学戦関連(ひときさん)

黒鉄(黒軍)

 黒づくめの青年の足音が反響する。
 薄暗い廊下に満ちていた静寂が、彼を避けるように引いていく。学ランの襟を直しながら、長身は無機質な学校の扉の前に立った。
 ――今日も戦果は上々だ。
 彼の手によって失われた命の数など、数えるのも馬鹿らしい。浅黒い肌に僅かな翳りが差すのを誤魔化すように、天井にぶつからぬよう屈みながら、彼は報告を待つ大人たちの前で、灰色の瞳を細めて見せた。
「第二小隊小隊長、只今帰投しました」
 ――太平を超えて、日本全土は戦火に包まれている。
 突如として現れた異国人の持つ莫大な科学の力に、国は大いに割れた。日本に新たな富をもたらすであろう力に屈した者と、日本という国を他者へ明け渡すことを良しとせぬ者である。
 長すぎた安寧の代償を払うかのごとく――。
 国民全員を巻き込んだ戦争で、限りある兵力が底を尽きるのは時間の問題だった。両軍の消耗が激しくなっても、この島国を二分する戦いは、未だ終わりの兆しを見せない。
 いよいよ疲弊した軍が、新たな人材を血眼になって探すのも、当然のことである。
 学生。
 白羽の矢が立ったのは、国を担う次代であった。各地に氾濫した寺子屋は学校と言う区分で纏め上げられ、何も分からぬままに集められた子供たちに戦闘訓練が科せられる。
 軍人と同じような立場で、軍人と同じように武器を振るい、そして――。
 軍人と同じように人を殺す。
 実力をつけるだけ――人を殺せば殺すだけ――彼らの地位は向上する。小隊長に選ばれるのは何も黒づくめの青年に限ったことではなく――。
 彼らに敵対する者もまたそうであるのだ。
「小隊長も楽じゃないねえ。俺はもっと楽な仕事がしたい」
 白いブレザーの下のシャツを着崩した青年がぼやく。黒が歩んだものとは違う、最新化された設備の中を軽やかに歩きながら、彼は視線を遮るサングラスの縁を持ち上げた。
「第三勢力って潰したって聞いた気がするんだけどな。気のせいだったか――」
 鼻歌まじりの指先が新しく下された指令を中空に描く。忘れぬようにと脳に刻みつける一字一句と共に、腰の蛇腹剣が耳障りな音を立てる。
 敵が誰であれやることが変わるわけではない。
 この学び舎で教わった、人を殺すためだけの技術の粋を振るい、相手のそれとぶつけ合う。生き残った方が勝者であり、地に伏した方が敗北者だ。
 それだけのことである。
 薬莢のくすんだにおいの中、勝者たる赤いジャケットの青年が得物である大剣を持ち上げた。血の一滴も流さぬまま首の骨を折られた骸の前で、荒れた息を整えながら吐き捨てる。
「ああ――ったく、いい気しねえっての」
 ふとずり落ちたジャケットの下から生々しい傷痕が覗いた。憎々しげに眉根を寄せながら羽織り直した彼が肩を回して首を鳴らす。
 随分と自身の率いる小隊から離れてしまったような気がする。
 隊長がこんなことでは仕方がない――苦笑しながらも不安はない。元よりはぐれ者の寄せ集めであるのだから、本来ならば隊長などという役すら必要はないのだ。
 それぞれの色を纏った青年が、己の安息を求めて足を踏み出したときだった。
 背後から呼び止められて振り向く。それぞれの前に立つ己と同じ色をした存在が、彼らにいつものように問うのだ。
 ――何故戦う。
 白が笑い、黒が口元を引き締め、赤が眉を顰める。
 ――そんなもの。
 最初から決まっているとばかり、淀みなく応えるのだ。
 国を安寧に導くものに染まった白の。
「誰だって生きたいに決まってるさ。でもって」
 かつての意思を貫く鋼の黒の。
「戦いで生き残るためには勝たねばならない。そして」
 裏切り捨てられた己だけを信じる赤の。
「この世は戦いで出来てる」
 ――それぞれの描く勝利が、まだ見えないのだから。

 ファイルを閉じた指先がそのまま口に咥えた棒を握った。
 口の中で飴を転がす少女が、黒い軍帽を被りなおしながら、眼前の無表情を見上げる。
「こんなところです、隊長」
「了解した。助かる」
 浅黒い肌の隊長と呼ばれた青年――甘津秀助の灰色の瞳は、彼と同じ色の瞳をした少女――雨燕を瞥見してファイルの表紙に注がれる。武骨な指が確認するようにページを捲った。
 紙の擦れる音の間で沈黙する。
 元より言葉の多くない二人である。空気にも似たように訪れる静寂の中に、緩やかな時間の流れだけを数えているうち、秀助の瞳がふと持ち上がった。
「夜牙」
 無感動な声が低く大気を震わせる。
 ややあって、机の影がぬらりと割れた。蛍光灯の光に照らされた黒髪の下で青年が笑う。温厚な容貌に陶酔の朱が差して、開いているのかも分からぬ目がますます喜悦に持ち上がった。
「私の気配に気づいてくださるなんて流石は隊長です! ああ何という幸せ」
「夜牙」
「隊長が私の名前を呼んでくださる!」
 呆れたように頭を抱えた秀助に雨燕が苦笑する。
 秀助の椅子に纏わりつく夜牙に目を移して、彼女は手元の書類を叩いた。耳障りな紙の音でこちらを見た糸目に不敵に笑う。
「大体の作戦は総隊長に提案してありますから、そのうち正式に指示が出ると思います。夜牙先輩も頼みますよ」
「ええ。負けることに関してはお任せください」
「――勝ってください」
「雨燕さんも私と手合わせしたことあるじゃないですかぁ、やだぁ」
 私ってば弱いんですよ――。
 手を合わせて笑う袖から細く白んだ腕が覗いた。どうにも返す言葉がなくて、雨燕は先程と似たような苦笑で視線を泳がせるしかないのだ。
 ――彼が弱いのは真実である。
 再び隊長へと意識をやったらしい夜牙と、無表情に彼をあしらう秀助に軽く一礼をしてから、閉じられていた教室の鍵を開けた。
 予想より大きな音を立てる古びたドアの向こうに赤がある。
 生気を失ったような白い髪と白い肌が、唯一の異彩を瞬かせた。手に書類を抱えた小さな体が真っ直ぐに雨燕の目を見詰めている。黒い眼帯で片目を覆った、ともすれば年下にも見える姿を見下ろす。
「伊織先輩」
 名を呼ばれて小首を傾げた伊織が訥々と言葉を発した。
「イオ、でばん、ある?」
「今回は――俺の作戦ではありません」
 頷いた彼女に無言で用を促す。
 命があれば即座に暗殺部隊として秘密裏の処理を行う伊織も、平時は雑用係として軍の会計を担当している。その立ち位置上、彼女が走り回っているからといって急を要するわけではなかろうが、軍内の状況を可能な限り把握しておくのも司令塔たる雨燕の役目だ。
「零式が、夜牙、に、ようじって。秀助のとこ、たぶん、いるから」
 黒翼零式。
 ――その名に浮かぶ笑顔に、つい視線を外した。
「碌な用事じゃない気がしますが」
「イオ、も、そう思う」
 俯いた口から無感動な声が漏れる。直後に背後の教室から派手な鋭い音がした。
 夜牙の悲鳴とにこやかな声の狭間で、二人はそれが窓硝子の割れた音だと知った。顔を見合わせた彼女らの騒々しい沈黙は、雨燕の溜息で遮られる。
「伊織先輩。今月は」
「まっかっか」
 開かれた帳簿のマイナスを見た。
 残念ながら――黒軍の予算はそう多くない。ただでさえ長すぎる戦争により国内の貨幣流通が滞った状態であるのに、それを全国の各校に分配しているのだから、一校あたりが管理できるのは雀の涙にも満たぬ数字だけだ。
 それを。
 大きく扉を開いた黒づくめの長身が、胡散臭い程の清々しい笑顔で今破壊したわけである。
 首を大きく持ち上げた伊織が、四十センチ以上の差のある黒髪を見上げて首を傾げた。
「夜牙、いた?」
「ええ、ありがとうございました。お陰様で日課の夜牙くんいじりが捗ります」
「勘弁してくださいよ、頼みますから」
 零式の後ろで心なしかやつれたような顔をした夜牙が首を横に振った。自身の後ろに隠れたきりの彼を一瞥して、彼らの騒々しさを尻目に内容を理解したらしい秀助が、雨燕に向けてファイルを差し出す。
「作戦は把握した。いないのは」
 暫し沈黙する。
 恐らく軍内で任務に出ていない主要な面々はここにいる。一つ瞬いた伊織が細く無機質に声を上げた。
「忌世と、真と、燕が、かえってきてない」
「花房先輩と猿麻もまだ帰投していませんね」
 雨燕の声に再び周囲を見渡した秀助が、灰色の瞳を細めた。真剣な面持ちに僅かに張り詰めた空気に、戦場を焼く火薬のにおいを微かに感じて、全員が彼の声を待つ。
「全員が帰ってくるころには正式に作戦も下されるだろう。それまでは、各自休息を」
 各々の返事が重なる。解散していく背を見送りながら、秀助は学ランに隠れた己の足に触れてから、一度息を吐き出した。
 ――全員が。
 生きて帰って来られるかも分からぬ戦場で、全てを握っているのが、彼の指揮だ。秀助の背負った信頼と重責を笑い飛ばすように振る舞う彼らとて、彼と同じように命を奪い、奪われようとしている。
 灰色の目を瞼の内側に仕舞う。
 鋭く息を吸い込んで、再び開いた瞳にいつもの覚悟を宿し、彼は足に遣っていた手を離して歩き出した。

夜桜城(黒軍・赤軍)

 はらりと舞い落ちた薄桃を摘まむ。
 見慣れた指の先に見る堅牢な石垣は、月明かりに深々と沈んでいた。連れ立った闇が蠢くのを押し殺した空気の中で感じながら、泉は目を閉じる。
 凪いだ風が一陣舞った。
 黒派第二高校本丸――墨俣一夜城。
 四月の初めとは思えぬ凍てつく空気が泉に纏わった。疲弊しきり、最早かつての栄華となった堅牢な檻の中に身を隠すしかなくなった黒軍を、彼らが終わりにする。
 重苦しく垂れこめた灰色の雲を裂くように警鐘が鳴る。物見櫓の人影を瞥見した泉が大剣を抜き放つや、影を割った赤が馳せた。

 舞い散る桜の孕む光が鎖鎌に触れて削げ落ちる。昂ぶる金にちらつく黒を易々と斬り伏せ、己の得物を一振りした蓮華が目を上げた。
 木造の床に刺さる大振りの太刀を浅黒い手が支えている。鼻と目元に入った朱が不敵に侵入者を笑っている。
「てめェの狙いは俺だろ」
 その穏やかな殺意に、蓮華が目を剥いた。剥き出しの牙の間から獣めいた唸り声を漏らす彼と仇の間を、風に舞いあがった薄桃の壁が阻んだ。
「ここで仕留める――花房虎親ァ!」
「望むところだ。来やがれ」
 灰色の曇天に乗る薄桃が、野太刀の刃に煌めく。

 覚束ないまま殺した足音が止まる。
「てめェ、赤軍か」
 少年じみた色の残る声の威圧にすら、箕島タイガの肩は震えた。敬愛する蓮華との合流だけを考えていた頭を不快な敵がかき乱す。
 ふらつく指先が押し殺すようにホルスターをなぞった。目の前で構えられた拳に焦点を合わせられずに、唇が戦慄く。
「こんなときに押し入ってきやがって。許さねえぞ」
 タイガの恐怖には目もくれず、怒りを湛えた猿麻の大きな瞳が眼前の少年を睨む。仄明かりを遮る花弁の一枚すらも邪魔だとばかり、彼の純粋な殺気がタイガを射抜いた。
 唾を大きく飲み込んで、震える手で黒塗りの鉄塊を構える。月光にぬらりと浮かぶ拳銃の昇順が桜の先にある額を狙う。
「ぼく――俺は確かに赤軍です。ここに来た役目、果たさなきゃ」

「この景色を二人で見られたことを幸運だと思うべきなのでしょうか」
「分かりませんわ」
 諦めたように首を横に振ったアグネリアが、対峙する愛しい黒を見上げた。儚い桃色に包まれて髪を留める十字架が揺れている。
 掌に落ちた愛らしい薄膜を握り締めて、彼は眉尻を下げたまま、それでも尚笑って見せるのだ。
「貴方は侵入者。私は迎撃者。今回ばかりは、愛を囁くことも許されなさそうだ」
 冗談めいた悲壮が二人の間を遮る。
 今すぐにでも手を伸ばしたい衝動を振り払うように首を振って、アグネリアは手にしたナイフの切っ先を愛する男へ向けた。
 ――大丈夫だ。
 傷つくのは今だけだ。拳を構える彼はきっと、彼女と共に生きてくれるのだから。
 だから――。
「いつかこの景色を手を繋いで見られるように、零式様――お覚悟を」
 手が震えることはない。

 扉を開いた黒がへらりと笑った。
「侵入者はっけえん。燕ガンバ」
「貴方も頑張るんですよ、真」
 小さな体を不安げに名無しへ寄せていた恵真が恐怖に震える双眸を名無しへ向ける。汗で滑る右手を刀に掛けながら、動じる様子もない仮面の友人に弱々しく囁く。
「ナナシ、エマどうすれば」
「下がってるの。自分が全部終わらせるから、目を閉じてればいいの」
「そんなの嫌なのだわ。おともだちに任せるのは駄目」
 手にした兎の縫いぐるみを地に落としながら叫ぶ恵真を見詰めていた燕と真が顔を見合わせた。
 ――ここは戦場だ。
「お話してると俺らが先手取っちゃうぞ」
 交錯するように身の丈ほどのチャクラムを構えた二人が同時に馳せる。狙いは――。
 見開かれた紺碧を庇うように、恵真の目の前を横切る桜の花弁がトランプに撃ち抜かれた。
 燕の頬を掠めたそれを気に留める様子もなく、冷静に距離を置いた彼が、シルクハットをかぶり直した仮面の少女に武器を向ける。
「随分と不思議な力をお持ちで」
「友達の――家族のために使う力」
 一瞥。
 それで彼の意図を理解したらしい真が、体勢を立て直した恵真に向き直った。
「手、震えてるけど大丈夫?」
「心配はご無用なのだわ。エマはナナシのおともだちなのだわ」
 鈍い銀に、堪えきれずに天から降り落ちた白が光った。

「いお異邦」
 後ろを向いたきりののえるが、夜桜を見詰めながらようやく声を発した。
 隻眼の少女が無表情に首を傾げる。手にした大斧が不愉快な金属音で少女の声を引き裂いた。
 だから、のえるは大きく声を上げる。
「あたしたち、おともだちになれましたか」
「うん、なれたよ」
「ならいいんです。思い残すこと、ありません」
 向き直った彼女は笑ってなどいない。
 目に涙を溜めて、恐怖に震える足を奮い立たせて、諦めたような敵軍の友人を見据えている。
「行きたいところがたくさんありました。でもそれももういいんです。あたし、いお異邦と――伊織ちゃんとおともだちになりたかっただけなんだって、分かりました」
 両手を大きく広げる。舞い散った桜が月光と雪に白く滲む。
 美しい――この夜に。
「わたしも、そうおもってた」
 伊織は再び、親友に斧を振るう。

 敵の城ながら素晴らしいと遙は思う。
 後方の気配に無防備な背を貫きながら、彼はゆったりと振り返った。その先にいる長身の女が咥えた棒を引っ張り出している。
「知ってっか。桜の木の下には死体が埋まってんだとよ」
「そうらしいですね」
 引きちぎられたような黒いセーラー服の端を揺らして、凍てつく白が吹き込む。再び口に戻った飴を転がして、雨燕は掴みあぐねる敵を見据えた。
「墨俣一夜の夜桜城――っつって、粋じゃアねェか。後は伝説が本物になりゃ完璧か」
 肩を竦めた遙が笑う。
 そのある種の不遜さに麻痺していた本能が揺さぶられた気がして、雨燕も唇を吊り上げるのだ。
「埋まるのはそっちと相場が決まってるでしょう」
「理由を訊こうか」
「桜は赤を吸ってこそ美しく咲くんです」
 抜き放たれた清澄な銀に、白く溶け落ちる花弁を重ねて、彼女は馳せる。

 刹那の攻撃に辛うじて大剣を抜くことに成功した夜牙が、目の前の闘争心を見据えて苦笑した。
「見付かってしまいましたか。これは私死にましたかね」
 金属に阻まれた足をこともなげに引き戻したティナが鼻を鳴らす。夜牙の困惑は一層深まる。申し訳程度に構え直した大剣がどこまで通用するかも分からぬというのに、素早い彼女を相手取らねばならないというのだ。
 チャイナドレスの裾を撫でる白雪を掬い上げ、殺意を孕んだ指先が退路を探す夜牙の糸目を睨んだ。
「御託は必要ありません。武器を構えてください。私は泉様のところへ行かなくちゃいけないんですから」
「おや――そういうことなら話は別です」
 撤退先を求めた瞳がティナを射抜いた。ゆっくりと開かれた赤い瞳が、獰猛な獣の牙で彼女を狙う。
 重苦しく冴える空気を月明かりに照らして、桜の花弁を易々と斬り落とした切っ先がティナに向けられた。
「隊長を一目拝むことも許さねえ。ここでくたばって――花見の肴にでもなっちまえ」

 雪ごと桜を握り締めた手が痛いほどの冷たさで頭に回った。
 鮮やかな――雪桜。
 その中に佇む浅黒い肌の指揮官を見据えて、泉の手が背の剣を撫でる。
「もう分かってんだろ。俺らがここに来た理由。襲撃相手に黒を選んだ理由なんかよ」
「ああ」
 秀助がゆっくりと頷いた。耳元で揺れる金に天守閣の窓から吹き込む白が触れて消える。
「それでも諦める訳にはいかない」
「何でだ」
「俺たちは勝つ。もう誰も犠牲にはさせないと、決めたからだ」
 真っ直ぐな。
 意思だけを孕む目が泉に迫る。
 求めるものだけを求める覚悟を決めた灰色が紺碧を見詰めている。
「その邪魔をするなら――泉、ここでお前を」
 その先を言うことはなく、秀助が拳を引いた。腕に装着されたボウガンが軋んだ音を立てる。
 何もかも――。
 分かった上で、彼は泉の前で立っている。誰に縋ることもせぬその尊い瞳にこそ、泉は笑えた。
「受けて立ってやらァ」
 抜き放つ武器に桜が吹き付ける。白と混ざって床を埋める薄桃の光の中で、赤と黒は己の武器をぶつけた。

止まる旋律(雷鷲+晶)

 旋律が途絶える。
 一つ息を吐いて鍵盤から指を離した晶の演奏を、拍手が一つ、惜しむことなく讃える。小さな背に臆病な瞳を輝かせて、雷鷲は笑った。
「晶さん、凄いです」
 その手にある譜面は、晶がこの白軍の本部がある国から携えてきたものだ。普段は草を挽いてばかりの指先は、時にその耳慣れた音を欲して、こうして鍵盤の上を滑る。
 それを雷鷲に聴かれたのは想定外であった。
 そもそも誰かに喋る気があったわけではない。しかし聴かれたことに憤慨するほどのこともない。
 人との関係への興味に薄い晶である。驚きこそすれ追い払いはしなかった。おどおどと謝る姿が小動物のようであったのに憐憫めいた感情が生まれたこともあって、気紛れに彼女の好きな曲でも弾いてやろうかと思ったのが、この密かな音楽会の始まりだ。
 殊の外ピアノの音色を気に入った雷鷲は、訊けば訊くだけ聴きたい譜面を指さした。晶にとってみればどれもさして変わらぬクラシックの一つに過ぎないが、小動物の瞳が輝くのが面白くて、その要望に応えるように弾いてやっている。
「次はどれがイイんだい」
「あ、えっと、これが――あっ、でも晶さんのピアノなら何でも好きで」
「ありがとォ。イイよ、ボクは機嫌がいいからね」
 受け取った譜面を無造作に置いた。滑る指先を構えてちらと期待に輝く瞳を一瞥する。
 何がいいのか――。
 薬剤師には一向にわからない。彼女にとっては趣味にもならぬ手癖だ。本国で待つピアノの師と連弾の約束をしてしまったから、その腕を鈍らせるわけにいかないという義務感と意地で、惰性のように鍵を叩いているに過ぎない。
 その何も乗らない音が美しいというのだ。
「キミさァ――」
 どうしてボクのピアノがいいんだい。
 訊こうとしてやめた。喜ぶという結果が大事なのであって、そこに至る理由に意味などない。毒草と薬草を混ぜ合わせれば新たな薬を作れるという事実と変わりない。分量そのものは意味を持ってはいないのだ。
 それよりも。
 彼女がクラシックを好むという事実の方が、晶にとっては重要だ。
「ボクと趣味が合いそうだよねェ」
「へ」
 調剤は詳しくないですと途端に泣きそうな声を上げた低い背を見下ろして、科学者はいつものように笑った。

 腹から零れる臓物は見慣れたものだった。その赤さを拾い上げて、晶はただ酷くなる眩暈を堪えて踏みとどまる。
 やるべきことは簡単だ。
 冷えた体も虚ろな目も関係はない。この台に乗せられてしまえば、全て検分し慣れた死体の一つでしかない。その傷を裂いて、血の温度に手袋を埋めて、かの者を殺した武具を特定する。相手の持つ戦力を知るための重要な手掛かりの一つにすぎないのだ。
 死んでしまえば来歴は関係ない。
 ――それが、晶のよく見慣れた顔であってもだ。
「らいじゅ」
 臓腑の傷を抉りながら初めて名を呼んだ。浸した手の温度に余計に頭痛がひどくなる。
 いつだって、戦場は死のにおいを纏っている。救護室は裂け落ちかけた命を縫合する場でありながら、同時に剥がれ落ちた生を見送る場所でもある。粛々とこなす事務手続きの全てが誰かの命で――誰かの死だ。
 知り合いの腹など捌き慣れた。よく見る顔が呆けた口の中を赤黒く染めたまま動かなくなって運び込まれることだってある。
 だから。
 晶は冷静でなければいけない。
 ――この寝台の上の死が、友人だと思っていた少女のそれであっても。
「言った通りだろ」
 引き攣る唇でいつものように笑った。
 この小さな手が、幾つの体を寝台の上へ運んだろう。因果が彼女に報いたのだとしても、生を信条としながら死をこそ金にする晶に報いたのだとしても、もうどうでもよかった。
「人ってのはさァ、死なす方がよっぽど簡単だって――」
 笑顔も。
 涙も。
 生も死も嘘も真も願いも秘匿も感情も。
 ――ピアノも。
 死んだらそこで終わりなのだから。
 視界を覆うように額に当てた手から、鉄錆の温度が頬を伝った。

雨音が響く(竹雷)

 戦場は。
 死と血のにおいに溢れている。
 その中にあって雷鷲は生き延びてきた。隣に立つ少年の手を引くように先導しながら、走り慣れた地を横切っていく。血に塗れた白銀を握る小さな背が体液の染みた泥を踏んで跳ねた。
 遠くで――。
 大砲の音がする。
「はわ、黒軍でしょうか」
「そう――だろうねえ。はは、凄いなあ」
 普段の通り笑う竹蔵を振り返って、雷鷲の目が瞬く。その先にある楽天的な表情に彼女も笑った。
 肉塊の中を超えて、幾つかの体を物言わぬ屍と変え、二人は先を急ぐ。正面に砲撃隊を展開した黒軍の布陣に対し、横から回り込み奇襲と攪乱を行う少数先行部隊の役割を担う彼らは、敵陣の只中にあってひどく目立つブレザーを茂みに隠しながら、哨戒の黒を幾つか薙ぎ払った。
 予想する布陣は――。
 偵察班と諜報班から与えられた情報の推測から成る。戦地にあっては射影機などという大仰なものは使えない。
 それ故に。
 低い砲撃音と共に雷鷲の脇腹に空く大穴に、竹蔵もまた理解が追い付かなかった。
 小さな体が容易く吹き飛ぶ。中空へ鮮紅の軌跡を描きながら軽く地を跳ねる少女を、ただ目を見開いたまま視界に入れる。手から吹き飛んだ不釣り合いに大きな得物が地を滑って転がっていく。開いた穴から噴き出す赤黒い管と消えていく瞳の色に――。
 呟いた名が鉄塊の発射音で掻き消された。
「雷鷲ちゃん」
 ――砲口は。
 ――正面だけでなく。
 震える声で名を叫びながら駆け寄る。茫洋と開いた瞳が自身から溢れた赤で汚れていた。唇から溢れる赤黒い液体に泡が混ざって吐き出されていく。
 その。
 手を。
「冗談――だよね」
 握って、竹蔵は眼鏡の向こうの瞳を揺らす。
「雷鷲ちゃん、大丈夫、大丈夫だから」
 何が。
 吐き出された管。光を失った瞳。唇を伝う赤黒い何か。土気色に変わっていく顔。耳障りに繰り返されるばかりの呼吸。
 ――何が大丈夫なのか。
 分かりもせぬまま、彼は笑った。浅く肩で息をしながら温もりを失っていく手を繋ぎ止める。冷たさを増す体を摩りながら、傷口を塞ぐように零れたものを手で支える。
「雨音、が」
 不意に響いたか細い声は、後方で上がる鬨の声にさえ掻き消えはしなかった。
 脳髄に響き続ける鼓動と呼吸音。痛みさえもまどろみの奥へ失われていく感覚の中に、手を握る温度だけを繋ぎ止めて、雷鷲は音の雨の中で、隣にいるであろう少年の手を握り返した。
「ひび、い、て――います、ね」
 言って。
 その名を呼ぶ猶予さえなく。
 消えた少女の呼吸に、少年の咆哮だけが轟いた。

音の最後(雷鷲+晶)

 音楽が好きだ。
 指先から紡がれる音の響きが好きだった。譜面を見据える眼鏡越しの眼差しは、趣味にもならぬ手癖だという言葉に似つかわしくない鋭さを孕んでいる。普段は薬に塗れている手が鍵盤を叩くのを、ただ目を輝かせて見詰めている。
 雷鷺の前で奏でられる彼女のための演奏は、その奏者と仲良くなるに充分であった。
 晶がピアノを弾くと知ったのは数週間前のことだ。誰も弾いていないであろうと思っていた備え付けのピアノから音がして覗いてみれば、普段は薬剤のことばかりを語る女が譜面を開いて鍵盤に指を滑らせていた。思いの外優しい音色につられるようにして扉を開いたが、止まった音とこちらを見る双眸に色を失くした。
 ただ頭を下げる彼女に、医者は目を瞬かせていつもの通りに笑った。隠していたわけではないと言った彼女が手を伸ばした理由が分からず首を傾げた雷鷺に、彼女は上機嫌に言ったのだ。
 ――好きな曲を言いなよォ。
 以来、晶がピアノを弾くときは、決まって隣に雷鷺がいる。
 今日もまた少女の希望した音楽が流れ、女の指は動きを止める。拍手に満足げな笑みを零した晶は、小柄な少女が跳ねんばかりに破顔するさまから視線を外した。
「ショパンの練習曲作品十の三。久々に弾いたなァ」
「前にも弾いたんですか?」
「まァね。ボクのピアノの師匠が最後に教えてくれたのがこいつさ」
 懐かしいと笑う横顔がふと雷鷺を見る。小首を傾げる彼女に向けて、一つ問うた。
「次の出撃は大規模な作戦だって聞いたよォ」
「あっ、です。向こうが凄くいっぱい砲台を出してくるとか」
 そうかと一つ唸った医者が指先で宙に文字を書く。
 ――何か考え事をするとき、彼女はいつもそうして何かを書いている。問えば思考を纏めているだけで特に意味はないのだと言われた記憶があった。
「ボクの仕事も増えそうだねェ」
 彼女の本業は救護班だ。薬剤の準備をせねばなるまいと立ち上がって、雷鷺の瞳を一瞥する。
 交錯した視線に目を丸くする兵士に、医者は扉に歩み寄りながら笑った。
「遠慮なくやってきなよォ。ボクが面倒見てあげるからさァ」
 幸運を。
 言って、白衣は扉の向こうへ消えた。

学戦関連(ひときさん)

学戦関連(ひときさん)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 黒鉄(黒軍)
  2. 夜桜城(黒軍・赤軍)
  3. 止まる旋律(雷鷲+晶)
  4. 雨音が響く(竹雷)
  5. 音の最後(雷鷲+晶)