学戦関連(松さん)

仇敵と旧敵(猿麻・タイガ+夜牙)

 あの日もこんなにおいがしていたな。
 頬に飛び散った鮮紅を拭って、タイガは己の手を見た。黒塗りの鉄塊がもたらす軽い痺れが残っている。
 薬莢が転がっていく。
 ――これが、目の前の骸が残した断末魔の価値だ。怯えながら命を乞うて、這い蹲った少年の遺せたものなど、この程度なのだ。
 タイガは違う。
 あの日、敬愛した先輩の仇を地獄の底へ叩き落としてから、彼は惨めな弱者ではなくなった。箪笥の奥で震えていた無力な少年ではなく、戦場に立って誰かの命を奪える強者になった。
 唇に刻んだ笑みを隠そうともせずに声を漏らす。彼の成すべきことは、今や彼が覚悟を決めるまでもなく、空気を吐き出すが如くに成せるのだ。タイガの全てを踏みにじった軍靴の音を、今度こそ絶やしてみせる。
 物言わぬ屍の先に赤黒が広がっていく。赤茶色の焦土に不出来な地図を描くそれを辿った先で、いつか憎んだ靴を見た。
 その先の小さな体が、タイガを睨みつけている。
「おい、お前の先輩出せよ、チビ」
 己の身長を棚に上げたような発言に、猿麻をまじまじと見遣ったタイガが嗤う。
「何のことですか」
「しらばっくれんな。分かってんだよ」
 歯ぎしりの音がこちらまで届くようだった。突き出された赤黒いネクタイが、凝った空気にも鉄錆のにおいを孕んでいた。
 ああ――。
 何たることか。
 口許に刻んだ笑みを余計に深くして、タイガは無垢な少年さながらに首を傾げた。手にした拳銃の銃口を下に向けたまま、決してその殺意を悟られぬよう、猿麻の真っ直ぐな敵意を嘲笑う。
「蓮華さんなら、貴方の師匠が殺したじゃないですか」
 息が。
 止まった瞬間に、その脇腹へ蹴りを叩き込む。面白いように飛んだ軽い体に銃口を向けて、目を見開いたままタイガを見詰める大きな瞳に、目を細めて応えてやるのだ。
「どうしたんですか。武器を構えてくださいよ。師匠の仇を取りに来たなら、早くしないと逃げちゃいますよ」
 ――俺は。
 相対する目に盛る炎が、溶岩の如き怒りを湛えたのを機に、タイガは慣れた手つきで引き金を引いた。
 果たして――。
 その師匠譲りの身軽さで、猿麻の体が中空を舞う。
 しなやかな拳がタイガの頸を抉らんとし、しかし昂奮にぶれた指先は届かない。能力で劣ったとしても、感情に任せた新兵の一撃と、多少なりと場数を踏んだ躊躇のない銃口では、猿麻の勝ち目はないに等しかった。
 師と共に鍛えたはずの拳が眼前の仇に届かない。冷静になれと言い聞かせるたび焦りが募り、猿麻の手から正確さを奪っていく。
 代わりのように彼の攻撃を見極め始めたタイガの銃口が、とうとう小柄な少年の頬を掠めた。
 肩で息をしながら持ち上げられた拳銃の先、その持ち主が唇を吊り上げる。勝利を確信して、しかし急所を外すように右腕に向けて撃ちこまれた弾丸を避けるすべはなく、猿麻の脳髄に熱い衝撃が走った。
 呻き声を漏らして膝をついた黒の額へ、喜悦の笑みを漏らす赤の銃口が突きつけられた。
「痛いですか? 痛いですよね。痛くしてるんですから! あはっ」
「てめえ――」
「このまま沢山甚振ってあげます。軍人なんか、軍人なんか」
 陶酔したような焦点の合わぬ瞳が、茫洋と憎しみを見据えて引き金に手を掛けた。せめて最期まで睨み付けていてやろうと猿麻が拳を握る。
 刹那。
「――時間切れですか」
 拳銃の圧力が彼の額から消えた。無言のまま走り去るタイガの足音を追うように、後方から迫った軍靴が彼の隣で立ち止まる。
「賢明な人でよかった。あのまま勝負挑まれたら死んでましたよ。私が」
 見上げた先に汗をぬぐう夜牙の姿があった。消えていく背にしばしの警戒を見せていた彼が、心配げに猿麻を見下ろして、開いているかも分からぬ目の上の眉を動揺に顰めてみせる。
「――え、私悪いことしました? ごめんなさいごめんなさい睨まないでください」
「いや、夜牙先輩のせいじゃ、ねっす」
 先程までの怒りがゆっくりと体中に広がっていく感覚で、猿麻は首を振りながら目頭を揉んだ。
 睨みつけていた自覚はない。
 もしそう見えたなら――それは己の不甲斐なさへの怒りだ。
 冷静になれと教わったはずだった。仇を目の前にしたときにこそ、その目を真っ直ぐに見て、行動を読まねばならない。憎いのは、その鉄則を実践することさえ叶わない自身だ。
 戻ってきた血流で右腕が軋む。痛みで眉間に皺を寄せながら、猿麻は低く唸るように呟いた。
「ちょっと考えたいことがあるんっすよ」
「何があったか私には分かりかねますが、それならいいところがあります」
 思わず持ち上げた視線の先で、夜牙は普段の温厚な笑みを刻んだまま、傷を押さえる猿麻の赤い手を指さした。
「医務室に行きましょう」

末路(猿麻・タイガ)

 弱々しい足音が焦土を踏みしめる。
 幾度敵兵に鉛の弾を撃ち込んでも、タイガの足取りは重い。燃えたぎるような昂ぶりも快感も胸を打たない。
 どれだけ敵を殺しても――知らぬうちに本当の仇に貢献し続けていたという事実は消えない。今もただ、彼の家族を奪った存在の敵を殺し続けているということが、彼の暗い顔に一層の影を刻んだ。
 だから――。
 目の前の赤茶を遮る小さな影に、銃口を向けることもしなかった。
「俺への復讐ですか」
 その覇気のない声に一瞬面食らったように、猿麻の眉間に皺が寄った。浮かぶ怪訝を隠そうともしないまま、それでも彼はゆっくりと首を横に振る。
「師匠、言ったんだ。自分のオトシマエは自分でつけるって。だから俺は俺で戦う」
 ようやくタイガが目を上げた。猿麻の右腕に巻かれた包帯を見遣ってから、真っ直ぐな瞳を見据える。
 光を宿した瞳はどこまでも穏やかだった。タイガの鉛に似た心を嘲笑うように射抜いている。
「お前と戦うのは復讐なんかじゃない」
「それを復讐っていうんじゃないんですか」
「違えよ」
 恨みでも――憎しみでもない――。
 ひどく寂しげな猿麻の視線は凪いでいた。いやに見覚えのあるその目にタイガの顔が歪む。その嫌悪をも振り払うような意思で、少年は拳を握った。
「父ちゃんも死んじまったし、師匠も死んじまったけど、俺はお前を恨んでるけど、でも」
 ――仇が取りたいわけではないのだ。
 拳を固め、眼前の敵に構えを取る。気を落ち着けるように瞬いて、その先で煌めく壊れた眼光を見据えた。
「だって俺が仇を取ったら、師匠は師匠のオトシマエを自分じゃ付けられなかったってことになっちまうじゃんか。俺は師匠を嘘吐きにはしたくねえ。だから、俺は俺のオトシマエを付けるんだ」
 それは誰かのために拳を振るう行為ではない。猿麻の抱くタイガへの敵意に、虎親への信愛は存在しないのだ。
 だから。
 頭は冴えている。拳は震えない。
 より大切なときにこそ冷静に――より強い感情を抱くからこそ確実に――師の教えの意味は今なら分かる。
 これは誰のための戦いでもない。この拳は誰にも捧げない。
 ただ――己のための。
「ふざけるなよ」
 低く唸ったタイガがホルスターから銃を抜いた。黒く深淵にも似た銃口を猿麻の視線を遮るように構えて、彼はようやく笑ってみせる。
「そんなの他の軍人と同じです。どんな綺麗ごとを言っても貴方がやってるのは復讐だ、俺と同じで――ああ」
 一度笑えればあの高揚を思い出すのは簡単だった。湧き上がる笑声を押し殺すことをやめて、彼は自身を嘲った。
 何を言おうとしているのか。
 何を必死になっているのか。
 そんなもの。傍から見れば分かりもせぬ感情など。
「殺しちゃえば同じですよね」
 火を噴いた銃口から体を逸らす。頬と髪を掠めたそれを目で追うこともなく、猿麻は突進する。
 突き出した拳がタイガの鳩尾を捉えた。
 軽々と吹き飛んだ体が地面を転がる。喉に詰まった息を血と共に吐き出す彼の手から離れた拳銃を拾って、それを額へ突きつける。
 その冷えた圧力に目を上げたタイガは、その奥で煌めくひどく悲しげな猿麻の瞳を見た。
「俺は」
 口を衝いた言葉が震えていた。
 呆然と失っていた体の感覚が戻ってくる。軋む内臓の激痛と、吐き出した鉄錆の味の生温さが頭蓋の中を掻き回す。
 叫び出したいくらいに――。
 タイガは生きている。
 ――嫌だ。
「僕、は」
 歯の根がかみ合わない。立ち上がりたいのに手に力が入らない。
 物音が止んで箪笥の奥から出てきたとき、目の前に広がっていた血溜まりの赤が脳裏をよぎった。
 その鮮烈な死の証に沈む肉塊になる。
 彼を守った家族と同じように。
 彼が敬愛した蓮華と同じように。
 彼が――初めて殺した虎親と同じように。
 あの呆気なさで。あの手の痺れだけを残して。
 彼が嘲笑った弱者と同じように。何も残せぬままに。
 タイガは。
「しにたく、ない」
 溢れ出した涙と懇願がやまないうちに、猿麻は引き金を引いた。
 乾いた音と赤が飛び散る。零れ落ちた雫が地面に広がって軍靴の底に嫌な粘り気を残した。自身の手に残った僅かな感覚と動かなくなったタイガを交互に見遣って、猿麻は目を伏せる。
「こんなに簡単に人を殺せちまったんだな、お前」
 銃を放り投げて、暫し物言わぬ亡骸を見据えた。
 言うべきことはない。
 誰も――悪くはないのだ。
 踵を返した猿麻の足に、赤黒い死が未練がましく纏わりついた。

いっぱい食べる君が好き(虎親+猿麻)

 白米を掻き込む箸を見ている。忙しない音を立ててぶつかり合う食器を意に介することもなく、猿麻がひどく嬉しそうに笑った。
「急ぐと詰まるぞ、猿」
「大丈夫っす!」
 口許を彩る米粒を口に運ぶ目が輝いているから、虎親の唇が自然と微笑を刻んだ。
 朝の特訓と称した稽古を終えて、猿麻と虎親は黒軍の食堂に来ている。見慣れた面子が混沌とした食事のにおいを裂いて行きかう声を聴きながら、彼らはいつものように、中央付近の席を陣取っていた。
 猿麻はいつも大盛りの日替わり定食を頼む。小柄な体躯に似合わず、虎親の食すカツ丼とさして量の変わらぬそれを綺麗に平らげる少年は、美味そうに口の中の肉を咀嚼した後で声を上げた。
「特訓の後は腹減るんすもん。食べないとへろへろっすよ」
 暖かな湯気と炊き立ての米の香りが虎親にまで届く。自身の目の前で濃いたれの香りを発するカツを無造作に摘まみあげて口に運んで――。
 ――目を見開く。
「師匠、どうしたっすか」
「今日は揚げたてだぞ」
「マジですか! いいなあ。揚げたてカツ」
 しゃくりと衣を噛み割ると、中から溢れ出た肉汁と卵が絡んで、たれの味を更に引き締める。その至高の味わいに舌鼓を打った虎親は、羨ましげに唾を溜める弟子を一瞥すると、彼の方へ軽く丼を押しやった。
「一切れ食うか」
「やった! 頂きまあす!」
 至極嬉しそうに――。
 猿麻の箸がカツを摘まむ。後味を楽しむ虎親の目の前で、先程の彼と同じような表情を浮かべる猿麻が、ゆっくりと味わうように口を動かしている。
 その輝いた表情に、やはり口元が緩んでしまう。
 申し訳程度に口に運んだ米の旨さよりも、柔らかく解ける肉の食感よりも、隠そうともせぬ喜びが脳を支配するのだ。
 だから――視線を感じた弟子が顔を上げてしまうのも、無理からぬことである。
「あれ、また何かあったんすか」
 目を見開いて首を傾げる姿がまさに猿のようだ。
 苦笑と微笑のない交ぜになったような表情で、虎親は首を横に振った。
「何でもねえよ」
 口に運んだ肉の香りは、先程よりも旨いような気がした。

夜桜城(黒軍・赤軍)

 はらりと舞い落ちた薄桃を摘まむ。
 見慣れた指の先に見る堅牢な石垣は、月明かりに深々と沈んでいた。連れ立った闇が蠢くのを押し殺した空気の中で感じながら、泉は目を閉じる。
 凪いだ風が一陣舞った。
 黒派第二高校本丸――墨俣一夜城。
 四月の初めとは思えぬ凍てつく空気が泉に纏わった。疲弊しきり、最早かつての栄華となった堅牢な檻の中に身を隠すしかなくなった黒軍を、彼らが終わりにする。
 重苦しく垂れこめた灰色の雲を裂くように警鐘が鳴る。物見櫓の人影を瞥見した泉が大剣を抜き放つや、影を割った赤が馳せた。

 舞い散る桜の孕む光が鎖鎌に触れて削げ落ちる。昂ぶる金にちらつく黒を易々と斬り伏せ、己の得物を一振りした蓮華が目を上げた。
 木造の床に刺さる大振りの太刀を浅黒い手が支えている。鼻と目元に入った朱が不敵に侵入者を笑っている。
「てめェの狙いは俺だろ」
 その穏やかな殺意に、蓮華が目を剥いた。剥き出しの牙の間から獣めいた唸り声を漏らす彼と仇の間を、風に舞いあがった薄桃の壁が阻んだ。
「ここで仕留める――花房虎親ァ!」
「望むところだ。来やがれ」
 灰色の曇天に乗る薄桃が、野太刀の刃に煌めく。

 覚束ないまま殺した足音が止まる。
「てめェ、赤軍か」
 少年じみた色の残る声の威圧にすら、箕島タイガの肩は震えた。敬愛する蓮華との合流だけを考えていた頭を不快な敵がかき乱す。
 ふらつく指先が押し殺すようにホルスターをなぞった。目の前で構えられた拳に焦点を合わせられずに、唇が戦慄く。
「こんなときに押し入ってきやがって。許さねえぞ」
 タイガの恐怖には目もくれず、怒りを湛えた猿麻の大きな瞳が眼前の少年を睨む。仄明かりを遮る花弁の一枚すらも邪魔だとばかり、彼の純粋な殺気がタイガを射抜いた。
 唾を大きく飲み込んで、震える手で黒塗りの鉄塊を構える。月光にぬらりと浮かぶ拳銃の昇順が桜の先にある額を狙う。
「ぼく――俺は確かに赤軍です。ここに来た役目、果たさなきゃ」

「この景色を二人で見られたことを幸運だと思うべきなのでしょうか」
「分かりませんわ」
 諦めたように首を横に振ったアグネリアが、対峙する愛しい黒を見上げた。儚い桃色に包まれて髪を留める十字架が揺れている。
 掌に落ちた愛らしい薄膜を握り締めて、彼は眉尻を下げたまま、それでも尚笑って見せるのだ。
「貴方は侵入者。私は迎撃者。今回ばかりは、愛を囁くことも許されなさそうだ」
 冗談めいた悲壮が二人の間を遮る。
 今すぐにでも手を伸ばしたい衝動を振り払うように首を振って、アグネリアは手にしたナイフの切っ先を愛する男へ向けた。
 ――大丈夫だ。
 傷つくのは今だけだ。拳を構える彼はきっと、彼女と共に生きてくれるのだから。
 だから――。
「いつかこの景色を手を繋いで見られるように、零式様――お覚悟を」
 手が震えることはない。

 扉を開いた黒がへらりと笑った。
「侵入者はっけえん。燕ガンバ」
「貴方も頑張るんですよ、真」
 小さな体を不安げに名無しへ寄せていた恵真が恐怖に震える双眸を名無しへ向ける。汗で滑る右手を刀に掛けながら、動じる様子もない仮面の友人に弱々しく囁く。
「ナナシ、エマどうすれば」
「下がってるの。自分が全部終わらせるから、目を閉じてればいいの」
「そんなの嫌なのだわ。おともだちに任せるのは駄目」
 手にした兎の縫いぐるみを地に落としながら叫ぶ恵真を見詰めていた燕と真が顔を見合わせた。
 ――ここは戦場だ。
「お話してると俺らが先手取っちゃうぞ」
 交錯するように身の丈ほどのチャクラムを構えた二人が同時に馳せる。狙いは――。
 見開かれた紺碧を庇うように、恵真の目の前を横切る桜の花弁がトランプに撃ち抜かれた。
 燕の頬を掠めたそれを気に留める様子もなく、冷静に距離を置いた彼が、シルクハットをかぶり直した仮面の少女に武器を向ける。
「随分と不思議な力をお持ちで」
「友達の――家族のために使う力」
 一瞥。
 それで彼の意図を理解したらしい真が、体勢を立て直した恵真に向き直った。
「手、震えてるけど大丈夫?」
「心配はご無用なのだわ。エマはナナシのおともだちなのだわ」
 鈍い銀に、堪えきれずに天から降り落ちた白が光った。

「いお異邦」
 後ろを向いたきりののえるが、夜桜を見詰めながらようやく声を発した。
 隻眼の少女が無表情に首を傾げる。手にした大斧が不愉快な金属音で少女の声を引き裂いた。
 だから、のえるは大きく声を上げる。
「あたしたち、おともだちになれましたか」
「うん、なれたよ」
「ならいいんです。思い残すこと、ありません」
 向き直った彼女は笑ってなどいない。
 目に涙を溜めて、恐怖に震える足を奮い立たせて、諦めたような敵軍の友人を見据えている。
「行きたいところがたくさんありました。でもそれももういいんです。あたし、いお異邦と――伊織ちゃんとおともだちになりたかっただけなんだって、分かりました」
 両手を大きく広げる。舞い散った桜が月光と雪に白く滲む。
 美しい――この夜に。
「わたしも、そうおもってた」
 伊織は再び、親友に斧を振るう。

 敵の城ながら素晴らしいと遙は思う。
 後方の気配に無防備な背を貫きながら、彼はゆったりと振り返った。その先にいる長身の女が咥えた棒を引っ張り出している。
「知ってっか。桜の木の下には死体が埋まってんだとよ」
「そうらしいですね」
 引きちぎられたような黒いセーラー服の端を揺らして、凍てつく白が吹き込む。再び口に戻った飴を転がして、雨燕は掴みあぐねる敵を見据えた。
「墨俣一夜の夜桜城――っつって、粋じゃアねェか。後は伝説が本物になりゃ完璧か」
 肩を竦めた遙が笑う。
 そのある種の不遜さに麻痺していた本能が揺さぶられた気がして、雨燕も唇を吊り上げるのだ。
「埋まるのはそっちと相場が決まってるでしょう」
「理由を訊こうか」
「桜は赤を吸ってこそ美しく咲くんです」
 抜き放たれた清澄な銀に、白く溶け落ちる花弁を重ねて、彼女は馳せる。

 刹那の攻撃に辛うじて大剣を抜くことに成功した夜牙が、目の前の闘争心を見据えて苦笑した。
「見付かってしまいましたか。これは私死にましたかね」
 金属に阻まれた足をこともなげに引き戻したティナが鼻を鳴らす。夜牙の困惑は一層深まる。申し訳程度に構え直した大剣がどこまで通用するかも分からぬというのに、素早い彼女を相手取らねばならないというのだ。
 チャイナドレスの裾を撫でる白雪を掬い上げ、殺意を孕んだ指先が退路を探す夜牙の糸目を睨んだ。
「御託は必要ありません。武器を構えてください。私は泉様のところへ行かなくちゃいけないんですから」
「おや――そういうことなら話は別です」
 撤退先を求めた瞳がティナを射抜いた。ゆっくりと開かれた赤い瞳が、獰猛な獣の牙で彼女を狙う。
 重苦しく冴える空気を月明かりに照らして、桜の花弁を易々と斬り落とした切っ先がティナに向けられた。
「隊長を一目拝むことも許さねえ。ここでくたばって――花見の肴にでもなっちまえ」

 雪ごと桜を握り締めた手が痛いほどの冷たさで頭に回った。
 鮮やかな――雪桜。
 その中に佇む浅黒い肌の指揮官を見据えて、泉の手が背の剣を撫でる。
「もう分かってんだろ。俺らがここに来た理由。襲撃相手に黒を選んだ理由なんかよ」
「ああ」
 秀助がゆっくりと頷いた。耳元で揺れる金に天守閣の窓から吹き込む白が触れて消える。
「それでも諦める訳にはいかない」
「何でだ」
「俺たちは勝つ。もう誰も犠牲にはさせないと、決めたからだ」
 真っ直ぐな。
 意思だけを孕む目が泉に迫る。
 求めるものだけを求める覚悟を決めた灰色が紺碧を見詰めている。
「その邪魔をするなら――泉、ここでお前を」
 その先を言うことはなく、秀助が拳を引いた。腕に装着されたボウガンが軋んだ音を立てる。
 何もかも――。
 分かった上で、彼は泉の前で立っている。誰に縋ることもせぬその尊い瞳にこそ、泉は笑えた。
「受けて立ってやらァ」
 抜き放つ武器に桜が吹き付ける。白と混ざって床を埋める薄桃の光の中で、赤と黒は己の武器をぶつけた。

雨音が響く(竹雷)

 戦場は。
 死と血のにおいに溢れている。
 その中にあって雷鷲は生き延びてきた。隣に立つ少年の手を引くように先導しながら、走り慣れた地を横切っていく。血に塗れた白銀を握る小さな背が体液の染みた泥を踏んで跳ねた。
 遠くで――。
 大砲の音がする。
「はわ、黒軍でしょうか」
「そう――だろうねえ。はは、凄いなあ」
 普段の通り笑う竹蔵を振り返って、雷鷲の目が瞬く。その先にある楽天的な表情に彼女も笑った。
 肉塊の中を超えて、幾つかの体を物言わぬ屍と変え、二人は先を急ぐ。正面に砲撃隊を展開した黒軍の布陣に対し、横から回り込み奇襲と攪乱を行う少数先行部隊の役割を担う彼らは、敵陣の只中にあってひどく目立つブレザーを茂みに隠しながら、哨戒の黒を幾つか薙ぎ払った。
 予想する布陣は――。
 偵察班と諜報班から与えられた情報の推測から成る。戦地にあっては射影機などという大仰なものは使えない。
 それ故に。
 低い砲撃音と共に雷鷲の脇腹に空く大穴に、竹蔵もまた理解が追い付かなかった。
 小さな体が容易く吹き飛ぶ。中空へ鮮紅の軌跡を描きながら軽く地を跳ねる少女を、ただ目を見開いたまま視界に入れる。手から吹き飛んだ不釣り合いに大きな得物が地を滑って転がっていく。開いた穴から噴き出す赤黒い管と消えていく瞳の色に――。
 呟いた名が鉄塊の発射音で掻き消された。
「雷鷲ちゃん」
 ――砲口は。
 ――正面だけでなく。
 震える声で名を叫びながら駆け寄る。茫洋と開いた瞳が自身から溢れた赤で汚れていた。唇から溢れる赤黒い液体に泡が混ざって吐き出されていく。
 その。
 手を。
「冗談――だよね」
 握って、竹蔵は眼鏡の向こうの瞳を揺らす。
「雷鷲ちゃん、大丈夫、大丈夫だから」
 何が。
 吐き出された管。光を失った瞳。唇を伝う赤黒い何か。土気色に変わっていく顔。耳障りに繰り返されるばかりの呼吸。
 ――何が大丈夫なのか。
 分かりもせぬまま、彼は笑った。浅く肩で息をしながら温もりを失っていく手を繋ぎ止める。冷たさを増す体を摩りながら、傷口を塞ぐように零れたものを手で支える。
「雨音、が」
 不意に響いたか細い声は、後方で上がる鬨の声にさえ掻き消えはしなかった。
 脳髄に響き続ける鼓動と呼吸音。痛みさえもまどろみの奥へ失われていく感覚の中に、手を握る温度だけを繋ぎ止めて、雷鷲は音の雨の中で、隣にいるであろう少年の手を握り返した。
「ひび、い、て――います、ね」
 言って。
 その名を呼ぶ猶予さえなく。
 消えた少女の呼吸に、少年の咆哮だけが轟いた。

学戦関連(松さん)

学戦関連(松さん)

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 仇敵と旧敵(猿麻・タイガ+夜牙)
  2. 末路(猿麻・タイガ)
  3. いっぱい食べる君が好き(虎親+猿麻)
  4. 夜桜城(黒軍・赤軍)
  5. 雨音が響く(竹雷)