鶴は、日本庭園の睡蓮鉢に泳ぐ金魚を見つめては自身を重ね、囲われた場から自由というものを望むようになっていた。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-23

Copyrighted
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  1. 第一章 千鶴と小夜
  2. 第二章 千鶴と百合