タイガくんまとめ
喰らう獣(蓮花+タイガ)
その邂逅は必然であった。
戦火の中に敵を探すならば、黒を見出すのは自明だ。その跳ねた黒髪を見たのも――。
仇ならば当然のことである。
「――花房」
虎親。
呆然と呟いた名前の奥に明滅する赤が、愛しかった妹を覆って記憶の底へ沈めていく。代わりに浮かび上がる、浅黒い首筋と紅の瞳が、蓮華の背筋を凍らせた。見開いた金色が息を失ったまま揺れ動く。
強張った指先が、溶岩に似た速度で湧きあがる怒号で融解する。
我武者羅に投げやった鎖鎌の刃が地面にぶつかった。明確な殺意を前に振り向いた虎親の赤が、強者への確かな愉悦をもって爛々と輝いている。
それが。
それが――許せない。
彼はこの瞳で妹を奪ったのだ。恐怖と絶望に彩られた悲鳴ではなく、自棄になって突きだした刀の先でさえなく。
明瞭と――悦んだのだ。
強者を屠れる喜悦に。
求める強さの高みに近づく幸福に。
溺れた目が蓮華の大切なものを奪っていった。人の下らぬ欲望で、愛らしい花は手折られた。悲哀でも罪悪でもない感情で――虎親は生きている。
――のうのうと。
「殺してやる――」
興奮に肩を上下させた彼のぎらつく金に、虎親は刀を構えることで応えた。
言葉は要らぬとでもいうのか。
彼に奪われた者にも。彼が奪った者にも。
その指先が訴える。
――ならば。
己の得物を引き寄せて、蓮華は初めて笑みを刻んだ。
今この場で――蓮華こそが虎親を奪う。
彼の大切な者から彼を奪い、彼の中から魂ごと引き抜いて、刺し違えてでも地獄に引きずり込む。蓮華の見たものと同じ無間地獄の底で、彼は自分の犯した罪を知るだろう。
知らなくても――構わない。
同じ場所に堕ちたと思うだけでいい。彼が無自覚なままに引きちぎられて、塵も残さずにこの世から消えてしまうのならば、それでも構わない。
贖罪など求めていない。
彼が消えてくれさえすれば。
悔いることすら許されないように。罪の意識さえ屑となって燃えるように。
「花房虎親――てめえは俺が」
喰らってみせる。
しなる鎖が地面を穿った。野生の勘で後退する虎親の足許を刃が閃く。
そのまま。
突き出した刀の先が、鎌の軌道を変えた。
宙を舞って持ち主の脳天へ牙を剥くそれを、手にした鎖で易々と手なずけると、蓮華は仇に向けて跳躍する。
鎖の遠心力を伴わぬ――無謀な一撃。
予備動作の一つもないまま、渾身の力が焦土に突き刺さる。神速の白銀が浅黒い肌に一閃の裂け目を落とした。ごく浅い傷痕から、しかし零れ落ちる鮮紅に、蓮華の頬が昏(くら)い喜悦を湛えて歪む。
「痛ェかよ、痛ェだろうなァ。はっ、いいザマだ」
ゆっくりと持ち上げた上体で、初撃を奪われた虎親の、屈辱に歪む瞳を見据えようとする。
――刹那。
先程の一撃と変わりない速度の拳が腹を突いた。
嫌な音と共に持ち上がった体から、渋いものが込み上げて口内を蹂躙する。一瞬にして圧し出された空気が、喉の奥で奇妙な音を立てた。痙攣する気道から咳が溢れ出る。
明瞭(はっきり)と憎悪を刻む金に、赤はどこまでも冷静だ。戦いにおいて重要なことを心得ているがゆえに、虎親の瞳はその程度の威圧には揺るがない。
「その程度で、ンな口利かねえ方が利口だぜ」
「そういうのが――気に入らねェっつってんだよォ!」
ふらつく足は一瞬で体勢を立て直す。
横薙ぎに払われた鎌を踏み台に、今度は大柄な青年の体が太陽を遮った。しなやかな獣に似た跳躍で、大上段から刀を振り下ろす。
剣戟の鋭い音が響いた。
幾度も交わされる攻防が、両者の体に傷を刻む。範囲に長ける鎖鎌の不規則な動きと、冷酷なまでに見切る刀が、お互いの隙を窺いながら視線を交わし続ける。
長く途切れなかった殺意を孕む音は、しかし確かに終局を見る。
理性の箍を失った蓮華の捨て身の戦法は、虎親の怜悧な目を疲弊させていく。限界を超えて尚、武器を叩きつけてくる赤の執着が蛇のようにまとわりついて、黒に宿った集中力を削ぎ落としていく。
一瞬。
切れた糸が再び紡がれる刹那に、蓮華の鎖が虎親の刀を絡め取った。動揺にぶれた紅の瞳を金が見据える。
「大口叩く割りには隙だらけじゃねェか」
低く唸るような声音を聞くや――。
虎親の腹部に熱が走った。音さえも止まった世界で、相対する青年の唇が狂喜に歪むのを見る。
そして――知る。
己の武器こそが、彼を死に至らしめんとしている。
「てめェの得物は死ぬほど痛ェだろ」
「は、痒くもねえ」
「そうかよ」
脇腹を蹴られて、腹部の熱が増幅する。痺れるような激痛が脳天まで走って、苦痛に震える呻き声が口を衝く。
それが。
蓮華を余計に喜ばせる。
「は、はは、いいか花房虎親。てめェは俺に殺されるんだ。てめェみてェなクソ野郎の最期を看取ってやるんだから感謝しろよ。絶対に、俺が」
殺してやる。
酷薄な笑みを刻んで、その心臓めがけて、刃こぼれした鎌を振り上げて――。
「蓮華、さん」
怯えた声が鼓膜を打つ。
見開いた目の先に後輩がいた。いつでも蓮華の後をついてくる、小柄で臆病な少年が、真っ直ぐに彼を見詰めている。
――そんな目をするなよ。
ふつりと何かが切れたような音がする。瞼が重い。気付けば全身が軋んで、視界が明滅するような気がする。酷い頭痛で頭が割れそうだ。
それでも見える。
見えてしまう。
少年の瞳が。蓮華を見詰める怯えて震える瞳が。
悍ましい未来を前に、誰かに助けを求める――恐怖の目だ。
それは――。
まるで。
――あいつみたいな。
全身の傷口から血を流す蓮華が、タイガの前で倒れ伏した。
「蓮華さん、蓮華さん」
近寄ると僅かに呼吸の音が聞こえた。安堵の溜息と共に彼の隣へへたり込み、タイガは怯えきった瞳で倒れ伏した黒を見た。
蓮華が与えた傷は致命的だ。ここでタイガが武器を抜けば、この名も知らぬ軍人はすぐさま土に還るに違いない。
けれど。
震えて強張った指先が、ホルスターに収まった銃を取り出せない。滑稽なほどの汗で黒い鉄塊が滑る。呼吸がうまくいかずに、視界が明滅する。上下する肩ではまともな狙いもつけられぬに違いない。
大きすぎる十字架を背負う覚悟も。
覚悟のないまま、それを受け入れる無謀さも。
無謀さを知らぬまま、敬愛する先輩の残した絶好の機会を逃さぬ勇気も。
タイガには――ない。
このままぐずぐずしていれば見付かるだろう。臆病な新兵が手負いの蓮華を守り抜くことは不可能に近い。
だから――。
タイガは背を向ける。
血のにおいから逃げ出して、意識を失った重い肩を支え、微かな呼吸だけを頼りに足を動かす。
――弱いから。
視界がぼやけて、頬を生温い液体が伝った。弱々しい呼気を耳に浴びるたび、背筋が凍りそうな安堵で涙が盛り上がる。
「蓮華さん、僕は、僕は――」
心底、敬愛している。
それなのに恐ろしかった。金の瞳をぎらつかせて、意識の朦朧とした相手に容赦なく武器を突き立て、口汚く罵る彼の姿が。
それで今。
無様に逃げている。
蓮華があれほどまでに憎んだ相手を、己が手に掛けるという事実を前にして、タイガは逃げたのだ。
喉の奥から嗚咽が漏れる。しゃくりあげながら、幾度も強い先輩の名を口にして、返答がないのを確かめるように、耳元の吐息に意識を集中した。
足が重いのは二人分の体重を支えているせいではない。呼吸が乱れるのは疲労のせいではない。
「俺、は」
――強くなりたい。
ゆく先(虎親+タイガ)
乾いた音が響いた。
速すぎる鼓動が耳鳴りになる。噛み合わない歯の根から短い息が吐き出されて、空気を詰め込み過ぎた肺が、頭痛と眩暈を加速させた。手元の銃口から硝煙が上がるのを、どこか遠くに見ている。
その向こうで。
焦土へ倒れ伏した体が物も言わず血に埋もれる。一度だけ大きく痙攣して、浅黒い掌の強張りが緩やかに解けていく。
花房虎親の最期を、笠島タイガは確かに見た。
呆気なく――。
あまりに簡単に。
自分の手で奪われてしまった生命の証が足許に届いた。軍靴越しにも分かる、ひたりと濡れた感覚で、身の毛がよだつ。
タイガは殺してしまったのだ。
蓮華に憎まれ。
蓮華を殺し。
タイガへ強者の渇望を叩き込んだ青年を。
眩暈の奥で、明滅する赤が脳裏に刻まれていく。震える肩を抱えて膝をつくと、余計に生温い死を感じる。
この温度で死ぬのだ。
この温度で死んだのだ。
家族も、蓮華も、タイガが守りたかったものも、この世界の全てが。
込み上げてきたものが、堪えきれずに食道を焼いた。吐き出したすえた臭いが、血腥い赤に混ざってとろけていく。目の前の日に焼けた肌を、白いそれと錯覚する。
怖い。
――けれど。
タイガの唇は確かに引き攣った笑顔を浮かべていた。止まらない涙が、赤と混ざる黄に零れ落ちていく。
「れんげさん、見てください」
形見となった血塗れのネクタイを握り締めた。驚くほど冷えた指先が、タイガがまだ生きていることを認識させてくれる。
「僕、俺、ひとをころせましたよ。ねえ、蓮華さん、強くなれました、なれましたよね」
家族を奪われ、敬愛した背中すら奪われて、全てを失くして、ようやく――。
彼の指先は人を奪った。
そのなんと易しいことか。軽い黒鉄を両手に収めて、人差し指を動かすだけでいい。それだけで、彼の執着は完遂される。
軍人を。
一人でも多く――殺す。
「は、はは。こんなに簡単に死ぬんだ――殺せるんだ、俺は」
込み上げてくる達成感を噛み締める。今度こそ自然な笑みが浮かんだ。
蓮華を背負い、虎親に背を向けたあのときと、とうとう違う存在になることができたけれど。
――あのときにそう気づいていれば。こんなに簡単に全てが終わることに気付けば。
蓮華は。
「ごめんなさい、蓮華さん。俺、少し遅かったみたいで、でもこれからは大丈夫です」
握り締めた指先の震えが止まる。眩暈はいつの間にか収まっていた。ゆっくりと、視界が明瞭になっていく。
「俺は強くなりましたから、蓮華さん――今度こそ殺します。一人でも多く、絶対」
掌から零れ落ちたネクタイが血に沈む。赤黒に侵されていくそれを尻目に立ち上がった背は、振り向くことなく荒野の向こうへ消えた。
仇敵と旧敵(猿麻・タイガ+夜牙)
あの日もこんなにおいがしていたな。
頬に飛び散った鮮紅を拭って、タイガは己の手を見た。黒塗りの鉄塊がもたらす軽い痺れが残っている。
薬莢が転がっていく。
――これが、目の前の骸が残した断末魔の価値だ。怯えながら命を乞うて、這い蹲った少年の遺せたものなど、この程度なのだ。
タイガは違う。
あの日、敬愛した先輩の仇を地獄の底へ叩き落としてから、彼は惨めな弱者ではなくなった。箪笥の奥で震えていた無力な少年ではなく、戦場に立って誰かの命を奪える強者になった。
唇に刻んだ笑みを隠そうともせずに声を漏らす。彼の成すべきことは、今や彼が覚悟を決めるまでもなく、空気を吐き出すが如くに成せるのだ。タイガの全てを踏みにじった軍靴の音を、今度こそ絶やしてみせる。
物言わぬ屍の先に赤黒が広がっていく。赤茶色の焦土に不出来な地図を描くそれを辿った先で、いつか憎んだ靴を見た。
その先の小さな体が、タイガを睨みつけている。
「おい、お前の先輩出せよ、チビ」
己の身長を棚に上げたような発言に、猿麻をまじまじと見遣ったタイガが嗤う。
「何のことですか」
「しらばっくれんな。分かってんだよ」
歯ぎしりの音がこちらまで届くようだった。突き出された赤黒いネクタイが、凝った空気にも鉄錆のにおいを孕んでいた。
ああ――。
何たることか。
口許に刻んだ笑みを余計に深くして、タイガは無垢な少年さながらに首を傾げた。手にした拳銃の銃口を下に向けたまま、決してその殺意を悟られぬよう、猿麻の真っ直ぐな敵意を嘲笑う。
「蓮華さんなら、貴方の師匠が殺したじゃないですか」
息が。
止まった瞬間に、その脇腹へ蹴りを叩き込む。面白いように飛んだ軽い体に銃口を向けて、目を見開いたままタイガを見詰める大きな瞳に、目を細めて応えてやるのだ。
「どうしたんですか。武器を構えてくださいよ。師匠の仇を取りに来たなら、早くしないと逃げちゃいますよ」
――俺は。
相対する目に盛る炎が、溶岩の如き怒りを湛えたのを機に、タイガは慣れた手つきで引き金を引いた。
果たして――。
その師匠譲りの身軽さで、猿麻の体が中空を舞う。
しなやかな拳がタイガの頸を抉らんとし、しかし昂奮にぶれた指先は届かない。能力で劣ったとしても、感情に任せた新兵の一撃と、多少なりと場数を踏んだ躊躇のない銃口では、猿麻の勝ち目はないに等しかった。
師と共に鍛えたはずの拳が眼前の仇に届かない。冷静になれと言い聞かせるたび焦りが募り、猿麻の手から正確さを奪っていく。
代わりのように彼の攻撃を見極め始めたタイガの銃口が、とうとう小柄な少年の頬を掠めた。
肩で息をしながら持ち上げられた拳銃の先、その持ち主が唇を吊り上げる。勝利を確信して、しかし急所を外すように右腕に向けて撃ちこまれた弾丸を避けるすべはなく、猿麻の脳髄に熱い衝撃が走った。
呻き声を漏らして膝をついた黒の額へ、喜悦の笑みを漏らす赤の銃口が突きつけられた。
「痛いですか? 痛いですよね。痛くしてるんですから! あはっ」
「てめえ――」
「このまま沢山甚振ってあげます。軍人なんか、軍人なんか」
陶酔したような焦点の合わぬ瞳が、茫洋と憎しみを見据えて引き金に手を掛けた。せめて最期まで睨み付けていてやろうと猿麻が拳を握る。
刹那。
「――時間切れですか」
拳銃の圧力が彼の額から消えた。無言のまま走り去るタイガの足音を追うように、後方から迫った軍靴が彼の隣で立ち止まる。
「賢明な人でよかった。あのまま勝負挑まれたら死んでましたよ。私が」
見上げた先に汗をぬぐう夜牙の姿があった。消えていく背にしばしの警戒を見せていた彼が、心配げに猿麻を見下ろして、開いているかも分からぬ目の上の眉を動揺に顰めてみせる。
「――え、私悪いことしました? ごめんなさいごめんなさい睨まないでください」
「いや、夜牙先輩のせいじゃ、ねっす」
先程までの怒りがゆっくりと体中に広がっていく感覚で、猿麻は首を振りながら目頭を揉んだ。
睨みつけていた自覚はない。
もしそう見えたなら――それは己の不甲斐なさへの怒りだ。
冷静になれと教わったはずだった。仇を目の前にしたときにこそ、その目を真っ直ぐに見て、行動を読まねばならない。憎いのは、その鉄則を実践することさえ叶わない自身だ。
戻ってきた血流で右腕が軋む。痛みで眉間に皺を寄せながら、猿麻は低く唸るように呟いた。
「ちょっと考えたいことがあるんっすよ」
「何があったか私には分かりかねますが、それならいいところがあります」
思わず持ち上げた視線の先で、夜牙は普段の温厚な笑みを刻んだまま、傷を押さえる猿麻の赤い手を指さした。
「医務室に行きましょう」
末路(猿麻・タイガ)
弱々しい足音が焦土を踏みしめる。
幾度敵兵に鉛の弾を撃ち込んでも、タイガの足取りは重い。燃えたぎるような昂ぶりも快感も胸を打たない。
どれだけ敵を殺しても――知らぬうちに本当の仇に貢献し続けていたという事実は消えない。今もただ、彼の家族を奪った存在の敵を殺し続けているということが、彼の暗い顔に一層の影を刻んだ。
だから――。
目の前の赤茶を遮る小さな影に、銃口を向けることもしなかった。
「俺への復讐ですか」
その覇気のない声に一瞬面食らったように、猿麻の眉間に皺が寄った。浮かぶ怪訝を隠そうともしないまま、それでも彼はゆっくりと首を横に振る。
「師匠、言ったんだ。自分のオトシマエは自分でつけるって。だから俺は俺で戦う」
ようやくタイガが目を上げた。猿麻の右腕に巻かれた包帯を見遣ってから、真っ直ぐな瞳を見据える。
光を宿した瞳はどこまでも穏やかだった。タイガの鉛に似た心を嘲笑うように射抜いている。
「お前と戦うのは復讐なんかじゃない」
「それを復讐っていうんじゃないんですか」
「違えよ」
恨みでも――憎しみでもない――。
ひどく寂しげな猿麻の視線は凪いでいた。いやに見覚えのあるその目にタイガの顔が歪む。その嫌悪をも振り払うような意思で、少年は拳を握った。
「父ちゃんも死んじまったし、師匠も死んじまったけど、俺はお前を恨んでるけど、でも」
――仇が取りたいわけではないのだ。
拳を固め、眼前の敵に構えを取る。気を落ち着けるように瞬いて、その先で煌めく壊れた眼光を見据えた。
「だって俺が仇を取ったら、師匠は師匠のオトシマエを自分じゃ付けられなかったってことになっちまうじゃんか。俺は師匠を嘘吐きにはしたくねえ。だから、俺は俺のオトシマエを付けるんだ」
それは誰かのために拳を振るう行為ではない。猿麻の抱くタイガへの敵意に、虎親への信愛は存在しないのだ。
だから。
頭は冴えている。拳は震えない。
より大切なときにこそ冷静に――より強い感情を抱くからこそ確実に――師の教えの意味は今なら分かる。
これは誰のための戦いでもない。この拳は誰にも捧げない。
ただ――己のための。
「ふざけるなよ」
低く唸ったタイガがホルスターから銃を抜いた。黒く深淵にも似た銃口を猿麻の視線を遮るように構えて、彼はようやく笑ってみせる。
「そんなの他の軍人と同じです。どんな綺麗ごとを言っても貴方がやってるのは復讐だ、俺と同じで――ああ」
一度笑えればあの高揚を思い出すのは簡単だった。湧き上がる笑声を押し殺すことをやめて、彼は自身を嘲った。
何を言おうとしているのか。
何を必死になっているのか。
そんなもの。傍から見れば分かりもせぬ感情など。
「殺しちゃえば同じですよね」
火を噴いた銃口から体を逸らす。頬と髪を掠めたそれを目で追うこともなく、猿麻は突進する。
突き出した拳がタイガの鳩尾を捉えた。
軽々と吹き飛んだ体が地面を転がる。喉に詰まった息を血と共に吐き出す彼の手から離れた拳銃を拾って、それを額へ突きつける。
その冷えた圧力に目を上げたタイガは、その奥で煌めくひどく悲しげな猿麻の瞳を見た。
「俺は」
口を衝いた言葉が震えていた。
呆然と失っていた体の感覚が戻ってくる。軋む内臓の激痛と、吐き出した鉄錆の味の生温さが頭蓋の中を掻き回す。
叫び出したいくらいに――。
タイガは生きている。
――嫌だ。
「僕、は」
歯の根がかみ合わない。立ち上がりたいのに手に力が入らない。
物音が止んで箪笥の奥から出てきたとき、目の前に広がっていた血溜まりの赤が脳裏をよぎった。
その鮮烈な死の証に沈む肉塊になる。
彼を守った家族と同じように。
彼が敬愛した蓮華と同じように。
彼が――初めて殺した虎親と同じように。
あの呆気なさで。あの手の痺れだけを残して。
彼が嘲笑った弱者と同じように。何も残せぬままに。
タイガは。
「しにたく、ない」
溢れ出した涙と懇願がやまないうちに、猿麻は引き金を引いた。
乾いた音と赤が飛び散る。零れ落ちた雫が地面に広がって軍靴の底に嫌な粘り気を残した。自身の手に残った僅かな感覚と動かなくなったタイガを交互に見遣って、猿麻は目を伏せる。
「こんなに簡単に人を殺せちまったんだな、お前」
銃を放り投げて、暫し物言わぬ亡骸を見据えた。
言うべきことはない。
誰も――悪くはないのだ。
踵を返した猿麻の足に、赤黒い死が未練がましく纏わりついた。
だからあなたは独り善がりだ(名無し+タイガ)
あの人は強くなりたいという思いだけでここまで来てしまったのだ。
見詰める先の後輩の瞳が悍ましい光を湛えているのを、名無しは虚ろに受け止めている。
復讐だと語る唇が悦楽に染まっているのが見える。己を強者と讃え、今し方弾丸で撃ち抜かれた骸を罵る言葉が、荒げた口調で脳に飛び込んでくる。
箕島タイガの撃った相手は、暗殺部隊たる名無しの標的だった。
誰が殺したとしても関係はない――目的が遂行されたことを名無しが知っていればいい。タイガにはただの雑兵にしか見えていないのであろうし、ならば彼女が彼の行ったことを報告するだけだ。
目を閉じた名無しの脳裏から、軍人を呪う言葉が遠ざかっていく。奥の戦地に消える背が嫌でも想像できた。
悲しい――人だ。
名無しでは役には立つまいと分かっているから、彼女は彼に近づかない。たとえどんなに様変わりしてしまったとしても、彼女にとってタイガはあくまでも後輩であり、仲間である。この奇異な力は、認めて受け入れてくれた仲間のために役立てたいのだ。
死体から目を背けるように踵を返した。被ったシルクハットを使う気にもなれずに覚束ない足取りで歩く。
タイガは――。
引き金一本で人が殺せなかったならば、名無しの知るままの臆病な少年であったのだろうか。手にしたものが或いは剣であったなら、ああも簡単に、肉を裂く重みを笑うことは出来まい。
己が執着しているから。
その死をよく理解してしまうから、彼らを自身と断絶した存在だと決めつけて戦うのだ。あの引き金一本で死ぬ弱者と、小さな鉛で相手を殺せてしまう己とを、全く別の生き物だと信じている。
それがひどく悲しい。
近寄ってくる友人の足音がする。うさぎを抱えて息を弾ませている。その脳裏に浮かぶ真っ直ぐな期待が、名無しをとりとめもない思考の渦から救い上げた。
タイガは蓮華ではない。死んでしまった、復讐だけを頼りに生きていたあの恐ろしい人にはなれない。復讐に身を捧げる言葉を口にしながら、彼は己の生を誰よりもよく見詰めている。
そして何が分かったところで、名無しもタイガではないのだ。
だから。
ああして復讐を語るのも。
強くなった気でいるのも。
名無しがそれを分かった気になっているのも。
――こうして憐れんでいることすら。
「ナナシ、どうしたんだわ」
「なんでもないの」
ただの独り善がりだ。
夜桜城(黒軍・赤軍)
はらりと舞い落ちた薄桃を摘まむ。
見慣れた指の先に見る堅牢な石垣は、月明かりに深々と沈んでいた。連れ立った闇が蠢くのを押し殺した空気の中で感じながら、泉は目を閉じる。
凪いだ風が一陣舞った。
黒派第二高校本丸――墨俣一夜城。
四月の初めとは思えぬ凍てつく空気が泉に纏わった。疲弊しきり、最早かつての栄華となった堅牢な檻の中に身を隠すしかなくなった黒軍を、彼らが終わりにする。
重苦しく垂れこめた灰色の雲を裂くように警鐘が鳴る。物見櫓の人影を瞥見した泉が大剣を抜き放つや、影を割った赤が馳せた。
舞い散る桜の孕む光が鎖鎌に触れて削げ落ちる。昂ぶる金にちらつく黒を易々と斬り伏せ、己の得物を一振りした蓮華が目を上げた。
木造の床に刺さる大振りの太刀を浅黒い手が支えている。鼻と目元に入った朱が不敵に侵入者を笑っている。
「てめェの狙いは俺だろ」
その穏やかな殺意に、蓮華が目を剥いた。剥き出しの牙の間から獣めいた唸り声を漏らす彼と仇の間を、風に舞いあがった薄桃の壁が阻んだ。
「ここで仕留める――花房虎親ァ!」
「望むところだ。来やがれ」
灰色の曇天に乗る薄桃が、野太刀の刃に煌めく。
覚束ないまま殺した足音が止まる。
「てめェ、赤軍か」
少年じみた色の残る声の威圧にすら、箕島タイガの肩は震えた。敬愛する蓮華との合流だけを考えていた頭を不快な敵がかき乱す。
ふらつく指先が押し殺すようにホルスターをなぞった。目の前で構えられた拳に焦点を合わせられずに、唇が戦慄く。
「こんなときに押し入ってきやがって。許さねえぞ」
タイガの恐怖には目もくれず、怒りを湛えた猿麻の大きな瞳が眼前の少年を睨む。仄明かりを遮る花弁の一枚すらも邪魔だとばかり、彼の純粋な殺気がタイガを射抜いた。
唾を大きく飲み込んで、震える手で黒塗りの鉄塊を構える。月光にぬらりと浮かぶ拳銃の昇順が桜の先にある額を狙う。
「ぼく――俺は確かに赤軍です。ここに来た役目、果たさなきゃ」
「この景色を二人で見られたことを幸運だと思うべきなのでしょうか」
「分かりませんわ」
諦めたように首を横に振ったアグネリアが、対峙する愛しい黒を見上げた。儚い桃色に包まれて髪を留める十字架が揺れている。
掌に落ちた愛らしい薄膜を握り締めて、彼は眉尻を下げたまま、それでも尚笑って見せるのだ。
「貴方は侵入者。私は迎撃者。今回ばかりは、愛を囁くことも許されなさそうだ」
冗談めいた悲壮が二人の間を遮る。
今すぐにでも手を伸ばしたい衝動を振り払うように首を振って、アグネリアは手にしたナイフの切っ先を愛する男へ向けた。
――大丈夫だ。
傷つくのは今だけだ。拳を構える彼はきっと、彼女と共に生きてくれるのだから。
だから――。
「いつかこの景色を手を繋いで見られるように、零式様――お覚悟を」
手が震えることはない。
扉を開いた黒がへらりと笑った。
「侵入者はっけえん。燕ガンバ」
「貴方も頑張るんですよ、真」
小さな体を不安げに名無しへ寄せていた恵真が恐怖に震える双眸を名無しへ向ける。汗で滑る右手を刀に掛けながら、動じる様子もない仮面の友人に弱々しく囁く。
「ナナシ、エマどうすれば」
「下がってるの。自分が全部終わらせるから、目を閉じてればいいの」
「そんなの嫌なのだわ。おともだちに任せるのは駄目」
手にした兎の縫いぐるみを地に落としながら叫ぶ恵真を見詰めていた燕と真が顔を見合わせた。
――ここは戦場だ。
「お話してると俺らが先手取っちゃうぞ」
交錯するように身の丈ほどのチャクラムを構えた二人が同時に馳せる。狙いは――。
見開かれた紺碧を庇うように、恵真の目の前を横切る桜の花弁がトランプに撃ち抜かれた。
燕の頬を掠めたそれを気に留める様子もなく、冷静に距離を置いた彼が、シルクハットをかぶり直した仮面の少女に武器を向ける。
「随分と不思議な力をお持ちで」
「友達の――家族のために使う力」
一瞥。
それで彼の意図を理解したらしい真が、体勢を立て直した恵真に向き直った。
「手、震えてるけど大丈夫?」
「心配はご無用なのだわ。エマはナナシのおともだちなのだわ」
鈍い銀に、堪えきれずに天から降り落ちた白が光った。
「いお異邦」
後ろを向いたきりののえるが、夜桜を見詰めながらようやく声を発した。
隻眼の少女が無表情に首を傾げる。手にした大斧が不愉快な金属音で少女の声を引き裂いた。
だから、のえるは大きく声を上げる。
「あたしたち、おともだちになれましたか」
「うん、なれたよ」
「ならいいんです。思い残すこと、ありません」
向き直った彼女は笑ってなどいない。
目に涙を溜めて、恐怖に震える足を奮い立たせて、諦めたような敵軍の友人を見据えている。
「行きたいところがたくさんありました。でもそれももういいんです。あたし、いお異邦と――伊織ちゃんとおともだちになりたかっただけなんだって、分かりました」
両手を大きく広げる。舞い散った桜が月光と雪に白く滲む。
美しい――この夜に。
「わたしも、そうおもってた」
伊織は再び、親友に斧を振るう。
敵の城ながら素晴らしいと遙は思う。
後方の気配に無防備な背を貫きながら、彼はゆったりと振り返った。その先にいる長身の女が咥えた棒を引っ張り出している。
「知ってっか。桜の木の下には死体が埋まってんだとよ」
「そうらしいですね」
引きちぎられたような黒いセーラー服の端を揺らして、凍てつく白が吹き込む。再び口に戻った飴を転がして、雨燕は掴みあぐねる敵を見据えた。
「墨俣一夜の夜桜城――っつって、粋じゃアねェか。後は伝説が本物になりゃ完璧か」
肩を竦めた遙が笑う。
そのある種の不遜さに麻痺していた本能が揺さぶられた気がして、雨燕も唇を吊り上げるのだ。
「埋まるのはそっちと相場が決まってるでしょう」
「理由を訊こうか」
「桜は赤を吸ってこそ美しく咲くんです」
抜き放たれた清澄な銀に、白く溶け落ちる花弁を重ねて、彼女は馳せる。
刹那の攻撃に辛うじて大剣を抜くことに成功した夜牙が、目の前の闘争心を見据えて苦笑した。
「見付かってしまいましたか。これは私死にましたかね」
金属に阻まれた足をこともなげに引き戻したティナが鼻を鳴らす。夜牙の困惑は一層深まる。申し訳程度に構え直した大剣がどこまで通用するかも分からぬというのに、素早い彼女を相手取らねばならないというのだ。
チャイナドレスの裾を撫でる白雪を掬い上げ、殺意を孕んだ指先が退路を探す夜牙の糸目を睨んだ。
「御託は必要ありません。武器を構えてください。私は泉様のところへ行かなくちゃいけないんですから」
「おや――そういうことなら話は別です」
撤退先を求めた瞳がティナを射抜いた。ゆっくりと開かれた赤い瞳が、獰猛な獣の牙で彼女を狙う。
重苦しく冴える空気を月明かりに照らして、桜の花弁を易々と斬り落とした切っ先がティナに向けられた。
「隊長を一目拝むことも許さねえ。ここでくたばって――花見の肴にでもなっちまえ」
雪ごと桜を握り締めた手が痛いほどの冷たさで頭に回った。
鮮やかな――雪桜。
その中に佇む浅黒い肌の指揮官を見据えて、泉の手が背の剣を撫でる。
「もう分かってんだろ。俺らがここに来た理由。襲撃相手に黒を選んだ理由なんかよ」
「ああ」
秀助がゆっくりと頷いた。耳元で揺れる金に天守閣の窓から吹き込む白が触れて消える。
「それでも諦める訳にはいかない」
「何でだ」
「俺たちは勝つ。もう誰も犠牲にはさせないと、決めたからだ」
真っ直ぐな。
意思だけを孕む目が泉に迫る。
求めるものだけを求める覚悟を決めた灰色が紺碧を見詰めている。
「その邪魔をするなら――泉、ここでお前を」
その先を言うことはなく、秀助が拳を引いた。腕に装着されたボウガンが軋んだ音を立てる。
何もかも――。
分かった上で、彼は泉の前で立っている。誰に縋ることもせぬその尊い瞳にこそ、泉は笑えた。
「受けて立ってやらァ」
抜き放つ武器に桜が吹き付ける。白と混ざって床を埋める薄桃の光の中で、赤と黒は己の武器をぶつけた。
臆病者の(タイガ)
扉を開けたときのことを思い出す。
静寂に重しをされた衣装箪笥の扉は、幼いタイガが開けるには時間がかかった。震える手で、気を抜けば肺を押し潰そうとする空気を吐き出しながら、狭苦しい砦を出たのだ。
あのときと同じ――。
赤は黙ったままだった。
風が血生臭さを幾分か払ってくれたおかげで、タイガは胃の中身を引っ繰り返さずに済んだ。代わりに笑う膝を重力に逆らわぬまま地面へ打ち付ける。
痛みはなかった。
眼前に転がって、虚ろな金の眼を中空に投げかける蓮華だった肉塊が、無数の傷口から零れた鮮紅を土に染み込ませている。動かない指先からその体の向こうへ目を逸らす。
そこに――。
繋がる赤黒の道がある。仇が体を引きずるままに残した標だと嫌でも理解した。
――今追えば。
英雄になれるだろうか。臆病な少年の夢見た無謀な復讐に一歩でも踏み出せるだろうか。
背負った家族の十字架が――蓮華の死が――。
タイガの背負うべき重荷が。
軽くなるだろうか。
蓮華に渡された銃を抜こうとする指先が震えていた。汗で塗れた掌から滑り落ちて、太もものホルスターに戻っていく。
気の抜けた太陽の日差しの中で、黒白さえ知りもせぬ誰かの背が遠ざかっていく。その背に銃口を向けて撃鉄を起こせば、後は引き金に掛けた人差し指を動かすだけだった。震える手を押さえつけて、たった一発の黒鉛で、タイガは英雄になれる。
人殺しに――なれる。
滑り落ちた黒鉄が地面に跳ね返る。蓮華の足で止まるそれに、もう触れる気はしなかった。
祈るように握りしめた拳を笑われることはないと分かっていても、縋るように敬愛した先輩を見る。
その魂のない瞳と。
――目が合った。
責めるようにタイガを見ていた。姉と同じように気強な彼は、あのときの姉の瞳と同じように、仇を討てと言っているような気がした。
それでも。
タイガには。
もう――その蛮勇を振るえない。
己の死に怯え続け、肉塊と成り果てた強者の影を喪った彼には、自らの矮小さを棚に上げて誰かへの復讐を誓える力は残っていない。
最初から――無理だったのだ。
臆病で気弱な少年に、英雄は重すぎた。身勝手な報復の刃を誰かに振り下ろして、その血を浴びることなど、出来るわけがなかった。
ごめんなさい――。
赤黒く染みていく血痕から目を塞ぐように座り込んだ彼のか細い謝罪に、応える声はなかった。
タイガくんまとめ