景光さんまとめ

奇特な医者(景晶)

 現れた長髪を左目の端に入れる。
 黒白のぶつかり合いで出来た廃墟の一角である。黒軍の管理区域であるが――あの無機質な名称を覚えることに、九鬼景光はさしたる意味を見出せなかった。だから正式な名称など知らぬ。
 瓦礫に座って燻らせた煙を遮るように現れた白衣が唇を持ち上げる。眼鏡の奥の光は、再び出会った男を嘲るかのような色を孕んでいる。中性的な顔立ちと体つきで、彼女、、は特徴的な笑声を上げた。
「キヒヒ。やァ、まさか本当に待っててくれてるとは思ってなかったなァ」
 それとも殺す気かと。
 軍に規定されたブレザーを脱いだ白軍の薬剤師、浅見晶が問うた。無防備に手を広げる彼女を見据え、景光はただ首を横に振って、右目を覆う包帯をなぞる。
「新しい毒を寄越すなら其の時に殺せば済む事よ」
「イイ返事だ。ますます気に入ったよォ――心配しなくても今日のボクは医者として来てるさ」
 人を殺す薬は作らない。それが晶の信条だ。そのために軍の人間たる証を捨て、医者として白衣のみを纏ってここに立つ。
 無造作に鞄を漁りながら、野太刀を腰に括る男へ少女が近寄る。一つに結んだ赤茶の髪と、一房だけの三つ編みが揺れた。肩を竦めてから病魔――隠された右目の皮膚を変色させる遅効性の拷問毒を睨み、晶は取り出した袋を差し出した。
「今回と次回の対価はナシだ。強いて言うなら、忘れず薬を飲んで、効果を報告するのが対価――ってことになるのかなァ」
「何故。契約の上では此方が対価を支払う筈だ」
「十中八九、効かないんだよォ」
 君には悪いがね――笑う顔から袋を受け取り、軽く見開かれた瞳を見据え、調合師は息を吐く。
「科学者ってのは前提ナシには動けない性なのさァ」
 少女が景光の隣に転がる瓦礫を指差した。好きにしろと目で合図をすれば、躊躇なくその姿が紫煙の向こうで座り込む。
 長い話になる。
 再び鞄を漁る晶の手に、桑の実が大量に入った袋があった。その一つを取り出して噛み砕く。鋭い八重歯がちらと覗いた。
「クスリには種類ってのがあってさァ。まずは生薬――ボクの得意分野で、この国でよく使われてる生きてる原料から出来るヤツ。もう一つが化学薬品って言って、人工的に作ったモノだ」
 桑の実が再び口に消える。
「キミに渡したソイツ、、、は、この国じゃ滅多に手に入らない原料の生薬でねェ。効き目が出なきゃ生薬は全滅だと思ってくれていいよォ」
「為れば端から化学薬品とやらを使えば良い」
「言ったろ、科学者は前提論が大好きなのさァ」
 くつくつと笑って噛み砕いた赤い実の滴が、晶の唇を伝って血のように跡を残す。隣の景光をちらと見遣った瞳が、その軽薄な表情を消した。
 低く。
 重く。
 医者は告げる。
「化学薬品は人為的に作られた毒を殺す毒、、、、、だ。その本質はキミを蝕む病魔と何の変わりもない。耐性のついた体でも、拒絶反応は今すぐにでも弱った体を殺すよ」
 本来なら所見が必要だ。体が受け付けぬ食物まで逐一記録して、そのうえで薬を決める。それでも敵軍たる彼の情報をそう知ることはできない。
 故に。
 生きるために死をも見据える――戦場と何も変わらない覚悟を強いる。
 それは晶の仕事ではない。
「成程」
 景光もまた理解する。
「故に生薬を勧める――と」
「ボクは余計な危険性リスクは負わない主義なのさァ」
 キヒヒ。
 一度笑ってから、晶は家屋の残骸から飛び降りた。着地する白衣の端が風に靡く。
「今日の夜に飲んでくれ。明日結果を教えてくれたまえよォ」
「承知した」
「明日はZQエリア――ああ、黒軍じゃ何て言ったかなァ、第十八区? あそこの病院跡で落ち合おう」
 頷く包帯を見るでもなく、戦場であった場所へ揚々と歩き去る背を見送る。景光は手に残された袋を掲げ、紫煙を吐き出して目を細めた。
「奇特な」
 ――者も居た物だ。

砕く(零式+景光)

 訓練は訓練である。実戦に向けての実技練習としての意味合いも勿論あるが、己の得意武器ばかりを使っていても仕方がない。
 それで零式は木刀を手にしている。
 眼前に立つ男の手にも全く同じ規格の得物が握られていた。安っぽい照明に煌くのは景光の愛用する野太刀ではない。見るからに脆そうなこれを己の力で打ち合わせていれば、その刀身が無残に宙を舞うのも必然――手にしているのは五本目であった。
 零式が刀を握るのはこれが初めてだ。普段は拳で敵を武器ごと叩き割る。己の体のみを類まれな武器にまで磨き上げてきた彼にとって、本来ならばこんな玩具を手にする機会などないはずだったのだ。
 それでも手に取ったのは。
 ――旧懐が故だろうか。
 景光の振り下ろす木刀を、ここにはいない男を思い出しながら捌く。幸いにして武芸に秀でる零式である。一度は本気で拳を交えた相手の技は、見るだけでも充分に会得できた。
「面白い捌き方をするな」
「光栄です」
 笑って握った刀を構える。恭しい一礼の間にも一切の隙は見せないまま、零式は目を上げた。
 花房虎親という男は。
 既にこの世を去った野太刀の使い手は。
 ――こうして踊ったのですよ。
 その褐色の面影に己を重ね、零式はふと得物を得意げに持ち上げた。そのまま数度肩を叩いては、首を鳴らして切っ先を相手へ向けるように振り下ろす。
「其れは如何云う心積もりだ」
 のんびりと笑う景光に、零式もまた笑みを返すのである。
「旧友の真似事ですよ」
 私の剣技は全て。
 聞こえないように呟いて地を蹴った。骨ごとかち割るつもりで振り下ろす刀に景光の得物が重なって――。
 五度目の破砕音が響く。
「脆いな」
「脆いですね」
「埒が明かねェ、真剣で戦るのは如何だい」
「良案です。しかし、私は貴方の名刀に敵うような得物は持ち合わせておりませんので、こちらで」
 持ち上がった拳と抜き放たれた野太刀に、切羽詰まった教官の放つ止めの号令が響いた。

わだかまる心の(景晶)

 命運は尽きた。
 晶は救護班である。本来ならば前線に立つような役職ではない。故に――囲まれれば抵抗にも限界がある。
 足元に転がって既に肉塊と成り果てたブレザーを踏みつける。護身用の大鎌を振りかざし、翻して首筋を斬り裂く一人。そのまま両断する二つ目の咆哮と、振り向きざまに袈裟に斬り上げたのが三。脇腹に刺さるナイフに体勢を崩しながら、切断した太ももが四人目。五つ目の体の腹を裂き、迫る矢から身を逸らし、眼鏡を犠牲に振り抜く六つ。
 対応できたのは――そこまでだ。
 脇腹の赤い染みを押さえて崩れ落ちた。突き刺さった鈍痛が剥がれない。脳に鼓動ばかりが響き渡る。閉じた瞳に諦念ばかりを浮かべて嗤った晶は、しかしいつまでも訪れぬ終幕に霞む目を開いた。
 青空を遮るように現れる黒い影。
 ――白刃。
「生きているな」
 死に瀕する耳にも、ただ凛と響く声。
 見据える隻眼に目を見開いた。先ほどまで切り裂いていた肉と同じ学ランの男。晶の目下の最も厄介な患者であり――。
 最も大事な研究対象だ。
「キミってヤツは」
 口を衝く台詞とともに込み上げてきた赤を吐き出す。それでも先のような脱力はない。
 ――命は繋がった。
 景光が払った同族の血が、晶から流れ出す生命と混ざって生温く大地に染みていく。一瞥した男の視線が脇腹に突き立つナイフを捉えた。
「致命傷には、ならない位置に――偶然なった、って言うべきかなァ。止血剤は鞄にある。一番強いのは、青い瓶だよォ」
 鬱陶しい自身の呼気で、男の返答は聞こえなかった。視界に広がる空からその顔が消える。
 ややあって、熱を孕む傷口に冷えた液体が打ち付けられた。次いで異物が引き抜かれる。どうやら止血剤の全てを打ち付けられたらしいと気付くのに時間は要らなかった。彼女の体を持ち上げる景光は、腕の中の少女を一瞥するなり問う。
「命は惜しいか」
「当たり前さァ――ボクは、まだ」
 ――キミに薬を作っていない。
 そう口にすることを何故か躊躇った。逡巡の理由を悟る時間は許されないまま、押し出されるように言葉を紡ぐ。
「やるべきことをやってない」
「然様か」
 それきり言葉はない。与えられた思考時間で、晶は先の違和感を利害関係の押し付けであると判断した。彼に恩を売りたいわけではないし――そんな情で動いているわけではないのだ。
 恐らくは。
 しかしひどく傷が痛む。零れ落ちる赤が描く軌跡が薄くなっているところを見るに、止血剤は充分な効力を発揮しているらしかったが、となれば副作用であろうかと科学者は思考する。無造作に全て使われればこんなものなのかもしれないが、それでもこれだけの痛みでは治療どころではあるまい。
 調剤に更なる検討を――と息を吐いた体が降ろされた。
「此処なら暫くは連中も訪れまい」
 言うなり白衣に手が掛かる。脱ぎ降ろされる血塗れの服を見やりながら、晶は嗤う。
「イイ判断だねェ」
「戦場に於いては自分の傷は自分で処置するのが基本だからな」
「歴戦の兵士ってのは流石だよォ」
 言いながら露わになった傷口を見る。止血剤のお陰もあって思ったよりはましだろうか。拭われていく血と鋭い痛みに眉を顰めながら失血でふらつくままに横になる。再びの青空に隻眼が視界の端をちらついた。
 その姿を横目で追いながら――。
「キミは」
 そうまでして。
 そこまでして。
 ――ボクを。
「キミ自身を生かしたいのかい」
 再びの違和感に、紡いだのはやはり意志を塗り替えた言葉だった。見下ろす瞳が無言の裡に肯定する言葉を笑う。
「どこまでも諦めないねェ。面白いよ」
 そうでなくては。
 こちらが諦めていないのに、諦めるような患者では救い甲斐がない。景光ほども生に執着してくれるならば、こちらも診察のし甲斐があるというものである。
 赤黒く乾いた筋を唇の端に残して笑う少女へ、景光は徐に脱いだ学ランを投げやった。体に纏わりつく紫煙のにおいに眉を顰めるでもなく、彼女は尚も笑った。
「イイのかい」
「構わねェさ。其れだけ失血したら寒いだろう」
「そうかい。こうしてるとキミと同じ黒軍になった気分だねェ。今だけのトクベツってヤツかァ。キヒヒ」
 減らず口を叩きながらゆっくりと起こした身で、相対する男の瞳を見る。
 探りはしない。探ったところで意味はない。彼は患者であり、己は医者である。晶がすべきはその瞳の奥にある感情を覗き見ることではなく――。
「どうだい。ボクのクスリは」
 己が力量を知ることだ。
「他の処方に比べれば余程良い薬だ」
「それならよかったよォ」
 褒められれば悪い気はしない。キヒヒ――と一つ笑って、彼女はゆるりと立ち上がった。
 学ランを脱いで景光へ押し付ける。周囲を見渡せば、思いのほか白軍領に近づいているようで、見覚えのある道が広がっている。
 痛みも引いた。
 これならば帰れよう。
「しかし、学ランコレを羽織って帰るわけにはいかないなァ。折角拾った命をむざむざ捨てる羽目になる」
 脇腹の傷から続く足は、やはり痛みに負ける。引きずるまま数歩を進んで、ふと晶は振り返った。
「助かったよ。ありがとう」
 言って。
 笑い。
 手を振りながら帰る後姿を見送って、景光は目を閉じた。
「全く――奇特な娘も居た物だ」

鬼と(景光+桜蓮)

 桜蓮は鬼が嫌いだ。
 人を無為に殺す。己のような要らぬ空虚を抱えた人間を生み出すばかりの存在だ。復讐などという無駄で虚しいことを、自らの仲間に背負わせる者は、例え誰の恨みを買ってでも止めねばならない。
 故に――。
 眼前の人斬りは、桜蓮の刃が貫くべき鬼だった。
 幾度となく受け流した野太刀の切っ先は血に汚れ、その主の包帯もまた赤く滲む。どちらのものかもわからぬ鮮紅を地に吸わせ、尚も嗤う眼前の鬼。
「貴方は」
 肩で息をするまま、緊張と疲労でぼやける頭を上げる。睨む眼光だけは決して和らげない。
 あれは敵だ。
 だが。
 例え敵だとて――。
 振り下ろされる刃を避けて、生まれた刹那で懐に潜り込む。臓腑を狙う切っ先が弾かれ、桜蓮の表情は歪む。
 ――なぜ。
「何故斬る」
 鬼は無為に斬る。そこへ理由を求めることに意味はない。
 再び駆け出す刃の先に、飄々と笑んだ男の片目がぎらつく。獣めいた光で易々と逸らされる女の背へ野太刀を突き付け、名も知らぬ黒の男は低く唸るように嗤った。
「生きる為だ」
 体を逸らして。
 蹴り弾いた男の体から距離を取る。命を奪う切っ先の感覚に、背筋を遡る悍ましさを押し殺し、女の眼光はその言葉にも納得はしない。
 生きるために――。
 同族を食らう。己の命をこそ史上とし、その身に幾多の屍をまとわせて、全てを軽々しく背負う行為を生であると放ってみせる。
 たった一人の死さえ、己の悲嘆の一つさえ、桜蓮は背負えなかった。その重圧に耐えきれぬまま、復讐を選び、そして全てを果たし何もかもを喪った。
 それは桜蓮が弱かった故ではない。
 彼女は人だ。
 なれば。
 声音は凛と揺るがない。守るための盾は殺すための刃と同義。それを知って尚、桜蓮は背負おうと決めた。
 いつか背負えなかった死も。
 いつか喪った悲嘆も。
 己の手の届く全てを、あの底なしの海へ沈めぬために。人を壊す修羅の茨で傷付けぬために。
 その覚悟さえも、この男は持ちえない。生きるがために殺す。生きるがために全てを奪う。
 レイピアを構え直し、上がった息を辛うじて整える。冷淡な瞳に向き合う黒を見据えて、桜蓮はただ一つ呟いた。
「そうか」
 これは鬼だ。

修羅と(景光+桜蓮+晶)

「君はどうして得物に装飾品をつけているんだ」
 出撃前のひと時に、そう問うたことに意味はなかった。
 強いて理由をつけるなら、必要外のものを好まぬ晶という女が、よりによって命を預ける相棒に粘土細工の小さな蛙を括り付けることに驚いただけだ。塗装のところどころを戦塵に浚われた笑顔のそれをまじまじと見詰める桜蓮の視線を、白い細指が遮った。
「深い意味はないよォ。貰い物だってのと――強いて言うなら験担ぎかなァ」
 必ず帰るように――と日本に旅立つ折に誰かから手渡されたものだ。帰還の願いが籠っているなら戦場に持ち込まねばならないだろうと付属の鈴を取り去ったはいいが、余計なものを持ち込まぬ主義が災いして、つけられそうなものが武器しかなかったという具合である。
 合点がいったように頷く桜蓮の視線は、しかし未だ根付から離れない。
 暫し――。
 思案してから、医者の指先が汚れた紐をほどいた。
「いるかい」
「大事なものだろう」
「別にィ。誰からもらったかも忘れたよォ」
 言いながら差し出されれば受け取らぬわけにもいかない。半ば強引に手の中に収められた蛙を日に掲げながら、女騎士は笑った。
「蛙で帰る――か。君らしい言葉遊びだな」
「そうかい? くだらない洒落だよォ」
 ボクが言ったんじゃないし――一瞬ばかり拗ねたように顔を背けた晶が大鎌をぐるりと回した。容易く肩に担がれた死神の牙の向こうで、それを振るう女は銀の長髪を払って見せる。
 振り向いた顔に不敵な笑みを浮かべて、数多の血を吸った白衣が騎士のサーベルを指した。邪魔じゃなければそこにでもつけておけばいい――言って、紫紺の瞳が悪戯めいた光で細くなる。
「ボクの年季の入った願が掛けてある。ご利益は覿面だよォ」
「それはありがたい」
 鳴り響く出立の合図を前に、桜蓮は己のサーベルへ根付を括り付けた。

 *

 習慣ジンクスというのも存外に馬鹿にできたものではないようだ。
 とうに使い物にならなくなった左腕をぶら下げ、迫る穂先を受け流すべく上がった息を押し殺す。刃ごと抉られるかと錯覚する衝撃に呼吸が妨げられた。
 ――眼前にあるのは正しく鬼だった。
 三又の槍に哄笑を載せ、茶色の髪を振り乱した女の一撃が晶の大鎌を捉える。弾かれてバランスを崩し、それでもなお恍惚の表情を変えぬ彼女の脇腹へ死神の刃を走らせた。
 果たして――。
 槍の柄が晶の腹を殴るのが早かった。
 突き刺さる寸前で地に落ちた鎌を蹴り飛ばされ、晶の反逆は終わりを告げる。鈍痛で朦朧とする視界の中、来るべき救世の足音を探るが、隻眼の男の気配はどこにもない。
 こんなことならば刃に毒でも塗ってくるのだった。
 例の毒薬研究家から拝借した致死性の毒が並んでいるのを思い出したのも束の間、次いで差し込まれた穂先の鋭い激痛に掻き消える。
 こうなったら――気合いに頼ってでも意識を保たねばならない。
 あの患者に最後の治療薬を手渡すまで、決して死ぬわけにいかないのだ。

 *

 その惨状を目にして、桜蓮は思わずサーベルの柄を握った。
 右腕を除く四肢をすべて切り飛ばされ、しかし胴を離れた首には満足げな笑みを湛えたセーラー服の女――敵軍の骸。底知れぬ恐怖に連れた兵が息を呑む傍ら、桜蓮の視線はただ一点を見た。
 数刻前。
 言葉を交わしたばかりの晶が、穏やかに目を閉じている。
 彼女が黒軍に襲撃されたことは明白だった。単独での迎撃に失敗し、しかし相討ちに持ち込んだと考えるのが妥当だろうか。
「それにしては――」
 脱力する体を支え、立ち尽くすまま呟いた言葉を拾う者はいない。
 だから続けた。
「違和感があるな」
 口にした途端、動き出した足が黒軍の女を目指す。両足と左腕を失い、なおも三又の得物を握りしめたまま事切れた胴。それだけでも致命傷だろうが、丁寧に首までもが刎ね落とされている。
 晶は――。
 確実に一撃で死に至る場所を狙うのだと言った。そちらの方が効率的で手間が省けるだろう、それに自分だって同じ死ぬでも痛いのは御免だと、彼女は鎌の柄を握りながら笑ったのだ。
 死の寸前の錯乱が招いた暴虐だと結論付けるのは簡単だ。しかし命が閉ざされる間際の反抗にしては手が込みすぎている。
 そう視線を巡らせて。
 桜蓮は、眠る同胞が握る刃に気付いた。
 凄惨な骸に集うブレザーの群れから離れ、彼女は晶の手にあるそれを見る。
 脇差である。刀に心得のない桜蓮でも、美しく磨かれた刃が上等なものなのは一目でわかる。鍔に施された繊細な模様をしゃがみこんで見るうち――。
 一つの可能性に行き当たる。
 力ない指先から刃を奪い取る。握りしめた手に力が籠るのを抑えきれなかった。今は褪せた、いつか感じた思いと同じ、心の底から煮え滾る溶岩に似た感情を押し殺し、血に塗れた白衣を見た。
「晶くん――」
 君は。
 立ち上がった瞳に、悲しみの色はなかった。

 *

 眼前に立つブレザーの女に、景光は自然、唇へ笑みを刻んだ。
 幾度か刃を交えた相手だ。彼女の揺るがぬ信念、戦場にあっては珍しい成熟した殺意――彼の待ち望む全てを備えた極上の敵・・・・がそこにいる。
 先の戦いと違うのは、彼女が即座に剣を抜かぬことか。
「探したぞ」
 桜蓮の瞳に灯る光は暗い。剥き出しの牙さついも、今は静謐に淀んでいる。
 深い怒り――。
 否。
 憎悪か。
 笑みを深める景光を睨みやる桜蓮の手が取ったのは脇差だった。
「随分と嘗めた真似をしてくれたな」
 刃こぼれの一つもない、磨き上げられたかつての愛刀を己に向けられて、しかし景光は揺るがない。
 彼の主治医――務める軍の掲げた色と同じ白衣を纏い、敵であるはずの彼を患者と断じた娘へ、死出の餞別に贈った守り刀だった。置いて行ったときから己の身が悟られることは承知していた。
 その態度が余計に桜蓮を煽ったようだった。折れんばかりに奥歯を食い縛り、同胞の仇を討たんとする彼女は、手にした刀を無造作に放ると己の得物へ手をかける。
「私の同胞を侮辱するのもそこまでにしてもらう」
「然様か」
 ――為れば。
「斬り伏せて見せろ」
 隻眼に狩猟者めいた光を灯した景光へ、桜蓮はサーベルを抜いた。
 硝煙のにおいに剣戟が木霊する。遥か遠くで吼える鬨の声を尻目に、桜蓮の振り下ろす軌道は野太刀に阻まれる。
 受け止められた白銀を押し返される。隙をめがけて臓腑を抉らんと突き出された刃先を受け流し、そのまま空いた腹へと切っ先を押し込む。蹴り上げられた柄を追って後退すれば、追撃の刃は一歩の距離で彼女の首を外した。
 痺れる手にサーベルを握り直す。柄の先で揺れる蛙の根付を一瞥すれば、かの医者と最期に交わした言葉が頭をよぎった
 ――人を斬ったら鬼になる。
 ――ならば鬼を斬ったらどうなる。
 終ぞ答えを見出せぬまま相手を喪った問答は、桜蓮の中で宙吊りになったままだった。襲い来る剣戟を弾き、いなし、幾度となくぶつけた怒りと恨みと憎しみの中で、鬼斬りの果てが人でないことだけをまざまざと思い知ってきた。
 鬼を斬ったらどうなる。
 鬼を斬るにはどうあればいい。
 人では到底及ばない。鬼であってもなお同等――その身を斬るには及ばない。
 かつて復讐に狂った鬼であった彼女の剣さえ、眼前の臓腑には届かない。
 人でなく。
 鬼でなく。
 斬るべき者を前にして、抑えきれぬ憎悪の淵に立ち尽くし、今その中へ身を投じんとする彼女は。
「今、分かったよ」
 蛙を握り、呪縛めいた誓いを思い出す。必ず帰る、必ず生きる――呪いを託して消えた娘の問いへ、今こそ淀みなく声を返せるだろう。
 鬼を斬るのは。
 鬼さえ凌駕するなら。
 ――私は。
「修羅だ」

二月十四日の医者(景晶)

 薬袋の脇に小さな袋が括り付けられているのに気付くのは当然だった。これ見よがしな余剰物に無言で隻眼を向ければ、主治医を務める少女の口からは聞き慣れた笑い声が漏れた。
「おや、気付かれたかい」
「白々しいな。隠す気も無いだろうに」
 黒軍でいうところの第六十八番地区の、森に隠された廃屋である。ここをG区画三十五番地点と呼んだ晶が指定した待ち合わせ場所だ。景光が探し求めた優秀な薬師――敵軍に属する少女は、彼を見るなり患者と見定めた。
 以来、こうして密会を重ねては薬のやり取りと軽い問診をしている。
 それ以上の関係、まして贈り物など交わすような密な仲では――ないと思ったが。
「毒なんか入れちゃいないよォ」
 真新しい包帯の下にある右目をも細める景光に、晶は白衣の裾を翻して笑う。眼鏡の奥の表情は敵対者に向けるにしては柔らかすぎた。
 敵だとか味方だとか以前に助けを求める傷病者は全て患者だと――。
 彼女へ刀を突き付けて抵抗を封じた景光に、怯えるでもなく言ってのけたのを思い出した。
「催しなんだ。西洋の方の。たまたま覚えてたから、折角だし参加しようかと思ってさァ」
「然様か。だが何故俺だ」
「こういうのあげられるような相手が他にいないんだよォ――正確に言うなら、いないことはないけど、ほとんど女子だ」
「女では為らぬのか」
 ダメってことはないけど。続く言葉は、景光の知る晶という女からすれば妙なことに歯切れが悪い。思案でもするかのように顎に当てられた手に、しかし彼はそれを咎めたりはしなかった。
 ――らしくないと笑うような関係ではない。
 案の定と言うべきか、女の陰りはすぐに霧散した。前に立つのは彼のよく知る主治医である。
「まァ、アレさ。女が男にあげるんだよ、チョコを」
「ちょこ?」
「キミ、チョコも知らな――あァ。黒軍は外の話そういうの絶ってんだっけなァ。チョコレートって言うお菓子だよ、お菓子。西洋の。甘いよォ」
 キヒヒ。
 笑声を立てた晶に言われて袋を持ち上げる。軽く振れば何かのぶつかる音がした。小奇麗な包装を見据える景光の眉間の皺を笑うように、彼女は頓狂に声を上げる。
「製菓ってのは調合とは違った面白さがあるねェ」
「お前が作ったのか」
 ――此の娘に調薬以外の興味の矛先が在るとは。
 驚愕を隠そうともせぬ患者の無礼な表情にも、晶は変わらず上機嫌である。そうだと胸を張るようにおどけては、片目を閉じて手を振って見せた。
「このボクの手作りだ。ちゃんと味わって食べてくれよォ」
 そう告げるなり――。
 景光の返事も聞かずに眼差しが真剣みを帯びた。
 彼女はどうあっても医者なのである。
「いつも通り薬は二錠ずつ一日三回。一週間分だ。次の待ち合わせはキミが指定して――そォだなァ、五日後までにここの小屋に置いといてくれ。ついでに感想も寄越してくれたら、特別にもっと効く処方箋を考えてあげてもイイよォ」
「――承知した」
 零した笑顔を残して踵を返す少女に、景光は額に手を遣りながら息を吐いた。

戯れた約束(景晶/現パロ)

 現れた少女がいつもより上機嫌であることを、景光は即座に悟った。
 普段と比べて綺麗に結われた髪が、勝手知ったる景光の家を闊歩する。無事に大学への切符を手にしたと先日語った晶の向かう先は、彼の家で彼女が占有するスペース――。
 ではない。
「珍しいな」
「まァね」
 応接間に陣取り、レポートと科学誌が山と詰め込まれている鞄を置いた彼女が笑った。今日は日曜だと記憶していたが制服のままだと指摘すれば、返ってきたのはこれが家で一番綺麗な服だと無頓着ないつもの応答である。
 全く――この娘はいつまでも女である自覚がない。
 せめてと景光が選び買い与えた服は着てはいるらしいが、そもそも管理の仕方からして無知な女だ。こと薬剤のこととなれば研究者顔負けの天才少女ぶりを発揮するくせに、日常生活には何らの興味もなく、先日訪れた家はごみ屋敷さながらの有様であった。
 また掃除をしに行かねばならないかと、彼が晶の更生に思索を巡らせるのもいつものことだ。
 だから反応ができなかった。
「お誕生日オメデトウ、カゲミツ」
 差し出されたのは小奇麗な包装の小箱である。目を瞬かせる家主の、反射的に伸びた手の上へそれを置いてから、彼女は満足げに笑みを零した。
「何か言うことはないかい?」
「嗚呼――有難く頂戴するとしよう」
 開けてもいいか。
 目で問えば、彼女は逡巡もなく頷いた。その反応を目にした景光も軽い気持ちで封を開ける。セロファンテープが剥がれるのと同時に、恐らくは店頭で頼んだのであろう白と青の包装紙の破れる音がした。
 ――出てきたのは彼女からほど遠いブランドのロゴであった。
「お前が選んだのか」
「そォ。お気に召すかは知らないけどねェ」
 いつの間にか取り出された科学誌の付箋を捲る女がちらと目を上げた。窺うような眼差しがまた彼女らしくない。
 ゆっくりと開いた箱に――輝く宝石が見えた。
「指輪か」
「あと四年したら結婚の約束だろォ。ホンモノからしたら安物だけど、コンヤクユビワってヤツだ」
「報」
「洒落たジョーダンだろォ」
 誕生日サプライズにはちょうどかと思って。ひどく冗談めかしたように肩を竦める彼女は、自ら逃げ場を失っていることに気付いているのだろうか。
 ――否。
 ――之の事だから、逃げる気も無いのかも知れん。
 そういうつもりならばと、景光も彼女の面前に胡坐をかいた。体を辿って双眸に行き着く紫の瞳へ同じように笑って見せる。
「斯う云う物は男から送らせろ」
 彼もまた、自らの逃げ道を一つ塞いだ。

生と死の(景光+桜蓮)

 人の命が定まっているなら、人の身を棄てられぬ鬼の命もまた定まっている。
 何度目になるかも分からぬ女との対峙が己の命の終わりになろうとは思わなかった。相対する修羅の、時を経るごとに擦り減る感情と、比例するように膨らむ研ぎ澄まされた憎悪が、景光にはようやく求め続けた至上の獲物に見えた。
 だが。
 今やその熱狂は体にない。
 流れ出る赤黒い体液とともに全て消え失せてしまった。残っているのは、指の一本も思い通りにならぬ冷えた肉体と、赤くぼやけた隻眼の視界と――せり上がる底冷えだけだ。
 景光には果たさねばならない約束がある。捨てることの許されない生への執着がある。いつだかに主治医が漏らした呪縛だという言葉が正しいのかもしれない。
 ――俺は。
 生きねばならない。
 ――否。
 生きたい。
 ――それも違う。
 流れ出る血にも構わず言ったのだ。
 ――またおかえりって言ってね。
 腕の中で冷えていく温もりが笑ったのだ。
 ――生きてるってのは暖かいよ。
 そうだ。
 ――俺は。
 死にたくない。
 爪に力が籠った。土を掻いて指先が赤茶けた不快感に侵される。持ち上げた体の激痛が千切れかけた意識を強引に引き戻す。血液が足りないまま震える右手で得物を握る。碌に動かない足で土を蹴る。
 眼前の修羅に向けて、景光は咆哮した。
 使い物にならない左腕はぶら下げたまま、振り上げた野太刀が修羅の頭を狙う。単純な軌道。ぶれた軸。冷徹に見据える女の体もまた血に塗れていたのをようやく滲んだ視界に捉える。
 ――修羅の剣は易々と鬼を貫いた。
 崩れ落ちる体が今度こそ終わっていく。引き抜かれた剣の支えを失い、膝をついて俯いた眼前で、己の口から零れる赤黒い生命が土を汚す。
 これが死か。
 鈍い激痛が体中を支配する。冷えていく体を温める術もない。
 所詮はこんなものか。敵軍の娘に頼ってまでも繋ごうとした命の終幕は余りに呆気ない。
 ――嗚呼。
 ――顔を合わせることは叶うだろうか。
「死にたく――ない」
 そう言い残したきり、土を掴んで動かなくなった鬼を見下ろして、桜蓮は虚ろに息を吐いた。
 友人だった少女を侮辱した男を殺した。彼女が睡眠時間を削ってまでも救おうとした男を手にかけた。悲しみだけを生む殺人鬼をこの手で殺めた。
 だというのに。
 ――友の仇を取ったときと同じだ。
 達成感も高揚感もありはしない。ただ疑念と十字架だけが心に重く突き刺さる。
 こうするのが最良の道だったのか。
 本当に正しかったのか。
 凝りもせずに、また同じ間違いを犯したのではないのか――。
「これで良かったんだ」
 振り切るように、桜蓮は剣の血糊を払った。

深夜の殺人鬼(景晶/現パロ)

 人を殺したそうだ。
 深夜のインターホンに思考の沼から引きずり出され、渋い顔をした晶がドアを開けた先に腐れ縁が立っていた。ちょうど晶の家の真正面にある街灯の明かりを背負って、表情を黒く逆光で覆い尽くした景光は、いつにも増して低い調子で人を殺したとだけ告げた。
 思わず目を剥いた晶はまじまじと彼を見る。言葉は素っ気ないくせに態度だけで手を差し伸べてくる、このどうにも憎めぬ男が、今しがた誰かの命を奪ったとは俄かには信じがたい。
 信じがたい――のだが。
 彼がそう言うならそうなのだろうなとも思った。故意にしろ、事故にしろ、正当防衛にしろ、景光は晶のあずかり知らぬところで重罪を犯したのだ。
 そう思うと何故だかひどく笑えてきた。微動だにせぬ景光に普段通りの笑声を立てて、彼女は明るい玄関から声を投げかける。
「何してるんだい。それならボクのとこじゃなくて警察に行って自首でもした方がいいだろォ。まあいいや、とにかく上がって。昨日キミが置いてった酒を処分してくれ」
 彼がひどく場違いな声に疑念を呈したのはすぐに分かった。それすらも心底おかしくて、彼女は玄関の施錠を済ませるまで声を抑えて笑った。
 そのまま廊下を歩く。居間である和室に正座をした景光は普段の通り真っ直ぐに背筋を伸ばしていて、一瞥した晶の脳裏には思い直したように疑いがよぎる。
 さっきの妙な、、納得は、彼が暗いところにいたせいかもしれない。長いこと科学的な情報の渦の中で思考していたせいで、晶の冷静な判断力は思索の中に沈んでしまって、黒く塗り潰された顔に深刻なものを感じ取ってしまったのじゃないか。
 ――まあどうでもいいや。
 彼が昨晩置いていったビールを冷蔵庫から持ち出し、ついでに賞味期限の迫った蟹缶があったとキッチンを探る。料理をしないおかげで唯一秩序を保っている場所であるだけに、目当ての缶は想定の場所から動いてはいなかった。
 ついでに自分のぶんのインスタントコーヒーを用意する。久しく使っていないトレイを、いつのものかも分からぬキッチンペーパーで乱雑に拭いて、その上に一式を載せた。
 居間への扉は片手で開ける。
 果たして彼はそこにいた。お待たせと気の抜けた声を上げ、机を挟んで胡座をかいた彼女は、冷えたビールを彼の前に置く。
 そのまま景光を見る。
 能面のような表情にいつもの生気がない。事故だかで失ったという右目を覆う包帯の白の下で、唇が固く引き結ばれている。普段から無造作な黒髪も、先入観に邪魔されて心なしか乱れて見えた。
 それから。
 白いシャツ。
 嫌な色をしている。茶褐色に乾きつつある大きな染みが残っている。見ようによっては被害者だとすら思えるだろう。
 そのまま俯いた。表情が窺われぬよう、晶はなるべく呑気な声を上げようと努めた。
「研究が進まなくてさァ、今のところ八方塞がりなんだよねェ。土中の微生物なんだけど。知らないうちに日が昇ってるとこだったよォ」
 カシュッと小気味いい音がする。こんな状況でもビールは飲むのだな――と上目に覗く。
 それから思い直す。
 とにかく何かをしていないと落ち着かないのだ。
 晶も同じだった。殊更大きな音を立てて、五百ミリリットルの缶を一気に呷る景光の喉へ視線をやりながら、何かに焦る気持ちで蟹缶を手に取る。
 缶切りは必要ないが、いかんせん開け慣れない。十数秒の茫洋とした格闘に早々に見切りをつけ、彼女は手の中のそれを無言で男へ突き出す。
 受け取る指が震えていた。
 一気飲みするからだ――と思うことにした。
 彼も同じだったろう。言い訳もからかいもなく、缶の開く音だけをまんじりともせずに待つ。
 気の抜けた音と同時に、金縛りのような強張りはゆるゆると解けた。
 それなのに、晶にしては珍しいことに口が開かない。訊かねばならないことが沢山あるような気がするのに、口にしようとするたびに霧散する。異様な喉の渇きを潤すための珈琲が、嫌な苦味を残して余計に水分を奪っていく。
 ――彼はこれからどうするのだろう。どうして、どうやって殺したのだ。凶器は。家は。その前にシャツを洗わなくては。晶とて女だ、血液用の洗剤くらいはある。あれをあげよう。
 それよりも。
 遺体はどう隠す。
「カゲミツ」
 漫然とした意識で反射的に口を開いていた。
「――埋めようか。二人で」
 男の目が持ち上がる。驚愕を走らせた瞳が揺れている。飲みかけのビールを静かに置いて、彼は一つ唾を飲み込んでから、家に入って初めて声を上げる。
 それが嬉しくて少女は笑った。
「如何いう心算だ」
「どうもこうも。だから埋めようってさ。このままじゃキミ、捕まるだろ」
 捕まる。
 晶の頭には妙に生々しいイメージが膨らんでいる。手錠を掛けられた景光が、複数人の警官に囲まれてパトカーへ近づいていく。もしかしたら頭からコートなんかを被っているかもしれない。記者のカメラが発するフラッシュが鬱陶しく光る。テレビにはさも凶悪な殺人犯だといわんばかりの煽りと、彼のフルネームや年齢が表示されるだろう。キャスターはまたかと言わんばかりの淡白な声でどこそこ大の学生だと原稿を読んで、コメンテーターが好き勝手に戯言を並べて時間を潰し、次のニュースが表示される。
 ――駄目だ、それは。
「場所は、そうだな、前に旅行で見た山。あの辺とかどうだろう」
「と為ると車か。飲酒運転に為るな」
「キミ、実は馬鹿だろォ」
 ようやく晶は本気で笑った。今更何を言っているのだ。
「あの辺って人も入らないみたいだし。それにほら、ボクがシャベル持ってるしさァ、後でこの辺の土の微生物調べようって、サンプル取るために学会のトモダチ呼んで庭でも掘れば」
 そう捲し立てながら、少しずつ、彼女は自分の言葉に潜っていく。
 血塗れの遺体。きっと晶はそれが誰なのかを知らない。車に血痕が残らないようシートを敷いて、その上にどこかの誰かを寝かせる。血液は落ちにくいから、現場の周囲は早めに掃除をした方がいいだろう。そのままシャベルと一緒に車に乗って、遠くまで走る。
「の前に凶器の隠蔽か。一緒に埋めちゃえば――」
「晶」
 静かな声で夜の静謐に気付く。知らぬ間に乗り出していた体を戻した晶は、今まで満ちていた高揚が一気に冷えるのを感じた。
 駄目だ。
 全部駄目なのだ。
 今取れる最善の方法は、大人しく彼を殺人犯として警察に向かわせて、あのフラッシュとキャスターの淡々とした声に晒すことだ。
 そう進言しようとした彼女の覚悟を遮って、景光は真っ直ぐに晶を見た。
「包丁は海に投げた方が良い」
 静寂がある。
 生温い珈琲で喉を潤した。先程のような重苦しい味はしない。
「埋めるか」
「埋めようか」
 こちらを見据える景光と同じ、能面のような顔で、晶は立ち上がった。

因果(景晶+奈楠)

 戦いは因果応報で出来ているらしい。
 晶にはよく分からない。人が凶弾に斃れる理由が応報であるとするなら、医者は随分と因業な職業だということになってしまう。
 そんなことはない――。
 と。
 思うから、晶は今日も不実な仕事を続ける。適当な名前をつけたカルテを捲り、毒に侵された黒い男を助けんと、人目を避けて戦場に立つ。
 それを人は裏切りと呼ぶらしい。
 彼女の知ったことではないが。
 裏切りだというなら、助けられるはずの命を見捨てることこそをそう呼べばいい。罵られるべきは晶ではなく、この不毛な戦争そのものであるべきだ。
 焼け焦げた草のにおいを吸い込む。重苦しく地に吸い込まれた鉄錆が、足に絡みつくようだった。静けさを孕む森の開けた場所で、医者は患者を待っている。
 ふと――。
 足音がした。一瞬だけ輝かせた瞳は、しかし即座に怪訝を浮かべる。
 聞き慣れた重みがない。不規則で踊るようなそれは、およそあの男に似つかわしくはなかった。
 敵か。
 ――敵だろうな。
 今の晶にとってみれば、自分と患者以外は全員が敵だ。
 果たして、樹々を破って現れたのは、華奢な少女だった。茶色の髪の奥で見開かれた眼差しが真っ直ぐに晶を捉えている。手にした三又の槍に、鈍く日差しが反射している。
 話は。
 恐らく通じない。
「こんなところまで何の用だい。迷ったなら、ボクが案内してあげようかァ」
 ゆっくりと、地面に突き立てた大鎌へ手をかける。装いからして戦闘兵であろう彼女に救護兵が敵う道理はないが、抗うことをやめるのは癪だ。
 眼前の少女は応えない。代わりに、ひひ、と喉を震わせた。
「あ、あなたに、用が、あるの――!」
 振りかざされた槍の穂先に、言葉が無駄であることを知る。
 紙一重で右手を持ち上げる。服を掠めた一撃には容赦がない。思わず伝う汗を拭う隙も与えられず、晶は鎌を握り直す。
 金属音と共に衝撃が走る。腕力で競り負けた体への追撃は、まともに左腕へ突き刺さる。
 零れ落ちる赤に歯を食いしばった。睨みあげる先の少女は、恍惚と歓喜に満ちた嗜虐の笑みで顔を歪ませている。
 万事休すか。
 ゆっくりと穂先が臓腑を向く。陽光を遮る死神が、少女の影の形をして晶を覆う。目を閉じて最期の息を吸い込む彼女の耳に届く――。
 ――金属音。
「ひひ、き、来て、くれたね、や、やっぱり!」
 狂気じみた歓喜の声音に目を開けた。
 見慣れた背中が野太刀を無造作に構え直している。一瞥する隻眼に声を失った。
 最低最悪の最期を切り払った、白刃のような男が――晶を庇うようにそこにいる。
 言葉はない。ただ、あの茶髪の少女を斬り伏せるべく立つのだと、野太刀に漲る殺気が告げている。
 俄かに戦場の空気を帯びた木々の合間に、少女は後退する。構え直された穂先から滴る赤錆色が、待ち望んだ獲物との戦いに飢え、跳躍せんと地を蹴る。
 その。
 刹那に。
 響き渡る銃声を理解するまでに、数秒を要した。
 目の前に立つ、名も知らぬ患者の体が崩れ落ちる。俯せになった体から、鉄のにおいがじわりと滲む。
「――な」
 情けない声が漏れた。頭痛を加速させる呼吸音が耳障りで、思わず耳を塞ぎそうになる。
 ――けれど。
 医者としての晶は、それを決して許さない。震える手で鞄を漁り、包帯と止血剤を引きちぎるように取り出す。力を失った体を仰向けに持ち上げて。
 それで。
 後悔した。
 撃ち抜かれた胸からおびただしい赤が流れ出ている。土気色の顔に呼吸はない。光を失った瞳孔は開ききって、既に何も捉えてはいない。
 彼は。
 ――いや。
「生きるんだろ」
 止血剤を彼へぶちまけ、包帯を巻く。心臓に体重をかけて、逃避じみた蘇生を試みる。
 それでも肉塊は肉塊だった。
 ――因果も応報も、この戦場にあるという。
 ならばこれが因果か。
 晶の成したことへの報いか。救うべき命に向き合い続ける裏で、寝台の上の赤黒い肉塊を金に換えて生きてきたことへの罰か。
 ――なら、巻き込むなよ。
「死なせない、キミはボクの患者だ、なあ、生きるって言ったろ、起きてくれよ、ボクはまだ、キミの名前も――!」
 震える声で叫ぶ晶に。
 影がかかる。
 振り向く紫の瞳に、迫る死神の穂が映る。
「景光くんを、殺した――あなたの、計画、なんでしょ?」
 振り下ろされる刃の鋭さに目を閉じる。傍の肉塊の手に触れれば、残った生温さが体中を駆けた。
 ――キミ。
 ――カゲミツって言うんだ。
 赤く染まる医者の体から無造作に槍を引き抜いて、奈楠は表情を憎悪に歪めた。
 振り上げた刃に力を込める。もう一度、少女の死体を嬲ろうとして。
 二度目の――。
 銃声が鳴る。
 倒れ伏した奈楠の沈黙を後に、白のブレザーが、規則正しい足音で踵を返した。

夏の夜の(景晶/現パロ)(R15)

 どういう会話の流れだったのか、よく覚えていない。
 揃いの指輪を左手の薬指に嵌め、晴れて事実上の婚約者となった景光と晶であるが、告白らしい真剣味もないままここまで来た関係だ。腐れ縁を引きずりすぎて、恋人らしい行為にもとんと縁がなかった。
 だから、夏祭りだというのに、二人でいつもの如く部屋にいたのだ。
 冷房に体を晒し、アイスを囓って会話を続ける。景光の家の、香りのいい畳に寝そべって、晶はぼんやりとテレビを眺めていた。
 男女の夜の関係についてしたり顔で解説する心理学者に、もっともらしく頷く司会者の顔が、心に幾ばくかの残像を焼き付けて流れていく。
 確かそれで。
「キミってさァ、そういう願望とかないの?」
 景光がゆるりと晶を見た。細められた瞳に、いつもと同じ色を宿して、顔色一つ変えずに言ったのだ。
「試して見るか」
 それで――。
 それで。
 晶は畳に組み敷かれている。
 安っぽい円型の蛍光灯を遮って、景光の髪が顔をくすぐった。眼鏡越しに見える視界に、冗談とも本気ともつかない真顔が見える。
 ゆっくりと。
 近付くのを止めはしなかった。唇を食まれて初めて、そういえばこれがファーストキスとかいうやつなのだったと思い出す。
 ――まあいいか。
 軽い口付けを終えて、見つめ合う瞳に間がある。まるであの冗談めいたプロポーズを交わしたときと同じような調子で、お遊びの延長かのように買った揃いの指輪が嵌まる指を絡めた。
 指先がホックを弾いても、結局、晶は景光を咎めることはしなかった。再び重ねた唇の間に、舌が割って入るのを合図に、彼は指先を体に這わせる。
 妙な感覚だった。
 くすぐったいような心地が先にある。その中にある、感じたことのない甘やかな刺激が、少しずつ引き出されていく。
「ん、ちょ、っと、カゲミツ」
 慣れないことは苦手だ。まして、自分の口から漏れるのが、鼻にかかった甘い声なら尚更だ。
 男の方が静止に耳を貸す様子はなかった。指を唇に代え、晶の体をなぞっていく。
 拍動が煩わしかった。漏れる吐息が甘く乱れるのも理解できない。いっそ恐怖めいた混乱とともに、幾度めかに呼び止めた景光は、ようやくふとその動きを止める。
「晶」
 彼の息が乱れていることを、彼女はそこで初めて知った。
 ――ボクでも興奮するんだな、キミ。
 他人事のように納得した言葉が、心に染み込んで奇妙な達成感になる。未知の感覚は強まるばかりだが、それでも恐怖は消えた。
 祭囃子の音が遠くにする。
 閉じた瞼の裏に、夏祭りの喧騒を描き、晶は絡めた指に力を込めた。

景光さんまとめ

景光さんまとめ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 奇特な医者(景晶)
  2. 砕く(零式+景光)
  3. わだかまる心の(景晶)
  4. 鬼と(景光+桜蓮)
  5. 修羅と(景光+桜蓮+晶)
  6. 二月十四日の医者(景晶)
  7. 戯れた約束(景晶/現パロ)
  8. 生と死の(景光+桜蓮)
  9. 深夜の殺人鬼(景晶/現パロ)
  10. 因果(景晶+奈楠)
  11. 夏の夜の(景晶/現パロ)(R15)