いおのえいおまとめ
ネバー・エバー・エンディング
覗き込んで顔を寄せる。
「もうすぐ完成ですね」
のえるの抑えた笑い声が、耳元を掠めた。くすぐったいのだか嬉しいのだかわからずに、伊織も仄かに笑顔めいたものを唇に刻む。
セーラー服の隣に私服が並ぶ。異様な光景を現実にする場も、赤軍の司令塔たるのえるの知りえた情報と、黒軍の暗殺部隊に所属する伊織の身体能力があれば、容易に見つかった。任務ついでに密かに竹林を切り開き、二人にしかわからない小道を作り出して、その先の打ち捨てられた民家の縁側で、ささやかな逢瀬を続けている。
伊織の膝に開いたノートには、小さな文字が並んでいた。
几帳面な字の次に、のたくった文章のようなものが連なる。また綺麗に並んだ字に戻る。
二人で続けてきた空想の物語がようやく完成に近づいてきたのだ。
――そのエンドマークを見ることは叶わないのだけれど。
もうじきに――。
この辺りも戦地になるだろう。赤い飛沫と怒号の飛び交う屍の山の狭間で、小さな友人たちは武器を突き付けあうことになる。
誰を殺すかもわからない。
誰に――殺されるかも。
この非業にまみれた世界で、初めて得た緩やかな時間は、いずれ鬨の声が掻き消してしまう。その前に、せめて自らの手で終わらせたかった。密かな談笑をも裏切りと断じられて、全てを失ってしまう前に。
のえるが伊織を。
伊織がのえるを。
終わらせてしまえばいい。
伊織の白い手が、ノートを閉じて縁側に置く。
これは永遠に終わらない物語でいい。現実と同じバッドエンドも、あまりに空想的なハッピーエンドも、きっと書けはしない。
だからいっそ。
エンディングなど存在しないままでいい。
「がんたい、はずして」
目を閉じて囁かれた言葉に、のえるの繊手が持ち上がった。雪のような色をした伊織の、唯一の黒がほどける。
その下に――瞳はない。
のえるに驚いた様子はなかった。ゆるゆると開かれた穏やかな赤が、前髪の隙間から見える空洞の、どうしようもない空虚を補って笑う。
「――よくみえる」
「ないのに」
「うん。でも、みえる、よ」
いつか殺してしまった親友の姿ではなく、今、目の前で笑う少女の姿が。
同時に立ち上がって、己の武器を手に取る。いつもよりずっと重いそれが、己と――相手の全てなのだと知りながら、眼前を睨みやる。
邂逅は偶然だった。屍を引きずる虚ろな黒と、動揺を叩きつけられた赤の目が合ってしまった瞬間から、こうして死ぬことは必然だったのだ。
「いお異邦」
「のえる司令塔」
命ばかりの戦場で、いやになるほど友達だったから。
「あなたを、ころす」
心牢
「あしたは喫茶店に行きましょう」
弾んだ声が灰色の部屋に跳ね返る。薄桃色の私服の裾は、戦乱ですっかり襤褸(ぼろ)になってしまったが、未だ柔らかく、のえるを覆っている。
それが、冷たく尖った打ちっぱなしの床に擦れる。
上体を揺らしながら、夢見がちに語る頭から、帽子が転げ落ちた。
それを拾って。
立ったままの伊織は薄赤を見下ろした。
「そう、だね」
薄暗い廊下の奥を見通すように、赤い隻眼を細める。看守の足音が聞こえてこないのを良いことに、少しだけ彼女との距離を詰めた。
戦争が終われば、兵士など用済みだ。戦うためだけに育てられた子供だというなら――尚更である。
彼らの大半が――。
戦うこと以外を知らない。消えない傷を抱えた体も、殺人鬼の汚名も、兵器としての洗脳も、否定するすべを知らない。上手く逃げおおせた者たちは、全てを秘匿することができたのだ。
もっと多くを知っていた。
伊織ものえるも知らなかったことを。
逃げよう――と、漠然とした意思だけはあった。二人で行きたいところも、やりたいこともあった。のえるの提案で秘密基地を抜けて、疲弊した彼女を伊織が背負いながら進み、二人で手首を切って作った血だまりから、示し合わせて二手に分かれた。
――そんな浅知恵は、やはり通用しなかったのだけれど。
導かれた鉄格子の中で、のえるが声もなく泣いているのに、伊織は寄り添うことしか出来なかった。精神的苦痛を目的にして、別の軍の生徒どうしを投獄する目論見に、血溜まりは効力を発揮したようだ。
どうにか庇いきった、二人で書いたノートを捲る。
戦争が終わったらハッピーエンド、その前にどちらかが死んだらバッドエンド――。
そう約束した。
幸福にはなれなかったけれど、戦争は終わった。泣きながらハッピーエンドに仕立て上げた話が完結した日、すすり泣くのえるが伊織に寄り添ったままに言ったのだ。
――終わらせなければよかったね。
次の日から、のえるはのえるでなくなった。遠くを見つめたまま、二人で綴った幸福な日々の続きを生きている。
それを。
咎める術を、伊織は知らない。
「この前見つけたんです。綺麗な並木道の奥にあって静かでいいにおいがして珈琲がおいしいんです女の人が歌を歌っててあれは誰なんでしょうねもしかしたら知ってるかもしれないから二人で行くときもかかってればいいですね」
「うん」
「きっと気に入りますよ小鳥の声がしてあったかい飲み物があってケーキがおいしくて」
だから明日は楽しくなりますね。
笑うのえるから目を逸らしたまま頷く。明日もまた、暖かい飲み物もケーキもなく、残飯同然の腐りかけた一食を食すことになる。
のえるの食べる量は増えるだろうことだけが、伊織の救いだった。
――隣の牢の罵倒が笑声に変わったのは、今朝のことだ。
きっと片方が処刑されたのだ。次は自分だというのも分かっている。
のえるはもうとっくに壊れているのだから。
壊れていない伊織を先にする。
「のえる」
「なんでしょう」
「わたしね」
声が震えた。戦慄く唇が息を遮って、何も言えなくなる。
無垢な瞳に射られて目を閉じた。
「――おふとん、もってるよ」
とうに使い物にならなくなった、穴だらけのローブを脱ぐ。白い肌と赤い瞳を、日光から遮るためのそれを床に敷いて、大穴を隠すように折った。
おいで――。
手を広げる。目を輝かせたのえるが歓声を上げた。
「わあ、おふとんです! ふかふかです!」
飛び込んだ服が擦れて、嫌な音を立てる。気にした様子もなく黒に身を埋めた少女が、ふと動きを止めて口を開いた。
「いおり、ちゃんの、においがします」
それは。
求め続けて――一度も口にされなかった名だった。
唇に不器用な笑みを浮かべた伊織が、ローブごとのえるを抱き締める。
「するね」
「きょうは一緒に寝ましょう」
「そう、しよう」
そうすればきっと。
隣の悲鳴よりは――いい夢で終われるから。
夜桜城
はらりと舞い落ちた薄桃を摘まむ。
見慣れた指の先に見る堅牢な石垣は、月明かりに深々と沈んでいた。連れ立った闇が蠢くのを押し殺した空気の中で感じながら、泉は目を閉じる。
凪いだ風が一陣舞った。
黒派第二高校本丸――墨俣一夜城。
四月の初めとは思えぬ凍てつく空気が泉に纏わった。疲弊しきり、最早かつての栄華となった堅牢な檻の中に身を隠すしかなくなった黒軍を、彼らが終わりにする。
重苦しく垂れこめた灰色の雲を裂くように警鐘が鳴る。物見櫓の人影を瞥見した泉が大剣を抜き放つや、影を割った赤が馳せた。
舞い散る桜の孕む光が鎖鎌に触れて削げ落ちる。昂ぶる金にちらつく黒を易々と斬り伏せ、己の得物を一振りした蓮華が目を上げた。
木造の床に刺さる大振りの太刀を浅黒い手が支えている。鼻と目元に入った朱が不敵に侵入者を笑っている。
「てめェの狙いは俺だろ」
その穏やかな殺意に、蓮華が目を剥いた。剥き出しの牙の間から獣めいた唸り声を漏らす彼と仇の間を、風に舞いあがった薄桃の壁が阻んだ。
「ここで仕留める――花房虎親ァ!」
「望むところだ。来やがれ」
灰色の曇天に乗る薄桃が、野太刀の刃に煌めく。
覚束ないまま殺した足音が止まる。
「てめェ、赤軍か」
少年じみた色の残る声の威圧にすら、箕島タイガの肩は震えた。敬愛する蓮華との合流だけを考えていた頭を不快な敵がかき乱す。
ふらつく指先が押し殺すようにホルスターをなぞった。目の前で構えられた拳に焦点を合わせられずに、唇が戦慄く。
「こんなときに押し入ってきやがって。許さねえぞ」
タイガの恐怖には目もくれず、怒りを湛えた猿麻の大きな瞳が眼前の少年を睨む。仄明かりを遮る花弁の一枚すらも邪魔だとばかり、彼の純粋な殺気がタイガを射抜いた。
唾を大きく飲み込んで、震える手で黒塗りの鉄塊を構える。月光にぬらりと浮かぶ拳銃の昇順が桜の先にある額を狙う。
「ぼく――俺は確かに赤軍です。ここに来た役目、果たさなきゃ」
「この景色を二人で見られたことを幸運だと思うべきなのでしょうか」
「分かりませんわ」
諦めたように首を横に振ったアグネリアが、対峙する愛しい黒を見上げた。儚い桃色に包まれて髪を留める十字架が揺れている。
掌に落ちた愛らしい薄膜を握り締めて、彼は眉尻を下げたまま、それでも尚笑って見せるのだ。
「貴方は侵入者。私は迎撃者。今回ばかりは、愛を囁くことも許されなさそうだ」
冗談めいた悲壮が二人の間を遮る。
今すぐにでも手を伸ばしたい衝動を振り払うように首を振って、アグネリアは手にしたナイフの切っ先を愛する男へ向けた。
――大丈夫だ。
傷つくのは今だけだ。拳を構える彼はきっと、彼女と共に生きてくれるのだから。
だから――。
「いつかこの景色を手を繋いで見られるように、零式様――お覚悟を」
手が震えることはない。
扉を開いた黒がへらりと笑った。
「侵入者はっけえん。燕ガンバ」
「貴方も頑張るんですよ、真」
小さな体を不安げに名無しへ寄せていた恵真が恐怖に震える双眸を名無しへ向ける。汗で滑る右手を刀に掛けながら、動じる様子もない仮面の友人に弱々しく囁く。
「ナナシ、エマどうすれば」
「下がってるの。自分が全部終わらせるから、目を閉じてればいいの」
「そんなの嫌なのだわ。おともだちに任せるのは駄目」
手にした兎の縫いぐるみを地に落としながら叫ぶ恵真を見詰めていた燕と真が顔を見合わせた。
――ここは戦場だ。
「お話してると俺らが先手取っちゃうぞ」
交錯するように身の丈ほどのチャクラムを構えた二人が同時に馳せる。狙いは――。
見開かれた紺碧を庇うように、恵真の目の前を横切る桜の花弁がトランプに撃ち抜かれた。
燕の頬を掠めたそれを気に留める様子もなく、冷静に距離を置いた彼が、シルクハットをかぶり直した仮面の少女に武器を向ける。
「随分と不思議な力をお持ちで」
「友達の――家族のために使う力」
一瞥。
それで彼の意図を理解したらしい真が、体勢を立て直した恵真に向き直った。
「手、震えてるけど大丈夫?」
「心配はご無用なのだわ。エマはナナシのおともだちなのだわ」
鈍い銀に、堪えきれずに天から降り落ちた白が光った。
「いお異邦」
後ろを向いたきりののえるが、夜桜を見詰めながらようやく声を発した。
隻眼の少女が無表情に首を傾げる。手にした大斧が不愉快な金属音で少女の声を引き裂いた。
だから、のえるは大きく声を上げる。
「あたしたち、おともだちになれましたか」
「うん、なれたよ」
「ならいいんです。思い残すこと、ありません」
向き直った彼女は笑ってなどいない。
目に涙を溜めて、恐怖に震える足を奮い立たせて、諦めたような敵軍の友人を見据えている。
「行きたいところがたくさんありました。でもそれももういいんです。あたし、いお異邦と――伊織ちゃんとおともだちになりたかっただけなんだって、分かりました」
両手を大きく広げる。舞い散った桜が月光と雪に白く滲む。
美しい――この夜に。
「わたしも、そうおもってた」
伊織は再び、親友に斧を振るう。
敵の城ながら素晴らしいと遙は思う。
後方の気配に無防備な背を貫きながら、彼はゆったりと振り返った。その先にいる長身の女が咥えた棒を引っ張り出している。
「知ってっか。桜の木の下には死体が埋まってんだとよ」
「そうらしいですね」
引きちぎられたような黒いセーラー服の端を揺らして、凍てつく白が吹き込む。再び口に戻った飴を転がして、雨燕は掴みあぐねる敵を見据えた。
「墨俣一夜の夜桜城――っつって、粋じゃアねェか。後は伝説が本物になりゃ完璧か」
肩を竦めた遙が笑う。
そのある種の不遜さに麻痺していた本能が揺さぶられた気がして、雨燕も唇を吊り上げるのだ。
「埋まるのはそっちと相場が決まってるでしょう」
「理由を訊こうか」
「桜は赤を吸ってこそ美しく咲くんです」
抜き放たれた清澄な銀に、白く溶け落ちる花弁を重ねて、彼女は馳せる。
刹那の攻撃に辛うじて大剣を抜くことに成功した夜牙が、目の前の闘争心を見据えて苦笑した。
「見付かってしまいましたか。これは私死にましたかね」
金属に阻まれた足をこともなげに引き戻したティナが鼻を鳴らす。夜牙の困惑は一層深まる。申し訳程度に構え直した大剣がどこまで通用するかも分からぬというのに、素早い彼女を相手取らねばならないというのだ。
チャイナドレスの裾を撫でる白雪を掬い上げ、殺意を孕んだ指先が退路を探す夜牙の糸目を睨んだ。
「御託は必要ありません。武器を構えてください。私は泉様のところへ行かなくちゃいけないんですから」
「おや――そういうことなら話は別です」
撤退先を求めた瞳がティナを射抜いた。ゆっくりと開かれた赤い瞳が、獰猛な獣の牙で彼女を狙う。
重苦しく冴える空気を月明かりに照らして、桜の花弁を易々と斬り落とした切っ先がティナに向けられた。
「隊長を一目拝むことも許さねえ。ここでくたばって――花見の肴にでもなっちまえ」
雪ごと桜を握り締めた手が痛いほどの冷たさで頭に回った。
鮮やかな――雪桜。
その中に佇む浅黒い肌の指揮官を見据えて、泉の手が背の剣を撫でる。
「もう分かってんだろ。俺らがここに来た理由。襲撃相手に黒を選んだ理由なんかよ」
「ああ」
秀助がゆっくりと頷いた。耳元で揺れる金に天守閣の窓から吹き込む白が触れて消える。
「それでも諦める訳にはいかない」
「何でだ」
「俺たちは勝つ。もう誰も犠牲にはさせないと、決めたからだ」
真っ直ぐな。
意思だけを孕む目が泉に迫る。
求めるものだけを求める覚悟を決めた灰色が紺碧を見詰めている。
「その邪魔をするなら――泉、ここでお前を」
その先を言うことはなく、秀助が拳を引いた。腕に装着されたボウガンが軋んだ音を立てる。
何もかも――。
分かった上で、彼は泉の前で立っている。誰に縋ることもせぬその尊い瞳にこそ、泉は笑えた。
「受けて立ってやらァ」
抜き放つ武器に桜が吹き付ける。白と混ざって床を埋める薄桃の光の中で、赤と黒は己の武器をぶつけた。
白刃の行方
ああ――苛々する。
目の前で斧を差し出す隻眼の少女が、どうにものえるは許せないときがある。
伊織はのえるの友達だ。軍が違っても友達だ。伊織が本当はどう思っていても、のえるの中ではただ友達だ。
優しい――友達だ。
「一緒に書くって約束したじゃないですか」
「でも、もう、わたしは」
だめだとおもう。
血に塗れた体を引きずり、背に大きな裂傷を受けた伊織は、のえると多くの時間を共にしたあばら家に辿り着くなり杖のように使った大斧を駆け寄る彼女に差し出した。
――せめて最期は。
懇願と諦念を孕んで閉じた瞳に、しかしのえるは頷けない。幼子のように大きく首を横に振って、零れ落ちそうな涙を必死に堪えながら、眩暈のような鼓動を押さえつける。
殺さない。
絶対に――殺せない。
大口を開けた背中の傷が彼女の命を奪うとしても、今は生きているのだ。
持っていた応急セットに震える手を伸ばす。遮ろうと伸びてくる弱弱しい腕を握る。白くて細いそれを暫し見詰めてから――。
引いた。
容易く倒れる体と見開かれた目を見据える。
「いいですか」
上げた声がみっともなく震えている。いよいよ熱くなる目頭を堪えるように目を閉じた。
絶対に駄目だ。
のえるは斧を握れない。
――だって。
「これは、いおりちゃんのための剣です」
泣きそうに詰まった息に抱き留められて、伊織は再び目を閉じた。
しあわせな
――いおりちゃん。
体温の低い伊織の掌が、のえるのそれを覆って先を行く。何とはなしに名前を呼べばゆるりと振り返った。
賑わう往来である。客引きの声が飛び交う商店街の中央で、言葉少なな友人たちは暫し立ち止まって見詰め合う。子どものはしゃぐ声と綺麗な服の掛かった店先を背景に、白髪に赤い隻眼をした少女は、のえるの言葉を待って瞬いていた。
戦いは終わった。
嘘のように晴れ渡った世界で、伊織とのえるはようやく、黒も赤もない少女として手を繋いだ。今は首を傾げる伊織の右目を隠す眼帯だけが現実だった戦禍を物語る。
のえるには――。
二人でやりたいことが沢山あった。
カフェというのに行ってみたかった。気兼ねなく買い物がしてみたかった。銃声に怯えることなく歩きたかった。待ち合わせの場所の指定に暗号を使いたくなかった。一緒にいるときですら視界にちらつく血塗れの斧を伊織の手から奪い去りたかった。保証のある再会に安心して手を振りたかった。
普通の少女のように。
綴り続けた夢物語のように。
――笑い合いたかった。
固く手を繋いだまま、伊織はのえるが呼び止めた理由を口にするのを待っている。無表情な、しかしのえるには分かる優しさを孕んだ赤い瞳を見詰めていると、溢れる願望が期待になって胸を高鳴らせる。
今日は彼女の洋服を選びに来たのだった。明日は何をしよう。明後日はどこに行こう。どこへだって行ける。何だってできる。だってもう――。
――あたしたちはともだちだもんね。
「いおり、ちゃん」
固く握った掌の感触。生温く絡みつく液体の不愉快な感覚とは裏腹に、周囲はひどく寒い。目を開いたつもりで、鈍い激痛が襲うだけの視界に光は差さなかった。
少し前まで泣き叫んでいた喉からは、およそ自分のものとは思えぬ嗄れた声しか絞り出せない。調子を整えるための咳払いは逆流した鉄の味に遮られて失敗した。
冷たい――。
体温を失った友人の存在だけが浮き上がる。ずっとのえるが温めてきたその手が、今は彼女の温度を奪って同じところに連れて行こうとしている。
それでもいい。
あれだけ執着した命は、直面した終わりに不気味なまでの冷静さで向き合っていた。やりたいことは沢山あったが、隣で笑う彼女がいなければどれもが色を失ってしまう。
今日は痛くて苦しかったけれど、明日はきっと体も心も軽くなる。これだけ固く、最期まで握った掌なのだから、きっと同じ場所に行けるだろう。
そうしたら――。
美味しいものを沢山食べたい。新しい服を買いたい。音楽が聴きたい。写真が撮りたい。伊織は何が好きなのか、そういえばのえるは知らない。これからはそんな話もできる。下らなくていいから自分たちの話をしよう。
戦いは終わったのだから。
「いおりちゃん――」
暗闇で迷わぬよう、のえるはもう一度だけ、友人の名を呼んだ。
いおのえいおまとめ