秀助さんまとめ

静謐(秀イオ)

 苗字がない。
 失くした右目と一緒に抉られてしまったのかもしれない。あるいは、元よりなかったのだろうか。
 覚えていないのだからどちらでも一緒だ――と思う。
 伊織は伊織である。けれど苗字がない。
 苗字がないから――。
 ルーツがない。
 小さな傷から零れ落ちていく鮮紅が、いったいどこから流れ来たのか、伊織には知るすべがないのだ。自分の命の源が、誰の手でこの世にもたらされたのかが分からない。
 それは――虚しい。
 虚無は嫌いではない。全てが抜け落ちた穴には、伊織の愛する静謐が満ちて、溢れかえるほど心を凍らせていく。
 けれど。
 今、足許に転がる屍のようになってしまったとき、きっと彼女に行く先はない。
 それが震えるほど虚しい。誰の目にも留まらぬまま、伊織は肉の一つになる。送られる先も、縋り泣く誰かもないまま、ありふれた塊になって捨てられる。
 無になる。
 そう思ったら、悪くはないかもしれなかった。静寂に同化して、彼女は真の静けさの中にしかいなくなる。生きた何かがそこにいる限り、決して触れられない、本当の無音の中に行ける。
 伊織の血液が二の腕から零れ落ちて、ルーツの知れたどこかの誰かと混ざっていく。浅い傷だから、きっと死にはしないだろう。けれど、確かに伊織の一部は失われて、何かの中に消えているのだ。
 何に混ざったところで構わない。
 ――元から知れないのだから。
 模糊(もこ)とした思索を手繰り寄せて立ち尽くしていた彼女の視界を、浅黒い肌が遮った。太く節くれだった戦うための指が、見目に似合わぬ繊細さで、傷付いた二の腕を持ち上げている。
「秀助」
 どうしたのかと言外に問う。
 細い腕を見詰める瞳は揺らがない。
 彼は必要な言葉しか発しない。
 静寂そのもののような人だ――と、伊織は思う。余計な言葉がないから居心地がいい。静謐に一体化するようにそこにいて、彼女の望むものを邪魔しない。
 自身の色素の薄い肌と、長い睫毛を見比べていた伊織を気にすることなく、暖かな掌がそっと二の腕を離れた。
 途端に得体の知れぬ血液が温もりを奪おうと腕へ回って、長身の青年が残した静けさを奪っていく。
「それくらいすぐ治る」
 それは――。
 そうだ。
 背を向けた彼を見送って、またあてどもない思索に戻る。
 この傷は、急に弾けて致命傷になったりはしない。
 それは、彼女が冷えた無音になる機会を失ったということだ。どこかに零れて混ざって、伊織でない何かになることは、当面はできない。
 落胆と安堵の狭間に、赤茶色の髪を見た。伊織の思うより数段早く、彼女のもとへ戻ってきた秀助が、赤い瞳を一度瞬かせた少女の腕へ、手にした白を巻き付けていく。
 ――包帯。
「すぐ、なおる。だいじょぶ」
 先程の彼の台詞を繰り返す。
 返答はない。手慣れた様子で傷口を遮った白が、しぶとく滲む赤を凌駕した。
 見えなくなった傷と灰色の瞳を、交互に見遣って首を傾げる。
「秀助、しんぱいしょう?」
 応えはない。
 流れ落ちることをやめた得体のしれない誰かの命が、伊織の中を巡っていく。
 全て零れたら静寂になる。命のもとには永遠に戻れない。
 例え静寂に等しい人であっても――本当の無音ではないから。
 呼吸と心拍が鳴り響いてしまうから。
 消えてしまったら、伊織はそこには行けなくなってしまう。
 ――ああ。
 ――秀助のところに行けないのは嫌だな。
「ありがと」
 まだ――。
 伊織でいるのも良いかも知れないと。
 今度こそ温もりを逃さぬよう包帯に触れて、少しだけ頬を緩めた。

黒鉄(黒軍)

 黒づくめの青年の足音が反響する。
 薄暗い廊下に満ちていた静寂が、彼を避けるように引いていく。学ランの襟を直しながら、長身は無機質な学校の扉の前に立った。
 ――今日も戦果は上々だ。
 彼の手によって失われた命の数など、数えるのも馬鹿らしい。浅黒い肌に僅かな翳りが差すのを誤魔化すように、天井にぶつからぬよう屈みながら、彼は報告を待つ大人たちの前で、灰色の瞳を細めて見せた。
「第二小隊小隊長、只今帰投しました」
 ――太平を超えて、日本全土は戦火に包まれている。
 突如として現れた異国人の持つ莫大な科学の力に、国は大いに割れた。日本に新たな富をもたらすであろう力に屈した者と、日本という国を他者へ明け渡すことを良しとせぬ者である。
 長すぎた安寧の代償を払うかのごとく――。
 国民全員を巻き込んだ戦争で、限りある兵力が底を尽きるのは時間の問題だった。両軍の消耗が激しくなっても、この島国を二分する戦いは、未だ終わりの兆しを見せない。
 いよいよ疲弊した軍が、新たな人材を血眼になって探すのも、当然のことである。
 学生。
 白羽の矢が立ったのは、国を担う次代であった。各地に氾濫した寺子屋は学校と言う区分で纏め上げられ、何も分からぬままに集められた子供たちに戦闘訓練が科せられる。
 軍人と同じような立場で、軍人と同じように武器を振るい、そして――。
 軍人と同じように人を殺す。
 実力をつけるだけ――人を殺せば殺すだけ――彼らの地位は向上する。小隊長に選ばれるのは何も黒づくめの青年に限ったことではなく――。
 彼らに敵対する者もまたそうであるのだ。
「小隊長も楽じゃないねえ。俺はもっと楽な仕事がしたい」
 白いブレザーの下のシャツを着崩した青年がぼやく。黒が歩んだものとは違う、最新化された設備の中を軽やかに歩きながら、彼は視線を遮るサングラスの縁を持ち上げた。
「第三勢力って潰したって聞いた気がするんだけどな。気のせいだったか――」
 鼻歌まじりの指先が新しく下された指令を中空に描く。忘れぬようにと脳に刻みつける一字一句と共に、腰の蛇腹剣が耳障りな音を立てる。
 敵が誰であれやることが変わるわけではない。
 この学び舎で教わった、人を殺すためだけの技術の粋を振るい、相手のそれとぶつけ合う。生き残った方が勝者であり、地に伏した方が敗北者だ。
 それだけのことである。
 薬莢のくすんだにおいの中、勝者たる赤いジャケットの青年が得物である大剣を持ち上げた。血の一滴も流さぬまま首の骨を折られた骸の前で、荒れた息を整えながら吐き捨てる。
「ああ――ったく、いい気しねえっての」
 ふとずり落ちたジャケットの下から生々しい傷痕が覗いた。憎々しげに眉根を寄せながら羽織り直した彼が肩を回して首を鳴らす。
 随分と自身の率いる小隊から離れてしまったような気がする。
 隊長がこんなことでは仕方がない――苦笑しながらも不安はない。元よりはぐれ者の寄せ集めであるのだから、本来ならば隊長などという役すら必要はないのだ。
 それぞれの色を纏った青年が、己の安息を求めて足を踏み出したときだった。
 背後から呼び止められて振り向く。それぞれの前に立つ己と同じ色をした存在が、彼らにいつものように問うのだ。
 ――何故戦う。
 白が笑い、黒が口元を引き締め、赤が眉を顰める。
 ――そんなもの。
 最初から決まっているとばかり、淀みなく応えるのだ。
 国を安寧に導くものに染まった白の。
「誰だって生きたいに決まってるさ。でもって」
 かつての意思を貫く鋼の黒の。
「戦いで生き残るためには勝たねばならない。そして」
 裏切り捨てられた己だけを信じる赤の。
「この世は戦いで出来てる」
 ――それぞれの描く勝利が、まだ見えないのだから。

 ファイルを閉じた指先がそのまま口に咥えた棒を握った。
 口の中で飴を転がす少女が、黒い軍帽を被りなおしながら、眼前の無表情を見上げる。
「こんなところです、隊長」
「了解した。助かる」
 浅黒い肌の隊長と呼ばれた青年――甘津秀助の灰色の瞳は、彼と同じ色の瞳をした少女――雨燕を瞥見してファイルの表紙に注がれる。武骨な指が確認するようにページを捲った。
 紙の擦れる音の間で沈黙する。
 元より言葉の多くない二人である。空気にも似たように訪れる静寂の中に、緩やかな時間の流れだけを数えているうち、秀助の瞳がふと持ち上がった。
「夜牙」
 無感動な声が低く大気を震わせる。
 ややあって、机の影がぬらりと割れた。蛍光灯の光に照らされた黒髪の下で青年が笑う。温厚な容貌に陶酔の朱が差して、開いているのかも分からぬ目がますます喜悦に持ち上がった。
「私の気配に気づいてくださるなんて流石は隊長です! ああ何という幸せ」
「夜牙」
「隊長が私の名前を呼んでくださる!」
 呆れたように頭を抱えた秀助に雨燕が苦笑する。
 秀助の椅子に纏わりつく夜牙に目を移して、彼女は手元の書類を叩いた。耳障りな紙の音でこちらを見た糸目に不敵に笑う。
「大体の作戦は総隊長に提案してありますから、そのうち正式に指示が出ると思います。夜牙先輩も頼みますよ」
「ええ。負けることに関してはお任せください」
「――勝ってください」
「雨燕さんも私と手合わせしたことあるじゃないですかぁ、やだぁ」
 私ってば弱いんですよ――。
 手を合わせて笑う袖から細く白んだ腕が覗いた。どうにも返す言葉がなくて、雨燕は先程と似たような苦笑で視線を泳がせるしかないのだ。
 ――彼が弱いのは真実である。
 再び隊長へと意識をやったらしい夜牙と、無表情に彼をあしらう秀助に軽く一礼をしてから、閉じられていた教室の鍵を開けた。
 予想より大きな音を立てる古びたドアの向こうに赤がある。
 生気を失ったような白い髪と白い肌が、唯一の異彩を瞬かせた。手に書類を抱えた小さな体が真っ直ぐに雨燕の目を見詰めている。黒い眼帯で片目を覆った、ともすれば年下にも見える姿を見下ろす。
「伊織先輩」
 名を呼ばれて小首を傾げた伊織が訥々と言葉を発した。
「イオ、でばん、ある?」
「今回は――俺の作戦ではありません」
 頷いた彼女に無言で用を促す。
 命があれば即座に暗殺部隊として秘密裏の処理を行う伊織も、平時は雑用係として軍の会計を担当している。その立ち位置上、彼女が走り回っているからといって急を要するわけではなかろうが、軍内の状況を可能な限り把握しておくのも司令塔たる雨燕の役目だ。
「零式が、夜牙、に、ようじって。秀助のとこ、たぶん、いるから」
 黒翼零式。
 ――その名に浮かぶ笑顔に、つい視線を外した。
「碌な用事じゃない気がしますが」
「イオ、も、そう思う」
 俯いた口から無感動な声が漏れる。直後に背後の教室から派手な鋭い音がした。
 夜牙の悲鳴とにこやかな声の狭間で、二人はそれが窓硝子の割れた音だと知った。顔を見合わせた彼女らの騒々しい沈黙は、雨燕の溜息で遮られる。
「伊織先輩。今月は」
「まっかっか」
 開かれた帳簿のマイナスを見た。
 残念ながら――黒軍の予算はそう多くない。ただでさえ長すぎる戦争により国内の貨幣流通が滞った状態であるのに、それを全国の各校に分配しているのだから、一校あたりが管理できるのは雀の涙にも満たぬ数字だけだ。
 それを。
 大きく扉を開いた黒づくめの長身が、胡散臭い程の清々しい笑顔で今破壊したわけである。
 首を大きく持ち上げた伊織が、四十センチ以上の差のある黒髪を見上げて首を傾げた。
「夜牙、いた?」
「ええ、ありがとうございました。お陰様で日課の夜牙くんいじりが捗ります」
「勘弁してくださいよ、頼みますから」
 零式の後ろで心なしかやつれたような顔をした夜牙が首を横に振った。自身の後ろに隠れたきりの彼を一瞥して、彼らの騒々しさを尻目に内容を理解したらしい秀助が、雨燕に向けてファイルを差し出す。
「作戦は把握した。いないのは」
 暫し沈黙する。
 恐らく軍内で任務に出ていない主要な面々はここにいる。一つ瞬いた伊織が細く無機質に声を上げた。
「忌世と、真と、燕が、かえってきてない」
「花房先輩と猿麻もまだ帰投していませんね」
 雨燕の声に再び周囲を見渡した秀助が、灰色の瞳を細めた。真剣な面持ちに僅かに張り詰めた空気に、戦場を焼く火薬のにおいを微かに感じて、全員が彼の声を待つ。
「全員が帰ってくるころには正式に作戦も下されるだろう。それまでは、各自休息を」
 各々の返事が重なる。解散していく背を見送りながら、秀助は学ランに隠れた己の足に触れてから、一度息を吐き出した。
 ――全員が。
 生きて帰って来られるかも分からぬ戦場で、全てを握っているのが、彼の指揮だ。秀助の背負った信頼と重責を笑い飛ばすように振る舞う彼らとて、彼と同じように命を奪い、奪われようとしている。
 灰色の目を瞼の内側に仕舞う。
 鋭く息を吸い込んで、再び開いた瞳にいつもの覚悟を宿し、彼は足に遣っていた手を離して歩き出した。

夜桜城(黒軍・赤軍)

 はらりと舞い落ちた薄桃を摘まむ。
 見慣れた指の先に見る堅牢な石垣は、月明かりに深々と沈んでいた。連れ立った闇が蠢くのを押し殺した空気の中で感じながら、泉は目を閉じる。
 凪いだ風が一陣舞った。
 黒派第二高校本丸――墨俣一夜城。
 四月の初めとは思えぬ凍てつく空気が泉に纏わった。疲弊しきり、最早かつての栄華となった堅牢な檻の中に身を隠すしかなくなった黒軍を、彼らが終わりにする。
 重苦しく垂れこめた灰色の雲を裂くように警鐘が鳴る。物見櫓の人影を瞥見した泉が大剣を抜き放つや、影を割った赤が馳せた。

 舞い散る桜の孕む光が鎖鎌に触れて削げ落ちる。昂ぶる金にちらつく黒を易々と斬り伏せ、己の得物を一振りした蓮華が目を上げた。
 木造の床に刺さる大振りの太刀を浅黒い手が支えている。鼻と目元に入った朱が不敵に侵入者を笑っている。
「てめェの狙いは俺だろ」
 その穏やかな殺意に、蓮華が目を剥いた。剥き出しの牙の間から獣めいた唸り声を漏らす彼と仇の間を、風に舞いあがった薄桃の壁が阻んだ。
「ここで仕留める――花房虎親ァ!」
「望むところだ。来やがれ」
 灰色の曇天に乗る薄桃が、野太刀の刃に煌めく。

 覚束ないまま殺した足音が止まる。
「てめェ、赤軍か」
 少年じみた色の残る声の威圧にすら、箕島タイガの肩は震えた。敬愛する蓮華との合流だけを考えていた頭を不快な敵がかき乱す。
 ふらつく指先が押し殺すようにホルスターをなぞった。目の前で構えられた拳に焦点を合わせられずに、唇が戦慄く。
「こんなときに押し入ってきやがって。許さねえぞ」
 タイガの恐怖には目もくれず、怒りを湛えた猿麻の大きな瞳が眼前の少年を睨む。仄明かりを遮る花弁の一枚すらも邪魔だとばかり、彼の純粋な殺気がタイガを射抜いた。
 唾を大きく飲み込んで、震える手で黒塗りの鉄塊を構える。月光にぬらりと浮かぶ拳銃の昇順が桜の先にある額を狙う。
「ぼく――俺は確かに赤軍です。ここに来た役目、果たさなきゃ」

「この景色を二人で見られたことを幸運だと思うべきなのでしょうか」
「分かりませんわ」
 諦めたように首を横に振ったアグネリアが、対峙する愛しい黒を見上げた。儚い桃色に包まれて髪を留める十字架が揺れている。
 掌に落ちた愛らしい薄膜を握り締めて、彼は眉尻を下げたまま、それでも尚笑って見せるのだ。
「貴方は侵入者。私は迎撃者。今回ばかりは、愛を囁くことも許されなさそうだ」
 冗談めいた悲壮が二人の間を遮る。
 今すぐにでも手を伸ばしたい衝動を振り払うように首を振って、アグネリアは手にしたナイフの切っ先を愛する男へ向けた。
 ――大丈夫だ。
 傷つくのは今だけだ。拳を構える彼はきっと、彼女と共に生きてくれるのだから。
 だから――。
「いつかこの景色を手を繋いで見られるように、零式様――お覚悟を」
 手が震えることはない。

 扉を開いた黒がへらりと笑った。
「侵入者はっけえん。燕ガンバ」
「貴方も頑張るんですよ、真」
 小さな体を不安げに名無しへ寄せていた恵真が恐怖に震える双眸を名無しへ向ける。汗で滑る右手を刀に掛けながら、動じる様子もない仮面の友人に弱々しく囁く。
「ナナシ、エマどうすれば」
「下がってるの。自分が全部終わらせるから、目を閉じてればいいの」
「そんなの嫌なのだわ。おともだちに任せるのは駄目」
 手にした兎の縫いぐるみを地に落としながら叫ぶ恵真を見詰めていた燕と真が顔を見合わせた。
 ――ここは戦場だ。
「お話してると俺らが先手取っちゃうぞ」
 交錯するように身の丈ほどのチャクラムを構えた二人が同時に馳せる。狙いは――。
 見開かれた紺碧を庇うように、恵真の目の前を横切る桜の花弁がトランプに撃ち抜かれた。
 燕の頬を掠めたそれを気に留める様子もなく、冷静に距離を置いた彼が、シルクハットをかぶり直した仮面の少女に武器を向ける。
「随分と不思議な力をお持ちで」
「友達の――家族のために使う力」
 一瞥。
 それで彼の意図を理解したらしい真が、体勢を立て直した恵真に向き直った。
「手、震えてるけど大丈夫?」
「心配はご無用なのだわ。エマはナナシのおともだちなのだわ」
 鈍い銀に、堪えきれずに天から降り落ちた白が光った。

「いお異邦」
 後ろを向いたきりののえるが、夜桜を見詰めながらようやく声を発した。
 隻眼の少女が無表情に首を傾げる。手にした大斧が不愉快な金属音で少女の声を引き裂いた。
 だから、のえるは大きく声を上げる。
「あたしたち、おともだちになれましたか」
「うん、なれたよ」
「ならいいんです。思い残すこと、ありません」
 向き直った彼女は笑ってなどいない。
 目に涙を溜めて、恐怖に震える足を奮い立たせて、諦めたような敵軍の友人を見据えている。
「行きたいところがたくさんありました。でもそれももういいんです。あたし、いお異邦と――伊織ちゃんとおともだちになりたかっただけなんだって、分かりました」
 両手を大きく広げる。舞い散った桜が月光と雪に白く滲む。
 美しい――この夜に。
「わたしも、そうおもってた」
 伊織は再び、親友に斧を振るう。

 敵の城ながら素晴らしいと遙は思う。
 後方の気配に無防備な背を貫きながら、彼はゆったりと振り返った。その先にいる長身の女が咥えた棒を引っ張り出している。
「知ってっか。桜の木の下には死体が埋まってんだとよ」
「そうらしいですね」
 引きちぎられたような黒いセーラー服の端を揺らして、凍てつく白が吹き込む。再び口に戻った飴を転がして、雨燕は掴みあぐねる敵を見据えた。
「墨俣一夜の夜桜城――っつって、粋じゃアねェか。後は伝説が本物になりゃ完璧か」
 肩を竦めた遙が笑う。
 そのある種の不遜さに麻痺していた本能が揺さぶられた気がして、雨燕も唇を吊り上げるのだ。
「埋まるのはそっちと相場が決まってるでしょう」
「理由を訊こうか」
「桜は赤を吸ってこそ美しく咲くんです」
 抜き放たれた清澄な銀に、白く溶け落ちる花弁を重ねて、彼女は馳せる。

 刹那の攻撃に辛うじて大剣を抜くことに成功した夜牙が、目の前の闘争心を見据えて苦笑した。
「見付かってしまいましたか。これは私死にましたかね」
 金属に阻まれた足をこともなげに引き戻したティナが鼻を鳴らす。夜牙の困惑は一層深まる。申し訳程度に構え直した大剣がどこまで通用するかも分からぬというのに、素早い彼女を相手取らねばならないというのだ。
 チャイナドレスの裾を撫でる白雪を掬い上げ、殺意を孕んだ指先が退路を探す夜牙の糸目を睨んだ。
「御託は必要ありません。武器を構えてください。私は泉様のところへ行かなくちゃいけないんですから」
「おや――そういうことなら話は別です」
 撤退先を求めた瞳がティナを射抜いた。ゆっくりと開かれた赤い瞳が、獰猛な獣の牙で彼女を狙う。
 重苦しく冴える空気を月明かりに照らして、桜の花弁を易々と斬り落とした切っ先がティナに向けられた。
「隊長を一目拝むことも許さねえ。ここでくたばって――花見の肴にでもなっちまえ」

 雪ごと桜を握り締めた手が痛いほどの冷たさで頭に回った。
 鮮やかな――雪桜。
 その中に佇む浅黒い肌の指揮官を見据えて、泉の手が背の剣を撫でる。
「もう分かってんだろ。俺らがここに来た理由。襲撃相手に黒を選んだ理由なんかよ」
「ああ」
 秀助がゆっくりと頷いた。耳元で揺れる金に天守閣の窓から吹き込む白が触れて消える。
「それでも諦める訳にはいかない」
「何でだ」
「俺たちは勝つ。もう誰も犠牲にはさせないと、決めたからだ」
 真っ直ぐな。
 意思だけを孕む目が泉に迫る。
 求めるものだけを求める覚悟を決めた灰色が紺碧を見詰めている。
「その邪魔をするなら――泉、ここでお前を」
 その先を言うことはなく、秀助が拳を引いた。腕に装着されたボウガンが軋んだ音を立てる。
 何もかも――。
 分かった上で、彼は泉の前で立っている。誰に縋ることもせぬその尊い瞳にこそ、泉は笑えた。
「受けて立ってやらァ」
 抜き放つ武器に桜が吹き付ける。白と混ざって床を埋める薄桃の光の中で、赤と黒は己の武器をぶつけた。

秀助さんまとめ

秀助さんまとめ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2017-12-22

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 静謐(秀イオ)
  2. 黒鉄(黒軍)
  3. 夜桜城(黒軍・赤軍)