零アグまとめ
逢瀬
戦火の音が遠くに響いている。
ティーカップを持つ繊手を守るかのごとく、二回りも大きな腕が、少女の肩を抱いていた。立ち上る湯気に口をつけた赤いドレスの少女が、至福の息を吐く。
「とっても、美味しいですわ」
穏やかな――。
感動の声に、黒づくめの青年が微笑む。
「喜んで頂けてよかった」
愛しい零式の振る舞う紅茶に魅了されて、アグネリアは男へ体重を預けた。
本当ならば、向かい合ってチェアに腰掛けるべきだ。
こんな風に隣り合って飲むものではない――マナー違反かもしれない。
けれど、今の彼らにとっては、触れ合うことのほうが重要だった。遠くで燻る火薬のにおいを、たとえ一時だったとしても、愛する人と紅茶の香りに包まれて、忘れていたかった。
そうしている間だけは、彼らはただの恋人だ。
紅茶の熱で湿った、アグネリアの幼い吐息が、無防備に晒された胸にかかる。少女を壊すまいと、優しく回されているだけだった腕が、おもむろに彼女を引き寄せた。
薄れていく香りに縋る二人を、薬莢の焦げたにおいが嘲笑う。近寄ってくる剣戟の鋭い音に、どちらともなく体を離した。
「ご無事で」
「アグネリアこそ」
しばし見詰め合って、立ち上がったのは少女のほうだった。名残惜しげな足取りが土を踏みしめて去っていこうとする。
ふと足を止めて。
振り返った赤い裾が舞う。
「また、お会いできますわよね」
心配げに寄せられた眉根に、釣られて零式の眉間にまで皺が寄りそうだった。無垢な不安に引きずられぬよう、苦笑を取り繕う。
紳士たるもの、愛する者の前で悲しみを見せてはならぬのだ。
頷いた彼に愛らしく破顔した少女が、その一言のための時間を取り返すように走り去る。軽やかな足音が聞こえなくなるまで、その背を見送っていた零式は、血腥い冷えた風を忘れるように掌を見た。
柔らかな、武器を握るには小さすぎる肩の感触を思い出す。
「――まだ一緒にいたかったのですが」
残った熱を逃さぬように拳を握った。この戦乱の只中にある零式にできるのは、彼女の生を願うことと、己の身を守ることの他にない。終わった先の夢想を嘯くことすら、許されてはいない。
夢を見るには――。
この手の枷は重すぎる。
幸福になれない
柔らかな手にナイフは似合わない。
零式に向けられた切っ先は震えていた。泥にまみれた戦場には不釣り合いな赤いドレスの裾が風を孕んで踊る。涙を浮かべる瞳に指先を添えてやりたいのに、それが叶わない。
――アグネリアは赤軍だ。
零式はどこまでも彼女の味方だが、彼女がそうである保証はどこにもない。震える両手で胸の前に構えた刃物が彼を貫こうと、文句を言える立場ではないのだ。
死ねるなら――それでも構わないのかもしれない。
彼女に十字架を背負わせてしまうことにはなるけれど、零式の願いはそれで叶うはずなのだ。求め続けた己を奪う武器を前に、しかし、彼の気は重く沈んだ。
「お覚悟を――」
震える声が鼓膜を打つ。
この小さな細い手首は、零式が少し力を籠めれば簡単に折れるだろう。真っ直ぐな軌道から体を逸らして、背に足先を叩き込めば、彼女はすぐに動かなくなるに違いない。
けれど。
腕を広げて、零式は笑った。
あの愛おしい体を、どうして傷付けられようか。
アグネリアの息が止まる。盛り上がった涙が零れ落ちて、地面に濃く染みを作った。
「決められるわけないですわ」
力なく滑り落ちたナイフが地に刺さる。俯いた肩が大きく震えて、とうとう繊手で顔を覆った少女が膝をつく。
一歩――。
零式の足が動いた。中途半端に持ち上げた手が中空を彷徨って、眉間に皺が寄る。
彼の様子を目にすることもなく、アグネリアが鼻を啜った。淑女にあるまじき取り乱した姿さえも黒い瞳には美しく映る。
「どうして零式様に武器を向けなければならないんですの。どうして――」
何故。
問いかける体が震えた。
偶然に出会ってしまった。交わってはならない存在であることを知ったのはとうに惹かれた後だった。未来のない愛を囁いても、不確かな約束を交わしても、慰められるどころか傷つくだけの二人だ。
「幸せになってはいけないのですか」
弾かれたように走り出した零式の掌が、アグネリアの背に回った。今度こそ躊躇なく見詰めた涙に揺れる瞳が愛おしい。
「アグネリア」
「零式様」
確かめるようにお互いの名を呼んで、そっと体を寄せ合う。
吐息の一つまでをも逃さぬよう、二人はただ、その静寂だけを分かち合った。
夜桜城
はらりと舞い落ちた薄桃を摘まむ。
見慣れた指の先に見る堅牢な石垣は、月明かりに深々と沈んでいた。連れ立った闇が蠢くのを押し殺した空気の中で感じながら、泉は目を閉じる。
凪いだ風が一陣舞った。
黒派第二高校本丸――墨俣一夜城。
四月の初めとは思えぬ凍てつく空気が泉に纏わった。疲弊しきり、最早かつての栄華となった堅牢な檻の中に身を隠すしかなくなった黒軍を、彼らが終わりにする。
重苦しく垂れこめた灰色の雲を裂くように警鐘が鳴る。物見櫓の人影を瞥見した泉が大剣を抜き放つや、影を割った赤が馳せた。
舞い散る桜の孕む光が鎖鎌に触れて削げ落ちる。昂ぶる金にちらつく黒を易々と斬り伏せ、己の得物を一振りした蓮華が目を上げた。
木造の床に刺さる大振りの太刀を浅黒い手が支えている。鼻と目元に入った朱が不敵に侵入者を笑っている。
「てめェの狙いは俺だろ」
その穏やかな殺意に、蓮華が目を剥いた。剥き出しの牙の間から獣めいた唸り声を漏らす彼と仇の間を、風に舞いあがった薄桃の壁が阻んだ。
「ここで仕留める――花房虎親ァ!」
「望むところだ。来やがれ」
灰色の曇天に乗る薄桃が、野太刀の刃に煌めく。
覚束ないまま殺した足音が止まる。
「てめェ、赤軍か」
少年じみた色の残る声の威圧にすら、箕島タイガの肩は震えた。敬愛する蓮華との合流だけを考えていた頭を不快な敵がかき乱す。
ふらつく指先が押し殺すようにホルスターをなぞった。目の前で構えられた拳に焦点を合わせられずに、唇が戦慄く。
「こんなときに押し入ってきやがって。許さねえぞ」
タイガの恐怖には目もくれず、怒りを湛えた猿麻の大きな瞳が眼前の少年を睨む。仄明かりを遮る花弁の一枚すらも邪魔だとばかり、彼の純粋な殺気がタイガを射抜いた。
唾を大きく飲み込んで、震える手で黒塗りの鉄塊を構える。月光にぬらりと浮かぶ拳銃の昇順が桜の先にある額を狙う。
「ぼく――俺は確かに赤軍です。ここに来た役目、果たさなきゃ」
「この景色を二人で見られたことを幸運だと思うべきなのでしょうか」
「分かりませんわ」
諦めたように首を横に振ったアグネリアが、対峙する愛しい黒を見上げた。儚い桃色に包まれて髪を留める十字架が揺れている。
掌に落ちた愛らしい薄膜を握り締めて、彼は眉尻を下げたまま、それでも尚笑って見せるのだ。
「貴方は侵入者。私は迎撃者。今回ばかりは、愛を囁くことも許されなさそうだ」
冗談めいた悲壮が二人の間を遮る。
今すぐにでも手を伸ばしたい衝動を振り払うように首を振って、アグネリアは手にしたナイフの切っ先を愛する男へ向けた。
――大丈夫だ。
傷つくのは今だけだ。拳を構える彼はきっと、彼女と共に生きてくれるのだから。
だから――。
「いつかこの景色を手を繋いで見られるように、零式様――お覚悟を」
手が震えることはない。
扉を開いた黒がへらりと笑った。
「侵入者はっけえん。燕ガンバ」
「貴方も頑張るんですよ、真」
小さな体を不安げに名無しへ寄せていた恵真が恐怖に震える双眸を名無しへ向ける。汗で滑る右手を刀に掛けながら、動じる様子もない仮面の友人に弱々しく囁く。
「ナナシ、エマどうすれば」
「下がってるの。自分が全部終わらせるから、目を閉じてればいいの」
「そんなの嫌なのだわ。おともだちに任せるのは駄目」
手にした兎の縫いぐるみを地に落としながら叫ぶ恵真を見詰めていた燕と真が顔を見合わせた。
――ここは戦場だ。
「お話してると俺らが先手取っちゃうぞ」
交錯するように身の丈ほどのチャクラムを構えた二人が同時に馳せる。狙いは――。
見開かれた紺碧を庇うように、恵真の目の前を横切る桜の花弁がトランプに撃ち抜かれた。
燕の頬を掠めたそれを気に留める様子もなく、冷静に距離を置いた彼が、シルクハットをかぶり直した仮面の少女に武器を向ける。
「随分と不思議な力をお持ちで」
「友達の――家族のために使う力」
一瞥。
それで彼の意図を理解したらしい真が、体勢を立て直した恵真に向き直った。
「手、震えてるけど大丈夫?」
「心配はご無用なのだわ。エマはナナシのおともだちなのだわ」
鈍い銀に、堪えきれずに天から降り落ちた白が光った。
「いお異邦」
後ろを向いたきりののえるが、夜桜を見詰めながらようやく声を発した。
隻眼の少女が無表情に首を傾げる。手にした大斧が不愉快な金属音で少女の声を引き裂いた。
だから、のえるは大きく声を上げる。
「あたしたち、おともだちになれましたか」
「うん、なれたよ」
「ならいいんです。思い残すこと、ありません」
向き直った彼女は笑ってなどいない。
目に涙を溜めて、恐怖に震える足を奮い立たせて、諦めたような敵軍の友人を見据えている。
「行きたいところがたくさんありました。でもそれももういいんです。あたし、いお異邦と――伊織ちゃんとおともだちになりたかっただけなんだって、分かりました」
両手を大きく広げる。舞い散った桜が月光と雪に白く滲む。
美しい――この夜に。
「わたしも、そうおもってた」
伊織は再び、親友に斧を振るう。
敵の城ながら素晴らしいと遙は思う。
後方の気配に無防備な背を貫きながら、彼はゆったりと振り返った。その先にいる長身の女が咥えた棒を引っ張り出している。
「知ってっか。桜の木の下には死体が埋まってんだとよ」
「そうらしいですね」
引きちぎられたような黒いセーラー服の端を揺らして、凍てつく白が吹き込む。再び口に戻った飴を転がして、雨燕は掴みあぐねる敵を見据えた。
「墨俣一夜の夜桜城――っつって、粋じゃアねェか。後は伝説が本物になりゃ完璧か」
肩を竦めた遙が笑う。
そのある種の不遜さに麻痺していた本能が揺さぶられた気がして、雨燕も唇を吊り上げるのだ。
「埋まるのはそっちと相場が決まってるでしょう」
「理由を訊こうか」
「桜は赤を吸ってこそ美しく咲くんです」
抜き放たれた清澄な銀に、白く溶け落ちる花弁を重ねて、彼女は馳せる。
刹那の攻撃に辛うじて大剣を抜くことに成功した夜牙が、目の前の闘争心を見据えて苦笑した。
「見付かってしまいましたか。これは私死にましたかね」
金属に阻まれた足をこともなげに引き戻したティナが鼻を鳴らす。夜牙の困惑は一層深まる。申し訳程度に構え直した大剣がどこまで通用するかも分からぬというのに、素早い彼女を相手取らねばならないというのだ。
チャイナドレスの裾を撫でる白雪を掬い上げ、殺意を孕んだ指先が退路を探す夜牙の糸目を睨んだ。
「御託は必要ありません。武器を構えてください。私は泉様のところへ行かなくちゃいけないんですから」
「おや――そういうことなら話は別です」
撤退先を求めた瞳がティナを射抜いた。ゆっくりと開かれた赤い瞳が、獰猛な獣の牙で彼女を狙う。
重苦しく冴える空気を月明かりに照らして、桜の花弁を易々と斬り落とした切っ先がティナに向けられた。
「隊長を一目拝むことも許さねえ。ここでくたばって――花見の肴にでもなっちまえ」
雪ごと桜を握り締めた手が痛いほどの冷たさで頭に回った。
鮮やかな――雪桜。
その中に佇む浅黒い肌の指揮官を見据えて、泉の手が背の剣を撫でる。
「もう分かってんだろ。俺らがここに来た理由。襲撃相手に黒を選んだ理由なんかよ」
「ああ」
秀助がゆっくりと頷いた。耳元で揺れる金に天守閣の窓から吹き込む白が触れて消える。
「それでも諦める訳にはいかない」
「何でだ」
「俺たちは勝つ。もう誰も犠牲にはさせないと、決めたからだ」
真っ直ぐな。
意思だけを孕む目が泉に迫る。
求めるものだけを求める覚悟を決めた灰色が紺碧を見詰めている。
「その邪魔をするなら――泉、ここでお前を」
その先を言うことはなく、秀助が拳を引いた。腕に装着されたボウガンが軋んだ音を立てる。
何もかも――。
分かった上で、彼は泉の前で立っている。誰に縋ることもせぬその尊い瞳にこそ、泉は笑えた。
「受けて立ってやらァ」
抜き放つ武器に桜が吹き付ける。白と混ざって床を埋める薄桃の光の中で、赤と黒は己の武器をぶつけた。
夢幻にみゆ
悪夢に魘された末の決断を彼女は笑うだろうか。
信じた男に裏切られ、その手の届く場所で全てを奪われるさまを擦り切れるまで繰り返す。四年間にも渡る放浪の果てに再び戻ってきたベッドの上で、かつてこの場に立ったはずの優しい記憶を――子供の癇癪に似た不条理で壊されるそれを、宵闇に浮かぶ幻想として見詰め続けている。
そうして起き上がった先の指は何も掴まない。冷えた汗に塗れて握りしめた指先の凍るような温度だけが掌に食い込む。
額に貼り付く長い黒髪を洗うのも今朝に限ったことではなかった。夢を見た日にはいつも、憔悴しきった男の顔に柔和で底の知れぬ青年の仮面を被り、かつて姿を消した黒翼零式の弟を装うのである。
それを――。
この少女だけは許してはくれぬ。
いつもと違う空気を感じ取ったか、アグネリアは密かな逢瀬の最中にも気兼ねしたように黙っていた。
幸福そうな笑みの中に混ざる気づかわしげな眼差しには気づかないふりをする。指摘すれば彼女の追及からは逃れられまい。己の動揺を晒すことになるのは、思春期の少年めいた意地が許さなかった。
言及の機会を奪われて、口を開閉させていた彼女はとうとう言葉を発せない。代わりのように零式の胸板へ体を預け、柔らかな少女の吐息で縋る。
「零式様、きっと生き残ってくださいませ」
細く白い非力な指先が服を握るのがまざまざと感じられた。肩を抱く掌に力を込めて、彼女の不安に声もなく応える。
――それでも囁きは終わらない。
「この戦争が終わるまで、生きることだけを考えて、私をいつか迎えに来てくださいませね」
戦争が――。
終わるまで、彼女が生きている保証がどこにあるというのか。
昨夜の悪夢が思考を埋め尽くす。この小さな肩が、柔肌が、誰に引き裂かれたとしてもおかしくはない。
零式とは――違うのだ。
空虚な復讐のために磨き上げた殺すためだけの技術を振るえば、零式はいつかと同じ狩猟者になれる。それは肉薄した命を切り裂き、己の糧とするだけの――只の獣だ。
倫理などない。躊躇もない。敵とみなした存在の全てが動きを止めるか、己の血液が命を奪って流れ落ちるまで、彼はその狂気を纏い続けられる。
その度し難いまでの狂気は。
――守る技術たり得ない。
戦場の中でか弱い少女を守り抜けるような、理性的な力ではない。彼女のための道を切り拓くことはできても、彼女の手を引いてその体を抱きしめられるような、器用なものではないのだ。
だから。
道を――拓く。
彼女を連れて、赤軍と黒軍の包囲網をこじ開ける。彼女を阻む鳥籠をも壊して自由になる。
そうすれば――。
あとは零式が全て殺せばいい。
そう結論付けているから、零式は穏やかに笑むことができる。優しげに嘯くことができる。破滅的なまでの意思で、アグネリアを安堵させるためだけの囁きをかわせる。
「ええ、誓って」
――もう二度と喪わない。
いつかの少女の断末魔に似た絶叫が、どこかで聞こえた気がした。
白刃の矛先
ああ――苛々する。
どうしたって一兵士にこの戦いを終わらせる権限はない。そんなことは零式も分かっている。
それでも。
愛しい少女に拳を向けねばならない事実が眉間に皺を刻むのだ。
黒軍と赤軍は敵である。故に、その戦いの痕跡を残さねばならぬときもあるのだ。零式の苦悩をよそに、実に軽快にドレスの裾で踊ったアグネリアは、笑むままに彼の懐へ歩を進めた。
「アグネリア」
「逃げないでくださるのですね」
――彼女の手にはナイフがある。幾ら彼とて、人間である以上は刃物を突き立てられれば一溜まりもない。
そのための制止に笑みで返された。困惑に眉尻を下げる愛しい男ばかりを捉えたアグネリアの瞳は、ただ恋への陶酔を孕んでその胸元に体を預ける。自身の体に回る逞しい腕の感覚に熱い吐息を漏らした。
戦場は残酷だ。
若い恋人の危うい破滅性をこうまで育て上げてしまう。儚さに抱き留められては、未熟な愛情に歯止めが利かなくなる。
アグネリアは――。
ただ零式と共にありたい。
「零式様、あのね」
熱っぽく見上げた先の黒い瞳が、穏やかに彼女を見た。下がった眉尻に空虚な悲哀と乾いた困惑を乗せる彼が名を呼ぶのだ。
「どうしたのです、アグネリア」
その声音ばかりが愛おしげで優しいから。
手にしたナイフを地に落とす。軽い音で転がっていくそれを、彼の腕を払って取りに行ったりはしない。
今この瞬間に――あんなものは必要ない。
零式はここにいる。アグネリアもここにいる。再び会うために振るわねばならない武器など、抱きしめられる細腕に要るものか。
「これは貴方のための剣ですわ」
だから絶対に傷つけない。アグネリアは再び笑った。
星見の睦言
夕刻には休戦の鐘が鳴り響く。
特段、夜に戦いがないということではない。奇襲は重要な手段であるし、夜目が利く兵がいるなら夜の地にて走るのもまた戦略だ。
ただ――。
撤退がその時間であるというだけのことである。
どこに敵が潜んでいるとも知れぬ戦地である。日が落ちても獣除けの火は焚けない。光の一つもない夜を馳せるのは、夜目が利かねば死を意味する行為でもある。
故に。
「そろそろ帰らなくては危険ですわね」
アグネリアは愛する腕の中から体を起こす。
帰らねばならぬのは零式とて同様だ。普段ならばにこやかに立ち上がり、彼女に愛の一礼と次の約束を取り付ける彼であるが、その日は違った。
いつまで経っても座り込んだまま、思案を続ける男に、アグネリアが首を傾げる。零式様――と声を漏らしかけた彼女の体が、そのまま思い切り引き寄せられて、再び先ほどまでの温もりに閉じ込められる。
「アグネリア」
目を瞬かせる愛しい顔に、零式は悪戯っぽく笑って見せたのだ。
「少し、我儘にお付き合い願えませんか」
*
今日は中秋の名月である。手を引く零式にそう告げられて、日本に疎い異国の娘は目を丸くした。
一年で最も月が美しいという。故に彼女を連れ出したかったのだと、その体を軽々と抱え上げた男が開けた草原の土を踏んだ。
その――眼前に。
静謐に輝く星の一群があった。戦火の途絶えた夜にあって、光源に邪魔されぬ瞬きが黒い空の一面を覆う。中央に浮かぶ大きく丸い月の光に近づくにつれ、薄まりながらも決して失われない輝きが、夜空に埋め込まれるようにして散りばめられていた。
「どうです、アグネリア」
「凄い――ですわ、零式様」
「それならよかった。浚ってきた価値があるというものです」
再びふざけたように笑って見せた男は、少女を地面へ下ろすと、その眼前へ跪く。
困惑する少女の手をそっと取った彼がその手の甲へ口付けた。見上げた丸い瞳に穏やかに笑んで、彼はただ、彼女の手を強く握る。
「今宵の月は綺麗ですよ」
その意味は。
溢れ出した涙に苦笑して、立ち上がった零式の指先がアグネリアの頬を拭う。暖かく大きな掌に、崩れるように流れ出した雫を止める術もなく、彼女の不安に揺れる瞳が問う。
「でも、いつか雲間に隠れてしまうかもしれませんわ」
「そのときは私が雲を払いましょう」
――覚悟なら。
――とっくに出来ていますよと。
笑って、零式の指が少女を撫でる。とうとう目を閉じて泣き出した彼女に、彼は心底幸せそうに笑った。
山間の別離
夜牙が山村を訪れたのは思い付きだった。
彼の生まれる前から続く戦いと呼ばれるものが一応の終幕をみてからもう五年になる。幾多の戦場を超えてようやく掴んだ平穏には、しかし戦火の燻ぶりが未だ絶えない。忠犬たちによる敗走する残党どもへの追撃の音と、雪辱を果たすべく蜂起する敗者の群れがぶつかり合って、相変わらず薬莢の焦げたにおいはそこかしこに漂っている。
それで足を伸ばした。
幾多の同胞の脂で燃えた戦火は好きではない。全て終わった灰に火をつけようと試みる者も嫌いだ。
それに比べてここはいい——。
空気が澄んでいる。のどかで優しい風に、牧畜のにおいが乗って流れてくる。雨上がりの土に春先の木立の青臭さが混じって肺を浄化する。
未だ太陽は南中を過ぎたあたりである。せっかく遥々やって来たというのに、踵を返すのは勿体なかった。時間があれば寄ろうと思っていた付近の山村を求めて、予定通りに夜牙の足は土を踏む。
ぬかるむ泥を超えて、見えたのは朴訥な木造の屋根であった。
なるほど聞いた通りである。このご時世にあって呑気なほど開かれた村だ。外界を拒まぬ牧歌的な性質は、秘境の地にあってこそ成り立っているのだろう。未だに衝突を繰り返す平地であればこうはいくまい。
家々を物珍しく見回る夜牙の目に、開けた農地が留まった。鍬を振り下ろす長身とその横の小さな影に見覚えがある。
懐かしさのあまりに——。
踏み入れば、彼らはこちらを見た。
男の瞳が怪訝と警戒を浮かべる。まるでいつぞやに声をかけたときのようではないかと、夜牙の口許に、知らず柔らかな苦笑が刻まれた。
「お久し振りです、零式さん」
「——よくここが分かりましたね、夜牙くん」
不安げに見上げる隣の少女を片手に庇い、かつての同胞たる零式が唸った。
「ここに来たのは偶然ですって。疑われても仕方ないですけど」
ますます苦笑は深くなった。何しろ他の人間ならまだしも夜牙である。
零式が黒軍に反旗を翻し、赤軍の少女を攫って行方を眩ませた晩、計画にいち早く気付いたのが夜牙だった。実力行使で止めに入った彼と零式は、寝静まった庭で暫し己の力をぶつけ合って——。
夜牙は敗北した。
だから、まあ、零式の警戒も仕方がないのだ。
「あなた——」
「大丈夫ですよ、アグネリア。中へ入っていてください」
走り去る少女を見送る夜牙が剣を帯びていないことを確認して、彼はようやく拳を緩めた。未だ消えぬ怪訝と疑心をいつもの笑みで躱して、かつての補佐官は次の言葉を待つ。
「戦争は終わったと聞きましたが」
「はい。もうすっかり——とはいきませんが、私たちの知っている戦いは終わりました」
零式の口は重かった。夜牙のよく知る紳士的な毒舌を引き出すのに暫しの時間を要したが、そこは旧知である。疑念の棘は抜けぬままだが、以前の軽口をふと聞く。
「あのときのように問答無用で襲い掛かってくるかと」
言われて、そんなことはできませんよと、夜牙は懐かしそうに笑った。
「もう貴方と、一人の人間として会話できるようになってしまいましたので」
同胞という一つの意識を信じ込んで、あの薄暗い戦火からの脱走を裏切りだと思っていた。あの赤いジャケットと同じくいつか剣を交えるのだと信じてやまなかった。
だがもう同胞ではない。
山奥の村でたまたま顔を合わせただけの旧い知り合いだ。そこに何の意味もない。裏切るだけの濃密さも、剣を交えるだけの情熱も、錆び付いて動かなくなって久しいのだ。
五年前より伸びた髪を追うように、夜牙は俯いて続けた。
「まあ――何でしょう。まだ戦おうって人たちは多いらしいですけど、私はちょっと。せっかく生き残れたのに死にたくもないですし」
そこまでの忠誠心はなかったのだ。
彼の誓った服従の所在は黒軍ではなかった。差し伸べられた手もまた、自身の属した色を愛していたのではない。主人が求めたのは全てを犠牲にした末の勝利ではなかった。
それももう——。
どこにもない。
黒軍を捨て、安寧を取った彼らを繋ぐものは、今や何もないのだ。
「だから偶然ですよ」
もう邂逅に意味はない。
ああでも元気そうでよかった——言って返した踵に別れの言葉はない。言うだけ無駄だ。
永遠の別れではないが、約束される再会もあるまい。
「夜牙くん」
躊躇うような間があってから呼ばれた名に、夜牙はふと振り返る。血にまみれた腕を泥に埋めて、今は命だけを育む長身の男には、きっと平穏こそが似合うと、心の底からそう思った。
思ったから。
「お幸せに」
そうとだけ手を振った。
零アグまとめ